星の海の物語 Episode 9 The story of the Chapter 0  本来とても喜ぶべきことのはずなのに、つい愚痴が出てしまうのはどうしてだろう。ジェノダイトからアルハザーの公布を聞かされた時から始まったドタバタに、アセイリアは一人ため息を吐いていた。キャンベルに戻って居酒屋で暴れたいところなのだが、あまりにも忙しくてそれもできなくなっていた。それなりに髪も伸びたため、今更キャンベルの顔をして出歩くのも難しくなってしまった。  忙しすぎる状況に切れたアセイリアは、責任者であるジェノダイトに何とかしろと善処を迫った。そのアセイリアの正当な申告に対し、ジェノダイトは宇宙軍からイヨを引き抜くと言う荒業に出てくれた。そもそもイヨが次期皇帝の姉だと考えれば、いつまでも軍においておくわけには行かない。その意味で、アセイリアの申告は渡りに船のものになっていた。 「あと1か月ぐらい帰ってきてほしくないような……」  ようやく一息ついたと、アセイリアはカプチーノを啜りながら本音を口にした。突貫で式典の準備を進めているのだが、どう考えても時間が足りなすぎるのだ。しかもやり直しでは、地球から次期皇帝を輩出することが発表され、しかも皇女二人が公式に顔を出すのだ。センテニアルを超えると言うアセイリアへのプレッシャーは、並ではなかった。  だが1か月ぐらいと口にしたアセイリアに、たまたま通りかかったイヨは優しくなかった。 「それは、間違いなく甘い考えよ。1か月先延ばしにしたら、絶対に新しいイベントが追加されることになるから。準備時間は少ないけど、イベントが絞られている今の方が絶対に楽だからね」  考えの甘さを指摘したイヨは、じゃあとその場を立ち去ろうとした。だがアセイリアに背中を向けたところで、何かを思い出したようにくるりと振り返ってくれた。 「それを飲んだら、すぐにセンターサークル……アセイリア機関に顔を出してね。ああ、もうちょっと正確に言った方が良いかしら。2分以内に、顔を出しなさい!」  そう言うことなのでと、今度こそイヨは速足でその場を去って行った。ちなみにイヨの隣では、チエコが口元をしっかり歪めていた。 「どうして、姑、小姑を揃えてくれるのよ……」  チエコだけでも大変だったのに、イヨが加わったために、さらに自分へのプレッシャーが増してくれたのだ。安易にマツモト家に頼った付けが、耳を揃えて自分の所に回ってきたのである。  がっくりと肩を落としため息を吐いたアセイリアは、ふううふうと冷ましながらカプチーノを慌てて啜った。二人に揃って睨まれようものなら、繊細な胃壁に穴が開いてしまいそうな気がしてならなかったのだ。宇宙的に有名なアセイリアも、マツモト家を苦手としていた。  指定された2分を5秒過ぎて現れたアセイリアだったが、特にイヨは責めるようなことを口にしなかった。それに安堵したアセイリアだったが、すぐにそれが甘い考えだと思い知らされることになった。なにしろ、すぐにトップスピードで仕事に入らなければならなくなってしまったのだ。これと言ってセラから計画書の巨大ファイルを見せられた時には、一瞬気が遠くなったような気がした。 「まず私からだけど」  そう言って立ち上がったイヨは、関係各所との調整結果を口にした。 「今回ヨコハマパークが使えないから、メモリアルスタジアムを使うことになりました。おかげで会場のキャパシティは、ヨコハマパークの2倍になる予定。収容数が増えた分、警備の手が掛かるのと会場設営の手間が増えます」  そしてと、表示画面を変えたイヨは、出席者について言及した。 「ザイゲル連邦から、総領主クラスが10名程出席することになるわ。それに随行員を合わせると、1,000名ぐらいが式典に出席することになります。あと、シレナからもほぼ同数が出席することになっているし、ギガントからも半数程度出席して貰う話が付いています。ザイゲル連邦以外は、明々後日から順次ヨコハマ入りする予定よ」  「それから」と、イヨは報告を続けた。 「地球側の出席者だけど、こっちの方が結構厳しくなっているわね。センテニアルで2万も死なせた後、必ずしも代替わりがうまくいっていないのよね。そのせいで、結構上の方が手薄になっているのよ。だから、今回子爵の上位レベルまでは参加させることにしたわ。もしも前と同じことが起きたら、地球の統治機構は壊滅することになるわね」  さらりと恐ろしいことを口にしたイヨは、本番のスケジュールを報告した。 「本番だけど、7日後に決行するわよ。だから、ドワーブ様に2日だけ出発を遅らせてもらうように依頼してある。あちらからは、むしろ好都合だと快諾していただいたわ。それからアセイリア、出席者名簿に目を通しておいてね。あと、他の星系から参加の希望が来ているから、可否について判定もお願いするわね」  事務的に仕事を割り振ってくれたイヨに、アセイリアは恐る恐る手を挙げた。 「ええっと、参加希望はどれだけあるのかしら? 希望するのなら、できるだけ叶えてあげればいいと思うんだけど……?」  最後の方で言葉が消えがちだったのは、イヨの鋭い視線に怯んだからに他ならない。  それぐらい分かるだろうと言う視線を向けたイヨは、事実をアセイリアに突きつけた。 「全部認めたら、会場のキャパを遥かに超えるんだけど? もっと広い場所を確保してくれるのなら、それでも構わないんだけどね。あらかじめ言っておくけど、TOKYOに場所を変えても、1割程度しか収容人員は増えないわよ。しかも直前では確保できないし。だから、政治的な判断をあなたに求めているの。どう、理解して貰えたかしら?」  冷たい眼差しを向けられたアセイリアは、もう一度肩を落として「続けてください」とお願いをした。 「じゃあ続けるけど。式次第を見てもらえるかしら?」  そう言って別のページを表示したイヨは、「目立って貰うから」とアセイリアを見て口元を歪めた。 「目立つ……ですか?」  それはと、目を凝らして式次第を見たら、なぜか自分の名前がしっかりと登場していた。 「どうして、こんなに沢山出番があるんですか?」  開会の挨拶から式典進行まで、至る所に自分の名前が出ているのだ。それをおかしいと主張したアセイリアに、「有名だから」とイヨは身も蓋もない決めつけをしてくれた。 「あなたの名前は、各星系に広まっているのよ。だから、あなたには積極的に登場して貰うことにしたの。センテニアルの実績があるから、警備の保証もあなたの口からして貰った方が良いしね。とにかく、あなたの名前を出しておくのが、準備する方も一番楽だから。0次原稿は作ってあげるから、後は自分で練り直してくれればいいわ。と言うのが、式典の式次第なんだけど。アセイリアには、他にも出番があるからね」 「まだ、あるんですか?」  ごくりとつばを飲み込んだアセイリアに、「沢山」と言ってイヨはにやりと笑った。 「ASIA1で、来賓の出迎えをしてもらうのがその一つね。出席の打診をしたら、先方からあなたと話がしたいと言うリクエストが多かったのよ。ただ、一つ一つに応えていられないから、出迎えをすることで我慢をしてもらうことにしたの」  指を一本立てたイヨは、次にと内輪の話を持ち出した。 「今日の夜になるけど、陸軍、宇宙軍に顔を出して貰えるかしら。そして明日は、海軍と空軍の方ね。どっちも、式典に向けた決起大会を行うみたいね。各軍大将閣下から、アセイリアを出席させるようにお願いが来ているのよ。そうして貰うと、現場のやる気が違ってくるみたいね」  そこでいやらしく口元を歪めたイヨは、「ああ」と思いだしたように他の仕事を持ち出した。 「公安の方にも顔を出して貰えるかしら。軍とも協力して、完璧にテロを抑え込んで見せると張り切っていたわよ。人気者は大変ね」  ちくりと一言嫌味を言ったイヨは、自分の分はこれだけと言って椅子に座った。 「ザイゲルの脅威もないのですから、テロと言っても地球限定だと思うのですが……」  その程度なら、自分が顔を出すまでもない。そのつもりで口にしたアセイリアに、「甘いことを言わないように」と今度はチエコから突っ込みが入った。 「半年前の出来事を、恨みに思っている人たちが沢山いることを忘れてはだめよ。ザイゲルの要人は、格好の的になるのよ。それぐらいのことは、今さら指摘されなくても分かっているわよね。それとも、本気で分からないと言うつもり?」  どこか脅しの入ったチエコの指摘に、アセイリアは「はい」と言って背筋を伸ばした。 「じゃあ、貴賓席周りの警備についてだけど」  いいかしらと立ち上がったカヌカは、これをと言って別の報告書を投影した。 「ホプリタイは持ち込むけど、今回は陸軍と士官学校の学生さんだけだからね。だから避難経路として、グラウンドも使用することにしたわ。そして突貫だけど、資材搬入口を避難経路として整備も行ったの。見た目は悪いけど、20万人ぐらいなら30分もあれば施設外に逃がすことは可能よ。そして肝心の貴賓席だけど、今回はあまり心配をしていないわね。だって、皇室にはとっておきの道具があるんでしょう。だったら、それを活用した方が確実だもの。だから気を付けるのは、あまり貴賓席に余計な人達を入れないことね。人数を絞れば、ヨシヒコ様が守ってくださるわよ。多分前回のトラウマもあるだろうし……」 「あーっ、次に不穏な真似をする奴らの洗い出しだが」  次期皇帝を使い建てする気満々のカヌカの報告に、ウルフは気まずげに自分の報告を重ねた。 「先ほどのチエコさんの話にもつながるのだが……」  そう言って、ウルフは自分のデーターを投影した。 「攻撃の方向は、綺麗にベクトルが揃っているんだ。まあ、当たり前だが、ターゲットはザイゲルからの来賓と言うことになる。そしてターゲットが明確になれば、対策もやりやすくなると言うものだ。そこでアセイリアにお願いなのだが、ドワーブ様に艦隊派遣を頼んでもらえないか。後は、シレナのオケアノス様にも、同じお願いをして貰いたい。一応外向けの名目は、式典に花を添えるためってことにしておけばいいだろう」  親善を名目に、脅しをかけようと言うのである。それが阿漕だと文句を言う前に、どうして自分がとアセイリアは文句を言った。 「その程度なら、イヨさんに任せればいいじゃありませんか!」  すでにドワーブと連絡を取り合っているのだから、その役目はイヨでも十分なはずなのだ。一応正論に聞こえる意見なのだが、そんなものの通用する甘い集まりではなかった。特にその気になったマツモト家に、アセイリアが歯が立つはずがなかったのだ。 「無理をお願いするのだから、責任者がお願いしなくちゃ駄目でしょ?」 「そうね、あちらもアセイリアさんに頼まれた方が嬉しいでしょう」  イヨとチエコに揃って言われると、それ以上言い返せなくなってしまう。どうして二人を揃えたのだと、ジェノダイトに文句を言いたくなっていた。1対1でも勝てないのに、2対1になればもっと歯がたたないのは分かりきっていたことだった。  かと言って、いくら文句を言っても、そして心の中で呟いた所でどうにかなるものではない。仕方がないと諦めたアセイリアは、言われた通りにドワーブとオケアノスに連絡を入れることにした。 「会場警備の方には、特に問題はありませんか?」  こちらは地球だけの都合で進められる。そう考えて油断したアセイリアに、アズガパはやさしくない言葉をかけた。 「まさかっ。陸軍の奴らが、俺達の言うことを素直に聞くと思っているのか?」 「でも、センテニアルで転んでくれたんですよね?」  センテニアルの失敗で、自分には逆らえなくなったと聞かされていたのだ。それを考えると、アズガパの答えは予想とは違うものだった。そのことに驚いたアセイリアに、「転んださ」とアズガパは言い返した。 「だから、アセイリアが動かないとあいつらが動かないんだ。まあ、正確に言うのなら、お前に顔を出して貰いたいと言うところだ。今日の決起大会とは別に、一度顔を出して励ましてやってくれ。いやぁ、アセイリアが婚約したとバレたら、血の涙を流す奴らが大勢いるんじゃないのか」 「あっ、それは空軍の方も同じよ」 「海軍も同じだな」  同調したイリーナとボリスに、どうしてですかとアセイリアは不条理なものを感じていた。そこでディータを見たのは、助けてと言う気持ちを込めていたのだろう。だがアセイリアの視線を受けたディータは、気まずげに目を逸らしてくれた。 「どうして、目を逸らすのですか?」 「どうしてって……ねぇ」  そう言ってユーリーを見たディータは、次にイヨの顔を見た。最近髪を伸ばし始めたおかげで、以前に比べてイヨもぐっと女らしくなっていた。そうなると、やはりヨシヒコの姉だと納得させられてしまうのだ。 「イヨさんを引き抜いたからねぇ。それで、結構反感も買っているのよ。イヨさん美人だし、それに最強の幸運の持ち主だから」 「ブドワイズ大将が、散々文句を言っていると言う噂だな。宇宙軍を潰すつもりかと叫んでいたと俺は聞いたぞ」  なぜイヨのことまで自分の責任にされているのか。どうしようもない理不尽さを感じたアセイリアに、やはりチエコは優しくなかった。 「無駄話をしているような暇はありませんよ。息抜きなら、仕事を終わらせてからするように」  まったくと、こめかみを指で掻いたチエコは、責任感が足りていないと小言を口にした。 「現実逃避をしても、何も解決しないと教えたはずですよ。まったく、こんなことではアンハイドライト様に申し訳が立たないわね。もう一度、躾をしなおした方がいいかしら」 「母さん、それも無駄口になっているわよ。とにかくアセイリアには、やって貰わなくちゃいけないことが沢山あるんだから。全部終わったら、好きに躾けてくれていいから」  母親にブレーキを掛けたイヨは、はいと言ってデーターをアセイリアに投げかけた。 「これが、ToDoリストだから。期限も書いてるから、ちゃんとそれまでに済ませてね」 「……こんなに」  数行なら我慢できるが、数百行ともなると虐めにも思えてしまう。どうしてですかと落胆したアセイリアだったが、やはり全員が優しくなかった。 「じゃあ、各自仕事に戻ってください!」  何故かイヨがその場を仕切り、声を掛けられた全員は会議卓から離れていった。彼らは彼らなりに、やらなくてはいけないことが目白押しになっていたのだ。 「はいはい、落ち込むのは暇になってからしてね」  そしてイヨは、一人残ったアセイリアに、さっさと仕事をしろと命令した。 「泣きつかれたって、誰も助けてあげられないわよ」  そう言うことでと言い残し、イヨはチエコと一緒に自分の仕事に戻っていった。 「今晩も徹夜か……」  勘弁してと嘆いてみても、すでに自分の周りに誰も残っていなかった。巻き込まれることを恐れたのか、総領主府のスタッフ達も近づいては来なかった。どうしてこんなことになったのか。誰を怨めば良いのか。その候補として、アセイリアは宇宙の問題児の顔を思い出していた。 Chapter 1  総数4百万の艦列の出迎えから始まったグリゴン訪問は、星間会議場での講演で終わりを迎えることになった。もっとも終わりと言っても、公式のと言う但し書きが付くものである。イヨからの引き延ばし依頼を良いことに、ドワーブは私的なイベントを突っ込んでくれた。 「そうですか、姉が統合司令本部に加わったのですか」  ドワーブの説明を聞いたヨシヒコは、可愛そうにとアセイリアの顔を思い出していた。自分の経験で言えば、母親と姉が揃った時は鬼門としか言いようがなかったのだ。どんな正当な理屈で反論しても、母親と姉という立場を押し通してくれた人達である。しかも口にする文句は、それなりに理屈っぽくて、一見正当に思えるものばかりなのだ。その二人が統合司令本部に揃ったとなれば、アセイリアが被害を受けるのは疑いようもないだろう。尋常ではすまないプレッシャーを受けているのだろうなと、ヨシヒコはアンハイドライトの顔を見ながら同情していた。 「なぜ、私の顔を見ますか?」  ドワーブから聞かされたのは、ヨシヒコの姉が地球側のスタッフに加わったと言う話だけなのだ。それなのに、どうして自分が関係してくれるのか。それを理解しろと言うのは、間違いなく無理な要求なのだろう。 「いや、地球側がどうなっているのか想像がついたからだが……」  ふっと息を吐き出したヨシヒコは、移動中の車からぐるりと辺りの景色を見渡した。 「前回は、まともな市内見学すらできなかったからな。こうしてみると、さすがは歴史のある星だと感心してしまう」  皇帝を恐れさせた庶民と言われても、たかが18年しか生きていない子供には違いない。そして宇宙に出たのも、グリゴンとリルケしか経験が無かったのだ。前回は初日の見学だけだったことを考えれば、ヨシヒコが驚くのも無理のないことだった。 「信用して貰えないだろうが……なにか、同じことを言い続けている気もするのだが」  眉間にしわを寄せたドワーブは、アセイリアにも言ったことを口にした。 「こう見えても、ザイゲルは芸術を大切にしているのだよ。だから星の至る所に、人口、自然に関わらず、美しい物が存在している。すべてを見て回るとしたら、1年や2年では不可能だろうな」  そう言うことだと口元を緩めたドワーブは、「いかがですかな」とアズライトの顔を見た。退屈そうに見えないことを考えると、観光に不満は感じていないと考えることができた。 「そうですね。とても興味深いと思っていますよ」  素直に誉めたアズライトだが、それで終わるような性悪ではなかった。 「せっかく素敵な場所があるのですから、こういった場所をメインに予定を組んでくださればよかったのに」  今までの混乱は、気が利かないことが悪いと言うのである。そう来ますかと、ドワーブは顔に引き攣りしわを増やしてくれた。 「それは、私どもの落ち度でしょうな。改めて、お詫び申し上げます」 「ドワーブ様、つけあがりますからそれはしなくていいですよ」  もっとも、その場にいるのはアズライトだけではなかった。そしてアズライトを超える立場のヨシヒコは、気にする必要はないと言ってのけた。 「ヨシヒコ、あなたは何か言いたいことがあるのですか?」 「それは、自分の胸に手を当てて考えてみることだな」  軽くアズライトを一蹴したヨシヒコは、窓にかじりついて外を見ているシオリに声を掛けた。 「どうですシオリ様、グリゴンを初めてみた感想は?」 「そ、その、夢中になっていて申し訳ありません」  ヨシヒコの努力のおかげで、シオリの精神状態も随分とマシなものになっていた。それでも、皇族に囲まれるのは、まだまだ精神的には辛いところがあるのも確かだった。外の景色に興味を持ったのも確かだが、外を見ていた方が気が紛れてくれたのだ。 「その、持っていたイメージとはずいぶん違うのだなと感心させていただきました」 「その、持っていたイメージとは何ですか?」  ヨシヒコの問いに、シオリは「それは」と言ってから口ごもってしまった。人の星に来て、勝手に作った悪いイメージを口にするのが憚られたのだ。  そんなシオリに、「構いませんよ」とドワーブは笑って見せた。もっとも、見慣れていないと、それが笑っているのかどうか分からない表情でもあったのだが。 「その、ザイゲル連邦の方々は乱暴だと言う先入観を持っていました。そして、日々闘争に明け暮れているのだと……そんなことがあり得ないのは分かっているのですが、そう言った印象を持っていたのは確かです。ですから、もっと無味乾燥で、荒涼とした世界ではないかと考えていたのです」 「なるほど、先ほど私が「信用して貰えないだろうが」と口にしたことに繋がる訳ですな」  うんうんと頷いたドワーブは、ヨシヒコの顔を見てから「構いません」と答えた。 「これまで、相互の理解が不足していた証拠でしょう。よほどの物好きでない限り、H種の皆さんがザイゲルに観光にはいらしてませんからな。これから相互の理解が進めば、お互いの姿がもっと見えるようになってくるでしょう」 「私も、そうあればと思っています」  自分がどれだけザイゲルのことを知らなかったのか、シオリはそれを改めて思い知らされた気持ちになっていた。そして、これまで散々議論を続けてきたことに、疑問も感じ始めていた。こうして知らない世界を見せつけられると、頭だけで考えることがどれだけ意味の無いことなのか。改めて、そのことを思い知らされた気がしたのだ。 「シオリ様に聞きたいのですが?」  二人の話に、そう言ってヨシヒコは割り込んだ。 「セレスタには、他の星から観光客は訪れているのですか?」  ヨシヒコにしては言葉足らずの質問なのだが、シオリは正しくその意味を理解していた。そして少し考えてから、ヨシヒコの求める答えを口にした。 「同じH種の方なら、観光と言うことで訪問されていたような気がしますね。ただ、他の種の方達は、仕事以外では訪問されていないかと思います」  そこでヨシヒコに顔を見られ、ドワーブはシオリの答えの理由を口にした。 「まあ、明らかに見下してくれる相手の所に行こうとは思わないと言うことです。テラノが特殊だったのは、帝国に加わって日が浅く、我らに対して差別を持っていなかったと言うことです。まあ、珍獣を見るようなところはあったのでしょうが、これだけ見た目が違えば仕方のないことだと思います。それに、我らにしてもテラノの住人を珍獣に見ていましたからね。その辺りのことは、お互い様と言う事です。ちなみに正直な感想を口にさせていただくなら、テラノと言う星はリルケより美しいと思っています。特に、自然方面が顕著だと思います」  気を使ったドワーブに、「未開の地ですからね」と言ってヨシヒコは笑った。 「いえいえ、バランスよく開発されていると言うことです」  苦笑を浮かべているところを見ると、ヨシヒコの指摘は完全に外れていると言う訳ではなさそうだ。その答えを受けて、ヨシヒコは過去行われてきた施策に言及した。 「アズライト、歴代皇帝は種の融和を行ってこなかったのだな」 「そのあたりは、自然に任せていたと言うほかはありませんね。意図的に分断をしていたと言うことは無いと思います」  皇帝の意図したものではないと答えたアズライトに、「本当にそうか?」とヨシヒコは疑問を呈した。 「帝国内の緊張を高めるためには、相手のことを知らないことが有効なのではないか? できるだけ相手を理解させないようにした方が、対立の理由となると思うのだがな」  そう口にしたヨシヒコは、もう一度シオリに問いかけをした。 「シオリ様、あなたはザイゲルの人達を見下していましたか?」  話の流れからすれば、その問いかけの持つ意味を理解することはできる。ただ、それを正直に口にしていいものなのか。ドワーブの顔を見て、シオリは答えを口にするのを躊躇ってしまった。 「大丈夫です。アズライトなど、人でなしと言われることを繰り返してきたぐらいですからね」 「どうして、いちいち私を引き合いに出すのです!」  心外だと不満を顔に出したアズライトに、ヨシヒコは「事実だから仕方がない」と言い返した。 「ヨシヒコ、あなたはシオリにだけ優しくありませんか?」 「お前たちに挟まれて、一番心細い思いをしているからな。だから、俺がフォローをしているだけだ」  当たり前だと返され、アズライトは拗ねたように頬を膨らませた。それを無視し、ヨシヒコはもう一度シオリに答えを求めた。 「その、先ほどのことにも繋がるのですが……ザイゲルの方たちへの偏見があったことを認めます。そのことをもって見下していたと言うのであれば、それを認めるのは吝かではありません。ですが、今回グリゴンを訪問して、その考えが変わったかと思います。グリゴンの文化、自然に触れて感動させていただいています」  シオリの答えに頷いたヨシヒコは、アズライトとの思い出の地のことを口にした。 「地球で行った遊園地だが……そこでは、各星系、各種の人たちが楽しそうにしていたな。それがごく狭い、そして特殊な環境にあるのは理解しているつもりだ。そしてそれぞれが、違った観点で楽しんでいるのも確かだろう。それでも言えることは、別に特別なことではないと言うことだ。環境さえ整えてやれば、種の違いなどさほど大きな問題とはならないと思っている」  だからと、ヨシヒコはドワーブの顔を見た。 「俺は、そのための環境整備を行っていこうと思っている。自然に任せていたら、多分何も変わって行かないだろう。だから、最初は強制する方法で形を作っていくことも考えている。地球が帝国に加わって100年しかたっていないが、帝国そのものは5000年の歴史を持っているのだからな。それだけ長い時間で形作られた物を変えるのだから、簡単なことではないのだろう」  そこで言葉を切ったヨシヒコは、次にシオリの顔を見た。 「ドワーブ様に協力をしてもらい、初めは地球とザイゲルの間で変えて行こうと思っている。そしてその動きを、クレスタ学校に参加している星系、そしてシレナにも広げて行こうと思っているんだ。そのためには、シオリ様のお力添えが必要になってくると思っているんですよ」  それがどんな意味を持っているのか、クレスタ学校で議論してきたから理解をすることができる。自分達の議論の先に何があるのか、シオリはようやくそれが理解できた気がしていた。 「微力ながら、お手伝いをさせていただきたいと思っています」 「シオリ様、ありがとうございます。セラ、カニエ達は何か言って来たか?」  ヨシヒコの呼び掛けに応え、アバターが一同の前に浮かび上がった。 「今気づいたのですが、私をモデルにしてくれたのですね」  それこそ愛だと機嫌を良くしたアズライトに、「印象が強烈だった」とヨシヒコは白状した。 「どう、強烈だったのですか?」 「それは、ここで口にするようなことではないのだがな……」  何しろヨシヒコには、初めてづくしの経験だったのだ。しかもアズライトが皇女と分かってからも、駆け引きをしながらお互いを求め続けていたと思っていたのだ。 「それでも、聞きたいと言うのは我が儘なことですか?」 「いや、だからな……」  さすがにヨシヒコが口ごもったところで、セラが申し訳なさそうに割り込んできた。 「その、報告、宜しいですか?」  そう断って、セラはおかしな世界をぶち壊した。 「カニエ様からは、自分達のいないところで重要な話をするなと抗議を受けています」  セラの報告に、ヨシヒコは大きく頷いた。 「本番は、今晩に残してあると伝えておけ。ザイゲル連邦の精鋭が、お前たちの相手をしてくれるのだとな。繰り返すが、俺の顔に泥を塗ってくれるなよと付け加えておけ」 「そうやって、プレッシャーを与えますか」  可哀想にと同情したセラに、ヨシヒコは「必要なことだ」と言い返した。 「それぐらいの気構えで臨まないと、ドワーブ様に申し訳が立たないからな」 「私としては、お手柔らかにとしか言いようがないのですが……繰り返しますが、先日アセイリア様お一人に蹂躙されてしまったのです」  カニエ達へのプレッシャーは、同時にドワーブに対するプレッシャーにもなっていた。ただ手心を加えて欲しいと懇願するドワーブに、それでは意味がないのだとヨシヒコは言い返した。 「これから共に歩んでいくためにも、真剣な議論が必要だと思っています。それからドワーブ様、私は同じH種だけをスタッフにしようとは思っていません。その種でなければ分からないこと、感情等々を理解するには、各種の人達を仲間に加える必要があると思っているんです。最後の責任は私がとりますので、できるだけ自由にやらせてみたいと思っているんです」 「私達の所からも、連れて行ってもらえるのですか!」  その話をすれば、ゲービッヅ辺りが小躍りをして喜ぶことだろう。それを思い出したドワーブは、素晴らしいと感激をしてくれた。 「それを伝えてやれば、彼らの目の色も変わってくることでしょう」 「存分にやってください。私から、それをお願いします」  嬉しそうにしたヨシヒコは、それまで黙っていたアリアシアに声を掛けた。 「アリアシア、お前も加わってみるか?」 「議論を委縮させないためには、遠慮した方が良いかと思いますよ」  どこまで行っても、自分の立場は皇族なのだ。それを主張したアリアシアに、それは甘いとヨシヒコは言い返した。 「議論に火が付けば、そんなことは関係なくなるものだ。以前アズライトが来た時にも、彼らは真剣な議論をしてくれたぐらいだからな」  そうだろうと顔を見られ、アズライトは大きく頷いた。 「あの時は、ヨシヒコがうまく誘導してくれましたね」 「まあ、今度も誘導ぐらいはしてやるがな」  だからと、ヨシヒコはアズライト達全員に参加を命じた。 「私もなのかい?」 「アシアナ家跡取りとして不要だと考えるのなら、無理強いはしませんよ」  すかさず言い返され、アンハイドライトは小さくため息を吐いた。そんなアンハイドライトに、ヨシヒコはさらなる追い打ちをかけてくれた。 「アセイリアが無双をして行ったと言う話ですからね。夫として、立場以外に優れているところを見せておいた方が良いと思いますけどね」  ちくりますからと小声で聞かされ、アンハイドライトは、今度ははっきりとため息を吐いた。 「どうあっても、私を参加させようと言うのだね」 「次期皇帝として、側近に能力を求めているだけですよ」  これで決まりと、ヨシヒコは嬉しそうに笑って見せた。そんなヨシヒコに、「私もですか?」とシオリが遠慮がちに尋ねてきた。 「シオリ様は、クレスタ学校の一員だと思っていましたが?」  初めから数の内と言われ、やはりそうかと小さく嘆息した。 「アズライト様、アリアシア様に交じることより、ヨシヒコ様の後宮に入ることの方が負担に思えてきました……」 「それにした所で、クレスタ学校に居れば同じことだと思いますよ。たぶん、あちらに居た方がもっと厳しいことになったと思いますけどね」  ついてこられなければ、無能の烙印を押されることになるのだろう。それに比べれば、立場を確保した今の方が、余程状況としては好ましいことになるはずと言うのだ。  それを言われれば、シオリも返す言葉が無くなってしまう。最初の所でボタンを掛け違えたことを、改めてシオリは思い知らされた気持ちになっていた。もっとも、それで得られたのは、気に入った男性から寵愛を受ける立場なのである。それが次期皇帝だと考えれば、文句を言うのは贅沢なことに違いないだろう。ただ期待したのとはあまりにも方向性が違うため、未だに頭が付いて行ってくれなかった。 「シオリさん、後悔していますか?」 「そんな簡単な感情でしたら困らないのですが……」  アリアシアの問いに答えたシオリは、いかがですかと逆に問い返した。 「仰ることは、とてもよく理解できますよ。ええ、とても理解できると思います」  強いシンパシーを感じ合ったのか、シオリとアリアシアはお互い顔を見合わせ苦笑を浮かべたのだった。  キャスバルから許可を得たクランカンは、次のステップとして総領主から渡航許可を得ることにした。爵位保有者としての外交的渡航に制限は掛かるが、あくまで一市民としての観光であれば問題はない。一連の出来事で、テラノに掛けられていた制限が緩和されていたのがその理由である。  もっとも、申請を受け取る方にしてみれば、それが非公式であることは大した問題ではなかった。軌道城37城主の一人がテラノ渡航を求めてくれば、その背後にある物など容易に想像がついてしまうのだ。それもあって、申請を受け取った領主府スタッフは、慌てて申請の事実を総領主に報告してきた。 「マズルカ一等伯爵が……テラノ観光だと?」  報告を受けたシリングは、一度天を仰いでから大きく息を吐き出した。その心の中を覗くのなら、どうして面倒を持って来てくれるのだと言う所だろう。似たような通告を、つい最近先代メリディアニ家当主から受け取ったばかりなのだ。ただ事情が異なっていたのは、あちらが皇帝の許可を盾に通告だけしてきたのに比べ、こちらは申請と言う真っ当な手順を踏んだことだ。 「それを考えれば、常識を期待できると言うことなのだが……先代とは、別の動きをしようと言うことか」  ふむと口元を手で覆ったシリングは、どう扱った物かと長考に入った。裏を読まずただ単に処理をするのなら、許可を出して終わる案件でしかないだろう。正規の手続きで出された申請である以上、旅先で揉め事を起こしても自分のあずかり知らぬことなのだ。その中で気になることがあるとすれば、バルゴールとして初のテラノ観光になると言うことだ。それにした所で、皇帝の公布を考えればあっても不思議ではないと言える程度のものだった。  ただメリディアニ家ゆかりの者が、全く別々に申請してきたとなれば話は別である。すべての面倒をジェノダイトに押し付けると言う誘惑に駆られたが、それでは総領主として失格だと考えなおしたのである。下手をすると、メリディアニ家の内紛に巻き込まれる恐れもあったのだ。そしてうまく立ち回れば、メリディアニ家の権威を失墜させることもできる。 「バルゴールから初のテラノ観光と言うことで、ヒアリングの名目は立つか……」  人差し指でデスクをコツコツと叩き、シリングは想定される事態をいくつか考えた。そして申請を出してきたクランカン……一等伯爵の人となりを考えることにした。 「クレオ、マズルカ一等伯爵のデーターを出してくれ」  総領主だからと言って、すべての爵位保有者のデーターをそらんじている訳ではない。アバターに命じてクランカンのデーターを呼び出したシリングは、ふむと示されたデーターを読み進めて行った。 「帝国第12大学在学中に、先代が倒れて呼び戻されたと言うことか。在学時の専攻は、政治経済学……成績は、それなりに優秀だな。現在23歳独身で、許嫁はいないか……軌道城城主にしておくには惜しい人材と言うことか。リーリスの夫にでもすれば、メリディアニ家も安泰なのだろうに」  そう口にしては見たが、それが絶対に無いことをシリングは理解していた。それほどまでに、メリディアニ家本家は軌道城城主達を正当に評価していなかったのだ。メリディアニ家の惨状を考えれば、いまだ残る差別意識は愚かしいことに違いない。ただ愚かしいと考えてはいたが、逆に難しいことも理解していた。皇帝聖下の決断は、自分達の枠組みから外れていたからこそ、頭を切り替えることが出来たのだ。そして庶民だからこそ、逆に価値が生まれたとも言うことが出来る。  それを理解しているシリングだったが、それでも愚かしいことだとメリディアニ家の惨状を笑った。バルゴールでの力はないが、一等侯爵の立場は伊達ではない。帝国の情勢ならば、十分に情報が入ってくるのだ。  フェルゴーやチェンバレンとの関係を考えれば、もはやメリディアニ家の跡継ぎと言う問題だけではなくなっていたのだ。それに気づかない以上、メリディアニ家に未来は無いとシリングは考えていた。 「いっそのこと引き抜ければいいのだが……それは、時期尚早と言うことだろうな」  これまで蔑ろにされてきたこともあり、いい加減メリディアニ家の支配に揺さぶりを掛けたくなってきたのだ。その意味で、メリディアニ家の後継者問題は好都合だった。後継者の資質と言う問題に加え、メリディアニ家の旧態然としたところが弱点として浮かび上がってきたのだ。性悪皇妃を送り出したくせに、メリディアニ家は何も変わっていなかった。  そのあたりが攻めどころと、常々シリングは考えていた。そしてメリディアニ家を揺さぶるには、軌道城城主を狙うのが近道なのは間違いないと考えていた。 「とりあえず、考えを質してみるか……ついでにお節介をしておくのも悪くはないだろう」  先代当主の話を教えておけば、少しぐらいは恩に感じてくれる可能性もある。それをバーターに、渡航目的を探るのも悪くはないだろう。 「クレオ、許可を出す前にヒアリングを行うと通達してくれ」 「畏まりました」  大人し目のアバターは、丁寧に頭を下げてから姿を消した。これで、自分にできる仕掛けの第一歩となる。 「キャスバル当主は、何らかの決定をしたと言うことか」  少なくとも、先代当主とは違う動きをしようとしている。その真意までは分からなくても、両者が別々の動きをしているのが分かれば、十分ヒアリングに意味があるはずなのだ。何をクランカンに吹き込むべきか、シリングはその方策を考えることにした。  いつでもいいと事務局が通達したこともあり、クランカンは通達を受け取った翌日に総領主府を訪れていた。通常軌道城を出ない城主が、事もあろうに総領主府に顔を出したのである。メリディアニ家と総領主の関係を考えれば、それだけでも特別なことに違いなかった。 「総領主殿のお手を煩わせたことにお詫び申し上げます」  畏まったクランカンに、こちらこそと言ってシリングは笑って見せた。紺と赤の式服を着て現れたクランカンとは対照的に、シリングは普段の執務スタイル……つまり、グレーのブレザースタイルをしていた。 「こちらこそ、および立てして申し訳ありません。何しろ、バルゴールとして初のテラノ旅行者ですからな。色々と、お話を伺っておきたいと思ったのです」  こちらにどうぞと、シリングはクランカンをソファーへと案内した。そしてソファーに座らせたところで、秘書に命じて飲み物を用意させた。 