星の海の物語 Episode 10 The story of the Young Emperor Chapter 0  センテニアルのやり直しは、開会宣言前から異様な盛り上がりを見せていた。前回に引き続きアズライト皇女が出席するのに加え、第一皇女アリアシアも出席すると発表されたのである。それに加えて、元第一皇子のアンハイドライトまで出席するのだから、来賓の豪華さは前回を上回っていた。  しかも来賓として、ザイゲル連邦やシレナ連邦、そしてギガントからも出席者が集まっている。8ヶ月前に比べるまでもなく、地球の交流圏が全銀河へと広がっていることが示されたのだ。そして今や全銀河で一番有名になったとの評判のアセイリアが演壇に立った所で、その興奮は最高潮に達していた。  約20万人の観衆と、多くのテレビカメラのレンズの砲列の前に立ち、アセイリアは小さく咳払いをした。そして少し誇らしげに、まっすぐ前を見つめて小さく息をした。 「みなさんの前に、こうして立てることを誇りに感じています」  そこで言葉を切ったアセイリアは、歓声に湧く聴衆たちの顔をぐるりと見渡した。 「開会の挨拶に先立ち、ご来賓の紹介をさせていただきます」  もう一度沸き起こる拍手が収まるのを待って、アセイリアはさっと右手を貴賓席の方へと差し出した。 「今回のセンテニアルにも、皇女殿下においで賜りました。本来恐れ多いことですが、私からご紹介させていただきます。第一皇女アリアシア様であられます」  アセイリアの紹介に従い、アリアシアは立ち上がって観衆達に手を振った。美貌の皇女は、評判は高くとも実物を目の当たりにする機会はない。輝くような美しさを前に、一瞬遅れて大きな拍手が沸き起こった。熱狂する観衆に応えるように、アリアシアはしばらく手を振り続けた。  そしてアリアシアが座ったのに合わせ、アセイリアはもう一人の皇女を紹介した。 「皆様もご存知の、第二皇女アズライト様であられます」  立ち上がったアズライトを、アリアシアに負けない拍手が出迎えた。それに笑顔で答え、アズライトは観衆たちに手を振り続けた。 「本来第一皇子であられたアンハイドライト様をご紹介するところですが、すでに総領主であられるジェノダイト様の養子になられたそうです。ですから、来賓としてのご紹介は割愛させていただきます」  そこで言葉を切ったアセイリアは、観衆の反応を伺うように言葉を切り会場を見渡した。 「次にご紹介するのは、地球の最初の友好国です。ザイゲル連邦グリゴン星系代表、ドワーブ・アム・グリゴン・ガガロヅグ閣下です」  さすがに皇女のいる前でブーイングをするわけにもいかず、観衆たちは沈黙をもって抗議の態度を示した。本来とても失礼なことに違いないのだが、ドワーブは敢えて冷遇を甘受した。5万のテラノ住民を虐殺したのは、わずか8ヶ月前の事だったのだ。  だがドワーブは失礼を許したが、司会に立ったアセイリアはそれを許さなかった。 「次の来賓を紹介する前に、私から一言申し上げます」  そこで大きく深呼吸をしたアセイリアは、「私の顔をつぶすつもりですか!」と大声を上げた。 「グリゴンとは、友好条約を結んで半年以上すぎているのです。非常に多くの技術供与を受け、そして多くの観光客を地球は受け入れています。すでにドワーブ閣下からは、何度も謝罪を頂いています。皇女殿下に、地球の人々が狭量だと思われてもいいのですか? 私達がグリゴンに行った時には、盛大な歓迎を受けているのですよ」  大声で観衆を叱ったアセイリアは、少し呼吸を整えてから次の来賓を紹介した。 「シレナ連邦トリトンからお越しいただいたオケアノス様です」  その前のアセイリアの叱責が聞いたのか、観衆達はオケアノスに大きな拍手を送った。いささかやけに聞こえる拍手に、オケアノスはドワーブを見て苦笑を浮かべた。 「そしてギガントのヘラクレスからお越しいただいた、ゴロンダン様です」  そしてやけっぱちの状態は、ゴロンダンのところでも変わらなかった。いささか乱暴な拍手に、ゴロンダンの顔も同様に引きつっていた。 「皆さんにご理解していただきたいことがあります。ドワーブ様のA種は、帝国全体の30%を占める多数種です。そしてシレナ連邦は20%のC種と、17%のD種で構成されています。そしてギガントは、8%を占めるI種です。ここにおいでになったお三方は、帝国の75%を代表する方たちなのです。それを、くれぐれも忘れないようにお願いします」  忘れがちと言うより、普段意識をしていないことをアセイリアは指摘した。そしてその指摘は、帝国の広さと、地球に集まった来賓の意味を改めて理解させるものだった。 「では、やり直しとなりますが、これよりセンテニアルを開幕致します!」  大きな声で、そして力強く開幕を宣言したアセイリアを、観衆たちは精一杯の拍手と歓声で答えた。悲劇として記憶されたセンテニアルを、喜びの物語で書き換える時の到来である。銀河レベルに広がった交友を背景に、地球は大きく羽ばたいていくのだと。 「では、初めに地球総領主であられるジェノダイト様にご挨拶を頂きます。そしてジェノダイト様のご挨拶の後、まだ紹介しておりません来賓の紹介とご挨拶をいただくことになっています。ではジェノダイト様、ご挨拶をお願い致します」  紹介していない来賓と言うアセイリアの言葉に、観衆達の間にざわめきが広がった。だがすぐに、それがアンハイドライトのことだと理解し、すぐに潮が引くようにざわめきは静まった。  演壇に立ったジェノダイトは、さすがは一等侯爵と思わせる貫禄を示していた。アセイリアより二回りは大きな体は、それ以上の迫力を全員に感じさせていた。 「諸君!」  観衆達に呼びかけたジェノダイトは、ゆっくりと首を巡らせ20万人の観衆達を見た。 「やり直しとなったが、ここにセンテニアルを開催できることを嬉しく思っている。この100年間の歩みは、すでに前回話しているので省略させてもらう。それは、この100年の歩みより、私には話すべき8ヶ月の歩みがあるからだ。諸君も覚えている通り、8ヶ月前のセンテニアルは悲劇だった。私も大怪我を負い、多くの同胞を失うことになった。アセイリアは叱ったが、諸君が腹を立てるのはしかたがないことだと私は理解している。そしてここに来賓としてきたドワーブも、それぐらいのことは理解して顔を出している。それでも顔を出したのは、このセンテニアルが重要なものであることを理解してくれているからだ。笑って許せと言うつもりはない、だがこれからのグリゴンを、そしてザイゲル連邦を曇りのない目で見て貰いたい。それが地球総領主、そしてグリゴンとの友好条約をまとめた私からの願いだ」  そこで言葉を切ったジェノダイトは、自分の言葉への反応を伺った。今のところ、困惑こそあれ反発は起きていないようだった。 「今年の年明け早々、我々地球はグリゴンとの平和条約を締結した。そして平和条約と同時に、友好条約も締結している。諸君も気づいているだろうが、これが地球にとって最初の他星系との条約締結なのだ。この条約をもって、ようやく地球も宇宙への道を歩みだしたと言っていいだろう。そして条約締結から5ヶ月、こうしてやり直しとはいえセンテニアルを開催することとなった。なぜこの時期にと言うのは、様々な理由をあげることができる。だが真の理由を説明する前に、少し私的なことを話したいと思う」  後ろを振り返ったジェノダイトは、目でアンハイドライトに来るように促した。 「独り身と言うこともあり、後継者として第一皇子アンハイドライト様を養子に迎えることにした。すでに皇帝聖下からご許可を貰い、正式にアンハイドライトは我が息子となった。いささか公私混同に思われるかもしれないが、諸君には報告が必要なのは間違いないだろう」  そしてと、ジェノダイトは小さく咳払いをした。 「これは本人の口から報告すべきことなのだが、私が横取りをさせてもらうことにした。アセイリア、ここに来なさい」  ジェノダイトの言葉に従い、アセイリアは立ち上がってアンハイドライトの隣に並んだ。 「これで諸君も気づいたかと思うが、二人は先ほど婚約を交わした。諸君は爵位を絶対のものと思っているようだが、人の価値の前には爵位など大きな意味を持つものではない。ただの庶民のアセイリアが、将来の一等侯爵の妻となるのだ。だが彼女の価値は、すでに爵位を超えていると言っていいだろう。この婚約が、彼女の価値を毀損しないことを私は願っているぐらいだ」  それまであっけにとられていた観衆達は、手をつなぐ二人の姿に我を取り戻した。そして今までで一番の大きな歓声と拍手を若い二人に送ったのである。  その祝福を晴れがましく受け取った二人は、揃ってお辞儀をして後ろの席に戻った。それでも観衆たちの興奮は収まらず、歓声と拍手は鳴り止まなかった。 「わが息子、娘への祝福に感謝する」  両手を前に差し出し、静かにするようにとジェノダイトは合図をした。その合図に従い、地鳴りのような歓声も次第に収まっていった。 「今回のセンテニアルのために、私は重要な情報が展開されるのを制限していた。だがその制限も、たった今意味のないものとなる。これからする話は、間違いなく諸君には信じられないものだろう。だがここに集まった各星系連合代表が、私の話が真実であることを証明してくれるはずだ。そしてアリアシア様、アズライト様のご両名も、それが真実であることを証明してくださるだろう」  大きな声で前置きをしたジェノダイトは、「諸君」ともう一度大声を上げた。 「先日、皇帝聖下は帝国にとって重大な布告をなされた。それは、御身の後継となる方を指名する布告である。この布告を持って次の皇帝は確定し、然るべき猶予期間の後に即位されることとなる」  そこで一度間を置き、ジェノダイトはさらに言葉を続けた。 「私は諸君に、次の皇帝聖下をご紹介できることを光栄に思っている。そしてこれが、新しい時代の幕開けだと理解してもらいたい。では次の皇帝聖下ご挨拶をお願い致します」  そこまで説明して、ジェノダイトは恭しく頭を下げて後ろに下がった。そして一体何が起きるのかと固唾を呑んだ観衆の前に、地球の高校生の制服を着た少年が進み出た。いや格好を見れば少年なのだが、その見た目は可憐な少女に思えるものだった。  その少女に見える少年は、観衆達の驚愕の視線を気にせず演壇に立った。そして見た目に似合わぬ太い、そして世間常識では高い声で自分の名を名乗った。 「ただ今紹介に預かった、ヨシヒコ・マツモトだ。名前を聞いて分かる通り、この近くで生まれた一般庶民の子供と言うのが俺の正体でもある。そして先日、現皇帝アルハザー聖下から、次の皇帝に指名された」  驚天動地の事実なのだが、その割に観衆達の反応は鈍かった。それもそうだろう、いきなり可愛らしい男の子が演壇に現れ、次の皇帝だと言ってくれたのだ。これがセンテニアルの場でなければ、ただの悪い冗談と考えるところだろう。だが貴賓席には、二人の皇女が揃っているし、来賓には各星系を代表する者達が集まっていた。そしてその少年を紹介したのは、地球総領主の一等侯爵なのだ。集まった面々を考えれば、冗談で語られるものではないはずだ。それでも、誰もが耳を疑うのは仕方のないことだった。  反応の悪さと言うか無さに苦笑を浮かべたヨシヒコは、貴賓席を見上げて「アズライト」と妻の名を呼んだ。 「こっちに降りてこい」  ヨシヒコに呼ばれ、アズライトは顔に満面の笑みを浮かべた。そして左手小指にはめたラルクに、すぐさま命令を発した。  それからのアズライトは、初めて見る者には天使のように見えたことだろう。貴賓席から一歩前に踏み出した所で、まるで重力がないようにゆっくりと演壇の方へと降りていったのだ。そしてそれを見届けた所で、貴賓席にいた来賓達は立ち上がり、後ろの階段から下へと移動を始めた。  ふわりと演壇の前に降り立ったアズライトは、設置されたマイクの前に進み出た。 「皆さんに、私の夫を紹介できることを嬉しく思います。私の父である現皇帝は、新しい血筋を新たな皇族として認めました。私は妻として夫に仕え、共に帝国を導いていきます。婚約の儀、結婚の儀はまだ済ませていませんが、実は私達の子供が3ヶ月後には生まれます。今は人工子宮で、すくすくと育っているのですよ。男の子と女の子の、とても可愛らしい双子の赤ちゃんです」  嬉しそうに報告したアズライトは、ヨシヒコの首に腕を回し観衆たちの前で口づけをした。ことここに至り、目の前の出来事が現実なのだと思い始めていた。  それでも、起きた拍手はまばらなものだった。理解が追いつかないと言うより、どう反応していいのかわからないと言うのが正直な気持ちだったのだ。それほどまでに、知らされた事実は常識を飛び越えたものだった。  だが観衆達が戸惑いから立ち直れないでいる間に、貴賓席に居た来賓達がぞろぞろと演壇の後ろに集まってきた。その中には、第一皇女アリアシアの姿も見ることが出来る。そして婚約を発表したばかりのアセイリアも、アンハイドライトの横に立ち来賓達の中に並んでいた。 「うむ、感謝する」  ヨシヒコのその言葉に、並んだ来賓達は腰を90度近く曲げて頭を下げた。恭順を示すその態度は、これが現実のことだとさらに観衆達に突きつけた。そして固まってしまった観衆達を促すように、アンハイドライトが大きな音を立てて手を叩いた。頭を下げていた来賓達も、アンハイドライトに続いて大きな身振りで拍手をした。  その拍手に呼応するように、観衆達の手を叩く数も次第に増えてきた。そしてその数が一定数を超えた所で、爆発したような拍手が会場を包み込んだ。拍手の音から少し遅れて、地鳴りのような歓声が会場全体から沸き起こってきた。何発かの花火が上げられたのだが、歓声に紛れて存在を示すことが出来なかったぐらいだ。それほどまでに、観衆達は目の前に示された事実に熱狂したのである。  こうしてセンテニアルは、かつて無い盛り上がりの中無事開幕を迎えたのである。 Chapter 1  誰が中心になって動こうと、失敗のしようがないのが今回のセンテニアルだった。何しろ地球出身の少年が、次の皇帝になることが発表されたのだ。そのインパクトは、すべてを超越していたのだ。そして発表の真偽は、集まった各星系領主達の態度を見れば理解することができる。それ以上の決め手は、アズライトの態度だろう。帝国皇女が、関係の無い庶民に唇を許すはずがないのだ。  そのお陰で、センテニアルは開幕から異様な雰囲気に包まれることになった。それは最後のアセイリアの挨拶まで、その雰囲気は醒めることはなかった。それどころか、閉幕になっても観衆達が帰ろうとしなかったぐらいだ。そのお陰で、領主府スタッフは帰るに帰れなくなったと言う。カヌカとウルフは、治安出動を真剣に検討したぐらいだ。盛り上がりと言う意味では満点なのだが、すべてのイベントが霞んでしまって検討した意味がなくなっていた。  メイン会場の状況をよそに、出席者は総領主府に移動していた。やり直しとはいえセンテニアルの成功を祝し、記念のセレモニーが行われたのだ。そしてそのまま、セレモニーはパーティーへと突入していった。当たり前だが、パーティーのメインディッシュと言う名の主役は、新たに皇帝となるヨシヒコだった。 「グリゴンで一度経験していますが……」  隣に来たジェノダイトに、ヨシヒコはまだ慣れないと愚痴をこぼした。当たり前だが、ヨシヒコにとってパーティとは、せいぜい誕生日パーティーが関の山だったのだ。それが会場にはきらびやかな装飾が施され、出席者も1000名を超えるパーティーの主賓である。規模的にはグリゴンのパーティーの方が大きいのだが、生まれた星と言うのは別の意味を持っていた。そしてすぐに慣れろと言うのは、土台無理な相談だった。 「だが、君にとってこれが日常となるのだよ。およそ皇帝と言うのは、式典と退屈な事務処理が主な仕事となる。あのアルハザーですら、そのしきたりから逃げることは出来なかったぐらいだ。シリウス家から皇帝の座を奪い取った以上、ますますお披露目の式典が増えることだろうな」  にこりともせずにとどめを刺してきたジェノダイトに、大きな誤解があるとヨシヒコは言い返した。 「奪いとったのではなく、押し付けられたと言って欲しいですね。私は、アズライト様とのことを認めさせに行っただけですから」 「アルハザーの尻を叩きに行ったのだと思っていたが?」  ぎょろりと目を動かしたジェノダイトに、ヨシヒコは帝国のためじゃないと言い返した。 「地球とグリゴン、ザイゲル連邦を守るためです。自分を皇帝にするためじゃないのは確かです。そもそも、ただの庶民が皇帝になるなど考えるはずがないでしょう」 「今更、自分のことをただの庶民と言うのかね?」  大げさに驚くジェノダイトに、どこが違うのだとヨシヒコは不満そうな顔をした。本人的には不機嫌さを出しているのだろうが、可愛い女の子が拗ねているようにしか見えないのが恐ろしい。親子ほど歳が離れているのに、ジェノダイトは「可愛いな」と女性を見る目で見てしまっていた。 「ジェノダイト様、繰り返しておきますが俺は男です」  それを見ぬいたヨシヒコの言葉に、今度はジェノダイトが言葉に詰まった。ヨシヒコ相手に油断をするのは、自分の首を絞める事になるのを思い出したのだ。 「おじ様、ヨシヒコに手を出そうとしたら命の保証はいたしませんよ。せいぜいお母様で我慢なさってください」  危険を察知したアズライトは、あまりにも危なすぎることを口にしてくれた。まさかとヨシヒコの顔を見たら、可愛い口元を邪悪に歪めてくれていた。 「その辺りの事情は、3人と共有していますよ。どこまで教えたか、お知りになりたいですか?」  可愛い顔をしてるだけに、余計に邪悪に感じるのはどう言うことだろう。身の安全を優先したジェノダイトは、挨拶があると言ってヨシヒコの所を逃げ出した。おそらく離れた所で飲んだくれている、ドワーブのところにでも行くのだろう。  ジェノダイトが離れたのを好都合と、アズライトはヨシヒコを両親……もちろん、ヨシヒコのだが……のところに連れて行った。ヨシヒコのことが公になった以上、今までの生活は送れなくなってしまう。それも十分大事なことだが、両親として生まれてくる孫の顔を見る義務も有ったのだ。 「お義父様とお義母様を、リルケに招待していた所です。できれば、ロマニアに移住してきていただきたいのですが……」  そうすれば、ヨシヒコの本拠がすぐにでもリルケに移ることになる。アズライトとして、当然自分の都合を優先した結果である。 「断られただろう?」 「窮屈な生活はかんべんして欲しいだそうです。ただ親と言うだけで、皇族になるのは間違っていると言われました」  よく分かると頷いたヨシヒコは、両親と姉の所に到着した。まだ落ち着いたわけではないが、ようやく親子4人が揃ったことになる。 「ここで言うのも何だが、『ただいま』父さん、母さん、姉さん」  顔をほころばせたヨシヒコに、ヒトシ達は声を揃えて「おかえり」と答えた。思い出してみれば、親子4人が顔を合わせるのは、本当に久しぶりのことだったのだ。ヒトシ達がトランスギャラクシー旅行に出発して以来だと考えると、およそ1年ぶりと言うことになる。 「大きく……はなっていないな」 「あーっ、それは気にしているんだが」  復活からリルケ出発までが短かったこともあり、こうしてじっくり向かい合うのは1年ぶりのことだった。それだけ離れていれば、息子の成長に驚くところだろう。だがヒトシの目には、1年前との差が殆ど分からなかった。精神的には大きく成長しているはずなのだが、肉体的には大きな変化はなかった。 「まあ、それもお前の個性には違いないだろうな」  自分の子供なのだから、頭を撫でてどこが悪い。半分開き直ったヒトシは、思う存分息子の頭を撫でた。普通の高校生なら反発するところだし、普段のヨシヒコでも恥ずかしいと文句をいうところだろう。だが今日のヨシヒコは、嬉しそうに頭を撫でられた。 「本当なら、ぎゅっと抱きしめたいんだけど……」  場所を考えると、さすがに自重しなくてはいけなくなる。残念そうな母親に、家に帰ったらとヨシヒコは空手形を切った。 「姉さん、母さんと二人でキャンベルさんを虐めなかったか?」 「どうして、私には可愛くないことをいうのかな?」  少しこめかみを辺りをひくつかせた姉に、教えられたのだとヨシヒコは内情をばらした。 「5キロ痩せたと、キャンベルさんに愚痴を言われたからな」 「ほとんど、母さんのせいだと思うんだけどな。私が加わったのって、この3週間のことだから」  半年近く、母親が手伝ってきたのだ。それを考えれば、主犯はチエコと言うことになる。それを主張したイヨに、「躾が必要かしら」とチエコは恐ろしいことを口にしてくれた。 「ヨシヒコは奥さんを貰って独立するからいいけど……そう言えばヨシヒコ、私達に報告することがあるんじゃないの?」 「報告すること?」  はてと首を傾げたヨシヒコに、聞いているわよとチエコはアズライトの顔を見た。 「もう、お妾さんを作ったんだって?」 「い、いや、それは誤解だ。アズライト、母さんに何を吹き込んだんだ?」  慌てて弁解したヨシヒコは、騒ぎの原因を作ったアズライトに文句を言った。だが文句を言われた方にしてみれば、何も間違ったことは言っていないと思っていた。 「アリアシアお姉様、それにシオリ、シルフィールも居たわね」 「シルフィールまで後宮に入れたつもりはないぞ!」  つまり、アリアシアとシオリは後宮に入れたと認めたのである。言質をとったアズライトは、そう言うことですとチエコに答えた。 「アズライト様と言うお方がいるのに……しかも子供まで作ったのに……一体、誰に似たのかしら。ヒトシさんは、それはもう誠実な旦那様なのにねぇ」  本当にやましいところがないのか、さもなければ動揺したら負けだと考えたのか、チエコの決め付けにヒトシは力強く頷き肯定した。 「本当に、皇族と言うのは、庶民の常識から離れたところにいるのね……それで、お二人を紹介してくれないの?」 「べ、別に、隠すつもりはなかったのだが……」  いくら皇帝になることが決まっていても、母親と言うのは苦手な相手に違いない。少し動揺しながら、ヨシヒコは二人を呼び寄せた。なぜか仲良くなった二人は、居心地がいいとクレスタ学校関係者の所で話をしていた。 「こちらが、第一皇女のアリアシア様だ。そしてこちらが、セレスタ星系の三等侯爵家長女、シオリ様だ。二人共、これが俺の大切な家族だ」  日本風に言うなら、妾を両親に紹介するようなものだろう。はっきりとした違和感を覚えながら、ヨシヒコはアリアシアとシオリを家族に紹介した。 「お父様、お母様。第一皇女のアリアシアでございます。これからも、末永くお願いいたします」  そこでアリアシアは、優雅にお辞儀をして見せた。ヒトシとチエコが一般庶民だと考えれば、間違いなく非日常のことだろう。普段は泰然としているヒトシですら、ぎこちなくお辞儀をし返したぐらいだ。もちろん、顔はしっかりと引き攣っていた。 「クレスタ星系オデッセア三等侯爵家長女のシオリでございます。私も、末永くヨシヒコ様にお仕えしたいと思っております」  野暮ったかったシオリも、長い航海中にしっかりと垢抜けてくれた。そのあたりアリアシアの協力があったのだが、そんなことをヒトシ達が知る由もない。三等侯爵家と言うシオリの肩書に、二人は揃って頭を下げた。アリアシアよりは立場が低いのだが、そんなものは二人には関係のないことだった。  お妾とチエコは責めたのだが、庶民常識では相手は雲の上に居る人ばかりだった。しかも地球で考えるお妾さんとは違い、二人とも堂々と人前に顔を出していた。つくづく世界が違うと、二人は改めて息子の置かれた立場を知らされた。  アリアシア達を紹介したのだから、新しい自分の部下を紹介する必要があるだろう。それに、筆頭であるカニエとは色々と因縁があったはずだ。 「父さん、母さん、俺の部下を紹介するよ」  そう言って笑ったヨシヒコは、カニエ達に来るように命じた。そしてセンターサークルメンバーと歓談している、アセイリアとアンハイドライトも呼び寄せた。 「アンハイドライト様は、当面俺の教育係と言う事だ。聖下からは、一日でも早く俺をリルケに連れて来るようにと命じられていたな」  そう言うことだと、ヨシヒコはアンハイドライトを両親に紹介した。 「アンハイドライトです。お久しぶりですね。一日でも早く、ヨシヒコ様には皇帝に就任していただきたいと思っています」  よろしくと手を差し出され、マツモト夫妻は恐縮しながらその手を握り返した。出発前に引き合わされていたとは言え、その時とは立場ががらりと変わっていた。マツモト夫妻の立場が上がったのだが、本人達はそんなことを自覚していなかった。  マツモト夫妻と握手をしたアンハイドライトは、ヨシヒコの顔を見てから「聖下からの伝言です」と二人に微笑んだ。 「どう教育をすれば、あのような子供が育つのか。是非とも、お二人と語り合いたいとのことです。したがって、お二人をリルケにご招待させていただきます。お孫さんの顔も見られますから、そのついでと言うことでいかがでしょうか?」 「息子は息子だと思っておりましたが……」  はっきりと困った顔をしたチエコに、アンハイドライトは小さく吹き出した。 「お二人の、特にチエコ様のことは、妻から色々と聞かされています。今のアセイリアを作ったのは、間違いなくチエコ様と言うことですよ」 「私は、イヨ様にもご指導、ご支援を賜ったと思っています」  ですよねとアセイリアに見られ、イヨは盛大に顔を引き攣らせた。アセイリアとしては本気で言っているのだが、受け取る方は意趣返しをされている気がしてならなかったのだ。 「でしたら、是非ともイヨ様にもご同行いただかないと」  含むところのあり過ぎるアンハイドライトの態度に、イヨは彼への評価を修正していた。ただアセイリアに仕返しをしようにも、その機会はすでに失われている。顔を見合わせて微笑みあう一等侯爵夫妻に、イヨは婚期がまた延びたと心の中で落ち込んでいた。  そして恐縮しながら集まってきたクレスタ学校のメンバーを見て、ヨシヒコは「こっちに来い」とカニエを手招きした。 「今更紹介の必要はないと思うが、3等子爵のカニエだ。そして、あちらに居る金髪の美人が、カニエの恋人であるティアマト3等侯爵だ」 「カニエです。先日は、お恥ずかしい所をお見せしました」  自分の出自が分かったこともあり、カニエはマツモト夫妻に対して複雑な感情を持っていた。ヨシヒコと同じ遺伝子を持つと言う事は、目の前の二人にとっては息子と同じと言う事になる。それを考えれば、前回訪問時の失望も理解できると言う物だ。 「とんでもありません。ご丁寧なあいさつをいただき、恐縮しております」  夫婦の間では、表向きの対応はチエコの役目になっていた。しかもヒトシは、カニエと直接の面識がなかった。だからカニエへの答えも、チエコが緊張しながらすることになった。 「今回の滞在は、皆さんと議論できるのを楽しみにしています。我々のメンバーにも、心して係るようにと命じてあります」  お手柔らかにと言って笑ったカニエに、こちらこそとチエコは恐縮した。 「さて、俺はちょっと別の島に行ってくる。それからアズライト、お前も付いてきてくれ」  一通りの顔合わせが終わったところで、ヨシヒコはアズライトを連れて両親の所を離れることにした。集まった人たちを考えると、離れるのは色々と問題がある行為に違いない。そしてヨシヒコは、問題解決をアセイリアに押し付けることにした。 「アセイリア、一等侯爵夫人としてこの場を仕切ってくれ」 「そ、それは、アンハイドライト様……夫に言うことではありませんか?」  集まった顔を見ると、さすがに怖すぎるのだ。しかもチエコとイヨもいるのだから、彼女には天敵の集団に見えたことだろう。  だがそんな文句を、ヨシヒコは「次期皇帝の命令」で圧殺した。 「大丈夫だ。母さんも姉さんも、ちゃんと場の空気を読んでくれるさ」  そこで他のメンバーの名を出さなかったのは、事情を承知していると言う意味になる。「ですが」とアリアシアを見たアセイリアだったが、にっこりとほほ笑まれて肩を落とした。このメンバーを前にして、自分の意見など通らないことを理解したのである。 「胃に穴が空きそう……」  全員がニコニコしているのだが、アセイリアにはその方が恐ろしく感じられてしまった。  一方のヨシヒコは、アズライトを連れて挨拶回りを始めていた。次の皇帝と皇妃だと考えれば、立場が逆だと挨拶をされた側にしてみれば主張したいことだった。  そしてヨシヒコが最初に選んだのは、あろうことかセンターサークルの面々だった。その為全員は、心の中で「勘弁してください」と零していたと言う。 「彼らが、カニエにも実力を認められた総領主府のセンターサークル、アセイリア機関と言った方が良いのかな。そのメンバーだ」  半年ほど前には、一緒にグリゴンに乗り込んだはずなのだ。ただアズライトには、その時の印象は全く残っていなかった。だから本当に初めて顔を合わせたかのような顔をして、「初めまして」とアズライトは全員の手を取って挨拶をした。「やはり覚えていて貰えなかった」と言うのが、皇女自ら挨拶をされた全員の心の声だった。  そして全員に挨拶をしたアズライトは、とても意地悪な問いを夫であるヨシヒコにした。 「ヨシヒコは、このうち何人に言い寄られたのですか?」  その問が発せられた瞬間、ほぼ全員の顔がヒクリとひきつった。 「アセイリアとしてなら、男性全員だな。そしてヨシヒコとしてなら……やっぱり全員か」  死刑宣告のような答えに、全員が全員緊張に表情を固くした。ただ答えを聞かされたアズライトにしてみれば、さほど問題にするようなことではないようだ。そうですかと小さく頷いてから、「惜しかったですね」と全員を見て笑った。 「ヨシヒコは、私が勝ち取りました」 「そう言う問題なのか?」  分からんなと首を傾げたヨシヒコに、「それが平和な答えですよ」とアズライトは笑い返した。 「私が一番魅力的だと言う意味になりますし、私の自尊心を満たす答えにもなりますからね」  だからですと答えにならない答えに、さすがのヨシヒコも「そうか」としか言えなかった。それから小さく首を振って、「いやいや」と話の流れを引き戻すことにした。 「俺にとって、学校以外で初めて出来た仲間だと思っている。そして短い時間だが、多くの苦労を共にした大切な仲間だと思っているんだ」 「だとしたら、私にも大切な人たちと言うことですね」  にっこりと微笑んだアズライトは、「これからもよろしくお願いしますね」と立場から考えればありえない事をした。つまり全員に向かって、深々と頭を下げたのである。アズライトの行動に、センターサークルの10人は「畏れ多いことです」と慌ててしまった。  だがアズライトは、これが自分の気持なのだと微笑んだ。 「父を見ていると、皇帝と言うのはとても孤独な存在だと言うのが分かります。なにしろ妻である皇妃ですら、本当に気を許すことの出来る存在ではないのです。だから唯一心許せる存在であるおじ様……ジェノダイト様をとても大切にしていたのですよ。ですから夫とのことでおじ様に見捨てられた時、父は酷く落ち込み、老け込んでしまったぐらいです。心許せる仲間、同士と言うのはそれほど貴重なものなのです。そしてできれば、私もその仲間に加えていただきたいと思っているのですよ」 「本当に有り難いお話だと思います」  全員を代表して、マイケル2等子爵が御礼の言葉を述べた。センターサークルに参加した時は1等男爵の身分だったが、センターサークルでの功績と上位爵位層が打撃を受けたことで2等子爵にまで昇格していた。 「ありがとう。それであなた達の新しい身分ですが、おじ様と相談して決めさせていただきますね」  緊張にがちがちになっていた全員だったが、思いがけない身分の話に「へっ」とマヌケな顔をしてしまった。いたずらが成功した顔でそれを見たアズライトは、ヨシヒコの顔を見てから「当然の措置だと思います」と答えた。 「アセイリアを筆頭としたあなた達の存在は、帝国の中でもとても有名なのですよ。そしてヨシヒコが皇帝となる以上、あなた達も今まで通りではいられないと言うのも当たり前のことです。ただヨシヒコのスタッフとして連れて行くと、テラノに与える影響が大きすぎると思っています。あなた達には、新しいテラノ総領主を支え、テラノを発展させていく使命がありますからね」 「総領主様が交代される……と言うことでしょうか」  新しい総領主と言われた以上、ジェノダイトの交代が現実味を帯びたと言うことになる。マイケルの問いに、「時間の問題だと思います」とアズライトが答えた。ただそこから先の答えは、アズライトではなくヨシヒコが口にした。 「ジェノダイト様は、後継者としてアンハイドライト様を養子に迎えられた。そしてアンハイドライト様は、教育係として俺に仕える事になっている。跡を引き継いでいない今はいいが、いずれジェノダイト様は引退され、アンハイドライト様がアシアナ家当主となられることになる。その時には、テラノは新しい総領主を迎える必要があると言うことだ。そしてもう一つ、その時アセイリアは、アンハイドライト様の妻として地球を離れることになる」  時代が動いている以上、誰もが今まで通りでいられないのは仕方がないことだろう。だがジェノダイトが引退し、アセイリアが地球を離れると言うのは、今まで考えていなかったことだった。 「やはり、みなさんは考えていませんでしたか。俺としても、アセイリアは地球に残して行きたかったのですが……まだ皇帝としての仕事が分からないことだらけなんです。だから繋ぎの総領主を置いて、その後にアンハイドライト様に総領主になっていただこうと思っているのですが」  すみませんと謝られるのは、流石に違うだろうと全員がいいたかった。しかも次の皇帝に頭を下げさせるのは、流石に問題が大きいと全員が理解していた。だから慌てたセンターサークルの面々に、「俺は地球の住人ですよ」とヨシヒコは笑った。 「この星には、俺の大切な人たちが大勢暮らしているんです。次の皇帝と言う立場はありますが、この星で生まれ育てて貰った恩もあるんです。だから地球にとって、何が一番いいのかをいつも考えていますよ」 「ですが、ヨシヒコ様は次の皇帝として全銀河に責任があるのではないでしょうか?」  常識的な答えを口にしたマイケルに、「皇帝と言うのはわがままな存在ですよ」とヨシヒコはアルハザーの受け売りの言葉を口にした。 「だから俺は、自分のわがままを通すことにします。それが、全てに責任を持つ皇帝と言うものです。もっとも、まだつなぎをさせる人に心当たりが無いのも問題と思っています。まだまだ、俺の世界も狭いと言うことですね」  言葉遣いは男なのだが、そう言って笑う姿は本当に可愛らしい女の子だった。さすがにやばいなと、男女問わず、アズライトまでもが思い知らされてしまった。  センターサークル、アセイリア機関の面々との歓談を終わらせた二人は、隅っこの方で小さくなっている団体の所へ向かった。イヨが約束した通り、陸軍士官学校ホプリタイチームのメンバーがパーティーに招待されたのである。ただ招待されたのはいいが、全員が全員場違いであるのを思い知らされていた。  だから隅っこの方で目立たないようにしていたのに、なぜか次の皇帝が皇妃を連れて挨拶に来てくれたのだ。本来絶対ありえない状況に、全員が感激ではなく顔から血の気を引かせて立ちすくんでいた。  それでもリーダーらしく、マリアナが場を仕切って二人に挨拶をした。ただ彼女の視線は、一度もヨシヒコへは向けられなかった。 「私達のようなものに、お声がけいただきありがとうございます」  マリアナに倣って、全員が腰を90度折り曲げて二人に頭を下げた。双方の立場を考えれば、それはあまりにも当たり前過ぎる態度である。次の皇帝と跡も継いでいない下級貴族の間には、どう頑張っても埋めようのない差が横たわっていたのだ。  もっともそれは、マリアナ達の事情であり、二人には関係のないことでもある。センターサークルの時にはヨシヒコが仕切ったが、今度はアズライトが仕切ってくれた。 「マリアナさん、本当にお久しぶりですね。テラノに来た時には、あなたには色々と助けて貰ったと思っています。そしてヨシヒコを奪ってしまったことを、あなたとセラムさんに謝罪しなければと思っていたんです」  あろうことか、皇妃がただの下級貴族に向かって「ごめんなさい」と頭を下げたのである。「アズライト様」とマリアナが慌てるのも仕方がないことだった。 「そのように、皇妃殿下が頭を下げられてはなりません」 「ですが、私は泥棒猫……で宜しいのですよね。あなた達から、ヨシヒコを奪ってしまいました」  だから謝ると答えたアズライトに、「そこまでにしておけ」とヨシヒコが横から助け舟を入れた。 「それは、逆に嫌味になるぞ。まあ、性悪皇女らしくていいのかもしれないがな」  敗者に向かって、勝者が古傷をえぐる真似をすることになる。自分は本気で謝っているのにと、アズライトはヨシヒコに向かって膨れてみせた。 「今日は、よく性能差を乗り越えて善戦したな」 「ヨシヒコ様の授けてくださった作戦のおかげだと思っています。むしろ、勝利を献上出来ず申し訳ないと思っています」  お褒めの言葉に対して、マリアナは恥をかかせたことを謝った。作戦を授けられた以上、勝利で応えるのが自分達の責任だと言うのである。 「おいおい、性能差を考えれば流石に勝てないだろう。引き分けに持ち込んだことでも、十分に責任を果たしてくれたと俺は思っている。と言うか、勝てる作戦を提示できなかったのは俺の責任だろう」  違うのかと問われたマリアナは、「違います」とはっきりと答えた。ただ一連のやり取りの中で、マリアナは一度もヨシヒコの顔を見ていなかった。  そんなマリアナに、ヨシヒコは「マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギ」と呼びかけた。 「ミツルギ家は、只今当主である父が爵位を返上いたしました」  だから爵位を持つ者の名はない。その意味で答えたマリアナに、ヨシヒコは少しだけ眉を顰めた。 「一応事情は知っているのだが……俺には、お前の家がとらなければならない責任があるとは思えないのだがな。どうせ、姉さんがお前達を追い詰めたのだろう」  困ったものだと零すヨシヒコに、「それは違います」とマリアナは答えた。 「イヨ様に教えていただかなければ、私の一族は命で償なっていたかと思います。そして私は、御前試合に出ることもなかったでしょう。父は常日頃、爵位を持つ者の責任を説き、平民を見下しておりました。ならばその立場が変わった時にどのように振る舞うべきか、爵位を持つ者としての振る舞いが求められます。爵位返上では足りないと父は申しておりましたが、イヨ様のお言葉を伝えて言うことをきかせました」  あまりにも予想通りの答えに、ヨシヒコは小さくため息を吐いた。 「だったら、お前たちの決断を俺は尊重する」 「ありがとうございます」  これで自分の一族は責任を取ったことになる。一つ肩の荷をおろしたマリアナは、ヨシヒコとアズライトに頭を下げて退出の許可を求めた。 「ここは、爵位を保たぬ私のような者が居ていい場所ではありません。お許しいただければ、すぐにでもこの場から消えたいと思っています」 「お前たちの常識なら、そう言うことになるのだろうな」  ヨシヒコの言葉に、この場を去る許可を得たのだとマリアナは考えた。だがヨシヒコは、「この場にいるお前たちに証人になって貰う」と他のメンバーに声を掛けた。 「現時点をもって、マリアナ・ミツルギの身柄をアズライトに預ける。正式な通達があるまで、マリアナ・ミツルギはアズライト付きの身分となる。いいな、アズライト」 「そうですね、私には恩人に報いる必要がありますね」  その辺りは、すでに示し合わせていたのだろう。すんなりとヨシヒコの命令を聞いたアズライトは、マリアナに近寄ると「よろしくお願いしますね」とその逞しい手をとった。  ただ示し合わせていた次期皇帝夫婦とは違い、マリアナにとってその決定は青天の霹靂のようなものに違いない。不始末の責任をミツルギ家としてとったはずなのに、下された沙汰はありえないほどの恩賞だった。 「そ、そのようなっ」  思わず声を上げかけたマリアナに、「次期皇帝の命令だぞ」とヨシヒコはとどめを刺した。立場を持ち出した以上、次期皇帝の命に逆らうことなど出来るはずがない。 「さて、お前の持っている常識では、この時どう答えればいいのかな?」  少し意地悪に問いかけたヨシヒコに対して、マリアナは床に片膝をついて「ご命令に従います」と頭を下げた。それに頷いたヨシヒコは、「しばらくはそのままでいろ」とセラを呼び出しミツルギ元一等男爵に勅命を与えた。