星の海の物語 Episode 1 The young man and the young princess Chapter 0  それは、100年前は横浜と呼ばれた街。その海沿いに、雲に届こうかという高さのタワー型の建物がそびえたっていた。青い海と青い空、その青に溶け込むような白いタワーは、関東平野の外からでも見えていた。「テラノ総領主府」と言うのが、そのタワーの正式名称である。  そのタワーの中ほどより低い所、地上からおよそ1000mほどの所には、主となる「総領主」の執務室が作られていた。一般フロアとしては最上階となるそこには、一本の柱も壁もなく、首を回らせれば360度の景色を堪能することができた。もっとも広すぎるスペースのため、足元を見るには窓側まで場所を移さなければならなかった。陸上競技場がまるっと1個入る言えば、どの程度の広さがあるのか想像することができるだろう。その広大なスペースが、ただ一人のために用意されたのである。  その広すぎる執務室では、少し首の詰まったベージュのスーツ姿の男が一人頬杖をついてデスクに座っていた。ブラウンの髪をオールバックにした、歳の頃なら40歳ぐらいの恰幅のいい男である。よほど面白くないことがあったのか、その顔には苦虫をかみつぶしたような表情が浮かんでいた。 「これは、私に対する嫌がらせか」  彼の視線の先には、皇帝からの通達書が投影されていた。それを目にする権限を持つこの男こそ、この部屋の主であるジェノダイトだった。帝国一等侯爵のアシアナ家正統当主である彼は、18年前にテラノ総領主として地球に派遣されていた。  小さく吐出された言葉は、彼の感情を表すのに相応しいものに違いない。一等侯爵の位を継いだのと同時にテラノに派遣されたのだが、今回の沙汰が今までで一番の厄介事と言うのは間違いはなかった。 「さんざんじらしてきたから、間違いなく何かあるとは思っていたが。アルハザーの奴、まだ根に持っている訳じゃないだろうな……もう、20年以上も前のことだろう」  昔からろくなことをしないのは分かっていたが、さすがにこれはないだろうと言いたかった。帝国に加わって歴史が浅いことを考えれば、普通ならばこの時期での皇女の派遣は特別待遇と受け取られるに違いない。だが普通ではない相手が派遣されることを考えれば、間違いなくこれは自分に対する嫌がらせなのだ。およそ記念行事など、粛々と進めればいいだけのことだ。皇族を派遣するのなら、性格がいいと評判の第一皇太子を派遣してくれれば良かったのだ。 「間違いなく、トリフェーン様も一枚噛んでいるな」  もともと厄介な性格をしていた皇帝なのだが、皇妃として彼もよく知る女性を迎えたことで、その厄介さに磨きがかかってくれたのだ。そして夫婦になった二人は、共通の友人である自分にやさしくはなかった。 「だとしたら、今度は何を考えてアズライト様を送り込んでくるのか……」  はあっとため息を吐いたジェノダイトは、鈍い痛みのするこめかみに左手を当てた。  だが厄介事が現実のものとなった以上、いつまでもぼやいていても始まらない。対策が遅れるほど、こちらの傷は深くなってくれるのだ。ため息を一つ吐いて気持ちを切り替えたジェノダイトは、騒ぎの中心となる人物の所在を確認することにした。 「ネイサン、騒ぎの種は今何をしているのだ?」  執務室には、その言葉を受け止める人影は見当たらなかった。だが、まるで独り言のように問いかけがなされたのに合わせ、執務机の上に人形のような姿が浮かび上がった。身の丈15センチメートルほどの人形は、まるで少女のような見た目をしていた。 「はい、ジェノダイト様」  浮かび上がった人形は、ジェノダイトに向けて恭しくお辞儀をした。その人形こそが、中央管理システムの創りだした対人インタフェース、アバターと呼ばれるものである。ジェノダイトは、そのアバターにネイサンという名前をつけていた。  ジェノダイトの前に姿を現したアバターは、主の真似をしたのか難しい表情を浮かべて答えを口にした。 「公式スケジュールでは、10日後に到着することになっています。あくまで、公式では、ですが」  中央管理システムのコンピューターが形成するアバター、パーソナルアシスタントのネイサンは、「公式」と言う言葉をやけに強調して報告した。そして続いてあげた報告で、すぐにその意味を伝えたのである。 「ほぼ同時期に帝星を出発した場合、最短ルートで4日後にテラノに到着することが可能です」  なるほどと頷いたジェノダイトは、ネイサンに考えが甘いと指摘した。 「それは、公式予定通り出発した場合のことだろう。影武者が立てられているのなら、事前に出発していると考えるべきだ。そもそも、ここまで発表を引っ張り、私に秘密にした意味があるはずだ。それを考えると、すでにこちらに潜入している可能性があるだろう」  ジェノダイトの指摘に、ネイサンは少しだけ答えに間を置いた。 「ジェノダイト様の仮説を肯定します。到着予定の1ヶ月前まで対象を広げて該当者を検索した結果、5名ほど被疑対象が見つかりました」  それからさらに間をおいてから、ネイサンは決定的な情報を報告した。 「対象のスクリーニングを完了。身元引受人および家族の行動をチェックした結果、1名不審者がいることが判明しました。旅券名セラフィム・メルキュール、身分は帝国第35大学の学生と言うことになっています」  報告と同時に映し出された立体映像に、ジェノダイトは深すぎるため息を吐いた。髪を短くするぐらいの変装はしているが、その特徴的な見た目はまさに問題とした災厄に違いなかったのだ。 「それで、本物のセラフィム・メルキュールはどうしているのだ?」  ジェノダイトの質問に、ネイサンはすぐに答えを返さなかった。彼女の性能を考えると、それはあまりにも不自然な反応である。  そしてジェノダイトが不安になるほどの間を開けてから、ネイサンは新たな事実を報告した。 「消息不明です。それだけならすぐにお答えできたのですが、裏付け調査に時間が掛かりました。該当者の実データーが、大学のデーターベースに存在していません。在籍情報はありますが、それ以上の情報が見当たりませんでした。このことから、いくつか用意されたダミーの一つであると結論付けられるかと思われます」 「いったい、いくつダミーを用意しているのだ!」  深すぎるため息を吐いたジェノダイトは、肝心要の情報を求めた。 「それで、お騒がせはどうしているのだ?」 「ばれていないと思っているのか、まだトレースが可能です。昨日シンガポールに到着した後、すぐに香港に移動しています」  ネイサンの報告に、やはりそうかとジェノダイトはがっくりと肩を落とした。毎度のことだが、行動がパターン化しているのだ。 「無駄だとは思うが、諸侯に警告を出しておけ……」  忌々しげに吐き出したジェノダイトは、少し考えてから指示を追加した。 「香港行政府には、直ちに逮捕拘禁の上こちらに移送するよう命令しろ」  相手を考えれば、不遜極まりない命令に違いない。だが命令を受け取ったネイサンは、別の提案を持ち出した。その提案にしても、相手に対する敬意に欠ける物に違いなかった。 「もう少し、泳がせた方が宜しいのではありませんか? ばれていないと思っていますから、まだ行動をトレースできますよ」  ネイサンの忠告に、ジェノダイトは頬杖を突いた左手で口元を隠すように首を動かした。 「いっそのこと、最後まで気付かなかったことにする手もあるな。そうすれば、見分けのつかない影武者が、大人しく公式行事を済ませてくれるだろう」 「非常に、現実的な対処であることは肯定します」  ジェノダイトの考えを肯定したネイサンは、そこに含まれる懸念事項を指摘した。 「あのお方が、最後まで大人しくしていてくれれば有効な方法でしょう。ですが、皇女殿下は聖下の悪癖を正しく引き継ぎ、そこに皇妃殿下の性悪を加えたと言われるお方なのです。かならず、騒ぎになる行動をされるかと思いますよ。どうでしょうか、いっそのこと庶民の身分の内に始末してしまうと言うのは?」  同時に示された過激すぎる解決策に、ジェノダイトは思わず同意しかけてしまった。だが、実現の可能性を考え、ネイサンに否定の言葉を口にした。 「それが可能であれば、今は別の皇帝が即位していただろう。銀河広しと言えど、そうそうトリフェーン様のようなお方はいらっしゃらない。むしろ、居て貰っては困ると言う思いもある」  問題児の皇帝以上の邪悪さをもつ女性の顔を思い出し、ジェノダイトはぶるっと身を震わせた。思えば、彼の受難は二人の知り合いだったところから始まっていたのだ。いまだ彼が独身なのも、間違いなくトリフェーンが原因になっていた。  どうしようもない悪寒にさいなまれたジェノダイトは、気を落ち着けるように3度大きく深呼吸をした。 「こちらに連行した後、アズライト様には世話係を付けることにする。それとは別に、周辺警備……監視……いや、警備で良いのか。その人員を割り当てることにしよう。あのお方は、天災だと思って過ぎ去るまで耐える以外にできることは無いのだからな」 「とても、消極的なプランだと思いますが……」  そう答えて、ネイサンは少し表情を曇らせた。 「消極的ではありますが、効果的な対策が無いのは確かでしょうね」  ジェノダイトの答えを認めたネイサンは、該当者のリストを彼に提示した。5名ほど提示された候補が女性なのは、世話をする相手が皇女と言うのが理由なのだろう。 「女性ばかりなのだな?」  それを気にしたジェノダイトに、ネイサンは「配慮」を持ち出した。ただ配慮の方向は、常識とは違う向きを持っていた。 「皇女の行動パターンを考慮した結果です。男性の場合、間違いなくノイローゼになることでしょう。精神的にタフであること、そして性別の問題で嫌がらせを受けないことを条件に加えました。その条件の上で、優秀な学生を選抜した結果です。いずれの候補も将来武官を目指していますので、多少のことではへこたれないかと」  納得のできる理由に、ジェノダイトは小さく頷いた。そして、とても問題の多いことを呟いた。 「なに、性的に誑し込んで大人しくさせられないかと考えたのだが……」  まともに考えれば、皇女相手に考えることではないはずだ。不遜も不遜、断頭台に送られても仕方がないことをジェノダイトは大真面目に口にした。 「確かに、実現可能であればそれも一つの方法であるのは間違いありません」  それを中央管理システムにつながるアバターが肯定するのも異常だが、付け加えられた答えがさらに常軌を逸したものだった。 「すでに、3度ほど実行に移されています。その結果、自殺者2名に、治療施設に収容された者が1名です。ちなみに、生存者も退院の見通しは無いと言うのが生存者の状況です」 「つまり、やるだけ無駄と言うことか」  ため息を吐いたジェノダイトに、ネイサンはさらにひどい決めつけをした。 「前途有望な若者の将来を摘むのは為政者として罪悪です。仰ったとおり、天災だと思って過ぎ去るのを待つのが最善でしょう」  その答えを認めたジェノダイトは、提示された5人のデーターへと注意を向けた。 「それで、誰が一番いいのだ?」  見た目とデーターだけでは、誰が適任者か決めにくい。それに仕事の性格上、ただ単に成績上位者を選べばいいと言うものでもないはずだ。少なくとも、護衛対象は常識を求められる相手ではなかったのだ。 「一つの賭けになりますが」  そう答えたネイサンは、一人の女性のプロフィールを提示した。 「毒を以って毒を制すことを考えると、このマリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギが適任かと」 「毒を以て毒を制す……か?」  口元に手を当て、ジェノダイトは「毒」と言われた学生のプロフィールを凝視した。 「成績的に見ればかなり優秀に見えるな。実家が三等男爵と言うのは、爵位的には低いのだが……」  1面に提示されたデーターだけを見れば、マリアナと言う女子学生に問題があるようには思えない。少なくとも、皇女にぶつけられるような毒は見つけられなかった。 「それで、この女子学生のどこに毒と呼ばれる問題があるのだ? 実技、戦略立案、シミュレーションとも優秀な成績のように見えるのだが? 多少座学が見劣りしているようだが、問題になるとは思えないな」  軍学校に相応しく、マリアナは茶色の髪をベリーショートにしていた。その分見た目の魅力には欠けるのは、将来の進路を考えれば仕方のないことだろう。そして成績の点については、ジェノダイトが指摘した通り問題があるようには見られなかった。家柄にしても、末席とは言え爵位があるのだから、その面でも問題はないはずだ。 「ページをめくって、指導教官の評価をご覧になってください」 「指導教官の評価……か?」  言われた通りページ送りをしたジェノダイトは、目指す指導教官の評価へとたどり着いた。ただ、たどり着いたのはいいが、びっしりと書き込まれた評価に小さな悲鳴を上げた。 「今の士官学校は、ここまで細かく評価を書くのか?」 「おそらく、最初の数行だけで理由が分かるかと思います」  とにかく読めと言うネイサンの言葉に従い、ジェノダイトはマリアナの評価を読むことにした。そして言われた通り3行読んだところで、「毒」と言ったネイサンの言葉を理解した。評価の欄が、教官の恨み言から始まっていたのだ。 「……さらに、酷いことにならないのか?」  もしも相乗効果を示したのなら、周りの被害はさらに拡大することになる。それを考えたら、第一に候補から外すべきだと思えてしまったぐらいだ。 「彼女の場合、両親を人質にすることができます。そこが、皇女殿下とは条件が違うところです。最悪の場合、憂さ晴らしで一族郎党を断頭台に送ればいいでしょう」  首に鈴を付けられるのであれば、毒も薬に変えることができると言うのである。しかもネイサンは、憂さ晴らしの方法まで付け加えてくれた。それで精神の安定を得たジェノダイトは、ネイサンの提案を認めることにした。 「よかろう。至急この女子学生を呼び出してくれ」 「畏まりました。それから香港行政府から、皇女殿下確保の報告が入りました。やはり、一秒でも早く国から追い出したいようですね。明日の朝には、こちらに運ばれてくるようです」  それが帝国の皇女殿下のことだと考えれば、明らかに異常なことに違いないだろう。本来敬意を以って迎えられる相手が、天災と同様の災厄として扱われているのだ。「一秒でも早く追い出したい」と管理システムにまで言われるのだから、帝国の権威はどこにあると疑問に感じてしまうのも仕方のないことだった。  もっとも、ジェノダイトが口にしたのは別のことだった。 「もう少し手間取ってくれれば良かったのだが……」 「皇女殿下が意図した、と言うことも想定できます」  あり得る指摘に、ジェノダイトは頬杖をついたまま右手で自分の顔を覆った。相手の厄介な性格を考えた時、騒ぎを起こす場所を選ぶことは十分に考えられたのだ。 「屋台の食べ歩きに飽きた……と言うことか」 「中華でしたら、こちらでも食べることはできますからね」  とりもなおさず、さっそくトラブルの種が蒔かれたことになる。毒がちゃんと機能してくれればいいなと、ジェノダイトは儚い望みを一人の女子学生に託すことにしたのだった。 Chapter 1  UFOの目撃とかエイリアンの存在とか、その手の話は昔からとても頻繁に人の口に上っていた。そしてその都度、証拠写真の偽造が指摘されたのだが、それでもUFOの到来に対する話題は消えることは無かった。  そしてUFOやエイリアンの目撃談を否定する者たちにしても、その存在自体は否定していなかった。ただ彼らが否定したのは、程度の低い証拠写真や目撃情報だけだったのだ。なにしろ自分たちの居る銀河には、何千億もの恒星の存在が確認されている。さらには、水を保有する惑星まで観測されているのだ。その科学的根拠の前に、地球とは異なる生命を否定するのはむしろ非科学的なこととされたのである。  そして21世紀初頭、ついにUFOやエイリアン論争に終止符を打つ出来事が発生した。何の前触れもなく、無数のUFOが地球上空に飛来したのだ。論より証拠、百聞は一見にしかずの諺通り、人類は異星人の存在を認めることとなったのである。そして光の距離を超える科学力を持つ相手に、各国は迷うことなく接触を選択した。  その接触に対して、相手からは「我々は宇宙人だ」と言う応答がなされた。明らかに人を小馬鹿にした応答なのだが、異星からのコンタクトに対して我慢強く人類は対話を続けた。異星人側からすれば長い時間、そして人類側からすれば短い時間、すなわち1年と言う短い時間で、人類は異星人の支配下に置かれることを受け入れた。純粋な損得勘定の結果、天秤は受諾へと大きく倒れたことが理由だった。戦っても勝てるはずがないことと、意外なほど提示された条件がまともだったことがその理由である。  そして人類は、誇りを売り払った代償として新しい世界の仲間入りを果たすことになった。そこでもたらされた技術による進歩は、100年とも200年とも言われるほど劇的なものだった。  新たにもたらされた技術によって、人類は劇的な進歩を辿ることになった。制限こそ加えられたが、他星系への移動も可能となったのである。そして太陽系内に限ってみても、火星開拓のみならず小惑星や他の惑星からも資源採掘が可能となった。  ただ技術的には大きな進歩はあったが、人々の生活を見れば、多少行動範囲が広がった以上の影響は出ていなかった。相変わらず各国には政府が存在するし、そして日々の生活のため仕事をするのも変わっていない。教育のために、子供が学校に通うことも変わらなかったのだ。社会構造として目に見える変化があるとすれば、各国政府の上に統治機構が作られたことぐらいだろう。それにした所で、気にしなければ気にならない程度の存在でしかなかった。  もっとも気にならない程度の統治機構も、居住地区によって温度差は様々だった。そして「総領主」の居るヨコハマでは、日本政府よりも領主府の方が身近な存在となっていた。それにした所で、生活に変化が出るほどの違いは生まれていないのが実態だった。  領主府のそびえ立つ「みなとみらい」地区から少し離れた住宅街を、一人の女性が地図を片手に道を急いでいた。体格的にはかなりの大柄で茶色の髪をベリーショートにした女性は、短いスカートを気にすることなく、大股で目的地に向かって驀進していた。  ガッシリとした肩幅に太めのウエスト、そして短いスカートから覗く筋肉の盛り上がった足のせいで、逞しいと言うのがその女性の第一印象だった。そして広い肩幅に似合わないピンクのタンクトップの胸元……脂肪ではなく大胸筋の膨らみは、女性として大きめだが、異性への魅力に欠ける存在感を示していた。  筋肉の盛り上がった二の腕を見る限り、彼女のことを可憐と言うことは出来ないだろう。ただ顔つきを見れば、まだ幼さがあちこちに残っていた。 「ここだな」  街路樹のおかげで日差しは和らいでも、やはり急げば暑くもなるし汗も出てくる。「喫茶フローラル」の看板の前に立った少女は、大きなタオルで滲んでいた汗を拭った。そして一度呼吸を整えるように深呼吸をしてから、ドアノブに手を掛け、見た目からは想像できない丁寧さでゆっくりとドアを開けた。  少女が振る舞いに気を使ったのは、彼女が訪ねる相手に理由があった。同い年の男性、しかもこれからお願いをしなくてはいけないのだから、友達の教えの通り「媚」を売る必要がある。そのためには、とりかかりから気をつけなければいけなかった。ステージに立ったところから、演技は始まっていたのだ。  喫茶店のドアを注意深く開いた少女は、ぐるりと狭めの店内を見渡した。そして窓際の席に目指す相手を見つけ、ぎゅっと両拳を握ってから「よし」と小さく呟いた。異性に会うため緊張したというより、戦いに望む前に気合を込めたと言うのが一番ピッタリと来る仕草だった。  できるだけ乱暴にならないように気をつけて店内を歩いた少女は、難しい顔でデーターを眺めている少年の前に立った。ただ少年とは言ったが、見た目は完全に可愛らしい女の子だった。ただ彼を少年たらしめているのは、着ている服が男物と言う事実だけである。よほど男装趣味の美少女と言われた方が、ピッタリと来る見た目をしていた。お陰で女性だらけの客の中に、綺麗に溶け込んでいた。  まるで少女のような少年は、近づいてくる女性を気にすること無くデーターを眺め続けた。一方彼を目指した女性も、それを気にしてはいないようだった。テーブルの前に立った女性は、見た目に似合わぬ丁寧さで少年に声を掛けた。 「こちら、宜しいですか?」  緊張気味に見えるのは、やはり年頃の女性だからだろうか。だが声を掛けられた少年は、顔を上げることもなくぶっきらぼうに彼女に答えた。 「何を今更……それで、こんな所にまで押しかけてきて何の用だ?」  発せられた声は、少女と言うには低く、少年と言うには高い声をしていた。自分を見ようともしない少年に、彼女はもう一度遠慮がちに求められた答えを口にした。 「あ、あの、その、ヨシヒコにお願いが、あってだな」 「レポートでも手伝えと言うのか。いい加減、武系が文系に頼るのはやめてくれないか。しかも、そんな風に猫なで声を出されても、かえって気持ち悪いだけだぞ」  ヨシヒコと呼ばれた少年は、表情を変えずにそう答えた。そして彼女に注意を向けずに、手元にあった氷の溶けかけたラテをストローでずずっと啜った。会話だけを聞いていれば、年頃の男女のやりとりに違いない。だが会話を交わす二人を見ると、立場が逆ではないかと言いたくなる会話でもある。  そんなヨシヒコの前でかしこまった女性は、腰を下ろした所で近づいてきた店員に自分の注文をした。 「カツサンド2人前に、ナポリタン大盛り。それから、コーラをジョッキで」  その注文を聞いた少年は、すかさず「奢らないからな」と釘を差した。 「い、いや、これは、自腹だ……大丈夫。一応、それぐらいのお金に不自由はしていない」  可愛らしくしようとしているのだろうが、あいにくその努力は報われていないようだった。もっともヨシヒコにとって重要なのは、彼女が食い散らからす分を払わなくても済むという事実だけだった。懐に影響はないのだが、ここで支払うのは立場上おかしいと思っていた。 「ここは、落ち着いて時間を過ごす場所なんだぞ。それをお前のような士官学校の生徒が……」  そこで初めて顔を上げたヨシヒコは、目の前の女性の姿に次の言葉を口にできなくなってしまった。それからまばたきを2度してから、氷の溶けたラテをずずっと啜った。 「仮装パーティーでも開くつもりか。さもなければ、お化け屋敷のコスチュームか?」  こめかみの辺りを冷や汗が伝っているのは、それほど彼女の姿にインパクトが強かったと言うところか。もう一度ラテを啜ったヨシヒコは、「何のつもりだ」と目の前の女性に問いただした。 「俺を脅しに来たのか?」  引き攣った少年の顔を見る限り、脅しとしての効果は抜群だったようだ。そんな少年に向かって、彼女は力いっぱい首を振って否定した。 「クラスの友人にアドバイスを求めた結果だ。男性にお願いをするのなら、可愛い格好をして媚を売るのが良いと助言をされたのだ」  一般的なと断りを入れれば、その説明は納得できるものだろう。ただ問題なのは、前提条件が色々と欠け落ちていたことだ。 「その前に、一般的な女性なら……と注釈は無かったか?」  冷静に目の前の女性、マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギを見れば、確かに格好は可愛らしい物を着ているのだろう。ただ190近い身長に広い肩幅、そして盛り上がった筋肉が服装の努力を無駄なものに変えていた。短いスカートから伸びた太ももは、筋肉が盛り上がってとても逞しく見えたのだ。その太さは、間違いなく自分のウエストより太そうだ。 「そうか、友人からは似合っていると言われたのだがな?」  おかしいのかと首を傾げたマリアナに、ヨシヒコは小さくため息を返した。 「陸軍士官学校の常識を、外に持ちだす物じゃない……周りを見て見ろ。俺の言っていることの方が正しいのが分かるだろう?」  普通の女性が集まる喫茶店なのだから、ヨシヒコの言う通り普通に見える女性が周りには大勢いた。ただその指摘にした所で、受け取る側に素養が無ければ意味の無い指摘にしかならない。それぐらいのことは理解しているため、マリアナが口を開く前にヨシヒコは「服装のことじゃないぞ」と断りを入れた。 「スタイルとかを含めた、全体的なことを言っているんだからな」 「そう言われてもなぁ……結構好評だったんだぞ、この格好は」  自分達の常識を持ち出したマリアナに、ヨシヒコは言い方を変えることにした。 「俺には、不気味にしか見えないんだ」  はっきりと言い切ったヨシヒコは、小さくため息を吐いて「それで」と話を進めることにした。常識があまりにも違いすぎるため、いくら言っても効果が無いのは今さらのことだった。 「今度は、俺に何をさせようって言うんだ?」  ヨシヒコの態度に、マリアナはぱっと表情を明るくした。なんのかんの言って、ヨシヒコは小さな頃から自分を助けてくれたのだ。文句こそ言われているが、今まで一度も見捨てられたことは無かった。 「期末の課題なのだが、アステロイドベルト宙域でのドローンを使った小隊戦闘が行われるんだ。担当教官はスティングレー教官だ。だから勝てないまでも、少しでも食い下がりたいんだ!」  マリアナが身を乗り出したタイミングで、注文の品が彼女の目の前に並べられた。注文通りの品々は、大きめのテーブルを埋め尽くしてくれた。 「俺の3食分以上だな」  今さらの指摘をしたヨシヒコに、マリアナは小さく首を傾げた。 「そうか、私にはこれでも足りないぐらいなんだが。ヨシヒコも、もっと食べないと体が大きくならないぞ」 「基準をお前たちに置いてくれるな……」  摂取カロリーもそうだが、消費カロリーも比較にならないほど違っている。男女問わず筋肉だるまなのを思い浮かべたヨシヒコは、ぶるっと小さく身を震わせた。そして感じた悪寒を紛らわせるため、マリアナの言葉に含まれた疑問を口にした。 「ところで、お前はそのまま陸軍志望じゃなかったか?」 「うむ、ミツルギの家を継ぐために、士官学校も陸軍の物に入学しているぞ。ただ今は総合学科のため、空中戦も履修しなくてはいけないんだ」  なるほどと小さく頷いたヨシヒコは、空中に投影したスクリーンを操作し、マリアナの言う課題を引っ張り出した。それを1分で読みこなしたところで、小さなため息をマリアナに返した。 「これだけ不確定要素が多くなると、いくら机上検討をしても実戦とはかなり食い違ったものになるぞ。スティングレー教官の作戦は予想できるし、こちらへの対処も予想することができる。ただ外部環境を細かく予想できないから、バリエーションが増えて収拾がつかなくなるんだ。プログラムデータと作戦案は作れるが……できて、いつも通り及第点ぎりぎりじゃないか?」  及第点ぎりぎりと言う言葉が、自分の意図通りであることにマリアナは喜んだ。そしていささか大げさに、ヨシヒコに向かって頭を下げた。 「それで構わないっ! このお礼は、私の体で払ってもいいっ!」  三拝九拝されるのは、頼まれた内容からしておかしなことではない。ただヨシヒコは、マリアナの言葉に含まれた不穏当な部分を否定した。 「勤労奉仕と言う意味なら分かるが、それ以外の意味だったら拒否させてもらう。それこそ、俺に対するいじめだと理解するところから始めろ。そんなことを言うんだったら、二度と協力しないからな」  性的な部分を否定され、マリアナは不満そうに唇を尖らせた。 「だがな、これでも仲間内ではスタイルが良いと言われているんだぞ」 「常識が違うことを教えてやったばかりだろう。お前の二の腕なんか、俺の倍の太さがあるんだぞ!」  身長で30cm近く高いのと、体重でも倍近い違いがあれば、男女の力関係などひっくり返ってしまう。男のヨシヒコにとって、マリアナは異性を感じる相手ではなかったのだ。女と言うより、違う生き物と言うのが一番ぴったりくる印象となっていた。 「だがなぁ、俺の所に婿に来れば、お前も爵位を持つことができるんだぞ。ちまちまと金を貯めて爵位を買うより、よっぽど確実で近道だと思うだがな」 「ちまちまと言うなっ!」  ムキになって言い返したヨシヒコは、マリアナの誘いを心の底から拒絶した。 「お前の所に婿に行ったら、間違いなく1週間もしないうちに過労死してしまうぞ。昔遊びに行った時に、俺は本当に死にかけたんだからな! あの時は、マジで親戚一同が集まったんだぞ!」 「そんなことがあったかなぁ〜」  覚えてないと白を切ったマリアナに、協力はするとヨシヒコは答えた。 「だから、お前の所に婿入りとか二度と言うな!」 「だけど、お前は爵位をとりたいんだろう?」  どうすると言う意味で聞いてきたマリアナに、ヨシヒコは先ほどまで見ていた画面を見せつけた。 「これは?」  小さく首を傾げたマリアナに、ヨシヒコはため息交じりに画面の説明をした。 「爵位の相場だ。このご時世、なんでも貨幣価値がつけられているんだよ」  そう答えたヨシヒコは、画面を操作して目指すデータを呼び出した。 「ちなみにお前の家、ミツルギ三等男爵家の相場はこうなっている」 「うちは、爵位を売りに出す予定は無いんだが……どうして、値段がついているんだ?」  不思議だと首を傾げたマリアナを、ヨシヒコはふんと鼻で笑った。 「各家の価値を、こうして金銭化しただけのことだ。各爵位に固定的な価格をつけ、さらに各家ごとの価値を数値化したのがこのデータと言う訳だ。お前の家の場合、三等男爵と言うことで基礎金額が100万エルになっている。そしてその他の評価と合わせて、倍の200万エルと言うのが総合評価になる」  家への評価と言う説明に、なるほどとマリアナはデータを覗き込んだ。そしてそのデータの中に、自分への評価があるのに気が付いた。 「私の売値が50万エルとなっているが……これは、高いのか低いのかどっちなんだ?」  自分に値段がつけられている以上、その価値が気になるのは当たり前のことに違いない。それを気にしたマリアナに、ヨシヒコは現実を突きつけた。 「平均よりは低い方だな。とは言え、悲観するほど低いと言うわけではないのだが……」  そう言って画面を操作し、マリアナに関する評価を呼び出した。 「見た目C、性格B、将来性A−か。なるほど、自分の評価とはかなり違うのだな。だが、将来性を高く評価されているのは喜んでいいのだろう」  見た目が下から二つ目と言うのは気に入らないが、武官を目指すことを考えれば大きな障害ではないだろう。それよりも、将来性がA−と評価が高いことにマリアナは喜んだ。 「ああ、確かに将来性への評価が高いのだが……そこに、どれだけ俺の貢献があるんだろうな」  シミュレーションや戦術立案で貢献していることを考えれば、非常に高いと言うのが正しい評価に違いない。だが自分の評価を持ち出したヨシヒコに、マリアナは珍しく効果的な反論を口にした。 「ヨシヒコ、あまり自分の貢献を口にしない方が良いぞ。それが事実なのは認めるが、両親が気付いた瞬間お前はミツルギから逃げられなくなるんだからな。今は気付いていないから、軟弱者と付き合うなと叱られる程度で済んでいるんだぞ」  マリアナの指摘に、ヨシヒコの顔からは音を立てて血の気が引いて行った。それだけでなく、全身が細かく震え、歯のかみ合わせも危なくなっていた。ミツルギ家のことは、トラウマどころか、PTSDと言って良いレベルで精神的に傷ついているようだ。 「お、おれは、絶対に嫌だからな」 「ああ、お前が嫌だと言う気持ちは理解した。だから、こうして忠告してやってるんじゃないか!」  はっはと笑ったマリアナは、自分のデータは良いと画面をヨシヒコに返そうとした。そこで何か気になったのか、もう一度画面を覗きこんだ。 「興味本位で聞かせて貰うが、三等男爵で一番高いのはどこなんだ?」 「どこも、あまり大差はないんだが……」  冷たい水を飲んだぐらいでは、精神的動揺は収まってくれないようだ。まだまだ顔色を悪くしたまま、ヨシヒコはデータを操作した。もっとも金額でソートするだけだから、投影画面を二度タップするだけで終わる作業でしかなかったのだが。 「地球と言うくくりで言うのなら、クロアチアのクロコップ家だな。それでも300万エル程度でしかないがな」 「うちとの差はなんなんだ?」  家自体の評価で倍の違いがあれば、やはり気になってしまうのだ。 「そうだな……文官系で土地持ちって言うのが評価として高くなっているな。武官は数が多いから、評価として低くなるんだ。後は娘の評価がかなり高いな」  ほらと言って差し出された画面には、ブロンドの髪をした可愛らしい少女が映し出されていた。 「見た目A+、性格B、将来性A−か。俺との差は、見た目だけと言うことか。さすがにA+ともなると、なかなかの美少女だな。それでヨシヒコは、こう言った家を買うつもりなのか?」 「俺が、か?」  少しはましな状態になったヨシヒコは、まさかと言って肩をすくめて見せた。 「最低でも、三等子爵あたりだな。その辺りになると、評価額は2千万エルぐらいと言うことだ。俺の資産からすればはした金なのだが、もっとも、爵位が実際に売り物が出ることはほとんどないからなぁ。出たら出たで、オークションで値段が吊り上るし……」  なるほど、自分に分からないところで苦労があるのだなと、マリアナはヨシヒコの苦労を理解した気がした。こうして価値を数値化されてはいるが、爵位が売りに出されることなど滅多にないのだ。自分の家にした所で、売りに出すのではなく返上すると父親が言っているぐらいだ。爵位を金に換えると言うのは、誇りを売りとばすことにも通じることだった。 「実際問題、爵位を買い取るってのは不可能に等しいんだ。こうして相場がつけられているのも、持参金の参考と言う以上の意味はない。そうなると、地道にのし上がるか、爵位のある家に婿入りをすることになるんだが……婿入りもまた、結構条件が厳しんだよ」  条件が厳しいと言うヨシヒコに、マリアナはうんと頷いた。 「普通は、同じ格の家同士で結婚をするからな。うちの親も、そろそろ相手を探し始めているようだ」  マリアナの突きつけた現実に、ヨシヒコは小さくため息を返した。 「と言うことで、鋭意努力をしているところだ。しがないサラリーマン家庭の息子なんぞ、現実的には爵位にもっとも遠い所に居るんだよ。割り切っちまえば、それなりに生活は楽しめるけどな。うちの両親なんぞ、銀河一周旅行に出かけたぐらいだ」  はあっと息を吐き出したヨシヒコは、課題の提出期限を確認した。 「それで、データはいつまでに作ればいい?」 「うむ、10日の猶予があるな」 「10日ね……」  そこで頭を働かせたヨシヒコは、指導教官の性格や癖、そして出された課題の難易度を分析した。そして及第点程度なら、さほど難しくないことを理解した。 「できたら、いつもの所に置いておけばいいか? 多分、明日の夜にはできているはずだ」 「おおそうかっ!」  嬉しそうな顔をしたマリアナは、真面目な顔でお礼のことを持ち出した。 「婿にしてやると言うと怒られるからな。だったら、黄金町に付き合ってやってもいいぞ」 「黄金町って……お前、行ったことがあるのか?」  黄金町と言うのは、今いる場所から少し内陸に移動したところにある有名な歓楽街だった。そしてそこには、高校生から利用できる性関係の施設が複数置かれていた。具体的行為を伴わず、神経接続された同士が仮想的に性交の体験を行う。もっとも体験と言っても肉体的感覚だけで、それ以上のことは何もないと言うのが施設の制限だった。  驚いた顔をしたヨシヒコに、マリアナはおもしろそうに噴出した。 「あれはあれで、結構息抜きになるからな。それに、高校生から利用の認められた健全な施設だろう。だから女同士だが、月に2回程度利用しているぞ。いいか男との初めてを、お前に捧げてやろうと言うんだ。それなりにお礼になるとは思わないか? お前のことだ。どうせ誘ってくるのは男ばかりなのだろう?」 「ああ、何回も断ってるよ……まったく、男同士でなんて誰が行くもんか」  憤慨したヨシヒコの様子に、マリアナはこみあげる笑いを堪えるように口元を押さえた。 「世間標準で見たら、お前は可愛い女の子だからな。そう言う趣味の奴が居てもおかしくないだろう」 「可愛いって言うなっ!」  まったくと憤慨したヨシヒコは、黄金町には行かないと言い切った。 「お前とじゃ、クラスの男たちと何も変わらないだろう」 「だがな、男と女と言う超えられない壁があるんだぞ。将来のために、一度私程度で経験しておいた方が良いんじゃないのか?」  将来のためと言う殺し文句に、ヨシヒコは思わず言葉を詰まらせた。このままだと、高校の3年間、男以外に誘われずに終わってしまいそうな気がしてしまったのだ。レジャー感覚で利用できることもあり、高2にもなって利用していないヨシヒコはクラスの中でも少数派になっていた。  思わずお願いすると言いかけたヨシヒコだったが、マリアナを見てすぐに思いとどまった。自分とVX(Virtual Spritual Exchange Cross-platform)に入ったことがマリアナの両親に知れようものなら、明日の太陽を拝めなくなってしまう恐れがあったのだ。 「い、いや、遠慮させてもらう。そうだな、次に会った時にカプチーノでも奢ってくれればいい」 「ずいぶんと安いお礼なんだな?」  それでいいのかと驚くマリアナに、その程度のことだとヨシヒコは言い返した。 「俺が勉強や投資の片手間でやることだからな」  そそくさと画面をつぶしたヨシヒコは、「じゃあな」と言って自分のレシートを持って席を立った。アンティークが売りのフローラルでは、情緒を楽しむためとレシートを使用していた。ただそこからの支払いで、現金が使われることは無くなっていた。すでに通貨として実態を持った紙幣や貨幣は姿を消し、すべての決済がデータで行われるようになっていた。  慌てて帰って行ったヨシヒコを見送ったところで、マリアナは小さく舌打ちをした。色々と誘いを掛けてみたのだが、そのことごとくがうまくいかなかったのだ。課題への協力は、彼女にとって重要ではあるが、本当の問題ではなかったのだ。 「魅力的な餌を考える必要があるな……」  ヨシヒコを手元に縛り付けるには、この先どうしていけばいいのか。母親に協力させ、作戦を練り直さねばとマリアナは考えた。  翌日士官学校に顔を出したマリアナは、集まってきた仲間に首尾を尋ねられた。今さら言うまでもないことだが、将来の幹部コースと言うこともあり、周りにいるのはすべて親が爵位持ちの男女ばかりだった。 「で、可愛い文系の男の子は捕まえられたの?」  親しい友人の一人、ミチコ・ホメ・テラノ・ニシジマは、興味津々という顔で近づいてきた。 「マリアナもまだるっこしいことをするなぁ。力づくで奪ってしまえばいいのに」  物騒なことを言って近づいてきたのは、ニーナ・ホメ・テラノ・グラマンだった。ちなみに二人とも、三等男爵家のお嬢様である。ただ、分類上お嬢様なのだが、いずれもお嬢様と言いたくないほど、逞しい体つきをしていた。 「なあに、黄金町に付き合ってやると言ったら少しは悩んでいたぞ。このまま余計な虫がつかないようにしておけば、いずれは私の物にすることができるだろう。とりあえず、第一の目的は達せられたから良しとすることにした」  ははと笑ったマリアナに、別の男が第一の目的について口にした。 「その第一の目的なんだが……データを見せて貰う訳にはいかないか?」  そうすれば、自分も課題に苦しむことは無くなるだろう。そのつもりで頼んだケンシン・オム・テラノ・ウエスギに、マリアナは間違いようの無い答えを返した。 「却下だ。あれはすべて私の物だからな。悪いが、ケンシンは自分で他の知恵袋を探すことだ」 「と言われてもなぁ。めぼしいところは、全部上級生に持っていかれているんだぞ」  武官系でない文系、理系の高校生は、実の所草刈り場になっていたりした。そのあたり爵位持ちと言う立場がものを言ったと言う所か。表だって迫ることはしないが、優秀な生徒には裏から手が回されていたのだ。ただヨシヒコの場合、マリアナの努力によって目立っていないと言うだけのことだった。そのあたり、小さなころからの作戦勝ちと言う所がある。 「いいよねマリアナは。彼って可愛いから、ペットにするのに最高だと思うのよ。それに、頭だってぴか一で良いんでしょう? オークションにかけたら、物凄い高値が付くんじゃないのかな?」  爵位が貨幣的価値に換算されているのと同様に、市井に居る優秀な生徒もまた貨幣価値に換算されていた。それが話題に上らなかったのは、そのことをヨシヒコが知らないだけのことだ。当たり前のことだが、この手の情報は需要のある側にしか公開されないものだ。 「彼って、株取引の方でも有名でしょう。マツモト銘柄って言うのができるぐらい、相場に影響力があるみたいよ。良いなぁマリアナは、知恵袋だけじゃなくて金づるまでキープしているんだから。しかも彼って小っちゃくて可愛いし」  本気で羨ましそうな顔をする仲間たちに、だからだとマリアナは真剣な顔をした。 「力づくになっても、あいつを逃がすわけにはいかないんだ。うまく利用すれば、うちの爵位も持ち上げられるかもしれないからな」 「だったら、取り掛かりに黄金町に力づくで連れて行ってみたら?」  ニーナの提案を、マリアナは言下に却下した。 「このことは、慎重の上にも慎重に事を運ぶ必要があるんだ。こちらの意図を悟られたところで、逃げられるのは自明だからな。何しろ相手は、くじ運こそ最悪だが、それ以外は天才と言って差し支えの無い男なんだぞ。しかも金を持っているから、逃げようと思えばどこにでも逃げられる厄介な奴だ。しばらくは今のまま知恵袋として利用して、外堀から埋めていくのが一番賢い対処だと思っている。まともな読み合いでは勝ち目はないが、裏技を駆使すれば勝ち目も出ていると言うものだ」  ふふふと邪悪に口元を歪めたマリアナに、仲間達もまた同じように口元を歪めて笑い声をあげた。 「士官学校の底力、見せてあげないとね」 「中央コンピューターへのアクセス権と言う優位性もあるんだ。