「しかし、よくキャスバル殿がテラノ観光の許可を出されましたな」  軌道城城主と言う立場を考えれば、軽々に出歩くことは許されていない。話の取り掛かりとして、シリングはメリディアニ家の内部事情に触れてきた。 「いえいえ、今は……違いますか。特に争いのない今なら、たとえ城主と言えどレジャーをするのは問題ありませんよ。ただ先輩諸氏は、ご当主に遠慮されているだけのことです。遠慮のないところは、若者ゆえの無謀さとご理解ください」 「なるほど、皆さんのおかげでバルゴールは長い平穏の中にありますね」  うんうんと頷いたシリングは、「時に」と言ってクランカンの事情を持ち出した。 「お父上のご容体はいかがですかな?」  微妙に話をはぐらかしたのだが、クランカンはそれを気にした様子を見せなかった。 「お気遣い戴いたことに感謝いたします。やはり、地上に下りたのが良かったのでしょうか。どちらかと言えば、具合は良くなっていると言うことです。やはり、軌道城暮らしは負担が大きかったのでしょう」  その答えに頷き、シリングはさらに個人的事情に踏み込んできた。 「そう言えば、マズルカ伯爵殿はお独り身でしたな。あなたほどになれば、女性達が放っておかないでしょう。それに、お父上も跡継ぎを気にされているかと思いますが?」  伯爵家を継いだのなら、すぐに跡継ぎのことが問題となってくる。そのためにも、相応しい伴侶を迎えなければならなかった。それを尋ねることは、爵位を持つ者としては当たり前のことになっていた。  ただ、クランカンの事情を考えれば、爵位保有者の世間話で済む話ではない。それぐらいのことには気づいていたが、クランカンはあくまで世間話としての答えを口にした。 「帝国大学には、パートナーを期待して入学したのですが……どうも、私はその手の魅力が欠けているようです。周りも気を使ってくれているようですが、こればかりはどうにもできないと申しましょうか。いやはや、そろそろ違った世界に出会いを求めてみようかとも考えています」  困りましたねと笑ったクランカンは、「それで」と言って渡航許可を持ち出した。 「テラノへの観光旅行の許可は、いただけると思ってよろしいのでしょうか?」 「正規の申請である以上、認めるのは吝かではありませんよ。ただ、バルゴールからは初のテラノ観光者ですからね。少しお話を伺いたいと思っただけです」  ただと、シリングはクランカンの立場を持ち出した。 「バルゴール星系一等伯爵家当主となると、観光と言っても特別な意味を持ってしまうのが実情です。しかもあなたは、37城主のお一人でもありますからね。ただの一等伯爵とは、いささか立場が違っているんです」  シリングの持ち出した事情に、クランカンは小さく頷いて見せた。 「確かに、軌道城の役割を考えれば迂闊な真似はできないのでしょうね。ただ、ザイゲルへの備えは、私が欠けたぐらいでは微塵も揺るがないことを保証いたします」 「そちらは、あまり心配をしていないのですがね」  そう言って口元を歪め、シリングはとっておきを持ち出すことにした。 「すでにご存じかと思いますが、メリディアニ家先代当主、ダイオネア殿がテラノに行かれます。どうやら聖下に直接許可を貰われたようで、私には通告だけが送られてきましたよ。まあ引退されたダイオネア殿だけなら、さほど騒ぎ立てるようなことではないのですが……なぜか、キャリバーン殿とタルキシス殿も同伴すると聞いています。それなのに、なぜ同時期にクランカン殿がテラノに行かれるのか。その事情を伺いたいと思ったのですよ」  ダイオネアの名前を出しながら、シリングはクランカンの反応を注意深く観察した。そしてほんの一瞬だけ見せた反応に、やはり知らされていないのだと理解することができた。 「もしかして、ご存じなかったと?」  その問いに頷いたクランカンは、「観光ですから」と自分の事情を説明した。 「先代が聖下の許可をいただいたと言うことは、目的が観光ではないと言うことでしょう。だとしたら、私にはその真意を想像することはできません。キャリバーン様、タルキシス様を伴われてと言うことであれば、おそらく新しき帝国の中心となるテラノを見せておきたいとお考えになられたのかと思われます」 「ほほう、テラノは新しく帝国の中心となりますか」  これで、キャスバル達の考えの一端を掴むことができた。その答えに満足したシリングに、何を今さらとクランカンは驚いたような顔をした。 「テラノとグリゴンで始まった流れは、帝国に広く広まっているのですよ。しかもその中心人物が次の皇帝となられるのです。それを考えれば、テラノが帝国の中心となるのは今さらのことでしょう。まさか総領主殿は、この期に及んで今までとは何も変わらないとお考えなのですか?」  折角尻尾を掴んだと思ったのに、逆にこちらの考えを読まれてしまった。なかなか手ごわいと感心したシリングは、確かにそうだとわざとらしく頷いて見せた。 「仰る通り、帝国は今まで通りではいられないでしょう。特に私達H種の星系は、これからの変化に取り残されないようにしないといけませんな」 「そのお考えには、心より賛同させていただきます。ただ申し上げるのなら、私はあくまで観光が目的です。できることなら、美しく聡明な女性との出会いがあればと思っていますよ」  たとえばと言って、クランカンはアセイリアの名前を挙げた。 「爵位も何もたない女性が、これ程までに帝国全土に名前を知られるようになったのです。叶うのならば、是非ともアセイリア様とお近づきになりたいと思っています」 「なるほど、男として素直な気持ちと言うことですか。次の皇帝を輩出することと言い、テラノには何か勢いに似たものを感じますな。お若いマズルカ殿が、出会いを期待されるのも理解できる気がいたします」  うんうんと頷いたシリングは、ところでと言って話を変えた。 「テラノに行かれたなら、是非ともジェノダイト様にご挨拶をされるのが宜しいかと思いますよ。必要ならば、私の方から連絡を入れておきますが?」  どうしますと問われたクランカンは、少し考えてから「感謝します」と頭を下げた。 「総領主殿が仰ったとおり、私の立場を考えればご挨拶をしておいた方が良いのでしょう。総領主殿のご配慮には、深く痛み入ります」  礼儀正しく答えるクランカンに、今日はここまでかとシリングは引くことを考えた。彼の立場を考えたら、あまり長く自分と話すのは好ましくはないのだ。これからのことを考えた時、まだクランカンを孤立させるのは好ましくないことだった。 「色々とお話を伺いましたが、今回はこれまでと言うことにいたしましょう。是非とも、テラノ観光が実りのあるものとなりますように。できれば、お戻りになられた際には、土産話など聞かせていただきたいものです」  手で酒を飲む真似をしたシリングに、良いですねとクランカンは笑って見せた。土産話と言うものは、堅苦しい領主府などでするものではない。話を楽しいものとするには、酒精があった方が好ましいのは疑いようがないことだった。 「その時には、素敵な女性が紹介できるよう努力いたしますよ」 「バルゴールの女性が悔しがるのが目に見えるようですな」  はっはと笑ったシリングは、立ち上がってクランカンに右手を差し出した。 「実り多い旅となることを期待していますよ」 「恐らく、新しい発見の連続となってくれるでしょう」  差し出された手を取り、感謝しますとクランカンは礼を言った。そして再会を約束してから、足早にシリングの元を去って行った。 「ふん、気持ちのいい青年と言う所か」  どこぞの跡取りとは大違いだ。クランカンと話したシリングは、メリディアニ家の凋落を感じ取っていた。もはや、一等伯爵の立場は若者を縛り付ける役には立っていない。年若い城主の心は、もはやバルゴールから離れていたのだ。  無事対決を終わらせたことに、総領主府を出た所でクランカンは安堵の息を漏らした。本家との確執があるため、ただの面会で片付けるわけにはいかなかったのだ。それを何とか乗り切ったことで、クランカンは次なる課題としてテラノ行きのことを考えようとした。だが頭を切り替えようとしたクランカンに、彼のアバターはレキシアから連絡が入ったと知らせてきた。 「それでエレノア、ザルツバーグ卿はなんと?」  クランカンの前に浮かび上がったアバターは、小さく会釈をしてから伝言を口にした。 「城にお戻りになる前に、是非ともお立ち寄り願いたいと」 「ザルツバーグ卿が?」  珍しいなと理由を考えたクランカンだったが、すぐに無駄な努力だと考えることを放棄した。ここから急げば、ザルツバーグの城まで2時間程度しか掛からないのだ。余計な詮索をするより、行動に移した方が手っ取り早かった。 「ザルツバーグ卿には、すぐに伺うと伝えてくれ」 「はい、クランカン様!」  長い金色の髪をしたアバターは、元気よく頭を下げてから姿を消した。それを確認してから、クランカンは「さて」と小さくつぶやき用意したシャトルへと足を向けた。 「足の確保は終わっている……明々後日からおよそ9日間の旅と言うことか。やはり、色々な方々が動き始めたか……」  もともと関係が疎遠だったこともあり、テラノへの直行の航路は開設されていない。その為テラノに行くには、リルケを経由する必要があった。もっと短縮する航路もあるのだが、さすがにザイゲルを突っ切っていくわけには行かなかったのだ。 「総領主殿も動き出されるのか……」  自分を通して、色々と探りを入れようとしたのは分かっていた。その意味で、観光を目的にテラノに行くのは失敗だったかと反省もしていた。ばたばたと動くことで、メリディアニ家の動揺を表に出してしまったのだ。しかも先の当主の動きと合わせて、メリディアニ家が一枚岩でないのも表に出してしまった。それを好機と、名誉職に追いやられた総領主が、主導権を取り戻そうと考えても不思議ではないことだった。 「さて、ザルツバーグ卿は私に何を言ってくるのか……」  それもまた、バルゴールの未来に関わってくるのか。いきなり動き出した世界を、面白いことだとクランカンは喜んでいた。  呼び出しを受けたクランカンは、その2時間後に衛星軌道上にあるレキシアの軌道城に現れていた。急いだのは、面倒なことは早めに片付けておいた方がいいと考えたのが理由である。ただ、レキシアからの呼び出しに興味も感じていた。  レキシアの軌道城についたクランカンは、召使に案内されて城の内部まで連れて行かれた。一口に軌道城と言っても、作りは各々で違っている。そこに共通することがあるとすれば、いずれも飾り気がなく、かび臭いことだろうか。元の成り立ちが軌道上に作られたシェルターであり、その後軍事拠点とされたことを考えれば、質素であるのは必然でも有ったのだ。  10分ほど移動した所で、クランカンは平服に着替えたレキシアと顔を合わせた。暗い軌道城に黒系の衣装は、はっきり言って辛気臭いものになっていた。 「ザルツバーグ卿、お話があると伺いましたが?」  そんな感想はおくびにも出さず、にこやかな笑みを浮かべクランカンはレキシアに握手を求めた。 「うむ、出発前に話をしておこうと思ってな」  その手を握り返してから、レキシアはこちらだとクランカンを小さな部屋に連れ込んだ。そして質素なテーブルに置かれたつまみを指さし、「飲みながら話そう」と提案をした。 「それは良いのですが、珍しいですね」 「なに、私も色々と思うところがあったのだ」  血の色をした酒を取り出したレキシアは、それを無骨な杯に注ぎ分けた。そして目の高さに杯を掲げた。 「バルゴールに」 「バルゴールに」  そう声を揃えた二人は、くいっと血の色をした酒を飲み干した。  与えられた身分に比較して、城主達の暮らし向きは質素なものだった。そして彼らが質素な生活を送るのは、大別して二つの理由が存在していた。  そのうちの一つが、軌道城の性格から来るものだった。かつては多くの人民を収容した軌道城だが、それはあくまで緊急避難のシェルターとしての機能だった。そしてシェルターが不要となった今は、軌道要塞の戦力を維持するのに必要な人員だけが残されたのだ。そのため住人の目的が絞られ、住む人々の多様性が失われてしまっていた。  それでも、500隻の艦隊を維持するとなれば、人口は大きく膨らんでくれる。その家族まで含めると、軌道城にはおよそ200万の人々が暮らしていた。そしてその多くが、軍属だったのだ。一般将兵向けの歓楽街は存在するが、それでも地上に比べれば地味なものでしか無かった。  そしてもう一つの、しかも最大の理由となるのが城主の財政問題である。戦力維持が主目的の軌道城では、経済を支える産業が残っていなかったのだ。必要な部品の製造、食料の生産・加工と言った工房はあっても、文化的生活を送るためには不足するものが多すぎた。そして経済を回すための産業は、軌道城には不要なものとして育成されなかった。そのため軌道城の財政は、メリディアニ家の支出に支えられていたのである。メリディアニ家との縁組が無いのは、そのあたりの関係が影響していた。一等伯爵と言う高い地位こそあるが、メリディアニ家からすれば、軌道城主達は使用人に過ぎなかったのだ。  立て続けに3杯呷ったところで、レキシアはふうっと大きく息を吐き出した。そして顔色一つ変えないクランカンに、「思う所があったのだ」と話しかけた。 「思う所……ですか?」  それは何かと問い返したクランカンに、「思う所だ」と繰り返してもう一度レキシアは酒を呷った。  質素な干し肉を抓み、さらにレキシアは血の赤をした酒を連続して呷った。やけにペースが速く見えるのは、彼の精神状態を表しているのだろうか。 「ザルツバーグ卿?」  自分に話したいことが有ったのではないのか。クランカンが首を傾げたところで、レキシアはどんと音を立てて持っていた盃をテーブルに置いた。 「これから口にするのは、酔っぱらいの戯言だと思ってくれ」  連続して酒を呷ったせいか、レキシアの顔は真っ赤になっていた。そして言葉も、適度にろれつが回らなくなっていた。それを見れば、酔っぱらいの戯言と言うのもおかしなことではないのだろう。だが、その酔っぱらいの戯言に、クランカンは真剣な眼差しで耳を傾けた。 「あの後、キャスバル様にメリディアニ家の跡目のことをお話しした。そこで私は、お前をリーリス様の婿にし、メリディアニ家を継がせたらよいと進言したのだ。何しろお前は、帝国第12大学で学んで来たのだからな。十分な学もあるし、他の城主達からも将来を嘱望されているぐらいだ。我々城主達の中に蔓延る閉そく感を打破するには、お前が頭に立つ必要があるのだ。それを、私はキャスバル様に申し上げたのだっ!」  最後は叫ぶようにして、レキシアは杯を持ち上げた。そして血の赤をした酒を注ぎ込み、ぐいっと一息で飲み干した。 「もちろん、出過ぎた真似だと言うのは理解している。キャスバル様が、跡目のことで頭を悩ませているのも承知の上だ。だからこそ、そして帝国が新しい時代を迎えようとする今だからこそ、我々の思いを伝えなければと考えたのだ!」  どんと盃を置いたレキシアは、お前も飲めと言って壺のような徳利を差し出した。 「酔っぱらいの戯言に付き合うのは、酔っぱらいでなければおかしいだろう!」 「私は、あまり酒は得意ではないのですが」  仕方がないと差し出した盃に、レキシアはそれこそ溢れるほどに酒を注ぎこんだ。 「なあクランカン、俺達は一等伯爵様だよな」 「確かに、私達は一等伯爵に任じられています」  それが何かと尋ねたクランカンに、レキシアは「本当にそうか?」と問い返した。 「ならばお前は、此度テラノまでどうやって行くのだ?」 「リルケ経由で、二等船室を乗り継いでいきますが?」  持っている爵位と利用する船室の間には、確かに格差が生じているのだろう。一等伯爵ならば、特等船室を使ってもおかしくなかったのだ。最低でも一等船室と言うのが、広く帝国で共有されている認識でもある。三等船室が相部屋だと考えると、二等と言うのは個室の中では最低ランクのものだった。 「お前は、一体何をしにテラノまで行くのだ?」 「何をとは……名目上は観光ですが?」  苦笑を浮かべたクランカンに、レキシアは嘲るように口元を歪めた。 「一等伯爵様が、二等船室で貧乏旅行か?」  はんと笑ったレキシアは、貧乏くさいともう一度繰り返した。 「バルゴールの一等伯爵は、特等船室も使えぬしみったれだと宣伝するわけだ。確かに、我々にはまともに動かせる金は無いだろう。あるのは、使い道のない、こけおどしの爵位だけだ。軍艦なら沢山あるが、金ばかり食って何の役にも立ってはくれん」  馬鹿らしいと吐き出し、レキシアは酒を呷った。 「爵位などでは、腹は膨れん。だが、我ら城主に与えられたのは、何の役にも立たぬ一等伯爵の位だけだ。そして空に浮かぶ牢獄に、僅かな金と爵位で縛り付けられている」  どんと盃を置いたレキシアは、テーブルから顔を突き出し、クランカンを睨みつけた。 「お前は、無能でろくでなしのキャリバーンに仕えることができるのか? ごくつぶしのタルキシスに仕えることができるのか? 俺は、あの二人に仕えることなど考えられぬのだ! なあ、クランカン……」  ずずっと盃を押したレキシアは、少し焦点のずれた視線をクランカンに向けた。 「皇帝聖下の公布を知った時、俺は本気で羨望を覚えたのだ。詳しい経緯は知らんが、これは間違いなく帝国の歴史に残る大変革に違いない。アズライト様を孕ませ、聖下に逆らった庶民と言うのも凄いが、その庶民を次の皇帝にしようとする聖下も凄いとしか言いようがない。聖下自ら、これまで作られてきた形を壊されたのだからな。それに引き替え、我らバルゴールはどうなのだ。キャスバル様も、己がどう動くべきかは気にされていても、どう変わるかを考えてはおられないのだ。俺には、それが不満でならないのだ」 「いきなり変わると言うのは、とても難しいことだと思います。聖下にしても、初めはその庶民を始末すると言う策に出られました。その策を乗り越えられたからこそ、その庶民を認めざるを得なくなったのでしょう。変わるには、それ相応の理由と言うものが必要になるのです」  それだけの理由が、今のバルゴールには存在していない。クランカンは、それが変わらない理由だと静かに口にした。そして盃に残った酒を飲み干し、椅子を引いて立ち上がった。 「出立の準備がありますので、これにて失礼させていただきます」 「クランカン……」  頭を下げたクランカンに、レキシアは小さな声で呼びかけた。 「なんでしょうか?」  その言葉を聞きとめ、クランカンはレキシアの方へと振り返った。だが振り返ったクランカンに、レキシアは何も語らなかった。ゆっくりとテーブルに顔をふせたのを見ると、どうやら酔いがしっかり回ってくれたらしい。  それを確認したクランカンは、小さく一礼してから小部屋を出て行った。これから先は、テラノ旅行への準備を考えなくてはいけない。今さら荷造りは必要ないが、頭の中を整理しておく必要があったのだ。  圧縮空気の音とともに、小部屋の入り口が閉じた。その音が部屋の中に響いたところで、レキシアはゆっくりと伏せていた顔を上げた。 「帰ってきてくれなどと言えるはずがない……」  どちらに居る方が魅力的かなど、今さら考えるまでもないことだった。年若く賢い男の前に、魅力的な世界が広がろうとしているのだ。そんなものを見せられたら、実の無い一等伯爵の立場などどうでもいいと思えてしまうだろう。そしてその一等伯爵の地位にしても、守るほどの価値があるようには思えなかった。観光と言う名目で偵察に出るのだが、テラノはどうしようもないほど魅力的に映ってくれるはずだ。 「帰ってくるな……躊躇う必要などどこにもないのだ」  未来は、若者の手の中にある。この時期テラノに行くというのは、それだけの機会を手に入れると言う意味につながってくれる。クランカンがその機会を逃さなければ、彼にはそれだけの才と運があったことになる。それを引き留めるのは、年寄の我が儘以上に、バルゴールにとって害悪であるとレキシアは考えていたのだ。  知りたいと思えば、ほとんどすべての情報を得ることができる。バルゴールの動きに注目していたアルハザーは、慌ただしくなった軌道城城主の動きを喜んでいた。母の動きで、元一等侯爵が動き出しはしてくれたが、それだけでは期待するものからは程遠かったのだ。そこに守り神たる軌道城城主が加われば、バルゴールは今のままではいられなくなる。そして帝国に次ぐ力を持つバルゴールの混乱は、間違いなく上等な物語を綴ってくれることだろう。  まだ年若く才能のある城主が綴る物語は、どれだけ甘美な世界を見せてくれるのだろうか。それを想像するだけで、深い愉悦が身を包んでくれるのだ。 「良いことがあったようですね」  機嫌が良い夫の様子に、トリフェーンは椅子から少し身を乗り出した。昼時と言うこともあり、二人は少し小さめのテーブルで向かい合って質素な食事を取っていた。ただ小さいと言っても、あくまで他のテーブルと比べてというだけで、大きさだけなら10人以上で食事ができるほどの広さがあった。  野菜を中心とした料理に手を延ばしたアルハザーは、妻に向かって小さく頷いてみせた。そしてフォークとスプーンでサラダのようなものを自分の皿に取り分けた。 「ああ、バルゴールだがね。ついに、軌道城城主が動いたよ」  ソースポッドから白濁したドレッシングをサラダに掛け、それをフォークで救い上げ、無造作に口の中に放り込んだ。そしてシャクシャクと咀嚼してから、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。 「彼のお陰で、バルゴールも今のままではいられなくなったようだ」 「あなたの決断が、正解だったと言うことですね」  トリフェーンは、緑色のスープを口に運び、音を立てずにそれを飲み込んだ。それから小さくちぎったパンに、ホイップしたバターの欠片を載せた。 「そうだね、やはり彼は特別だったようだ」  サラダを平らげたアルハザーは、侍従に命じてローストした肉を持って来させた。ゆっくりと肉を運んできた侍従の男は、それを皿に切り分け赤い色をしたソースを掛けた。 「彼の、辺境惑星の庶民と言う身分が役に立ってくれたんだ。これが、ジェノの息子だったりしたら、何の変化も起きなかっただろうね」 「ジェノダイト様の子供だったら、生まれた時から私達の子供の許嫁になっていたでしょうね。確かに、帝国は何も変わらなかったのでしょう」  お茶を啜ったトリフェーンは、意外にも残念そうに息を吐き出した。 「どうかしたのかな?」 「結果的に、ジェノダイト様の妻になれなかったのが良かった。それを突きつけられるのは、やはり悔しいところがあるのです」  夫に向かって、他の男性の妻になりたかったと言うのである。それを口にするトリフェーンも問題だが、全く気にしないアルハザーもどうかしていると言えるだろう。右手で口元を隠して笑ったアルハザーは、小さく頷き妻の言葉を肯定した。 「確かに、今を考えるとその通りなのだろうね。宇宙と言うのは、やはり人智を超えたことをしてくれるのだと思うよ。君が最初にジェノと出会った時、もしも君が名乗っていたのならどうなっていたのだろうね。間違いなく、僕達の関係は今とは違うものになっていたはずなんだ。君はジェノの妻となり、僕は全く違う女性を皇妃に選んでいたことだろう。そして僕は、僕達の子供を夫婦にすることを考えたと思うよ」  それを語るアルハザーは、どこか夢を見るような表情をしていた。今を認めるのは吝かではないのだが、ジェノダイトと親戚になることは、彼にとって夢の様なことでもあったのだ。 「あなたは、本当にジェノダイト様のことがお好きなのですね」  妬けますと笑ったトリフェーンに、何を今更とアルハザーは笑い返した。 「常々僕は、自分が男であることを恨んでいたんだ。もしも僕が女だったら、ジェノを夫にすることが出来たのだからね。幼い頃、本気で性別転換を考えたぐらいだよ」  夢を見るような顔をした夫に、トリフェーンはどうしてと言う疑問を口にした。 「なぜ、性別転換をしなかったのですか?」 「その時僕達は、男子校に通っていたんだ。もしも性別転換をしたら、ジェノと一緒に居られなくなってしまうだろう? だから僕は、どうすべきか一週間悩んだくらいだよ。その結果、同じ学校に通うことを選んだと言うことだ」  ナプキンで口元を拭ったアルハザーは、白く泡だった飲み物に口をつけた。すでに肉の皿は平らげられ、目の前にはケーキのようなデザートが置かれていた。 「あら、見たことのない飲み物ですね?」  それを目に止めた妻に、アルハザーは「ああ」と言って笑った。 「少し、彼の真似をしてみたのだよ。テラノでは、確かカプチーノと言うらしいんだ。最初はどうかと思ったのだけどね、慣れて来ると中々美味だと思えるようになったよ」  口元に白い髭をつけながら、アルハザーは大ぶりのカップからカプチーノを啜った。 「確かに彼の言うとおり、私にも帝国の変化に参加する資格があったようだ。そして彼と言う存在のお陰で、帝国が面白い方向に変わろうとしているのが分かるんだよ。この先どう転ぶのかは分からないが、間違いなく今までよりは刺激的なものに変わってくれるのだろうね」  ただと、アルハザーはカップを置いて口元をナプキンで拭った。 「彼は穏やかな変化と言ったが、間違いなくそれは難しいことなのだろう。彼がとても優秀なことは疑いようは無いのだが、如何せん世界が狭いことは否めないのだよ。知ってさえいれば、そして分析さえすれば、彼はその才能をいかんなく発揮してくれるのだろう。だが存在すら知らない所で起きることに対しては、さすがの彼の力も及ばない。彼と言う存在を利用し、私は帝国が大きな変革を迎えることを広く示してみせたのだ。そうなると、今まで押さえつけられていたものが一斉に動き出すんだよ。彼が知らない世界で起きる、帝国全体を揺るがす動きがね」 「それが、バルゴールと言うことですか」  面白いわと笑い、トリフェーンは泡の出る飲み物を口にした。シーダーと言う、アルコールの入っていない、そして甘くもなんともない炭酸飲料だった。ちなみに一般的な飲み方は、シロップなりを入れて味をつけるものである。  何気なくシーダーを口にしたトリフェーンは、その味気のなさに思わず顔をしかめてしまった。 「ですが、あなたが手を貸せば穏やかな変化も可能ではありませんか?」  すべてを知る皇帝なのだから、今まで押さえつけられていたものが蠢きだすのも知っている。分析が得意なヨシヒコに、アルハザーが少し手を貸すことで、バルゴールの変化も手の内に収められるはずなのだ。  だが手を貸せばと言う妻の言葉を、アルハザーは苦笑とともに否定をした。 「それでは、何も面白くはないと思わないか? しかも彼は、僕に対して「無能」とまで言ってくれたのだよ。ならば、先代として皇帝が無能でないのを示しても悪くはないだろう」 「そのために、バルゴールを利用するのですか……一番影響が大きく出そうな場所を選ぶのなんて」  小さくため息を吐いたトリフェーンは、責めるのではなく夫を褒めた。 「とっても素敵。それでこそ、私が妻になった意味がありますね」 「君ならば、きっとそう言ってくれると信じていたよ」  そう言って笑ったアルハザーは、「バルゴールは」と言って言葉を続けた。 「新しい動きは母上や伯父上の考えとは違う所で起きるんだ……いや、メリディアニ家の問題を考えれば、全く違うというのは言い過ぎかもしれないね。ただ、表への出方が、二人の想像とは違う形で現れると言うことだよ。二人は、軌道城城主達の反乱の可能性は考えても、さほど深刻な問題では無いと思っているはずだ。何しろ、問題が跡取りにあるとしか考えていないからね」  くっくと笑いを漏らしたアルハザーは、侍従に命じてカプチーノのお代わりを持って来させた。 「リーリスに適当な婿を迎えれば、今の窮地を乗り切ることができる……二人は、問題を矮小化しすぎているのだからね」 「あなたが、彼を次の皇帝に指名した影響……それを、理解していないと言うことですね」  含み笑いを漏らしたトリフェーンは、残ったシーダーにピンク色をしたシロップを落とした。グラスに落とされたピンクのシロップは、ゆっくり雲のように広がっていった。 「あなたは、軌道城城主達に夢を見させましたね」 「ああ、メリディアニ家の召使として、軌道城と言う監獄に幽閉された城主達にね」  ふふふと含み笑いをしたアルハザーは、お代わりのカプチーノに口をつけた。結構気に入っているのだと夫を観察したトリフェーンは、変化の鍵となった少年のことを持ちだした。 「本当に、あの子は気づいていないのかしら?」 「自分が皇帝に指名された影響は分析しているのだろうね。そして今の皇太后が、バルゴール出身と言うことにも気づいているはずだ。そのせいで、バルゴールに何かあると考えるのだろうが、母上と言う存在に目眩ましをされることになるんだよ。軌道城城主達の抱えた火種には、さすがにたどり着けないと思っているのだがね」  ヨシヒコが優秀なことは、嫌というほど思い知らされていたのだ。だがその優秀さがあっても、なにもないところからは正解にたどり着くことは出来るはずがない。 「ですが、あの子の所にはアリアシアとアズライトも居るのですよ」  そう決めつけた夫に、トリフェーンは違う角度からの可能性を指摘した。バルゴールが危ないと感付けば、二人から情報を得ることができると言うのだ。特にアリアシアは、度々バルゴールに招かれて行っていると言う事情があった。 「この問題では、残念ながらアリアでは彼の力にはなれないよ。何しろアリアには、分かりやすく、そして厄介な問題が突きつけられていたのだからね。そして皇族と言う上からの立場では、見えない世界と言う物があるのだよ。だから、アズィも彼の力にはなれないんだよ。一番軌道城城主達の思いを理解できるのは、間違いなく彼なのだよ。ただ、その思いを理解できるほど、彼はバルゴールのことを知らないんだ」 「だとしたら、あの子は予想とは違う形でバルゴールと向かい合うことになるのね」  ふふっと笑ったトリフェーンは、好都合だと夫に言った。 「その対応で、あの子の力を見極めることができるわね」 「大きな混乱を口にした私に、迷惑だの無能だの言ってくれたからね。それがどれだけ現実を見ていないことなのか。それを教えてあげるのも、先代皇帝としての義務と言うものなのだよ。授業料だと考えれば、バルゴール星系一つぐらいなら割に合うだろうね」  楽しみだとアルハザーが笑った時、彼のアバターが突然ポップアップして現れた。 「琥珀、何か報告事項でも出来たのかな?」  夫婦の会話の最中に、通常アバターが割り込んでくることはない。裏を返せば、直ちに報告すべきことが起きたと言うことになる。それに驚いたアルハザーに、アバターは小さく頭を下げた。 「はい、帝国第二大学の管理するデーターバンクへのアクセスが有りました。管理領域オメガ37、階層5801、機密レベルトリプルSの領域です。その領域にヨシヒコ様の権限で、シルフィール・コロニアルがアクセスし、エボイラの情報を引き出しました」  琥珀の報告に、さすがのアルハザーも顔色を変えた。驚きから腰を浮かし、「それは確かか」と聞き直したぐらいだ。 「はい、正規の手続きで引き出されたため、情報の把握が遅れました。聖下の布告がなされたその日に情報が引き出されました」  聞き間違いではないと言う答えに、アルハザーは脱力して椅子に腰を落とした。 「それで、すべての情報が引き出されたのか?」 「その通りです」  琥珀の報告に、アルハザーはさらに厳しい表情を浮かべた。 「それで、シルフィールと言う女性は何をしている? いや、今どこにいるのだ?」  引き出された情報が情報だけに、そのまま放置しておく訳にはいかなかったのだ。ウィルスを拡散されようものなら、対策の無い星などすぐに死の星と化してしまう。 「今は、アルタイル号でテラノに向かっています。情報の扱いについては、残念ながら私から覗けないようにされています」 「帝国第三大学の学生か……彼の権限を使ったと言うことは、彼がアクセスを命じたと考えられるか」  うむと唸ったアルハザーは、どう問題を扱うかに頭を悩ませた。人の死を望まないと大見得を切った以上、エボイラを大量虐殺に使う可能性は忘れていいだろう。だが、ただ興味だけでアクセスしたとは考えるのには無理がある。今の時点では、何らかの目的があると考えるのが適切なのだ。だとしたら、その目的がどこにあるのか。事が事だけに、成り行きを見守るという訳にはいかなかった。 「琥珀、24時間以内に何をしているのか、そして何を目的としているのかを探れ。いいか、これは“皇帝としての命令”だ」  すなわち、すべての制限を無視していいと言う命令になる。それほどまでに、アルハザーは今回の事態を重要視していた。 「はい、24時間以内に目的を特定します!」  最上級の命令が発令されたことで、ヨシヒコの身の回りで行われる会話も検閲されることになる。そこまですれば、目的を探ることも難しく無いと思われた。ただ、それにも限界が有ることをアルハザーは理解していた。時間の経過を考えれば、すでに手遅れの可能性も考えられたのだ。 「あの子は、何をしようと考えているのでしょう?」  夫が慌てた以上に、引き出された情報が問題だった。しかも一度はヨシヒコを殺したウィルスだけに、様々な可能性が考えられてしまうのだ。そしてその可能性を考えるのは、いかに性悪皇妃と言えど、面白いとは言っていられないことだった。 「全く想像がつかないとしか言いようがない。単なる興味、私への仕返し、他の目的への使用……考えられることは、それこそ星の数ほど存在しているのだからね。しかも性質の悪いことに、情報入手からの時間が経過しすぎているのだよ。皇帝権限を使っても、すでに手遅れになっている可能性もある……」 「だとしたら、あの子の行動に制限を掛けた方がよろしくなくて?」  それほどの重大なことだと主張した妻に、「不可能だ」とアルハザーは首を横に振った。 「彼は、正規の権限を行使したに過ぎないのだよ。だから、私には彼の行動を制限することはできないんだ。そして私は、彼に説明を求めることもできないのだよ。それは、常々私が言っていたことが理由となっているんだ。次の皇帝となる彼が、必要だと判断して命じたのだからね。何人たりとも、説明を強要することは出来ないんだ。布告を出すと言うのは、それほどの意味を持っていたと言うことだ」  やられたと顔を覆ったアルハザーは、厳しい眼差しを妻へと向けた。 「私達は、覚悟だけはしておいた方が良さそうだね。もっとも、今さら彼が、仕返しなどと言う面白くもなんともないことをするとは思えないが……」  だからこそ、余計に厄介としか言いようがなくなる。そしてアルハザーにも、打てる手がほとんど残されていなかった。 「しばらくは、彼の動きに注意することしかできないだろう」 「私達への仕返し程度なら良いのですけど……」  バルゴールの破壊すら想定した二人が、不安を隠すことができないでいた。それほどまでに、絶滅ウィルスと言うのは大きな脅威となっていた。だがいくら不安を感じていても、できることは絶望的に残されてなかった。二人にできることは、ただアバターからの報告を待つことだけだった。  そしてそれからの24時間、二人の注意はアバターからの報告に向けられていた。普段の二人からは考えられないぐらい、公務が疎かになっていたのである。そしてアバターに命令を出した翌日、食事の並べられていないテーブルに着いたアルハザーは、「琥珀」と彼のアバターを呼びだした。 「調査は終わったか?」  はいと頷いた琥珀は、申し訳なさそうに成果が無かったことを報告した。 「私が調査した範囲で、お二人がエボイラについて話されたことはありませんでした。そして皇帝権限でデーターベースを洗ってみたのですが、残念ながら痕跡を見つけることができませんでした。そこから推測されるのは、すでに目的を完遂したと言うことなのですが……帝国第三大学学生の脳へのスキャンは、ブロックされていて実行できませんでした」 「つまり、私が調査することは織り込み済みと言うことか……」  そうなると、単なる興味からとは考えることができない。単なる興味や研究目的であれば、アクセスできないところにデーターを隠す意味が無かったのだ。 「事実から推測すると、そう言うことになるのかと……」  申し訳ありませんと頭を下げたアバターに、アルハザーはこれ以上ないほど難しい顔をした。ここまで徹底して情報を隠す以上、穏便な目的とは考えられなかったのだ。 「間接的に探りを入れるか……アンハイドライトかアリアシアが相応しいか」  こう言う時には、常識的な考えをしている方が利用しやすい。アルハザーが二人の顔を思いだしたとき、「申し訳ありません」とアバターが声を掛けてきた。 「なんだ、琥珀?」 「ヨシヒコ様のアバター、セラからメッセージを受信いたしました」  どうしてと驚いたアルハザーに、琥珀はもう一度「申し訳ありません」と謝った。 