星の海の物語 Episode 5 The story of the death of young man. Chapter 0  久しぶりの登校に、ヨシヒコはいつもより早起きをして朝食の用意をしていた。普通より長い正月休みを貰った姉のために、まっとうな食事を用意する必要があったのだ。なぜ休みが長いのか気になったのだが、目覚めた時に調べた範囲で、自分の知らないうちに大きな功績を上げたようだ。まあ、体を壊した弟のためと考えた方が、精神衛生上も宜しいのだろう。 「おい、朝食の用意ができたぞ!」  大声を出して姉を呼んだヨシヒコは、ポットのお湯を急須へと注ぎ込んだ。そして十分に蒸らしてから、二人の湯呑へと注ぎ分けた。こうして姉の世話をするのも、4か月ぶりのことだ。しかも自分には、3カ月を超える空白の期間もあったのだ。  声を掛けてしばらくしてから、姉が自分の部屋から現れた。家にいる安心感からなのか、イヨの姿はしっかり緩みきっていた。 「ああっ、ありがと」 「いつも以上に、緩みきっているな」  髪の毛を無秩序に逆立てて現れた姉に、ヨシヒコは久しぶりの嫌味を口にした。この辺りは、いつもの言葉のキャッチボールのうちだった。 「仕方ないでしょう。宇宙に上がっている間、ずっと緊張を続けていたんだから。家に帰ってきた時ぐらい、だらけさせて欲しいわよ。まあ、退院したばかりのヨシちゃんには悪いとは思ってるけどぉ。どう、多少は良くなったの?」  甘えてはいるが、やはり弟のことは気になってしまう。心配そうに自分を見る姉に、ヨシヒコはまだまだと首を振った。 「まだ、雲の上に乗っているような気分だ。眩暈とは違うが、どうにも目の前が揺れているような気もする。それに、難しいことを考えようとする酷い頭痛がする」  普段弱音を吐かない弟が、はっきりと不調を口にするのだ。それだけ、よほど具合が悪いと言うことになる。 「お医者さんには、原因不明って言われたわね……でも良かった。ヨシちゃんの目が醒めなかったらどうしようかと心配したのよ」  これでピリッとしてくれていれば、心配するのにも説得力があるはずなのだが、ぼさぼさの頭で言われると、どうも真剣さに欠けてしまう。それが気になって、ヨシヒコはつい苦笑を浮かべてしまった。 「まさか俺も、目が覚めたら病院のベッドだとは思ってみなかったよ。楽しみにしていたセンテニアルも、結局見ずじまいだったな」  残念そうに言う弟に、そんないいものではなかったとイヨは答えた。 「あれは、見なくて正解だったと言うか……現場に居たら、間違いなくヨシちゃんも巻き込まれていたわよ。まあ、セラムちゃんのことは残念だと思うけど……あ、ごめん」  弟の表情がこわばったことで、イヨは自分の失敗に気が付いた。病院収容前のことがセラムにばれたせいで、ミツルギから絶縁されていた。 「そのあたりは、自業自得だから仕方がないだろうな。まあ自由になったと思って、一からやり直せばいいだけのことだ。俺には、まだ、時間があるんだからな」 「でも、セラフィムさんだっけ、その人も随分と酷い人よね? 入院したヨシちゃんを放って、さっさと帰っちゃったんでしょう? セラムちゃんと別れるきっかけを作ったんだから、ちゃんと責任をとってくれないと」  イヨの不満は、きっかけを作ったセラフィムへと向いていた。病院に運び込まれたタイミングを考えると、彼女が関係している可能性が高かったのだ。たとえ無関係だったとしても、弟を無理やりVXに連れ込んだ責任があるはずだ。ミツルギから絶縁を受けたのは、まさにそのことが理由になっていたのだから。 「あっちは、帝国第35大学の学生様だからな。どう頑張ったって、責任なんて話にはならないさ。そのことは、断りきれなかった俺にも責任があるんだよ」  姉に答えながら、ヨシヒコはエプロンを外し椅子の背に掛けた。 「早く歩ける自信がないから、俺はそろそろ学校に行くぞ」 「今日ぐらいは、タクシーを使ったら? さもなければ、私の準備ができるまで待っててくれない?」  病み上がりだと考えれば、一人で行かせることは心配で仕方がない。自分を思いやる姉の言葉に、ありがとうとヨシヒコは感謝の言葉を口にした。 「通いなれた道だからな。ゆっくり歩けば、何も問題はないさ。それに、これもリハビリの一つになるからな。留年しないためには、一日でも早く復帰しないとまずいんだよ」  自分の飲んだ湯呑を流しに置き、ヨシヒコは「行ってくる」と姉に声を掛けた。 「帰ってきたら、買い物にでも付き合ってくれるか?」 「だったら、私が学校にまで迎えに行くわよ」  過保護だとは思ったが、それが姉の優しさには違いない。だからヨシヒコは、ありがとうと言って自分の鞄を手に取った。 「じゃあ、帰り時間は連絡を入れる」 「ええ、早めに行って待ってるわ」  深刻そうな顔をする姉に、行ってくると言い残し、ヨシヒコはゆっくりとダイニングを出て行った。  普段なら、自宅から高校までは歩いて20分ほどの距離だった。だが早く歩けない、そして長く続けては歩けないヨシヒコは、3倍の1時間を掛けて学校へとたどり着いた。入院したことと3か月以上のブランクは、ヨシヒコにまともな日常生活を送らせてはくれなかった。  追い抜いて行く仲間たちは、口々に「大丈夫か」とヨシヒコに声を掛けてくれた。センテニアル前に突然姿を消した仲間が、死に掛けたのだと彼らも聞かされていたのだ。だからゆっくりと歩くヨシヒコに、彼らは心配するのと同時に、復帰したことへの安堵を感じていた。  自分を気遣う仲間に「ありがとう」と答えながら、ヨシヒコは何とかクラスへとたどり着いた。家を出てから、すでに1時間20分は経過している。病み上がりには、きつい重労働となっていた。 「おいヨシヒコ、出てきて大丈夫なのか?」  大きく息を切らして腰を下ろしたヨシヒコに、登校していたクラスメイト達が集まってきた。そしてヨシヒコの幼馴染、セイメイ・トコヨギが代表して声を掛けてきた。 「とりあえず、医者からは無理をしなければ大丈夫だろうと言う保証は貰った。まあ3カ月寝ていたから、体の方は当分ついてきてくれないがな」  ここでもありがとうとお礼を言ったヨシヒコは、大きく息を吐いてから鞄の中から荷物を取り出した。そのタイミングで鞄からピルケースが零れ落ちたのだが、ヨシヒコより先にもう一人の親友、カツヤ・クゼが拾ってくれた。 「ほい、無理をするなよ」 「ありがとう、カツヤ」  そう言って笑うヨシヒコの顔は、カツヤの記憶にある自信に満ちたものではなかった。その落差に顔を顰めた親友に、「心配はいらない」ともう一度ヨシヒコは笑って見せた。 「医者からは、かなり良くなったと言われている。まあ、こっから先は目に見えてよくなるさ」  今までなら、その言葉を額面通り受け止めることが出来ただろう。だが今のヨシヒコを見ていると、何も良くなっていないようにしか見えなかった。 「だがヨシヒコ、くれぐれも無理は厳禁だぞ。とにかくお前が死にかけたことは確かなんだからな」 「ああ、無理をしないよう気を付けるさ」  もう一度ありがとうと仲間達に声を掛け、ヨシヒコは教壇の方を見て小さく息を吐いた。とにかく再度スタートラインに立ったのだから、ここから先はもう一度歩き始めればいいのだと。 「俺達は、勝手にお前を手伝うからな。遠慮なんかしたら、ぶん殴ってやると思え」 「それは、俺のためにならないと思うのだが……とりあえず、感謝だけはしておくぞ」  ありがとうと頭を下げようとしたところで、「それはいい」とセイメイに止められてしまった。 「いちいち感謝なんかするな。お前は、俺達の掛替えのない仲間なんだからな。だからヨシヒコ、くれぐれも頑張るなよ」  そう言うことだと言い残し、仲間達は三々五々自分の席へと戻って行った。仲間の優しさに感動したヨシヒコは、戻ってこられたのだと素直に喜ぶことにした。そして頭痛のことは教えない方がいいと、平静を装うことにした。 Chapter 1  アセイリアがダブルキャストであることは、ごく一部でしか知られていないことだった。今回のテラノ代表団の15人に、グリゴン総領主ドワーブ、キグナス号船長マリーカと言うのが、秘密を知るすべての者である。そしてヨシヒコは、敢えて秘密を知る者を増やさなかった。 「なぜ、君は表に出ないのだね?」  グリゴンからリルケに向かう途中、ジェノダイトはアセイリアを呼び出しその意図を尋ねた。 「戻ってからでないと、不自然だと言うのが表向きの理由です。キャンベルさんにアセイリアになってもらいますからね。だとしたら、ヨシヒコはここに居てはいけないんです」  アセイリアとして答えたヨシヒコに、ジェノダイトは表情を険しくした。 「表向きと言うことは、真の理由があるということか?」  確かに、この代表団の中にヨシヒコの名は存在していない。それを考えれば、ここで復帰するのは不自然には違いないだろう。アセイリアをすり替えるのに、障害になると言うのも理解できることだった。理由としては、言われてみればそれで十分なはずだったのだ。  だが表向きと言われた以上、真の目的を質しておく必要があった。 「そうですね。聖下が何をされるのか。それが、まだ掴めていません。巻き込む人たちを限定するため、復帰を遅らせていると言うのが今の状況です」  アセイリアの答えは、ジェノダイトの感じた不安を裏付けとなるものだった。ううむと苦いものを飲み込んだ顔をしたジェノダイトに、アセイリアは今までに無い厳しい顔をして向かい合った。 「可能性として、私が消されることもあるかと思います。そしてその可能性は、考察を進めれば進めるほど、高くなっているのが現実です」 「君を消すっ!!」  大きな声を上げたジェノダイトに、厳しい表情でアセイリアは頷いた。 「やはり、私はやり過ぎたのかもしれません。アズライト様がグリゴン星系破壊を持ちださなければ、もう少し別の方策をとれたのですが……時期尚早と言うのが、今回の決着への私の分析です。ですから聖下は、状況を修正してくる可能性があります。そして考察の結果、私はアズライト様の伴侶として失格したのではないかと思っています。その二つの考察から、私は消されることになるのではないかと考えました」  アセイリアの答えに、ジェノダイトは「分からない」と首を振った。 「君の出した答えは、とても見事なものだと私は思っている。そのことは、ドワーブも認めているのだよ。それなのに、なぜ君が失格になるのだ? 身分のことにしても、私の養子になればクリアすることが出来る。それぐらいの便宜なら、図ってもいいと私は思っているんだよ」  もう一度分からないと言ったジェノダイトに、アセイリアは「身分の問題ではない」と答えた。 「主に、アズライト様と私の関係が理由です。ジェノダイト様、皇帝と言うのは我儘で傲慢な存在だと言う話をしたことがあるかと思います。人の話は、参考にこそすれど、従ってはいけないのだと。結果的に提言通りになったとしても、そこに皇帝の意志が反映されないといけないのです。それは、今のトリフェーン皇妃殿下との関係でも崩れていないかと思います」 「確かに、アルハザーは常々皇帝とはを口にしていたな。そして彼の考える皇帝は、まさしく君が指摘した通りの存在だ。それがどうしようもない悲劇だろうと、彼は必要だと思えば躊躇なく悲劇の引き金を引いてくる」  うむと唇を真一文字に結んだジェノダイトは、さらに難しい顔をしてアセイリアを見た。 「アズライト様との関係だと言ったな……」 「アズライト様を皇帝にするつもりだったのに、私が一番の障害になってしまったようです」  抗おうにも、相手を考えれば簡単なことではなかったのだ。そして抗う暇も与えず、処分される可能性も否定できなかった。 「私は、運を天に任せる以外できることがなくなってしまったようです。そして私の運は、どうしようもなく悪いと言うのがこれまでの経験で分かっています。ですから、私は運を天に任せなくても済むことを残していきたいと思っています」 「それは?」  それが、自分のことを言っていないのは理解できてしまった。それでも聞かなければいけないと、ジェノダイトはアセイリアに促した。 「地球とグリゴン、ザイゲル連邦との関係です。たとえ私にどんなことが起きても、地球はザイゲル連邦に加わってはいけません。聖下が考える状況の修正は、帝国への敵意を生み出し地球をザイゲル連邦に加える事です。そうなると、地球は3千ある連邦の星系の一つになってしまいます。帝国に投じた一石が、波紋を広げる前に拾い上げられてしまうのです。地球は、ザイゲル連邦の外から、H種の星系として彼らと付き合っていかないといけないのです」 「アルハザーは、我々に憎しみを生むため君を消去する……」  この状況でヨシヒコを消すのは、理不尽以外の何物でもないだろう。地球とグリゴンに平和をもたらしたことを考えれば、ヨシヒコの功績は褒められこそすれ、処罰を受けるようなことではないはずだ。アズライトとのことにしても、両者が望んだ以上、絶対に死を持って償うようなことではない。  その状況でヨシヒコを消すことは、間違いなく代表団全員、そして随伴してきているドワーブにも強い敵意を植え付けてくれることだろう。帝国、特にアルハザーへの強い敵意と憎しみは、ザイゲルにとって地球を認めやすくする効果がある。そして地球が連邦に加わってしまえば、ヨシヒコの言うとおり元の枠組みに戻ってしまうことになる。 「それが、代々の皇帝が作り上げた枠組みへ戻す効果を持っている……」  指摘されれば、アルハザーがそうするとしか思えなくなってしまった。そしてそれこそが、ヨシヒコが消される理由だとジェノダイトは気がついてしまった。皇帝の意図を読み取り、それを妨げる方策を考える。そんなことの出来る者を生かしておくのは、アルハザーにとって許されざることだったのだ。 「そこまで分かっているのなら、君はリルケに行ってはいけない。もともと、我々はリルケに行く予定はなかったはずだ」  今からでも間に合うはずだ。そう言って予定の変更を持ちだしたジェノダイトに、アセイリアは悲しげに首を振った。 「どう頑張っても、私はリルケに連れて行かれるでしょう。下手に抵抗をすれば、巻き添えになる人を増やすことになります。被害を最小限に抑えるためにも、今はこのまま進むしか無いと思いますよ」  センテニアル前は、自分が計画して自身の存在をこの世界から消し去った。だが今度は、存在こそ消されなくても、生き続けることを否定されることになる。それを口にしたアセイリアに、ジェノダイトは掛ける言葉をもたなかった。 「今回の件では、誰も記憶を操作されないでしょう。理由は簡単。記憶を消してしまえば、憎悪の感情が生まれないからです」 「このことを、アズライト様には……」  言えるはずがないと思いながらも、ジェノダイトはアズライトのことを持ちだした。そして予想した通り、アセイリアはアズライトには伝えていないと答えた。 「こればかりは、アズライト様にもどうしようも無いことです。ただ、手紙だけは残していこうと思っています。それから、ジェノダイト様には後始末をお願いしないといけないと思っています」  「遺言です」とアセイリアは寂しく笑った。 「役に立たないのが好ましいのですが、このままだと皆さんが苦労することになると思います。リルケに到着する前までにまとめて、ネイサンに渡しておきます。特に、キャンベルさんが苦労することになると思いますから……」  そう説明したアセイリアは、「辛いですね」と心の中を吐露した。 「皇帝に楯を突いたのですから、敗れればこうなることは分かっていたはずです。楯突く気はなかったのですけど、結果的にそうなってしまった以上仕方がないのでしょう。ただ、アズライト様を二度も悲しませることになってしまいそうです。それだけが、辛くて辛くて……どうして出会ってしまったのだろうと、今でも思っているんです。やはり私は、とことん運に恵まれていないようです。幸せだと思った出会いが、すべて不幸に導かれていってしまいます。これもまた、聖下の考える物語なのでしょう……皇女殿下が巻き込まれたことを考えれば、それなりに立派な悲劇に違いありませんからね」  そこまで口にしたアセイリアは、「すみませんでした」とジェノダイトに頭を下げた。 「ジェノダイト様に、恨み言を言ってしまいました」 「君を巻き込んでしまった以上、私に重い責任があるはずだ」  恨み言ではなく、文句を言われる立場にある。ジェノダイトの言葉に、アセイリアはゆっくりと首を振って否定した。 「私が、巻き込まれていったんです。そもそもの始まりは、私がアズライト様とVXに行ったことですから。見栄を張らず、セラムと行けば違った結末があったはずです。私の選択が、今を導き出すことになりました」 「だが、そうなったらテラノはさらに大きな被害を受けていた。宇宙軍はさらに大きな被害を出し、戦略目標となった火星では、数十億の人々が命を落としていただろう。センテニアルでの破壊も、もっと大規模なものになっていたのは疑いようがない。君も、君の大切な人達も、命を落としていた可能性があったのだ。君が居なければ、グリゴンとの融和も実現していない。君のことさえなければ、テラノにとってこれ以上の良いことは無かったのだよ」  大きな声を出したジェノダイトに、「ありがとうございます」とアセイリアは感謝の言葉を口にした。 「私の人生に意味があったと言うことですね。でしたら、あと一頑張してみようかと思います。ただ、相手が相手だけに、何もできない可能性の方が高いのですが……」  もう一度「ありがとうございます」と口にしたアセイリアは、表情を切り替えて退出することをジェノダイトに告げた。 「あまり放置すると、ご機嫌が斜めになる方がいらっしゃいますので」 「本気で、アズライト様に説明しないつもりなのか?」  説明したとしても、どうにもならないのは確かだった。だが何も教えないと言うのは、さらにアズライトを傷つけることだとジェノダイトは考えた。 「二人きりの時に、こんなことを話そうとは思っていませんよ。今は、アズライト様を甘えさせてあげるのに精一杯ですから」  そう言って笑ったアセイリアは、「違いますね」と自分の言葉を訂正した。 「私自身、正面から向かい合う勇気が無いからでしょう。それに、単なる私の思い過ごしと言うこともあり得ますので」  それを考えると、余計なことを言うのは宜しくない。「叱られますから」と言って、アセイリアはジェノダイトの部屋を去って行った。  グリゴンで結ばれてから、二人の逢瀬は熱い交わりから始まることになった。そのあたり、母親似なのだとヨシヒコはトリフェーンのことを思い出していた。よほど相性がいいのか、それともアズライトが強欲なのか、二人の足腰が立たなくなるまで交わりは続けられた。おかげで、グリゴンでは、二人揃って晩餐に遅刻をすると言う恥ずかしい真似をしたぐらいだ。  そしてリルケまでわずかとなったこの日も、アズライトはひたすらヨシヒコを求め続けた。そしていつも通り疲れ果てたところで、ようやく気が済んだのかヨシヒコの上になって大人しくなってくれた。 「こんな気持ちになるだなんて、夢にも思っていませんでした……」  ヨシヒコの薄い胸に顔を預け、アズライトは恥ずかしそうに打ち明けた。 「そのあたりは、俺も同じ思いだ……」  アズライトの体に腕を回し、ヨシヒコは抱き寄せる腕に力を込めた。あっと小さな声が漏らしたアズライトは、「ヨシヒコ」と小さな声で呼びかけた。 「なんだ?」  普段とは違う優しい声に、アズライトは心を込めて「愛してる」と答えた。 「今更感が強い気もするが……俺も、お前のことを愛しているぞ」 「今更でもなんでも、私はあなたのことを愛しています。だから、何度でも何度でも繰り返し言ってあげるのです。だからヨシヒコにも、何度でも何度でも愛しているって言って欲しい」  そう言って甘えるアズライトに、ヨシヒコは「愛している」と繰り返した。 「俺も、何度でも何度でも言うことができるぞ」 「ヨシヒコなら、そう言ってくれると思っていました」  喜んだアズライトは、腕の中から抜け出しベッドサイドのテーブルへと手を伸ばした。シミ一つない綺麗な背中には、幾筋もの赤いひっかき傷がついているのが見えた。そのすべてがヨシヒコの付けたものだし、それ以上のことを自分はしていた。アズライトに女として血を流させたのは、誰でもない自分自身だったのだ。 「あなたにあげようと思って持って来たの。帝国第一大学の研究者、「ドク」がヨシヒコのために作ってくれました」  これと言って差し出されたのは、何の変哲もない細身のリングだった。色合いからするとプラチナに見えるのだが、第一大学の研究者が、そんなありふれたものを作るとは思えなかった。 「……危なくないのか?」 「私が、ヨシヒコに危険なものを身に着けさせると思っているのですか?」  そうやって開き直られると、危ないと主張することはできなくなる。言ってくれるなと口元を歪めたヨシヒコは、「それで」と言って指輪の効能を確かめることにした。 「でも、普通の指輪ではないのだろう?」  アズライトは小さく頷いた。 「本当はラルクをあげたかったのですが、婚約前だと断られました。ですからこの指輪は、ヨシヒコの命を守るものになっています。この指輪にあなたの生体データーを記録すれば、どんなことがあっても私がすぐに直してあげられます」  同じ目に遭うのはごめんだが、確かに役に立つのだろうとヨシヒコは認めた。多少の気休めぐらいにはなってくれそうだ。 「それで、俺はこれを指に嵌めればいいのか?」 「お約束ですけど、左手の薬指にしてくださいね。そうすると、私とお揃いになります」  地球でも似たような風習があるので、それも仕方がないとヨシヒコは考えた。アズライトと言う恋人から貰ったのだから、他の場所に嵌めては問題だと言う気持ちもあった。  そして指輪をしげしげと眺めてから、ヨシヒコは自分の左手薬指に指輪を嵌めた。ただ嵌めはしたが、特に何かが変わったようには思えなかった。 「これで、良いのか?」 「ええ、ヨシヒコ、ありがとう。これで、あなたが私の物だと言う印をつけることができました」  お互いの立場からすれば、アズライトの言っていることに間違いはないのだろう。ただ「所要物」のように言われるのは勘弁してほしいと思っていた。 「俺は、お前の所有物か?」 「私も、あなたの物だからお相子でですよね?」  反論ではなく自分もそうだと言われれば、それ以上文句を言うこともできない。仕方がないと追及を諦めたヨシヒコに、「忘れていました」とアズライトは今思い出したかのように声を上げた。 「その指輪。私以外には外せない仕組みになっています」 「そう言う重要なことは、先に教えておいて欲しかったな」  まあいいと呟いたヨシヒコは、後ろから華奢なアズライトの体を抱きしめた。 「ちゃんと、責任はとってもらうからな」 「私を傷物にしたのはヨシヒコの方ですよ。だから、所有権をはっきり示しただけのことです」  そう言って向きを変えたアズライトは、「浮気は駄目ですよ」と言って釘を刺した。 「キャンベルさんとのことは、以前のことだから大目に見てあげます。でも、これからは浮気をしては駄目ですよ。何かあると思わせるおは構いませんが、本当に何かあるのは許してあげませんから」 「どう、許さないと言うのだ?」  軽口を口にしたヨシヒコに、「そうですね」とくぐもった笑い声をアズライトはあげた。 「浮気をする元気がなくなるようにしてあげます」  それは怖いと笑ったヨシヒコは、「参考までに試してみよう」とアズライトに持ちかけた。 「え、ええっと、改めて言われると、とても恥ずかしいことを口にしてしまったのですね……」  腕の中で小さくなったアズライトに、「そんなことは無い」とヨシヒコは耳元で囁いた。 「聞いているのは俺だけだからな」  ヨシヒコの言葉に、アズライトは恥ずかしいと言ってさらに甘えた。そんな二人に、アバター達は、「私達も聞いてるんですけどぉ」と二人揃ってため息を吐いていた。 「先輩のおかげで、私もため息と言うものを覚えました」 「それは、威張れるものではありませんよ」  ましてや記録更新などもってのほかだ。熱い交わりを再開した二人に、アバター達は揃ってため息を繰り返した。もう少しお互いの立場を考えて欲しい。特にアリエルは、アズライトに文句を言いたいと思っていた。  予定通り帝星リルケに到着したキグナス号は、衛星軌道上にある皇室専用ドックに入港した。使用者が皇室しかいないのだが、その規模の大きさはテラノの軌道ステーションの比ではなかった。要塞とも言える施設が、そこには用意されていた。 「ここは、皇族並びに公爵家も使用します。したがって、100隻を超える宇宙船が係留されています。公式訪問で不在になっている船まで含めると、およそ300隻分のスペースが用意されています」  宇宙ステーションに入港したところで、マリーカ船長が一行を案内してくれた。外見は巨大な岩石の様なドックだったが、中に入れば綺麗な空間が広がっていた。それを凄いと感心した一行に、マリーカ船長はここが特別であることを説明したのである。 「したがって、ドワーブ様には別のステーションに入っていただいています。確か、そこにはアシアナ侯爵家のクルーザーも係留されていましたね」  そんなものがあるのかと見られたジェノダイトは、逆に不思議そうな顔をして団員たちを見つめ返した。 「なにか、おかしなことがあったのか?」  そんなジェノダイトの言葉に、自分達の常識が通用しないのだと全員が理解した。 「何年か前に、大幅な改装をしたと聞いているのだが……何分しばらく使っていないから、今どうなっているのか分からないのだ」 「クルーザーと言うのは、どの程度の規模の船なのですか?」  せっかく自家所有の船があるのなら、それに乗って帰れば帰りの足を確保することができる。さすがにアズライト専用船を、タクシー代わりに使い建てするのは憚られたのだ。その意味で確認したアセイリアに、「そうだな」とジェノダイトは説明の方法を考えた。 「キグナス号の半分ぐらいの大きさと言う所か……」 「それって、物凄く大きくありませんか?」  キグナス号自体、地球艦隊の主力艦を超える大きさがあったのだ。それを考えると、半分と言っても巨大な船と言うことになる。帰り道に使うには、十分な大きさと言えるだろう。 「帰り道は、ジェノダイト様にお願いした方が良さそうですね」 「入れ物はあるが、問題は乗員だな。今から求人を出せば、十分に間に合ってくれるだろう……」  帰り道を考えれば、確かに自家用クルーザーを使った方が好ましい。グリゴンに送らせると言う手もあるが、まだ刺激をするには時期尚早だったのだ。 「それで、私達はリルケで何をすればいいのでしょうか?」  アズライトに連れてこられたが、特に何かをすると言う予定はなかったのだ。それを気にしたアセイリアに、ジェノダイトは苦笑交じりに観光を持ち出した。 「私にしても、アルハザーの呼び出しを受けた訳ではないからな。せっかくここまで来たのだから、観光をしていけばいいだろう。比較的テラノに似てはいるが、比べてみれば違う所も沢山あるからな。あとはそうだな、私の実家にも連れて行ってやろう」  総領主自ら案内してくれると言うのは、考えて見なくても大層な厚遇に違いない。本当にいいのかと驚くメンバーたちをよそに、アセイリアは別の意味で「いいのですか?」とジェノダイトに尋ねた。 「帰ってきたのなら、すぐに顔を出せと言われませんか?」 「こちらはプライベートだと突っぱねれば問題はない」  その程度だと言い切ったジェノダイトは、地上に降りるシャトルを手配した。軌道エレベーターは便利と言えば便利なのだが、にょきにょきと生えるのは邪魔でしょうがない。リルケに軌道エレベーターが無いのは、本気で邪魔と言うのが理由になっていた。 「あと2時間ほどでうちのプライベートシャトルが迎えに来るようだな。まったく、久しぶりに帰ってきたのに、迎えに来ていないのはたるんでいる証拠だな」  そう言って普段見たことのない顔をされると、さすがは一等公爵様だと思えてしまう。つくづく世界が違うのだと、一行はジェノダイトのことを見直していた。 「じゃあ、アセイリア。私は先に皇宮に降りています。ちゃんと呼び出しますから、その時は逃げ出さないようにしてくださいね」  可愛らしくウインクをしてから、アズライトはお付の者に連れられ、皇族専用のシャトルで地上へと降りて行った。洋上に見える巨大な人工島を指さしたジェノダイトは、あれがそうだと全員に教えた。島と言っても、日本よりよほど広大な面積を持っているようだった。 「リルケの首都ロマニアだ。中心には、皇帝の宮殿が作られている。人工島ではあるが、歴史は1000年を超えていると聞かされているな」  千年も前に作られたと聞かされると、やはり驚きが先に立ってしまう。一同が感心したところで、ドックの係員が近づいてきた。 「申し訳ありませんが、検疫処理を受けていただきます」 「確かに、検疫は必要な手続きだったな……」  係員の言葉に頷き、ジェノダイトは一行を先導した。一番立場が高いジェノダイトだが、一番慣れているのもジェノダイトだった。余計な手間を掛けないことを考えると、彼が先頭に立つのが一番効率が良かったのだ。  検疫で時間を使ったこともあり、シャトルの待ち時間はさほど苦痛とはならなかった。何年振りかに帰ってきた当主を前に恐縮した執事は、「奥様ですか」と言ってアセイリアに頭を下げた。 「お若くて美しいお方を娶られて、さぞかし先代も安心されていることでしょう」 「いや、バートラッシュ、彼女は私のスタッフだ」  すかさず訂正したジェノダイトに、なぜかバートラッシュは小さく舌打ちをした。 「なぜ、舌打ちをする?」 「いえ、こちらの事情ですからお気になさらず」  そう言って話を誤魔化したバートラッシュは、こちらにどうぞと一行を案内した。そして想像していたのよりかなり立派なシャトルへと、一行を連れ込んだ。 「屋敷にご案内すればよろしいのでしょうか?」 「そうだな。ひとまず屋敷で落ち着いた方が良いだろう」  ホテルの確保もしていないのだから、それ以外の選択肢がないのも確かだった。それを認めたジェノダイトは、「ネイサン」と自分のアバターを呼び出した。 「はい、ジェノダイト様!」  宙に浮かび上がった少女に、ジェノダイトはドワーブへの伝言を申し付けた。 「暇だったら、私の屋敷に遊びに来るよう伝えてくれ」  かしこまりましたと答えて、ネイサンはすぐに姿を消した。これで、自分の方もできるだけの手を打ったことになる。後は、アセイリアの危惧が杞憂であることを願うだけだった。  一足先にリルケに降りたアズライトは、そのまま両親の居る宮殿へと向かった。「ノウノ(宇宙の中心)」と命名された宮殿は、ロマニアの中心にそびえ立っていた。 「1カ月ぶりかな。しばらく見ないうちに、綺麗になったね」  父親の言葉に、アズライトは意識をしてはにかんだような笑みを浮かべた。父親に自分の情報がすべて上がっているのは承知している。単なる話の取り掛かりとしか思えない父親の言葉なのだが、すでに腹の探り合いは始まっていることをアズライトは知っていた。 「お父様が私を褒めるのは珍しいですね。どうかなさったのですか?」 「いやいや、本当に綺麗になったと感心しているのだがね」  小さく首を横に振ったアルハザーは、「おもしろい決断をしたね」とグリゴンでのことの報告を求めた。 「はい、私の出した条件に対し、反対のしようのない答えを返してくれたと思っています。皇女として、求められる沙汰を出したと自負しています」  娘の答えに、アルハザーは小さく頷き肯定した。 「ただ、私も予想していない結末だったのだよ。まさか、ドワーブにそこまで深い考えがあるとは想像もしていなかった。だから答えに感心するのと同時に、ドワーブに対して驚いているんだ」  いやいやと大真面目に首を振った父親に、わざとらしいとアズライトは警戒した。 「ところで、テラノでお前を完封した女性……何と言ったかな?」 「アセイリアですか?」  いきなり話を変えた父親に、やはり来たかとアズライトは身構えた。 「そうそう、アセイリアだったか。アズィは、私に何か報告することがあるのではないのかな? 父親として、娘に恋人ができたのを教えて貰えないのは結構堪えるんだよ」 「アセイリアは女ですよ?」  ひとまずとぼけた娘に、アルハザーは苦笑を返した。 「ここまで来て、私に隠す必要はないと思うのだがね。入国に際しての検疫で、アセイリアと言うのが男性と言うことは分かっているんだ」  まともに検疫を受けたことのないアズライトには、父親が本当のことを言っているのかどうかは分からなかった。ただ事情を理解しているのは、今さら疑いようはないだろう。これ以上隠すことに、意味があるとも思えなかった。 「お父様におもちゃにされそうですから、敢えて黙っていました」 「父親として、娘を奪っていく男に文句の一つも言わせてくれないのかな?」  顔は笑っているが、どう見ても目が笑っているようには見えなかった。やはり危ないと警戒したアズライトは、気が早すぎますと自分の年齢を持ち出した。 「大学を卒業するまでには、あと5年は掛かると思います。お父様の言いたいことは分かりますけど、17の娘に言うことではありませんね。もっとも、彼のことが好きなことを否定しませんよ。ですから、お父様には時間を掛けて彼のことを見て貰いたいと思っています」 「なるほど、確かにアズィの言う通りだ。私がトリフェーンと結婚したのも、トリフェーンが大学を出てからのことだったからね」  わざとらしく二度ほど頷いた父親に、さらにアズライトは警戒を強めた。父親が物わかりが良いなどと、一ミリグラムも信用していなかったのだ。  だが信用はしていないが、父親を頼らなければいけないのも確かだった。このままだと、ヨシヒコはテラノに帰ることになるし、そう簡単にはリルケまで会いに来ることもできない。当然だが、自分がテラノに行く用事も作りようがなかったのだ。  そして娘の葛藤を見透かしたように、アルハザーは大真面目に「アズィ」と呼びかけた。 「私に、頼みたいことがあるのではないのかな?」 「お父様に、ですか!?」  やはりそう来たか。わざとらしく驚いて見せたアズライトは、父親が何を言ってくるのかと身構えた。 「驚くほどのことは無いと思うのだがね。彼は、テラノに住んでいるのだろう。このまま帰らせたら、アズィと会う時間を作れなくなるじゃないか。彼と一緒にいる時間を作るには、第9大学に入学させるのが一番いいんだよ。ちょうど私とトリフェーンのように、そこで一緒の時間を過ごせばいい。そうすれば、私も彼の人となりをじっくりと見ることができるだろう?」  二人の住む星が違うと言うことが、父親につけ入るすきを作ってしまったことになる。父親が見逃すはずはないと思っていたが、予想通りヨシヒコがテラノの住人であることを突いてくれた。 「そうですね、彼には第9大学に入学して貰いたいと思っています。ジェノダイトの小父様も、彼の後見人になってくださると仰ってました」 「なるほど、ジェノの保証があれば万全だね」  うんうんと頷いたアルハザーは、「だったら」と娘に提案を持ちかけた。 「せっかくリルケまで来ているんだ。ジェノと一緒に私の所に顔を出すように言ってくれないかな? そこで私が面接をして、合格したら婚約を認めてあげてもいい。第9大学入学なんて手間を掛けなくても、一緒にいる時間を作ることができるんだよ」  婚約と言う餌をぶら下げられ、ますますアズライトは警戒を強めた。だが、ここで逆らっても、アズライトの得にならないのも確かだ。父親が首を縦に振らない限り、自分たちが結ばれることあり得ないのだ。それどころか、自分の知らないところでヨシヒコが謀殺される可能性もあるぐらいだ。その意味で、父親と言うのは避けて通ることのできない障害物となっていた。 「でしたら、ジェノダイトの小父様に伝えておきます」 「ああ、そうしてくれると嬉しいよ」  長居をすれば、それだけ父親に付け入る隙を作ることになる。アズライトは父親の元を去ろうと立ち上がったのだが、突然の眩暈によろめいてしまった。 「どうやら、長旅で疲れたようだね」  すかさず駆け寄ってきた父親に支えられたアズライトは、「そのようです」と言って離れようとした。だが自分を支えた父親は、そのまま侍従達を呼び寄せた。 「しばらく、アズライトを静養させる。私が許可するまで、誰にも面会をさせないように」 「お父様、いきなり何を……」  驚いた娘に向かって、「知らない方が良いことだ」とアルハザーは温度を無くした声で答えた。次第に動かなくなる体に、自分が騙されたのだとアズライトは理解した。