これで、情報戦に後れを取る訳にはいかないだろう」 「でも、トンビ対策も必要よ。横から掻っ攫われたりしたら、目も当てられないことになるから」 「うむ、トンビ対策は念を入れておく必要があるな」  一般人と結婚するのであれば、夫婦ごと取り込んでしまえば支障とはならない。その意味で、一番の問題は他の爵位持ちに攫われることだった。仲間内には優先権を主張できても、上位の爵位持ちににはそう言う訳にはいかない。 「仁義を切っておいた方が良いんじゃないの?」  友人からの忠告に、マリアナは確かにそうだとサロンを頼ることにした。そこには成績優秀者からの申し入れなら、無碍に扱われないだろうと言う見込みもあった。もちろん、サロンに頼ることにデメリットがあることぐらいは承知していた。  士官学校におけるサロンとは、一般的な意味では生徒同士の交流の場を指していた。それとは別に、陸、海、空、宙と4つある学科を水平的に束ね、学生間の問題を調整する役割もサロンは果たしていたのである。ただ自主的に作られた交流の場であるため、それを維持する組織と言うものが存在していた。そしてその組織が力を持っていたのは、主要メンバーがいずれも高い爵位を持っていることが理由だった。  士官学校は、歴史的経緯からヨコスカ地区に置かれていた。三浦半島の山からヨコスカ港に及ぶ広い範囲が、士官学校の敷地として利用されたのである。そしてサロンと呼ばれる組織は、かつてどぶ板と呼ばれた地区の一角に集会室を構えていた。ただ集会室と言っても、爵位持ちが集まることもあって豪華な作りがされていた。  マリアナは山の上にある陸の教練施設から、まっすぐサロンのあるどぶ板地区へと向かった。専用のコミューターに乗れば、僅か10分我慢すれば辿り着ける距離である。  サロンのある建物の前にコミューターを乗り付けたマリアナは、服装を確認してから覚悟を決めるように一つ大きく深呼吸をした。これから会う相手は、いずれも爵位的には上位にあたる人達ばかりなのだ。礼を失しては、家名に泥を塗ることにもなりかねない。だからしている格好も、陸の正装である茶色の詰襟姿だった。 「マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギ2回生入ります!」  重厚なドアをノックしてから、マリアナは大きな声で名乗りを上げた。訪問の約束はしてあるので、ドアは開いてくれるはずだ。それでも緊張してドアノブに手を掛けたマリアナだったが、予想外にすんなりと最初の関門は彼女を受け入れてくれた。  サロンの中に入れば、次なる関門が待ち受けている。その次なる関門は、予想外の高さで彼女を迎えてくれた。どう言う訳か、サロンの構成メンバー12人が目の前に勢揃いしてくれていたのだ。  その光景に少し臆したマリアナだったが、すぐに気を取り直して訪問の目的を口にした。 「陸軍士官学校2回生、マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギです。本日は、お願いしたいことがあって参上いたしました!」  背筋を伸ばし45度のお辞儀をしたマリアナに、その中の一人が楽にするようにと声を掛けた。 「丁寧な挨拶痛み入る。陸軍士官学校5回生のジョージ・オム・テラノ・マグダネルJr.だ。ここは堅苦しい場ではないのだから、もっと楽にしてもらって構わない」  マリアナが陸軍と言うこともあり、同じ陸軍のジョージが彼女に声を掛けた。ちなみにマグダネル家は、二等子爵の地位を持つ名門である。そして現当主のジョージ・オム・テラノ・マグダネルは、現役の陸軍大将だった。 「はい、ありがとうございます。ところで、一つ質問をしても宜しいでしょうか?」  楽にしていいと言われても、相手の格を考えれば簡単なことではない。畏まったマリアナは、最初に置かれた状況を確認することにした。 「言ってみろ」  ジョージの許可を得たところで、マリアナは緊張から唾をごくりと飲み込んだ。 「はい、ありがとうございます。私の質問は、みなさんのお邪魔をしてしまったのではないかと言うことです。見たところ、サロンの構成メンバーが勢揃いされているかと思います」  理解できる質問と言うこともあり、ジョージは小さく頷いてマリアナの質問を受け取った。 「そのことなら気にすることは無い。ここに集まった全員は、君の顔を見るために集まったのだからな」 「私の、でしょうか?」  よりにもよって、2回生の自分目当てで集まってくれたと言うのだ。理解できない状況に、マリアナの言葉にも当惑が強く表れていた。 「ああ、君が目的だ」  改めて言われても、どうしてと言う思いの方が強くなってしまう。それを理解したのか、濃紺の制服を着た男性が小さく手を挙げた。受け持ちが違うこともあり、その男性は世間標準に対して少し逞しい程度の見た目をしていた。 「宇宙軍士官学校4回生のユーリー・オム・テラノ・アレクセイビッチです」  銀色の髪に灰色の瞳をしたユーリーは、穏やかな笑みを浮かべてマリアナに向かい合った。 「自覚をしていないようだが、君は結構有名人なんだよ。陸軍士官学校生のくせに、ドローンを用いた空間戦闘でも好成績を上げているからね。しかもホプリタイの実習でも、優秀な成績を上げているじゃないか。そんな君がここに顔を出すと聞いたから、ぜひともお近づきにと考えたんだよ。後は、そうだね、君がどんな話をしに来るのかにも興味があったと言う所かな」  つまり、自分を高く評価してくれていると言うことになる。それに感激したマリアナは、姿勢を正して評価に対するお礼を口にした。 「過分なご評価をいただきありがとうございます!」 「難しいかもしれないけど、そう畏まらなくてもいいんだよ」  穏やかに笑ったユーリーは、対応をジョージへと投げ返した。一般生徒があまり近づかないサロンに顔を出した以上、解決に困る問題があると言うのが常識だったのだ。それを聞くのは、やはり同系統の上級生の役目だった。 「それで、今日はどう言った話を持って来たのだ?」  それを質したジョージに、マリアナは気を付けをして姿勢を正した。 「はい、ただ今ご評価いただいたことにも関わる話です。私は契約こそ結んではいませんが、知り合いを参謀として活用しています。ある意味私の生命線でもあるので、他の方々からガードする必要があります。そのことを、皆様にお願いに上がりました!」 「なるほど、確かに重要な話だ」  うむと頷いたジョージは、認めつつも重要な確認をすることにした。 「確かに、君の将来にとって重要な話に違いない。だからこその確認となるのだが、なぜその相手と契約を結ばないのだ。契約さえ結べば、他の爵位保有者からちょっかいを掛けられることは無い筈だ」  彼らの常識に沿った質問に、マリアナは小さく頷いた。 「配下にするため、硬軟取り混ぜて誘ってはいます。ただ、いまだ色よい返事を貰えていません。無駄な努力と知りつつも、本人は金で爵位を買うことを諦めていないのです。ですから、三等男爵など用はないと嘯いています」  マリアナの答えに、サロンに集まった男女から失笑が漏れ出た。「無駄な努力」とマリアナが言った通り、金銭評価こそされているが、金で爵位を買うことは“ほぼ”不可能なのだ。そもそも金で爵位を売るような恥知らずに、爵位が与えられるようなことはあり得なかった。稀に売りに出されることがあっても、まっとうな取引にはなっていなかったのだ。 「まあ、多額の持参金を持って婿入りすると言う方法はあるがな。確かに、まっとうに爵位を買おうと言うのは無駄な努力と言えるだろう」  周りと同様に苦笑を浮かべたジョージに、横から金髪の美女が茶々を入れた。彼女が着ている薄い水色の制服は、空軍士官学校生徒を意味していた。 「あら、子供らしく夢があっていいと私は思うわよ……自己紹介がまだだったわね。空軍士官学校6回生カテリナ・ホメ・テラノ・バルタンよ。それで、あなたの意中の子はなんて言うの?」  男と見間違える体格のマリアナとは違い、カテリナはモデル体型をした美女だった。そのあたり、肉弾戦に関係の無い空軍と言うのが理由となっていた。 「月光、ヨシヒコのデータを皆さんにお送りしろ」  彼女のアバター、月光にマリアナはデータの提供を命じた。口にするより、この方が確実な情報として伝達できる。  そしてマリアナからデータを受け取ったところで、全員がなるほどと大きく頷いた。 「爵位を買うと大言壮語するだけのことはあるわね。それから、この子だったら私も飼ってあげたいなって思うわ」  カテリナの評価に、ユーリーも大きく頷いて同意を示した。 「確かに、可愛がってやりたい容姿をしているな。しかも、成績は飛び切り優秀ときているじゃないか。これ程の超優良物件が埋もれていたとは、なかなかこの世界と言うのが広いものだね」 「なるほど、君が危機感を抱くのも当然と言うことか」  小さく頷いたジョージは、居合わせた仲間の方に視線で確認をした。そして全員が頷くのを確認して、サロンとしての裁定をマリアナに伝えた。 「君の事情は承知した。したがって、当面横槍が入らないように我々から通達を回す。ただ通達を回す以上、期限を切る必要が生じるのだ。君は今2年次だから、3年次終了までと言うのが妥当な期限となる。一般高校生にとって、将来が決まる時期と言うのも都合がいいだろう」  7年間通う士官学校とは違い、一般の学生は18歳で一区切りを迎えることになる。そこから先大学に進むと言う進路もあるが、いずれにしても選択が迫られるのは間違いない。  明確に期限が区切られること、そしてヨシヒコに注目が集まることはデメリットだが、それまでの1年と8か月、余計な干渉を避けられるのはメリットには違いない。マリアナ自身そこまで時間を掛けるつもりもないこともあり、出された条件自体は納得のできるものだった。婿入りを拒絶するのなら、配下の中からヨシヒコ好みの可愛らしい女の子を見繕ってやればいいだけのことだ。 「ありがとうございます。これでこそ、相談に来た甲斐があると言うものです」  大きく腰を折って頭を下げたマリアナに、12人の男女は見えないように口元を歪めた。こうして掘り出し物が目の前に現れたのだから、放っておく手は無いと思っていた。立場が上がれば、使える手などそれこそ星の数ほどあったのだ。  礼儀正しく去って行ったマリアナを見送ったところで、「さて」と言って茶色の髪をした細身の青年が声を出した。ホブソン・オム・テラノ・トロワグロ、海軍士官学校の7回生で、サロンの中心的人物だった。 「言うまでもないと思うが、最低2カ月は我慢するように。そうしないと、サロンの信用にもかかわるからな。それから我々には、センテニアルを成功させると言う使命がある」 「皇女殿下がお出でになられると言う噂でしたね」  そう声を上げたのは、シズク・ホメ・テラノ・サクラコウジだった。白色の制服は、彼女が海軍士官学校に居ることを示している。スマートな体型と、長い黒髪がこの集りの中では異彩を放っていた。 「第二皇女殿下だろうと言う噂だな。それを考えれば、少しの間違いもあってはならないだろう!」  そう答えたのは、スキンヘッドをした男性だった。制服の色を見なくても、その逞しい体つきから陸軍士官学校と言うのは一目瞭然の男だった。 「だけどクウヤ、その第二皇女が一番のトラブルメーカーだと聞いているわよ」  そう言って疑問を呈したのは、同じ色の制服を着たシンディ・ホメ・テラノ・アキノだった。情報の取り扱いに長けた彼女には、第二皇女に関わる悪評が伝わっていた。 「その話は、確かに聞いたことがあるな。皇帝聖下の資質を正しく引き継がれた、とびっきりの問題児と言う噂だったな」  大きく頷いたサムタイに、だからだとクウヤ・オム・テラノ・タナベは答えた。 「問題児には、我々が結束して対処しなくてはいけないのだ。だから、嵐が去るまで抜け駆けは無しと言うことだ」 「そう言うお前こそ、抜け駆けをするつもりじゃないだろうな?」  攻撃的なユンの言葉に、上級生のサムタイが「やめておけ」と忠告した。家が同格ならば、学年がそのまま序列につながってくる。4年次のユンと5年次のサムタイでは、立場に大きな差があった。 「第二皇女殿下を迎えるとなると、小さな失敗すら許されないのだぞ。身内でもめている余裕などないのだ。それに紳士協定を破った時のペナルティは、お前も良く知っているだろう」  だから黙れと言うのである。そうやってユンを黙らせたサムタイは、ホブソンに向かって本質の話を蒸し返した。 「そのセンテニアルだが、ホプリタイの御前試合も予定されていたな?」 「ああ、目玉のイベントになっているよ。どうやら、御前試合と言う名目で、俺達を可愛がってくれるようだ。帝国から、ドリスデン三等伯爵旗下6名の精鋭が相手になってくれるそうだ」  出された名前に、一同からううむと唸り声が挙げられた。帝国内で行われる競技会の優勝チームと言うのは、ネームバリューとしては間違いなく最高の物だろう。歴史に浅い地球の戦士では、端から勝負になる相手ではなかった。 「それで、我々は何チーム用意すればいいのだ?」  クウヤの質問に、ボブソンは指を二本立てて見せた。 「2チームと言うことだ。上位学年から1チーム、下位学年から1チームと言うのが妥当なところだろう。その他に、正規軍へも2チーム割り当てられている。下位学年のチームを皮切りに、午前午後で4試合行われる」 「ガチは、午後の2試合と言うことね」  シンディの言葉に、ホブソンは口元を歪めてその指摘を認めた。 「一応はそう言う建前なのだろうが……正規軍にしても、相手になるとはとても思えないな」 「相手の正規装備を持ち込まれたらそうだろう……あれは、性能が違いすぎる」  ジョージの言葉に、全員が深く頷いた。帝国1万宇宙軍の頂点に立つのだから、その実力は常識では測れない。全力でこられたら、4チームが束になっても相手になるとは思えない。 「次の考査で、ホプリタイの実技も含まれていたな。その成績上位者を選抜して、チームとして訓練するのが妥当なところだと考えている」  その場を仕切ったホブソンの言葉に、もう一度全員は頷いた。いくら敵わないと分かっていても、与えられた機会に全力を尽くさないわけにはいかない。準備期間もあるのだから、最高の戦力をあてるのが礼儀でもあったのだ。 「では、次の集まりはメンバー選抜の時と言うことで良いか?」  紺色の制服を着たカーク・オム・テラノ・ブドワイズの言葉に、全員は頷くことで同意を示した。彼らにとって重要なのは、センテニアルを無事成功させることだった。そのためには、いかなる労を惜しまないと考えていた。  データを依頼した3週間後、マリアナはお礼と言ってヨシヒコを領主府のおひざ元にあるホテルへと招待した。当たり前だが、お泊りではなくランチのお誘いである。カプチーノ程度で良いと言われていたが、男爵家のメンツからホテルのレストランを選択したのである。 「あの程度のことで、こんなに張り込む必要はないのにな……」  できるだけ、大げさなお礼はして欲しくなかった。身に降りかかる面倒を考えれば、よほど自販機のジュース程度で押さえて欲しいぐらいだ。  もっとも男爵家令嬢から招待された以上、市井の身では断るわけにはいかない。珍しく正装、高校の制服である濃い紫の詰襟を着たヨシヒコは、重い足取りでホテルへとやってきた。彼の資産的には大した場所ではないのだが、制服を着た高校生には不似合いな場所であるのは間違いなかった。 「60階のステララウンジか。ビュッフェと言うのは、食い散らかすことが目的なんだろうな……」  上品な料理では、どう考えてもマリアナの胃袋を満たせない。それを考えれば、“食べ放題”のレストランと言うのは理に適った選択だった。金額的にも、多少高い程度で済むのだから、お礼としては合理的な選択でもある。豪華に見えることと食欲の双方を満たす上では、最適な場所とも言えるだろう。  気が向かないことこの上ないのだが、行かないと言うのは立場上許されないことでもある。仕方がないと諦めたところで、ヨシヒコは後ろから誰かに声を掛けられた。 「ヨシヒコ・マツモト様でいらっしゃいますか?」  聞き覚えの無い女性の声に振り向いたら、見覚えのない可愛らしい少女が自分のことを見つめていた。肩口ほどの茶色の髪とエメラルド色の瞳をした、ちょっと目を引く美少女である。濃紺色のブレザー型の制服は、ヨシヒコも知っているお嬢様学校の物だ。予想外のことに、少しだけ胸がドキッとした気がした。  ただ、こんなところで自分に声を掛ける以上、マリアナの関係者なのは疑いようもない。 「確かに、俺はヨシヒコ・マツモトだが?」  胡乱なものを見る目をしたヨシヒコに、少女は嬉しそうに微笑んだ。 「本日ヨシヒコ様のご接待の役目を仰せつかった、セラム・ヒワタリと申します」 「俺の接待役? マリアナは来ないと言うのか?」  てっきり本人が来るものだと思っていたこともあり、ヨシヒコははっきりと驚きを顔に出した。ただ驚きはしたが、すぐにその理由にたどり着いていた。その予想は、すぐにセラムの口から語られた。 「はい、自分ではない方が良いと仰ってました。ですから、私がその役目を仰せつかったのですが……」  そこでセラムは、不安に揺れる眼差しをヨシヒコに向けた。もっとも小柄なヨシヒコなので、顔の高さはセラムと変わらなかったのだが。 「もしかして、ご気分を害されましたでしょうか?」 「いや、多少は考えたのだと感心しただけだ」  これが、自分に対する餌なのは疑いようもないだろう。クラスメイトと比べれば、間違いなく品が良いし、美少女なのは言うまでもない。ただ裏の意図が透けて見えてしまうと、相手が美少女だと言って喜んでもいられなかった。遠大な将来への計画のためには、マリアナごときに捕まる訳にはいかないのだ。  とは言え、招待を受けた以上ここで帰る訳にはいかない。必要以上のお礼を受け取らないよう気を付けて、さっさとご招待を終わらせる必要がある。 「予約がしてあるのなら、さっさとレストランへ行くことにするか」  エスコートなどするものか。必要以上の接触を避けるつもりのヨシヒコだったが、そのあたりは相手の方が上手と言うより積極的だった。ヨシヒコが背を向けた途端に近づいてきたセラムは、後ろから左手をそっと捕まえ身を寄せてきた。ふわりと漂ってきた甘い香りに、ヨシヒコは頭がクラリと来た気がした。 「この後、黄金町に行ってもいいんですよ」  追い打ちのように囁かれた言葉に、本気で落としに来ているのだとヨシヒコは心の中で身構えたのだった。  セラムを送り出したマリアナは、自宅で優雅に昼食をとっていた。もっとも優雅と言うのは、のんびりとした空気を指しているのであって、目の前に並べられた料理のことは指していない。ボウルに山盛の野菜とか、1キロを超えるステーキは、優雅さからは程遠いし、年頃の女性が食べる物ではないだろう。しかも大食い選手権かと言いたくなるペースで平らげられれば、マリアナを女性と見るのも難しくなってしまう。  そんなマリアナのもとに、珍しく父親のフェルナンデスが現れた。三等男爵にして陸軍少佐のフェルナンデスは、終わったばかりの試験の成績について聞いてきた。ちなみにフェルナンデスと言う名前だが、血筋的にはバリバリの日系である。 「なかなか優秀な成績だとは聞かされていたが……ドローン戦闘で教官を撃墜したと言うのは本当か?」  父親の問いにも、マリアナは食事の手を休めなかった。そして口に食べ物を入れたままで、「その通り」とはしたなく答えた。 「食欲旺盛なのはいいが、少しは男爵家令嬢としてのマナーを考えてくれ」  父親の苦言に、そこでマリアナはステーキを切り刻む手を止めた。 「目の前に、さも撃墜してくださいと無防備に出てくるのがいけないのだ」 「別に、責めている訳ではないのだがな。あそこで余計なことをしなければ、宙の奴を含めて一番になったのだろう。それを、少し惜しいと思っただけだ。なに、教官を撃墜するなど、剛毅で良いと私は思っているぞ。教導すると偉ぶっている奴に、現実を見せてやるのもたまには必要だろう」  よしよしと頷く父親に、マリアナは嬉しそうに頷き返した。そんな娘に目じりを下げたフェルナンデスは、「ところで」と重要な話を切り出した。 「お前がドローンのデータ作成、そして作戦立案までできるとは思っていない。いったい、どういう手を使ったのだ? 教官を撃墜するとなると、生半可な方法では無理だろう」  自分の娘のことだから、フェルナンデスはその実力も十分に承知していた。ホプリタイのような体を動かすことなら秀でていても、頭脳戦では完全に畑違いと言うのは分かっていた。そんな娘が、頭脳戦のドローン戦闘で教官を撃墜したのだから、何かのからくりがあるはずなのだ。  それを気にした父親に、マリアナはどう説明した物かと考えた。父親とヨシヒコの相性が悪いのは、これまでの付き合いで嫌と言うほど分かっていたのだ。その意味で、ヨシヒコの名を出すのはあまり得策でないのは確かだった。  そう考えたマリアナだったが、自分がサロンに依頼したことを思い出した。3年次が終わるまでと言う時間制限を出してはくれたが、それをまともに受け取るほどマリアナは素直な性格をしていなかった。確かに他の学生には効果があるのだろうが、サロンに居るメンバーが約束を守るなどと信じてはいけないのだ。その意味で、一日も早くヨシヒコを手中に収める必要があった。それを考えると、父親の協力も必要となってくる。 「父上のお考えの通り、あれは私の手柄ではありません。友人に頼んで、ドローンのプログラムデータと作戦を作ってもらったのだ。ちなみに言っておくが、作戦プラン通りであれば教官を撃墜などしていなかったな。満点でミッションを終わらせようとしたから、私が強制的に割り込んで撃墜してやったのだ」  娘の答えに、フェルナンデスは大きく目を見張った。ドローンに戦闘パターンをプログラムをしても、通常はリアルタイムの修正が必要になるのだ。だが自分の耳が確かなら、娘は最後の最後になるまで手を出していないと言うことになる。まともに考えれば、あり得ない答えだったのだ。 「その友人とやらが作ったデータと作戦は、教官を撃墜する直前まで追い詰めたと言うことか?」 「ああ、私が手を出す必要は全くなかったな。もっとも、途中で手を出して居たら、私が撃墜されていただろう!」  はっはと笑った娘に、フェルナンデスは小さくため息を吐いた。娘は笑い事のように言っているが、それが事実とすれば笑いごとで済ますわけにはいかない。不確定要素の多い実戦シミュレーションを、事前検討だけでトップの成績を収める作戦立案をしたというのだ。士官学校の作戦課に入れて鍛えれば、将来地球軍をしょって立つと思えるほどの逸材だと考えられる。 「笑い事ではないぞ。それで、お前の友人と言うのは士官学校の先輩か?」  それならば、まだ教官を撃墜したことにも納得ができる。自分の常識からの問いかけをした父親に、マリアナは少し考えてから「違うな」と答えた。 「父上も知っているヨシヒコだ。3週間前に作成をお願いしたら、一晩でデータを作ってくれた。これまでも、何度か助けて貰っているぞ」 「あのひ弱なちびすけか……」  一瞬誰だったかと考えたフェルナンデスは、何とか辿り着いた相手に絶句してしまった。それほどまでに、意外すぎる相手だったのだ。 「まだ関わりあっていたのかと言う文句はひとまず置くが。なぜ、一般高校の学生がそこまでできるのだ? 一夜漬けで作ったデータが、首席卒業レベルと言うのはどう考えたらいいのだ」  分からんと首を振った父親に、マリアナは事実として認めるよう忠告した。 「父上は気付いていないようだが、あいつは小さな頃から賢かったのだ。士官学校に入って1年と少し経つが、これまでの演習で事前データ入力が必要なものは、すべてあいつに作らせた。そのおかげで、私も優等生でいられると言うものだ。もちろん、優秀な参謀を抱えるのは、軍に関わる者として必要な資質に違いないがな」 「そう言うことか……」  まだ納得のいかないところはあるが、フェルナンデスは細かなことに拘らないことにした。ヨシヒコに対する疑問以上に重要なのは、野にある宝石の原石を確保することだった。 「それで、あのちびすけを取り込む算段はできているのか?」  それだけ優秀ならば、いつか誰かに横取りされる可能性もある。それを心配した父親に、マリアナは邪悪に口元を歪めた。 「色々と手は打ってある。ただ、婿入りについては本人から全力で拒否された。そのあたりの責任は、父上にあるのを忘れないで欲しいな」 「あのちびすけを婿にだと!?」  明らかな拒絶反応を示した父親に、マリアナは小さくため息を返した。 「あれはあれで、可愛らしくていいものだぞ。しかも頭は切れすぎるほど切れるし、高校生のくせに大金を稼ぐ才覚を持っているのだ。ただ小さな頃の父上の仕打ちで死にかけたことで、ミツルギに対して強い拒絶反応をしている。だから、あいつ好みの餌をぶら下げることにした」 「餌、だと?」  怪訝そうな顔をした父親に、マリアナはしたり顔で「餌だ」と繰り返した。 「データを作ってもらったお礼と言うことで食事に招待したのだ。そしてその接待を、セラムに任せた。女に免疫の無いあいつだ、きっとセラムの色香に迷ってくれることだろう」 「ヒワタリの娘なら信用できるか……」  参謀として配下に抱えるのであれば、適当な褒美を与えてやるのもおかしくない。この場合のメリットは、何よりも娘の婿にならないと言うことだろう。いくら優秀でも、婿にするのなら同じ爵位持ちの息子が良いと考えていたのだ。 「ちなみに確認するが、それだけと言う訳ではないのだろう?」  ヒワタリの娘が、一般人にとって魅力的なのはフェルナンデスも理解していた。ただ理解していたが、それが絶対ではないことも同時に理解していたのだ。それ以上に、優秀な参謀なら他から目を付けられてもおかしくは無い。 「とりあえずサロンには仁義を切っておいた。これで、しばらくはサロンのメンバー以外は気にしなくてもいいだろう。そのサロンにしても、センテニアルが終わるまでは動きが取れないはずだ。後は本人にだが、これまでも本当のことは伝えてはいない。今度のことにしても、手間が省けた程度の貢献と言うことにしてある。だからあいつは、軍事方面での自分の能力を低く見積もっていることだろう」  そのための演技は、士官学校入学前からずっと続けている。自分は真剣に考えているのだと、マリアナは父親に説明した。 「なあに、女と付き合ったことも、優しくされたこともない男だ。セラムなら、きっとうまくやってくれるだろう。いざとなったら、冤罪を吹っかけることも考えているんだ」 「なるほど、そこまで覚悟を決めいてるのだな」  うんうんと頷いた父親に、マリアナは当然だと逞しい胸を張った。 「私の将来、そしてミツルギの将来がかかっているのだからな。絶対に、ヨシヒコを手に入れてやるのだ!」  そのためなら、どんな汚い手でも躊躇うことは無い。勝負と言うのは、勝ちさえすればすべてがついてくるのだ。マリアナは口元を歪め、抜かりはないと繰り返したのだった。  これまで女っ気が無いヨシヒコだと考えれば、そのデートが話題になるのは不思議なことではないだろう。特にヨシヒコの場合、見た目の女らしさで学校内でも有名人と言う事情もあった。おかげで週明けに登校したヨシヒコは、さっそく悪友と言う奴に捕まることになった。ヨシヒコを捕まえたのは、セイメイ・トコヨギ、小学校からの腐れ縁の相手である。 「お前、F女のお嬢様とデートしていたんだって? 相手は、どこかの爵位持ちのご令嬢か?」  制服を見れば、相手の通っている高校は分かる。そして名門女子高ともなれば、そこに爵位関係者が居るのもおかしなことではない。ただヨシヒコが立ち回った先を考えれば、簡単にばれるはずの無い場所でもあった。それがあっさり友人に知られたことで、これもマリアナの手引きかとヨシヒコは推測した。 「ミツルギ家に仕えている一族のお嬢様だよ。マリアナの課題を手伝ってやったら、お礼と言うことで接待を受けただけだ」 「なるほど、マリアナの仕掛けか」  二人の関係を知るセイメイは、おもしろそうに口元を押さえて吹き出した。 「参謀として、本気でお前のことを確保しに来ているんだな。F女のお嬢様を餌にするところを考えると、かなり高く評価されているんじゃないのか?」  どうすると肩を叩かれたところで、もう一人の友人が近づいてきた。セイメイより背は低いが、それでもヨシヒコに比べれば十分に長身の少年だった。 「ちなみに、ヨシヒコのデート相手だがな」  少年は手元の画面を操作し、二人に向かって放り投げた。 「さすがはカツヤ……情報が早いな」 「まあ、F女には知り合いもいるからな。ちなみに、この情報はF女にも伝わっていたぞ」  やられたなと肩を叩くカツヤ・クゼに、そうだなとヨシヒコは冷静に認めた。 「両方の学校で、カップルとして公認させようって腹だろうな。そうすることで、俺の動きを牽制しようって考えだろう。まあ、俺を相手に甘いと言ってやるのだが……」  煮え切らないヨシヒコの言葉に、セイメイは核心をズバリと突いた。 「実は、しっかり心が動いているんだろう? さすがは士官学校生。いきなり、最大の戦力をあててくるのが凄いな」  貰ったデータには、セラムのプロフィールがしっかり書かれていた。ミツルギ家配下ではあるが、その中でヒワタリと言うのは筆頭に位置する役目を持っていた。そこのお嬢様だから、家柄と言う意味では十分に高いものと言えただろう。そして写真からも、育ちの良さがしっかりと滲み出た綺麗な顔をしていた。見た目の釣り合いから行けば、釣り合わないと言うのが大方の意見だろう。 「見た目では、男としてのお前じゃ釣り合わないな」  微妙な言い方をしたセイメイに、ヨシヒコは頬杖をついて不機嫌そうな顔をした。 「女装すれば釣り合うと言いたいのか?」 「女装をしなくても、仲のいい女友達に見えるんじゃないのかな?」  にやにやと口元を歪めたセイメイに、はいはいとヨシヒコはおざなりな答えをした。 「セラムのスペックが高いのは分かっているよ。マリアナと比較するのがいけないんだが、本当に可愛くて守ってやりたくなってしまうんだ。それだけ男の扱いがうまいとも言えるんだが、どうせ調べてみても真っ白なんだろう?」  そのあたりの情報は、カツヤに聞くのが一番確実だった。どうだとヨシヒコに聞かれたカツヤは、「ご明察」と言って新しいデータを二人へと投げた。 「今まで、浮いた噂一つ立っていないな。その意味で、まっさらさらの綺麗なお嬢様だよ。黄金町も入学直後F女の先輩と行っているが、その後は一度も行っていない。男の影が全く見られない、見事な潔癖さってところだな」 「で、ヨシヒコはどうすんだ? このまま夢を追うのか、それともそろそろ現実を認めるのか?」  どうだと迫られたヨシヒコは、これが答えだとばかりに小さくため息を吐いた。 「やっぱり、夢は諦められないか?」 「まだ、俺は高2だからな。セラムにミツルギってバックが無ければ、喜んで付き合うんだが……」  少し大きくため息を吐いたところは、相当後ろ髪をひかれている証拠だろう。 「だけど、ミツルギに関係なければ、セラムちゃんはお前を相手にしないぞ」 「なんだよなぁ〜」  大きくため息を吐いたヨシヒコは、目の前の画面に自分の資産を表示させた。 「相場通りなら、一等子爵でも余裕で買えるぐらい貯まったんだけどなぁ」 「政府支給分が無くても、一生遊んで暮らしてもお釣りが来るな。もっとも、何も仕事をしないってのは政府が許してくれんし、トレーダーってのは個人の場合仕事として認定されていないんだよな?」  政府による収入保証がされているため、生活だけなら働かなくても困ることは無い。ただそれ以上の何かを求めると、政府支給金以外の収入を求める必要があった。ヨシヒコの場合、株のトレーディングで財を成しているので、その面では十分に余剰資金を持っていた。  ただ問題は、政府は収入保証を行うのと同時に、広く国民に勤労を義務としてくれたことだ。身体、精神的問題が無い限り、仕事をしないと言うのは許されていない。遊んでいたら、強制的に職業訓練校に放り込まれ、何かの職に着けられることになっていた。 「とりあえず、大学に行くことを考えているんだが……帝国のナンバリングされた大学に入るには、爵位持ちの推薦が要るんだよなぁ。地球の大学に入って政治家を目指す手もあるが、こっちはこっちで縁故の世界と言うのも変わりがないし」  ナンバリングされた帝国大学への進学は、狭き門として有名だった。その理由として挙げられたのは、試験がとても難解なことや就学費用が高額なことだった。だがそれ以上に狭き門としていたのは、入学に能力以外の要素が求められたことだ。すなわち爵位保有者の子女、もしくはその推薦状が必要とされたのだ。 「ミツルギに頼めば推薦状を出して貰えるんだろうが、そうなると将来はミツルギの家臣ってことになるな」 「地球から100年間で5人しか入学できていないことを考えると、ナンバリング大学に入るのは絶望的だな。しかもその5人にしても、80番代が精一杯だからなぁ」  セイメイとカツヤの言葉に、だよなぁとヨシヒコは机に突っ伏した。 「金を貯めることと地位を得ることは全く別物なんだよなぁ」 「特に文系はな。これで理系ならば、業績次第で特例ってのもあるんだがな」  ご愁傷様と、セイメイとカツヤの二人は容赦のない言葉をヨシヒコに投げかけた。 「現実的なことを考えると、ミツルギにくっついていた方が賢明と言うことだ。三等とは言え男爵家なら、資産運用でも立派な仕事として認めて貰える。しかも、もれなくセラムちゃんが付いてくるんだからな」  二人にもマリアナの息が掛かっていることぐらい、ヨシヒコはとっくの昔に気付いていた。自分の意識誘導を行うことを考えたら、昔からの友人を利用するのは有効に違いない。  それだけなら気にしないと言うこともできたし、ヨシヒコは二人がその程度で自分を売るとは思っていなかった。それとなくマリアナに頼まれているとは言え、二人の言っていること自体どこもおかしなところは無いのだ。それに今の常識では、爵位持ちに取り立てて貰うのは勝ち組に入ることだった。 「次の休みもデートするんだろう? かなりの高めだと思えば、手を打つことを考えてもいいんじゃないのか? ヨシヒコも、その気になっているんじゃないのか」  セイメイの決めつけに、ヨシヒコは顔をそむけて小さくため息を返したのだった。ヨシヒコの視線の先には、青空に向かってそびえ立つ領主府の塔が立っていた。 Chapter 2  銀河に於いて唯一無二存在と言うこともあり、帝国は特定の名前を持っていなかった。銀河系のおよそ90%を勢力圏とするのだから、並び立つ物が無いと言うのも納得できる話である。  帝国の治める有人星系は約1万とも言われ、人口にして200兆を超えると言われていた。そしてその頂点に立つのが、5千年の歴史を持つシリウス家と言われる皇帝の家系である。そのシリウス家が、人種と言うのも憚られる、様々な形態をした知的生命体達を治めていた。  公式に5千年続くシリウス家の現当主は、アルハザー・オム・シリウスと言う名を持っていた。通常爵位を持つ階級の名は、個人名+種および性別を示す記号名+出身星系+家名となっていたが、皇帝の系譜だけは特別に出身星系と家名が一つになっていた。皇帝の権勢は全銀河に及ぶため、出身星系を示す必要などないと言う理由からである。  1万を超える有人星系、そして十万光年もの広がりを持てば、皇帝による直接統治など現実的ではない。それもあって、皇帝は巨大な権力こそ持ってはいるが、各星系の統治には関与していなかった。帝国が行ったのは、皇帝の命を受けた侯爵を領主として派遣する程度である。その領主にした所で、出身者もしくは同種に任せると言う、各星系に配慮したものとなっていた。  さらに権限の委譲が行われているため、皇帝の職務はかなり絞られたものとなっていた。ただ支配下の有人星系が1万を超えるため、絞られたとはいえ皇族の関わる公式行事は数多く行われていた。さすがに対応しきれないため、対応には公爵家も含めた皇族が動員されていた。  その帝国にとって、地球を含む太陽星系は一番の新参者となっていた。したがって第二皇女とは言え継承権を持つ皇族が式典に出席するのは、周りから異例と受け取られる措置になっていた。その異例とも言える措置の理由が、地球に暮らす人々の特殊性である。  1万の有人星系に200兆を超える人口を抱える帝国だが、そこで暮らす人々は大きく10種類に分類されていた。アーマー種と言われるA種からジェム種と言われるJ種までの10種類は、生活圏や外見、そして交配の可能性によって分類されていたのである。その中でシリウス家は、ヘム種と言われるH種に属していた。そのH種は、全星系の0.1%と言う希少種となっていたのである。そして地球に暮らす人達もまたH種に分類されたことで、帝国としては特別扱いする理由が生まれたのである。いきなり力による併合が行われたのも、地球人がH種だったことが理由となっていた。  一般に周年記のような式典への準備は、これまでは2年ほど前から始まることになっていた。ただ公爵を含めた皇族の誰が派遣されるかについては、比較的直前まで決まらないと言うのがこれまでの常識だった。そしてその常識に従って、第二皇女アズライト・ホメ・シリウスの派遣が内定したのは、100年記のセンテニアルの3か月前のことだった。  継承権第3位を持つ皇女の派遣と言うのは、新参者にとっては大いなる厚遇と言うことになる。傍から見れば、依怙贔屓ともとられかねない人選でもある。そのため、彼女の肩書だけを考える者たちの間では、地球への厚遇に対する不満が高まったと噂されていた。そして彼女のことを少しでも知る者達は、皇帝の嫌がらせと受け取りテラノに対して大いに同情した。 「きっと、ジェノダイト君は頭を抱えてくれることでしょう」  性悪と言われる現皇帝、アルハザーを凌ぐ性悪と言われる現皇妃トリフェーンは、夫の決定を聞かされて口元を押さえた。小さく肩が震えているところを見ると、笑いを堪えていると言うのが正しい見方に違いない。 「ああ、アズィは天災と言われているからな。きっと、ジェノダイトも喜んでくれることだろう。なに、彼にも適度な刺激を与えてあげないといけないのだよ」  妻のトリフェーンは綺麗な黒髪をしているが、アルハザーは灰色と言うのが一番近い色の髪をしていた。それを伸ばして編んでいるのは、皇帝としての威厳を見せるためと言うのが表向きの理由になっていた。ただその実態は、公式行事用のかつらをかぶっているだけである。実際のアルハザーは、妻と同様の黒髪をしていた。  面白そうに笑ったアルハザーは、「ザイゲルだが」と、同じように軽い調子で切り出した。ザイゲルと言うのは、帝国配下にある国家連合の名称である。 「かさぶたがどうかしましたか?」  同じように何事もない調子で、トリフェーンは聞き返した。ちなみに「かさぶた」と言うのは、A種に対する蔑称となっている。体全体を覆う固い皮膚のひび割れが、かさぶたのように見えることが理由だった。 「ああ、お隣に攻め込む準備を始めているようだ」  星間戦争を起きようと言うのに、アルハザーはとてものんびりとしたものだった。そしてその事情は妻も同じで、まるで明日の天気でも聞くような顔で夫の話を聞いていた。今の二人は、謁見の間で目の前の幕が開くのを待っているところだった。ちなみにアルハザーは黒をベースとした式服を纏い、トリフェーンはエメラルドグリーンのドレスに似た式服を纏っていた。 「それで、かさぶたの本当の狙いはどこですか?」  彼らが、粘り強く皇帝追い落としの策を練っているのは知っていた。それを考えると、今度のいざこざもその一環と受け取るのが自然なのだ。 「テラノだよ。なにしろ全銀河に10しか存在しないH種の住む星系だからね。私への攻撃と言う意味では、非常に効果的かつ難易度が低い場所と考えたのだろう」  従事の差し出した鏡に向かって、アルハザーは百面相のように顔のパーツを動かした。 「それで、そのことはジェノダイト君には教えてありますの?」 「それでは、おもしろくないと思わないか? どうせ大したことにならないのは分かっているんだ。だったら、彼が慌てるところを見るのも一興だろう」  大きく目を見張ったりやめたりしながら、とても剣呑なことをアルハザーは口にした。そんな夫に対して、トリフェーンはさらに過激なことを口にした。 「そこそこ大したことにした方が面白くありません? 必死になって生き延びて貰った方が、後々帝国のためになると思いますよ」 「まだ必死になったとしても、ザイゲルと対抗できないのが問題なんだよ。その意味で、火星だったかな、そこにそれなりの被害が出る程度に抑えておいた方が良い。タイミングを誤ると、テラノがこの宇宙から消滅してしまう」  夫の答えに、それもそうかとトリフェーンは小さく頷いた。被害が出るにしても、取り返しの利く範囲に押さえておく必要がある。10倍以上の敵に袋叩きにされたら、未熟な星などひとたまりもないだろう。トリフェーンとしては、ジェノダイトに死んでもらっては困ると言う事情もあった。 「かさぶたは、どうしてここを攻めに来ないのかしら? そうしてくれたら、盛大に歓迎してあげるのに」  つまらないと言う顔をした妻に、アルハザーは少しだけ口元を歪めて苦笑を浮かべた。 「500年前の薬が効いているのだろうな。まったく、ご先祖様も余計なことをしてくれる」 「だったら、盛大な歓迎は地球で行いますか? かさぶたの浅黒い顔が、青くなるのを見てみたいの」  期待するような瞳を向ける妻に、我が意を得たりとばかりにアルハザーは頷いた。 「そのあたりは、マクガランに任せてある。彼ならば、きっと趣向を凝らしてくれるだろう」  マクガランの人となりは、トリフェーンも良く知っていたし高く評価もしていた。夫の答えに満足したトリフェーンは、ならばと娘のことに話を引き戻した。 「それで、アズライトには何と言ってあるのですか。ジェノダイト君は大切なお友達ですから、できるだけのことはしてあげないと」  そのできるだけのことが、「天災」とまで言われる娘の派遣である。普通ならば、人でなしと呼ばれる行為に違いなかった。  だが夫婦そろって、自分のしていることへの自覚は無いようだ。