「どうも、私がトラップに掛かったようです。それで、ヨシヒコ様に感づかれたようです」  その答えを聞く限り、自分が興味を持つのは想定の範囲と言うことになる。さすがにやるなと感心したアルハザーは、送られてきたメッセージを確認することにした。 「それで琥珀、どんなメッセージが送られてて来たのだ?」  すぐに教えろと言うアルハザーに、琥珀は「はい」と小さく頷いた。 「ヨシヒコ様からのメッセージと言うことです。虐殺は考えていないので安心していい。もちろん、皇帝聖下、皇妃殿下を狙うこともしないそうです。自分は、大きな混乱は望んでいないのだと……人の死による変化は望んでいない……だそうです」  琥珀の報告に、アルハザーは大きく息を吐き出した。送られてきた答えは、まるで自分の考えを読んでいるようなものだったのだ。 「まったく、どんな育て方をしたらあんな子供になるのだろうね。是非とも、彼の両親と語り合ってみたいものだよ」 「それを、私も知りたいと思います……」  二人は顔を見合わせ、大きくため息を吐いた。だが、大きな混乱が無いと保証された以上、それを信じる以外にできることがないのも確かだった。慌てただけに、この結果は期待はずれのものでしか無い。珍しく緊張しただけに、脱力感も並ではなかった。  もう一度息を吐き出したアルハザーは、「腹が減った」と妻の顔を見た。気が抜けた途端、腹の虫が騒ぎ出したのだ。 「そうですね、私も急にお腹が空いた気がします……」  まったくとため息を吐いたトリフェーンは、「アズライトは」と娘の名前を口にした。 「アズィがどうかしたのかい?」 「いえ、とても運がいいと思っただけです。あれほど可愛らしくて、性格が良くて、そしてこんなに腹黒な男性が居るとは思ってもみませんでした。やはり、一度味見をしてみたくなりました。別に、味見は一度でなくてもいいのですけどね……」  いやらしく口元を歪めたトリフェーンは、だけどと少し諦めたような言葉を吐いた。 「そこまで、はじけてはくれないでしょうね。まったく、こう言う時に庶民の常識が邪魔をしてくれる。その辺り、アンバランスにすぎるとしか……絶対に、アズライトより満足させてあげる自信があるのに」  つまらないと吐き出した妻に、アルハザーは小さく吹き出した。 「今回は、強硬手段には出ないのかな?」  以前のジェノダイトの時のように。それを仄めかした夫に、ガードが硬すぎるとトリフェーンは零した。 「アズライトやアリアシアが警戒してくれるでしょうね。それに、あの子がその気にならない限り手が出せませんよ。多分、私のことは想定の中に入っていると思いますから」  だからつまらないと、トリフェーンはもう一度息を吐いた。 「そんなことより、早くお昼を食べませんか? 昨日からあまり食べていなかったので、結構お腹が空いているんです」 「ああ、ホッとした途端腹の虫が騒ぎ出したね」  まったくと、小さく零したアルハザーは、侍従に命じてランチを用意させることにした。 「なかなか彼は、私の予想外のことをしてくれるよ。その意味で、得難い人材には違いないのだろうね」  その意味で、次の皇帝に指名したのは間違いどころか、会心の一手だとアルハザーは自画自賛をした。そのお陰で、様々な所で、そしてこれまで押さえつけていたものが動き出そうとしてくれるのだ。しかも、ヨシヒコ自身が、想像もしていないことをしようとしてくれる。面白い時代に生まれたのだと、アルハザーはめぐり合わせに感謝をしていたのだった。 Chapter 2  ザイゲル連邦との関係が落ち着いたのは、地球にとっては間違いなくいいことだろう。テロで荒れ果てたヨコハマパークの近くも、今は綺麗に整地されていた。そして新たなモニュメントの建築も始まっていた。そしてその建築には、グリゴンからも多くの資材と技術が投入されていた。  そしてアセイリアの努力もあり、地球には多くの異星人が訪れるようになっていた。未だシレーンが多数を占めていたが、ザイゲル連邦からの旅行者も数多く見られるようになっていた。その意味で、センテニアルの惨劇による痛手は、表面上は見えなくなっていると言っていいのかもしれない。  だが記念すべきセンテニアルが、血の惨劇となった事実は隠しようがない。ザイゲルとの関係が落ち着いたことで、新たな出発を祝うべきだと言う声が大きくなっていた。センテニアルが悲劇だったからこそ、新たな喜びの時を刻むべきだと言うのである。  そう言った民衆からの要望は、今回に限って言えば好都合だったと言えるだろう。アンハイドライトやアズライト、そしてアリアシアが来訪するのは、新たな一歩を刻む式典には相応しい出来事になってくれるのだ。  もっとも、式典開催にあたって、ヨシヒコの事情は公にはされていなかった。その辺り、収拾の付かない混乱になるのを恐れたからと言うのも理由になっていた。元々の公布を知る立場にあるのが、ジェノダイトを含むごく一部というのも情報の秘匿に都合が良かったのである。ただ混乱を理由にしたが、本当の理由は混乱を恐れたものではなかった。どう発表するのが一番効果的なのか。それを考えた結果、式典での発表が効果的と判断したのである。 「それで、ヨシヒコは今どこまで戻って来ているの?」  記念式典まで後3日となった日、チエコは息子の居場所を問題とした。すでにヨシヒコが地球を発ってから、3週間が経とうとしていたのだ。復活直後に地球を立ったことを考えると、一日も早く愛息子に会いたいというのが正直な気持ちだったのだろう。  母親からの質問に、イヨは自分用のアバターを呼び出した。ここまで来るとお約束とも言えるのだが、アバターの名前はセラと名付けられていた。ただ見た目に関しては、少しぽっちゃり目の女の子の格好をしているところが違っていた。 「セラ、ヨシちゃんはどこまで辿り着いた?」 「はい、予定通りランペルーシ回廊を通過中です。あと1日で、太陽系に出現します。そしてそこから、1日でASIA1に到着します。ヨコハマ到着も、同じ日になると言うことです。ちなみに、ドワーブ様のツヴォルグ号も同行されているそうです」  小さく頷いたイヨは、そう言うことと母親の顔を見た。日程確認という名の無駄話なのだが、この場にそれを指摘できる豪の者は居なかった。唯一苦情の出そうなアセイリアは、ASIA1に上がって来賓達の出迎えをしていた。 「ようやく帰ってきてくれるのね……でも、どうしてこんなことになっちゃったのかしら?」  まったくとため息を吐いたチエコは、大げさすぎると文句を言った。 「どうして、一辺境惑星の庶民の子供が、次の皇帝なんてことになってしまうのよ。そりゃあ、ヨシヒコは自慢の息子よ。あんないい子は、他所を探しても居ないとは思っているけど……でも、世の中には限度と言う物があると思うわ」 「ヨシちゃん、そこそこが苦手だから……」  マツモト母娘の会話に、そう言う次元かとセンターサークルのメンバー達は呆れていた。ただ突っ込みたいと言う衝動は、それ以上の反撃を受けることを恐れて全員が自重していた。宇宙軍から引き抜いたイヨにしても、やはりマツモト家の一人だと全員が思い知らされたのだ。 「でもさ、アセイリアも可愛そうね。普通だったら、婚約を発表したら大騒ぎになるのよ。何しろ相手は元皇太子だし、一等侯爵夫人が約束されているんだもの。それなのに、今度の騒ぎで目立たなくなっちゃうでしょう……でも母さん、母さんは間違いなくマスコミに追いかけられることになるけど?」  どうと顔を見られたチエコは、思う所があるのか小さく口元を歪めた。 「追いかける度胸のあるところがあるといいわね」  ふふふと笑ったチエコに、マイケルとイリーナは背筋に冷たいものが走った気がした。どうしてと考えた二人は、すぐにそれがLM社で見たものだと気がついた。 「言いたいことは理解したわ。ただ、限度は弁えておいてね」  自分の母親が、手を抜かないことは嫌というほど知っていたのだ。だからブレーキを掛けないと、下手をしたら死人が出る可能性もあるぐらいだ。そしてもう一つ分かっていたのは、自分ではブレーキにならないと言うことだ。  だからイヨは、母親を止められる唯一の人を頼ることにした。当たり前だが、夫のヒトシにはとことん甘いのが彼女の母親なのである。しばらく領主府に泊まり込んだこともあり、相当ストレスを溜めているだろうとイヨは考えた。今後のことを考えれば、そろそろ発散させておくことを考えた方がいいだろう。 「さて、予定通りスケジュールはアセイリア以外は前倒しで進んでいるわね」  そのアセイリアには、絶対積み残しが出るようにToDoリストを作ったのだ。それを考えれば、よく頑張っていると言ってもいいぐらいの進捗になっていた。そしてイヨは、積み残しても困らないように計画を立てていた。アセイリアですらそうなのだから、他のメンバーの仕事はうまく考えられていた。  ぐるりと統合司令本部を見渡したイヨは、「集合!」とセンターサークルメンバーに声を掛けた。  そして自分の号令に集まってきたメンバーを見てから、イヨは明日までの完全休息を全員に告げた。 「スケジュールは、半日程度前倒しで進んでいます。ですから、今から明日の朝まで完全休息に当てます。ここの所徹夜が続いていましたから、全員英気を養ってきてください。明日にはアセイリアがASIA1から帰ってきますから、全員疲れた顔を見せないようにしてください! また、明日から徹夜が続きますからね」  意訳をすると、アセイリアは寝かせないと言う意味になる。それでいいのかと疑問に感じたが、それを誰も指摘しようとは思わなかった。指摘した所で、どうにかなると言うものではないし、別にいいかと思っているところもあったのだ。何しろセンテニアルの時には、アセイリアの化け物じみたところも見せられていたのだ。  ただ問題は、その時のアセイリアはヨシヒコが化けたものと言うことだった。  イヨの解散の一声で、集まったメンバーは三々五々統合司令本部を出て行った。広大な部屋の中には、まだ多くの職員は残っているが、あちらはしっかりと勤務管理されていて心配する必要は無かった。 「さて、私達も帰りますか」  全員が部屋を出て行ったのを見届け、イヨは母親に一緒に出ようと声を掛けた。その声に疲れが出ていたのは、母親以外に誰も居なくなったのが理由だろう。イヨはイヨなりに、かなり無理をして仕事をしていたのだ。アセイリアに仕事を押し付けているように見えていたが、実際の仕事はイヨの方が多かったぐらいだ。 「そうね、あなたもそろそろ休息を取らないとね。いくら若くても、さすがに仕事のし過ぎだと思うわよ」  小さく息を吐いたチエコは、ご苦労様と言って娘を労った。アセイリアを楽にするため、娘が精一杯頑張っているのを知っていたのだ。  母親に労われたイヨは、少しはにかんだような笑みを浮かべた。 「ちょっと、軍より辛いかなって。あっちは、余程のことがない限りシフトがしっかりしているから」  無理をするのは、戦闘時の上級将校ぐらいなのだ。ただの准尉のイヨは、戦闘時でもシフト勤務に回されていた。もっとも彼女の場合、幸運を期待される時には、必ずブリッジに呼び出されていたのだが。 「でも、あなたにもいい経験になったんじゃないの?」 「経験って意味ならね」  ふっと息を吐き出したイヨは、「凄いなぁ」と遠くを見る目をした。 「こんな中で、ヨシちゃんは一人で頑張っていたんだよね。あの時はさ、アセイリアって結構敵が多かったのよ。宇宙軍や陸軍は、大将以外は反抗的だったしね。本当の味方は、センターサークルのメンバーぐらいしか居なかったと思うし。こうして自分が入ってみると、ヨシちゃんがどれだけ苦労していたのか理解できるわ」  弟を褒めたイヨに、チエコは頷きながら嫁も褒めた。 「アセイリア……キャンベルさんもそうね。ヨシちゃんが居なくなった後、統合司令本部を一人で支えてくれたわ。精神的には、とても辛かったのでしょうね」  ごそごそとテーブルの下を探り、チエコは自分のバッグを取り出した。ちょっとした旅行バッグサイズなのは、泊まりこみが続いた証拠でもある。 「確かに、今の統合司令本部があるのはアセイリアのお陰ね」  母親に倣ってテーブルの下を探ったイヨは、もっと大きなバッグを取り出した。 「帰ったら洗濯か……」 「しっかりと、汚れ物が溜まったわね。美味しい晩御飯を用意するから、洗濯を任せていいかしら?」  二人の分を合わせると、洗濯機を何回も回さないと終わってくれそうにない。これからの予定を考えたら、追加で着替えを仕入れないと足りなくなりそうだった。 「そうね、洗濯をしながら着替えの追加を仕入れに行ってくるわ」 「だったら、先に買い物を頼めるかしら。初めの洗濯と掃除は、私がやっておくから。必要なものは、あなたのセラに伝えておくわ」  久しぶりに家に帰るとなると、済ませておくことが目白押しになってくれる。完全休養のくせに、これでは少しも休めないと思ったほどだ。むしろ、そのため休みを入れたとも言えるぐらいだ。 「今日は、出来合いですませる? ユニオンで美味しそうなものを見繕ってくるわよ」  そうすれば、お互い自由な時間を作ることができる。その方が楽だろうと提案したイヨに、それは良くないとチエコは首を横に振った。 「たまには、ヒトシさんに手料理を食べさせてあげたいの。そうじゃないと、ストレスが溜まってしかたがないわ!」  いきなりそっちに持っていきますか。弟やアセイリアには決まった人がいるのに、どうして自分には恋人の一人も居ないのだろう。どうしようも無い不条理を感じ、イヨは大きくため息を吐いた。もっとも、優しい弟は自分のハードルをますます高くしてくれた。 「ここで話していてもしかたがないわね。家までは、タクシーで帰ろうか」 「バスでもいいんだけど……荷物が多いからそうしておきましょうか」  よいしょとひと声かけて、チエコは大きな荷物を肩に掛けた。 「母さん、その掛け声は年寄り臭いわよ」 「仕方がないでしょう。もうすぐ孫だって生まれるんだし」  嫌だ嫌だとこぼしながら、チエコは肩に荷物をかけたまま出口の方へと歩いて行った。その後姿を見ると、確かに孫がいると言われてもしかたがないのだろう。もっともチエコは、まだ40代も半ばでしかない。 「しっかり、その気になっているわね……いけないいけない」  家に帰ってからのことを考えると、こんな所でのんびりとしているわけにはいかない。慌てて荷物を肩に掛けたイヨは、母親の後を追って統合司令本部を出て行った。完全休養と全員に宣言こそしたが、その実溜まった家事をしたら残り時間は殆どなかったのだ。  領主府の1階からタクシーに乗った二人は、ドアを閉めた所で大きく息を吐き出した。領主府を出て閉鎖空間に入ったおかげで、人の目を気にしなくても良くなったのだ。立場上周りの目を気にしなくてはいけないため、どうしても本部に居ると肩肘を張ってしまうところがある。  そもそも自分達二人は、あくまで一般庶民でしか無かったのだ。会社経営を手伝っていた母親にしても、相手はたかだか中小企業でしか無かった。そんな一般庶民でしかない自分達が、地球の要職に就くなどとどうして考えるだろう。しかも自分は、統合司令本部のリーダー代理のようなことまでやっていた。 「しかし、私が統合司令本部に来るなんて思っても見なかったわ」  つい苦笑を浮かべた娘に、チエコは小さく頷いた。 「准尉に上がった時も、大抜擢だって言われたぐらいなのにね」  さほど昔のことでないはずなのに、准尉昇格が物凄く前のことに思えてしまう。それぐらい、センテニアル以降は大きな出来事が連続して起きすぎていた。特に家族の問題は、頭が付いてけないほど続いてくれた。 「息子を亡くしたと思ったら、なんとか生き返らせて……そしたら次の皇帝って」  はあっと息を吐いた母親に、イヨは分かると大きく頷いた。そしてタクシーの窓の外を見て、目まぐるしすぎると文句を言った。 「グリゴンと戦争をしたと思ったら、いつの間にか一番の友好星になっているしね。ヨコハマパークの近くだって、今は更地になってるけどずいぶんとひどい有様だったのよ」  あっちと指をさした先には、惨劇の中心となったヨコハマパークがあった。あの頃は、タクシーが今走っているヤマシタパーク近くまで被害が及んでいたのだ。そのうち被害の軽かったヤマシタパーク周辺の復興は早く、今では破壊のあとすら見つけられなくなっていた。 「もうすぐ、5月も終わるわね……」  ヤマシタパーク側を見ると、青く広がる海に陽の光が反射していた。そして目を前方に転じると、銀杏並木が新緑に輝いていた。天気が良いこともあり、観光客も大勢訪れているようだ。外を歩けば、きっと汗が滲んでくれるだろう。  一緒に外の景色を見たチエコは、急に感じた空腹に運転席の時計を見た。 「そう言えば、ランチがまだだったわね」  1時半を示している時計を見て、チエコは思い出したようにランチのことを口にした。 「て言うか、その辺りの時間感覚が無くなっているわ」  徹夜が続けば、毎日の生活も不規則なものになる。特に統合司令本部に居ると、時間の経過が分かりにくくなってくれるのだ。いつ寝たのかを考ると、お昼と言う観念も曖昧になってくれる。 「モトマチ商店街でランチをしていく?」 「中華もいいけど……そうね、今日は洋風にしようか」  思い立ったら直ぐに行動に移す。その思い切りの良さが、イヨの美点でも有った。母親の提案に頷いたイヨは、早速タクシーのオートパイロットに割り込んだ。 「荷物を配送モードに切り替えて。商店街の入り口辺りで下りましょうか」 「そうね、そうすれば買い物も一緒に済ませておけるわね。ユニオンに行けば、夕食の物もそこそこ揃うでしょう」  母親の答えを聞きながら、イヨはタクシーのコントロールにアクセスをした。途中下車は問題ないが、荷物の配送は時間指定をしておいた方がいい。 「何時に届けてもらう?」 「後から指定してもいいんじゃないの? とりあえず、預かっておいて貰いましょう」  普段からきっちりしている母親が、今日に限ってはずいぶん適当な事を言ってくれた。それに驚いた娘に、チエコは苦笑しながら「疲れたから」と答えた。 「ここの所、徹夜で頭を使っていたでしょう。いい加減、頭を休ませてあげたいのよ」 「まあ、その気持は理解できるけどね……」  ピッピと音を立てながら、イヨはタッチパネルを操作していった。 「じゃあ、そろそろ降りることにしましょうか?」 「そうね、レガリアさんでパスタランチでも食べましょうか。その後は、少し商店街を歩いて買い物でもしていかない。そろそろ、夏物を新調したくなったし……」  珍しく歯切れが悪くなった母親に、イヨは珍しいことがあるものだと驚いた。 「どうしたの?」  タクシーを下りながら尋ねてきた娘に、「ちょっと」とチエコは言い訳をした。 「こんな生活が、何時まで続けられるのかなと思ったのよ。ヨシヒコが帰ってきたら、のんびりと商店街を歩くことも出来ないのかなって」  ただ息子が帰ってくるだけなら、チエコもそんなことを言わなかっただろう。第二皇女アズライトを連れて帰ってくるだけでも大変なのに、次の皇帝に指名までされてしまったのだ。それが公表された時点で、庶民の生活は送れないことになる。マスコミは制限できても、行動には間違いなく多大な制限がつくだろう。未だ現実感が沸いてくれないが、この日常が失われることは間違いなかった。 「そうね、ヨシちゃんが帰ってきたら、こんな風に出歩くことはできなくなりそうね……」  平日なのに、相変わらずモトマチの商店街には人出が多かった。以前より異星人が増えたのは、恐らく気のせいではないだろう。 「やっぱり、異星人が増えたわね」 「テラノは、帝国のもう一つの中心と言われるようになったから……H種以外の人たちにとっては、多分リルケよりテラノの方が身近だと思うわよ」  裏道を指さしたイヨは、「母さんは」と前を向きながら声を掛けた。 「トランスギャラクシー観光に行ったでしょう。銀河系を見て回って、どう思った?」 「銀河系を見て……ね」  少し遠い目をしたチエコだったが、目的地のイタリアンレストランを見て「げっ」と小さくうめき声を上げた。平日なのに、店の前には入店待ちの客が何組か待っていた。 「どうする、待つ?」 「トワイライトカフェにしようか」  別のお店を出した母親に、だったらと言ってイヨは先を歩き出した。 「なんで、人が多いんだろう?」  平日の昼なら、モトマチ商店街の裏通りにこんなに人がいるはずがない。それがおかしいと口にした娘に、そう言えばとチエコは自分達が出した通達を思い出した。 「センテニアルパート2をやるから、積極的に休暇を取らせるようにって通達を出したじゃない。それを受けて学校とか休みになっているから、そのせいじゃないのかしら」  母親の指摘に、イヨは一瞬呆けたような顔をした。そして一度晴れ渡った空を見上げてから、はあっと大きく息を吐き出した。 「やっぱり、疲れているのかな。お祭り気分を盛り上げるためって自分が言ったのを忘れていたわ」  嫌だ嫌だと首を振ったイヨは、次の目的地が見えた所でもう一度ため息を吐いた。お店の周りには人が大勢いるのが見えるし、その先にも大勢の人たちが歩いているのが見えたのだ。この様子では、有名所はどこに行っても待ち時間が長くなりそうだ。 「どうする。この様子だと、どこに行っても行列ができていそうよ」 「中華街に場所を変えても駄目でしょうね」  センテニアルパート2のお陰で、観光客も増えていたのだ。そこに休みが重なれば、こうなることは目に見えていた。 「もうちょっと裏に行く?」 「汐汲坂の途中あたりに、人が少なそうなところがあると思うわ……」  ジモティならではの土地勘を信じ、チエコはあっちと人通りの少なそうを方面を指さした。丘の上に上る路には人が大勢いるが、その横道には人が入っていっていないように見えたのだ。 「あっちだと、お蕎麦屋さんぐらいしか無いけど……まあいいか」  行きましょうと母親に並んだ所で、イヨはただならぬ気配を感じ取った。爬虫類のような感じとでも言えばいいのか、ねっとりとした陰湿な気配を肌に感じたのだ。お陰で、軍人の経験にスイッチが入ってくれた。 「セラ、周辺警戒をしなさい……」  ステルスモードでアバターを呼び出し、イヨは身の回りの警戒を命じた。この辺りに、あまり社会的に認められていない人が住んでいるのは知っている。だが、感じた気配は全く違うものだった。 「母さん、私から離れないようにしてね」  元が付くとはいえ、イヨは宇宙軍で准尉にもなった軍人なのだ。緊張から背筋に一本筋が通った時の迫力は、民間人の母親とは一味違うものがある。 「イヨ、どう言うこと?」  急に緊張をはらんだ娘に、チエコは少し動揺したように聞いてきた。 「ちょっとね、おかしな奴らに目をつけられたようなのよ。まずいなぁ、退役しちゃったから武器を持っていないし……セラ、カヌカの所はどれぐらいで駆けつけてくれそう?」 「この場所から動かなければ、およそ10分と言うところでしょう。ただ、そう言うわけにはいきそうもありませんね。明らかに武器を携行した男たちが、10人ほど接近してきています。他にも、10人ほど通りの所で警戒をしているようです」  まずいなぁとイヨがさらに緊張した所に、セラは申し訳ありませんと情報を追加した。 「坂の上の方にも、10名程度仲間と思しき男たちが集まっています」 「それで、相手の持っている武器は分かる? 多分、ナイフの類だと思うけど」  どうと質問したイヨに、セラは驚いたように「正解です」と答えた。 「やっぱりね。銃だと検問に引っかかるから……」  とは言え、圧倒的に多勢に無勢なのだ。しかも面倒なことに、相手の組織や目的が分からなかった。それでも言えることは、これが単なる思い過ごしではないと言うことだ。 「あっちに行くと袋小路か……」  常識的に考えれば、上か下、どちらかを突破しなくてはいけなくなる。だが、それではダメだとイヨは考えていた。どちらを突破するにしても、前後の大人数を相手にしなくてはいけなくなってしまうのだ。 「セラ、商店街の放送に割り込むことはできる? そこのスピーカーから、緊急警報を鳴らして欲しいのよ」 「可能ですが。何をしようと言うのです?」  30人近い男たちに囲まれているのに、たかが商店街の放送で何をしようと言うのか。分からないと言うセラに、イヨは口元を歪めて「簡単なことよ」と答えた。 「一瞬だけ、奴らの気をそらすの。その隙に細い路地に逃げ込んで、奴らをそこに誘い込むのよ。あんな大勢、とてもじゃないけど纏めて相手になんかしていられないわ。だから、絶対に囲まれないようにしないといけないの。そこで時間を稼いで、救援を待つぐらいしか出来ないわ。あと、9分ぐらい耐えればいいんでしょ?」 「申し訳ありません。観光客が多いので、さらに5分ほど持ち堪えていただけないでしょうか。すでに出動しているのですが、普段に比べて身動きが重くなっているようです」  なるほどと頷いたイヨは、小声で母親に逃げる方向を指示した。 「これから商店街の放送で緊急サイレンを鳴らすわ。それが鳴ったら、そこの横道に入るからね。ただ、絶対に走っちゃ駄目よ」  いいと確認され、チエコは小さく頷いてみせた。それを確認したイヨは、セラに緊急サイレンを鳴らすように命じた。 「いい、2秒だけ最大音量で鳴らしてちょうだい」 「はい、救助隊の到着まであと13分となりました」  残り時間をセラが伝えた所で、モトマチ商店街に2秒だけ非常事態を告げるサイレンが最大音量で鳴り響いた。その音量は、センテニアルの惨劇を思わせるほどの大音量だった。一瞬顔を見合わせた人々だったが、すぐに鳴りやんだことでパニックは免れることが出来た。そして間もなく、機械の故障だとアナウンスがなされた。 「じゃあ、母さん。急がず騒がず冷静にね!」  何事もないように、イヨは目的の路地を指さした。自分達が気づいていることを知られないよう、ごく自然に振る舞う必要があった。  センテニアルのやり直しと言う事で、メイン会場では様々なイベントが用意されていた。ホプリタイによる模擬戦も、そのイベントの一つとなっていた。先の悲劇を考えれば、悪夢を思い出させるイベントと言ってもいいものだろう。だが悪夢を払しょくするためにも、同じイベントを成功させる必要があったのだ。  ただ今回は、帝国から客を招くことはしなかった。今更グリゴンがテロを起こすことは考えられないが、民衆に対する配慮を行うこととなったのである。そのためホプリタイの対戦は、陸軍の精鋭対士官学校の学生が企画されることになった。なぜ学生と言う疑問には、前回活躍したからと言う理由が付けられた。そしてその発表に対して、マスコミからも批判的な意見は出てこなかった。 「選抜チームに選ばれたそうだな」  センテニアルパート2前に帰ってきた娘を、フェルナンデスは満面の笑みで出迎えた。今回皇女殿下の世話役に選ばれることはなかったが、御前試合に出る栄誉を引き続き得ることが出来た。皇女殿下の覚えがよろしいことは、ミツルギ家の将来のためにも喜ばしいことなのだ。 「しかも、先の考査ではトップの成績だと聞いたぞ。どこかで、良い参謀を見つけてきたのか?」  ここの所並みの成績に落ちていたシミュレーションで、全士官学校生でダントツトップの成績を獲得したのである。今までのことを考えれば、フェルナンデスでなくとも新しい参謀を得たと考えるのが自然な事だった。そしてその参謀は、ヨシヒコ以上に優秀と言う意味にもなる。  それを喜んだ父親に、マリアナは少しだけ苦笑を浮かべて「内緒だ」とだけ答えた。 「なんだ、父にも秘密なのか?」 「そこは、色々と事情と言うのがあるのだ。ところで父上、一息ついたらセラムを連れて下の町に行こうと思うのだが?」  ぐるっと首を回したマリアナは、出迎えの中にセラムが居るのを見つけた。以前より顔色が良くなっているのを見ると、自分の言いつけを守ってくれたのだろう。 「ああ、別に構わんぞ。根を詰めてばかりでは駄目だからな。たまには、街のにぎわいを楽しんでくるのもいいだろう」  物分かりがいいのは、それだけ機嫌が良いと言うことなのだろう。実際フェルナンデスにとって、マリアナは同僚たちに自慢のできる娘だったのだ。上役達にも、よほど自分より名前が通っているぐらいだ。このまま実績を重ねれば、ミツルギ家の将来は明るいと思っていた。  使用人達が頭を下げる中屋敷に入ったマリアナは、父親に頭を下げてから自分の部屋へと上がっていった。これからモトマチの商店街に遊びに行くのに、士官学校の制服では色気がなさすぎるのだ。可愛らしい格好が似合わないのは承知しているが、それでも着替えた方がいいと思っていた。 「月光、セラムにも着替えるよう命じてくれ。そうだな、デートに行くような格好にしろと伝えてくれ」  マリアナの命令に応えて浮かび上がったアバターは、畏まりましたと頭を下げた。 「理由をお伝えしなくてもよろしいのですか?」 「それは、出かけた所で私の口から教えることにする。多分、セラムが秘密にしていたことにも繋がってくるだろうからな」  そう言うことだと答え、マリアナはクローゼットからジャケットとパンツを取り出した。薄い水色のパンツに、クリーム色のジャケットをあわせ、そこに薄いピンクのドレスシャツを合わせれば立派に男役の完成となる。タツノオトシゴのロゴが刺繍されたドレスシャツは、商店街にある有名店のものだった。 「月光。セラムの準備にはどれぐらいかかりそうだ?」 「あと30分ほどでしょうか」  そうかと小さく頷いたマリアナは、制服を脱ぎ捨て下着姿で仰向けにベッドに倒れ込んだ。そしてそのままじっと天井を見上げ、「ヨシヒコ」と小さく呟いた。 「あんな真似ができるのは、絶対にヨシヒコ以外にあり得ない」  今回の考査も、まともな準備が出来ずに困っていた。当たり前だが、年次が進むほどに考査の難易度も上がっていくのだ。今のマリアナ一人の力では、落第しないのが精一杯の状態だった。  その分他で取り戻すと決意をしていたのだが、いざ考査と言うところでマリアナは異変に気がついた。課題を提出しようとした所で、自分の作ったファイルがなくなっていたのだ。間違えて消去したのかと慌てたマリアナだったが、すぐに見覚えのないファイルが有ることに気がついた。もしやと中身を確認した所、すぐに課題の答えだと気がついた。  自分が作ったものではないのは気になったが、今更作り直している時間は残っていなかった。仕方がないと諦め、誰かが作ってくれたファイルを提出した。そしてその結果が、全士官学校学生の中でダントツトップと言う結果である。そのお陰で、学生チームのリーダーに再度選出されることになった。 「アセイリア様なら、今更手伝っていただくような理由がない。それに、黙ってファイルを置かれることはないはずだ」  だから、ヨシヒコが手伝ってくれたのだとマリアナは考えた。むしろ、そう信じたかったと言うところだろう。ヨシヒコは、4ヶ月も前に鬼籍に入っていたのだから。  そのことは、葬式が行われたことを考えても間違っては居ないはずだ。だがマリアナには、それ以外の可能性は考えられなくなっていた。そしてセラムが口を閉ざす以上、ヨシヒコが絡まないと説明がついてくれないのだ。  それを確認するためにも、セラムと出掛けなければと思っていた。いつか話してくれればとは言ったが、胸の中のモヤモヤとしたものを解消しないと先に進めない気持ちになっていたのだ。 「ヨシヒコ、お前は本当に死んでしまったのか……」  死んだと教えられた時には、寮の部屋で一晩泣き明かしたぐらいだ。体の一部どころか、心の一部が欠けてしまったように思えてしまったのだ。ポッカリと大きく心に空いた穴は、いくら泣いても叫んでも埋まってくれなかった。どうしてこんなに悲しいのか、どうしてこんなに辛いのか、葬式に出られなかった後悔を含め、マリアナの中ではヨシヒコとの別れが済んでいなかった。 「マリアナ様。そろそろ準備をされた方が。セラムの用意が、そろそろ整います」  ヨシヒコのことを考えていたマリアナに、遠慮がちに彼女のアバターが声を掛けた。 「そうか、セラムも急いでくれたのだな……」  このどうしようもない気持ちをはっきりさせるためには、セラムに自分の考えをぶつけるしかない。勢い良くベッドから起き上がったマリアナは、用意しておいたドレスシャツに袖を通した。そしてパンツとジャケットを纏い、彼女にしては珍しく鏡と向かい合った。そこには、目を真っ赤にした少し幼い顔つきをした女性が立っていた。 「……確かに、女としての魅力には欠けているようだ」  短い髪に逞しい身体。そして日に焼けた顔を見れば、少し童顔の男と言うところだろうか。ニッコリと鏡に向かって微笑んでみたが、可愛いと言うよりさわやかな笑みがそこにはあった。 「だけど、これが私なのだ……」  今更、どこをどう取り繕おうと、可愛らしい女になどなれるはずがない。すっぱりと頭を切り替えたマリアナは、ブラシを使って乱れていた髪を整えた。 「本当にデートだな」  鏡の中には、自分でもそこそこに見える男が立っていた。隣にセラムを並べてみると、それなりに様になっているように思えてしまう。 「それが私に違いない……」  未来のことは分からないが、今は自分が考えたとおりに進んでいくしか無い。その第一歩として、この胸のもやもやを解消しなくてはいけないのだ。よしと両手で頬を叩いて、マリアナはセラムとデートをするため部屋を出たのだった。  セラムが気を利かせてくれたおかげで、食事は待たずに席につくことが出来た。汐汲坂の途中にある、少し小洒落たイタリアンと言うのが、二人が入ったレストランである。そこでマリアナは、おしゃれな雰囲気をぶち壊すかのように、3人前のランチコースを注文した。 「すみません、量が少ないお店で……」  場所が場所だけに、全体的に量目もおしゃれになっていたのだ。気が利かなかったことを謝ったセラムに、マリアナはまるで気にしていないように笑ってみせた。 「いやいや、量だけの店は美味しくないからな。それよりも、セラムの方が恥ずかしい思いをしているのではないのか?」 「いえ、特にそう言うことはございません」  3人前を注文したマリアナとは対照的に、セラムは普通のランチコースを頼んでいた。もちろん、大盛りなどするはずもなく、付けたと言ってもせいぜいデザートの盛り合わせ程度だった。そしてどちらが爵位を持っているのかと疑問に思えるほど、セラムは上品にサラダを口に運んでいた。 「マリアナ様、どうかなさいましたか?」  気がついたら、じっとマリアナに見つめられていた。いくら同性でも、食べる所を見つめられるのは恥ずかしいことに違いない。そのお陰で、セラムの頬はほんのり赤くなっていた。 「いや、セラムは綺麗だなと思ったのだ。やはり、普通の男性はお前のような女を好むのだと思ったのだ。女である私でも、お前が可愛いと思えてしまうのだからな」  頷きながら褒めるマリアナだったが、セラムの答えは照れたようなものではなかった。 「私にあるのは、それだけですから……」  少し暗さをもった言葉に、マリアナは少しだけ眉を顰めた。 「いやいや、それだけなどと言うと、同性に敵を作ることになると思うぞ。現に私でさえ、少しむっとしたぐらいだ」  それだけだと責めることになってしまうので、すぐに「まあいい」とマリアナは許した。 「実は、セラムと話をしたい……違うな。確認したいことが有ったのだ」 「私に、でしょうか?」  少し緊張したセラムに、マリアナは真剣な面持ちで「ああ」と頷いた。 「私の成績のことは、お前も聞いて知っているだろう。当たり前だが、あれは私の実力などではないのだ。そして、新しい参謀を見つけたわけでもない。いつの間にか、私のフォルダーに作戦案がアップされていた。私は、ただ、それを使っただけのことだ」 「そんなことがっ!」  いかにも驚いたと言う顔をしたセラムだったが、マリアナはそこに態とらしさを感じていた。 「セラム、お前は誰が手助けをしたのか知っているな? 私は、それをお前に確認しようと思ったのだ」  小さく息を飲むセラムに、やはりそうかとマリアナは答えを確信した。セラムがヨシヒコのことを隠していると考えれば、全ての辻褄があってくれるのだ。 「お前は、そのことをアセイリア様に教えられたのだな」 「それは……」  アセイリアからは、いいと言う迄教えてはいけないと言われていた。だがマリアナにだけは、嘘を吐きたくないと思っていた。二人の間に板挟みになったセラムは、答えに困って俯いてしまった。そこに天の助けか、大音量で緊急警報が鳴り響いた。それに驚いたセラムは、路地裏に入っていく女性の姿を見つけた。そしてそれがヨシヒコの姉であることに気づいてしまった。 「……ヨシヒコさんのお姉様」 「なんだ、急に?」  答えになっていないつぶやきに、どうしたのだとマリアナは訝った。ただマリアナの視線も、窓の外に向けられていた。 「いえ、そこにヨシヒコさんのお姉様がいらしたので……でも、そこの路地に入っていかれました。確か、あそこは行き止まりになっていたかと思うのですが……」 「あの路地にか?」  