本来地方星系の一等男爵に、皇帝が勅命を与えることはありえない。これもまた、異例中の異例と言っていいだろう。  そしてマリアナの問題を片付けたヨシヒコは、事情を掴めていない、そして緊張から縮こまっている5人に、「胸を張れ」と命じた。 「お前たちは、士官学校の代表であるのを忘れるな。そしてこの場には、俺が招待してやったのだぞ。それなのに、そんなに縮こまっていていいと思っているのか? テラノ士官学校のホプリタイチームは、今や帝国で知らぬ者が居ないと言われるほど有名なのだぞ。大将の名前は知られていないが、お前たちチームの名はセンテニアルの惨劇を防いだことで知られているのだ。何人かは新しく加わっているのだろうが、名誉ある名を継ぐものとして恥ずかしい真似はするんじゃない」  だから付いて来いと、ヨシヒコは6人に対して脈絡の無い命令を下したのである。  地球軍大将達の所に行こうと思っていたヨシヒコだったが、6人が加わった所で寄り道をすることにした。寄り道の先は、ジェノダイトと飲んだくれているドワーブの所である。つまりセンテニアルの悲劇の加害者の所に、それを阻止した英雄を連れて行こうと言うのである。 「次なる皇帝聖下に足を運ばせたことをお詫び申し上げます」  黒い顔が赤くなっているのは、それだけ酒精を体に入れたと言うことだろう。それでも呂律がしっかりとしているのは、ヨシヒコを前に緊張しているからとも言えるのだろう。そんなドワーブに、「紹介します」と笑いながらヨシヒコは連れてきた6人を紹介した。 「一部メンバーは入れ替わっていますが、センテニアルでイェーガージェンヌに化けたホプリタイを足止めした陸軍士官学校チームフジヤマのメンバーです」 「そこははっきりと、グリゴン兵と言っていただいた方が宜しいのかと」  お許し下さいと頭を下げたドワーブは、「なるほど」と全員の顔を見て頷いた。 「全帝国で一番勢いがあると言われるだけのことはありますな。多少臆しているのは差し引くとして、全員がとても良い顔をしている。我がグリゴンチームに入れて鍛えれば、イェーガージェンヌに一泡吹かせることも出来るでしょう。ヨシヒコ様に作戦を授けていただけば、不敗の伝説を過去のものに出来るのかと」  歓迎すると言うのは、今の両国の関係を考えれば不思議な話ではないだろう。だがチームフジヤマにしてみれば、グリゴンと言うのは大勢の命を奪った敵なのだ。6人の内マリアナを含めた4人は、直接戦ったと言う事情があった。  だがそんな事情は、ヨシヒコにとってどうでもいいことのようだった。「それはいいですね」とあっさり答え、「話を通しておきます」とドワーブに告げたのである。 「地球、テラノの陸軍は宇宙に出ることはまずありませんからね。その目で他の惑星を見ることは、とても大きな財産になると思いますよ。特に自分達と異なった成り立ちの星を見るのは、同じH種の惑星に行くより意味があると思います」  ただと、ヨシヒコはマリアナの顔を見た。 「彼女、マリアナにはアズライト付きを命じた所です。ですから彼女以外の5人と、先のセンテニアルで活躍した者達を送り込みたいと思っています。もちろん、人選はマグダネル大将にお願いすることになると思いますけどね」 「では、私共は受け入れの準備を進めることといたしましょう。軍の交流が始まることで、両国の結びつき、理解はさらに深まってくれるでしょうな」  ご配慮に感謝すると頭を下げたドワーブは、畏まった5人に対して一人ひとり握手をしていった。そして最後にマリアナの前に立ち、「名前は伺っている」と特別に声を掛けた。 「あなたには、先のセンテニアルではご迷惑をおかけしたようだ。あのような性能の低いホプリタイで我がホプリタイ部隊を翻弄し、なおかつ撃破すると言う功績を上げられたと伺っている。さすがは、ヨシヒコ様の信が厚いお方だ」 「もったいないお言葉、感謝いたします」  敵ではあるが、グリゴンと言うのはマリアナがのし上がるのに大きな貢献をしてくれた相手でもある。そして直接相対して、最初に持っていた印象と違うのをマリアナは感じていた。 「語りたいことは山ほどありますが、私が独占していてはいけないのでしょう。名残惜しくはありますが、私はジェノダイト殿と飲んだくれることと致します」 「グリゴンの方たちは底なしと伺っていますが……まあ、ほどほどにしておいてください」  それではと挨拶をしたヨシヒコは、アズライトと6人を連れてドワーブのところから離れていった。それを傍目からは分かりにくい笑顔で見送ったドワーブは、隣に立ったジェノダイトに「気を使いすぎだろう」とヨシヒコのことを評した。 「あれは、間違っても次の皇帝聖下がすることじゃないはずだ」 「それだけ、ヨシヒコ様にとってマリアナ嬢は特別と言うことだ」  ぐびりと泡の出る酒を飲み干したジェノダイトは、その特別の意味を口にした。 「先のセンテニアルで、アズライト様がいつも通り先乗りをされたときのことだ。彼は、アズライト様の身分を知らずに、かなりいかがわしい施設に行くなどとても親密に過ごしたのだ。一方私は、アズライト様の世話係としてマリアナ嬢を選出した。だがいきなり姿を隠されたので、私も途方に暮れたと言うことだ」  その辺りは知っているなと問われ、ドワーブは苦笑とともに頷いた。 「それをマリアナ嬢に教えた所、参謀として彼を活用していることを教えられた。もっともその時には、アズライト様と親密な時間を過ごした少年と同一人物だとは思っていなかったのだがな。だがその夜呼び出した所で、私は両者が同じ少年だと知ることになった。そして彼は、自分を殺させることでアズライト様を縛り、アセイリアとしてお前たちへの対策を行うことになった。そして心を痛めたアズライト様のために、マリアナ嬢を世話係として任命したのだよ。もしもセンテニアルがなければ、そしてセンテニアルでお出でになられたのがアズライト様でなければ、彼はマリアナ嬢に仕え、セラムと言う女性を妻にしていたことだろう」 「そして、帝国は今まで通りのつまらないものになっていたと言うことか」  ものすごいめぐり合わせだなと口にしたドワーブに、そうだなとジェノダイトは同意した。 「だから彼らを連れ回す役目は、私では務まらないのだよ。お前は気を使いすぎだと考え、次なる皇帝のすることではないと口にした。確かにそれは、今までの帝国では真実に違いないだろう。だが、まだまだテラノは、未熟な星であるのは間違いないのだよ。そして未熟であるがゆえに、帝国の中で大きな意味を持つこととなった。他のH種では、ザイゲル連邦の懐に飛び込むことはできなかった。それは星系として未熟であり、それまで作り上げられてきた常識から無縁の所に居たテラノだから出来ることだった」 「お前が居たのも、その理由の一つだろう」  自分を忘れるなと口にしたドワーブに、「否定はせんが」とジェノダイトは口元を歪めた。 「だがグリゴンとの友好を打ち出したのは彼なのだよ。私にしたところで、アズライト様の思惑に乗りお前たちに責任を迫ることしか考えていなかったのだ。つまらない答えだが、アルハザーに余計な真似をさせないためにも、そうすることが必要だと考えていた。彼だけが、センテニアルの悲劇に関係なく、両国がどのような関係を構築するべきか。それを考えていたのだよ」 「それを聞かされると、ヨシヒコ様はなるべくして皇帝になられると思えてしまうな」  感慨深げに答えたドワーブに、「そうだな」とジェノダイトは返した。 「アルハザーの思惑に対して、宇宙がそれ以上の答えを用意したと俺は思っている。ただ彼の覇道には、お前の助けが必要だと思っているよ」 「お前ではなく、俺なのか?」  驚くドワーブに、「お前だ」とジェノダイトは繰り返した。 「俺の役目は、彼とお前達を結びつけるのとアルハザー対決するところまでだ。これから起こるかも知れない混乱には、間違いなくお前たちザイゲル連邦の力が必要となる」 「お前は、バルゴールのことを考えているのか?」  ああとジェノダイトは頷いた。 「爺さんが、問題児の孫二人を連れてここに来るそうだ。そしてそれとは別に、軌道城の城主が一人観光でここにやってくる。軌道城の城主の名はクランカン・オム・バルゴール・マズルカだ。メリディアニ家当主キャスバルから「宜しく頼む」との連絡を受けている」 「軌道城の城主がバルゴールを離れるのかっ!」  流石に驚いたのか、ドワーブは目を大きく見開いていた。 「ああ、それだけ今回の出来事はありえないことだったからな。ただ軌道城城主が来るのはいい、だが爺さんが孫二人を連れてくる方が問題だ。何しろメリディアニ家の跡取り候補二人の評判は最悪だからな」 「だから、俺達の力が必要と言うのか……だが、俺達でもバルゴールを中心とした同盟には手が出せないぞ」  帝国本体を除けば、バルゴールを中心としたフェルゴー、チェンバレンの連合は最強と言われていたのだ。逆にそうでなければ、ザイゲルと接しているバルゴールが無事でいられるはずがなかった。 「それは、あくまで帝国が決めたルールならと言うことだろう。そして彼は、武力でおとなしくさせるのは難しくないと言っていたよ。ただ、つまらないからやりたくないとも言っていたがな。とは言え、いざと言う時にはザイゲル連邦の力が必要になることだろう」 「ヨシヒコ様がそう仰るのなら、おそらくそうなのだろうな……それでメリディアニの爺さんは、何をしに遠く離れたテラノまで来るつもりだ?」  地球を舐めた結果が、手痛いセンテニアルでのしっぺ返しなのだ。その意味で、一番ヨシヒコと地球を評価しているのがドワーブだった。 「アルハザーが、許可を出したと言ってきたよ。つまり、騒ぎの種を蒔きに来ると言うことだ。大方、彼を見極めるとでも考えているのではないのか?」  愚かだよと零したジェノダイトに、同感だとドワーブは同意を示した。 「現当主の勅命を受けた軌道城城主と、引退した前当主が問題児の孫二人を連れてテラノに現れると言うことか……」  ふっと息を吐き出したドワーブは、「見極められるのはどちらなのだろうな」と漏らした。 「これからの帝国に、どちらが存在の意味を示すことが出来るのか。奇しくも集う事になった奴らを、ヨシヒコ様は見定めることになるのだろう。そこで眼鏡に叶わなければ、メリディアニ家は潰されると言うことか」 「潰しはしないだろうが、今まで通りではいられないだろうな。ただ彼は、変革に血を流すのを良しとはしない。それはとても難しい道なのだが、新しい時代を告げる方法であるのも確かだ。メリディアニ家を従えれば、帝国で彼に逆らえる者は居なくなるだろうな」 「そうなったら、アルハザーは引退を早めるだろう。その時は、お前は義息子に爵位を譲るのか?」  引退するのかと問われ、「おそらく」とジェノダイトは答えた。 「ただ、次のテラノ総領主を誰にするのかと言う問題があるがな。一癖もふた癖もあるお前たちと付き合っていくには、相当肝の座った奴を任命する必要がある」 「いやいや、俺達は随分と素直だし優しいつもりだぞ。だがお前の言いたいことは理解できる。ヨシヒコ様が皇帝となられることで、テラノは特別な意味を持つことになるからな。その総領主を務めるには、それなりではすまない見識が求められるだろう。理想はアンハイドライト様なのだが、ヨシヒコ様の世話役として仕えることになっていると聞いたな」  小さく頷いたジェノダイトは、「問題が大きすぎる」と零した。 「それは、アセイリアをテラノから取り上げるのを意味しているのだ。俺が難しいと言う意味が理解できるだろう」  アセイリアが嫁ぐことは、すでにやり直しの場で公開している。その時は祝福一色だったが、すぐにその意味を地球の住人は知ることになるはずだ。自分の引退と合わせると、地球もまたこれまで通りではいられないと思えるのだ。 「お前以上に、彼女が居なくなることは影響が大きそうだな」  そしてドワーブも、その意味を十分に理解していた。そして理解しつつ、大丈夫ではともう一人の女性の顔を思い出した。 「ヨシヒコ様の姉君がお出でだろう。あの方がお出でになれば、多少の混乱はあっても大丈夫ではないのか?」  表の顔としてアセイリアが活躍したのは知っているが、その裏でイヨが八面六臂の活躍をしたのをドワーブは知っていた。それを思い出せば、アセイリア地球を離れても大丈夫だろうと言うのだ。  そしてジェノダイトも、当然イヨの存在は意識していた。 「それは一面では正しく、そしてもう一つの面では間違っていると言えるよ。確かに彼女は、さすがはマツモト家と思わせる活躍をしてくれた。だがセンテニアルでは、裏方としての活躍しかしていないのだよ。一部宇宙軍での評価は高いのだが、それほど顔と名前は売れていないのが現実だ。そしてもう一つ言うのなら、彼女をテラノに縛り付けておくわけにもいかないだろう。そんなことをしたら、帝国内で文句を言う奴らが出てくる」 「H種の水準ならば、かなり美しい方に入るのだろうしな。それに、次の皇帝の姉君ともなれば、それを目当てに近寄ってくる奴も大勢居ると言うことか」  有り得るなと苦笑したドワーブに、ジェノダイトは大きく頷いた。 「それが、今までの帝国と言うことだ。ただ彼女に付いて言うのなら、見た目と立場だけで言い寄ると手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう」 「アセイリアに成り代わって、アセイリア機関だったか? たちまち掌握した手腕があるからな。その辺り、さすがはヨシヒコ様の姉君と言うところだろう」  そこまでイヨを認めたドワーブだったが、「ただ」とジェノダイトの懸念を肯定した。 「アセイリアのように、象徴となることはできない……と言うのだろう」  我が意を得たりとばかりに、ジェノダイトは大きく首肯した。 「まさしく、問題としているのはそのことだ。センテニアルからお前たちとの友好条約締結まで、アセイリアの活躍は神がかっていたからな。彼女の能力は劣っていなくても、人々の印象と言う意味では天と地ほどの差が存在している。そして決定的な差は、彼女の才能は実務を遂行する所にあることだ」 「求められるのは、将来への展望を示す能力と言うことだな。なるほど、アセイリアと姉君の二人が揃った今が、もっとも好ましい状況にあると言うことか。そう考えると、ヨシヒコ様は才能の固まりと言うことになるな」  センテニアルでの活躍を見ていると、実務遂行能力にも優れたところを見せていたのだ。ドワーブが好ましいと言った今の状況にした所で、ヨシヒコ一人分の働きを二人が分担していると言うのが実態だった。 「なるほど、テラノの舵取りが難しいと言うのは理解できた。ただそれを考えられるのは、ヨシヒコ様の役目ではないのか?」 「確かに総領主任命は、帝国本体の仕事だったな」  自分をテラノ総領主に任命したのは、アルハザーとトリフェーンの推薦が理由になっていた。その意味で、前任者の関与は無いことになる。 「ああ、いざとなれば、お前が暫定的に継続すればすむ話だ。たとえそうなったとしても、文句を言うような奴は……アルハザーぐらいか」 「その頃には、あいつも退位しているだろうよ」  だからこそ、逆に厄介なことになる気がする。ジェノダイトが面倒だなと零すのも、引退後の生活を考えれば不思議なことではないはずだ。  その頃ヨシヒコは、地球軍大将達の集まりに顔を出していた。ただ問題は、ヨシヒコは彼らのことを知っているが、彼らは直接の面識がないと思っていることだった。センテニアルで活躍したのは、彼らにとってはアセイリアでありヨシヒコではなかったのである。  ただ大将達にとってみれば、次の皇帝自ら挨拶に来た事実の方が重要だった。だからずらりと整列し、ヨシヒコの前で緊張してくれた。 「難しいのは分かっていますが、もう少し楽にしていただいて結構ですよ」  年齢的には、いずれも自分の両親より年上の人達ばかりだった。そんな大将達に緊張されると、逆にやりにくく感じてしまうほどだ。だから「楽に」と言うことになるのだが、それで楽にできるのなら誰も苦労などしないだろう。  そこでヨシヒコは、因縁の深い3人に狙いをつけることにした。そのうちの一人が、宇宙軍大将ブドワイズである。彼には、姉のイヨがお世話になっていたと言う実績があった。 「ブドワイズ大将には、姉がお世話になったと聞いていますよ」  話の取り掛かりとして、肉親を持ち出すのは妥当なものに違いない。ただお互いの立場が違いすぎると、それでも会話は成立しにくかった。 「いえ、イヨ・マツモト准尉には私は命を助けて貰っております。グリゴンとの戦いにおいて、姉上は地球軍の勝利の女神だと思っております」 「お互いの立場を考えれば、話しにくいのは理解しているつもりですが……」  そこで目を閉じたヨシヒコは、少し精神を集中してからゆっくりと目を開いた。たったそれだけのことで、彼のまとっていた空気が女性的なものに変貌した。 「サンダース大将閣下には、随分とお世話になったと思っています。そしてマグダネル大将閣下には、随分ご迷惑をおかけしたと思っているのですよ。皆さんのお陰で、地球を帝国に認めさせることが出来たと思っているんです」  そこで柔らかく微笑む姿は、格好こそ男だがどう見ても可憐な少女に思えるものだった。そして居並ぶ大将達は、髪の長さこそ違えそこに一人の女性の姿を見出したのである。 「も、もしや、あなたは……」  マグダネルの声が震えたのは、想像を超えた事実を突きつけられたからだろう。ただ彼がその名前を口にする前に、ヨシヒコは人差し指を自分の唇に当て「内緒です」と全員に合図をした。 「私は、皆さんに鍛えていただいた。そう思っているんです」  その時大将達は、男女の区別なく男であるヨシヒコに魅入られた。もう少し俗な言い方をするのなら、恋をしたと言う所だろうか。それは着いてきた士官学校の学生たちも例外ではなく、微笑むヨシヒコに見とれていたのである。ヨシヒコの隣にはアズライトが居るのに、誰も彼女のことを視界に留めていなかった。  本来妻として一言あるところなのだが、アズライトもまたヨシヒコの笑顔に心を奪われてしまっていた。それに気づいたヨシヒコは、男の声に戻って「ええっと」と人差し指でこめかみを掻いた。 「アズライトまで、何を見ているのだ?」  そこで肩を揺すられ、アズライトは「はっ」と我に返った。そして隣に立つ夫の顔を見て、深すぎるため息を吐いたのである。 「どうして、あなたは妻に自信をなくさせるようなことをするのです」 「そ、そんなつもりはなかったのだがな……」  ただ大将達の顔を見れば、破壊力の凄まじさは想像することが出来る。失敗したかなと焦るヨシヒコに、アズライトは「見境がないのは良くありません」と文句を言った。 「そう言うのは、夫婦の時間に見せてください」 「どうして、夫婦の時間に女にならなくてはいけないのだ?」  やめてくれと懇願したヨシヒコは、「マグダネル大将」とまだ呆けているマグダネルに声を掛けた。 「越権行為かと思いますが、グリゴンのドワーブ閣下に彼らを紹介してきました。グリゴンとの人材交流も、今後の視野に入れてください」 「はっ、仰せの通りに致します」  先程よりも鯱張って、マグダネルはヨシヒコに敬礼を返した。それを見る限り、普通に話をすると言うのは叶わない願いだったようだ。  ただ拘っても仕方がないと、ヨシヒコはチームフジヤマを大将達の所に残して別の島へと向かった。パーティー会場には、まだまだ挨拶をしなければいけない人たちが大勢残っていたのである。  大いに盛り上がりを見せたパーティーは、日付が翌日になったところで散開を迎えることになった。来賓達は、それぞれの宿へ、そしてパーティーのホストは、センテニアルの後片付けへと戻っていった。チエコとイヨの二人は、統合司令本部のメンバー達と一緒に下のフロアにある本部へと帰っていった。  その際ボリス達からは、家族の時間を過ごしてはと言われたのだが、「最後まで仕事を終わらせるのが家訓です」と言うチエコに誰も逆らえなかったと言う話があった。  そして一人家に帰ろうとしたヒトシには、治安を預かるウルフから「今日は帰られない方がいい」と言う一言があった。何しろ今日のセンテニアルで、息子が次の皇帝になると発表されたのだ。すでに警備配置は終わっていても、今日は顔を出さない方が平和に違いなかった。 「皆さんには、上層階にお部屋が用意してあります」  父親の代理として、アンハイドライトがヒトシ達……そこにはなぜかシルフィールも含まれていたのだが、宿泊場所の案内をしてくれた。そしてヨシヒコの顔を見て、「君は……」と少しだけ考えた。 「アンハイドライト様、なぜそこで考えますか?」  不機嫌そうな顔をしたヨシヒコに、アンハイドライトは「可愛いな」と膨れた顔を愛でていた。ただそれを悟られると面倒なことになるので、「部屋割りを考えただけです」と話を別の方向へと捻じ曲げた。 「今日は二人きりにすべきなのか、それとも5人にすべきなのか……それを考えたのです」 「二人きりでいいと思うのだが?」  アズライトの顔を見ながら答えたヨシヒコは、「なぜ5人?」と人数に疑問を呈した。 「アズライトにアリアシア、それにシオリだと考えれば4人のはずだが?」  首を傾げてから、ヨシヒコは少し意趣返しをアンハイドライトにした。 「キャンベルさんを呼ぶつもりはないのだが?」  その切り返しは予想していなかったのか、アンハイドライトの目元が少しだけ引きつった。そしていやいやと首を振ってから、「シルフィールのことだよ」と最後の一人の名を挙げた。 「後宮には、彼女なような人が居てもいいと思ったのだよ。幸い彼女は、クラビノア出身だからね。出身星系的にも都合がいいんじゃないのかな?」 「いやいや、シルフィールはそんな関係ではないと思っているのだが」  はあっとため息を吐いたヨシヒコは、「シルフィール」と足音を忍ばせて逃げ出そうとしていた彼女を呼び止めた。どうやら、本能的に危険を察知していたようだ。 「お前は、俺の後宮に入りたいと思っているのか?」  希望は尊重する。その恐ろしい問いかけに、シルフィールは背筋を伸ばしてヨシヒコではなくアズライトの顔を見た。そこでニッコリと微笑まれた時には、背中に冷たいものが団体で走っていくのを感じてしまった。 「めめめ滅相もない。私は、聖下の主治医の一人にしていただければ結構です。その、一応お手つきありで」  そこでアズライトから視線をそらしたのだが、その先には謎の笑みを浮かべるアリアシアが居た。しかも隣には、同じく謎の笑みを浮かべたシオリまで立っていた。どう考えても、そのメンバーは恐怖に違いなかった。  ぶるっと震えたシルフィールに、なぜかシオリが近づいてきた。そして顔色を悪くした彼女の耳元で、「逃げられるとお思いですか?」と恐ろしい言葉を口にしたのである。 「私が、あなたを逃がすとでも思っているのですか?」  シオリにしてみれば、皇族の中に一人と言うのは精神的につらすぎたのだ。その意味で、シルフィールの存在は精神的な逃げ場になってくれる。アリアシアに言われた役目の上でも、仲間は増えた方が有り難いのも確かだった。そして彼女を巻き込むことには、別のメリットも存在していた。その辺りの事情は、すでにアズライトやアリアシアとも共有していた。 「わ、私に、選択の自由はあるのでしょうか……」  勘弁して欲しいと切実に願うシルフィールに、「つまり」とシオリは冷たい視線をシルフィールへと向けた。その辺りの冷たさは、さすが三等公爵家令嬢と言えばいいのだろう。シルフィールは、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。 「ヨシヒコ様のご寵愛を受けるのが「嫌だ」と言うのですね」  まさか「あなた達と一緒が嫌」とは言えるはずもなく、「そんなことはありません」と答えるのが今のシルフィールには精一杯だった。 「これで、クラビノア枠が一つ埋まりましたね」  そんな事情を知ってか知らずか、シオリはぱっと顔を輝かせた。そして先程の冷たさはどこにと言いたくなる機嫌の良さで、シルフィールの腕を掴んでアリアシアの方へと引っ張っていった。  どうしてこんなに胃が痛いのか。腕を引っ張られながら、シルフィールは反対の手で「バルディッシュ」と相棒の表面を撫でたのだった。  センテニアルの翌日のヨコハマは、前日と変わらぬ澄みきった青空が広がっていた。あと2週間もすれば、鬱陶しい雨の季節に入ると言うのは、今の空を見る限り想像も出来ないことだった。  そしてこの日のヨシヒコは、ご機嫌伺いへの対応で多忙を極めていた。当たり前だが、各星系の代表団はいつまでも地球に居る訳にはいかない。本来のホストはジェノダイトとは言え、次の皇帝がいる以上挨拶に顔を出すのは当たり前だった。そして各星系の総領主達の挨拶を、妻となるアズライトと二人で対応し続けたのである。 「お前が、公式行事前に遊び回った気持ちが理解できるな」  じっくりと話をするのであれば、各星系代表と会うのは望むところだった。だがヨシヒコの立場は、すでに公式の場ではそれが許されない物になっていた。その為面白みも何も無い挨拶に、延々と付き合わないといけなくなってしまう。分かっていたし、必要性も理解をしているつもりはあった。それでも面倒だと感じてしまうのは、ヨシヒコの生まれも理由になっていたのだろう。 「理解して貰ったのは嬉しいけど、これがヨシヒコにとっての日常になるのを忘れないように。あのお父様でも、公式行事は真面目に対応されていたのですよ。もちろん、「退屈で死にそうだ」と言う文句は嫌と言う程聞かされていましたけど。その意味で、シリウス一族では皇帝になるのは罰ゲームのようなものですね」  似たような話をアンハイドライトに聞かされたこともあり、それが理由かと自分に帝位を譲った理由に納得できたような気がしてしまった。ただそれは、盛大な勘違いだと気づいてヨシヒコは小さく首を振った。各星系代表の挨拶は半分も終わっておらず、今日はそれだけで一日が潰れることが確定していた。  今アズライトと普通に話していられるのも、次の挨拶まで5分と言う時間があるおかげだった。 「明日なのだが……」  挨拶までに時間があるからと言って、二人きりになれると言う訳ではない。おつきの者達が部屋の中を片付け、乱れたようには見えない二人の御髪を整えてくれていた。 「はい、私も楽しみにしているのですよ」  嬉しそうに頷いたアズライトに、「俺もだ」とヨシヒコは言葉を重ねた。 「セイメイとカツヤには、お前をちゃんと紹介したいんだ。セラフィムではなく、アズライトとしてのお前をな。それが、俺にとってのけじめ……違うな、大切な親友へのお礼だと思っている」 「お二人には、私もお世話になりましたからね。どうです、一緒に街を散策すると言うのは?」  センテニアル前には、4人で街の観光をしたのだ。ヨシヒコにとっての一つの問題を除けば、それはとても楽しい経験になっていた。そしてアズライトにしてみれば、生まれて初めて楽しいと思えた一日でも有ったのだ。 「悪くない考えだな……いや、学校のことならどうにでもなるから俺もそうしたいな」 「でしたら、久しぶりにヨシヒコの女装が見られるのですね。お姉様やシオリが悔しがるのが目に見えるようです」  嬉しそうにするアズライトに、「なんでだ」とヨシヒコはすかさず言い返した。 「もちろん、男女のバランスが悪いからです。それ以外に、何か理由が必要ですか?」 「どうして、そこでバランスをとると言う話になるんだ」  勘弁してくれと零すヨシヒコに、絶対ダメですとアズライトは笑った。ただ次の挨拶が迫ったので、二人の会話はそこで打ち切りとなった。それに安堵したヨシヒコは、アリアシア達も巻き込むかと女装対策を考えることにした。  そして翌日、港総合高校の制服に着替えた二人は、生徒が登校するよりも早く教室に入っていた。当たり前だが、二人の行動についてはすでに学校へは通達が行われていた。早い時間に学校入りをしたのは、それが理由と言う事だ。そして生徒たちの安全対策のため、カヌカが治安部隊を「目立たないように」学校の周りに配していた。 「ここが、ヨシヒコにとっての思い出の一つなのですね」  最大40名を収容する教室は、彼女の部屋よりも狭いぐらいだった。そこに並べられた小さな机を見て、アズライトは感慨深げに部屋の中を見渡した。そして綺麗とも言えない机の表面をなでながら、「多くの記憶が刻まれているのですね」と口にした。 「ああ、教室と言うのは生物ではないのだが……それでも、長い時間俺達のような子供を見守ってきた存在には違いない。ここで俺達は、本当にいろいろな経験を積み大人になって行くんだ」  そこまで学校が好きかと問われれば、さすがのヨシヒコも答えに悩んだことだろう。だが2年の11月からのことを思い出すと、学校もまた自分の一部だと言うのを理解することが出来る。突然取り上げられてしまった日常がここには有ったのだ。 「ヨシヒコ……泣いているの?」 「それほど、好きな場所ではなかったはずなのだがな……だが、今になって初めて大切な場所だと言うのが分かってしまった。俺は、もうここにいる資格を失ってしまったんだ」  すべての権力を持つ皇帝にも、出来ないことは沢山あった。その中では、庶民の高校に通うと言うのは、小さなことではあるが、どうしようもないほど無理な願いに違いなかった。  静かに涙を流すヨシヒコを、アズライトはとても綺麗だと見とれてしまった。女の自分から見ても、自分以上に可愛らしく思えてしまったぐらいだ。ヨシヒコを皇帝に迎えることで、帝国は新しい時代を歩むことになるのは間違いない。ただそれは、自分と言う存在がヨシヒコに強いてしまったことではないのか。涙を流すヨシヒコに、自分がいなければとアズライトは考えてしまったほどだ。 「ヨシヒコ……」  少し沈んだ声を出したアズライトに、「勘違いをするな」とヨシヒコは答えた。 「俺は、後悔をしている訳じゃない。多くのものを失ってしまったが、同時にそれ以上の物を得たと思っているからな。ここで涙を流していることにしても、俺の感傷でしかないのは分かってる。何しろ俺には、ともに歩いてくれるお前がいるのだからな……それから廊下で覗いているお前たち、隠れていないで入ってこいよ」  ぐいっと袖で涙を拭い、ヨシヒコは教室の入口へと視線を向けた。その声に応えるように、引き戸となった教室の扉がゆっくりと開けられた。 「だったら、入れなくなるような空気を作ってくれるなよ」 「まったくだ、彼女の居ない俺達にあてつけてくれるな」  よっと右手を挙げて入ってきたのは、セイメイ・トコヨギ、カツヤ・クゼの二人だった。以前と全く変わらない態度の二人に、ヨシヒコの目にもう一度涙が浮かんだ。 「おいおいお前、涙腺が緩くなったんじゃないのか?」 「嬉しいものは嬉しいんだから仕方がないだろう」  顔を涙でクシャクシャにして、ヨシヒコは座っていた机から立ち上がった。 「皇帝様が、たかが庶民に涙を見せていいのか?」  そう言ってからかったカツヤに、「まだ皇帝じゃない」とヨシヒコは言い返した。そしてゆっくりと二人に近づき、「帰ってきたぞ」と二人に纏めて抱きついた。 「う〜む、アズライト様の前でなければ、この場で押し倒したくなるほど可愛いな」  いかにも困ったと言う顔をしたセイメイに、「許します」とアズライトは口元を押さえて答えた。 「その代わり、おかしな癖は付けないでくださいね」 「でしたら、押し倒すのは遠慮しますか」  そこで顔を見合わせたセイメイとカツヤは、「馬鹿野郎」と言ってヨシヒコの体を抱きしめた。 「生きていたんだったら、もっと早く顔を見せろよ」 「葬式で流した涙を返してくれっ!」 「ごめんセイメイ、カツヤ、ごめん」  抱き合って涙を流す男3人、見ようによっては男2人に女1人に、他の生徒達は教室に入れなくなっていた。親友の二人ほどではないが、ヨシヒコは大切な学校の仲間だったのだ。1月の葬式では、全員が亡骸の前で号泣したぐらいだ。 「みなさんも、中に入ってきてくださいませんか?」  それを察したアズライトは、廊下で入れなくなっていた生徒達に声を掛けた。そのお許しのお陰で、ようやく入るに入れない金縛りから生徒たちは解放された。ただ女子生徒は、もらい泣きなをしているのか何人かが涙ぐんでいた。 「ヨシヒコ、男同士の友情……には見えないところもありますが、皆さんにご挨拶をしないといけませんよ」  少し危ない雰囲気を作る夫たちに、アズライトは「もういいでしょう」と声を掛けた。二人が大切な親友と言うのは分かるが、まだヨシヒコには大勢の仲間が待っていたのだから。 「あ、ああ、そうだな……」  ぐしっと袖口で涙を拭ったヨシヒコは、「久しぶり」と目と鼻を赤くして全員に微笑んだ。それを見たアズライトは、「分かっていましたが……」と生徒たちの顔を見てから「可愛すぎます」と代表して感想を口にした。 「ヨシヒコ、あなたはこれ以上成長してはいけないと思います。いえ、ここから成長するのは帝国の損失に違いありません。ここはシルフィールに命じて、成長を止めてもらいましょう」  そう思いませんかとアズライトに問われ、男女ともにゴクリとつばを飲み込んだ。問われてみて、確かに成長したヨシヒコの姿に想像がつかないことに気づいたのだ。 「私の意見に賛成の方、手を挙げてくださいませんか?」  同意を求めたアズライトに、集まった生徒たちは両手を挙げて賛意を示した。それまで男同士の友情を交わしていたセイメイ達も例外ではなく、大きく頷きながら手を挙げる始末である。 「流石に、それは勘弁してほしいのだがな」  まったくと大きく息を吐いたヨシヒコは、「紹介する」とアズライトの隣に立った。 「まだ婚約の儀もしていないから、「恋人」と言うのが相応しいのだろうな。俺の大切な人、第二皇女アズライト様だ」 「アズライトです。夫がお世話になっています」  緩めに編まれた長い黒髪は、背中ではなく左側から前にたらされていた。「宇宙を飛び回る天災」の二つ名は影を潜めているが、純真可憐さは健在だった。同じ港総合高校の制服を着ているのに、どうしようもないほどアズライトは美しく、そして可愛らしく見えてしまった。 「と、これで挨拶は終わったのだが……どうせ学校も気を利かせてくれているのだろうな」  ちらりと廊下の方へと視線を向けたのだが、当たり前だが教師が入ってくる様子はなかった。 「カツヤ。使い立てして悪いのだが、職員室に行って講堂の使用許可を貰ってきてくれ」 「まあ、俺達だけが独占してちゃいけないだろうな」  了解したと、カツヤは少し小走りに職員室へと向かった。そんなカツヤを見送ったセイメイは、「状況説明だ」とヨシヒコに近づいてきた。 「ミツルギ男爵家が爵位を返上したのは聞いていると思うが。その関係で、セラムさんがF女を退学している」 「ここの2年に、編入していると言うのだろう」  興味さえ向ければ、必要な情報はすべてヨシヒコに与えられる。それが、皇帝になると言う意味にも繋がっていた。だからセラムの情報にしても、セイメイが口にした時点でヨシヒコの知るところとなっていた。そして出席率が100%ととも言える今日、セラムはただ一人港総合高校に登校していなかった。 「やはり、知っていたか」 「いや、セイメイが口にした時点で情報として俺が把握しただけだ」  なるほどと頷いたセイメイは、「それだけだ」とそれ以上セラムのことには触れなかった。それがヨシヒコに刺さった小さな棘であるのは理解しているが、もうどうにも出来ない関係と言うのも分かっていたのだ。隣にアズライトと言う人がいる以上、どう頑張っても対等の恋人にはなることは出来ないのだと。  その代わりヨシヒコは、マリアナの身の振り方をセイメイに教えた。 「爵位を返上したマリアナだが、今はその身分をアズライト預かりにしてある」 「不始末は爵位返上で清算し、その上でマリアナを拾い上げると言うことか」  なるほどと頷いたセイメイに、「そうなるな」とヨシヒコは答えた。 「俺は、ミツルギに対して含む所はなかったのだがな。ただお互いの立場を考えると、どこかでけじめをつけるのは必要だろう。穏便な形で帝国を変えると啖呵を切った俺が、幼馴染を切り捨てるのは間違っていると思ってる。もちろん、こだわりすぎるのも問題だとは思っているがな。セラムのことは、マリアナに任せれば大丈夫だろう」 「皇帝様が気を使うようなことじゃないと思うがな……」  セイメイが言うように、ミツルギ家の問題はあまりにも瑣末過ぎたのは確かだ。その意味で、「皇帝が気にすることではない」と言う指摘は間違っては居ないのだろう。 「ああ、これが他の一等男爵様なら確かにそうだろうな。ただ俺は、爵位ではなく個人を見ているつもりだ。さほど大勢は居ないが、それでも特別な人と言うのは俺にもいるんだよ。その意味では、お前達も特別な人の一人なんだよ。ただ、よほどのことがない限り、俺が口を出してはいけないことも分かっている」 「俺が野垂れ死ぬ事になっても、お前は口を出してはいけないんだよ。お前の足を引っ張ることになったら、俺達は死んでも死にきれないほどの後悔をすることになるんだ。俺達の誇りのためにも、俺達に関係無くお前はお前の考えを通してくれ」  それが自分達の覚悟だと答える親友に、ヨシヒコは胸が熱くなるのを感じていた。そして涙腺が緩くなったなと思いながら、「それでもだ」とヨシヒコは言い返した。 「俺は、誰かの犠牲を前提とした治世を行うつもりはない。多くのしがらみ、そして足枷をはめられながら、その中で最良の道を探すのが俺の役目だと思っている。それが人として帝国を治めることだと思っているよ」  ヨシヒコがセイメイに自分の考えを口にした時、職員室に走ったカツヤが帰ってきた。そしてカツヤの帰還と同時に、校内放送で全校生徒に講堂集合の指示が出された。同じ学び舎で学んだものが、帝国最高位に着くと言うのだ。全校生徒を前に話をするのは、むしろ当たり前のことと言えただろう。 「後からお前達には付き合って貰うが、これでここ(港総合高校)とは最後だな」  自分が学んだ高校で、全校生徒や教職員の前で挨拶をする。けじめと言う意味では、間違いなくけじめになるものだった。どんなに名残惜しくとも、何時かは付けなくてはいけないけじめだったのだ。  全校集会のあと自主休校させられたセイメイとカツヤは、お約束のようにアズライトと結託してヨシヒコを女装させた。そしてアズライトにも、髪を短くすると言う簡単な変装をしてもらった。それはおよそ8ヶ月前、センテニアルの準備でざわつくヨコハマの街を歩いた時と同じ格好だった。 「夫婦のはずなのに、麗しい女友達に見えるのは相変わらずか」  8ヶ月ぶりにセラフィムになったアズライトは、嬉しそうに女装したヨシヒコの手を引っ張っていた。男二人は、それを見守るように後ろから付いて歩いていたのである。ぼそりと呟かれたセイメイの言葉に、「ああ」とカツヤはあっさりと答えた。 「セラムちゃんには悪いが、縁がなかったと言うことだろうな」 「勝負をするには、あまりにも絶望的な相手だからなぁ」  つい8ヶ月前のことを思い出し、「だよな」とセイメイはため息を吐いた。本人は否定するのだろうが、間違いなくあの時の二人は恋人同士に見えたのだ。 「しかしだ、アズライト様が居ても、まだ俺には信じられないんだがな?」  お金を稼ぐ才覚はあったし、頭がとてもいいことは知っていた。それでも、爵位を得るのも難しかったのは確かだったのだ。その親友が、事もあろうに次期皇帝に指名されてしまったのだ。幾らアズライトに肯定されても、はいそうですかと信じられるものではなかった。 「だがセンテニアルの放送を見ただろう。ザイゲル連邦の重鎮も、あいつに臣下の礼を示していたぞ」 「何だよなぁ……」  そう言って見上げた先には、低い建物の間から覗く青空が有った。気温の高さを示すように、白い入道雲がもくもくと成長していた。 「センテニアルと言えば、アリアシア様もいらしただろう。アズライト様は駄目でも、アリアシア様の目はまだ消えていないんだよな」  割りと真面目に言うカツヤに、「顕微鏡レベルならな」とセイメイは真面目に答えた。ヨシヒコが同じ庶民だったことを考えれば、確かに顕微鏡で探せば小さな芽ぐらいはあるのかもしれないと。  もちろん、二人共可能性すら無い妄想だとは理解していた。ただ、それぐらいの夢ぐらいはあっていいだろうと思っていただけだ。ただ現実は、二人にはあまりにも非現実的で、そして無情なものだった。「アリアシア様いいよな」とカツヤが口にした時、ヨシヒコの手を引いていたアズライトが立ち止まったのである。 「人の夢を壊すような真似をしてはいけないのでしょうけど……」  少し遠慮がちに二人を見たアズライトは、「アリアシア姉様なら」と夫の顔を見た。 