妻の問いかけに、アルハザーは得意げに頷いてみせた。 「遠慮はいらない。好きにしていいと言ってある」 「きっと、ジェノダイト君は大喜びをしてくれるでしょうね。でもあなた、あの子に命じたのはそれだけじゃないでしょう?」  さっさと吐きなさいと、トリフェーンは夫の脇腹を肘で突いた。 「ああ、アンハイドライトの嫁を見繕って来いと命じてある。未来の皇妃に相応しい資質の女性がいないか、しっかりと見てこいと本人には言っておいた」 「アズライトには、ですか?」  にやりと笑った妻に、アルハザーもにやりと笑い返した。 「帝国の未来のためには、必要な指示だと思っているのだがね」 「確かに、帝国の未来のためには必要なことですね」  含みのある答えをした妻に、アルハザーは「そうだろう」と大きく頷いた。そのタイミングで、侍従から謁見が始まると声が掛かった。身内ばかりと言うことで、今日は生身での謁見が開かれることになっていた。 「さて、どこまでアズィがはじけてくれるかな」 「あの子は、一番私たちの資質を受け継いでいますからね」  ふふと口元を歪め、トリフェーンは開いて行く緞帳へと視線を向けた。  帝国第二皇女、アズライト・ホメ・シリウスは、御年16歳の少女だった。少し細面で、腰までまっすぐに伸びた黒髪とスマートな体型をした、柔らかな笑顔が可愛らしい少女である。それだけを見れば、誰もが大人しい美少女と誤解してくれるだろう。穏やかに笑っているところを見せられれば、天災とまで恐れられているとはとても思えない可憐さを持っていた。  そのアズライトは、皇族代表として地球に派遣されることを喜んでいた。これまでも何度も皇族の務めで各星系に行っているが、種が違うとどうしても楽しめないところがあったのだ。特に水生種の住む星系では、彼女自身行動が制限されてしまう問題があった。その意味で、同じH種の星系と言うのは、思う存分暴れるのにうってつけな場所となっていた。しかも「遠慮はいらない」と言うお墨付きまで貰っているのだから、思う存分楽しもうと思っていた。 「アリエル、ヨコハマを中心に、遊び場のピックアップをしなさい」  帝国管理システムのアバター、アリエルは正しく命令を受け取り、すぐに一覧データをアズライトに投げてよこした。そしてデータに合わせて、地球に先乗りするフライト情報も提供してくれた。この辺りは、システムの学習効果と言うところだろう。  データに満足したアズライトは、スポット情報を指で動かしながらスケジュールを埋め始めた。 「シンガポールから香港に移動して飲茶をするとして……たぶん、ジェノダイトの小父様が手配を回すわね」  そうなると、大人しくしていればここで身柄を確保されることになる。おそらくすぐにヨコハマまで移送されるだろうから、その後はヨコハマ周辺で遊ぶことを考えればいい。いじって遊ぼうと思ったら、できるだけ早くばれた方が面白いことになってくれるはずだ。 「色々と遊んでみたいし……そうなると、誰かパートナーがいた方が良いわね。うん、相手はワイアードで探せばいいか。アリエル、適当な餌をまいておいてくれるかな」 「偽名は、どれをお使いになりますか?」  まさか帝国皇女の名前で出会い系を利用するわけにはいかない。そのための偽名も必要になってくる。  アリエルの提示したリストの中から、アズライトは「セラフィム」を利用することにした。第35帝国大学生と言う身分が、年頃の男性を誘惑するのに適当だと考えたのである。 「じゃあ、セラフィムにしておいて。一応、同年代の可愛い男の子を求めてることにしてくれるかな」 「行きずりの関係と言うのは、なかなか楽しそうですね」  乗りのいいアバターは、妖精のようにアズライトの周りを飛び回りながら、彼女の考えを肯定した。 「ですが、深入りは禁物ですよ。あくまで、行きずりの関係を貫くこと。一度きりにしておかないと相手が壊れてしまいますからね。前途のある若者を壊してしまっては、帝国の損失になります。まあ、皇女の評判がさらに高まってくれるでしょうが……」 「はいはい、二人も死なれたから気を付けるわよ。ただ言わせてもらえば、あれはあっちに責任があるのよ。無理やりなんて考えるから、徹底的にやり返してやったんだからね。一応私も皇女なんだから、失敗したら死を持って償うのもおかしなことじゃないでしょ?」  不遜なまねをする方がいけない。自分の行動を棚に上げたアズライトだったが、どう言う訳かアリエルは反論しなかった。 「今度の場合、相手は皇女の正体を知らないはずです。せいぜい振り回す程度にしておいてください。楽しむのでしたら、ジェノダイト様が任命する世話役相手でお願いします」 「ジェノダイトの小父様、どう言った人を世話係に任命してくれるのかしら。楽しい人だったらいいわね」  つまらない人だったらいったい何が起こるのだろうか。しかもアズライト基準の楽しい人など、そこらにいるとはとても思えない。「宇宙を飛び回る天災」とまで言われる皇女を相手にしながら、アリエルはジェノダイトに同情したのだった。  両親からのお墨付きを得たアズライトは、当初の出発予定を3週間繰り上げてシリウス星系主星リルケを出発した。身分を隠しているのだから、当然使用したのは定期航路と言うことになる。そこから5度の乗継をすれば、公式スケジュールの10日前にテラノに辿り着くことができる。  お忍びの旅と言うこともあり、身の回りの世話をする者は同行していない。それどころか、確保した船室は2等船室と言う質素さである。大部屋ではないものの、狭苦しい個室と言うのは間違いなく身分に相応しいものではないだろう。ただ大学生と言う設定を考えれば、多少無理をしたとクラスと言うことにもなる。当然ルームサービスなどあるはずもなく、食事は船の大食堂を利用することになる。 「さすがに銀河の反対側ともなると遠いわね」  質素な夕食を済ませたセラフィム、すなわちアズライトは自分の船室に戻ったところでアリエルを呼び出した。普通の学生を演じている以上、人目に付くところでパーソナルアシスタントを呼び出すわけにはいかない。人目や監視の無い船室だけが、身分を偽らなくても済む場所となっていた。 「はい、直行でないため、7日ほど余計に時間が掛かっています。最短航路が選べれば、6日ほど旅程を短縮できたのですが……あいにく、2等船室が確保できませんでした」 「だったら、3等でも良かったのに」  そうなると、4人程度の相部屋を利用することになる。それでもいいと口にしたアズライトに、「さすがに」とアリエルは問題が大きいと答えた。 「移動中の騒ぎはできるだけ避けた方が宜しいかと。しかも3等以下だと、かさぶたと同室になる率が高くなります。H種は珍しがられますので、余計な詮索を受ける可能性も出てきます」 「まあ、こうして出発してしまいましたから。今さら文句を言っても仕方がないのでしょうね」  ほっと息を吐き出したアズライトは、暇つぶしの方法を考えることにした。その先手を打つ形で、アリエルが提案をしてきた。 「今のうちに、シャワーを浴びられたらいかがでしょうか。この時間でしたら、シャワールームも空いています」 「シャワーか……」  うんと頷いたアズライトは、そのための着替えをすることにした。とっくりのセーターとか短いスカート、黒いタイツと言うのは、シャワーを浴びるのには不向きな格好に違いなかった。 「楽しいから良いけど。どうして、こう言った役目をアリアシア姉さまやイスマリアもしないのかしら?」  手際よく着ている物を脱いでいくのは、やはり慣れと言うのが大きいだろう。ただ他の兄弟達を思い出すと、普段の着替えから側仕えにさせていたのだ。アズライトのあげた二人どころか、兄や弟もこのような環境に適応できるとは思えなかった。  姉妹のことを持ち出したアズライトに、珍しくアリエルは答えを躊躇った。 「まあ、窮屈なのは嫌だから良いけどね」  そしてアリエルの答えを待たず、ベージュのスエットに着替えてアズライトは船室を出て行った。その行動を見る限り、誰も彼女のことを皇女だとは思わないだろう。得難い資質だと、アリエルはアズライトのことを評価していたのである。  共用と言うこともあり、シャワールームの長時間占拠は迷惑なことに違いない。比較的空いている時間と言っても、周りに気を使うことが求められていた。皇女のくせにそれを理解しているアズライトは、30分と言う驚異的な短さでシャワーを切り上げて部屋に戻ってきた。不自由な二等船室の旅なのだから、この程度のことは想定された中に入っていたことだった。  部屋のベッドに寝転がったアズライトは、再度パーソナルアシスタントのアリエルを呼びだした。これから寝るまでの暇つぶしを考えないと、3週間を超える暇な時間を乗り切ることはできない。 「まず、ワイアードへの反応はどう?」  地球に着いたのなら、遊び相手を探しておく必要がある。そのため全銀河SNSを利用したアズライトだったが、アリエルの答えは芳しいものではなかった。 「とても食いつきが悪いと言うのがお答えです。やはり、第35帝国大学と言う肩書が問題かと。テラノの住人は、まだ第82までしか入学を果たしておりませんので」 「つまり、気後れするってことか」  使った偽名を失敗したかと、アズライトは少しだけ後悔していた。ただ今さらやり直しもできないと、失敗のことは忘れることにした。 「こちらの出発は、ジェノダイトの小父様に感づかれていない?」 「まだ、お父上からのスケジュールの通達が届いていないようです」  うんと首肯したアズライトは、身バレがいつ起きるかを確認することにした。 「それで、通達はいつ発せられるの?」 「皇女殿下がテラノの香港と言う地に降り立った直後です」  日程を考えれば、間違いなく皇帝もグルと言うことになる。おもしろいことになったと口元を緩めたアズライトは、羽を伸ばすのだと決意を新たにした。  楽しいなとベッドの上をゴロゴロと転がったアズライトは、次なる課題、ある意味本命を確認することにした。父親からの言いつけは兄の嫁候補探しと言うことなのだが、それが表向きの話であるのは理解していた。 「それで、ザイゲルの動きはどうなのかしら? センテニアルにちょっかいを掛けてきそう?」 「アルファ・カリーナエ方面で“演習”の申請がされています。11万5千200隻の軍艦が集まっての演習ですから、多少のイレギュラーがあっても誤魔化せますね。もっとも、姫様がおわす時には動かれないかと思います。危ないのは、お帰りなられた直後かと推測できます」  アリエルの分析に、アズライトは小さく頷いた。 「緊張が解けたところを狙ってくると言うことね。定石通りだけど、平凡な作戦ね」  つまらないと吐き出したアズライトに、「ザイゲルですから」とアリエルは微妙な決めつけをした。 「考え方に柔軟性が欠けるって言うんでしょ。それって、もう何百年も前から言われていることよ。いい加減克服してもいいと思うんだけどなぁ」 「広く宇宙に広がった種です。そうそう簡単に、変わることはできないかと思われます。それに、僅かな数でもテラノにとっては脅威となることでしょう」  油断は禁物。そう注意をしたアリエルに、分かっているとアズライトは頷いた。 「仲間入りをしてたったの百年しか経っていないんだものね。しかも、本当なら観察対象であって、帝国に加えるのはまだ早いって言われていたし……」 「恒星間航行どころか、同じ星系内の惑星にも辿り着いていませんでしたからね。H種でなければ、あと数百年は観察対象とされていたはずです」  全銀河に9しかH種の有人惑星が存在しないこともあり、テラノの発見は帝国内でも騒ぎになったほどだ。干渉は拙速との意見もあったが、皇帝の判断で“保護”が行われたと言う事情がある。あからさまな動きをしているのは、ザイゲルと言う連合を作っているA種なのだが、他の種にした所でいつまでも大人しくしているとは限らなかったのだ。 「だから、兄様の嫁候補を探せってことかしら」  皇族を輩出した地となれば、帝国が直轄領地とすることも難しくない。ザイゲルはいざ知らず、他の種に対して牽制となるのは疑いようもないだろう。  そこで兄のことを思い出したアズライトは、思わず小さくため息を吐いてしまった。 「いい人って言うのは、誉め言葉にならない立場だからなぁ」  どうしてあの両親からこんな素直な子供が生まれたのか。見た目も性格も良い兄は、帝国の七不思議と言われたほどなのだ。アズライト自身、兄のことは好きだが、皇帝に向いているとは思っていなかったぐらいだ。一癖も二癖も三癖もある取り巻きや種族を従えるには、あまりにも兄は善人過ぎたのだ。 「とりあえずアリアシア姉様か、エヴィールに期待するしかないのかしら。お兄様には公爵になって貰って、親善の役目だけをして貰うことにして……お嫁さんに期待するって言ってもなぁ。兄さんの胃に穴が開いてしまいそうだし」  母親のような突き抜けた奥さんを貰えば、善良な兄でも皇帝職を勤め上げることもできるだろう。だがそんな奥さんを貰ったら、間違いなく善良な兄はストレスにやられてしまう。それはそれで可哀想だと、アズライトは兄に同情していた。  ただそこまで考えて、アズライトはいやいやと首を振った。それに合わせて、彼女の長い黒髪がふわりと広がった。 「お父様が、そんな真っ当なことを考えるはずがないわ。お兄様のことはダシで、他にも何か魂胆があるのに決まってる。もしかして、私に……」  そこまで考えて、さすがにないかとアズライトは考えなおした。本人に聞こえないように言っているつもりだろうが、周りから天災と迷惑がられているのは知っていたのだ。しかも、両親の悪癖を引き継ぐだけではなく、さらに濃縮させたと陰口を言われているのも知っている。それだけの悪評が立っているのだから、まともな男が近づいてくるとは考えられなかった。テラノでも、間違いなく周りをがちがちに固められるはずなのだ。 「だいたい私の悪評って、全部お父様が理由じゃない。アリアシア姉様だって、十分性格が悪い筈なのに。絶対に、依怙贔屓されているわ」  文句を言っても、自分の悪評だけ広がっている現実を変えようは無い。ふんと鼻から息を吐き出したアズライトは、「思いっきり遊んでやる」とジェノダイトの心臓に悪いことを呟いてくれた。 「皇女にあるまじきことまでしてやるから、せいぜい覚悟しておくことね!」  ふふふとアズライトが浮かべた不気味な笑いに、アリエルは小さくため息を吐いた。アリエルからしてみれば、アズライトは両親に関係なく十分問題児だったのだ。  セラムがうまくやっていることもあり、マリアナの機嫌はすこぶる良かった。ヨシヒコの周りも巻き込んだ本人の意識改革も、今の所順調に進んでいるように見えている。こういう時に、賢すぎると言うのは扱いやすさにも繋がってくれた。 「あなたのためと言うのは分かるのですけどね」  その中で問題があるとすれば、セラムの持っていた仕事が滞っていることだろう。そしてその被害を一番受けている母親、エミリアは優雅にお茶を啜りながら愛娘にやんわりと文句を言った。 「せっかくセラムのいれてくれた紅茶を飲もうと思ったのに……」  隣で畏まっているのは、セラムの代役として借り出された侍女だった。まだ見習い中と言うこともあり、紅茶の味も二段階ぐらい落ちていた。 「ああ、マリエが悪いわけじゃないのよ。まだ慣れていないのですから、これから上達すればいいだけのことですからね」  そこでエミリアが気を使ったのは、まだマリエが14歳の少女と言うのが理由だった。 「ありがとうございます。奥様」  気を使われたことにさらに恐縮したマリエは、空になったカップにポットから紅茶を注いだ。ちなみにエミリアの使っているカップは、上品な形こそしているが、サイズ的にはどんぶりぐらいある巨大なものだった。普通ならおかしいと思える大きさなのだが、ミツルギ家の者が使うと標準サイズに見えるのが不思議だった。 「それで、セラムの首尾はどうなの?」 「ヨシヒコの両親が不在なのは残念だが、姉上には紹介されたと聞いている。そろそろ、家に上がり込むタイミングだろうとの報告を受けているな」  交際と言う意味では、順調に段階を踏んでいると言うことになる。ただそれだけでは不足だと、エミリアは性的関係のことを持ち出した。 「直接の性交渉はまだ早いとしても、黄金町には行ったのですか?」 「センテニアルの休みに行く予定だと聞いているぞ」  つまり、そちらの方でも段階を踏んでいると言うのである。ただ娘の答えは、エミリアにはいささか不満があったようだ。 「付き合い始めて1か月近くたつのに、セラムは何をのんびりとしているのですか?」  黄金町程度は、付き合い始めて1週間で行くところだとエミリアは主張した。そんな母親に、落ち着くのだなとマリアナは嗜めた。 「まだ、一気呵成に行く場面ではないのだ。特にヨシヒコはデリケートな奴だからな。急いては事をし損じると言うこともあるのだ。なに、奴の友人の協力も得ているのだ。あいつは、もう私の張った蜘蛛の糸に掛かってしまったのだよ。一気呵成に行くのは、二人が黄金町に行ってからと言うことだ。そもそもセラムと黄金町に行くことを受け入れた時点で、ヨシヒコは私の物になることを認めたことになるのだ」 「付き合いだしてからの時間で、黄金町に行く意味が変わってくると言うことね」  出会ってすぐなら興味本位と言うこともできるが、1か月も経てばその意味合いも変わってくる。興味と言うより、次へのステップと周りからは受け止められることだろう。 「センテニアルまであと2週間。今ならサロンも邪魔立てできないから、後はじっくり仕上げていくだけだ」  知恵比べでで勝ったと考えると、気分はどこまでも良くなってくれる。これで自分の将来は安泰だと考えると、思わず笑みも漏れ出てしまうと言うものだ。  マリアナから全幅の信頼を得ているセラムは、ちゃくちゃくとヨシヒコの攻略を進めていた。自分の一生、特に配偶者に関わることなのだから、普通ならば15歳の少女にとって抵抗の大きなことだろう。だがセラムは、嫌な顔を見せるどころか、むしろ積極的にヨシヒコとの仲を進めようとしていた。 「セラム、あんた結構本気? いくらなんでも、早すぎると思わないの?」  その本気度が分かる分、友人からも正気かと聞かれてしまった。早すぎると指摘した友人、イスミ・チバに、セラムはにこりともしないで「真剣」と返した。 「これは、私にとっても良い話だと思っています。ヨシヒコ様は、とても優しくて可愛らしいお方ですし、マリアナ様の信頼も厚いお方です。それに資産だけを見ればミツルギ様では遠く及びません。こんな優良物件が手つかずでいた方が、私には信じられないぐらいです」 「そりゃあ、マツモト君が可愛らしいのは分かるけどさ」  ヨシヒコの通う高校とは近いこともあり、イスミも彼の評判を何度か耳にしていた。その中には、同性愛者だと言うものも含まれていた。そのあたり、女性の噂が聞こえてこないこと、女の子より綺麗だと言うことが理由になっていた。  そのヨシヒコが普通の女性に落ちたと言うのは、少女達の間で驚きを持って受け止められたのである。 「可愛らしいだけじゃありませんよ。とても細やかな気配りのできるお方です。もしも一つだけ瑕疵を上げるとすれば、信じられないぐらいくじ運が悪いことでしょうね」  小さく噴き出しながら答えたセラムに、イスミは腕を組んでう〜んと考えた。 「背が低いこととか、女装しなくても私より綺麗なことじゃなくて……くじ運が最初に来るの?」  本気と疑うイスミに、セラムは大まじめに頷いてみせた。 「イスミさんが言ったことは、いずれも欠点とは思っていませんからね。それに、ヨシヒコ様のくじ運の悪さは、イスミさんが想像しているのよりもずっと凄いですよ。記憶にある限り、当たりくじを一度も引いたことが無いと仰ってましたから。だからクラスで決め事をするとき、クラスの皆さんはじゃんけんで済むときでも敢えてくじ引きを選ばれるそうです。逆に、じゃんけんは負けたことが無いと仰ってました」  楽しそうに笑うセラムに、「試したんだ」とイスミは聞き返した。 「はい、確かにじゃんけんは一度も勝てませんでした。逆に、くじ引きは負けたことがありませんね」  ふうんとセラムの話を聞いていたイスミは、それでと二人の進展を聞いた。セラムに感情面の問題が無いのなら、一気呵成に関係が進むと思っていたのだ。 「で、どこまでいったの? もうあげちゃった?」  その言葉を聞きとがめ、セラムはイスミに注意をした。 「淑女たる者。そう言うはしたないことは言わないものですよ。それから、そちらの方は結婚してからと思っていますの。その代わり、センテニアルのお休みの時に、黄金町に一緒に行こうと約束しているんです」 「そのあたり、さすがはヒワタリ家のお嬢様ってところね。そっか、順調に攻略が進んでいるんだ」  人の恋愛がうまくいっているのは、嬉しいようで悔しいような気がしてしまう。そのせいで、イスミの言葉も少し投げやりなものになっていた。そんなイスミに、セラムはさらに刺激的な言葉を投げかけてくれた。 「そうですね。私を攻略した以上、責任をとっていただかないといけませんよね」  凄く綺麗に笑うセラムに、先に落ちたのはお前かとイスミは苦笑した。 「マリアナ様の作戦は、渡りに船と言うことだったわけだ」 「言葉の使い方として間違っている気はしますが……私にとっては、ありがたいことでしたね」  そう言って笑ったセラムは、少しだけ厳しい表情をイスミに見せた。 「だから、私は油断してはいけないんです。ヨシヒコ様は誠実なお方ですが、どこから邪魔が入るか分かりません。爵位を餌に迫る人が現れないとも限りませんからね」 「確かに、そんな真似をされたらセラムでも横取りされるか……でも、彼の価値って、そこまであるのかしら? さすがに、爵位を餌にする人は出ないと思うけどなぁ」  ハードルの高さを指摘したイスミに、セラムは小さく頷いた。そしてその上で、油断をしてはいけないのだと繰り返した。 「同じ条件なら、先に手を挙げた私が負けるとは思えません。ですから、最悪の状況を想定し、対策を建てることが必要だと思っているんです」  だから、センテニアルの休みが重要なのだ。絶対に失敗しないと、セラムは固く決意を固めたのである。  ヨシヒコの姉イヨは、5つ年上で宇宙軍に所属していた。宇宙軍での役職は准尉と、年齢の割に高い地位を得ていた。そのあたり、彼女の立ち回りのうまさと、親から引き継いだ運の強さがあったと言える。それなりに頭も良いから、マツモト家では一番バランスが取れた存在とも言えた。  その姉のイヨが、3か月ぶりに訓練航海から戻ってきていた。そのあたり、センテニアルが理由なのは言うまでもない。地球にとって記念すべき祭典にして、皇族のご出席を賜る重要な祭典でもあったのだ。地球周辺の警戒を含め、艦隊が呼び戻されたのである。  そこでイヨは、休暇を申請して自宅に帰ることにした。ただ彼女にとっての誤算は、両親が旅に出ていたと言うことだった。事前に連絡を貰っていたはずなのだが、すっかりと頭の中から抜け落ちていたのだ。ちなみに彼女の両親は、1年間の予定で銀河系クルーズに旅立っていた。部分的渡航制限のおかげで、めったに機会が巡ってこない豪華旅行である。ちなみに掛かる費用の方も、一般のサラリーマンには手の届かないレベルになっていた。  それを宝くじを当てると言う豪運で乗り切った両親は、2カ月前に意気揚々と100万光年の旅へと出て行ったのである。  久しぶりの家と言うことで、イヨは母親の手料理を期待していた。だが当分帰ってこない両親に、さっさと淡い夢は切り捨てていた。その代わり、愛する弟の手料理を楽しむことに頭を切り替えた。自分と違って家庭的なところのある弟は、母親ほどではないが料理も達者だったのだ。  相変わらず小柄で女顔をした弟は、忙しそうにキッチンで夕食の支度に駆け回っていた。その後姿に、イヨは遠慮がちに声を掛けた。 「でも、結構意外だったかな」  姉なのだから、弟がどんな夢を持っているのかぐらいは知っている。そしてそのために、間断なく努力を続けているのも当然知っていた。だから弟に彼女ができたと聞いた時には、てっきりどこかの爵位持ちの令嬢だと考えていたのだ。  だが紹介されたのは、三等男爵家に仕える家の娘だと言う。その子が美人だと言っても、信じられないと言う気持ちの方が強かった。  そんな姉の疑問に、ヨシヒコは少しだけ料理の手を止めた。 「玉子料理は、だし巻き卵で良いか?」 「もちの、ろん! そう言った日本料理に飢えていたのよねぇ!」  嬉しそうに答えたのは、本当に手料理に飢えていたからに他ならない。いくら巨大な宇宙船と言っても、どこまで行っても軍隊なのだ。しかも太陽系外に出ているとなれば、まともな食事など期待する方がおかしいのだ。週に1度のカレーが楽しみと言うのだから、どれだけ貧しい食事か想像がつくと言うものだ。 「セラムちゃんだっけ? 確かに、いい子だとは思うわよ」  背中を向けた弟に、イヨは話を蒸し返した。そんな姉に、ヨシヒコは背中を向けたまま玉子焼き用フライパンををコンロから外した。 「ミツルギ家の家臣になることが気になるのか?」 「一応、小さな頃からの夢ってのを知っているからねぇ」  肯定した姉に、ヨシヒコはフライパンをコンロに戻した。そしてとき卵を、ゆっくりとフライパンへと流し込んだ。 「16、もうすぐ17か。そろそろ、俺にも現実が見えてくる年頃なんだよ。金でかたが着くんだったら、いくらでも用意をするつもりはあるんだがな。でも、現実は俺が買えるような爵位は出てこない。そして帝国大学に行く伝手が無いのも変わっていない。まあ、多少頭が良いと言っても、宇宙で見れば大したことは無いと言うのが現実だからな」  器用に卵を巻いて行き、さらに溶き卵を追加した。姉と話をしながらでも、手元の方は少しも疎かになっていなかった。 「現実かぁ……それで、ヨシちゃんはどこまで現実を知っているの? たとえば、あなたが手伝っているミツルギ家ご令嬢の成績とかは?」  姉の質問に、ヨシヒコはああと小さく頷いた。 「一応知っていると言う所だな。それなりに、考えていると感心はしている」 「ヨシちゃんだったら、もっと高く買ってくれる先があると思うわよ」  姉の言葉に答えず、ヨシヒコは玉子焼きのフライパンから、黄金色をしただし巻き卵をすのこの上に下ろした。そして手で形を整え、包丁で切り分けた。 「大根おろし、いる?」 「気が利くわね。できたら、ビールもあると嬉しいかな」  手を叩いて喜んだ姉を背に、ヨシヒコは冷蔵庫の方へと向かった。年齢制限のため自分では買えないが、両親のストックが残っているのを覚えていた。  そして目論見通り缶のビールを見つけたヨシヒコは、冷蔵庫にあった漬物と一緒に姉の所へと持っていった。明日も休暇と聞かされているので、今日は存分に飲んでくれるだろう。  缶に直接口を付けたイヨは、「それで」と弟に答えを求めた。 「その情報は、上官経由って思えばいいのかな。確か、上の方を見たらブドワイズ大将がいたな」  質問の背景を言い当てた弟に、さすがだなとイヨは感心していた。関係者の人間関係を正確に把握し、その関係にまつわる感情、そして損得を冷静に分析して見せる。その能力もまた、弟の強みだとイヨは知っていた。 「ブドワイズ大将のご子息が、士官学校にいるからね。それで、ヨシちゃんのことを、結構高く評価してくれていると」 「光栄なことと思えばいいのだろうな」  種を明かした姉に、ヨシヒコははっと息を吐いた。そして背中を向けたまま、次のメニューに取り掛かった。何を作ってもご馳走になるのだが、せっかくだからと姉の好物を作ろうと思っていたのだ。そしてそれがありがたいのは、とても手軽に作れると言うこともあった。 「おかずは、唐揚げで良いな」 「もちの、ろんろん! 熱々の唐揚げなんて、地上に降りてこないと食べられないのよぉ!」  もう一度手を叩いて喜んだ姉に、せっかくだからとリクエストを聞くことにした。もっとも食材に限りはあるので、できる物と言う縛りはついていたのだが。 「ほかに何か、食べたいものはあるか? この後熱々のごはんが炊けるから、赤だしと一緒に出してやる。みそ汁の具は、茄子を使うつもりだ」 「う〜ん、だったらビールのつまみになるのを追加してくれるかな?」  ビールのつまみかと言うリクエストに、ヨシヒコは冷蔵庫の中を思い出した。真っ赤に熟れたトマトをスライスしてごま油を少したらせば、冷やしトマトの出来上がりである。それに塩キャベツを合わせれば、ヘルシーでおいしいビールのつまみが出来上がるだろう。 「じゃあ冷やしトマトと塩キャベツで良いか?」 「それだけあれば、ビールが何杯でも飲めそうね」  よしよしと喜ぶ姉に、ヨシヒコはさっそく冷やしトマトと塩キャベツの用意に取り掛かった。どちらも切るだけでほとんど終わると言う、とても手軽な料理だった。  それを手際よく作ったヨシヒコは、次に唐揚げに取り掛かった。冷蔵庫から漬けタレに漬けた鳥もも肉を取出し、一つ一つに片栗粉をまぶしていった。漬けタレにニンニクを効かせるのが、マツモト家のしきたりとなっていた。 「それでも、ヨシちゃんはセラムちゃんでいいの?」  もっと上位の爵位持ちから声がかけられるのに、たかが三等男爵の子分で良いのかと言うのである。自分への評価、そして将来のことを蒸し返した姉に、ヨシヒコは油でもも肉を揚げながら答えた。 「どちらにしても、使用人と言うのは変わらないからな。遣り甲斐と言う意味なら、マリアナの爵位を上げる方がまだあるのかもしれない。あとは……」  そこで言葉を切った弟に、イヨは黙って続きを待った。 「これまで付き合ってきた義理ってのもあるからな。俺のせいでマリアナの奴が過剰に評価されているのなら、その責任をとってやらないといけないだろう。なに、あいつが男爵家を継げば、俺の扱いも酷いことにならないだろうからな」  その程度だと言って、ヨシヒコは揚がった唐揚げを掬い上げて行った。姉の手元に届けるには、一度油を切っておく必要があった。 「酷いどころか、三顧の礼をもって迎えてもおかしくないわよ。それを考えると、セラムちゃんだけってのは舐めているとしか思えないんだけどなぁ」  姉が左手でビールの缶を握りつぶしたのを見て、ヨシヒコはお替りを冷蔵庫から取り出した。 「マリアナは、マリアナなりに気を使ってくれているさ。それに姉さん、セラムのどこに不満があるんだ? 紹介した時には、結構気に入っていたじゃないか」  ビールを姉の前に置いたヨシヒコは、油を切った唐揚げを皿に山盛にした。それを姉の前に置いて、テーブルの反対側に腰を下ろした。 「セラムちゃんは、可愛くていい子だと思うわよ。でも、可愛いだけで普通の子でしかないと思うの。ほら、うちってちょっと変わっているところがあるでしょう。普通、宝くじが当たったからって、仕事を捨ててまで銀河系クルーズなんかに行かないわよね。しかも、父さんは渡航許可まで同時に引き当てるんだから、どんだけ運がいいのよって言いたくなるぐらいの強運よ。それに付き合う母さんも、どうかしていると思うわ。あの人が1年間抜けると、会社が傾くんじゃないの?」 「で、姉さんは父さん譲りの強運で准尉様に昇格したと。それに比べてみれば、確かにセラムは普通の女の子だな。もっとも、俺なんかは、ちょっと頭がいいだけの普通の男だからな」  だからお似合いだと言う弟に、どこがだとイヨは冷たい視線を向けた。 「ちょっと頭がいいだけで、株取引で何億エルもの利益を上げられる? 士官学校の教官を撃墜できるような戦術プログラムを作ることができる? 私なんて、ヨシちゃんのことで遥か雲の上の大将閣下に声まで掛けられたのよ。こんなタイミングで休暇が取れたのも、誰かが気を利かせてくれたのが理由なのよ」  十分に普通じゃないと断言した姉に、ヨシヒコは少しだけ口元を歪めた。 「世の中には、そうそう普通じゃない人ってのはいないんだよ。そもそも姉さん、姉さんは俺にどうしろって言うんだ? 仕える相手を変えても、結局普通の子しか捕まらないんだぞ。機会の不平等を考えたら、庶民にできることはたかが知れているんだ。それぐらいのことは、父さんや母さんを見ていれば分かることだろう? それに、俺はとことん運が無いみたいだからな。賭けをしたら、絶対に悪い方に出るんだよ」 「だったら、セラムちゃんを選ぶのも賭けじゃないの?」  将来の可能性を捨て、三等男爵の手下になるのだ。それが一番ましな選択かどうかは、イヨの言う通り賭けと言うことになるのだろう。そして賭けである以上、間違いなく捨てた未来に魅力的な選択肢が現れることになる。セラムを選ぶと言うことは、その可能性を捨てると言うことになるのだ。 「ああ、間違いなく賭けなのだろうな。ただ論理的に分析すると、最初の選択が一番ましな選択と言うことになるんだ。姉さんの考える魅力的な道と言うのは、セラムを選ばないと俺の前には現れてくれないんだよ。捨てた時点で現れるのは、間違いなくどうしようもない道しかないんだ」  徹底的に運が無いことを考慮すると、ヨシヒコの言っていることに間違いは無いのだろう。ヨシヒコの目の前に現れる将来の可能性は、今より絶対に良くなるものではなかったのだ。 「あんたは、ギャンブルはからきし駄目だったわね……」 「人の意志が介在するギャンブルなら、負けない自信はあるぞ。ただ、運を天に任せた時点で負けは決まっているな。だから俺は、こつこつと自力で積み上げていくしかないんだよ」  そう言って立ち上がったヨシヒコは、冷蔵庫からお替りのビールを持って来た。 「まあ、そんなに気にするな。セラムは美人で気立てが良いからな。普通に考えれば、俺みたいな女顔をしたちんちくりんの相手じゃないよ」  自分を卑下する弟に、イヨは深いため息を返した。自分にとって可愛い弟は、世間的にも可愛い弟なのだ。ただ世間的な可愛さは、必ずしも幸せな方向ではないものだった。 「あたし以上に考えてるヨシちゃんだから……」  気に入らない、そして釈然としないところは沢山あるが、かと言って自分でどうにかできるものではない。くしゃりと缶を握りつぶしたイヨは、手渡されたお替りをじっと見つめた。  ヨシヒコは、そんな姉に自分の事情を尋ねた。いくら従軍しているとはいえ、姉は22のうら若き女性なのだ。浮いた話の一つもあって不思議ではないはずだ。 「で、姉さんは、浮いた話の一つもないのか?」 「浮いた話ねぇ……」  改めて聞かれると、結構厳しい話でもある。ううむと唸ったイヨは、ある意味弟の弱点を突いた答えを口にした。 「ほら、私の場合運だけはいいから。だから、適当な時期に、良い相手に巡り合えると思うわよ」  その答えに少し目元を引き攣らせたヨシヒコだったが、改めて考えて間違っていないことに気が付いた。確かに、姉は自分とは比べものにならないぐらい運に恵まれていた。 「そうか。だったら、そっちの方は心配いらないな。だったら、宙の方にきな臭い話は無いのか?」  地上にいると、宇宙の話はほとんど伝わってこない。その意味での質問に、イヨは少し腕を組んで考えた。実際きな臭い話ならいくらでもあるのだが、それを正直に教えていいのかと言う気持ちがあったのだ。  だが自分の前でそんな真似をすれば、あると答えているのと同じ意味を持つのだ。姉の態度に頷いたヨシヒコは、そのものずばり問題点を言い当てた。 「ザイゲルの奴らがおかしな動きを見せているってことか」 「やっぱり、ヨシちゃんには隠せないわね」  ふっと息を吐き出したイヨは、地球にまつわる危機を説明することにした。 「ザイゲル連合。つまり、グリゴンを中心とした奴らの動きが激しくなってきているのよ。アルファ・カリーナエ方面で、こっちのセンテニアルに合わせて演習を行ってくれるわ。同じ時期に、総勢11万を超える軍艦が集まる予定」  地球の保有している軍艦数1万に対して、その11倍にあたる艦船が演習を行うと言うのである。アルファ・カリーナエが数百光年しか離れていないことを考えると、こちらに脅しをかけていると受け取ることもできた。そして脅しだけではなく、センテニアルにちょっかいを掛けられる恐れもあった。 「で、姉さん達が地球圏に呼び戻されたと言う訳か」 「一応、地球では最強の師団だからね」  少し偉そうにしたイヨだったが、すぐに小さくため息を吐いた。 「まあ、最強って言っても地球ならって所なのよね。実戦経験は無いし、近くに一緒に演習してくれる仲良しさんもいない。装備にしたって、他に比べて100年以上は遅れているでしょうね」  張子の虎だと、イヨは地球の宇宙軍を評した。その評価に頷いたヨシヒコは、姉の言葉に含まれる誤りを指摘した。 「ザイゲルにした所で、実戦は遥か昔にしかしてないだろう。その意味で、実戦経験が無いのは同じじゃないのか? 演習なんて、数だけこなしても実戦とは違うからな」 「そりゃあ、確かにそうなんだけどさ」  弟の言葉を認めたイヨは、それでも問題があるのだと話を続けた。 「さっきも言った通り、こちらの装備は旧式なのよ。未経験同士が正面から戦ったら、もろ装備の差が出てくるでしょう。その意味で、私達はザイゲルに勝ち目がないのが問題なの」 「なるほど。確かに、装備の差は力の差になるな」  それを認めたヨシヒコは、だったらともう一つのプレーヤーを持ち出した。 「帝国とザイゲルなら、今の話はどうなるんだ?」 「帝国が圧勝するわね。技術も経験も、帝国の方がはるかに上回っているもの」  その答えに満足げに頷いたヨシヒコは、一つのデーターを姉の前に差し出した。 「なに、これ?」  いくらなんでも、データーだけ見せられたのでは、何のことを言っているのか分からない。首を傾げた姉に、ヨシヒコはデーターの種明かしをすることにした。 「大艦隊が動くと、それに応じた物資が流通することになる。だから、物資の面でザイゲルと帝国を追ってみたんだ。ザイゲルの動きに合わせて、帝国内でも大量の物資が動いているようだ。したがって、今回の件も帝国は想定していると言うことだな」 「なんで、軍の物資の動きが掴めるのよ……」  軍の動きなど、本来極秘中の極秘事項のはずだ。そしてヨシヒコが説明した物資についても、その動きが表に出るとは考えられないのだ。それを、辺境の惑星に居る高校生が把握していると言う。地球の軍ですら把握していない情報だと考えれば、イヨが不思議に思うのが当たり前だった。  だがヨシヒコにしてみれば、それは経済を知らない者の考えだった。一次業者の動きまでは隠せても、さらに下請けとなると隠しきれるものではない。孫請け、ひ孫請けまで追いかければ、普通の商業活動レベルにまで落ちてくれる。そこを追いかければ、物資の動きを追うこともできると言うのだ。 「そのあたりは、俺のノウハウって所だな。まあ、広く物資の価格や中小の業績を見れば、分析も可能と言うことなんだよ」  ため息を一つ吐いたイヨは、弟に将来を再考するように勧めた。 「ヨシちゃんさぁ、セラムちゃんをやめて軍に来ない? 分析将校の道を選べば、結構偉くなれるんじゃないの? 佐官級なら、上とのコネを手に入れればなることもできるわよ。そうすれば、爵位持ちへの道も開けることになるわ」  これだけの分析力があるのなら、その道で成功することも難しくないと思えたのだ。そうすれば、金で買うより夢を実現する可能性が高くなる。 「分析には自信があるが、運には自信が無いからな。軍艦に運の無い奴を乗せちゃ駄目だろう」  運が無いだけで、小さな事故ひとつで乗っている艦が沈むこともある。たとえ周りを巻き込まなくても、自分だけ宇宙に放り出されることもあり得るのだ。それを考えれば、迂闊に従軍するわけにも行かなかった。 「そうね。確かに、運の悪い人を船に乗せたくは無いわね」  運の悪い者の末路は、嫌と言うほど目の当たりにしている。それを認めたイヨは、ビールの缶を握りつぶした。 「そろそろ、ご飯にしようか?」 「じゃあ、味噌汁でも作ってくるか。茄子と揚げの赤みそ仕立てだからな」  よいしょと立ち上がって、ヨシヒコはキッチンスペースへと入って行った。 「ほんと、良い主夫になれそうね。おしいなぁ、私が食べちゃいたいぐらい」  そう小さくつぶやいたイヨは、唐突に何が気に入らないのか気が付いた。将来の夢とかで噛みついていたが、本質はそこには無かったのだ。 「そっか、ヨシちゃんをとられるのが気に入らないんだ」  気に入らない理由も、気付いてみればとても簡単なことだった。ただ、これだけはどうしようもない問題なのも確かだ。イヨにできることは、優しくて理解のある姉として弟の恋を見守るだけだったのだ。 「……でも、やっぱり惜しいかな」  姉弟ではなぜいけないのか。どこかの星に移住しようかと、イヨはどうでもいいことを考えていた。  センテニアルは、地球歴の9月29日の開催が予定されていた。そしてその日から1週間が、地球規模のお祭りが開かれるのである。当然のことながら、すべての学校は休みとなっていた。そして一般企業でも、休暇をとることが推奨されていた。  その祭のメインは、最終日に行われる記念式典に違いないだろう。特に今回の記念日には、帝国第二皇女の出席を賜ることになっていた。その意味で、地球にとって記念すべき日となっていたのである。 「それで、皇女殿下は前日ヨコハマ入りをされると言う訳だ」  式典を盛り上げるため、皇女の情報は一部を隠して広く公開されていた。地球にとって、初の皇族の訪問である。その意味でも、今回の皇女訪問の意味は大きかった。  ヨシヒコの悪友セイメイ・トコヨギは、公開された資料を手にヨシヒコの机に腰を下ろしていた。そしてその横には、同じく悪友カツヤ・クゼが立っていた。 「良いよなぁ、アズライト姫。なんか、こう、純真可憐ってのが全面に出ていてっ!」  アズライトのホログラム映像を前に、カツヤは頬を赤くして天を見上げた。長い黒髪の清楚な見た目を見せるアズライト第二皇女は、彼の好みのど真ん中だったようだ。 「俺達には、神様のような人には違いないな」  なるほど美人だと感心しながら、ヨシヒコはどうしようもない現実を口にした。帝国200兆の人民を従える皇族ともなれば、辺境の惑星住民にとって神様と言っても差し支えの無い相手に違いない。100年前に拾い上げて貰わなければ、今でも自分たちは地べたを這いずる虫けらにも等しい存在のはずだ。 「だろう。ものすごく神々しいお姿じゃないか。ただ残念なのは、俺達は式典の会場に入れないことだ。