どれどれと路地を注目したマリアナは、追いかけるように路地に入っていく男たちを見つけた。その不自然な行動に気付き、なんだと身を乗り出した。 「マリアナ様。どうかなさりましたか?」  主の不自然な様子に、思わずセラムはその理由を尋ねた。 「セラム、あの路地は行き止まりだと言ったな?」 「はい、すぐに行き止まりになっているはずですが?」  それがと首を傾げたセラムに、そう言うことかとマリアナはコップの水をぐいっと呷った。 「すまないが、しばらくここで待っていてくれ。少し、気になることがあるのだ?」 「それはいいのですが。もうすぐ、パスタが出てきます……いえ、失礼いたしました。そちらは、私の方でお店の方に話しておきます」  急に緊張を増した主に、セラムも非常事態なのだと気がついた。それならば、自分は従者として求められることをしなくてはいけないのだ。 「ああ、お店の人に謝っておいてくれ。それから、戻ってきたら冷めていても食べると伝えておいてくれ」  そう言うことだと言い残し、マリアナは大股でレストランから出て行った。向かった先が行き止まりなら、今からでも見失うことはないはずだ。 「月光、何人入っていったか分かるか?」 「現時点で6人ほどです」  なるほどと頷いたマリアナは、すぐに飛び込んでいくことを自重した。ヨシヒコの姉は軍人なのだから、6人程度ならすぐに危なくなることはないと考えたのだ。そしてその前提に立つのなら、これ以上危険な状態にならないことを優先すべきと切り替えたのである。  そのためマリアナは、すぐに周辺の警戒を行った。軍人のイヨが、何の見込みもないまま袋小路に入って行くとは考えられない。だとすると、時間稼ぎを目的としたことが予想される。その場合、自分に求められる役割が変わってくるのだ。 「月光、状況の把握はできるか?」  ステルスモードでアバターを呼び出し、マリアナは周辺事情を確認した。 「領主府警備隊が出動しているようです。到着予定は、およそ10分と言う所です」  やはりその辺りに手抜かりは無かったか。さすがはヨシヒコの姉と感心したマリアナは、次に襲撃者の仲間を確認することにした。脇道を張っている者を確認すればいいので、こちらの方は比較的簡単だった。 「結構、数が多いな……」  見たところ、同じ空気を持っている男たちが20人ほど集まっていた。いくらマリアナでも、20人の男を相手に立ち回りをする訳にはいかない。相手が武器を持っている可能性を考えれば、正面からまともにやりあうのは愚策でしか無かった。  ただこれ以上加勢が増えたら、いくら軍人のイヨでも相手は難しいだろう。やはり度胸と機転で乗り切るしか無いかと、マリアナは積極的に介入する決断をした。それにした所で、あと9分ほど我慢すればいいだけの事なのだ。  ゆっくり脇道の入り口に進んだマリアナは、そこでくるりと振り返った。そして通せんぼをするように、脇道の所で立ち塞がった。後ろの注意は、アバターにまかせていた。 「さて、ここから先は立入禁止だ!」  ニヤリと不敵に笑い、マリアナは力を誇示するように指の関節を鳴らした。陸軍士官学校での鍛錬は伊達ではなく、全身から発せられる迫力は周りを圧倒するものだった。 「10人……いや、20人ちょっとと言う所か。女性相手に、ずいぶんと大げさなことをしてくれるのだな」  わらわらと近づいてきた男たちを見渡し、恥ずかしい奴らとマリアナは笑った。季節柄不自然に見えないようにするためか、全員が半袖のワイシャツ姿をしていた。それだけなら会社員の団体にも見えるのだが、目つきの悪さがカムフラージュを意味のないものにしていた。  入り口に立ち塞がったマリアナに、男たちは信じられないと言う顔をした。だがすぐに気を取り直して、「邪魔立てするな」とリーダー格の男が声を上げた。黒縁のメガネを嵌めた40代ぐらいの男だろうか。そのまま、役所の受付に座らせた方がしっくりと来る見た目をしていた。 「意味の無い恫喝だな。何しろ、奥に入っていったのは私の知り合いなのだ。お前たちこそ、大人しく解散した方がいい。か弱い……女性二人に、大の男が寄って集ってというのは卑怯ではないのか」  さっさと帰れと、マリアナは手で男たちを追い払う真似をしてみせた。少しも緊張感のない、そして自分たちを恐れない態度に、リーダー格の男は声を荒らげた。 「我々は、あの女に天誅を加えるのだ。チエコと言う女は、力で我々市民を弾圧したのだ。我々には、グリゴンへの弱腰の態度に抗議をする権利があるはずだ。大勢の同胞が、グリゴンのせいで命を落としたのだぞ! いいか、我々も関係の無い市民の血を流したいとは思っていない。だから大人しく、そこをどけ!」  恫喝してきた男に、なるほどとマリアナはわざとらしく頷いた。 「だったら、私のことを知っていてもおかしくはないな。マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギだ。私は、ホプリタイでグリゴンの奴らと直接戦ったのだからな」  名乗りを上げたマリアナに、男たちの間に小さな動揺が走った。センテニアルの悲劇に於いて、ヒーロー、ヒロインは二人居たのだ。誰もが知るアセイリアと言う存在の他に、グリゴンのホプリタイに立ち向かった学生たちもまたヒーローだったのだ。そしてマリアナは、そのリーダーとして名前を知られていた。 「どうやら、私のことを知っているようだな」  ふんと鼻から息を吐き出したマリアナは、命令を一段階厳しい物にした。 「悪いことは言わん。大人しく捕縛されるのだな。間もなく、領主府警備隊がここに駆けつけてくる」  ぐるりと男たちを見渡したマリアナは、右手で5と言う数字を示してみせた。 「領主府警備隊が駆けつけてくるまで、残り時間は5分を切った。無事逃げようと思うのなら、私に関わっている暇はないはずだがな」  どうだと選択を迫ったマリアナに、リーダー格の男は忌々しそうな声を上げた。 「そんなはったりが通じると思っているのか。そう言うお前こそ、大人しくそこをどけば見逃してやるぞ」 「私は、親切で言ってやったのだがな」  愚かだと吐き出したマリアナは、挑発するように男たちに声を掛けた。 「ミツルギ一等男爵家長女、マリアナがお前たちの相手をしてやる」  どんと力強く一歩踏み出したマリアナは、腰を落として半身の状態で男たちと向かい合った。そして前に出した左手で、かかってこいと手招きをした。 「言っておくが、私は生身でも強いぞ。しかも腹が減っているから、いささか気が立っているしな」  男たちの中でも、マリアナは一回り大きな体をしていた。そんなマリアナの発する迫力は、20人を超える男たちを圧倒するものだった。  だが脅された方も、このまま逃げ出すことは出来なかった。何も行動に移していなければいいのだが、領主府職員を襲撃した事実を消すことは出来ない。ここまで来たら、本来の目的を完遂する以外に彼らに選択肢は残されていなかったのだ。  そう覚悟を決めた男たちだったが、それはすこしばかり遅すぎた決断に違いない。男たちが一斉に飛びかかろうとしたその時、坂の両側が急に騒がしくなったのが聞こえてきた。 「どうやら、時間切れのようだな。私が逃げろといった時に逃げていればよかったのに」  商店街の入口と坂の上のほうを見れば、領主府警備隊の隊員たちが殺到してきているのを見ることができた。これで終わりと笑ったマリアナは、リーダー格の男に「諦めるのだな」と声を掛けた。 「ここで抵抗すれば、それだけ罪が重くなるのだぞ。今のままなら、お前たちは「未遂」で済ませてもらえるだろう」  降参しろとマリアナが声を上げたその時、「そうはいかないの」と後ろから声が聞こえてきた。 「未遂ではなく、既遂だからね。まあ、どちらにしても罪が問われるのは間違いないわね」  その声に驚いたマリアナは、思わず後ろを振り返ってしまった。そしてすぐ後ろに居るイヨを見つけ、どう言うことだと自分のアバターを問いただした。後方の警戒を任せていたはずなのに、何の警告も発せられなかったのだ。 「悪いわね。アバターの権限はこちらの方が上なのよ。だから、あなたのアバターの動作に干渉させてもらったわ。まあ、とりあえず協力に感謝すると言う所かしら。ミツルギ一等男爵家御令嬢様」  感謝と言う割に、イヨの言葉には毒がこもっていた。それに驚くマリアナを無視し、イヨは駆けつけた警備隊に制圧を指示した。多勢に無勢、しかも装備に差があるのだから、制圧などあっという間に完了してしまう。イヨの命令に従った守備隊の隊員たちは、瞬く間に20人を超える男たちを制圧した。 「中に6人ほど気絶しているわ。アジトの情報も得たから、すぐに制圧に向かいなさい。いいこと、一人も逃さないようにしなさい」  母親を思わせる冷たい声で命令をしたイヨは、そのままの冷たさでマリアナに向かい合った。  ヨシヒコよりは背の高いイヨだが、マリアナとは20センチほど身長に差があった。そして宇宙軍と陸軍の違いで、体格的にもイヨは劣っていた。それでも実際に死線をくぐり超えた迫力は、士官学校の学生を大きく凌いでいた。 「統合司令本部から、テロリスト逮捕への協力に対する感謝状を送らせてもらうわ。じゃあ、急ぐから私達は帰らせてもらうわね」  小さく敬礼をしたイヨは、あっちと母親に行き先を示した。  LM社では迫力を示したチエコだったが、実際の荒事への経験は無い。少し顔色を悪くして、娘の指示に小さく頷いた。  明らかに自分を拒絶しているイヨを、あろうことかマリアナは「待ってくれ」と呼び止めた。 「なに? 絶縁を言い渡してきたのは、ミツルギ家の方よ。もっとも、私達もミツルギ家に関わるつもりはないわ」  振り返ったイヨの言葉は、さらに冷たさを増したものだった。すぐに歩き出したイヨに、マリアナはもう一度「待ってくれ」と追いすがった。  だがマリアナの言葉に、イヨは振り返りもせずに冷たい言葉を口にした。 「私達には、待つだけの理由がないの。あなたのために、貴重な時間を使おうとは思っていないわ。邪魔をするつもりなら、一等男爵家ぐらい潰してあげるわよ。ミツルギがヨシちゃんにしたことを、まさか忘れてはいないでしょうね」  絶対的な拒絶を受けたマリアナは、それ以上イヨを呼び止めることは出来なかった。そしてマリアナに脅しをかけたイヨは、それ以上彼女のことを気にもしなかった。まるで初めからマリアナなどいなかったかのように、母親に声を掛けて商店街の方へと戻っていったのだった。  暴漢達が制圧されたのを見て、セラムはほっと息を吐き出した。いくら士官学校で訓練を受けていても、武器を持った男たちが相手では小さな間違いが致命的なものになる。しかも相手の方が遥かに人数が多いのだから、まともに戦っては駄目なことぐらいはセラムにも理解できた。  だが安堵をしたのも束の間のことで、すぐにセラムは罪悪感に囚われることになった。離れているので何を話したのかは分からないが、明らかにヨシヒコの姉にマリアナが拒絶されていたのだ。戻ってくるマリアナの顔が泣きそうなのは、それだけ厳しいことを言われたと言うことになる。自分がもう少しうまくやっていれば、こんなことにならなかったのにと考えたのだ。 「マリアナ様……」  本来ならば、怪我がなかったことを喜ぶところだろう。さもなければ、活躍したことを賞賛する場面である。だがセラムは、激しく落ち込む主に掛ける言葉を持たなかった。 「分かっている。分かっているんだ……ミツルギは、ヨシヒコの家族に喧嘩を売った。いや、もともと私は、ヨシヒコの家族に嫌われていたのだ」  幼なじみだからと言って、必ずしも親が好意的に捉えてくれるとは限らない。特にヨシヒコの場合、小さな頃に一度死にかけたことが尾を引いていたのだ。その時にミツルギが謝罪ひとつしなかったことで、両家の関係は決定的にに悪化していた。そして死の間際にいたヨシヒコへの仕打ちで、両家の関係は修復不能な物になっていたのだ。 「ですが、ヨシヒコさんはマリアナ様のことを嫌ってはいませんでした。大切なお友達……そう思っていたはずです。そうでなければ、こっそりとお手伝いしてくれるとは思えません。ヨシヒコさんは、マリアナ様のことを気にかけてくれているのです」  落ち込む主に、セラムはアセイリアとの約束を破ることにした。生きているとは言っていないが、今の言葉は白状したも同然のものだった。  セラムの言葉を聞いたマリアナは、そう言うことかと寂しく笑った。ヨシヒコが生きていると言う期待に胸をふくらませていたが、それがどうしようもなく自分勝手なことだと思い知らされてしまったのだ。ここまで家族同士が対立していては、元の関係に戻れるとは思えなかった。 「そうか、やはりヨシヒコは生きていたのか……」  ふうっと息を吐きだして、マリアナは背もたれに体を預けた。3人前のパスタが出されたのは、ちょうどそのタイミングの事だった。 「……美味しそうなのだがな。だが、食欲が湧いてくれないな」  鎌倉野菜のペペロンチーノを、マリアナはフォークで弄ぶようにした。食欲を誘う香が漂ってくるのだが、弄ぶだけで中々口まで運ぼうとはしなかった。 「マリアナ様……こんなことになったのは私のせいです」  申し訳ありませんと頭を下げたセラムに、マリアナは小さく首を振った。 「いや、セラムが悪いわけではないぞ。私が父上にもっと強く言えばよかったのだ。そうすれば、ここまで拗れることはなかっただろうな。だが、ミツルギの罪は私の罪でもあるのだ。ならば、次期当主として甘んじて罪を受け入れよう」  そこまで口にして、マリアナはようやくペペロンチーノを口に運んだ。 「……うまいな」  普段からは考えられない遅さで、マリアナはペペロンチーノを口に運んでいった。そして何かを考えるかのように、ゆっくりゆっくり咀嚼していった。  そんな主を見れば、悲しみの深さを理解することができる。マリアナには、ずっとヨシヒコのことが好きだったと教えてもらったこともある。ずっとヨシヒコと一緒に居たのは、誰でもなくマリアナだったのだ。 「マリアナ様。アセイリア様を頼ってはいかがですか」  一度は否定したアセイリアの仲介だったが、もはや形振りをかまってはいられない。マリアナですら駄目なのだから、もはやすがる相手は残っていなかった。 「アセイリア様は間を取り持ってくださると仰ってくださいました。アセイリア様なら、ヨシヒコさんのご家族に話ができると思います」 「アセイリア様……か」  そう呟いてから、マリアナは「だめだ」と小さな声で答えた。 「父上は、詫びを入れるつもりなど無いのだ。ミツルギの者として、父上の考えに反することは出来ない。それにアセイリア様は、センテニアルのやり直しで多忙を極めていると言うではないか。たかがミツルギのことで、お手を煩わせるわけにはいかないだろう」  「もういい」と小声で答えるマリアナは、体がひと回り小さくなったようにセラムには見えていた。大切な“姉”なのだから、なんとかしてあげたいと思っていた。だが、いくら何とかしたいと思っても、ただの少女にできることは残っていない。偶然を頼ろうにも、アセイリアに頼るのは主に否定されてしまったのだ。  「結論から先に言うが」翌日一人で領主府に顔を出した所で、イヨはいきなりウルフに捕まった。テロリスト対策がウルフの持ち分だと考えれば、別に不思議なことではないのだろう。それにしても、意外に早かったと言うのがイヨの感想だった。 「二人が街を出歩くのは、今後控えた方がいいだろう。当たり前だが、こんな厳重な警戒態勢は続けられるものじゃない。しかも、これだけやっても目こぼしが出てしまうんだ。二人の安全を考えたら、ボディガードをつけるか、家に引き篭もって貰わないといけないだろう」  いきなり守りきれないと白旗を上げたウルフに、イヨは小さなため息を返した。 「いきなり白旗を上げてくれたわけね。それで、昨日の奴らのことはどこまで分かったの? 小物かもしれないけど、数が集まると厄介でしょ?」 「昨日の奴らね……」  はあっと小さく息を吐いたウルフは、確かに小物だとイヨの言葉を認めた。 「ザイゲル連邦の横暴を許さない会。別名、ザイゲルしばき隊と言う奴らだ。主にザイゲルとの友好関係を反対するデモと、観光客に嫌がらせをする程度の小物だ。昨日にしても、モトマチ商店街で獲物を探していたようだ。そこに、たまたまザイゲルの観光客など比べ物にならない大物が引っかかってしまった訳だ。捕まえた奴らを締めあげた所、ナイフを持ってはいたが、護身用に持っていた言うことだ。まあ、待ってくれ」  何かを言いかけたイヨを手で制し、ウルフはさらに説明を続けた。 「事実、奴らの構成員は何度か警察しょっぴかれている。その都度刃物が押収されているが、確かに一度も使用されていなかった。それを考えると、確かに護身用と言うのが正解だろうな。ザイゲルの奴らに反撃された時、素手では心もとないと思ったのだろうな。とまあ、思いっきり小物の訳なのだが……どうする、不敬罪を適用するか? それを適用すれば、最高で死刑まで持っていけるぞ」  自分の立場を持ちだしたウルフに、イヨはもう一度小さくため息を返してみせた。 「そう言うのは私の趣味じゃないわ。ただ、母さんには気を使う必要がありそうね。母さん、あれで結構アドリブに弱いから」 「チエコさんが、か? 地球の軍事産業から恐れられているチエコさんが、なのか?」  おもいっきり驚いたウルフに、イヨは苦笑を浮かべながら「誤解がある」と答えた。 「ヨシちゃんにも似た所があるけど、母さんはすべてを手の内に収めようとするところがあるのよ。そうね、相手を手のひらの上で躍らせると言えばいいかしら。LM社でやったのは、まさに彼らを手のひらの上で踊らせた結果なのよ。だから、予め制圧用の戦力も配置して置くことが出来た。でも今回のことは、全く考えても居ないことだったでしょう。そう言うのが、母さんが一番苦手にするところなのよ。そして家では、そっちのカバーは父さんがしているわけ。父さんがいれば、想定外のことは起きないから。そしてもしも想定外のことが起きたとしても、父さんは何事もなかったかのように乗り切ってくれるの。だから、母さんは父さんにベタベタなのよ」  そこまで口にした所で、「今のは忘れて」とイヨはウルフにお願いをした。 「少し家族のことを話し過ぎたわね。ヨシちゃんの場合、母さんの上位バージョンだと考えれば間違いないわ。想定さえしていれば最強だけど、想定すらしてないことには無力なのよ。何しろ、体力方面はからっきしだからね。ただ、二度は通じないし、時間をかけたら逆転されてしまうけどね。アドリブは、母さんよりは強いのでしょうね」  もう一度忘れてと繰り返したイヨは、小さく自分の頭を叩いた。 「小物しか入り込めていないと言うのなら、今敷かれている警備体制は正解と言うことね」 「そう、信じたいところだな。それこそ、想定していない敵が出てきたら対処できない。その辺りはチエコさんとイヨさんに任せたいところだ」  お願いしますと頼られたイヨは、やめてと真剣にウルフに文句を言った。 「私はヨシちゃんじゃないのよ。それに、加わってから1ヶ月も経っていないんだからね。そっちの分析は、アセイリアにやらせればいいのよ。地球の中で、一番銀河情勢に詳しいのは彼女でしょ?」 「そりゃ、まあ、そうなんだが……そうかぁ、イヨさんが加わってから、まだ1ヶ月も経っていなかったんだな。正式に加わったのは、アセイリアがグリゴンから帰ってきてからか」  起点を思い出してみると、1ヶ月どころか2週間にも満たない時間だった。それを考えると、改めてイヨが凄いなと思えてしまった。それまでただの准尉でしか無かった女性が、いきなり統合司令本部を仕切ってくれたのだ。しかも馴染んでいるから、ずっと前から居るように思えていたのだ。 「そう言うこと。私の場合、いつまでも軍においておけないからって引っ張られたのよ。後は遊ばせておくわけにはいかないから、統合司令本部を手伝えって言われただけだし……まあ、ヨシちゃんの事情があるからしかたがないとは思ったけど……それも、ずいぶんとおかしな方向に行ってしまったわ」  皇女殿下と関係したと言うだけでも、庶民としては非常識な自体に違いなかった。ただ、それにした所で、ヨシヒコ一人の問題だと考えていたところがある。そのまま地球を離れてしまえば、騒がしいのもすぐに収まることだと思っていたのだ。  だが弟が皇帝となると、話しはガラリと変わってくる。家族の意味合いが、全く違うものになってくれるのだ。すでにヨシヒコ一人の問題ではなく、家族全体の問題になっていた。イヨがどこに所属しているかなど、もはやどうでもいいことでしかなかった。  ふうっと小さく息を吐き出したイヨは、いけないと一度首を振った。そして深刻そうな顔をしたウルフに、昨日捕まえた者達への処分を伝えた。 「ちょっとお灸をすえてから出してあげて。ただ、次はないからって脅しを忘れないように」 「それでいいのか?」  仮にも、自分達を襲った相手なのだ。少しぐらいのお説教では、軽すぎる処分に違いない。  驚いた顔をしたウルフに、イヨは小さく苦笑を浮かべた。 「その程度のことよ。ただの人達ってことは、締めあげてみて分かったから。グリゴンの人達だって、嫌われる理由ぐらいは承知してくれるでしょう」  国家ぐるみのテロで、5万もの人達が死亡している。まだ1年も経っていないことを考えれば、感情的な問題があるのはおかしなことではない。特に被害を受けたヨコハマ地区に来る以上、それぐらいの覚悟はしてこいと言いたかったのだ。 「イヨさんがそれでいいと言うのなら……まあ、いいのだが」  それでも納得の行かないところがあるのか、ウルフの言葉ははっきりしないものだった。だがそれを気にせず、「任せた」と言い残してイヨは本部の中へと入っていった。暴漢たちのことは、すでにイヨの頭からは消え失せていた。彼女にとっての問題は、明日地球に到着する弟のことだった。  ウルフに仕事を任せて暴漢達のことを忘れたイヨだったが、統合司令本部に入った所で、いきなりアセイリアに蒸し返されてしまった。その辺り色々と文句を言いたいところなのだが、本気で心配するアセイリアにそれも言えなくなってしまった。 「本当に大丈夫なのですか」  自分のことの様に心配するアセイリアに、イヨは「ええ」と小さく頷いた。 「ただ、母さんはショックが抜けていないみたいね。だから、今日は父さんに任せて家に置いてきたわ。だからアセイリアには、母さんの仕事も少し回すからね。仕事が溜まっているんだから、心配している暇なんて無いわよ。大丈夫、母さんのことなら父さんに任せておけばいいから。それに明日ヨシちゃんが帰ってくれば、気分も変わってくれるでしょう」  その程度と言って笑ったイヨは、アセイリアの胸に人差し指を突きつけた。 「人のことより、あなたは自分のことを心配しなさい。あなたがしなくちゃいけないこと、まだ沢山残っているはずよ」 「それは、そうなのですけど……」  ふっと小さく息を吐き出したアセイリアは、「これって」と自分に振られた仕事のことを持ちだした。 「やらなくてもいい仕事が、結構沢山ありますよ。イヨさん、敢えて私に余計な仕事を振ってくれましたね」  おかしくないかと目を釣り上げたアセイリアに、別にとイヨはしらばっくれた。 「誰の仕事にすべきか。客観的に判断して仕事を割り振っただけよ。外交的な仕事を、軍の人達にさせる訳にはいかないでしょう? いくら母さんだって、外交は向いていないんだからね」 「そりゃあ、確かにそうですけど……」  冷静に指摘されれば、さすがに反論は難しくなる。そんなアセイリアに、イヨはさらに畳み掛けてくれた。 「警察や軍に発破をかけるのも、あなたが一番効率がいいのよ。先方だって、あなたが顔を出してくれるのを期待しているの。と言う事情で、あなたには積極的に対人の仕事を割り振っている訳。どう、理解してもらえたかしら?」  少し強く指で突いたイヨは、仕事をしなさいとアセイリアを突き放した。  だがアセイリアは、突き放されてもイヨの所を離れなかった。そして背中を向けたイヨに、「もう一つ」とマリアナのことを持ちだした。 「昨日、マリアナさんに会いましたよね? 警備隊の記録を見たら、彼女が逮捕に協力したと出ていました」 「それが?」  今までのイヨは、厳しいことを言っている時でも、その口調からはどこか優しさが感じられた。だがマリアナのことをアセイリアが持ちだした途端、イヨの口調からは優しさが消滅した。そして、はっきりと不快だという気持ちが言葉に込められていた。  まるで人が入れ替わったような冷たい言葉に、アセイリアは背筋に冷たいものが伝い落ちた錯覚がした。 「せ、セラムさんには、ヨシヒコさんのことを教えてあります。多分、マリアナさんにも伝わっていると思います。出すぎた真似だと分かっていますが、ミツルギのことを許してあげても良いのではありませんか?」  イヨに対する恐怖を感じはしたが、それでもこれだけは言っておかなくてはいけない。勇気を振り絞って忠告したアセイリアだったが、その勇気はイヨには届かなかった。 「出すぎた真似だと思っているのなら、余計なことを口にしないことね。あなたに手は出さないけど、ミツルギぐらい、何時でも潰すことができるのよ」 「一等男爵家を潰す……庶民のイヨさんがですか?」  そんなことがと驚くアセイリアに、イヨはさらに冷たい視線を向けた。 「ヨシちゃんの立場を利用するって考えたのなら、それはあなたの大きな誤解よ。下っ端男爵ぐらい、潰すのはさほど難しいことじゃないわ。小さな頃ヨシちゃんが殺されかけた時、母さんは本気でミツルギ一族を始末するつもりでいたんだからね。ヨシちゃんが回復して、ダメだって言ったから思いとどまっただけよ。この前ミツルギが絶縁してきたことは、母さんたちには伝えてないの。もしも知っていたら、今頃ミツルギ家なんて跡形もなく消えていたでしょうね。父さんと母さん、怒らせたら怖いことぐらいあなたもよく知っているでしょう?」  トランスギャラクシーの当たりくじを引き当て、しかも渡航許可まで同時に引き当ててくれたのだ。そしてヨシヒコの急を知らされた後、奇跡とも言える時間で地球まで帰ってきている。その上シルフィールまで連れ帰ってくるのだから、常識を当てはめて考えるのは間違っているのだろう。どうするのかは分からないが、イヨの言うことは張ったりとは思えなかった。 「で、でも、ヨシヒコさんがそんなことを望んでいるとは思えません!」 「だから、潰さないで居てあげてるだけよ。いいこと、私達が歩み寄る理由はどこにもないの。問題の所在はマリアナって子でもないし、セラムさんでも無いのよ。フェルナンデス・オム・テラノ・ミツルギ一等男爵。その男が詫びない限り、私達は絶対にミツルギ家を許さない。ミツルギを潰して、セラムさんだけ拾いあげることも考えたぐらいよ。ついでにマリアナって子も拾ってあげてもいいと思ってる。それでアセイリア、あなたは私達にそこまでさせたいの?」  どうと答えを迫られたアセイリアは、ぶんぶんと首を横に振って否定した。自分に対して向けられた敵意では無いのに、アセイリアは本気で身の危険を感じてしまったのだ。裏を返せば、ミツルギはそこまでマツモト家の怒りを買ったことになる。  その意味で、アセイリアは対応を失敗したことになる。自分ならば何とか出来ると軽い気持ちでいたことで、両家の関係に口を挟む資格を失ってしまったのだ。十分に対策をして臨まないと、本気でイヨ達はミツルギ家を潰すことだろう。だが、今のアセイリアにはミツルギ家の問題にかまけてる時間は与えられていなかった。優先すべきは、地球全体の問題、センテニアルのやり直しを成功させることだったのだ。 「それからアセイリア。マリアナって子とセラムさんの気持ちぐらいは分かっているわ。二人共、ヨシちゃんのことが大好きなのよ。でも、ミツルギである以上、その気持を認める訳にはいかないの。あの馬鹿親は、振り上げた拳を収めることを考えていない。一等男爵の自分が、ただの庶民に謝罪することなんて夢にも思っていないわよ。そこでアセイリアに一つだけ忠告しておくわ」  少し口元を歪めたイヨに、アセイリアは緊張からごくりとつばを飲み込んだ。 「な、何でしょう……」 「フェルナンデスに謝罪をさせようなんて考えないことね。遅すぎる仲介は、しないことよりも余程酷いことになると理解しなさい」  自分が仲介に動くことを否定され、「どうしてですか」とアセイリアは食い下がった。自分達からは歩み寄らないと言うのなら、ミツルギから謝罪があれば状況が変わると思っていたのだ。だがイヨは、その考えを否定してくれたのだ。 「もう手遅れってことよ。これから謝罪するとしたら、フェルナンデス夫婦は命で償うことになるからね」 「どうして、命で償うって話になるんですかっ!」  極端すぎると主張したアセイリアに、「どこが」とイヨは認識の甘さを笑った。 「あなた、ヨシちゃんが次の皇帝って話を忘れてない? だとしたら、私達とミツルギの関係はどうなるのかしら? 普通に頭を下げるだけで、謝罪になるとでも思っているの? まあ、命で償うのは極端かもしれないけど、一等男爵の立場を返上するぐらいじゃ足りないわね。そもそも次の皇帝に、たかが一等男爵が会えると思っているの?」  イヨに指摘され、アセイリアはそれ以上食い下がることができなくなってしまった。ヨシヒコのことは、明後日には発表されることになっていたのだ。その状態で謝罪しても、誰も本気で謝罪したとは思わないだろう。マツモトと言う家族への謝罪ではなく、次期皇帝に対する謝罪としか誰も受け取らないはずだ。そして一等男爵が皇帝に対して謝罪するのであれば、頭を下げる程度で許されるはずがない。そして皇帝に謝罪するには、一等男爵では立場が低すぎたのだ。まともに考えれば、面会の機会すら与えられることはない。  黙ってしまったアセイリアに向かって、イヨは冷たい視線を向けたまま言い放った。 「やらなくてもいい仕事と言ったわね。本気でそう思っているのなら、別にやらなくてもいいわよ。その代わり、私の所にあるやらなくちゃいけない仕事を回してあげるから。あなた程度でこなせると思っているのなら、何時でも私の仕事を回してあげるわ」  そこまで言って、イヨは「セラ」と自分のアバターを呼び出した。そして自分の業務リストを、アセイリアに放り投げた。 「暴漢に襲われたショックが抜けないから、私は帰らせて貰うわね。何か、急に気分が悪くなったから」  とてもショックを受けたとは思えない足取りで、イヨは入ってきた入り口から統合司令本部を出て行った。まさに取り付く島もない、問答無用の態度だった。 「私程度でこなせるのなら……ですって。あまり、私を舐めないで欲しいわね!」  イヨの態度に腹を立てたアセイリアは、負けてなるかとセラにどかんと増えた仕事を表示させた。だが、表示されたリストに、すぐに自分の甘さを思い知らされた。やらなくてもいい仕事と文句を言った仕事より、イヨのしている仕事の方がはるかに多いことに気がついたのだ。しかもその一つ一つが、厄介極まりない物だった。  リストの多さと困難さに声を詰まらせたアセイリアは、助けを求めるように仲間達の顔を見た。だが頼られた方にしても、こっちに振ってくれるなと言うのが正直な気持ちだった。そもそも拗れてしまった両家の関係に、第三者が何の覚悟もなく踏み込んだことが間違っていたのだ。しかもぐうの音が出ないほどやり込められたことを考えれば、アセイリアの自業自得でもあったのだ。 「ど、どうして、皆さん目を逸らすのですか?」 「どうしてって言われても……」  ねえと仲間を見たイリーナに、他の仲間達は勢い良く頷いた。 「い、今からでもイヨさんに謝った方がいいんじゃないの?」  そしてディータは、意地を張るなとアセイリアに忠告した。このままマツモト家に見捨てられたら、センテニアルのやり直しが失敗することは目に見えていた。 「い、イヨさんに謝る……のですか。でも、いきなり白旗を揚げるのって……」 「だったら、無駄なあがきをしてみる? 私達は、手を貸さないけど?」  突き放したことを言って来たカヌカに、どうしてですかとアセイリアは食い下がった。 「どうしてって……イヨさんを怒らせたのはアセイリアでしょう? だったら、あなたが謝るのが筋だと思うわ。謝るのが嫌なら、自分で何とかするしか無いでしょ」 「カヌカさんまでそんなことを……ええ分かりました! もう皆さんには頼りません。やってやればいいでしょう。やってやればっ!」  半ば意地になったアセイリアは、自分でやると大声で宣言した。自分は何も悪いことはしていない。それなのに、どうして自分が謝らなければいけないのか。理不尽などに負けるものかと、勝ち目のない戦いに臨んでいったのだった。  一人でやると宣言したアセイリアだったが、およそ30分後に音を上げることになった。そしてその一時間後には、イヨに向かって土下座をしていた。今まででも頭が上がらない相手だったのに、これでますますイヨに頭が上がらないことになってしまったのだった。 Chapter 3  クランカンの出発を、ダイオネアは出発準備の中で聞かされることになった。ただアバターからその事実を教えらえた時、ダイオネアは自分の耳を疑いもう一度聞き直してしまった。それぐらい、彼にとって軌道城城主のテラノ訪問と言うのは予想もしていないことだったのだ。 「よもや、キャスバルがそのような思い切った事を考えるとは……」  うむと唸ったダイオネアは、アバターにさらなる情報を求めた。 「それでクランカンは、どのような理由でテラノに行くのだ? まっとうな理由では、簡単には許可が出るとは思えないのだが?」  主の問を受け取ったアバター・セイラは簡潔明瞭な答えを口にした。 「はい、観光と言う名目だそうです」  その答えに、ダイオネアは小さく頷いた。 「観光ならば、総領主殿の許可だけで済む……か」  姑息なと考えはしたが、すぐに無理もないことだと理解を示した。本来ならば、己の名代として派遣するのが筋なのだ。だが政治的な意味では、現時点ではテラノに行くのは厄介なことが多すぎた。何しろ帝国の官僚どもは、未だテラノの政治的保護を考えていたのだ。テラノから招待状でも出ていれば別だが、さもなければ裏技を使わない限り官僚たちは許可を出さないだろう。 「しかし、なぜクランカンなのだ?」  まだ年若いクランカンの人となりを思い出し、ダイオネアは眉間にしわを寄せた。みずみずしい感性と言えば褒め言葉になるのだが、まだしっかりと己の立場を理解しているとは思えなかったのだ。そしてダイオネア自身が、彼のことを評価していないと言う問題があった。  その評価の低い男を送り込んだことに、ダイオネアは息子に対する評価を下げたのである。  ただ文句はあっても、今の当主は息子のキャスバルなのである。その座を譲った以上、ダイオネアには当主に従う義務が生まれていた。それもあって、クランカンを送り込んだことに対して、表立って疑義を唱えられなくなっていた。 「クランカンのことは忘れるか……なに、きゃつに大したことができるとは思えないしな」  そう割り切り、ダイオネアはクランカンのことを忘れることにした。そして自分にとっての問題、孫達の準備を確認した。今回の旅は、二人の孫の試験となっている。これに落第するのであれば、二人を後継者の座からはずさなければならないと考えていた。 「それで、キャリバーンとタルキシスはどうしている?」  主の問いを受けたセイラは、アバターにしては珍しく眉を顰めてみせた。 「準備の方は整っているのですが……ただ、ご自身の立場を理解されているのが疑問に感じてしまいます。お二人とも、テラノでどう遊ぶのかしか関心が無いように思われます」 「……想定の内と言えば想定の内なのだが」  はあっとため息を吐いたダイオネアは、どうしてこうなったと天を仰いだ。せっかく跡取り候補が二人もいるのに、二人共跡を取る資格があるように思えなかったのだ。知能的に問題がないとなれば、育て方に問題があったとしか思えなかった。  そこで息子を恨んだダイオネアだったが、その息子からすれば「誰のせいだ」と言うところだろう。彼の子育てに、ことごとく口を挟んだのは誰でも無いダイオネア自身だったのだ。 「やはり、荒療治が必要と言うことか……それで、リーリスはどうしている?」  もう一人の問題児、孫娘のことをダイオネアは確認した。 「はい、いつもの通り屋敷の花壇にお出かけのようです」 「相変わらず、お花畑の住人と言うことか……」  キャリバーン達二人がダメな時は、リーリスの婿がメリディアニ家を継ぐことになる。それを考えれば、リーリスにはしておくことが沢山あるはずだ。 「なぜ、帝国大学に行かせないのだ。バルゴールには、適齢期の相応しい男はおらぬのだぞ」  家の中で過保護に育てるから、頭の中までお花畑になってしまうのだ。再びキャスバルを罵ったダイオネアは、子育てに失敗したと後悔した。自分のした小さな失敗が、さらに息子の代になって傷口を広げてしまったのだ。