このままでは大変なことになると、アズライトはラルクを頼ろうした。だがいくら呼びかけても、ラルクは反応してくれなかった。 「無駄だよ。私の許しが無い限り、アズィのラルクは発動しない。君は、すべてが終わるまで休んでいればいいんだよ。お休み、私の可愛いアズライト」  その言葉を最後に、アズライトの意識は深淵へと沈んでいった。いくら天災皇女と言われようと、準備もなしに皇帝に抗うことは不可能だったのだ。  リルケに着いて数日間、一行は何不自由のない生活と言う不自由を味わっていた。当主の客と言うことで、本当に下にも置かない扱いを受けたのである。その上技術的にも進んでいるため、何をするにしても地球に居るのよりも快適な生活を送ることができた。 「どうです、ジェノダイト様の奥様になると言うのは?」  ずっと続けている講義の休みに、どうですかとアセイリアはキャンベルをからかった。観察をすると、周りの期待するものが見えてくるのだ。下位互換ではあるが、キャンベルならば彼らの期待に応えらえるだろう。それに、キャンベルには女性と言う圧倒的強みがあったのだ。 「ここにいると、結構魅力的に聞こえる話ね……」  それを大真面目に受け取ったキャンベルに、手引きしましょうかとアセイリアは囁いた。既成事実の一つでも作ってあげれば、その先はとんとん拍子に進むのが目に見えていたのだ。それほどまでに、周りのアセイリアに向ける期待は強かったのだ。 「ジェノダイト様が帰りたがらない訳が一つ分かった気がしますね」 「それは、そうだけど……でも、どうしてジェノダイト様はお一人なんですか?」  知ってますよねと聞かれたアセイリアは、「さあ」と白を切って見せた。 「いくらなんでも、私はジェノダイト様のお心までは分かりませんよ。キャンベルさんのお心も分からないのに……」 「そこで、比較対象に出されるのは不本意なんだけど……」  ただならぬものを感じたキャンベルは、「浮気の虫退散!」と言っておかしな呪文を唱えた。 「なんですか、それ?」 「身の安全を図るためのおまじない。私は、アズライト様に睨まれたくないもの!」  キャンベルの答えに、アセイリアはわざとらしく大きく頷いた。 「だったら、睨まれない範囲なら大丈夫と言うことですね」 「い、いや、それって絶対に違うから……」  絶対におかしいと言う抗議なのだが、残念ながら受け付けて貰えなかった。 「周りからは、私たちはできているように見えないといけないんですよ? アズライト様も、そう見えることは許してくださいました」 「だ、だったら、見えるだけでいいと思うん……ですけど」  ごくりとつばを飲み込んだキャンベルに、それではおもしろくありませんよねとアセイリアは笑った。 「お、面白いことなんて、私は求めてないから」  いくら言葉で抵抗しても、調教された体は言うことを聞いてくれない。逃げなくてはと何度も心の中で繰り返したのに、体の方は一歩も動いてくれなかったのだ。しかもアセイリアを振り払うどころか、なすがままになるのを許してしまっている。聞こえてくる喘ぎ声は、いったい誰のものなのか。好き勝手を許しながら、キャンベルは現実逃避をしていた。 「たぶん、許される範囲はこの程度なのでしょうね?」  散々弄んだところで、アセイリアはキャンベルを解放した。申し訳程度に靴下とかが残っているキャンベルに比べ、アセイリアは今すぐ外出ができるほど着崩れをしていなかった。それを見れば、どれだけ一方的なことかは理解できるだろう。  熱に蕩け、荒い息をしたキャンベルは、「悪魔」と言ってアセイリアを罵った。 「悪魔って……キャンベルさんが言った通り、アズライト様に睨まれないところで我慢をしたのですけど?」 「意識してできるところが、悪魔だって言ってるのっ!」  大きな声で文句を言ったキャンベルは、一転声を小さくして「最後までしてよ」とアセイリアに懇願した。 「後生だから、生殺しみたいな真似は止めて……」 「これ以上は、私の身の安全にも関わりますから」  だから駄目ですと断られ、キャンベルは今までで一番大きな声で「悪魔!」と叫んだ。 「本当に、悪魔だったら良かったんでしょうね……」  小さく息を吐きだし、アセイリアは動けなくなったキャンベルを抱き起こした。そして優しく唇を重ねてから、大きく息を吐きだした。  二人分の体重を支えたベッドが、きしりと軋んだような音を立てた。ようやくしてくれるのか。キャンベルが期待したところで、アセイリアは思いがけないことを伝えた。 「アズライト様と連絡がとれていません……そして、私に聖下から呼び出しがかかりました。ジェノダイト様と一緒に、ロマニアにあるノウノ宮殿に顔を出すようにと。聖下自ら、私とお話をされたいそうです」  アルハザーからの呼び出しと言うアセイリアの言葉に、キャンベルは急速に頭の中が冴えてくる感覚を覚えた。しかもアズライトの消息が知れないとなると、話と言ってもいい話であるはずがない。  アセイリアを突き放して体を起こし、「絶対に駄目」とキャンベルは大声を上げた。 「私が、身代わりで行ってあげる。だから、あなたは絶対に行っては駄目!!」  悪い予感しかし無い呼び出しに、キャンベルは初めてと言っていいほど強い調子でアセイリアに命令した。 「そうじゃないと、あなたは二度とアズライト様に逢えなくなるわ」  自分なりに分析をしたことから、最悪の事態になろうとしていることが分かるのだ。そんな場所に、のこのこと出かけて行っていいわけがない。  だが絶対に駄目と強調したキャンベルに、アセイリアは悲しげに首を振った。 「帝国に居る以上、聖下から逃げることは出来ませんよ。しかも、ここは聖下のおひざ元なのです。それに、本当の姿で顔を出すように命じられてしまいました。だから、キャンベルさんでは身代わりにはなれません」  本当にどうしようもないのは、キャンベルにも分かっていたことだった。そして自分の言うことぐらい、アセイリアが考えていないはずがないのだ。  アセイリアの説明を受けながら見た皇帝の所業は、「人でなし」と罵りたくなるものが多かったのだ。我儘で無慈悲で残酷で、そして人間味に欠けたことばかりをしている。そして歴代皇帝の作り上げた物語に、ハッピーエンドは記されていなかった。皇帝が関わった物語は、いずれもどうしようもない悲劇で終わったものばかりだったのだ。その中には、敢えて悲劇に捻じ曲げられたものまであった。 「どうせ逃げられないのなら、立ち向かうしか方法がないと思いませんか?」 「でも、開き直ってどうにかなる相手じゃないわよ!」  相手は、巨大帝国を意のままにする皇帝なのだ。それを考えれば、一個人がどうにか出来る相手ではない。 「それぐらいのことは、私にだって分かっていますよ。でも、逃げても駄目なら、立ち向かうしか残された道はありません。愚かしい選択をするのであれば、馬鹿にして笑ってやろうと思っています……」  だけどと。アセイリアは初めてと言っていい弱音を吐いた。 「私だって、死にたくなんかありませんよ。死にたくなんか無いんです。だけど、もう、どうにもならないのが分かってしまったんです……」  今まで一度も見せてくれなかった素の心。それを見せてくれたアセイリアに、キャンベルの心は震えてしまった。今まで絶対に認めたくなかった想い、それがどういう意味なのかを認めてしまったのだ。 「あっ、ヨシヒコ……」  アズライトと比べても小さいことは分かっているが、キャンベルはアセイリアを自分の胸に抱きしめた。色々と文句を言ったし、酷いことをされたような気もしている。それでも、自分はこの少年を愛していると気づいたのだ。ヨシヒコの見せてくれる世界は、今まで自分が経験したことのない素晴らしいものばかりだった。  「守ってあげたい」いくら強く願っても、自分は何の力も無い女でしかない。だから今だけは、アズライトの代わりに一緒にいてあげたい。なんでもさせてあげると、キャンベルはアセイリアをベッドへと引き倒したのだった。  一日置いて、アセイリアはヨシヒコに戻ってメンバーの前に現れた。もっとも変わったところは、着ている服が男物になったことと、髪がショートになったぐらいだ。男性用の紺のスーツを着ている姿は、女の子が男装したと言われても信じたくなるほど可愛らしかった。 「皆さんには、お世話になったと思っています」  そう言って頭を下げたヨシヒコに、「頭を上げろ」とマイケルが命令をした。 「俺達のリーダーが、そんなにペコペコと頭を下げるんじゃない」  マイケルの叱咤に、ヨシヒコは悲しい笑みを返した。 「みなさんのリーダーは、今までもこれからもアセイリアです。俺は、ただアセイリアを手伝っているだけですよ。それは、これからも変わらないことだと思っています。そして皆さんが支えてくれるから、アセイリアは活躍することが出来るんです。センテニアルの時も、グリゴンの時も、皆さんが居たから、アセイリアは活躍することが出来ました」  そう言ってヨシヒコは笑ったのだが、その笑顔がひきつっているのを全員が認めていた。ジェノダイトが手をつくしたのだが、アズライトの行方は一向に分かっていない。その状況で皇帝に呼び出されるのが、いいことであるはずがなかったのだ。 「まだまだ、グリゴンとの友好条約とか、ザイゲル連邦との関係整理が残っているのよ。その時は、あなたも一緒になってアセイリアを盛り上げていきましょうよ」  そう言って近づいてきたイリーナは、ヨシヒコの耳元で「色々と教えてあげる」と熱い吐息を吹きかけた。そしてくすぐったさに首をすくめたヨシヒコを、豊かな胸に抱き寄せた。 「帰ってきたら、ご褒美をあげるからね。ディータもカヌカも、あなたにご褒美が上げたくて仕方がないの」 「俺達もご褒美を上げたいのだが、混ぜてもらえるか?」  すかさず割り込んできたユーリーに、イリーナは言下に「却下」と返した。 「彼は、男なんてまっぴらだって言ってたのよ。だから、優しいお姉さんがご褒美を上げるの! あなた達は、アセイリアに言い寄ってなさい!」 「アセイリア……か?」  一歩前に進み出たボリスは、拳を作ってヨシヒコの胸を軽くつついた。 「ちゃんと、アセイリアにも責任をとってやれよ」  キャンベルがここに顔を出していない理由を、男たちはちゃんと理解していたのだ。もともと自分達に目がないことぐらい、普段のキャンベルを見ていれば分かることだった。 「そうやって、何でも責任をもってこないで欲しいんですけど……」  まったくと息を吐きだしたヨシヒコは、離れた所に立つジェノダイトの方へと視線を向けた。 「そろそろ、対決に行ってきます。地球に帰ったら、俺の手料理を皆さんにご馳走しますよ」  そこで目を閉じ、ヨシヒコは小さく息を吸い込んだ。そしてそのまましばらく止まってから、ゆっくりと息を吐きだし両目を開けた。それは、普段はアセイリアになる時に行う精神コントロール。自分を鼓舞するため、今度はヨシヒコのまま自分へと暗示をかけた。目を開いた時には、気弱な少年の姿は消えうせていた。 「ジェノダイト様、そろそろ時間です」 「多少遅れても構わないと思うのだが……」  皇帝を待たせると言うジェノダイトに、ヨシヒコははっきり「行きましょう」と繰り返した。 「余計な口実を与えるものじゃありません」 「今更だとは思うが、確かに君の言うとおりなのだろう」  小さく息を吐きだし、ジェノダイトは全員に向かって「行ってくる」と伝えた。 「後のことはドワーブに頼んである。いざと言う時は、彼の指示に従いたまえ」 「了解しました!」  いざと言う時が無いのを願いながら、センターサークルの10人はジェノダイトに向かって敬礼をした。グリゴンに居る時より不安を感じるのは、何も手立てがないことを理解しているからだろうか。 「あいつは……」  自分達の敬礼に答え、ジェノダイトとヨシヒコの二人は屋敷を出て行った。それを見送ったところで、マイケルは小さな声で呟いた。 「ああやって、いつも自分を奮い立たせていたんだな。あの小さな体に、俺達の期待を一心に背負っていたんだ……俺達より、10歳近く年下のくせに」  だから辛い、辛くて仕方がない。噛み締めた唇から血が流れるのにも気づかず、マイケルはヨシヒコの出て行ったドアを見つめ続けた。  ジェノダイトの屋敷からアルハザーの居るノウノ宮殿までは、専用シャトルで1時間ほどの距離だった。その1時間と、宮殿についてからの1時間を静かな気持ちで過ごしたヨシヒコは、侍従からの呼び出しにいよいよその時がきたと覚悟を決めた。 「このまま、何事も無く済ませてくれるような人ではないのでしょうね」 「ああ、アルハザーがそんな性格がいいはずがない」  ジェノダイトの決め付けに、「確かに」とヨシヒコは頷いた。分析をすればするほど、性格の悪さが際立ってくれるのだ。 「ジェノダイト様……」 「なんだ?」  いざ部屋を出ようとしたところで、ジェノダイトはヨシヒコに声を掛けられた。だがそれ以上の言葉は、ヨシヒコの口から発せられることはなかった。 「では、行くか……」  ジェノダイトにしても、公式に皇帝の前に出た経験は殆ど無い。しかも案内していた侍従は、あと少しというところで立ち止まり、「ここから先はお二人で」と言ってくれた。その扱いもまた、ジェノダイトには初めての経験だった。 「アルハザーは、何を考えているのだ?」  ジェノダイトの疑問に、「それは」とヨシヒコは自分の考えを口にした。 「もう一度、ザイゲルをかき回そうとしているのでしょう。そしてジェノダイト様、あなたがどう振る舞うのかも見ようとしています」 「私が、か?」  少し驚いたジェノダイトに、ヨシヒコは「あなたがです」とジェノダイトが鍵であることを強調した。 「いくら俺を殺しても、それだけでは状況の修正はできないんです。本当の主導権は、今はジェノダイト様の手の中にあるんです。それを、ジェノダイト様がどうするのか。おそらく聖下は、それを見てみようと考えるでしょう」  ヨシヒコの答えは、ジェノダイトにとって納得のいくものだった。アルハザーを含めて、過去の皇帝達は種を蒔きこそすれ、直接事態を捻じ曲げることはしてこなかった。その蒔かれた種が、特定の方向に誘導しやすいものと言うだけのことだったのだ。  確かにそうかと顔を顰めたジェノダイトに、「もしも」とヨシヒコはわずかな希望を口にした。 「この先に、皇妃殿下がお出でにならなければ……希望は残るのかと思います」 「トリフェーン様が? 希望なのか?」  最後の扉の前で立ち止まり、ジェノダイトはヨシヒコの真意を質した。 「皇妃殿下は、アズライト様のお母様で、ジェノダイト様と深いつながりがありますから」  もう残された猶予はないと、ヨシヒコは扉を開けるようジェノダイトを促した。そして自分はいつもの通り深呼吸をして、精神集中しようとした。だが肝心な場面で、ヨシヒコは酷く咳き込んでしまった。 「大丈夫か?」 「一服盛られたのかもしれません……」  ヨシヒコが答えたのと同時に、最後の扉が静かに開いた。そしてその先には、皇帝の正装をしたアルハザーが一人、ジェノダイト達を待ち構えていた。正式な謁見と言うこともあり、アルハザーは玉座に座っていた。 「聖下だけのようだな……」  なぜトリフェーンが居ない。それを疑問に感じながら、ジェノダイトはまっすぐアルハザーの方へと歩いて行った。 「久しぶりだね、ジェノダイト」 「聖下にお目にかかれたことを光栄に存じます」  恭しく頭を下げたジェノダイトに、アルハザーは少しだけ口元を歪めた。 「ここには、私たち以外の者はいない。だから、畏まった言葉づかいは不要だ。ジェノ、久しぶりだね。以前見た時より少しばかり老けたかな?」 「ここの所、気苦労が多かったからだな」  なるほどと頷いたアルハザーは、そこに座りたまえと用意された椅子を指さした。言われたままに腰を下ろしたジェノダイトは、まっすぐにアルハザーを睨み付けた。 「なぜ、俺を呼び出した?」 「君に、色々と愚痴を言おうと思っていたんだよ。それから、いくつか提案をしようと思っていたんだ。ただ、愚痴の方は次の機会に取っておくことにする。そして君“達”を呼び出した用件は、無事達成することができた」  「何?」とジェノダイトが耳を疑った時、隣に座っていたヨシヒコが椅子から崩れ落ちた。 「おい、これはどういうことだ!」  慌てて抱き起したのだが、ヨシヒコからは何の反応も返ってこなかった。それどころか、体からはどんどん体温が失われていくのが分かってしまった。  大きな声で詰問するジェノダイトに、「必要なことをしたまでだよ」とアルハザーは普段通りの調子で返した。アルハザーの目には、すでにヨシヒコの姿は映っていなかった。 「必要なこととはどういう意味だっ! なぜ私の部下を、こんな目に遭わせる!」  答えろと迫るジェノダイトに、アルハザーは不思議そうな顔をして見せた。 「僕が必要と思ったことを、どうして君に説明をする必要があるんだ? 皇帝が、自らの責任において必要と認めた。そこに説明を求めるのは、臣下として不遜な行為ではないのかな?」  それだけだと突き放されたジェノダイトは、「そうか」と今までとは打って変わった低く、そして押さえた声を出した。 「彼に、話をする機会さえ与えなかったと言うことだな」 「その必要性を認めていない。それが、僕の答えのすべてだよ。ジェノ」  分かるだろうと得意げに語るアルハザーの姿は、昔から何も変わっていなかった。だがそれを受け取る方は、いつまでも学生の思い出を引きずってはいない。そして付き合いが長い分、感じた落胆は大きかった。 「ジェノではありません。ジェノダイト一等侯爵、もしくはテラノ総領主のジェノダイトです。聖下のご命令であれば、ジェノと改名いたします」  それからと、ジェノダイトは退出することを願い出た。 「大切な部下を、医者に見せなければなりません。ここからの退出をご許可願います」 「認めないと言ったら?」  試すような眼差しを向けたアルハザーに、ジェノダイトは言下に「席を外させていただきます」と返した。 「私が残ることをご所望であるのなら、この者を従者に渡してから戻って参ります」 「だったら、僕の手の者にそれを運ばせよう」  合図をしたようにも見えないのに、いつのまにかジェノダイトの後ろに二人の男が現れた。 「目障りだから、そのゴミをジェノダイトの部下に渡してくれ」  アルハザーの言葉は、間違いなく自分を怒らせることを意識したものだろう。だがジェノダイトは、その挑発を驚くほど冷静に受け止めた。 「聖下の御前を穢しましたことをお詫びいたします」  一礼をしたジェノダイトは、現れた二人に「壊れ物だ」と丁寧に扱うことを命じた。 「私の忠誠は聖下だけに向けられたものだ。一等侯爵など取るに足りぬと考えるのなら、すぐに己の不明を恥じることもできなくしてやろう」  その時の迫力は、本気のドワーブをも超える物だろう。たかが侍従が対峙するには、あまりにも相手は大物過ぎた。そして主との関係を考えれば、間違っても敵に回していい相手ではない。ありがたいことに、主は扱いまでは指定していなかった。  脅しに効果があったのか、二人は壊れ物を扱うようにヨシヒコを抱え上げた。そしてアルハザーに一礼してから、静かに謁見の間を出て行った。  それを見送ったジェノダイトは、黙ってアルハザーの言葉を待った。 「なにも、聞かないのかい?」  その沈黙が、どれだけ続いたのだろうか。時計もないため、正確な経過時間は分からない。それでも短く無い沈黙の後、焦れたのかアルハザーが口を開いた。 「私は、聖下に求められたことだけを口にいたします」  自分から話を切り出すつもりはないと、ジェノダイトはきっぱりと言い切った。 「そうか、だったらジェノに質問をするのだけど。君は、アシアナ家をどうするつもりかな。何しろアシアナ家は、古くからシリウス一族との結びつきが強い。君は、跡継ぎを考えなくてはいけないと思うのだが?」 「いずれ、養子を迎えることを考えておりました。これから妻を娶っても、子供が成長するまでに時間が掛かりすぎますので」  なるほどと頷いたアルハザーは、ジェノダイトに質問を続けた。 「君は、自分の血を残すことに拘らないのか?」 「それと、跡継ぎの問題は別だと思っています。私が見込んだ若者に、跡を継がせたいと考えています」  あくまで主と臣下、その立場を崩さずジェノダイトは答えを続けた。そして答える際にも、余計な言質を与えないよう気を付けて答えていた。 「これは、トリフェーンとも話をした事なんだけどね」  そう言って、アルハザーはジェノダイトの跡継ぎのことを持ち出した。 「僕の子供を、君の所に養子に出してもいいんだよ」 「ありがたいお言葉、恐悦至極に御座います」  椅子ではなく、床に跪いたジェノダイトは、アルハザーに向かって頭を下げた。 「そこまでする必要はない。椅子に座ってくれないか?」 「それが、ご命令とあれば……」  自分の目も見ず椅子に座ったジェノダイトに、「興味はないか」とアルハザーは問いかけた。 「興味でしょうか。感謝の気持ちはありますが、それ以上の気持ちは持っておりません」 「誰と言うのは気になることだと思っていたのだがね」  どうかなと問われたジェノダイトは、「恐れ多いことです」と明確な答えを避けた。 「私は、聖下の思召しに従うだけでございます」  ジェノダイトの答えに、アルハザーはふんと鼻から息を吐き出した。 「つまらない答えだね。ジェノ、どうせならアズライトが良いとでも言ってくれればいいのに」  そこでアズライトを持ち出したのは、明らかにジェノダイトの反応を期待してのものだった。だがジェノダイトは、何を言われてもまともな反応をするつもりはなかった。すでに長年の親友と言う立場も、頭の中から消し去っていた。 「申し訳ありません。どう言った答えが聖下のお気に召すのか、ご教授いただければ次からはご期待に添えるかと」 「いや、無理に言わせても面白くないから別にいい」  そこで少しだけ感情を出したアルハザーは、「もういい」とジェノダイトに退出する許可を与えた。もともとの目的は達したし、これ以上話していても少しも面白くないことに気付いたのだ。アズライトの話に乗ってくるかと思ったのだが、それすら反応してくれなかった。そうなると、アルハザーにも取り掛かりを見つけられなかったのだ。 「引き留めて悪かったね。ジェノ、君に退出を許可することにする」 「ご期待に沿えず、まことに申し訳ありませんでした」  椅子から立ち上がったジェノダイトは、一度床に腰を下ろしてから両手を床に着いた。そして地面に頭をこすり付け、お目通りへのお礼を口にした。 「聖下におかれましては、私の様なもののためにお時間をいただき誠にありがとう御座いました。次の機会には、聖下のお気に召すような答えを調べてまいります」  それではと立ち上がり、ジェノダイトは振り返りもしないで謁見の間を出て行った。そして謁見の間の扉が閉じたところで、わざと「独り言」を呟いた。 「つまらないのは俺の答えじゃない。彼から逃げた、お前と言う存在だ。アルハザー、これ程お前に失望するとは思ってもみなかったよ」  さらばだと思いを込めて吐き出したジェノダイトは、足早にノウノ宮を後にした。ここから先、もはやアルハザーなどに構っている暇はない。ヨシヒコを救うことが、次の戦いなのだとジェノダイトは考えたのだ。  ジェノダイトがノウノ宮を出た時には、すでにヨシヒコはグリゴンへ運ばれる途中にあった。ドワーブの全面的な協力により、途中の航路もすべてクリアになっていた。そのため通常なら10日掛かる道中も、3日に短縮されたのである。そして専用の医療チームが、衛星軌道上で待機していた。 「いいか、これはテラノ一人の問題ではない。アルハザーに売られた喧嘩を我々が買ったのだ。彼を死なせたら、またアルハザーに負けることになってしまう。我々の名誉のためにも、絶対に死なせてはならん!」  グリゴンだけでなく、ドワーブは連邦全体に檄を飛ばした。考えられるだけの人員、資源を一人の治療のために投入しろと命じたのである。ドワーブの檄に応えた連邦は、最先端で活躍する人員を派遣してきた。 「ドワーブ、ヨシヒコの容体はどうなのだ?」  遅れて駆け付けたジェノダイトは、いの一番にヨシヒコの容体を尋ねた。 「残念だが、我々の手にも余ると言うのが答えだ。何とか蘇生には成功したが、できたのはそこまでだった。何らかのウイルスが原因であることまでは掴めているが、その正体に皆目見当がついてない。脳以外の細胞のすべてが、活動を停止し死へと歩き始めたのだ。今できることは、その歩みを少しでも遅らせることだけだ。時間を稼いでいるうちに治療法を見つけなければ……」  そこで言葉を切ったドワーブは、「諦めてはいない」とジェノダイトに言い切った。 「時間を稼げたのなら、その時間で治療法を見つければいい。ウイルスの特定ができれば、治療法ぐらいすぐに何とかして見せる。アルハザーに売られた喧嘩なら、ザイゲルは全精力を掛けて受けて立ってみせる。これは、テラノのだけの問題ではなくなったのだ!」 「感謝する」  頭を下げたジェノダイトに、ドワーブは「感謝するのはまだ早い」と言い返した。 「俺達は、アルハザーの喧嘩を買ったのだ。その意味で、俺達は勝利のために努力しているだけのことだ」  ただ、と。ドワーブは明らかに敬意に欠けた言葉を口にした。 「今更だが、皇帝と言うのはこんなに小物だったのか? すべてに超越し、帝国のあり方を考えるのが皇帝だったはずだ。だとしたら、一体これはなんなのだ。新しい時代を切り開こうとした若者を、何の理由もなく抹殺しただけではないか。しかも呼びつけておきながら、まともに顔を合わせることもしなかった。俺には、若者との対決から逃げたとしか思えないのだ」  そこまで口にして、「なあ」とドワーブはジェノダイトに打ち明けた。 「代々の皇帝がしてきたのは、考えてみればつまらないことばかりではないか。懸命に挑発を続けたのだろうが、やっていることは子供が親の気を引こうとするのと何ら変わりがない。長年仕込み続けた怨念だと? 人のことを馬鹿にするにもほどがある。安直で、つまらなくて、品の無い物語しか作れないのなら、皇帝などやめてしまえばいいのだ! 喧嘩を買ったと言ったが、これは喧嘩なんてものでもない。愚かな子供のしでかしたことを、保護者が尻拭いをしているだけのことだ!」  つまらないと喚いたドワーブに、ジェノダイトは小さく首肯した。 「奴の元友人として、お前に謝罪しなければいけないな。もっとも、俺自身も酷く失望しているのだがな」  そしてジェノダイトは、ドワーブが考えてもいなかったことを口にした。 「帝国が滅びるのか、さもなければ新たな時代を迎えることになるのか。それは、あの少年の命に掛かっていると思っている。このまま死なせたら、帝国は滅びへ向かうことになるだろう。ザイゲルが皇帝に対する畏怖を捨てた時点で、奴は求心力を失うことになるのだ。皇帝が求心力を失った帝国など、もはや滅びの道をたどる以外にできることは無い。いくら強大な力を持っていようと、民から見捨てられた皇帝に未来など存在しない」 「帝国が滅びる……か」  ふんと鼻息を荒くしたドワーブは、「望むところだ」と言い切った。 「望むところではあるが、あの坊主の命は救ってみせる。アルハザーなどどうでもいいが、俺はグリゴンを救ってくれた恩を……違うな、新しい道を示してくれた恩に応えたいのだ」  だから戦いを続ける。ドワーブは、それをジェノダイトに繰り返したのだった。  一方ジェノダイト以外の14人は、用意された会議室に雁首を揃えていた。そして集まった彼らの前で、アセイリアの名を継いだキャンベルが、「これからのこと」を全員に説明した。 「ひとまず、私達はヨシヒコさんを連れて地球に戻ります。ザイゲル連邦は、採取した細胞からウイルスの特定を行い、治療方法を探すことを約束してくれました。彼の治療に於いて、もはやどこにいるのかは大きな問題ではなくなったのです。彼には、両親とお姉さんが地球にはいます。私たちの都合で、いつまでも存在を消したままにすることはできません」  良いですかとと確認するキャンベルに、全員は小さく頷き肯定を示した。 「領主府近くにある病院に、ジェノダイト様の命で特別チームを編成します。特別チームは、グリゴンと連絡を取り合い彼の治療に専念します」  キャンベルの説明に、カヌカが質問と言って手を挙げた。 「彼が意識を取り戻したら、あなたの手伝いをお願いするの?」  この先誰に一番負担がかかるのかを考えれば、カヌカの疑問は当然出てくるものだった。 「いえ、彼には治療に専念してもらいたいと思っています。確かに私では頼りにならないと思いますけど、これ以上の負担は彼の命を削ることになります。ですから、私の足りない部分を皆さんに補ってもらいたいと思っています。お願いです。皆さん、私を助けてください」  大きく腰を折って頭を下げたアセイリアに、全員が「やめてくれ」と懇願をした。 「お前ひとりに責任を押し付けられるはずがないだろう」 「そうだ、俺達はチームなんだからな。リーダーが帰ってくるまで、絶対にお前を支えて見せるさ」 「そうね、私達全員の責任だもの」  口々に励まされたキャンベルは、涙を流しながら頭を下げた。 「地球に戻ったら、グリゴンとの合意事項を発表します。ジェノダイト様の名前で、グリゴンと友好関係を結び、相互理解を深める政策をとって行くことを発表します。そして賠償ではなく、友好の印としてグリゴンから様々な援助を受けることを発表します」 「かなりの混乱が起きそうね……」  カヌカの示した懸念に、キャンベルは小さく頷いた。 「生みの苦しみはあると思います。でも、今は正面突破をする以外に道はないと思います。軌道に乗ってくれば、不満も解消されると思いますから」 「確かに、正面突破以外に方法は無いか……いささか心もとないけど、方針は理解したわ」 「ヨシヒコの書置きに、そのあたりのことは書いてないのか?」  色々と残してあったのだから、それぐらいはあるだろうとマイケルは指摘した。 「いえ、難易度が低いと思ったのか、書置きにはありませんでした。どちらかと言えば、概念的なものが多いと言うのか。自分が何を基準に考え、どう行動してきたのかの説明の方が多かったんです。たぶん、一件一件説明しても、将来につながらないと考えたからではないでしょうか。差し障りのない部分については、後から皆さんにも見ていただこうと思っています」 「差し障り……いや、すまん、忘れてくれ」  マイケルが慌てたのは、二人の関係を思い出したからだった。間違いなく差し障りのあることは書かれているだろうし、踏み込んでいいものではなかったのだ。 「いえ、そう大したことが書いてある訳ではないのですが……ちょっと酷いなって思いましたから」  「やっぱり悪魔です」とキャンベルは強く主張した。 「女心を弄ぶ悪魔だと改めて思いました。子供のくせに、人のことを弄ぶだけ弄んで……人にこんな思いをさせて……私にだけ弱いところを見せてくれて……本当に酷い男なんです……それでも……私は……」  溢れ出てきた涙を、キャンベルは慌てて手で拭った。だがいくら拭っても、涙は溢れるのをやめてくれなかった。何度も何度も手で拭ったキャンベルは、嗚咽を漏らしながら「大好きなんです」と告白した。 「一緒にいられるだけで良かったのに……」  すべてを投げ打ってでも、一緒に居たいと思っていた。だがアセイリアの名を継いだ以上、キャンベルはヨシヒコに代わって前面に立たなければいけなくなってしまった。それが自分の役目だと分かっていても、一緒に居られない、手伝いをできないことが悲しかった。 Chapter 2  どうしてこんなに1日が長いのだ。正月明けで短縮授業のはずなのに、午前中の授業だけでヨシヒコは疲れ果てていた。しかも時折襲ってくる頭痛は、薬を飲まずには乗りきれないものだった。これがずっと続いたら、間違いなく留年だとヨシヒコは暗い気持ちになっていた。 「ヨシヒコ、俺達が付いて行ってやろうか?」  この日の授業が終わったところで、セイメイが近づいてきて声を掛けた。ずっとヨシヒコのことを気にしていたこともあり、今日一日の酷さを見せつけられたのだ。この状態で一人で帰らせたら、取り返しの付かないことになると恐れていた。 「ああ、今日は姉さんが迎えに来てくれるんだ。だからセイメイ、カツヤ、心配してくれてありがとう」 「イヨさんが迎えに来てくれるのか。だったら、心配いらないとは思うが……」  カツヤの顔を見たセイメイは、寄越せと言ってヨシヒコから鞄を取り上げた。迎えがあると言うことに、ひとまず安堵をしていた。 「俺達が、イヨさんの所まで連れて行ってやる」 「……悪いな。世話になって」  そう言って椅子から立ち上がろうとしたヨシヒコだったが、腰を上げたところでバランスを崩してしまった。それを横からカツヤが支え、なんとか事なきを得ることができた。 「おい、本当に大丈夫か? もう少し、学校を休んだ方がいいんじゃないのか?」 「だけど、このままだと留年してしまうからな。出席日数だけが問題だから、学校に顔を出せればなんとかなるんだ。俺は、お前達と一緒に卒業したいんだ」  そんな嬉しい事を、顔色を悪くしていってくれるのだ。どうしてこんなことになってしまった。ボロボロになったヨシヒコに、二人はいたたまれない気持ちになっていた。 「なんだセイメイ、カツヤ、そんな湿気た顔をして。今はこんなだが、俺はすぐに復活してみせるぞ」 「あ、ああ、お前ならあっという間だな」  これ以上ヨシヒコを心配させてはいけない。顔を見合わせた二人は、行こうかと言ってヨシヒコの隣に並んだ。そしてカツヤが、隣から体を支えた。 「悪いな、手間をかけて……」  大丈夫だと強がろうとしても、体の方が付いて来てくれなかった。歯がゆいと思っても、ヨシヒコにも自分の体が自由にならなかったのだ。朝に出来たことも、今は全くできなくなっていた。 「馬鹿野郎、俺達は親友だろう」 「これまで、お前には散々世話になったからな。その恩返しだと思ってくれればいいさ」  そう言って笑われ、ヨシヒコは嬉しくて泣きたくなった。だがここで泣くのは格好悪いと、グッと涙をこらえて笑ってみせた。 「おい、臭いことを言うんじゃない。さすがの俺だって、その、照れるだろう」 「俺達だって恥ずかしいことを言ってる自覚はあるんだ」  だから黙って好意を受けろ。恥ずかしそうにそっぽを向き、セイメイとカツヤはヨシヒコを支えて教室を出て行った。  3階の教室から下に降りるのには、階段を使うか人荷共用のエレベーターを使う方法がある。ただエレベーターが遠いこともあり、ヨシヒコさえ大丈夫なら階段を使おうと二人は考えていた。だが教室を出ようとしたところで、それが無茶なことだと理解できてしまった。本当にゆっくりゆっくり歩くヨシヒコは、その一歩一歩ですら苦しそうに見えたのだ。 「お前、ちゃんと薬を飲んでいるのか?」 「ああ、起きている間は2時間おきに飲んでいるぞ。ただ、薬を飲んでも楽になった気がしないんだがな」  まだまだだなと笑ったヨシヒコだったが、二人から見たら顔を引き攣らせただけにしか見えなかった。こんな状態で本当に退院して良かったのか。医者の判断を疑いたくなったほどだった。  ゆっくりゆっくり歩いてエレベーターの所へたどり着いた時には、教室を出て30分の時間がかかっていた。普通に歩けば、5分も掛からない距離なのにだ。  そこでエレベーターにヨシヒコを乗せ、セイメイとカツヤは1階のボタンを押した。少し勢い良く閉まった扉は、がたんと大きな音を立ててくれた。そしてすぐに動き出し、遠くからは低いモーター音が聞こえてきた。設備が古くてゆっくりとしか動かないエレベーターだが、それでもあっという間に1階に到着してくれた。 「ヨシヒコ、大丈夫か?」 「心配し過ぎだぞ。おい」  そう言って笑ったつもりのヨシヒコだったが、やはり顔が引きつるだけで笑顔にはなってくれなかった。それが痛々しすぎるのだが、二人は何も言わなかった。ただただ今の状況を受け入れ、無事に姉のイヨに引き渡すことだけを考えた。  エレベーターから更に30分掛けて、3人はなんとか下駄箱の所に辿り着いた。そしてそこで、3人はヨシヒコの姉、イヨが待っているのを見つけた。 「ありがとう二人共。ヨシちゃん、大丈夫?」 「これが、大丈夫じゃないように見えるか。姉さんは心配し過ぎなんだよ」  なんとか苦労をして口元を歪めた弟に、イヨは一瞬だけ表情を険しくした。だがそれも束の間で、すぐに普段の明るい表情に顔を作り替えた。 「じゃあ、たまにはお姉さんがおんぶをしてあげるか!」 「お、おい、待て、こらっ!」  高2にもなって、姉におんぶをされるのは恥ずかしすぎる。