直接皇女殿下のご尊顔を拝することができないんだ」 「まあ、爵位持ちですら、全員は式典に参加できないからな。たしか、子爵以上しか参加できないことになっていたな」  冷静なセイメイの言葉に、カツヤは大げさに嘆いて見せた。 「神様みたいな人でも、俺達と同じ16歳には違いないんだぞ。堅っ苦しい式典ばかりでは、きっと退屈するに違いない! せっかく地球に来るんだから、遊びたいと思っているのに違いないだろう!」 「相手は、大きな義務を持った皇族なんだぞ。俗なカツヤと同じにされたら迷惑だろうな」  今度は、ヨシヒコがカツヤの妄想にブレーキを掛けた。二人がかりでブレーキを踏まれ、カツヤは不満そうに頬を膨らませた。 「なんだよ、のりが悪いなぁ」 「空しくなるだけだっつうの。それより、センテニアルの休みはどうする? ああ、ヨシヒコは答えてくれなくてもいいからな」  そう言って、セイメイはにやにやと口元を歪めてみせた。そして隣にいたカツヤも、真似をするように口元をにやけさせた。 「なんだ、それはからかってるつもりか?」 「いや、事実をありのまま口にしただけのことだ。お前たちがデートすることなど、今さら教えて貰う必要のないことだろう」 「で、セラムちゃんと黄金町か? 興奮しすぎて、ドジを踏むんじゃないぞ」  やっかみとからかい。その両方にあてられたヨシヒコは、どう言う訳か二人に向かって小さくため息を返した。それに驚く二人に、ヨシヒコは言い訳がましく理由を口にした。 「確かに、黄金町には行くんだがな……興奮とは別に、ちょっと自信が無いのは確かだな」  その言葉は、普段のヨシヒコからは考えられない、珍しい弱音に違いないかった。 「あまり、難しく考える必要はないと思うがな。レベルの低いところから始めれば、初心者でも問題は出ないものだぞ」  いざとなると怖くなってしまう。それを察したセイメイは、気を楽にしろとヨシヒコにアドバイスをした。 「予習をしたいんだったら、俺が付き合ってやってもいいぞ」  そしてカツヤは、下心たっぷりに男同士を提案した。 「やめてくれ。それぐらいだったら、プリインストールされたデータを使う」  男同士などまっぴらだ。ぶるっと身を震わせ、ヨシヒコはカツヤの誘いを断った。 「年下のセラムちゃんにリードされるってのは悔しいだろうからな。まあ、一人で行くのは妥当な選択と言う所だな。なんだったら、店の前まで俺達が連れて行ってやってもいいんだが」  そう言ったセイメイだったが、ぶんぶんと首を振るヨシヒコを見て苦笑を浮かべた。 「だったらお前んとこの姉ちゃんと言ってやりたいところだが……もう、休暇は終わったんだったな」 「ああ、月軌道で待機任務に就いているらしい。聞くところによると、全地球艦隊が太陽系に配置されたそうだ」  それぐらいの情報なら、ネットでいくらでも見つけることができる。機密の漏えいにもならない情報に、セイメイとカツヤは小さくため息を返した。 「あのな、今さらネットに出ている情報を言ってどうする。どうせなら、軍関係者しか知らない情報を教えてくれよ」 「そんなもの、守秘義務に引っかかるに決まってるだろう。ちなみに、家族にも教えてくれないぞ」  先手を打ったヨシヒコに、「だよなぁ」とセイメイとカツヤは頷いた。 「初の皇族訪問だからな。軍がピリピリするのも仕方がないって所か。宇宙軍としても、ようやく活躍の場ができたって所なんだろうな」 「その意味なら、陸海空と張り切っているって聞かされたぞ。そう言えばヨシヒコ、ミツルギ経由でそっちの情報は無いのか?」  ミツルギ家当主は、陸軍少佐に任命されている。そしてその娘は、士官学校の生徒なのだ。母親が海軍少佐なのと併せれば、それなりの情報があるはずだった。 「身内でも参謀でもない俺に、そんな話が伝わると思うか? 士官学校の方は……そう言えば、マリアナがホプリタイのパイロットに選出されたと言ってたな」 「確か、記念式典で開催される御前試合のことだよな。それって、かなり凄いことじゃないのか」  士官学校からは、パイロットは補欠を含めて20名も選出されない。全地球規模でそれなのだから、パイロット選出は確かに凄いことに違いなかった。  それを認めたヨシヒコは、だから余計に暇なのだと説明した。 「マリアナは、恥をかかないようトレーニングに勤しんでいるよ。だから、今の所何もお呼びがかかっていないんだ」  ヨシヒコの答えに、なるほどと二人は頷いた。 「確かに、ホプリタイの御前試合で知恵袋の必要性は薄いか」 「どう頑張っても、勝てっこないからな。作戦を少しぐらい練ったところで、状況は何も変わらんだろう」  正確に事情を指摘した二人に、そう言うことだとヨシヒコはその事実を認めた。 「ただ、土壇場で泣きつかれる可能性はあるだろうな。「勝てないまでも、一矢は報いたい!」って言われるのが目に見えているようだ。だから、相手の分析だけはしているんだが……」  そこで口ごもったヨシヒコに、二人は正確に分析結果を理解した。 「さすがのお前でも、完全に手詰まりか?」  セイメイの指摘に、ヨシヒコはため息を吐くことで肯定した。 「あまりにも実力が違いすぎるんだ。だからマリアナ程度の実力じゃ、何をやっても歯が立たない。後は手心を加えてくれるだろうから、それも状況を読みにくくしてくれるんだよ。機体性能からして大人と子供だから、何をどうやっても勝ち目なんかないな。ちなみに正規軍の奴らでも考えてみたんだが、結果は何も変わらなかったよ。どこまで未熟な地球人に付き合ってくれるか。それに応じて、試合時間が変わる程度だろう」  ヨシヒコの説明に、二人はなるほどと大きく頷いた。わざわざセンテニアルに向けて、帝国が最高の戦力を揃えてくれたのだ。どうにかなると考える方がどうかしていたのだ。 「ホプリタイの試合は、機体性能と操縦技能を競い合うことを目的としているんだ。そのおかげで、作戦を凝らす余地が限られている。奇策をとろうにも、選択の幅が殆ど無いのが問題なんだ」 「つまり、まだまだ地球人は先が長いことを示されると言うことだな」  セイメイの指摘に、ヨシヒコは小さく頷いた。 「将来の可能性と言い換えた方が前向きだな」 「その、将来の可能性についてなのだがな」  ホプリタイは良いと割り込んできたカツヤは、もっと下世話な方向へと転換した。 「俺達は、帝国分類でH種になるんだろう。だとしたら、将来皇族と結婚する可能性があるんじゃないのか。現に10しか存在しないH種の星系のうち、半数で皇室と姻戚関係ができているんだぞ」 「可能性と言う意味なら否定しないぞ。ただ、それが何年後のことかは誰にも分からないがな。そもそも帝国の規定に反して地球にコンタクトしてきたのは、俺達がH種だったからなんだからな。皇帝の血筋を維持することを考えれば、逆に候補にならないと考える方がおかしいんだ」  ヨシヒコの答えに、うんうんとセイメイは頷いた。 「ただ、少なくとも俺達が生きている間は無いだろうな。皇族と結婚しようと思ったら、帝国の一桁大学に入れるぐらいじゃないといけないからな」 「頑張って82じゃ、まだ先が長いなぁ……」  自分たちには縁のない世界でも、やはり自分の生まれた星が特別なものになってもらいたい。皇族を迎える、さもなければ迎えられるともなれば、それは間違いなく凄いことなのだろう。  ただ、壁の高さと道のりの長さを考えると、セイメイの言う通り自分たちが生きている間に叶うとは思えない。帝国に加わって100年、しかも特例で拾い上げられたことを考えると、長すぎる道のりに思えてしまう。 「そう言えば、誰も反応できないワイアードの書き込みがあったな」  帝国の一桁大学と言う話題から、カツヤは話題になったワイアードの書き込みを思い出した。 「あれか、第35大学の学生が遊び相手を募集しているって奴のことだろう?」  セイメイの指摘に、それそれとカツヤは身を乗り出した。 「プロフを見たら、結構可愛い子なんだよな。センテニアルに合わせて地球に来るから、ヨコハマ地区で遊んでくれる人を探しているらしいんだ。しかも、男がいいってので話題になったんだ」  カツヤの解説に、ヨシヒコもああと頷いた。 「第35大学に通ってるってのがネックになった奴か」 「地球の到達したレベルの5つ上だからな。興味があっても、名乗り出る勇気は誰も持っていなかったと言うことだ」  セイメイの答えに、ヨシヒコとカツヤは大きく頷いた。 「頭の出来が違いすぎるんだよな。そんなのの相手になるなんて、普通は考えないよなぁ。普段空気を読まない奴らも、現実がしっかり見えていたってことだな」 「俺は、ヨシヒコが手を挙げなかったのが不思議なんだがな。お前、帝国の大学に興味を持っていただろう? せっかく上位の大学に通う人が来るんだ。色々と話を聞いてみたいんじゃないのか?」  どうなんだとセイメイに聞かれたヨシヒコは、苦笑交じりに首を振った。 「次に地球から帝国の大学に行けても、せいぜい70番台だって言われているんだぞ。30番代なんて、参考にしようもないだろうが。それに、センテニアル期間はセラムとデートだよ」  セラムとデートと言う話は、とても説得力を持っていた。確かにそうだと頷いた二人は、今さらながらヨシヒコに羨望などと言うものを抱いていた。色々と窮屈なところがあったり、取り込まれていると言うのは知っていても、やはり可愛い彼女と言うのは羨ましいのだ。だが羨ましいと感じながらも、どこかさびしいと言う気持ちもまた抱いていた。 「なんかなぁ、ヨシヒコからわくわくするものを感じなくなったな」  それを端的に表したのが、カツヤの言葉だろう。そして同じ思いを、セイメイも認めていた。 「そうだな。お前なら、何かとんでもないことをしでかしてくれると思っていたんだがな」  それが、常識的なところに落ち着こうとしているのだ。そう言うのに語弊があるのは分かっているが、落ち着き先が予想の範囲だったことに二人は失望も感じていたのだ。 「そんなことを言われてもなぁ。現実って奴は、いつか認めないといけないものなんだ」  言い返してはみたが、ヨシヒコ自身似たような思いを感じていた。爵位を買うと張り切っていたころに比べて、今は毎日の張り合いがなくなっているように感じていたのだ。その理由に心当たりはあったが、敢えてそのことをヨシヒコは考えないようにしていた。 「なあヨシヒコ。大人になるってのは寂しいことなんだな」  ぽつりとカツヤのつぶやいた言葉は、ヨシヒコの気持ちを一番表していた物となっていた。 Chapter 3  香港の行政府に身柄を保護されるのは、アズライトにとって予定通りの出来事だった。彼女にしてみれば、本番の前に飲茶と観光を楽しんだに過ぎないのだ。そして保護されたタイミングも、ほぼ予定通りと言うことができた。そのあたりのコントロールは、これまでの経験が大きくものを言っていた。 「さて、お楽しみはいよいよ第二段階ね」  翌日の移動に備え、アズライトは豪華なホテルに案内されることになった。皇女殿下をお泊めするのだから、最高級ホテルの最高の部屋が用意されたのは言うまでもない。世間標準ではとても広い部屋なのだが、それでも彼女の生きてきた世界では狭い部屋である。その部屋で寛いだアズライトは、さっそく次の行動を考えることにした。香港行政府の用意したフライトで日本までは移動するが、そこから先は大人しくしているつもりは毛頭なかった。 「ヨコハマに着いたら、小父様に会う前に抜け出すのはデフォルトとして……」  移送方法が分かったので、抜け出す算段はとっくの昔にできていた。残っているのは、抜け出した後の楽しみ方である。せっかくワイアードで友達を募集したのだが、結局誰も名乗りを上げてくれなかった。 「やっぱり、現地調達って言うのが適当か。35番目に設定したのが間違いだったわね」  70番台にしておけば、きっと面白いように食いついてくれただろう。そんなアリエルの分析を教えられた時には、気が利かないとアズライトが珍しく怒ったほどだ。 「でも、綺麗だなぁ〜」  窓から見える光の景色に、アズライトは小さく感嘆の息を漏らした。  皇女をしているから、これまでも何度も他の惑星を訪問している。それぞれの場所で、それぞれの文化を何度も見てきていた。そのたびに思うことは、宇宙は何と広く、そしてなんと狭いかと言うことだ。ほぼ銀河の反対側に位置するテラノでも、自分と同じ格好の生物が生きているのだ。しかも同じ方法で交配できると言うのは、間違いなく驚くべきことだろう。大昔に廃れてしまった考えだが、神を持ち出したくなる気持ちも理解できると言うものだ。超越者でも持ち出さない限り、光の距離を超えて種を伝搬させることなどできないのだ。  だが光でも1万年以上かかる距離は、やはり宇宙の広さを感じさせられてしまう。こうして窓越しに見上げる夜空には、数多の星が光っているのを見ることができる。アズライトの知っている限りで、その中にはなくなってしまった星もいくつか混じっていた。つまり、何十年も何百年も前の光を今自分は見ていることになる。  そして窓の下に目を転じれば、人々の生きている証を見ることができる。色とりどりに輝くネオンや行きかう車のヘッドライトは、帝星リルケでは見られない光景だった。色とりどりの光が舞う光景は、素直に綺麗だと思えていた。  しばらく窓の外を眺めていたアズライトは、小さくため息を吐いてから窓際から離れた。飽きない景色ではあるが、時間を無駄にしている訳にはいかなかった。大人しくしていては、天災と言われる自分の評判を落とすことになる。 「とりあえず、外を出歩くのには問題なさそうね」  大きな窓に映った姿は、どちらかと言えば大人しい印象を受ける自分の姿だった。だが周りの評判は、宇宙を飛び回る天災なのだ。少し口元を歪めてから、アズライトはゆっくりと部屋のドアへと近づいて行った。ドアの向こうには、護衛と言う名の監視者がいるのは分かっている。その監視をものともしないところが、天災の天災たるところだった。 「ラルク起動」  アズライトの言葉と同時に、左手の薬指に嵌められていた指輪が赤く光った。そして次の瞬間、アズライトは、まるで何もないかのようにドアの向こうへとすり抜けて行った。こうなると、誰もアズライトを止めることはできない。呆気にとられた護衛が気付いた時には、アズライトの姿は窓の向こうに消えていた。  ベッドに入るまでの3時間ほどの時間、アズライトは護衛の者達を翻弄しまくった。その気になれば完璧に姿を隠すこともできるのだが、それでは遊びになってくれないのだ。だからアズライトは、護衛が自分を見失ったと気付いたところで、わざわざ見つかりやすい場所へと姿を現した。そして再度、護衛と追いかけっこを行うのである。そして追いかけっこの合間で、ちゃっかりと夜の香港観光も済ませていた。 「でも、歯ごたえが無いって言うのはとっても退屈」  物質変換装置「ラルク」を使わなくても、護衛程度は簡単に巻くことができた。そうなると、逆に退屈を覚えてしまうのだ。護衛を弄んだ3時間と言う時間は、アズライトが飽きるまでの時間でしかなかったのだ。 「やっぱり、テラノで期待する方が間違っていたのね」  自分への遠慮もあるのだろうが、それ以上に捜索に対する手際が悪すぎる。物質変換装置「ラルク」は反則だが、それでもやりようがあるだろうと言いたかった。それなのに、大量動員された護衛は、右往左往するだけで大して役には立ってくれなかった。  そんな事情もあり、アズライトのお目覚めはあまりよくなかった。それでも救われたのは、もうすぐヨコハマに行けると言うことだ。遠慮していた香港とは違い、ヨコハマでは精一杯羽を伸ばそうと計画していたのである。だからヨコハマでは、わざわざ護衛に見つかることは考えていなかった。  香港〜ヨコハマ間を1時間かけると言うのは、情緒を味わうにはいいが、それもまた退屈な時間だった。惑星上のためワープが使えないのは分かっているが、それでももう少し別な方法があるだろうと言いたかった。  そんな文句を心の中に抱きながらも、移動中アズライトは珍しく大人しくしていた。それを周りの者達は、昨夜の追いかけっこで満足した結果だと考えた。だがそれがどうしようもなく甘い考えであるのを、彼らはヨコハマにある領主府に着いた所で思い知らされることになった。片時も目を離していないはずなのに、なぜか到着した時にアズライトの姿が席から消えていたのだ。領主府を含め、ハチの巣をつついたような騒ぎになるのは当然のことだった。  帝国第二皇女の世話係になると言うのは、疑うまでもなく大変な名誉なことに違いない。それを地球領主直々に言い渡されると言うのだから、ミツルギ家で騒ぎが起きたのも不思議なことではないだろう。意気揚々で屋敷に帰ったマリアナを、両親は前祝と言うことで盛大なお祝いをしてくれたほどだ。御前試合のパイロット抜擢と合わせ、ミツルギ家にとって将来は明るいと考えたのだ。  ただ大役に舞い上がってしまったため、両親とも重大な事実を失念したのは失敗に違いない。それは愛娘が世話係となった帝国第二皇女は、天災と表だって言われるほどの問題児だと言うことだ。そして任命された翌日、マリアナはさっそく厳しい現実を突きつけられたのである。 「君を、アズライト皇女殿下に引き合わせようと思っていたのだが」  直立不動の姿勢をしたマリアナに、ジェノダイトはこめかみを右手で押さえながら話を切り出した。 「思っていたのだが、さっそく皇女殿下が姿をくらまされた」 「誘拐、もしくはそれに類することではないのでしょうか!」  まだアズライトに対する認識の甘いマリアナは、失踪の理由を第三者の介入だと考えた。 「いや、皇女殿下は自らの意志で姿をくらましたのだ。過去訪問された星系でも、同様な行動をされている。したがって、これも予想された行動ではあるのだが」  はっと小さくため息を吐いたジェノダイトは、すまないと謝ってマリアナの顔を見た。 「予想よりも、行動が早かったのだよ。ひとまず、君への興味が勝つかと期待したのだが」  遁走するにしても、マリアナと引合されてから。そう予想したジェノダイトの期待を、アズライトは見事に裏切ったと言う訳である。 「それで、世話係として私は何をすれば宜しいのでしょうか?」  肝心の世話をする相手が居なければ、世話係の役目を全うすることもできない。彼女の立場として当然の疑問に、ジェノダイトの指示は「待機」と言うものだった。 「君は、御前試合のパイロットにも選ばれているのだろう。ならば、別命があるまで訓練でもしていなさい」  香港では立ち回り先に痕跡が残されていたのだが、ヨコハマでは綺麗さっぱり見つけられなくなっていた。それだけ本気と言う意味につながるし、本気を出した皇女を一人で見つけられるはずがなかったのだ。それもあって、ジェノダイトは待機をマリアナに命じることにした。 「私も、捜索に当たらなくてよろしいのでしょうか?」 「君一人でどうにかなるような相手ではないのだよ。したがって、領主府から人を出して捜索をさせる。君の役目は、皇女殿下が見つかってからだ。最悪……」  そこで時計を見たジェノダイトは、11時間後と言う微妙な時間を提示した。 「遊び疲れたら、こちらに顔を出されるだろう。そうなると、夕食が終わったころと推測できる。待たせて申し訳ないが、発見次第呼び出しを掛けることになる。何か、疑問があるのかね?」  宜しいでしょうかと手を挙げたマリアナに、ジェノダイトは発言の許可を与えた。 「皇女殿下の異常行動は、本日限定と考えて宜しいのでしょうか?」  世話役を任命された以上、万事抜かりなくお勤めを果たすつもりでいた。その際に問題となるのは、これからの皇女の行動だった。  それを気にしたマリアナに、ジェノダイトはため息交じりに頭を振った。 「式典の日までは、間違いなく毎日同じことをしてくれるだろう。夜に戻ってきたとしても、翌朝まで大人しくしている保証はどこにもない。それが帝国第二皇女、アズライト様と言うお方だ」  そう断言したジェノダイトだったが、すぐに違うかと考えなおした。 「いや、式典すらまともに出席いただけるか疑わしい。場を混乱させることこそ、アズライト様のなされることだ」  敢えて嘘を言う必要が無いことを考えれば、ジェノダイトの話は全て真実なのだろう。それを考えると、第二皇女と言うのは厄介極まりない性格をしていることになる。 「つまり、私の役目は皇女殿下を縛り付けておくことですか」  自分の役目を正しく認識したマリアナに、ジェノダイトは力強く首肯した。それを確認したマリアナは、とても過激なプランを口にしてくれた。 「一服盛る。さもなければ、意識を刈り取ってしまうと言う方法はいかがでしょう。式典には、椅子に縛り付けておけばよろしいかと」  そうすれば、こちらを振り回すこともできなくなる。思わず頷きたくなるマリアナの提案だったが、相手を考えれば迂闊な真似をすることはできない。たとえどんなに迷惑な存在だとしても、相手は皇位継承権を持つ皇女殿下なのだ。しかもマリアナの提案した方法は、過去試された方法でもあったのだ。 「アズライト様が継承権のある皇女殿下であることを忘れないように。いくら迷惑な存在でも、不遜な真似をすればこちらに返ってくるのだ。しかも、君の提案は過去一度実行に移されたことがある」  そこでため息を吐かれれば、嫌でも結果を想像することができる。なるほどと頷いたマリアナは、次に皇女の行動原理を問題とした。 「仮にも帝国皇女殿下が、何も考えずにそのような真似をするとは信じられません。皇女殿下の迷惑行為は、何らかの意図を持ったものなのでしょうか?」  意外に常識的なマリアナの考えに、ジェノダイトは人選を誤ったかと後悔を始めていた。教官機を撃墜するような型破りさを、皇女の餌にと考えていたのである。  それでも、正当な質問に対して答えを返す義務が彼にはあった。少し考えてから、ジェノダイトはそれらしい理由を記憶の中から引っ張りだした。 「今の皇帝聖下も、似たようなことをされていたな。一度理由を尋ねた時には、退屈しのぎの知恵比べだと仰っていた。皇女殿下も同じと言う保証はないが、理由としては大いに考えられるだろう」 「退屈しのぎの知恵比べですか……確かに、私にはいささか荷が重い役目だと思います」  あっさりと認めたマリアナに、ジェノダイトは失望のため息を漏らした。期待の方向が違っているのは理解しているが、それでも何とかならないかと淡い期待を抱いていたのだ。  はっきりと失望を顔に出したジェノダイトに、マリアナは笑いながら言葉を続けた。 「ご領主様。確かに私には荷が重いと言ったが、だからと言って駄目だと言ったつもりはない。何しろ、私にはとっておきがあるのだからな」 「とっておき、かね?」  胡乱なものを見る目をしたジェノダイトに、マリアナは胸を張って「とっておきだ」と繰り返した。 「私が、参謀としてスカウトしている男だ。これまでの私のあげた士官学校での成績に、大いに貢献してくれているのだ。頭はずば抜けていいから、こういう時に役立ってくれるだろう」 「君の成績にかね」  ネイサンにマリアナの成績を呼び出させたジェノダイトは、そこそこ優秀な作戦立案能力を認めた。だがそこそこに優秀程度では、彼の求める物には不足していた。 「この程度では、まだ不足していると思うのだが……」  かと言って、他にいい方法が無いのも確かだった。藁をもすがる思いで、ジェノダイトはマリアナの提案を了承した。 「分かった。他に妙案がないのも確かだ。それで、君の参謀を巻き込むにあたって、必要となる情報はあるかね? もしくは、とり計らうべき便宜があれば言ってくれたまえ」 「でしたら、第二皇女殿下の過去の行動についてのデータをいただきたい。そこから行動パターンを分析し、対策を練ることといたします」 「それだけで、いいのかな?」  その程度のことは、これまでもさんざん実行されてきたことだ。だがいくら分析をしても、役に立たないと言うのが現実だった。その意味で確認したジェノダイトに、マリアナは「現時点では」と言う断りを入れた。 「その先は、私の参謀が考えてくれるでしょう。頭を使うのは、参謀の役目です」 「なるほど、それは道理に違いない。ネイサン、アズライト皇女の行動について、データをマリアナ嬢にお渡ししろ」  まだ何かあるかと言うジェノダイトに、マリアナは姿勢を正して十分であることを伝えた。 「指示を参謀に渡したのち、私は呼び出しがあるまでホプリタイの訓練を行うことにいたします!」 「うむ、訓練に励んでくれたまえ」  そう答えてマリアナを送り出したジェノダイトは、その姿が消えたところで頭を抱え込んだ。もともと望み薄とは分かっていたが、やはり天災は天災としての猛威を振るい始めてくれたのだ。 「後は、これ以上の厄介ごとが起きないことを願うだけか」  天災は10日我慢すれば居なくなってくれる。だがもう一つの厄介ごとは、そう簡単にジェノダイトを自由にはしてくれなさそうだ。皇帝の意図を考えたジェノダイトは、間違いなく厄介なことになると覚悟を決めていた。  移動中の機体から抜け出すことも、物質変換装置「ラルク」を使えば造作も無いことだった。ヨコハマに置かれた領主府に近づいたところで、アズライトはタイミングを見てラルクを起動した。たったそれだけのことで、アズライトは括りつけられていた席から大地へと落ちていった。シールドを張った護送機も、帝国の最先端技術の前に敗れ去ってくれたのだ。  護送機から脱出してしまえば、後はアズライトの自由となる。かつて二俣川と言われた辺りで地上に降りたアズライトは、人目につかないところでセラフィム・メルキュールに変身した。もっとも変身と言っても、着ているものと髪型を変えた程度のものである。  長い髪を肩口までの長さに変え、ドレスのような衣装はピンクのサマーセーターに濃い緑の短パンと黒のストッキングに変えた。その程度の変装は、ラルクを使えば難しいことではない。髪型を含めて量子分解を掛けて再構築を行ったのだ。  そうやって皇女に見えない姿に変身したアズライトは、公共交通機関を乗継ぎみなとみらい地区へとやってきた。とりあえず、最終目的地を確認しておこうというのである。 「夜には、一度戻ってくればいいか」  そのまま顔を出さないという手もあったのだが、そうすると本当に自分のことを見つけられないだろう。セフィラム・メルキュールという偽名がバレていても、ホテルをとらなければ自分の居場所がばれることはなかったのだ。テラノの管理システムにしても、帝国側から干渉すれば自分を見つけることは出来ない。そこまでしてしまうと、混乱が分からなくて面白く無いと思っていた。 「とりあえず、腹ごしらえからかしら?」  朝はドタバタしていていたため、まともなものを食べさせてもらえなかった。ほとんど自分のせいなのに、アズライトは完全に自分のことを棚に上げていた。  これから遊び倒して食べ倒すことを考えると、一箇所であまり沢山食べるわけには行かない。そう考えたアズライトは、目についたパンケーキ屋の行列に並んだ。選択基準は、自分と同年代の男女が並んでいること。領主に近いことも都合がよかった。 「アリエル、おすすめは何?」  他人に知られないように確認したアズライトに、アリエルは店の売上データーから売れ線を示した。 「売れ線は、いちごとホイップクリームの乗ったパンケーキです。それに、アイスアップルティーが宜しいのではないでしょうか」 「どれも、食べたことのないものばかりね」  渡された写真入りのメニューを見ると、どうやらいちごというのは果物のようだ。アイスアップルティーは、帝国にも似たような飲み物があった。同じ味と言う保証は無いが、味は見た目を裏切らないだろうと考えることにした。もしかしたら失敗するかもしれないが、それを含めて旅の醍醐味だと考えていたのだ。  ただ失敗も覚悟したメニュー選びだったが、30分後にそれが当たりだったことを知らされた。生クリームの甘さとイチゴの酸味が、絶妙なハーモニーを口の中で奏でてくれたのだ。 「ヘタしたら、帝国で食べるのよりも美味しいんじゃない? テラノ、なかなか侮りがたいわね」  予想以上に美味しかったので、おかわりをしたくなったほどだ。ただこれからのことを考えて、アズライトは大人しくお店を出ることにした。まだまだ自由時間はあるのだから、食べたくなったらまた食べに来ればいいのだ。そう割り切り、アズライトはお店を出ることにした。 「ここは、お魚さんの星じゃないのに海が広いんだ……」  領主府の足元に移動したアズライトは、そこで潮風を感じながら遠くの景色をゆっくり眺めた。真っ青な空に、白い雲がいくつか浮かんでいる。そして目を下に転じれば、穏やかな青い海が広がっていた。 「これなら、シレナ達が欲しがるのも理解できるわね」  他の星系に比べ、手付かずの自然がまだまだ沢山残っている。文明が進むことで忘れられたものが、まだまだここには沢山残っていたのだ。もともと水棲種のC種やD種の住む星でも、こんなきれいな海を見ることはなかった。  路上販売のおばちゃんからアイスクリームを買ったアズライトは、そのままの足で小高い丘へと登っていった。何かを目的にしたわけではなく、ただ足の向くまま適当に歩いただけのことだった。 「う〜ん、やっぱり田舎はいいわ」  自然回帰をしている帝星よりも、テラノの方が自然が豊かだった。木漏れ日を気持ちいいと感じながら、アズライトは整備された歩道をゆっくりと歩いた。似た年齢の団体を見かけるところを見ると、近くに学校があるのだろうか。 「他のH種の惑星とはかなり風景が違うわね……」  アズライトが知っている限り、他のH種が住む惑星はもっと殺風景だった。もちろんそれぞれの惑星にも、元からの自然を楽しむ場所は残っているのは知っている。だがアズライトの行く領主府の周りは、これでもかと機械化された惑星ばかりだった。 「アリエル、そのあたりの理由は?」  他のH種とあまりにも違う理由を気にしたアズライトに、アリエルはとても簡単な答えを返した。 「住民の性格と言うのが一番の理由でしょう。この方が落ち着くと、住民は自然を取り入れることに熱心です。ただ、情報を見る限り、これでも自然は失われた方のようです」 「同じ見た目をしていても、そのあたりの考え方は違うってことか」  感心しながら観察を続けたアズライトは、ようやくジェノダイトのことを気にした。ただ、それにしたところで「どうしてる?」程度でしか無かったのだが。 「アズライト様の捜索隊を出しているようです。どうやら、1万人以上動員されているようです」 「その割に、探している人を見かけないわね」  不思議ねと首を傾げたアズライトに、誰のせいだとアリエルは突っ込みを入れた。 「捜索範囲が広くなっていますから、1万程度ではさほど目につくことはないでしょう。もっとも、ここまで来る間に10人程度捜索の人員とすれ違っています」  つまり、お互いがお互いに気づいていないというのである。それを考えると、アズライトの変装はうまくいっていることになる。 「じゃあ、バレたら小父様の血管が切れそうな場所に行きましょうか」 「ここからでしたら、コミューターで10分程度で到着します。この先40mほど進んだ所に、乗り場の標識が出ています。次の便までは、5分ほどと言うところでしょう」  アリエルの示した方向を見ると、言われた通りのに丸い標識が立っているのが見えた。小柄な女性が立っているのを見ると、コミューター乗り場なのは間違いないだろう。 「じゃあ、あこがれの黄金町に行きましょうか!」  それが今回一番の楽しみだった。変装がバレていないことに気を良くし、アズライトは軽い足取りでコミューター乗り場へと向かっていった。  乗り場についたアズライトは、そこで先客が男性だったことに驚いた。データーが間違っていなければ、テラノの住人としても小柄な方だろう。背が低くてほっそりとした体つきは、女性的な印象を与えてくれた。ただ問題は、せっかくの綺麗な顔が台無しになっていたことだ。もう少し何としたらと言いたくなるほど、顔にははっきりと緊張の色が浮かんでいた。 「せっかく、可愛い顔をしているのに……」  女の格好をさせるだけで、立派な美少女が出来上がってくれそうだ。アズライトは、コミューターの待ち時間を利用して、少女のような少年を観察した。そこでいたずら心を働かせたのは、もはや天性としか言い様がないだろう。早速行動に移したアズライトは、コミューターを降りたところで少年の後を追いかけたのである。 「おあつらえ向きの場所に向っているわね」  現地調達を考えていたアズライトにとって、少年の存在は都合がいいとしか言いようがなかった。それでもあったのは、誰かと待ち合わせをしているのではないかと言う不安だった。だが丸海老と言うVXの施設前で立ち尽くす姿に、ますます好都合だと喜んだのである。さっそく少年に近づいたアズライトは、その肩を叩いて「一人?」と声を掛けたのだった。  何度も友人に背中を押されたこともあり、ヨシヒコは一人で黄金町に行く覚悟を決めていた。セラムが女同士で行ったことがあると聞かされているので、恥をかかないための対策を行うためである。それでもなかなか踏ん切りがつかなくて、ようやく午後になって行動を始めることになった。  そう言う施設に行くコミューターで、同年代の少女と居合わせるのは居心地の悪いものだった。緊張しながら乗り場で待っていたら、いつの間にか後ろに並ばれていたのだ。どこかで見覚えのあるような少女は、コミューターの中で少し離れた所に座ってくれた。  先に降りてくれればいいのに。居心地の悪さに、ヨシヒコは何度もそう願っていた。だがこう言う時の運の悪さは、ヨシヒコの生まれついてのものだった。自分が黄金町で降りようとした時、後ろに座っていた少女も立ち上がってくれた。 「い、行きづらい……」  相手が何を目的としているのか分からないが、男一人でVXの施設に入るのを見られるのは恥ずかしすぎる。セイメイ達から聞いた範囲では、利用者のほとんどが同性同士も含めてペアだと言う。男一人でで来るというのは、かなり稀なケースだと教えられていた。  自分がその稀なケースに当たると考えると、それを見知らぬとは言え綺麗な人に見られるのは恥ずかしすぎる。どうか途中で曲がってくれますように。そう願いながら歩いたヨシヒコだったが、結局少女を連れたままVXの施設の一つ、丸海老にたどり着いてしまった。  ここまで来たのだから、覚悟を決めて入っていけばいい。そのつもりで丸海老まで来たヨシヒコだったが、どうしても最後の一歩が踏みさせずに居た。やはり恥を掻いてもセラムと来るべきだった。強い後悔を感じたヨシヒコは、やはりやめようと大きく息を吐き出した。後ろから肩を叩かれたのは、まさにヨシヒコが丸海老から去ろうとした時の事だった。  えっと振り返った先には、コミューターで乗り合わせた少女が立っていた。そして少女は、振り返ったヨシヒコに「一人?」と聞いてきた。  自分の前で真っ赤になった少年を、アズライトは「可愛い」と喜んでいた。この施設の目的を考えれば、今更少年の目的を疑う必要はないだろう。そして直前で考え直したところを見ると、かなり初なことも確かだ。その意味でも、遊び相手に合格だとアズライトはほくそ笑んだのである。だから振り返った少年に向かって、もう一度「一人?」と聞き直した。 「え、ええっと、一人ですけど……それがなにか?」  こうして改めて聞かれるのは、死にたくなるほど恥ずかしかいことだった。顔は熱くなるし、心臓は激しく鼓動を刻んでくれる。出来ることなら、ヨシヒコはこの場から逃げ出したいと思ったほどだ。だが目の前で嬉しそうにされると、逃げ出すことも叶わなくなる。  顔を真赤にするだけではなく、落ち着きもなく慌てられれば、相手の気持ちなど手に取るように分かってしまう。それも可愛いと喜んだアズライトは、この場で最も適当と思われる言葉を口にした。 「私も一人なんだけど。一緒に入らない?」  その言葉に、ヨシヒコは一瞬自分の耳を疑った。だが次の瞬間、別におかしなことでないのに気がついた。ただ気がつきはしたが、だからと言って一緒に入るのは別の話である。もちろんそれは、ヨシヒコだけの事情でしかない。断りの言葉を口にする前に、ヨシヒコは腕を捕まれ丸海老の中へと引きずり込まれていった。  迎える店員の顔が笑っていたのは、きっと微笑ましい女友達に見られたのだろう。さしずめ、ぐずる相方に業を煮やした片割れが、最後に実力行使をしたと見られたということか。その手のことは、店員にとってみれば日常茶飯事のことでもあった。  ナリアと名札の付いた30がらみの店員は、「いらっしゃいませ」と言う通り一遍の言葉と笑顔で初々しいカップルを迎えた。そして、これまで何人もの客を見た経験から、二人共初めてだろうと当たりをつけていた。 「以前に当店及び類似施設のご利用はありますか?」  利用者は、説明から入ることが規定となっていた。別室に二人を連れ込んだナリアは、まず施設の利用経験を確認した。経験者か否かで、これからの対応が変わってくる。特に初心者には、十分な説明を行うことが義務となっていた。 「はい、初めてです!」  その質問に元気よく答えたアズライトに、ナリアは登録端末を差し出した。 「では、こちらにIDを提示してください。これから、お二人用に管理データーを作成します。これは、心臓や脳に疾患が無いかを確認する意味もあります。安全を確保するための措置とご理解ください」  どうぞと差し出された平べったい板に、アズライトは物怖じせずに持ってきたIDを提示した。 「はい、セラフィム・メルキュールさんですね」  名前を確認して、ナリアはIDをアズライトに返した。そしてまだぐずっているヨシヒコに、ニッコリと笑って端末を差し出した。 「はい、もう一人の彼女。ここまで来たら、覚悟を決めましょうね? 大丈夫よ、女同士は珍しくないからね」  さあと言って端末を差し出す店員に、ヨシヒコはしっかり不機嫌そうな顔をした。 「悪いが、俺は男なのだがな」  顔はどう見ても少女なのだが、男と言われれば男かなと言う声をしていた。そしてしぶしぶ差し出さられたIDをチェックした所で、ナリアは目の前の少女が本当に男であることに驚いた。 「ごめんなさい、てっきり女の子同士で来たのだと思っちゃった。はい、ヨシヒコ・マツモト君ね。二人共健康そのものだから、どのコースでも選択できますよ」  フレンドリーに営業スマイルを浮かべて、ナリアはヨシヒコにIDを返した。ただ直前の失敗が理由なのか、こめかみには一筋汗が伝い落ちていた。 「まずボックスタイプから選択してください。個別ボックスとペアボックスがありますけど、どちらになさいますか? 恋人同士でしたら、ペアボックスをお薦めしますよ。お互いの気持の高ぶりが分かるので、より気分が盛り上がることになりますからね」  営業スマイルを絶やさず、ナリアは二人にボックスの確認をした。 「でしたら、ペアボックスに!」  そしてここでも、アズライトが主導権を握ってペアボックスを主張した。せっかく経験するのなら、おすすめを選ばない手はない。  それを当たり前に受けとめたナリアは、小さく頷いてから次の手順を説明した。 「これから、二人共更衣室で着替えをしていただきます。着替えが終わったら、内部の案内に従ってボックスに入ることになります。そこから先は、システムが自動的に二人の状態を見て感度を調整していきます。ボックスに入って、およそ10分と言うのが体験時間になります。短いように感じるかもしれませんが、皆さん満足して帰っていきますよ」  ナリアは、この辺りを極めて事務的に説明した。そして次に、システム利用上の注意点を説明した。 「ボックス内で、相手に触れることは禁止事項となっています。許可範囲は、手をつなぐ程度だと覚えておいてください。それ以上の接触があった場合、システムがその時点で停止し、結構な額の反則金が課せられることになります」  いいですねと確認するナリアに、二人は真剣に頷いた。アズライトと一緒に入ることを躊躇っていたヨシヒコも、なんとか覚悟を決めたようだった。  二人に注意をしたナリアは、そこで少しだけ表情を緩めた。 「と厳しいことを言いましたが、終了直後にキスする程度ならお目こぼししますよ。ただそれ以上は、施設を出て場所を変えてからにしてくださいね。その時は、更衣室のモニタにお勧めのコースが出ていますからね。そちらを参考にするのをお勧めしますよ。それから更衣室ですけど、異性の入室には時間制限がありますから気をつけてくださいね」  親切なのかこれも営業方法なのか、ヨシヒコはどうでもいいことを考えていた。いまだ現実を受け入れられないのか、頭の中ではしっかり現実逃避をしていたのだ。  そんなことに構わず、ナリアは最後にと必要な注意を二人にした。 「これからの着替えですが、いくつかのパターンが用意されています。中にはほとんど裸というものもありますが、それに驚かないようにしてくださいね。更衣室に入る前に選択画面が出てきますから、二人で相談して決めてくだされば結構ですよ。ここでの格好も、気分を盛り上げる重要なファクターですからね」  そこでウインクをしたナリアは、小声で「頑張ってね」とヨシヒコにだけ囁いた。  一体何を頑張ればいいのか。その辺りに疑問は感じたが、確かに覚悟だけは必要だと考えなおした。相手のノリに引きずられたのは確かだが、自分にとって初めてのVXだったのだ。  楽しんできてくださいと送り出された二人は、ガイドに従って更衣室の前に来た。そこには、説明通り着替えを選択するパネルが用意されていた。着替えの衣装に目を輝かすアズライトに、確かに雰囲気を盛り上げる演出なのだとヨシヒコ納得した。 「どうですヨシヒコ君。こう言ったきわどいのは?」  相手の名前は、IDを提示した時に知ることが出来た。そのお陰で、ヨシヒコは胸につかえていたものが無くなってくれた。どこかで見たと思ったのは当たり前で、ワイアードにしっかり顔写真が出ていた相手だったのだ。 「却下。ほとんど何も隠していないじゃないか」  アズライトが選んだのは、本当に局部だけが申し訳程度に隠されていた衣装だった。これならば、マイクロビキニの方がよほど隠す所が多いと言う代物である。 「でもさ、これからすることを考えたらいいと思うんだけどな。それとも、まだ露出が足りなかった?」  