このまま次の代に継承した時、メリディアニ家がどうなるのかを考えるのが恐ろしかった。 「リーリスも連れて行くべきだったか……」  そう悔やんでみても、今更手続きの変更は叶わない。仕方がないと諦めたダイオネアは、二人のどちらかが化けてくれることを願ったのだった。  ダイオネアから散々な評価を受けた孫達二人だが、それぞれテラノ行きには違った思いを抱いていた。そのうち長男のキャリバーンは、辺境星系に行くことを大いに憤っていた。特に彼が気にいらないのは、四六時中口うるさい祖父と顔を合わせなければならないことだ。テラノでは逃げられても、移動中は逃げ場所がどこにもなかったのだ。  だが取り巻き達に慰められ、遊び倒せばいいと頭を切り替えることにした。取り巻きの一人に、美人が多いと言われたのも機嫌を直した理由だった。 「ところでキャリバーン様。私達もお供させていただけると考えてよろしいのでしょうか?」  取り巻きの一人の言葉に、キャリバーンは少しだけ口元を歪めた。 「一等侯爵家の者が、供も連れずに外遊すると思っているのか?」  一等侯爵家の常識を持ち出したキャリバーンに、失礼したと取り巻きの男達は頭を下げた。それを満足げに見渡したキャリバーンは、テラノ行きが思ったほど悪くないのかと考え直した。一等侯爵家として専用船を仕立てるのだから、うるさい爺ともほとんど顔を合わせずに済むと気が付いたのだ。そして取り巻き達と一緒なら、退屈することもないだろうと高をくくったのだ。 「ならば女も……」  そうすれば、移動中も退屈しなくて済む。そう考えたキャリバーンだったが、逆に面倒になると考え直した。長い移動時間女なしと言うのは退屈だが、後の面倒を考えればいない方がましだと考えたのである。 「いや、女はやめておくか……」  ふんと口の端を吊り上げたキャリバーンは、下卑た顔を取り巻き達に向けた。 「お前達に命じておく。テラノでの遊び方を考えておけ。一等侯爵家跡取り様とその御一行様だ。俺達に手を出せるような奴らはテラノにはいないさ」 「御意……とびっきりのプランを考えておきますか」  すべての責任をキャリバーンに被せられるのだから、何を遠慮する必要があるだろうか。キャリバーン以上に邪悪な顔をした男達は、テラノでの遊び方を相談したのである。  一方タルキシスは、テラノ行きをただ単に面倒なだけだと考えていた。ただ、バルゴールにいても変わりはないと、テラノで羽根を伸ばすかと考え直しただけだった。同じ退屈なら、周りの目がないところの方が多少はまし。その程度の意識しか持っていなかった。 「タルキシス様、テラノに行かれるのですか?」  放蕩息子と誹られるだけのことはあり、タルキシスは日がな女遊びをしていた。テラノ行きの準備もそこそこに、タルキシスは一番のお気に入りの所に遊びに来ていた。目的地が辺境にあるだけに、往復するだけで2週間以上かかってしまうのだ。退屈するのは分かっているので、ここぞとばかりに現実逃避をしていた。 「ああ、爺様が煩くてな。たまには年寄り孝行をしてやらないといけないだろう」  水タバコのようなものを吸いながら、タルキシスは気だるげに答えを口にした。その時の二人は、布切れ一枚身につけていなかった。弛んだギリシャ彫刻のような体をしたタルキシスは、水タバコのようなもののせいか締まらない顔をしていた。 「たぶん3週間ぐらい帰ってこないだろう。その間、お前は男漁りでもしていればいい」  ぼんやりとした目線を宙に向け、タルキシスは女に向かって失礼なことを言い放った。 「テラノで、新しい女を捕まえてくるからですかぁ?」  だが言われた方は、あまり気にしていないようだ。けらけらと笑いながら、水タバコのようなものを吸い込んだ。そしてそのままタルキシスに口づけをして、肺の中の煙を口から吹き込んでくれた。 「放蕩息子、ダメ息子のタルキシス様。バルゴールの外に出たら、メリディアニ家のありがたみは無くなるんですよ。少しぐらい見た目が良い程度では、ろくな女は寄って来ませんからね。寄ってきたとしても、せいぜい私程度でしかありませんから」  げほげほとむせ返ったタルキシスを笑った女、ミーアは「頑張ってくださいね」と無責任に応援をした。 「結局、誰もタルキシス様の退屈を癒してくれませんよぉ」  無理無理と笑われたタルキシスだったが、少しも怒った顔をしなかった。それどころか、焦点の定まらな視線を薄暗い天井から動かさなかった。 「だろうな。俺は、何をしたとしても、何にもなれないのだからな」 「違いますよぉ、変わらないのはタルキシス様だけじゃありませんから。メリディアニ家だって、何も変わろうとはしていませんからね。今までも、そしてこれからも、ずっと先までも、ずっとずっとメリディアニ家は何も変わらず続いていくんです。ぼんくらの次男坊なんて、何も変わらないのが当たり前なんです。だから、だぁれも気にかけてはくれないんです」  薬で頭が朦朧としているのか、ミーアの言葉に遠慮と言うものが無かった。だがそれを受け取るタルキシスも、全く腹を立てる様子が見られなかった。ミーアの言葉を認めているのか、さもなければ何も理解していないのか。ぼうっとした様子からだけでは、その理由をうかがい知ることは出来なかった。 「愚か者の長男だって、誰からも気にかけてもらってないさ。いっその事、メリディアニ家なんぞ滅んでしまえばいいんだよ。そうすれば、どれだけ清々することだろうな」  滅んでしまえばいいと口にしたタルキシスに、ミーアは「嘘ばっか」と笑い飛ばした。 「メリディアニ家が滅んだら、タルキシス様なんて3日で野垂れ死にしますよ。もっとも、今だって生きてるかどうか分かったものじゃありませんけどね。飯を食って息をして糞を垂れているだけじゃ、生きているとはいいませんからぁ」  そう口にした所で、「そうそう」とミーアは手をたたいた。 「女を抱くことと、薬をやることもしていましたね」  あははと大声で笑ったミーアは、過呼吸を起こしたのか急に咳き込んだ。 「苦しいって、生きてるってことなんですねぇ」  大きく喘いでから、ミーアはもう一度大声で笑った。そして笑いながら、野垂れ死んでしまえばいいと言い放った。 「それが、一番お似合いの死に方だと思いますぅ」 「野垂れ死にか……ずいぶんと優しいんだな」  惨たらしく殺されることに比べれば、野垂れ死になら可愛いものだ。本気で口にしたタルキシスに、ミーアは「自棄ですか」と笑った。 「否定はせんよ。バカ兄貴にしたところで、バカ以外にすることがないぐらいだからな。ましてや何のとりえもない次男坊など、生きていることに意味があるとは思えんのだ」  あははと声を立てて笑ったタルキシスは、ふらつきながら立ち上がった。だが何とか立ち上がったのも束の間、足をもつれさせて盛大に転んでしまった。 「アリファをそんなに吸ったら、足腰が立つはずがありませんよ。大人しく寝転がってればいいんですぅ」  きゃははと笑ったミーアは、だからと言って転んだタルキシスに覆いかぶさった。 「それまで、いいことをして過ごしましょうよ」  少し弛んだ、良く言えば豊満な体を預けたミーアは、「やりだめ」と下品な言葉を口にした。 「クルーザーの中は、爺さんが目を光らせているんでしょ。テラノに行っても、都合よく女が見つかるとは限りませんよ。だから、今のうちにやりだめしておいた方がいいんですぅ」  きゃははと笑いながら、ミーアの右手はタルキシスの男性自身にあてがわれていた。そして自分の中に導き、なまめかしく腰を動かした。 「死にたくなったら言ってくださいねぇ。苦しまない方法を教えてあげますからぁ」  優しいでしょうと笑うミーアに、「どこがだ」タルキシスは言い返した。ただ言い返しつつも、それもありかと心の中で認めていた。  お花畑の住人と揶揄されたリーリスは、その頃屋敷の花壇でお茶を楽しんでいた。バルゴール一の権力者のメリディアニ家である。たかが花壇と言っても、その広さは大きな公園ほどの広さがあった。そしてその広大な花壇には、季節の花々が色とりどりに咲き誇っていた。  花壇の一角には、小さな屋根のある休憩所が作られていた。その屋根の下で、リーリスは一人紅茶を楽しんでいた。聞こえてくる調子の外れた歌は、機嫌が良い時にリーリスが歌う鼻歌だった。 「ねえトール、お兄さま達はまだテラノに行かないの?」  楽しそうに歌いながら、リーリスは自分のアバターを呼び出した。 「はい、明後日出発される予定です」  可愛らしい顔をした少年のようなアバターは、リーリスの耳元でスケジュールを囁いた。それがくすぐったかったのか、リーリスは少し首をすくめ、真っ赤な瞳を瞬かせた。 「さっさと出掛けてくれればいいのに。そうすれば、私の気持ちはもっと軽くなってくれる!」  いかにも待ち遠しい素振りを見せたリーリスに、ですがとアバターは言葉を返した。 「3週間もすれば、お二方ともバルゴールに帰っておいでになりますよ」  出かけただけでは、用が済めばバルゴールに帰ってくる。それを指摘されたリーリスは、それでもとアバターに言い返した。 「わずか3週間でも、何もないよりはずっとましだと思いません? 私は、あの二人と顔を合わせたくないの。キャリバーンが近くに来たら、殺したくなってしまうでしょう」  ほほほと笑ったリーリスは、顔にかかった銀色の髪を指で掬った。そしてもう一度赤い瞳を瞬かせて、「ねえ」とアバターに問いかけた。 「王子様は、いつになったら私を迎えに来てくださるのかしら?」  夢を見るように、両手を胸の前で合わせリーリスは青く広がる空を見上げた。そんなリーリスに、彼女のアバターはとても現実的な答えを口にした。 「お父上が、リーリス様のお相手を決められたら。かと思います」 「トール、それは王子様とは言いませんよ。王子様は、私をメリディアニ家から救い出してくれるお方です。私の手をとって、どこか遠い夢の世界に連れて行ってくださるお方ですよ」  そう口にした時、一瞬だけ儚げなリーリスの顔に現実が姿を覗かせた。その現実は、憎悪と呼ぶのが相応しいのだろうか。秀麗な顔を醜く歪ませたのだが、その変化も瞬く間に見えなくなっていた。 「メリディアニ家を敵にできる家は、帝国中を探しても片手に足りるでしょう。そしてその家の方には、リーリス様に相応しい年頃の殿方はおいでになりません」 「一等侯爵家などから探すからいけないのです。アズライト様を攫ったのは、辺境惑星の庶民なのですよ。でしたら、私にもそのようなお方が現れてもおかしくないと思いませんか? だから、私は素敵なお方が攫いに来てくれるのをお待ちしているのですよ」  胸の前で両手を合わせたリーリスは、ぱっと大きく手を広げてみせた。 「宇宙は、とてもとても広いのですよ。性悪のアズライト様にも、素敵な殿方が現れたのです。どうして、私に王子様が現れないと言えるのですか」  そう大きな声を上げてから、今度は自分を抱きしめるかのように腕を体に回した。 「だから、私はキャリバーンから逃げなくてはいけないのです。私の体は、綺麗なまま王子様に差し上げないといけないのです。だから私は、もっともっと綺麗にならないといけないんです」  ふふふと笑ったリーリスは、立ち上がって花壇の中に降りていった。そして赤く咲いた花を一輪摘み、髪飾りのように自分の髪に当てた。毒々しいほどの赤い花が、リーリスの銀色の髪に色彩を与えていた。 「私は、神の落とし子なのですよ。メリディアニ家など、ただ羽を休めるだけの場所ででしかありません。私は、王子様に手を取られ、大空高く旅立っていく運命にあるんです」  少し屈んだリーリスは、咲き誇っていた花々を両手でちぎった。そしてちぎった花を、空に向けて放り投げた。それをリーリスは、うっとりとした表情で見上げた。 「綺麗でしょう。私は、こうしてお花に飾られて、王子様を待っているの……待っているんだから」  それまで上機嫌にしていたリーリスだったが、いきなり俯いて花壇の中に座り込んだ。そして肩を震わせながら、「分かっているんです」と小さな声で呟いた。 「王子様なんて、物語の中にしかいないことを。そして私が、お姫様なんかじゃないことを。私は、メリディアニ家と言う籠に飼われた、ただの奇形児にしか過ぎないの。銀色の髪も赤い瞳も、そして白すぎる肌も、全部全部ただの異常でしか無いことを」  大きな声で叫びながら、リーリスは両手で何度も花壇を叩いた。叩かれた花は地面に潰れ、リーリスの両手は泥に塗れていた。それでも何度も何度も、リーリスは繰り返し両手を叩きつけた。 「リーリス様、おやめください!」  異常行動を取る主に、トールは止めようと声を掛けた。だがただのアバターには、物理的に干渉する力など与えられていない。途方にくれたトールは、非常事態だと館に助けを求めた。誰かが駆けつけてくれば、主はすぐに普段の姿に戻ってくれるのだ。アバターだからこそ、主の本当の気持ちを理解していたのだった。  オデッセア家の用意したクルーザーの会議室を使って、カニエ達のグループは頻繁に会議を行っていた。親切な次期皇帝様のお陰で、議論の方向性ははっきりしてくれた。ならばその議論を深化させ、形のあるものにしていけばいいのだと。  しかもテラノに行けば、アセイリア達とも話をすることができる。色々と隠し事のあった前回とは違い、今度は双方手の内をさらけ出すこともできるはずだと考えていた。 「それでヴィルヘルミナ、実家から情報を得られたのか?」  一辺境星系の庶民が皇帝になることの影響を調べるため、メンバーは実家を通じてH種の住まう星系の動きを調べていた。そして今日の集まりでは、フェルゴー星系が加わる連合体の情報が議題とされたのである。 「ええ、色々と興味深い情報が送られてきたわ」  フィルと言ってヴィルヘルミナは自分のアバターを呼び出した。そして実家から送られてきた情報を、メンバー達に転送させた。 「フェルゴー星系には大きな動きは出ていません。その辺り、私がここにいることが大きな理由になっています。支持も不支持も明確にしていませんが、特に問題は起きないと思います。そしてその事情は、チェンバレン星系も同じです。私達の警戒は、むしろ連合関係にあるバルゴールに向けられているようです」 「バルゴールに?」  どうしてとカスピは不思議そうに首を傾げた。 「もしかして、後継者問題に絡むことですか?」  そこで言葉を発したのは、珍しいことにシオリだった。ヨシヒコの努力のお陰で立ち直ったシオリは、立ち直っただけでなく、人が変わったように性格が丸くなっていた。しかも見た目も垢抜けたため、知らない者からすれば、別人に見えることだろう。 「それが一番なのは間違いありませんね。ただ、後継者問題と言うだけなら、バルゴールの問題で収まるものです。そしてフェルゴー、チェンバレン両星系が警戒するほどのことではありません」  小さく頷きながら、それでは不足だとヴィルヘルミナは答えた。 「ですが、総領主を超える力を持つメリディアニ家ともなれば、話は変わってくるのではありませんか? そしてメリディアニ家の力は、軌道城37城主達を従えている所に依っているはずです。今の当主の子供は、いずれも跡を継ぐのに不適格だと聞いています。そうだとしたら、城主達の忠誠を得られるのでしょうか?」  バルゴールの事情に踏み込んできたシオリに、ヴィルヘルミナははっきりと驚きを顔に表した。だが「どうして」と口にしかけた所で、シオリの立場を思い出した。 「もしかして、ヨシヒコ様に教えていただいたのですか?」 「ようやく、気づかれましたね」  ふふと笑ったシオリは、少し自慢気に自分の立場を主張した。 「私は、妃(ひさき)になったのですよ。ヨシヒコ様をお手伝いしなくてはいけない立場なのです。ですから、ヨシヒコ様からは、色々と教えて頂いています」 「でしたら、もうここに来なくても良いのではありませんか?」  つい先日までは、罰せられないかとオドオドしていた相手なのだ。しかもどう飾ったらいいのかと、泣きついてくるほど惨めな姿を晒していたのだ。その下手に出ていたシオリが、急に偉そうな態度をとってくれるのだ。しかたがないこととは言え、気に入らないと言うのがヴィルヘルミナの正直な気持ちだった。  そんな気持ちから、ヴィルヘルミナはシオリを突き放すようなことを口にした。 「ええっと、妃にはなりましたけど……さすがに、あちらは居づらいところがあるので……それに、教えられてばかりでは私のプライドにも関わってきます」  急にしぼんだシオリに、大変なのだなと全員が置かれた立場を想像した。ヨシヒコが庶民だったというのは、この場合あまり役に立ってくれないだろう。そうなると、継承権1位から3位に囲まれる環境と言うのは、三等侯爵家生まれの者には辛すぎるのは間違いない。 「だから、ここに来ていると言うことですか。時間の無駄ですから、話を先に進めます」  小さくため息を吐いてから、ヴィルヘルミナはバルゴール、つまりメリディアニ家の事情を持出した。 「予備知識として教えておきますが、メリディアニ家の歴史は2千年を遥かに超えると言われています。ここまで古くなると、歴史があると言うのも眉唾なものとなります。ひとつ言えるのは、大虐殺と言われる時代を超えてから、メリディアニ家が頭角を現したと言う事です」 「大虐殺……って、どこかで聞いた覚えのある話ね。それも2千年ほど前の話じゃなかったっけ。確か、ウイルス兵器か何かで、人口の9割以上を失ったとかどうかとか……」  カスピの答えに、ヴィルヘルミナは小さく頷いた。 「バルゴール内乱で使われたウィルス兵器による被害のことを言っています。バルゴール本星の9割以上が死滅し、生き残ったのは、衛星軌道に作られたシェルターに逃げ延びた者達だけと言う話です。そしてその避難を先導したのが、今のメリディアニ家と言われています。星系内の惑星開拓が行われる前だったため、バルゴールの民はシェルターに逃げ延びた者達だけでした。そこで100年の時間を過ごした後、帝国の助けを借りて再度バルゴールの地に降り立ったそうです。その時の経緯から、メリディアニ家はバルゴールで絶大な力を持ったと言う事になっています」  簡単な歴史のレクチャーに、なるほどねと他の4人は大きく頷いた。各星々で様々歴史が生まれているが、人口の9割以上を失うような事件は起きていなかった。その意味で、バルゴールは耐え難き辛酸を嘗めたことになる。そして窮地を救ったことを考えれば、メリディアニ家が力を持つのも理解できるのだ。 「話を今に戻しますが、メリディアニ家は、軌道上に残されたシェルターを要塞とし、そこに配下を配置しました。後に軌道城と呼ばれることになった要塞は、軌道上に37存在し、各々が500隻の軍艦を保有しています。そして軌道城に留まった配下に一等伯爵の地位を与え、一大勢力をつくり上げることになりました。そのため帝国から派遣された総領主も、メリディアニ家のすることに口出しができなくなっています。帝国の一員でありながら、半ば帝国から独立した存在というのがバルゴールなのです」 「そのバルゴールで、後継者問題が起きつつあるということだな」  アイオリアの指摘に、ヴィルヘルミナは小さく頷いた。 「絶大な力を持つメリディアニ家で起きた問題です。帝国から派遣された総領主にとっては、付け入るチャンスとなるでしょう。そしてメリディアニ家にとってみても、屋台骨を揺るがす問題と言うことになります」  そこでヴィルヘルミナは、アバターに命じて現当主を含むメリディアニ家の家族の構成を提示した。 「先の当主は、ダイオネア様と言います。そしてその妹君が、先帝の皇妃、シエーラ皇太后殿下です。現当主はキャスバル様は、チェンバレンからアルティシア様を娶られ、2男1女をもうけられています。長男のキャリバーンは、私達より年上の24歳、次男のタルキシスは23歳、そして長女のリーリスは、私と同い年の21歳です。長女のリーリスは、遺伝子に障害があり、アルビノの特徴を示しています」 「見た目で決めつけるのは好ましくないと思っていますが……」  示されたデーターを見たシオリは、かなり辛辣な評価を下した。 「魅力がないと言うより、あまり近づきたくないと思えますね。特に長男のキャリバーンでしたか、下劣な品性が顔に出ているような気がします。すみません、言い過ぎましたでしょうか?」  辛辣な評価を下しつつも、シオリは自分が言いすぎていないかを気にした。そんなシオリに向かって、ヴィルヘルミナは小さく首を振った。 「その指摘は、極めて正鵠を射ていると言ってあげます。私としては、メリディアニ家との縁談が無くてよかったと安堵したぐらいですからね」  ヴィルヘルミナの答えにほっとしたのか、シオリは胸をなでおろしていた。 「見た目だけでオデッセア三等侯爵は評価しましたが、フェルゴーとチェンバレンはもっと強く結びついています。ですから、メリディアニ家の跡継ぎのことはよく知っています。前にも言った記憶がありますが、このまま代替わりをしたのなら、同盟関係を見直さなければという話になっていました。それぐらい、メリディアニ家の家督相続は大きな問題になっていると言う事です」  いいですかと全員の顔を見渡したヴィルヘルミナは、新しい情報を口にした。 「そしてこれは噂レベルの話なのですが、先の当主ダイオネア様がテラノに向かわれるらしいのです。しかもキャリバーンとタルキシスの二人を連れて行くと言う噂が聞こえてきました。これがどのような意味を持ってくるのか、注意深く見守る必要があるかと思います」 「テラノって、そんなに簡単に行ける場所だったっけ?」  首を傾げたカスピに、ヴィルヘルミナは頷き、「これも噂ですが」と情報を付け足した。 「聖下に謁見し、許可を頂いたと言う噂です。聖下の性格を考えると、有り得る話かと思います」 「確かにな。辺境星系の庶民を次の皇帝にするぐらいのお方だからな」  うむと頷いたアイオリアは、出揃った情報を眺めて難しい顔をした。 「何かが起きそうと言う予感はするが、それが何かが想像つかないな」  そこでカニエの顔を見たのは、この場におけるリーダーだからに他ならない。そして頼られたカニエにしても、テラノのことをさほど知っているわけではなかった。 「そこで頼られても、俺はテラノのことを知っているわけではないからな。それでも言えることがあるとすれば、テラノはバルゴールではないと言うことだ。バルゴールならばメリディアニ家の威光で黙らせることが出来ても、テラノではそれが通用しないと言うことだ」 「つまり、必然的にトラブルが起きると言うことですね?」  ヴィルヘルミナの疑問に、カニエははっきりと頷いた。 「キャリバーンとタルキシスが、どこで騒ぎを起こすのかによるのだろうな。ただ単に庶民と騒ぎを起こすだけなら、さほど大きな問題になるとは思えない。もっとも、ジェノダイト様が大人しくしているかと言うのは、全く別の話となるだろう。聖下に直言できるジェノダイト様が、一星系の一等侯爵相手に遠慮するとは思えないからな」  噂では、アルハザーと喧嘩をしたとまで言われていたのだ。それを考えれば、バルゴールの一等侯爵相手に黙っているとは思えない。それを指摘したカニエに、ですがとヴィルヘルミナが異論を口にした。 「帝国から派遣された総領主様を蔑ろにするメリディアニ家ですよ。辺境惑星の総領主に、どれほど気を使うのでしょうか。苦情を申し立てたとしても、聞き流されてしまうのではないでしょうか。さらに言うのなら、力で脅される可能性も残っています。グリゴンには勝てましたが、バルゴールはグリゴンより遥かに強いんです」 「ですが、テラノは次の皇帝ヨシヒコ様の生まれた星です。テラノに喧嘩を売ると言うことは、ヨシヒコ様に喧嘩を売ることに繋がるかと思います。いくらバルゴールを牛耳るメリディアニ家とは言え、そこまでの無法を行えるのでしょうか。しかもダイオネアと言う方は、すでに引退されているのですよね?」  テラノが軽く見られる可能性があると指摘したヴィルヘルミナに、シオリはヨシヒコの存在を理由にその説明に疑問を挟んだ。 「いや、逆にヨシヒコ様の存在があるから、喧嘩が売られる可能性はあるな。だとしたら、評判の悪い二人を連れて行く理由にも納得が行く」  可能性を口にした所で、まずいなとカニエは小さく呟いた。 「それって、品定めをするってこと?」 「可能性としては、大いに有り得るな。それでカニエ、具体的に何がまずいと思ったのだ?」  疑問を口にしたカスピとアイオリアに、カニエは具体的事実を理由にした。 「ヴィルヘルミナが言った通り、バルゴールの戦力が強大だと言うことだ。帝国には遥か及ばないが、ザイゲルを凌駕しているのは間違いな。そして今のヨシヒコ様には、帝国軍を動かす権限が無い。つまりメリディアニ家に強気に出られたら、ヨシヒコ様でも引かざるをえないと言うことだ。そうなると、ヨシヒコ様の治世に悪い影響を与えかねない」  それがまずいと主張したカニエに、シオリは小さく頷いた。そして頷いた上で、本当にそうかと疑問を呈した。 「私達が考える程度のことなら、ヨシヒコ様が気づかないはずがないと思います。しかもヨシヒコ様には、アズライト様達が付いてらっしゃるのですよ。ダイオネアと言う人の好きにさせるとは思えないのです」 「確かに、ヨシヒコ様には得体のしれないところがあるわね……」  皇帝を恐れさせた庶民だと考えれば、カスピの指摘も的はずれではないのだろう。確かにそうかと頷いたカニエは、ならばとシオリにメッセンジャーの役目を果たすことにした。 「オデッセア様にお願いがあります。ヨシヒコ様に、是非ともお考えを伺っていただけないでしょうか?」  妃になるのであれば、ヨシヒコと話す機会を作ることができるはずだ。特にデリケートな問題が控えているとなると、関係者の間で意思統一をしておく必要がある。そのためには、シオリの働きが重要になってくるはずだった。 「そうですね。その役目は、私こそが果たすものでしょう」  分かりましたと答えたシオリは、今夜にでも聞いてみようと考えた。そのためにはヨシヒコに会う必要があるのだが、問題は今夜は自分の番ではないと言うことだった。 「カナリヤ。少しお時間を頂きたいと、ヨシヒコ様に伝えてくれますか?」  だとしたら、少しでも時間を自分のために割いてもらう必要がある。そのための伝言を、シオリはアバターに託したのである。  それを横で聞いたカニエは、小さく頷いてから他の3人に声を掛けた。もしもと言うとき、彼らと彼らの星系の取る立場を考えたのである。 「もしもテラノとバルゴールが衝突した時、それぞれの星系はどんな立場を取るのだ?」  それをヴィルヘルミナの顔を見ながら口にしたのは、間違いなく一番の問題が存在するからにほかならない。フェルゴーとチェンバレンは、バルゴールと古くからの同盟関係を結んでいた。 「フェルゴーは……」  自分の立場だけなら、次の皇帝となるヨシヒコにつくと断言することが出来る。だが改めて問われると、そこに難しい問題があるのを突きつけられてしまう。同盟関係を考えると、軽々にテラノに付くとは言えなかった。 「後継者に不安は感じていますが、バルゴールと同盟関係にあるのは間違いありません。だからと言って、軍事作戦に協力するかと言うと……難しいところがあります。どちらの顔を立てるのも、どちらの顔もつぶすこともできないと言うのが実態でしょう。そして私がヨシヒコ様のスタッフに入ったのも、問題を難しくする理由になると思います。双方の顔を立てて中立と言うのが、現時点で考えられることでしょう」 「それは、チェンバレンも同じと言うことだな?」  結びつきの強さを考えれば、同じ結論に到達する可能性は高いはずだ。それを確かめたカニエに、さらに状況は悪いとヴィルヘルミナは答えた。 「チェンバレンからは、誰もクレスタ学校に加わっていません。そしてヨシヒコ様と、直接は関係していないのです。そうなると、古くからの同盟関係を重く見る可能性があります。もちろん、次の皇帝に表だって逆らえるとは思えないのですが……フェルゴーから働きかければ、中立に持っていけるとは思います」  そこまで答えて、やはり難しいとヴィルヘルミナは答えた。当たり前だが、古くからの同盟関係の重みがそれだけ大きいと言う意味になる。 「だけど、総領主様は帝国から派遣されているのよね? 確かにバルゴールでは蔑ろにされているのかもしれないけど、フェルゴーやチェンバレンでは違うよね?」  総領主の統治が機能しているのであれば、むしろヨシヒコに従うべきなのである。それを指摘したカスピに、確かにそうだがとヴィルヘルミナは頷いた。そして頷いた上で、それでも問題があると説明を続けた。 「総領主様が、どれだけ覚悟があるのかに関わってきますね。それから、どちらが優勢かの様子見をする可能性もあります。だとしたら、当面中立を宣言して様子を見ることになるのでしょう……」  考えれば考えるほど、情勢が不利としか思えなかった。そのことに頭を悩ませたヴィルヘルミナは、神妙にしているシオリに視線を向けた。 「このことも、ヨシヒコ様に伺っていただけないでしょうか?」  この集まりとヨシヒコを結ぶのは、自分の役割だと考えていた。だからシオリも神妙な顔をして頷いたのだが、それでも問題があると言い返した。 「何でもかんでもヨシヒコ様にお伺いを立てると、私達の立場が危うくなりませんか? 今は優しくしていただいていますが、そろそろ自分の頭で考えろと突き放されそうで……」 「確かに、オデッセア三等侯爵の言うことも確かか……」  シオリは自分の立場を持ち出したのだが、それはカニエ達にも言えることだった。ふむと口元に手を当てたカニエは、ある意味逃げを打つことにした。 「ひとまず、バルゴールに関わる部分から離れることにする。ヨシヒコ様も、バルゴールには注意されていることだろう。ならば、それ以外に危険の芽が生まれていないか。そのアプローチを行うことにしよう」 「……逃げを打つと言うことか。確かに、それも求められることなのだろうな」  ほっと息を吐いたアイオリアは、自嘲気味に自分のことを笑った。 「クレスタ学校に参加して、意識が高いつもりでいたのだがな。だが、こうして現実を突きつけられると、いかに自分の世界が狭かったのかを思い知らされた気がしてならないんだ」 「他の種どころか、同じH種でもこうだからねぇ」  カスピが同調したように、それだけ他人のことに無関心でいられたと言うことだ。各星系の上位爵位保有者ですらそうなのだから、それ以下となると本当に何も考えていないことになるのだろう。それを考えると、地球の一庶民の投げた石は、本当に大きな波紋を広げたことになる。 「そうですね、ティアマト家にしたところで、同盟を組んでいる星系以外は気にしていませんでしたね。あとは、ぜいぜいザイゲルの動きぐらいで。それにした所で、知らない蛮族と言うのが精いっぱいでした」 「だが、その意識も変わったのではないか?」  カニエの指摘に、ヴィルヘルミナは大きく頷いた。 「もっとも、変わったのは私の意識だけなのですが……ただ、グリゴンを見せられると、私達は何を相手にしていたのか疑問に感じてしまいますね。ドワーブ様や配下の方々とお話をさせていただいて、私達は理解しあえるのだと感じました。それを考えると、何も知らずに敵対していたとしか思えません」  だからと、ヴィルヘルミナはテラノから始まった動きを評価した。 「テラノとグリゴンの間で結ばれた友好条約は、それだけ画期的なことだと言うことです。しかもテラノは、ザイゲルだけではなく、シレナにまでその手を伸ばしています。その意味では、フェルゴーをはじめ、ほかのH種の星系よりもよほど帝国を知っていると言うことになりますね」  ヴィルヘルミナがそう論評したとき、なぜかカニエが大きく息を吐き出した。何かが腑に落ちた、さもなければ脱力したと言えばいいのだろうか。 「急にどうしたのです?」  責めるような視線を向けたヴィルヘルミナに、カニエははっきりと苦笑を浮かべて見せた。 「お前たちは、実家から聖下を蚊帳の外に置くことに反対されたのだろう。ただ反対した実家にしても、具体的な方策がないと言う話だったな。だがヴィルヘルミナの話を聞いてみて、それが当たり前のことだと理解したのだ。俺たちは、口にするほど帝国のことを知らないで生きてきたと言うことだ。そして新しい動きに漠然とした不安を感じるだけで、実はその実態を理解していなかったのだとな。実態を理解していれば、実は聖下を巻き込むのはさほど難しいことではなかったのだ」  言葉を続けようとしたカニエを、ちょっと待てとアイオリアが手で押しとどめた。 「全部を言うな……」  そう口にしたアイオリアは、なるほどと小さく頷いた。 「まずH種の意識を変えることから始めればいい。それならば、聖下が主導することが出来ると言うのだろう。ザイゲルには相手にされなくとも、シレナやギガントと言う存在もある。他の種もいることを考えれば、帝国の側でも大きなうねりを作ることが出来る。そこまでくれば、テラノやザイゲルも聖下を無視することが出来なくなる」 「もっと簡単な方法として、聖下がテラノに歩み寄ると言う方法もあるわね。テラノの総領主はジェノダイト様だから、その気になればお話をすることもできるでしょ」  アイオリアとカスピの答えに、そう言うことだとカニエは頷いた。 「そんな簡単なことにも気づかないのは、それだけ俺達が常識に凝り固まっていたと言うことだ。そしてそれ以上に、知っているつもりになっていたが、何も帝国のことを知らなかったと言うことだ」 「それは、私達だけの問題でしょうか?」  カニエの総括に、だったらとシオリが口を挟んだ。言っていることは頷けるが、それにしても狭い範囲の話だけではないのかと。 「お前達……オデッセア家でも、これと言った具体案が出なかったはず。それは、このメンバーの実家でも同じだと思うのだが。それを考えると、H種限定で言えば大差はないと思う……」  そこまで口にして、カニエは右手で口元を覆った。そして何かを考えるように、女のような顔を歪めた。 「カニエ?」  それを気にしたヴィルヘルミナに、待てとカニエは手で制した。 「同じ事情は、バルゴールにも当てはまると言うことか。だとしたら、必ずしもバルゴールが強者とは言い切れないことになる」  うんと頷いたカニエは、「ヴィルヘルミナ」と恋人の名を呼んだ。 「な、なんでしょう?」  ここでそんな顔をしてくれるな。急に鋭さが増したカニエに、ヴィルヘルミナは文句を言いたくなっていた。ただその文句にした所で、二人きりの時にして欲しいと言う程度のものである。 「ティアマト家の次期当主として、フェルゴーがバルゴールに付くのを止めろ。たとえフェルゴーとチェンバレンがバルゴールに付いても、ヨシヒコ様に勝つことはできないだろう。ヨシヒコ様に逆らったとなれば、お前がいても厳しい処分を免れないことになる」 「バルゴールではテラノに勝てない?」  そんなと驚くヴィルヘルミナに、カニエは「勝てない」と繰り返した。 「お前は、グリゴンで何を見た? 4百万の艦隊を見て、恐怖を感じなかったか?」 「ですが、ザイゲルはバルゴールとの戦いですべてを投入できる訳ではありません!」  それが出来るぐらいなら、バルゴールは真っ先に血祭りにあげられていたはずなのだ。それがなされていない以上、ザイゲルの持つ総戦力が脅威だとしても、実際の戦いには使えないものでしかない。  だがカニエは、ヴィルヘルミナの答えに疑問を返した。 「すべてを投入できないと言うのは、誰が決めたことなのだ?」 「誰がって……そこで帝国法を持ち出すことに意味があるのですか?」  ヴィルヘルミナはむっとした顔をしたのだが、横からアイオリアが「なるほど」と納得したような声を出した。そしてアイオリアだけでなく、シオリもまた「そう言うことですか」と感心したような声を出した。 「皇族を縛る法はない……と言うことか」  アイオリアの言葉に、我が意を得たりとばかりにカニエは大きく頷いた。 「ヨシヒコ様が命ずれば、帝国法の制限を超えた艦隊派遣が可能となる。ザイゲルだけでも、4百万を超える艦隊が派遣できるだろう。そこにシレナを合わせれば、1千万を超える艦隊の派遣が可能となる。それだけの艦隊が、ヨシヒコ様の命令で動くのだぞ。どう考えても、バルゴールに勝ち目など無いだろう。ヨシヒコ様に帝国軍を動かす権限が無いが、それ以上の軍を動かすことが出来ると言うことだ」 「1千万……」  それがどれだけ圧倒的なことかは、グリゴンでのことを考えれば想像することが出来る。帝国法に縛られた戦いならば、確かにバルゴールは圧倒的強者でいられたのだろう。だが帝国法を超えた戦いとなった時点で、バルゴールは強者ではいられなくなるのだ。 「確かに、実家を止めないといけませんね……」 「止めるだけでなく、ヨシヒコ様への支持を明確にする必要があるな。同盟関係を尊重するのであれば、バルゴールに忠告するのも必要だろう。いかに同盟関係にあったとしても、無謀な戦いを拒む権利はあるはずだ」  帝国軍こそ動かせないが、それに匹敵する戦力をヨシヒコは持っていたのだ。それを理解すれば、争うこと自体が無謀なことだと分かってしまう。