「すでに、ヨシヒコのお手つきになっていますよ。セレスタ星系の三等侯爵家令嬢、シオリと一緒に後宮に入ることが決まっているんです」 「後宮って……」  キョトンとした目をした二人は、何をとヨシヒコの顔を見た。そしてしばらくしてから、深すぎるため息を吐くことになった。 「アズライト様と言うお方がいるのに……その上、アリアシア様にまで手を出すとは」 「可愛い顔をしていても、ヨシヒコも男だったと言うことか」  なあと納得顔で顔を見合わせた二人に、「おい」とヨシヒコは男声で文句を言った。 「あれは、俺には選択権が無かったんだぞっ!」 「でも、ヨシヒコはアセイリアにも手を出していますよね」  反論しようにも、全部知っているアズライトがいる以上無駄な抵抗としか言いようがない。 「それにシオリとシルフィールにも」 「ああ、そうだよ、悪かったな。どうやら皇帝と言うのは、子供をたくさん作るのも役目らしいんだ。特に新しい家系が皇帝になったから、沢山作れとみんなに言われているよ! そうじゃないと、各星系での行事が回らなくなるそうだ」  開き直ってみたのはいいが、自分でもどうしてだと思えてしまう。だから「なんだかなぁ」と空を見上げたのだが、そんな所に気の利いた答えなどあるはずがなかった。  それを見た二人は、相手が沢山いるのも良し悪しだと想像することが出来た。自由にできるから良いのであって、義務にされたら苦痛ばかりが目立ってしまう。その意味でヨシヒコに対しては同情的なのだが、こんな所でそんなことを口にするはずがない。 「女の敵だな」  と言うセイメイの指摘は、この際一番おもしろい方向に振ったものだった。その言葉に我が意を得たりと、アズライトはヨシヒコの見た目の質の悪さをあげつらった。 「ヨシヒコの場合、この可愛らしい見た目で罠を張っているんですよ。私も、罠に掛かった一人じゃないかと思うようになってきました」 「罠に掛かるのは、どちらかと言えば男だと思うんですけどね……」  今も見た目だけで言えば、間違いなく可愛くて綺麗な女の子なのだ。それぐらいは、周りの視線を見れば理解できてしまう。しかもアズライトまでいるので、二人は刺すような視線を意識していた。女の敵と言ってはみたが、森に彷徨いでた可愛い子鹿ちゃんにしか見えないのが恐ろしかった。  男の方がと口にしたセイメイに代わって、カツヤが「アズ……」と割り込んできた。 「セラフィムさんは、罠にかかったことを後悔しているんですか?」  まさに地雷を踏む質問なのだが、男には分かっていても地雷を踏まなければいけない時がある。奉仕の精神でツッコミを入れたカツヤに、アズライトはほれぼれとするような笑みを返した。 「私以外が掛からなければ、不満は無かったんですけどね。でも、私が最初で良かったなぁって」  きゃあと顔を赤くする所は、普通の女性と変わるところはないのだろう。しかもヨシヒコの腕を捕まえて照れてくれるものだから、普通ならやっていられるかと思えるところだ。ただ腕を掴まれたヨシヒコも、今は女の子モードを実行していたのだ。そうなると、麗しすぎる女の子同士の関係に見えてしまった。 「やっぱり、なにか間違っている気がしてならないな」 「お姉さまも、今のヨシヒコがいいと言っています。みんな、ヨシヒコにはこのままで居て欲しいと思っているんですよ」  ねえと顔を見られたヨシヒコは、「そうなのだろうな」と不機嫌そうに顔を反らした。それにした所で、顔を赤くしてそっぽを向いた可愛い女の子にしか見えなかった。 「今更ながら、恐ろしい奴と幼馴染をしていたんだな」  心からのセイメイの言葉に、カツヤは同感だと大きく頷いた。ただ幼馴染の話をしていても、二人はマリアナの名前を出さなかった。こうしてバカにしながら話をしていても、ヨシヒコが手の届く所にいないのが分かっていたのだ。ヨシヒコは自分達との関係に拘るのだろうが、もはや足を引っ張る存在にもなれないことを二人は分かっていたのだった。 Chapter 2  時々姿を消すと宣言したヨシヒコだったが、母校に顔を出した以外は総領主府に篭っていた。正確に言うのなら、下層階にある統合司令本部に顔を出していたのである。統合司令本部に顔を出したヨシヒコは、自分の意見を言うでもなく2つのグループの議論を見守っていた。  口を出さなくても、ヨシヒコの存在感はピカイチである。せめてテーマの一つでも出してくれればいいのだが、本当に議論の場に顔を出して黙って話を聞いているだけなのだ。初めの2日間はなんとか耐えた一同も、ついに3日めに悲鳴を上げる事になった。もちろん次期皇帝に対して、面と向かって文句などあろうはずがない。だからお願いをする役目を、満場一致でアセイリアが押し付けられた。 「私としては、クレスティノス三等子爵様が適任だと思うのですけど」  部下ですよねと決めつけたアセイリアに、いえいえとヨシヒコと同じ顔をしたカニエが首を振った。 「一等侯爵夫人のアセイリア様こそ適任かと思います。しかもアセイリア様は、テラノの代表でいらっしゃる。その上私などとは比べ物にならないほど、この銀河で存在感をお示しです。この中では、唯一ヨシヒコ様に意見が出来る方だと思っております」  屁理屈を付けて役目を打ち返され、「ですが」とアセイリアは言い返そうとした。だが全員にすがるような視線を向けられ、言い返しても意味が無いのだと理解させられた。こう言う時にチエコやイヨがいればいいのだが、やり直しのセンテニアルも終わったからと言って二人とも長期休暇に入っていた。ストレスが溜まったと言って、チエコなどはヒトシと一緒に海外旅行に出かける始末である。  時計を見れば、あと1分ほどでヨシヒコが現れる時間になる。よほど暇なのか、この2日間はピッタリと同じ時刻に現れてくれたのだ。  「そろそろだな」と誰かが呟いたその瞬間、軽やかな空気音を立てて統合司令本部の扉が開いた。気が進もうが進まなかろうが、相手は次の皇帝なのである。全員椅子から立ち上がって、現れたヨシヒコ達に敬意を示すため頭を下げた。 「ああ、俺に構わず議論を進めてくれればいい」  アズライトとアリアシアを連れたヨシヒコは、会議室の上座……議長席の所にどっかりと腰を下ろした。ちなみにもう一人の妻であるシオリは、クレスタ学校の一員と言う立場で議論に加わっていた。だったらヨシヒコにお願いする役目をしても良さそうなのだが、絶対に嫌だとアイオリア達の影に隠れていたという事情がある。  そして姿の見えないシルフィールは、ヨシヒコの命を受けて秘密研究を続けていた。  周りから向けられたすがるような視線に負けたアセイリアは、「ヨシヒコ様」と恐る恐る声を上げた。 「ああ、別に俺のことを気にする必要はないぞ。特に口を挟むつもりもないし、今の所議論の方向にも問題はないからな。だから俺に構わず、好きに議論してくれればいい」 「いえ、そう言う訳ではなくて……ですね」  さっさと言えと周りから目で責められたアセイリアは、しどろもどろになりながら「退屈では?」と婉曲的な問いかけをした。 「いや、別に?」 「そ、そうですか、はははははっそうですよね」  汗をダラダラと流すアセイリアに、おかしな奴とヨシヒコは首を傾げた。それから他のメンバーの顔を見て、ようやくアセイリアの言いたいことを理解した。要するに、自分は「邪魔な」存在と言うことなのだ。 「なるほど、俺は邪魔をしていたようだ」  悪かったなと立ち上がったヨシヒコに、「そう言う訳では」とアセイリアは口ごもりながら引き止めた。もちろん周りからは、「余計なことを言うな」と目で責められていた。ただこの場において、次の皇帝を「邪魔」と言って追い出すのはもっと問題が大きかった。  とは言え、ヨシヒコが微妙な空気を理解できないはずがない。「いいんだ」と言って立ち上がり、「行くか」とアズライトとアリアシアの顔を見た。 「それはいいのですが、シオリ姉様はどうされます?」  最年長と言うことで、シオリは「姉様」と呼ばれるのが確定したようだ。少しだけ顔から表情を消したシオリは、「ヨシヒコ様の思し召しに従います」と答えた。彼女の立場はクレスタ学校の一員であり、ヨシヒコの妻の一人でもあったのだ。顔から表情が少し消えたのは、未だに「お姉さま」と呼ばれるのに慣れていない……と言うか、受け入れられなかっただけのことだ。  そこで「好きにすればいい」と言いかけたヨシヒコだったが、それもまた突き放すようで問題だと気がついた。しかもシオリの立場を考えれば、「好きにしろ」では自分といる以外の選択肢は取りようがないのである。なるほど面倒な立場だと考えながら、「議論に加われ」と命じることにした。 「シオリなら、俺の代理の立場を勤められるだろう」 「それはそれで、結構なプレッシャーになるのですが……」  その余計な一言が、自分のためと言うのは理解していた。ただ理解はしていても、プレッシャーに感じてしまうのも仕方のないことだった。 「その代わりカニエ、何かあった時には影武者を頼むぞ」 「ヨシヒコ様は、これからどちらへ?」  すでに旧友との再会は果たしていたのだ。だとしたら、自分に影武者を任せる理由は消失しているはずだった。そして自分に影武者を任せる以上、それなりの時間姿を隠すことになる。それを把握するのは、影武者としては必要なことに違いない。 「なに、身分を隠して遊び回ってくるだけのことだ」  その中には、黄金町めぐりも含まれているのだろうか。一瞬そんなことを想像したアセイリアだったが、それを口にだすような真似はしなかった。 「それで、お戻りはいつ頃になりますか?」  影武者を務めるなら務めるで、心構えが必要になってくる。そのつもりで聞いたカニエに、ヨシヒコは少し考えてから「明日だな」と返した。 「明後日には、バルゴールからクランカン一等伯爵がヨコハマ入りするからな。その前には、帰ってくるつもりだ。遠路はるばるテラノまで旅してくるのだから、その冒険に応えてやるのも親切と言うものだろう」  そう言うことだと言い残し、ヨシヒコはアズライトとアリアシアの顔を見た。 「せっかくだから、温泉と言う所にでも行ってみるか。露天風呂付きの部屋をとれば、3人でのんびりすることも出来るだろう」 「温泉……ですか?」  もっとも皇室で生まれ育った二人が、「温泉」と言われても理解できるはずがない。「それは?」と不思議そうな顔で見られたヨシヒコは、「行ってみれば分かる」とそれ以上の答えを控えた。よくよく考えてみたら、彼女達に「広いお風呂」と言う説明は意味が無いことに気づいたのだ。温泉宿の大浴場にしたところで、彼女達の常識ならば「狭い」と言われる可能性すらあったのだ。 「とにかく、何もしないでのんびりとしに行こうと思ってる」  ヨシヒコの答えに、「それはいい」とアズライトとアリアシアは手を叩いて喜んだ。「何もしない」と言うことに、シオリですら羨ましいかなと思ったぐらいだ。ただ今更付いて行くとは言えないので、黙って見送ることにした。 「さて、後は宿だな」  セラと、自分のアバターを呼び出したヨシヒコは、近場の宿を探すように命じた。移動手段を選ばなければ、それこそ日本国外にも行くことは可能だろう。ただ距離に応じて移動のストレスも感じることになるので、ヨコハマからは近いイズ・ハコネから探すことにした。 「じゃあ、俺達は居なくなるから、後は自由にやってくれ」  必要な手配をした以上、これ以上統合司令本部に留まる理由はない。「じゃあな」と軽く言い残し、ヨシヒコは皇女二人を連れて部屋を出ていった。その途端部屋の空気が軽くなったのだが、それならそれで彼らにも気になることが有った。 「ヨシヒコ様、何か空気と言うのかな、雰囲気が変わった気がしない?」  身辺警備の手配は、カヌカとウルフの役目になっていた。どうせ振り切られることは分かっているし、ラルクのある皇族を傷つけられないのも分かっているが、それでも仕事を疎かにする訳にはいかない。必要な通達を回した所で、カヌカはここ数日でのヨシヒコの変化を口にした。 「ああ、それは俺達も感じていたことだ」  なあとアイオリアに見られたカスピは、茶色の短い髪を振りながら「そうそう」と頷いた。 「なにか、沈んだ……と言うのとはちょっと違うけど。ちょっとダウン傾向があるのかなぁって感じ」  それはどうと問われたシオリは、「それは……」と少し考える風に人差し指を顎に当てた。野暮ったかった姿も過去のもので、今は統合司令本部の中にもファンが増えていたりした。 「港総合高校でしたか、そこに行かれてから変わられたような気がしますね。アズライト様は、気にするようなことじゃないと仰っておられましたけど」  ですよねと顔を見られたアセイリアは、「どうして頼ります?」と小さくため息を吐いた。 「今は、シオリ様の方が身近におられると思うのですけど」 「ですが、ヨシヒコ様を一番ご存知なのは今でもアセイリア様だと思っています。アズライト様も、まだ敵わないと仰っておられますよ」  だからですと決めつけられると、中々否定しにくいところがある。ただ理解と言う意味では、シオリ達で無理な部分があるのはアセイリアも分かっていたのだ。そしてこの問題は、シオリ達には分からない類のものだった。 「ご友人と会われて、無くしたものを気づかれたのでしょうね」 「無くしたもの、ですか?」  確認してきたシオリに、「無くしたものです」とアセイリアは繰り返した。 「得られた物の大きさから考えれば、本当に小さな、そして取るに足らない物と傍からは見えてしまうものです。それが気の置けない友人との関係と言っても、理解は難しいでしょうね」 「ですが、ご友人と会われてきたのですよね?」  だとしたら、無くした物と言うのは違うのではないか。「理解が難しい」とアセイリアが言った通り、シオリにはその意味が理解できなかった。そしてその事情は、クレスタ学校のメンバーに共通したものだった。  一方統合司令本部のメンバーは、「そう言うことか」とアセイリアの説明に納得していた。確かに他人から見れば、取るに足らない小さな物に違いないのだろう。ただ友人との繋がりを大切にしていたヨシヒコにとっては、かけがえのないものを失ったことになる。いくら本人達が努力しようとも、皇帝と一般庶民の間で友人関係を継続するのは精神的に無理があったのだ。 「ええ、会ってしまったからこそ、無くした物が見えてきたと言うことです。地球の一庶民だったヨシヒコ様は、もうこの銀河にはお出でにならないのですからね」 「やはり、私には理解が出来ないのですが……」  この感情を、アズライトは理解しているのだろうか。そう考えた所で、シオリは付いて行くべきだったと自分の行動を後悔した。ただすぐに、それでは意味がなかったのだと考え直した。アセイリアに教えられて手がかりを得た今だから後悔しているのであり、何も知らずに付いて行くことに意味があるとは思えなかったのだ。 「ただ、人の感情と言う物が難しいものと言うのは理解できた気がします」  それに気づくことは、これからヨシヒコの后として従っていく上で大切なことになるのだろう。だからシオリは、それを教えてくれたアセイリアに感謝をしたのだった。  金に糸目さえ付けなければ、豪華な宿を確保するのは難しいことではない。ただそこに、「老舗」とかのオプションが着くと、お金だけで解決できない部分が出るのは仕方のないことだろう。そしてヨシヒコは、未だに自分の運を信用していないと言う事情があった。だから自分で探すのではなく、最終的に父親の強運を利用することにした。  そしてヒトシの強運は、未だ健在であるのが証明されることになった。中伊豆と呼ばれる地方にある、日本でも有数の名旅館の最上級の部屋を確保することが出来たのだ。代理店が、「なぜ空いていたのだろう」と疑問に思ったぐらいの偶然だった。  「居なくなるから」とジェノダイトに言い残し、3人は普通の交通機関を使って中伊豆までやってきていた。その時ヨシヒコにとって意外だったのは、アリアシアが問題を起こさなかったことだ。宇宙を飛び回る天災のアズライトと違って、一人で出歩くことは無いだろうとヨシヒコは思っていたのである。 「ヨシヒコは勘違いをしているようですけど、お姉様も十分問題児だったのですよ」 「それでも、アズライトには負けますけどね」  おほほと口元を隠して笑うアリアシアは、とても機嫌が良さそうに見えた。次の皇帝と二人の皇女は、あろうことか駅から無人タクシーを使って旅館までやってきていた。それを苦にしないことで、アリアシアが何をしてきたのか分かるような気がしてきた。  一泊二日なのだから、荷物と言っても大したものがあるはずがない。小さなポーチを持った3人は、中居に案内されて旅館の中へと入っていった。 「イヨ・マツモト様でございますね」  とても品のいい中居は、こちらにと言ってロビーのソファーに3人を座らせた。そして端末に宿泊情報を表示し、「こちらにサインを」と画面をヨシヒコに提示した。いいのかなと考えながらヨシヒコがサインをしていたら、別の中居が抹茶とお茶菓子を持って現れた。 「お部屋にご案内いたしますので、しばらくこちらでお待ち下さい」  3人の前に置かれたお茶菓子は、きれいな飾り付けがなされた生和菓子である。緑色の綺麗な抹茶と合わせて、とても素敵な色彩だと二人の皇女は感激していた。ただヨシヒコを真似て口にしてみたのだが、お味の方は見た目ほどお気に召してはくれなかったようだ。「甘いだけ」「苦すぎる」と言って二人は顔を顰めた。  それを気にした旅館の仲居に、「気にしなくていいですよ」と女の顔をしてヨシヒコは笑った。 「こう見えても、二人は地球の生まれではありませんからね。だから、和菓子とか抹茶とか初めての経験なんです」  ほほほと笑いながら、ヨシヒコはとても優雅にお菓子を楊枝で切って口に運んだ。ラフな格好をしていたが、本物の女性よりも女らしく見えたことだろう。  そうしている間に用意ができたのか、「マツモト様」と別の中居らしき落ち着いた女性が近づいてきた。ただそれは、どうやらヨシヒコの勘違いのようだった。 「当館で女将をしております」  優雅に頭を下げた女将は、こちらにと先導するように先を歩き始めた。 「こちらに、殿方と女性の方のお風呂がございます。露天風呂は、只今のお時間は殿方用になっております」  館内を案内するように、女将は「こちらに」と言って3人をエレベーターの方へと連れて行った。そして3人を先に中へと入れ、自分も入ると2Fのボタンを押した。リルケでは見ることのない設備に、アズライトとアリアシアは物珍しそうに女将の手元を見ていた。  すぐ人2階に着いたエレベーターから降り、「こちらに」と女将は3人を通路の奥へと案内した。ちょうど角部屋となる部屋は、この旅館で一番広い貴賓室扱いとなるスイートルームになっていた。 「お食事は、6時と言うことで宜しいでしょうか?」  アズライトとアリアシアが窓に張り付いて池の方を見ている所で、女将が夕食の時間を尋ねてきた。少し早いかなと迷ったヨシヒコに、女将は「8時から能舞台で能がありますよ」と早い夕食を勧める理由を教えてくれた。食事をしながらでも能を見ることは出来るが、折角なら食事も終わって落ち着いた所がいいだろうと言うのである。  なるほどそれがいいかと納得したヨシヒコは、「6時からで」と夕食の時間を決めた。時計を見れば、まだ3時を少し過ぎた所だ。夕食までには、まだまだ時間が十分に残されていた。 「それではごゆっくり」  女将が挨拶をして出ていった所で、皇女二人はだらしなくも畳の上に寝転がった。ヨシヒコの側から見ると、スカートの中がしっかりと覗ける格好である。もう少し恥じらいがと思いはしたが、今更無駄だとヨシヒコは押し入れを開けて浴衣を取り出した。 「二人の分は、もう少し華やかなものの方がいいか」  デフォルト状態でも悪くはないが、やはり二人には地味に思えてしまったのだ。だから一度下に降りて浴衣を選んだらと考えたのだが、皇女二人の悪ノリ状態は未だ続いていた。「二人」と口にしたヨシヒコに、「三人ですよね」と口を揃えて否定してくれたのだ。 「ああ、その方がいいのだろうな」  面倒を避けるために、姉の名前を使ったぐらいなのだ。それもあってヨシヒコは、ここにいる間は「女」でなければならなかった。ただ女湯に入る訳にはいかないので、お風呂だけは男に戻ることを考えていた。さもなければ、内湯か貸切風呂を使おうと考えていた。 「3人で浸かるには狭そうですね」  むくりと起き上がったアリアシアは、早速部屋の探検を始めてくれた。そして備え付けの半露天風呂を見つけ、「狭い」と文句を言った。 「まあ、内湯などそんなものだろうな。貸切風呂を使えば、もう少し広くなってくれるだろう」 「大浴場は?」  案内される時に、大浴場があると教えられたのだ。それを持ち出したアリアシアに、「皇女が庶民と同じ風呂にはいるのか?」とヨシヒコが聞き返した。 「庶民に、肌を晒すことになるのだぞ?」 「同性であれば問題無いと思いますよ」  ねえと同意を求められ、アズライトも「そうですね」と姉の言葉を認めた。だったら問題ないかと考えたヨシヒコだったが、別の意味で問題があることに気がついた。自分が入っていけないと言うのを忘れても、二人が温泉の入り方を知っているとは思えなかったのだ。もともと皇女と言うのは、世間知らずが服を着て歩いているような存在なのである。そんな二人を野放しにしたら、どれだけ旅館に迷惑をかけることだろう。 「一瞬大丈夫かと思いかけたのだが……お前たち、テラノの温泉への入り方を知らないだろう」 「何か、難しいことがあるのですか?」  驚いた顔をするアズライトに、「難しい……」とヨシヒコは少しだけ考えた。 「正確に言うなら、マナーと言った方が正確だな。気をつければ大したことではないのだが、何を気をつければいいかお前たちは分かっていないだろう」 「そう言うことですか」  なるほどと頷いたアズライトは、「アリエル」と自分のアバターを呼び出した。 「温泉の入り方のデーターはありますか?」 「流石に、データーベース化はされておりません。ですから、整理分類するためしばらくお待ちください」  頭を下げて消えようとしたアリエルを、「ちょっと待て」とヨシヒコは呼び止めた。そして自分のアバター「セラ」を呼び出し整理された情報のチェックをさせることにした。 「いいか、面倒を起こさせるなよ」 「ですが、女湯の入り方は私も知りませんよ」  困った顔をするセラに、「男と変わりはない」とヨシヒコは断言した。ただ断言しながらも、そこはかとなく悪い予感に囚われていた。 「まず、貸切風呂で練習してからにするか」  予約システムで貸切風呂の状況を確認したヨシヒコは、「行くか」と二人に声を掛けた。幸い貸切風呂は1階にあるので、3人用の浴衣を借りてから行くことも出来たのだ。こんな所に来てまで、冒険を犯す必要など無かったのだ。  ヨシヒコの指導のお陰で、貸切風呂は使用停止の被害を免れることとなった。そして見た目は綺麗だが異星人である皇女二人も、不思議な格好になるのは免れていた。その辺りは、ヨシヒコの多大な努力と、早めのヘルプが役に立ったといえるだろう。自分はなんとか格好を付けたヨシヒコだが、流石に皇女二人にまで手が回らなかったのだ。 「お役に立てて光栄ですよ」  異星人と言うのはばらしてあるので、その意味では女将も好意的だった。「お願いします」と言うヨシヒコに微笑むと、もう一人仲居を連れてきてアズライトとアリアシアに着付けをしてくれたのだ。おまけとでも言えばいいのか、二人の長い黒髪も浴衣に合わせて結い上げてくれた。下地がいいおかげで、匂い立つような美女二人が出来上がることになった。 「本当に、お美しいですね」  着付けの出来栄えは、女将にしても満足の行くものだったのだろう。何度も頷きながら、綺麗ですねと繰り返してくれた。そしてヨシヒコの耳元で、「データーに残していいでしょうか?」と尋ねたのである。 「もちろん、悪用するようなことはいたしませんので」 「まあ、二人共上機嫌ですから大丈夫だと思いますよ」  どうぞとデーター保存を許した所で、女将はキョトンとした目をヨシヒコに向けた。 「よろしければ、お三方のデーターを残したいと思っております。いかがでしょうか、ヨシヒコ様」  やはりばれていたのか。女将の言葉に、ヨシヒコは小さくため息を吐いた。 「ばれていたのですね?」 「アズライト様、アリアシア様をお連れでしたからね。そうでなければ、流石に気づくことは無かったかと思います。今でも、本当に殿方なのかと疑問に思っているぐらいです」  小声で答えた女将に、「このことは内密に」とヨシヒコは釘を差した。 「それはもう、宿の信用に関わることだと思っております。こんな所で申し上げることではないのですが、本日は当館をお選びくださり感謝申し上げます」 「確かに、ちょっと場違いではありますね」  苦笑したヨシヒコは、「ありがとうございます」と今の立場に応じたお礼を口にした。今は次の皇帝であるヨシヒコ・マツモトではなく、ただのイヨ・マツモトでしかないのだと。 「もったいないお言葉だと思っております。本日は、ごゆるりとおくつろぎいただければと思っております」  それではと頭を下げて、女将は貸切風呂を出ていった。それをため息一つ吐いて見送ったヨシヒコは、確かにばれるよなとアズライトとアリアシアを見た。あれだけマスメディアに顔が出ていたのだから、少しぐらいの変装など役に立つはずがないのだ。しかも立ち居振る舞いまで洗練されていれば、隠し通す方が難しいといえるだろう。そもそも人間観察は、客商売の基本でもあったのだ。  それから部屋に戻ったのだが、浴衣を着た二人は上機嫌のままだった。夕食前にせがまれるのかと警戒をしたのだが、どうやらそれは杞憂のようだった。広縁に置かれた椅子から外を眺めながら、「田舎ですね」と二人は感心したようにずれた感想を口にした。 「まあ、確かに田舎には違いないのだろうな。ちなみに、これは自然を活かした庭と言うものだ。花が咲き誇っている訳でも、立派な彫刻が置かれている訳でもないから地味に見えるのは仕方がないのだろう。そしてこの庭のポイントとなるのは、池の畔に作られた能舞台だろうな。夜の8時から、伝統芸能である能が行われるそうだ」 「能……ですか?」  そう言われても、能がどんなものか理解できるはずもない。そして能を口にしたヨシヒコにしても、実際に能を見たことはなかった。 「ああ、能だ。1000年ほど前から残っている芸能だそうだ。と言っても、俺も見たことがないから詳しいことは知らん」 「やはりテラノは、文化的に見るものがあると言うことですね。他のH種の惑星では、このように原始的な芸能は残っていませんからね」  原始的と言い切られ、原始的かぁとヨシヒコは思わず呟いてしまった。ただ分類的に考えれば、やはり原始的なのだと認めてしまった。 「原始的と言うのを悪い意味でとってはいけませんよ……悪い意味に聞こえます?」  お姉様と問われたアリアシアは、「受け取りようによっては」と笑った。 「各星系では失われてしまった古き良きものが残っている、程度の方が良いかもしれませんね」 「その程度の方が、無難なのだろうな」  アリアシアの言葉を認めた所で、入り口の方から「失礼します」と言う声が聞こえてきた。どうやら夕食の準備を始めるらしい。畳に座るのに不慣れだと思ってくれたのか、少し低めのテーブルと椅子まで用意されていた。 「本日は、狩野川で取れた鮎をメインにしてございます」  献立の書かれた巻物を見たヨシヒコは、ここも世界が違うなと感心していた。領主府のあるヨコハマでは、ついぞ食べることのない料理だったのだ。 「均質化……と言うのは、逆に退屈なものになると言うことか」  泊まったのは高級旅館ではあるが、貴族階級だけが使える宿ではなかった。ただランク的には、ただの庶民が使える価格設定にはされていない。宿の作りと働いている人の数と訓練具合を考えれば、それも当たり前だと納得させられるものだった。食事の質にしても、手の掛け方が違っていたのだ。 「固有の文化を残すだけじゃなく、どうやったら伸ばしていけるのか……か」  ダイナミックな変化を否定するつもりはないが、それでアリアシアの言う「古き良きもの」がなくなってしまっては元も子もない。変化と維持、それをどう両立していけば良いのか。遅れている地球だからこそ、その方法を示さなければいけないのだとヨシヒコは考えることにした。  振り切る真似をしなければ、自分達の行動をトレースするのは難しくはない。それぐらいのことは理解している事もあり、ヨシヒコは温泉旅行に際して「干渉無用」との指示を出していった。私人として行動するので、多少のトラブルが起きても口をだすなと言うのである。 「不埒な男どもが近づいてくるかと思ったのだが」  帰ってきて顔を出したヨシヒコに、ジェノダイトは開口一番「期待はずれだった」と口にした。 「どうやら、テラノの男どもは肝が座っていなかったようだな」 「まるで、俺たちがナンパされた方が良かったように聞こえるな」  ふんと笑ったヨシヒコは、「バレていたんだよ」と理由を口にした。 「だからこそ、期待はずれと言ったのだが。何しろテラノには、皇女殿下と知りながら、さんざん弄んだ鬼畜男と言う例が有るからな。今回も、それぐらいのことがあってもと思っただけだ」 「皇妃相手に肉体関係を続けるほど非常識では無いと言うことだ」  なるほどと小さく頷いたジェノダイトは、「命令は絶対なのだ」と言い返した。つまり責任はトリフェーンにあると言いたいらしい。 「クランカン一等伯爵は、無事アメリカ1に到着したようだ。ヨコハマ到着は、予定通り明日と言うことになるな」  どうやら、危ない話は軽い挨拶代わりのようなものらしい。アズライト達にまでバレた以上、ジェノダイトも開き直りができたのだろう。特に言い訳をする訳でもなく、あっさりと話を切り替えた。  クランカン一等伯爵の予定を教えられ、「そうか」とヨシヒコは簡潔に答えた。 「爺さんが来るまで、1日の猶予と言うことだな」  爺さんとダイオネア元一等侯爵のことを口にしたヨシヒコは、「ところで」とその爺さんへの対応をジェノダイトに尋ねた。 「わざわざ、トラブルを起こさせてやるのか?」 「バカ孫二人のことを言っているのかな?」  そう口にして、「まさか」とジェノダイトは肩をすくめた。 「帝国法では、旅行者は現地法に従うことになっている。従って、厳格にここの法律で対処するだけだ」  それほど親切ではないと言って、ジェノダイトは口元を歪めた。 「おいおい、そんな真似をしたらバルゴールに喧嘩を売られるぞ」  はっきりと笑ったヨシヒコに、「有りえませんな」とジェノダイトは即座に言い返した。 「現当主からは、なんのメッセージも受け取っておりません。私が便宜を図るのは、依頼を受けた一等伯爵だけなのです。遠く離れたテラノに来て、ただの、しかも元一等侯爵が売れるような喧嘩などどこにもないと言うことです。もっとも、ドワーブには用心のために艦隊を残していって貰いました。もっとも、ディオスクリアス程度ならグリゴンを頼らなくても無効化は難しくないと思っています」 「それは、極めて正しい認識だろうな」  ふふと笑ったヨシヒコは、「さすがは一等侯爵様だ」とジェノダイトのことを褒めた。 「いや、総領主を務めるだけのことはあると言うべきか、はたまた問題児の親友と褒めるべきか」  どうだろうと問われ、ジェノダイトは少しだけ目元を引きつらせた。 「あまり、褒められた気がしませんな」 「適材適所だったと関心しただけのことだ」  別に褒めても居ないと言い切ったヨシヒコは、「つまらんな」とジェノダイトの対応に文句を言った。 「喧嘩の一つぐらい、買ってやればいいのに」 「その場合、テラノの住民に被害が出ることになる。総領主として、それを許せるとお思いか?」  ぎょろりと目をむいたジェノダイトに、確かになとその言葉を認めた。 「自爆をするのは勝手だが、この街で騒ぎを起こされるのは迷惑だな」  ところでと、ヨシヒコは喧嘩を売られた時の対応をジェノダイトに聞くことにした。 「もしも喧嘩を売られたらどうするのだ?」 「それは、かなり愚問に類することかと思いますが?」  それでも聞くのかと問われ、ヨシヒコは「後学のためだ」と口元を歪めた。 「そうやって、私を試して遊ぶのですか」  困ったものだと吐き出したジェノダイトは、「そもそも喧嘩にならない」と初めの段階から否定をした。 「キャスバルは、そこまで愚か者では無いと言うことです。そして軌道城主達も、愚かな命令に従うことはないでしょう。ダイオネア氏のためならいざしらず、あの二人のために遠くテラノまで遠征するなど考えても居ないでしょうな」 「それが、現実であるのは認めてやろう。ただ、世の中にはボタンの掛け違えと言うものが存在する。そして敢えてことを荒立てたがる厄介な権力者も存在するんだ。ただバルゴールの事情だけで、何も起こらないと考えるのは甘すぎるのではないのか?」  間違いなど起きようがないと答えたジェノダイトだったが、アルハザーの関与を仄めかされた途端に急に自信が持てなくなってしまった。確かに人に掛ける迷惑をこの上なく好む彼なら、いかようにも理屈をつけて火種を大きくしてくれるのが想像できるのだ。しかもヨシヒコがテラノにいれば、余計に付け火をしてくれる可能性が高くなる。「厄介な」と頭を抱えたくなるのも、無理も無いことだろう。 「確かに、アルハザーならやりかねんな」  忌々しく答えるジェノダイトに、「だろう」とヨシヒコは笑いながら同意を求めた。 「もっとも、バルゴールは戦力を送り出した時点で積むことになるがな」 「君が、帝国法を超えての出兵を命令するからかね?」  その話は、すでにアンハイドライトから聞かされたものだった。確かにその手があるなと、ジェノダイトも認めた方法である。  だが次の皇帝の権限を使うと言うジェノダイトに、「その必要もない」とヨシヒコは返した。 「帝国法の範囲内でも、バルゴールが戦力を送った時点で蹴散らすのは可能だ。ただ攻め込むのであれば、帝国法を超越した方が楽だし、正攻法を使うと逆に混乱の芽を残すことになる」 「後学のために、その方法とやらを教えて貰えるかな?」  特にジェノダイトが気にしたのは、正攻法を使うことによる問題だった。そもそも正攻法が使えるのなら、今までザイゲルが試していたはずなのだ。 「今現在で、地球艦隊は8,000整備されていたな。帝国法に従えば、バルゴールは最大8,000の艦隊を派遣できることになる。さてその場合、バルゴールはどうやって地球まで艦隊を派遣する。具体的に言うのなら、どのルートを通ってと言う事になるのだが?」 「ルートか……」  うむと考えたジェノダイトは、銀河マップを目の前に持ち出した。 「当たり前だが、H種の星系だけを経由することは不可能と言うことか」 「従って、途中の星系が許可を出さない限り、バルゴールの艦隊は地球までたどり着けないことになる。それを強行すれば、ドンパチが途中で始まることになるな。ちなみに攻め込む際には同数と言う制限を受けるが、守る場合にはその制限は帝国法では行われていない。シレナの領域に足を踏み入れた途端、何十倍もの艦隊に袋叩きにされるだろうな」  確かに、帝国法では守る方はどれだけでも戦力をつぎ込むことが可能になっていた。そしてその場合の戦力は、借り物でも構わないとされていたのだ。 「同じことが、テラノにたどり着いても起きるということか。確かに、ザイゲル連邦は喜んで戦力を貸してくれるだろうよ」  ヨシヒコの言葉が正しければ、バルゴールはありったけの戦力を使っても地球を攻めることができないことになる。なるほどなと納得したジェノダイトは、逆に戦力を絞った場合を確認しようとした。ただ確認しようとしたが、意味のないことだと質問を思いとどまった。対地球であれば、技術差で少数でも蹂躙は可能なのだろう。だがザイゲルやシレナが加わった時点で、少数による侵攻は戦力の無駄遣いになる。しかも撃退された時点で、帝国中に恥を晒すことになる。 「ザイゲルやシレナは、テラノの支持に回っているからな。だからバルゴールは、武力に依る恫喝はできないことになると言うことか」 「ギガントまで含めれば、およそ75%と言う構成比になるからな。さすがのバルゴールでも、帝国全体を敵に回すことはできないだろう」  それが一つと、ヨシヒコはバルゴールが脅威でない理由を説明した。 「そして帝国法の範囲内でバルゴールを攻める方法だが……実は、この方法をゲービッヅさんも気づいていた。ただ、問題が大きすぎるので上申はしないと言っていたよ」 「ザイゲル連邦が、バルゴールを攻め落とす方法にたどり着いていた!」  驚いたジェノダイトに、「別に難しいことじゃない」とヨシヒコは言ってのけた。 「実は、交戦する必要すらないのだ。なに、ザイゲル連邦の保有する艦隊で、バルゴール宙域を封鎖してやればいい」  ヨシヒコの指摘に、ジェノダイトは「あっ」と声を上げてしまった。確かに派遣規模の制限は、相手の支配宙域に入るときだけだったのだ。その意味で、どれだけ数を集めたとしても、支配宙域外であれば連邦法の範囲内である。そしてこの方法が嫌らしいのは、取り囲まれた方は一瞬たりとも気を抜けないことだろう。 「なるほど、今までザイゲル連邦が思いつかないはずだ。奴らは、そんな気長な手段を考えるはずがない」 「ゲービッヅさんは、取り囲んでおいての連続侵攻を考えていたのだがな。議論の際に、侵攻する必要すらないと教えてやった」  確かに、波状攻撃を受ければバルゴールでも耐えきれるとは思えない。それでもジェノダイトが驚いたのは、ザイゲル連邦に居るゲービッヅが、その方法を封印したことだった。 「なぜゲービッヅ氏は、その方法を封印したのだね?」  そしてジェノダイトは、方法がある事自体が問題だと考えていた。だからこそ、封印した考え方を知りたいと思ったのである。 「実行しても、良いことは何もないからな。ゲービッヅさんは、ちゃんとそれを理解していたと言うことだ」 「だが、バーバレドズの奴らは良いことがあると思っているだろう」  バルゴールと境界線を接しているため、常に火薬庫を抱えているようなものだったのだ。そして歴史を振り返れば、バーバレドズは何度もバルゴールに攻め入っていた。 「それを知っているから、ゲービッヅさんは作戦を封印したのだが?」 「ちなみに、対処方法はあるのかね?」  もしもバーバレドズがその方法にたどり着いたら、その時がバルゴールの終わりの時となる。帝国の安定を考えた場合、その対策も必要だとジェノダイトは考えていた。 「それは、今の皇帝が頭を悩ませば済むだけのことだな。俺の代になったら、ゲービッヅさんに抑え込ませればいい。予め言っておくが、ザイゲル連邦は一枚岩なんかじゃない。連邦全体が同調しない限り、バーバレドズと同調する星系だけでは戦力不足でしかないんだ」  なるほどと、ジェノダイトはヨシヒコの説明に深く納得していた。そして少し口元を歪め、「つまり」と彼の顔を見た。 「存分に、おもちゃにできると言うことですな」 「おいおい、俺はそんなことを言ったつもりはないのだがな。ただバルゴールから離れたら、メリディアニ家の威光なんてものが通用しないことを口にしただけだぞ。もっとも、ジェノダイト様が、親切にも教えてやることは止めないがな」  同じように口元を歪めた姿は、可愛らしいだけに邪悪さが勝っているように見えた。なるほど皇帝向けの人材だと、改めてヨシヒコのことを見直したほどだ。 「それで、ダイオネア氏にはお会いになるつもりですか?」 「どうして、そんな面倒なことをしなくちゃいけないんだ? それに元ご当主様は、地球に来るのだからな」  だから相手をするのは、せいぜい総領主止まりと言うのである。やはり適度に性格がねじれていると、ジェノダイトはヨシヒコのことを評価したのである。  到着地点がアメリカ1になったのは、全て貧乏旅行が理由になっていた。目的地が総領主府のあるヨコハマならば、乗り継ぎを含めてアジア1の方が便利だったのだ。ただ便利な分だけ、費用がかさむと言う問題があった。その代わりアメリカ1の場合、降りてからも2度の乗り継ぎが必要になってくれる。 「なんとか、たどり着いたか……」  TOKYOシティに降り立ったクランカンは、そこからは公共交通機関を乗り継ぎ総領主府のあるヨコハマまでたどり着いた。アメリカ1に降り立ってから、およそ15時間ほど時間がかかってしまった。 「ここまでたどり着いた以上、総領主様へのご挨拶は必要だろう」  メリディアニ家ご当主様及び、バルゴール総領主様から連絡が入っているはずなので、面会自体は問題は無いはずだと思っていた。