だが抵抗しようにも、姉は軍人、自分は半病人だった。しかも仲間も、姉と結託してくれた。そして抵抗しようにも、体に力が入ってくれなかった。 「ヨシヒコ、いい格好だな」  結局イヨにおぶわれたヨシヒコを、可愛いなとセイメイはからかった。 「お、男の俺が……いい年しておんぶされるだなんて」  屈辱だと漏らすヨシヒコに、大丈夫だとカツヤは保証した。 「女顔のお前だ。麗しい姉妹だと周りは見てくれるさ」 「俺は、男の制服を着ているんだぞっ!」  おもいっきり文句を言ったつもりのヨシヒコだったが、セイメイ達からすれば蚊の鳴くような声にしか聞こえなかった。 「ありがとう二人共。じゃあ、鞄を貸してくれるかな?」 「いいんですか。俺達が付いて行ってもいいんですよ」  軽いとは言え男一人を背負い続けるのは、軍人とは言え楽なことではないはずだ。それを心配したセイメイに、イヨはありがとうと笑ってみせた。 「大丈夫よ。校門からはタクシーで帰るから」 「だったら、校門まで送っていきますよ」  ここまで来たら最後まで付き合う。そう答えた二人に、イヨはありがとうと感謝の言葉を捧げた。 「ヨシちゃん、いいお友達を持ったね」 「いえいえ、俺達は悪友ってやつですから。いつもヨシヒコにたかってたから、たまには良いことをしようと思っただけです」  根は悪人ですと笑ったセイメイとカツヤに、「いいお友達よ」とイヨはもう一度二人に言った。 「本当の友達と言うのはね、苦しい時にこそそばに居てくれるものなの。何かをしてくれなくても、ただそばに居てくれるだけで救われるってことがあるのよ。だから二人には、ありがとうってお礼を言えるの」 「やめてくれ。こいつらが付け上がってしまう」  背中からは蚊の鳴くような声で文句が聞こえてくるが、イヨはそれを完璧に無視をした。  普通に歩けば、下駄箱から校門まで5分も掛からない。すぐに校門に辿り着いたイヨは、呼び出しておいたタクシーにヨシヒコを乗せた。 「二人共、どうもありがとう。明日は……多分、休ませることになると思う」  半日様子を見てみたが、その結果がこれなのである。とてもではないが、付き添いをしても学校に通えるとは思えなかった。それどころか、もう一度入院させた方がいいと思えるほどだ。弟の心配する高校の勉強にしても、院内教育を受けさせれば代わりにすることが出来る。 「ええ、俺達もその方がいいと思います」  時間が経つに従い、ヨシヒコの具合がどんどん悪くなってくるのだ。それを見せつけられれば、高校に来ること自体が無謀だったと言うしか無い。ただそのことは、口が裂けてもヨシヒコの前では言うわけにはいかなかった。 「じゃあトコヨギ君、クゼ君、今日は本当に有難うね」  二人に礼を言って、イヨはタクシーに乗り込んでいった。そして自分のIDをかざし、自宅を目的地に設定しいた。 「本当に、二人共ありがとう」  窓を開けて何度も礼を言うイヨに、二人は精一杯手を振って送り出した。イヨの様子に、二人は今生の別れのようだと感じていた。  ヨシヒコを乗せたタクシーは、交差点を曲がってすぐに見えなくなった。それでも二人はしばらく、じっとタクシーの消えた交差点を見つめ続けていた。 「なあセイメイ、ヨシヒコがなにか悪い事をしたのか? 俺達と別れる前は、あんなに元気いっぱいに文句を言っていたじゃないか」  セラフィムと3人で悪乗りをして、ブティックに連れ込みヨシヒコに女の格好をさせたのだ。そのお陰で、観光中はずっとヨシヒコの恨み言を聞かされていた。それをセラフィムと一緒に笑っていたのが、二人の記憶に残る元気な時のヨシヒコの姿だった。そのヨシヒコが翌日行方不明になったと思ったら、つい先日入院していることを知らされたのだ。そして病院に駆けつけた時には、土気色の顔をしたヨシヒコがそこに居た。 「俺に言われても分かるか。セラフィムさんだって、理由は分かっていないだろう。話によると、タクシーに乗り込むまでは別におかしなところは無かったらしいからな」 「セラフィムさん……か」  たった3ヶ月ほど前のことなのに、何年も前のことに思えてしまう。 「理由は分からないが、絶対に二人は出来ていただろう?」  カツヤの指摘に、セイメイは「ああ」と頷いた。 「二人共、やけに馴れ馴れしかったからな。セラムちゃんには悪いが、結構いい組み合わせだと思ったんだけどなぁ」 「だけど、それが理由でミツルギからは縁を切られたんだろう? それに、セラフィムさんも消息がしれないし。ワイアードを追いかけてみても、あれ以来セラフィムさんの書き込みは無いんだよな」  そうやって考えると、本当にすべてが幻だったと思えてしまう。そして気がついた時には、親友は原因不明の病に侵されていた。一体どこで間違えたのか。そして誰を怨めばいいのか、二人には皆目見当がつかなかった。それでも予感として感じていたのは、ヨシヒコは二度と元には戻らないのではないかと言うものだった。 「畜生っ!」  やってられるか。カツヤは声を張り上げ叫び声を上げた。だがカツヤの叫びに、誰も答えてはくれなかった。ただ校舎に跳ね返った自分の声だけが、やけに虚ろに響いただけだった。  港総合高校から家までは、タクシーでおよそ10分の距離だった。だが運の悪いことに、帰りの道がデモ隊によって封鎖されていた。グリゴンとの友好条約締結に反対するデモ隊が、規制に出た警察と衝突を起こしていたのだ。迂回をしようにも、周辺の道路は規制とデモ隊によって、車が動かなくなってしまった。  そして悪いことに、警察とデモ隊の衝突が、次第に自分達の乗ったタクシーの方に近づいてくるのが見えてしまった。このままだと、衝突に巻き込まれてしまいそうだ。 「ヨシちゃん、降りるわよっ」  危険を感じたイヨは、タクシーの自動運転に割り込みを掛けた。そして送迎停止を指定し、ヨシヒコを背負って動かなくなった道路に出た。 「まずいわね。抜け道がどこにもなさそうね……」  完全に囲まれてしまったのか、どちらを見ても人だかりができていた。殺気立っているのを見ると、とても無事に通り抜けられるとは思えなかった。いざとなったら殺してでも通る覚悟はできていたが、これだけ相手が多いと銃弾が不足していた。 「とりあえず、物陰に隠れてやり過ごすしか無いか」  デモ隊が暴徒とかした状況では、建物に逃げ込んでも安全とは思えない。それに逃げ込もうにも、商店さえシャッターを閉めて逃げこむ先が見つからなかった。このままでは、暴動鎮圧のため陸軍が出動しそうな勢いだったのだ。 「学校に居た方が良かったか……おかしいな。私は、運だけは良かったはずなのに」 「俺の運が最悪だからだろう」  耳元から聞こえてきた声に、イヨは思わず「ヨシちゃん」と叫んでしまった。 「だから、姉さんは俺を置いて避難してくれ。そうすれば、強運の姉さんは無事に脱出できるよ」 「あのね、弟を置いて逃げる姉がどこにいるのよ。幸運の女神、イヨ・マツモトを舐めるんじゃないわよ」  見てらっしゃいと、イヨはヨシヒコを背負ったまま細い路地へと逃げ込んだ。今どきこんなところがあるのかと言いたくなるほど、逃げ込んだ路地は暗くて臭くて狭かった。ただ、そのお陰か暴徒と化したデモ隊も、イヨ達の居る路地には入ってこなかった。 「ひとまず、ここなら安全そうね」  ほっと一息ついた時、背中から「あれは何なんだ」と言うヨシヒコの声が聞こえてきた。 「ああ、友好条約締結反対派のデモよ。テロを起こしたグリゴンとの友好条約締結を、弱腰だと反対している何も分かってない奴ら。こっちから攻めていく力もないのに、勝った勝ったと浮かれて、賠償をとらないのはおかしいと叫んでいるのよ。それどころか、こちらからグリゴンに艦隊を送れって叫んでくれているわ。逆の立場になったら、地球の艦隊なんて1日も保たずに全滅するのに……あいつら、軍人の犠牲のことなんて考えていないのよ」  忌々しそうに吐き捨てた姉に、そんなものだとヨシヒコは言い切った。 「アセイリアと言ったか。そいつが最後に失敗したんだよ。侵攻でなければ、グリゴン全艦隊が地球圏に来ることが出来るんだ。そうやって現実を見せてやれば、こんな風にデモなんか起きなかった。ちょうど、100年前に地球がやられたことを再現すれば良かったんだ」  なってないと苦しそうに言う弟に、イヨは「もういい」と黙らせた。背中に感じる体温が、かなり下がっているのが分かってしまったのだ。早く医者に見せないと、取り返しの付かないことになりかねなかった。  それが分かっていても、今のイヨにはどうしようもないのが現実だった。デモ隊の脅威からは逃げられたが、この場を動くことは出来なかったのだ。どうしたらこの窮地を逃れることが出来るのか、焦った頭ではいくら考えても良案は浮かんでくれなかった。  だがイヨの強運は、ここに来ても健在だったようだ。ヨシヒコがアセイリアを批判してすぐ、「興味深い意見ですね」と言う女性の声が後ろから聞こえてきたのだ。まさかデモ隊がとイヨが銃に手をかけた時、「安心してください」と言われてしまった。 「私は、領主府守備隊所属のカヌカと言います。路地に逃げ込むあなた達を目撃したので、こうして保護しに参りました」  領主府守備隊と名乗る相手に、イヨは助かったのかと安堵の息を吐いて振り返った。そこに居たのは、声の通りにまだ歳若い、黒い髪をおかっぱにしたキツネ目をした女性だった。 「宇宙軍所属のイヨ・マツモト准尉です。申し訳ありませんが、すぐに弟を病院に搬送して貰えないでしょうか」 「弟さんを?」  イヨに背負われたヨシヒコを見たカヌカは、あまりの顔色の悪さに緊急性を理解した。 「了解しました。キャリアをすぐに上空に呼び寄せます!」  そうイヨに答えたカヌカは、「ノア」と言って彼女のアバターを呼び出した。 「すぐにキャリアを上空に寄越して。それから、病人の緊急搬送を手配しなさい!」 「はい、カヌカ様!」  可愛らしい女の子の姿をしたアバターは、カヌカの命令にすぐに答えた。わずか1分後に、上からホバリングするキャリアの音が聞こえてきた。まるで、待機していたかのような早業だった。 「宇宙軍の方なら、そのまま釣り上げても大丈夫ですね?」 「ええ、死んでも弟を離しません!」  イヨの覚悟に、宜しいとカヌカは小さく頷いた。そして上空から降りてきたロープを捕まえ、金具をヨシヒコのベルトに引っ掛けた。 「ゆっくりと持ち上げますから、建物にぶつからないよう気をつけてください」  カヌカの指示に頷いたイヨは、背負っていたヨシヒコを下ろして正面から抱きかかえた。そしてロープ先端の輪に右足を入れ、右手でしっかりとロープを掴んだ。 「準備が出来ました」 「こちらカヌカ、ゆっくりと持ち上げて!」  カヌカの指示と同時に、ロープがウインチで巻き取られていった。これで暴動から逃げられたのだが、まだ安心できないとイヨは考えていた。正面から抱きかかえたことで、弟の顔色の悪さがはっきりと分かってしまったのだ。どうしてと思ったが、今は一刻も早く病院に運ばなければと疑問を封印した。  ゆっくりと持ち上げられて行く二人を確認し、カヌカは安堵の息を漏らした。 「アセイリアが失敗した……か」  さすがは本物。感心したカヌカは、早速ノアを呼び出した。そして耳にした情報を、アセイリアに伝えるように指示をした。ヨシヒコからの情報だと言えば、きっと涙を流して喜んでくれるだろう。 「絶対に、糞野郎の思惑通りなんかさせたりしない」  去っていくキャリアを見送り、カヌカは憎々しげに吐き出した。そこには、皇帝に対する敬意などどこにもない。カヌカにとって、皇帝は憎悪の対象でしか無かったのだ。  見ているだけで可哀想だ。それが、孤軍奮闘するアセリアへの評価だった。帰ってきたら、いきなり地球の守り神、女神に祭り上げられてしまったのだ。しかもヨシヒコと一緒にと言う思惑も、皇帝の横槍によってぶち壊されてしまった。その状態で頼りにされても、無茶を言うなと言うのが周りの正直な気持ちだった。 「喜べアセイリア。カヌカがヨシヒコを救助したぞ。それから、ありがたい宣託も貰ったようだ」 「宣託ですかっ!」  追い詰められたアセイリアは、それは何かとウルフに詰め寄った。目が血走っている所を見ると、そろそろ限界が近づいているようだ。 「ああ、宣託だ。宣託によると、お前は最後に失敗したそうだ。詳しいことは、お前のアバターから受け取ってくれ」 「アバターからですね。セラ、すぐに情報を出してください!」  藁をもすがる思いで、アセイリアは彼女のアバター、セラを呼び出した。そして中身を確認したアセイリアは、小さく息を吐いてからふんと気張ってみせた。 「私は、すぐにジェノダイト様のところに行ってきます!」  久しぶりに元気になったな。慌てて統合司令本部を飛び出ていくアセイリアに、ウルフ達はつい安堵の息を漏らしてしまった。 「こんなになっても、本物は本物と言うことか」  隣に並んだアズガパに、そうだなとウルフは同意した。 「俺に力があれば、すぐにでもあの糞野郎を絞め殺してやるのに」  そう吐き捨てたウルフに、アズガパは「お前だけじゃない」と苛立ったように答えた。 「俺達全員が、お前と同じ思いだ。多分、ジェノダイト様も同じ思いだろう。だが、悲しいことに俺たちにはそんな力はない。それどころか、あいつを守ってやれるかどうかも分からない。アズライト様が皇帝になられるまで持ちこたえられれば、あいつを助けることが出来るはずなんだ」 「だが、アズライト様も姿を隠されているのだろう?」  話を聞きつけてきたマイケルに、そのようだとアズガパは答えた。 「ジェノダイト様も、アズライト様のことは教えられていないらしい」  すべては、自分達にとって不利な状況でしかない。その中で救いがあるとすれば、グリゴン総領主ドワーブが、こちらに同情的なことだろう。もともと皇帝を嫌っていたドワーブだったが、さすがに今度の出来事には切れたと伝えられたのだ。お陰で、様々な情報とともに支援がグリゴンから届くようになっていた。 「ドワーブ様が、ザイゲル内で多数派工作をされているそうだ。それに、今回のことを利用されているらしい」  そう口にしたマイケルは、「ただ」と言葉を濁した。グリゴンの支援はありがたいが、別の不安がそこには有ったのだ。 「遺言のことか?」  アズガパの指摘に、マイケルは「ああ」と頷いた。 「可能性の一つとして、あいつが指摘したことだ。糞野郎は状況を修正するため、あいつを殺すと……」  忌々しげにマイケルの顔が歪んだのは、思い出すだけで殺意が強くなるからだろう。それでもなんとか理性を働かせ、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。 「憎しみを抱くのは仕方がないが、それでも冷静に物事を考えろ……か。皇帝の思惑に乗るのは、結局自分達のためにならないと。俺たち地球は、ザイゲル連邦と友好関係を結んでも、連邦の一つになってはいけない。あくまで連邦から離れたところに居なければいけない、か」 「そうしないと、皇帝に反発するザイゲル連邦と言う構図に戻ってしまう。そして地球の存在意義がなくなってしまうか。だけどな……あいつが居なくちゃ、俺達だけじゃ無理なんだよ」  くそっと吐き出したアズガパは、事情を知る領主府スタッフの方を見た。だがアズガパに見られた男は、残念そうに首を振るだけだった。 「今の俺達じゃ、あいつを生き延びさせるのが精一杯だ。いや、死なせないようにするので精一杯なんだよ」 「グリゴンの科学力でも無理だと言う話だったな」  地球に帰る前に、急遽グリゴンを経由していたのだ。だが彼らでも、出来たのは蘇生するところまでだった。活動を停止する細胞を、なんとか薬で活性化させるのが限界だった。 「俺達にできることは残っていないのかよ」  グリゴンで無理なことが、今の地球で出来るはずがない。マイケルがどんなに悔しがっても、彼にはヨシヒコを救うことは出来なかったのだ。  ヨシヒコの情報を貰ったアセイリアは、上層階にあるジェノダイトの執務室に駆け込んでいた。その途中で周りの注目を集めたのだが、そんなものは今の彼女の記憶にも残らなかった。 「ああ、アセイリアか……」  アセイリアが飛び込んだ先に居たジェノダイトは、彼女に負けないぐらい疲れた顔をしていた。先日の一件以来、ジェノダイトも四方に手をつくしてヨシヒコを救う手立てを探していた。そして同時に、アズライトの消息も追っていたのだ。だがいずれの努力も、今のところ大した成果も得られていなかった。 「どうした。少し元気になったように見えるのだが?」  疲れているジェノダイトだが、それでも自分の方がましだと思っていた。いきなり責任を押し付けられたキャンベルとは違い、彼はもともとテラノ総領主だったのだ。 「はい、暴徒をおとなしくさせる方法が分かりました。カヌカさんが、ヨシヒコさんの言葉を教えてくれたんです」 「彼の言葉をか? 今の彼に、そんな能力が残っていたのか!?」  驚くジェノダイトに、「はい」とアセイリアは力強く答えた。 「ヨシヒコさんは、100年前を再現すればいいと教えてくれました。地球人のほとんどは、地球から出たことはありません。だから、グリゴンとかザイゲル連邦が強大だと言っても、少しも現実感を持っていないんです」  そこで言葉を一度切ったアセイリアは、簡単なことでしたとジェノダイトに告げた 「だから、ザイゲル連邦の実態を教えてあげれば良いんです。そすれば、私達が一方的に譲歩したのではないことを示す事ができます。そのために、ドワーブ様には、大艦隊を率いて地球にお越しいただきたいと思っています。交戦するためでなければ、地球の保有する艦隊以上の戦力を持ってくることが出来るんです」 「なるほど、ショック療法の一種と言うことか」  今の問題を分析すると、一番問題を難しくしているのは「地球が勝った」と言う意識だったのだ。戦いに勝ったのだから、相手に賠償を求めるのは正統な権利だと考えるのである。それが今までの常識だったと考えれば、今の騒ぎの理由の説明となる。  だがメインベルトの戦いは、決められたルールの中での勝利でしか無かった。帝国の定めたルールを無視すれば、ザイゲル連邦が地球を蹂躙するのは難しいことではない。帝国軍に頼らなければ、地球は生き延びることさえ難しかったのだ。目先の勝利は、そんな簡単な事も忘れさせていた。 「1週間後の条約締結に向けて、ドワーブ様に艦隊の派遣をお願いしてください。とにかく数を集めてくだされば結構です。要塞を運んでいただけるのなら、そちらもお願いしてください。今回は、劇薬であればあるほど効果が出るんです!」 「だが、逆にパニックが起きないか?」  意図は分かるが、失敗すれば逆効果になりかねない。パニックを心配したジェノダイトに、「そちらは何とかできる」とアセイリアは答えた。 「これでも一応、地球の女神なんですよ!」  少し元気が出たのだな。アセイリアの保証に、ジェノダイトは満足気に頷いてみせた。 「分かった。私からドワーブに話を通しておこう。君からの依頼だと言えば、彼は最大限の努力をしてくれるだろう」 「よろしくお願いします。それで、アズライト様のことは何か情報が掴めたでしょうか?」  リルケを出発してから、すでに3週間経過している。ジェノダイトがその間四方に手を回していたことを考えると、何かが掴めても良さそうだったのだ。  そんなアセイリアに、ジェノダイトはゆっくり首を振った。 「今のところ、不確かな情報しか入ってきていない。我々が最後にお目にかかって以来、アズライト様を見たと言う情報は出てきていないのだ。ただあるのは、噂レベルの話だけだ。ただ、その噂が噂だけに、出処も気になってくるのだが……」  出処が気になる噂とはどんな噂なのか。それを気にしたアセイリアに、「実は」と言ってジェノダイトは噂の中身を説明した。 「アズライト様がご懐妊されたと言うものだ」 「ご懐妊……妊娠ですかっ!」  驚いたアセイリアに、ジェノダイトは「ああ」と頷いた。 「ちょっと待って下さい……その意味を考えていますから」  立ったまま腕を組み、左手を顎の下に添えるような格好でアセイリアは考えた。そして考えに考えた上で、その噂の持つ意味を整理して口にした。 「間違いなく、その噂は誰かが意図的に流したものでしょう。アズライト様とヨシヒコさんの関係を知っているのは、本当に限られた者しか居ないはずです。そしてそれを知らない限り、妊娠の噂を流すとは考えられません。ただ、このような噂を流した意図までは分かりませんが……」  皇族の動静を伝えるものだと考えれば、非常に多くの思惑が重なることとなるのだろう。そして継承権を持つ皇女のスキャンダルとなると、さらに様々な考えが重なってくる。残念なことに、アセイリアには誰が何のために噂を流したのか、その意図までは推測することが出来なかった。 「今更ですが、アズライト様がご懐妊されたとなると、その子は間違いなくヨシヒコさんの子供ですよね?」 「アズライト様が、それ以外の種を受け入れるはずがないだろう。それにリルケに行くまでの時間を考えれば、十分に可能性のあることだ」  本当ならばとてもめでたいことのはずなのに、どうしても悲しいこととしか思えなかった。そして誰よりも辛いのは、アズライトだとアセイリアは分かっていた。 「この場合、皇位継承はどうなるのでしょうか?」  誰もがアズライトこそ次の皇帝になるべきだと考えている。そしてヨシヒコが消されたのも、それが理由だと全員が知っていたのだ。そのアズライトが、父親の分からない子を産むことが出来るのか。そしてその場合、彼女の持つ継承権はどうなってくるのか。あまりにも分からないことが多すぎたのだ。 「分からない。ただ、これで状況はさらに複雑になったとも思われる……が、アルハザーのことだ、完全に無視をする可能性もある。最悪、なかったことにされる可能性もある……」  最悪を口にしたジェノダイトに、なるほどとアセイリアは一つの推測が成り立つことに気がついた。 「なかったことにする話ですが、噂の主はそれを潰すことを考えたのではありませんか? どれだけ効果が期待できるのかは問題ですが、何もしないよりは聖下への牽制になるかと思います」  アセイリアの指摘に、そう言うこともあるのかとジェノダイトは可能性の一つして考えた。ただそれが真実だった場合、誰が噂を流すことにしたのか。ふと思いついた顔に、さすがにそれはないとジェノダイトは否定した。ただ否定しつつも、可能性は捨てきれていなかった。 (だとしたら、まだ望みをつなぐことが出来るのだが……)  アルハザーに対抗するには不足だが、ヨシヒコが予言した通り最後の希望には違いなかった。そうあってくれればいいのだがと、ジェノダイトは祈るように両手を顔の前で組み合わせたのだった。  キャリアに収容されたヨシヒコは、そのまま港総合病院へと搬送された。予め連絡を受けていた主治医は、すぐに胸を切開して人工心肺へと切り替えた。急速に進んだ細胞の劣化は予想以上に酷く、まるで時限爆弾が破裂したようなものだったのだ。今の地球の医療水準では、もはや手の施しようも無いと思われた。 「薬は、ちゃんと飲んでいますか?」 「本人は、2時間おきに飲んでいると……」  もともと几帳面な弟なのだから、本当に2時間おきに飲んでいるはずだ。  イヨの答えに顔をしかめた主治医、ケイ・アマギは、イヨに「ご親族は?」と確認した。グリゴンの薬が役に立たなければ、彼にできることは残されていなかった。 「両親が居ますが……今、トランスギャラクシーの旅行に出ています。連絡を入れたら、旅行を切り上げて帰ってくると言っていたのですが……何しろ、場所が場所ですし。先生、弟は……」  親族のことを聞かれるというのは、間違いなく危険な状態にあると言うことになる。なんとか薬で命を繋いできたのだが、それも限界に達したと言うことか。それにしても、あまりにも急なことだった。 「でも、今朝はちゃんと料理も作ってくれたんです……」  どうしてと言うイヨに、アマギは「分かりません」と自分の限界を告白した。 「グリゴンの薬だけが頼りだったんです。その薬が効かなければ、私達にはどうしようもないんです……」 「ヨシちゃんは。先生、なんとかヨシちゃんを助けてあげてください。そのためなら、私はなんでもしますから。お願いします、お願いします……」  ヨシヒコのことには、総領主からも全力を尽くせと命令されていた。そしてグリゴンからも、最先端医療の支援を受けている。それでも症状の進行を食い止めることも出来なかった。 「陳腐な言い方かもしれませんが、本人の生命力だけが頼りに……」  投薬を含め、出来るだけのことは全てやり尽くした。バイパスをして人工心肺に切り替えはしたが、焼け石に水だと言うことは彼が一番分かっていたことだった。生命力が頼りとは言ったが、もはやそんな状態を超えていたのだ。  もう駄目なのか、絶望からイヨが崩れ落ちそうになった時、遠くから「イヨちゃん!」と言う声が聞こえてきた。まさかと思って振り向いたイヨは、病院内を走ってくる両親の姿を見つけた。 「母さん、それに父さん……でも、どうやって」  どうしてここに両親がいるのか。それを不思議に思ったイヨだったが、そんなことはどうでもいいと気がついた。大切な弟が、もう手の施しようのない状態になっていたのだ。 「ヨシちゃんが、ヨシちゃんが……」  自分の胸に抱きついてきた娘に、母親のチエコは「分かっている」と言って頭を撫でた。そして夫の引きずってきた女性に向かって、「分かってるわね」と魂が凍えてしまいそうな顔を向けた。 「は、はいぃぃぃっ!」  一体何ごとと声の方を見たら、父親に首根っこを捕まえられた女性が居た。いや、女性と言うより、女の子と言った方が良さそうな見た目の女性だった。セーラー服に似た上下に、ひざ上のニーソックスなど、一体何を狙ったのだと聞きたくなる格好だった。見た目は、まあ、ショートヘアーが似合っているので、可愛い方に属しているのだろう。 「あ、あの、それで、私の旦那様になる人はどこに居るんでしょうか?」 「イヨ、ヨシヒコはどこに居るの?」  なにか、話がものすごくおかしな方に行っている気がしてならないが、母親の問いにイヨは「そこの処置室」と言って「関係者外立入禁止」と表示された部屋を指さした。 「シルフィール、分かってるわね」 「そ、そんなことを言われても……見てみないとなんとも言えないんですけど」  母親に睨まれてびくつく少女に、今はそれどころではとイヨは言いたかった。医者に親族のことを聞かれるぐらいに危ない状況にあるのだから、もっと危機感を持って欲しい……取り乱すのが親だろうと言いたかった。 「じゃあ、センセ。この子は帝国第3大学の学生です。専門は医学全般。手詰まりと言うのなら、頼りないけど藁に縋ってみてください」 「帝国の第3大学……」  いきなり一桁大学、そして第3だと言われてもぴんとくるものではない。目を何度か瞬かせたアマギに、「急ぎますから」とチエコは冷たく言い放った。感情の抜け落ちた高圧的な言い方は、さすがはヨシヒコの母親と思わせるものだった。 「私は、藁ですか……」  情けなさそうな顔をしたシルフィールに、チエコはまるで氷のような微笑を浮かべた。 「私達に恩と借金と約束のあることを忘れないことね」 「しくしく、もう一人の方がマシだったような気が……」  嘆いてみても、後の祭りとしか言いようがない。がっくりと肩を落としたシルフィールは、鞄から文庫本大の箱を取り出した。 「じゃあ、勝手に入りますから……」  バルディッシュと言ってその箱の表面を指で撫でると、ガチャリと音を立てて処置室の扉が開いた。 「ま、まて、無菌洗浄をしないと……感染症が……」  非常識すぎると捕まえようとしたアマギだったが、なぜかシルフィールの体を手がすり抜けてしまった。 「な、なんだ……」 「すみません。消毒処理のため一度体を原子レベルまで分解していたんです」  ごめんなさいと謝り、シルフィールはヨシヒコの処置室へと入っていった。自分の常識の通用しない相手に、アマギは呆然と後ろ姿を見送ることしか出来なかった。 「母さん、あの子は何なの? ヨシヒコのことを、旦那様になる人とか言ってたけど?」  処置中のランプが点いたところで、イヨは母親に事情を尋ねた。帝国の第3大学とか嫁とか、いきなりの話が多すぎたのだ。 「話すと長くなるんだけど……そうね、あの子の名前はシルフィール・コロニアル。本人申告では、帝国第3大学で研究中の21歳と言うことね。出会いは、ヅカリオンのカジノでヒトシさんがあの子を助けたこと。賭けでボロ負けして、身ぐるみを剥がれて売り飛ばされそうになっていたの。その借金をヒトシさんが肩代わりをして、おまけを付けて相手からむしりとってやったわ。イカサマをしていたようけど、そっちは私が封じてやったし。もっとも、イカサマ程度で負けるヒトシさんじゃないけどね」  二人らしいと感心したイヨは、そう言う事情かと「嫁」の話が分かった気がした。 「そのことを恩に感じて、あの子がヨシちゃんの奥さんになるって事になったのね?」  なるほどと頷いた娘に、チエコは「まさか」と言って大きく目を見開いた。 「もう一度賭けをして、ヒトシさんがあの子の身ぐるみを剥いだのよ。ヒトシさんへの借金が2百万エルぐらいになったかな。借金を棒引きする代わりに、ヨシヒコの嫁になることでもう一度賭けをしたの」  彼女がここにいることを考えれば、賭けの結果を聞くまでもないだろう。 「たった、2百万エルで?」  帝国第3大学の学生ともなれば、その価値はお金に換算することは出来ないはずだ。イヨにしてみれば、本当に存在したのかと言いたくなる相手だったのだ。その第3大学の学生が、たかが2百万エルで身売りをした言う。普通ならば、とても考えられることではない。 「とりあえず2百万エルってところかしら。その前に3百万エル分助けてあるし、拒否したらもっと巻き上げるつもりでいたから……帝国第3大学の学生だったら、ヨシヒコにちょうどいいと思わない? 顔もなかなか可愛いし、体の方はおもいっきり着痩せするタイプよ」  ふふふと口元を歪める様は、まるでどこかの悪徳高利貸しのようだった。出発前は固い仕事をしていたくせに、どうしてこんなに悪役が似合っているのか。善良そのものの父親との対比に、イヨは理不尽なものを感じていた。もっとも善良に見える父親にしても、いたいけな少女をカモにした鬼畜に違いないのだが。 「でも、本当に助けておいて良かったわ。その辺り、さすがはヒトシさんの強運と言うところね」 「本当に、大丈夫なの、あれで……」  直前のやりとりを見ていると、どう見ても頼りなさそうなのだ。しかも賭け事でカモにされたのを聞かされると、不安ばかりが先に立ってしまう。だが、他に手立てが残っていないのも確かだ。当たりくじでありますようにと、イヨは自分の強運にもお願いをした。 「でも、私達が居ない間大変だったようね」  そう言ってチエコは、イヨの肩を抱き寄せた。少しチエコの方が背が高いので、イヨの頭は肩にもたれ掛かるようになっていた。 「あなたの乗ってたヤマトは自爆して沈んだんでしょう。良く無事で帰ってきてくれたわ。さすがはヒトシさんの運を引き継いだと言ってあげたいんだけど……本当に大変だったわね。銀河の反対側に居たけど、地球のことは大きなニュースになっていたわよ」 「銀河の反対側まで伝わっていたの……」  辺境の遅れた星系での戦争が、20万光年離れた所まで伝わったというのだ。しかもそれが騒ぎになったと言うのだから、驚く以外にできることはなかった。 「そうね、みんな予想外の結果だったみたい。それから、地球がグリゴンと友好条約を結ぶことになったでしょう。そのことも話題になっていたわ、ね……」 「母さん、どうかしたの?」  こんな風に母親が言いよどむのは、イヨには記憶のないことだった。  それを不思議がった娘に、チエコは「気になることがある」と口にした。 「あの、アセイリアって言うのは何? あれって、どう見たってヨシヒコの女装じゃない。なんでヨシヒコが、女装なんかしてグリゴンまで行ったの?」 「アセイリアって、ちゃんと実在の人物なんだけど……」  急に何を言い出すのだと、イヨは怪訝そうな顔で母親を見た。だが娘の答えに、「あなたの目は節穴?」と言ってチエコは冷たい視線を返した。 「実在かどうか知らないけど、あれは間違いなくヨシヒコの女装よ。母親の私が言うんだから、絶対に間違いはないわ。それに今のアセイリアって、時々出てきた代役の方でしょ?」 「そんなことを言われても分からないわよ。私は、直接アセイリアを見たことがないんだもの。それに、ほとんど宇宙にいて、アセイリア自体の映像を見てないわ。ジェノダイト様が何も言っていないんだから、母さんの勘違いとしか言いようが無いわよ」  精一杯言い返したイヨに、「ふ〜ん」とチエコは納得のいかないような顔をしていた。だがこれ以上娘を問い詰めても意味が無いと、「あなた」と言って夫の方に振り返った。だが振り返った先に見えたのは、床にへたり込んで眠っている夫の姿だった。 「仕方ないか……ずいぶんと無理してもらったものね」 「無理って……何をしたの?」  分からないと首を傾げた娘に、チエコは「本当に色々」と答えた。 「そうじゃなきゃ、こんなに早く帰って来られなかったわよ。それに、あの子を連れて帰ってくることも出来なかった。私が交渉したのもあるけど、ほとんどヒトシさんがやってくれたのよ。「すべての運を使い果たしてもいい!」って言って頑張ってくれたわ。奇跡的に航路に空きが出たり、順番待ちが繰り上がったり、途中で出会った幸運は数え上げたらキリがないぐらい。ここに来るのだって、軌道エレベーターにキャンセルが3人分出たお陰だし、出発の遅れたフライトに席の空きがあったお陰だもの」  そんなところと言って、チエコは処置室脇のベンチを指さした。 「そう言う私も疲れているんだけどね。まだまだ時間が掛かりそうだから、座って終わるのを待ちましょう」 「そうね、私もずっとバタバタしていたし……」  ずっと張り続けてきた気持ちが、両親の顔を見て急に緩んでしまった。ベンチにへたり込んだところで、何故か涙が止まらなくなってしまった。 「よく、二人で頑張ったわね……」  「ありがとう」そう言って、チエコは娘の肩を抱き寄せたのだった。  シルフィールが処置室から出てきたのは、入ってからちょうど1時間が経過した時の事だった。真っ青な顔でドアから出てきたシルフィールは、後は任せますとアマギに言ってから失神してくれた。とっさにアマギが抱えて事なきを得たが、顔はげっそりと痩せ目も落ち窪んでいた。たった1時間の変化とは、とても思えない変わり様だった。  これは酷いと驚いたアマギは、すぐに看護婦をコールした。そして詰め所から掛けてきた看護婦に彼女を任せ、自分はヨシヒコの処置室へと入っていった。  どちらに付き添うべきか。本当なら息子のところに行きたいのだが、特殊処置室にノコノコと入っていくわけにはいかない。看護婦に促されたこともあり、マツモト一家はシルフィールの運ばれた病室へと移動した。アマギが戻ってくるとしたら、シルフィールの所と考えたからでもある。 「原因は分かりませんが。過労です」  アマギの代わりの医師は、シルフィールをいじくりまわしてからあっさりと口にした。 「しばらく寝かせつけて、栄養補給の点滴をしておきます。帝国第3大学の学生というのなら、目が覚めたら自分で何とかするでしょう。とりあえず命に別状はありませんので、心配はいりません」  それではと頭を下げ、アマギの代理は病室を出て行った。残されたのは、マツモト夫妻とその娘、そしてベッドで寝ているシルフィールだけだった。 「一体、何がどうなっているのかしら?」  どうして、たった1時間でこうも変わり果てた姿になってくれるのか。訳が分からないと零した娘に、確かなことが一つだけあるとチエコは答えた。 「この子が、出来る限りのことをしてくれたと言うことよ。さすがはヒトシさん、良い嫁を捕まえてくれたわ」 「お前が、助けた方がいいって言ったはずだが?」  父親の顔は、無精髭がしっかり伸びていた。普段のパリっとした姿を考えると、身だしなみを気にする暇もなく飛び回っていたことが想像できる。 「この子が、救いの神になってくれるのかしら?」 「なって欲しいと私は思っているわよ。もしもヨシヒコを助けてくれたら……」  自分に頷く夫を見て、チエコは優しい眼差しをシルフィールに向けた。 「この子を自由にしてあげないとね。お金の援助も出来るだけのことをしてあげないと。後は、二度と賭けごとに手を出さないようきつく言っておかないとね」  どう言うからくりかわからないが、シルフィールの顔は病室に運び込まれた時より健康そうになっていた。