少し顔色を悪くしたヴィルヘルミナは、カニエの顔を見て何度も頷いた。次の当主として、ティアマト家を正しく導く責任が彼女にはあったのだ。 「ヨシヒコ様は、このことを気づいてらっしゃるのでしょうか?」  同じく恐怖に駆られたシオリに、「気づいてないはずがない」とアイオリアは断言した。 「たぶん、もっと凄いことを考えられているはずだ」 「これ以上って……」  想像がつかないと零したカスピに、同感ですとヴィルヘルミナはため息を吐いた。 「つくづく、私達がものを知らなかったのだと思います」 「常識に凝り固まっていたとも言えるな……」  ふっと息を吐き出したカニエは、全員の顔を見てから話題を変えることにした。バルゴールを気にする必要がないのなら、初心に帰って帝国の行く末を考えるべきなのだ。 「ならば、俺達はヨシヒコ様が納める帝国がどのようなものになるべきか。俺達の立場で考えることにしよう」 「そうだな、そしてその考えをザイゲルの奴らにもぶつけてみるか」  相手にも高い意識があるのを確認できたのだから、ともに歩むことに問題があるとは思えない。H種の狭い常識に気づいた以上、目を外の世界にも向けなくてはいけなかったのだ。それを考えることは、とても刺激的で、どうしようもなく魅力的なことに違いない。  新しい世界と言う議題に、5人はそれぞれの考えを持ち出して議論をした。そしてその議論は、食事を挟んで延々と続けられたのである。  カニエ達が議論を深めているのとは別に、ヨシヒコはアズライト達を集めてこれからの話をしていた。これからの混乱を考えれば、珍しいと言うより当たり前の行為には違いない。妃となるシオリがいないのは、クレスタ学校を優先させたからで、シルフィールがいるのはこれから話すことに関係していた。  ただ皇太子、皇女の中に入るのは、さすがに精神的にきついものがある。その辺りは、第三帝国大学生と言っても、もとは庶民と言う事情があった。その上アズライトから向けられる視線が、どうにもきつくて怖かった。しかもアリアシアからは、不思議な視線を向けられてしまった。 「しくしく、ものすごく居づらいのですが……」  勘弁してくださいと謝ったのだが、彼女の優しいご主人様はそれを許してはくれなかった。必要だから呼んだまでだと言われれば、彼女の立場では従うほかはなかったのだ。 「それでヨシヒコ、シルフィールを連れてきて何の話をするのですか?」  どうして自分だけには口調が厳しいのか、シルフィールにはそれが気になって仕方がなかった。いくら気に入らないことがあったとしても、自分はあなたの夫の恩人のはずなのだ。  かなりの毒を含んだアズライトの問いに、ヨシヒコは少しも気にした様子を見せなかった。ああと小さく頷いて、彼にとっての課題を持ち出した。 「簡単なことから始めることにするのだが……テラノの方は、特に問題なく準備が進んでいるようだな。予想通り、アセイリアがこき使われているようだが……」  そこでアンハイドライトの顔を見て、「予想通り」とヨシヒコは繰り返した。 「なぜ、そこで私の顔を見ます?」  すかさず疑問を口にしたアンハイドライトに、「別に」とヨシヒコはそっけなく答えた。 「発表前とは言え、婚約者のことだからな。状況を教えておいた方がいいかと思っただけだ。加えて伝えておくと、アセイリアの名はますます有名になったそうだぞ。シレナだけじゃなく、ギガントにも顔が売れたそうだ。それを考えると、一等侯爵夫人にしておくのはもったいないのだろうな」 「そうやって、私を脅さないでもらいたいのだがね」  当たり前の文句を言ったアンハイドライトは、小さく息を吐き出した。 「ただ、君の言うことは理解できるね。彼女の価値は、間違いなくそこいらの一等侯爵より高まっている。しかも彼女は、それを実力で成し遂げてくれた……」  まったくとため息を吐いたアンハイドライトは、立場が逆になったと零した。 「本当に私などでいいのかと聞かなくてはいけなくなってしまったよ……」 「それは、これからのアンハイドライト様次第でしょうね。大丈夫ですよ、今更彼女を後宮に入れるつもりはありませんから」  そういって口元を歪めたヨシヒコに、アンハイドライトはもう一度ため息を返した。そんなアンハイドライトに、ヨシヒコは慰めに似た言葉を掛けた。 「多分、私の母や姉がお節介を焼いたのでしょうね。一等侯爵夫人になるための箔付だと思ってください」 「ものには限度と言うものがあるのだがね。どうも君の家族には、限度と言う尺度が違う所にあるような気がしてならないよ」  そう答えたアンハイドライトは、悪かったと謝り話を打ち切った。 「今は、あまり個人的な話ばかりしていてはいけないね。それで、他の問題はなんなのだい?」 「次に軽いのはザイゲルだろうな。こちらは、ドワーブ様とゲービッヅさんが注意しているので問題は無いと思っている。ただ、次の問題にも絡むため、気を抜くわけにはいかないだろう」 「バーバレドズのことを言っているのですね」  帝国情勢のことになれば、いつまでもシルフィールのことを気にしてはいられない。一本筋が通ったアズライトは、ヨシヒコの言葉を受けて一つの星系の名を挙げた。  それに頷いたヨシヒコは、扱いの難しさを説明した。 「バーバレドズは、バルゴールと境界を接しているからな。H種に対して強い敵意を持っている上に、バルゴールを恨むだけの理由も持っている。何しろバルゴールは、性悪皇妃を送り出した星系だ。そして皇太后殿下は、先帝ともども様々な嫌がらせをしていたようだ。テラノに対しての感情は言いがかりだが、バルゴールに対する敵意は正当なものと言う事ができる。もしもザイゲル連邦に力があれば、テラノでは無くバルゴールに攻め込んでたぐらいにだ。だから俺が皇帝に取り込まれたように見えることで、更なるストレスを溜めてくれたようだ。その結果、先の式典には代理しか送り込んでこなかった」 「確か、ザイゲルのことはザイゲルに任せるのでしたよね?」  そこで口を挟んだアリアシアに、ヨシヒコはしっかり頷き肯定した。 「ゲービッヅさんがやる気になっているからな。だからそのままなら、特に問題になることは無いと思っている。繰り返すが、問題がザイゲルに留まっている限り、俺は手を出すつもりはないんだ」 「だから、バルゴールと言う存在が問題になるのだね」  アンハイドライトに頷いたヨシヒコは、現在の状況だがと整理した情報を口にした。 「まず事実として、皇太后殿下が里帰りをなされた。そしてその後、先代メリディアニ家当主ダイオネア様が聖下の所を訪れている。その結果、ダイオネア様は長男二男を連れて、テラノを訪問することになった」 「しっかりと、トラブルの種が蒔かれたと言うことですか……」  憤慨したように息を吐き出したアズライトは、「潰したくなった」と物騒なことを口にしてくれた。 「大叔父様だけなら許せますが、あの二人を連れて行くだなんて……」  そこで言葉を切ったアズライトは、もう一度「潰したくなった」と吐き出した。 「起きる問題のレベルが低すぎます。あの二人にできることと言えば、傍若無人な真似をして一等侯爵の立場をかさに難癖をつけてくるだけでしょう。喧嘩を吹っかけて、ヨシヒコの対応を見ようとしているとしか思えません!」 「大方、その辺りなのだろうな。ただ、ダイオネア様が、それだけだと考えるのも危険だと思うがな」  アズライトの言葉を認めたヨシヒコは、これが一つと指を立てた。 「そして次の要素として、軌道城の城主が観光でテラノに向っている。クランカンと言う一等伯爵なのだが、こちらは現当主の息が掛かっていると言っていいだろう。従って、前当主と現当主が違う動きをしていることになる」  ダイオネアのことは予想の範囲だったが、軌道城城主が来るのは予想だにしていないことだった。はっきりと驚いた顔をした元皇太子・皇女に、驚くほどのことかとヨシヒコが逆に驚いた顔をした。 「ですが、軌道城と言うのは、バルゴールの守りの要なのですよ。しかも、メリディアニ家の力の源泉となっています。その城主が、簡単にバルゴールを離れるとは思えません。しかも名目が観光と言うのは……」  秀麗な眉目を顰め、アリアシアはありえないと繰り返した。 「現当主のキャスバル様が、噂通りの思慮深い方なら不思議ではないと思うが? 皇太后が里帰りをして、前当主に何かを吹き込んだことは知っているのだ。その対策を考えても、別に不思議なことではないだろう。他に考えられることとしては、聖下の決定が気になったのだろうな。それを見極めるため、信頼のおける者を送り込んできたのだろう。何しろバルゴールは、テラノのことを何も知らないのだからな」 「訪問の理由が観光と言うのはどうなのです?」  だとしたら、公式の訪問にするはずだ。アリアシアの問いに、「簡単なことだ」とヨシヒコは笑った。 「公式にした途端、制限が厳しくなるからな。観光ならば、総領主の許可だけで済むだろう」  いかにも簡単なことのように言うヨシヒコに、アリアシアは反論を口にしようとした。だがヨシヒコは、分かっていると手でアリアシアを押しとどめた。 「総領主とメリディアニ家の関係が良くないと言うのだろう。だから簡単と言っても、その裏に幾らか問題があるのは分かっているつもりだ。そしてバルゴール総領主のサープラス一等侯爵は、間違いなく今回のことを利用しようと考えるだろう。メリディアニ家が別々に動けば、それだけでトラブルが起きるのが目に見えているからな。それだけで、付け入る隙が生まれると言うものだ」  「そして」と、ヨシヒコは3人が想像もしていなかったことを口にした。 「メリディアニ家には後継者の問題があると言う話だったな。だが俺は、もっと大きな問題があると思っているんだ。その問題に比べれば、後継者の問題など大したことは無いと思っている」 「もっと大きな問題って……」  そんなものがあるのかと声を上げたアズライトに、アンハイドライトとアリアシアも同感だと頷いた。ヨシヒコとは違い、自分達はバルゴールを自分の目で見たことがあった。そしてメリディアニ家の者とも、何度も話をしたことがあったのだ。そこで感じたのは、3人揃って後継者の問題だった。 「私には、それ以上の問題があるとは思えませんが。キャスバルの小父様にもお会いしましたが、とても思慮深い方でいらっしゃいました」  嫁に来て欲しいと言うのは論外だが、それ以外で悪印象は持っていないと言うのだ。一番バルゴールに行っているアリアシアの言葉に、自分もそうだとアズライトは認めた。 「世の中には、近すぎると見えてこないものもあると言うことだ。そしてお前達の立場では、絶対に見えないものも存在している。今度のことは、まさにそうだと俺は思っているんだ。そしてこれは俺の勘なのだが、そのことに聖下は気が付いておられるだろう。カニエ達は……多分、気が付いていないだろうな。奴らは、せいぜいダイオネア様のことしか気にしていないはずだ。もっとも、奴らでは一等伯爵が観光でテラノに来る情報は得られないだろうな」 「話の繋がりから考えると、観光に来ると言う一等伯爵が問題なのですね?」  そう考えることが自然なこともあり、アズライトは一等伯爵が観光に来る意味を考えた。だがいくら考えても、そこからさらに大きな問題にはたどり着けなかった。 「だめですね、私には何が問題なのか分かりません」  そう嘆いて兄姉を見たのだが、揃って首を横に振ってくれた。 「だから、お前達には絶対に見えない問題だと言ったのだ。そもそも、なぜメリディアニ家当主は、観光とは言え一等伯爵をテラノに送り込むことにしたのだ? これまで帝国で次の皇帝が指名された際に、わざわざ確認をするような真似をしてきたのか?」 「それは、していないと思います……」  代表して答えたアズライトに、ヨシヒコは小さく頷いた。 「メリディアニ家ご当主が、帝国の変化に興味を感じた……送り込んでくるのは、およそそのあたりが理由だろう。それはいい、それ自体は別におかしなことではないからな。それぐらい、地方星系の一庶民を次期皇帝に据えると言うのは大事件と言うことだ。だが頭に立つ一等侯爵家がそう感じたのなら、軌道城の城主たちはどう感じるだろう。お前達は、それを考えたことがあるか?」 「軌道城の城主たちの考え……ですか」  そう口にして考え込んだアズライトに、ヨシヒコはさらにヒントを口にした。 「彼らは、一等伯爵の爵位こそあるが、与えられた爵位ほど恵まれた立場にいるのか? 爵位を欲しいと願っていた俺だが、調べてみて軌道城城主はごめんだと思った立場なんだぞ」  そこまで答えを教えて貰えば、アズライト達もヨシヒコの言いたいことを理解することが出来た。そう言うことですかとため息を吐き出したアズライトは、自分が理解できないと言う決めつけを肯定した。 「確かに、私達からは見えない問題だと思います。それどころか、お父様がどうして気づいたのか不思議なくらいです。確かにヨシヒコの言うとおり、後継者の問題など小さなものでしかありませんね。リーリス姉さまに適当な婿を連れて来れば、後継者問題など解決してしまいますからね。事実メリディアニ家の問題など、その程度のことだと考えていました」  ほっと息を吐き出したアズライトに、アンハイドライトとアリアシアもつられたように息を吐き出した。だがヨシヒコは、それだけでは終わらせてはくれなかった。 「さてリーリスの婿だが、アズライトはどこから連れてくるのがいいと考える?」 「リーリス姉さまのお相手ですか……メリディアニ家の当主となるのですから」  そうですねと考えたアズライトを見たアンハイドライトは、そう言うことかと声を上げた。 「君の言いたいことが理解できたよ」  納得したように頷いたアンハイドライトは、自分の理解を口にした。 「確かに、私達からは絶対に見えない問題だね。今までの私達では、彼らが不満を溜めていることを理解することは出来なかった。そして後継者問題にしても、最悪リーリスに相応しい夫を連れてくれば済む問題だと考えていたんだよ。フェルゴーやチェンバレンを頼ることは出来なくても、相応しい家柄の男なら帝国内で探すことができると考えていたよ」  そこまで口にして、アンハイドライトは「だが」とヨシヒコを見て言葉を続けた。 「そこで聖下の仕掛けが意味を持つことになる。ただ家柄だけ形を整えたのでは、城主達は深く失望することになるのだろうね。帝国の変化を前に、彼らを納得させられるような婿が居るとは思えない。そして一度芽生えた感情は、押し込めるには大きすぎるものだ」  兄の説明に、アリアシアとアズライトは大きく目を見開きヨシヒコのことを見た。なぜ一介の庶民が、ここまで状況を分析することができるのか。今更ながらに、夫となるヨシヒコの頭の回転に脅威を感じたのだ。  二人が頷いたのを確認したヨシヒコは、皇妃となるアズライトにいささか失礼なことを口にした。 「たぶん、お前たちの頭が固いのが理由だろうな。特にアズライト、意外にお前は頭が固いようだな。実のところ、お前だけが軌道城城主達の考えに気づくことができる立場にいたのだぞ」 「私が……ですか!?」  その前に言われたことは気になったが、それ以上にヨシヒコの指摘には驚かされてしまった。大きく目を見張ったアズライトに、ヨシヒコは「お前だけがだ」と繰り返した。 「センテニアルが終わった後のことを思い出してみろ。その時のお前は、どんな感情に囚われていた? その感情は、理性で抑えられるようなものだったか?」 「あの時の私は……」  その時自分を包んでいた感情、アズライトは目を閉じその時のことを思い出そうとした。そしてゆっくりと目を開き、小さく息を吐き出した。 「ええ、ヨシヒコの言う通りです。とてもではありませんが、理性で抑えられるようなものではありませんでした……」  その時のことを思い出したのか、アズライトの瞳には少し熱が浮かんでいた。 「軌道城の城主達も同じと言うのですね。新しい世界への期待が、彼らに熱病のように広がっているのだと」 「まあ、そう言うことになるな」  上気したアズライトに鼓動が早まった気がしたのだが、それを表に出さずにヨシヒコは話を続けた。 「ダイオネア様は、軌道城城主がテラノを訪問することを重視しないだろう。聖下がこれまでしてきたのと似たちょっかいをテラノに掛け、その反応を探ろうとされるだろうな。そこで俺とジェノダイト様の考えを探る……孫二人を連れてきたのは、その仕掛けだと言うことになる。ただそれだけかと言うと、そうだな、まだ男二人に期待を残していると言うのもあるのだろう。長年権力を思いのままにしてきたメリディアニ家だ。ほとんど変化には無縁で生きてきたのだろう。だからこそ、直系男子の意識が高まらない理由になる。テラノに連れてくることが、何かのきっかけになればと考えてもおかしくはない」 「後半のは、いささか同情できることでもあるね」  変化がないことの弊害は、皇太子の立場で感じていたものでもある。巨大になりすぎた帝国と言う存在は、ドラスティックに動かすことの難しい物になっていた。もしも自分が跡を継ぐ事になったとしても、興味深い世界とは言いがたいものになっていたのだ。  帝国全体でもそうなのだから、一星系の侯爵家ともなれば変化はさらに乏しいものとなる。長く続いた家で、後継者が堕落するのはさほど珍しいことではなかった。 「ところで君は、喧嘩を売られることを想定しているはずだ。テラノの乏しい戦力では、売られた喧嘩を買うことは出来ないだろう。ザイゲルの手を借りたとしても、バルゴールには勝つことはできない。もしも喧嘩を売られたら、君はどうするつもりで居るのだ?」  対策と言うのは、常に最悪を考えておく必要があ。それを考えれば、アンハイドライトの問いは正当なものなのだろう。そしてその辺りの考え方は、アズライト達にも共通しているものでもあった。色々と問題を抱えてはいても、メリディアニ家の力は無視し得ないほど強大な物だった。 「喧嘩を売られたら……か? 直接俺に喧嘩を売る方法は無いと思うのだが。聖下の公布があった以上、直接俺に喧嘩を売るのは不敬罪に当たるはずだからな。そんな真似をしたら、その場でこの宇宙から消滅することになるだろう」  ヨシヒコが持ち上げた左手には、ラルクが赤く輝いていた。 「従って、喧嘩を売られるのはジェノダイト様と言うことになる。だから心配するのは、俺ではなくアンハイドライト様と言うことになるのだがな」  問いかけをしたつもりなのに、逆に問い返されることになってしまった。そう来るかと目元をひきつらせたアンハイドライトは、彼としては逃げ道となる言葉を口にした。 「残念ながら、まだ跡を継いでいないからね。従って、それは父上が頭を悩ませる事になるだろう」 「ですがヨシヒコは、見てみない振りをするつもりで居るのですか?」  絶対に違うと言う顔をしたアズライトに、ヨシヒコは少しだけ口元を歪めた。 「その辺りは、状況次第と言うことになるのだがな。言っておくが、バルゴールを潰すのは難しいことじゃない。だから、つまらない話をもって来るなと言う気持ちもある」 「バルゴールを潰すのは難しくない!?」  まさかと驚いたアンハイドライトは、確認するようにヨシヒコの権限を口にした。 「今の君では、帝国軍を動かすことは出来ないのだよ。そうなると、バルゴールを中心とした3星系の同盟は帝国最強となるんだが?」 「帝国軍など使わなくとも、バルゴールぐらい簡単に蹴散らすことはできるぞ。3星系連合を組んだとしても、難易度はさほど変わらないだろう。ただ、つまらないからやりたくないだけだ」  ヨシヒコの答えに、皇族3人はおでこに手を当てて天を仰いだ。いくらヨシヒコのことを評価していても、世の中にはできることと出来ないことがあるのだ。バルゴールを簡単に蹴散らす方法があるのなら、とうの昔にザイゲル連邦が実行していなければおかしいだろう。 「どうしたら、バルゴールを簡単に蹴散らすことができるのですか? テラノには、わずか8千の軍艦しか無いのですよ。その上バルゴールに比べて、100年以上技術的に遅れていると言うのに。しかも軌道城の破壊力は、千の軍艦に優ると言われているぐらいです」  あり得ないと口にしたアズライトに、ヨシヒコはもう一度口元を歪めて3人の顔を一人ずつ見ていった。 「だから、お前たちの頭が固いと言ったのだ。多分だが、カニエ達はバルゴールを蹴散らす方法に気づいているぞ」 「カニエ達が……ですか?」  そんな方法があるのか。驚きから目を見張ったアズライトに、とても簡単な事だとヨシヒコは言い放った。 「お前達も、常々言っていることだと思うのだが……帝国には、皇族を縛る法は無いんだ」 「確かに、皇族を縛る法は無いのですが……」  それのどこが、バルゴールを蹴散らすことに繋がってくれるのか。改めて言われても、アズライトには心当たりが思い浮かばなかった。  そんなアズライト達に、ヨシヒコは簡単な事だと繰り返した。 「俺が命ずれば、ザイゲルは全軍を投入することができるんだ。さらに言うのなら、シレナも軍を投入することができる。たかだか5万の戦力で、1千万を超える戦力の相手を出来るのか? 個別の戦いで勝利できても、バルゴールが焦土と化すのを防ぐことは出来ないのだぞ」  ヨシヒコが命じた途端、帝国法による制限は意味のないものとなる。それを指摘され、3人は大きく目を見開いたまま言葉を失ってしまった。 「つまらないからやりたくないと言う意味が理解できたか? 知恵も何も使わない、力によるゴリ押しだからな。そんなものは、俺の美学に反しているんだよ。まあ、騒ぎを最小限に収めることを考えたら、さほど悪い方法でないのは確かなのだが……」  小さく息を吐き出したヨシヒコは、それからと言ってシルフィールの顔を見た。必要だから連れてきたことになっていたのに、今の今までシルフィールには出番が与えられていなかった。  それを思い出した3人だったが、だからと言ってシルフィールが関係する理由が思い浮かばなかった。 「シルフィールが、バルゴールのことに関係するのですか? 確かあなたは、クラビノア星系の出身ですよね?」  アズライトに見られたシルフィールは、はいと返事をして背筋を延ばした。 「そ、それはですね……」  少しどもりながらシルフィールは、本当に良いのかとヨシヒコの顔を見た。 「色々と調べてみたら、バルゴールには他にも問題が見つかったと言うことだ。そしてこれは、聖下も気づいていない問題でもある。単刀直入に言うなら、バルゴールを襲った2千年前の悪夢、それはまだ終わったわけではないと言うことだ」 「2千年前の悪夢って……」  それはと考えた3人は、すぐにその意味を理解した。そして理解したのと同時に、大変なことだと思わず腰を浮かしていた。 「エボイラの悪夢は去っていない!?」  それがどれだけ大きな問題を孕んでいるのか。それに気づいた3人からは、本当に言葉が失われてしまうことになった。一つ間違えば、帝国のH種が全滅する可能性もそこには含まれていたのだ。 「ああ、これだけ行動範囲が広がってしまったからな。下手をすると、H種全てに襲いかかってくる可能性もある。発生の仕方を考えると、バルゴール本星は全滅の可能性もあるな」  それをなんでもないことのように口にするヨシヒコに、3人はどうしようもない恐怖を抱いてしまった。ヨシヒコのことを信用するのなら、何らかの救済があってしかるべきところだろう。だが、エボイラの特徴を考えると、どうしても救済方法が思い浮かばなかったのだ。  そしてエボイラの脅威が現実のものとなった時には、発生する騒ぎの規模は、テラノとバルゴールで起きるトラブル等とは比較にならないものとなる。大きな変化に大きな混乱は必要ないとヨシヒコは言ったのだが、これでは全面戦争を超える混乱が起こることになってしまうのだ。その辺りをどうすると言うのだろうか、アズライト達にはヨシヒコの考えを推し量ることが出来なかった。 Chapter 4  まともに考えれば、二等船室と言うのは一等伯爵には相応しくない環境に違いない。だがクランカンは、意外にもその貧乏船旅を楽しんでいた。狭苦しいと言っても、陰気くさい軌道城に比べればましな環境だったのだ。その上食堂の食事にしても、普段に比べればずっとまともなものだった。 「狭いことを除けば、よほど城にいるよりも快適と言うことか……」  リルケにいた時にも感じたことだが、軌道城の環境が悪すぎたのだ。だから大学で学んでいる時には、この時間が永遠に続けばいいと考えたほどだ。そして人には言えないことだが、婿養子の口が無いかと探していたりもしていた。その時に邪魔になったのは、一等伯爵家跡取りと軌道城城主と言う立場だった。  当たり前のことだが、メリディアニ家に喧嘩を売れるような家はなかったのだ。 「さて、観光である以上、観光をしなくてはいけないのだが……」  エレノアと自分のアバターを呼び出したクランカンは、テラノに着いてからのスケジュールを確認した。 「まず総領主様にご挨拶をすべきなのだろう……。式典を見られないのは残念だが、その分お時間もいただけるか。運が良ければ、次期皇帝聖下へのお目通りも叶うかもしれないな」  まじめな性格そのままに、クランカンはデスクに向ってスケジュールを確認した。現時点での滞在予定は5日。移動の時間に対して、いかにもアンバランスな日程である。その辺りの事情も、他のHの住人がテラノに観光に行かない理由になっていた。他のH種の星系から、テラノはいかにも遠すぎたのだ。 「総領主府近くのホテルは確保したが……5日しかいられないのが残念だな」  してみたいことなら、それこそ山のように控えていたのだ。単なる観光にも興味があるのだが、帝国の流れを変えたと言うアセイリアに興味があったのだ。そして叶うのならば、いろいろと話をしたいと思っていた。 「爵位も持たぬ女性が、帝国のありように大きな影響を与えた……さすがはジェノダイト様と言う所なのだろうか。よくぞそのような女性を見出されたものだ」  エレノアと命じて、クランカンはアセイリアの写真を引き出した。グリゴンとの友好条約締結の時のアセイリアが、クランカンの視覚情報に提供された。有名な割に情報が少ないのだが、この映像だけは全帝国に配信されていたのだ。 「しかも、お心が顔に出ておられる。確かにお美しいのだが、それ以上のものを感じさせられるな。その意味では、次なる皇帝聖下のご尊顔も拝したいのだが……」  ヨシヒコの場合、噂だけが先行していると言う事情があった。そのため、顔写真に類するものが出回っていなかった。そしてその事情は、必ずしもアルハザーが情報を秘匿したことだけが理由ではなかった。センテニアルからこの方、ヨシヒコの活躍のほとんどはアセイリアの姿でなされたものだったのだ。  現皇帝と正面から対立し勝利したこと、そしてアズライトに子を儲けたことだけが有名になっていた。グリゴンとのことは、アセイリアとの共同成果とだけ伝えられていた。 「それも、テラノに行けば知ることが出来るだろう。帝国の一番新しい星系が、帝国のありように大きく影響を与えた。一番文明的に遅れたテラノが、もっとも大きな影響力を持つようになるとは……」  しかもその流れは、H種とは関係のないところで形作られたのだ。それを考えると、自分たちの考えが凝り固まっていたのでは思えてしまう。そしてその最たるものが、自分の住まうバルゴールなのだとクランカンは考えていた。 「ぜひとも実りあるお話をしたいところなのだが……」  初のバルゴールからの客と言うことで、自分にはその機会が与えられるはずだとクランカンは考えていた。だが先代が遅れてテラノに来ることで、自分の意味が不明確になったと感じていた。このままでは、テラノ総領主への面会が叶うかも疑わしくなってしまった。 「そのためにも、一日も早く総領主府に行かなければ……」  ダイオネアが来てしまえば、自分の存在など顧みられることは無いだろう。ジェノダイトの考えは分からないが、前当主が自分の勝手を許すとは思えないのだ。だからこそ、ダイオネアがテラノに来る前に行動をしなければいけないと考えていたのだ。 「エレノア、ダイオネア様はいつ総領主府に入られるのだ?」  そのためにも、ダイオネアのスケジュールを押さえておかなければならない。だが主の問いに、彼のアバターは申し訳ありませんと謝罪の言葉を返した。 「出発は把握することが出来たのですが。そこから先の予定は確認できませんでした。メリディアニ家専用クルーザー・ディオスクリアスの性能から考えると、恐らくクランカン様の一日遅れ程度かと予想できます」  アバターの報告に、クランカンはほっと小さく息を吐き出した。途中で追い抜かれでもしたら、本当に目も当てられないことになっていたのだ。わずか一日とは言え、自分には行動を起こすだけの時間が与えられた。 「ならば、ジェノダイト様にお願いすることを纏めなければ……」  やりたいことは山のようにあるのだが、そのための時間は悲しくなるほど与えられていない。限られた時間をどう活用するか、それがクランカンにとって喫緊の課題となったのである。 「やはり、ジェノダイト様のスタッフと話をする時間をいただかないと……」  そのためには、自分の考えを纏めておく必要がある。一等伯爵として議論に臨む以上、無様なところをさらす訳にはいかないのだ。自分を派遣してくれた当主の名誉に関わる以上に、自分としてせっかくの機会を無駄にはしたくなかった。 「帝国のありようについて……今更意味のない議論としか思えないな」  帝国が大きく変わっていくのは、今更疑いようもないことだった。だが、問題なのは、それがどういう方向に変わっていくのかと言うことだった。そしてそれを尋ねるのは、自分に見識がないとさらすことになる。 「我がバルゴールが、新しき聖下の治世にどのように関わっていくのか……本来、その考えをお伝えすべきところなのだが」  そこで少し落ち込んだクランカンは、小さく息を吐き出しアバターを呼び出した。 「エレノア、ザルツバーグ卿は何か言っておられるか?」  出立前に呼び出されて以来、レキシアから何の連絡も受けていなかった。それを気にしたクランカンだったが、彼のアバターの答えに失望を感じることになった。 「いえ、ザルツバーグ卿からは何もメッセージを受けとっていません」 「そうか、ザルツバーグ卿から連絡がないか」  酒を口実にしたが、出立前に不満を打ち明けてくれたのだ。それを考えれば、何かメッセージがあってもおかしくないと思っていた。だが現実は、レキシアからは何のメッセージも送られてきていなかった。あの時のレキシアは、明らかにメリディアニ家による治世に不満を口にしてくれたのだ。ならば当主とは別のメッセージがあってしかるべきだと考えていた。 「我々軌道城城主の思い……か」  ただクランカンも、レキシアの言いたいことは理解できていた。さもなければ、こっそりと養子の口を探すような真似はしていないだろう。 「帝国は変わるのに、バルゴールは何も変わろうとしていない。確かに、ザルツバーグ卿の仰る通りなのだろう。帝国と同様に、バルゴールにも変わらざるを得ない事情があるのだと」  そこまで口にして、いやとクランカンは首を振った。 「それは、我々の勝手な思いなのだろう。メリディアニ家の問題は、ただの後継者問題にしか過ぎないのだからな。嫡男二人に問題があるのなら、リーリス様が相応しき婿を迎えられれば済むだけのことだ。それを我々軌道城城主が、ことさら大きな問題と感じているだけのことなのだ」  その程度のことだと呟いたクランカンは、エレノアとアバターに声を掛けた。 「シャワーは空いているか?」 「はい、30分後であれば予約を入れられます。予約をお入れしますか?」  アバターの問いに、クランカンは少しだけ瞳を閉じた。 「そうだな、予約を入れておいてくれ。それから、今日の食堂の献立はどうなっている?」  主の問いに、アバターは船の情報を検索した。 「今日は、ブッフェスタイルになっています。その分質が落ちるのですが、選択肢が広くなっています」 「質が落ちる……か。それでも、城よりはましと言うのは皮肉だな」  船の中には、何種類かのレストランが店を構えていた。クランカンがアクセスしたのは、その中では安い方の店だった。どちらかと言えば、大部屋の旅行者が利用するランクのレストランである。 「では、シャワーを浴びてから夕食に行くことにするか」  そこで椅子の背もたれに体を預け、クランカンは狭い船室の天井を見上げた。さすがは格安の二等船室と言うこともあり、注意しなくても安普請の部分が目についた。 「一等伯爵……か。この地位に、一体どれほどの価値があると言うのだろう」  他の星系ならば、王侯貴族の生活が出来ると教えられたことがある。確か第12大学に通っていた時だろうか、まじめに勉強する彼に対して、居合わせたクラスメートが呆れたように口にした言葉だった。 「勉学を不要と言うつもりはないが、ここは人脈を作るのも重視されるのだぞ。一等伯爵と言えば、並みの星系ならば五指に入る名家だろう。お前の場合は、学問より嫁を探すべきなんだ。特にバルゴールの場合にはな……」  そう言われたときは、お節介だと感じたものだった。だが今になって思い返してみると、彼の言葉は全面的に正しかった。そして彼が言葉を濁した部分、それも理解できるようになっていた。 「気になった女性に声を掛けてはみたが……」  そこでうまくいっていれば、彼が独身と言うことは無かったのだろう。同格の女性からは明確に避けられ、格下の女性からは爵位を理由に断られ続けたのだ。彼自身訳が分かっていたこともあり、仕方がないことだと腹も立たなかった。  そして家督を継いでバルゴールに帰ってみれば、その事情はさらに酷くなっていた。外に出たのが災いして、陰鬱な環境が余計に気になってしまったのだ。そして名ばかりの一等伯爵と言うのが、現実としてわが身に突きつけられたのである。バルゴールの守り神と大層に言われているが、現実はかび臭い要塞に閉じ込められた奴隷と変わりがなかった。 「今のままでは、軌道城城主達は保たないだろう……」  外の世界を知っていることで、おかしな夢を持っていないとクランカンは思っていた。だが外の世界を知らない城主達にとっては、そこは楽園のように感じられることだろう。その世界に触れることもできず、ただ虜囚のように朽ち果てていく。帝国が変わろうとしているだけに、なおさら己の境遇が辛く感じられてしまうのだ。夢を見てしまったがために、今の境遇に我慢ができなくなってしまうのだ。 「キャスバル様は、どうなさるおつもりなのか」  自分達の処遇など、メリディアニ家当主の胸先三寸で決まってしまうものでしかない。そのメリディアニ家は、自身の問題に頭が一杯になっているようだ。軌道城城主達の抱えているものなど、気づいているはずもなかったのだ。  だからクランカンの「どうする」と言う疑問に対しては、何もしないと言う答えしかありえない。問題があると思わなければ、対策など考える必要もないのだから。軌道城城主達の境遇は、これまでと何も変わっていないのだから。 「ザルツバーグ卿は、なぜ私をリーリス様の婿にと申されたのか……これまでの関係を考えれば、絶対にありえないことなのに。ご当主からお叱りが無ければよいのだが」  キャスバルが問題と思っていない以上、レキシアの直言は何の意味も持って来ない。それどころか、分を弁えない無礼なことと受け取られても仕方のないものでもあったのだ。メリディアニ家と軌道城城主、その両者の関係には何の変化も起きていない。それを考えれば、レキシアの言葉は暴言と受け取られても不思議ではないものだった。  そうレキシアのことを心配したクランカンだったが、だからと言って彼に何かができるわけではない。そしてアバターからは、バルゴールでは何も変化が起きていないことを伝えられていた。 「ご当主は、聞かなかったことにされたのだろうか?」  メリディアニ家の使用人の立場であっても、同時に軌道城城主は力の源泉でも有ったのだ。その軌道城城主を罰するには、余程の理由がなければ難しいと言うのも事実だった。キャスバルにした所で、ことを荒立てても何もいいことはなかったのだ。だとしたら、何も無かったことにするのも一つの方法には違いなかった。 「ここでも、テラノとザイゲルの関係が効いてくるのか……」  帝国の枠組みとは違う所で起きた変化は、かつて無いほど大きなものに違いない。確実に、その影響をザイゲル連邦内に見ることが出来たのだ。活気づいていると言うのが、クランカンの感じたものだった。もっともそれが、必ずしもいいことばかりでないのも問題だった。 「そしてその歪は、バーバレドズに蓄積している……」  テラノとグリゴンの友好関係は、必ずしもザイゲル連邦内全てで歓迎されたものではなかったのだ。それでも、帝国と言う共通の敵がいるときには問題としては小さなものでしかなかった。それほどまでに、皇帝に対する敵意は比肩するものの無いほど強いものだったのだ。だが旗頭とも言うべき少年が皇帝に取り込まれたことで、押さえ込んでいたものが爆発する恐れが出てきた。