だが受付に面会を願い出ようとしたところで、自分が着の身着のままだったことに気づいてしまった。華美な服など持ってきていないのだが、それでも着替えてくるのが礼儀だと思い出したのである。それぐらい、自分の目から見ても着ている服はシワだらけだった。  出直すために、クランカンは受付エリアを出ることにした。だがくるりと受付に背中を向けた時、「クランカン様」と受付の女性に呼び止められてしまった。金色の髪に青い瞳をした、美しい女性が彼を見て立ち上がっていた。  呼び止められた以上、白を切って帰る訳にもいかない。失敗したとため息を付き、何でしょうかとクランカンは振り返った。そして自分に声を掛けた女性を見て、やはり美しいなと感動していた。 「私に、何か御用でしょうか?」  なんとか笑みを浮かべることに成功し、クランカンは近づいてきた女性を観察した。身長は低い方なのだろうが、体いっぱいから元気さが溢れ出ているような女性である。だから綺麗に見えたのかと、クランカンはバルゴールとは違うことを理解した。  近づいてきた女性は、フレイアだと名乗った。 「フレイア・ホメ・テラノ・アルケスト。アルケスト三等子爵家次女です。ジェノダイト様から、クランカン様の世話役を仰せつかりました」 「ジェノダイト様が、わざわざ私のために世話役を付けてくださったのですか」  驚いたクランカンに、フレイアは少し顔を赤らめ「はい」と答えた。 「その、これは私のためでもあるんです。地球……失礼しました、テラノ以外の方とお話をするのは、とても貴重な機会に違いないだろうと。希望者の中から、私を選んでくださいました」 「確かに、違う星系の者と知り合いになるのは、貴重な体験に違いありませんね」  穏やかな表情で答えるクランカンに、フレイアは先程より顔を赤くしていた。 「それでは、領主府の車でホテルまでお送りいたします」 「それは、ありがたいのですが……」  綺麗な女性に送って貰うのは嬉しいが、その先がこの地区一番の安宿なのだ。それを考えると、素直に喜ぶ訳にもいかなかった。だが目の前の女性を見ていると、断るのも失礼に思えてしまった。  そんなジレンマを覚えたクランカンに、「事情は伺っております」とフレイアは微笑んだ。 「事情を、ご存知と言うことですか……」  せっかくきれいな女性と知り合ったのに、こんなにも早く惨めなところを見せてしまうことになる。なんだかなぁと黄昏れたクランカンに、フレイアは「凄いのですね」と予想とは違う言葉を口にした。 「ヨシヒコ様から、もてなすようにとの指示が出されたそうです。ですから、統合司令本部でホテルを確保させていただきました。これからご案内するのは、私共の確保したホテルになります。それからですね、ジェノダイト様とのご面会の後、ヨシヒコ様が晩餐にご招待してくださるそうなんですよ」 「次の皇帝聖下がっ!」  綺麗な女性が世話役に付いた以上に、次の皇帝となるヨシヒコが自分を気遣ったことの方が驚きだった。大げさな仕草で驚いたクランカンに、フレイアは全身で「はい」と嬉しそうに答えた。 「軌道城を守る一等伯爵様は、バルゴールの守り神だと伺っております。本来星を離れない城主様が、わざわざ地球までおいでになられたのです。その意味を十分に理解せよと言うのが、ヨシヒコ様からのご命令です」 「ヨシヒコ様が、そのようなことを仰ってくださったのですか」  一等伯爵とは名ばかりの自分に、それだけの価値を見てくれたと言うのだ。フレイアの言葉に、クランカンは感動に打ち震えていた。 「お話を色々と伺いたいのですが、ジェノダイト様がお待ちになられています。ですので、ホテルにご案内いたします」  頭を下げたフレイアは、「こちらに」と別の出口にクランカンを案内した。そこで待ち構えていた車にクランカンを押し込み、自分もくっつくようにしてその隣に乗り込んできた。クランカンにしてみれば、生まれて初めて感じる女性の体温だった。 「フレイアさんは、バルゴールのことをどれぐらいご存知ですか?」  フレイアに女性を意識したクランカンは、常日頃持っている危機感に相応しい行動に出た。軌道城城主と言うのは、女性をより好みできる立場ではなかったのである。 「H種の中では、帝星を除けばもっとも技術に優れた星……とは伺っております」 「軌道城のことは?」  そちらが重要だと、クランカンは質問を畳み掛けた。 「バルゴールを守る要と伺っております。バルゴールの衛星軌道上に37存在し、それぞれが軍事拠点とされていると伺っています」  常識的なデーターとして、フレイアの言っていることに何一つ間違いはない。だが軌道城の実態は、カビ臭い軍事港でしかなかったのだ。そして城主と言えば聞こえは良いが、爵位だけが取り柄の召使でしか無かった。  だが細かな話に踏み込むには、移動の時間は短すぎた。ホテルの車寄せに滑り込んだ所で、「こちらです」とフレイアは先に車から降りていった。そしてそのままフロントを通らず、上層階へのエレベーターホールへと入っていった。 「お荷物は、後ほど回収して届けさせますのでご安心してください」  そこまで口にして、フレイアは「あっ」と口元を押さえた。 「長旅をされたのに、汗を流してお着替えがないと駄目でしたね。それでは、直ちにお荷物を手配致しますので、暫くお待ち下さい」  何度も頭を下げたフレイアは、「ロキ」と自分のアバターを呼び出した。ちょっといたずらっぽい表情をした、男の子のアバターが彼女の隣に現れた。 「クランカン様のお荷物を、大至急届けるように手配をしてください」  けっこう早口なのは、それだけ焦っているからだろうか。彼女が悪い訳ではないのにと思って見守っていたら、「配達済みです」とロキは答えてくれた。 「どうやら、アセイリア様のご指示があったようです」 「アセイリア様の」  そこで頬を染めたところを見ると、アセイリアと言うのは憧れの存在になっているようだ。ただクランカンにしてみれば、アセイリアにまで気を使われたことになる。出てくる名前の豪華さに、本当に良かったのかと思い始めていた。 「こちらのお部屋になります」  そう言って案内されたのは、最上階にあるスィートルームだった。きれいな調度品など、メリディアニ家本家にでもいかなければお目にかかれないものだろう。当然軌道城のねぐらには、こんな立派な調度品など揃えられていなかった。広さにしても、二等船室で旅をしてきたクランカンには、無駄に広いと思わせるものだった。当然ながら、軌道城にある彼の居室は、もっと狭くてみすぼらしいものだった。  思わず立ち止まったクランカンは、「いえ」と言い訳を口にした。 「軌道城と言うのは、もっと質素で暗くて……何か説明をしようとして恥ずかしくなってきました」  自分で口にして自分で落ち込むクランカンに、「まあ」とフレイアは驚いた顔をした。 「それも、存じております。実は、ヨシヒコ様におかしな夢は持つなと釘を差されているんです」 「おかしな、夢……でしょうか?」  はあっとため息を吐いたクランカンは、「名ばかりの一等伯爵です」と自嘲した。 「それも、存じ上げておりますよ」  そう言って笑ったフレイアは、「汗を流されては?」と準備を勧めた。そしてクランカンにとって、心臓に悪い言葉を口にしてくれた。 「お召し物は、私が用意をすれば宜しいでしょうか?」  ここに辿り着くまで、すでに1週間以上経過していた。それだけあれば、汚れ物が溜まることになる。それを見目麗しい女性に開かれるのは、流石に嫌だと思えてしまった。 「できれば、手を付けないでいただきたいのですが?」 「ですが、早くクリーニングなりに出した方が宜しいのかと。クランカン様が汗を流されている間に、汚れ物を出しておこうかと思ったのですが?」  ご迷惑でしたかとしおれられると、なぜか罪悪感が首をもたげてしまう。「そんな訳では」と言い訳をしたが、それでも嫌と言う気持ちは強かった。 「やはり、あなたのような麗しいお方に見られたくはないと思うのです」 「私が、美しい……ですか?」  ぱっと顔を明るくし、本当ですかとフレイアはクランカンに詰め寄った。ゆったりとしたブラウスを着ていたせいで、彼の視点からだと胸元が覗けてしまった。可愛らしい下着が見え、クランカンは思わず視線をそらしてしまった。  自分がはしたないことをしたと気づいたフレイアは、顔を赤くしてクランカンから離れた。首の当たりを右手で押さえているのは、見せてしまったことを意識したからにほかならない。 「すみません、はしたない真似をしてしまいました。その、美しいと言っていただいて舞い上がってしまいました」 「あなたは、美しいと思いますよ」  それは、クランカン本心に違いない。ただ自分の軌道城城主と言う立場を考えると、どうしても相手に対して臆病になってしまうのだ。しかも相手は、自分の置かれた状況を知っていると言う。 「その、とても光栄だと思っております」  ますます顔を赤くしたフレイアは、隣で待っていると告げて奥の部屋へと入っていった。その辺りは、一番広いスィートルームを確保したメリットだった。  それを同じように顔を赤くしたクランカンが見送ることで、ひとまずおかしな雰囲気は解消されたことになるのだろう。遠くから聞こえてきた「急がれた方が」と言う声に、クランカンは慌ててシャワールームへと入っていった。  お金の掛け方が違うと、文明レベルの違いなど簡単に覆すことが出来る。質素すぎてカビが生えたような軌道城とは、高級ホテルは作りが違っていた。これだけでも帰りたくないと思いながらシャワーを浴びたクランカンは、荷物の中から一張羅のスーツを引っ張り出した。  薄いベージュに紺色のシャツが合わされ、クランカンの顔をシャープに見せていた。ただ何度も着ていることもあり、いい加減くたびれかけている一張羅でもあった。鏡で見ると気が滅入るのだが、かと言って身だしなみを整える必要もある。プレスに掛けるべきだったと後悔しながら、クランカンは髪を整えていった。  およそ30分掛けて自分を磨いたクランカンは、「フレイアさん」と隣の部屋に声を掛けた。それから少し遅れて、領主府の制服から着替えたフレイアが現れた。 「着替えられたのですか? しかし、よく着替えがありましたね」  この部屋が自分のために用意されたのだと考えると、フレイアの着替えが用意されているとは思えない。それを考えれば、クランカンの疑問も正当なものだろう。  ただフレイアにしてみれば、案内するのに領主府の制服など以ての外だと考えていたのだ。ただ明るい色のワンピースと言うのは、クランカンに合わせようとしたわけではない。ただ暑いから涼しげな色でと、季節を考えたものだった。クリーム色の短めのワンピースに、白いストッキングと言うのは、初夏らしい出で立ちには違いないだろう。 「ええ、用意しておりましたの。ではクランカン様、ジェノダイト様の所へご案内いたします」  恭しく頭を下げられると、ワンピースの胸元が大きく開いてくれる。お陰で先程も目にした下着が、先程以上にはっきりと見えてくれた。傍から見れば、狙っているのかと言いたくなる無防備さでもある。  ただフレイアには、クランカンを誘惑すると言う意図は無かったようだ。先程に比べれば事務的に、彼を総領主府へと案内した。それでも車の中では、ピッタリと隣にくっついてはくれた。香水を変えたのか、芳しい香りがクランカンの鼻腔をくすぐっていた。これもまた、軌道城の中では経験の出来ないことだった。  領主府の受付を通れば、総領主室への直行エレベーターを利用することが出来る。「初めてなんです」とはにかむフレイアに照れながら、クランカンは案内されるままエレベーターへと乗り込んだ。そこで緊張から、ゴクリとつばを一度飲み込んだ。女性の色香に惑わされていては、遠くテラノまで旅してきたことが無駄になってしまうのだと。  自分は軌道城城主として、そして当主の代理としてテラノまでやってきたのだ。目を閉じて自分に言い聞かせた時、おもむろに目の前の扉が開き、明るい世界が彼の前に広がった。 「ようこそテラノへ。私がテラノ総領主、ジェノダイト・オム・テラノ・アシアナだ」  立ち上がってクランカンを迎えたのは、彼よりは拳一つ背の高い男だった。だがクランカンには、体格の違い以上にジェノダイトから迫力を感じていた。 「クランカン・オム・バルゴール・マズルカです。ご丁寧なご挨拶、痛み入ります」  深々と頭を下げたクランカンを見て、ジェノダイトはエスコートしてきたフレイアに「飲み物の用意を」と命じた。そして総領主自ら、クランカンをソファーの所へと案内した。そしてクランカンを座らせ、飲み物を用意しているフレイアの方を見た。 「彼女が、何か失礼な真似をしませんでしたか?」 「い、いえ、とても親切にしていただきました」  少しどもったクランカンに、「そうか」と答えてジェノダイトは息を漏らした。 「彼女がどうかしたのですか?」 「別に彼女がと言う訳ではないのだが。美形の一等伯爵が来ると教えたら、若いスタッフの一部が騒がしくなってしまったのだよ。是非とも自分がと10人ほど名乗り出てきて、その中で彼女がくじ引きで勝ち残ったと言うことだ。だから伯爵にご迷惑をおかけしなかったか、それが気になっただけのことなんだが」  ふっとジェノダイトが笑った所で、「それは言わない約束のはずです」と横から文句が聞こえてきた。当たり前だが、飲み物の用意にさほど手間取るはずがなかったのだ。 「クランカン様には、冷たい紅茶を用意いたしました。別のものがよろしければ、遠慮なくお申し付けください」  そう言ってフレイアは、きれいなカットの入ったグラスに紅茶を注いだ。透明な氷とグラスのカット、そこに赤い色をした紅茶が綺麗な色彩を作り出していた。  同じものを無造作にジェノダイトの前にも置いて、フレイアはどっかりとクランカンの隣に腰を下ろした。そのあからさまな態度に苦笑を浮かべ、「テラノはどうですか?」とクランカンに尋ねた。 「とても綺麗な星だと思います。昨日降りた南米……ですか、とても深い緑に覆われていましたね。自然が豊かと言うのが、第一印象となります。そして女性が美しいと言うのか、元気がいいと言うのか、バルゴールとの違いを感じさせていただきました」  なるほどと頷いたジェノダイトは、「まだ若い星ですからな」と元気の良さの理由を口にした。 「加えて言うのなら、センテニアルが終わったばかりと言うのも理由でしょうな。ぎりぎりまで隠したこともあり、次の皇帝聖下のお披露目で星全体がざわついていますよ」 「それも無理も無いことかと思います。それほどまでに、一庶民が帝位に着くと言うのはインパクトの大きな話です。かく言う私も、そうでなければテラノまで来ることはなかったでしょう」  真面目な顔で答える青年に、誠実なのだとジェノダイトは評価を下していた。だからバルゴールで生きにくいのか、わざわざ地球まで来た理由を想像した。 「こちらには、5日ほど滞在されると伺っていますが?」 「ですから、往復に掛かる時間の方が長くなってしまいました。ただ、時間を掛けても来る価値があったと思っています。叶うなら、アセイリア機関の方々とお話がしたいと思っております」  なるほどと頷いたジェノダイトは、「彼女に案内させましょう」とフレイアを見た。 「今なら、クレスタ学校のメンバーも揃っていますよ。その意味で、伯爵はよいタイミングでお出でになられたと言えるでしょう」 「クレスタ学校ですか。噂には聞いていますが、そうですか、こちらに来られていたのですね」  それは楽しみと喜んだクランカンに、ジェノダイトはヨシヒコに聞かされた話を思い出していた。ヨシヒコは、自分が皇帝になる影響をジェノダイトに話をしていたのだ。その中には、軌道城城主の見る「夢」も含まれていた。観光より議論を喜ぶのを見せられれば、若い軌道城城主の思いも理解できると言うものだ。 「ただ議論に入られるのは、明日からの方が宜しいでしょう。フレイア、ディナーまで君が伯爵を案内しなさい。ヨシヒコ様、アズライト様がおいでくださることになっている。そして私の代わりに、アンハイドライトとアセイリアがホストを務める。伯爵は、君がエスコートするように」  そうフレイアに命じたジェノダイトは、「ご迷惑でしたかな」とクランカンに尋ねた。見目麗しい女性とディナーを一緒にできるのだから、迷惑などと言えるはずがない。ただ問題は、パートナーが借り物で良いのかと言うことだった。 「いえ、私よりフレイアさんにご迷惑をおかけするのではないかと」 「その辺りは、先程教えた通りと言うことだ」  顔色一つ変えずに答えるジェノダイトに、「言わない約束です」とフレイアは繰り返した。ただクランカンから見える範囲は、これほどまでにと言いたくなるほど赤くなっていた。 「まあ、野暮なことを言うつもりはないが……夜になるまで、彼女に街を案内してもらうと良い。ちなみにここだけの話だが、黄金町を一度体験してみるのも良いかもしれないな」  黄金町と言えば、ヨシヒコとアズライトの出会いの地でもある。ただロマンティックさからは程遠い、健全と不健全の隙間にある施設で有名な場所だった。当然フレイアは、黄金町のことを知っている。だから少し声を荒げ、「ジェノダイト様」と文句を言った。 「そのような場所にお連れしたら、失礼に当たるかと思います」 「だが黄金町は、ヨシヒコ様とアズライト様が出会われた場所なのだぞ。そこでお二人がVXを共にされなければ、帝国は変革を迎えることはなかっただろう」  そう言われると、疑似性交行為のVXが神聖な物に聞こえるから不思議だ。ただ幾ら謂れがあろうと、VXはけして高尚なものではない。 「ヨシヒコ様の場合、例としてはあまりにも特殊すぎると思います。それに私とでは、クランカン伯爵に失礼になります」  そこで顔色を伺われると、どう答えて良いのかクランカンには分からなくなる。そもそも話題になっているVXがどのようなものなのか、残念ながらクランカンは知らなかったのだ。 「申し訳ないのですが、私はVXなるものがどのようなものか知らないのです」  大真面目に答えられても、説明に困ると言うのが正直な気持ちだった。それを説明しかけたフレイアは、ニヤつくジェノダイトのお陰で我に返ることが出来た。 「後ほど、お教えいたします」  顔を赤くして立ち上がったフレイアは、「ご案内します」とクランカンに頭を下げた。彼だけに首元から中が見えるよう、立ち位置には十分注意を払っていたのはお約束と言うものだろう。多少鈍感なクランカンでも、自分が誘惑されていることは理解できた。  ただクランカンが分からなかったのは、軌道城城主を誘惑する理由だった。事情を知っているのなら、絶対に嫁ぎ先に選ばれないと思っていたのだ。だから顔を赤くしながらも、なぜなのだと疑問を感じていた。ただ幾らクランカンが疑問に思おうと、積極的になったフレイアには関係のないことだった。「こちらにどうぞ」と腕を絡め、引っ張るようにして総領主室から退散していった。 「やはり若い娘の考えることは分からんな」  本当に良かったのか。本人の希望を優先しはしたが、それでもジェノダイトは疑問に感じてしまったのだ。  さすがにVXには連れ込まなかったが、その代わりフレイアは様々な所へクランカンを連れ回した。ファッション関係のブティックが多かったのは、彼女の趣味が理由なのだろう。本来男性には退屈なはずのウインドウショッピングなのだが、軌道城で暮らすクランカンには華やかな色彩が新鮮に写っていた。 「バルゴールの繁華街は知らないのですが……」  休憩にと入ったカフェで、二人は冷たい紅茶とケーキを選んでいた。ただクランカンにとって悲しいのは、支払いのすべてをフレイアがしたことだろう。「これも接待のうちです」と言われると、見栄すら張れない貧しい我が身が悲しくなってしまうのだ。 「リルケと比べても、とても華やかだと思いました。私の住んでいる軌道城とは、天と地ほどの差があるのかと思います」  明らかにフレイアは、自分を誘惑にかかっていたのだ。その相手に対して軌道城のことを持ち出すのは、ブレーキを踏むと言う意味になる。嫁探しをしているつもりで、自分から相手を遠ざけようとしていたのだ。 「ここは、商業地区ですからね。地味で沈んでいては、目的を果たせないと思いませんか。経済活動において、清貧と言うのは害悪と言うことです」  そう言いながら、フレイアはいちごの乗ったケーキを口に運んだ。甘いものが好きなのか、とても幸せそうな顔をしていた。 「甘いものがお好きなのですか?」 「ええ、ただ食べ過ぎると太ってしまうので、程々にしないといけないと思っています。家系を見ると、女が太りやすいようなんですよ。ですから姉も、毎日体重を気にしています」  恥ずかしいですねと笑ったフレイアは、それでもケーキを突くのをやめなかった。 「クランカン様は、甘いものは苦手でしたか?」  自分の趣味で、カフェに連れ込んでしまったのだ。それを気にしたフレイアに、「食べ慣れていないだけです」とクランカンは言い訳をした。 「美味しいとは思うのですが……このような贅沢をして良いのか、帰ってからが怖いと考えてしまうのです」  そう言いながら、クランカンはイチゴのケーキを口に運んだ。 「それに、こう言った食べ物は軌道城にはありません」 「何か、戒律のようなものがあるのですか?」  文明的には100年以上バルゴールの方が進んでいると言われていたのだ。そして一等伯爵ともなれば、自分の実家よりも遥かに格上となる。その一等伯爵が住まう城に、たかがケーキ一つ無いと言われたのだ。経済的な問題は聞いていたが、戒律でもなければありえない話だとフレイアは考えたのである。 「いえ、戒律と言う訳ではないのですが……そもそも、このようなものを作ると言う考えがなかった。そうご理解いただければ結構です」  言い訳をするように説明したクランカンは、どちらの文明が進んでいるのだろうと疑問に感じてしまった。確かに各所で使用されている技術を見ると、テラノと言う世界の文明が遅れているのは理解できるのだ。軍事技術に限って言えば、100年ではきかないほど差があるだろう。  だがこうして普段の生活を比べると、テラノの方が華やかで豊かだと思えてしまう。ただ行かなかっただけかもしれないが、リルケの学生街より華やかな気がしていた。 「別に、戒律とかがあるわけではないのですね」  ほっとした顔のフレイアに、「何か?」とクランカンは尋ね返した。 「い、いえ、ちょっと気になっただけです」  少し顔を赤くして、フレイアは残っていたいちごにフォークを突き刺した。そして少し店内に視線を彷徨わせてから、少しだけ勢い良くアイスティーを啜った。 「残り時間は3時間……ですね」  7時には、ホテルのレストランに入っている必要がある。それを考えると、残り時間は3時間を切っていた。フルアテンドする者の義務を、これから果たす必要があったのだ。 「そうですね、いよいよ次の皇帝聖下にお目通りすることになります」  ターゲットは同じでも、両者の間に問題意識は共有されていない。ヨシヒコと会うことを問題にしたクランカンに対して、フレイアの課題は面会時の身だしなみだった。最初にクランカンが気にした通り、晴れの席にはいささかみすぼらしいものになっていたのだ。  頭の中で時間を計算したフレイアは、当初の予定を一つキャンセルした。懐具合に問題はないのだが、喫緊の課題には時間が間に合わないのが確定していたのだ。だからこっそりとアバターを呼び出し、ホテルの方で貸衣装を手配することにした。 「では、準備がありますのでホテルに戻りましょうか」  テーブル脇のセンサーにIDをかざし、フレイアは少しせかせるように立ち上がった。 「もう、そんな時間なのですね。ですが、少し早すぎませんか?」  時間を確認したら、指定まで3時間ほど残っていたのだ。今いる場所からホテルまでの距離を計算すると、用意をするにも早いのでとクランカンは考えた。とは言え、会計も済ませた以上残っていることに意味がない。それにフレイアが必要と言うのだから、きっと必要なのだろうと考えることにした。  そんなクランカンの対応に、なるほど教育が必要なのだとフレイアはヨシヒコ達の忠告を理解した。およそ一等侯爵らしくないと言うのが、教えられた軌道城城主の実態だったのだ。  活躍のし甲斐がある。物凄く前向きなことを、フレイアは考えていたのだった。 Chapter 3  格下の三等子爵家の、しかも次女が一等伯爵様の行動に事細かく指示を出したのだ。相手が格上の一等伯爵様だと考えれば、フレイアのしたことは叱責されても仕方がないことだろう。それぐらいのことはフレイアも分かっていたが、ヨシヒコからの助言も有り「統合司令本部」と言う訳の分からない権威を利用し、最後まで主導権を握り続けることにした。  ホテルに連れて帰って2時間半、会食の約束まで残す所10分と言う所で、バルゴール一等伯爵様の飾り付けは完了した。ホテルのエステルームに押し込んで丹念なボディケアの後、衣装部に連れ込み夜会用の衣装合わせをしたのである。ごくうちわの会食と言う名目ではあるが、その場においてはクランカンが一番の格下となるのだ。ならば失礼の無いよう磨き上げると言うのは、場の目的からしてもおかしくないはずだった。  そしてクランカンを磨き上げる以上、自分もまた格好に気を使わなければいけなくなる。丹念なボディケアは諦め、ヘアサロンでのセッティングとフェイスケアに取り組むことにした。ただフレイアの場合は、ヘアサロンより先に衣装を選んでいた。紫色のイブニングドレスと言うのが、フレイアの選んだ衣装である。一方クランカン用には、男性の正装である燕尾服を選んでおいた。  これで本当に良いのかと気にするクランカンに、「正装が必要ですよね」との正論で押し切った結果である。相手の格好に関わらず、目下のものとして礼儀を尽くす必要があるのだと。  いささか緊張してレストランに入った二人は、同じく緊張したボーイに連れられ奥の個室へと案内された。最後に入るのはもってのほかと気をつけていたのだが、その気遣いはフランクな次の皇帝様の前では役に立ってくれなかった。ドアを開けた所でホストのアンハイドライト夫妻に迎えられた時には、奥のテーブルに次期皇帝とその后の姿があったのだ。 「おまたせするようなことをして、誠に申し訳ございませんでした」  慌てると、それだけで恥をかくことになる。なんとか気を落ち着けたクランカンは、腰を大きく折ってヨシヒコに頭を下げた。それに合わせてフレイアも頭を下げるものだから、傍から見れば夫婦に見えたことだろう。ただそれを気にするだけの余裕は、残念ながらクランカンには存在しなかった。 「アンハイドライト様、本日はお招きいただきありがとうございます」  ヨシヒコへの謝罪が終われば、次はホストへの挨拶になる。元皇太子相手とは言え、こちらの方が気分的にはまだ気楽なところがあった。 「いえいえ、クランカン伯のお時間を邪魔していないか。それが気になっていたんですよ」  にこやかな笑みを浮かべ、こちらにとアンハイドライトは二人を席へと案内した。場所からすれば、アンハイドライト夫婦の正面、ヨシヒコ達から見て右側となる席だった。  もう一度頭を下げて椅子に腰を下ろしたクランカンに、「一応文句を言っておく」とヨシヒコは笑いながら話の口火を切った。 「お前たちがめかしこんでくるから、こちらも合わせなくてはならなくなってしまった。お陰でアズライト達におもちゃにされてしまったのだぞ」  男性と言うことで、ヨシヒコもまた燕尾服を着ていたのだ。正直言って似合っていないのは、可愛い女の子が男装しているように見えるからだろうか。ドレスの方が似合うのにと、クランカン以外の4人は考えていた。ちなみにアズライトは、胸元の大きく開いた真紅のイブニングドレスを選んでいた。  この集まりの中では、クランカンとアンハイドライトが燕尾服に相応しい容姿をしていたのだろう。堂々と燕尾服を着こなした姿は、さすがは元皇太子と思わせるところがあった。そして隣に連れ添うアセイリアは、エメラルドグリーンのイブニングドレスを選んでいた。ただ胸元に自信がないので、露出は控えめなものになっていた。 「聖下にお目にかかるのに、格好一つ疎かにするわけには参りません」  緊張を隠さず頭を下げたクランカンに、まあ良いかとヨシヒコは許しを与えた。そして「任せる」と、後の差配をアンハイドライトへ振った。 「では、初めの乾杯だけヨシヒコ様には酒精のお付き合いを願うことに致しましょう」  アルハザーに酔い潰されたことも有り、ヨシヒコはアルコールに対してとても慎重になっていた。だからその場に立ち会ったアンハイドライトも、一応の用心をしたと言うことである。  「最高級の」と言うリクエストに従い、ソムリエはフランス地区の有名な発泡ワインを用意していた。もっとも最高級と言っても、庶民時代のヨシヒコには大した値段ではなかった。だがアセイリアにしてみれば、リストを見た時に気が遠くなるぐらいの値段をしていた。 「ここは、初々しい二人にとからかうところか?」  この中で一番立場の強い二人は、同時に一番の年下でもあった。その年下であるヨシヒコは、「からかう」と言って年長のクランカン達を初々しいと評したのである。いつの間に恋人同士にされたのか、異論はあっても相手は次の皇帝聖下なのだ。臣下としては、逆らうことなどあり得なかった。 「そうあればとは思っておりますが、残念ながら実態を伴っておりません」  それでもフレイアの名誉のために答えたクランカンだったが、ヨシヒコは別の意味で受け取ってくれた。 「なんだフレイア、まだ押し倒していなかったのか?」 「ヨシヒコ様、先に乾杯をしたいと思います」  否定も肯定もせずに、フレイアはグラスを持って乾杯を促した。 「それもそうだな。では、クランカン伯爵の冒険を讃えて」  讃えられるような冒険をしたのか。そもそも観光を冒険と受け取られたことに、クランカンは少し目元を引きつらせた。ただ、文句を言う事もできないので、ただ黙ってヨシヒコ達とグラスを合わせた。  清貧……はっきり言って貧しい生活をしているクランカンにとって、この晩餐は異世界と言っていい程華やかなものだった。乾杯に供された酒もグラスも、そしてテーブルの飾り付けから食器に至るまで、初めて目にするような豪華なものばかりだったのだ。そして酒自体も、普段口にする粗野な赤ぶどう酒とは一線を画する物だった。 「さて、無事乾杯もすんだのだが……クランカン一等伯爵、君は何をしにテラノまで来たのかな?」  この場のホストと言うことで、アンハイドライトがクランカンに話を振った。ただ話を振られるところまでは予想の範囲だったのだが、いきなり核心に触れられると言うのは予想外のことだった。  だが予想外とは言え、問われた以上答える責任がクランカンにはある。水で喉を湿らせたクランカンは、「お話します」と居住まいを正した。 「キャスバル様を中心に、私達軌道城城主は1ヶ月に1度の集まりを持っております。そこでバルゴールに関わる情勢を共有し、不測の事態に備えております。その集まりにおいて、今の皇帝聖下の布告が話題となりました。皇帝の座を辺境惑星の一庶民に譲ると言うのは、誰も想像すらしていないことだったのです。私共は、聖下の真意がどこにあるのか。そしてバルゴールにどのような影響を及ぼすことになるのか。それを話し合おうとしたのです。ですが私共は、次の皇帝となられるヨシヒコ様のことを何も知らなかったのです。私共が知っていたのは、テラノに生まれた庶民と言うことと、アズライト様が身ごもられた御子の父親と言うことだけです。テラノから生まれた、ザイゲル連邦をも巻き込む新しい流れ、そしてその立役者となられたヨシヒコ様と言う存在。聖下がお命を奪おうとされたのに、生きながらえたと言う強運の持ち主。そのすべてのキーワードに共通するのが、テラノと言う惑星でした。だからテラノに注目をしたのですが、私達はテラノのことすら何も知らないことに気付かされました」  言葉を切ったクランカンは、もう一度水に口をつけた。 「テラノと言う地は、相変わらず帝国の法によって保護されております。従って、公式の訪問がしにくい場所となっております。ですから、若輩者の無謀さで、私が観光を名目にテラノを見に来た……と言うのが、今回訪れた理由となります。可能であれば、アセイリア機関と呼ばれる方々とこれからの帝国について議論をしたいと思っておりました」 「そのあたりは、おおよそ予想の範囲と言うことか」  簡単なコメントを口にしたヨシヒコに、「恥ずかしながら」とクランカンは頭を下げた。 「だそうだ。責任は重大だな」  ヨシヒコに顔を見られたアセイリアは、小さく息を吐いて「重荷なんですけど」と弱音を吐いた。 「手伝って下さいませんか?」 「俺が居ると、議論がしにくいのだろう?」  先日のことをあげつらわれ、アセイリアは「そうですけど」と不満げに頬を膨らませた。 「これもそうなんですけど、何か慣れていないことばかりで」  綺麗に盛り付けられた前菜に手を伸ばし、「食べ慣れていないんです」と零してからぎこちない手つきで口まで運んだ。 「念願の玉の輿に乗ったのだ。これぐらいのことは、慣れるしか無いと思うのだがな? それにしたところで、いきなり皇帝を押し付けられることに比べればマシだろう」 「そうなんですけど……フレイアさんと違って、私もただの庶民でしたからね」  はあっと息を吐きだし、「良いですけど」と隣りに座る夫の顔を見た。 「多分、皇族になるのよりはずっと気楽だと思いますよ」  雰囲気を気にすることなく、アンハイドライトが前菜をつまんでいった。さすがは元皇太子と言うだけのことはあり、一つ一つの所作はとても洗練されていた。 「まあ、そう言うことだな」  少し口元を歪めたヨシヒコは、こちらも洗練された手つきで前菜をつまんでいった。元は同じ庶民なのに、どうしてこんなに違うのか。アセイリアは、そこに不条理なものを感じていた。 「それでクランカン伯、これまでで何か得るものはあったのかな?」  別の酒を注文したアンハイドライトは、話をクランカンへと引き戻した。 「そうですね、一言で言えば勢いの違いを感じさせられたと言う所でしょうか。フレイアさんもそうなのですが、皆さんとても明るく魅力的だと思っています。そのあたり、人の違いと言う所でしょうか。人の作り出す空気が、とても若々しく、そして元気だと感じさせていただきました」 「確かに、無駄に元気が良さそうだな」  そこでヨシヒコが視線を向けたのは、すました顔をして座っているフレイアである。ちなみにフレイアは、「後宮に入れてください」とヨシヒコに迫った実績があった。 「元気で、自己主張ができないと、三等子爵家の次女など埋もれてしまいます」  くいっと発泡酒を開け、フレイアはお代わりを注いでもらった。こちらは成人しているので、アルコール全般なんでも来いになっていた。 「だから、頑張って総領主府のスタッフになったんです」 「まあ、言っていることに間違いはないのだろうな」  確かにそうだと頷いたヨシヒコは、「他に目的はないのか?」と自らクランカンに尋ねた。 「すでに叶ってしまったのですが、聖下にお目通りできればと思っておりました。是非とも、お話を伺ってみたいと思っていたのです」 「まあ、張り切るのは理解はできるのだが……」  一等侯爵の命を受けて地球まで来たのだから、役目を果たすことに熱心になるのはおかしなことではない。だが軌道城城主として考えれば、他にもやることがあってはと思えるのだ。しかもクランカンは、帝国大学に通っていた実績がある。伯爵家の跡取り息子にとって、大学はただ単に学ぶだけの場所ではないはずだった。 「嫁探しとかはしなくて良いのか?」 「確かに、重要な問題ではあるのですが……」  少し口ごもったクランカンは、「同時に難しい問題です」と心情を吐き出した。 「御存知の通り、一等伯爵と言うのは名ばかりのものですから……」 「まあ、地球まで二等船室で来るようではな。ホテルにしても、もう少し考えろと言いたくなる場所だった」  貧乏旅行を指摘され、「恥ずかしいばかりです」とクランカンは身を縮こまらせた。 「そうだな、これでお前はバルゴールの恥を晒したことになるのを理解しているか? 俺に会いに来たと言うことは、それだけ注目をされると言う意味にもなるのだ。その注目を浴びたバルゴールの一等伯爵が、旅をするのに二等船室を選び、現地では安宿に泊まると言うのだぞ。帝国全土に向けて、バルゴールの一等伯爵は甲斐性なしだと宣伝したことになる。そしてメリディアニ家との関係を知るものなら、しみったれた真似をするメリディアニ家を嘲笑うことだろうよ。お前の選択は、主筋であるメリディアニ家の看板に泥を塗ったことにもなる」  指摘された事自体、何一つとして間違っては居ないのだろう。だがこの場で指摘されることにしては、やけに体面のことしか触れていないのだ。庶民から皇帝になったヨシヒコなら、もっと帝国の未来への話があると思っていただけに、クランカンはいささか期待はずれのものを感じていた。  だが体面を持ち出したヨシヒコは、「貧乏人」とばかにすることが目的ではない。体面を保つこともできない、バルゴールの問題を炙り出そうとしていた。 「アンハイドライト、一つの星系で一等伯爵が37家もあるのは普通なのか?」 「いえ、一等伯爵家ともなれば、星系を代表する名家になります。多くても……せいぜい10もないと思いますが。ちなみにテラノには、一等伯爵家は存在していませんね」  その意味では、地球においてクランカンの立場は極めて高いと言う事ができる。それを考えれば、ジェノダイトが時間を作ったのも、おかしなことではなかったのだ。この会食にした所で、アンハイドライト夫妻だけなら、開いて当然の歓迎と言う事になるはずだった。  だがバルゴールの一等伯爵であるクランカンには、その常識が備わっていなかった。そしてそれが、ヨシヒコが指摘するバルゴールの問題につながるものだった。 「酷い言い方、遠慮のない言い方をするのなら、軌道城城主と言うのは、金がないのを爵位でごまかすための処遇と言うことになる。何一つ爵位による恩恵もなく、ただメリディアニ家に責任を押し付けられこき使われる。それ自体は、無能な一等侯爵家に仕えた報いだろう。まあ自業自得とも言えるのだが、それに気づけ無いようなら見込みは無いと言ってやろう」 「聖下っ!」  主を無能と蔑まれ、ついクランカンは大声を出してしまった。 「話が主への無能のそしり、お取り消し願いたい」 「なぜ、取り消す必要があるのだ? 金が無いから、爵位でごまかして居るのだぞ。しかも、抜本的な対策を怠ってきたのだ。それでごまかされる方にも責任があるのだが、お前たちはもう少し頭を使ったらどうだ?」  次の皇帝に、「取り消すつもりはない」と言い切られた以上、それ以上はクランカンも無理を言う事はできない。だが腸が煮えくり返るような怒りが全身を包むのは止められなかった。  激情に耐えるように、両手は膝のあたりで固く握りしめらていた。その拳が小さく震えているのは、それだけクランカンの感じた屈辱が大きいと言う意味なのだろう。だがヨシヒコどころか、アセイリアまでクランカンの感情に気づいた様子を見せていなかった。 「クランカン様」  その中でただ一人、フレイアだけが彼の気持ちを慮っていた。小さく震える拳に自分の手を重ね、彼にだけ聞こえるようにその名前を繰り返したのである。ただ今のクランカンは、フレイアの心遣いに気づくだけの余裕はなかった。ただ顔を赤くして、屈辱に耐えるようにヨシヒコを睨みつけていた。 「ヨシヒコ様」  クランカンの膝に右手を置いたまま、フレイアはまっすぐにヨシヒコの目を見据えた。 「爵位を持つものは、何よりも一族の名誉を重んじます。歴史の浅い、しかもただの三等子爵家に生まれた私ですが、それでも一族のことを誇りに思っております。その誇りを踏みにじられれば、たとえヨシヒコ様でも許すことができないでしょう。その思いは、クランカン様も同じかと思います」  臆することなく、まっすぐに自分を見据える姿は美しさを感じさせた。たとえそれが演技だとしても、それはそれで価値のあるものだとヨシヒコはフレイアを評価した。ただ口から出たのは、評価とは正反対のバカにしたような言葉だった。 「なるほど、俺の前で這いつくばるだけのお前たちにも誇りはあると言うことか」  面白いと笑ったヨシヒコは、アズライトに目配せをして共に立ち上がった。 「誇りがあると言った以上、その誇りに見合うものを俺に示してみせろ。夢を見たとか閉塞感だとか、くだらん泣き言を俺の所に持ってくるな。フレイア・ホメ・テラノ・アルケスト。一度口から出たことは、二度と飲み込めないものと理解しろ。