そう言って新しく画面に出したのは、逆に清清しいほど何も隠されていないものだった。 「い、いや、さすがにこれはまずいだろう。それにあんた……ええっとセラフィムさんだって、出会っていきなりそれは恥ずかしいだろう」  年頃の男として、裸を見せるのは恥ずかしすぎる。まだまだ冷静な今は、更にその思いが強かった。だが恥ずかしいと尻込みするヨシヒコに、アズライトはむしろ積極的に一番恥ずかしいのを選んでくれた。 「だから、これからすることの方がよほど恥ずかしいことなのよ」  だからこれと、アズライトはヨシヒコの同意を得ずに衣装の選択キーを押した。そして情けなさそうな顔をしたヨシヒコの背中を、アズライトは手のひらで叩いた。 「さあ、せっかくだから楽しもう。ナリアさんだっけ、楽しんできてくださいって言ってたでしょう?」  そう言ってアズライトは、背中を押してヨシヒコを男子更衣室へと押し込んだ。そしてヨシヒコが消えたタイミングで、アリエルがアズライトの前に現れた。 「さすがに、裸を晒すのはやり過ぎではないでしょうか」  アリエルの小言を聞き流し、アズライトも女性用の更衣室へと入った。そして左手の薬指に嵌めた指輪を右手の人指指で叩いて、着ていたものを元素へと分解した。たったそれだけのことで、脱衣は完了してしまった。 「身の回りのことを他人にさせているのですよ。裸を見られることが恥ずかしくては、皇族などやっていられません」 「ですが、お召し替えや入浴とは事情が違います。側仕えは一応女性が選ばれていますし、彼女たちは役目として皇女殿下に使えています。庶民に肌を晒したことが知れたら、リルケで騒ぎになることでしょう。その前に、ジェノダイト様が卒倒されるかもしれません」  今更手遅れのところもあるが、自重してくださいとアリエルは進言した。 「大丈夫よ。黙っていれば、小父様がこのことを知ることはないわ。今のところ、私からも教えるつもりはありませんからね」  そう言うことですと言って、アズライトはボックスから吐出された衣装を身につけた。局部を隠すことを目的としていないため、いくつかのセンサーが透明のケーブルで接続されただけのものである。少なくとも、衣装と言うのが憚られるシロモノだった。 「これで、男の子の前に行くのって」  ゴクリとつばを飲み込んだのは、緊張というより期待と言ったほうが正しいのだろう。 「結構刺激的な体験だと思うわ」 「しかも、同じボックスに入るのですからね」  システム直結のアシスタントらしからぬため息を吐いたアリエルは、諦めたような言葉を口にした。 「せいぜい、楽しんでください」 「周りの期待に応えてあげないとね」  裸同然でも堂々としているのは、間違いなくそれまでの生活が理由だろう。そんなアズライトに、本当の期待に応えていないだろうとアリエルは言いたかった。  ヨシヒコの方が遅くなったのは、間違いなく思い切りの違いが理由だろう。アズライトがボックスに入って落ち着いたところで、ようやく前かがみになったヨシヒコがボックスルームに入ってきた。 「やっぱり、恥ずかしい?」  堂々としているアズライトとは対照的に、ヨシヒコは前かがみになったままだった。そして何も隠していないアズライトと対照的に、ヨシヒコはしっかり局部を手で抑えていた。しかも視線は、裸を見ないようにとアズライトから逸らされていた。 「そ、そりゃあ、恥ずかしいのに決まってるだろう!」 「でも、そうしている方が余計に恥ずかしくなると思うわよ。それから、ちゃんと私を見て話をしてね」  そう言われてアズライトを見ようとしたヨシヒコだったが、ちらりと見えた裸に慌てて顔を逸らした。 「や、やっぱり無理だ」 「見てくれないと、結構私が傷つくって知ってる? こうして男の人に裸を見せるのって、実は初めての経験なんだけどな。それなのに少しも見て貰えないんだと、散々な思い出になっちゃうんだよ」  だから見てと言われ、ヨシヒコは一度大きく深呼吸をした。そしてしっかり覚悟のタメを作ってから、ゆっくりとアズライトの方へと顔を向けた。考えてみれば、女性の裸は姉や母親で見慣れているはずだった。だが相手が変わると、特別なものになるのだと思い知らされた。 「ようやく見てくれたのはいいけど、何か言うことはないの?」 「え、ええっと、その、綺麗だなって」  普段なら冷静沈着、頭脳明晰なヨシヒコなのだが、残念ながらこの状況ではその一つも望めなかった。どうしてこうも頭の働きが鈍ってしまうのか、これが女性を相手にすることなのかと鈍った頭で考えていた。  セラムと一緒にいて、頭がこんな風になったことはない。それが、ここまでの接触をしていないからなのか、その理由がヨシヒコには理解できていなかった。それでもひとつ言えることは、目の前にいる女性、アズライトに対して特別な思いを持っていないはずと言うことだ。 「とりあえず褒めてくれたから合格。じゃあ、一緒に座って手を繋ぎましょう」  色々と考えようとしたお陰で、少しだけ頭に思考能力が戻ってきた。相変わらずアズライトにリードされているが、なんとかシートの隣りに座ることが出来た。 「はい、上出来ね。じゃあ、お待ちかねのVXを始めましょう! コースは、お勧めの奴にしましょうね」  二人の目の前に、空間投影された開始スイッチが表示されていた。それを指でタッチしたアズライトは、ソファーに身を任せて体から力を抜いた。その隣に座ったヨシヒコも、同じように体から力を抜いてソファーに身を任せた。刺激的なものが目にはいらない分、ヨシヒコの精神にも余裕が生まれていたようだ。  期待から入ったアズライトだったが、始めに感じた感覚はむしろ期待はずれのものだった。何かが全身を優しく撫でていく感覚とでも言えばいいのか、全体にむず痒さを感じるだけだったのだ。これぐらいの感覚は、湯浴みをした後に全身を拭かれるのと大差がない。だから大したことないと考えた瞬間、ピリッと電気に似た感覚が体に走った。 (な、なに、今の……)  不意打ちを食らったこともあり、思わず小さく声を漏らしてしまった。この程度のことでと癪に障ったアズライトは、次はどうなるのだと身構えた。  だが全身から感じるのは、もどかしくなるようなむず痒い感じばかりだった。ただその感覚も、逃げられなくなると体がぞわぞわとしてくれる。しかも少しずつ、息も上がり始めていた。そして少し気持ちがそれたところで、今度は局部に電気が走るのを感じた。 「あん」  息が上がり甘い声が出た時、自分がしっかり術中に嵌ったのだとアズライトは理解した。その証拠に、慣れない刺激を受けるたびに甘い吐息が漏れでてしまうのだ。しかもその感覚の強さは、加速度的に増していくし、全身を撫でられるような感覚ですらアズライトの脳を痺れさせていった。 (まずい、気持ちが持っていかれる)  自分で自分が抑えられなくなっている。初めての感覚への戸惑いが最高潮に達した時、アズライトはいわゆる「絶頂」と言うものを体験した。  一方ヨシヒコは、体への感覚は大したことはないと思っていた。同じように全身のむず痒さやピリッと来る刺激を感じていたのだが、だから何という気持ちが大きかったのだ。それもあって、こんな物かと軽い失望もVXに対して感じていた。この程度なら、ふざけあってくすぐられた時と大差がない。構える程ではなかったと言う気持ちだったのだ。  だがその感覚も、アズライトの甘い声で事情が変わった。ぎゅっと繋がれた手に力が込められ、しかも伝わってくる体温が上がっているのに気がついたのだ。そして繋いだ手が熱く感じ始めた時から、連続してアズライトの少し高い喘ぎ声が隣から聞こえ始めた。それに驚いて隣に目を向けると、頬を上気させたアズライトの姿が目に入った。明らかに興奮した様子を見せるアズライトは、そして自分も感じる刺激合わせて押さえた嬌声を上げている。白かった体も、今はすっかり朱が差している。そんなアズライトが綺麗なのと扇情的なことが、どうしようもなく自分の男を刺激してくれた。 (これが、ペアシートの意味か……)  体に受ける刺激だけなら、自分は何も感じることはなかっただろう。だがアズライトの反応が、自分の気持を昂らせているのに気がついたのだ。聞こえてくる声、そして手に伝わる熱気、漂ってくる女の香もすべてがヨシヒコを虜にした。あれだけ引っ掻き回してくれた女性が、今は自分の隣で快楽に打ち震えているのだ。同じ刺激を受けているだけに、優位に立ったような気持ちになっていた。  その気持が強くなったせいで、アズライトの裸を見ることへの照れは消えていた。その代わり、こんな反応をするのだという嗜虐的な気持ちが生まれていた。だったらこんな刺激ならどう感じるのか、こうしたらどうなるのか、そんな疑問がヨシヒコの中に沸き起こってきた。  このシステムが良く出来ているところは、そんなヨシヒコの心の動きを読み取ってくれることだろう。こんな刺激ならと思った通りの刺激が、隣にいるアズライトに与えられたのだ。そして今まで以上の反応を引き出すことで、ヨシヒコに強い満足を与えてくれた。そしてその満足は、同時にヨシヒコの心を更に昂らせてくれた。  システムの分析をしていたヨシヒコも、次第に仮想的に与えられる行為に没頭していった。初めは特別な意識を持っていなかったヨシヒコだったが、今はアズライトを愛しく感じはじめていた。そしてそれ以上に、アズライトは自分のものだと言う独占欲が生まれていた。  十分に長いと言われた10分は、本当に言われた通り十分な時間だった。その証拠とも言えばいいのか、終了時間を告げる表示が出ても、二人はすぐに動くことはできなかったぐらいだ。余韻を楽しむと言うより、まだ頭がはっきりとしてくれなかったのである。  先にヨシヒコが正気を取り戻したのだが、それにした所で彼の功績ではない。案内をしたナリアが、気を利かせてヨシヒコだけに声を掛けてくれたのだ。 「彼氏君、大丈夫? ここから先の接触については制限が無いから、彼女のことを抱き起してあげなさい」  自分たちの世界が壊れたことで、ヨシヒコは何とか現実へと復帰した。これがVXかと感動しながら、男とは来たくないと改めて感じていた。もしもカツヤと来ていたら、間違いなく帰りに襲われていただろう。それ以上に、こんな感覚を男と共有したくなかった。 「一応教えておくけど、あなた達の相性は最高よ。まさか、初級コースでこんなに激しいことになるとは思わなかったわ。とってもお似合いの彼女よ、大切にして上げなさいね」  まともに受け取れば、営業トークそのものの言葉だろう。だが、ヨシヒコはそれを正直に受け取った。他人の体験談を聞いていたことも、ヨシヒコが素直に受け取った理由である。セイメイ達からは、こんなに凄いと言う話を聞いたことがなかったのだ。  ナリアのコメントに、ヨシヒコは自分たちが特別だったことを知った。それは、アズライトのことを更に強く意識させることになった。VXを使うと恋人との中が深まると言う話は、このことかとヨシヒコはぼんやりと考えた。 「おい、立てるか?」  そこで優しく接しられなかったのは、圧倒的な経験不足と言うことができた。ただ言葉のぶっきらぼうさも、今はあまり大きな影響はないようだった。まだぼんやりとした顔をしたアズライトは、小さな声で「無理」と返してきた。 「本当に立てなくなっちゃった。悪いけど、手を貸してくれる?」  動機が収まらないのか、アズライトの胸は大きく上下していた。ここに入ったときなら正視できない光景だったのだが、今はしっかりと見ることができるようになっていた。悪戯っぽい雰囲気の消えたアズライトは、とても綺麗で可愛らしかった。その姿もまた、ヨシヒコにはとても魅力的に映っていた。  そんなアズライトに手を差し出し、ヨシヒコはぐいっと自分の方へと引き寄せた。おかげで一度は立ち上がれたアズライトだったが、すぐに腰が立たなくなってヨシヒコに支えられた。アズライトの肌が密着した時、ヨシヒコは体に電気が走ったような気がした。 「ごめん、更衣室まで連れて行ってくれない?」  このままだと、いつまで経っても立ち直れそうにない。それを打開する方法はあるのだが、こんなところでは使えない方法でもあったのだ。だからアズライトは、人目につかない更衣室までヨシヒコの手を借りることにした。  更衣室まで連れて行かれる途中で、ヨシヒコに色々なところを触られた。仕方がないこととは言え、これもまた危ないとアズライトは感じていた。かなりは意図的に、そして一部は不可抗力の所もあったのだが、触れ合いに喜んでいる自分に気がついたのだ。そんなアズライトの感情を察知し、アリエルは直ちに緊急プログラムを始動した。アズライトの意識に干渉して、危険な状態を回避しようとしたのである。  だが、アリエルの発動した緊急プログラムは役に立ってくれなかった。発動してすぐは効果を示したのだが、新たな刺激にその効果も消えてしまったのである。継続して行われた愛撫が、アズライトの心を囚えて離さなかったのである。そしてアズライトもまた、自分の意志でヨシヒコの大切なところを触っていた。  なんとか更衣室にたどり着いたところで、アズライトはヨシヒコに鏡の前に座らせてもらった。部屋の中にカウントダウンの声が聞こえるのは、初めの説明通り利用制限を告げる物なのだろう。そのあたりは、“健全”な施設の面目躍如と言う所か。穿った考え方をすれば、この後の施設に誘導することを目的としているようでもある。  時間的には十分な余裕があったこともあり、二人は抱き合いお互いを刺激し続けた。そんな危ない二人の遊びは、アズライトがもう一度達したところで終わりを迎えた。ようやくアズライトから離れたヨシヒコは、カウントダウンがゼロになる前にキスをしてから女子更衣室を出て行ったのである。そのタイミングで、アリエルは再度緊急プログラムを始動した。そしてその上で、本格的な対処を提案した。 「直ちに、精密調整プログラムの起動を推奨します」  ヨシヒコが離れたことにより、今度は緊急プログラムはその効果を発揮してくれた。まだ朦朧とする意識に対抗し、アズライトは推奨通り精密プログラムの始動をアリエルに命じた。 「アリエル。精密調整プログラムをすぐに起動して……」  本当に危ないことになっている。ちょっとした火遊び、単なる経験のつもりでいたのに、本気でヨシヒコを欲してしまった自分にアズライトは慄いた。 「はい、これに懲りて二度とこのような真似をなさらないように。緊急プログラムが2度も始動するのは、本来有り得ないことなのですよ。しかも、最初の始動は役に立ちませんでした。あの少年、図に乗って大切な所に指を入れていましたよ」  まったくと憤慨しながら、アリエルは精密調整プログラムを走らせた。生まれた時から仕込まれた調整プログラムは、本来精神操作や暗示と言う攻撃に対抗するのが目的のものだった。最悪の場合、自動で起動するセーフティネットである。こんなお遊びで発動させていいものではないはずだ。 「βエンドルフィン抑制、ドーパミン調節。その他代謝機能を調整しました。意識レベル調整しました。性的思考をブロックします……進捗率40%。どうです、少しは落ち着きましたか?」  アリエルが処置してくれたおかげで、急に頭がはっきりしてくるのを感じていた。まだ立ち上がることは出来ないが、強烈な性欲はかなり緩和されていた。 「ありがとう。でも、恐るべきはVXと言うことね。テラノの技術も侮りがたいわ」  今まで自分の行動を抑え込むため、色々な工作がなされたのを知っている。だがどの工作も、これ程まで自分の精神を犯したことはなかった。もしも更衣室の時間制限が無ければ、間違いなく自分は体を許していただろう。まさか、緊急プログラムがが役に立たないなどとは考えたこともなかったのだ。 「そうですね。ただ、少しだけ影響が過剰だったようです。設定が初級者レベルだったにもかかわらず、反応は最上級レベルに達していたようです。そのあたり、皇女殿下とシステムの相性が良すぎたと言うことでしょう。至急対策を行いますので、次からはこのようなことは無いかと思います」  それだけではないのは分かっていたが、アリエルは敢えてアズライトの特異性に話をすり替えた。 「ありがとう。さすがに、婚姻前に傷物になる訳にはいかないからね」  精密調整が完了したのを教えられ、アズライトはバスタオルを持って立ち上がった。調整のお陰で、それまでが何だったのかと思えるほど、あっけないほど簡単に立上がることが出来るようになっていた。そしてそのまま、リフレッシュをするためシャワールームへと向かった。  体の生理的反応はほとんどシステムに横取りされるのだが、それでも終わった後には汗を掻くし、他にも説明のしにくい状況に陥ってくれる。しかも終わった後にも、かなりいかがわしい真似を続けてしまったのだ。シャワーを浴びないと、本気で恥ずかしいことになりかねなかった。ラルクを使って浄化する方法もあったが、気持ちを落ち着かせるためにもゆっくり時間を掛けたかった。  システムの力を借りて立ち直ったアズライトとは対照的に、ヨシヒコは自力で元の世界へと復帰していた。そして復帰したのと同時に、強い後悔に身を苛まれていた。たかがVXと甘く見ていたのだが、明らかにこれはセラムに対する裏切りなのだ。最後まで行かなかったことは救いだが、それもヨシヒコの理性が勝ったおかげではない。もしもその場でできる状況にあれば、間違いなく自分は最後まで進んでいた。更に言うのなら、更衣室の時間制限に気づかなければ、間違いなくアズライトを抱いていた。大人しく更衣室を出たことにしても、場所を変えればなんの制限もなくなるのだと思っていただけのことだった。 「間違いなく浮気だ……」  その時には、相手に対する愛おしさまで感じていたのだ。その事実だけで、浮気と言うのは間違いないだろう。それを自覚したヨシヒコは、何をしているのだと自分で頭を一発殴った。 「事前調査が、調査じゃなくなってるじゃないか」  まったくと大きく息を吐き、ヨシヒコはシャワールームへと入って行った。頭をはっきりさせるためには、冷たい水で頭を冷やす必要があったのだ。  「入り口に入る前と出口を出た後以外他人と顔を合わせません」と言うのが、この施設の売りとなっていた。そしてその言葉通り、更衣室を出た後のウエイティングスペースも個室になっていた。先にシャワーを浴びて身だしなみを整えたヨシヒコは、カプチーノを飲みながらアズライトが現れるのを待っていた。水のシャワーとコーヒーのおかげで、かなり精神的には余裕ができていた。  ちょうど一杯目を飲み終わってお替りを考えたところで、アズライトが女子更衣室から現れた。その時の格好は、会った時と同じくピンクのサマーセーターに濃い緑の短パンと黒のストッキングと言う出で立ちである。ただ会った時とは、全く違う印象をアズライトに対して抱いていた。すっきりとした可愛らしさに、ヨシヒコはアズライトを強く意識してしていた。  「お待たせ」と言って現れたアズライトを、ヨシヒコは席を立って出迎えた。そして椅子を引いて、アズライトが座るのを手伝った。 「意外に紳士なのね?」 「意外と言うのは余計なことと言ってやろう。ところで、何か飲むか?」  そう言ってメニューを差し出したヨシヒコだったが、すぐに自分が気が効かないことをしたのに気が付いた。見た目こそ区別はつかないが、相手は地球外から来たお客さんなのだ。メニューを見せて選べと言うのは、さすがに気の利かない行為に違いない。 「すまん、こちらに着いたばかりだったな。それで、どう言ったものが好みなのか?」  気持ちを落ち着けたつもりでも、本人を前にするとどうしても緊張してしまう。少しぶっきらぼうにしたヨシヒコに、アズライトは逆に質問を返した。 「ヨシヒコ君は、今まで何を飲んでいたの?」 「俺か? 俺は、ここにあるカプチーノと言うものだ。コーヒー豆と言う豆を火で焙煎した物を粉にして熱湯で抽出した液体に、牛と言う動物の乳を熱して泡立てたものを混ぜてある。コーヒーは強く焙煎してあるので苦みが強いが、それを泡立てたミルクがマイルドにしている」  分かりやすい説明に、頭がいいのかなとアズライトは評価した。 「冷たい飲み物。そうね、甘すぎずさっぱりした物が良いかな。今日アップルティーと言うのを飲んだのだけど、あんな感じの冷たいのが良いかな」 「だとしたら、アイスアップルティーと言うのもあるのだが」  そのものずばり過ぎて芸が無いのだが、逆に言えば無難とも言える選択でもある。拘る必要が無いこともあり、アズライトはその提案を受け入れた。 「じゃあ、それで」  同意を得たヨシヒコは、アズライトにはアイスアップルティーを、そして自分にはカプチーノのお替りを注文した。 「落ち着いたみたいだな」 「そっちこそ」  注文が終わると、特に何もすることがなくなる。そう声を掛け合って顔を見合わせたところで、二人は示し合わせたように吹き出してしまった。 「大したことは無いと高をくくっていたのだが……あれは、かなり危ないな。恋人同士以外で、ペアシートに座るものじゃない」 「それ、思いっきり同意してあげる。あそこでヨシヒコ君が更衣室を出て行かなかったら、間違いなく最後まで進んでいたと思うもの。これでも、何とかブレーキを掛けて立ち直ってきたんだからね」  それにシステムの力を借りたのだから、どうしても乾いた笑しか浮かんでくれない。そう言ったアズライトに、自分も似たようなものだとヨシヒコは答えた。 「今でも、セラフィムさんが立ち直っていなかったら、けっこう危なかったと思う。俺としては、立ち直ってくれて感謝しているんだ」 「なにか、私としたくないって風に聞こえるんだけど。一応、理由ってのを聞いて良いかな?」  自分を否定された気がしたアズライトは、視線を厳しくしてヨシヒコを睨んだ。そんなアズライトの態度に、ヨシヒコはまだ完全に自分が立ち直っていないのに気がついた。今日初めて女性に感じた衝動、それを改めて感じてしまったのだ。それをカプチーノを飲むことでごまかし、怒るなよと先にくぎを刺した。 「理由は二つある。どっちも大きな理由なんだが、まず俺には恋人がいるんだ。今日ここに来たのも、事前にどんなところか調べに来たと言うのが理由だ。だからこれは、間違いなく浮気と責められることだと思っている。それでもまだましなのは、VXだけだったと言うことだ」  あのまま成り行きに身を任せたのなら、自分は取り返しのつかないことをしていた。そんなことを思いながら、ヨシヒコはアズライトに理由を説明した。 「じゃあ、もう一つの理由は?」  自分が無理やり誘った以上、恋人がいると言うことに腹を立てるわけにはいかない。それに、浮気を気にする恋人がいるのなら、逆に引きずらない分好都合とも考えていた。 「セラフィムさんが地球……そちらの言い方だとテラノなんだが、テラノの人なら多分迷わかなった。だけどセラフィムさんは、帝国の第35大学に通っている人なんだ。センテニアルが終わってテラノを離れたら、おそらく二度とテラノに来ることは無いだろう。もしも先に進んでしまったら、俺はセラフィムさんと離れることは出来ないと思う。平気そうにしているが、こうしているだけで胸がドキドキしてくるんだ」  女として魅了したと言うのは、間違いなく気分のいいものだった。そしてそれ以上に、アズライトは嬉しいと言う気持ちを感じていた。その感情に対して、アリエルは危険な徴候を感じ取っていた。  ヨシヒコの答えに満足したアズライトは、にっこりと笑って許しを与えた。 「私から誘った以上、一番目のことは怒ることはできないよね。それに、二番目の理由だったら、私も似たよう事情があるからね。もしもしちゃったら、帰ってから大騒ぎになると思うし」 「だったら、VXに入るのは問題ないのか?」  大騒ぎになると聞かされたヨシヒコは、VXも問題だろうと指摘した。それに、終わってからも、色々と危ないことをした記憶もある。 「まあ、こんなことは言わなくちゃばれないしね。キスとか指を入れられたこととかは、授業料代わりと言うことにしておくわ。それにした所で、傷が残る訳じゃないから黙っていたら分からないしね」 「それなら、それでいいのだが……それで、これからどうするんだ?」  とてもきわどいことを言われた気もするが、ヨシヒコはそれを気にしないことにした。そしてその代りに、これからの予定をアズライトに確認した。このままさよならすると言う考えはヨシヒコには無かった。 「これからって?」 「センテニアルが終わるまで、こっちにいる予定なんだろう。明日からのことは置いておくにして、今日これからどうするのかと気になったんだ。もしも良ければだが、遠く離れた星からのお客様を歓迎しようかと考えている。何か予定があるのなら、無理にと言うつもりはないのだがな」  つまり、観光に付き合ってくれると言うのだ。ワイアードで募集をしたことを考えれば、ありがたい申し出でもある。それに、VXを共にした仲だと思えば、一緒に行動するのも悪くない話だ。 「この次の施設に連れ込むってことは無いよね?」  一応重要なことだと確認したアズライトに、ヨシヒコは「誓って無い」と答えた。 「センテニアルが近いから、この辺りはかなり賑やかになっているんだ。これまで観光した場所を教えてくれれば、そこを外してお勧めを案内する。良かったらだが、俺の友達にも会ってやってくれ。あいつらも、他の星……セラフィムさんは帝星リルケだったよな。きっと色々と聞いてみたいと思っているはずだからな」  聞かされたプランに安堵したアズライトは、それもいいかと積極的に考えることにした。 「楽しそうに聞こえるから、お願いしちゃおうかな。ええっとね、今日は大したところに行っていないのよ。香港から移動してきたって言うのもあるけど、海沿いの公園で領主府や海を眺めていたのと、近くのパンケーキだっけ、行列のお店でパンケーキを食べたぐらい」  今自分の居る場所からの地理、そしてこれからあるイベントを思い浮かべたヨシヒコは、たちまち頭の中で観光プランを作り上げた。そしてそれが決まれば、ここでゆっくりしている理由は無くなる。ずずっと二杯目のカプチーノを飲み干したヨシヒコは、行こうかと言って立ち上がって右手をアズライトに差し出した。 「改めて名乗るが、ヨシヒコ・マツモトだ。この近くにある、港総合高校の2年生だ」  差し出された手を取ったアズライトは、使っている偽名を口にした。 「セラフィム・メルキュールよ。出身はシリウス星系のリルケと言う星。あなた達には、帝星リルケと言った方が通りがいいわね。今は、帝国第35大学に通っているわ。専攻は民俗学よ」  辺境の星に来る口実となる専攻を言われ、なるほどとヨシヒコは納得した。帝国に加わって100年しかたっていないことを考えれば、研究材料に事欠くことは無いだろう。今回は観光と言うことだが、研究のため再訪する可能性も生まれてくる。そうなればいいなと、ヨシヒコは心の中で期待するものを感じていた。  仲間と合流してから、4人は港地区や繁華街を巡ることにした。そのあたりの選択は、特ににぎわっているところを見せると言う理由からである。そして民俗学を専攻していると言うアズライトに、テラノの風俗を見せようと考えたからでもある。地球にしかない大道芸は、理解を深めるのに重要なことだと考えたのだ。  アズライトが喜んだのを見れば、お客様への配慮としては合格なのだろう。ただヨシヒコにとっての問題は、なぜか女装して回らされたと言うことだ。 「そんなに、膨れた顔をしないものよ」  高層ホテルの窓際の席を確保して、その夜は二人きりのディナーとしゃれ込んでいた。そのあたりの選択は、セラムとのデートをシミュレーションした結果でもある。そして舞台装置としては、デートには満点と言えるものだった。  七色の光でライトアップされた領主府や港の景色を見ながら、二人はホテル自慢のフレンチを味わっていた。ただその場における問題は、周りから女性同士と見られていることだろう。  こうなったのも、仲間に合流したところで、男女のバランスが悪いとセイメイが言い出したのがきっかけだった。さらに悪乗りをしたアズライトに、近場のブティックに連れ込まれたのが決定的だった。そしてそのまま、現在に至ると言うことである。 「おかげで、危ない雰囲気にもなりようがないでしょ? 私といても、あの二人以外はヨシヒコ君だとは気付かないわよ。浮気を心配する君には、ちょうどいいカモフラージュになると思うんだけどな」  なりきるためには、気持ちを切り替える必要がある。そのおかげで、アズライトの言う通り、彼女を性的な目で見なくなったのは確かだった。その意味で、確かに効果があるのは間違いないだろう。ただ、男のヨシヒコにとってみれば、情けないことこの上ないのは変わりなかった。それに、最後の食事は男の格好で来たかった。 「ああ、確かにそうなんだろうな」  二人きりと言うこともあり、ヨシヒコの男の顔が表に出ていた。それと似合いすぎるほど似合っている女装とのギャップに、アズライトはナイフを持つ手で口元を押さえて笑いを堪えた。 「君といると、本当に退屈しないわね。可愛いなって思っていたけど、まさかこんなに女の格好が似合うとは思ってもみなかったわ。君の彼女も、君のそんなところが気に入ったんじゃないの?」  それは違うと言い返そうとしたヨシヒコだったが、デートの時のセラムにあながち外れてはいないのではと考えなおした。自分の物を選ぶのだと言う癖に、やけにヨシヒコに合わせるようなしぐさが多かったのだ。 「い、いや、そもそもセラムは、マリアナが俺にあてがった女だからな」 「でも、それはきっかけであって、続いている理由じゃないでしょ? 男爵家の事情とは別に、彼女なりの事情もあると思うんだけどな」  そう言って笑ったアズライトは、「負担?」と言って可愛らしく首を傾げた。 「負担ってことは無いんだがな。セラムはいい子だし、それに可愛いと思っている。だけど、何か自分の中で腑に落ちないところがあるんだよな」  それが何なのかは、観光の途中でセイメイ達から教えられていた。子供の夢としては可愛いが、大人になれば厳しい現実が立ちふさがってくれる。 「でも、お金で買えるほど爵位は甘くないわよ。よほどの幸運……は、君にはなかったんだよね。そうなると、軍で功績を上げるか、さもなければ科学技術の発展に貢献するか、政治的に偉くなるぐらいしか爵位を得る方法は無いわね」  はっきりと言い切ったアズライトに、ヨシヒコは不満そうに顔を逸らして頬杖を突いた。 「それぐらいのことは言われなくても分かってる。だから、その中ではマシな選択をしようと思ってるんじゃないか」 「ましな選択ね……それって、結構彼女に失礼なことを言っていると思うわよ」  消去法で選ばれたと言うのは、間違いなく失礼なことに違いない。それを指摘したアズライトに、ヨシヒコはますます不機嫌そうな顔をした。 「それぐらいのことは分かってる。セラムにもきっかけがあるんだから、俺にもきっかけぐらいあってもいいだろう」  ぶすっと膨れたヨシヒコを笑ったアズライトだったが、一転して真剣な顔をした。 「仮定の話をさせてもらうけど、帝国大学に入れるようにしてあげる。もしも私がそう言ったら、恋人を捨ててリルケに来るつもりはある?」  それは、夢と恋人のどちらを選ぶのかと言う問いかけとなる。そして間接的に、恋人の代わりに自分を選ぶかと言う問いかけにもなっていた。それを理解しつつ、意味の無い問いかけだとヨシヒコは言い返した。 「あり得ない仮定の話をしても意味が無いだろう。それに、帝国大学に入ることと、セラムのことは切り離して考えられるはずだ。結婚して星から家族を連れて行っている奴もいるって話だ」  入ることはできないが、情報だけならヨシヒコも集めていた。一桁大学は秘密のベールに包まれているが、それ以下ならばそれなりの情報が出ていたのだ。その中には、家族帯同と言う事例もいくつか紹介されていた。  そしてこれ以上深入りしてはいけないと、ヨシヒコは自分に対してブレーキを踏んでいた。だから答えも、感情から離れたものになっていた。 「そうね。確かに帝国の大学に入るだけなら、彼女と別れる必要はないわね。私の質問の意味は、どちらかを選ばなければならない時、君がどうするのかを聞きたいってこと」  敢えて答えを逸らしたヨシヒコだったが、アズライトはもう一度質問を繰り返した。将来の夢と今の恋人、そのどちらを優先するのかと。答えを迫るアズライトに、ヨシヒコは答えを返えすことができなかった。それが答えだと受け取ったアズライトは、ごめんとヨシヒコに謝った。 「今のは、あまりいい質問ではなかったわね」 「いや、俺の迷いを突いた、絶妙な質問だと思っている」  そこでふっと息を吐き出したヨシヒコは、「帰ろうか」とアズライトに声を掛けた。 「ヨシヒコ君の家に泊めてくれるの?」 「それは、どう考えてもお互いのためにならないだろう。とりあえず、俺の名前でここに部屋を確保した。ああ、支払いを気にする必要はないぞ。役に立たない金なら、いくらでも持っているからな」  ここのホテルの支払い程度は、ヨシヒコの持っている資産の一日分の利息にも満たなかった。常識的には莫大な財産なのだが、使い道が無ければ無駄な金でしかなかったのだ。 「それで、ホントに明日も案内してくれるの?」 「女装して来いと言われなければだ。ただ、明後日からは予定があるからな。明後日からは、セラムとデートだ」  絶対に駄目と言う意味でセラムの名前を出したヨシヒコに、アズライトは斜め上の答えを返した。 「私は、君の彼女と一緒でも困らないわよ。もちろん、黄金町に行っている時には、遠慮して一人で遊んでいるけどね」 「俺は、絶対に駄目と言う意味で言ったんだ」  そこでボーイを呼んだヨシヒコは、支払いのために自分のIDを手渡した。それを笑顔で受け取ったボーイは、機械にかざしたところで顔色を変えてくれた。 「失礼ですが、これはお客様のIDでしょうか?」  IDには、使用者のデーターが記録されている。そこには、当然性別年齢に関するデーターも含まれていた。そこに男と記録されていれば、ボーイの反応も理解できると言うものだ。 「悪いな、こんな恰好をしていて」  男の声で答えられ、ボーイは顔を引き攣らせてヨシヒコに謝った。人の趣味に干渉しないのは、ホテルマンとして最低限のマナーだった。  フロントでチェックインを済ませ、アズライトを部屋まで送ったところでヨシヒコは解放された。さすがに疲れたと伸びをしたヨシヒコは、フロントに待っていたタクシーに乗り込んだ。さすがは夜と言うべきか、運転手付きのタクシーだった。  ヨシヒコからIDを受け取った運転手は、一瞬だけ驚いたような表情を見せた。だがすぐに表情を作り替え、当り障りのない話題、センテニアルのことを持ちだした。 「お客さんのそれ、センテニアルの仮装ですか?」  高校生男子がホテルから女装して乗り込んできた理由を、お祭前の仮装に求めてくれたのだ。なるほどそう言う考え方もあるかと感心したヨシヒコは、似たようなものだとぶっきらぼうに答えた。 「だから、こんな格好で夜の街を歩きたくないんだ」  ヨシヒコの答えに、運転手は「分かります」と大きく頷いた。話している限り普通の男子高校生が、女装して夜の街を歩きたいと思うはずがない。常識的な考えをした運転手は、災難でしたねと言って同情したような声を掛けてきた。そう言われると、本当に災難だったと思えるから不思議だ。 「ああ、とびっきりの災難だった……」  そう答えて窓の外に視線を向けると、ライトアップされた領主府が目に飛び込んできた。センテニアルを前にした照明のリニューアルも、どうやら完成を見たようだ。  そんなことを考えているうちに、タクシーは丘を下って一般住居のエリアに進入した。丘の上は爵位持ちが住むため、庶民はその下のエリアに追いやられている。ヨシヒコの家は、その中では一番条件のいい場所となっていた。ここが領主府のおひざ元だと考えると、高級住宅地とされる地域でもある。 「はい、到着いたしました。本日は、ご利用いただき有り難うございます」  先に降りた運転手は、ヨシヒコが開く前にドアを開けてくれた。この辺りのサービスが、無人タクシーとの違いとなっていた。ただそのかわり、サービス料としてチップが必要となる。  IDを操作してチップを渡し、運転手に礼を言ってからヨシヒコは玄関を開けて家の中へと入った。そして戸締まりをしたところで、安堵から大きな息を吐くことになった。なんのかんの言って、今日一日は波乱の一日となっていたのだ。 「まず風呂に入って着替えないとな」  なにはなくとも、この落ち着かない格好を解消する必要がある。持っていた荷物を置いたヨシヒコは、そのまま浴室へと入っていった。  かなり広めの循環式の浴槽に浸かったところで、ヨシヒコは大きく息を吐きだした。学校近くのコミューター乗り場で出会ってからと言うもの、ずっとアズライトに振り回され続けたのだ。しかも黄金町に行って、VXまで一緒に体験してしまった。10分と言う時間が終わった時には、ヨシヒコは本気でセラムのことを忘れていたぐらいだ。今でも、気を抜くとアズライトのことを考えてしまう。 「セラフィムさんとあんなことまでしたんだ……」  柔らかくて熱くて、とても不思議な感じがしていた。そしてキスまでして求め合ってしまった。それを思い出し、お湯とは違う熱が、ヨシヒコの体を支配しようとしていた。 「駄目だ駄目だ、俺にはセラムと言う恋人がいるんだ」  慌てて首を振ったヨシヒコは、アズライトの首をセラムにすげ替えた。だがそれをした途端、なぜか体から熱が引いていってしまった。  その方が好ましいはずなのに、何故かとても残念な気持ちになってしまった。理不尽な思いを感じながら、ヨシヒコは浴槽から出た。後は自動化した機械に任せれば、5分で体から頭まで綺麗にしてくれる。 「次は、セラムとペアシートに入ろう」  そうすれば、今日のように我慢する必要はない。どうせ責任を取るつもりなのだから、お互い遠慮をする必要もないはずだ。もっと強烈な体験で塗り替えないと、いつまでもアズライトのことを引きずってしまいそうだった。  自分の中に折り合いをつけたヨシヒコは、ジャージに着替えて自分の部屋に戻った。風呂に入って緊張が解けたこともあり、酷い疲労感に襲われていた。 「だめだ、今日は早く寝よう。それに、明日もセラフィムさんとの観光があるからな」  システムに接続するのをやめようかと思ったが、株取引の期限が来ていることを思い出した。期限をすっぽかしても大した影響はないが、習慣にしていたことを辞めるのも癪に障る。操作画面を呼び出したヨシヒコは、取引状況のチャートを表示させた。 「やっぱり、軍関係の値段が上がってるな。どうやら、ザイゲルの奴らは本気のようだな」  そうなると、帝国側も遅れて値が上がるはずだ。過去の事例を思い出したヨシヒコは、資産の一部を燃料関係に投資した。普段から堅調な投資先ではあるが、利幅が薄いことでも知られている投資先である。 「そろそろ、地球の宇宙軍関係は売りに出すか」  大規模戦力の集中により、軍関係銘柄は上昇を続けていた。ただ一度衝突が起こると、逆に値下りすると言う厄介な銘柄でもある。十分に利益を確保したこともあり、そろそろ売りどころだと判断したのである。  その他にもアミューズメント関係の株を少し動かしたところで、今日の取引を終えることにした。そこで丸海老の株価を気にしたのは、午後の出来事が気になったのだろう。 「さて、寝るか……あれっ、マリアナから連絡が入っているな」  マリアナからの連絡に、ヨシヒコは思わず首を傾げてしまった。色々と忙しくて、こちらにかまっている暇はないはずなのだ。 「やっぱり、御前試合でいいところを見せたいという連絡かな?」  だとしたら期待に沿うことは出来ない。そう考えながらメッセージを開いたヨシヒコは、連絡の内容に厄介なことが起きているのだと理解することが出来た。本当なら8日後に来るはずの皇女殿下が、お忍びで日本に入っているというのだ。しかも領主府に顔を出さず、町中を遊び歩いているらしい。 「マリアナの奴、皇女殿下の世話係まで仰せつかっていたのか」  ミツルギ家が狂喜乱舞しているのが目に浮かぶようだ。なるほどセラムから連絡が入らないはずだと、今日一日静かだった理由が理解できた。 「それで、俺にも手伝えと言うのか。俺に頼ると言うことは、皇女殿下ってのは相当厄介な相手だな。ああ、これまでの所業のデーターも付いているな」  どれどれとデーターに目を通したヨシヒコは、10件ほど読んだところで大きなため息を吐いてしまった。 「やっていることは子供のお遊びなんだが……継承権第三位の皇女殿下ともなると、子供のお遊びとは言っていられないだろう。これまで振り回された奴に同情するぞ、俺でも」  これを見せられれば、自分を頼ってきた理由も理解できる。神出鬼没ともなると、まっとうな方法で身柄を確保できるとは思えない。世話係にも、知恵比べをするだけの技量が求められてしまう。 「宇宙を飛び回る天災か。そう言いたくなる気持ちも理解できるな……」  無邪気な振る舞いの結果、巻き込まれた方の被害は目を覆いたくなるものだった。自殺者まで出ているとなると、皇族のお遊びとも言っていられない。腹を据えて掛からなければと椅子に座り直し、ヨシヒコは第二皇女アズライトの分析に掛かった。  だが分析を始めたところで、ヨシヒコは妙な既視感を覚えてしまった。カツヤ曰く清楚な美少女に見覚えがないはずなのに、どこかで会った気になってしまったのだ。しかも記録にある行動パターンが、妙に誰かに似ている気がしてならなかった。  それが何かと気にはなったが、疑問の解消を棚上げし、天災皇女の分析を続けることにした。 「妙だな。天然と言うより、わざと振り回しているようなところがあるな。それに帝星にいる時とか、宇宙船で移動している時には大人しくしているようだ。そうなると、この天災ぶりにも何か理由があることになるな」  おかしいなと被害者を調べてみたら、1つの共通点があることにヨシヒコは気がついた。何れの場合も、天災皇女を止めるために強行手段に出ていたのだ。強行手段に出た結果、今までにない強烈な反撃を食らったのが死に繋がっていたようだ。 「それ以外は、見た目ほどは被害が出ていないな。まあ、金額的には馬鹿にならないのは分かるが……」  限度を弁えていると言うのは、天災に似つかわしくないことに違いない。