それでも顔色自体は悪いのだが、落ち窪んでいた目も今は普通に見えるようになっている。顔色の悪さも、今はかなり改善されていた。 「後は、ヨシヒコか……」  ここでヨシヒコが助かれば、それこそ本当に奇跡が起きたことになる。そんな都合がいいことはないと思いながら、奇跡が起きて欲しいとイヨは願った。弟を助けてくれるのなら、自分の運を全部持って行ってもいいと思っていた。  「神様」と今は廃れた創造主にイヨが願った時、ヨシヒコの主治医アマギが扉を開けて入ってきた。 「危険な状態は、ひとまず脱出したようです。ただ、さすがに完治までには至らなかったようですね。いつの間にか、人工心肺から自分の心臓にパイプが繋ぎ変えられていました」  凄いですねと、アマギは感嘆の息を漏らした。地球の医療水準は、帝国より大きく遅れていると言われていた。そして帝国の中でも、一桁大学は特別だと言う伝説があった。それが単なる伝説でないことを、こうして目の当たりにすることが出来たのだ。このままシルフィールを引き止め、指導にあたってもらいたいとアマギが願ったほどだった。 「詳しいことは検査を待たないといけないのですが……少なくとも、グリゴンが行った処置より適切なことは分かります。ただ、検査の結果が出るまでは、当分隔離しておいたほうがいいでしょう」  そこまで説明して、アマギは失礼しますと言って病室を出て行った。まだ分かっていないことの方が多すぎるのだが、容態が改善したことだけは確かなようだった。 「母さんが言った通り、この子は精一杯のことをしてくれたのね」 「そうね、目が覚めたら優しくしてあげないといけないわね」  チエコが優しい顔をした時、「目は覚めているのです」といきなりシルフィールが声を出した。そしてむっくりと起き上がり、パチっと目を開いてチエコの顔を見た。 「説明をしようと思うのですが、その前に甘い物と冷たい飲み物をいただけますか」 「イヨ、買ってきてくれるかしら?」  母親に頼まれ、イヨは椅子から立ち上がった。 「特に、こういった物と言う指定はあるの?」 「こちらで言う糖分の多いものなら」  簡単な指定に、了解と言ってイヨは病室を出て行った。それを見送ったところで、シルフィールはもう一度ベッドに横たわった。 「原始的な方法ですけど、糖分をとるのが今の私には最善の方法だと思います。もう少ししたら、バルディッシュで回復処置を行うことが出来ます。イヨ、さんでしたか。戻られたら、起こしてもらえますか」  そのまま目を閉じたシルフィールは、すぐにすうすうと寝息を立ててくれた。こう言う所が並ではないと、チエコは息子の嫁候補を見守った。  イヨが戻ってきたのは、病室を出て10分後の事だった。両手に飲み物と食べ物の入ったプラスチックバッグを抱えたイヨは、さあどうぞとシルフィールの前に並べてみせた。 「和洋中と甘いモノを取り揃えたわ。飲み物も、カフェイン入りから清涼飲料水まで、適当に買い揃えてきたわよ」 「と言われても、何がなんだか分からないのですが……」  それでも食べ物なのだろうと割り切り、シルフィールは月餅に齧りついた。粉っぽさのお陰で喉につかえたが、それは冷たい烏龍茶で流し込んで事なきを得た。さすがに食べにくいと、次はプリンに手を伸ばした。 「これは、冷たくて食べやすいですね。それに、甘くてとても美味しいです」  がつがつと言う表現が似合う勢いで、シルフィールはプリンを口の中に掻き込んだ。よほど気に入ったのか、指で残った部分を掬い取ったほどだった。だったらと、次は似たような容器に入ったフルーツゼリーに手を伸ばした。 「こちらも、甘酸っぱさが癖になりそうです」  同じくがつがつと食べたシルフィールは、最後はプリンと同じように残りを指で掬った。そして「甘いのがいいのなら」とイヨに差し出されたジュースを、がぶがぶと胃の中に流し込んだ。そこまでして落ち着いたのか、最後にゲップを一つしてから大きく息を吐いた。その辺り、年頃の女性としてははしたないものだろう。そう言うところを気にしないのは、ある意味一桁大学の学生だからだろうか。 「ああっ、糖分が体全体に染みわたるようです」  本当に幸福そうな顔をして、シルフィールはベッドから体を起こしたまま上を見上げた。そしてそのままの格好で、文庫本大の箱を取り出し、全体が黒一色の箱の表面を撫で、「バルディッシュ」と呼びかけた。 「細胞への栄養補給。老廃物の物質変換及び排泄。細胞への酸素供給量増加を」  シルフィールが指示をしたのと同時に、黒一色の箱にピンク色の幾何学模様が浮かび上がった。れっきとした科学なのだろうが、知らなければなにかの魔法を見ているようだった。そして幾何学模様が浮かび上がるのに合わせ、シルフィールの体をピンク色の光が包み込んだ。  その状態が1分ほど続いたと思ったら、ピンク色の光は唐突に消えてくれた。そして光が消えたのに合わせ、シルフィールは点滴を引きぬきベッドから降りた。 「その、説明前にトイレに行きたいのですが……」  事情は分からないが、「私が」と言ってイヨが立ち上がった。そしてシルフィールの手を取り、「こっち」と言って引っ張っていった。そして出て行ってから5分経過したところで、スッキリした顔でシルフィールが戻ってきた。 「それでシルフィー、もうヨシヒコは大丈夫なの?」  とりあえずシルフィールをベッドに座らせ、帰ってきた時よりは温かみのある声で、チエコは首尾を確認した。 「それなんですけど。幾つか調べなくてはいけないことが分かりました。結論から行くと、現時点では完治の見込みは立っていません。ひとまず、細胞の機能停止に歯止めをかけた。後は、多少の活性化に成功した程度です。今の状態は、少しだけ時間を稼いだと言うだけです」 「助からないの……」  多少症状が改善した程度では、いつまた悪化するのか知れたものではない。きゅっと唇を噛み締めたチエコに、シルフィールは困惑気味に「そう言う訳では」と答えた。 「調べた範囲で、おかしなことが沢山見つかりました。それを解明しないと、完治にはいたらないと思います。後は、ここでは設備が不足しているのは明らかです」 「設備不足は分かるけど。不思議なことって……説明してくれる?」  冷たい声で命令され、シルフィールはいきなり背筋を伸ばした。どうやら嫁姑の力関係は、圧倒的に姑が強いようだ。 「そのですね、分かりやすいところから行くとですね、その、旦那様の症状は過去に似た症例があったんです。ただその症例は、2千年ほど前のことで、しかも他のH種の惑星上のことでした。そしてその症例と言うのか、それは種を絶滅させる目的で使われたウィルス兵器です。細胞の分裂を阻害するのと同時に、元となる細胞の活動も停止させるという悪辣なものです。生殖細胞も影響をうけるので、子孫が残せなくなるんです。だからこの兵器を使われると、次世代が作れなくなり種が絶滅することになります。そしてこの兵器が残酷なのは、脳細胞が影響を受けないことです。自分達が滅びていくのを、死ぬ間際まで見せつけられるんです」  シルフィールの説明に、「そう言うことか」とチエコは頷いた。 「地球では報告されていない症例ということね。誰かが持ち込んだ、若しくはヨシヒコが感染する可能性のある場所に行った……そう言いたいのね?」  自動的に導き出される疑問に、シルフィールはしっかり首を横に振った。ただそう考えるのが自然とは言え、それでも問題は残っていたのだ。 「私は、似た症例と言いました。違いは、今回は伝染性がないと言うことです。それから、誰かが持ち込むと言う事はありえません。類似のウィルスは、帝星リルケにある第2大学の研究所で封印処理を受けているんです。封印は皇帝権限で行われていますから、絶対に持ち出すことは出来ません。だからこそ、私には不思議でならないんです。テラノで偶然発生をしたと言うのなら、他にも類似の症例が出ていなければ不自然です。ですが、調べた範囲で類似の症例は見つかっていません」  すなわち、ありえないことが起きたというのである。表情を険しくしたチエコは、「3ヶ月前か……」と娘の顔を見た。 「ヨシヒコが入院する前に、何か普段と違うことはなかった? 誰か、帝国から来た人と接触をしていない?」  母親の問いに、イヨは少し考えてから答えを口にした。 「その頃にヨシちゃんが行方不明になったんだけど……確か、帝国第35大学の学生と言う人と知り合いになったわね。名前は、セラフィム・メルキュール。センテニアルに合わせて、地球に観光に来た女性らしいわ。ヨシちゃんとは、かなり親密な関係になったらしいんだけど……」  娘の説明に、チエコは一つピースが嵌ったことを感じた。 「そのセラフィムと言う子が、関係している可能性があるのね?」  母親の問いに、イヨははっきり頷いた。だがチエコがなるほどと頷いたところで、シルフィールがその可能性を否定した。 「この症状だけを考えたら、その可能性は完全に否定できます。3ヶ月前に感染していたら、とうの昔に死んでいなければおかしいんです。症状の進行状況を考えたら、感染はせいぜい1ヶ月前だと思います。何も治療をしていなければ、1週間も保たなかったと思います」  どうと母親に見られたイヨは、分からないと首を振った。 「私は、年末まで軍で忙しかったから。それに、ヨシちゃんが入院していると連絡があったのは、12月30日のことだし」 「つまり、そのあたりの事情を知る人を探す必要があるということね……」  不思議な点が明確になった以上、そこから手掛かりを探していく必要がある。簡単でないのは確かだが、絶対に見つけてみせるとチエコは決意を固めていた。愛する息子をこんな目に遭わせた相手を、絶対に許してなるものか。相応の報いを与えてやると考えたのだ。 「その、他にも色々とあるのですけど……説明します?」  チエコから立ち上るオーラにびびったシルフィールだったが、なんとか勇気を振り絞って声を掛けた。睨まれるのは怖いが、黙っていて後から怖いことになるのはもっと怖かった。 「ええ、話して」  病室の気温が1度ほど下がった錯覚を覚えたシルフィールは、テーブルに置いてあったオレンジジュースを口にした。 「先程は時間的問題を指摘しました。次は旦那様の病歴です。お姉様、旦那様は最近大怪我をされた事はありますか? 調べてみたら、皮膚や筋肉、血管にもかなりのダメージが残っているのが分かりました。ただ不思議なのは、ここまでダメージが有るのなら、骨にもダメージがなければおかしいはずです。でも、骨にはダメージを受けた形跡がありませんでした」  それがおかしいと言われても、イヨも地球に居たわけではなかった。その頃は、グリゴンの侵攻に備えて火星軌道まで移動していたのである。 「ごめんなさい。センテニアル前に行方不明になって、大晦日に連絡があるまで消息が不明だったのよ。もしかしたら、グリゴンのテロに巻き込まれた可能性はあるかも知れないけど……それ以上のことは何も分からないわ。その時私は、仕事で宇宙に出ていたのよ」  何も情報がないと言うイヨに、そうですかとシルフィールは頷いた。 「シルフィー、他にはおかしな事はない?」  分からないことをいつまで考えていても時間の無駄だ。チエコは、シルフィールから可能な限り情報を引き出すことを優先した。すでに彼女の中に仮説があるのだが、その確証を得る必要があったのだ。そして今の大怪我のことも、仮説を補強する要素になっていた。 「そうですね、不思議と言うより疑問なんですけど。効果が薄いとはいえ、どうしてテラノで治療ができたのでしょうか。しかも使用された薬は、グリゴンから提供されたものです。確かにグリゴンと友好条約を結ぶと言う情報はありますが、だからと言ってこんな特殊な薬が提供されるとは思えません」 「なるほど、こっちは問いただす相手が近くにいるわね」  治療に当たった主治医が居るのだから、薬を含めて質問をすることが出来る。証拠を突きつけてやれば、白を切ることも出来ないだろう。 「分かったわ。それで、他には?」 「本質には関係のないことですけど……」  そう断って、シルフィールはヨシヒコのしていたアクセサリーのことを持ちだした。 「旦那様が左手の薬指に細いリングをしていました。あのリングの意味をご存知ですか?」  確かに本質には関係ないことだが、同時にかなり意外なことでもあった。半分虚を突かれたチエコは、珍しく間抜けな顔を娘に向けた。 「ヨシヒコって、彼女が居たの? 女っ気が無いから、シルフィーを嫁にと攫ってきたのに」 「しくしく、やっぱり私は攫われてきたのですね」  ショックを受けて泣き真似をしたシルフィールだったが、マツモト母娘はどうでもいいようだった。 「居たことは居たけど、過去形としか言い様がないわね」  ううむと唸ったイヨは、母親に「ミツルギ家」を覚えているかと問いかけた。 「ヨシヒコを殺しかけた下っ端(三等)男爵のこと?」  明らかに敬意に欠けたチエコの答えに、イヨは「そのミツルギ」と答えた。ちなみに「殺しかけた」と言うのは、彼がまだ小さな時の事だった。 「今は一等男爵に昇格したんだけどね。それはいいとして、そこの家臣にセラム・ヒワタリって子が居るの。F女に通っていて、ヨシちゃんより1つ年下で、とても家庭的な雰囲気を持った垢抜けた綺麗な子よ。ミツルギに取り込まれることを前提に、その子と付き合い始めていたわ。それが、そうね、センテニアルの1ヶ月ちょっと前のことかな。で、センテニアル前にセラフィムって子と知り合ったらしいの。それがセラムちゃんと別れた原因らしいから、セラフィムって子と付き合ったんじゃないのかな。残念ながら、私はセラフィムって子とは会っていないわ。ヨシちゃんの友達は会っているみたいだから、どう言う子かは聞いてみれば分かるけど。でも、セラフィムって子とは、音信不通になっているわ」 「帝国第35大学でしたね?」  少し考えてから、シルフィールは自分のアバターを呼び出した。爵位を持たないシルフィールだが、一桁大学の特権としてアバターを与えられえていた。 「エリオ、第35大学なら学籍名簿を調べられるわよね?」 「はい、シルフィール様」  一般人は、アバターを目にする機会は滅多にない。いきなり現れた小さな男の子に、チエコとイヨは目を丸くして驚いた。 「検索結果が出ました。第35大学に、セラフィム・メルキュールという学生は在籍していません。退学者も調べましたが、在籍した記録は残っていませんでした」 「と言うことなんですけど? 帝国大学の場合、身分を語る者が横行していると言う噂があります」  そう答えたシルフィールは、チエコの視線に慌てて言い訳をした。 「だからと言って、私の身分を疑わないでください。ほら、こうしてアバターだって持っているし、ちゃんと医学を学んでいる証拠も見せましたよね。それでも駄目なら、オンラインの学生証を見せますよ!」  自分が疑われたと思ったシルフィールは、慌てて身の潔白を主張した。  そんなシルフィールに、チエコはさらに厳しい視線を向けた。 「ホントですって。だ、だから、そんな怖い顔をしないでください」  恐怖に顔を青くしたシルフィールに、チエコは「調べて」とトーンの落ちた声で命令した。 「調べてと言われても、第35大学には記録がないんですけど……」 「でも、現実に地球にその子が来ているんでしょう? だったら、探せば手掛かりぐらい残っているわよ」  だったら、そんな怖い顔をしないで欲しい。そう思っても、姑に文句を言うだけの度胸はなかった。どうしてテランがこんなに怖いのか。口にできない理不尽さにシルフィールは怯えていた。 「地球に来たのだから、入国管理に名前ぐらい残っているでしょう」 「それって、思いっきり不正アクセス……はい、調べてみます!」  犯罪行為はちょっとと言いかけたところで、シルフィールはチエコの視線にブルってしまった。 「エリオ、ツール893を使って調べてみて!」 「いいんですか?」  エリオが気乗りしない所を見ると、とても微妙なツールなのだろう。だが怯えた主を見て、仕方がないとエリオは指定されたツールを使用した。 「検索結果が出ました。センテニアル前1ヶ月まで時期を広げましたが、セラフィムと言う女性はテラノに来ていません」 「つまり、ここにいる間は偽名を使っていた可能性がある訳ね……」  ふむと腕を組んだチエコに、「ちょっといい?」とイヨは声を掛けた。 「もしかしたら、ヨシちゃんの友達が知っている可能性があるわ。ひょっとしたら、写真ぐらいあるかも知れないわよ」  「待ってて」と言って、イヨは自分の端末を呼び出した。そしてどちらにしようかと考えてから、カツヤの方に連絡を入れた。なぜカツヤを選んだのかと言うと、ヨシヒコに聞いていた評判が決め手となっていた。 「多分、すぐに連絡をくれると思うけど……」 「だったら、それまで他のことをしていましょうか?」  もう一度腕組みをしたチエコは、とりあえず情報を整理することにした。 「ヨシヒコが行方不明になったのは、センテニアル前と言うことでいいのね。そして、大晦日前にイヨの所に連絡が来た。そのまま私達にも連絡が来て、こうして慌てて帰ってきた……その間、約3ヶ月の空白がある」  それが一つと、チエコは指を一本立てた。 「ヨシヒコの病気だけど、地球には他の患者どころか症例も存在していない。類似の症例は、他の惑星で2千年前にしかない。類似症例の正体はウィルス兵器で、皇帝権限で管理されている」  2つ目といって、チエコは2本目の指を立てた。 「ヨシヒコの罹った病気が特殊なものにも関わらず、なぜか症状の緩和方法が存在した。しかも、出処がグリゴンだった」  これが3つ目と言って、チエコはもう一本指を立てた。 「些細な事かもしれないけど、ヨシヒコは指輪をしていなかった。そのヨシヒコが、左手の薬指に指輪をしている。しかも、誰から貰ったのか分からない。唯一の候補であるセラフィム・メルキュールは、偽名であり、第35大学にも存在していない」  これが4つ目と言って、チエコは全員の顔を見た。ただ強運の持ち主である夫だけは、気持ち良さそうに船を漕いでいた。 「そして5つ目が、アセイリアと言う女性よ。私には、あれはヨシヒコの女装にしか見えないのよ」 「でも、ちゃんとアセイリアは実在しているわよ。テレビにも出ているし、グリゴンの総領主訪問を迎えることにもなっているから」  さすがにそれはないと否定した娘に、チエコはあっさりと「替え玉でしょ」と言い切った。 「さすがに、それはないと思うんだけどなぁ……」  疑いすぎと否定した娘に、だったらとチエコはシルフィールを見た。 「アセイリアの同一性を調べてくれない? 映像データーなら、いくらでも転がっているでしょう?」 「映像だけだと精度は良くないんですけど……」  さすがにそれは無いと言うつもりで、シルフィールはエリオを呼び出した。 「公開されているアセイリアのデーターを調査。虹彩、骨格、頭髪、その他比較対象を広げて同一性を確認しなさい」  「はい」と答えたエリオは、すぐにデーターベースからアセイリアのデーターを検索した。そして「もう」と驚くほど早く、照合結果をシルフィールに教えた。 「提示された条件のほか、動作のクセ等も照合しました。その結果、アセイリアと言う女性の同一性を確認しました」  エリオの報告に、「ほら」とイヨは母親の考えすぎを指摘した。 「やっぱり、母さんの勘違いなのよ」 「……おかしいわね。私が、ヨシヒコのことを見間違えるはずがないのに」  ううむと唸ったチエコだったが、エリオが同一性を保証してくれたのだ。だとしたら、娘の言うとおり考え過ぎと言うことなのだろう。 「調べたデーターでは、だろう?」 「あなた、もう大丈夫なの!?」  悩んでいたら、夫のヒトシが起きてきたようだ。まず体調を心配した妻に、ヒトシは笑いながら「復活した」と答えた。 「そのエリオが間違っているとは言わないが。チエコさんが見たのとデーターが違っている可能性は無いのか? おかしいと思うんだったら、データーから調べてみた方が良くないか?」 「父さんまで、そんなことを言うんだ……」  はあっとため息を吐いたイヨに、「当たり前だ」と言ってヒトシは胸を張った。 「俺は、そんなアバターよりチエコさんのことを信じているからな。それに、チエコさんがヨシヒコのことを見間違えるはずがない!」 「はいはい、ご馳走様。それで、どんなデーターを調べたのか分かるかしら?」  どうして両親に当てられなければいけないのか。理不尽さを感じながら、イヨはシルフィールにデーターのことを聞いた。 「エリオ、検索したデーターの情報を出しなさい!」 「はい、シルフィール様っ!」  シルフィールの指示に従い、エリオはイヨの個人画面に検索したデーターを送り込んだ。そこには、映像の他にデーターの作成された日付と場所が示されていた。 「母さん、どう? データー自体は沢山あるみたいだけど?」 「でも、私が見たデーターが入ってないわね。それどころか、古いデーターが全然無いわ。この子、センテニアルの時に活躍したのよね?」  そう言われてデーターの日付を見ると、いずれも新しいものばかりだった。一番古いものでも、せいぜい1ヶ月前の物しか無かった。 「確かに……ブドワイズ大将も、アセイリアのことを褒めていたんだけど。だとしたら、少なくとも3ヶ月前の映像ぐらいあっても良さそうね……3ヶ月前!?」  奇妙な符合に、イヨは思わず声を上げてしまった。ヨシヒコが消息を絶ったのも、およそ3ヶ月前の事だったのだ。そしてヨシヒコが居なくなったのと時を同じくして、アセイリアと言う女性が活躍をしている。母親の意見が正しければ、この奇妙な出来事に説明がついてしまうのだ。 「ねえイヨ、そのアセイリアと言う子は入院とかしてない?」 「アズライト様をお助けして死ぬほどの大怪我を負った……」  自分で口にしながら、これは当たりだとイヨは確信した。そしてイヨが確信したことを、チエコが言葉にした。 「やっぱり、本物のアセイリアはヨシヒコが化けたものだったのね」 「だから、今のアセイリアはミスが多いのか……」  その仮定に立つと、色々なことの説明がついてしまう。ヨシヒコがアセイリアの本当の姿なら、ヨシヒコはグリゴンだけでなく、帝星リルケにも行っているのだ。そしてアセイリアは、グリゴンにとっても恩人なのだ。だったらヨシヒコの病気の治療に、グリゴンが関わるのも不思議なことではない。  そこまではいい。だがそれ以上考えようとした時、イヨはどうしようも無い恐怖に囚われてしまった。もしかしたら、自分の弟はとんでもない事に巻き込まれてしまったのではないのか。どうやっても見つからないセラフィム・メルキュールのことと合わせ、触れてはいけない世界に踏み込んでしまった気がしてならなかった。 「母さん、物凄く危ないことになりかけている気がするんだけど……」 「多分、あなたの考えたとおりだと思うわよ。ここまでデーターが改ざんできるのって、間違いなく大きな権力が絡んでいるもの」  ううむとチエコが唸った時、イヨの端末にカツヤからの連絡が届いた。 「クゼ君の所にも映像データーが無かったようよ。ワイアードを調べてみても、あったはずの書き込みが消えていたらしいの。それでも、キャッシュとか色々と探してくれたみたい。なんとか、1枚だけ見つかったんだって」  それがこれと、イヨは一人の少女の姿をスクリーンに写した。黒髪を肩口で切り揃えた、どちらかと言えばおとなしそうな美少女がそこに居た。 「凄く綺麗な子ね……」  これならヨシヒコが好きになってもおかしくない。初めて見るセラフィムの姿に、凄いなとイヨは感心していた。 「確かに、とっても綺麗な子ね……シルフィール、どう思う?」 「私としては、比べてほしくないんですけど……」  自分をブスだと言うつもりはないが、はっきり言って勝負にならないとシルフィールは負けを認めていた。それぐらい、セラフィムは綺麗で品があった。 「そうね。こんな子と勝負できる子はそうそう居ないわよ」  もう一度凄いと感嘆したチエコは、シルフィールに同一性確認を命令した。 「この子と、アズライト皇女殿下の同一性を確認してくれない?」 「あ、アズライト皇女殿下とですかっ!」  ひっくり返るぐらい驚いたシルフィールに、チエコは冷静に頷いた。 「これで、私の仮説が証明できそうなのよ……」  真剣な様子のチエコに、シルフィールはゴクリとつばを飲み込んだ。イヨも気づいていたのだが、これですべての疑問が解けてしまうのだ。 「エリオ、セラフィム・メルキュールとアズライト皇女殿下の同一性を検証しなさい」  命令をしながら、シルフィールは喉が酷く乾いてくるのを感じていた。それだけ自分が緊張しているのだと、今まで以上に難しい顔をしたチエコを見て、自分の様子をシルフィールは推測した。  そしてエリオに命じた検証は、あっと言う間に終わってくれた。比較するデーターが少ないのが、検証が早く終わった理由だった。 「90%以上の確率で、両者が同一であることが確認できました」  そう言うことかと、チエコは自分ではどうしようもない所に問題が行ってしまったことを理解した。平民の自分がいきり立ったところで、皇帝どころか総領主にすら届かないのだ。何らかの不都合があって、自分の息子は始末されることになった。それが、チエコの達した結論だった。 「でも、総領主様が敵に回るとは思えないわ……」  アセイリアに化けた息子の功績を考えれば、敵対したとは考えられない。それを考えれば、総領主を頼ることもできるのだが、同時に問題はさらに難しくなってくれた。 「皇帝の逆鱗に触れてしまった?」  娘に手を出したことが問題なのか。そうとしか考えられないと、チエコは理由を男女関係に持って行った。 Chapter 3  問題が問題だけに、巻き込む人数は少ない方がいい。この先どう追い詰めるべきかと悩んだチエコは、取り掛かりとしてシルフィールを利用することにした。帝国全土を見渡しても、一桁大学の学生及び研究員は珍しい存在と言うのが理由である。それもまた、彼女がペテンの被害にあった理由とも言うことができた。希少価値の高さは、宝石などとは比べ物にならなかったと言うことだ。イヨが「たかが」と借金の金額を口にしたのも、極めてまっとうな感覚と言うことになる。  そんな学生が地球を訪れたのだから、総領主を表敬訪問しても不思議ではない。長期滞在をするのであれば、なおのこと表敬訪問しない方がおかしかったのだ。  本当なら、その足で総領主府に押しかけたかった。そんな逸る気持ちを抑え、チエコは作戦を練ることにした。総領主ジェノダイトが敵だとは思っていないが、何の策もなく訪問しても意味が無い。さらにアセイリアを捕まえ、色々と問いただしたいことが有ったのだ。  そしてもう一つ考えたのは、シルフィールに休息を取らせることだった。緊急事態と10万光年を1週間で飛び越えてきたのだが、さすがにチエコ自身体力的にきつかったのだ。そしてシルフィールが自分よりひ弱なことを考えれば、体調を考えてあげる必要がある。これから長丁場になることを考えれば、いきなり使い潰すわけにはいかなかい事情もあった。  ただ「嫁」と言うのは、もうどうでもいいと思っていた。知らないうちに嫁候補が沢山出来たのも、シルフィールに拘らなくなった理由だった。  ヨシヒコが落ち着いた夜には、チエコは家族+シルフィールでホテルのレストランを訪れた。そしてこれでもかと言うほどご馳走攻めにした上、ブティックとヘアサロンに連れ込みシルフィールを「洗練」された女性に変身させようとした。 「う〜ん、馬子にも衣装って諺があるけど……」  無理があったかとしみじみと言われ、「比較の対象が悪い」とシルフィールは文句を言った。美人で花も盛りの皇女と比べるのが、そもそもの間違いだと言いたかったのだ。 「でも、セラムちゃんって子も綺麗よ。それに、アセイリアって子だって中々のものだと思うわ」  チエコは、新たな嫁候補として2人の名前を出した。いずれも顔写真付きで見ているだけに、シルフィールには言い返すことが出来なかった。「嫁の話は忘れていいのよ」と言われた時には、なぜか喜べない自分が居た。女として否定された気がしてならなかったのだ。 「そんなことより、これからが本番だからね」  予想した通り、シルフィールの名前は絶大な効果を発揮してくれた。あろうことか、総領主が「いつでもいい」と言う面会のフリーパスを発行してくれたのだ。そしてこのフリーパスもまた、チエコの仮説を補強してくれるものだった。 「あなたも居てくれるから、まずいことにはならないと思うけど……」  不安そうな妻に頼られたヒトシは、任せておけと胸を叩いた。先日と違い、しっかり風呂に入り、無精髭も綺麗に剃られていた。一張羅のスーツに身を包んだ姿は、まるでどこかの公務員のようだった。もちろんこれは、褒め言葉などではない。 「じゃあ、行きますか」  夫婦に於いて、交渉事はもっぱらチエコの役割となる。夫を見て、そして続いてシルフィールを見て頷いたチエコは、小さく深呼吸をしてから直通エレベーターに乗り込んだ。このエレベーターが到着する先は、総領主ジェノダイトの執務室である。  殆ど加速を感じさせない高速エレベーターは、わずか20秒で数百メートルを駆け上ってくれる。減速感も無いため、到着時間を知らせるのはエレベーター内の表示だけだった。ゲージが目的地に近づいたところで、緊張からシルフィールはごくりとつばを飲み込んだ。 「あなたは、総領主があってくれるだけの価値がある人なのよ。大丈夫、あなたならちゃんとできるわ」  間もなく到着と言うところで、チエコは緊張しているシルフィールに声を掛けた。そんなチエコに、どうして緊張しないのかとシルフィールは不思議なものを感じていた。 (ひょっとして、物凄く大物?)  旦那様候補(過去形)は良く分からないが、この夫婦は得体が知れないことこの上なかった。イカサマに嵌った自分が愚かなのは反省しているが、この夫婦はそのイカサマを問題ともしなかったのだ。あろうことか、イカサマを封じること無く相手を圧倒してくれた。しかも娘の方にしても、母親ほどではないが光るものを持っている。その上父親から強運を受け継いだと言うのだから、もはや怖いものなしと言っていいだろう。  そんなことを考えているうちに、エレベーターは目指す執務室へと到着した。到着のショックは全くなく、目の前のドアはいきなり静かに開いてくれた。開いたドアの先には、青い空と青い海が広がっていた。そしてそれを背景にして、総領主ジェノダイトの執務机が置かれていた。目を手前に転じると、自分達の座るソファーが用意されていた。 「テラノ総領主ジェノダイトだ。帝国第3大学学生、シルフィール・コロニアルの訪問を歓迎する」  首の詰まったベージュのスーツを纏い、ブラウンの髪をオールバックにした恰幅のいい男性が立ち上がった。その男性こそが、テラノ総領主ジェノダイトである。  ジェノダイトに手で座るように示され、シルフィールはマツモト夫妻に挟まれるようにソファーへと腰を下ろした。 「ご丁寧なお言葉有難うございます。帝国第三大学で医学を学んでいるシルフィールと言います。そしてこちらが、テラノでの逗留先のマツモト夫妻です」  シルフィールの紹介に、マツモト夫妻は立ち上がって頭を下げた。  ここまでは、何も問題もなくクリアした。そしてここからが本番だと、シルフィールはつばを飲み込んだ。自分が話を切り出し、そしてチエコが後を引き受けてくれる。それが、予め決めておいた手順だったのだ。  だがシルフィールが話を切り出そうとしたところで、ジェノダイトが「駆け引きは不要だ」と言って先に話を始めた。 「ただ、何ももてなしをしないのは礼儀に反するだろう」  ジェノダイトが軽くデスクを叩くのに合わせて、別の場所に筒のようなものがせり上がってきた。そして筒の前面が開いたところで、黒髪をショートにした女性が現れた。紺のブレザーを着た女性は、どこかで見覚えのある顔をしていた。一つだけシルフィールが気に入らなかったのは、その女性も自分より美人だったことだ。  だが、ただのお茶くみ女性が、ジェノダイトの紹介で特別な存在へと変わってくれた。 「彼女の名は、キャンベル・アペンディッシュ。おそらく、アセイリアと言った方が分かりやすいだろう」 「つまり、私達がなぜここに来たのかご存知と言うことですね」  さすがのチエコも、総領主の前では緊張をしているようだ。普段以上に声が冷たいのだが、威圧感は逆に減っているとシルフィールは感じていた。  チエコの問いに、ジェノダイトははっきり首肯した。 「あなたのご子息は、常に我々が監視していました。従って、あなた方の昨日の会話も私の所に届いています。さすがは彼のご両親だと、感服させていただいた」 「でしたら、事情を伺っても宜しいですか?」  もちろんと頷いたジェノダイトは、「センテニアル前のことだ」と切り出した。すでにマツモト家の能力評価を終えたジェノダイトは、協力を仰ぐことに決めていたのだ。 「テラノが帝国に加わって百年を記念するセンテニアルが開かれることになった。そこで皇帝は、特使として第二皇女アズライト殿下の派遣を決定されたのだ。ただ、その決定が伝えられたのは、センテニアル開幕の11日前の事だった。なぜそこまで発表が遅れたのかと言うのは、ひとえに現皇帝の悪癖が理由になっている。「宇宙を飛び回る天災」とまで言われる皇女殿下のことを伏せることで、こちらの対策時間を奪い、混乱に拍車をかけることを意図したと考えることが出来る」  そこでチエコが小さく手を上げたので、ジェノダイトは「どうぞ」と発言を許した。 「今の皇帝聖下と言うのは、そのような性格の悪いお方なのですか?」 「皇帝聖下は、代々性格は宜しくなかった。それが、あなたへの答えとなる」  期待以上の答えに、ありがとうございますとチエコはお礼を言った。 「アズライト様は、現皇帝と皇妃の悪い所を凝縮したと噂されているお方だ。見た目の可憐さに騙されやすいのだが、行く先々で数々のトラブルを起こされている。その皇女殿下が、公式日程を10日も前倒しをしてテラノに単独で潜入されたのだ」 「それが、セラフィム・メルキュールと言う女性なのですね?」  これで一つ仮説が立証された。チエコの指摘に、ジェノダイトはゆっくり首肯した。 「皇女殿下が用意した、いくつかあるダミーの一つだ。殿下は、香港で現地当局者をおちょくった後、ヨコハマに到着される寸前に姿を消された。そしてセラフィム・メルキュールと言う名で、自由時間を楽しまれたのだ」  そこで一息置いたジェノダイトは、ヨシヒコとアズライトの出会いへと話を進めた。 「その後、殿下は興味を満たすために黄金町を訪れられた。そこであなた達のご子息に出会い、一緒にVXを経験されたそうだ。そしてVXを出た後、ご子息の学友と一緒にヨコハマの街を散策され、ホテルで夕食を取られてその日はお休みになられた」 「なぜ、息子は一人でVXに行ったのでしょう? その頃は、確かセラムさんと言うお嬢さんとお付き合いをしていたと聞いています」  説明に引っかかりを覚えたチエコに、「聞いた話だが」と前置きをして、ヨシヒコが一人で黄金町に行った理由を説明した。 「そのセラムと言うお嬢さんと、VXに行く約束をしていたと聞いている。ただ、恥をかかないようにと下見に行ったと言うことらしい。その際殿下と、偶然鉢合わせたと言うことだ」  ジェノダイトの説明に、チエコは大きく息を吐きだした。 「あの子らしいと言えばあの子らしいのですけど……ありがとう御座います。説明を続けていただけませんか?」  首肯したジェノダイトは、その後のことを説明した。 「その夜アズライト様の消息を掴んだ私達は、同時にご子息のことを知ることになった。そして姿を消した以上の混乱がなかった事に気づき、ご子息の協力を得られないかを考えたのです。そして事情聴取のためご子息を呼び出し、すべての事情を打ち明け協力を求めたのです。もっとも、何を言っても命令になるのだから、命令されたほうがスッキリするとご子息には言われだのだが……」  そう言って苦笑を浮かべたジェノダイトは、「そこから話が広がった」と打ち明けた。 「私が命令したのは、センテニアルを成功させることだった。その時考えたのは、殿下の行動をコントロールしてくれることだけだ。ですがご子息は、私が考えたのより優秀すぎたのです。渡した情報を分析し、センテニアルにおける問題が、何も殿下だけでないことに気づいてくれました。そして問題を絞り込むため、ご子息は皇女殿下を完璧に制御することを考えたのです。そこで翌日浦安の遊園地でデートをし、そこからナイトクルーズでヨコハマに帰るというルートを選択した。これは補足であり推測なのだが、出会った時から二人は惹かれ合っていたのでしょう。