過去の栄光など、俺の治世では大きな意味を持たん!」  それだけだと言い残し、ヨシヒコはアズライトを連れて部屋から出ていった。その時クランカンは、アズライトから向けられた冷たい視線に、生きた心地がしなかったぐらいだ。  そして二人の姿が完全にレストランから消えたところで、クランカンは「フレイアさん」と大きな声を出した。あの場は我慢さえしていれば、不興を買うのは自分だけですんだはずなのだ。 「なぜ、あなたは私の味方をしたのです。そんな真似をすれば、聖下のご不興を買うのは分かっていたはずです。それに、責められるのは私でなければいけません。せっかくの場を、私はぶち壊してしまいました」  フレイアに迫った後、クランカンは床に手をついてアンハイドライトに謝った。そんなクランカンに、「それはそれとして」とアンハイドライトは「お腹が空きました」と緊張感のないことを口走ってくれた。しかもアセイリアまで、「ペコペコです」と同調する始末である。緊迫した状況を考えると、あり得ない二人の態度だった。 「お腹が空くと、怒りやすくなるのは宇宙共通だと思っています。ですから、細かなことを考える前に、お腹を膨らますことにしましょうか」  クランカンは気づいていなかったのだが、コースは前菜だけ出されて止まっていたのだ。お腹が空いたと繰り返したアセイリアは、止めていたコースの再開をアバター経由で指示を出した。  「しかし」と腰を浮かしたクランカンに、「時間を置くことも必要ですよ」とアセイリアは笑った。ちょうどそのタイミングで、二度目の前菜が運ばれてきた。最初の盛り合わせは、どうやらアミューズだったようだ。  赤ワインとともに前菜に手を付けたアセイリアは、「明日からですが」とクランカンに話を振った。 「私達は、ヨシヒコ様の治世がどのように帝国に及ぶべきか。それをテーマに議論をしています。クランカン様は、その議論に加わられるのですか?」 「可能ならば、お仲間に加えていただきたいと」  そう言って頭を下げたクランカンに、「本当に良いのですか?」とアセイリアは尋ね返した。 「議論に加わるなと言っている訳ではありませんよ。ですが、せっかく地球に来たのに、領主府に閉じこもっていて本当に良いのですか? 私は、議論だけでは見聞が広がると思っていません。グリゴンに行って感じたのは、目で見ることは頭だけで考えることよりも意味があると言うことです。自分の目で見て、耳で聞いて、そして自分の頭で考える。地球に勢いがあると感じられたのなら、その理由をご自身の目で確かめられてはいかがでしょうか。帝国に加わった時間だけを理由にすると、真の理由にたどり着けないのではと思いますよ」 「確かに、仰る通りなのでしょうが……」  とは言え、ただ見て回るだけで何かが掴めるとは思えない。その意味では、統合司令本部で行われている議論に加わるのも、その方法の一つであるのは間違いではないだろう。ただそれだけでは駄目だと、アセイリアは思っていた。 「でしたら、運命共同体と言うことでフレイアさんが案内差し上げたらどうでしょう?」 「なぜ、彼女が運命共同体になるのでしょうか?」  あくまでフレイアは、地球の子爵家の次女でしか無い。軌道城主たる自分の運命共同体になるとは考えても見なかったのだ。  そんなクランカンに、アセイリアはたった今しがた行われたやり取りを持ち出した。 「ヨシヒコ様から見れば、お二方は共犯なのですよ。誇りに見合うものを示してみせろと言うのは、クランカン様だけに向けられたものではないことをご理解くださいね」  それは、たった今自分がフレイアに迫ったことでもある。それを指摘され、「そうだった」とクランカンは頭を抱えた。自分の感情に、関係のない女性を巻き込んでしまったのだ。しかも次期皇帝の不興を買うと言う大罪まで犯させてしまった。 「私は、あなたを巻き込むつもりなど無かったのですが……」  今更後悔をしても、起きてしまったことはどうにもならない。頭を抱えるのも、現実逃避以上の意味を持たなかった。そして腹の座り方と言う意味では、遥かにフレイアの方が座っていた。 「たとえヨシヒコ様相手でも、必要なことは言わないと駄目だと思っています。その信条に従っただけですから、クランカン様が気にされるようなことではないのですが……」  そう答えたフレイアだったが、「たしかに困りましたね」とアセイリアの顔を見た。 「意地を見せるのは、私だけでもクランカン様だけでも駄目なのですよね?」 「そうですね。ヨシヒコ様に認めさせるには、一緒に示して見せないと駄目ですね」  そこでにやりと口元を歪めたのは、面白いことになったとの思いからだろうか。アセイリアの隣では、「よくやるよ」とアンハイドライトが呆れていたりした。 「もの凄いお節介に思えるのは、私の気のせいなのだろうか」  人をいじって遊んでくれるな。実の父を思い出し、アンハイドライトは改めて自分が器ではなかったのだと理解したのである。  会食の場を出たヨシヒコ達二人は、そのままボーイに案内されて別の個室へと入っていった。そこには、当然のようにアリアシアとシオリが待っていた。そしてなぜか巻き込まれたシルフィールも、一人顔色を悪くして座っていた。 「クランカン伯はいかがでしたか?」  立ち上がって主を迎えたアリアシアは、挨拶代わりに本来の主役であるクランカンのことを尋ねた。 「どうかと聞かれてもな……アズライト、お前はどう思った?」  いきなり話を振られたアズライトは、「そうですね」と少しだけ考えた。 「彼がメリディアニ家の跡取りでしたら、お姉様との縁談がまとまっていたと思いますよ」 「なんとも、微妙な評価と言う所だな」  妻の下した評価に苦笑を返し、「これからだな」とヨシヒコは評価を口にした。 「褒められるのは、二等船室を乗り継いででも地球に来たことだな。まあ統合司令本部の奴らと議論することは、今になっては当たり前すぎて評価にはならんだろう。多分だが、二等船室でも軌道城に比べれば環境は良かったのだろうよ」 「慣れれば、二等船室でも問題は無いと思いますよ」  アズライトこそ、身分を隠しての移動目的に二等船室の常連になっていたのだ。大部屋の三等船室でも良いと思ったアズライトにしてみれば、二等船室は気にする必要のない空間だった。ただ彼女の場合、そのあたりは専用船との比較が理由になっていた。巨大船一隻まるごとの彼女のために用意されたのだから、特等船室でもみすぼらしいものでしか無かったのだ。サービスレベルも落ちるのだから、二等と特等の違いはわずかな広さの違いでしか無かったのだ。 「それはそれで、皇女としては問題があると思うのだがな」  まあ良いと話を打ち切り、ヨシヒコは早速ディナーの続きを始めることにした。そして前菜が供された所で、「これからの予定だが」と話を切り出した。 「地球に長く留まる必要がないのは理解できた。だからダイオネア氏で遊んだら、リルケに帰ることにする。その時は、俺の家族をリルケに招待することになるのだろうな」 「お父様、お母様に私達の子供の顔を見てもらわないといけませんね」  それが良いと喜んだアズライトに、「それが一つ」とヨシヒコは指を立てた。 「カニエ達には自由にさせるつもりなのだが、シオリはどうする?」  シオリの場合、ヨシヒコの后とクレスタ学校の一員と言う二つの立場があった。ヨシヒコの問いは、彼らと行動をともにするのかと言うものだった。 「私が帰ったら、カニエ達の足はどうするのですか?」  気持ちはヨシヒコと一緒に帰る方にあったが、その場合はカニエ達の足が問題となる。それを気にしたシオリに、どうしてと言う目をヨシヒコはした。 「そんなもの、ティアマト家に用意させればいいだろう」 「確かに彼女は、ティアマト家の次期当主でしたね」  なるほどと頷いたシオリは、「ヨシヒコ様と共に」と自分の希望を口にした。それに頷いたヨシヒコは、妻達の考えとは違ったことを口にした。 「だったら、一度グリゴンに寄ってからリルケに帰るか」 「どうして、グリゴンに寄るのですか? ドワーブも、さすがに迷惑に思うのではないの?」  頻繁に皇族に来られると、その対応に謀殺されることになる。アズライトはそれを、「迷惑」と評したのである。 「せっかくだから、クランカン伯にグリゴンを見せてやろうと思ったのだ」 「そうやって、バルゴールを刺激しますか……いえ、刺激するのはバーバレドズですね。まさかヨシヒコ様は、グリゴンに送らせようと思っていませんか?」  ため息混じりのアリアシアに、「それも良いな」とヨシヒコは笑った。 「まあ、時期尚早なのは認めよう。なので、俺達と一緒にリルケまで行き、そこから先は……まあ、フレイアが泣きついてくるだろうな」  その話を聞く限り、フレイアはクランカンについてバルゴールまで行くことが決まっているようだ。お節介と言えば良いのか、明らかに人をおもちゃにして遊んでいるとしか思えなかった。 「それでヨシヒコは、バルゴールをどうするつもりですか?」 「私は、クランカンをスタッフに迎えるのかと思っていました」  アズライトとアリアシアの問いに、「初めはな」とヨシヒコはスタッフの話を肯定した。 「見どころがありそうなら、バルゴールから取り上げてやろうかと思っていた。ただ、それよりも面白いことになりそうだから、おとなしく返してやろうかと思っている」 「その面白いことが、フレイアなんですか?」  ただ親切に、クランカンに嫁を紹介しようとしているのではない。フレイアを送り込むことで、軌道城の城主達にさらに揺さぶりを掛けようと言うのだ。そしてその揺さぶりに対して、メリディアニ家本体も無関係ではいられないはずだ。そのための策を、ヨシヒコがフレイアに吹き込んでいたのを全員が知っていた。 「ああ、こう言ったことは元気のいい奴が適任だしな。メリディアニ家の爺さんとは関係のない所で、バルゴールを変えてやるのも面白いだろう」 「ですが、それだと跡取り問題は残ったままですよね」  メリディアニ家にとって、跡取り問題はずっと頭を悩ませていた問題のはずだ。折角揺さぶるのなら、クランカンをリーリスの婿にした方が面白そうだとアズライトは考えていた。 「クランカンをリーリスの婿にしても、軌道城城主の問題は解決しないからな。火種は、早いうちに消しておいた方がいいだろう。最終的には、軌道城城主の自立にまで持っていこうと思っている」  その方が面白いし、目的にも合致するものになる。ヨシヒコの答えに、皇女二人は大きく息を吐き出した。 「火種を消すと言う割に、もっと大きな火種を用意していませんか?」 「バルゴールが大騒ぎになるのが見えるようです」  さすがは性悪の皇帝から、次期皇帝として指名されるだけのことはある。もう一度ため息を吐きあった二人は、「面白そうですね」と皇女に相応しい発言をした。 「ですが、フレイア程度で掻き回せますか?」 「姉さんが言うには、結構優秀だそうだ。しかも、かなり計算高い所もあると言う話だ」  多分大丈夫だろうと、ヨシヒコはとても頼りない保証をした。 「それに、歴史的にはかなり古い家のようだからな。結構どろどろとした世界も経験しているそうだ」 「それで、もしもバルゴールが変わったら」  メインディッシュの魚を口に運び、アズライトは何かを考えるように咀嚼をした。 「役立たずの総領主も更迭ですね。地方惑星の三等子爵家次女以下のことしか出来ないのですからね」 「本人は、きっと喜ぶだろうな」  調べてみたら、バルゴール赴任は罰ゲームとされていたのだ。その任から解かれるのであれば、きっと躍り上がって喜んでくれることだろう。 「ところでヨシヒコ様、メリディアニ家の問題児達はどうするのですか?」  仕掛けの方が分かったのなら、興味はもう一つのお騒がせの方となる。バルゴールに関係の深かったアリアシアは、好きにさせるつもりかとヨシヒコに尋ねた。 「それは、俺の領分ではないのだがな。ジェノダイト様は、何かしでかしたら牢屋にぶち込んでやると言っていたな。長男の方は、取り巻きと一緒に牢屋で過ごすことになるのだろうな」 「お祖父様が、大人しくしていますでしょうか?」  黒い物を白だと言い切る力が、メリディアニ家は持っていた。それを気にしたアリアシアに、大したものじゃないとヨシヒコは切って捨てた。 「爺さんが文句を言ったとしても、法を盾にジェノダイト様は突っぱねるよ。それでも文句を言おうものなら、逆に軽蔑されるのが落ちだろう。バルゴールの爺さんに、ジェノダイト様と争う力は無いよ」 「そこまで、おじ様は強気に出られるのですか?」  バルゴールと地球。国力を比べたら、圧倒的にバルゴールが上回っているのだ。軍事的な面で言えば、バルゴールは帝国に継ぐ強者でもある。力を嵩に譲歩を迫られれば、ジェノダイトと言えど譲ることもあるとアリアシアは考えていた。 「ああ、強気に出られるだろうな。何しろ、バルゴールは少しも怖くないからな」 「ヨシヒコ様が、ザイゲルに命令を出すからですか?」  ここに来る途中で、その話はすでに聞かされていたのだ。だからその方法を取ると考えたアリアシアに、「その必要もないぐらいだ」とヨシヒコは答えた。 「そんな真似をしなくても、バルゴールはただの1隻も地球に派遣することは出来ないだろう」 「ヨシヒコ様がそう仰るのならそうなのでしょうね。それに、キャスバルのおじさまが愚かな真似をするとは思えませんね」  口直しのシャーベットを口に運びながら、「美味しいですね」とアリアシアはアズライトの顔を見た。 「ええ、食べ物に関して言えば、リルケと変わらないと思っています」 「バルゴールよりも、食べ物に関して言えば上だと思いますよ。でも、こんな贅沢を軌道城城主にさせて良いのかしら? クランカン、城に戻るのが苦痛になるのではないでしょうか?」  城に帰れば、質素極まりない、そして少しも美味しくない食事が待っているのだ。それを陰鬱な空気の中で食べるのだから、さらに無味乾燥なものになってくれるだろう。 「その辺りは、フレイアがなんとかするだろう」 「そこまで期待して良いものなのでしょうか?」  金色の髪をした女性を思い出し、「可哀想に」とアリアシアはフレイアに同情した。後宮に入りたいと売り込んできたと聞かされた時には、入れてあげてもいいのにと思ったぐらいだ。とにかく数を揃えなければと、アリアシアは考えていた。 「彼女は、お気に召さなかったと言うことですか?」  ヨシヒコが断った理由を趣味に持ってきたアリアシアに、「前提が違っている」と答えた。 「前々から言っているが、俺は後宮を持ちたいと思ったことはないのだぞ」 「何度も申し上げていますが、ヨシヒコ様は大勢の子供を設ける必要があります。そのためには、各星系から最低一人は後宮に迎えていただかないと。私達の負担も考えていただきたいと思います」  そうですよねと、アリアシアはアズライトではなくシオリに同意を求めた。その辺り、同じ立場と言うのが理由になっているのだろう。 「そうですね。ただ取り分が減るのも気に入りませんが……」  後宮に入る者が増えると、それだけ自分の順番が回ってこないことになる。それも嫌だと答えたシオリに、それもそうだとアリアシアは頷いた。 「さすがはシオリ姉様ですね。確かに、むやみに数を増やすものではありませんね」 「理解してくれて嬉しいよ」  これで後宮の話からは離れられる。ただその考えは、少し甘かったと言えるだろう。今まで黙っていたアズライトが、テラノはどうするのかと聞いてきた。 「個人的には気に入りませんが、テラノから一人ぐらいは迎えた方が良いと思います」 「そんなことを言われてもな……」  逃げられたと喜んだのもつかの間、アズライトは話を蒸し返してくれた。 「あてもないし、迎えようと言う気もないのだがな」 「セラムさんに立場があれば、後宮に入れてあげても良かったのに……」  さり気なく昔の恋人を持ち出され、ヨシヒコは「あうっ」と少しだけ狼狽えた。 「アズライト、セラムさんと言うのはどう言う方ですか?」  初めて聞く女性の名に、アリアシアとシオリは興味津々といった顔で近づいてきた。 「ヨシヒコの昔の恋人です。もしも私と出会わなければ、ヨシヒコはその人と結婚していたと思います。私より一つ年下の、とてもかわいらしい人ですよ。そうですよね?」 「ああ、有ったかもしれない未来だな」  動揺して堪るものか。ヨシヒコは平静を装いアズライトに答えた。 「つまり、テラノの庶民と言うことですね。あら、本当に可愛らしい人ですね」  アズライトの所に有ったデーターを、親切にもアリアシアとシオリに共有したようだ。 「アズライト、あなたは本当に酷いことをしたのですね」 「ですが、お陰で私達は理想の男性に巡り会えたわけですから」  その意味では、アズライトのおかげと言うことも出来る。下手をしたら、アリアシアは一人公爵家を作っていた可能性もあったのだ。ヨシヒコとアズライトの立場が入れ替わっていなければ、それは現実のものとして彼女に突きつけられていたのだ。  その点で比べれば、まだシオリの方がマシだっただろう。偶然の出会いがなければ、彼女は兄の友人に嫁ぐことになっていたのだ。いずれにしても、二人は今の状態を好ましいと思っていることになる。 「ところで、明日から出発までどうしますか?」  目的だった軌道城城主の顔を見ることができたのだ。そうなると、地球でやり残したこともなくなっている。その軌道城城主を連れて地球を離れると言うのなら、そこまで時間を潰す必要が生じてしまう。 「一つの案としては、旅行中の両親に合流することだな。そしてそのまま、リルケに連れて行ってやる」 「だとしたら、お姉様も巻き込まないといけませんね」  センテニアル後のパーティーでは、イヨも招待することになっていたのだ。それをアズライトに指摘され、確かにそうだとヨシヒコは姉のことを考えた。 「姉さんは……一人温泉旅の最中か」  グルメだ温泉だと言っていたのを思い出したヨシヒコは、「攫っていくか」と過激なことを口にした。 「その方が、面倒が少なくていいのは分かりますけど……」  珍しく乗ってこなかったアズライトは、「普通にご招待した方が」と姉の顔を見て答えた。 「私に、メッセンジャーをさせようと思っていませんか?」  ニコリと笑ったアリアシアだったが、微妙にその目元が引きつっていた。その問いに、「違います」とアズライトは首を横に振った。 「お姉さまにではなく、お姉さま達にです」  つまり、シオリも迎えに行けと言うのだ。両親と合流するとは言え、ヨシヒコとの二人旅を楽しみたいと言うことだろう。 「ヨシヒコ様も、そうお考えですか?」  どうして姉妹の話に巻き込んでくれる。やめて欲しいと嘆きながら、ヨシヒコはアズライトの希望を尊重することにした。 「アズライトの言うことも尤もだとは思うがな。俺たち5人が合流したら、父さん達も窮屈に感じることだろうな。だったら、姉さんにも分けてあげるのが親切と言うものだろう」 「イヨ様のことはよく存じ上げていないのですが……」  実を言うと、その事情はアズライトも大差は無かった。ただ文句を言っても仕方がないと、アリアシアは大人しくイヨを迎えに行くことにした。 「ではシオリ姉様、私達は女同士で盛り上がりましょう」 「盛り上がれる……のでしょうか?」  そのあたりは疑問だと思いはしたが、裁定がくだされた以上従わざるを得ないのも確かだ。ならば少しでも前向きになった方が、身のために違いなかった。 「そのあたりは、さあとしか言い様がないのだが……セラ」  話がまとまれば、後は必要な手配をすれば良いことになる。アバターを呼び出したヨシヒコは、宿と足の手配を命じたのである。 「後は、ジェノダイト様とカニエ達にスケジュールを教えてやればいいだろう」 「フレイアにも教えてあげないといけませんよ」  今回の仕掛けに関して言えば、彼女は重要な登場人物になっていたのだ。それを指摘されたヨシヒコは、確かにそうだと連絡リストにフレイアを追加したのである。  ちなみに全く話の出なかったシルフィールは、隅っこの方で黙々と食事を済ませていた。本当なら美味しいはずのフルコースなのだが、環境のせいで味が全く感じられなかった。しかも胃がシクシクと痛んでくれるので、何度もバルディッシュを起動したぐらいだ。放っておいてくれればいいのに、シオリが彼女を逃してくれなかったのだ。 「ところでシルフィール、お前はどっちに合流したい?」  これで解放されるのかとホッとしたら、最後にヨシヒコから悪魔の選択を突きつけられてしまった。どちらもごめんと言うのが本音なのだが、これでどちらかと一緒に行かなければならなくなってしまったのだ。  そこでシルフィールは、どちらがマシなのかを真剣に考えることにした。アズライトに睨まれるのと、シオリに構われるのを比較したシルフィールは、忘れていたとマツモト親子のことを思い出した。そしてチエコよりはと、イヨが居る方を選ぶことにした。 「どちらかと言えば、イヨ様と合流する方が……」  そうすればアズライトに対して角が立たないし、気持ちも多少楽になってくれるだろう。 「つまり、ヨシヒコとは離れたいと言うのですね」  その方が良いくせに、どうして波風を立ててくれるのだ。口元を歪めたアズライトに、やはり皇女は性悪だと言うのを改めて教えられた気持ちになっていた。  どうして一人にしておいてくれないのか。アリアシア達の襲撃を受けたイヨは、「勘弁してください」と真剣に二人に向かって懇願していた。そこでなぜ二人かと言うと、一応シルフィールの事情を理解していたからに他ならない。その意味で、シルフィールの選択は正しかったことになる。 「どうしてと言われましても、ヨシヒコ様のご指示ですから」  そうですよねと顔を見られたシオリは、「お姉さまをご招待するようにと申しつかってきました」とイヨとしては勘弁して欲しいことを口にしてくれた。 「私にも、リルケに同行しろと言うのですか?」  これがヨシヒコなら文句も言えるが、相手が皇女様だと文句も言えなくなってしまう。そのあたりは、ヨシヒコが狡猾だったと言うことだ。 「そうですね。ヨシヒコ様のお姉さまを、お父様にも紹介したいと思っているんですよ」  これで現皇帝への接見も決定してしまった。ただの庶民なのにと言う嘆きは、弟のせいで通用しなくなってしまった。 「イヨ様を紹介して欲しいと言う殿方も、大勢おいでになると思いますよ」 「みなさん、爵位をお持ちの方ばかりなんですよね……」  アリアシアの知己に、ただの庶民が居るはずがない。そう考えると、相手は公爵・侯爵ばかりとなるのだろう。それもまた頭が痛いと、イヨは自分の運命を嘆いていた。 「そうですね。シオリ姉様の方ではいかがですか?」 「私の兄は、残念なことに結婚したばかりです。さすがに離婚をさせる訳にも参りませんので、縁がなかったと言うことなのでしょう。そう言う意味では、ご紹介できる殿方がおいでになりませんね」  残念ですと嘆かれると、やはり気が重くなってしまうのだ。ただの庶民で、軍でも准尉止まりの自分がどうしてこうなった。ハードルを上げまくってくれた優しい弟のことを恨みたくなったぐらいだ。 「ですが、イヨ様なら良いお方がおいでではないのですか?」  質問としてはまっとうなのだが、イヨにしてみればぐさりと胸に突き刺さる質問でもあった。いい相手が居るのなら、温泉一人旅などしているはずがない。 「そうですね、イヨ様はお美しいですからね」  追い打ちをかけたシオリの言葉に、イヨはさらに胸をえぐられた気持ちになっていた。美貌で有名な第一皇女と、すっかり垢抜けた三等侯爵家令嬢に「美しい」と言われても嫌味にしか聞こえないのだ。 「イヨ様のご招待もすみましたし、温泉に入って羽根を伸ばしませんか?」 「そうですね。温泉の作法も教えていただきましたし」  アズライトが居ないおかげで、シオリはすっかりくつろいでいた。アリアシアとの関係は、同じ後宮に入る者同士と言うことでうまくいっていたのだ。 「皇女様を大浴場に入れるの……」  そんな不遜なことをして良いのか。イヨは、慌てて家族風呂の手配を確認したのである。  イヨがアリアシア達の襲撃を受けた少し後、ヨシヒコとアズライトはモナコでヒトシ達に合流していた。息子とその嫁だと考えれば、親としては喜ぶべきことには違いないだろう。ただ息子の嫁の、「第二皇女」と言う肩書が邪魔なだけだった。もちろん息子の、「次期皇帝」と言う肩書は忘れることにしていた。 「せっかく、接待攻勢が終わったと思っていたのに」  チエコがヨーロッパに来ると聞きつけた軍需産業の面々が、我先にとコンタクトを求めてきたのだ。そのあたりは、未だLM社の事件が尾を引いていた。しかも息子が次の皇帝になることが知れ渡ったため、それ以外の大企業まで面会を求めてきたのである。  その攻勢が一段落したと思ったら、今度は息子夫婦の来襲である。表沙汰になっていないから良いようなものの、バレたら今まで以上の騒ぎになるのが目に見えていた。ちなみに接待攻勢のせいで、宿泊ホテルは最高級の物に勝手に変えられていた。 「副領主からの招待は無かったのか?」 「招待は良いから、交通整理をして欲しいと頼んだわよ。と言うことで、夕食を一回招待されただけね」  交通整理を任されれば、自分のスケジュールを割り込ませるのは当たり前だろう。それも気が重いと思いはしたが、収拾がつかなくなるよりマシと副領主にすべて任せたと言う事情があった。 「それでヨシヒコ、どうしてもリルケに行かなくちゃだめ?」  孫の顔は見たいのだが、それについてくるオプションが重かったのだ。親として現皇帝と語り明かすなど、どう考えても無理だと思っていた。 「父さんと母さんには、俺達の子供の顔を見て貰いたいんだ」 「子供を連れて里帰りをしろと言うのは、無理な相談なんでしょうね……」  相手の立場を考えれば、それだけで大変な騒ぎになるのが目に見えていたのだ。どちらが落ち着いた環境にいられるかと考えたら、リルケの方がマシに思えてしまった。 「ヒトシさん、諦めた方が良いのかしら?」 「いつまでも避けては通れないだろう」  いささか特殊過ぎるとは言え、自分達の子供のことなのだ。しかも孫の顔を見ると言うイベントは、親としては避けては通れないものだった。 「ではお義父様、お義母様の了解が得られたと言うことですね」  嬉しそうにしたアズライトに、「ええ、まあ」とチエコは曖昧な答えを口にした。そしてすぐに、「喜んで」と答えを訂正した。 「手土産……とかはいらないのよね?」  息子の嫁の親に会いに行くのだから、ニッポンと言う国なら何らかの手土産は必要なのだろう。ただ相手が皇帝だと考えたら、持っていく手土産が思いつかなかった。困ったわねと顔を見あわせた両親に、「手土産なら」とヨシヒコは過激なことを口にした。 「ジェノダイト様を拉致っていくのが一番の手土産になるな」 「総領主様を拉致していくだなんて。そんな、恐れ多いことを」  過激なことを口にした息子に反対したのだが、嫁の方は問題だとは考えていないようだった。 「お兄様を残していけば、特に問題はないと思いますよ。それどころか、アセイリアを連れて行ったら、その方が問題になると思います」  そうなのかと少し考えたチエコは、確かに問題だとアセイリアのことを理解した。センテニアルを含めて、それだけアセイリアの名前は有名になっていたのだ。 「そうね、ジェノダイト様とアセイリアさんなら、ジェノダイト様を連れて行った方が問題が少ないわね」 「多分だが、その方が二人の負担も軽くなると思うぞ」  ジェノダイトを連れていけば、性悪皇帝と皇妃の関心がそれだけ逸れることになる。ヨシヒコの意見に、確かにそうだとアズライトも同意した。 「だったらヨシヒコ、ジェノダイト様に命令してくれる?」 「そうするのが、この場で一番適当なのだろうな」  母親に頼まれれば、嫌と言えるはずがない。もともと自分が言い出したことなので、ヨシヒコに異論があろうはずがなかった。そしてジェノダイトを巻き込めば、母親たちの帰りの足も確保することが出来る。 「これで話がまとまったのなら……これからどうする?」  時間を見れば、夜の9時を過ぎていた。寝るのには早いが、かと言って遊びに出る時間ではないと思ったのだ。  ただそれは、お子様の考えだったようだ。夫の顔を見たチエコは、「遊びに行くわよ」とあっさりと言ってくれた。 「せっかくモナコに来たのだから、カジノに遊びに行こうと思ってるの。ストレス解消には、賭け事がもってこいなの」 「父さんが居るから大丈夫だとは思うが……」  何しろヒトシの強運は、皇帝の耳にまで届くほどなのだ。それを考えれば、カジノで酷い目に遭うことは無いだろう。しかも理詰めで賭けをする母親まで居るのだから、逆にカジノが可愛そうに思えたぐらいだ。 「だったら、俺達も覗きに行ってみるか?」  後学のためと考えたヨシヒコに、「それは駄目」とチエコは息子の賭け事を禁止した。 「皇帝が博打を覚えるものじゃないわよ。それから、カジノは未成年禁止なのよ」  だからカジノは駄目と、チエコは繰り返した。 「それに時差もあるから、あなた達は寝た方が良いんじゃないの?」 「確かに、眠くはなってきたのだが……」  せっかく大人の世界を見ることができたのにと、意外なほどヨシヒコは残念がってくれた。それを見ると可哀想なのだが、教育的配慮は欠かせないと、チエコは母親の顔になっていた。 「皇族を縛る法は無いのかもしれないけど。法律と言うのは、理由があって作られたことを忘れないように」  母親らしい忠告に、「仕方がない」とヨシヒコは素直に従うことにした。いくら次の皇帝になることが決まっていても、未だにヨシヒコは母親を苦手にしていたのだ。 「じゃあ俺たちは、大人しく部屋に戻っているよ。それから父さんと母さんに忠告しておくが、おかしなものを拾ってくるなよ」  トランスギャラクシー旅行中のカジノで、二人は息子の嫁にすると言ってシルフィールを拾ってきたのだ。そのお陰で色々と助かったのだが、さすがにもう良いだろうと言いたくなる。 「そうね、拾ってくるならイヨの旦那さんにするわ」  それもやめろと言う息子の声を背に、着飾った迷惑夫婦はモナコの街に出ていったのである。  そして翌日、ヨシヒコはとても穏やかな気持で朝食のレストランに降りてきていた。愛する人と二人きりの夜と言うのは、とても心を満たしてくれるものだったのだ。そしてもう一つ穏やかな気持になれたのは、両親が何も問題を起こしていないと言う推測からである。何か問題が起きていたら、間違いなく自分が巻き込まれることになると思っていたのだ。 「聞くまでもないと思うのだが、勝ったのか?」  同じように朝食のレストランに現れた母親に、昨夜の首尾を尋ねた。 「え、あ、ああ、昨日のことね。ヒトシさんが居るんだから、爆勝ちしたに決まってるでしょ」  おほほと笑う母親に、ヨシヒコは小さな引っかかりを覚えた。そもそも自分の母親が、言いよどむことなど記憶に無いことだったのだ。しかも答えが、やけに言い訳がましかった。 「だったら良いのだが。何か手違いでもあったのか?」  一緒に居た父親の顔を見たら、心なしか引きつっているように見えたのだ。宇宙一の強運の持ち主だと考えれば、不思議なことに違いない。 「いや、特に手違いはなかったぞ。なあ、母さん」 「そうですよ。私とヒトシさんが居て、手違いなんか有るはずがないでしょう?」  態度の端々から疑わしいのだが、一方で母親の言い訳はとても説得力を持っていた。何事も理詰めで追い詰める母親と、偶然をすべて味方につける父親の組み合わせなのだ。ヨシヒコがエボイラから生き延びたのも、この二人が居たからだった。 「それで、姉さんの旦那さんは拾えたか?」  シルフィールと言う例があるから、それもまた笑い話で済ませられる話ではない。ただ場所がカジノだと考えると、両親に身ぐるみを剥がされるような男で良いのかと言う疑問もあった。 「それなんだけどね。ヨシちゃん、クロコップって言う二等男爵様を知ってる?」 「知ってるかと聞かれれば、知らんとしか答えようがないのだが……」  とは言え、ヨシヒコが知りたいと思った瞬間に、セラが必要な情報を提供してくれるのだ。だからクロコップ家のことを考えた所で、ヨシヒコは目指す相手の素性を知ることが出来た。 「クロコップと言う二等男爵家は地球に2つあるな。一つはクロアチアで、もうひとつが南米のコロンビアになるな。それで母さんの言うクロコップは、どちらのクロコップだ?」  なぜその名前が出たのかと言う興味はあったが、その前にどちらかを確定した方が良いだろう。そのつもりで聞いたヨシヒコに、チエコは「クロアチア」と答えた。 「文官系で土地持ちのクロコップか。センテニアルの悲劇の後、二等男爵に昇格しているな。軍関係で無いので異例とも言えるのだが……ああ、当主が戦闘に巻き込まれて死んだのが理由か。今は、長男が家を継いでいるな。確かに金髪の美男子なのだが……妻がいるはずだぞ」  それでと言うヨシヒコに、「昨夜会ったの」とチエコは打ち明けた。 「まあモナコなのだから、あちらの方が地元だろう。だから、カジノに顔を出していてもおかしくはないのだが……それで、何かあったのか?」  回りくどいなと思いながら、ヨシヒコは辛抱強くチエコの話を聞いた。 「いい男だったから、ちょっと助けちゃったのよ。ヒトシさんはやめておいた方がいいって言ったんだけどね。絵に描いたような悪者に、食い物にされていたのよ。後から聞いてみたら、先代が亡くなられて借金が残ったみたいなの。それで借金取りにカジノに連れて行かれて、自分に勝ったら利息を棒引きにするって罠にかけたみたいね」  チエコの説明に、ヨシヒコは話の先が見えたような気がした。甘い言葉で獲物を罠に誘い込み、さらに借金漬けにしようとしたのだろう。その先に有るのは、二等とは言え男爵家の乗っ取りだろうか。ヨシヒコは封印したのだが、爵位を持たない者が爵位を手に入れる方法の一つでもあったのだ。 「それで、借金を膨らませておいて、二等男爵家を乗っ取ると言うことか」  ヨシヒコの答えに、チエコはしっかりと頷いた。 「だが、それは自業自得ではないのか?」 「そりゃあ、それだけなら自業自得なんだと思うけどね。クロコップ男爵……お名前はミルコと仰るのだけどね。エリシアさんと言う妹さんがいるのよ。乗っ取る方は、妹さん込みで乗っ取ろうとしたみたいなの」  ああ典型的な悪役だと考えながら、これもまたお約束かとヨシヒコはこの先の展開を予想した。 「それが聞こえてきちゃったから、助けてあげようかなって。クロコップ男爵って、とってもいい男だったのよ。それに、家ごと売られたら妹さんが可哀想でしょう? だから資金援助をしてあげたのと、悪人とポーカー勝負をしたの」  その勝負の行方など、教えて貰わなくても分かりきったことだった。 「母さん達に賭け事で勝負を挑むって……どんだけ無謀な奴らだ」 「それでも、少しは緊張したのよ。だって、男爵家の存亡が掛かっていたんだから。ただ場のカードは全部読めたし、イカサマは出来ないように潰してあげたから。カードが読める前は、ヒトシさんがいれば無敵だし」  つまりヨシヒコの考えた通り、悪役を粉砕したと言うことになる。正義の味方ごっこで遊ぶのはいいが、そろそろ落ち着いてもと言いたくなってしまった。ただ強いことが言えないのは、そのお陰で生命が助かった実績があったからだ。 「良い男なら、総領主府にも沢山いただろう……それで、助けたクロコップ男爵がどうかしたのか? 妻持ちだから、姉さんの旦那って訳にはいかないだろう」 「そうなのよね。少し大人しいところがあるから、イヨにはぴったりだと思ったんだけどなぁ」  残念と悔しがるのは良いが、肝心の話が聞けていないと思っていた。そして話を先延ばしする母親に、悪い予感を抱いてしまった。 「それで、俺に聞いたことに何か意味があるのか?」 「これから、お礼に来るって言うのよ」  なるほどと頷きはしたが、それが問題になるとも思えなかった。 「それで?」 「今のところ、それだけなんだけどね……お婿さんになってくれないんだったら、もうどうでもいいと言うのか。別にあぶく銭だから、お金も惜しくないし。面倒なのよね」  母親の言葉に、「はあ」とヨシヒコはため息を吐いた。目がないと分かると、とたんに淡白になるのもチエコの特徴だった。ただ相手にしてみれば、恩人であることには違いないだろう。その意味で、お礼に来ると言うのはおかしなことではなかった。 「それで、借金はどれだけあったんだ?」 「5百万エルだって」  その金額に、なんだとヨシヒコは呆れたようなため息を吐いた。 「大した金額ではないと思うが。まあ、最近まで三等男爵だったと思えばそれなりの金額だな」  高校生時代のヨシヒコでも、10億エルに届く資産を持っていたのだ。それを考えると、5百万エルの借金は「大したことはない」ものとなる。  ふ〜んと興味を失ったヨシヒコは、隣りにいたアズライトに「今日はどうする?」と聞いた。まだモナコの観光をしていないので、一緒に回ろうかと言うのである。 「そうですね。ヨコハマとは違う景色を見てみたいですね」 「こっちはこっちで、美味しいものも沢山ありそうだしな」  それでいいかと聞かれ、アズライトは嬉しそうに頷いた。それだけで幸せな気分になったヨシヒコは、一度部屋に戻るため時計を確認した。コンチネンタルの朝食など、さほど時間の掛かるものではなかった。 「俺達は一度部屋に戻ってから観光に出るのだが……今日の夕食は任せていいか?」 「明日には、ヨコハマに帰るんだっけ?」  予定を決めずに旅に出たのだが、リルケ行きが入ってしまったのだ。そうなると、準備を含めて出発前に自宅に帰っておく必要がある。今日が4日だから、6日は荷物整理が待っていたのだ。 「そうだな、アジア1からは7日に出発予定だ。姉さんは、アリアシア達に迎えに行かせた」 「アリアシア様に誘われたら、絶対に断れないわね」  そう言って笑ったチエコは、ヒトシの顔を見てからコーヒーの追加を頼んだ。 「私達は、クロコップ男爵とお話でもしているわ。あなたは、アズライト様と観光を楽しんでらっしゃい。多分大丈夫だとは思うけど、周りに気をつけてね」 「そうだな、不埒な事をする奴は消し炭にでもしてやるか」  笑いながら、ヨシヒコは左手の薬指に光るラルクを母親に見せた。 「そう言えば、あなたも貰ったのね……現実感は無いけど、本当に皇帝になるのね」 「まあ、俺自身現実感が無いからな」  行ってくると両親に挨拶をして、ヨシヒコはアズライトの腰に手を回した。子供まで作った関係なのだから、その程度はどうと言うことはないのだろう。ただチエコには、愛息子が離れていくように見えてしまった。 「あんなに素敵な奥さんなんだから、本当は喜ばないといけないのよね」 「まあ、お前の言いたいことは理解できるがな……」  少し目元を引きつらせたヒトシは、「喜べば良いんだ」と妻の顔を見た。 「嘆いても変わらないのなら、喜んでおかないと損だろう」 「あの子が生きてきた結果だものね」  そうよねと頷いたチエコは、「残るはイヨか」と長女のことを考えた。 「あの子の強運なら、いい男の一人ぐらい捕まると思ったんだけど……」 「まだ、その時じゃないってことだろう」  今はまだ、どうでもいい男しか周りに居ないだけだ。焦ることはないと、ヒトシは妻に答えたのだった。  裸の付き合いをしたからでは無いのだろうが、イヨ達は意外に早く打ち解けることが出来ていた。その辺り、ざっくばらんなイヨの性格が役に立ったのだろう。シルフィールをして羨ましいと思える、イヨの切り替えの速さだった。 「でも、皇女様も大変なんだね」  4人でお風呂に入って、4人で宿自慢の料理を楽しんだ。そしてもう一度お風呂に入れば、あとは女子会タイムとなる。全員が大人と言うこともあり、部屋の冷蔵庫からビールを出して飲み会の始まりである。その飲み会で、イヨは第一皇女アリアシアを最初のターゲットとした。そこで聞かされたのは、皇帝になれない皇太子・皇女の身の振り方だった。  そして大変と言うイヨの言葉に、大変なんですとアリアシアは強調した。 「あなたのような綺麗な人でも、お相手が見つからないものなのね。なにか、少し安心できたって気がしてきたわ」  我が身の事を考えたイヨに、「昔からそうなんですよ」とアリアシアはため息混じりに答えた。 「特に私の場合、アズライトが皇帝になると言う噂が広がっていましたからね。だから野心の有る男は、全部アズライトの方を見ていたんです。そして私の所に来る縁談は、勘弁して欲しいと思うような相手ばかりで……だからヨシヒコ様に出会えた時には、本当に感激したんですよ。ただアズライトの男と聞いて、同時に絶望もしました。だって、次の皇帝に逆らうことなんて出来ないじゃないですか。