宇宙最悪の性悪と書かれていたコメントに、ヨシヒコは分析自体に疑問を感じた。 「それで、今度はセンテニアルで地球に来たというわけか。しかも、公式日程を10日前倒しをして、民間船を乗り継いで遠路やってきたのか」  楽しむためには労を惜しまない。そう考えることもできるが、それにしても限度を超えているとヨシヒコは受け止めた。仮にも皇女ともなれば、普段の生活で苦労することはないはずだ。極端なことを言えば、スプーンの上げ下げをする必要もないぐらいだ。その皇女が民間の宇宙船を乗り継いでくると言うのは、にわかには信じがたい話でもある。  ただそれが事実だと受け止めると、また違った顔も見えてくるのだ。 「やはり、なにか大きな目的があると考える方が自然だろう。面白いことが好きとか、退屈が嫌いとか言う性格があるにしても、実行に移すのはまた別のはずだ。現に、他の皇子や皇女はこんな真似をしていない」  他にも評判のよろしくない皇子や皇女もいるが、第二皇女ほど悪名を馳せていないのだ。そうなると、第二皇女の行動にもなにか理由があると考える方が自然だろう。そして動機にしても、必ずしも本人が理由とは限らないように思えた。 「その仮説を立証するためには、今の皇帝の人となりを確認する必要があるな」  そう結論づけたヨシヒコは、最後の報告ページを表示させた。そして潜入に使用された名前を見た瞬間、ヨシヒコは目の前が真っ暗になるのを自覚した。ヨシヒコの開いたページには、つい先程まで一緒に居た少女の名前が記載されていたのだ。皇女の振る舞いに既視感を覚えたのも、それを考えれば当たり前のことだったのだ。  帝国第二皇女の捜索は、予想通り遅々として進まなかった。万にも及ぶ人員を投入したにも関わらず、それらしい情報の一つも上がってこなかったのだ。 「ネイサン、何かましな情報は出てきたか?」  すべての情報は、惑星管理システムへと集約されている。システムの個人専用アバター、ネイサンにジェノダイトはこれまでの進展を確認した。すでに時間は、夜の9時を過ぎている。予想通りなら、そろそろ居場所が掴めても良さそうな頃合いだった。  スーツ姿のジェノダイトに合わせるように、ネイサンはピンクのワンピース姿で現れた。執務机に乗った手のひらサイズのネイサンは、システムにしては珍しく言葉を濁らせた。 「それらしい痕跡は見つけたのですが……」  はっきりとしない物言いに、ジェノダイトははっきりと眉を顰めた。システムが口ごもった時には、間違いなく面倒な状況になっていたのだ。 「厄介な状況と言うことか?」  それを口にしたジェノダイトに、「いえ」とネイサンは言いにくそうに否定した。 「厄介なことをしでかしてくれた。そう言うのが正解かと思われます。ジェノダイト様も視察されたことのある黄金町ですが、その施設を利用したと言う情報が今頃になって上がってきました」  ネイサンの報告に、ジェノダイトは慌てて立ち上がった。椅子を倒したところを見ると、かなり気も動転していると言う所だろう。 「確認しておくが、お一人で利用されたのだろうな?」  お一人様でも利用することができる施設なのだから、当然一人で利用したとジェノダイトは考えた。正確には、そうあってほしいと願っていた。 「それが、男性とペアシートに入ったと言う記録があります。よりにもよって、セラフィム・メルキュールと言う偽名を使われています」 「ネイサンっ!」  異性とペアシートに入った。その報告を聞いた瞬間、ジェノダイトは鋭い声を上げた。 「今の情報は、直ちにシステム管理エリアからも削除しろ! 間違っても、リルケの帝国システムに吸い上げられるのではないぞ!」  こんなことが皇帝にばれようものなら、全帝国レベルの大騒ぎになってしまう。それを恐れたジェノダイトの命令に、ネイサンも適切な答えを返した。 「すでに、私のバックアップエリアにしかデーターは残してありません。これも、必要な報告後削除する予定です。店のデーターからも、アズライト様のデーターは削除してあります」  適切な処置に頷いたジェノダイトは、さらなる情報をネイサンに求めた。 「その後の足取りは掴めているのか? よもや、その手の施設に行かれたのではあるまいな?」  視察をした時には、さらに進んだ行為への誘導もあると説明を受けていた。それを思い出したジェノダイトの顔からは、はっきりと血の気が引いていた。 「いえ、使われていない……と言うのか、正確にはその後の足取りがはっきりしていません。いえ、パシフィックホテルで夕食をとられたのはトレースできたのですが、その後の動きがトレースできていません。当然、黄金町を出てから夕食までの行動もトレースできていません」  最悪の情報に、ジェノダイトは脱力して腰を落とした。だがあるべきところにあるべきものが無かったため、盛大に転ぶと言う醜態を犯してしまった。慌てて立ち上がった時のことは、すっかり頭の中から消え失せていたようだ。  腰を押さえながら立ち上がったジェノダイトは、椅子を引き起こして改めて座りなおした。腰を打ったのが理由なのか、顔色はさらに悪くなっていた。 「ちなみに聞くが、夕食はお一人でとられていたのか?」  ここで一人ならば、黄金町を出たところでお別れしてくれたことになる。それを期待したジェノダイトに、ネイサンはある意味死刑宣告をしてくれた。 「いえ、男性とご一緒されたようです。黄金町と支払い者が同じなので、ずっと一緒に行動された可能性が高くなっています。黄金町の映像はありませんが、ホテルの方なら映像が入手できます。相手の男性をご覧になりますか?」 「そうだな、こうなったら見ておくべきだろう」  急に老け込んだジェノダイトに、ネイサンは同行者の映像を見せた。だがその映像もまた、ジェノダイトの心臓に悪い物になっていた。 「……男性じゃなかったのか?」  そこには、どう見ても可愛らしい女の子の姿が映っていたのだ。着ている服も、女性物であるのは間違いない。少しはっきりとしていないところはあるが、スカートを穿いているように見えたのだ。 「いえ、間違いなく男性です。ヨシヒコ・マツモト。港総合高校の2年に在学しています」  ジェノダイトの疑問に答えるように、ネイサンは制服姿のヨシヒコの顔写真を表示した。確かにその写真では、男子の制服を着用していた。 「なるほど、一応男と言うことか。それで、この少年の家族構成はどうなっている?」  いきずりだろうとなんだろうと、帝国第二皇女といかがわしいことをしてくれたのだ。この先どのような措置をとるにしても、相手の素性が重要になってくる。それを確認したジェノダイトに、それはこちらとネイサンは身上調書を表示した。 「両親は健在。現在、トランス・ギャラクシー観光に出ている……凄いな。よく一般庶民が行けたものだ」  両親の部分に書かれていた現状に、ジェノダイトは目を丸くして驚いた。トランス・ギャラクシー観光は、費用が非常識なほど高額と言うのに合わせ、個別にとる渡航許可取得の困難さでも有名になっていたものだった。各種制限を受けているテラノからでは、とてもではないが参加できないと言われていた代物だった。  そしてそこまで口にした所で、ジェノダイトは「ああ」と大きく頷いた。 「宝くじと渡航許可の抽選を同時に引き当てたと言うあれか。銀河レベルの幸運と評判になった奴だったな」  地球の領主をしているのだから、そのことへの報告を受けていたのだ。どちらも当選者が居る物なのだから、誰かが当たるのはおかしなことではないだろう。だが両方同時に引き当てるのは、常識的にあり得ない確率になっていた。 「それで、姉の方は宇宙軍に所属しているのか。一般庶民の女性が、22で准尉になると言うのはかなり早い昇進だな。それだけ優秀だと考えればいいと言うことか」  領主の仕事の一つに、軍の統帥権と言うものもある。昇進決定に直接関与していないが、ジェノダイトも報告だけは受けていたのを思い出した。 「この女性の報告も見たことがあるな。ブドワイズ大将の推薦が出るほどの逸材と言う話だったか」  家族のプロフィールを見る限りにおいて、特に家庭的に問題があるようには思えない。むしろ、一般庶民としては優れた家庭と言って良いものだろう。なるほどと感心したジェノダイトは、ヨシヒコ本人の記載に目を転じた。そしてそこに書かれていた評価に、ほっと安堵の息を漏らした。 「素行に問題は見られないと言うことか。成績の方は……極めて優秀と言うことだな。別に、女装癖があるようには記載されていないな」 「どうやら、女装させられていると言うのが実態のようです。クラスの催しで、何度か女装させられていると言う情報があります。両親に似ず、とことんくじ運が無いようですね」  こちらにと提示された写真を見ると、確かに女装したものが何枚も存在していた。やけに似合っているのは気になったが、それは個人差だと思えば問題はない。他にも女装した男子がいるのだから、目くじらを立てるようなものでないのは確かだった。 「つまり、ホテルに女装して現れたのは、アズライト様がいじられた可能性があると言うことだな」  所見に書かれていた性格とアズライトの性格、両者を突き合わせたジェノダイトは、正しい推察へと到達していた。 「所見を確認する限り、どうやらそう考えるのが妥当かと思われます。それよりもジェノダイト様、本人の資産を確認されましたか?」 「高校生の資産を確認する必要があるのか?」  どれと資産の項目を目で追ったジェノダイトは、すぐにその意味を理解することができなかった。 「これは、単位を間違えているのではないか?」  数えてみたら、数字の所に0が8個も並んでいた。だからジェノダイトは、旧円を単位にしたのかと考えることにした。それにした所で十分多額な資産だが、100分の1になるだけましに思えたのだ。 「いえ、単位は間違っていません。どうやら、株式の個人運用で資産を形成したようです。個人納税者の上位にランクされています」  その情報に、ジェノダイトは少しだけ考えてから「ああ」と頷いた。昨年の高額個人納税者のリストも、ジェノダイトは目を通していたのだ。そこに高校1年の名があったことに驚いたのをジェノダイトは覚えていた。  結局、4人家族の内3人までをジェノダイトは知っていたことになる。そのことだけでも、十分に普通でない家族と言えるだろう。本当は母親のことも知っているのだが、大きなインパクトの前にどうでもいいことになっていた。 「この少年のことは分かった。思想信条的に問題が無いのは安心材料だろう。それで、この少年の行動はトレースできているのか?」 「はい、すでに自宅に戻っているようです。街頭の監視カメラの映像を確認する限り、自宅には一人で帰ったようです」  アズライトが付いてきていないことに、ジェノダイトはほっと安堵の息を漏らした。どうやら、天災皇女も限度を弁えてくれていたらしい。自宅にお持ち帰りでもされていたら、証拠隠滅は困難を極めたことだろう。  そう考えたところで、ジェノダイトは少年を利用できないかと考えた。黄金町に一緒に行き、夕食まで共にしているのだ。それを考えると、それなりに皇女から気に入られたと推測することもできる。領主府に縛り付けることはできなくても、居場所が把握できれば問題はずっと軽くなってくれる。世話人にでもしてやれば、天災皇女の行動に制限を付けられる可能性もある。 「ネイサン、この少年にコンタクトできないか?」 「可能ですが、どうなされるおつもりですか?」  意図は推測できるが、それが確かだと言う保証はどこにもない。アシスタントとして必要な確認をしたネイサンに、ジェノダイトはにやりと口元を歪めた。 「なに、活用方法を考えたまでのことだ。固く口止めをするより、積極的に利用した方がましだと気付いたと言う所もある。今から迎えを差し向け、ここに連れてくるよう手配をしてくれ」  すでに夜も10時になろうとしていたが、事の重大性の前には大きな問題ではない。 「ヨシヒコ・マツモトとコンタクトが取れました。すぐにでも家を出られると言うことです」 「ならば、近くにいる者をすぐに派遣しろ」  鬼が出るか蛇が出るか、これも一つの賭けだとジェノダイトは覚悟した。それでも一つだけ分かっていたのは、マリアナ程度では毒にもならないと言うことだ。かつてない天災の襲来に、ジェノダイトも覚悟を決めたのである。  事が事だけに、呼び出しは秘密裏に行う必要がある。帝星リルケに知られるのも問題だが、呼び出したことを第二皇女に知られるわけにもいかなかったのだ。それもあって、ジェノダイトは面会場所に領主府裏口に近い会議室を選んだ。そして迎えに行かせる者にも、呼び出すこと以上の情報は与えなかった。  そこに移動して5分、自動サーバーからコーヒーを受け取った時、入口のドアをノックする音が聞こえてきた。普通ならば入出を許可するだけなのだが、場所が場所だけにジェノダイトは自分でドアを開けに行った。そしてドアの所に居た、背の低い、顔色をはっきり悪くした少女のような少年を迎え入れた。 「ヨシヒコ・マツモト君だね。夜分呼び出したことにお詫びを言う。テラノ、こちらで言う地球領主府総領主のジェノダイトだ。固い挨拶は抜きにして、ひとまず中にはいってくれないか」  領主御自らの出迎えに、ヨシヒコの顔色は土気色に変わっていた。自分がしでかしたこと、そして総領主自ら呼び出したことで、なおさらことの重大さを理解したのである。表沙汰にすることの出来ない不祥事として、自分はこれから闇に葬られることになるのだと。  ジェノダイトに遅れて会議室に入ったヨシヒコは、扉を閉めたところで「お願いがあります」と床に両手を突いた。 「家族や友人達には何の罪もありません。俺はどうなっても構いませんから、お願いです命だけは助けてください」  どちらが誘ったのかなど、起きてしまったことの前にはどうでもいいことだった。ましてや相手が身分を偽っていたと言うのも、現実の前には何の意味も持っていない。今のヨシヒコに出来るのは、自分以外に類が及ばないようにお願いすることだけだった。  そんなヨシヒコの行動を前に、ジェノダイトはアズライトに対して腹立たしさを感じていた。皇女のお騒がせな行いのせいで、こうして有望な若者が前途を諦めようとしている。そのつもりで呼び出したわけではないが、ヨシヒコの感じ方の方が常識的だとジェノダイトも認めていた。 「いきなり君の人生を奪うような真似はしない。そして君のしたことは、出来ることなら帝星リルケに伝えたくはない。それは君のためでもあり、この星テラノのためでもある。強いては、全帝国のためにもなることなのだよ。だから君は、私の質問に正直に答えてくれないか」  いいかねと確認され、ヨシヒコは頭を上げて小さく頷いた。 「では、こちらに来て座ってくれないか。飲み物は、好きなものをオーダーしてくれればいい」 「いえ、今は何も喉を通らないと思いますから」  固い表情なのは、ことの重大さを理解しているからに他ならない。それも仕方がないと同情したジェノダイトは、黄金町の出来事をヨシヒコに確認した。 「君が第二皇女アズライト様と黄金町に行ったことは把握している。そもそもなぜアズライト様と黄金町に行くことになったのか。そして、それからホテルで夕食を済ませるまでの間、アズライト様と何があったのかを話してくれたまえ」  行く先々で自分のIDを使っていた以上、自分の行動が把握されていても不思議ではない。観念したヨシヒコは、包み隠さず半日の出来事をジェノダイトに打ち明けた。 「俺、僕、私には恋人が居ます。センテニアルの休暇で、一緒に黄金町に行こうと言う約束をしていました。ただ、お、私は一度も黄金町に行ったことが無いので、事前にどいうところか見ておこうと思ったんです。皇女殿下とは、自宅近くのコミューター乗り場で出会いました。ただ同じコミューターに乗り合わせた。その時の関係はその程度のものでした」  そこで一息を吐いたヨシヒコは、ジェノダイトに説明を続けた。 「黄金町でコミューターを降りた時、皇女殿下が付いて来ているのに気づいていました。男一人で来ているのが恥ずかしくて、早くどこかに行ってくれないかとその時は思っていました。そして同時に、どうして自分はこんな所に一人でいるのかと疑問に感じ、やっぱり止めようと考えるようになりました。皇女殿下に「一人?」と声を掛けられたのは、本気で帰ろうとした時のことです。そして答える間もなく、皇女殿下に丸海老に引きずり込まれました。そこから先は、すべて皇女殿下のペースで進んでしまいました」 「あの方なら、大いに有り得ることだな」  心からのジェノダイトの声に、「はい」とヨシヒコは同意した。 「私の分析でも、そうなさるだろうと言う答えが出ています。話を先に進めますが、丸海老では皇女殿下がペアシートを選ばれました。そして何も隠さない、センサーだけの衣装を選ばれました」 「アズライト様は、君に全裸を晒したと言うことか」  ううむと唸ったジェノダイトに、ヨシヒコはゴクリと生唾を飲み込んだ。よりにもよって、一般庶民の自分が皇女殿下の全裸を見てしまったのだ。それだけで万死に値すると言われても、反論など出来ないと思ったほどだ。しかも自分は、それ以上のことを皇女殿下にしていた。 「はい、初めは恥ずかしくて裸を見ることが出来なかったのですが……それは失礼だと言われ、しっかりと裸を見させていただきました。そして、二人でペアシートに座り、VXを体験しました」 「それで、アズライト様とVXを体験した感想はどうだったのだね。嘘偽りのない正直な気持ちを答えてくれたまえ」  この期に及んで隠し事などすることは出来ない。覚悟を決めたヨシヒコは、正直にジェノダイトの質問に答えた。 「はい、とても気持ちが良かったというのか。皇女殿下が何度も達したことに、征服感を覚えたのは確かです。最後は、二人で同時にいったのを覚えています。VXが終わった時には、俺は恋人のことを忘れていました」  システムの性格を考えれば、ヨシヒコの感想も理解することができる。それに猫を被っていてくれれば、アズライトはとても可愛らしい少女なのだ。 「それで、VXの体験が終わった後はどうしたのかね?」  ここまでならば、裸を見せた以上の問題は起きていない。皇女が達したと言われても、あくまでVXの機能でしか無いのだ。恋人のことを忘れたというのも、あくまでヨシヒコの事情でしか無い。だが問題は、この手の施設の手厚いアフターサービスだった。 「はい、VXが終わったところで、皇女殿下に手を貸して立ち上がらせました。それでも立っていられないと、私が抱きかかえて女子更衣室まで連れて行きました。その際、胸とか……その、あそことかを触れてしまいました。更衣室の中でも、キスをして胸や下の方を愛撫した記憶があります」 「挿入行為はしていないだろうね。もしもしていたら、君のことを庇うことができなくなる」  厳しい表情をしたジェノダイトに、ヨシヒコは顔を青くして首を力いっぱい振った。 「そ、その、指を少し入れただけです。時間制限もありましたから、制限時間内に更衣室を出ました」  ヨシヒコの言葉が正しければ、未遂で済んだと言うことになる。この際指が入ったというのは、傷物になっていなければ白を切り通すことが出来る。 「傷物にはしてないだろうね。血でも出ていたら、私は君を処刑しなくてはいけなくなる」 「い、いえ、指は濡れていましたが、血はついていませんでした」  とりあえず、懸念の一つは解消されたことになる。小さく安堵の息を漏らしたジェノダイトは、その後のことを確認した。 「更衣室で着替えてからの行動は?」 「その後は、何も疚しいことはしていません」  それだけは自信を持って言うことが出来る。力強く答えたヨシヒコを、ジェノダイトはじろりと睨みつけた。 「本当かね? 君が女装していたことは掴んでいるのだよ」  事実を突き付けられたヨシヒコは、それはと少しだけ口ごもった。 「皇女殿下は、帝国第35大学の学生と身分を偽られていました。そして大学では、民俗学を専攻されていると仰りました。ですから地球の文化を見て貰おうと、センテニアルでにぎわうヨコハマの街を案内いたしました。その時高校の友人も誘ったのですが……私の女装は、友人が悪乗りし皇女殿下がそれに乗ったのが理由です。男女比が悪いと言われ、皇女殿下にブティックに連れ込まれました」  アズライトならやりかねない。むしろ考えた通りの行動に、ジェノダイトは説明を続けさせることにした。 「確かにアズライト様ならやりかねないことだ。それで具体的には、どう言ったところを案内したのだね?」  高校生のグループだと考えれば、危ないことは無いのだろう。それでもジェノダイトには、確認をしておく必要があった。 「山手の商店街を歩いてから、場所を野毛に変えました。そこで大道芸を見てから、さらに領主府の足元山下公園に来ています。その後友人と別れて、皇女殿下とパシフィックホテルに行き、最上階のレストランで夕食をとりました。食事後は、私が確保したホテルの部屋に皇女殿下を案内し、明日の約束をして別れました」 「明日も、アズライト様に会う予定だったと言うのだね」  顔にこそ出さなかったが、ヨシヒコの言葉にジェノダイトはかなり驚いていた。最初に飛び切りの厄介ごと、つまりVXと言うものがあったが、その後の行動は全く問題が無いと言うか、逆にありがたいものでもあったのだ。これからセンテニアルまでの間、同じ行動を続けて欲しいと願ったぐらいである。 「はい、明後日からはだめだと答えたら、残念そうな顔をされていました」 「なぜ、明後日からはだめなのかね?」  少し失望を顔に出したジェノダイトに、ヨシヒコはおかしなことになっていることに気が付いた。ただそれを口に出すわけにもいかず、正直に駄目な理由を口にした。 「明後日からの休みは、恋人とデートをすることになっていました。別に構わないと言われたのですが、こちらが構うのでお断りをしたと言うことです」  そうかと小さく答えたジェノダイトは、「ネイサン」と自分のパーソナルアシスタントを呼び出した。 「彼の証言の裏付けはとれたか?」  ジェノダイトの質問に、ネイサンは大きく頷いた。 「およそ90%ほどトレースできました。それから、アズライト様の所在も確認できました。証言通り、パシフィックホテルの4001号室に宿泊されています。室内の電源変動及び機器の操作状況から、在室されているのは確かだと思われます」 「大人しくホテルにいると言うことか!?」  少し驚いた顔をしたジェノダイトに、「いいですか」とヨシヒコは発言を求めた。 「なんだね、言ってみたまえ」  ジェノダイトの許可に、ヨシヒコははいと頷いた。 「二つの理由から、皇女殿下がホテルを抜け出すことを否定できます。その第一が、かなりお疲れではないかと言うことです。VXでかなり疲れたのは確かですし、その後も歩いて観光されています。かなり喜ばれていましたので、気付かないうちに疲労が蓄積していると思います。ですから、次の理由と併せて外出の可能性が否定されます」 「疲労と言うのは、確かに理由にはなるが決定的なものではないな。それで、もう一つの理由と言うのはなんだね?」  先を促され、ヨシヒコはもう一つの決定的な方の理由を口にした。 「皇女殿下の行動原理を考えたら、抜け出す理由が無いと言うことです。先ほどは疲労と言う理由を挙げましたが、室内には一晩過ごすのに必要十分なものが揃っています。ですから、わざわざ外に出て買い物に行く必要がありません。暗くなってからも近辺を案内していますので、知的好奇心も満たされているはずです。そうなると、残る理由は周りを混乱させることなのですが、居場所を掴まれていない、誰もガードをしていないのですから、抜け出すことに意味が生じないのです。ドアを開けて外に出ることには、先ほど申し上げた通り積極的な意味がありません。以上の理由により、明日を考え休息をとられたものと推測できます」  その説明は、ジェノダイトをして納得できるものだった。ただそこで引っかかったことは、アズライトの行動ではなく、その行動原理を目の前の少年が説明したことだった。アズライトの人となりについては、関係者の間では有名だが、一般庶民に知らされていないものとなっていた。安全上の理由もあるが、帝国の恥だと各国で考えられたことも理由である。  その情報のないアズライトの行動を、目の前の少年は正確に分析して見せたのである。最初の理由は誰でも説明できるが、二番目の理由はアズライトを知らなければできないものだった。 「君は、なぜ、アズライト様の考え方を分析できるのだね?」  その意味で、ジェノダイトの疑問は正当なものだった。そしてそれを受け取ったヨシヒコの答えは、世間と言うものはいかに狭く、そして奇妙な偶然に満ちていると言うものだった。 「マリアナ……マリアナ・ホメ・テラノ・ミツルギから皇女殿下の情報を貰いました。その際、自分の手に負えないから手伝ってほしいとの依頼を受けています。それでセラフィム・メルキュールの正体を知ることになりました」  ヨシヒコの答えに、ジェノダイトはようやく一連の行動を理解することができた。当たり前のように受け取った命乞いなのだが、考えてみればとても不自然なことだったのだ。ここに呼び出すまで、ヨシヒコにはアズライトのことは知らされていないはずだった。  ようやくそのことに気付いたジェノダイトは、目の前の少年を利用する決断をした。半日以上行動を共にし、翌日の約束まですると言うのは、これまで例のないことだったのだ。 「事情は理解した。それから言っておくが、本件について私は君を処罰するつもりはない。むしろ、君の協力を仰ぎたいと思っている」  双方の立場を考えれば、ジェノダイトは依頼のつもりでもヨシヒコは命令と受け取っていた。そして話を聞く前から、何を依頼されるのかは分かっていた。 「その依頼と言うのは、皇女殿下の行動を常識の範囲に収めると言うものですか?」  やはり賢いのだなとヨシヒコを見直したジェノダイトは、その通りだと大きく頷いた。 「アズライト様を迎えることは、天災に会うのと同じだと言われている。君も報告書を見たのなら、その意味を理解できるだろう。テラノの総領主として、私は被害を最小限に抑える必要があるのだよ。すでに行方をくらましたアズライト様の捜査に、万を超える捜査員を動員している。だから君には、アズライト様の首に鈴をつけて貰いたい。あらかじめ断っておくが、これは命令ではなくあくまで私の希望だ。したがって、断っても君に不利益が及ぶことが無いのを保証しよう」  天災と言われる皇女の相手、しかも過去の惨状を考えれば、強制できるものではないとジェノダイトは考えていた。ただその考えは、ヨシヒコの立場からは意味の無い気遣いだった。 「総領主様に意見をいたします。私の立場を考えたら、たとえ希望と言われても断ることはできません。ですから、初めからはっきり命令と言っていただいた方がすっきりします」  考えの甘さを指摘され、ジェノダイトは言葉に詰まってしまった。確かに、命令でも希望でも立場を考えれば受け取る側に違いはなかったのだ。 「では、希望を命令と言い換えよう。そして命令を下す以上、君には権限と成果に対する責任を与えることにする。センテニアル終了までの限定となるが、君には私の代行として命令権を与える。これで爵位保有者でも、君の命令に従う義務が生じることになる。そして求める成果だが、センテニアルを成功させることにある。もう少し正確に言うのなら、センテニアルの式典を無事終了させることだ」  命令としては明快だとジェノダイトは考えたのだが、目の前の少年は困惑の表情を浮かべていた。アズライトを知る者なら、その困難さに怯んだと考えることができるだろう。だが目の前の少年の態度は、むしろ命令に対して疑問を感じている物だった。 「なにか、命令に対して疑問があるのかね?」  その質問に対して、ヨシヒコは大きく頷き肯定した。 「センテニアルの成功と言うのは確かに重要なことだと思っています。ただ、皇女殿下も、失敗させようと考えているとは思えません。過去の事例も分析しましたが、いずれも式典自体は問題なく行われています。失敗させることを意図しているのなら、いくらでもやりようがあったのにです。そして事前の混乱にしても、あくまで皇女殿下周りのことだけです」 「過去はそうでも、これからもそうであると言う保証は無いと思うのだがな?」  それぐらいのことは考えている。その意味で言い返したジェノダイトに、ヨシヒコはもう一度疑問を呈した。 「本気で騒ぎを起こすことを考えられたら、私でも阻止することは不可能です。簡単な方法として、ご挨拶ででたらめを言う方法もあるのです。香港から来るときのように、貴賓席から飛び出されるのでも良いでしょう。ですが、これまで皇女殿下は式典に於いてそのような行動をとられていません。されているのは、皇女殿下でなければ子供の遊びとされる程度のことです」 「繰り返すが、これからもないことへの保証ではないだろう」  同じ指摘を繰り返したジェノダイトに、ヨシヒコは別の観点から疑問を返した。 「では、今までの式典で騒がなかったのはなぜでしょう。そして地球の式典で騒ぎを起こす理由はどこにあるのでしょう。式典を壊すことで、皇女殿下はどんな満足を得ようとするのでしょうか。これまでなされているのは、縛り付けようとする者達をおちょくることと、ご自身の好奇心を満足させることだけです。式典に対しては、むしろ真面目に臨まれているのではないでしょうか。VXを体験されたのも、好奇心を満足するためと言うのは間違いありません。後は、ばれた時の混乱を期待したのだと思われます。ただ皇女と言う身分が、VXの体験を大きな問題としただけのことです」 「つまり、君はアズライト様を放置しても式典に差し障りは出ないと言うのかね?」  式典自体に協力的と言われれば、何もしなくてもいいと言う話につながってくる。それを質したジェノダイトに対して、それも違うとヨシヒコは否定した。 「御身の安全を考えた場合、放置するわけにはいかないと言うのは理解できます。継承権第三位を持つ皇女殿下が、安全に対する対策もなく町を出歩くのは大きな問題であるのは間違いありません。ザイゲルがおかしな動きをしていることを考えれば、なおさら安全策なしに街を歩き回るのは好ましくないと思われます。ただ、それを理解しつつも、分析をしていていくつか疑問を感じてしまいました。その一つが、皇女殿下の行動自体、誰かの意志を受けてのものではないかと言うものです。帝星リルケから地球に来る間、そして昨日の行動にしても、皇女殿下は問題となる行動をなされていません。実際、民間船を乗り継いで地球まで来る間にトラブルを起こされていないかと思います。すなわち周りの事情を理解し、必要な行動をとれるお方だと言うことを意味しているかと思います」  ヨシヒコの指摘は、ジェノダイトがこれまで考えてもいなかったことだった。アズライトを選ぶこと自体を意志とすれば、それは間違いなく皇帝の意志と言うことができるだろう。だがそのアズライトの行動自体が皇帝の意志に従ったものとまでは考えていなかったのだ。皇帝のしたことは、素材を目的に応じてあてはめることだけだと思っていた。それに驚いたこともあり、もう一つの重要なことには気付いていなかった。 「君は、これが皇帝聖下のご意志だと言うのかね?」 「皇女殿下は、ご自身に望まれた役割を忠実に果たそうと考えたのだと思います。そして聖下は、皇女殿下を派遣することで、混乱が起きることを予告されたと言うことです。つまり、混乱が起こること自体、聖下の意図するものと言うことになります。そして混乱の程度は、皇女殿下が聖下のご意志を受けていると想像できます。ただ、聖下が何を意図して混乱を望むのかまでは分析できていません。分析するには、混乱の起きていない事例との比較が必要になります」  何らかの意図と言う所に、ジェノダイトは自分への嫌がらせを最初に思い浮かべた。皇帝、皇妃双方を知っている、正確に言うのなら大学の学友である自分への嫌がらせである。だがヨシヒコの言葉を聞いているうちに、もっと理由があるのではないかと考えるようになっていた。 「君の指摘は、確かに興味深いな」  ヨシヒコを評価したジェノダイトは、命令の方向を少し軌道修正することにした。 「センテニアルを成功させることが第一だが、それにもう少し条件を加えよう。可能な限り、アズライト様の行動をコントロールしてくれ。そして可能であれば、その行動の意図を探ってほしい」 「完封した方が宜しいですか? それとも、多少手心を加えた方が宜しいでしょうか?」  完封ができるのなら凄いことだが、そこまではジェノダイトも期待していなかった。何しろアズライトには、とっておきの方法が残されていたのである。皇族だけが使える“魔法”は、身柄拘束を不可能にしていた。 「希望としては完封なのだが、そのあたりは君の気が済むところまでやってもらって良い。あらかじめ釘を刺しておくが、アズライト様のお体に傷をつけることはまかりならん。それから、何かに縛り付けておくことは不可能だと教えておこう」 「傷をつけるなと言うのはいまさらですが、縛り付けられないと言うのはどういうことでしょうか?」  一緒に行動した範囲で、皇族と言っても普通の人にしか見えなかったのだ。手を触れられて抱きしめられる相手が、拘束不能と言われても信じられない。  その認識から質問したヨシヒコに、ジェノダイトはアズライトのとっておきを説明することにした。 「皇族だけが利用できる技術だが、個人レベルの物質変換機能と言うものがある。それは生体にも適用することができ、まるで幽霊のように物質を透過することができるのだ。日本に到着する際、乗り物から抜け出されたのもその技術か使われている。この状態になると、誰もアズライト様を捕まえることはできないのだよ」 「便利な道具があると言うことですね」  重要な情報として、ヨシヒコはジェノダイトの情報を頭の中に分析要素として追加した。ただジェノダイトは絶対に無理と言ったが、攻略は可能だとヨシヒコは考えていた。どんな強力なアイテムも、使えなくしてしまえば役に立ってくれない。 「必要な指示はこれで終わりだ。明日に備えて、今日はゆっくり休んでくれたまえ」  時計を見たら、すでに12時を回っていた。皇女殿下と黄金町に行ったのが10時間前と考えると、なんと密度の高い半日なのだろう。しかも明日は、皇女殿下の案内までしなくてはならない。正体が分かる前とでは、同じことをするにしても、感じる重圧は桁違いなものになっていた。全権委任された役目もまた、一般市民には重すぎるものだった。 Chapter 4  帝国分類でA種とされるアーマー種は、体全体が浅黒く、固い皮膚が覆っていると言う特徴を持っていた。全体的なシルエットは二足歩行を行うことと2本の腕を持つことで、比較的H種に似通っていた。ただ遺伝子的にはH種と交配の可能性は無いことが証明されていた。  厳つい見た目そのままに、性格的には粗暴なところがあるとされていた。そして何より、H種に対して強い敵愾心を持っていた。そのあたりは、過去併合された時のいきさつが影響しているのだろう。ちなみに帝国全体の30%を占め、種として最大派閥を形成していた。  彼らの帝国への反発は根強く、隙あらば帝国を滅ぼそうといつも考えていた。事実500年ほど前には、ザイゲルと呼称される連合体が大艦隊を率いて正面から帝国に挑んだぐらいだ。そこで完膚なきまでに叩きのめされたため、彼らは方針を転換し、直接的な蜂起を棚上げすることにした。  方針こそ転換したが、彼らの帝国に対する敵意はさらに研ぎ澄まされたものになっていた。面従腹背とばかりに、帝国を崩壊させる方策を日頃練っていたのである。  その意味で、新たに発見された惑星は、彼らにとって絶好の獲物となるはずだった。宇宙に出るほど文明は発達しておらず、しかも住んでいる住民が皇帝と同じくH種だったのである。それまで9しか存在しないH種の住まう星系は、帝国にとって貴重な存在となっていた。そして同時に、ザイゲルにとっても重要な意味を持っていた。その星系の破壊は、彼らの破壊欲求を大いに満たしてくれるのだ。しかも帝国に対して効果的な打撃となるのだから、二重の意味でありがたい存在だった。  今ではテラノと呼ばれる星系への攻撃だったが、一足違いで帝国の後手を踏んでしまった。これまでの例を倣うのであれば、観察対象であり直接の干渉を行わないはずの星である。だがこれまでの慣例を破棄し、帝国は直接テラノに干渉を行ったのだ。その結果、ザイゲルは一時的にテラノを破壊する機会を失ってしまった。それでも帝星リルケから遠いことを利用し、ザイゲルは虎視眈々とテラノを狙い続けていた。 「テラノに第二皇女が派遣されると言うのはまことか!」  ザイゲル連合主星惑星グリゴンは、テラノからおよそ2百光年離れたところに位置していた。ドワーブ・アム・グリゴン・ガガロヅグは、一等侯爵としてグリゴンを治めている領主である。帝国から任命された侯爵のくせに、ドワーブは、バリバリの反帝国主義者だった。  そのドワーブの下に、テラノのセンテニアルの話が伝えられたのは6カ月ほど前のことだった。そしてセンテニアルの3カ月前に、第二皇女アズライトが派遣される噂が伝えられた。それをドワーブは、恨みを晴らす好機だと捉えたのである。H種への敵意に加え、ドワーブにはアズライトに散々虚仮にされた過去があった。  ドワーブの問いに、報告をした側近はそれが確かな情報であることを繰り返した。 「ジェノダイトには隠されているようですが、帝星ではテラノに対する同情の声が出ております」 「確かに、あの小娘が派遣されるのは同情すべきことだろう」  少し口元を歪めたドワーブは、「ただな」と言ってさらに言葉を続けた。 「小娘を満足させて返すだけでは面白くないだろう。儂は、そろそろ小娘も痛い目に遭う時だと考えておる」 「御意。第二皇女は、我が星でも散々暴虐の限りを尽くしていきました。お灸をすえるべきとのお考えに深く賛同いたします」  側近の答えに満足げに頷いたドワーブは、だからだと言ってはっきりと口元を歪めた。 「皇帝には5人も子供がおるのだ。ここで1人ぐらい欠けても、帝位の継承に支障は出まい。因果応報と言う言葉の意味を、そろそろ小娘に教えてやるのもいいだろう」 「第二皇女を亡き者にする……それだけでございましょうか?」  それだけでは不足だと言う側近の不満に、分かっているとドワーブは大きく頷いた。 「その時には、ジェノダイトの奴にも責任を取ってもらおう。それから…そうだな、マルスと言ったか、テラノの開拓している惑星を火の海に変えてやるのもいいだろうな」 「さすがはドワーブ様。では、ガルガンチュア将軍に策を練って貰うことにいたしましょう」  側近の言葉に頷いたドワーブは、さらに指示を付け加えた。 「うむ、できるだけ嫌らしい方法を考えるように申し付けろ」 「御意。そろそろ、溜まった不満を解消する必要がありますからな」  それではと去っていく側近から視線を逸らし、ドワーブは面白いことになると帝国の混乱を夢想した。テラノは新参かつ辺境の惑星と言われているが、皇帝一族にとって重要な惑星であることはあまり知られていない。H種と言うことだけに目が囚われているが、本質的な問題はただのH種ではないと言うことだった。 「アルハザーよ、儂がお前の企みに気付かないとでも思っているのか。テラノがお前にとって希望と言うのなら、儂はその希望を打ち砕いてやるまでだ」  信の厚いジェノダイトを派遣したことで、皇帝のテラノに対する思い入れを推測することができる。そして歴代皇帝が何を考えていたのか、シリウス星系の分析を行えば辿り着くことも可能だった。 「ナークド(裸の皮膚を持つ人の意味)など、標本にして博物館に保存しておけばいいだけのことだ」  テラノへの攻撃が、ザイゲルの宿願を果たす第一段階になってくれる。ドワーブは、皇帝に対するどす黒い思いを滾らせていた。  ジェノダイトの命令を受けたことで、センテニアルの無事が最優先事項になってしまった。その時の障害は、間違いなくアズライトの存在だろう。その対策を考えるため、ヨシヒコは結局徹夜をすることになってしまった。そして対策を決めたヨシヒコは、ジェノダイトと打ち合わせをしてから、朝食をとらずにパシフィックホテルへと向かった。  目的は、朝食に降りてくるアズライトを捕まえること。待ち合わせに指定した時間から逆算し、アズライトの行動開始時間を推測したのだ。ホテルには朝食用のレストランが3つあるが、ビュッフェに降りてくると分析をしていた。  そしてビュッフェの入り口で待つこと10分、目指すアズライトがエレベーターから降りてきた。先に相手を見つけたヨシヒコは、気軽に「おはよう」と言って声を掛けた。 「おはよう……って、これも一応挨拶なんだよね?」  ヨシヒコを前に髪型を気にしたのは、女性としての恥じらいなのだろう。何の準備もなく知り合いに出くわすのは、さすがに気恥ずかしいものだった。 「ああ、日本古来の挨拶だ。ところで、朝食をご一緒させてもらってもいいか?」 「その方が楽しいから別に構わないけど……」  自分のために無理をしたのかな。少し眠そうにしているヨシヒコに、アズライトは嬉しいと言う気持ちを抱いていた。ただそれを口にすることは無く、どうすれば良いのか教えて欲しいとお願いをした。 「こう言ったのも初めてだから。何がどんなものかも、全く分からないのよ」 「そう思ったから、無理をして早起きをしたんだ」  気が効くだろうと自慢しながら、ヨシヒコは近づいてきたボーイにIDを渡し2人であることを告げた。 「昨夜は、よく休めたか?」 「そうね、けっこうぐっすりと眠れたって感じ。結構テラノのホテルも快適なのね」  ボーイに案内されて窓際の席に座った二人は、最初に飲み物のオーダーをした。昨日の一日で嗜好が分かったこともあり、ヨシヒコはアズライトに確認せずにオーダーを通した。 「さて、飲み物を指定した後は、セルフサービスと言うことになる。付いてきてくれれば、一つ一つ料理の説明をしてやるぞ」 「それもいいけど、私の分も見繕って持って来てくれる? どうせ説明を聞いても味は分からないから、ヨシヒコ君を信じて任せることにするわ」  待ってるからとヨシヒコを料理の方に送り出したアズライトは、ステルスモードでアリエルを呼び出した。 「昨日と変化は無いわね。小父様には、昨日のことはばれているはずよね?」 