その殿下の気持を利用し、ご子息は自分を殺させることで殿下の心を折ったのです。そうすることで、失意の殿下はセンテニアルの遂行には脅威ではなくなりました。これで、グリゴンへの対策だけが問題として残ったことになる」 「それで、ヨシヒコは身を隠すためにアセイリアと言う架空の女性になったのですね」  これだけで、かなりの部分が解明されたことになる。大きくため息を吐いたチエコは、「まったく」と零して頭を抱えた。 「あの子が、そんな愚かなことをしでかすなんて……」 「愚かなこととは?」  やり方自体に問題はあるが、非常時だから仕方がないとジェノダイトは考えていた。だがチエコは、息子の行動を「愚かなこと」と断じてくれた。 「あの子なら、自分を死んだことにしなくても皇女殿下……とグリゴンの企てを抑えることができたはずです。そうすれば、こんなことにならなかったのに……」 「自分を死んだことにする必要が無かった……と?」  確認したジェノダイトに、チエコははっきりと頷いた。 「方法なら、いくらでもあったと思います。そしてこれは、母親としての贔屓目と言うことではありません。ただ、息子が愚かなことをした理由はおぼろげながら想像ができますが……」  左手で顔を抑えて嘆いたチエコに、「それは」とジェノダイトは尋ねた。 「先ほど総領主様が仰ったとおりのことです。あの子は、愚かしくも皇女殿下に恋をしてしまったのでしょう。叶うはずのない恋と言うことも分からないほど、頭に血が上っていたのでしょうね。あの子らしくはないのですけど、母親として気持ちは理解できます。私も、夫と知り合った時には、似たようなものでしたから」  失礼しましたと一言謝罪したチエコは、ジェノダイトに説明を続けることを求めた。 「なぜ、あの子がグリゴンにまで行くことになったのですか? 総領主様の命令も高校生には過剰な期待だと思いますが、その上グリゴン代表団に加わると言うのは、あまりにも過剰な命令だと思います」 「そのあたりは、私が彼の知恵を借りたくなったのが大きな理由なのだが……」  そこで言葉を切り、ジェノダイトは飲み物で喉を湿らせた。 「センテニアルに向けて、遅まきながら統一した作戦本部を組織したのです。陸海空宙の4軍、および警察と総領主府から人材を集め、広くセンテニアルにおける治安対策、円滑な運営を行うためと言うのがその目的だった。そこにご子息は、皇女殿下をお守りするためと参加を希望した。その時に使用した名前が、アセイリアと言うものだっだのです。モデルとして彼女を利用したのだが……」  ジェノダイトに見られたキャンベルは、緊張したように背筋を伸ばした。 「そこで、アセイリアとなったご子息が、予想以上の活躍をしてくれたのです。4軍の将を唸らせる働きは、アセイリアと言う名を関係者の中に知らしめてくれました。そして彼のおかげで、センテニアルの被害も最小限に抑えることができたわけです。メインベルトの戦いは関与していませんが、勝利の陰にはご子息が帝国艦に偽装したグリゴン艦を見破ったことが大きな意味を持っていました。そしてグリゴンのテロに対して、ご子息は身を挺して殿下を守ってくれました。そのおまけで、私もご子息に命を救われているのです。100名ほど貴賓室に居た中で、生き残れたのは殿下と私の2名だけだったのです」  ジェノダイトの説明を聞きながら、シルフィールはヨシヒコの能力を分析していた。その結論は、この母親より凄いのではと言う所に今の所落ち着きそうだった。これで父親の強運を引き継いでいたら、末恐ろしい少年と言うことになる。大学に連れて行って、研究材料にしたいと思ったぐらいだ。 「昨日のあなたの分析を聞いて、ご子息の卓越した能力の理由が分かった気がしました。説明を続けますが、結果的にセンテニアルはグリゴンのテロによって失敗に終わりました。ただ、被害が抑えられたことに、ご子息の貢献が大だったことは確かです。あの殿下でさえも、そのことを認めてリルケに帰られたぐらいです。そして時を同じくして発生した衝突は、宇宙軍の活躍でグリゴン軍を撃退しました。ただ、受けた被害は甚大であり、再度の侵攻が行われれば、さらに多くの犠牲を出していたことでしょう。それを考えれば、話はここで終わるはずだったのだ……」 「息子が、グリゴンに行く理由が無かったと言うことですね。確かに、地球にはグリゴンに乗り込むだけの実力はありません。仰る通り、その気になればグリゴンはいくらでもやりようがありますからね。彼らには、こちらの主張を聞く理由は無いのでしょう」  チエコの的確なコメントに、やはりヨシヒコの母親なのだとジェノダイトは評価した。 「そうですな。私も、対グリゴンではなく、テラノ内部の問題をどうするかが課題だと思っていた。ただ、皇女殿下が何かをしてくると言う予感だけはあったのです。同時に、皇帝聖下の動きも気になっていたのです」  すなわち、地球側だけの理由で運ばなくなったと言うことになる。そこでまた、アズライトとの関係が浮かび上がってきたのだとチエコは考えた。ただ、相手が相手だけに、まだ幼い恋心程度と考えていた。 「皇女殿下は、グリゴンに対して制裁を行うおつもりだったと聞きました。それだけなら、テラノに声を掛ける必要はなかったでしょう。そこで、ご子息との関係が浮上したのです」  そこで言葉を切ったジェノダイトは、説明を迷うように少しだけ目線を宙に彷徨わせた。 「噂と言う不確かな情報であること。そして、この話が広がった影響の大きさから、お伝えするべきかどうか迷ったのですが……やはり、ご両親には知る権利があるのでしょう。そして、このことを知ることで、状況理解が深まると思っています」  ジェノダイトの前置きに、アセイリアはアズライトが妊娠したことを伝えるのだと理解した。 「現時点で、アズライト皇女殿下の所在が分からなくなっている。我々とともに帝星リルケに帰られた後、ぱったりと行方が分からなくなったのです。そしてしばらくして聞こえてきた噂が、皇女殿下がご懐妊されたと言うものです。その場合その子供の父親は、あなたのご子息以外に考えられません」  ジェノダイトの説明に、マツモト夫妻は言葉を発することができなくなってしまった。恐れていた中でも、一番ありえない、そしてあってはならないことが現実に起きてしまったのだ。相手の立場を考えれば、闇に葬られても仕方がないと思えるほどだった。 「ヨシヒコは、そこまでの禁忌を犯してしまったと言うことですか」  それを聞かされれば、絶望以外残された物は無い。帝国に生きる者にとって、皇帝を敵にするのは死を意味することだった。 「私達も、罪を免れないと言うことですね。子供のしでかしたことですから、親として責任をとることに迷いはありません。ただ、この子は無関係ですから、無事大学に戻れるようにしてあげてください。それから、私たちの資産は、できればこの子に渡してあげてください。息子の治療費と言うことにすれば、名目も立ってくれるでしょう」  そう言って自分の顔を見た妻に、ヒトシは柔らかな笑みを返した。 「ただの庶民が、皇女殿下を孕ませたんだ。表ざたになることは無いだろうが、剛毅なことには違いない。誉めるようなことではないのでしょうが、親としてはむしろ誇らしいぐらいです。笑って責任をとろうではありませんか」  なあと夫に見られ、チエコは大きく頷いた。そんな夫婦に、「早とちりは良くない」とジェノダイトは苦笑を浮かべた。 「このことについて、責任とか言う話を持ち出すつもりはありません。双方合意の上のことならば、野暮なことを言うなと言うのが私の立場なのです。ただ、ご子息に何が起きたのか。その理解に役立つと考えたからこそ、皇女殿下にまつわる噂をお伝えした。それだけのことと、考えて欲しい」 「普通、それだけで十分に問題になりませんか?」  ですよねと、チエコはアセイリアやシルフィールを見て同意を求めた。もっとも、アセイリアは、気まずげにチエコから目を逸らしてくれたのだが。 「これまでの皇女殿下が行ってきたこと、そして今回ご子息がきっかけを作ったこと。その意味について、ご子息を絡めて話をしています。今の皇帝アルハザーは、私の古くからの友人なのです。彼は、「物語」と言う言葉を好んで使っている。物語を生まない世界は、滅びに向かった世界なのだと。だから、どのような物語、それがどうしようもない悲劇だとしても、何もないよりは有った方がずっといいと言うのが彼の口癖でした。そして歴代皇帝は、物語を生むための要素として、ザイゲル連邦を活用してきた。一番構成比が大きく、真面目で好戦的な性格を利用し、H種に対する敵意を生み育ててきたのです。テラノだけで考えてみれば、グリゴンにセンテニアルにちょっかいを掛ける理由は存在しない。だがテラノがH種で、そしてアルハザーと近い私が総領主として赴任し、しかもグリゴンの天敵であるアズライト皇女殿下が来賓として出席される。歴代皇帝の仕掛けが、発動するのに条件が揃ったのです。だから彼らは、艦隊を派遣するだけではなく、同時にアズライト皇女殿下も亡き者にしようとしました。これで、悲劇の物語を生むための土壌が出来上がったと言うことになるわけです。グリゴンが派遣した艦隊は、マルスで大虐殺を行う予定でした。およそ20億の死が、一つの物語の序章として綴られることになるはずだった……」  もしもその被害が現実のものとなっていたら、一体地球はどうなっていたのだろう。それを想像することは、さすがのチエコも肝が冷えることだった。それはヒトシも例外ではなく、夫婦そろって顔をこわばらせた。 「結果的に、マルスでの大虐殺は防ぐことができました。ただ、この話はそこで終わりではなく、新たな大虐殺の種が、グリゴン側で蒔かれることになったのです。アズライト皇女殿下が、グリゴン総領主ドワーブに対して、暗殺計画への罰として星系消滅を基準として示された。すなわち、100億を超える人命を、償いとして差し出せと命じたのです」 「100億以上の命を奪う……」  その決定は、チエコの生きてきた常識を超える物だった。そんな世界に息子が関わっていたとは、いまだ信じられない気持ちだった。  そしてジェノダイトは、チエコの言葉を待たずに説明を続けた。 「グリゴン総領主ドワーブには、アズライト皇女殿下の査定に従う以外の方法は無かった。だが、領主として無辜の領民を殺す決定ができるはずがないのです。だからドワーブは、私に助力を求め泣きついてきた。そしてご子息の助力を得て、皇女殿下を納得させる答えを出したのです。それが、テラノとグリゴンが、友好的関係を構築すると言うものでした」 「それが、皇女殿下への答えになったと……」  待ってくださいと言って、チエコはその答えの意味を考えた。事前にジェノダイトから、歴代皇帝の方針も聞かされている。そこに関係があるのなら、友好関係を結ぶことが、どのような意味を持ってくるのか分かるだろうと。  そして黙り込んでから5分後、チエコは息子に死の運命が与えらえらた理由に辿り着いた。 「皇帝聖下は、歴史的転換の前にもう一つ分岐を設けられたと言うことですか」  チエコの答えに、さすがはヨシヒコの母親だとジェノダイトは感銘を受けた。 「さすがと言うしかありません。ご子息は、聖下が私に対して選択を突き付けたのだと指摘してくれました。主導権は聖下にではなく、私の手の中にあるのだと。私の選択次第で、歴史的転換は幻に消えることになると」  「ただ」と、ジェノダイトはそれだけで終わらないのだと話を続けた。 「彼の巻いた種は、実はそれだけでは終わらなかった。これまでザイゲル連邦にとって、皇帝と言うのは憎むべき、そして強大な敵であり続けたのです。ただ憎んではいても、その存在は無視することはできず、ある意味畏怖さえ抱いている存在だった。だが、ご子息との間で、聖下は直接の対決を避け臭いものに蓋をすることしかしなかった。今度の出来事で、ドワーブは皇帝に対して疑問を感じ始めたのです。自分達は、皇帝と言う虚像を恐れていただけではないのかと。おもちゃで遊ぶ、ただの子供でしかないのではないかと。その結果、意識の上で、帝国にほころびが生じてしまったのです。今は小さな綻びかもしれないが、この綻びを繕うことは今の皇帝には不可能なのです。これが他の種にまで広がった時、帝国は今のままではいられなくなる」 「その種を、私たちの息子が撒いたのだと……」  ごくりと大きくつばを飲み込んだ夫婦に向かって、ジェノダイトとアセイリアは大きく頷いた。 「それが、今回の出来事の顛末になる。そしてそれこそが、ご子息が殺される理由になったのだと考えています」  そこまで説明して、ジェノダイトは大きく息を吐き出した。 「ご子息のことですが、グリゴンは全面的な支援を約束してくれています。皇帝とは関係なく、彼らは自分のためにご子息の命を救おうと頑張ってくれています。ここまでご子息の命が長らえたのも、彼らの協力があってこそだったのです。それでも、我々には限界がありました」  苦虫をかみつぶした顔をしたジェノダイトに、「ウイルスですね」とシルフィールが口をはさんだ。 「ああ、まさに原因となるウイルスが特定できないのだよ。それができれば、対策も可能となるのだが……」  それができていないと答えたジェノダイトに、シルフィールは残酷な現実を突きつけた。 「おそらく、ザイゲル連邦では不可能だと思います。元が種族絶滅用の細菌兵器だと考えれば、特定できるような組成をとっているとは思えません。元となるウイルス情報は存在していますが、アクセスするには聖下の許可が必要となります。今のお話を伺った限り、とてもではありませんが許可が出るとは思えません。残念ながら、私にも詳細情報は開示して貰えませんでした」 「アルハザーが許すはずはないか……」  そうなると、ヨシヒコを救うことは不可能と言うことになる。目の前のシルフィールが無理と言うのなら、おそらく誰を連れてきても不可能に違いない。 「手がかりさえ掴めればと思ったのだが……やはり、アルハザーは甘くは無かったか」  そう言って嘆いたジェノダイトに、シルフィールはしっかりと頷いた。 「それに、今から特効薬ができても、失われた部分まではどうにもなりません。細胞の活性化、再分裂に成功したとしても、だん……彼の体の機能は大きく傷ついているのです。どこと言うのも憚られるほど、体全体が蝕まれています。そして活性化させた細胞は、新しい細胞を生み出さない限り、いずれ老化によって死を迎えます……活動を抑えて寿命を延ばすことは可能ですが、それほど長くはもたないと言うのが正直なところです。今の体を諦め、根本的に作り直す以外に彼を救うことはできません。ですが、健康時の彼の生体詳細情報はどこにも残っていないかと思います。そんなものが管理されているのは、皇族かさもなければ私のような特殊な立場の人間だけです」  救えないと言う死刑宣告なのだが、チエコはその宣告を意外なほど冷静な気持ちで受け止めていた。息子が関わった問題を考えれば、今生きている方が逆に不思議に思えたのだ。自分達が居た場所を考えれば、生きている息子に会えたこと自体、奇跡に等しいことだと思えていた。 「やっぱり、ヨシヒコは助からないのね……」  それでも、失望、絶望を感じるのは親だから仕方がない。恐怖の姑だったチエコが、その存在感を失っていたのだ。その理由を考えると、シルフィールとしても何とかしたいと思っていた。だが、何をどう頑張ったとしても、できないことができるようになるはずがない。それは、たった今自分が口にしたことだったのだ。 「こんな時にお願いすることではないのは承知しているのだが……」  悲嘆にくれる夫婦を前に、ジェノダイトは領主として求められる行動をとろうとした。だがジェノダイトがお願いの中身を口にする前に、チエコは「息子が申し上げたかと思います」と先回りをした。 「私達の立場を考えれば、お願いはそのまま命令になります。でしたら、初めから命令をしてくだされば結構です」  そこでふうっと息を吐き出したチエコは、ジェノダイトの言葉を待たずに「お受けします」と答えた。 「親として、息子の後始末をする義務があると思っています。それ以上に、息子の残したものを守りたいと思います。新しい世界の枠組みを息子が作ったと言うのなら、それを守り育ててあげるのが親の務めでしょう。ですから、総領主様にお願いいたします。私にも、アセイリアさんのお手伝いをさせていただけないでしょうか?」  お願いしますと頭を下げられ、アセイリアは慌てて立ち上がって「こちらこそ」と頭を下げた。それを笑顔で受け止めたチエコは、ジェノダイトにもう一つお願いをした。 「お願いをしておいて厚かましいとは思っていますが。総領主様、シルフィールへの便宜をお願いいたします。息子を救えないと分かった以上、この子を地球に引き留めておく理由が無くなりました。この子には、この子なりの未来があると思います。帝国第3大学に入学した意味を考えれば、引き留めておくのは親の我が儘でしかありません」 「お義母さま……」  両手で口元を隠したシルフィールに、チエコは優しく「ありがとう」と声を掛けた。 「もう二度と、賭けごとをしてはいけませんよ。そしてあなたは、自分の価値を忘れないようにしないといけません。100万や200万エルなど、あなたの価値の前にははした金なんですからね。後から治療費を振り込みますから、無駄遣い……ではありませんね。足りなかったら、催促してくださいね。ありがとう、僅かな時間かもしれないけど、息子といられる時間を作ってくれて」  もういいと口にしたチエコに、シルフィールは「一方的です」と文句を言った。 「息子の嫁になれと言って連れて来たくせに、もうお払い箱なんですか。そんな勝手な話……私は、一体何なのです! 私は、あなた達の子供になる覚悟を決めてきたんですよ!」  おかしいですと文句を繰り返したシルフィールに、チエコは笑みを浮かべていたのだが、その笑みは明らかに引き攣ったものだった。 「縁が無かった……これ以上の縁が繋がらなかった。ねえアセイリアさん、あなたもそう思うでしょう?」 「私は……」  自分のことに気づいているのだ。チエコの目にそれを感じたアセイリアは、それは違うと首を横に振った。 「私とヨシヒコさんの縁は、まだ繋がっていると思っています。私が諦めず、そして私がアセイリアとして生きていく以上、私達の縁が切れることは無いと思っています」 「まったく、ヨシヒコは……」  ため息を吐いたチエコは、助けを求めるように黙って聞いていた夫の顔を見た。だが同じように困った顔をした夫に、仕方がないともう一度ため息を吐いた。 「好きになさい……私には、それ以上言えることは無いわ」  がしがしと頭を掻いたチエコは、強く息を吐いて立ち上がった。 「アセイリアさん、いつまでもこんなところで油を売っている時間は無いのでしょう? でしたら、統合司令本部……ですか、そこに私を連れて行ってください。息子のお世話になった方たちにご挨拶をさせていただきます。そのあとは、そうですね、どこか隅っこに席でも作ってください」 「あのぉ、私は……?」  なにか、途中から忘れられたような気がしてならない。恐る恐る手を挙げたシルフィールの肩を、ヒトシが隣からぽんぽん叩いた。 「お義父さま?」 「これからのことは、帰って相談することにしようか」  やれやれと呟いて立ち上がったヒトシは、ジェノダイトに向かって腰を45度折り曲げるお辞儀をした。 「家内の我が儘を聞いて下りありがとうございます。そして息子へのこれまでのご厚情に感謝いたします。短い時間でしたが、息子は一生分の経験をしたのでしょう」 「こちらこそ、私は受けた恩を返すことができなかった……」  それが悔しくて仕方がない。そう吐き出したジェノダイトに、ヒトシは立場を持ち出した。 「息子は、与えられた仕事を遂行しただけです。立派に遂行したのであれば、それは総領主様の人を見る目が確かだったと言うことです。仕事を無事遂行しただけですから、恩などと考えていただかなくても結構と言うことです。総領主様には、まだなさねばならないことがあるでしょう。微力でしょうが、妻を手伝いにおいていきます」  よろしくお願いしますと頭を下げてから、ヒトシは不満そうな顔をしたシルフィールを見た。 「とりあえず、何か旨いものでも食いに行くか。確か、甘いモノが好物だったな」 「何か、おもいっきり誤魔化された気がするのですが……」  そうは言っても、ここに残ってもすることは無い。そしてヨシヒコへの処置にしても、調べ物が終わらなければ、これ以上は手の施しようがなかったのだ。ここから先は、いかにして第二大学の管理領域に忍び込むか。それぐらいしか打開策が見つからなかった。 「チエコ、アセイリアさんの手伝いを頼んだぞ」 「できたら、イヨと付き添いを代わってあげられる?」  そろそろ、娘も仕事に戻る時が近づいている。これからのことを考えれば、軍務の重要さはますます増していたのだ。 「そうだな、敵はザイゲルだけではないだろうからな」  意味深な言葉を残し、ヒトシはシルフィールを連れて、ジェノダイトの執務室を出て行った。それを見送ったところで、「さて」と言ってチエコはアセイリアをじっくりと検分した。 「あ、あの、私が何か?」  ヨシヒコの母親だと思うと、どうしても気後れするものを感じてしまう。緊張から顔を引き攣らせたアセイリアに、「あの子と寝た?」とチエコは爆弾発言をした。 「え、ええっと……」 「怒らないから、正直に言っていいのよ。ちなみにあの子は17歳だから、厳格に言うと淫行罪になるのだけど……その点は見逃してあげるから。今のうちに、正直に言っておいた方が身のためよ」  どう? と迫られたアセイリアは、「その……」と言葉に詰まってから、諦めたように白状した。 「その、一度だけ……それ以外は、さんざん玩具にされましたけど。最後まではしてくれませんでした」 「我が息子ながら、酷いことをするものね……」  ため息混じりに同情したチエコに、「その通りです」とアセイリアは身を乗り出した。 「女心を弄ぶ悪魔だと思いました。そのくせ弄ぶだけ弄んで……いえ、弄ばれた私も悪いんですけど。それに私のほうが年上だし。アズライト様と言う方が居らっしゃるのも知ってたわけで……」  それでもと、アセイリアはヨシヒコの良いところを強調した。 「私に、新しい世界を見せてくれたんです。彼と出会わなければ、私は目立つこともなく、一生地球に縛り付けられていました。そんな私が、グリゴンだけじゃなく、リルケにまで連れて行ってもらいました。変わっていく世界を、目の前で見ることができたんです! その変化に、関わることができるようになったんです!」 「褒めるのか貶すのか……複雑な関係だったのね」  まあいいわと。チエコはそれ以上拘らないことにした。 「いつまでも、総領主様の執務室で油を売っていては駄目ね。場所を変えて、じっくりとお話を聞かせてもらうことにするわ」 「じっくり、ですか……」  一体何を言われるのか。相手が相手だけに安心できないのは、息子を思い出せば理解できる。一体どんな親子なのかと、アセイリアは初めから苦手意識を隠すことが出来なかった。  グリゴンからテラノ迄は、ゲートを使えば2日ほどの距離となる。だがアセイリアの依頼で大艦隊を揃えたこともあり、平和条約締結の6日前にドワーブはザイゲル艦隊を出発させた。依頼に従って集めた艦隊は、総数で30万を超えると言う巨大なものである。しかも衛星級の要塞まで含まれると言う、帝国との戦争でも揃えられたことの無い大戦力が揃えられた。要塞のせいで足が遅くなったのが、出発を早めた理由である。  これだけの艦隊ともなると、グリゴンだけで揃えるのは不可能である。それもあって、ザイゲル連邦に協力を求め各星系から艦隊を借用したのである。それでも集まった数は、保有艦艇数の1%程度ではあるが、歴史的大艦隊であるのは間違いは無かった。 「このような数を揃えて良いのか?」  オブザーバーとして同行したロミュレズ星系総領主、ゴーゴレスは帝国を気にした言葉を吐いた。見た目だけを持ち出せば、立派に侵略行為に見えるのだ。 「いくら軍事目的ではないと言え、目立つことは好ましくないだろう。これでは、介入の口実を与えることになるぞ」  少し神経質に見える顔をしかめたゴーゴレスに、ドワーブは不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「別に、俺は帝国などどうでもいいのだがな」 「どうでもいいのは分かるが、邪魔をされたら面倒だろうに」  気まぐれで艦隊を派遣されたら、こちらが大打撃を負うことになりかねない。それを気にしたゴーゴレスに、ドワーブはもう一度どうでもいいと答えた。 「そんなもの、無視して通ればいいだけのことだ。撃ちたいのなら、勝手に撃たせておけばいいだろう。すぐにテラノの艦隊と合流するから、奴らに攻撃する大義など存在しない」  不機嫌そうに答えたドワーブは、「なあ」とゴーゴレスに話しかけた。 「俺は、もう、本当に、心の底から帝国などどうでもいいのだ。正確に言うのなら、アルハザーの相手をする気が失せてしまったのだ。相手にするから腹が立つのであって、どうでもいいと思えばただ面倒なだけになる。なにか言ってきたら、適当にあしらってやればいいだけのことだ」  本当にどうでも良さそうに言うドワーブに、ゴーゴレスは小さくため息を返した。 「一番の反皇帝派だったお前が……変われば変わるものだな」 「テラノの少年に、目を覚ましてもらっただけのことだ。そしてその少年への仕打ちが、あまりにもみすぼらしかったのだ。だから、どうしてあんな小物を相手にしていたのかと疑問に感じたのだ。代理を使ったアズライト様とのやり取りの方が、余程見ごたえがあったのだぞ。俺達の罪を許したアズライト様に、俺は初めて人として敬意を抱いたぐらいだ」  それだけだと答え、ドワーブはテラノからの連絡を待った。ここからゲートに入れば、テラノまでは2日の距離に辿り着ける。テラノ側に出たところで、その先を先導して貰う手筈になっていた。 「知っているかドワーブ。シレナの奴らも、お前の意見に賛同を始めたぞ。今はまだ少数だが、この流れが加速すれば、帝国は今のままではいられなくなる」  くっくと笑いをこらえたゴーゴレスは、「面白いな」とドワーブの変心を笑った。 「俺達の敵意が、結果的に帝国を支えていたと言うことだ。なるほど、アルハザーの奴が、血相を変えてテラノの坊主を葬るはずだ」 「ふん、つまらない話に違いない」  付き合いきれるかと吐き出したところで、ドワーブの元に一通の電文が届いた。 「ドワーブ閣下、テラノ総領主ジェノダイト閣下からの連絡が入りました」 「読んでみろ」  ドワーブの命令に、通信士官は「はい」と言って背筋を伸ばした。 「テラノは、グリゴン並びにザイゲル連邦代表の来訪を歓迎するだそうです」 「これで、帝国は攻撃する口実を失ったと言う訳だ」  くっくと笑いを漏らしたドワーブは、部下に「帝国は?」と見えない艦隊の存在を確認した。 「艦影は捉えていませんが、通常見られない重力変動が観測できています」 「こっそり隠れて、こちらの様子を窺っているという所か。併走する度胸もない臆病者め」  そう吐き捨てたドワーブは、30万を超える艦隊に命令を発した。 「ゲートの向こう側では、女神が我々を迎えてくれる。隠れて見ている帝国艦など気にしなくていい。全艦、テラノ宙域へと進行を開始する!」  ドワーブの命令に従い、30万を超える大艦隊はゆっくりとゲートへと移動を開始した。通常ゲート進入に時間は掛からないが、30万もの数ともなれば、順番待ちだけでも気の遠くなるような時間が掛かってしまう。それでもグリゴン・ザイゲル連邦艦隊は、隊列を乱すことなく整然とゲートを通って行った。  一方テラノ側は、大艦隊を迎え入れる準備に大わらわとなっていた。僅か8千の艦隊で、30万もの艦隊を案内する必要がある。要塞級まで含まれているとなれば、緊張するなと言う方が無理な相談だった。 「これが、戦争でなくて良かったと言うべきか……」  ヤマトが沈んだこともあり、地球艦隊は新たに宇宙戦艦ビスマルクを旗艦に設定していた。その艦橋に立ったブドワイズ大将は、次々と現れるザイゲル連邦の戦艦を前に感嘆の声を漏らした。ゲートを超えて現れた戦艦は、いずれもビスマルクを超える巨艦ばかりだったのだ。その威容を見せられれば、ブドワイズ大将が感嘆の声を上げるのも無理のないことだ。そして感嘆する以上に、肝の冷える光景でもあった。もしも彼らが帝国法を無視すれば、今度こそ地球は終わりを迎えることになってしまう。 「本当に、彼らは約束を守ってくれるのか?」  大艦隊を地球圏に呼び込む口実を作ってしまった。こちらから依頼したこととは言え、大丈夫だと言う確信をブドワイズ大将はもてなかった。  そんなブドワイズに向かって、旗艦に同乗したアセイリアは普段通りの表情で答えた。 「私の保証では不足でしょうか?」  大艦隊を前に、アセイリアは少しも動じたところを見せなかった。それをさすがと、改めてブドワイズ大将はアセイリアを評価した。 「いや、それで十分だ……」  それでも緊張してしまうのは、ますます膨れ上がる大艦隊を前にすれば仕方のないことだった。そんなブドワイズ大将に、アセイリアにしては珍しく笑みを浮かべ、もう一度大丈夫だと繰り返した。 「今回は、私だけではありませんからね。運の方は、マツモト准尉に受け持っていただきました。確かマツモト准尉は、守り神と言われているのですよね?」  女神と守り神が揃ったのだから、たとえザイゲル連邦でも恐れることは無い。アセイリアが保証の言葉を口にした時、通信士官がザイゲル側から通信が入ったことを報告した。 「グリゴン総領主ドワーブ閣下からの通信です」  いよいよ本番だと、ブドワイズ大将はごくりとつばを飲み込んだ。 「君に任せていいのか?」 「はい、ドワーブ閣下は存じ上げておりますので」  堂々と答えるアセイリアに、ブドワイズ大将は小さく頷いた。そして通信士官に対して、接続するよう命じた。そして命令から少し遅れて、正面のスクリーンにドワーブの顔が映し出された。最初は怖いと思った顔も、慣れた今では別に何も感じなくなっていた。 「こちらは、グリゴン総領主ドワーブだ。なるほど、あなたが出向かえに来てくれましたか」  珍しく笑顔を浮かべたドワーブは、「久しぶりだな」とアセイリアに挨拶をした。 「こちらこそ、お久しぶりです。無理なお願いに応えていただきまして、感謝の言葉もありません。グリゴン及びザイゲル連邦との友好関係が広がることを期待しております」  教科書通りの挨拶をしたアセイリアは、それからと言ってイヨの顔を見た。 「こう言った場で個人的な紹介をするのは気が引けますが、閣下に是非とも紹介したい人が居ます」  アセイリアに見られたイヨは、「私ですか」と顔を引き攣らせた。ただしっかりと頷かれては、前に出ない訳にはいかない。さらに顔の引きつりを大きくしたイヨは、しぶしぶとアセイリアの隣に並んだ。 「彼女は、イヨ・マツモトと言います。地球艦隊の守り神と言わているのですが。それ以上に重要なのは、私の思い人のお姉様です」  アセイリアの紹介に、ビスマルクの艦橋に小さなざわめきが起きた。これまで噂レベルで囁かれていたことを、初めてアセイリアが公式に認めたのだ。  だが紹介を受けた方のドワーブは、大きく目を見開き驚いたと言う顔をした。だがすぐに驚きは笑みに代わり、大きく頷いて「なるほど」と答えた。 「我が艦隊は、無謀な戦いを挑んだと言うことか。そして、テラノが私達を最高の礼をもって出迎えていただいたことを理解した。積もる話はあるが、今はスケジュールを進めることを優先しよう。申し訳ないが、テラノまで先導していただけないか」 「私達の足が遅いことを、あらかじめ謝罪しておきます」  ドワーブに一礼をしたアセイリアは、緊張を隠さないブドワイズ大将に目配せをした。出迎えの挨拶を終えた以上、ここから先は宇宙軍の領分となったのだ。  そのまま固い表情で頷いたブドワイズ大将は、幕僚達にザイゲル連邦艦隊先導の指示を出した。いまだ相手への恐怖の抜けない幕僚達だったが、指示を受けて一斉に手配を開始した。 「ではドワーブ閣下。明後日の歓迎レセプションでお会いできるのを楽しみにしております」 「楽しみだと、ジェノダイトにも伝えておいてくれ」  その時ドワーブがにっと笑ったのは、もしかして愛嬌を示したのだろうか。残念ながら外しているなと、アセイリアは似合わないことはするものではないとドワーブの努力を評した。 「やはり、君は凄いな……」  通信が切れたところで、艦橋全体にほっとした空気が広がっていた。それほどまでに、ドワーブとの通信は全員に緊張を強いたものとなっていた。それを堂々と乗り切ったアセイリアに、ブドワイズ大将は心から称賛の言葉を贈ったのである。ますます息子の嫁にしたいと考えるようになったのも、状況を考えれば当たり前のことだろう。競争相手が多いのは分かっているが、それでもと考えてしまうほどアセイリアには魅力があった。 「いえ、私は、仲間に支えられて今があるだけです。ところでブドワイズ閣下、一つお願いがあるのですが、宜しいでしょうか?」 「お願い……何かな?」  改めて言われるようなことがあるのか。それを気にしたブドワイズ大将に、アセイリアは微笑みながら「大したことではありません」と答えた。 「これから休憩を取りたいのですが、マツモト准尉をお借りしてよろしいでしょうか?」 「マツモト准尉を?」  なぜと思ったが、直前のやり取りをブドワイズ大将は思いだした。 「マツモト准尉、アセイリアさんをご案内しろ!」 「マツモト准尉、アセイリア様をご案内いたします!」  れっきとした命令である以上、イヨに疑問をはさむことは許されていない。ブドワイズ大将に敬礼をして、イヨはアセイリアに向かって「こちらにどうぞ」と背中を向けた。そして少しぎこちない歩き方をして、アセイリアを連れてイヨは艦橋を出て行った。当然二人が消えた後には、そこかしこでひそひそと話し声が響いていた。  艦橋を出たところで、「やめてください」とイヨはアセイリアに文句を言った。 「どうして、あんな目立つ真似をするんですか!」  自分はあくまで准尉でしか無く、アセイリアとは立場が違うと言うのである。そんなイヨに、アセイリアは何も気にしていない答えを口にした。 「ドワーブ閣下に、ヨシヒコさんの縁者が関わっていることをお伝えしたかっただけです。後は、そうですね、みなさんの緊張を解くためでしょうか。今頃ブリッジでは、うわさ話が花盛りになっていると思いますよ」 「ええ、きっとそうでしょうね……」  勘弁してほしいなと思いつつも、公式の場では遥かにアセイリアの方が立場が強い。言いたいことはあるが、弟が面倒を押し付けた手前文句も言えなかった。 「ブドワイズ大将でもビビっていたのに、あんなに堂々としていられるなんて大したものね」 「堂々としているように見えましたか?」  真剣にアセイリアに聞き返され、イヨはどうしてと不思議に思えた。ドワーブと向かい合ったアセイリアは、誰の目から見ても堂々としているように見えるはずだ。 「堂々としているように見えたけど? 違うの?」 「そう見えるように努力はしましたけど……でも、ヨシヒコさんが居てくれないんですよ!」  自分に訴える顔を見て、そう言うことかとイヨは事情が掴めた気がした。母親にも言われたことだが、アセイリアは必死で役目を果たそうとしているのだ。それは、責任感だけが動機で無いことも教えられていた。こうして自分を連れ出したのも、いっぱいいっぱいだと言う証拠だったのだ。 「まったく、ヨシちゃんは……」  はあっと息を吐きだしたイヨは、ごめんと言ってアセイリアに謝った。 「あの子、年上に甘えたがるのよ。たぶん、あなたにも甘えたのでしょうね」 「そう、なのでしょうね。でも、ずいぶんと酷いこともされたんです。年下に、こんなに弄ばれるとは思っても見ませんでした」  そう言ってこめかみを押さえたアセイリアに苦笑を返し、イヨは「こっち」と言って少し広めの通路を指さした。 「少し広めの休憩室を確保してあるの。ただ、あくまで軍艦だから期待しないでね」 「そう言えば、ここは軍艦でしたね。アズライト様専用船とか、グリゴンの客船のつもりでいました」  今頃気づいたように、アセイリアはぐるりと周りの景色を見回した。 「そう言う目で見ると、確かに色気も何もない場所ですね」 「そこの所は、軍艦だからとしか言い様がないわ」  もともとそう言う場所なのだから、色気がないのは当たり前なのだ。苦笑すら浮かべず、イヨは「ここ」と言って扉を開いた。