だからお父様の裁定を教えられた時には、強行手段で既成事実を作ることにしました」  これでと差し出された左手の薬指に、赤い石の着いた指輪が光っていた。 「それは?」  ただイヨは、ラルクの存在を知らなかった。そんなイヨに、「護身具です」とアリアシアは答えた。 「皇族だけが持つことを許された護身具ですね。正確に言うと、なんでもありの物質変換装置なんです。その機能を利用すると、着替えをすることも出来るし、身を清めることも出来るんですよ。ホプリタイ程度なら、まとめて塵にすることも出来ますね。後は、体を量子分解することも出来ますし、非在化と言って、干渉の出来ない違う世界に身体を置くことも出来ます」  教えられた機能に、「これが?」とイヨは驚いた。アリアシアの手をとって見てみたのだが、どう見てもただの指輪にしか見えなかったのだ。赤い石にしても、常識的な大きさしかしていなかった。 「ええ、帝国第一大学の研究者が作ったものなんです。これを使うと、相手の意識を失わせることも出来ますし、ちょっと神経を刺激することも出来るんです。だからヨシヒコ様の体内にアルコールを生成したのと、ちょっと生殖器官を刺激してあげたんです。このあたりのことは、お母様に教えてもらったことでも有るんですよ」  皇妃が娘に教えることが、既成事実の作り方と言うのはどう考えたら良いのだろうか。かなりの理不尽さを覚えはしたが、深くは追求しては駄目だとイヨは頭を切り替えた。そして弟の性格を考えれば、極めて有効な手段だと感心したのだ。 「既成事実を作ってしまえば、後はしきたりを盾にすればいいだけです。お兄様にも協力して貰って、後宮を作ることをヨシヒコ様に認めさせました。アズライトも皇女としての教育を受けていますから、ヨシヒコ様が後宮を作ることに反対はできませんからね」 「お陰で、私も後宮に入ることができました」  アリアシアの言葉に、自分もそうだとシオリは嬉しそうに口にした。 「三等侯爵家の長女だったら、それこそ引く手あまただと思うのだけど……」  格として皇女に劣るが、逆に劣るからこそハードルが低くなると思ったのだ。そんなイヨに、「引く手あまたとは言いませんが」とシオリは恥ずかしそうに答えた。 「私の場合、アズライト様が主催されたクレスタ学校に参加していました。参加の目的は二つあって、これからの帝国がどうなっていくのかを考える事が第一でした。そもそもクレスタ学校が発足したのは、テラノとザイゲルの関係が無視し得ないものに成長する兆しが出たからです。H種が主導した、H種に関係のない政治的な大きなうねりです。そのうねりに加われなかったH種の中には、大きな不安が生まれていたんです。だからアズライト様の勉強会は、非常に大きな意味を持っていたと言うことです」 「確かに、地球とグリゴンの関係は目立ったわね」  直接関与した訳ではないが、イヨも早い段階でグリゴンに行っていた。しかも火星近傍の戦いでは、敵旗艦と相打ちをしたヤマトの乗員でもある。憎しみから戦った訳ではないが、よくぞ友好条約を結んだものだと軍にいながら感心したものだった。 「それが1つと言うことは、もう一つはお相手探し」  イヨの指摘に、シオリは恥ずかしそうに頷いた。 「新しい勉強会に加わる方なら、高い志があるだろうと想像したのです。家は兄が跡を継ぎますので、私は比較的自由にできる立場に有りました。ですからクレスタ学校で、素敵な方に巡りあえればと思っていたんです」 「でもヨシちゃんの後宮に入ったってことは、クレスタ学校にいい人が居なかったと言うことね」  難しいのねと感心したイヨに、「そう言う訳では」とシオリは答えた。 「私の趣味は、力強いと言うより可愛らしい男性だったんです。それから、家の格より本人の資質が大切だと思っていました。だからクレスタ学校の代表であるカニエに目をつけたのですが、ティアマト家令嬢のヴィルヘルミナに負けてしまいました」 「なるほど、だからヨシちゃんって話につながるんだ。でも、他にも男の人って居たんでしょう?」  アズライトが主催したのだから、多くの者たちが参加したことは想像に難くない。その指摘に、「いればいいと言うものではありません」とシオリは返した。 「場所柄、リルケの者が大勢集まっていました。その中に三等侯爵も居たのですが、彼の目的はアズライト様だけでした。アズライト様にどう取り入るか、今の皇帝聖下に気に入られるにはどうしたら良いのか。テラノとザイゲルで始まった新しい流れの意味も理解せず、力で従えてしまえばいいと主張する愚か者です。ですがリルケ出身者は、彼を中心に派閥を組んでいました。今回テラノに来たメンバーは、その馬鹿らしい主張を否定した者たちなんです」 「つまり、アイオリアさんは好みじゃなかったんだ……まあ、可愛らしいタイプじゃないわね」  分かると大きく頷いたイヨは、「それで」と先を促した。 「でも、ヨシちゃんとの接点が分からないのよね。あなたのタイプだと、後宮に入れてくださいって自己主張できないわよね?」  ズバリと性格を言い当てられ、さすがはヨシヒコの姉だとシオリは感心した。 「私がヨシヒコ様と出会ったのは、本当に偶然のことでした。ヨシヒコ様がアリアシア様のところから歩いてアズライト様の静養されているお屋敷に向かう途中で、散策していた私と出会ったと言うことです」  確かに偶然だと感心したイヨは、アリアシアの所からと言う説明に引っかかった。ヨシヒコのリルケ滞在期間は、さほど長くないことに気がついたのである。 「ひょっとして、アリアシア様が既成事実を作った直後?」 「時期的に言えばそうなりますね」  おほほと笑ったアリアシアに、なるほどねぇとイヨは大きく息を吐きだした。 「そうすると、あなたは随分と冒険をしたことになるのね」 「冒険と言うのか、偶然のめぐり合わせと言うのか……」  少し答えを躊躇ったシオリは、「実は」と事情を口にした。 「私には、もう一つのイベントが用意されていたんです。カニエを逃したことに落胆した私の父が、兄の友人を私の相手にしようと考えたのです。私が散策に出たのは、側仕えの勧めだったのですが……実は、そこで偶然の出会いが用意されていたんです。私も薄々感づいていたので、どのような方なのかなぁと期待はしていたんですよ。そこでヨシヒコ様に出会ってしまい、私は夢中になってしまったと言うことです。ただすぐに、父の用意された方と違うのは分かりました。ただヨシヒコ様が誰にも仕えていない庶民と仰ったので、それを良いことに屋敷に連れ込んだんです」  恥ずかしそうにしたシオリに、そうなんですとアリアシアは身を乗り出した。 「アズライトが言うには、シオリ姉様も罠に掛かったらしいですね。ヨシヒコ様は、その可愛らしい見た目で高貴な女性を罠にかけていると言うのがアズライトの主張です。アズライトも、自分も罠にかかった口だと笑っていました」 「ヨシちゃんが可愛らしいのは今更だけど……本人は気に入らないみたいなんだけどね」  罠と言われたことに、なんだかなぁとイヨはため息を吐いた。 「でも、今のヨシちゃんだから、アズライト様とも出会えたわけだし……」  もしもヨシヒコが、ごつかったり不細工だったりしたら、今の流れは無かったことになる。それを考えると、あまりにも偶然が重なったことになる。 「私達は、ヨシヒコ様はずっと今のままで居て欲しいと思っているんです」 「それって、いつまでも可愛らしい女の子で居て欲しいってこと?」  アリアシアは、そうですねと少し考えた。 「それが理想であるのは確かですね。その気になれば、ヨシヒコ様の時間を止めるのも可能ですし。その場合の問題は、私達が老けていくことでしょうか。そう考えると、今のままと言うのが難しいのは分かっているのですが……」  ううむと唸ったところを見ると、かなり真剣に考えているようだ。それを微笑ましいと思うのと同時に、恐ろしいことを考えているなともイヨは考えていた。普通なら妄想と笑ってしまうことなのだが、彼女たちの場合はその気になれば実現できてしまうのだ。  なるほどねぇと納得したイヨは、端っこで小さくなっているシルフィールに気がついた。どう考えても、一人だけノリが違っていたのだ。 「シルフィールは、こういった場所は苦手?」  そこで気を使ったのは、彼女とはそれなりに付き合いが長いことが理由になっていた。そして忘れられがちなのだが、ヨシヒコを救った恩人の一人でもある。マツモト家に住み着いていたことも有り、イヨにしてみれば家族同然の間柄だったのだ。 「私には、イヨさんのように開き直ることはできません」  お酒に逃げているのか、シルフィールはウィスキーに手を出していた。どうやら酔いつぶれることで、現実逃避をしようと言うのだろう。 「でも、開き直った方がましだと思うけどな。自分が思うほど、周りはあなたのことを特別に見てくれないし、思っている以上に特別に見られているから」 「よく分からない話ですね、それ」  ぐびっと水割りを飲みながら、シルフィールはアルコール臭い息を吐いた。 「簡単なことだと思うわよ。ただ、気にしてもしょうがないって言ってるだけだから」 「それができたら苦労していませんって」  はぁっと酒臭い息を吐き出したシルフィールは、ニコニコとしているアリアシアを見てもう一度酒臭い息を吐きだした。 「でもなぁ、私はシルフィールが羨ましいのよ。だって、私はヨシちゃんの後宮には入れないんだもの。しかもシルフィールには、医療技術と言う特別なものがあるんでしょ。だったら、ヨシちゃんの役に立てると喜べばいいと思うんだけど」 「遺伝子学的には、姉弟でも問題はありませんよ」  後宮に入れないと言う部分にだけ食いついたシルフィールに、「心の問題」とイヨは打ち明けた。 「後宮を持つ……つまり、お妾さんを持つことでもヨシちゃんは抵抗したんでしょう。だったら、姉弟なんてもっと抵抗するわよ。多分だけど、母さんたちもうんと言わないと思うし。まあ、私も問題かなって思っているしね。でもシルフィールの場合、そんなことを気にしなくても良いでしょう。だから、羨ましいと思うんだけど」 「立場からすれば、羨ましがられるのは分かりますが……それにヨシヒコ様の所にも、大勢売り込みが有ったようですしね。だったら、私じゃなくてそっちにしておけばいいのにと思ってしまいます」  空になったグラスに、シルフィールは氷を入れてウィスキーを注ぎ込んだ。水割りでは物足りなくなったのか、ついにロックに走ったようだ。 「でも、あなたとこれから来る女の子の間には絶対に超えられない差があるって知ってる?」 「そんなものが、あるのでしょうかねぇ」  ぐいっとウィスキーを煽ったシルフィールは、アルコールにむせたのかいきなり咳き込んでしまった。その様子を呆れたように見たイヨは、仕方がないと背中をさすってあげた。 「話を聞いた範囲では、シオリさんまでだと思うわよ。アセイリアがアンハイドライトさんに嫁いじゃったから、もうあなたと同じ条件になれる人は居ないのよ。まあ、候補はあと二人いるけど、あっちは後宮に入るって話にはならないと思うし」 「そんなものが、私にもあるんですかねぇ〜」  ひっくとシャクリをする所は、典型的な酔っ払いだろう。アリアシア様を気にするくせに、こう言った所は気にしないのだなと不思議な気がしてしまった。 「とっても簡単なことよ。あなた達3人は、ヨシちゃんが皇帝になることを知らずに好きになったの。アリアシア様は微妙なところはあるけど、聞いた範囲では先にヨシちゃんを好きになったのが分かるわ。シオリさんにしても、ヨシちゃんが皇帝になるから好きになった訳じゃない。私は、あなたもその一人だと思っているのよ。だから、これから来る子達とは違っているし、特別な存在だと言うの。それは、ヨシちゃんにとっても特別な意味を持っているわ。特にシルフィール、あなたとならヨシちゃんは皇帝じゃない顔を見せることができると思うもの」 「確かに、それは特別な関係ですね……その意味では、シルフィールさんが羨ましく思えます」  こちらも、アルコールをウィスキーに変えたようだ。ボトルを小脇に抱えながら、アリアシアは羨ましいと繰り返した。アルコールがかなり回ってきたのか、浴衣も危なく着崩れていた。 「それにシルフィールさんは、ヨシヒコ様の命の恩人なんですよね。だったら、もっと自信を持っていいと思いますよ」  警戒しているのか、シオリはビールのままだった。そのお陰で、浴衣はまだしっかりと形を保っていた。 「だから、開き直ってしまえばいいのよ。難しいのは分かるし、比べられたくない気持ちも分かるけどね」  イヨの視線は、浴衣を肌蹴させたアリアシアに向いていた。自分よりも年下なのに、スタイルの点では全てにおいて負けていたのだ。胸の大きさとかくびれた腰とか、絶対に比べられたくないと言うのが正直な気持ちである。  そしてイヨの視線を追ったシルフィールは、「それが一番辛いんです」と大きな声を上げた。 「私の場合、それでも売れなかったのですけど……」  下着姿のまま、アリアシアは胸を持ち上げるような真似をした。一人公爵家まで覚悟したと言うのだから、「売れなかった」と言うのは間違いではないのだろう。だがこの集まりで胸を協調するのは、他の3人に喧嘩を売る行為だった。 「なにか、私もムカついてきました……」  アリアシアの胸を見たシオリは、そうボソリと呟いた。 「奇遇ね、私も気に入らないのよ」 「後が怖い気もしますが……心情的には同じです」  3人の表情に、さすがにまずいのかなとアリアシアは思った。それでもラルクを使わないと言うことは、間違っても大したことにならないのを理解していたからだろう。さもなければ、この先を期待していたのかもしれない。 「気に入らなければ、どうされるんですか?」  少し挑発的に、アリアシアは浴衣の帯を解いた。その行動を見る限り、やはりこの先を期待していたと言うことになるのだろう。 「患者には、触診が必要そうですね」  ふふふと笑ったシルフィールは、グラスをテーブルにおいてアリアシアへとにじり寄った。そしてその事情は、シオリも同じだった。ビールのグラスを離れたところにおいて、シルフィールの反対側からアリアシアに迫ったのである。 「そうそう、そうやって打ち解けていかないと駄目よ」  この4人の中では、間違いなくイヨが一番腕っ節が強いことになる。「預かっておくわね」とアリアシアからグラスを取り上げ、「好きにしていいわよ」と悪の親玉のようなことを言ってくれた。シオリとシルフィールが、イヨの命令に従ったのは言うまでもないだろう。  二人がかりで布団に引き倒されたアリアシアは、「きゃあ」と嬉しそうな悲鳴を上げたのである。 Chapter 4  ヨシヒコ達がそれぞれの目的地で合流していたその頃、ヨコハマはある種の厳戒態勢となっていた。迷惑しか運んでこないバルゴールの元一等侯爵、ダイオネアが孫達二人を連れてヨコハマ入りをしたのだ。ただヨコハマ入りが夜だったため、ジェノダイトは面会を翌朝に指定した。 「さっそく、シンガポールで問題を起こしてくれたようだな」  アセイリアを呼び出したジェノダイトは、見てみろとシンガポール政府からの情報を投げ渡した。珍しく不機嫌そうな顔でそれを受け取ったアセイリアは、「予想の範囲ですね」とあっさりと答えた。 「キャリバーンとその取り巻きを、明日の朝一に傷害罪と軽犯罪法違反と迷惑防止条例違反で拘置所に放り込みましょう」 「次の皇帝聖下には、現地法を適用するとは言っておいたが……まだ、泳がせた方が良くないかね?」  収監する気は満々だが、まだ罪状が軽すぎると言うのがジェノダイトの印象だった。ただそれを、無駄な配慮だとアセイリアは不機嫌そうに切って捨てた。 「そんな真似をしたら、要らぬ被害を出すだけです。まさかと思いますが、お義父様は住民に迷惑を掛けてもいいとお思いですか?」 「いや、さすがに住民に迷惑を掛けることは考えていないのだが……」  「そうだな」と答え、ジェノダイトはアセイリアの意見を取り入れることにした。厄介者を野放しにした所で、やることと言えば住民相手に傍若無人の真似をすることだけだ。多少罪状に軽重があったとしても、ダイオネアが帰るまで閉じ込めておく事実に変わりはない。ならば人に迷惑をかける前に、繋いでおくのが最善の素地となるのだろう。  ジェノダイトが認めたことで、キャリバーン一味は収監されることが決定した。それでも相変わらず不機嫌そうに、「カヌカに伝えておきます」とアセイリアは答えた。 「踏み込む時には、お義父様にも立ち会っていただきます」 「うるさい爺さんだと考えれば、私が行く必要があるのだろうな」  仕方がないと立会を認めたジェノダイトは、「機嫌が悪いようだが?」と自分への態度を問題とした。そんなジェノダイトに、「機嫌も悪くなります」と今度はアセイリアが言い返した。 「アンハイドライト様にご奉仕しようと思っていたのですよ。そこを呼び出されて、しかもこんな気分の悪い話を聞かされたんです。機嫌が悪くなるのも仕方がないと思いませんか?」  つまり、せっかくのお楽しみを邪魔してくれるなと言うことだ。「あーっ」と遠くを見たジェノダイトは、「悪かったな」と心の篭っていない謝罪の言葉を口にした。夫婦の事情は理解できるが、アセイリアは地球側の要人のはずなのだ。そして統合司令本部は、外交案件を一手に扱っている事情があった。その外交案件の中には、ダイオネア対策も入っていたはずなのである。その中心人物だと考えれば、お楽しみを邪魔されたと怒るのは違うだろうと言いたくなる。 「統合司令本部のリーダーは君だと思っていたのだが?」 「だから不機嫌そうな顔をするだけで、文句を言っていないじゃないですか。本当だったら、呼び出しされても来ないと言う選択も有ったんですよ」  なるほど、藪をつついたのは自分か。いかんなと少しだけ反省したジェノダイトは、「用件は終わった」とアセイリアを解放することにした。 「せっかくだから、早く孫の顔でも見せてくれたまえ」 「でしたら、夫婦の営みを邪魔しないでくださいね」  言下に言い返されたジェノダイトは、「気をつけておく」と心の篭もらない答えを口にしたのだった。  一秒でも収監が遅れれば、それだけ出さなくても良い被害を出すことになる。その確信のもと、カヌカは早朝に部下たちをホテルまで派遣した。任意ではなく逮捕状が出された罪状は、複数人の男女に対する暴行行為である。その中には、挨拶が気に入らないと殴られたドアボーイも含まれていた。  積極的に協力してくれたホテル側の対応のお陰で、10人の収監には5分と要しなかった。うるさく騒ぐキャリバーンを鎮静ガスで黙らせ、カヌカの部下たちは手際よく厄介者を隔離してくれたのである。ダイオネアが気づいた時には、ホテルには自分とタルキシスしか残されていなかった。 「ジェノダイト一等侯爵、これは一体どう言うことなのだ」  朝一番に現れたジェノダイトに、早速ダイオネアは噛み付いた。自分たちの立場は、皇帝聖下に許可を得た外交使節のはずなのだ。その意味で言えば、自分達には不逮捕特権があることになるはずだった。  それを主張したダイオネアに、ジェノダイトは極めて冷たい視線を向けた。 「外交使節と言っても、こちらは招待した覚えはないのですがね。勝手に来ておいて、外交特権を振り回さないで貰いたい。従って、ただの旅行者として現地法を厳格に適用しただけのことです」 「なるほど、それが答えと言うのだな」  面白いと笑ったダイオネアは、「喧嘩でもしてみるか?」と挑発をしてくれた。それを馬鹿らしいと鼻で笑い、「何をしに来たのです」と来訪の目的を質した。 「それは、このように立ち話ですることなのか?」  礼儀がなってないと笑うダイオネアに、「礼儀が必要ですか」とジェノダイトはわざとらしく驚いた顔をした。 「テラノに着くやいなや、傍若無人な真似をしでかしてくれたのですぞ。そんな礼儀知らずに、礼儀を説かれる謂れはありませんな。もっとも、相手と同じところまで落ちるのも癪ですから、私の部屋まで案内いたしましょう」  こちらにと背中を向けて、ジェノダイトはさっさと先を歩き出した。それもまた、相手を考えれば無礼な行為には違いないだろう。ただ無礼と文句を言った割に、ダイオネアはさほど怒った顔をしていなかった。ほんの少し口元を歪め、おとなしくジェノダイトの後をついて行った。  ホテルから総領主府までは、さすがに車が手配されていた。それに一人で乗り込んだダイオネアは、窓から総領主府のあるヨコハマの景色を観察した。昨日は夜遅くて分からなかったのだが、通りを行き交う人々に活気があると言う印象を受けていた。 「バルゴールは……」  比較としてバルゴールを持ち出そうとしたダイオネアだったが、比較できるほどバルゴールを見ていないのに気がついた。自分の館がある近くはまだしも、総領主府のある辺りまでは出向いたことがなかったのだ。 「なるほど、わしも何も見てこなかったと言うことか」  歩いている中には、明らかにH種でない者も大勢混じっていた。A種まで混ざっている景色は、絶対に他のH種の星系では見られないものだろう。しかも双方なんのわだかまりも無いように見えるのは、目の当たりにしても信じられないものだった。 「なるほど、ジェノダイトの坊主が派遣された訳だ」  これを見せられれば、テラノが帝国にとっての実験場であることを理解できる。そしてただの実験場のテラノは、予想を超えた成果を示してみせたのだ。ただの庶民が次の皇帝に指名されたのは、テラノの示した成果の延長上にあるものだった。  実験の成果を認めたダイオネアは、次にテラノとバルゴールとの違いを考えた。H種に向けられたA種の怨念は、新しく加わったテラノも例外ではなかったのだ。そして被害という意味なら、テラノこそ最大の被害を受けていたのだ。なにしろ先のセンテニアルでは、5万の住民が虐殺され、火星近傍の戦いでは2千の艦船が沈められていた。あそこで押し返すことができなければ、間違いなく億を超える被害を出していただろう。  そこまで分かっていたにも関わらず、テラノはザイゲル連邦との友好にかじを切ったのだ。そしてアズライトの存在を利用し、友好関係締結をグリゴンに認めさせたのである。それが身を守るための手段とは理解できるが、恐るべき割り切りの良さと先見の明と言えるだろう。自分が同じ状況に置かれたなら、グリゴンに救いの手を差し伸べることは無いと思ったのだ。 「それだけ、アセイリアと言う女性が傑出していたと言うことか」  恐らくジェノダイトだけであれば、友好方向にかじを切ることはなかっただろう。それぐらいのことは、ダイオネアにも理解することができた。ならばどうして友好方向にかじを切ることを考えたのか、是非ともアセイリアの考えを聞いてみたいと思うようになっていた。  ゆっくりとみなとみらいの街を回った車は、総領主府の車寄せへとたどり着いた。そこに迎えに来たジェノダイトに、「嫌味な奴だ」とダイオネアは文句を言った。 「わざと遠回りをしただろう」  不機嫌さを全面に出したダイオネアに、「お気に召しませんでしたか?」とジェノダイトは問い返した。 「いや、ゆっくりと街を見ることができた。なるほど、ここはバルゴールとは違うのだな」  そこでため息を吐いたダイオネアは、「お前の仕掛けか」とジェノダイトを質した。 「いえ、我が娘となったアセイリアの助言です。ダイオネア様に、今のテラノを見て貰うべきだと言われましたよ」  こちらにと、ホテルよりは砕けた雰囲気でジェノダイトはダイオネアを領主府に招き入れた。それに素直に従ったダイオネアは、「無機的だな」と総領主府の建物を評した。 「明らかに、周りの景色から浮いておるぞ」 「それは、私の責任外だと思うのですがね。それでもテラノの住人は、こんなものだと受け入れてくれていますよ。ただライトアップぐらいは工夫しろとの提言があったので、先のセンテニアルに合わせてイルミネーションは新調しましたがね」  目の前に現れたエレベーターチューブに乗り込んだ二人は、しばらく黙ってチューブの内壁を見つめていた。ただそれも、さほど長い時間のことではない。静かに開いたチューブから見える景色に、ダイオネアは「ほう」と感嘆の息を漏らした。 「美しい景色だな」  目の前には青い空と海が広がり、白い雲が美しいコントラストを作り上げられていた。異星から来た客は、一人の例外もなくこの景色に見とれたものである。 「これが、テラノの住人が作り上げてきたもの……と言うことです。残してきたものと言い換えても良いのでしょうな」  こちらにと、ジェノダイトはダイオネアをソファーへと案内した。 「飲み物は、お茶で宜しいか」 「まだ、酒の時間ではないだろう。それに、酒を飲みながらするような話ではないと思っている」  再び難しい顔をしたダイオネアに、ジェノダイトは小さく頷いた。そしてネイサンを呼びだし、「お茶の用意を」と申し付けた。 「さて、お話の途中でしたな」  そう切り出した時、長い黒髪をした女性がワゴンを押して現れた。少しタイミングを外したかと後悔しながら、「紹介します」とジェノダイトはその女性の隣に立った。 「わが娘となったアセイリアです。アセイリア、こちらがバルゴールを牛耳るメリディアニ家先代ご当主のダイオネア様だ。先帝バルクーク様の皇太后であられる、シエーラ様の兄上に当たるお方だ」  その紹介に、なるほど面倒くさそうな人だとアセイリアは心の中で評価していた。 「義父より紹介頂きました、アセイリアでございます」  余計なことを言わず、アセイリアは頭を下げてからお茶の準備を始めた。ただお茶を出してそのまま帰ろうとしたのだが、「宜しいか」とダイオネアに呼び止められてしまった。このあたりは予想通りなのだが、それでも面倒だなと思えていた。 「是非とも、あなたのお話も伺いたいのだが?」 「私のようなものでよろしければ、喜んで」  ワゴンの中からもう一つカップを取り出し、自分の席、つまりジェノダイトの隣にそれをおいた。そして二人に出したものとは違う飲み物、カプチーノをそこに注ぎ込んだ。いちいちスチームしていられないので、自分の分はインスタントである。 「それでダイオネア殿、何を目的にテラノまで来られたのですかな?」 「聖下の布告が理由と言えば、納得いただけるかな?」  ホテルでのやり取りに比べれば、言葉の棘はなくなったと言っていいだろう。ただその分、相手を試すものへと言葉が変化していた。 「お孫さん二人を連れて、ですか?」  分かりませんねと答えたジェノダイトに、「冗談を言うな」とダイオネアは言い返した。 「いくら言葉や映像で伝えられても、目で見て触れて空気を感じるのには及ばないのだ。ホテルからここに来るまでの短い時間でも、わしはそれを改めて思い知らされたのだぞ。ならばわしが、何を期待して孫を連れてきたのか理解できるだろう」  その答えになるほどと頷き、「こちらの迷惑を顧みずにですか」とジェノダイトは言い返した。 「そんなものを気にしていたら、何も変わることはできぬのでな」 「だから、バルゴールは嫌われるのですよ」  困ったものだと吐き出したジェノダイトは、「だから配慮はしない」と宣言した。 「ほほう、好きにしていいと言うのか?」  豪胆だなと笑うダイオネアに、障害は除去したとジェノダイトは言い返した。こちらにも、情報源は色々と有るのだと。 「アリアシア様、アズライト様、それから軌道城の城主も居ましたな。無能のキャリバーンに放蕩息子のタルキシスですか。どちらが問題を起こしそうなのか、情報さえ貰えば簡単に判別できますよ。もっとも問題と言ってもしみったれているし、テラノの治安を揺るがすものにもなりはしない。ただ迷惑を受ける住民が出るので、先手を打たせて貰ったと言うことです」 「先手を打って、一等侯爵家の息子を牢に放り込んだと言うのか?」  喧嘩を売っているなと口にしたダイオネアに、「どちらが?」とジェノダイトは言い返した。 「人の星に着いた早々、傍若無人な真似をしてくれたのですよ。その程度の我慢もできない子供を連れてくるのは、こちらに喧嘩を売っていると普通なら考えるところだ。メリディアニ家の問題など、外に持ち出して欲しくはありませんな」  違いますかと、ジェノダイトはダイオネアの顔を正面から見据えた。 「先ほど、軌道城の城主と言ったな。クランカンとは、すでに会っていると言うことか」  喧嘩から話をそらしたダイオネアに、「礼儀正しい若者です」とジェノダイトはクランカンを評した。 「アズライト様は、彼がメリディアニ家の跡取りなら、アリアシア様との縁談が纏まっていただろうとコメントされたそうだ」  もっとも、とジェノダイトは少し口元を歪めた。 「次の皇帝となるヨシヒコ様には、不興を買ったようですがな。彼の立場なら仕方がないのですが、主家であるメリディアニ家をかばう言葉を口にしたそうです。まあ世話人につけた女性が、喧嘩を売ったからと言うのが大きいと思いますがね」 「次の皇帝聖下に喧嘩を売った、だとっ!」  それだけで、粛清されても仕方のない大罪となってくれる。それを何事もないかのように言うジェノダイトが、ダイオネアには信じられなかった。  腰を浮かせて驚くダイオネアに、「喧嘩を売りましたな」とジェノダイトは涼しい顔で答えた。 「爵位を持つ者の誇りと言うのなら、その誇りにふさわしい行動をしてみせろ。と言うのが、次の皇帝聖下からのお言葉です。まあ、売り言葉に買い言葉となってしまったのですが、相手は次の皇帝聖下ですからな。二人は、誇りを示す必要が生じてしまったと言うことです」 「……二人と言うのは、どう言うことなのだ?」  喧嘩を叱責されるのなら、爵位の高いクランカンになるはずだ。それなのに共同責任を問われるのは、相手の爵位も高いことになる。 「その世話人なる女性も、高い爵位を持つと言うことなのか?」  だからこそのダイオネアの問いになるのだが、「三等子爵家の次女でしたな」と言う答えに目をむいて驚くことになった。比べるまでもなく、双方の立場に天と地ほどの差があったのだ。ダイオネアの常識では、その二人が対等と言う事はありえなかった。 「テラノの最高位は、せいぜい三等伯爵ですよ。その辺りは、帝国に加わって歴史が浅いのと、無闇に爵位を上げなかったからと言えるでしょうな」  起動城城主だけで37家も一等伯爵がいるバルゴールに当てこすり、気にするほどのことはないとジェノダイトは言ってのけた。 「なにしろアセイリアは、ただの庶民の出ですからな。そのアセイリアが、今やどの一等侯爵よりも帝国内で名前が通っている。そうでなければ、ダイオネア殿も話を聞きたいと呼び止めはしないでしょう」 「なるほど、それがテラノの元気の良さの理由か」  ふんと鼻息を一つ吐いたダイオネアは、「クランカンは?」と軌道城城主の居場所を尋ねた。 「彼は今、どうしているのかね?」  細かなことは覚えていないと、ジェノダイトはアセイリアにクランカンの居場所を尋ねた。  「クランカン一等伯爵様なら」と笑ったアセイリアは、「統合司令本部で議論中」と居場所を教えた。 「せっかく地球に来たのですから、街を見て回るべきだと言ったんですけどね。是非とも話をしたいと希望されましたので、2日だけと言う条件で統合司令本部の議論に参加していただいています。クレスタ学校のメンバーも居ますので、議論自体に意味があるとは思っていますが……どうも、気負い過ぎの気がしてしまいます」  真面目な方ですねとの評に、それはそうだがとダイオネアはアセイリアの言葉に異を唱えた。 「次なる皇帝聖下の不興を買ってしまったのだ。ならば、挽回のために努力をするのも必要ではないのか?」 「外の世界を見ずに、議論三昧となることをを努力とは言わないと思いますよ。ダイオネア様も、総領主府への道でそれをご理解されたのと思っておりますが?」  いかがですかと問われれば、ダイオネアとしても否定はできない。僅かな移動時間の中でも、バルゴールとの違いを考えさせられたのだ。その事実を考えれば、アセイリアの言う通り見聞を広めるのも意味があるだろう。議論を駄目と言うつもりはないが、そのための下地を育てる必要があったのだ。 「確かに、目で見て感じることは大切だろう。だがあの男に、本質を見る目はあるのだろうか」  もともとダイオネアは、クランカンを評価していない。その為ダイオネアは、彼の能力に対して懐疑的な見方をしていた。そんなダイオネアに、アセリアは微笑みながら「いきなり出来るはずはありませんよ」と答えた。 「でも、見ようとする努力は出来ると思います。クランカン一等伯爵様は、今その努力をなされているのだと思っています」  そこまで答えたアセイリアは、「宜しいですか」と言って立ち上がった。 「リーダーが、あまり長く席を外していている訳には参りません。そろそろ、議論の方向を確認してこようと思っております」 「うむ、お呼び止めして失礼をした」  立ち上がって頭を下げたのは、相手が一等侯爵夫人だと考えれば不思議な事ではない。対等の相手には対等に扱う、それがダイオネアの持っていた常識だった。  そんなダイオネアに頭を下げ、アセイリアはエレベーターの向こうへと消えていった。その姿を見送った所で、ダイオネアは「ご紹介願えないか」とジェノダイトに持ちかけた。 「是非とも、次の皇帝たるヨシヒコ様にお目通りいたしたい。ジェノダイト殿、貴殿からご紹介願えないだろうか」 「ヨシヒコ様に……ですか」  むうっと難しい顔をしたジェノダイトに、「なにか?」とダイオネアは尋ねた。 「なに、今はバカンスでこちらを離れられておるのだ。こちらに一度戻られるが、すぐにアジア1からリルケに向けて出発されると伺っている。いただけるようなお時間があるか、お尋ねしてみないと分からないとしか言いようがない」  それにと、ジェノダイトはダイオネアに対して厳しい言葉を口にした。 「ヨシヒコ様は、お会いになるつもりはないと言い残されてバカンスに出られたのだ。それを考えると、お願いしても叶う可能性はかなり低いだろう」 「なにゆえ、ヨシヒコ様はわしと会うのを否定されたのだ?」  責めるのではなく、それは本心からの疑問に違いないだろう。帝国の中での立場を考えれば、元とは言えメリディアニ家の当主を遠ざける理由はないはずなのだ。  そんな疑問を抱いたダイオネアに、ジェノダイトは伝家の宝刀を抜いてみせた。 「ヨシヒコ様が、不要だと考えた。そう仰られた以上、私にも理由を聞くことは出来ないと言うことだ」  その言葉は、ダイオネアを黙らせるには十分な意味を持っていた。皇帝との繋がりが深いからこそ、その言葉の重みを理解していたのだ。 「なるほど、ヨシヒコ様は皇帝になられる意味を理解されていると言うことか」 「本人は、押し付けられたと言っていたがな。だが彼と接した者は、誰ひとりとして彼が皇帝になることへ疑問を抱かなかったよ」  そう言うことだと話を締めくくったジェノダイトは、「酒にしますか?」と話が終わったことを告げた。 「いや、まだ日が高い。今宵時間をいただけるのなら、是非とも酒を酌み交わしたいと思っておる」 「今夜ですか」  面倒だなと思いながら、ジェノダイトは予定を確認した。 「残念なことに、何も予定が入っていませんでした」 「相変わらず、失礼なことを言ってくれるな」  苦笑を浮かべたダイオネアに、「送りましょう」と言ってジェノダイトは立ち上がった。 「一度統合司令本部を覗いてみてはどうですかな?」 「是非にと言うところだな」  それなら良いと笑みを浮かべたジェノダイトは、統合司令本部行きのエレベーターを呼び出した。 「ただ、議論の邪魔をしないようお願いしますよ」  注意することはそれだけだと言って、ジェノダイトはエレベーターの中にダイオネアを案内したのだった。  面倒な兄は留置場に放り込まれ、鬱陶しい祖父は総領主府に文句を言いに行っている。そのお陰で、放蕩息子のタルキシスは自由を謳歌していた。ただ土地勘が全くないし、女を引っ掛けるようなあてもないので、近場の繁華街をブラブラと歩いていた。普段の怠惰な生活からすると、随分と健康的な振る舞いでも有る。 「やはり、無能な兄貴は無能のままだったか」  自分達の評判が伝わっていれば、警戒されるのは当たり前のことなのだ。その警戒している所で騒ぎを起こせば、身柄を拘束されるのも当然のことだ。それを考えずに騒ぎを起こした兄を、本当に愚かだとタルキシスは笑ったのである。自分の星系を離れてしまえば、一等侯爵の立場など屁のつっぱりにもならない。 「まあ、俺にしてもやることがなくぶらついているだけだがな」  総領主府近くの商店街を歩くのは、普段の怠惰な生活からは考えられないことだろう。だが一見不似合いに見える散策を、意外にもタルキシスは楽しんでいた。その実彼が嫌いなのは、退屈にじっと耐えることだった。見たこともない、そしてバルゴールの街と違う場所を歩くのは、今の所は退屈とは程遠いことだった。 「しけたバルゴールとは大違いだな」  一つ一つの物を取り上げれば、なんて時代遅れなのだろうと思えてしまう。だがそこにいる人間に元気が有るせいか、街全体の活気はバルゴールとは大違いだった。そして一人ひとりが、楽しそうに街を歩いてくれるのだ。「しけた」とタルキシスが言う通り、バルゴールでは見かけることのない光景だった。 「なんで、こいつらはこんなに楽しそうにしているのだ」  おおよそ普段の生活など、楽しいという感情とは無縁の所にあると思っていた。ただ漫然と日々を過ごし、ただ漫然と年を取っていく。階級の固定されたバルゴールにおいて、個人の努力が実を結ぶことはなく、さりとて日々の生活に苦しむこともなくなっていた。唯一ある危険と言えば、隣接したザイゲル連邦の存在だろうか。ただそれにした所で、今の状況では襲ってきても蹴散らすことは難しくない。小さなことに目をつぶれば、バルゴールはユートピアに近い場所のはずだ。  それに比べて、テラノはザイゲル連邦に襲われてから1年も時間が経っていない。自分が彷徨いている場所にしても、大規模な戦闘があった場所から目と鼻の先だった。それなのに、街を歩いている奴らに危機感はなく、それどころかA種が混じっていても気にした素振りも見せていなかった。 「テラノなど、帝国の中では一番の弱小国家だろう」  H種を宿敵と付け狙うザイゲル連邦に隣接するだけでなく、他のH種からは遠く離れて位置しているのだ。いくら友好条約を結ぼうとも、それを信じて疑わないのは愚か者でしかない。放蕩息子のタルキシスから見ても、テラノの住人には危機感が足りてないとしか思えなかった。  ただそんな疑問を感じはしたが、それを誰かに聞いてみようと言う気にはならなかった。別に人見知りと言う訳ではなく、ただ「面倒」だと思っていたのだ。別に疑問を解き明かしたとしても、自分の退屈しのぎになるとは思えなかったのだ。  それでもバルゴールにいる時よりましなのは、心を凍えさせるような退屈を感じないことだった。 「とは言え、そろそろ女が欲しくなったな」  街を歩くのは悪くないが、それとこれとは別だと思っていた。それに歩いてばかりいては、すぐにへばってしまうのも分かっていた。それなら適当な女を見つけて、しっぽりとやっている方が何倍もましだった。 「テラノの女は綺麗だとの評判なのだが……」  その辺りは、キャリバーンの取り巻きが言っていたことを耳した結果である。ただ実際に見てみると、そこまでかと思えてしまう。ただ体から溢れ出る生気のお陰で、実力以上には綺麗に見せてくれたのは確かだろう。ただ食い散らすのであれば、取り巻きの言っていたことも間違いではない。  一方タルキシスは、そんな疲れる女を相手にしたいとは思っていなかった。見た目と体が良くて、適当に空気が抜けた。もう少し言うのなら、どこか世間に諦めているような女が好みだったのだ。傷を舐め合うのにもいいのだが、何よりも疲れなくていいと思っていた。  ただ活気あふれるこの街で、そんな女は中々見つかってくれない。どうしてどいつもこいつも、こんなに楽しそうなんだ。何か間違っているだろうと、タルキシスとしては主張したいところだった。 「仕方がない。酒でもかっくらってくだを巻くか」  好みの女がいなければ、酒でも飲んで退屈を紛らわせるしか他にない。バルゴールで嗜んでいた薬は、テラノ入りの所で持ち込み禁止と言われて取り上げられてしまっていた。代替品を手に入れるにしても、そんなつてなどどこにも持っていなかったのだ。  ならば適当な居酒屋でもと物色を初めた所で、タルキシスは前を歩いている白のセーラー服姿の少女に気がついた。茶色の髪を肩口まで伸ばした、鼻筋の通った美しい少女である。  個人的な趣味からすると、まだ幼すぎる気がしないでもない。どう考えても、抱いた時のボリュームに欠ける気がしたのだ。