それがザイゲル内部に向かうのか、はたまた隣接するバルゴールに向かうのかは分かっていない。だからこそ、バルゴールは無用の混乱を起こすわけにはいかなかった。その意味で、重臣の処罰など無い方が好ましいのだ。  そこまで考えた所で、破綻が近いのは軌道城城主だけでないことに気がついてしまった。 「周りが変化をしていく中、バルゴールだけが頑なに変化を拒んでいると言うことか。果たして、どこまで耐えることができるのだろう……」  そしてどこまで耐えなくてはいけないのか。自ら買って出た役目が、思いの外重要な役目であるのにクランカンは気づいてしまった。テラノでは、図らずも軌道城城主の代表としての役目が割り当てられてしまったのだ。自分の言葉の一つ一つが、軌道城城主の考えだと周りから受け止められることだろう。そこにメリディアニ家前当主が登場することで、言葉の重みが増してしまうのだ。 「ダイオネア様は、何を意図してキャリバーン様とタルキシス様を伴われるのか……」  主筋を悪く言うのに抵抗はあるが、さすがにあの二人だけは庇いきれないと思っていた。一等侯爵として人々の頭に立つ以上、民草から尊敬を受ける人格が求められていたのだ。それなのに、二人は尊敬どころか嘲笑を受ける体たらくなのである。人々の心が離れてしまった指導者など、永らえることはあり得ないのだ。  そんな二人を連れて行くことに、ダイオネアの意図を量りかねたのである。新しき帝国の中心となる地を目の当たりにすること。そしてその中心で活躍する人達と会うことは、非常に大きな意義を持つことに違いない。ただ、それにした所で、受け取る側に素養と意識が求められるのだ。だが嫌々連れて行かれる二人に、そんな意識があるのだろうか。なにも考えることなくバルゴールと同じ振る舞いをすれば、得られるものなどなく失う物ばかりになってしまう。テラノとの関係悪化は、次期皇帝との関係悪化に繋がることになるのだ。それこそ、バルゴールの見識が問われることになってしまう。 「お二方が心を入れ替える……」  前当主の意図としたら、おそらくそのあたりが適当なところだろう。さもなければ、見切りをつける意味を持っているのかもしれない。決着をつけたいと言う気持ちも理解できるが、受け入れ側の迷惑を考えない行動でもある。もともと変わるつもりがあるのなら、別にテラノに行く必要などどこにもない。だが現実は、二人は相変わらず後継者の自覚を持とうとしていない。  テラノに行くだけで変わると言うのは、どう考えても甘すぎる考えとしか言いようがなかったのだ。何かのきっかけ、たとえば変わらざるを得ないような事件を期待するのなら、巻き込まれる者は迷惑としか言いようがないだろう。 「メリディアニ家への忠誠心が試されることになるのだろうか」  忠誠心を持っているつもりはあるが、クランカンも迷惑だと言う気持ちの方を強く感じていた。前当主が混乱を意図するのであれば、付いて行けないと言う気持ちが強くなってしまう。 「我らの頭に立つ以上、愚かであってはならないのだ……」  その考えを口にした所で、クランカンは自分が帝国の変化に影響を受けているのに気が付いた。皇帝に意見をする庶民とその意見を取り入れ、新しい動きを主導した皇帝と言う存在。その関係に、自分もまた夢を見ているのだと。  レキシアのことを言っていられないと、クランカンは自分のことを笑った。外の世界に夢を持っていないと思っていたのだが、夢ではなく強い羨望を覚えていたのだ。それこそが、レキシアが自分に告げたことではなかったのか。 「だが、私ではだめとしか思えない……」  レキシアの言った通り、リーリスの婿取りは変革の一歩となるのだろう。そしてその相手として軌道城城主と言うのは、かつてない大きな変革に違いない。だがリーリスを妻としてメリディアニ家の当主になることに、その先のビジョンが浮かんでくれなかったのだ。  一時の満足は得られたとしても、それは永続するものではない。そして時間と共に満足は不満に取って代わられ、今まで以上の閉塞感にとらわれることになるのだろう。これと言ったビジョンの無い自分が当主になることに、明るい展望を描くことができなかったのだ。そしてクランカン自身、メリディアニ家当主と言う立場やリーリスに対して、何の思い入れもないと言うのが正直な気持ちだった。  椅子から立ち上がったクランカンは、そのまま場所を変えてベッドに寝転がった。そして汚れた天井を見上げ、自分が何をしたいのかを考えることにした。 「私は、何を求めてテラノに行くことを申し出たのか……」  自覚した今なら、変化に対する羨望を認めることができる。その羨望があったからこそ、テラノ行きに名乗り出たのだと。だが名乗り出た理由と、何を求めるのかは全く別物なのだ。自分はテラノに行き、そこで何を得ようとしているのか。その考えが纏まらなければ、ただの観光客と変わらなくなってしまう。  そのためには、自分がどうしたいのかを考える必要がある。バルゴールのこと、軌道城主達に蔓延る閉そく感のこと、そして自分自身の希望のこと。 「私は……」  何をどうすれば良いのか。ベッドに横たわったクランカンは、時間を忘れて自分自身のことを考えたのだった。  レキシアにとって、キャスバルの呼び出しは驚くことではなかった。己の分を超えた上申は、叱責を受ける理由になることを理解していたのだ。むしろ遅かったと言うのが正直な気持ちだった。 「やはり、身の丈を超えた申し出だったか……」  予想はしていたが、呼び出しに落胆したのも確かだった。やはりバルゴールは何も変わらない。それを改めて突き付けられた気持ちになったのだ。  それでもメリディアニ家に仕える者の義務と、レキシアは気を取り直してキャスバルの元に馳せ参じることにした。 「ここも、随分と久しぶりになるのだな……」  メリディアニ家本家の前に立ったレキシアは、あいも変らぬ古風な建物を見上げた。伝統のあると言えば聞こえはいいが、本家は周りの景色からは完全に浮いたものだった。考えすぎなことは分かっていたが、それもまた変わらないメリディアニ家の象徴に思えてしまった。 「キャスバル様がお待ちです」  シャトルを降りたところからついてきた案内役は、感慨深げに見上げるレキシアに声を掛けた。 「うむ、ご当主様をお待たせしてはならぬからな」  きゅっと唇をかみしめ、案内役の後ろをついて館の中へと進んでいった。これからの話が、決して穏やかなものであるはずがない。それぐらいのことは、今さら考えるまでもないことだった。  レキシアを迎えたキャスバルは、普段以上に難しい顔をしていた。額にしわを寄せた当主に、レキシアは問題の大きさを再度確認したのである。 「レキシア・オム・バルゴール・ザルツバーム、お呼びにより参上いたしました」  臣下としての礼を果たすため、レキシアは深々と頭を下げた。そんなレキシアに、「それはいい」と不機嫌そうな声を出し、キャスバルは座るようにと命じた。 「お前を呼び出したのはほかでもない。先日の答えを伝えることにある」  大人しく従ったレキシアに、そうキャスバルは切り出した。そしてそれを黙って受け止めたレキシアに、「興味深い話だった」とキャスバルは答えた。 「興味深い……でしょうか?」  頭から否定されることを考えていたこともあり、レキシアは驚きを顔に出していた。そんなレキシアに頷き、キャスバルは「興味深い話だ」と繰り返した。そしてその上で、レキシアの提案を否定した。 「だが、クランカンをリーリスの夫にするつもりはない」  当たり前の答えが、当たり前に告げられたに過ぎない。それでも軽い失望を感じながら、レキシアは当主の言葉を受け止めた。そんなレキシアに、キャスバルは表情を変えずに言葉を続けた。 「お前の話を聞いた時、それも一つの方法かと考えはした。帝国が変わろうとしている今、メリディアニ家と軌道城城主達との関係を変えるのもおかしくないと考えたのだ。皇帝聖下の決定に比べればスケールは小さいが、それでもバルゴールにとってみれば大きな変化に違いないだろう」  レキシアの提案を肯定したキャスバルだったが、「だが」とさらに話を続けた。 「それから色々と考えてみたのだが、それでは意味がないことに気が付いたのだ。なあザルツバームよ、軌道城城主達の抱えたものは、それほど簡単なものなのだろうか? たとえクランカンを当主に据えたところで、軌道城城主達の立場は何も変わらぬのだぞ。一時しのぎにはなるのだろうが、それも長続きするものではないだろう。それに気づいたが故、クランカンを婿に迎えないことにしたのだ」  叱責ではない当主の言葉に、レキシアは初めは付いて行けなかった。だがゆっくりと語られる言葉に、ようやく理解が追い付いてくれた。 「ですが、いつまでも先延ばしにできない問題かと」  熟慮の上で否定されたとなれば、これ以上クランカンに拘る必要はない。だが、それならそれで、解決の糸口を見つけなければならないのだ。キャスバルと問題の共有ができているのが分かったのだから、この話に踏み込むことに問題はないと考えた。 「そうだな、引き延ばしができて数年と言うことろだろうか。だが決断は、すぐにでもしなければと考えている。ただ難しいのは、これが単なる後継者の問題ではないと言うことだ」  ふうっと息を吐き出したキャスバルは、「すまなかった」とレキシアに謝った。 「何も飲み物を用意していなかったな。お前とは酒を酌み交わしたいところなのだが、今はそのような時ではないのだろう。酒を飲むのなら、楽しく飲むべきだと儂は考えているのでな」  少し口元を歪めたキャスバルは、彼のアバターを呼びだした。 「ゼス、お茶を二人分用意させろ」  畏まりましたとアバターが消えたところで、キャスバルは目を閉じゆっくりと息を吸いこんだ。そしてそのまま何も口にせず、ただ時間だけが通り過ぎて行った。そしてレキシアは、当主をじっと見たまま次の言葉を待ち続けた。  そんな二人に変化が起きたのは、側仕えがお茶を置いて行った後のことだった。おもむろにお茶を口にしたキャスバルは、「これからのことだ」と口を開いた。 「お前たちが、得も言われぬ閉そく感に囚われていることは知っていた。そして聖下の決定が、さらにその閉塞感をさらに強めたことも理解している。クランカンをリーリスの婿にと言うお前の提言が、必ずしも息子二人だけが理由ではないこともな」 「お恥ずかしい限りです……」  見抜かれていたことを恥じたレキシアに。「それはいい」とキャスバルは許しを与えた。 「おかげで、儂も色々と気づくことができたのだからな。そして気付いてしまった以上、方策を打ち出さなければならなくなった。ただ問題は、どうしたらいいのか分からないと言うことだ。なにしろ聖下には手駒が与えられたが、儂には何の手駒も与えられておらぬのだ。ただ相応しき者に後を任せれば良い。それぐらいしか考えていなかったのだからな」  ふんと息を吐き出したキャスバルは、お茶を啜ってから「酷いものだ」と吐き出した。 「統治の目的を考えれば、儂は失敗したとしか言いようがない。メリディアニ家による支配は、ただ静かに年老いていくだけのものでしかなかったのだからな。混乱が必要とは言わはないが、何らかの新陳代謝が必要だったのだ。社会に活力が無いのは、間違いなく我らの責任なのだろう」 「それは、必ずしもバルゴールだけの問題とは思えませんが?」  異論を口にしたレキシアに、キャスバルは小さく頷いて見せた。 「ああ、帝国そのものが抱えた問題なのだろう。だから歴代皇帝聖下は、活性化の為各所で騒ぎを起こされた。そして変化のきっかけとなる、不満の種をザイゲルに蒔かれていた。そうして、帝国が穏やかだが何も変化のない、ただ静かに朽ちていくだけの世界にならないよう心掛けられていたのだろう。その意味で、ザイゲルを挑発し続けたのは成果が出たことになるのだろうな」  そこでキャスバルが思い浮かべたのは、テラノのセンテニアルを襲ったザイゲルの行動だった。 「これまで散々挑発を続け、しかも目の前にはおいしい餌をぶら下げてくれたのだ。騒動が起きるのは、誰の目からも明らかなことだった。ジェノダイト様には迷惑なことだったろうが、アズライト様が訪問されるのは必要なことだったのだ」  アズライトの行状の悪さは、種に関係なくとても有名なことだった。そんなアズライトが訪れることになったのだから、当たり前のようにテラノに対する同情の声が上がっていたのだ。だがそれからのことを考えれば、テラノに行くのはアズライトでなければならなかったのだ。 「アズライト様がテラノに行かれなければ、このたびの変化は起きていなかっただろう。そしてアセイリアなる者の活躍が無ければ、テラノは大きな被害を受けていたことだろうな。もともと聖下が意図されたのは、そこから導き出された混乱なのは疑いようもない。だが時代は、聖下の想像を超えた答えを用意されたのだ。それを利用され、聖下は帝国に新しい時代の扉を用意された」  もう一度お茶を含んだキャスバルは、帝国は変わったのだと口にした。 「だからこそ、何も変わらぬバルゴールが目立つことになる。だからと言って、変わることを無条件に良しとするつもりはない。だが、こうして何も変わらぬことの弊害が表に出てきてしまったのだ。我がバルゴールも、時代に応じた変化が必要なのは間違いないだろう」  その言葉は、レキシアにとっては期待以上の物に違いなかった。だが期待以上ではあるが、同時に難しい問題であることを理解させるものだった。クランカンをリーリスの婿にすると言うのは、言われた通り一時しのぎにはなるが根本的な答えではなかったのだ。 「それはどのような変化なのでしょうか?」  キャスバルから語られたのは、漠然とした展望でしかなかった。だからレキシアはその意味を尋ねたのだが、返ってきたのは「分からん」と言う答えだった。 「それが、これまで考えることをしなかったつけなのだろう。しばらく頭を悩ませては見たのだが、具体的な姿が思い浮かばないのだ。もしかしたら、儂は答えのない問いに頭を悩ませているのかもしれない。先ほどは否定したが、クランカンを婿に迎えるのも時間稼ぎと言う意味では悪くないと思えたぐらいだ」  そこまで口にして、「ただ」とキャスバルは言葉を続けた。 「問題を先送りにするのは、当主としていかにも無責任ではないかと思えてしまったのだ」 「若者に、後を託すと言う考え方もあるかと思います……」  レキシアの意見に、キャスバルは小さく頷いた。 「その考えを否定するつもりはない。儂では駄目なら、駄目でない者に任せると言うのも一つの方法だろう。だがザルツバームよ、はたしてクランカンが引き受けてくれるのだろうか。そしてきゃつの目に、テラノがどのように映るのだろうか。ジェノダイト様と話をされるだけでも、我々との違いを感じることだろう。もしかしたら、アセイリアと言う女性に心を奪われるかもしれない。次なる皇帝聖下とお会いできたなら、バルゴールを忘れる可能性すらあるだろう。何も変化のない老人のようなバルゴールに比べ、若いテラノはどれほど魅力的なことだろうか」  婿入りをして一等侯爵の後を継ぐ。一等伯爵の立場を考えれば、普通ならば魅力的に映るはずのことだった。だが冷静に考えれば、問題の山積した家督を継ぐことにもなるのだ。その問題の難しさを考えれば、逃げ出したいと考えても不思議はない。 「それは私も考えました……」  苦虫をかみつぶしたような顔をしたレキシアに、仕方がないことだとキャスバルは頷いた。 「儂らの世界は、広いようでとても狭いものだ。テラノとグリゴンで始まった動きは、改めてそれを教えてくれるものだった。帝国の中心にいると言う思いが、儂らの世界を狭めていたのは間違いない。肥大化した軍事力が、己の力だと過信させたとも考えられる」  なあと、キャスバルはレキシアに語りかけた。 「ザイゲルはH種に対して敵意を持っておるが、我らは逆に奴らを見下しておる。それこそが、歴代聖下の意図したところなのだろう。それゆえ我らは、一番近い帝国の朋友、バーバレドズのことを何も知らぬのだ。だがテラノは、己を攻撃したグリゴンの懐に飛び込むと言う器量を示した。それが星系としての若さゆえとは、とても考えられぬのだ」  そこまで口にしたキャスバルは、「クランカンは」と己が送り出した若者のことを持ち出した。 「テラノに行き、何を得ることになるのか。ジェノダイト様と会い、その配下の者達と出会う。間違いなくそれは、きゃつにとって大きな財産となることだろう。その上でバルゴールに帰ってきてくれたなら、儂はじっくりと話をしてみたいと思っておる。叶うならば、その話は総領主殿を交えて行いたいと思っておる」  キャスバルの言葉に、レキシアは恐れと感動の両方を抱いていた。閉そく感に苛まれていたレキシアではあったが、同時に変化に対する恐れも持っていたのである。 「総領主殿とお話をされるのですか?」  当然レキシアも、総領主が実権を奪い返そうとしているのを知っていた。書類上の手続きで済むはずの観光届に、わざわざクランカンの面接を加えたのもその一つだと分かっていたのだ。 「バルゴールの統治は、本来総領主殿の仕事だからな。その安定に問題が出るのであれば、関わってもらう必要があると言う物だ」  いかにも簡単なことのように言うキャスバルに、レキシアは大きく目を見張って驚いた顔をした。 「今のお前の反応を見て分かったのだが、実は変化を恐れる気持ちもあるのではないか? それが閉そく感の理由の一つと言って良いのかもしれんな」  ふっと口元を緩めたキャスバルは、「父上は」ともう一つの問題を持ち出した。 「キャリバーンとタルキシスを伴いテラノに向かわれた。タルキシスはまだしも、キャリバーンを連れて行けば間違いなく問題を起こすことだろう。儂の不徳の致すところなのだが、あやつはもはや手遅れだ。意識のない者をテラノに連れて行ったところで、何かが変わると言うのは甘い考えでしかない」 「テラノで問題を……次期皇帝聖下がおわすところで、さすがにまずいのではないでしょうか?」  出身地だと考えれば、問題は必ず次期皇帝の知るところになる。バルゴールに理があるのならまだしも、傍若無人な真似をしたなら逆鱗に触れる恐れもあるだろう。  レキシアの指摘に頷いたキャスバルは、少し考えるように口元に手を当てた。 「ならばザルツバームよ、お前はどうしたらよいと考える?」 「テラノ総領主、ジェノダイト様とお話をされるのが宜しいかと。ご当主のお考えを伝えておけば、傷口も小さくなりましょう」  期待した答えだったのか、キャスバルは小さく頷いて見せた。 「うむ、その意味を込めてジェノダイト様にはメッセージを送ることにした。メリディアニ家当主として、クランカン一等伯爵への便宜をお願いする。伝えるのはそれだけだ」 「いささか、分かりにくくはありますが……」  かと言って、何も起きないうちに父親のことを言う訳にもいかない。連絡が着くと言うことを示すことで、いざと言う時に備えられると言うのである。 「今は、それが限界なのでしょうか」  下手に騒げば、バルゴールの恥を晒すことになりかねない。そしてジェノダイトを信用するのなら、余計な口出しをすべきでないのも確かだった。  レキシアに頷いたキャスバルは、彼にとって意外なことを口にした。 「ただなザルツバームよ、儂はさほど心配をしておらぬのだ。人と言う物には、やはり格の違いがあると思っておる。それを考えれば、キャリバーンにいかほどの騒ぎを起こすことができるのか。一等侯爵家跡取りという立場が有ったとしても、大したことは出来ないと儂は考えておるのだ。唯一騒ぎが大きくなるとしたら、父上がそう意図した時だろう」 「ダイオネア様が、メリディアニ家を潰すような真似はなさらないと……」  まともに考えれば、キャスバルの言うとおりなのだろう。それに安堵を感じたレキシアだったが、キャスバルはその考えを甘いと切って捨てた。 「潰そうと意図しなくとも、結果的に潰してしまうことはあり得るだろう。それは、皇帝聖下を見極めようと言う不遜な考えが理由になるかもしれん。前当主である父上ならば、役者に不足はないだろうからな。この世界と言うものは、往々にして意図せぬ出来事を引き起こすものだ。そうでなければ、辺境惑星の一庶民が次の皇帝になることもなかっただろう」 「であれば、我らはどうすればよろしいのでしょうか?」  レキシアの問いに、キャスバルは唇を噛み締め小さく頷いた。 「何事にも動じぬことだ。そして、クランカンの連絡を待てば良いのだ」  そしてと、キャスバルは目を閉じて上を向いた。 「自分の頭で考え、最良と思う行動を取れば良い。ただ、それだけのことだと儂は考えておる」 「それだけと仰るか……」  簡単に言ってくれたが、キャスバルの言葉を実践するのは困難を極める。それが分かるだけに、レキシアは難しい顔をして次なる言葉を待った。 「それだけのことだ。そして難しいことだからこそ、己の器量が試されることになる」  そしてキャスバルは、レキシアの言葉を待たずに己の言葉を続けた。 「儂が守らなけれならぬのは、メリディアニ家とそれに従う者達だけなのだ」  そのためには、己の父親や子すら見捨てることもある。キャスバルの言葉の意味を、レキシアはそう受け取ったのである。  アセイリアの謝罪で公務に復帰したイヨは、すぐに彼女からすべての仕事を取り上げた。取り上げた仕事の中には、「やらなくてもいい」とアセイリアの口にしたものも含まれていた。 「少し予定を前倒しをするわ。アセイリア、あなたはシンガポールに飛んでASIA1に行ってちょうだい。ああ、ちょっと不正確だったわね。ジェノダイト様に同行して、ヨシちゃんの一行を出迎えて。補佐として母さんをつけるから……」  そこでチエコの顔を見たイヨは、少し考えてから「まあいいか」と言葉を濁した。 「何か、今言いかけませんでしたか?」 「興味をもつのを悪いとは言わないけど……墓穴を掘ることになるのは教えてあげたばかりでしょ?」  そこですっと目を細められ、アセイリアは背中に冷たいものが団体で駆け下りていった錯覚を覚えた。ぶるっと身震いを一つしたアセイリアは、イヨに向かって引きつった笑みを返した。 「い、いえ、忘れてください……で、でも、いいんですか? いえ、私の仕事はまだ残っていたと思うんですけど……」  やらなくてもいい仕事は沢山あったが、当然の様にやらなくてはいけない仕事も残っていたのだ。その仕事ごと取り上げられたことに疑問を感じたアセイリアに、そっちは大丈夫とイヨは笑った。 「どうしてもって奴は私がやっておくから。あと、私の仕事はメンバーに割り振ったわ。一日リフレッシュしたんだから、これぐらいのことはやってくれるでしょう」  少し無責任な保証をしたイヨは、次に母親の顔を見た。 「どうする、父さんに付いて行ってもらう?」 「ありがとう……でも、あまり公私混同をするものではないわね」  自分を気遣った娘に感謝をしたチエコは、一つ息をしてから「必要ない」と答えた。 「だったらいいけど。じゃあ母さん、手続きの方を進めてくれる? こっちは、最後の詰めをやっておくから」 「ええ、ジェノダイト様にも急いで頂いた方がいいわね」  娘に頷いたチエコは、行きますよとアセイリアに告げた。そんなチエコに、アセイリアは小さな違和感を覚えていた。心なしか、普段の迫力が減ったような気がしていたのだ。  それを指摘すると、10倍では済まない言葉が降ってくるのは目に見えている。だから感じた違和感を押し隠し、アセイリアは黙ってチエコの後を付いて行った。  出て行った二人を見送った所で、イヨは小さく息を吐き出した。 「イヨさん、疲れてない……愚問か」  アセイリアと並ぶ大黒柱となったイヨに何かがあれば、明後日からのセンテニアルのやり直しは失敗することになる。そうでなくとも負担を掛けていることを自覚しているカヌカは、心配そうに声を掛けた。 「さすがに、ちょっときついかなって……ここに来て余計な仕事も増えてしまったし」  ほっともう一度息を吐きだし、イヨはアズガパを呼び寄せた。 「悪いけど、マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギ一等男爵家令嬢を呼び出してくれない」 「お安いご用と言いたいところだが……いいのか?」  前日のことを聞いていることもあり、アズガパは本気かと驚いた顔をした。 「いいのかも何も、必要なことをするだけよ。明後日の模範試合を成功させるためにも、必要なことだと私は思っているわ」  そう答えられれば、それ以上マリアナのことに拘ってはいられない。了解したと答え、アズガパはマリアナを呼び出す仕事へと向かった。その後姿を見送った所で、イヨは「セラ」と自分のアバターを呼び出した。 「予定の消化率はどうなってる?」 「現時点で90%と言う所です。軍が協力的なこともあり、スケジュール的には前倒しで進んでいます」  その辺りは、早めにアセイリアを投入した効果が出ていると言うところか。思惑通りに進んでいることに安堵したイヨは、各星系からの賓客の状況を確かめた。 「それで、各星系からのお客様はどうしてる?」 「満足して頂いていると言うのがお答えになります。些細な不満があるとすれば、アセイリア様との会談時間を取れなかったことでしょうか? それにした所で、しかたがないことは理解されているようです」  今やテラノの顔となったこともあり、アセイリアが多忙を極めているのは有名になっているのだ。ジェノダイトよりも面会希望が多いと言うのが、その事実を物語っていた。だからこそ、イヨはアセイリアの活用方法に腐心していたのである。 「それで、これが余計な仕事の一つってこと?」  昨日の出来事を知るだけに、マリアナの扱いが微妙であることをカヌカも理解していた。ヨシヒコとの関係を忘れても、マリアナは英雄の一人に数えられた存在である。その分気を使わなければいけない相手でも有ったのだ。 「そうね、関わりあうつもりは無かったんだけど……ちゃんと片をつけろってことかなぁ」  強運を誇っていたつもりなのに、ここに来て余計な面倒を背負い込むことが続いていた。マリアナのことにしても、余計な面倒の一つでしかないと思っていた。 「……実は私って、あまり運が良くなかったのかしら?」  そうぼやいたイヨに、どうでしょうねとカヌカは首を傾げた。 「全部を運で片付けると怒られるかもしれないけど……今の立場に居るのって、余程強運だと思うんだけどな。だって一庶民の生まれで、軍でも准尉止まりだったんでしょう? でも今の立場なら、大将の人達とも対等に話ができるのよ。しかも弟さんは次の皇帝になるんだから……」  そこでううむと考えたカヌカは、「運が悪いかも」と普通とは逆の答えを口にした。 「やっぱり、ものには限度ってものがあるから。同じ立場になりたいかって聞かれたら、遠慮するって言うのが正直なところね」 「普通はそうだよねぇ……でも、これが運が悪いって言うと周りから冷たい目で見られそうだし」  ふうっと息を吐き出したイヨは、一度立ち上がって統合司令本部の中を見渡した。前倒しになるようにスケジュールを組んだおかげで、本部の中は土壇場の喧騒からは解放されていた。 「たぶん、前回のヨシちゃんは大変だったと思うわ。アズライト様の相手だけじゃなく、見えない敵と戦っていたんだものね。それに比べて、今回は邪魔をしようとする相手はいないことになっている……だから、余計なことには気を使わなくても済むんんだけど」 「その分、小さな問題が目につくようになった……ってこと?」  カヌカの指摘に、イヨは小さく頷いた。 「ずっと積み残してきたことが、ここに来て無視できなくなったんでしょうね。多分、放っておいても何も起きないことだと思うんだけど。だけど、完璧を求めると放置するわけにもいかなくなってしまった。ほんと、あの馬鹿親は娘の足を引っ張り続けてるわ」  尊大なヒゲ男を思い出したイヨは、思わず眉を顰めてしまった。 「余計なものを思い出しちゃいけないわね。さて、スケジュールは順調すぎるぐらい順調に消化しているようね」  もう一度立ち上がったイヨは、頭の上で手を叩いて全員の注目を集めた。 「悪いけど、一度集合してください!」  今や実務のリーダーはイヨと言うのが全員の一致した認識だった。そのイヨの号令に、本部にいた全員は黙って従った。そして自分を中心に集まった100名ほどのメンバーに、「お疲れ様です」とイヨは声を掛けた。 「次期皇帝聖下ご一行は、明日の夕方到着予定です。現時点で積み残されたミッションについては、当初の指示通り代行策を採用することにします。これ以降の作業は、確認作業のみとなります。各自明後日の本番に備えて、休息を取りつつ確認作業を実施してください」  作業分担については、これが最終指示となるものだった。もともと計画していたこともあり、誰からも異論の出るはずのない指示でもあるはずだ。だがイヨが作業に戻ることを指示した直後、一人の女性が残って「お話があります」と声を上げた。日本にある総領主府には珍しい、金色の髪をした美しい少女だった。年齢は二十歳というのが本人の触れ込みである。 「なに、ええっと……」 「フレイアです。フレイア・ホメ・テラノ・アルケスト。アルケスト三等子爵家次女です」  やけにプロフィールを強調したフレアに、イヨは「それで」と用件を尋ねた。 「私の分なのですが、あと少しで切りがつきそうなのです。ですから、そこまでやり遂げても宜しいでしょうか?」 「あなたの分ね……」  どれどれと進捗を確認したイヨは、問題ないかと許可をすることにした。まだ統合司令本部に加わって日も浅いこともあり、大した仕事を任せていなかったのも拘らない理由だった。 「別に構わないわよ。ただ、終わったら私に報告するように。中断したみんなと進捗を合わせる必要があるのよ」  それぐらいと答えて許可を出したイヨに、フレイアはパッと顔を明るくした。そして少し下から見上げるようにして、ありがとうございますと勢い良く頭を下げた。いかにも大げさな素振りなのだが、感謝されるのは悪い気分のしないものである。しかも女の目から見ても可愛らしいと言うのも、結構ポイントが高かったりした。 「……ちょっと前なら、ヨシちゃんの彼女にどうかと思ったでしょうね」  軽い足取りで去って行ったフレイアを見送ったイヨは、小さな声でそう口にしていた。 「ひょっとしてイヨさんってブラコン?」  その時イヨが迂闊だったのは、隣にカヌカが居るのを忘れていたことだ。イヨのつぶやきを聞きつけたカヌカは、イヨにとって不当な決めつけをしてくれた。 「どうして私がブラコンになるのよ?」 「だって、弟さんの彼女を心配するなんて……ブラコンそのものでしょ?」  反論は許さないと言う顔をしたカヌカに、イヨは少し気色ばんで「勘違い」と言い返した。 「それぐらい、あの子は女の子に縁がなかったのよ。何しろセラムって子が、最初の彼女だったんだからね。あんな見た目をしていたから、いつ男に襲われるかって心配していたんだから」 「それがブラコンだって言うんだけど?」  そうよねとまじまじと見られ、イヨは少しこめかみをひきつらせた。 「そりゃあ彼がアセイリアに化けていた時のことは知っているわよ。でもさあ、可愛い顔をしていても、彼ってやっぱり男だったわよ」 「カヌカには、心あたりがあるってことね……」  やっぱりと言う論評に、イヨは感じるところがあったのだろう。少し視線を険しくして、イヨはカヌカのことを睨みつけた。 「ほ、ほら、私はキャンベルさんとのことを見ているから……」 「カヌカ、別に隠さなくてもいいのよ」  本当のことを言いなさい。得も言われぬプレッシャーを感じたカヌカは、慌てて「何もなかったから」と言い訳をした。 「ち、ちょっと、「お姉様」ってやられて感じちゃっただけで……」 「それだけ?」  さらに視線を厳しくしたイヨに、カヌカはかくかくと何度も頷いた。腕っ節なら互角のはずなのに、まったく勝ち目が無いように思えてしまったのだ。 「ち、誓ってっ!」  ブラコンといじめていたはずなのに、どうして自分が追い詰められてしまうのか。そんな理不尽さを感じつつ、カヌカは精一杯の言い訳をした。  その努力が実を結んだのか、イヨはため息を一つつくと「もういいわ」とカヌカを許した。アズガパが戻ってきたのは、カヌカがほっとしたちょうどその時の事だった。 「30分後に下の応接に来るように指示をしたぞ……なにか有ったのか?」  冷や汗をかくカヌカを訝ったアズガパに、別にとイヨはすました顔をした。 「ここから先は、事務方の仕事がメインになるわ。ご苦労様ゴロンダ少佐。適当に休憩をとって頂戴」 「了解したと言いたいところだが……ミツルギ家令嬢と会うのに、誰か補佐は付けないのか? 良かったら、俺が付いて行ってもいいんだが?」  両者の因縁を知れば、穏やかな話になるとは考えにくい。それを心配したアズガパに、「大丈夫よ」とイヨは笑った。 「落ち込んでいるだろうから、ちょっと元気づけてあげるだけよ。まあ、ちょっと厳しい話をするかもしれないけど……あの子には、模範試合で頑張ってもらわないといけないからね」 「ちょっと厳しい話ね……」  アセイリアとのやりとりを見ているだけに、「ちょっと」が本当にちょっとなのか疑問に感じてしまった。だがそれ以上言うと自分に返ってくるのは火を見るよりも明らかだった。 「まあ、イヨさんが大丈夫と言うのなら大丈夫だろう……」  そう言う事情もあり、アズガパは戦略的撤退を選択した。マツモト家に関わる時は、細心の注意を持って当たる必要がある。それが統合司令本部にいるもの全員の統一した考えとなっていた。あのアセイリアでも駄目なのだから、自分達など歯が立つはずがなかったのだ。  這々の体で去っていくカヌカに、なんだかなぁとイヨは小さくため息を吐いた。かなりは自業自得のところがあるし、それなりの自覚はしているのだが、どうも自分が恐怖の対象になっている気がしてならないのだ。 「やはりお疲れのようだな」  そんなイヨに救いの手を差し伸べたのは、宇宙軍所属のユーリーだった。紙コップに入った紅茶を手渡し、無理をするなと苦笑しながら口にした。 「多分、そんな余裕がないからだとは思うが」 「そうですね、シェフチェンコ少佐殿。私自身酷いプレッシャーを感じていますから」  退役したとは言え、宇宙軍での立場は天と地ほど違っていた。言葉遣いが変わったのは、そのあたりの事情が理由となっていた。 「おいおい、今は立場が逆だろう。アセイリアが俺たちのリーダーと言うのは変わらないが、イヨさんが次席というのは全員が認めているんだ」 「今更ですけど、それって結構負担なんです……」  ふうっと息をひとつ吐いたイヨは、貰った紅茶をぐいっと飲んだ。 「弟がここまで育てたんですから、姉として手伝わなくちゃいけないんですけどね……」 「だから、ミツルギ家ご令嬢を呼び出したと言うことか」  大変だなと労ったユーリーは、あと少しの辛抱だとイヨを励ました。 「やり直しが終われば、統合司令本部の仕事もぐっと少なくなる。特にイヨさんの立場は、今日までとは違ったものになるからな……まあ、そっちはそっちで大変だとは思うが」  ただの庶民が、次期皇帝の姉へと立場が変わるのだ。大変なのかどうかも分からない、それは大きな変化に違いない。 「言わないで……それって、かなりのプレッシャーだから」 「まあ、今更なるようにしかならないな……」  励ますつもりが逆にプレッシャーをかけてしまった。いけないと反省しながら、ユーリーは自分の持ち場に戻ることにした。とりあえず新規の仕事は無くなったのだが、確認作業も半端でなく残っていたのだ。  気まずげに去っていくユーリーを苦笑で見送り、イヨは時間を確認した。アズガパが30分後といった時点から、すでに10分が経過していた。呼び出した以上、あまり待たせるわけにはいかないだろう。 「セラ、マリアナはどれぐらいで来られそう?」  時間を気にしたイヨに、セラは10分後と言う簡潔な答えを返した。予想した通り、指定の時間より早く到着してくれるようだ。 「まあ、無理もないといえば無理もないか……」  本人はいざしらず、統合司令本部の呼び出しにあの親なら喜ぶことだろう。失礼のないようにと早く送り出すのは、予想したことだったのだ。 「さて、ミツルギ家には引導を渡すことになるのだけど……あの子は、どう言う決断をするのかしら?」  まともに答えを聞けば、なんと答えるのかは想像がつく。だが弟のことを考えると、短慮は厳禁だったのだ。だからこそ、イヨはすべてを話すつもりになっていた。そしてミツルギ家のたどる運命とマリアナの運命、そこには選択肢があるのだと教えるつもりだった。 「今更新しい仕事は始められないわね……」  やらなければいけないことは沢山あるが、どれひとつとして簡単なものは残っていなかった。今からだと、準備を始めた所で時間切れになってしまうだろう。仕方がないと溜息をひとつ吐いて、イヨはユーリーが持ってきてくれた紅茶を口に含んだ。冷めたせいなのか、口の中に渋味が広がってくれた。  