確かにあてがわれた船室よりは広いが、イヨの言うとおり色気のない場所だった。  休憩室に入ったところで、アセイリアは大きく溜めていた息を吐き出した。こうやって個室に入れば、他人の目を気にする必要がなくなる。そしてイヨと一緒なら、無理に気張る理由もなくなってくれる。  目の前でため息を吐かれたイヨは、負担を掛けているのだと改めて知らされた気がした。負担を掛けたのは弟だし、手伝いに入った母親が、実は追い詰めているのではと気になっていた。 「母さんに虐められてない? あの人、他人にも厳しいから」  あれから宇宙に出たこともあり、イヨは母親とあまり話をできなかった事情がある。母親の性格を考えれば、優しく指導するとは思えなかった。 「虐められては居ませんが……かなり容赦無いことを言われていると思います。もちろん、みなさんの居ないところですが……」 「なるほど、嫁姑の戦いが繰り広げられているということか」  理想が高いからなと、イヨは母親のことを笑った。もっとも、目の前に居るのは女神と言われている女性なのだ。内実は違うところはあっても、矢面に立って頑張っていることは否定出来ないだろう。 「私が嫁っ! ですか!?」  驚いた顔をしたアセイリアは、「絶対にありません」と大声で主張した。 「ヨシヒコさんの奥さんはアズライト様です!」 「でも、現実は厳しいと思うわよ。だって、皇帝聖下が絶対に認めないもの。それを、今回思い知らされたでしょ?」  ひとまず一命は取り留めたが、ただ先延ばしにしただけで危険な状態を脱したわけではない。それが皇帝のしたことなのだから、認められると考えるのは無理があった。子供のことにしても、どう処理されているのか分かったものではなかったのだ。「現実主義者」の母親であれば、アセイリアことキャンベルを「嫁」と考えていてもおかしくない。もう一人の嫁候補、シルフィールは、自由にしてあげるのがマツモト家の総意となっていた。  もっとも「嫁」と言っても、これから実態が形成されることは無いのだろう。シルフィールが頑張ってはいるが、ヨシヒコのパーソナルデーターなど記録されたことはなかったのだ。だからウイルスを特定しワクチンが作られたとしても、ただヨシヒコが死なないだけと言うのが限界だった。そしてウイルスの特定は、予想通り見通しが立っていなかった。 「それでも、私は嫁ではないと思っています。その、嫌という意味ではなく、私が嫁になるのは聖下に負けたことになるからです。私は、どんなことがあっても負けたくはないんです!」 「ヨシヒコの姉として、ありがとうと言うべきなんでしょうね……」  小さくため息を吐いたイヨは、備え付けのソファーに勢い良く腰を下ろした。 「ヨシちゃんが、皇女殿下を妊娠させたってのは現実感がないというか……」  そんなものは、誰でも現実感など持てるはずがない。おそらく、一緒に行ったメンバーでも、今は現実感を持っていないだろう。だがアセイリアは、そんなことは無いと言い返した。 「アセイリアに入れ替わった時から見ていれば、逆におかしくないと思えますよ。それぐらい、アズライト様がベタボレになっていました。グリゴンからリルケに向かう時は、片時もヨシヒコさんから離れなかったぐらいです。まさか、二人があんなバカップルになるとは思っても居ませんでしたよ。だからジェノダイト様に噂の話を聞いた時には、避妊ぐらいしなさいと小言を言いたくなったぐらいです……」  そう文句を言ったアセイリアは、「たぶん」と推測を口にした。 「アズライト様にも思うところが有ったのだと思います」 「今度のことを予想していたのかしら……」  次期皇帝と目される皇女が妊娠したとなれば、周りの対応も変わってくる。特に父親の立場は、微妙なものとなるだろう。既成事実と言う意味で、別方面から爆弾を投げ込んだ事にもなるのだ。 「アズライト様なら、あり得るかと思います。ご両親の質の悪さは、間近に見られていはずですから」 「宇宙の問題児と性悪……か」  はっと大きく息を吐きだし、「知らないことが多すぎる」とイヨは疲れたように呟いた。 「そう思うと、本当に触れてはいけない世界に手を出した気がしてしょうがないのよ」  そう口にしてから、イヨは「よいしょ」と立ち上がった。自分の役目は案内であり、あまり長い時間をつぶすのは好ましくない。 「私は、ブリッジに戻ることにするわ。あなたの役目はしばらくないから、ここでもいいし部屋に戻ってくれても構わない。何かして欲しいことがあったら、遠慮なく私に連絡をしてくれればいいわ。戦闘じゃないから、どうせ私も暇だし……」  いいかしらと顔を見られ、アセイリアはこっくりと頷いた。 「船内の地理は覚えました。もう少ししたら、自分の船室に戻って勉強をしようと思います。厳しいお義母様に、色々と宿題を貰っているんですよ」 「そう、あまり無理をしないようにね……」  そうは言っても、アセイリアの肩には多くのものが掛かっているのだ。それを考えれば、無理をするなと言うことが無理な相談に違いない。少し言い方が冷たかったか、そう反省をしながらイヨは休憩室を出て行った。  それを見送ったところで、アセイリアはソファーに寝転がった。赤の他人以上に、イヨが居るところでだらけた真似ができるはずがない。同い年の小姑もまた、扱いの難しい相手だったのだ。 「嫁……か」  本当になれたのなら、どれだけ良いことだろうか。だがヨシヒコへの愛を自覚した時には、すでに彼の心にアズライトが住んでいた。どんなに頑張っても、自分は2番目にしかなれないことを知っていた。 「私も、赤ちゃんが欲しかったな……」  もしも子供を授かっていたら、今とは違う気持ちになれたのかもしれない。自信など持てるはずがないと、アセイリアはヨシヒコを恨んだのだった。  アセイリアが宇宙に上がっている頃、チエコはデモ対策に集中していた。デモ自体放置してもグリゴン代表に危険は及ばないが、治安の悪化は領主府に対して住民の不満を蓄積させることになる。そして巨大艦隊の登場で、大規模デモで集まった群衆がパニックを起こす危険性も有った。そう言った不満や危険を人質に、己の権益を守ろうと言う輩を潰す必要があったのだ。  そのためチエコは、デモを過激なものにしている首謀者を炙りだすことから始めた。その辺りは、統合司令本部のスキルを使えば、さほど難しくない作業でもある。けして表に出てこない活動家を、全員騒乱罪容疑で拘束をしたのだ。通信を抑えれば、証拠を固めるのはさほど難しい作業でもなかった。  活動家の拘束を秘密裏に行ったチエコは、次に資金源を叩き潰すことにした。ある意味、影でデモを操っていた黒幕との対決である。そこでチエコは、アセイリアの名前と各軍大将の名前を利用した。各軍大将の名前を利用したのは、黒幕の政治的背景を潰すことが目的である。そこまでが、敵地に乗り込む前にチエコが行ったことだった。 「領主府秘書官のチエコ・マツモト様でございますね」  準備をしたチエコは、マイケル、イリーナの二人を連れてアメリカのワシントンDCへと飛んだ。そして活動家への最大のスポンサーとなっていた、LM社のDCオフィスを訪れた。本来裏方のチエコだったが、敢えて今回は前に出ることにした。マイケルとイリーナでは、少佐と言う階級のせいで舐められるのが目に見えていたのだ。  もっともチエコにしても、臨時で貰った秘書官の立場でしかない。さほど強い立場ではないのだが、それでも二人よりはマシと言うレベルだろう。それでもLM社のチェアマンやCEOらが面会に応じたのは、総領主付きと言う肩書きが意味を持ったと言うことだった。  領主府の制服となった紺のブレザーを着たチエコは、普段は結んでいる髪を下ろしていた。そしてアセイリアをもビビらせる厳しい顔を、柔和な笑みに置き換えていた。 「ようこそLM社へ、会長から承っております」  相手が領主府から派遣されたこともあり、すぐに秘書室から案内が現れた。自分の娘より少し年上の女性に笑みを返し、チエコは小さく頭を下げた。そして大人しく案内に従い、専用エレベーターへと乗り込んだ。  総領主府に比べれば常識的な高さに上り、3人は会長室に案内された。こちらでお待ちをとソファーを勧められ、3人の前には水の入ったペットボトルが置かれた。 「アルコールがよろしければ、すぐに用意を致しますが?」  一応気を使ってくれた秘書の女性に、チエコは笑みを絶やさず水でいいことを告げた。その答えで秘書の女性が退出したところで、マイケルとイリーナの二人はいよいよかと身構えた。  だがいざ身構えてみたのだが、目指す相手は現れてはくれなかった。それから10分経過したところで、チエコが立ち上がった。無礼な扱いにキレることを二人は期待したのだが、チエコの行動はそれを裏切ったものだった。  案内してきた女性秘書を呼び出したチエコは、「すみませんが」と謝ってトイレの場所を聞いたのである。それが肩すかしだと脱力した二人に、「あなた達も行っておきなさい」とチエコは笑いながらトイレを勧めた。 「たぶん、もっと待つことになると思いますからね」 「いえ、約束の時間はとうに過ぎているのですが……」  良いのかと言う顔をしたマイケルに、チエコは笑みを浮かべながらウインクをしてみせた。 「生理現象に文句を言われる筋合いはありませんよ。待ち時間は、息抜きだと思えば苦になりませんからね」  そう言ったチエコは、もう一度「付いてらっしゃい」と二人を誘った。もっともイリーナはいいが、マイケルの目的地は別の場所になる。  繰り返し誘われたこともあり、二人はチエコについてトイレに行くことにした。ここに来る前に言われたことが、当たっていたと認めたのも理由になっていた。  それから5分ほど掛けて戻ってきた3人だったが、相手を待たせると言う失礼をすることはなかった。コップに氷を貰って水を冷やしたチエコは、時計を確認してからわざとらしくマイケルに声を掛けた。 「グリゴンからの技術移転先の候補だけど。私案は纏まったのかしら?」  質問のことは予告されていたので、マイケルは突然の話題に驚きはしなかった。ただ質問するとは言われていたが、どうしてと言う理由までは教えられたいなかった。 「やはり、従来の枠組みを維持した方が好ましいと思います」 「スルツカヤ少佐はどうですか?」  チエコの質問に、「私は」とイリーナは少し考えた。 「やはり、ニシコリ少佐と同じ意見です。技術を受け入れるための組織、そしてこれまでの実績を評価する必要があるかと」  立場として、チエコはあくまで統合司令本部の手伝いでしかない。ただジェノダイトに請われて手伝いに入ったこと、そしてヨシヒコの母親と言う立場が、二人がチエコを単なる手伝いに見ない理由だった。チエコが来たおかげで、アセイリアが元気を取り戻したのもチエコを立てる大きな理由になっていた。 「そうですね。今までの常識に従えば、あなた達の考えは間違っていないでしょう。ですが、これからは私達の持っている常識が通用しないことを理解しないといけません」 「それは?」  チエコの言い方からすると、二人の考えを否定しようとしているように聞こえるのだ。それを気にした二人に、5分と言ってチエコは右手を広げた。 「ここに通されてから、すでに40分が経過しています。そして約束の時間からは、35分が経過しています。ですから、あと5分だけ待つことにします。そして5分が経過したところで、私達は帰ることとします。出直すのではなく、二度とここには来ないという意味です。残り時間は、あと4分50秒を切りましたね。1秒も猶予を与えませんので、二人共あと4分40秒だけ我慢して下さい」 「いえ、その、色々と伺いたいのですが……」  アセイリアよりきついと内心焦りながら、マイケルはチエコに説明を求めた。 「とりあえず、帰っても宜しいのでしょうか?」  せっかく会いに来たのに、それで本当に良いのかが気になってしまう。それを指摘したマイケルに、チエコは笑みを崩さず「構いませんよ」と答えた。 「ニシコリ少佐。その質問は私にではなく、LM社に対してすべきことです。私達を30分以上も待たせて、本当にいいと思っているのかとね」  表情を変えずに答えたチエコに、マイケルは背筋に冷たいものが走った気がした。笑みこそ浮かべているが、普段アセイリアに接しているのと同じ空気を感じてしまったのだ。  それでと先を促され、マイケルは最初の質問へと話を戻した。 「これまでのスキームを続けることを、今までの常識と仰いました。つまり、違う考えがあると言うことですか?」  これまでの付き合いで、ヨシヒコは自分達の及びもつかないことを考えていた。それと同じことを、彼の母親もしてきそうな気がしていたのだ。 「そうですね。これまでのスキームを守らないと困るのは、すでに納入された兵器への対応だけでしょう。だったら、LM社を解体してやれば用が足りることです。一度潰して、必要な形に再編してやれば問題ありません。その気になれば、1年でLM社の影響を完全に消すことが出来ますよ。後釜なんか、それこそ掃いて捨てるほど地球にはいますから」  そう言って笑ったチエコは、「あと2分」と残り時間を口にした。 「では二人共、帰る準備をしましょうか?」 「2分、待つのでは?」  そのつもりで聞いていたら、もう帰ると言い出したのだ。驚いた二人に、「行きますよ」と言ってチエコは立ち上がった。 「LM社に着いてから、もうすぐ1時間になりますからね。1時間以上、この建物に居るつもりはありません」  そう言うことですとチエコが立ち上がったのと同時に、別の扉が開き部屋の主が現れた。だがチエコは、その存在を完全に無視をした。 「二人共、アメリカは来たことがありますか?」 「西海岸なら……」  LM社と言えば、世界中で知らない者がいないと言われる軍需の大企業である。そのトップが現れたと言うのに、チエコは完璧にその存在を無視してくれた。軍にいるからこそ、マイケルとイリーナは生きた心地がしなかったほどだ。 「でしたら、少し観光してから帰りましょうか」  後ろで聞こえる喚き声を無視し、チエコは若い二人の背中に手を当てた。 「私は、アメリカは初めてなんです。銀河一周旅行をしているくせに、他の国には行ったことがないんですよ」  おかしいでしょと笑いながら、チエコはさっさとエレベーターに乗り込んだ。案内をしてくれた女性秘書が唖然とした顔をしているのは、状況を考えれば不思議なことではないだろう。 「後ろで、「覚えていろ」と脅された気がしますが?」 「覚えていてもいいのですが。それが、自分の首を絞める行為だと理解できないのが愚かですね」  エレベーターを出た所で、チエコは騒然としたロビーをぐるりと見渡した。どうやら、チエコ達に怒ったチェアマンが、警備に身柄確保の命令を出したようだ。 「本当に、愚かですね。この程度のこと、予想していないとでも思っているのでしょうか?」 「ですが、さすがに数が多いと思いますが?」  とりあえず武器は持っているが、あくまで携帯用の小火器でしかない。それに引き換え、相手は自動小銃も持った20名ほどの警備員である。こちらが銃を出したとたん、蜂の巣にされるのが目に見えていた。 「ニシコリ少佐。試しに、懐に手を入れてみませんか?」 「いえ、それをすると本当に蜂の巣にされてしまいます」  多勢に無勢。しかも、相手が心なしか殺気立っているようにみえるのだ。さすがにまずいだろうと忠告したマイケルに、「だったら」と言ってチエコは口元を歪めた。 「奥の手を出しましょうか?」 「奥の手……ですか?」  それは何だと訝ったマイケルに、チエコはもう一度「奥の手」と言って笑った。 「セラ、制圧の指示を出しなさい!」 「はい、チエコ様!」  どこかで見たようなアバターが現れたと思ったら、突然通りに面したガラスのすべてが砕け散った。何事と驚いたマイケルとイリーナは、殺到した戦闘用ドローンに目を剥いた。しかもドローンに遅れて、ビルの中に陸軍の兵士がなだれ込んできたのだ。 「これが、奥の手ですか?」 「そうですね。穏便な話し合いは無いと思っていましたから」  馬鹿ですねと。楽しそうに笑うチエコに、マイケルとイリーナの二人は、ヨシヒコが優しかったのだと思い知らされた気になった。同じことをするにしても、ヨシヒコなら相手と話ぐらいはしたはずなのだ。  倍の数の兵士と戦闘用ドローンの襲撃に、警備員が抵抗できるはずもない。まともな抵抗どころか、混乱すら無くLM社のロビーは制圧された。これを見せられると、見事な奥の手としか言いようがない。 「どうやったんですか?」 「アセイリアから、マグダネル大将にお願いをさせました」  種明かしをされた二人は、「ああ」と大きく頷いた。アセイリアを使えば、総領主からの命令以上に軍は動いてくれるのだ。特に失敗の尻拭いをしてくれたアセイリアに、陸軍が逆らえるはずがない。大将たちにも、チエコがアセイリアの義母になると受け止められているのも大きかった。 「じゃあ、暇になった時間で観光しましょうか?」  この親にしてこの子あり。動じない所は、さすがはヨシヒコの母親だと思えてしまった。容赦のないところは、ヨシヒコより怖いと思ったほどである。 「あなた達は、巨大企業が潰れるのを目の当たりにする幸運に恵まれましたね。時代に追いついていけないと、どんな大企業、そして国でも滅びると言うのを示す好例になるでしょう」  「さて」とクリアになった出口を見たチエコは、「明日はシカゴですね」と次の訪問先を持ちだした。 「TB社が、LM社の様に愚かでないことを期待しましょうか」  これを見せられて、チエコを甘く見られるはずがない。それが目的かと、二人はチエコの意図をようやく理解した。そしてヨシヒコ同様、空恐ろしいと思えてしまった。どうしてこんな女性が、野にいて今まで目立っていなかったのか。恐ろしいと感じるのと同時に、チエコに対して頼もしいと感じていたのだ。  前日の脅しが効いたのは、シカゴ空港についてすぐに理解することが出来た。領主府差し向けのパーソナルジェットを降りたところで、3人はTB社幹部一同の出迎えを受けたのである。まるで自国の国家元首を迎えるときのように、会長と社長を先頭に、TB社の幹部一同が3人の前に勢揃いをした。そして現れたチエコに対して、恭順を示すかのように一斉に頭を下げたのである。  これでは、まともな話し合いになるはずはない。この先が見えたと、マイケルとイリーナはTB社に同情をした。もっとも、それでもLM社よりはマシだと言う思いもあった。もしもTB社の方が軍需産業として大きければ、立場はLMと入れ替わっていたのだ。LM社の破綻は、運が悪かった以上の何物でもなかったのだ。  だが二人は、まだまだ自分達が甘かったことをすぐに思い知らされることになった。それは豪華な応接室に通され、チエコが会長のウォーレス・マクガバランと社長のレティシア・ザーツバルムにデモのことを持ちだしたことで教えられた。 「御社が、資金源になっていると言う情報があります」  その程度の追求は、相手も予想をしていただろう。そしてそこから、様々な要求が出されるものだと彼らも覚悟をしていたはずだ。だがその予想に反し、チエコはそれ以上何も言わなかった。まっすぐにトップ二人を見て、「後はお好きにどうぞ」と言う目をしてくれた。  これはきついと、マイケルとイリーナはチエコのやり口に恐れを抱いた。どこかアズライトのやり方にも似た、高圧的で逃げを許さない方法である。ここでしらを切ったり、調査で引き伸ばしをかければ、LM社と同じ運命がTB社を襲うことになる。  だからと言って、素直に認めることは問題が大きかった。反社会的行動を支援したことを認めれば、それだけでトップ二人はその地位を失うことになる。そしてTB社にしても、無視し得ない社会的制裁を受けることになるだろう。だがそれ以上に恐ろしいのは、チエコが何をしてくるのか分からないと言うことだった。LM社にしたことを考えれば、目こぼしして貰えると言うのは甘い考えなのだ。 「そのことですが……」  その状況で口を開けたと言うのは、TB社の会長が優秀だと言えるのだろう。 「我が社なりの責任の取り方を考えています。すでに広報が動いていますが、我が社はグリゴンとの友好条約締結を全面的に支持するとの発表を行います。その中で、宇宙的人材育成のため、必要な基金の設立も同時に発表いたします」  ウォーレスの回答に、チエコは一言もコメントを発しなかった。ただ、アメリカ人には分かりにくいと言われる笑みを浮かべただけなのである。随伴したマイケルとイリーナも、チエコが何を考えているのか理解することができなかった。  明らかに困惑を浮かべたウォーレスは、「ミズ・マツモト」とチエコに呼びかけた。 「なんでしょう、ミスター・ウォーレス?」  にっこりと笑みを返したチエコに、ウォーレスは「以上ですが」と表情を伺うような真似をした。その反応に、チエコはわざとらしく大きく頷いて見せた。 「すみません。まだ説明が続くのかと思っていました。ですから、口を挟まないようにと思ったのですが」  もう一度頷いたチエコは、「ところで」と言ってウォーレスの説明の中身に踏み込んだ。 「御社なりの責任の取り方と仰いましたね?」  敢えて言葉足らずなところは、明らかにチエコの作戦なのだろう。やはりえげつないと評価を確認した二人の前で、TB社の二人は小声で確認をしていた。 「グリゴン、さらにはザイゲル連邦との友好関係樹立は、地球にとって大きな意義を持つものと考えています。したがって、友好関係樹立並びに維持発展へ貢献することが我が社の責任だと考えております。そのために、あらゆる角度から貢献してまいりたいと思っています」  ハンカチで汗を拭う所を見ると、かなり追い詰められての答えに違いない。LM社への仕打ちを見れば、間違いなく会社存亡の危機を目の当たりにしていることになる。個人の責任を持ち出さなかったのは、グリゴンでのやり取りを分析したのが理由だろう。  ウォーレスの答えに、チエコはようやく「ありがとうございます」と評価の言葉を口にした。 「領主府や統合司令本部では、目の届かないところが多々存在しています。御社のような大企業の支援があれば、グリゴンとの友好関係樹立への理解も深まることでしょう。ミスター・ウォーレス、そしてミズ・レティシア、統合司令本部へのご協力に感謝いたします」  そこで右手を差し出したのは、相手を安心させるのに十分な意味を持っていた。明らかに安堵の表情を浮かべ、二人は順番にチエコと握手を交わした。 「ミズ・マツモト、今晩は私どもに時間をいただけないでしょうか?」  ウォーレスに代わって、レティシアが夜のお誘いを掛けてきた。穏便な形で終わったことに対して、感謝と確認、そして利用しようと言うのは目に見えていた。普通ならのんびりと接待を受けてもいいのだが、チエコの事情はそれを許さなかった。  本気で申し訳なさそうな顔をしたチエコは、爆弾を一つ落としてお誘いを断った。 「明日には、グリゴンの大艦隊が地球圏に到着しますからね。30万を超える大艦隊ですから、総領主府周辺も騒然とすることが予想できます。だから、早めに戻っておく必要があるんです。お誘いはありがたいのですが、今回は遠慮させていただきます」  断られることは予想の中にあったが、そこで出てきた事実が問題だった。当たり前のことだが、グリゴン訪問団については概要しか公開されていなかったのだ。30万を超える大艦隊と言うのは、軍に通じる彼らも初めて耳にする事実だった。 「失礼ミズ・マツモト。私には30万の大艦隊と聞こえたのですが?」  ほっとしていた顔も、グリゴン艦隊の規模に緊張に塗り替えられていた。ウォーレスの問いかけに、チエコは「はい」と間違いようの無い答えを口にした。 「アセイリア様から、ドワーブ閣下へ依頼されたと聞いています。そして可能な限りの大艦隊で来てほしいと言うリクエストに、グリゴン側が答えた結果です。大型要塞もその中には含まれていると言うことですよ」  ここまで明言する以上、それを事実として受け止める必要がある。TB社の二人は、改めて知らされた相手の巨大さに顔色を悪くした。軍を含め一番軍事バランスを理解しているつもりでいたのだが、それが何の役にも立たないことを思い知らされたのだ。  そしてアセイリアの実力に、今さらながらに震撼させられてしまった。センテニアルで名前こそ売ったが、業界全体では小娘と甘く見ていたところがあったのだ。だが、それが勘違いであるのを突きつけられたのである。30万ものグリゴン・ザイゲル連邦艦隊を呼びつけた事実は、彼らとしても無視することのできないものだった。 「30万と仰るのか……」 「我々が、現実を直視するためには必要なことだと考えますよ」  チエコの言葉は、自分たちが「井の中の蛙」であることを突き付ける物だったのだ。  LM社とTB社での出来事が、軍需産業全体を動かす物になったことは確かだろう。そのことは、総領主府に戻ったところで、マグダネル大将に教えられた。ひょっこり顔を出したマグダネル大将は、「爆弾の威力が大きすぎる」と苦笑した。そして、「パニックが起きた」と業界の情報をアセイリア機関に教えてくれた。 「我先に、統合司令本部への仲介を依頼してきている。まったく、爆弾を落とすのなら、事前に教えて貰いたかったな」  ひとまず文句を言ったところで、「それで」とマグダネル大将はLM社のことを持ち出した。 「LM社はどうするつもりだ? 余所も同じではあるが、幹部が揃ってヨコハマ入りをしているそうだ。おそらく、バルタン大将あたりから泣き付かれるのではないか?」  チエコがアメリカでやったことは、すでに大将達の間に広まっている。さすがはアセイリアの姑と、彼らが感心したのは言うまでもない。その意味で、LM社は相手を見誤ったのだと、同情半分と言う所だった。 「それは、相手次第ではありませんか? ただ単に泣きついてくるだけなら、私達が合う必要もないと思います。自分達が愚かな真似をしたのを理解したのであれば、どう償うのかを考えるのは彼らの仕事だと思います」 「あなたは、アセイリアにもそこまで厳しくしているのか?」  噂を否定していないこともあり、アセイリアとヨシヒコの関係は半ば公然の物となっていた。唯一の謎は、入院しているヨシヒコの存在なのだろう。ただ誰も真実を語らないため、噂が飛び交う以上のものではなかった。ヨシヒコの入院もまた、チエコが手伝いをするのを正当化するものとなっていた。 「私が、アセイリアにですか?」  目をぱちぱちと瞬かせたチエコは、「とんでもない」と大げさに否定して見せた。 「息子の代わりに頑張ってくれているのですよ。あんな健気な嫁に、酷いことなどできるはずがありません。厳しく見えるのは、あの子の役割がそれだけ重いと言う意味です。私もあの子も、ぎりぎりの中で頑張っていますからね」 「確かに、今が一番かじ取りの難しい時期に違いないか……」  これまで敵視されていた相手との友好条約締結なのだから、かじ取りの難しさは言うまでもないだろう。特に事情を知らされていなければ、よくぞと感心することでもあったのだ。そして友好条約締結を主導した代表団に対して、マグダネル大将も高い評価を惜しまなかった。 「間もなく、地球圏にグリゴン艦隊が到着するのか……」  それもまた、アセイリアとヨシヒコがもたらした成果に違いない。時代が動いているのだと、マグダネル大将は、当事者に加われたことを喜んでいた。 Chapter 4  テラノがグリゴン・ザイゲル連邦混成艦隊に沸き立つ頃、帝星リルケではアルハザーが不機嫌さを隠さないでいた。その姿は、普段のアルハザーからは考えられないものでもあった。  今回の出来事に対し、色々と考え、適切と思われる手立てを打ったつもりでいた。だが適切と思った手立てが、いずれも期待したのとは違う結果になってしまったのだ。しかも聞こえてくるのは、自分への評価でも悪評でもなく、テラノとグリゴンに対する評価ばかりである。アルハザーにとって一番不本意な、「話題にすらならない」と言う結果を突き付けられてしまった。  しかもいつもなら共犯者になるはずのトリフェーンも、自分を放ってアズライトの所に行ったきりになってしまった。そして聞こえてきた噂が、アズライトの妊娠である。相手の心当たりが一つしかないこともあり、ますますアルハザーの機嫌は曲がったままとなったのだ。  さすがに焦れたアルハザーは、アバターを使ってで妻を呼び出した。離れているとは言え、同じリルケ内のことでしかない。アズライト用に用意された別宮からなら、急げば1時間もかからなかったのだ。 「いつまでも、私達二人が離れているのは好ましくないのだがね?」  自分に向かって不満を漏らした夫に、トリフェーンはいかにも心外だと言う顔をした。 「娘が大変な時なのですから、母親が付き添うことに問題があるとは思えません。それほどまでに、妊娠と言うのは大きな出来事なのですよ」  そう開き直った妻に、アルハザーは「そのことだが」とアズライトの妊娠を問題とした。 「なぜ、アズィが妊娠したと言う噂が広がったのだね?」 「人の口に、戸は立てられませんからね。どこからと言うのは、今さら調べるのは不可能だと思います」  おほほほほと笑ったトリフェーンは、どうするのですかと夫に聞き返した。 「どうするとは?」  分からないと言う顔をした夫に、トリフェーンは堕胎のことを持ち出した。 「よもやとは思いますが、私たちの孫を始末するとは言いませんよね?」 「それも、選択肢の一つではある。その場合、早めの決断が必要となるだろうな」  当たり前に処分の可能性を口にした夫に、トリフェーンは「酷い父親だ」と軽蔑したような顔をした。 「そんな真似をしたら、あなたは娘を失うことになりますよ。妊娠が分かって、ようやくあの子が食べ物を口にするようになったのですからね。夫と子供を同時に失えば、あの子は自ら命を絶つでしょう。それでなくても、あの子に跡を継がせたら、最初に粛清されるのは私達だと覚悟した方が良いですよ。あなたは、最悪の形で別れさせましたからね」  少し口元を歪めたトリフェーンは、「失敗しましたね」と夫に向かって言い切った。 「あの少年にした事は、何一つとしてうまくいっていません。テラノとグリゴンは当初の予定を何も変えないどころか、まるであなたなどいないかのように振る舞ってくれています。本来これ程の大きなイベントならば、公爵以上の出席が要請されるはずのことです。でも、テラノもグリゴンも、私達を綺麗さっぱり無視してくれています。あなたは、この失態をどう挽回するおつもりですか?」 「今の所、何もするつもりはない」  そう言い切った夫に、トリフェーンは小さくため息を吐いた。 「何もできないと言うのが答えなのではありませんか? 何をしても、たとえあの少年を助けたとしても、あなたは誰からも評価されませんからね。ですが、あなたでも本当の意味であの少年を助けることはできませんよね?」 「私は、助けるつもりなどないのだがな」  あからさまに不機嫌そうにした夫に、トリフェーンは「分かってます」と答えた。 「2千年前の、しかも厳重に管理されたウイルスを持ち出したぐらいですからね。悲劇を効果的に演出するため、一思いに殺さなかっただけのことでしょう。グリゴンやテラノの努力は、絶望と言う形で悲劇に花を添える物となる。あなたらしいと言えばあなたらしいのですが、少し考えが浅かったとしか言いようがありません」  自分を責める言葉しか口にしない妻を、アルハザーは「トリフェーン」と苛ついたように怒鳴った。 「大声を出しても、あなたの失敗を糊塗することはできません。それどころか、ますます失敗を際立たせるだけだと気付いてください。あなたにできる最善は、アズライトに謝って、テラノに行かせてあげることです。そうすれば、粛清だけはしないでくれるでしょうね」  落ちた評判は戻ることは無い。冷たく突き放した妻に、ますますアルハザーは苛ついた。そんな夫を笑ったトリフェーンは、「慰めて欲しいのですか?」とさらに夫を追い詰めるようなことを口にした。 「あなたにとって一番堪えているのは、ジェノダイト君に見捨てられたことでしょう? 夫を慰めるのは妻の務めですけど、いくら慰めてもジェノダイト君は戻ってきてくれませんよ。あなたは、取り返しのつかない失敗をしたのだと……」  自分を追い詰める妻に、アルハザーは「もういい」と大きな声を上げて言葉を遮った。 「私を責めるようなことを口にするなっ!」  怒気を含んだ夫に対して、トリフェーンはあくまで冷静だった。 「責めてはいません。ただ、事実を申し上げているだけです」 「言葉遊びはいい。黙れと言っているのだ!」  顔を赤くして命令した夫に、トリフェーンは小さくため息を吐いた。 「聖下、それが私への命令なのですね?」  確認するように答えた口調は、あの時のジェノダイトを思わせる物になっていた。そのトラウマから、アルハザーは少し狼狽え、妻の言葉を否定した。 「い、いや、命令などではない。すまない、少し私は興奮しすぎたようだ……」 「きっと、あなたはお疲れなのですよ。少し休みを取られて、気分転換をされたらいかがでしょう?」  小さく首を振ったトリフェーンは、休養を夫に提案した。そしてもう一つ、アズライトに対する沙汰を考えた方が良いと忠告した。 「あの少年が生きているうちに会わせてあげた方が良いと思います。その時は辛いかもしれませんが、まだ最後に会えたことが慰めとなってくれるでしょう。それから、お腹の子供のことは認めてあげてください。あなたも、父親の能力は否定していないのでしょう?」  能力だけで言えば、合格点を遥かに超えていたのだ。ただアズライトとの比較で、優秀すぎることが問題だっただけのことだ。 「君の意見を参考にさせてもらう……それから、バカンスのことは賛成だ。南の海を見に行くのもいいだろう。昔ジェノと遊んだ場所に行ってこようかと思っている」  激情が影を潜めた代わりに、アルハザーの表情は疲労が取って代わっていた。大きく息を吐き出したアルハザーは、「歳をとったようだ」と妻に向かって自嘲して見せた。 「おもしろいことへの感性が鈍ったようだ。まったく、歳をとりたくはない物だ……」 「まだ、あなたは若いと思いますよ。帝国と同じで、自分に与える刺激も気を付けておく必要があったと言うことです。精神の老化は、変化のない日常も理由になるのですからね」  嫌ですねと同じように笑ったトリフェーンは、さらに夫を落ち込ませることを口にした。 「アズライトのように、激しい恋をしてみたくなりましたよ」 「今更ジェノの所に走っても、おそらく受け入れては貰えないだろう。スキャンダルと言う意味なら、とびっきりの物にはなってくれるのだろうが……自分が老けたと言うことで、その方面は諦めることだな」  気の利かない否定に、トリフェーンは珍しく肩を落として見せた。 「もう少し、気の利いた否定の仕方は無かったのですか? あなたが、私を燃え上がらせてくれてもいいはずですよ」 「女として、ジェノを選んだ君をか?」  最初に驚いた顔をしたアルハザーは、次に苦笑を浮かべて見せた。 「とは言え、できたら面白いのは確かだろうね。さてさて、何から手を付けたものだろうか」 「なにか、わくわくするようなことを探せばいいのではありませんか?」  もともとそこから始まった関係なのだ。それを持ち出した妻に、なるほどとアルハザーは口元を歪めた。 「ならば、ジェノとドワーブの企みに、手を出さないことにしてみよう」  その結果がどう転んでくれるのか。干渉ばかりが能ではないと、アルハザーは静観することを選択した。 「と言うことなので、しばらく南の海で静養することにしよう」 「妻として、お供をしないといけないのでしょうね……それで、アズライトはどうしますか?」  すべてのきっかけを持ち出した妻に、「何も変えない」とアルハザーは結論を出した。 「悪役は悪役らしく、せこい真似を続けることにしよう」 「下っ端の悪役ですわね」  そう謗っては見たが、それ以上の質問をトリフェーンはしなかった。そしてそれも仕方がないと、トリフェーンは夫についてバカンスに行くことを認めた。どうせ助けることができないのなら、一刻を争っても意味が無いと思っていたのだ。  目が覚めた時には、アズライトは自分がどこにいるのか理解することができなかった。それが分かったのは、目覚めて1時間後に母親が現れた時のことだった。 「ここは、クレスタにある別宮ですよ。あなたが眠ってから、2週間ほど経ちました」 「2週間?」  そんなに経ったのかとぼんやりと頭の中で考えたアズライトは、次第に意識がはっきりして来た中、大切なことを思いだした。 「ヨシヒコはどうしました!」  自分をこんな目に遭わせたのだから、ヨシヒコが無事で済んだとはとても思えない。