それでも彼が気に入ったのは、その少女の目に浮かんだ諦めの色だった。 「おい女、ちょっと良いか」  ちょうどいいと喜んだタルキシスは、さっそくその少女に声を掛けた。はっきりと怯えられたが、その目には相変わらず彼の好きな諦めの色が浮かんでいた。 「俺の名はタルキシス。これでも、バルゴールと言う星の、一等侯爵家の息子だ」 「一等侯爵様……なのですか」  はっきりと驚く少女の目には、驚きの色が現れた。それに加えて、怯えの色もタルキシスには見て取れた。 「ああ、一等侯爵家の次男坊だ。と言っても、俺があとを継ぐことはないのだろうがな。まあそんなことより、これから俺に付き合ってくれないか」 「付き合う……と言うのは、どう言うことなのでしょうか?」  ますます怯えの色を濃くした女に、これはこれで良いものだとタルキシスは喜んでいた。何よりも有り難いのは、世間を諦めた女は、強く迫れば自分を拒まないことだ。しかもこの女には、一等侯爵と言う肩書きが通用するようだ。 「なに、悪いようにはしないさ。はっきりと言うのなら、お前を抱かせてくれと言うことだな」 「私をっ!」  ぎゅっと首元で手を握ったのは、タルキシスを拒絶する気持ちの現われだろう。それぐらいは想定のうちと、タルキシスは先手を打って「やりたいんだ」と繰り返した。 「俺は、お前のような世間を諦めた目をした女が好きなんだよ」 「諦めた目をしている……」  その指摘は、女にとって心当たりのありすぎることのようだ。ぎゅっと首元で手を握ったままで、「そうかもしれませんね」と女はタルキシスの言葉を認めた。 「私の大切なものは、全部この手からこぼれ落ちていってしまいました。確かに私は、自分自身を諦めているのかもしれませんね」 「かもじゃないな。お前は、俺と一緒で自分の未来を諦めているんだよ。俺と同じ目をしているから、俺にもその気持はよく分かるんだよ」  だから良いだろうと、タルキシスは女の肩に手を回した。はねのけられなかったことで、勝ったとタルキシスは喜んだ。 「そう言えば、まだ名前を聞いていなかったな。おい、お前の名を教えてくれ」 「私の名前……ですか」  はねのけはしないが、女は体を固くして身を守ろうとしていた。だがタルキシスに言われたように、守ってどうするのだと言う気持ちも生まれていた。 「セラム、セラムと申します……」 「うむセラムと言うのか。中々いい名前ではないか」  上機嫌に笑ったタルキシスは、セラムの肩を自分の方へと抱き寄せた。そして耳元で、「宇宙に連れて行ってやる」と囁いた。 「バルゴールに行ったとしても、さほど良いことがある訳じゃないがな。それでも、テラノを離れることは出来るぞ。お前、ここにいるのが辛いのだろう?」  タルキシスの指摘に、セラムははっと驚いた顔をした。その顔を見る限り、彼の指摘は正鵠を射ていたことになる。 「どうして、分かるのですか……」 「言っただろう。俺と一緒で、お前は未来を諦めているんだとな。未来を諦めた俺は、女を抱くか薬をやるかぐらいしかすることがないんだよ。そして同じ未来を諦めたお前も、男に抱かれるか薬に溺れるかぐらいしか無いんだ」  そう言いながら、タルキシスはセラムの耳をなめまわした。そのおぞましい感触に身を震わせながらも、「それぐらいしかない」と言うタルキシスの言葉を認めていた。  ただ人の目が有るので、タルキシスもそれ以上の行為には及んでこなかった。ここまでくれば、慌てる必要もなかったのだ。それでも味見ぐらいはいいかと言う気持ちにもなっていた。だから目についた薄暗い路地に、タルキシスはセラムを引きずり込んだ。 「怖がる必要なんて無いんだぞ。こんなものは、誰でもすることだ」  耳元から首筋と、タルキシスはゆっくりと唇を這わせていった。そして右手は、スカートの中に差し入れられ、下着の上から敏感な部分を撫で回していた。それで胸元を押さえていた手が離れたので、セーラー服の裾から左手が胸の所に差し入れられた。 「随分と堅い下着を身に着けているんだな」  脱がすのは場所を変えてからと、タルキシスは下着の上からセラムの胸を弄んだ。一瞬身を固くしたセラムに、「誰でもしていることだ」とタルキシスは繰り返した。セラムが堕ちたことを確信したタルキシスは、耳元で軽口を投げかけた。 「皇女殿下だって、男とやりまくっているぐらいだ。別に、特別なことじゃないんだよ」  このまま何をされても構わない。自分なんてどうでもいいと思っていたセラムだったが、タルキシスから「皇女殿下」と聞かされ思わず彼を突き飛ばしてしまった。ただどうしてタルキシスを突き飛ばしたのか、セラム自身理解できていなかった。 「なんだ、いきなり?」  突き飛ばされはしたが、大したことじゃないとタルキシスは思っていた。その証拠に、目の前の少女は自分のしたことを理解できていなかったのだ。相変わらず目は死んでいるし、逃げ出そうともしていなかった。 「なんだ、何か気に触ることでも言ったか?」  悪かったなと謝り、タルキシスは正面からセラムの唇を奪った。それは優しい口づけというより、唇を犯すものと言った方が正しいのだろう。抵抗がないのを良いことに、タルキシスはセラムを蹂躙したのである。 「なっ、大したことはないだろう?」  今度は突き飛ばされなかったことで、先程のは何かの間違いだと忘れることにした。そして彼の好みからは外れるが、セラムの小さめな胸に手を伸ばした。服の上からなので、手にはゴワゴワとした感触しか伝わってこない。タルキシスにしてみれば、少女を追い詰めることを目的とした愛撫だった。 「黄金町だったか、そこに行けばこの先をすることが出来るだろう」  だから場所を変えると、タルキシスはセラムから体を離した。そしてそこで、タルキシスはセラムが涙を流しているのに気がついた。 「どうして、お前は泣いているんだ?」 「私が、泣いている……」  全部諦めたはずだから、涙を流すはずなど無いと思っていた。だがタルキシスに指摘され、セラムは初めて自分が泣いていることに気がついた。 「そんな、今更泣いたって……」  手でこすってみても、涙が流れるのを止めることは出来ない。「もう諦めたのに」と繰り返しながら、セラムは何度も涙を拭った。だが拭えば拭うほど、セラムの瞳からは涙が溢れ出てきた。 「お前、実はまだ未来を諦めていないのだろう」  小さくため息を吐いたタルキシスは、意外なほど優しくセラムに語りかけた。そんなタルキシスに、「違います」とセラムは激しく首を振った。 「私の思いは、絶対に叶わないことが分かっているんです。だから、私は諦めるしか無いんです! だからっ」  大声を出したセラムは、自分からスカートのホックに手を掛けた。そんなセラムに、「やめておけ」と今度はタルキシスが言葉をぶつけた。 「お前の心は、まだ諦めたくないと思っているんだよ。それをお前は、諦めるしか無いと必死に思い込もうとしているだけだ」  そう言ってタルキシスは、「参ったな」と頭を掻いた。 「何を俺は、偉そうなことを言っているんだ。こんなの、俺の柄じゃないだろう」  ああと頭を掻いたタルキシスは、「いいか」とセラムの肩に両手を置いた。 「叶えたい思いがあるんだったら、その思いがまだ消えてないんだったら、それを大事にしないといけないんだよ。そうじゃないと、俺みたいにろくでなしになっちまうんだ。メリディアニ家の放蕩息子って誰からも蔑まれるような、ろくでなしになっちまうんだよ」 「でも、私の思いは絶対に叶わないんですっ!」  大声を上げたセラムに、「だったら」とタルキシスも大声で言い返した。 「なんで、お前は泣いているんだ? お前の心が、諦めたくないって叫んでいるんじゃないのか。お前はまず、それを認める所から始めなくちゃいけないんだよ」 「でも、絶対に無理なんです……無理なんです」  いやいやをするように、セラムはタルキシスの前で首を振った。 「だがこのまま俺に抱かれちまったら、本当にそれで終わりだぞ……いやいや、俺は一体何を言っているんだ?」  なんでだと呟きながら、タルキシスはセラムから離れて大きな身振りで両手を広げるように上げた。 「俺は、女を抱くためにお前に声を掛けたんだよな。それなのに、なんで説教じみたことを言っているんだ」  違うだろうとぼやいた時、路地の入口の方から「セラム」と少女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ってみたら、光を背にした背の高い男が立っているではないか。逆光の為顔は見えないが、それでも分かったのは、セラムと言う女には思ってくれる人がいることだ。その辺り、自分と大違いとだなとタルキシスは思っていた。 「ほら、お前はまだ諦める必要なんてなかったんだよ」  だから行けと背中を押したタルキシスは、逆光で顔の分からない男の方へと近づいた。そこで悪かったなと謝った所で、相手が男でないのに気がついた。 「お前、女なのか?」 「お前は、セラムに何をしたのだっ!」  ぎりっと歯が軋む音が聞こえたと思ったら、次の瞬間タルキシスは地面に打ち倒されていた。自分が殴られたと分かったのは、右の頬にじんじんとした痛みを感じたからだった。ボコボコにされるのかなと期待したタルキシスだったが、相手の女からはそれ以上の追撃はなされなかった。なんでだろうと顔を上げてみたら、セラムが抱きついてその女を止めていた。 「やっぱり守りたいものが有るんじゃないか」  良かったな。そう思った時、タルキシスは久しぶりに気持ちが晴れるのを感じたのだった。  どうしてこんなことになったのか。食べ物らしきものが並べられたテーブルを前に、タルキシスは途方にくれていた。 「いや、俺から声を掛けたのは確かだが……」  自分の目の前では、抱こうとした女が、別の体の大きな女に奉仕をしている。それを見る限り、二人には主従の関係があったようだ。ただ初めは体の大きな女、本人の名乗りではマリアナが、セラムの想い人だとタルキシスは思っていた。だが彼女が現れても、セラムの瞳からは諦めたような色は消えていないのに気がついた。  それでも分かったのは、マリアナと言う女がセラムにとって大切だと言うことだ。必死になってセラムが止めたのも、自分に一等侯爵家の者と言う立場があったからに他ならない。そしてもう一つ分かったのは、マリアナの瞳にもどこか諦めたような色が浮かんでいたことだった。 「なあ、一つ聞いていいか?」  出されたパスタをフォークで突き、タルキシスは自分より体の大きな女に問いかけた。 「どうして、お前たちの瞳には諦めたような色が浮かんでいるんだ? 今時、性別転換をしなくても女同士は珍しくないだろう。それとも、身分の違いと言うのが問題なのか。それにした所で、愛妾にでもしてやれば問題はなくなるだろうよ」  二人が恋仲、しかも結ばれないことが理由だと想像したのである。だがその決めつけは、マリアナにとって予想外のものだった。目をぱちぱちを瞬かせ、「俺とセラムが」と逆に聞き返してしまった。 「俺にはそう見えたのだが……違うと言うのなら、まあ良いのだが」  悪かったなと言いながら、タルキシスはフォークでパスタをすくい上げて口へと運んだ。 「……意外にうまいな」  はじめはどうかと思っていたのだが、出された料理は意外に口にあっていた。そして驚きなのは、出された料理をすべてセラムが作ったと言うことだ。 「意外とは失礼なことを言う奴だな。セラムは料理上手で有名なのだぞ」  まったくと憤慨しながら、マリアナは大盛りになったパスタを口へと運んだ。「よく食うな」と言うのが、マリアナへの今の印象だった。 「逆に俺から聞きたいのだが、なぜセラムにあんな真似をしたのだ?」  あんなと言うのは、脇道につれこんだしたいかがわしい行為のことを言っているのだろう。そんなことかと、タルキシスは当然のことだと言い返した。 「俺好みの可愛い子がいたんだ、男として不思議な事じゃないだろう」  それだけだと言い返したタルキシスに、「不足だな」とマリアナは言い返した。 「聞いた所によると、お前は一等侯爵家の次男坊と言うではないか。それを考えれば、異星を一人で出歩いているのは不自然極まりない。それにセラムは綺麗だが、だからと言って一等侯爵家の次男坊が目をつけるような娘ではないはずだ」 「一等侯爵家の次男坊を殴った奴に言われたくないんだがな。まあ、バルゴールを遠く離れちまえば、そんなもののありがたみなんて欠片も残っちゃいないな」  答えを口にしなかったタルキシスに、マリアナは「なぜだ」と答えを迫った。 「しつこい奴だな。仕方がないから答えてやるが、その女の目が気に入ったんだよ。綺麗な顔をしている癖に、自分を諦めたような目をしていたんだよ。そう言った女は、しつこく迫れば簡単に堕ちてくれるんだ。それに俺自身も似たようなもんだから、そんな女の方が気楽でいいんだよ。それに考えた通り、思った以上に簡単に堕ちてくれたからな」 「だったら、なぜセラムを抱かなかったのだ?」  矛盾しているなと笑ったのは、その後のことを聞かされたからである。色々といかがわしい真似をしたくせに、最後は手を出す前に説教を始めたと言う。明らかに、やりたかったと言う説明と行動が矛盾していたのだ。よく耳にするのは、やった後に説教するケースだった。 「そんなもの、泣かれちまった以上仕方がないだろう。全部諦めた奴が、キスされたぐらいで涙を流すことなんて無いんだよ。諦めたと口では言っていても、心の中では諦めたくないって叫んでいる。俺は、そんな女に手を出したくはないんだよ」  面倒だしなと付け加えたのは、タルキシスの本心からなのだろう。ただその面倒は、どんな意味で言っているのか自分でも分かっていなかった。 「そうか、セラムの心は諦めたくないと叫んでいたのか」  しんみりと繰り返したマリアナに、「違います」とセラムは大きな声を上げた。 「だったら、今から寝室で続きをしてもらうか? 事情が分かったのだから、もう邪魔はしないぞ」 「おいおい、俺はやらないと言ったはずだぞ」  どうしてそうなると文句を言ったタルキシスに、「不満か?」とマリアナは聞き返した。 「セラムはまだ17だからな、だからスタイル的にはまだまだの所が有るだろう。だがそれを補って余りある程美しい顔をしていると思うのだが?」 「いや、その女が綺麗なのは認めるが……確かに、掘り出し物に当たったと思っていたさ」  「だがな」と、タルキシスははっきりと「面倒は嫌なんだよ」と答えた。 「俺はな、面倒を引きずる関係は嫌なんだよ。今この女を抱いちまったら、俺はこいつの思いを抱えなきゃいけなくなる。こんな諦めた目をした奴なのに、それでも心が叫ぶぐらいの守りたい思いを持っているんだろう。俺には、そんな思いを引き受けることなんて出来ないぞ」 「あんた、自分のことを諦めていると言っていたよな」  セラムを抱く抱かないと言う話をしている時に、どうして自分の方に話が降ってくるのか。それを理解できないタルキシスは、「なんだ?」と聞き返してしまった。 「何だじゃない。あんたは、自分のことを諦めているのか?」 「まあ、そんなものだな。だから、面倒は嫌だと思っているよ」  これで良いだろうと言い返したタルキシスに、「嘘だな」とマリアナは言い返した。 「あんた、セラムに自分を重ねてしまったのだろう。諦めた諦めたと口では言っているが、心の中には諦めたくない気持ちが残っているんじゃないのか。だから同じ境遇のセラムに同情した。同情したから、抱くことができなくなったんだろう? 抱いてしまったら、セラムの心にとどめを刺すことになるからな」 「おいおい、どこをどう聞いたらそんな話になるんだ。俺はな、ずっと放蕩息子とバカにされて育ってきたんだよ。バルゴールにいる時は、本当にどうでもいい女を抱いて、薬や酒に浸っていたんだ。それこそ、死んでも構わないと思ったぐらいなんだぞ。生きていても、どうせ退屈なのは変わらないからな」  そんな男だと笑ったタルキシスに、「やはり嘘つきだ」とマリアナは決めつけた。 「本当に諦めた男だったら、間違いなくセラムを抱いていたぞ。諦めているんだったら、セラムの心なんかどうでもいいことのはずだ。そうじゃないと言うんだったら、今から奥の部屋でセラムを抱いてこい」 「おいおい、なんか話がおかしくなっていないか?」  呆れたとため息を吐いたタルキシスは、「そうかもしれないな」と諦めたようにつぶやいた。 「どこか心の中で、この酷い退屈から救われることを願っているんだろうな。その意味じゃ、死ぬことも救いだと思っているよ」 「酷い退屈か……俺には想像もできないことなんだが」  そう答えたマリアナに、「嘘を吐け」とタルキシスは言い返した。 「だったら、お前の目に浮かぶ諦めは何なのだ? ごまかしても、お前が何かを諦めているのは分かるんだからな」  正直に言えと迫るタルキシスに、「諦めか」とマリアナは苦笑を浮かべた。 「確かに、俺の中に諦める気持ちがあるのは認めよう。ただ、それと退屈とは別の物じゃないのか? 何しろ俺の場合、惚れた男が絶対に手の届かない所に行ってしまったんだからな。その代わり、新しい世界が目の前に開けているんだぞ」  絶対に手が届かないと言うマリアナに、相手が死んだのだとタルキシスは勘違いをした。 「そ、そうか、悪いことを言ってしまったな」  謝ると言われ、「死んでないぞ」とマリアナは笑った。 「ただ、それぐらい手の届かない所に言ってしまったと言うだけのことだ。もっとも、ずっと前から俺じゃ駄目なことは分かっていたからな。何しろ女のくせに、男のあんたより逞しいぐらいだからな。女としての幸せなんか、もともとありえないことだったんだよ」 「それでも、諦めきれていないんだろう?」  だからそんな目をしている。タルキシスの指摘に「それは認める」とマリアナははっきりと言い切った。 「今は、女として愛してくれなくてもいい。ただ近くにいられればいいと思っているんだ。運がいいことに、うまく立ち回ればその願いが叶いそうな所まで来ているからな」 「お前、元一等男爵家の娘だと言ったな?」  自分の身元を確認したタルキシスに、「それがどうかしたのか?」と答えた。 「なんで、爵位を返上したのかと思っただけだ」 「爵位を返上したのは、俺では無く父親なんだがな。まあ、答えを言うのなら、けじめと言う奴だ。それまで庶民相手に横柄な態度を取ってきたのだ、その立場が入れ替わればけじめを示す必要があるだろう。理由にしてみれば、ただそれだけのことだ」  「そうか」と相づちを打ったタルキシスは、「俺は」と自分の気持を吐露した。 「メリディアニ家ってのは、2千年以上続くバルゴールの名家なんだよ。それだけ歴史が長くなると、いろんな柵で雁字搦めになるもんだ。そして日々の生活は、何も変化の無い退屈なものでしか無い。そんな家の次男坊なんて、堕落をしても不思議はないだろう。普通なら、長男が跡を継いで次男坊はどこかに追い出されるんだからな。ただなぁ、俺以上に兄貴が愚か者なのが間違いだったんだよ。程度の低い取り巻きを連れて、街で傍若無人な真似を繰り返していたんだ。それでも使える男ならまだ良かったんだがな、「無能」と言うのが兄貴を指す陰口になるぐらいの男だ。と言う俺にした所で、「放蕩息子」なんだから偉そうなことは言えないがな。だが兄貴にした所で、小さな頃から雁字搦めの生活を送っていたんだよ。しかも爺からは、バカだかんだといつも叱られていたんだ。そんなことをされれば、反発してもおかしくはないだろう。それにメリディアニ家の当主の座にしても、退屈だけで何も面白いものじゃないからな。まるで、何かの罰を受けているようなものだったんだ」 「一等侯爵様なら、やることが目白押しだと思うのだがな。それに、自分の手でバルゴールを変えることも出来るんじゃないのか? 退屈と言ったが、俺にはその意味が理解できないんだが」  おかしくないかと、マリアナはタルキシスの答えに疑問を呈した。そんなマリアナに、「そんなに良いもんじゃない」とタルキシスは一等侯爵の立場を笑った。 「軌道城なんて物まで持っているから、身動きなんて全く取れないんだよ。しかもザイゲル連邦なんてものと睨み合ってるから、金の掛かる国防なんてものもしなくちゃいけない。あれをしろ、あれはするな、一等侯爵様と言っても、周りから面倒ばかり押し付けられるんだ」 「あんた、毎日が退屈だと言ったな」  確かめるようなマリアナに、「言ったさ」とタルキシスは答えた。 「俺が思うに、あんたが退屈なのは、あんたが退屈なことしかしていないからじゃないのか? あんたは、目の前に有る面白いことから目をそらして、ただ退屈だと文句を言っているようにしか思えないんだがな」 「退屈なのは、俺自身のせいだと言うのか?」  目をぱちぱちと瞬かせたタルキシスに、「あんたの自身の問題だ」とマリアナは繰り返した。 「退屈と言うことにしても、その方が居心地がいいと思ってるんだろう? だから、目が死んでいたセラムに声を掛けた。だけどセラムの中に希望が残っていたので、急に抱くのが怖くなってしまった。救われたいと言っていたが、本当は変わることが怖いんじゃないのか? 変わろうとしたのに跳ね返されて、守ってきたものまで失われることが怖い。あんたと話していて、俺はそう感じたのだがな」  違うのかと問われたタルキシスは、しばらく答えを口にすることはできなかった。改めて指摘されてみると、そうかもしれないと思えてしまったのだ。 「俺に、守るものなんかないよ」  なんとか紡ぎ出されたのは、マリアナの言葉を否定するものだった。だがマリアナは、「それも嘘だ」と断言した。 「だったら、あんたはセラムを抱いていただろう。あんたが守りたいのは、放蕩息子と蔑まれていても、誰からも干渉されない居心地のいい世界なんだよ。だけどな、そんなものがいつまでも続く訳が無いんだ」 「言ってくれるな……」  忌々しげに吐き出したタルキシスは、「なんなんだ」と泣き言を口にした。 「なんで、俺の心の中まで決めつけられなくちゃいけないんだ」 「セラムに手を出そうとしたからに決まってるだろう。しかも中途半端な所でやめてしまった」  諦めろと笑ったマリアナは、少し言いにくそうに頬を人差し指で掻いた。 「ただ、あんたには感謝しているところもあるんだ。あんたは、俺が踏み込むことのできなかった、セラムの心の中まで踏み込んでくれたんだからな。お陰で、セラムの気持ちも理解することが出来たよ」 「マリアナ様、それは違いますっ!」  慌てて否定したセラムに、「違っていない」とマリアナは言い切った。 「お前は、まだヨシヒコのことが大好きなんだよ。だからこいつにキスをされて、涙を流したんじゃないのか? お前のヨシヒコとの大切な思い出は、キスをしてもらったことなんだろう。それを消されてしまうことが悲しくて、ごまかしていることが悲しくて心が涙と言う血を流したんだよ」  はっきりと言い切られて、セラムはそれ以上抗弁することができなくなった。自分を守るために心の奥深くしまいこんだ思い、それを暴かれてしまえば抗うことなどできない。ただそれは、せっかく塞がったかさぶたを剥がすようなものだった。 「しかし、なんで俺はこんなどろどろとした話をしているんだ」  笑っちまうよと嘆いたタルキシスに、「さあな」とマリアナは言い返した。 「遠慮せずにセラムを抱いていれば、俺に殴られただけで終わっていたさ」 「それはそれで嫌なんだが……お前、俺が一等侯爵家の者だと忘れていないか?」  「敬えよ」と言われ、「おお」とマリアナは手を叩いた。話をしていて、相手の立場をすっかり忘れていたのだ。ただそれからの言葉は、より辛辣なものだった。 「だが、どうせ家の跡を継ぐことはないのだろう? だったら、早晩価値の無くなる立場じゃないか」 「言っていることに間違いはないのだが……なんかムカつくな。なんで女を抱く話から、こんなことになっちまうんだよ」  ああっと頭を掻いたタルキシスは、「おかしいだろう」と喚いた。 「何を今更、この組み合わせを不思議に思わないことから変なんだよ」  愚か者と笑われ、タルキシスは頭にかちんと来た。 「お前、本当に遠慮のないやつだな。ここがバルゴールだったら、お前の家ぐらい吹き飛ばされている所だぞ」 「残念なことに、ここはバルゴールじゃないのでな。それからあんたは、まず自分の身を案じたほうが良い。この状態で俺とやりあって、五体満足でいられると思うのか?」  にやりと笑ったマリアナは、右手の拳をぎゅっと握ってみせた。途端に盛り上がる筋肉に、やめてくれとタルキシスは懇願した。指摘されて理解したのだが、どう間違っても暴力で敵いそうもないことに気がついたのだ。 「確かに、どう頑張っても勝てそうにないな」 「まあ、そう言うことだ」  あははと笑ったマリアナに、「おかしな奴」とタルキシスはため息を吐いた。 「テラノって所は、こんなのが揃っているのか」 「こんなのとは心外だな。ただ、言いたいことは良く分かるぞ」  テーブルの上からは、すでに食べ終わった食器は片付けられていた。その代わりに、セラムが得意としている紅茶が振る舞われていた。ただ使用されたカップは、ミツルギ家標準の巨大なものだった。 「これもうまいのだが……なんか、お前の家はスケールが狂ってないか? お茶と言うものは、洗面器で飲むものじゃないはずだ。そのだ、もっと上品に嗜むものじゃないのか」  ああ常識がおかしくなる。「なんなんだ」と泣き言を繰り返したタルキシスは、マリアナの顔を見て「帰っていいか」と口にした。 「なんだ、セラムを抱いていかないのか?」 「その後に、お前に殴られることになるんだろう」  そんなのはゴメンだと言ってから、タルキシスは一度目を閉じて大きく息を吸った。それをゆっくり吐いてから、「意外に楽しかった」と意外な言葉を口にした。 「確かに俺は、退屈が嫌いだと言うくせに、変化も怖がっていたんだろうな。しかしだ、それをまあよくもズケズケと言ってくれたものだ。テラノの奴が、一等侯爵に対する敬意の欠片もないのがよく分かったぞ」 「バルゴールの一等侯爵様が、尊敬に値しないのが悪いのだ。これからの帝国は、爵位ではなくその人自身の価値が大切になるんだよ。この短い時間で、俺はそれを教えられたんだ」  だから敬意を払わない。それを堂々と言われて、タルキシスはもう一度大きなため息を吐いた。 「言いたいことは理解できるが……一等侯爵様の前でそれを言い切ってくれるかぁ。なんか、このまま終わらせるのが癪になってきたぞ」  まったくと息を吐きだし、「マリアナと言ったな」とタルキシスはマリアナに呼びかけた。 「一等侯爵様としての命令だ。明日も俺のために時間を用意しろ」 「随分と一方的なことを言ってくれるのだな」  ふんと鼻で笑ったマリアナは、「良いだろう」と少し胸を張ってタルキシスを睨み返した。 「俺の腕っ節の強さを思い知らせてやる」 「いや、それは俺の求めるものじゃない」  いきなり腰が引けたタルキシスに、「冗談だ」とマリアナは大声を出して笑った。 「まったく、おかしな奴に捕まったものだ……だが、嫌いじゃないな、こう言うのは」  意外にスッキリとした顔で立ち上がったタルキシスは、マリアナの隣に立つセラムに「悪かったな」と謝った。 「俺が言っても説得力はないかもしれないが……思いを捨てる必要は無いんじゃないか」 「タルキシス様……」  いきなりやらせろとは言われたが、その後は多少強引な所はあっても乱暴なことはされなかった。それどころか、自分の気持を慮ってもくれたのだ。セラムの心の中では、「悪い人ではない」から「実はいい人」にタルキシスは変わっていた。 「確かに、全く説得力はないな」  茶々を入れたマリアナに、タルキシスは文句を言った。 「お前、少しは空気を読んだらどうなんだ」  まったくともう一度ため息を吐いたタルキシスは、「ご馳走を頼む」とセラムの顔を見た。そして自分のIDから、「メシ代だ」と言ってデーターを飛ばした。その金額に驚いたセラムに、タルキシスは言い訳をするように「迷惑料込みだ」付け加えた。 「なんだ、爵位じゃなくて今度は金でセラムを釣るつもりか」  データーを覗き込んだマリアナは、「余計な努力だな」と笑った。 「んっ、普通は無駄な努力って言うんじゃないのか?」  首を傾げたタルキシスに、「余計な努力だ」とマリアナは繰り返した。 「セラムを抱きたいんだったら、最初から余計なことをしなければよかったんだ。だから、余計な努力って言ってやった」 「一度、格好をつけたくなったと思ってくれればいい」  そう言うことだと笑ったタルキシスは、人の居ない屋敷の出口へと向かった。 「セラム、見送るぞ」 「はい、マリアナ様」  大股で歩くマリアナの後を、セラムは少し小走りになって追いかけていった。  ダイオネアがジェノダイトを飲酒に誘った裏に、孫と顔を合わせたくないと言う気持ちがあったのは言うまでもない。ホテルに戻る前に見せられた統合司令本部の光景を思い出すと、ますます孫達に対する失望が強くなるのだ。何しろ今まで評価すらしていなかった男が、真剣な眼差しで議論を行っていたのを目の当たりにしたのである。有名なテラノのメンバーに、同じく有名なクレスタ学校のメンバーが加わった中で、クランカン一等伯爵は堂々と自分の意見を口にしていたのだ。  それを見せられれば、自分の不明を恥じるしかなくなる。そして同時に、不甲斐ない孫達への失望も大きくなると言うものだ。大きな身振りで意見を口にするクランカンに、リーリスの婿にしてもいいとさえ思えたぐらいだ。  だから慣れない異国の地で深酒に溺れたダイオネアだったが、当たり前のように次の朝を迎えることになった。どうせタルキシスが来ることはないと、一人レストランに降りて朝食を取ることにした。だがダイオネアの予想とは違い、孫のタルキシスと顔を合わせることになった。  それでも、タルキシスが自分と朝食を取るとは考えてもいなかった。だがダイオネアの顔を見たタルキシスは、「ちょうどいい」と言って正面の椅子に腰を下ろした。 「よくもわしと、一緒に飯を食う気になったものだ」  昨日のことで、すでに孫二人には見切りを付けていた。だからダイオネアの言葉も、とても冷たい響きを持っていた。ある意味害意すら漂わせた祖父の言葉に、「俺だって一緒は嫌だ」とタルキシスは言い返した。 「ならば、なぜわしの前に座った。金の無心か?」  どうせそのあたりだろうと嘲笑った祖父に、「それもある」とタルキシスは彼にしては真面目な顔をした。その表情に、「なんだ」とダイオネアは違和感を覚えた。 「爺さんに頼みがあって待っていたんだ」 「やはり、金か」  どうしようもない孫と言うのは今更なのだが、それでもダイオネアは失望と言うものを感じていた。そんな祖父に、タルキシスは予想外のことを口にした。 「一つは、嫁を迎えたいと言うことだ。そしてもう一つが、女を一人養子にして欲しい」 「お前が嫁……だと。それに、女を養子にしろだと?」  予想もしない孫の言葉に、ダイオネアはその意味をすぐに理解することはできなかった。そんな祖父に、「今言った通りだ」とタルキシスは繰り返した。 「嫁にしたいのは、元一等男爵家の娘だ。どうやら今は、身柄がアズライト様預かりになっているらしい。そして養子にして欲しいのは、その家に仕えていた女だ。セラムと言うのだが、まだ幼いが中々の器量よしだ」 「是非を答える前に、事情を説明しろ。いきなり頼まれるにしても、あまりにも突拍子もない事だろう」  嫁に迎える相手の身分もそうだが、養女にする相手がその召使だと言うのだ。普通なら「愚か者」と叱るところなのだが、昨日からのことで話を聞いてみようと言う気になったのである。そしてもう一つ事情があるすれば、今までされていた金の無心とは意味が違ったことだ。 「つべこべ言うなと言いたいところなのだが。放蕩息子と言われた俺だからな、事情ぐらい説明しないとその気になってくれないのだろうな」  分かったと頷いたタルキシスは、昨日起きたことを最初から丁寧に説明した。はじめは愚かなと呆れいていたダイオネアも、話が進むに連れて真剣な眼差しをタルキシスに向けるようになっていた。そして最後まで話を聞いた所で、「一つ条件がある」と正面からタルキシスの目を見据えた。 「今日もその女のところに行くと言うのなら、わしも連れて行くことを条件としよう」 「女を口説きに行くのに、爺さんを連れて行くのか?」  勘弁してくれと零したタルキシスだったが、すぐに仕方がないとその条件を認めることにした。20年以上生きてきて、自分の祖父が融通の聞かない男と言うのは嫌と言うほど理解していたのだ。それに一気にケリをつけるには、祖父の存在は利用できたのだ。  危険度は低くても、タルキシスが要監視対象であることには変わりはない。そのため、昨日何が起きたのかは、全て治安担当のウルフが把握していた。それを討論前のミーティングで、ウルフはアセイリアに報告していた。 「何か、予想外の展開としか言い様がないのですが……朝から見せられたいものではありませんね」  そう文句を言いながら、アセイリアは人差し指でこめかみを押した。 「どうして、婦女暴行を見逃したのですか?」  アセイリアが問題としたのは、タルキシスがセラムを路地裏に連れ込んでした行為だった。婦女暴行、さもなければ強制猥褻行為に当たると思っていた。セラムの年齢を考えたら、合意の有無も関係無いはずだった。  スネに傷を持つアセイリアの指摘に、しかしなぁとウルフは視線を宙に彷徨わせた。 「婦女暴行と言われてもな……まあ、未成年者相手だから問答無用で拘束も可能だったが。女性方に拒絶の意思がなかったので、手出しを控えたと言うのが監視からの報告だ」  一見まともそうに思える理由なのだが、そこには大きな前提が抜け落ちていた。ただそれを指摘する前に、「一応全員が理解している」とウルフは先回りをした。 「メリディアニ家の孫達は、微罪でも牢屋に放り込めと言うのは分かっている。その意味で言えば、アセイリアの言うことの方が正しい対処に違いない。その辺り、その地域の監視役がスギシタのおっさんと言うのも理由になっているんだ」 「スギシタさん……って、この道30年の大ベテランのお方ですか」  すぐにデーターを確認したアセイリアに、「そのスギシタ」とウルフは認めた。 「あの辺りの更生した奴らからは、神様のように慕われているおっさんだ。不思議と鼻が利くのか、介入と不介入の判断が的確なんだよ。そのスギシタのおっさんが介入の必要はないと判断し、その代わり情報をマリアナ嬢に送りつけた。拘束しなかった理由は、こんなことになるのだが……」  さすがのウルフも、その対応のすべてを認めている訳ではない。むしろリスクが有りすぎだと、報告後に頭を抱えたと言う事情があったぐらいだ。そしてアセイリアも、ウルフと同じ感想を持っていた。 「結果的に好ましい方向には向かっていますが……いくらなんでもリスクを取りすぎだと思いますよ。別に私達は、メリディアニ家の問題解決を目的としていませんからね」  モトマチの後を確認すると、タルキシスは売却予定のミツルギ家本宅のあった建物に招待されていたのだ。直前の出来事を考えると、まともに考えれば想像できる事態ではないはずだ。  しかも情報では、今日も旧ミツルギ家本宅を訪問すると言う。あまりにも予想外の展開すぎて、頭がついていかないと思ったぐらいだ。 「意外に常識人だったってこと?」 「意外に誠実で悩める若者だった……と言うのが正確だと思うが。伝え聞くメリディアニ家の事情を考えると、同情できるところは確かにあるな」  そこで一度目を閉じたウルフは、「報告は以上だ」と締めくくった。昨日の状況を見る限り、介入優先度は極端に下がっているのは明確となったのだ。メリディアニ家前当主の来訪問題も、初期消火のお陰で無事終わりそうなめどが付いていた。 「この事は、ジェノダイト様には?」 「一応、報告書はあげてある。ただ、今の所ジェノダイト様からのコメントは無いがな。大方、アセイリアに任せたつもりになっているんじゃないのか」  あまりにも心当たりのありすぎる指摘に、「やめて欲しいな」とアセイリアは不平を漏らした。 「センテニアルのやり直しが終わったから、確かに時間的に余裕はできましたよ。でも、イヨさんがバカンスに行っちゃったから、その分の仕事が増えているんだけどなぁ」  ただ文句を言っても、仕事だで跳ね返されてしまうのだろう。仕方がないと諦めたアセイリアは、一応クランカンには教えておこうと考えた。もちろんセラムにしたことについては、揉め事の原因になるので伏せておこうとは思っていた。 「そう言えば、クランカン一等伯爵は?」  顔を見ないと首を傾げたアセイリアに、「お前なぁ」とウルフは責めるような視線を向けた。 「議論ばかりじゃ駄目だと放り出したのを忘れたのか? だから今日は、フレイアさんが観光に連れ出しているはずだ……実家に連れて行くと言うのは、一応ダメ出しをしておいたがな」 「一応観光目的の入国だから、ヨーロッパぐらい認めてあげてもいいと思いますよ」  しれっと答えたアセイリアに、「お節介の焼きすぎ」とウルフは苦笑した。そんなウルフに、「甘いですね」と逆アセイリアは言い返した。 「逆に、アルケスト家の関係者がヨコハマ入りをしてくると思いますよ。形の上では、玉の輿に乗ることになりますからね」 「ヨコハマから出ないのなら、別に俺達が問題にすることじゃないだろう」  自分達が関わるのは、あくまで警備上の問題だけだ。言い返してきたウルフに、確かにそうだったとアセイリアも認めたのである。この問題について言えば、責任者がヨシヒコと言うのも気が楽な理由だった。  ミツルギ家訪問が昼食間際になったのは、事前準備に時間が掛かったのが理由だった。放逐を考えていた孫とは言え、相手の素性に気を使う必要もある。幾ら放り出したつもりでいても、メリディアニ家の名前を消すことは出来ないのだ。騒ぎの種は、事前に摘み取る必要があるとダイオネアは考えていた。  だがマリアナの素性を調べた所で、ダイオネアは話が厄介な方向に向かっているのに気付かされた。マリアナ自身、元の身分は三等男爵と低いものなのだが、ここ1年の功績があまりにも大きすぎたのだ。悲劇となったセンテニアル前には、ジェノダイト直々に皇女殿下の世話役に任命されいてる。しかもイェーガージェンヌに偽装したグリゴンのホプリタイと戦い、被害拡大を防ぐ功績を上げたのである。そしてやり直しとなったセンテニアルでは、学生チームのリーダーとして、正規軍人のチームと引き分けと言う功績も上げていた。これだけの功績を上げているのに、なぜ実家が一等男爵の爵位を返上したのか、逆にその事情が気になってしまったほどだ。  そしてタルキシスの口にした次期皇帝との関係も、事実であるのを確認することが出来た。それを考えると、慎重にも慎重に行動しなければいけない相手に違いない。売りに出ていた屋敷は押さえはしたが、これが火種にならなければと考えたほどである。  領主府から南に下り、少し内陸に入った北東向きの斜面に旧ミツルギ邸は建てられていた。その為ミツルギ邸は、総領主府の建物が一望できると言う恵まれたロケーションにあった。泊まっているホテルからタクシーで乗り付けたダイオネアは、周りの環境に「悪くはないな」との感想を持ったぐらいだ。起伏に富んだ地形のお陰か、景色自体が変化に富んでいたのも印象を良くしていたのだ。  小さな車寄せにタクシーを止めた所で、二人は一人の少女の出迎えを受けた。少し長めの黒のメイド服は、使用人の制服なのだろうか。茶色の髪を肩口まで伸ばした、ダイオネアの目から見ても器量の良い少女だった。 「ダイオネア一等侯爵様。タルキシス一等侯爵様。本日はミツルギ家にお越しいただき感謝いたします」  ゆっくりと、そして優雅に頭を下げた少女に、躾も行き届いているのだとダイオネアは理解した。顔の造形もよく、しかも立ち居振る舞いも落ち着き洗練されている。放蕩を続けていた孫が手を出そうとしたのも、仕方がないなと思えたぐらいだ。  セラムに案内されて館に入ったダイオネアは、深々と頭を下げるマリアナに迎えられた。一応データーでは確認していたが、こうして間近に見ると「青年だな」と思えてしまう。太い二の腕を見せられれば、本当に女なのかと疑問に感じてしまうのだ。 「本日は、お越しいただき感謝いたします。あいにく爵位を返上し、屋敷も売りに出しているところなので、使用人もおりません。何かとご不便をおかけするかと思いますが、ごゆっくりとおくつろぎください」  丁寧に挨拶をするマリアナに、「やはり女だったのだな」とダイオネアは失礼な感想を抱いた。 「丁寧なご挨拶痛み入る。こちらこそ、いきなり押しかけてきたことをお詫びする」  礼儀には礼儀で返したダイオネアに、「挨拶はそこまでだ」とタルキシスが割って入った。