美味しく無いとそれ以上飲むのをやめ、イヨはカップに残った紅茶をぼんやりと眺めた。どうして自分はこんな場所でこんなことをしているのか。ぼんやりと考えていたら、その理由がわからなくなってしまった。そうしてぼんやりとしていたら、セラが遠慮がちに声をかけてきた。 「イヨ様、マリアナ嬢が3階のA応接に通されましたが」  指定の時間より早いのだから、来たからと言ってすぐに応対する必要はない。それに出てきた方にしても、時刻丁度にイヨが来ると思っているはずが。だから急ぐことはないと、セラは進言してきた。 「確かに、それはそうなんだけどね……訳もわからず、ジリジリと待たされるのも嫌でしょう」  だからだと行ってイヨは立ち上がった。そして周りの注目する中、統合司令本部を出て行った。  もっとも上層階にある本部から最下層のフロアまで、ゆっくり行けば5分ほど時間がかかってしまう。結果的に指定時刻の5分前に応接についたイヨは、一つ深呼吸をしてからドアをノックした。そして中からの答えを待たずに、ドアを開いて中に入っていった。 「突然呼び出して悪かったわね」  イヨにしてはにこやかな顔を作り、緊張した面持ちのマリアナに声を掛けた。直立不動の姿勢をしたマリアナは、そのままの格好で「そんなことはありません」と教科書通りの答えを返した。 「そんなに緊張しなくていいわよ。とりあえず座ってくれるかしら」  統合司令本部でも、イヨには特別な役職は割り当てられていない。立場としてはアセイリアの補佐だが、それも明文化されたものではなかった。その意味で、本来一等男爵家令嬢であるマリアナの方が立場が上のはずだった。それでもマリアナは、上級生を相手にする以上に緊張してイヨと向かい合った。 「飲み物も出ていないようね。今から持ってこさせるけど、何か希望はあるかしら?」 「い、いえ、これと言って……」  今の状態では、何を飲んでも味など分からないだろう。そして、何かを飲もうと思える精神状態でも無いはずだ。仕方がないと事情を理解したイヨは、勝手に飲み物を注文することにした。 「とりあえずミネラルウォーターを持ってきてもらうわ。落ち着いたら、別のものを持って来させましょう」  そう説明したイヨは、インターホンでミネラルウォーターを二人分持って来る様に手配した。 「さて、今日は統合司令本部の者としてお話をさせて貰うわね」 「統合司令本部の方として……ですか」  オウム返しにしたマリアナに、その通りとイヨは認めた。応接付きの職員が水を持ってきたのはそのタイミングだった。失礼しますと入ってきた女性に給仕を任せ、イヨはじっとマリアナを観察した。自分より体がずっと大きいはずなのに、それを感じないのは気持ちのせいなのだろう。 (まあ、ゴロンダ少佐達もでかいし……)  そんなところだと考えていたら、職員達は頭を下げて出て行った。 「とりあえず水をコップに1杯、ゆっくりと飲み干しなさい」  そうすれば、もう少し落ち着くことができるだろう。その意味を込めて、イヨはマリアナに指示を出した。逆らうことでも無いし、逆らう気力もないマリアナは、言われたとおりにコップの水をゆっくりと飲み干した。それを確認したイヨは、いきなり本題にとりかかった。 「明日には、ヨシちゃんはアズライト様、アリアシア様、アンハイドライト様と一緒にASIA1に到着するわ。そして明後日のセンテニアルに出席することになっている。そしてジェノダイト様の挨拶で、帝国や地球にとって重大な発表を行う手はずになっているの」 「今更私にそれを教えて、何の意味があるのでしょうか?」  ヨシヒコが生きていることは、すでにセラムに教えられて知っている。セラムからは、アズライトとの関係も教えられていた。アズライトと一緒に来ると言うのは、一庶民だと考えれば驚愕の事実だが、事情を知れば不思議な話ではないはずだった。それを考えれば、わざわざ呼び出して教えることではないと思っていた。  そんなマリアナの疑問に、大きな意味があるとイヨは答えた。 「あなたがヨシちゃんのことをセラムさんに聞いたことぐらい知っているわ。これからするのは、セラムさんも知らないことよ」 「セラムも知らないこと……ですか」  それはと顔を上げたマリアナに、イヨはいきなり変化球をぶつけた。 「マリアナさん、あなたヨシちゃんのことを女として愛してるわね?」 「……否定はしませんが、今更それを持ちだして意味があるのですか?」  赤くなるなり狼狽えることを期待したのだが、マリアナからは期待した反応は返ってこなかった。それに落胆したイヨは、「そうね」とだけ答えて話を続けた。 「一応去年からの話をおさらいしておくわ。その辺りの話でも、セラムさんが知らないことが沢山あると思うから」 「去年の……話ですか?」  なぜと言う顔をしたマリアナに、大切な話だからとイヨは繰り返した。 「あなた、ヨシちゃんを取り込むためにセラムさんをあてがったでしょう。センテニアルの前にヨシちゃんに確認したんだけど、消極的ではあるけどヨシちゃんはセラムさんと結婚してあなたのスタッフなるつもりでいたわ。私としては反対だったんだけど、ヨシちゃんの希望を優先することにした。もしも地球に来たお客様がアズライト様でなければ、違うか、さっさとセラムさんとVXをしていれば、今頃ヨシちゃんはセラムさんと一緒に居たでしょうね」 「……どう言うことでしょうか?」  意味が分からないと言う顔をしたマリアナに、イヨはもう一人のキーパーソンの名を出した。 「あなたも、帝国第35大学の学生、セラフィムさんの名前ぐらい聞いたことがあるでしょう? そう、ミツルギ家を裏切ったと理由にされた子よ」 「その名前は、セラムから聞かされましたが……」  どうしてその名前が今出てくるのだ。はっきりと疑問を表したマリアナに、これが重要だとイヨは身を乗り出した。 「あなた、セラフィムさんの顔を見たことがある?」 「いえ、とてもきれいな人だと言うぐらいしか……セラムも、遠くから見かけただけでした」  その答えに頷き、イヨはセラと自分のアバターを呼び出した。 「マリアナさんに、セラフィムさんの写真を見せてあげて」  その指示に従い、セラはマリアナのアバターにセラフィムの写真を転送した。 「確かにとてもきれいな人ですが……どう言う関係があるのですか?」  やはり分からないと言うマリアナに、良く見てみろとイヨは命じた。 「意味が分からないのですが……」  そんな反応を見せるマリアナに、呼び出したのは正解だったとイヨは考えた。昨日の出来事が、それだけ彼女の心を打ちのめしていたのだ。あれだけアズライトと一緒に居たことを考えれば、マリアナだけは気づいてもおかしくないはずなのだ。 「じゃあ、意味が分かるようにしてあげる。セラ、もう一枚写真を重ねなさい」  イヨの命令に従い、セラはセラフィムの写真の横にマリアナもよく知る人の写真を重ねた。 「どう、これで理解できた?」 「こ、これは……」  いくら動きの鈍った頭でも、ここまでされれば理解することができる。アズライトとセラムの顔を見比べたマリアナは、驚愕に顔を引き攣らせた。 「これで、ヨシちゃんが何時アズライト様と出会ったのか理解できたでしょう? さっさとセラムさんとVXをしていればと言う意味。理解してもらえたかしら?」 「で、でも、どうしてアズライト様が……」  どうして二人が出会ったのか。ようやくその答えを得ることは出来た。それでも分からないのは、なぜアズライトがそんな場所に行ったのかということだった。 「どうしてって……あなた、ジェノダイト様からアズライト様の行動を聞かされていたはずでしょ?」 「た、確かに……アズライト様は、混乱を好まれると」  そう答えたマリアナだったが、それでも分からないと頭を振った。 「それが出会いだとしたら、どうしてアズライト様がヨシヒコに恋をしたのですか?」  第二皇女と一般庶民。まともに考えれば、恋が芽生えるはずのない組み合わせなのだ。それほどまでに、皇女と言うのは庶民とは違う高みに居る存在だった。 「どうしてって……それはかなり愚問だと思うわよ。事実アズライト様は、ヨシちゃんと恋に落ちた。その結果どうなったのか、あなたは見ているわよね?」  イヨの指摘に、失意の縁に居たアズライトのことを思い出した。恋をした理由は分からないが、その時のアズライトの気持ちは理解することが出来た。 「だ、だが、あの時アズライト様は深く傷つかれていた……よ、ヨシヒコは、なぜそんな真似をしたのだ!」  本当に恋に落ちたのなら、アズライトを傷つけていいはずがない。それがおかしいと声を上げたマリアナに、イヨは小さく頷いた。 「ヨシちゃんも、身の程を知っていたということよ。皇女殿下とただの庶民が結ばれる……物語でもなければ、そんな話はあり得ないでしょう? そしてこれは、ジェノダイト様とあなたの責任でもあるのだけど……」  そこで話を切って、イヨは水分を補給した。 「あなた達が、ヨシちゃんを巻き込んだのよ。あなたは参謀として、アズライト様対策に引っ張りこんだわ。そしてジェノダイト様は、一日の行動を見て利用できると考えた。別々の人が、同じ目的でヨシちゃんを利用しようとした。そしてヨシちゃんは、あなた達が考えたよりもずっと優秀だった」 「ヨシヒコが優秀なことはよく知っています……」  謎が解明されつつあるお陰か、マリアナから落ち込んだ様子は消えていた。衝撃の事実の前に、落ち込んでいられないと言うのもあるのだろう。 「そう、とてもヨシちゃんは優秀だったの。ジェノダイト様からセンテニアルを成功に導くことを期待されたヨシちゃんは、阻害要因がアズライト様、そしてザイゲル連邦にあることを分析した。でも、ヨシちゃんでも両方を同時に対処出来ない。だからヨシちゃんは、アズライト様をコントロールすることを考えた。それが、自分への気持ちを利用して、アズライト様を縛ることだったの。そのために、ヨシちゃんはアズライト様に自分を殺させた。まあ、トリックを使ったから、実際には殺されていないんだけどね」  これで、アズライトが深く悲しんでいた理由の説明が付けられたことになる。それを聞かされた時、マリアナの中に生まれたのは純粋な怒りだった。どんな理由があったにせよ、愛する人をそこまで傷つけていいはずがない。失意のアズライトを知っているだけに、さすがのマリアナも我慢できなかった。 「よ、ヨシヒコはそんな真似をしたのですか……」  ぎりっと奥歯を鳴らしたマリアナに、「冷静になるように」とイヨはなだめた。 「ええ、母さんも馬鹿な真似をしたと怒っていたわ。でも、ヨシちゃんはヨシちゃんなりに苦しんだ結果なのよ。だって好きになったのは、絶対に結ばれることのない相手でしょ。殺されることで、心に残りたいと思ったんだと思うわよ」  弟の気持ちを推測したイヨは、それが第一段階と指を一本建てた。 「予定通りアズライト様を封じたヨシちゃんは、これでザイゲル対策に専念できることになった。ただ自分は死んだことになっているので、別の誰かになる必要があった」 「それが、アセイリア様と言うことですか……」  先に答えを口にしたマリアナに、その通りとイヨは頷いた。 「セラムさんに教えて貰ったか。まあ、当たり前といえば当たり前か」  そう言って小さく笑い、イヨは説明を続けた。 「そこからアセイリア、つまりヨシちゃんが何をしたのかはあなたも知っているわね。あなたを活用したのは、ヨシちゃんがあなたのことを信用していたからってことね。それでも、センテニアルは被害が起きるのを防ぎきることは出来なかった。ただあなた達の活躍もあって、最小限に抑えられたとは思うけどね」  これが第二段階と、イヨは指を二本立てた。 「ここまでが、センテニアルに関わる部分ね。あっと記憶操作の説明を忘れていたわ。ヨシちゃんの存在は、皇帝聖下対策のため抹消された。だからあなた達の記憶からも消去されたの。それが、あなた達がヨシちゃんのことを覚えていなかった理由よ。あなた達の記憶の復活は、ヨシちゃんがリルケから帰ってきた時に行われた」 「ヨシヒコはリルケに行っていたのか!」  ここまで来ると、セラムも知らないことばかりだった。情報源がセラムしか無いこともあり、すべてがマリアナにとって初めて聞く話だった。 「グリゴンで友好条約をまとめたのはヨシちゃんなの。そしてアズライト様に連れられる形で、ヨシちゃんはリルケに行ったわ。そこでヨシちゃんは、聖下に一服盛られることになった。2千年ほど前に他の星系で使われた、ウィルス兵器が使用されたの。そのせいで、ヨシちゃんは一度死ぬことになった」  その説明で、今年の初めに起きたことが理解できた。それでも分からないのは、なぜ皇帝聖下がヨシヒコを殺さなければならなかったかと言うことだった。 「しかし、なぜ聖下が手を下されたのだ? まさか、センテニアルでしたことへの懲罰なのか?」  そう考えれば、ヨシヒコに死が与えられた理由も理解できる。そう言うことかと一人納得したマリアナに、それは早合点とイヨは注意した。 「今の聖下は、後継者としてアズライト様を考えていた。でもアズライト様を次の皇帝にするには、ヨシちゃんの存在が邪魔だったのよ。グリゴンとの和平を決めた後、二人は結ばれたわ。相思相愛、アズライト様はヨシちゃんを夫にするつもりだった」  失意のアズライトを知っていれば、その愛の深さも理解することができる。そんな二人が結ばれたと言うのだから、アズライトの考えも理解することが出来た。 「だったら、聖下は庶民を夫とすることを認めなかった……今更言うまでもないことか」  自分の親を見ていれば、ただの庶民に対する考え方も理解できる。三等男爵家の婿ですら庶民を迎えられないと言うのだ。ましてや皇女の婿に、ただの庶民を迎えられるはずがない。 「まあ、普通はそう考えるわね。その意味で、あなたの感覚は私達家族と同じと言ってもいいわ。でも、ジェノダイト様を含め、あの人達は身分なんかに拘っていない。拘っているのは、相手の持っている資質や能力なの。だから明後日発表する話にも繋がってくるんだけどね」 「どう言うことなのだ……です?」  訝ったマリアナを前に、イヨは間を置くように水を一口含んだ。 「ヨシちゃんが抹殺されたのは、優秀すぎたからなの。結構有名な話なのだけど、次の皇帝はアズライト様がなるとされていたわ。ねえマリアナさん、皇帝に求められるものって何か分かる?」  いきなり皇帝の資質と問われても、それが何か分かるはずがない。少し考えた所で、マリアナは白旗を上げた。 「さすがに分からないのだが……」 「まあ、普通はそうよね。ジェノダイト様が仰るには、全てを自分の考えで判断し責任を取ることらしいわ。どんな提言を聞いてもいいけど、最終的には自分の判断で決断を下す義務があるのよ。でもヨシちゃんとアズライト様では、その関係が崩れることになる。それが、ヨシちゃんが殺されることになった理由よ。皇帝を超える立場を作ってはいけない。帝国の根幹に関わると判断されたからなの」  思いっきり説明を端折っているし、肝心な部分も説明されていなかった。それでもマリアナは、イヨの言っていることが理解できる気がした。それは、センテニアル前の二人を知っていると言う理由もあった。明らかにアズライトは、ヨシヒコに対して依存していた。 「だとしたら、なぜヨシヒコが生きているのだ? 聖下が手を下されたとしたら、生きているはずがないと思うのだが?」  話が核心に向かうにつれ、マリアナは普段の調子を取り戻していた。己の器を超えた大きな世界に触れたことで、家のことを忘れていたからとも言えるだろう。拒絶していたイヨが、重要なことを教えてくれたと言うのも理由だろう。 「そう、本当にヨシちゃんは一度息を引き取ったわ。ウィルスに体を侵され、脳だけが生きている状態になったの。なんとか機械で命を繋いでいたんだけど、それも限界に達してしまった。お葬式を出して、ヨシちゃんの体が荼毘に付されたのも確かよ。でも、死体からは脳だけが抜き取られていた……アセイリアの提案で、母さんの連れてきた帝国第3大学学生シルフィールの手によって脳を摘出し保管したの。ただ、半分自己満足のようなものだったとアセイリアも言っていたわね」  そしてと、イヨは一度言葉を切った。 「アズライト様が持っていたヨシちゃんの肉体情報とアンハイドライト様の持っていたラルクを使って、ヨシちゃんの体が再構成されることになった。それが4月末のことよ。実は、ヨシちゃんが復活してから1ヶ月も経っていないの。そしてヨシちゃんは、聖下と対決するため再度リルケに向かった。そして和解を済ませ、アズライト様と一緒に帰ってくることになったのよ」  わざわざ自分を呼び出した以上、教えられた話は全て本当のことに違いない。眉に唾を付けたくなる部分もありはしたが、必要な部分だけピックアップしたと考えればおかしなことではないだろう。 「つまり、ヨシヒコは次の皇帝となられるアズライト様の夫となると言うことですか?」  もともと駄目だと思っていた自分の恋が、本当に駄目だったと教えられたと言うことだ。それなのに、マリアナはさほど落胆していなかった。負けた相手のことを考えれば、仕方がないと諦めることができるのだ。それどころか、幼なじみが皇帝の夫となると言うのだ。小さな頃から一緒だったと考えれば、誇らしささえ感じていた。 「アズライト様ならセラムも諦めが付くだろう。さすがはヨシヒコと私も胸を張ることができる」 「そうね、競争する気持ちも起きない相手だものね。ただ、あなた達には厳しい話もあるの。正確に言うのなら、ミツルギ家にとってでしょうね」  アズライトとの関係を聞いた時から、マリアナには覚悟に似たものはできていた。ヨシヒコの立場は、もはやただの一般庶民ではなかったのだ。次期皇帝となるアズライトの夫ともなれば、たかが一等男爵の逆らえる相手ではない。振り上げた拳は、何倍にもなって自分に返ってくることになる。 「そうだな、私はこの事を父様に伝えなければいけないな。爵位返上程度で足りなければ、一族の命で贖うことになるのだろう」  これまでヨシヒコにしてきたこと、そして今年の初めの仕打ちを考えれば、男爵ともなれば結果責任を負うことになる。分かっていると自分の立場を口にしたマリアナに、イヨは小さく頷いた。 「ミツルギ家がどうするのか、私はそれを言う立場には無いわ。ただ、あなたにはまだ教えてないことがあるの。どうすべきかは、それを聞いてから考えてもらえるかしら?」 「まだ、この上話があると言うのか……」  緊張に表情を固くしたマリアナに、イヨはもう一度頷いた。 「実際の所、話はもう少し複雑になっているのよ。ヨシちゃんがアズライト様と結婚すると言うのは変わっていないわ。ただ、その時の立場が、当初考えていたのとは違ってきたの」 「立場が? まさか、アズライト様が皇籍から離れられるとでも!」  変化があるとすれば、アズライトの立場以外にあり得ない。驚きの声を上げたマリアナに、イヨは小さく首を振った。 「二人の間では、そう言う話もあったみたいね。ヨシちゃんがジェノダイト様の養子になって、アズライト様がそこに嫁いでくる……その話は、ヨシちゃんが否定したんだけど」  もう一度水を飲もうとした所で、イヨはコップが空になっているのに気がついた。 「どうやら、私も緊張しているようね。何しろ、未だ現実感が伴ってくれないのよ……」  そう言い訳をしたイヨは、表情を固くして話を続けた。 「さっき聖下と対決を済ませたと教えたわね。そこで、聖下は新しい決定をなされたの。アズライト様が次期皇帝となる決定を白紙に戻し、次期皇帝の皇妃とすることにされた」 「アズライト様が皇帝にならずに、皇妃となられる?」  そう言われても、すぐにその意味を理解することは出来ない。小さく首を傾げたマリアナは、イヨの言葉の意味を考えた。 「アズライト様とヨシヒコは結婚するのは変わらないのだな……それでアズライト様が皇妃と言うのは……」  そこまで頭で整理すれば、答えなど自動的に導き出される。だが導き出された答えは、あまりにも荒唐無稽なものだった。よりにもよって、辺境惑星の一庶民が次の皇帝になると言うのだ。まともな精神をしていれば、冗談だと笑い飛ばすところだろう。  だがイヨが小さく頷いたことで、それが冗談でもなんでもないことを知ってしまった。 「よ、ヨシヒコが次の皇帝になると言うのか……」 「現実感が伴わないと言う意味、分かってもらえたかしら? これで、辺境惑星の一庶民だったマツモト家は、見事皇室に加わったと言うことよ。そんなもの、はいそうですかって受け入れられる話じゃないわ」  イヨの言うことは理解できるが、話はそんなに単純なものではない。ヨシヒコのことに関係なく、マツモト家はミツルギ家の生殺与奪の権利を持ってしまったのだ。これまでの両家のトラブルを考えれば、穏便な処置はあり得ないことになる。 「それからもう一つ。ヨシちゃんが皇帝になることに比べれば、こっちの方は話としては小さいわね。まあ、あなた達にとっては結構重要な話かもしれないけど……アズライト様は、ヨシちゃんの子供を身篭られたわ。今は人口子宮に入れられていて、誕生予定は3ヶ月後らしいわね。男の子と女の子の双子だそうよ。これが、あなた達が知らなかった、そして知りたいはずのこれまでの顛末よ。ミツルギ家は、この話を聞いてどうするのか、自分で考えて行動する義務があるものと考えてちょうだい」  男爵家と一庶民だと考えれば、尊敬はされなくとも糾弾されるようなことはしていなかった。だが立場が入れ替われば、それは不敬と断罪されることをしてきたことになる。責任の取り方は分かっているな。イヨの言葉を、マリアナはそう受け取った。 「……ミツルギ家の当主は父様だ。ミツルギ家をどうするのかは、父様が決めることだ。私は、今の話を父様に伝えることしか出来ないだろう」  マリアナの顔から血の気が引いているのは、事の重大性を理解したからに他ならない。昨日までのイヨならば、恐らくここでマリアナを放り出していただろう。父親に諭されなければ、とどめを刺していた可能性も有ったぐらいだ。  だが帰った所で説教されたこともあり、イヨは考えを少しだけ変えていた。「弟のことを考えろ」と言われた以上、誰もが満足できる結果を考えなくてはいけなかったのだ。 「念を押しておくけど、この事を知っているのは本当に一握りの人達だけよ。具体的に言うのなら、総領主府の重鎮と統合司令本部の中心スタッフね。もちろん、マグダネル大将達もヨシちゃんが皇帝になることは知らないわ。ジェノダイト様が、意図的に情報の拡散を抑えられたのよ。極端な話、ヨシちゃんがリルケに行ったことを知っている人はほんの一握りよ。あたりまえだけど、アズライト様とのことを知っている人も殆ど居ないわ」 「それが、今更なんの意味があると言うのだ……いえ、今更意味が無いと思います」  相手が次期皇帝の姉と思い出し、マリアナは自分の言葉遣いを改めた。本当ならば、一等男爵家程度が話をできる相手ではないと思いだしたのである。 「別に、言葉遣いを改めなくてもいいわよ。ただ、私が今言った意味をよく考えることね。それから、あなたにはミツルギ家とは別の義務があることを忘れないように。学生チームのリーダーとして、恥ずかしくない試合をするように。たぶん、ヨシちゃんがお節介を焼くことでしょうね……その意味をよく理解しておくことよ」 「……私などが御前試合に出ても良いのでしょうか?」  ミツルギ家の置かれた立場を考えれば、晴れやかな舞台に上がれるはずがないと思ったのだ。黙っていても外されるのだろうが、誇りのためには辞退すべきだとマリアナは考えていた。 「あなたは、実力で代表の地位を掴んだのでしょう? だったら、胸を張ってヨシちゃんに今の姿を見てもらえばいいのよ。勘違いしているようだからお節介を焼くけど、私達がミツルギ家を潰すつもりなら10年以上前にやっていたわよ。今度のことにしてもそう、潰すつもりならヨシちゃんに関係なくやってたわ。あなたの親には色々と言いたいことはあるけど、あなたやセラムさんに対しては隔意はないのよ。むしろセラムさんには、悪いことをしたと思っているぐらい……だから、私が教えた意味。それをちゃんと考えておくことね。繰り返すけど、御前試合で無様な所を見せないように!」  いいかしらと確認したイヨに、マリアナは意思を込めて頷いた。ミツルギ家に関係なく、ヨシヒコの前で無様な所を見せるわけにはいかないのだ。だとしたら、気持ちを切り替えて全力をつくすことだけを考えればいい。 「ところで、今の話は家族にしていいのか?」 「そのつもりで教えたわ。ただ、話す相手は選んでちょうだい。この話が正式に発表されるのは、明後日の開会式の時なの。その時までは、絶対に広めないように……ああ、この話を信用しないのもあなた達の勝手よ。その代わり、それなりの覚悟が必要となるけどね」  そこまで話をして、イヨは「お疲れ様」とマリアナを解放した。話すことを話した以上、ここから先はミツルギ家の問題となる。それに今日の予定を考えれば、マリアナを早めに返しておく必要があった。 「明後日の御前試合、学生さんの活躍を期待しているわ」  そう言って送り出そうとした所で、イヨは「そうそう」と言って手を叩いた。 「もしもあなた達が勝てたら、晩餐会に招待してあげてもいいわよ。まあ、勝てなくても招待してあげてもいいんだけど。ご褒美があった方がやる気が出るでしょ?」 「勝てば……いいのですね」  確認したマリアナに、イヨは大きく頷いた。 「誰にも反対はさせないわ。統合司令本部は、今はマツモト家が仕切っているのよ」  任せなさい。そう保証をして、イヨはマリアナを送り出した。これで父親に命じられた仕事はすべて完遂したことになる。ここから先は、自分の出番ではないと割り切ることにした。  来る時よりは遥かにましになったマリアナを見送ったイヨは、残っていた水をボトルから飲み干した。そこでほっと息を吐きだし、珍しく迫力の有った父親のことを思い出した。 「……実は、母さんが惚れたのはああ言うところなのかしら?」  ちょっと素敵だ。ファザコンがかったことを、イヨは考えていたのだった。 Last Chapter  ランペルーシ回廊を通過した所で、地球まではあと1日と言うところになる。場所からいくと、アステロイドベルトの少し外側、8ヶ月ほど前に地球とグリゴンが軍事衝突した場所の近くになる。 「ようやく、ここまで帰ってきたか……」  意外なことだが、ヨシヒコはこの航路を通った記憶はない。前回も同じルートを通っていたのだが、その時にはルートを気にすることもできなかった。 「前回は、死にかけていたのだな……」  その話も、わずか6ヶ月前のことなのだ。途中4ヶ月の欠落期間があるせいか、つい最近のことに思えてしまった。 「ここからは、およそ1日の行程となるのか?」  こっそりと横に立ったアズライトを見たヨシヒコは、これからの時間のことを尋ねた。 「そうですね、急げば半分ぐらいには短縮できるのですが……」 「止めておいた方がいいと言うことか?」  苦笑したヨシヒコに、アズライトは小さく頷いた。 「ジェノダイトのおじ様が、出迎えの準備をしてくださっています。早く着くと、準備が間に合わないのではありませんか? 嫌がらせにはいいですけど、ヨシヒコはそう言うことをしないのですよね?」  何かにつけてあてこすられた記憶があるので、アズライトはヨシヒコに仕返しをしていた。そんなアズライトを可愛いと感じながら、それも面白いかと迷惑なことをヨシヒコは考えた。 「カニエに代理をさせれば済む話だが……まあ、アルタイル号で移動しているのはバレているからな。何をやっても、裏を掻くことにはならないだろう。ここまで来たら、大人しく一日待つことにするか」  大人しくと答えたヨシヒコに、ひょっとしてとアズライトは思い当たる節があった。 「もしかしてヨシヒコ、あなたはホームシックと言う物に掛かっていませんか?」 「ホームシック……ね。この俺様がと言いたいところだが、それに近いものがあるのは認めよう。グリゴンが特別とは言ったが、それ以上に俺にとっては地球は特別な場所と言うことだ」  そう答えて何もない空を見るヨシヒコを、綺麗だなとアズライトは感心していた。今は男の格好をしているのだが、それでもヨシヒコは可愛らしい女の子に見えるのだ。特に地球を思って目を輝かせているところなど、抱きしめたくなるほど可愛らしかった。  だからアズライトは、素直に己の欲望に従うことにした。 「な、どうした、いきなり」  もっともヨシヒコに、そんなアズライトの感情が分かるはずがない。突然抱きつかれ、ただ驚くだけだった。もちろん愛する妻のことだから、振り払うような無粋な真似はしなかった。 「もう、どうしてこんなに可愛らしいのかしら。いっその事、女の子にしたいぐらいよ」 「とてもではないが、褒められている気がしないのだがな」  よりにもよって、可愛らしいし女の子にしたいだ。さすがにむっとしたヨシヒコに、事実だから仕方がないとアズライトは言い返した。 「お姉様もシオリも、ヨシヒコの可愛らしいところが好きになったのよ。だから、あなたは自分が可愛いことを認めなさい!」 「男も18になったら、可愛らしいと言うのは褒め言葉にならないのだがな」  そう文句を言い返したが、無駄と言うのは自分でも理解していたことだった。何しろ鏡で自分を見るたびに、可愛らしい女の子の顔を見ていたのだ。そのお陰で、諦めの境地に達していたのである。 「まあ、自分でもそう言われる理由ぐらいは分かっている……ああ、分かっているさ」  少し投げやりな言葉を返したヨシヒコは、小さな声で「帰ってきたのだな」と呟いた。 「そうですね、あなたは故郷に帰ってきました。そしてただ帰ってきたのではなく、とても大きなものを手に入れて帰ってきたのですよ」 「大きなもの……か」  ふっと息を吐きだし、ヨシヒコは隣に立つ女性を見た。わずか半年前には、一人残していく絶望を感じていたのだ。愛する人、そしてまだ見ぬ我が子を残し、ゆっくりと体が朽ちていくのを感じていたのである。その悲しみは、ヨシヒコの魂に深く刻み込まれていた。 「ヨシヒコ!?」  だからヨシヒコは、隣に立つアズライトの手をそっと握った。地球を旅立つ時には、不安ばかりが先に立っていた。だが今は、未来への期待に満ち溢れている。そしてその未来を、一緒に歩く愛する人が居てくれる。 「悪いな、しばらくこうしていたいのだ」  照れからか、ヨシヒコは少し顔を赤くしていた。それが可愛らしくて、アズライトは繋がれた手を握り返した。 「私も、こうしたいと思っていました……」  同じように顔を赤くして、アズライトもまた小さな光しか無い窓の外へと視線を向けた。吸い込まれそうな黒い闇も、繋いだ手の暖かさの前には恐怖ではない。イーリ・デポスを得た今、宇宙は自分を祝福するために広がっているのだと。  ヨシヒコとアズライトがキグナス号のデッキで良い雰囲気を作っている頃、後宮に入る二人は入るに入れない状況に焦れていた。自分達を忘れるなと主張したいのだが、とても入っていける空気ではなかったのだ。寵愛を受け後宮に入るのだから、同じ場所に立つ権利を持っているのは確かだろう。だが二人の醸し出す空気は、割り込むのを憚られるものになっていた。 「やはり、アズライトが羨ましいですね……」  少し悔しそうにしたアリアシアに、シオリは小さく頷いた。 「でも、男と女に見ないのはどうしてでしょうね」 「麗しい同性のお友達って感じですか? そう言われれば、そう言う感じもしますね」  背丈はとても似ているし、体型的にもさほど差がないというのが正直なところだ。さすがに胸は出ていないが、腰のくびれ方はヨシヒコ方が細いのではと思えてしまう。さすがはアセイリアとして、世の男性を魅了しただけのことはある。 「なにか、そう考えたら入っていけそうな気がしてきましたね」 「でも、遠慮した方がいいのかなと言う気もしますが……」  アリアシアはいざ知らず、自分の立場は限りなく弱いと思っていた。アズライトかアリアシア、どちらかに睨まれたらそれで終わりだと思っていたぐらいだ。だから二人の顔色を見ていたシオリだったが、それに気づいたアリアシアに注意をされてしまった。 「アズライトはいざ知らず、私とあなたは同格になったのですよ。そしてアズライトも、ヨシヒコ様の前では、私達と同じ立場なのです。年上として尊敬していただく……」  年齢のことを持ちだそうとしたアリアシアだったが、本当にそうかと首を傾げた。 「シオリさん、あなたは今お幾つでしたか?」 「今年で21になりますが?」  それがと首を傾げたシオリに、アリアシアは「ああ」と天を仰いだ。 「私は、今年で19になります。つまり、シオリさんが一番の年長ということになるんですよ。シオリさん、実はお兄様より年上だったのですね」  そう言われると、急に自分が老けたような気がしてしまう。なにか嫌だなと、シオリは顔をしかめた。そして何が一番嫌かと言うと、アリアシアの方が圧倒的にスタイルがいいことだった。 「これからは、シオリお姉様と呼ばせていただきますね」 「年齢的には間違っていないのでしょうけど……」  それなのに、どうしようもなく嫌な気分になるのはどうしてだろう。遠くを見るような目をしたシオリを、アリアシアは追い打ちをかけてくれた。 「子供は若い時の方が良いといいますよ。アズライトに先を越されましたから、お姉様も早く身籠られた方が宜しいのではありませんか? やはりこう言ったことは、順番を守らないといけないと思いますから」 「はあ、子供ですか……」  ほんの1ヶ月ほど前は、相手が居ないと嘆いていたのだ。それを思うと、子供を作れと言われるのは隔世の感があることだ。そしてヨシヒコの立場を考えれば、確かに子供は沢山必要なのだろう。だが自分の子供が皇位継承権を持つと言われると、本当にそれでいいのかと思えてしまう。 「そうです。子供ですよ。前にも言いましたけど、ヨシヒコ様には沢山を子をもうけて貰う必要があります。姉様にも、最低3人は産んでいただきたいと思っていますよ」 「最低3人……ですか」  子供ねえと考えながら、シオリはそっと自分のお腹を触った。子供を授けられれば、この中に我が子を守ることになる。そんな日が本当に来るのか、未だに実感をもてないでいた。 「そうです、ヨシヒコ様の御子ですよ。シオリ様には、その義務があるのを忘れないで下さいね」  そう言うことですと自己完結したアリアシアは、自分のアバターに昼食の用意を確認した。 「どうやら、そろそろ昼食の用意が出来そうですね。テラノに到着する前、最後の昼食です。全員揃って、楽しく食べませんか?」 「アンハイドライト様も……ですか?」  そこで確認したのは、アンハイドライトに気があると言うことではない。皇太子・皇女揃った中と言うのは、未だに気後れしてしまうのだ。 「そうですけど、なにか?」 「いえ、気が落ち着かないな……と」  シオリの答えに、なるほどとアリアシアは大きく頷いた。 「そう言うことでしたら、一日でも早く慣れないといけませんね。それから姉様、姉様が一番の年上なんですからね。私達全員に指示をだすぐらいでないといけませんよ。それが、年長者としての務めと言うものです」 「そ、そんな恐ろしい真似ができるはず無いじゃありませんか!」  思わず出してしまった大声に、シオリは慌てて口を抑えた。ただそれは、はっきり言って手遅れでしか無い。何事かと振り返ったヨシヒコ達が、しっかりとシオリとアリアシアを見つけてくれたのだ。 「なんだ、そんな所で覗いていないでこっちへ来い」  高圧的な口調なのだが、それを口にしているのは可愛らしい女の子……もとい、男の子なのだ。そしてこの場において、一番立場の強い男性でもある。夫に呼ばれた以上、大人しく従うのが妻の務めでもあった。 「アリアシア様のせいで、バレてしまったではありませんか」  小声で文句を言ったシオリに、「大声を出したのは姉様ですよ」とアリアシアはやり返した。 「何をもたもたしている。さっさとこっちに来い!」  小声でやりあっている二人に気づき、ヨシヒコは先程よりも大きな声を出した。 「さっさと来ないと、後宮の話はご破算にするぞ」  ここまで来て、そんなことを許せるはずがない。小声で言い合いをしていた二人は、顔を見合わせて小さく頷きあった。そして二人揃って、ヨシヒコの方へと駈け出した。色々と文句を言ったシオリだが、後宮に入ることに不満はない。一目惚れをした人の寵愛を受けるのだから、それ以外のことはどうでもいいと思えていたのだ。 「いえ、ヨシヒコ様を逃しはしません!」 「そうですね、責任をとっていただかないと!」  それぞれの気持ちを表すように、二人は駆け寄ってヨシヒコに抱きついた。二人を支えるにはひ弱なヨシヒコは、そのまま壁に押し付けられたしまった。 「おいおい、加減をしてくれないか」 「皇帝になられるお方が、弱音を吐くのは関心いたしません」 「でも、ヨシヒコ様は今のままがいいと思っています」  そうですよねと振られたアズライトは、同意を示すよう力強く頷いたのだった。 Episode 9 end...