アズライトは大声を出して、大切な人の安否を母親に尋ねた。 「ヨシヒコ……ああ、あなたを抱いた男のことね。彼なら、そうね、今頃死んでいるのではありませんか?」  さもつまらないことのように言う母親に、思わずアズライトは噛み付いていた。 「どうして、ヨシヒコが死ななければいけないのですか!」  愛する人が死んだと言われれば、冷静でいられるはずがない。大声を出して取り乱す娘に、トリフェーンは冷酷な事実を教えた。 「皇帝が必要だと考えた。それ以上の説明は必要ない筈です。今頃彼は、2千年前に封印されたウイルスの亜種を使って、ゆっくりと自分が死んでいくのを見ていることでしょう。グリゴンに運ばれたようですけど、彼らでは……違いますね、誰にも彼を助けることはできませんよ。治療法が存在しないので、厳重に封印処理されたウイルスですからね」 「ヨシヒコが死ぬ……」  呆然とした娘に、トリフェーンは改めて残酷な事実を告げた。 「グリゴンが頑張っても、1カ月と言うのが限界でしょうね。一時持ち直したように見えても、それが終わりを告げる兆候になっているのよ。持ち直した直後、少しだけ時間をおいてから爆発的に症状が悪化し、そのまま死に至ると言うのがウイルスの特徴だそうよ。だから、あなたが今から会いに行っても、間違いなく間に合わないでしょうね。もちろん、会いに行かせるつもりもないけど」  諦めなさい。トリフェーンは、感情を排して娘に望みがないことを告げた。同じように報われない恋をしたトリフェーンは、アズライトにはとても同情的だった。だがいくら同情する気持ちはあっても、トリフェーンには皇妃と言う立場もあった。夫の決定を肯定するのも、共犯者としてトリフェーンに求められることだったのだ。そのため、娘に対して必要以上に冷淡に振舞っていた。  色々と説明をされた気はするが、アズライトにとってヨシヒコが死ぬと言うことがすべてだった。二度と生きて逢うことがはできないと言う宣告は、生きる意志を奪うのに十分なものに違いない。うわの空で母親に応えたアズライトは、それ以降水の一滴たりとも口にすることは無かった。死を求めるためではなく、死ぬことすら意味の無いことに思えたのが理由だった。  もっとも、皇女をみすみす死なせるような真似ができるはずもない。口から食べなくても、栄養を補給させる方法ならいくらでもあったのだ。そしてアズライトを皇帝から預かった者達は、己の役目を忠実に実行した。眠らせて直接栄養を投与すれば、命だけなら繋ぐことが可能だったのだ。  そうやってアズライトの命をつないで1週間たったところで、トリフェーンはアズライト付の医師から重大な事実を告げられた。 「あの子が、妊娠していると言うの!?」  今の皇室は、妊娠しにくい体質が問題とされていた。それを改善するため、積極的に外部の血を入れているのが実態だったのだ。特に女性に子供ができにくいのは、致命的だと言われたほどである。その子供ができにくいと言われた皇室の女性であるアズライトが、いきなり妊娠したと言うのだ。外の血を入れた理由を考えれば、本来喜ぶべきことに違いなかった。  だがその相手のことを考えれば、無邪気に喜ぶわけにはいかない。そしてもうひとつの問題は、アズライトに授かった子供の扱いだった。父親を始末したことを考えれば、子供を生かしておいていいとは思えない。だが性悪なトリフェーンと言えど、せっかく出来た子供を殺すような真似はできなかった。 「アズライトに教えるべきか……」  すべてのことから逃げ出した娘に、子供が授かったことを教えたらどう変わってくれるのか。今のままの状態では、アズライトを生かし続けることに意味は無い。それを考えれば、何かのきっかけになってくれないかとトリフェーンは考えた。 「やはり、教えないといけないわね……だとすると、あの人をどう抑えるのかだけど……」  何もしなければ、無かった事にされるのは目に見えていた。だとしたら、何らかの形で牽制しておく必要がある。そのために何をすればいいのか。トリフェーンは効果的な方法を考えることにした。 「やはり、アズライトが妊娠した噂を流すか……」  いくら考えても、夫の考えを変えることは出来ない。皇帝と言うのは、全てにおいて我儘でなければならないのだ。それを実践する夫だから、周りの言うことなど気にするはずもなかった。自分が考えた牽制にしても、ほとんど牽制になっていないと半ば諦めてもいた。そこでトリフェーンの頭に浮かんだのは、噂がジェノダイトに伝わることだった。  妊娠を告げるため、トリフェーンはアズライトの寝所を訪れた。薬が切れているため、アズライトの意識は半覚醒状態に置かれている。目は覚めているが、それ以上は何も反応しない状態になっていた。 「アズライト、起きてる?」  声を掛けて寝所に入ったのだが、やはり娘は何も反応をしてくれなかった。輝くような美しさも、今はすっかり曇っている。弾けるような生命力も感じられず、今はみすぼらしく打ち捨てられた人形のようになっていた。愛する人を二度も失った悲しみに、アズライトは抜け殻も同然になっていた。 「アズライト、あなたに話したいことがあるのよ」  そう言いながら椅子を引き寄せ、トリフェーンはベッドの横に腰を下ろした。そして目は開いていても、自分を見ようともしない、否、何も見ようとはしない娘に声を掛けた。 「あなたのお腹の中に、新しい命が芽生えました。診察の結果、男の子と女の子の双子だそうです。あなたの愛したヨシヒコ君との子供が授かったのよ」  今までに無いほど、トリフェーンは優しくアズライトに話しかけた。自分の言葉が娘に届くように。再び生きる気力を取り戻してくれるように。そう願いを込めて、トリフェーンは「おめでとう」と祝福した。 「ヨシヒコの……赤ちゃん……」  それまでは、何を話しかけてもアズライトは反応すらしなかった。トイレに立つことも、食事を摂ることもしなかった。だがトリフェーンが子供のことを話した時、初めてアズライトは目線を激しく動かした。 「そうよ。あなたとヨシヒコ君の赤ちゃんが出来たのよ」  噛んで含めるように話しかけた時、突然アズライトは起き上がってお腹を押さえた。そしてくの字に体を折り曲げ、「ヨシヒコ!」と言って大きな声を上げて泣き叫んだ。 「彼の生きた証を、あなたは死なせてもいいの? あなたのお腹にいる子供だけは、私が絶対に守ってあげますからね。お願いだから、生きる気力を取り戻してちょうだい。お願いアズライト、あなたは生きて子供を産んで……」  優しく背中に手を当て、トリフェーンは心を込めて「生きて」と娘に語り掛けた。罪ならば、自分と夫がすべて背負って行ってあげる。それが、皇帝と皇妃の役目なのだと。だからあなたは、大切な人の残したものと生きて欲しい。トリフェーンは、何度も何度も娘に語り掛けた。お腹に居る子供だけが、娘をこの世界に繋ぎ止める楔なのだからと。  自由の身になったはずのシルフィールだったが、結局リルケに帰らずそのままテラノに居着いていた。嫁として連れて来られたのに、もういいと言われたことにプライドが傷ついたのだ。そしてそれ以上に気に入らないのは、目の前の病人を見捨てて帰ることだった。伝聞に毛の生えた程度の情報しかないウイルスだが、正体は2千年前というカビの生えた古臭いものなのだ。今の医学力で直せないと言われるのは、自分の存在が否定された気がしてならなかった。だから研究を口実に、テラノに残りヨシヒコの面倒を見ることにした。 「本当に、巧妙に隠れているわね……」  ウイルスさえ分離できれば、グリゴンの施設を活用してワクチンを作ることが出来るはずだ。そのためシルフィールは、ウイルスの検出に全力を上げていた。だがこれまで分かっている方法を駆使しても、細胞内に紛れ込んだウイルスを検出することが出来なかった。 「代謝が停止することで、細胞分裂に至らなくなっている……何らかの物質が、代謝を阻害していると考えるのが自然なのだけど。でも、細胞レベルでおかしなところは見つかっていない」  異化も同化も、分析した上で回路に異常は発生していない。でも、取り入れた物質は異化も同化も行われていない。見た目の細胞は正常なのに、機能だけが阻害されているように見えていたのだ。一時的に活性化出来ても、すぐにその効果は消滅してしまう。それでも活性化さえさせれば、代謝機能も正常に働いてくれる。シルフィールにしてみれば、悪い冗談を見せられているようなものだった。2千年前のウイルス兵器と言われれば、現代の自分に解明できないのが癪に障ってしまう。 「何か、大きな見落としがあるとしか思えないわね……」  類似の文献が無いかを検索しても、管理がよほど厳しいのか、どこを探しても出てきてくれない。そうなると、本当に手詰まりになってしまうのだ。原子配列にまで踏み込んでも、これと言った差異を見つけることが出来なかった。  エリオの提示したデーターと睨めっこを続けたシルフィールだったが、結局今日も手掛かりを見つけることは出来なかった。これで1週間以上経ったのだが、何も分からない以上の成果が出ていなかった。 「仕方がない。今日も、細胞の活性化をして休むことにしますか……」  活性化し過ぎると、細胞の溶解現象を引き起こすことになる。だが活性化を怠ると、僅かな時間でヨシヒコが死に至ることになる。今のヨシヒコは、微妙なバランスの上、薬と点滴の効果で命を繋ぎ止めているのが実態だった。  ここの所日課のように続けている作業は、報われないと言う意味で精神的に厳しい物だった。それでも、チエコを見返してやると言う意地で、シルフィールはなんとか気力を繋ぎ止めていた。それでも、そろそろ心が折れそうになっていた。  その意味で、ヨシヒコの目が開いていたのは、折れそうな心を支えてくれるものだった。目が覚めているのか、何かを確認するように眼球が動き、声を出そうと口がゆっくりと動いていた。 「私の声が聞こえますか?」  ウイルスの特徴として、脳だけは正常な状態で保たれると言う物がある。栄養を補給している以上、ヨシヒコの脳は正常に働いているはずだった。それを確認するため、シルフィールはヨシヒコに話しかけた。  だがシルフィールの声に答えるには、ヨシヒコの体は崩れすぎてきた。声を出そうとしているのだろうが、できることはゆっくりと口を動かすことだけだった。それに気づいたシルフィールは、「ごめんなさい」と謝って、質問の方法を変えることにした。 「私の声が聞こえたら、ゆっくりとまばたきを2回してください」  ゆっくりと言ったが、今のヨシヒコは素早く瞬きなどすることは出来ない。そのせいで、本当にゆっくり、まるで動いていないような速度で2度まばたきが実行された。それを確認するのに、およそ5分と言う時間が経過したほどだった。  相手に意識があっても、これではまともなコミュニケーションは成立しない。どうしたものかとシルフィールが悩んだ時、突然ヨシヒコの横に小さな女の子が現れた。それがアバターだと気付いたシルフィールは、どこかで見たような気持ちに囚われていた。 「ヨシヒコ様の脳から直接信号を取り出しています。私の名はセラ。申し訳ありませんが、あなたの名前を教えていただけませんか」  ここでアバターを呼び出したのは、今の状況を考えればベストの選択に違いない。やはり頭はいいのだなと感心したシルフィールは、聞かれたとおりに名乗ることにした。 「私は、シルフィール・コロニアル。帝星リルケにある、帝国第3大学の学生よ。あなたのご両親と縁があって、テラノに連れて来られてあなたの面倒を見ているの」  シルフィールの答えに、セラはうんうんと頷いた。 「面倒を見るとは、どう言うことでしょう?」 「私の専攻は、医学全般なの。どちらかと言えば、病理学的なことを得意にしているわ。だからと言うわけじゃないけど、あなたの治療をやってるわ」  ふむふむと頷いたセラは、しばらく黙ってから再び口を開いた。 「単刀直入に伺います。ご主人様は、助かるのでしょうか? ご主人様は、とても助からないだろうと仰っています。聖下のことですから、絶望を与えるため無駄な努力をさせるはずだと」  ますます頭がいいと、シルフィールはヨシヒコの冷静な分析に感心していた。今の状態は、まったくもって指摘された通りなのだ。彼を助けるために多くの人が、本当にそれぞれの知見を持ち寄っている。だが、そのいずれも彼を助ける役には立ってくれなかった。「無駄な努力」と言うのは、まさしく言い得て妙だったのだ。 「そうね、このままだとあなたは死ぬことになるわ」  ここ迄自分のことを理解しているのなら、死の宣告をしても冷静に受け止めてくれるだろう。それでも認めることに抵抗はあったが、残された時間を考えシルフィールは正直に打ち明けた。 「どの程度持ちそうかと聞いています」 「長くて1ヶ月。短ければ、1週間と言う所。私がいなければ、1週間前にあなたは死んでいたわね」  いくら覚悟をしていても、残された時間が短いのを知るのは精神的に辛いものだ。しばらくアバターが応答しないのは、主の少年の苦悩を現しているのだろう。  黙りこんでから5分ほど経過したところで、アバターが再び口を開いた。 「両親はどこに居るのか、会うことが出来るのかと聞いています」 「あなたのご両親なら、あと1時間もすれば顔を出されると思うわよ。ただお姉様とアセイリアと言う人は、今は宇宙に出ているから会うことは出来ないわね」  気を利かせてアセイリアの情報を伝えたのは、きっと気にしているだろうと推測したからだった。 「アセイリアが宇宙に居るのは、グリゴンとの条約締結のためかと聞いています」 「そう、大艦隊を率いてテラノの近くまで来ているわ。この後、総領主が地上に降りて、友好条約の締結という運びになっているわ」  かいつまんで状況を説明したシルフィールに、セラは「ありがとうございます」と主に変わって礼を言った。 「これで、肩の荷が一つ下りたそうです……」  そこで珍しく口ごもったアバターは、「ところで」と言って真剣な顔をした。 「これは主からではなく、私からの質問です。アズライト様はどうなされているのでしょうか」 「アズライト様……か」  妻になれと言われて連れて来られたら、その相手には愛した人がいると言われたのだ。しかもその女性以外にも、夫を愛している女性がいた。お払い箱になったのは、本来喜ぶべきことなのだろう。だがシルフィールは、単純に喜べない自分に気がついていた。  だからと言って、自分がヨシヒコを愛する理由など存在していない。息子がいると言われただけで、一度も話しをしたことも無かったのだ。顔を見たのも、こうしてテラノに来るまではなかったことだ。直接話しをするのも、今日が初めての経験だった。 「ジェノダイト様が言うには、消息が掴めていないそうよ。ただ不確かな噂として、ご懐妊されたという物があるわね」  自分の言葉が伝わっているのは、最初に確認して理解をしている。アバターが黙ってしまったのは、きっと主が衝撃を受けたからなのだろう。少しだけ胸がすく思いをしたシルフィールは、ヨシヒコがどんな反応をするのかしばらく見守った。だが目に見えた反応は、大きく見開かれた瞳に涙が少し浮かんだ程度だった。今のヨシヒコは、泣くこともまともに出来なかったと言うことだ。  それから10分ほどベッド脇にいたシルフィールだったが、結局ヨシヒコからの反応はそれっきりだった。自分がとどめを刺したようで気分が悪かったが、事実だからしかたがないとシルフィールは自分に言い訳をした。いくら綺麗事を並べても、誰もヨシヒコを助けることは出来ないのだと。  翌日病室をシルフィールが訪れたのは、必ずしも日課だけが理由ではなかった。一晩おいたことで、シルフィールは自分の言葉を省みることができたのだ。その夜父親のヒトシが病室に現れたのだが、ヨシヒコはアバターを表に出すこともしなかった。意識はあるはずなのに、じっと瞳を閉じて世界を拒絶していたのだ。それが自分の言葉が原因だと考え、罪悪感に囚われたのだ。  シルフィールが訪れた時、ヨシヒコはちょうど目を開いていた。「こんにちわ」と声を掛けて入ったシルフィールに、ヨシヒコは眼球を動かして気がついていることを伝えてきた。 「どう、少しは落ち着いた?」  自分に反応するのだから、一晩経って少しは落ち着いたと考えていいのだろう。椅子をベッドの隣において、シルフィールはヨシヒコの顔をのぞき込んだ。 「お見苦しい所をお見せしたことをお詫び致します……だそうです」 「私も、少し無神経だったと反省しているわよ」  罰が悪そうに答えたシルフィールに、セラは「教えて欲しい」と切り出した。 「なに、アズライト様の新しい情報だったらないわよ」  少しつっけんどんに答えた自分を、シルフィールは少し反省した。 「いえ、アズライト様のことがどうにもならないのは分かっているそうです。ヨシヒコ様は、聖下とトリフェーン様なら、アズライト様を害することはないと仰ってます。ですから、質問というのは自分のことだそうです。自分の症状と、どんな死に方をすることになるのか。それを教えて欲しいと言うことです」  それを聞いてどうするのかという疑問はあったが、それが自分の運命を知ると言う意味なら理解することも出来る。ヨシヒコの頼みを受け入れたシルフィールは、彼の症状を説明することにした。 「脳を除く、すべての細胞が機能を停止しようとしているの。今あなたが生きているのは、グリゴンが蘇生に成功して、一時的とはいえ細胞活性化ができたおかげよ。それも限界に達したのだけど、運よく私が間に合って処置の追加を行った。でも、細胞のリフレッシュができないから、このままだとあなたの細胞は寿命で死滅することになる。すでにかなりの細胞が死んでいるから、あなたはまともに動くこともできなくなった。ちなみに原因は、2千年前に作られたウイルス兵器と推測できる。巧妙に隠れていて、今の技術でも発見することはできない。それが、今のあなたが置かれた状況よ」  ここで同情しても、ヨシヒコにとって意味のあることにはなってくれない。それだけが理由ではないが、シルフィールは淡々と事情を説明した。 「伝染性は無いのでしょうか?」 「現時点で、誰にもうつっていないわね。聖下の意図を考えると、うつらないと考えていいと思うわよ」  もともとのウイルスは、種を絶滅させる目的で開発されている。その目的を考えれば、強い伝染性を保有していると考えていいはずだ。だが強い伝染性があるとすれば、自分は大丈夫でも周りの者達を巻き込む可能性がある。いくら皇帝でも、そんな危険なものを使うとは思えなかった。 「ウイルスも見つかっていないのに、どうして自分は生きながらえているのか。主は、そのことに疑問を感じています。細胞の活性化ができると言うことは、不活性になっている原因が分かっているはずだと言っていますが?」  どうですとアバターに聞かれたシルフィールは、相当頭が良いのだとヨシヒコの評価を改めた。そして質問に含まれる意味を考え、慎重に答えを口にした。 「結果的には、対処療法を行っているだけね。細胞が活動するのに必要な物質が消滅しているので、一時的にそれを補っているのよ。でも、自律的に供給できないから、すぐに使い果たしてしまうことになる。細胞も分裂しないから、いずれそれが原因で死に至る……」  お前が死ぬと繰り返すことは、分かっていても医者として辛いと感じてしまう。少し顔を歪めたシルフィールに、セラは「ありがとうございます」とお礼を口にした。 「感謝されるようなことはしていないわ。私は、あなたを救うことはできないもの。もしもウイルスを発見できても、あなたは死なないと言うだけで、元通りにはなれないのも分かっているから。今のままだと、そのウイルスが見つかる見通しも立っていないのよ」  少し投げやりに答えたシルフィールは、「ねえ」とヨシヒコに語りかけた。 「ずいぶんと冷静だけど……普通は、絶望して泣き叫ぶとかするものじゃないの?」  今の体は、そんなことをすることはできない。だが、心だけなら泣き叫ぶことも可能のはずだ。 「そんなものは、一人の時にすればいいと言うのが主のお答えです。それに、昨日嫌と言うほどやったと言うのも答えになります。残された時間を、運命を嘆いているだけと言うのは嫌だそうです」  アバターの答えに、そんなものかとシルフィールは何の感銘もなく受け取った。そして少し意地悪なことを、ヨシヒコに言った。 「でも、結果は何も変わらないわよ」 「あなたがそうお考えでも別に構わないそうです。主は、皇帝に後悔させてやると考えておられます。絶望を与えるなどとふざけたことを考えたことを、後悔させてやるのだと」  アバターの答えに、シルフィールは少しムキになって言い返した。 「後悔させられるとでも思っているの? もうテラノとグリゴンのことは、あなたの手を離れたのよ。アセイリアには、あなたのお母様が付いているわ。もう、あなたが居なくても大丈夫なのよ」  病人相手に何をやっているのだ。口にしてから、シルフィールは酷い自己嫌悪を感じていた。だがヨシヒコのアバターは、そんなシルフィールに遠慮がちに声を掛けた。 「その、こう言うのはなんですが……主の考えをそのままお伝えするとですね。「お前は馬鹿か?」だそうです。皇帝は、今回のことで幾つか下策をしているそうです。それを理解し利用することで、もっと展開は変わるはずだそうです。グリゴンとの友好条約をザイゲル全体に広げ、ゆくゆくは他の種にも広げていく。帝国とは違う枠組みを作ることで、宇宙は違った歩みを始めるはずだ……そうです。その主導権を地球が握るには、今をうまく利用することが必要なんだそうです」 「……恐ろしく、時間のかかることを言っているわね。繰り返すけど、あなたはもう、長くはないのよ」  言いたいことは少しぐらい理解できるが、厳然たる事実の前にはどうしようもないのは確かなのだ。大人げないとは思ったが、ついシルフィールは言い返してしまった。 「ええっとすみません。「だからお前は馬鹿だ」と言うのが主のお言葉です。そのですね、時間の問題は、遺志を継いでくれる人を作ればいいだけのことです。お母様が手伝ってくだされば、アセイリア様がその役目を果たしてくださるでしょう。グリゴンにも有望な人が居るのですから、道筋を伝えさえすれば、あとは任せてしまえばいいそうです。時間が無いことは、主が一番理解されているのですよ」 「アセイリアは、しばらくここに来る暇はないわよ」  何度も馬鹿と言われれば、さすがにシルフィールも腹を立ててしまう。不機嫌そうな言葉も、馬鹿にされたことが理由だった。いったい誰のおかげで命が長らえているのか。それをちゃんと理解しろと強く主張をしたかった。 「それぐらいのことは言われなくても分かっているそうです。だから主は、私の中に「遺言」を作成されているのです。せっかく脳を生かしてくれたのだから、大いに活用させてもらうだそうです」  アバターから聞かされた答えに、シルフィールは大きなため息を吐いてしまった。もうすぐ死ぬくせに、なんと前向きなことを考えてくれているのだと。 「それで、私にして欲しいことはある?」  少し投げやりな問いかけに、セラは少し間をおいてから「特別なことは無い」と答えた。 「あなたが助からないと言った以上、それが覆ることは無いのだろうと言うことです。ですから、改めてお願いすることは無いと。放っておいても、最善を尽くしてくださるだろうと言っていました」 「最後のは、普通教えないものよ……」  まったくともう一度ため息を吐いたシルフィールは、「分かったわよ」と相変わらず投げやりな答えを口にした。 「私は、自分のプライドに賭けてできるだけのことはやるわ。それでいいのね?」 「感謝します。だそうです」  動けないヨシヒコに変わって、アバターのセルがシルフィールに向かって頭を下げた。横柄なくせに礼儀が正しいのだなと、おかしなところでシルフィールは感心していた。ただ約束はしたが、できることはほとんど残されていなかった。これからどうした物かと、シルフィールは途方に暮れたのだった。  30万を超える大艦隊は、示威行為としては満点と言えるだろう。敢えて全艦隊を出迎えに出した行為もまた、相手の巨大さを伝える役に立っていた。僅か8千の地球艦隊の後ろには、巨大要塞を含む30万の艦隊が続いている。それを現実のものと突き付けられれば、過激な要求など出しようもなかったのだ。  チエコの工作と合わせ、領主府周りで起きていたデモは、完璧なまでに鎮静化させられた。そして人々はデモの代わりに、ザイゲルの動きに不安を抱いたのである。  30万の艦隊と巨大要塞ともなると、収容する人員は億を超えることになる。それだけの人員を収容できるはずもなく、地上に降りたのは僅か30人ほどの人員だった。その中には、ロミュレズ総領主、ゴーゴレス・アム・ロミュレズ・イーザベルグもオブザーバーとして加わっていた。 「ふん、帝国標準で言えば美しい星なのだろう」  宿泊先のホテルから領主府に向かう所で、ドワーブは辺りの景色に目を細めた。すべてが黄色っぽい母星に比べ、テラノはあらゆる色に溢れていたのだ。特に目を引いたのは、青く広がる空と海の色だった。 「ああ、景色だけなら、間違いなくリルケよりも美しいだろうな」  同乗したゴーゴレスは、役得だと言って顔を綻ばせた。総領主の立場にもなると、気軽に他星系に顔を出すことはできない。今回は、オブザーバーと言う立場のおかげで、こうしてテラノに来ることができていた。 「それで、お前は本気でテラノと友好関係を結ぶのか? 障害となったアズライト様はお隠れになり、恩のある本物のアセイリアは間もなく命を落とすのだろう?」  一千年にも及ぶ怨念を、そんなに簡単に捨てていいのか。この期に及んで、ゴーゴレスは確認してきた。 「お前向きの答えを言うのなら、その方がアルハザーへの嫌がらせになるからだ。そして本音を言うのなら、俺はここの奴らが気に入ったのだ。本物は死ぬのかもしれないが、身代わりのアセイリアも気に入っているのだ。アルハザーが敵と言うのであれば、俺達が味方になってもおかしくはないだろう」 「お前が、俺のことをどう見ているか分かったよ……」  苦笑を浮かべたゴーゴレスは、十分な答えだとドワーブの考えを認めた。 「懸命に頑張るところなど、なかなか可愛いではないか。アルハザーやトリフェーンを見ていると、応援したくなるのも理解できる」 「まあ、そんなところだ。後は、新しい世界の芽を摘みたくないだけだ。始まりはグリゴンとテラノかもしれないが、これを帝国全体に広げれば、これまでとは違うことが起きてくれるだろう。そのきっかけだと考えれば、俺は積極的にこの友好条約を肯定できる」  顔から険はとれているが、ドワーブの答えはむしろ力強いものになっていた。それを面白いと笑ったゴーゴレスは、「感謝する」とオブザーバーとして選んでくれたことに礼を言った。 「だが、誰か皇族を招かなくて良かったのか?」 「アズライト様以外をお招きするつもりはない。そしてアズライト様は、あの日以来消息が不明になっている。この状況で、一体誰を招けと言うのだ?」  招待するような相手がいない。そう答えたドワーブに、「一人だけいるだろう」とゴーゴレスは真面目な顔をした。 「厭味ったらしく、アルハザーを招けばよかったんだよ。まあ、招待しても、来るはずはないんだがな」  それぐらいの嫌味を効かせても良かったはずだ。そう指摘したゴーゴレスに、ドワーブはとても不思議そうな顔をして見せた。 「間違って来でもしたらどうするのだ? 気分が悪くなるだけの相手を、呼ぶことに意味はないだろう。あれは、相手にしないで放置しておけばいいんだ。そうしないと、つけあがるからな」  その程度だと言い切ったドワーブに、「本当に面白い」とゴーゴレスは口元を抑えて笑った。 「さて、いよいよ調印式の始まりか……」 「さっさと終わらせて、その後のパーティーを楽しむことにしよう。それから、一か所だけ行っておきたいところもあるからな」  領主府前の車止めには、見覚えのある顔が何人も並んでいるのが見えた。その中にアセイリアの顔を認めたドワーブは、もう一度「行っておきたい場所」と繰り返した。 「どこだ、それは?」 「それは、後から分かることだ……」  それよりも、今は無事調印式を終わらせなければいけない。外連味たっぷりの演技をすることを、ドワーブは考えていたのだ。  テラノの総領主はジェノダイトなのだが、今回の友好条約調印に当たっては、アセイリアが前面に出ることになっていた。アセイリアを前に立てることで、グリゴンの脅威を緩和することを目的としたのである。したがって、ジェノダイトに続いて、何の役も持たないアセイリアがドワーブ達と握手を交わすことになった。  2段階役職が上がったとは言え、1等男爵程度では地球全体の式典に招待されることは無い。自宅で調印式典を見ることになったミツルギ一族は、大したものだとアセイリアのことを誉めた。センテニアルからこの調印に至るまで、彼女の存在が鍵となっているのを知らされたのだ。そんな相手に娘が引き立てられたのは、幸運以外の何物でもないと思っていた。 「しかし、お前はこれからどうするのだ?」  式典の映像を見ながら、一家の主フェルナンデスは、娘のマリアナにこれからのことを尋ねた。引き続き支援を乞うにしても、相手が大物過ぎたのだ。しかも半端なく多忙とくれば、相手にして貰えるとはとても思えない。今の成績を維持していくためには、頼りになる「参謀」の存在が必要だったのだ。 「どうすると言われてもだな。ヨシヒコを切り捨てたのは父様なのだぞ。アセイリア様が忙しくなるのは、センテニアルの後を考えれば分かっていたことだ。だからどうすると言われても、検討中としか答えようがない。さすがに、あの仕打ちは無いと思うのだがな」 「だが、あの男はセラムを裏切ったのだぞ! それはすなわち、ミツルギの顔に泥を塗ったことになる!」  それを許せるはずがない。顔を赤くして怒る父親に、状況が見えてないとマリアナは指摘した。 「ヨシヒコの母親が、アセイリア様の支援に入っているのだぞ。父様のしたことは、ミツルギの立場を悪くする意味しかなかったのだ。父様が怒っていることにしても、誤解から出ただけと言うのも確認してある。すべては、父様の短慮がいけなかったのだ。とは言え、今さらこちらから頭を下げることもできないだろう」  一等男爵と平民では、もともと置かれ立場が違いすぎる。己のプライドを考えれば、平民に頭を下げることはできないのだ。 「当たり前だ。紛らわしいことをした時点で、非は相手にあることになる!」 「それが、娘の足を引っ張ることになっていると言うのだ……」  まったくと小さくため息を吐いたマリアナは、不思議だなと言ってテレビに映るアセイリアを見た。 「私には、センテニアル前とは別人にしか思えないのだ」 「また、それか……」  目線を険しくしたフェルナンデスは、「外で口にするな」とマリアナに命じた。今の軍に於いて、アセイリアの名は絶対のものになっている。アセイリアに近しいことで便宜を受けていることを考えると、敵に回す発言などもってのほかだったのだ。それこそ、立場を弁えて発言しなければいけないことだった。 「仕方がないだろう。私には、別人としか思えないのだからな」  「そもそも」と、マリアナはここぞとばかりに疑問に思っていることを口にした。 「なぜ、アセイリア様は私を重用してくれたのだ? 確かに、私は総領主様から皇女殿下の世話役に選ばれた。だがその役目にした所で、ヨシヒコの助けなしでは務まらない性格のものだった。皇女殿下が失意に沈まれた時の世話役は、逆に私である必要もなかったのだ。これはセラムが言い出したことだが、皇女殿下は明らかに私達を特別なものとみていた。そうでなければ、港総合高校のIDなど大切にされてはいなかっただろう。そしてセンテニアルだが、あの時アセイリア様は私に作戦を授けてくれた。なぜ先輩方ではなく、私に作戦を授けてくれたのだ? しかもその作戦は、私の性格をよく理解したものだった。私は、それまでアセイリア様と言うお方のことを、聞いたこともなかったのにだ」  不思議だろうと言う娘に、フェルナンデスは不機嫌そうに軍の中で広まっている噂を教えた。 「アセイリア様の恋人が、あの坊主だと言う噂が広がっている。それが本当ならば、お前の疑問への答えになるだろう」 「ヨシヒコの恋人がアセイリア様?」  初めて聞く話に、マリアナは盛大に驚いた。そしてすぐに、それは無いと否定して見せた。 「いつの間に知り合ったと言うのだ? センテニアル前にセラフィムと言う女性が割り込んでこなければ、ヨシヒコはセラムを嫁にするつもりでいたのだぞ。黄金町に行ったのも、セラムと行くための事前調査だと言うことだ。ヨシヒコの友人達も、他に恋人がいるとは言っていない。唯一の候補はセラフィムと言う女性なのだが、アセイリア様とは別人なのは確認できている。セラムが、ホテルでセラフィムと言う女性を見ているからな」 「だが、軍の中では公然と噂されているのだ。統合司令本部でも、嫁姑と言われているらしいぞ」  それが事実だと断言した父親に、「何かがおかしい」とマリアナは首を傾げた。 「ヨシヒコは、セラムが会った日に行方不明になっている。そして年末に、病院に収容されていると連絡を受けたのだ。奴の友人が、助からないのではと恐れるほどの病状だと言う。ヨシヒコがアセイリア様の恋人と言うのなら、空白の期間に何が起きたのだ? グリゴンへの代表団の中には、ヨシヒコの名前は無かったのだぞ。だとしたら、一体いつ、アセイリア様はヨシヒコと関わっている? そもそも、どうして行方不明になる必要がある?」  だからおかしいと言った娘に、フェルナンデスは一言「分からん」と答えた。いかにも父親らしい答えに、マリアナはそれ以上このことに触れるのをやめた。その代わり、テレビで伝えられた調印式を持ちだした。 「兎に角、これで地球に新しい歴史が生まれるのか」  マスコミ映像は、ジェノダイトとドワーブが握手を交わしているのを映し出していた。そしてジェノダイトの後ろにはアセイリアが、そしてドワーブの後ろには、オブザーバーとして出席したゴーゴレスが立って拍手をしていた。これで、両国の間の友好条約は、無事締結されたことになる。この後は、共同会見で条約の説明、およびグリゴン側の声明が発表されることになっていた。特にドワーブが発する声明は、ザイゲル連邦の重鎮と言う意味からも注目されたものだった。 「ああ、センテニアルから高まった緊張が緩和されることになる。適度な緊張は必要悪だが、緊張が高まりすぎるのは罪悪だ。急な軍艦の建造など、経済を破壊する行為に違いないだろう。その意味で、条約締結の持つ意味は非常に大きいな」 「私も、少しは役に立てたことを誇りに思うことにするか」  腑に落ちないことは沢山あるが、今は満足しておくことにしよう。そしてそのためにも、セラムが隠していることも不問に処する必要がある。もしも自分の将来に影響があるのなら、その時はセラムの方から教えてくれることだろう。それぐらいの信頼関係は結べていると、マリアナはセラムのことを信じていた。  アセイリア機関と呼ばれる関係者を除けば、セラムが一番真実に近い所に居るのは間違いない。ヨシヒコの関係者として記憶の操作を受けたのだが、年末の事件で記憶の復帰操作が行われていた。そして記憶に不整合が出ないようにと、アズライトとのことは操作対象から外されていたのだ。それもあって、セラムはアセイリアとヨシヒコが同一人物であることを覚えていた。  それがおかしいと本人に問いただしに行こうとしたのだが、ミツルギ家がヨシヒコとの絶縁を宣言してしまったのだ。そのせいで、セラムはヨシヒコに会いに行くことができなくなってしまった。それでも自分なりに調べ、疑問点の整理をする所までは辿り着いた。 「まだ、マリアナ様を巻き込めません!」  矛盾だらけの記憶を整理するところから始めたセラムは、ようやく記憶の矛盾に対する説明らしきものができるようになっていた。そのカギとなったのは、退院したばかりのアセイリアとの会話である。あの時アセイリアは、ヨシヒコと同一人物であることを認め、アズライトとの関係も否定をしなかった。その情報を信用すれば、記憶の矛盾にも説明を付けることができたのだ。 「セラフィムさんは、皇女殿下が世を忍ぶ仮のお姿。悔しいけど、ヨシヒコさんは殿下と恋に落ちられた」  その前提に立てば、色々と説明が繋がってくれるのだ。事情を知らない自分が責めた時、ヨシヒコは浦安の遊園地に遊びに行くと言っていた。その夜以来、ヨシヒコは姿を消し、アセイリアと言う女性が表に現れた。そして一方のアズライトは、恋人を失った失意に沈み込んでいたのだ。調べ直した結果、アズライトが持っていたIDが、ヨシヒコの物であるのも確認ができていた。 