そんなタルキシスに、「また余計な努力をしたのだな」とマリアナは言い返した。 「初めから素直にセラムを抱きたいと言っていれば、前の一等侯爵様まで連れてくる必要はなかったのだぞ」  前日の話を蒸し返したマリアナに、それを言うなとタルキシスは苦笑を返した。 「あーっ、そのことだが後回しにしてもいいか。それよりも、セラムの作った飯を食いたいんだ。どうもホテルの飯は、味気なくて美味くない」 「今度は、飯を褒めてセラムを口説くつもりなのか?」  厄介な手順を踏むなと、マリアナは笑った。 「だから、その話は忘れてくれと言っているだろう」  しつこいぞと文句を言いながら、タルキシスはさっさと食事の用意が進められているテーブルに着いた。それに「好き勝手してるな」と呆れたマリアナは、同じように呆れているダイオネアに頭を下げた。 「料理人にも暇を出してしまいましたので、大したおもてなしを出来ないことをお詫びいたします」 「いや、勝手に押しかけてきたこちらに非があるだろう。逆にご迷惑をおかけしたことをお詫びする」  頭を下げ返したダイオネアは、案内された席に腰を下ろした。それに合わせて出された前菜に、「ほう」と小さく感嘆の声を上げた。そいてその事情は、タルキシスも同じだった。 「昨日とは、手の掛け方が違っているな」 「セラムを手篭めにしようとした奴に、わざわざ特別な料理を作るはずがないだろう」  常識を知れと、マリアナはタルキシスに言い返した。 「しかもだ、間際になって一等侯爵様をお連れすると連絡をよこすとは、嫌がらせではないかと思ったぐらいだ。そのお陰で、セラムは商店街を走り回ることになってしまったんだぞ」 「そうか、それは悪いことをしたな」  少しも悪そうな顔をせず、箸を器用に使ってタルキシスは前菜を口に放り込んだ。 「うん、中々うまいじゃないか。さすがは、料理上手と褒められるだけのことは有る」  うんうんと頷きながら料理を食べるタルキシスに、「素人料理です」と顔を赤くしながらセラムは厨房へと戻っていった。そしてすぐに、次の皿をワゴンに載せて戻ってきた。鯛の煮物なのだが、スープをトウモロコシの濾した物を使うことで洋風に仕上げた一品である。そして買ってきたバゲットを切り分けたものを、テーブルの中央のかごに置いた。  さっそく煮魚に手を出したタルキシスは、「これもうまい」とセラムの料理を褒めた。 「何を今更、セラムの料理上手は教えてやっただろう」 「だが、確かにいい味を出しておるぞ。なるほど、砕けた雰囲気が食事をさらに美味しくしているのかもしれんな」  スプーンで黄色いスープを掬い、ダイオネアはそれを静かに口へと運んだ。さすがは一等侯爵だっただけのことはあり、その所作はとても洗練されたものだった。 「それに、このパンも中々美味しいぞ」  スープに合うなと口に運んだタルキシスに、「悪いな」とマリアナは口元を歪めた。 「それは、近くの店で買ってきたものだ」 「べ、別に、セラムを褒めるために言った訳じゃないからな」  言い訳をしたタルキシスは、「うまい」と言って鯛の切り身を口に運んだ。  あっと言う間に鯛の煮物を平らげたタルシスに、慌てなくてもいいだろうとマリアナは笑った。ただそう言ったはなに、ダイオネアも煮物を平らげていた。大食いのマリアナよりもペースが早いのだから、よほど料理が気に入ったとも言えるだろう。 「手際が悪くて申し訳ありません。それから、ワインの用意が無いことをお詫びいたします。在庫にあったものは処分してしまいましたので、ストックがなくなってしまいました。それに私は未成年ですので、酒販店でアルコールを購入することが出来ませんので」 「あー、それは良いぞ、手土産一つ持ってこなかったこっちが悪いんだからな。まったく、連れて行けと言うのなら、普通は手土産の一つも考えるものだろう」  気が利かないとダイオネアを詰ったタルキシスは、目の前に出されたステーキに手を叩いて喜んだ。素人料理と言う割に、一つ一つちゃんと仕事がしてあったのだ。しかも盛り付けにも気を使っているので、バルゴールの屋敷で食べるものに引けを取っていなかった。そして気分の問題なのか、ここで食べる方がずっと美味しく感じられた。 「とは言え、確かに酒が飲みたくなるな」  そう言って笑ったタルキシスは、ミネラルウォーターをゴクリと飲み込んだ。そして肉を口に含み、「あーうまい」と素直な感想を口にした。 「まったく、不思議な奴だな」  さすがのマリアナも、タルキシスの態度には苦笑を浮かべてしまった。顔を合わせて二日目なのに、まるで自分の家のように振る舞ってくれるのだ。ただ相手にしていて、面倒だと言う気持ちは湧いてこなかった。その辺り、話のしやすさも理由になっているのだろう。変な奴と言うのが、一番しっくりとくる感想に違いない。ちなみにからかう時には使うが、セラムにしたことは綺麗サッパリ水に流していた。 「それにこのデザートだが、まさに芸術と言っていい出来だな。味だけじゃなく、見た目まで洗練されているじゃないか」 「言っておくが、それも買ってきたものだぞ」  すかさず口を挟んだマリアナに、「だからどうした」とタルキシスは言い返した。 「どういった味覚をしているのか分からない相手なのに、ちゃんとうまいと思えるものを選んでくれたのだぞ。だからこれは、セラムの手柄に違いない」  えへんと胸を張ったタルキシスに、「もったいないお言葉です」と言ってセラムはお茶の用意を始めた。しっかり顔が赤くなっているのは、褒められたことが嬉しかったのだろう。セラムの中では、「実はいい人」から「普通にいい人」にタルキシスはランクアップしていた。 「ただひとつ言わせてもらっていいか? どうして、今日はちゃんとしたカップが用意されているんだ?」  昨日は、洗面器のようなカップでお茶を飲まされたのだ。それに引き換え、今日は普通サイズのカップが出てきている。それがおかしいと文句を言ったタルキシスに、「当たり前だ」とマリアナが言い返した。 「昨日は、お前が勝手に上がり込んできたのだろう。だから、来客用のカップなど用意できなかったんだ」 「あんなサイズを、普段使いしているのがおかしいと思うんだがな」  文句を言いながらお茶に口をつけたタルキシスは、「やっぱりうまい」とセラムの淹れてくれた紅茶を褒めた。 「確かに、絶妙な味を出しておるな」  うんうんと頷いた祖父に、だろうとタルキシスは身を乗り出した。そしてタルキシスは、「セラム」と奥に戻ろうとしたセラムを呼び止めた。 「お前は、昼食をとったのか?」 「料理の準備中に簡単なものを」  それがと首を傾げたセラムに、「お前も座れ」とタルキシスは命じた。ただ主からの命令でないので、どうしましょうとセラムはマリアナの顔を見た。 「お客様の希望だ。お前もカップを持って、俺の横に座れ」  なんだと思いながら、マリアナはセラムに座るように命じた。主の命令だからと、セラムは一度奥に戻り自分のカップと新しいティーポットを持って戻ってきた。  「失礼致します」と二人に頭を下げたセラムは、指示された通りにマリアナの隣に腰を下ろした。 「それで、前の御当主様を連れて今日はセラムを欲しいと言いに来たのか?」  全員が揃ったと、マリアナはタルキシスの目的を問いただした。前日からの態度を見ていれば、彼がセラムのことを気に入ったのは理解できるのだ。わざわざ前の一等侯爵を連れ出したのは、貰い受けるための礼を示したのだと考えたのである。  「セラムを」と言うマリアナに、タルキシスは「いや」と短く否定の言葉を口にした。そしてマリアナの顔を見て、事情を調べさせて貰ったと切り出した。 「先に言っておくが、俺はお前を嫁に迎えに来たんだ」 「だから余計な努力をしおってと言ってやっただろう。セラムが拒まないのなら、俺は何も言うことはない」  好きにしろと言い放ったマリアナに、「ちょっと待て」とタルキシスは言い返した。 「俺は、お前……つまり、マリアナ・ミツルギを嫁に迎えに来たのだぞ」 「だからセラムなら……ちょっと待て、今何といった?」  初めから決めてかかっていたこともあり、マリアナはタルキシスの言ったことを理解していなかった。それを「おっちょこちょいな奴だな」と笑い、「マリアナ・ミツルギ」とまっすぐにマリアナの顔を見た。 「勘違いでも何でもない。俺は、お前を嫁に迎えたいと思ったのだ。だから余計かと思ったが、爺さんを連れてきたんだ。お前となら、やり直しが出来るんじゃないかと思えたんだよ」  だからだと言われ、さすがのマリアナも焦ってしまった。 「い、いや、まて、普通はセラムに目が行くものだろう。大体俺は、周りから女に見られていないのだぞ。それにだ、一等侯爵家の者と釣り合う立場じゃないだろう」 「確かに、腕っ節なら俺はお前に敵わないな。二の腕なんか、お前の方が絶対に太いだろう。だがな、そんなことは関係ないと俺は思っているんだ。まあ、あんな出会い方をしたから、俺のことを信用できない気持ちは理解しているつもりだ。ただな、俺はお前と話をしていて気持ちが晴れるのを感じたんだよ。俺にも何かできるんじゃないか、お前は俺にそう思わせてくれたんだ。だったら、そんな女を嫁に迎えたいと思っても不思議じゃないはずだ。ただ先に言っておくが、俺はメリディアニ家の跡を継ぐことはないのだろう。だから爺さんに、手切れ金を寄越せと言ってやったんだ。俺はその金でこの屋敷を買い取るのと、テラノで暮らしていく原資にしようと思っている。だから嫁になってくれ」  そう言って頭を下げるタルキシスに、マリアナはため息混じりに「俺の都合は関係なしか?」と言い返した。 「俺の身分は、アズライト様預かりになっているのだぞ」 「それは、調べたから分かっている。ただアズライト様には、俺からお許しを願い出ればいいだろう。メリディアニ家からの願いなら、アズライト様も無碍にはしないだろうしな。一等侯爵夫人の身分は用意できないが、金に困ることは無いようには努力をする」  「お願いだ」と頭を下げるタルキシスに、マリアナはもう一度ため息を吐いた。そして真面目な、少し厳しい表情を浮かべて「断る」と言い切った。 「そこを何とか頼むっ!」 「なんとかと頼まれようが、受け入れられないものは受け入れられない」  だいたいだと、顔を上げたタルキシスをマリアナは身を乗り出して指差した。 「お前は、一等侯爵家の跡取り候補の一人なのだろう。それなのに、どうして家から出ることしか考えないのだ。地球に残ると言うのは、今のお前には冒険でもなんでもないだろう。昨日も言ったが、お前は自分の楽な方に逃げているんだ。一等侯爵家に生まれた者が、どうして責任を果たそうとしないのだ。代わり映えがしないのが問題だと思うのなら、代わり映えがするように努力をしてみせろ。俺を嫁に欲しいと言うのなら、そこから始めないと話しにならん!」  以上だと腕を組んで椅子に座り直したマリアナに、タルキシスは一度キョトンとした目をした。それから大きくため息を吐いてから、「爺さん」と隣で呆れていたダイオネアに呼びかけた。 「そう言うことなんで、家から放り出すのを少しだけ待ってもらえないか。無駄かもしれないが、努力とか言うものをしてみたいんだ」  頼むと頭を下げられたダイオネアは、すぐに答えを口にはしなかった。そして難しい顔をしてから、ゆっくりと口をへの字にしたマリアナの方へと視線を向けた。それから大きく息を吐いてから、白くなった頭を掻いた。 「どうして、こう言う話になるのだ。まったく、テラノと言うのは訳の分からん星だ」  そう嘆いたダイオネアは、「タルキシス」と自分の孫に呼びかけた。 「お前の言い分は聞いてやる。それからこの屋敷を買い取るのも認めてやろう。だが、お前がこの星に残ることは許さん。努力をすると言うのなら、バルゴールに戻って努力をしてみせろ」  「もう一つ」とダイオネアはもう一人テラノに来ている一等伯爵の名を上げた。 「お前も、クランカンがテラノに来ているのは知っているはずだ。帰りはあ奴を俺等の船に乗せて帰るつもりだ。そこでお前は、奴とじっくり話をしろ。バルゴールを変えようと言うのなら、そこから始めて見せるのだな」  タルキシスが驚いた顔をするのも、ダイオネアが自分の願いを聞いたことが理由だろう。そしてダイオネアは、驚く孫からマリアナに向き直った。 「すまんが、タルキシスに少しだけ時間を与えてやってくれないだろうか。その上で駄目だと思うのなら、容赦なく捨ててやって構わない。こ奴の祖父として、頭を下げてお願いさせてもらう」  その言葉通り、ダイオネアはテーブルにこすりつけるぐらいに頭を下げた。相手が誇り高い前一等侯爵だと思うと、それは過分な礼儀に違いない。流石に困った顔をしたマリアナは、「有り難い話なのだが」と困惑を前に出した。 「俺は、爵位も保たない女なのだぞ。それに爵位があったときでも、たかが一等男爵でしかなかったのだ。どう考えても、一等侯爵家との縁組はありえないだろう」  それまでの常識を持ち出したマリアナに、「何を今更」と言ってダイオネアはぎょろりと目をむいた。 「アズライト様のお相手は、テラノの庶民だったと言うではないか。しかもその庶民は、あろうことか次の皇帝聖下なられると言う。そんな時代に、たかが一等侯爵家の嫁の立場が問題になることがあろうか。もしも爵位が必要というのなら、知り合いの公爵家にでも養女にしてもらえば事が足りる。そもそも、テラノ総領主様の跡取りの嫁は、ただの庶民ではなかったのか?」 「俺には、酷い開き直りにしか思えないのだがな。それに、アセイリア様と同じにされたくないのだが」  そう答えながら、マリアナはイヨに言われたことを思い出していた。ジェノダイトもそうなのだが、言われるほど爵位に対するこだわりは無いのだ。求めるのは人格なり能力であって、爵位程度はどうにでもなるとイヨは言っていた。 「俺には、惚れた男がいるのだがな?」 「それも承知の上でお願いしている。どうしても諦められないと言うのなら、その時はその時だ」 「それに俺の身分は、アズライト様預かりになっているんだがな」 「それも、先程孫が言ったとおりだ。メリディアニ家から願い出れば、アズライト様も無碍には出来ないだろう」  ダイオネアにまでお願いすると頭を下げられると、流石のマリアナも断ることができなくなる。ただ困ってはいたが、嫌だと言う気持ちは湧いていなかった。 「普通ならば、喜んでと答えるところなのだろうな。ただ言わせて貰うが、俺はあんたの嫁になりたいとは思っていなかった。だから答えを迫られても、正直困るとしか言いようがない。だから、もう少しだけ答えを待って貰えないだろうか。何しろさっきまでは、あんたがセラムを愛妾としてバルゴールに連れて行くのだと思っていたんだからな」 「確かに、昨日の今日じゃ答えに困るんだろうな」  これだけ押しても、色好い返事は貰えなかった。ただそれでめげていては、元の木阿弥だとタルキシスは考えたのである。 「だからこの星に残ってと思っていたんだが、それは駄目だと爺さんに言われてしまった。確かに、バルゴールを変えるためには、この星に残っていちゃ駄目なんだろうな」  そこで言葉を切ったタルキシスは、隣で難しい顔をしているダイオネアを一瞥した。そして真剣な表情で、マリアナに向き合った。 「今すぐ嫁になれとは言わないが、バルゴールに来て俺のやることを見届けろ。俺を焚き付けた以上、それぐらいの責任がお前には有るはずだ」 「どうして、責任と言う話になるのだ。どう考えてもおかしいだろう、それは」  勘弁してくれと零すマリアナに、「だったら嫁になれ」とタルキシスは繰り返した。 「うんと言うまで、てこでも俺はここを動かん」 「そうやって俺を脅迫するな……まったく」  ああと天を仰いだマリアナは、「仕方がない」と折れることにした。もっとも折れたと言っても、嫁になることを認めたわけではない。 「バルゴールに行って、お前がやることを見届けてやろう。そしてその上で、綺麗さっぱり断ってやる」 「嫁にしてくれと、頭を下げさせてやるさ」  にやりと口元を歪めたタルキシスは、「これで話がまとまった」と大きな声を上げた。 「本当なら祝杯と行きたいところなのだが、この家には酒はなかったのだな」  そうだなと問われて、「そのはずでした」とセラムは返した。 「ただ、奥の方に1本残っていたのを思い出しました」 「なんか、それはわざとらしくないか」  どうして都合よく酒が出て来るのだ。奥の方に消えていったセラムに、「遊んでないか」とタルキシスは声を掛けた。 「男なら、細かなことを気にするな」  今までなら、それを言うのはマリアナの役目だっただろう。だが今度は、ダイオネアが笑いながら言ってくれた。いやいやとタルキシスが首を振った所で、セラムがワゴンにクーラーを乗せ発泡酒を持って戻ってきた。グラスの数は、当然3つだった。  そのグラスを3人の前に並べたセラムは、少しおっかなびっくり発泡酒の栓を抜いた。ぽんと言う軽やかな音を立てて栓が抜け落ち、瓶の口からは白い泡が溢れ出てきた。  それを3人に注ぎ分けたところで、セラムは失礼しましたと言って奥に消えていこうとした。タルキシスが呼び止めたのは、今更のことだった。 「何をさり気なく、一人だけ蚊帳の外になろうとしているのだ?」 「ですが私はお酒を飲めませんし、主のお祝いにグラスを重ねる立場ではありません」  側仕えとしての立場を持ち出したセラムに、「お前も飲め」とタルキシスは命令した。 「大丈夫だ。酔いつぶれたとしても、無くすのは精々貞操だ」 「人のことを口説いておいて、セラムにも手を出そうと言うのか?」  酷い男だと詰ったマリアナに、「軽い冗談だ」とタルキシスは言い返した。 「これからお前の話もするのだ。だからお前も、グラスを持ってそこに座れ」  助けてくださいとマリアナの顔を見たのだが、逆に頷かれてセラムは肩を落とした。そして「どうしてなんです」と呟きながら、奥の部屋へと入っていった。  それから程なくグラスを持って現れたセラムに、タルキシスがたっぷりと酒を注いでくれた。 「今更私を酔わせて、どうしようと言うのですか」 「酒に酔った方が、初めての時痛くないと言うからな……と言うのも冗談だ」  そう言いながら、タルキシスはグラスを前に出した。 「俺とマリアナの婚約を祝して」 「お前が俺に振られるのを祝してだろう」  すかさず言い返したマリアナに、「振られないさ」とタルキシスは言い返した。 「少なくとも、俺は諦めないからな」 「ああ、なんか面倒になってきたな」  とにかく乾杯と、マリアナは勝手に音頭を取ってグラスをぶつけた。 「よりによって、初めて言い寄ってきた男がこんな男とは……」 「そうか、お前は随分と男運が良かったのだな」  良かった良かったと言いながら酒を飲むタルキシスに、セラムは思わず口を押さえて笑ってしまった。それを見つけたタルキシスは、「ようやく笑ったか」と安堵したような言葉を口にした。 「さて、俺が爺さんを連れてきたのにはもう一つ理由がある。それはセラム、お前に償いをするためだ」 「昨日のことでしたら、気にしていただかなくても結構です」  そこで少し頬を赤くしたのは、タルキシスにされたことを思い出したのだろう。その時は心が麻痺をしていたのだが、思い出してみるとかなり恥ずかしいこと許していたのだ。 「いや、俺は償わなければいけないと思っている。それは、お前にいかがわしい真似をしたことにではない。お前の心の奥底にしまいこんでいたものを、無邪気に暴き出してしまったことへの償いだ。そのために爺さんに、お前をメリディアニ家の養女にして貰いたいと頼んだのだが。それでは駄目だと断られた。そしてその代わり、メリディアニ家はお前の後見人になる」 「それに、何か意味があるのでしょうか?」  後見人になると言われても、それが具体的にどう言うことなのか分からなかったのだ。そもそもタルキシスが、何を目的としているのか分からなかった。 「昨日俺は、お前の心が諦めたくないと叫んでいると指摘してしまった。結果的に、お前が過去のものにしようとしてしまいこんでいたものを暴き出してしまったんだ。誰にだって、無理やり過去にしたいものは有るもんだ。それはすぐにでは無理でも、時間とともに忘れることの痛みを感じなくなり、そしていつか、心の中から消すことができるものだろう。いつか新しい思いを見つけ、それを支えに生きていくこともできる。それが、生きていくことだと俺は思っている。とまあ、偉そうなことを言っては見たが、俺も諦めていた口なんだがな」  自嘲するように笑ったタルキシスは、「その償いだ」とセラムの顔を見た。 「暴き出してしまった以上、もう一度忘れるのは……違うな、何度も忘れては思い出し、そして忘れようとするのは、結局心を壊すことになるのだ。昨日俺は、お前が諦めた目をしていると言っただろう。だが俺は、それが勘違いだと理解することが出来た。ただ勘違いとは言ったが、お前の心はもっと酷いことになっていたんだ。お前の心は、何度も諦めようとしたせいで、本当に壊れかけていたんだよ。それでも、時間を掛ければ心は似たの形を取り戻すことが出来るのだろう。だがな、せっかく押し込んだ思いを、俺はまた思い出させてしまった。今度こそ、忘れようとしたらお前の心を壊してしまうことになる」 「ですが、私の思いは絶対に叶わないものです」  悲しげに俯いたセラムに、「そんなことはない」とタルキシスは断言した。 「それは、タルキシス様が何もご存じないからです」 「確かに、普通の男相手だったら叶うことはなかっただろうな」  つまりタルキシスは、セラムの想い人が普通の男ではないことを知っていると言うことになる。そしてタルキシスは、「お前たちのことを調べたと言っただろう」と俯いたセラムの顔を手で持ち上げた。 「次の皇帝聖下は、後宮を構えることを周りから強く勧められている。そして皇帝ならば、愛妾を持つこともおかしなことじゃない。だから形さえ拘らなければ、お前は思いを叶えることは可能なんだ。ただな、今更愛妾では俺の納得がいかんのだ。だから後宮入りを認めさせるために、お前をメリディアニ家の養女にすることを考えたのだ。ただ、それでは駄目だと爺さんに反対されてしまったんだ」  なあと顔を見られ、ダイオネアは大きく頷いた。 「言っておくが、別に養女にするのが嫌と言う訳ではないのだぞ。器量も性格も良いのだから、むしろ養女に迎えた方が良いのではと思い始めたぐらいだ。だがな、次なる皇帝聖下の後宮に入るのであれば、メリディアニ家の養女と言うのは逆に足を引っ張ることになるだろう。だから養女ではなく、後見人となることにした。ただの庶民が次の皇帝になるのだ。ならばただの庶民が、その后の一人となってもいいだろう。それを考えると、形を整えることは逆に難しくすることに繋がるのだよ。もちろん、後見人になる以上は、全力で後宮に入れるよう支援をするつもりだ。ただお前にも、それなりの努力を求めることになるがな」  そう言って笑ったダイオネアは、「感謝しているのだ」とマリアナとセラムに礼を言った。 「わしがこ奴の兄、キャリバーンとこ奴をテラノに連れてきたのは、引導を渡すための手順でしかなかった。それぐらい、こ奴らはメリディアニ家の家名に泥を塗ってくれたのだからな。だからキャスバルもわしも、リーリスに婿をとって家を継がせることを考えておったのだ。ただ見限ろうとする一方で、心の何処かで期待を残していたのも確かだった。だがキャリバーンは、テラノについて早々に騒ぎを起こしてくれた。そしてこ奴は、いつもと変わらず無気力に生きてくれたのだ。だからわしは、二人を切り捨てる覚悟を決めていたのだよ。だがな、お前たち二人のお陰で、こ奴はギリギリの所で踏みとどまってくれた。ここから先どうなるのかは分からぬが、少なくとも期待することは出来るだろう。そのためにはマリアナ嬢、あなたに嫁になってもらいたいと思っておるのだよ。ただあなたの言う通り、出会って二日目ではハイとは言えないのだろう。それでもどうしようもないと思っていた孫が、立ち直ろうと言う姿勢を見せてくれたのだ。だからわしは、素直に二人に感謝することが出来るのだよ」  そう言って頭を下げたダイオネアに、「もったいない」とマリアナとセラムは慌てた。 「孫は償いを、そしてわしは感謝の気持ちを形にさせて貰う。それが、お前の後見人になると言うことだ。もちろん、メリディアニ家が後見人になったからと言って、絶対に叶うと言うものではないのだろうがな。そして先程も言った通り、お前にも努力が求められることになる。その手始めとして、帝国大学に入って貰うことになるだろう。そのために、プリスクールに入ってから第9大学に通って貰うつもりだ」 「私が、第9大学に……ですか?」  今まで考えたこともない話に、セラムはついて行けていなかった。だがダイオネアとタルキシスの顔を見る限り、二人が本気で言っているのは理解することが出来た。それでもセラムには、そこまでして貰う理由が分からなかった。 「なぜ、私のような者にまで。私は、知らない殿方に体を許すようなふしだらな娘でしかありません」 「そんな娘が、あのようにうまい紅茶を淹れられるだろうか。あんな心のこもった料理を作ることが出来るだろうか。昨日のことはわしもこ奴から聞かされているのだ。だがな、あれはこ奴がお前の心のすきに付け込んだだけのことだ。お前は、少しも自分を卑下する必要など無いのだよ。美しい顔をしたものは、それこそ帝国の中に大勢いるだろう。だが心の美しさが顔に出たものは、探すのが難しいぐらい少ないのだ。お前は素顔も美しく、そして心の美しさも顔に出ているのだよ。それはとても貴重なことで、誇っても良いことだとわしは思うぞ。だからお前は、素直にわしらの償いを受け入れてくれればいい」  よいかと問われ、セラムは涙を流しながら何度も頷いた。そしてまっすぐ顔を上げ、「お願いがございます」とダイオネアとタルキシスの顔を見た。セラムのことを綺麗だと思っていたタルキシスだったが、今の方がもっと綺麗だと見とれてしまうほど美しい顔をしていた。 「私は、全力で努力を致します。もしもそれでも届かない時には、タルキシス様の愛妾にしていただけないでしょうか。それがご恩を返すことにもなりますし、敬愛するマリアナ様と共にあることにもなると思います」 「セラム、私は断ってやると言ったのだぞ。お前がそんなことを言うと、断ることができなくなるだろう」  だからやめてくれ。そう懇願したマリアナに、「でしたら」とセラムは笑顔を見せた。 「マリアナ様にも、ご支援いただけたらと思います」 「そうするのが、俺のためにもなると言うことか」  苦笑したマリアナの横で、それはいいとタルキシスは小さく頷いた。 「なにか、猛烈に足を引っ張りたくなってきたな。そうすれば、俺はマリアナとセラムの両方を手に入れることができるのか。努力をした後なら、引きずることもないだろうしな」  それも一つの手かと真顔で口にしたタルキシスは、責めるような二人の視線に「冗談だ」と真顔のまま答えた。 「そのつもりだったら、後見人の話を持ち出す必要はないはずだ」  だから冗談なのだと、タルキシスは二人に向かって許してくれと頭を下げたのである。  その午後ジェノダイトの元を尋ねたのは、ダイオネアにとっては必要なことだった。色々と走り出した事情を説明するのと、必要な配慮を願い出る必要があったのだ。  そして自分がジェノダイトの所に行くのに合わせて、タルキシスには仕事を申し付けた。売りに出ているミツルギ邸を買い取ることと、愚か者の兄の後始末をつけることだった。館の買い取りには前向きのタルキシスだったが、兄の尻拭いにははっきり「嫌だ」と言い返した。それを祖父からは、「家を継ぐのではなかったのか」の一言で黙らされてしまった。 「まあ、来るとは思っていましたがね」  少し嫌そうな顔をしたジェノダイトに、知っているのだろうとダイオネアは言い返した。 「まあ、お孫さんは監視対象ですからな。従って、昨日からのことは報告に上がっていますよ。ただ、屋敷の中で何が話されたのか、そこまでは覗いていませんがね」  どうぞと席を勧められ、ダイオネアは応接用ソファーにどっかりと腰を下ろした。 「そちらには迷惑だったかもしれないが、孫二人をテラノにつれてきた意味があったと言うことだ」 「かもではなく、迷惑そのものだったのですが……もしも意味があったと言うのなら、あなたはお孫さんの監視役に感謝をしなくてはいけないですな。何しろお孫さんの不埒な行為を、敢えて見逃すと言う命令違反をしたのですからな。そのあたり、この道30年の勘は間違っていなかったことになりますが。ただアセイリアは、自分達の役目ではないはずだと零していましたよ」  ジェノダイトの言葉に、ダイオネアは小さく頷いた。 「確かに、テラノにとってメリディアニ家のことはどうでもいいことだろう。だが、本当に無関係だと言って良いのかな?」 「それが、あなたが私の所を訪ねてきた理由と言うことですか」  なるほどと頷いたジェノダイトは、「それで」と訪ねてきた理由を質した。 「アズライト様にお取り次ぎ願いたいことができたのだ。わしの孫タルキシスは、元一等男爵家令嬢マリアナ嬢に求婚をした。色よい返事は貰えておらぬのだが、バルゴールへの同行は認めさせた。聞く所、マリアナ嬢の身柄はアズライト様預かりになっておると言うではないか。従って、アズライト様のお許しを頂く必要がある」 「それは、さすがに予想もしていない展開ですな」  驚いた顔をしたジェノダイトに、わしも驚いたとダイオネアは打ち明けた。 「だがタルキシスが、変わろうとしているのは理解できた。だからわしも、マリアナ嬢を嫁に迎えたいと考えたのだ。それにタルキシスが立ち直ったのなら、あ奴を跡取りにしてもよいと思えるようになった。ただそのためには、マリアナ嬢を嫁に迎える必要があるのだがな」 「そうやって、テラノまで巻き込んでくれましたか」  仕方がないと、ジェノダイトはアズライトへの取り次ぎを約束した。だが約束した所で届いたメッセージに、今まで以上に大きなため息を吐いた。 「ヨシヒコ様から、明日お時間をいただけるとのお許しをいただきましたよ。はてさて、どこまでが予定された出来事なのでしょうか」 「ヨシヒコ様からとな?」  会う必要が無いと断言されたのが、こうして簡単に覆されてしまったのだ。逆にダイオネアは、それほどのことなのかと驚いたぐらいだ。 「あのお方は、人の心、行動を恐ろしいほど予測できるお方だ。ただ今回のことは、さすがに想定外だと思いたいのだが……もしかしてと思わせるほどのことをこれまでされてきたのだよ」 「セラムと言う女性は、ヨシヒコ様の恋人だったと聞いている。その女性にいかがわしい真似をしたことが、気に障られたと言うのではないのか?」  もう一つの事実を持ち出したダイオネアに、それは違うだろうとジェノダイトは答えた。 「それでしたら、昨日のうちにタルキシス殿は消されていましたよ」  それを考えれば、ただ単に怒りに触れたと言うことは考えにくい。それでも分からないとジェノダイトは零したのである。 「それで、他にご指示は無いのか?」 「クランカン一等伯爵も連れてこいとのことだ。そうなると、ますます話が分からなくなる」  ジェノダイトの答えに、確かにとダイオネアは腕を組んで難しい顔をした。だがいくら考えても、分からないことが分かるはずがない。仕方がないと、ダイオネアはもう一つ頼み事をすることにした。 「先程の話にもつながるのだが、ミツルギ邸を買い取ることにした。タルキシスに手続きをさせておるが、ジェノダイト殿から一言申し添えて欲しい」 「それぐらいなら……とい言うところなのだが」  そこで言葉を切ったジェノダイトは、「事態が予想外に動きすぎる」と弱音を吐いた。 「総領主殿の気持ちは理解できるが……メリディアニ家にとってはありがたいことだった。タルキシスとクランカンが協力しあえれば、バルゴールも変わることができるだろう」  嬉しそうな顔をするダイオネアに、「そちらはそうでしょうな」とジェノダイトはため息を吐いた。 「これで、用件は終わったと思って良いのでしょうかな?」 「ああ、頼みたいことはすべて頼んだつもりだ」  よろしく頼むと頭を下げたダイオネアは、立ち上がってさっさと部屋を出ていこうとした。 「今日は、酒をお誘いしなくて良いのですかな?」  答えは分かっていたが、それでも敢えてジェノダイトは夜の予定を確認した。 「夜は、心のこもった旨い料理を食べる予定になっておるな」  だからお誘いは不要と、ダイオネアは笑ってみせた。面倒がなくて良いのだが、どうしても理不尽な物を感じてしまう。「ああそうですか」とジェノダイトがやさぐれたのも、事情を考えれば不思議なことではなかったのだ。 Last Chapter  騒ぎの種を送り込んだ以上、その結果を気にするのは当然のことと言えるだろう。従って性悪夫婦の皇帝と皇妃は、地球で何が起きるのかをワクワクしながら見守っていた。ただ期待とは違う結果に、「だからテラノは」と二人揃って大きく溜息を吐くことになった。 「これで、バルゴールの問題はケリが着くのかしら?」  憂鬱げに話す妻に、アルハザーは「まさか」と肩をすくめた。 「ただ、かなりましになるのは間違いないだろうね。その意味では、婆さんの思惑とは違うことになるのだろう。キャスバルも、今頃胸を撫で下ろしているんじゃないのかな」 「だとしたら、ケリが着いてもおかしくないと思うんだけど?」  問題はどこにあるのかと問う妻に、「空気」と言うとても分かりにくい理由をアルハザーは上げた。 「次の皇帝が実力を示したのよ。空気としては、歓迎されるんじゃないの?」  普通はそうだと答える妻に、「普通はね」とアルハザーは答えた。 「バルゴールが良い方向に変わると言うのは、それだけをとってみれば悪いことじゃない。ただね、短期間の変化としては大きすぎるんだよ。恐竜のごとく鈍重なバルゴールが、予想もしない速さで変化をしてご覧。その速さに対して、付いていけない者、変化を恐れる者が生まれてくるんだ。そして取り残されたものは、変化自体に恐怖を覚えるんだよ。まあ、そうじゃなくてもバーバレドズは平静ではいられないだろうけどね」  夫の言葉に、ああとトリフェーンは頷いた。いい方向に変化したからと言って、誰もが素直に評価するわけではないのだ。しかもテラノが関与したとなると、不満を募らせる、そして裏切りを考える者が居ても不思議ではない。その第一候補がバーバレドズと言うのは、とても納得のできる話だったのだ。  ドワノビッヂの顔を思い出したトリフェーンは、「揉めるわね」とザイゲル連邦の動きを考えた。 「ああ、もともと血の気が多いのがA種の特徴だからね。ただ今までは、その不満が帝国に向いていたから団結することができたんだ。しかし帝国が恨む相手でなくなった途端、不満は内部に向かうことになるんだよ。彼がグリゴンを訪れた時に集まらなかった総領主達。彼らが居る星系が、火種となるのは間違いないと言う所だろう。もっともそれぐらいのことは、彼も考えているのだろうけどね」  ここまで見事な手腕を見せた以上、ザイゲル連邦内の動きも予想していてしかるべきなのだ。それにバルゴールより、よほどザイゲル連邦内のことの方が情報が多くなっているはずだ。アルハザーは、ヨシヒコがグリゴン人の若手を重用したことも把握していた。そのルートから、バーバレドズのことを知らされてもおかしくはないと思っていたのだ。 「そうね、あの子なら掴んでいてもおかしくないと思うけど……」 「おや、どうかしたのかい?」  言葉を濁した妻に、珍しいこともあるものだとアルハザーは笑った。 「ちょっと、底知れない所があって怖いなと思ったのよ。それがあの子の実力なのか、それとも単に運がいいだけなのか。ここの所の変化って、間違いなくあなたが思っていたものよりも大きいでしょう?」  どうと問われたアルハザーは、大きく頷いて妻の言葉を認めた。 「アズィのことだけでも、素晴らしい物語が綴られたと思っているよ。昨年のセンテニアルからの出来事は、間違いなく私の予想以上の物語を綴ってくれたんだ。お陰で、私はシリウス家以外の者に、皇帝の座を譲ると言う快挙を達成することができた。帝国の歴史創設以来、最大の動きと言うのは間違いないと思うよ」  素晴らしいよと喜んだアルハザーは、妻の顔を見て「言いたいことは分かっている」と答えた。 「時代が変化する時は、こんな感じで加速していくものだと思っているんだ。そして加速した時代は、人の想像を超えた勢いで進んでいくんだよ。そのお陰で、僕の意図しない、そして彼も意図していない物語が綴られることになるのだろうね。なにしろ加速していく変化は、当然のように付いていけない者を生み出してくれるんだ。そんな彼らは、彼らなりの物語の主人公となるんだよ。そしてその手の物語は、往々にして悲劇になると相場が決まっているんだ。だから僕は、彼がこれから何をしてくれるのか、それを胸を踊らせながら待っているんだ」 「それを、どこまであの子が把握しているのか……にも関わってくるわね」  小さく頷いたトリフェーンは、「皇帝は」と夫の顔を見た。 「帝国存続を第一に考えるのが役割よね。そして次の役割は、幸福の最大値を求めること、かしら。個々の星系は総領主の仕事だけど、帝国全体は皇帝の仕事よね。その幸福の最大値への考え方の違いはあると思うけど、私の考えに間違いはないと思っているわ」  どうと問われたアルハザーは、「おおよそは」と妻の言葉を認めた。 「帝国の存続、そしてそこに生きる臣民の幸せ。付け加えて言うのなら、為政者がヒステリーを起こさないようにすると言うのもあるね。それを含めての幸せと言うのであれば、君の言っていることを否定する要素はないと思う。ただ君が言うとおり、幸福の最大値に関して言えば考え方の違いは出るだろうね。それは基準をどこに置くのかと言うこともあるし、将来の要素をどう考えるかにも関わってくる。何処かで無理をすれば、そのつけは必ず誰かの所に回ってくるものだ。その歪をどう考えるのか、それにも関わってくるのだろうね。だけどトリフェーン、今更なぜその話を持ち出したのかな?」  その疑問に、「気になっただけ」とトリフェーンは答えた。 「多分あの子も同じことを考えていると思うんだけど。その時の基準がどこにあるのかなと」 「それこそ、皇帝の権利と言うものだね。彼は、彼の考えた基準で動けば良いんだ。もちろん、僕達は文句を言う権利は有しているよ。それが皇帝と皇帝でない者それぞれの権利なのだからね」 「それぐらいは、分かっているんだけどね」  ああっと伸びをしたトリフェーンは、「退屈」と文句を言った。 「これだけ、ダイナミックな変化があるのに退屈なのかい?」  苦笑を浮かべた夫に、そっちじゃない方とトリフェーンは笑った。 「日常生活のことよ。可愛い孫の顔を見に行くのもいいけど、何か面白いことはないのかなって。まあ、あの子の両親とお話できるのは楽しみなんだけど」 「実の所、それは僕も楽しみにしているんだ。ジェノが言うには、母親の方はとても常識的な考え方をしているそうだよ。ただアセイリアを見ていると、今の彼を鍛え上げたのも彼女には違いないんだ。今の弛んだリルケの侯爵達も、彼女に鍛えて貰えないかと思っているぐらいだ」 「そんなことをしたら、ますます混乱の種をまく事になるわね」  素敵と笑ったトリフェーンだが、それが実現しないことも理解していた。 「でも、絶対に彼が許さないし、母親の方も絶対に嫌がるでしょうね。実現できたら、本当に面白いことになりそうだけど。ただ、センテニアルのような、具体的目標がないと難しいわね」 「まあ、僕も言ってみたかったと言うだけだからね」  そう言って笑ったアルハザーは、確かに退屈だと妻の言葉を認めた。 「あなたは、一度も孫の顔を見ていないのでしょう。でしたら、クレスタまで見に行ってきたら? あの子とアズライトの良いところを引き継いだ、とても可愛らしい孫達よ」 「その時は、一人で見に行った方が良さそうだね。皇帝たるもの、他人ににやけた顔を見せては駄目だろうからね」  一人でと言う夫に、トリフェーンは「あら」と驚いてくれた。 「私にも見せてはくださらないの?」 「君を連れて行っても、隣でにやけているだけだろう?」  夫の指摘に、それはそうだとトリフェーンはその事実を認めた。 「だって、とても可愛らしい孫達なんだもの」 「しかも、彼の血を継いでいるのだからね」  大きくなった時が楽しみだ。ひねくれ者の皇帝が、まるで子供のような純粋な目をしていた。そしてその隣では、性悪皇妃も嬉しそうに目を輝かせていたのだ。まだまだ未来は退屈させないものになってくれる。その確信を、二人はしっかり感じていたのである。 Episode 10 end...