「はい、システムが私たちが移動したエリアを走査しています。ただ黄金町に言った記録は、抹消されたのか残っていませんね。当たり障りのない、観光をした記録しか残っていないようです。ちなみに、このホテルに宿泊したこともばれています」  アリエルの報告に、アズライトはふんと小さく鼻を鳴らした。 「つまり、彼の行動は小父様に把握されていると言うことね。だとしたら、どうして何もしてこないのかしら? 私の身柄確保に動いてもおかしくないと思うけどなぁ」  過去訪問した惑星では、必ず身柄確保と言う無謀な試みがなされていたのだ。保護すべき皇女と言う立場を考えれば、今回も同じでなければおかしいと考えたのだ。 「昨日の行動を分析されたのではないでしょうか。VXを除けば、特に問題となる行動をされていません。安全確保に問題が無ければ、行動をトレースするだけで構わないと考えられた可能性もあります」  小さく頷いたアズライトは、一つの可能性を提示した。 「ヨシヒコ君が、小父様に取り込まれた可能性は?」 「それを肯定する事実も否定する事実も見つかっていません。印象として、大いにあり得ると言うのがお答えになります」  結局は分からないと言う答えに、確かめてみればいいとアズライトは割り切ることにした。自分の身分がばれていたら、できないことはいくつもあったのだ。  そうやって方針を決めたところで、アリエルは「お気をつけ下さい」とアズライトに忠告してきた。 「昨夜も申し上げましたが、あの男に気を許しすぎています。くれぐれも、帝国第二皇女と言うお立場をお忘れないようにしてください。探りを入れることに反対はしませんが、目的を忘れませんようお気をつけ下さい」  身分を隠している今、本来皇女にあるまじきことをするのを目的としているはずだった。それを十分知っているはずのアリエルが忠告したのは、それだけ危険だと考えたからに他ならない。当初の目的と違う方向に状況が進んでいるのは、どう考えても好ましいことではなかったのだ。  そんなアリエルに、アズライトは自覚していると答えた。自分でも、どうかしていると思えるほど昨日はおかしくなっていたのだ。  もう一度大丈夫とアズライトが繰り返したところで、ヨシヒコがボーイを連れて帰ってきた。どうやら、一人では持ちきれなかったようだ。 「二度に分けてもいいのだがな。そうなると、セラフィムさんに退屈させることになる」  お盆の上を見ると、一つの皿に玉子料理と肉料理が綺麗に盛りつけられていた。そしてもう一つの皿には、野菜とフルーツが盛り付けられていた」  相変わらず気が利くと評価したアズライトは、「これは?」と言ってソーセージを指さした。 「それはソーセージと言って、肉を細かくして羊の腸に詰めたものだ。香草でアクセントがついているので、口に合わなければ言ってくれ。そしてその隣が、スクランブルエッグと言う玉子料理だ。味付けされていないので、塩コショウとかケチャップで味付けをすればいい。ケチャップと言うのは、トマトをベースにしたソースのことだ」 「それで、こっちが野菜と果物ってことね」  なるほどと納得し、アズライトはソーセージをフォークで突き刺して口に運んだ。 「うん、なかなか微妙な味ね。感想から言うと、おいしいかなって所かしら」  そう言ってから、次にスクランブルエッグをフォークで掬った。 「こっちは、確かに味が薄いわね。でも、嫌いな味ではないわよ」  そう言って塩の入った小瓶を手に取り、スクランブルエッグの上に振りかけた。 「でも、こっちの方がおいしいわね」  一つ一つコメントとともに料理を口に運びながら、アズライトはヨシヒコのことを観察した。ただ同じように料理に手を伸ばすヨシヒコから、昨夜との変化は見つけられなかった。それならばと、アズライトは最初のちょっかいを掛けることにした。うまい具合に、ヨシヒコの運んできた料理は胃袋に収まってくれた。 「じゃあ、今度は私が料理を取りに行くね」 「それは構わないが、一つだけ注意をしておこう。初心者にありがちなのだが、食べきれないほど皿に盛らないようにな」  ビュッフェにおける基本的な注意をしたヨシヒコに、大丈夫よとアズライトは笑って見せた。 「その時は、ヨシヒコ君に食べて貰うから」 「俺は、あまり食べる方ではないからな。そのあたりに気を使ってくれれば我慢することにする」  行ってくるとテーブルを離れて行ったアズライトを、ヨシヒコは優しい視線で見送った。こうした小さなふるまいも、すでに心理戦の一つだと理解していたのだ。  遠くから見る限りにおいて、むちゃくちゃなことはしていないようだ。そのあたりは、自分の分析通りの行動と言う事ができた。天災と言われる皇女なのだが、迷惑を掛ける相手はちゃんと選んでいるようだ。 「おまたせ。面倒くさいから、二人分まとめて持って来たわよ」  アズライトの言う通り、料理は取り分けられていなかった。つまり、一つのお皿を二人で突くと言うことになる。探りを入れてきたかと、ヨシヒコはアズライトの行動を分析した。 「と言うことなので、あーん」  しかも唐揚げをフォークで突き刺し、食べろとばかりに差し出してくれた。 「自分で食べられるし、そう言うのは普通に恥ずかしいことだぞ。そもそも俺達は、恋人同士ではなかったはずだ」  やんわりと否定したヨシヒコに、だってとアズライトは恥じらう素振りを見せた。 「昨日は、あんな恥ずかしいことをしたのよ。昨晩一人になって思い出したら、恥ずかしくて顔から火が出たわよ。そう言うヨシヒコ君はどうなのかな?」  恥ずかしそうに自分の反応を伺う姿に、ヨシヒコは胸の痛みを感じていた。だがそれを気のせいと振り払い、用意しておいた答えを口にした。 「こっちも同じだ。セラフィムさんの裸が目の前にちらついたし、柔らかな感触も思い出してしまった。おかげで、なかなか寝付かれなくて困ったほどだ」 「だから、眠そうにしているのね」  そう言って唐揚げをヨシヒコの口に押し込んだアズライトは、用意しておいた爆弾を投げつけた。 「だったら、今日も黄金町に行く?」  自分のことを知っていれば、絶対に乗ってこないお誘いである。だがこの程度のことは、ヨシヒコの想定した範囲から外れていなかった。誘惑の中身が過激だった分、対処は冷静にすることが出来た。 「いいのか!?」  身を乗り出したヨシヒコに、アズライトは気を持たせるような言葉を返した。 「どうしようかなぁ。それは、ヨシヒコ君次第だと思うよ。強引に誘ってくれたら、私だって嬉しいって気がするしぃ」  どうなのと大きな目で見つめてきたアズライトを前に、ヨシヒコは情報スクリーンを呼び出した。 「だったら、今日の予定を書き換えないといけないな。同じところじゃ面白くないから、今日は堀之内にしておこう。それから、その後に行くホテルは……民俗学の参考になるようなところが良いな」 「えっ、ホテルって?」  思いがけない答えに、逆にアズライトの方が驚いてしまった。そんなアズライトに、どうして驚くのかとヨシヒコは不思議なものを見る目をした。 「昨日のことを考えれば、もう一度一緒にVXをするのはそう意味になるだろう。昨日は我慢できたが、二日続けてだと俺は我慢するつもりはないぞ。で、どんなホテルが良い? いっそのこと、VX機能付きのホテルに行くことにするか?」  目を輝かせて迫ってきたヨシヒコに、逆にアズライトは尻込みしてしまった。 「え、えっと、そこまでするつもりはないって言うか。ごめん、黄金町の話は忘れてくれるかな」 「10日間だけの恋人と言うのもロマンチックで良いと思ったのだが」  残念そうにするヨシヒコに、自分の身分がばれていないのかとアズライトは考えた。だがステルスモードのアリエルから、それは早計ですと忠告を受けた。 「アズライト様の事情を知っていれば、直接の行為を避けられることは予想できます。ですから、この反応では判断材料にはならないかと思います」  それもそうかと考え直したアズライトは、VXの話題から離れることにした。その代わり、ヨシヒコの出した情報スクリーンを覗き込んだ。そこで悪戯をしたのは、椅子を動かしてヨシヒコの隣に並んだことだろう。わざとらしく接触をして、その反応を探ろうと言うのだ。 「い、いや、そう言うことをされると期待してしまうのだが……」  胸を押し付けられて慌てるあたりは、昨日の反応と変わっていない。これも外したかと悔しがったアズライトだったが、この程度のサービスぐらいはいいかと割り切ることにした。 「期待って、何のことかな?」  そう言って口元を歪めたアズライトから顔を逸らし、この後の予定だがとヨシヒコは話題を変えた。 「ここから少し離れたところに、大きな遊園地があるんだ。今日は、そこに行って遊ぼうかと思ったんだが……」  顔は逸らしていたが、視線は大きく開いた胸元に向けられていた。それに気づいたアズライトは、胸元を押さえてヨシヒコから離れた。 「今日は、それはなし!」 「だったら、そうやって思わせぶりな真似をするなよな」  まったくと小さく息を吐いたヨシヒコは、どうするのだと目の前の料理の山を指さした。 「せめて、半分ぐらいにしないと申し訳ないぞ」 「だったら、男の子の甲斐性でっ!」  自分に押し付けようとしたアズライトに、それは無いとヨシヒコはすぐさま否定した。 「人の忠告を聞かなかった罰だ。この4分の1ぐらいは食べてくれ」 「朝から食べ過ぎ。そんなことをしたら太っちゃうんだけどな」  そう言ってお腹を押さえたアズライトに、ヨシヒコは冷たく自業自得だと突き放した。 「せいぜいリルケに帰ってからダイエットをすることだな」 「そう言う冷たいことを言うと、女の子にもてないわよ」  悔しくて言い返したアズライトに、ヨシヒコは待っていたとばかりに勝ち誇って見せた。 「おれには、セラムと言う恋人がいると話してなかったか? 明日は、二人で黄金町に行くことになっているんだ。セラフィムさんとの経験を生かして、ちゃんと最後まで決めようと思っているんだぞ」 「いやさぁ、確かに私が振った話だけどね」  そうやって勝ち誇られると癪に触ってしょうがない。拗ねたアズライトは、パイナップルにフォークを突き刺したのだった。  色々と探りを入れてみたが、結局どれも空振りに終わってしまった。いっその事部屋に誘おうかとも考えたアズライトだったが、意味が無いかとすぐにその考えを放棄した。 「準備をしてくるから、30分ぐらい待っててくれる?」  実のところ、インチキをすれば準備などトイレにいく時間で終わってしまう。敢えて時間を指定して、アズライトはエレベーターで部屋へと戻っていった。 「とりあえず、ここまでは想定通りの反応だな」  帝国のシステムを利用できることを考えれば、地球のシステムの動きは手に取るように分かることだろう。だとしたら、自分達の行動が領主府にバレていることも掴んでいるはずなのだ。その状況で昨日と変わらないと言うのは、疑ってくださいと言っているようなものだった。  それもあって、ヨシヒコは自分が疑われていることを前提に行動していた。そしてそれを誤魔化すための方策も用意してある。 「30分と言ったが、すぐに戻ってきそうだな」  ホテルの壁面にある時計に目をやったヨシヒコは、そろそろかなと第三者の登場を予想した。いくら女装していても、セイメイ達といれば正体は知れてしまう。ホームグラウンドで遊んでいれば、自分のことを知っている者が居てもおかしくない。  ヨシヒコが視線を時計から入口の方へ変えようとしたその時、とても聞き慣れた声が聞こえてきた。 「ヨシヒコ君!」  これもまた予定通り。ヨシヒコの視線の先には、怒っているセラムが立っていた。これで、彼の描いた第一幕の役者が揃ったことになる。そろそろ降りてくるかなと、ヨシヒコはアズライトの登場を期待した。  一方セラムは、ヨシヒコの考えなど知る由もない。友達の話で心配になって家を訪ねたら、すでにヨシヒコは出かけた後だった。もしかしてと教えられたホテルに来てみたら、本当にヨシヒコを見つけてしまったのだ。 「ねえ、これってどう言うことか説明してくれませんか?」  恋人に対して、説明を求めるのは当然の要求だろう。いつもよりきつい口調で、セラムはヨシヒコを詰問した。 「どう言うことと言われても。うん、惑星リルケから来た女性を接待しているんだ」  冷静に答えるヨシヒコに、セラムは膨れたまま疑わしそうな声を出した。 「惑星リルケ、ですか?」 「そう、一頃ワイアードで話題になっていたアレだ。昨日偶然知り合って、セイメイ達と街を案内した。明日はセラムとデートがあるから、今日だけという約束で浦安を案内することになっている」  ここで動揺の一つでもしてくれれば、嘘だと畳み掛けることも出来ただろう。だが普段と変わりのない様子を見せるヨシヒコに、本当なのかなとセラムは考え始めていた。 「それ、信じていいの?」 「俺としては、信じて欲しいのだがな。もう少し待っててくれれば、本人の口から説明してもらえるだろう」  どうすると聞かれれば、待っているとは言いにくくなる。それでは、ヨシヒコのことを信じていないことになってしまう。しかも余所の惑星、その上帝国の第35大学に在学している相手と、準備もなく顔を合わせる自信は無かった。 「ヨシヒコ君の迷惑になるのなら……大人しく帰りますが」  本当だよねと目で訴えるセラムが可愛くて、ヨシヒコはこっちへ来いと手招きをした。相手を安心させるためには、必要な行動をとらなければならない。ただ、その行動をとるためには、ホテルのロビーでは人目につきすぎるのだ。 「いいけど、どうかしたの?」  エレベーターホールの陰について行ったところで、セラムはいきなりヨシヒコに抱きしめられた。そしてヨシヒコは、突然のことに慌てたセラムにキスをした。 「明日の黄金町。楽しみにしているんだ」 「私も楽しみ。でも、ヨシヒコ君がきれいな人と歩いていたって聞いて心配になったから」  少し涙ぐんだセラムに、ヨシヒコはもう一度キスをした。 「セラムは誰が見たって美人だよ。今日一日我慢してくれないか」  耳元で囁かれたセラムは、茶色の髪を揺らして何度も頷いた。 「今度、私も浦安に連れて行ってね」 「セラムとは、十分に時間があるからな。浦安以外ににも、色々な所に連れて行ってやるぞ」 「約束して」 「ああ、約束するよ」  ヨシヒコの言葉を聞いて、今度はセラムの方からキスをしてきた。それで納得がいったのか、絶対だよと言い残して、セラムはホテルから小走りに出ていった。これで、演出の一つが完了したことになる。ただどうしようもなく胸が痛かった。 「酷い男ね」  丁度聞こえてきた糾弾の声に、誰のことだと言いながら声の主の方へと振り返った。そこに立っていたのは、グリーンのセーターにグレーのパンツ、そして黒のレギンスを穿いたセラフィムだった。 「私の眼の前に立ってる、女の子みたいな男の子のことよ」 「俺は、セラムに嘘は一言も言っていないぞ」  しれっと言い返したヨシヒコを、アズライトは「大嘘吐き」と言い返した。 「彼女、昨日私にしたことを知らないんでしょ?」 「それは、言いふらすようなことなのか?」  そう言い返したヨシヒコに、やっぱり酷い男だとアズライトは繰り返した。 「それで人でなしさん。これからどうするのかしら?」  そう言われて時計を見たヨシヒコは、時間だなと独り言をつぶやいた。 「時間って?」  それを聞き止めたアズライトに、時間は時間だとヨシヒコは答えた。 「高速コミューターがホテルを出発する時間ということだ。タクシーより早く、浦安の遊園地に連れて行ってくれるぞ」  こっちだと手を掴むヨシヒコに、積極的だなとアズライトは驚いていた。急に変わったのかなと訝って居たら、ステルスモードのアリエルから丸海老を出た後からだと教えられた。 「それから、かなり大胆な真似をされています」  そうだったかなと考えて居たら、そのまま大型のコミューターに連れ込まれた。まあいいかと車内を見ると、自分達と似たような男女が何組も乗っていた。  言われるまま窓際に座ったところで、アズライトはヨシヒコに肩を抱き寄せられた。 「なんか、大胆になってない?」 「別に、回りに合わせただけのことだろう」  そう言われて首を巡らせてみたら、確かに他のカップルも似たような状態になっていた。それどころか、もう少し危ない状態のカップルも居たぐらいだ。 「彼女と別れた後、いきなりこれ?」 「言っている事実に間違いはないが、紛らわしい言い方をしないで欲しいな。セラムとは別れたわけじゃないからな」  肩を抱く腕に力を入れられ、アズライトはヨシヒコの胸のあたりに抱き寄せられてしまった。 「なにか、とっても窮屈」 「10分ちょっとのことだ。お互い、周りの雰囲気を壊さないようにしよう」  もう少し照れてくれれば可愛げがあるのに。そんなことを思いながら、アズライトもヨシヒコの体に腕を回すことにした。こうしていると、窮屈なのも悪く無いと思えてしまった。  当たり前だが、ヨシヒコの行動は、逐一ジェノダイトの所に伝えられていた。そして情報の伝達は、アズライトに伝わらないようオフラインの方法がとられていた。システムを使った途端、アズライトに察知される可能性があったのだ。 「彼は、うまくアズライト様の相手を務めているな」  浦安までの高速コミューターに乗り込む映像に、順調なのだとジェノダイトは安堵した。 「アズライト様は、彼とのゲームを楽しんでいるようですな」  正式の作戦となったため、ヨシヒコをサポートするため陸軍が配置されていた。そしてその指揮を、陸軍大将ジョージ・オム・テラノ・マグダネルが自ら執っていた。ただサポートとは言ったが、実質は二人を観察すると言う意味合いの方が大きかった。 「アズライト様に、我々の動きがバレているということかな?」 「自分が見つかっていることには気づかれているでしょう。ですが、彼に対して我々がコンタクトをしたのかは分かっていない。そして、それを確かめようとするアズライト様との間で、虚々実々のやりとりが行われていると言うことです。なかなかしっぽを見せない彼に、アズライト様は興味を示され、やりとりを楽しまれているのでしょうな」  そう答えたマグダネル大将は、大したものだとヨシヒコを賞賛した。 「帝国第二皇女相手に、彼は正々堂々と駆け引きをしています。息子から話は聞いていましたが、聞かされていた以上の逸材ですな」 「ご子息ですか。確か、マリアナ嬢の上級生でしたかな?」  マグダネル大将の家族構成を思い出していたジェノダイトに、そのとおりとマグダネル大将は笑った。 「マリアナ嬢から、契約交渉中なので邪魔されないようにして欲しいとの依頼を受けたと聞いていますよ。確かに、横取りされないかと不安になる逸材ですな。今日一日、何事も無く乗り切れば、それだけで彼の名は銀河に轟くことになるでしょう」 「今日一日、乗り切れればだがな」  何しろ相手は天災との異名を持つお騒がせの皇女殿下なのだ。何がきっかけで、猛威をふるうか分かったものではない。まだ一日が始まったばかりと考えると、安心しても居られないのだ。 「今はまだ、注意して見守る以外にできることはありませんな」  賽が投げられれた以上、その結果を待つ以外にできることはない。マグダネル大将の言葉に頷いたジェノダイトは、もう一つの懸念について確認した。こちらの被害は、一般大衆に及ぶ分だけ注意が必要だった。そしてアズライトのことを頼む時に、ヨシヒコからも指摘されたことだった。 「センテニアルまで1週間ですが、テロリストの潜入はありませんか?」  地球最大の式典にして、継承権第三位をもつ第二皇女の出席を仰ぐ式典である。それを考えれば、格好のテロの標的といえるだろう。それを気にしたジェノダイトに、マグダネル大将は微妙な答えを返した。 「今のところは、不穏な兆候は現れていませんな。すべての地球人類が帝国を歓迎しているとはいいませんが、反帝国派は極めて少数といえるでしょう。そして彼らに関しては、我々が完全にマークしていると自負することが出来ます。ただ、どの程度ザイゲルが紛れ込んでいるのかまでは把握できていません」 「反帝国派とザイゲルが手を組む可能性は?」  ザイゲルは、テラノに活動拠点を作っていない。それを考えると、彼らは地球上の勢力と手を組まなければ何も出来ないだろう。したがって、ジェノダイトはザイゲルが地球に協力者を求めることを懸念した。 「敵の敵であれば、利用できるからですか?」  志の方向性を考えると、手を組む可能性は否定できる。だが強大な帝国と戦うため、一時的に手を組む可能性までは否定できなかった。その可能性を指摘したジェノダイトに、マグダネル大将は小さく一つ頷いた。 「確かに、その可能性を否定することは出来ないでしょう。したがって、反帝国派にザイゲルのコンタクトがないかもチェックしています。今のところ、両者が連携していると言う動きは見つけられていません。ただ、ザイゲルからの旅行者が増えているのが気がかりですな」 「旅行者ですか」  その存在に、ジェノダイトはうむと唸ってしまった。帝国に名を連ねている以上、旅行者の受け入れを拒否することは出来ない。安全上の問題があれば別だが、今のところ問題となるような紛争も起きていなかった。 「センテニアルは、地球最大規模の祝典ですからな。ここヨコハマだけでなく、世界中で様々な記念式典が開かれます。それは、同時に重要な観光資源になるということです。地球独特の文化は、他の星系にとって興味深いものでしょう。技術的に地球は遅れていますが、文化という面ではむしろ多彩なものを誇っています」  胸を張ったマグダネル大将に、確かにその通りだとジェノダイトは認めた。各星系それぞれに独自の文化はあるが、地球のそれは確かに多彩で奥深いものだった。 「今回は、それが仇になる可能性があると言うことですか?」 「テロなど、水際で抑えこんでしまえばいいだけのことです。誇れることではありませんが、帝国に加わる前の地球は、テロとの戦いは世界のあちこちで起きていました。正確に言うのなら、帝国に併合されることへの反発もテロと言う形で表れています。その時のノウハウは今に引き継がれているのです」  そう胸を張ったマグダネル大将は、それでも懸念はあると口をへの字にした。 「懸念ですか。それは、どのような方向でしょうか?」  疑問を口にしたジェノダイトに、マグダネル大将は黙って上を指さした。 「宇宙、ですか」 「はい、宇宙です」  大きく頷き、マグダネル大将は説明を続けた。 「相手を撃破しうる武器さえあれば、正面からの戦いは必ずしも技術レベルだけで決するものではありません。ザイゲルを過小評価するつもりも、地球の宇宙軍を過大評価するつもりもありませんが、同数で正面からぶつかった場合、いい勝負になるかと思っています。ただごく少数で奇襲を行う場合、技術レベルと言うのは大きな意味を持ってきます。大規模な破壊活動はできなくても、ごく小規模、そして効果的な部分への破壊活動は可能かと思います。そのための備えが、地球には不足しています」 「効果的な部分と言うのは、ここのことを指しているのですね?」  領主府があり、なおかつ帝国第二皇女まで顔を出している。破壊の範囲は狭くとも、成功した場合の効果は計り知れないものとなるだろう。特に皇女が失われたとなれば、ジェノダイトの責任追及どころの話ではなくなる。そして当のジェノダイトも無事でいられる保証はなかった。 「アズライト様に密着警護をしていないのは、その懸念があるからです。わざわざ敵に、獲物の居場所を教える必要はないのです。我々が大規模な身辺警備を行うのは、帝国から影武者が送られてきてからでいいのです」 「アズライト様が先乗りされているのは知られていると思いますが?」  その情報がなければ、確かにマグダネル大将の言う通りなのだろう。ただアズライトの過去の所業を知る者なら、当然先に現地入りする可能性に到達している。そうなると、警備をしなければ皇女を危険に晒すことになりかねない。その懸念をジェノダイトはマグダネル大将に示した。 「確かに、その懸念は大いに理解できます。ですが領主殿、昨日アズライト様の足取りをリアルタイムで掴むことができましたか?」  それを指摘されれば、ジェノダイトも苦笑を浮かべるほかは無い。それでも、状況は変わっているはずだ。 「昨日までとは違っていると思っていますが?」 「だから、敢えて獲物を教えないように気を付けているのです。アズライト様ですら、彼が我々に取り込まれている証拠を掴めないのです。ならば、襲撃者はもっとアズライト様を見つけられないでしょう」  そう答えたマグダネル大将は、分かっているとばかりにジェノダイトの反論を手で制した。 「もちろん、襲撃側の方が有利なところはあります。彼らは、いつか当たりを引けばいいのですからね。疑わしい相手を葬って行けば、いつかアズライト様に辿り着くことができる。そう考えれば、今のアズライト様も追われている可能性はあります。ただ複数の候補者を追うだけの力は、今の彼らにはないかと思います。そして身分を偽っている状態での暗殺は、手間の割に宣伝効果に薄いものがあります」 「本命は、式典を襲うことだと?」  再度の確認に、マグダネル大将は大きく頷いた。 「地球および帝国に与えるインパクトは、桁違いに大きなものになりますな。同じ危険を冒すのであれば、式典を襲撃すると考えるのが自然でしょう。そのあたり、技術的優位さと言うのも理由になります。地球の警備であれば、乗り越えるのはさほど難しくないと考えているでしょう」 「それを、責任者に言われるのは嬉しくないのだがね」  そうは言っても、地球の技術が遅れていることは間違いない。一部帝国の技術が取り入れられてはいるが、それも限定的なものとなっていた。帝国側が制限した事実もあるが、実際には受け入れ側の事情の方が大きかった。地球側には、受け入れるだけの下地がまだ整っていなかったのだ。100年と言う時間は長い時間だが、追いつくためには短すぎる時間でしかなかった。 「その認識の下、奇襲に対する対策も立てています。絶対に大丈夫と言う保証はできませんが、彼らが考えているほど容易いものではないと思いますよ」  マグダネル大将は、手の内は隠すものだと笑って見せた。甘く見て貰った方が、こちらにとっては都合がいいのは確かなのだ。そうすることで、彼らの作戦にも隙が生じることになる。 「大船に乗った気持ちでとは申しませんが、そこまでざるではないとお考えください。まあ、いざとなったらドリスデン閣下の配下もいらっしゃいます」  それで、技術レベルは逆に上回ることになる。簡単にはいかせないと、マグダネル大将は不敵な笑みを浮かべたのだった。  高速コミューターのおかげで、本当に10分で浦安の遊園地に二人はたどり着いた。そこでアズライトは、今まで見たことの無いファンタジーの世界を経験することとなった。一つ一つのアトラクションは子供だましの所もあるが、トータルのコーディネイトは素晴らしいとアズライトは感激した。 「銀河にはドワーフ系の住人もいるけど……ここのは、彼らのこと指しているのではないのよね?」  小人が登場するアトラクションでは、アズライトは乗り物から身を乗り出して人形を眺めていた。人形のコミカルな動きや音楽、そして作られた世界観のいずれも、アズライトの目にはとても新鮮に映っていた。 「ああ、偶然かと聞かれれば、偶然だとしか答えようがないな。そもそも大本の物語は、こんな可愛らしいものじゃなかったしな。そこから毒を抜き、万人に受けるようにしたのが今の姿なんだ」 「でも、とっても新鮮ね。今まで行った星では、こう言ったものを見たことは無かったわ」  皇女だと考えれば、一般庶民の行くような遊園地に連れて行くことはありえない。特に天災とも言われる第二皇女の目の前に、騒ぎのネタを差し出すはずがなかったのだ。  それを考えれば当たり前のことを言っているだけだが、今目の前にいるのは第二皇女ではなくただの大学生のセラフィムなのだ。だからヨシヒコは、答えにも少し気を使った。 「他の星にも、こう言ったものぐらいあると思うのだがな? 確か、資料で見た気がするのだが」 「だ、誰も案内してくれなかったからよ。これからは、自分で行くようにするから」  探り合いをしているのに、自分からヒントを与えてどうするのか。自分の迂闊さを呪ったアズライトは、言い方を考えてヨシヒコに答えた。そして話をそらすため、ヨシヒコの行動をあげつらった。 「ところで、さっきから暗がりばかり選んでない? それに、服の上からでも触られるのは気になるんだけどな」  スケベと謗られたヨシヒコは、すぐさま「男の性だ」と言い返した。 「昨夜は眠れなくて悶々としたからな。明日から会えないと思ったから、こうして煩悩を実現させている」  そう言って服の下に滑り込んできた手を、だめと言ってアズライトは上から叩いた。 「なんか、図に乗ってない?」  叩いてもだめだったので、アズライトはヨシヒコの手を思いっきり抓りあげた。 「セラフィムさんと、もう一度VXを体験したいと思ったんだ。俺次第だと言われたから、こうして誘いを掛けているのだが」  それにと、ヨシヒコはアズライトの耳元で囁いた。 「昨日の質問への答えが見つかったんだ」 「昨日の質問って何よ」  耳元がくすぐったくて身をよじったアズライトに、ヨシヒコは質問の中身を答えた。 「帝国の大学に行けるのなら、セラム捨ててあなたと一緒に行くかと言う奴だ。それは、セラフィムさんとセラム、どちらを選ぶのかと言う意味だと俺は解釈した」 「でも、私を選ぶためには高い壁があるわよ。私は、センテニアルが終わったら大学に戻るからね。たとえ私を選んだとしても、9日後にはお別れすることになるわ。大学入学のことを言ったけど、あれはあくまで仮定でしか無いからね」  それが現実と答えたアズライトに、ヨシヒコは「そうだな」と小さな声で返した。 「それでも、俺は質問の答えを考えたんだ。そしてそれは、俺の気持ちを確認する意味もあった。散々考えて、俺はようやく第三の答えに辿り着いたんだ。俺がセラフィムさんに付いて行けないのなら、セラフィムさんを大学に返さなければいい。大学に戻る以上の物を、地球に居て見せてやればいいと分かったんだ。だから俺の答えは、セラフィムさんを地球に引き留め、俺の物にするとことだ」  そう言ってヨシヒコは、アズライトを抱き寄せた。しかも抱き寄せるだけでなく、半ば強引に唇を重ねた。そして空いていた手は、セーターの中に潜り込んできた。  思いがけない答えに、アズライトは完全に虚を突かれてしまった。ただヨシヒコに唇を奪われたのは、そればかりが理由と言う訳ではない。だからヨシヒコを拒まなかったし、むしろ自分からもヨシヒコを求めたぐらいだ。場所柄危ない真似のできるところではないが、何をされても許せてしまう気持ちになったのは確かだった。  ある意味ありえない感情は、アリエルの介入で終わりを迎えた。2日続けて緊急プログラムが始動し、アズライトの心を現実へと引き戻したのである。早鐘を打っていた心臓も落ち着きを取り戻し、思考回路も正常状態へと引き戻された。前日の経験もあり、アリエルが効果を調整しなおした結果でもある。 「ごめん、それはやっぱり無理だと思う」  胸を押し返されたヨシヒコは、少し離れた位置でアズライトと向かい合った。 「俺には、大学に戻る以上の魅力は無いと言うことか」 「そう言う訳じゃないわ。あなたにも事情があるように、私にも逃れられない事情があるだけよ。30番代の大学に入るためには、私だって色々と無理をしているんだもの。一時の感情でなかったことにするには、抱えている物が大きすぎるのよ」  ごめんなさい。自分の目を見て謝ったアズライトに、ヨシヒコは小さく首を振った。 「いや、謝るとしたら俺の方だろう。誰だって複雑な事情を抱えていることぐらい、分かっているつもりだったんだがな」  逆に謝ったヨシヒコに、アズライトは「今日だけ」と条件を付けた。 「今日だけなら、恋人でいてもいいと思う」 「地球に居る間じゃだめなのか?」  そう言って引っ張ったヨシヒコに、アズライトはもう一度「だめ」と答えた。 「私が辛くなるし、セラムさんに申し訳ないもの。だから、二度とヨシヒコ君とはVXはしない。もしも駄目だと言われたら、私はここで帰ることにするわ」 「一人でここから帰るのは間抜け以外の何物でもないよな……」  はあっとため息を吐き、ヨシヒコは椅子にもたれかかった。そして間抜けな条件闘争に移った。 「VXはだめと言われたが、直接ホテルに行くのもだめなのか?」 「常識で考えたら、VXがだめらならホテルは絶対に駄目でしょう?」  呆れたような顔をしたアズライトに、だったらとヨシヒコは別の条件を持ち出した。 「直接触るのとか、外でするのもだめなのか?」 「論外。ヨシヒコ君、私の言った意味をちゃんと考えてる?」  ますます呆れたアズライトに、切実なのだとヨシヒコは言い返した。 「だったらキスをするのとか、服の上から触るのとかは?」 「男の子って、本当に性欲で生きているのね」  はっとため息を吐いたアズライトに、悪いのはそっちだとヨシヒコは言い返した。 「あの時VXに誘われなければ、こんなことにはならなかったんだぞ。それに、こう言ってはなんだが……」  そこで恥ずかしそうにしたヨシヒコは、アズライトを喜ばせる言葉を口にした。 「セラフィムさんが魅力的なのがいけないんだ。それでも見ているだけなら良かったんだが、昨日から色々としただろう。だから、自分が抑えられなくなっているんだよ」  陳腐な言葉なのだが、それでも感情が昂ってしまう。それも危険な兆候だと、すかさずアリエルが介入した。 「そ、それぐらいなら、雰囲気次第かな。だけど、それ以上は絶対に駄目だからね」  そう答えながら、アズライトは早くアトラクションが終わらないかと考えていた。間違いなく、自分の感情が危険領域に達していたのだ。それを解消するためには、一人になって念入りな調整をする必要がある。トイレに逃げ込めば、男のヨシヒコには付いて来られないはずだ。  手ぐらいは繋いでもいいとお許しが出たので、乗り物に乗っている間はずっと手をつないでいた。そしてアトラクションが終わったところで、アズライトは「ちょっと待ってて」と言ってトイレの方へと駆けて行った。  その後ろ姿を見送ったヨシヒコは、一度ぐるりと周囲の状況を目で確認した。 「さすがに、俺にも分からないよう監視をしているか」  ふっとため息を吐いたヨシヒコは、酷いなと自分のしていることを自嘲した。 「絶対に、弄んでいるよな。いや、弄ぶのでなければいけないのか」  報告書やジェノダイトから聞かされた話では、帝国第二皇女と言うのは手の付けられない問題児のはずだった。だがこうして接してみると、どこにもセラムとの違いを見つけることができなかった。むしろセラムよりも、本質は可愛らしいのではと思えてしまったほどだ。だからヨシヒコも、できないと分かっていても「引き留める」とまで口にしてしまった。駆け引きの中で出た言葉なのだが、ヨシヒコの本心を現したものでもあったのだ。だからこそ、アズライトの心を揺さぶったのかもしれなかった。 「緊急プログラムの話、本当にあったんだな」  昨日からの反応で、それに似たものがあるのではと疑ってはいた。そうでなければ、シャワー程度であそこまで頭を切り替えられるものではないはずだ。そして今でも、途中で雰囲気ががらりと変わってくれたのだ。 「皇族に対する洗脳、誘導対策か……やはり、俺達とは生きている世界が違うのだな」  その意味合い、必要性ぐらいヨシヒコにも理解できる。皇族の安全を考えたら、逆になければおかしい方策でもあったのだ。だからこそ、自分とは生きる世界が違いすぎると思い知らされてしまう。アズライトへの同情と同時に、自分の限界をヨシヒコは思い知ったのだ。  一方のアズライトは、トイレに駆け込んだところで大きく安堵していた。緊急プログラムが短時間に立て続けに起動するのは、どう考えても異常事態でしかなかったのだ。それが2日続いたとなれば、もはや非常事態と言っていいだろう。ここで抜本的対策をとらなければ、間違いなく危険なことになってしまう。皇族としての常識から逸脱しかけた自分に、アズライトは恐怖さえ感じていた。 「アリエル、精密調整プログラムを起動して」 「はい、アズライト様」  アズライトの指示に従い、アリエルは精密調整プログラムを起動した。緊急プログラムとは違い時間のかかる調整は、アズライトの精神にまで干渉する深刻なものになっていた。これもまた、2日続けての起動となっていた。 「プログラム進捗30%です。アズライト様、お逃げになった方が宜しいのではありませんか? 認めたくは無いのですが、あの者はアズライト様の手には負えません。いともたやすく、アズライト様のお心を掻き乱しています」  無駄だとは分かっていたが、アリエルは本気で逃げることを提案した。 「私の手には負えないか。冷静になってみれば、確かに手玉に取られているわね。でも、天災とまで言われた私が、敵いませんと逃げ出すわけにはいかないでしょう。念入りに調整すれば、今日一日ぐらいなら乗り切ることができると思うわよ。それにいざとなったら、あなたが介入してくれればいいわ」  逃げないと言うのは、アズライトの性格を考えれば十分予想されることだった。そして予想通りの答えに、アリエルはため息などと言うものを吐いて見せた。 「緊急プログラムは、そうそう起動していいものではありません。さらに申し上げるのなら、ゆっくり時間を掛けて浸食されると、緊急プログラムどころか精密調整でも対処できません」 「だったら、これからは早めに手を打つことにするわよ」  問題が分かっているのなら、対策を考えるのも難しくは無い。それほどまでに、逃げると言うのは選ぶことのできない方法だった。逃げてしまえば、これまで作り上げてきたものが壊れてしまう。 「調整が完了しました。全身のリフレッシュを推奨します」 「そうね、少しすっきりとした方が良いでしょうね」  アリエルの勧めに従い、アズライトは左手薬指に嵌めた指輪を指先で叩いた。物質変換装置ラルクは、アズライトの体を一度素粒子レベルにまで分解し再構成をしてくれる。その際に、体に着いた余計な不純物を除去してくれるので、シャワーに似た効能を発揮してくれた。 「これで、結構すっきりしたわね」 「くれぐれもお気を付けください。あの者は、今までと違って格段に手強くございます」  アリエルがくどいぐらいに注意を繰り返すのは、それだけヨシヒコを評価し、危険だからと認識したからに他ならない。それを理解したアズライトは、自分のためになるアイディアをアリエルに確認することにした。それだけ、アズライトもヨシヒコに危険なものを感じていたのだ。 「アリエル、私の役割にお兄様の妃候補を探すと言うのがあったわね」 「確かに、皇帝聖下からそのようなお話を伺っています。それで、そのことがこの状況に関係するのでしょうか?」  理解できないと言うアリエルに、アズライトは自分の思いついたことを説明した。 「もしも彼が女だったら、次の皇妃に相応しいと思わない? 見た目もいいし、私と張り合えるだけの性格、知性を持っているわよ」 「お考えを理解することができました。確かに、あの者ならアンハイドライト様に相応しき妃となられるでしょう。これだけアズライト様を手玉にとれるのですから、資質的に問題は無いかと。後は、性別転換に対してアンハイドライト様が拒絶反応を示さなければ問題ありません」  全面的な肯定に、それでいいとアズライトは口元を歪めた。性別転換を含めて兄の嫁だと考えれば、これ以上心を掻き乱されることも無くなるはずなのだ。その上父親に言われた任務も果たせるのだから、一石二鳥の考えでもあった。 「じゃあ、彼のことは、これからお姉さんと思って接することにするわ」 「緊急プログラム回避に、有効な手段であるのは間違いないでしょう」  こんなすっ飛んだことを考えられるからこそ、宇宙を駆ける天災と言われるのだろう。アズライトのことを見直したアリエルは、可哀想にとヨシヒコのことを憐れんだのだった。  慎重に調整するはずと言うのが、アズライトに対するヨシヒコの見立てだった。自分の誘惑が有効に働いているのは理解しているが、それが将来につながるなどとは毛ほども思っていない。悪評の高い皇女殿下なのだが、この手のことへの耐性が無いのは分かっていたのだ。そんな耐性の無い皇女殿下が、無防備にVXなど体験するからこんなことになってしまう。ある意味強すぎる興味が、墓穴を掘った結果と言うこともできたのだ。そして今の感情も麻疹のようなものなのだから、過ぎてしまえば何事もなかったように忘れ去られるものと言うのも分かっていた。  さらに言うのなら、皇女である以上、迂闊な真似をするわけにも行かないのだ。だからこそ、念入りに精神や体のバランスを調整し、今後の対策を練ってくるはずなのだ。なかなかトイレから戻ってこない事実は、その分析が間違っていないことの裏付けともなっていたのだ。  これからの方策を考えながら、ヨシヒコは同時に遊園地の観客も観察していた。100年前なら肌の色が違う人達を珍しがったのだろうが、世界が一つになった今ともなれば、肌の色が違うこと自体は珍しくもなんともない。そして周りを見れば、肌の色など問題にならな程の珍客を見つけることができたのだ。 「センテニアルだからかな。地球外の住民の姿が多いのは」  一見して異星人とわかる風体を見て、ヨシヒコは本当に大丈夫なのかと心配したほどだ。知らないドワーフとアズライトが言ったように、アトラクションの人形の中には異星人と紛らわしいものが沢山あったのだ。何も知らないで来れば、間違いなく諍いの理由となるものである。  そして文化的摩擦から離れてみても、トラブルの種ならごまんと転がっていた。もともと地球人向けに設計されていることもあり、身体的特徴が違えば乗り込むことにも苦労するのが目に見えていたのだ。背格好の似通っている種ならば問題ないが、D種のように足が無い種とか、逆にE種のように足が4本あると、椅子に収まるのも困難を極めることだろう。巨人のI種など、物理的に椅子に収まるとは思えなかった。 「それでも楽しそうにしているのは、よほど地球の文化が珍しいのだろう」  さながら異星人の博覧会の様相を呈している園内を見ながら、ヨシヒコはアズライトが出てくるのを待っていた。