「ヨシヒコさんへの記録が、一度すべて抹消され、それから復活させられた。時期を考えれば、遊園地に行った夜と考えるのが自然のはずです」  それがどんな意味を持っているのか、セラムは自分なりに考えてみた。 「どうしてヨシヒコさんが消えなくてはいけなかったのか……アセイリアさんの役目をするだけなら、名前を変えて姿を隠す必要はなかったはずです。だとしたら、皇女殿下が理由としか考えられないのですが……」  愛しあった人を、あそこまで悲しませてまで姿を隠す理由があるのだろうか。セラムの考察は、どうしても解けない疑問で足踏みをしてしまった。落ち込むアズライトを見れば、皇女殿下が本当にヨシヒコのことを愛しているのは理解できる。そしてヨシヒコも皇女殿下を愛したのなら、姿を隠す理由がないのだ。もしも自分が理由だとしたら、アズライトが帰った後に会いに来てくれない理由に説明がつかない。一緒に夜も過ごしたのに、手の一つも握ってくれなかったではないか。 「アセイリアさんが理由と言うのもおかしい気がします……」  セラフィムとのことがあるときでも、アセイリアと言う女性の影は感じられなかったのだ。しかも退院直後にしても、今のアセイリアがヨシヒコのマンションに現れたことはない。それを考えると、ヨシヒコの行動がアセイリアのためとは思えないのだ。 「ヨシヒコさんに会えればいいのだけど……」  入院しているとは聞かされているが、どこにと言うことは教えてもらっていない。たとえ教えてもらったとしても、会わせて貰えるかも分からなかった。頼りのアセイリアも、忙しいのかマンションに帰ってきていなかった。 「ヨシヒコさんの家に行っても、多分誰も居ないでしょうし……」  一度前を通ってみたのだが、誰かが居るような気配を感じることは出来なかった。両親が帰ってきているはずなのだが、近所の人も顔を見ていないというのだ。唯一母親のチエコだけは、アセイリアのサポートをしていると聞かされていた。  完全に手詰まりの状況に、セラムは自分には荷の重いことなのだと諦めかけていた。たかが女子高生では、集められる情報に限りがある。そして集まる情報にしても、誰にでも集められるようなものでしか無かったのだ。 「やはり、私では駄目なのですか……」  感触を確かめるように、セラムはそっと自分の唇に指を当てた。あれが二人のファーストキスと言うのを、ヨシヒコは意識していたのだろうか。どんな理由だろうと、自分にとっては大切な思い出なのだ。セラムはもう一度唇に指を当て、「嘘つき」と小さく呟いた。 「私達には、十分に時間があるはずですよね」  その約束を果たして欲しい。叶わない思いと知りながら、セラムはもう一度ヨシヒコの名を呼んだのだった。  調印式を取り仕切ったこともあり、アセイリアは完全に時の人となっていた。グリゴン総領主ドワーブと親しげに話したことも、彼女の評価を高めることとなった。生い立ちその他が一切不明ということもあり、再びジェノダイトの隠し子と言う噂が再燃したぐらいだ。そしてセンテニアル前から始まる活躍を、彼女を追いかけたマスコミは物語のように紹介してくれた。お陰で、街を歩けばどこを見てもアセイリアの写真を見かけるようになっていた。  これでは、心が休まる暇がない。アセイリアは、仲間達に置かれた状況をぼやいた。今までは普通に歩けた街も、今は外に出ただけで人集りができてしまうのだ。これでは、迂闊に外を出歩くことも出来ない。 「それ以上の問題は、ヨシヒコさんのお見舞いにいけないことです」  ずっとシルフィールが付き添っていると聞かされているのも、アセイリアにとって気になることだった。そして悪くなることはあっても、良くなることはないと教えられているのも問題だった。帝国第3大学の学生を持ってしても、皇帝の使ったウイルスの謎を解くことが出来ない。すなわち、それはヨシヒコの治療が出来ないことを意味していた。  その上細胞の延命及び活性化も、そろそろ限界に近づいているとも聞かされていた。見舞いに行ったチエコからは、「覚悟をしておきなさい」とまで言われたほどだ。だからこそ見舞いに行きたいのだが、スケジュールと周りの環境がそれを許してくれなかった。 「マツモトさんのお陰で、雑事からは解放されたはず……なんだがな」  ボリスの言うとおり、チエコはアセイリアの代理人として八面六臂の活躍をしてくれている。お陰で、雑事と言うか地球内の交渉事は、完璧にアセイリアの手を離れていた。アセイリア自身の評価では、自分では絶対にできないと言うチエコの活躍だった。  だが個別の案件以上に、有名になってしまった弊害が出ていた。マスコミ映えすることもあり、各種媒体の取材が引きも切らなかったのだ。その上センターサークルの検討を統括する役目もあるのだから、一日に自由になる時間が無くなっていた。喫緊の課題として、広がった世界をどうさらに広げていくのか。シレナを始めとした他の種との交流を、どうやって広げていくのかを考えなければならなかった。 「この方面でマツモトさんの助けがないのはきつかったな」  チエコは確かに凄いのだが、残念ながら戦略の面ではあまり力になってくれなかった。その意味でも、ヨシヒコは特別だったのだと改めて思い知らされた気がする。そしてヨシヒコが頼れない以上、自分達で解決する必要があったのだ。 「チエコさんには、今でも十分に助けてもらっています。ここから先は、私達が頑張らなければいけないことだと思っています。良いですか、私達ですからね。私だけに押し付けないように!」  くどいほど強調したアセイリアに、「分かっている」とマイケルたちは苦笑を浮かべた。それぐらいのことは分かっているのだが、やはり能力不足を痛感していたのだ。 「ドワーブ様が相談に乗ってくださると仰ってくれました。ですから、一度グリゴンを訪問しようと思っているのですが……足は、ジェノダイト様のクルーザーがあるといえばあるのですけど」 「あまりグリゴンとずぶずぶになるのは良くないな……とは言え、俺達では経験が不足しているのは確かだ。ところでジェノダイト様は、これからのことをどう仰ってるのだ?」  地球の総領主はジェノダイトなのだから、最終決定権はそこにある。そして検討メンバーに対して、方針を説明する必要もあったのだ。 「ここの所お忙しそうなので顔を合わせていないのですが。そうですね、まずジェノダイト様とお話しないといけませんね」  忙しさが過ぎると、細かなところで考え落としが多くなってくる。いけないと自分を戒めたアセイリアは、立ち上がって給湯器のところへと歩いて行った。そこでカプチーノをカップに入れ、一口飲んでほっと息を吐き出した。 「あれ、アセイリアってコーヒーを飲まなかったよね?」  いつの間にと指摘したディータに、アセイリアは口元を歪め小さく頷いた。 「たぶん、ヨシヒコさんの影響を受けたのだと思います。カプチーノは、ヨシヒコさんが好んで飲んでいましたからね。あら、セラどうかしたの?」  もう一度カプチーノを口に含んで息を吐き出したところで、アセイリアの前にセラがポップアップして現れた。珍しいわねと、アセイリアは椅子に座ってカップを置いた。 「はい、ヨシヒコ様からのメッセージ? です。苦労しているだろうから、ちゃんと考え方を書き残しておくのだそうです。それが出来たので、お伝えに参りました」 「ヨシヒコさんが?」  驚いて座りなおしたアセイリアに、セラは「はい」と大きく頷いた。 「今は地球が主導して、帝国を動かす大きなチャンスなのだそうです。だから、グリゴンとの平和条約締結に満足しないで、すぐに次の手を打たなければいけないとのことです。その為に、どこをどう攻めるべきか、どう話を持っていくべきか、ヨシヒコ様は自分なりのお考えをまとめられました。そしてそれを、アセイリア様達に参考にしていただきたいと言うことです。そしてこれはヨシヒコ様からのお願いですが、自分のメッセージに縛られないで欲しいとのことです。皆さんが皆さんなりに分析をし、どう行動するのか決めていただきたいとのことです。自分には、結果を修正するだけの時間は残されていないから。それが理由だそうです」 「それじゃ、まるで遺言じゃない……」  思わず漏らしたイリーナに、セラははっきりと頷いた。 「敢えて遺言と言う言葉を使いませんでしたが、ヨシヒコ様は遺言のつもりでメッセージを残されています。シルフィール様とお話をされ、自分が助からないことを理解されています。それならば、自分に時間を与えた皇帝を後悔させてやる。それが、自分の生きた証になるのだそうです」 「ヨシヒコさんは、アズライト様のことはご存知なのですか?」  自分の口から伝えてはいないが、間違いなくアズライトのことを気にしているはずだ。そして噂とは言え、自分の子供が出来たことを知らずに死ぬのは可哀想に違いない。それを気にしたアセイリアに、セラは小さく頷いた。 「シルフィール様が教えて下さいました。ご懐妊されたと言う噂があることも聞いています。申し訳ありませんが、ヨシヒコ様がその時何を思われたのか。それは、私にも分かりません。普段は論理的な思考をされるヨシヒコ様なのですが、その時だけは私にも分析できない思考に囚われていました」  セラがそこまで答えたところで、全員のもとにヨシヒコのメッセージが届けられた。その中には、アセイリアの見たこともある、皇帝に対する分析も含まれていた。ただよく見てみると、自分が知っているものとは少し内容が異なっていた。 「聖下への分析もアップデートしている?」 「はい、自分に対する対応の失敗も分析に加えられています。そしてアズライト様ご懐妊の噂が出た背景も、分析に加えられています。特にトリフェーン様の部分が、かなり修正されています」  なるほどと頷いたアセイリアは、これからのことの部分に関心を向けた。分かっていたことだが、山のようにやることが書かれていたのだ。それは友好関係を結んだグリゴンだけでなく、ザイゲル連邦やシレナ、そして他のH種の住む星系についても触れられていた。これだけボリュームがあると、理解するのにかなりの時間が掛かりそうだった。 「相変わらず……凄いな」  これを見せられれば、感嘆の言葉しか出てこなくなる。そんなマイケルに、全員が同感だとばかりに頷いた。 「これを、全部ヨシヒコさんが作られたのですか?」 「はい、この1週間ほどで……グリゴンとの調印式辺りから作成に入られ、、、ました」  急にノイズが入ったように乱れたセラに、アセイリアは急に胸が苦しくなった気がした。考えにくいことだが、アバターが動揺したように思えたのだ。そしてアバターが動揺する理由は、アセイリアには考えたくないことだった。 「せ、セラ、どうかしたの?」  それでも、理由を聞かないわけにはいかない。明らかに動揺した様子で、アセイリアはセラに理由を尋ねた。そんなアセイリアの動揺が伝染したのか、センターサークルのメンバー達も、緊張した面持ちでセラの答えを待った。 「皆様にお知らせすることがあります。たった今、ヨシヒコ様の脳が活動を停止いたしました。ヨシヒコ様の命令に従い、アセイリア様に最後のメッセージをお伝えします。「ごめんなさい」以上です」  全員に衝撃の事実を伝えたセラは、自らの消滅を告げた。 「使用者本人の死亡に伴い、私は記録をアーカイブに収め活動を停止します」  そしてその宣言を言い終えたのと同時に、スイッチを切ったかのようにその姿を消してくれた。  セラの報告を聞いた時、アセイリアは最初は何を言っているのか分からないと言う顔をした。覚悟をしていたつもりなのに、心が受け入れることを拒んでくれたのだ。そして「ごめんなさい」と言うメッセージを聞き、目からは涙が止めどなく溢れ出てきた。自分は、謝られることなど一度も望んだことはない。愛していると言えとは言わないが、好きだ、の一言ぐらい残してくれてもいいはずだ。  抱いてくれても、キスをしてくれても、今まで一度も好きという一言を言ってくれなかった。自分の心をこれだけ縛っておいて、一番欲しかった言葉を残してくれない。この思いを一体どうしてくれるのか。ごめんの一言では、絶対に報われるはずがない。そして、「好き」の一言を言わせられなかったことが、悔しくて悔しくて仕方がなかった。 「アセイリア、ここは俺達が何とかする。お前は、病院に行って来い」 「そうした方が良いわ。私が、付いて行ってあげるから……」  マイケルの勧めに、カヌカがアセイリアの両肩にそっと手を当てた。なんとか立ち上がったアセイリアに、カヌカはイリーナに頼めるかと、足の確保をお願いした。下道を通るのは、マスコミの格好の餌食になってしまう。空軍の力を借りれば、空から病院入りすることができる。 「分かった。私が操縦するから付いてきて……」 「さあ、アセイリア……」  カヌカに支えられるようにして立ち上がったアセイリアは、そのままふらつくように本部を出て行った。 「……辛いな」 「ああ」  アズガパもチャングも、アセイリアの気持ちは知っていた。そして知っているからこそ、辛すぎるとしか言いようがなかった。 「頭が良いくせに、あいつは馬鹿だ……」  目に涙を浮かべながら、ボリスはヨシヒコのことを非難した。 「ああ、馬鹿も馬鹿だ、大馬鹿だ……「大切なアセイリア」なんて、俺達に伝える言葉じゃないだろう!」  どんと机を叩いて、バロールは「くそっ」と吐き出した。 「俺達じゃ、代わりになんかなれないのにな……言われなくても、アセイリアは守って見せる」  アセイリア以外のメンバーには、「ごめんなさい」とは別のメッセージが残されていた。そこには面倒を残して行くことへのお詫び、帰国パーティーを開けなかったことへのお詫び。そして、「大切な」アセイリアを守って欲しいと言うお願いが残されていた。  だがどんなに腹を立てても、その相手は鬼籍に入ってしまった。そして最後の最後まで、自分達が道に迷わないよう指針を残してくれた。蚊の死に喪失感を覚えたのは、何もアセイリアだけではなかったのだ。センテニアルの戦いは、彼らとヨシヒコがともに力を合わせた結果だと全員が信じていたのだ。  やることをやりつくしたと言う気持ちもあり、シルフィールはヨシヒコの病室にいることが多くなっていた。そこで何をすると言う訳ではないのだが、時折現れるアバターと話をしたいと思ったのだ。ただ不思議なのは、ここ数日アバターの挙動がおかしいことだった。自分を意識したと言うより、周りを探るようなしぐさが増えたのだ。 「ねえ」  突然現れ、ぐるりと辺りを見渡したアバターのセラに、シルフィールは声を掛けた。 「どうして、そんな周りを探るような真似をするの?」  シルフィールの問いかけに、セラは少し驚いたようなそぶりを見せた。そしてシルフィールの姿を認め、彼女の方へと移動してきた。 「申し訳ありません。主は、耳も目もすべての感覚が失われてしまいました。ですから、誰かが来ていないか、時折こうして私が代わりに確認させていただいています」 「そう、感覚が無くなったの……」  眼球が濁り始めた時点で、駄目だろうとは予測していた。初めは白く濁った眼球だったが、今は水分を失い干からび始めていたのだ。これでは見える方が、むしろ不思議な状態だった。 「およそ1週間前のことでしょうか。その時は落ち込まれたのですが、むしろ遺言作成に集中できると頭を切り替えられました」 「相変わらず、前向きなのね……」  皮肉を口にしたシルフィールに、セラは「開き直っただけです」と答えた。 「今は、落ち込む時間ももったいないだそうです。後は、やることがあれば気が紛れるのだと。主も、もう時間が残っていないことを理解されています。体が死んだのに、いつまでも脳だけが生きていられるはずがないと申しております」  アバターを介しているからか、いつもヨシヒコの答えは冷静なものだった。最初は戸惑ったシルフィールだったが、今はそう言うものだと開き直ることができるようになっていた。 「そうね。砂時計に、もう砂は残っていないわ」 「多分、そうだろうと主も申しています。それでお願いなのですが、お父様を呼んでいただけないでしょうか。お母様やお姉さまは、今からでは間に合わないだろうと」  死期を悟ったヨシヒコに、シルフィールは感情を抑えて「分かった」と答え、自分のアバターにヒトシに連絡するよう命じた。 「30分もすれば、お父様がいらっしゃるそうよ」 「では、それまで少しお話をしませんかと、主が申しております」  「それはいいけど」と口ごもってから、シルフィールはアセイリアのことを思いだした。 「ねえ、呼ぶのはお父様だけでいいの? アセイリアとか、他に呼ぶ人はいないの?」  これでお別れと言うのなら、最後に会いたい人は沢山いるはずだ。それを気にしたシルフィールに、セラはメッセージを残したことを伝えた。 「アセイリア様には、今の自分を見て欲しくないそうです。自分は、性格が悪くて憎たらしくて自信にあふれていないといけないのだそうです。それが、何も答えてあげられない自分にできることだと」 「アセイリアの気持ちは知っているのよね?」  「それぐらいなら」とセラは頷いて見せた。 「アズライト様を選んだ自分だからこそ、応えるわけにはいかないのだそうです」 「嘘でもいいから、好きだと言ってあげればいいのに」  その一言を望んでいるのは、シルフィールにも理解できていた。そして、今まで一度も言ったことが無いのも想像がついてしまうのだ。だから、最後ぐらいは嘘でも言ってあげた方が良いと思っていた。 「嘘では、言えないこともあるのだそうです」 「そう言うことね……」  やはり真面目なのだと、シルフィールはヨシヒコのことを見直していた。たぶんこの男は、その気持ちを伝えずに居なくなってくれるだろう。だったら自分が、隠された気持ちを伝えてやろうと考えていた。 「本当に、他の人は呼ばなくていいの?」 「もう、呼べなくなった方なら、沢山お出でになるそうですが……お友達には、お父様に伝言をお願いするそうです」  だから十分と答えたところで、「そう言えば」とセラはジェノダイトの名前を持ち出した。 「ジェノダイト様にも、言っておくことがあるそうです。お越しになれるようなら、お声を掛けていただけないでしょうか?」 「ジェノダイト様、ね」  この期に及んで、仕事の話をしようとしているのか。ここまで来ると、必要性にも疑問を感じてしまう。だが相手を考えれば、伝えない訳にはいかないだろう。エリオと自分のアバターを呼び出し、シルフィールはジェノダイトにヨシヒコの希望を伝えた。 「すぐにおいでになるそうよ。それで、他にして欲しいことはある?」 「いえ、これ以上は時間的にも無理だろうと。後は、つまらないお話にお付き合いいただければ結構です」  付き合わせるのねと苦笑を浮かべたシルフィールに、セラは「申し訳ありません」と頭を下げた。 「話をしていないと、意識が消えてしまいそうだと言うことです。ですから、必要な方とお話をするまで、お付き合いをいただければと」  もうそんなに駄目なのか、セラの答えにシルフィールは唇をかみしめた。結局自分は、この患者を救うことが出来なかった。その後悔が、シルフィールを苛んでいたのだ。  外から見えないため、アバターだけがヨシヒコの生を伝える唯一の手段となっていた。心肺機能など、とっくの昔に役に立たなくなっていたのだ。 「それで、どんなことを話す?」 「主は、自分の侵された病のことが良いのではと申しております。あれから休憩がてら可能性を考えてみたそうです」  それは、休憩のときに考えることなのだろうか。それを疑問に感じたシルフィールだったが、今さら手遅れだと大人しく話を聞くことにした。 「それで、自分の病気について、なんだって?」 「はい、なぜウイルスが見つからないのか。医学的知見が無いので、聖下の性格や兵器を作った者の意図を想像してみたと言うことです」  アプローチとしては面白い。興味を示したシルフィールは、「それで」と先を促した。 「ウイルスは、一定の目的を果たしたところで消滅するのではないかと言うことです。当初作られたウイルスは、伝染するため消える必要はなかったかと思います。ですが、自分だけを仕留めるためのウイルスであれば、効果が必要となる時間が限定できるはずだだそうです。一定の時間、さもなければ効果が目的に達したところで、ウイルスは結果だけを残して消滅するのではないか。医学に関わった者なら、原因となるウイルス探索に拘るはずと言うのが、その推測に至った理由です」 「ウイルスは、もういない……」  予想もしない推測に、シルフィールは目をぱちぱちと瞬かせた。そしてもう一度、「いない?」と小さく呟いた。 「細胞は機能を停止させられている。でも、誰にも感染していない。もともとのウイルスは、強い伝染性を持っていたはず……伝染しないのは、細胞内で増殖をしないから……いやいや、栄養吸収を阻害してやれば、全部の細胞に感染する必要もないのか。即死しなかったことを考えれば、すべての細胞までは感染していない可能性はあった」  ちょっと待ってと呟いたシルフィールは、「エリオ」と言って自分のアバターを呼び出した。 「内蔵の細胞サンプルはある?」 「申し訳ありません。サンプルのとれる状態ではありませんでした」  エリオの報告に、「ああ」とシルフィールは天を仰いだ。このウイルスが、兵器として作られたことをすっかり失念していたのだ。兵器として、そして効果の範囲を限定することを考えれば、ヨシヒコが達した推測に辿り着けたはずだった。もしも1週間前に気付いていれば、この少年を助けることもできたかもしれなかった。少なくとも、何もしないよりは可能性があったはずだ。 「ごめん、あなたが言っていることは正解だと思う。対処療法が役に立ったのだから、その可能性も考えるべきだった。ウイルスが残っている限り、対処療法に意味がないと思い込んでいたわ。明らかに、これは私の失態だわ。謝って済むことじゃないけど、ごめん、ごめんなさい!」  涙交じりに謝るシルフィールに、セラは微笑みながら首を横に振った。 「主は、謝られるようなことではないと申しております。シルフィールさんのおかげで、自分には考えるだけの時間が与えられたのだと。感謝こそすれ、恨むことなど一つもないと言うことです」 「でも、もしかしたらあなたは死ななくて済んだのかもしれないわよ!」  恨まれる理由なら十分あると主張したシルフィールに、セラはもう一度微笑みながら首を横に振った。 「これが普通の病気なら、主も恨みもしたかもしれません。ですが、聖下が自分を殺すためにした事ですから、むしろシルフィールさんを巻き込んで申し訳ないと言うのが主の答えです。しかも両親が博打で騙して連れて来たのですから、子供としては謝罪する立場だと申しております」 「それは、謝られるようなことじゃないわよ……」  まったくと息を吐いたシルフィールは、「ごめんなさい」と腰を折って頭を下げた。 「何をしても、あなたへの償いにならないことは分かってる。ただの自己満足かもしれないけど、私はテラノに残ることにしたわ。第3大学の学生は、どこに居ても研究をすることができるのよ。テラノの医療に貢献することで、アセイリアの手伝いをさせて貰う。私には、それぐらいしかできることが無いの」  それが、自分なりの責任のとり方なのだ。それを主張したシルフィールに、ヨシヒコは感謝の言葉を口にした。 「あなたを地球に縛り付けることは、自分の本意ではないと言うのが主の答えです。ただ、あなたの考えを尊重しますと。そしてその上で、感謝すると言うのがお答えになります」  この子供は。どうして自分を感動させてくれるのか。シルフィールは、敵わないなとヨシヒコのことを認めていた。アズライトとのことも、何かの間違いに違いないと思っていたし、アセイリアが本気になる相手でもないと思っていた。だが、こうして話しているだけで、全部本当のことに思えてしまったのだ。それを考えると、「嫁」として連れてこられたのも、悪いことではないと思えるようになっていた。 「あなたの嫁になれなかったのは残念に思えるわ」 「そう仰っていただいて光栄だと言うのが主の答えです」  大きくお辞儀をしたセラに、こちらこそとシルフィールは答えた。病室の外が騒がしくなったのは、「ねえ」とシルフィールが声を掛けようとしたときのことだった。 「誰かがお見えになったようね」  待っててと言って、シルフィールは扉の方へと歩いて行った。それを後ろから見ていたセラは、「後少しの辛抱です」と自分自身に言い聞かせるように口にした。 「後少しで、ジェノダイト様がお見えになります。それまでは頑張ってください」  ヨシヒコの意識をつなぎとめるためには、少しでも目標が必要だった。だがヨシヒコには、もはや意識を保つだけの力が残されていなかった。セラの必死の呼びかけにも関わらず、ジェノダイトが姿を表したのは、すでにヨシヒコの命が燃え尽きた後だった。 Last chapter  ヨシヒコの葬儀に出席したジェノダイトは、その翌日地球を旅立ちリルケへと向かった。目的は、ヨシヒコの遺言を実行するためである。そのためには、皇帝アルハザーと話をする必要があった。  10日間かけてリルケに辿り着いたジェノダイトは、その足でアルハザーの居るロマニアへと向かった。  だが覚悟を決めてノウノ宮に足を踏み入れたジェノダイトは、皇帝が不在と言う肩すかしを受けることになった。そこで得た答えが、しばらく南の海で静養していると言うものだった。 「それで、具体的にはどこなのだ?」 「御身に関わることですから、たとえ一等侯爵閣下でもお教えできません」  にべもなく断られたジェノダイトは、仕方がないと頭を使うことにした。そして過去静養先として使われた場所を洗い、そこには来ていないのを確認した。 「つまり、あそこが一番可能性が高いことになるな……」  昔二人の婚約の儀が終わったところで、ジェノダイトを追いかけるように二人は海へとやってきた。そこでさんざん飲み明かし、そしてばれたら命がなくなるようなことをした場所だ。 「だとしたら、アルハザーには珍しく、落ち込んでいることになるのだが……」  普通ならあり得ないことに、ジェノダイトは自分でも「本当か」とその推測を疑っていた。だがヨシヒコにも、その可能性は示唆されていたのだ。ならば可能性に賭けてみるかと、ジェノダイトは保養地にしている南の海へと向かうことにした。  すぐに足を手配したジェノダイトは、とるものもとりあえず南の海へと向かった。以前使ったホテルは健在だったが、残念ながら最上級のスイートは予約できなかった。それも仕方がないと、一ランク落ちるスイートを確保しホテルに入った。後は、ここにアルハザーが来ていることを確認すれば第一段階は終了する。 「ネイサン、何か情報は掴めたか?」 「はい、ジェノダイト様っ!」  元気よく答えたネイサンは、「実は」と言って拍子抜けをする答えを出した。 「ノウノ宮の扱いがどうかと思いますが……アルハザー様なら、トリフェーン様とビーチにいらっしゃいます。特に護衛も置いていないようなので、普通に面会できるかと思います」 「……そんなことだろうと思ったのだが」  はあっと大きく息を吐いたジェノダイトは、「まったく官僚と言う奴は」と昔の同僚への批判を口にした。 「まあ、言っても仕方のないことだろう。だったら、着替えをしてビーチに向かうことにするか」  ここも久しぶりだと懐かしい気持ちを抱きながら、ジェノダイトは案内にしたがって部屋へと入って行った。  ビーチに居る目的を考えれば、急がなくても逃げることは無いのだろう。それでも、無駄な時間を使うものではないと、ジェノダイトは着替えを急ぐことにした。  多分昔と同じだと当たりを付けたジェノダイトは、予想通りの場所に夫婦そろって寝転がるアルハザーの姿を見つけた。やはりそうかと納得しながら、ジェノダイトはゆっくりと二人の方へと歩いて行った。そして自分に気づかないアルハザーに、「よろしいかな」と声を掛けた。 「君は、私と距離を置くのではなかったのか!?」  そう言って驚いたアルハザーに、ジェノダイトは「距離を置いて欲しいのか」と逆に聞き返した。 「だったら、皇妃殿下を誘惑してから姿を隠すが?」 「そう言う虐めは許して欲しいのだがね」  小さくため息を吐いて立ち上がったアルハザーは、嬉しいよと言ってジェノダイトに抱きついた。 「今更ながら、心が年を取ったと嘆いていたんだ。とりあえず、ここに座ってくれないか」  そう言って勧められたのは、なぜかアルハザーとトリフェーンの間だった。 「おいおい、さすがにここはおかしくないか?」 「良いんだよ。君たちのことは、すべてトリフェーンが教えてくれたからね」  その程度だと笑い飛ばしたアルハザーは、「それで」と言ってジェノダイトの話を待った。 「君が、何の用もなくここまで来るはずがないだろう?」 「ああ、色々と済ませておくことがあるからな」  アルハザーの指摘に頷いたジェノダイトは、「最初に」と言ってヨシヒコのことを教えた。 「先日、ヨシヒコ・マツモトが息を引き取った。葬儀に出てから、その足でリルケまで戻ってきた」 「そうか、そんなことをわざわざ私に教えに来てくれたのか?」  興味がなさそうにしたアルハザーに、「お前のためじゃない」とジェノダイトは言い返した。 「アズライト様に直接お伝えするためだ。よもや、私を会わせないとは言わないだろうな?」 「会わせる必要が無いのだが……」  少し口ごもったアルハザーに、ジェノダイトは「これ以上俺を失望させるな」と追い打ちを掛けた。 「ここに来たのも、彼に叱られたのが理由だ。それから言っておくが、彼はお前の仕掛けも見破ったぞ。ただ、彼には時間が足りなかっただけのことだ。そしてもう一つ、彼はお前のことを恨んではいない。死ぬ前に言い残したのは、「自分に時間を与えたことを後悔させてやる」だそうだ。今頃、彼の遺志を継いだ者達が、帝国を変えようと動き始めているころだ」 「私を後悔させる……か。それは、なかなか面白い発想だね。ただ、残念なことに、私は後悔と言うものをしたことは無いのだよ。そして、これからも後悔をすることは無いだろう。帝国を変える? それは結構。それこそ、私が望んだものとは考えないのかい?」  甘いねと笑ったアルハザーに、ジェノダイトは冷静に「違うな」と言い返した。 「変わっていく帝国に、お前の居場所はないからな。変わっていくのは、お前に関係のないところばかりだ。皇帝アルハザーの存在は、誰からも顧みられなくなる。それが、彼の考えた未来だよ。現に、グリゴンはお前の存在を無視しはじめた」 「皇帝を無視することなどできないと教えてやってもいいのだがね?」  それこそ甘いと繰り返したアルハザーに、現実が見えていないとジェノダイトは言い返した。 「お前がこれから何をしても。たとえ無視をした星系に攻め込んだとしても、それでもお前は無視し続けられることになる。下手に抵抗するより、それがお前には一番効果があることを全員が理解したのだ」  そう言い放ったジェノダイトは、「なあ」とアルハザーに語りかけた。 「お前は、皇帝が必要と決めた以上、説明をする必要はないと言ったな」 「ああ、いつも言っていることだと思うが?」  それが何かと聞き返したアルハザーに、「俺に対してはな」とジェノダイトは言い返した。 「だが、犠牲となる彼には説明の必要があったはずだ。それをしなかったお前は、間違いなく彼から逃げたのだよ。お前がいくら否定しようと、俺達はそう受け取った。もはや、このことでお前に着く者は誰もいない。お前に、名誉挽回の機会は与えられないだろう」  「下策だったな」と、ジェノダイトは決めつけた。 「だからこそ、こんなところで「心が歳を取った」などと嘆いているのだろうな」  お笑いだと吐き捨てたジェノダイトに、横からトリフェーンが「そこまでにしてください」と割り込んできた。横で聞いていれば、ジェノダイトの言葉が夫の心を抉っていくのが分かるのだ。 「聖下は、ジェノダイト様が仰られたことを理解されています」 「トリフェーン様、残念ながらこれもまたアルハザーが選んだことです。説明の必要が無いと私に言った以上、結果に対して批判を受けることは当たり前のことです。その二つがセットにならない限り、単なる子供の我が儘になってしまう」  違うのかと、ジェノダイトはアルハザーに問いかけた。そして問いかけからしばらくして、アルハザーはジェノダイトの言葉を肯定した。 「そうだね。確かにジェノの言う通りだ。説明をしないと言うことは、結果への批判を受ける義務があることになる。そうか、僕は彼から逃げたと思われているのか……」  「お笑いだな」とアルハザーは自嘲気味につぶやいた。 「200兆を超える人民の頂点に立つ皇帝が、辺境星系の子供から逃げたと思われているのか。本来なら、相手にする必要もないごみのような存在なのにな。そのごみから、私は逃げたことになるのか」  皇帝と一辺境惑星の、しかも爵位すら持たない子供では、同じ場所に立つことはできない。これまでの常識を考えれば、少しもおかしくな所のない言葉だった。もう一度お笑いだと繰り返したアルハザーに、それもまた逃げだとジェノダイトは糾弾した。 「本当にごみだと思っているのなら、お前は関わるべきではなかったのだよ。視界にも入れず、何事もなかったように振る舞えば良かった。それをしなかった時点で、彼はごみではなく、お前が対峙すべき相手になったのだ。そして対峙すべき相手に対して、お前は礼を示さなかった。結果的に、お前は自ら皇帝の地位を貶めたことになる」  ジェノダイトは、アルハザーの理屈を簡単に切り捨てた。それほどまでに、今度の出来事は隙が多すぎたのだ。そして誰もが、あのドワーブですら、それを認めているのが問題だった。 「それを指摘して、ジェノは僕に何をさせたいのだ?」  否定をしないことで、アルハザーはジェノダイトの言葉を肯定した。そして肯定した上で答えを迫った。 「特に何も。言っただろう、もうお前にできることはなにもないのだと。お前がどれだけ挑発しようと、ザイゲルはその挑発に乗ってこない。俺がお前に要求するのは、無駄なあがきは辞めろということだ。そしてもう一つ、アズライト様を自由にしろ。言いたいことは、その程度だな」 「……彼が死んだのなら、アズライトを拘束する理由はなくなったのだが。だが、君も噂ぐらいは耳にしているのだろう?」  妊娠のことを匂わせたアルハザーに、「ああ」とジェノダイトは頷いた。 「誰が流したのかも想像は付いている。だからこそ、俺が会って彼のことを伝えないといけないと思っている。彼の両親からも、アズライト様へのメッセージを預かっているからな」 「こんなことになったことへの恨み事かい?」  結果的に、大切な子供を失うことになったのだ。その恨み言ぐらいあってもおかしくはない。そう想像したアルハザーに、まさかとジェノダイトは恨み言を否定した。 「あの夫婦と話しをすれば、あんな息子が生まれた理由を理解できる。あの夫婦に比べれば、よほどお前の方が常識的だ。父親などは、皇女殿下を孕ませたことを誇りに思うと言っていたぞ」 「確かに、私は常識的だったようだ……」  はあっと息を吐き出したアルハザーは、「トリフェーン」と言って妻に声を掛けた。 「私は、もうしばらくここでのんびりとしている。ジェノは、君がアズィの所へ案内してあげてくれ」 「それは構いませんが、ジェノダイト様、お急ぎになられますか?」  ゆっくり出来ないかと言う問いに、ジェノダイトは小さく首を横に振った。 「今の私には、急がなくてはいけない事案は無い。アズライト様のことにしても、1日2日を争うことではなくなった」  急がないと言うジェノダイトの答えに、トリフェーンは手を叩いて喜んだ。 「でしたら、昔のようにお酒を飲んで語り合いませんか? それから、ぜひともジェノダイト様にご協力いただきたいことがあるんです」 「私に協力するようなことがあるのか?」  一体何ごとだと驚くジェノダイトに、トリフェーンは少し恥ずかしそうに「夫婦のことだ」と打ち明けた。 「私達夫婦のために、ジェノダイト様に少しばかりお骨折りをしていただきたいと」 「ますます、事情を理解できないのだが……」  首を傾げたジェノダイトに、「今は秘密です」とトリフェーンは笑った。 「あなた、あなたもそれで構いませんよね?」 「ああ、できれば私を酔い潰すのだけは勘弁して欲しいな」  首肯したアルハザーに、トリフェーンは「分かってます」と言って笑った。 「私は、妻としてあなたの願いを叶える務めがあると思っているんですよ」  だから、仲間はずれにしたりはしない。楽しみですねと、夫婦はジェノダイトを挟んで喜び合ったのだった。 Epsode 5 END...