よほど調整に手間取っているのか、さもなければ対策が決まらないのか、待っても待ってもアズライトは出てこなかった。  それでもヨシヒコは、おいて行かれたとは少しも考えていなかった。それも分析の一つなのだが、こんな場面で逃げるようなアズライトではないのだ。きっと予想もしない対策を立て、自分を煙に巻いてくれるはずだ。  そんなことを考えながら異星人観察を続けていたヨシヒコは、それぞれに特徴的なにおいがあるのに気が付いた。草の匂いとか、濁った水の匂いとか、それぞれの生活環境特有の匂いが彼らから感じられたのである。 「そう言う意味なら、A種は硫黄の匂いか。だったら、自分達はなんなのだろうな」  そんなことをぼんやりと考えていたら、アズライトがトイレから出てくるのが目に入った。ようやくお出ましかと立ち上がったヨシヒコは、ゆっくり歩いてアズライトを迎えた。 「落ち着いたかな?」 「お見通しってこと?」  挑戦的な視線を向けてきたアズライトに、それぐらいはとヨシヒコは苦笑を返した。そしてそのまま、アズライトも予想しない行動に出た。と言っても、抱きしめたとかキスをしたとかではなく、ただ単に顔を近づけてアズライトの匂いを嗅いだのである。 「トイレから出てきた女の子に、そんな真似をする?」  さすがに失礼だと怒ったアズライトに、「悪い」と少しも悪びれずにヨシヒコは謝った。 「やっぱり、セラフィムさんはいい匂いがするんだなと思ったんだ。まあ、それは置いておくとして、リルケの人はどんな匂いがするのか気になったんだ?」  いい匂いと言われ、アズライトはいきなりペースを乱されてしまった。そして心の中で「姉だ」と繰り返して、なんとか心の平穏を取り戻すことに成功した。その状態で、ヨシヒコの言葉に含まれるリルケの匂いに食いついた。 「リルケの人の匂いって、いきなり何?」 「いや、待っている間暇だったからな。だから、遊びに来ている異星人を観察していたんだ。文化的摩擦がありそうなのに、やけにみんな楽しんでいるんだなと感心していたんだ。後は、それぞれの種に特有の匂いの様なものがあるのに気が付いた。だからH種の俺達が、どんな匂いがあるのか気になったんだ」  そう言われて周りを見れば、確かに色々な種の人たちが歩いている。 「確かに、他の星からも沢山の人達が来ているわね。匂いの話はあまり気にしたことは無かったけど、言われてみれば違うのも当然ね。A種の人達なんて、一部酸素の代わりに硫黄を体に取り込んでいるもの」  なるほどねと頷いたヨシヒコは、悪戯心を起こしてアズライトへ攻撃した。 「だったら、セラフィムさんは花を取り込んでいるのかな? うっとりするぐらいに、いい匂いがするんだが?」  いきなりの攻撃に、まずいとアズライトは、すぐさま「姉だ」と呪文を繰り返した。 「そ、そう言うのもやめてくれないかな」 「そうか、誉めるのもいけないのか。これはこれで、正直な気持ちなのだが」  ううむと少しだけ悩んだヨシヒコは、まあいいかとアズライトに右手を差し出した。 「一日限りの恋人なら、手をつなぐぐらいは問題ないだろう。せっかくここまで来たのだから、楽しんで帰らないと時間がもったいないからな」 「そ、それぐらいなら……」  もう一度「姉だ」と繰り返し、アズライトは差し出された手を取ったのだった。  宇宙を飛び回る天災、第二皇女を押さえられるものなどこの世に存在しない。散々苦汁を味あわされたこともあり、ザイゲルでは悪い意味でアズライトの評価は高かった。そしてその評価が、今回に限って裏目に出ていた。何のことは無い、先乗りしたアズライトを捕捉できなかったのだ。 「領主府は、平静を保っているのだな?」  領主の目と鼻の先、ロイヤルホテルのスイートルームに10人の男が集まっていた。そのうちの9人がH種で、1人がA種の見た目をしていた。そして一人椅子に座ったA種の男は、探査の報告を9人から受けていた。 「はい、領主府から各行政府に小娘潜伏の警報が発せられたところまでは確認できています。そしてヨコハマに移送されたのも、その後の行動で推測できます。そこから小娘が逃げ出すのは、これまでの行動通りと言う所です。万を超える捜索人員が導入されたことが、小娘がヨコハマ入りをしたことの証明となります」  その報告に頷いたA種の男、ドーレズ・デデズドロブは、報告に対して疑問を投げかけた。 「ならばなぜ、領主府は落ち着きを保っている。小娘の行方は知れておらぬのではないか?」  継承権第三位を持つ皇女が失踪したとなれば、それだけで領主の責任問題に発展する。だからこそ、これまで各領主はアズライトの行状に苦汁を舐めさせられたのだ。そしてドーレズは、アズライトが大人しくしているとは夢にも思っていなかった。 「士官学校生が世話役に任命されたとの情報もありますが、小娘がいないためホプリタイの訓練に没頭しているようです」 「新たな世話係が任命された可能性は?」  質問しておきながら、ドーレズはそれが意味の無い質問だとすぐに気付いた。どんな世話係を付けたところで、天災皇女が大人しくなどしているはずがないのだ。 「その可能性は否定できません。それもあって陸軍の動きを追っているのですが、特に目立った動きは出ていないのが現状です」  その報告に、ドーレズはあり得ないと大きく頭を振った。 「テラノの奴らは、事の重大さを認識していないのか? いくら天災とは言え、相手は継承権第三位を持つ皇女なのだぞ。それを失踪したまま放置すると言うのは、それだけで責任問題となることだろう。それで、疑わしい奴の洗い出しはできているのか?」  すでにテラノ領主府が失態を冒しているのは確かだが、それでは彼らの求めるものとは大きく乖離している。忌まわしき第二皇女を惨殺し、センテニアルに色を添えることが彼らの目的である。そのためには、一日も早い身柄確保が必要とされていた。もう一つの奥の手も用意されているが、より残酷な方法の方をザイゲルは好んでいたのだ。 「はい、10名ほど把握しています。現時点で、10名のいずれも所在が確認できています」 「所在の確認できないものがいないと言うのか!?」  驚いたドーレズに、部下は悔しそうにその事実を繰り返した。 「全員所在の確認ができています。こちらに、10名のデータが用意してあります」  そう言って提示された中には、遊園地で遊ぶアズライトの姿もあった。その姿に目をとめたドーレズは、「これは?」と詳細な報告を求めた。 「はい、帝国第35大学の学生です。テラノに来る前に、ワイアードで男を探していたようです。昨日は、その男と黄金町の丸海老でVXを楽しみ、その後周辺観光ののち領主府近くのホテルに宿泊しています」 「一緒にいるのが、その男と言うことか? かなり親密そうに見えるな」  少女の姿にひっかかりを覚えるのだが、観察記録がその疑問を否定してくれた。しかも隠し撮りをされた映像では、男はかなりいかがわしいことを少女に対してしていた。人前でのキスや服の中に手を突っ込むことなど、皇女相手にあってはならないことだった。 「さすがに、これはないな。いくらジェノダイトでも、これを見逃すことはできないだろう」 「はい、いくらテラノの住人でも、さすがにここまでは命知らずではないでしょう。それに、あの小娘がここまでのことを許すとは思えません」  過去の犠牲者は、服の上からでも触れることはできなかったのだ。それを考えると、VXに行ったり、キスをしたり、人前でいかがわしい真似をさせたりするのはあり得ないことだった。相手が領主府から派遣されていると考えると、なおさらありえないことに違いなかった。 「やはり、小娘の足取りは掴めないと言うことか」  そうなると、行動を把握できていないと言う結論に達することになる。 「そのあたりは、宇宙を飛び回る天災の名は伊達ではないかと」 「だとしたら、領主府が平静を保っている理由が問題か」  うーむと唸ったところで、答えが見つかるものではない。仕方がないと諦めたドーレズは、被疑者のマーク放棄を決定した。関係のないものをいくらマークしたところで、皇女に辿り着けないと諦めたのである。 「もうこいつらのことはいい。今後、領主府の動きを探ることに力を入れろ。必ず、小娘確保の動きを見せるはずだ」  皇女が居なくて困るのは、自分達ではなく領主府の方なのだ。それを考えれば、領主府を張っていれば皇女の下に辿り着くことができる。リスクの上がる方法ではあるが、それ以外に妙手が無いのも確かだった。 「やはり、小娘には痛い目に遭ってもらわないといけないな」 「そのお考えは、広く銀河の支持を集めることでしょう」  自分の考えを称賛する部下たちに、ドーレズは持ち場に着くように命じた。 「機械をも欺く光学迷彩の存在は掴まれておらん。各自、領主の動きを引き続き追え。何としても、あの小娘は我らが息の根を止めるのだ!」  手柄の横取りをされてなるものか。すでに動いているもう一つの作戦は、ドーレズにとっての敗北を意味するものだった。  そしてもう一つの作戦、ザイゲルにとっての本命となる作戦も、準備が着々と進められていた。この作戦を行うため、ガルガンチュア将軍が直々指揮を執るほどの念の入りようである。一度しか使えない作戦だからこそ、成功した時には大きな戦果が期待できた。 「ホプリタイの偽装は順調か?」 「外見上、見分けのつかないところまで煮詰めました。性能的には、まだまだ劣りますが、テラノの相手なら十分でしょう」  部下の報告に頷いたガルガンチュア将軍は、次に、とっておきの空間転移装置の動作を確認した。 「イーザベルグは順調か?」 「すでに、10度目のテストを完了しています。ツヴァイドライグの識別信号の解析も終わっています」  報告を信じる限り、ここまでの準備に問題は生じていない。それを満足げに受け取ったガルガンチュアは、本命となる艦隊配置を確認した。旗艦となるドレズドーレズ以下1万隻の攻撃艦は、帝国軍が駆けつける前に大きな戦果をあげる予定だった。  報告に頷いたガルガンチュアは、戦略目標となっている惑星をスクリーンに出した。 「マルスか、この美しい星をさらに血と炎の色で染め上げてやろう」  どこか故郷を思わせる星に、ガルガンチュアは残酷な笑みを浮かべた。第二皇女を血祭りにあげ、さらにはテラノに深刻な打撃を加える。マルスを火の海にするのと同時に、テラノ艦隊も半分以下にするのが戦略目標となっていた。本来ならテラノ本星を破壊したいところだが、帝国介入前に作戦を完了させる必要があったのだ。 「10億ぐらい減らしてやれば、テラノの奴らも現実を知ることになるだろう」  そしていずれはH種を根絶やしに。長年虐げられてきた恨みを、ここで少しでも晴らすことにする。帝国が気付いたときには、すでに手遅れになっているのだ。これまで我慢してきた甲斐があったと、ガルガンチュアはほくそ笑んでいた。  「姉だ」と言う呪文は、予想以上に気持ちを落ち着けるのに効果的だったようだ。ヨシヒコが抑えたことも理由なのだが、それからのアトラクション巡りでは緊急プログラムどころか、微調整が必要な事態も起きなかった。ただ手をつないで、珍しいアトラクションを回り続ける。天災の二つ名にそぐわないと分かっていても、これもいいかとアズライトは今を楽しんでいた。 「でも、急に紳士になったのね」  目の前の電飾満載のパレードを見ながら、アズライトは隣に座ったヨシヒコの顔を見た。こうして見ると、女と言われても少しもおかしくないぐらい可愛いのだ。昨日の映像を見せれば、あの兄も気に入ってくれると一人悦にいっていた。 「ここまではと言うガイドラインを貰ったからな。それに、お楽しみは後まで取っておくものだ」 「まだ、何か企んでいるんだ?」  むっとした顔をしたアズライトに、内緒だと言ってヨシヒコは口元を歪めた。 「サプライズと言う奴は、先に種を明かしては面白くないだろう」 「まあ、それはそうなんだけどね」  仕方がないとパレードに視線を戻したアズライトは、目の前のパレードに対して冷静な評価を口にした。 「正直言うと、物凄くちゃちな出し物なんだけどね。たぶん、ここ以外で見たら、馬鹿にするなって怒り出すレベルだと思うわ」  そう言って目を細めたアズライトは、ため息交じりに「綺麗」と口にした。 「そうだな、ここで見るからこそ綺麗なんだろうな。俺も、こんなに綺麗だなんて思っていなかった。小さな頃にも見に来たこともあるんだがな」 「その時は、誰と来たの?」  お互い視線をパレードに向けながら、地面に体育ずわりをして手をつないでいた。 「両親や姉とだ。小さかった俺は、あれが欲しいと駄々をこねたらしいな」 「感激するんじゃなくて、欲しがるところはヨシヒコ君らしいわね」  そう言って笑ったアズライトに、ヨシヒコは視線を向けたまま「そうだな」と小さな声で答えた。 「今でも、買い取ってやろうかなんて考えている。そうすれば、使い道のない金にも使い道ができてくれるからな」 「結構、執念深いのね」  楽しそうに笑ったアズライトは、自分の手を握る力が強くなったのを感じた。 「ごめん、気に障った?」 「いや、セラフィムさんの言う通りだと思っただけだ。どうやら、俺は諦めが悪くて執念深いらしい。それを、改めて実感していたんだよ」  深刻と言うほどではないが、真剣な顔をしてヨシヒコはまっすぐ前を見続けた。それを横目で見たアズライトは、綺麗だなと少し感心していたりした。ただ真剣な顔をしたヨシヒコは、やはり女ではなく男なのだと思っていた。 「執念深い俺は、まだ爵位を手に入れることを諦めていない。それが、身を滅ぼすことに繋がるとしても、やはり諦めることができないんだ」 「現実に跳ね返されるのは、身を滅ぼすこととは違うと思うわよ」  手も足も出ないことを思い知らされるのは、身を滅ぼすこととは遠く離れたことなのだ。それを指摘したアズライトに、ヨシヒコは違うなと言い返した。 「買い取るための金を集める。俺は、それを株の投資で実現しようとしている。だが、そんなことをすれば、周りに敵を作りまくることになるんだ。投資の世界でも敵を作ることになるが、本当の問題はそんなところにはない。買い取ってやると言う俺の態度が、爵位保有者の反感を買うことになるだろう。俺が突っ張り続ければ、それだけ反感も強くなってくるんだ。そしてその先に待っているのは、俺自身の破滅以外は無いだろうな」  今は子供の夢と笑っていられても、そのうち笑い話で済まなくなってしまう。ヨシヒコは、それを理解していると打ち明けたのだ。 「でも、それでもいいと俺は思っていた。夢が叶わないのなら、残された人生など抜け殻でしか無い。本当に、昨日まではそう思っていたんだ。だから、セラムとのことにしても、あまり拘るようなことじゃないと思ってた。どうせ諦めてしまった人生なら、この先どうなったとしても大したことはないからな」 「さすがに、それは言い過ぎだと思うよ。さすがに、セラムさんも可哀想だし。でも、それも昨日までなんだよね? もしかして、私に会って考えが変わったとか?」  その質問が、自分を追い詰めることになるのをアズライトは気付いていなかった。もしもそうだとヨシヒコが答えた時、どう答えるべきかも準備をしていなかったのだ。とっさにアリエルが忠告をしたが、アズライトは耳を貸そうとはしなかった。  だがヨシヒコは、それ以上独白を続けなかった。そしてそれまでとはがらりと空気を変え、お腹が空いたと両手でお腹を押さえた。 「そうやって、答えをはぐらかす?」  酷いなぁと文句を言うアズライトに、事実だから仕方がないとヨシヒコは言い返した。そして、いいレストランがあると言って立ち上がった。 「このパレードが終われば、後は花火を見てここは終わりになる。来るときは高速コミューターを使ったが、帰りは雰囲気を出すためクルーズ船を手配してある。今日だけの約束だからな、ホテルには12時前に着くだろう。だから、今のうちに腹ごしらえをしておいた方が良いんだ」 「そうか、もうそんな時間なんだ」  暗くなったのは実感していたが、終わりが近いと言うのはあまり考えていなかった。まだまだ遊び足りないし、まだまだ一緒に居たいとアズライトは思っていた。なにしろ、アズライトの生きてきた記憶の中で、今日ほど楽しかったことは無かったのだ。天災と言われ、各国領主府をおちょくったことは比較にならないほど一日が充実していた。 「始まりがあれば、必ず終わりも訪れる。その代わり、また新しい始まりが訪れるんだ」  そう答えたヨシヒコは、ごく自然にアズライトの腰に手を回した。すかさずアリエルから忠告が入ったのだが、これぐらいならとアズライトは気にしないことにした。そんなアズライトの態度に、アリエルは恐れていたことが現実になりつつあると覚悟していた。「姉だ」と言う呪文も、いつの間にか忘れられていた。  ちょっと豪華なレストランでも、花火の時でもヨシヒコは紳士的に振る舞った。そのせいもあるのか、アズライトは「姉だ」と言う呪文を唱えることは無かった。ただゆったりと同じ方向を見て、落ち着いた気持ちで遊園地での時間を楽しんだのである。  そしてそのままの雰囲気のまま、二人はTOKYO湾のクルーズ船に乗り込んだ。そして「これが最後だから」と理由を付けて、ヨシヒコはバルコニー付の特等船室にアズライトを連れ込んだ。 「ベッドが無かったことは評価してあげよう」  宿泊の必要が無いクルーズ船だから、たとえ特等と言えどもベッドなどあるはずがない。そこそこ広い客室にあったのは、雰囲気を楽しむためのソファーとミニバー程度だった。 「俺は、紳士だと言っただろう?」  そう嘯いたヨシヒコは、ミニバーで二人分の飲み物を用意した。そしてそれをお盆に乗せ、こっちだと言ってアズライトをバルコニーに連れ出した。 「潮風にあたりながら、陸の景色を見るのもなかなかのものだろう」 「確かにそうね。でも、こうして見ると領主府ってホントに邪魔ね」  光に満たされた陸の中で、天に伸びた領主府はことさら目立っていた。しかも七色にライトアップされている物だから、周りの調和を壊しているように見えた。 「100年前までは、あんな物は建っていなかったらしいな。だから、センテニアルなんてお祭が開かれることになった。まあ、この100年、良いことも悪いことも沢山あったのだろうな」  数字上の区分の100年に、大きな意味があるものではない。ただ心の区切りとして、この100年を祝うことには意味があった。そしてこの100年は、地球にとってとても大きな100年となっていたのだ。 「ヨシヒコは、帝国に編入されたことをどう思ってる?」  それを聞くのは、皇女としての務めなのかもしれない。一番新しい領民の気持ちを、アズライトはヨシヒコから聞こうとした。  だがヨシヒコの答えは、期待した物とは違うものだった。 「どうと言われてもな。俺が生まれた時には、すでに地球は帝国の一部になっていた。その時のことは歴史で習いはしたが、ただ事実として受け止めただけで、良いとか悪いとか考えたことは無かったな。100年経ったからではなく、今の姿が俺にとっての自然なことなんだ」 「少し期待外れ。もう少し、帝国に対する感情的な答えが聞けると思ったんだけどな」  残念そうにするアズライトに、無理を言うなとヨシヒコは苦笑した。 「感情的なものがあるほど、帝国は俺にとって身近なものじゃない。俺にとって宇宙を感じるのは、そうだな、株の取引をしている時ぐらいだろう。その時だけは、銀河の広がりを意識しないわけにはいかないからな」 「じゃあ、私と会ったことは?」  アズライトの質問は、とても危ないものに違いない。それもあってアリエルがすかさず注意をしたのだが、アズライトはそれも無視をした。 「セラフィムさんと会っても、帝国を意識なんてしなかったな。別に、帝国なんてどうでもいいと思っているよ。ただ、こうして巡り合えたことだけが大事なことだと俺は思う」 「そうね、私もヨシヒコに巡り合えてよかったと思うわ」  そう答えたアズライトは、光の煌めく領主府の方を見た。 「邪魔くさいけど、それでも綺麗ね」 「ああ、俺も初めて見たが、やっぱり綺麗だと思うぞ」  その言葉を最後に、二人の間から言葉が消えうせた。耳に届くのは、船が波を砕く音と、マストが風を切る音だけだった。無言のまま、二人は目の前をゆっくり動く景色を眺め続けた。座った椅子は離れていたが、相手を確かめるように手は繋がれていた。  浦安からヨコママまで、まっすぐ進めばさほど時間は掛からない。ただ湾内観光を兼ねたクルーズ船は、TOKYO湾をゆっくり3時間掛けて航行する。そのため一度外海に出た時には、にぎやかさから一転して、暗闇が二人を覆い尽くした。  静かな暗闇の中、アズライトは自分の鼓動が聞こえる気がしていた。残され時間がわずかと言う思いが、アズライトを追い詰めていたのだ。今日一日が楽しかったから、一緒にいて気持ちが良かったから、そして触れられるのが嬉しかったから、アズライトはヨシヒコと離れたくないと思っていた。明日も明後日もその次も、ずっと一緒にいたいと考えるようになっていた。  すかさずアリエルが緊急プログラムを始動させたのだが、今度ばかりは何の効果も示してくれなかった。アリエルが忠告した通り、静かな浸食に対して緊急プログラムは役に立たなかった。正確に言うのなら、それは侵食ではなくアズライト自身の心に芽生えたものだったのだ。 「ねえ」  静寂を破り、アズライトはヨシヒコに声を掛けた。そして答えを待たず、パレードの時の質問を蒸し返した。 「昨日までと昨日から、ヨシヒコ君は何が変わったの? 夢が叶わないのなら、人生に未練なんかないって言うのが変わったの?」  パレードの時は、その答えは無言を持って示された。だが今度の質問に、ヨシヒコは答えたくないと言う答えを返した。 「どうして?」 「答えたくないと言うのは、立派な答えだと思うのだがな」  少しぶっきらぼうに答えたヨシヒコに、アズライトはつないでいた手を離し、チェアから立ち上がった。そしてゆっくりと、ヨシヒコの正面に立った。 「でも、私は聞きたいの」  そう言って、アズライトは跨るようにしてヨシヒコの膝に座った。そしてヨシヒコの胸に手を当て、「答えて」と答えを迫った。 「ずいぶんと、残酷なことを聞くんだな」 「自分でもそう思う。だけど止められないから」  まっすぐにヨシヒコの目を見たアズライトは、「答えて」と繰り返した。 「それでも、答えたくない」  頑として答えないヨシヒコに焦れ、アズライトは両手でシャツを掴んだ。そのまま自分の方へ引き寄せ、強引にヨシヒコにキスをした。ここでも、アリエルの緊急プログラムはアズライトを正気に引き戻すことはできなかった。  何度も息継ぎをして、アズライトはヨシヒコとのキスを続けた。その間なすがままとなったヨシヒコだったが、その両手は何度もアズライトの背中でさまよい続けた。抱きしめようとしてすぐにそれを思いとどまる。キスをされている間、その動作をずっと繰り返し続けていた。 「ヨシヒコ君に答えられるようにしてあげる。悔しいけど、私はあなたのことが好き。ううん、きっと愛してしまったと思う。すべてを捨ててでも、あなたのことが欲しいと思ってる。テラノに残ることを、今は真剣に考えているわ」  突然の告白に、さすがのヨシヒコも我慢の限界に達しようとしていた。想定していたこととは言え、それが現実になると話は変わってくる。そして答えを用意していたはずなのに、ヨシヒコはその答えを口にすることをためらってしまった。  だが内海に戻ったのを知らせる汽笛に、すぐに時間が残されていないことに気がついた。すでに視線の中には、目的地のみなとみらいの煌めきが映っている。もう、アズライトと恋人でいられる時間は残されていなかった。  それを悔しいと思ったヨシヒコは、ようやく自分の気持に向かい合うことが出来た。駆け引きでも何でも無く、一緒にいたいという気持ちはアズライトと同じだったのだ。その思いに気づいたヨシヒコは、計算よりも自分の気持ちを大切にしようと覚悟を決めた。それが破滅につながるとしても、この気持だけは抑えられないと思ったのだ。そして押さえた時点で、自分は本当に抜け殻になってしまうのだと。 「命よりも、もっと大切なものを見つけたんだ。今日の景色も、あなたと一緒だから綺麗だと思えたんだ」  だからヨシヒコは、予定とは違う答えを口にした。その答えがどのような意味を持つのか、それが分かっていても止めることは出来なかった。  苦しそうに吐き出された言葉に、アズライトは大きく目を見張った。そんなアズライトに、今度はヨシヒコの方から唇を重ねた。アズライトより情熱的に求めたヨシヒコだったが、再び鳴った汽笛にため息と同時にアズライトの体を押した。 「たった一度だけのことでも、そしてそれで命が絶たれることになっても。俺は、あなたのことを自分のものにしたいと思ったんだ。もう、あなたの居ない世界は考えられない。多分、それは愛と言うものなのだろう。俺はあなたの魅力で魔法にかかり、あなたを愛してしまった」  ヨシヒコの告白に驚き、アズライトは両手で自分の口元を覆った。ただ驚きはしたが、それは自分自身の望んだ答えでもあった。だがヨシヒコの告白は、それだけでは終わらなかった。 「でも、魔法はいつか解けてしまうものだ。そして魔法が解けてしまえば、俺もあなたも、夢から覚めないといけない。命はいらないと言ったが、それは俺の嘘偽りのない本心だ。だがその思いは、同時にあなたを苦しめることになってしまう。灰被りの姫は、魔法が解けて普通の娘に戻った。だけどあなたは、魔法が解けても普通の娘になることはできない。だから俺は、愛してると言ってはいけなかったんだ。だけど、この思いは計算では止めることは出来なかった」  そう告白して、ヨシヒコは右手をアズライトのうなじにあてた。それに応えて目を閉じたアズライトに、ヨシヒコはもう一度唇を重ねた。軽く触れるだけのキス、ついばむようなキスをして二人は正面から向いった。 「どんな苦しみも、あなたといられない苦しみとは比べられない。私は、あなたと一緒に生きていきたい。私をあなたのものにして欲しい」  そう言って、アズライトはヨシヒコの手を自分の胸に誘った。 「全部、あなたに触れてもらいたい……」  だから。そう言ってアズライトが口づけをしようとした時、今までとは違う汽笛が高らかに鳴った。そしてその汽笛を聞いたヨシヒコは、キスをしようとしたアズライトの体を押しとどめた。  「ああっ」苦しみや悲しみの込められた声を上げ、ヨシヒコは暗い空を見上げた。そして一度大きく息を吐いてから、まっすぐアズライトの顔を見つめた。アズライトを見るヨシヒコの顔からは、感情というものが完全に抜け落ちていた。そして驚くほど平坦な声で、一日が終わったことをアズライトに告げた。 「少しだけ、船の運航が遅れていたようです。今のが、12時を告げる汽笛でした。そして12時の鐘が鳴れば、灰被りの姫のように俺は地球の一庶民に戻り……」  そこで一息ついたヨシヒコは、アズライトを自分の膝から降ろした。そして驚くアズライトの前に、まるで臣下のように跪いた。 「そしてあなたは、帝国第二皇女に戻らなくてはいけない」  恭しく頭を下げたヨシヒコは、アズライトの聞きたくなかった言葉を口にした。 「アズライト皇女殿下。これまでの非礼の数々をお詫びいたします。この責任は、私の命を持って償わせていただきます」 「ヨシヒコ、何を言っているの!」  取り乱したアズライトに、ヨシヒコは感情の篭もらない声で決定的なことを口にした。 「お別れを申し上げました。これからあなたは皇女に戻り、私は不遜な真似をした咎人として、地獄に落ちることになるのです」 「何を言ってるの……」  だから深入りをしてほしくなかった。呆然とするアズライトに、アリエルは恐れていたことが現実になったと嘆いたのだった。帝国皇女と一般庶民が結ばれることなど、考えることすら不遜なことだったのだ。  だが厳しい現実はこれで終わったわけではなかった。間もなく減速したクルーザーは、ゆっくりと港へと接岸した。そしてすぐに梯子がかけられ、ヘルメットとゴーグルで顔を隠した大勢の兵士が、クルーザーへと乗り込んできたのだ。一体何ごとが起きたのだと、乗客たちは突然の出来事を呆然と見つめるだけだった。  クルーザーに乗り込んだ兵士たちは、まっすぐに特等船室へと向かっていった。そして入口のドアを蹴破って、船室の中になだれ込んだ。 「あなた達は何者です。誰の許しを得て、こんな真似をしているのです!」  突然のことに驚いたアズライトだったが、すぐに気を取り直しヨシヒコを残し兵士たちに向き合った。たとえ身分を隠しているとは言え、帝国皇女に対してあってはならない振る舞いだったのだ。  アズライトの叱責に、部屋になだれ込んだ兵士たちはその前に整列した。そしてその列が開いた時、そこにはテラノ総領主ジェノダイトが立っていた。 「小父様、これは一体どう言うことですか!」  自分を睨みつけるアズライトに、ジェノダイトは恭しく頭を下げた。そして思いもよらない言葉を、アズライトに言った。 「アズライト第二皇女殿下を保護しに参りました。そして、不敬を働いた大罪人を処分に参りました」 「不敬を働いた大罪人とは、誰のことを言っているのです!」  ここにいるのは、自分以外はヨシヒコだけだった。だがアズライトには、ヨシヒコが不敬を犯したなどと考えていなかった。ただ単に、自分達は愛しあっただけでしか無い。それにしたところで、最後の一線は超えていないと思っていた。ただ単に、お互いの気持を確かめただけだと。 「そこに居る、ヨシヒコ・マツモトです」  はっきりと言い切ったジェノダイトに、それは違うとアズライトは言い返した。 「確かに彼とはVXを一緒にしたわ。それにしたところで、私が身分を隠して勝手に連れ込んだだけのことです。そして今日のことにしても、私がヨシヒコに許しただけです。私がヨシヒコを愛し、ヨシヒコが私を愛してくれた。不敬罪に当たるようなことはないはずです!」  絶対におかしいと、アズライトはジェノダイトを睨みつけた。 「私がヨシヒコを愛している以上、誰にも文句を言われる筋合いはありません! 彼も、私のことを愛していると言ってくれました。私達は、お互いの愛を確認し合ったのです!」  だから不敬罪などではない。それを繰り返したアズライトに、ジェノダイトは悲しい顔をして首を振った。 「アズライト様、あなたのお言葉が彼を殺すことになるのを気づいてらっしゃらないのですか? VXに行ったことも、あなたの唇を奪ったことも、局所に触れたことも、昨日のことは不問に処すつもりで居ました。それはあなたの罪であり、その少年の罪ではないからです。ですから、リルケに知られるわけにはいかないと思っていたのです。そして今日のことにしても、昨日程度の事なら必要なことと不問にするつもりで居ました。不敬罪と言っても、しばらく拘禁する程度のものでしか無かったのです」  そう答えたジェノダイトは、顎を動かし兵士に行けと命令した。その命令に従い、3人の兵士がアズライトの横をすり抜けていった。 「それは、どう言うことです!」  大きな声を出して叫ぶアズライトに、ジェノダイトは唇を噛み締め首を横に振った。 「まだ分かりませんか。あなたが、その男を愛することを止めることは出来ません。そして、その男があなたを愛することも止められないでしょう。ですが、その男にそれを口にすることは許されていないのです。ましてや、お互いが愛を確かめ合うことなど言語道断なのです。銀河において帝国は唯一無二、そして皇帝聖下も唯一無二の存在なのです。その立場は、アズライト様も同じなのです。そのアズライト様を汚しただけではなく、身分も弁えず愛を語らった。それが、その男の罪なのです!」 「私は汚されてなどいません!」  絶対におかしいと叫んだアズライトは、ヨシヒコの方へと振り返った。 「私のヨシヒコをどうするつもりです!」  アズライトの目の前で、ヨシヒコは二人の兵士に押さえつけられていた。そして一人が銃を頭に突きつけ、もう一人は用心するように離れて銃を構えていた。 「このことは、公にするわけにはまいりません。テラノには、初めからヨシヒコ・マツモトなる少年は居なかった。そう言うことです」  「やれ」ジェノダイトが命じようとした時、それよりも早くアズライトが動いた。左手薬指に嵌めた指輪、ラルクが赤く輝き、ヨシヒコの体を非在化させて兵士から守ったのである。銃声が鳴り響いたのは、押さえていた兵士たちの腕が空振ったその時だった。 「ヨシヒコを死なせはしません! 帝国第二皇女の名において命じます。あなた達は、直ちにここを立ち去りなさい!」  大声で喚いたアズライトに、ジェノダイトは憐れみの眼差しを向けた。そして小さくため息を吐いてから、それが出来ないことをアズライトに告げた。 「アズライト様には、その権限がありません」 「なぜです! 私は、継承権第三位を持つ皇女のはずです!」  だから従えと命じたアズライトに、ジェノダイトは冷静に法の原則を告げた。 「帝国法では、たとえ皇帝と言えど現地司法への介入は制限されています。そして刑法犯に対しての介入は許されておりません。皇族は治外法権となっていますが、現地住民には現地の法が適用されます」  ジェノダイトがそう宣言した時、「もはや議論の必要はありません」と言う女性の声が聞こえてきた。その声に驚くアズライトの前で、ヨシヒコに銃を突き付けていた女性がヘルメットとゴーグルを外した。  その途端溢れ出た黒色の髪に、アズライトはその兵士が女性だったことを知らされた。明らかに場に不似合いな美しさをした女性兵士は、銃をしまいながら処置が完了したことをジェノダイトに伝えた。 「私達が手を下すまでもなく、皇女殿下が自ら始末してくださいました。皇女殿下のお手を煩わせましたことをお詫びいたします」 「あなたは、何を言っているの!」  自分が始末したと言われ、アズライトは大きな声を上げた。自分はヨシヒコを守ったのであり、“始末”などしていない。そんなアズライトに、その女性は表情一つ変えずに事実を口にした。その声はとても硬質な響きを持ち、感情をどこにも見つけることのできないものだった。 「アズライト様は、自らの手で彼を世界から消滅させました。私は、そう申し上げました」 「そんなはずはありません。ラルク、ヨシヒコを元に戻しなさい! ラルクっ!」  アズライトの命令に従い、指輪は赤い光を強くした。だがいくらヨシヒコを戻そうとしても、非在化した状態からは戻ってこなかった。それどころか、まるで砂の城が崩れるかのように、サラサラと音を立てて崩れ始めた。 「いやっ、ラルク、彼を戻してっ! ヨシヒコ、ヨシヒコっ、ヨシヒコを戻して!」  狂った様に叫んでも、ヨシヒコが崩れ落ちていくのを止めることは出来ない。そしてすぐにヨシヒコは形を失い、かつて彼が居た場所に小さな砂の山を作った。 「これで、ヨシヒコ・マツモトの存在はこの世界から消滅しました。後は、彼にまつわるすべての記録を抹消いたします。同時に、関係者の記憶からも彼の記憶を消すことと致します」 「どうして、そこまでしてヨシヒコのことを消すのよ……」  膝から崩れ落ちたアズライトは、涙を流しながらその女性を睨みつけた。 「あってはならないことが起きたから。彼はジェノダイト様の忠告を忘れ、分を弁えないことを致しました。テラノと言う星のためにも、不祥事自体あってはならないことなのです。ですから、彼の死そのものをなかったことにする必要があるのです。彼には期待していたのですが、私に見る目が無かったと言うことでしょう。そうでなければ……」  そこで言葉を切った女性は、追い打ちになる言葉をアズライトに掛けた。 「皇女殿下の魅力と言うものに、命すら惜しくないと思ったのかもしれません。いずれにしても、愚かな行為には違いないでしょう」  アズライトにそう告げた女性は、小さく頷いてジェノダイトの隣に立った。それを受けたジェノダイトは、残りの兵士たちに後始末をするように命じた。 「少年の痕跡を、たとえ砂ひと粒と言えど残すのではないぞ!」 「やめてっ!」  アズライトが懇願したが、兵士たちの動きに遅滞はなかった。備品庫からブロワーを取り出し、ヨシヒコだった物を風で吹き飛ばし始めた。 「お願い、やめてっ!」  狂ったように、アズライトはかつてヨシヒコの居た場所に飛びついた。そしてヨシヒコだったものを、必死で掻き集めようと両手でフロアーから砂をかき集めた。だがアズライトに与えられたのは、ザラリとした砂と何か固いものの感触だけだった。それに気づいたアズライトは、手元に金属の筒が落ちているのに気がついた。 「これは……ヨシヒコのID」  唯一残った形見を、アズライトは絶対に離さないと胸元に抱え込んだ。唯一残ったヨシヒコの生きた証、それを消させる訳にはいかないのだと。 「辛いだけですよ」 「それでも、これ以上ヨシヒコの生きた証を消させはしません!」  絶対に譲らない。身を丸くしてIDを隠すアズライトに、ジェノダイトは小さくため息を返した。 「では、そのIDの処分は致しません。その代わり、大人しく私共の用意した宿舎にお入りください」  こちらにと言われ、アズライトはゆっくりと立ち上がった。その時のアズライトに、天災皇女と言われた面影は残っていない。どこにでもいる少女のように、悲嘆にくれた一人の女性がそこにいたのである。 Last chapter  アズライトの宿舎は、ジェノダイトの住まう領主府に用意された。普段ジェノダイトが執務するエリアから100mほど上層に用意された部屋は、固い装甲と自立飛行機能を持つ、空に浮かんだシェルターとなっていた。単独で銀河渡航も可能と言う、宇宙船の機能まで備えたブロックである。  クルーズ船から連れ出されたアズライトは、宇宙を飛び回る天災の面影は残っていなかった。ただ残されたIDを宝物のように抱きしめ、世話人の誘導に大人しく従うだけの少女でしかなかった。 「私には、やり過ぎとしか思えないのだがね」  アズライトを無事特別室に「封じ込めた」ことで、ジェノダイトは一息つくことができた。そして一人呼び出した女性、アセイリアに向かって疑問を口にした。 「君ならば、もっと他にやりようがあったと思うのだがね」  明らかに非難するような口調に、カーキの軍服を着たままのアセイリアは、表情も変えずにジェノダイトの希望に沿っただけだと答えた。 「総領主様は、皇女殿下の完璧なコントロールを求められました。これで、センテニアルへの懸念の一つを取り除いたことになります。攻略不能と言うラルクですが、これでしばらく使うこと……いえ、触れることもできなくなるでしょう。ラルクを使えなければ、あの部屋から一歩も外に出ることはできません。もっとも、外に出ようと言う気持ちは当分起きないと思いますが」 「確かに、私はアズライト様の行動をコントロールして欲しいと依頼をした。完封できるのなら、それに越したことがないと言ったのも確かだ。だがな……」  それでも、さすがにこれはやり過ぎとしか言いようがない。それを問題としたジェノダイトに、アセイリアは長い髪が気になるのか、右手で持ち上げながら指示通りだと答えた。 「お体に傷をつけていません。それ以外なら、許容範囲かと思いますが?」  それが何かと、端正な顔をジェノダイトに向けた。 「君が、アズライト様のお心を壊すなどと考えていなかったのだよ。あれでは、体に傷をつけるのよりももっと悪い」 「でしたら、そのことも禁止事項にしていただきたかったですね」  悪びれずに答えたアセイリアは、難しい顔をしたジェノダイトにいくつかの建前を口にした。 「今回の事件は、皇女殿下に不埒な真似をした庶民を罰しただけのことです。そして、皇女殿下自ら手を下された。殿下のお心と言う問題を除けば、サジタリウスやチェンバレン、カプリノスで起きたことと変わりません。それに、殿下の行動を許容範囲から逸脱させるわけにはまいりません。皇女として生まれた役目を忘れると言うのは、けして許されることではないでしょう」  それからと、アセイリアはアズライトなら大丈夫とジェノダイトに告げた。 「皇族として純粋培養された皇女殿下です。この恋にした所で、麻疹にかかったようなものでしょう。今は喪失を嘆き悲しんでいますが、時が経てば癒される程度のものでしかありません。ご自身の立場を思い出されれば、仕方のないことだとご理解いただけるでしょう。今は悲嘆にくれて何もできないのでしょうが、一応対策も考えてありますのでご安心ください」 「対策、かね。それは分かったが、君は本当にそれでいいのか? 確かに、アズライト様は立ち直られるかもしれない。だが、君への憎悪は拭い去られることは無いだろう。なぜ君は、あそこでアズライト様に顔を見せたのだ。アズライト様に憎悪されるのは、私でなければいけなかったのだよ」  踏み込んだ者に類が及ばないよう、全員名無し顔なしになるようにしたのだ。それなのに、アセイリアはフェースガードどころか、ヘルメットまで外して素顔を晒している。そのせいで、憎悪の対象がジェノダイトではなくアセイリアに向かってしまった。 「私が、強く憎まれたいと願ったからです。それに合理的な判断をすると、ジェノダイト様と皇女殿下が仲たがいをするのは好ましくありません。でしたら、すべての憎悪を私に押し付けるのが好ましいことだと思います」  柔らかく笑ったアセイリアに、ジェノダイトは一瞬言葉を失ってしまった。彼女の気持ちを考えれば、微笑むことなどできないと思っていたのだ。だが目の前の女性の笑みからは、少しも曇りを感じることはできなかった。 「ザイゲルは……」  言葉を失ったジェノダイトに、アセイリアはもう一つの問題を口にした。 「地球に手を出そうとしているのを知っています。おそらく、センテニアルに合わせて武力侵攻することを考えているのでしょう。地球が目の敵にされる事情は存じませんが、それでも彼らの行動を推測することはできます。今回の武力侵攻は短期間で行われ、帝国が動く前に彼らは撤退することになると思います。そして今回の侵攻の効果を高めるため、センテニアルへの破壊工作も行ってくれるでしょう」 「こう言った情報は、民間には落ちていないと思っていたのだが……」  だがアセイリアは、ジェノダイト以上にザイゲルの行動を分析して見せた。今聞かされた範囲では、間違いを指摘することもできない推測だった。 「地球レベルではそうなのでしょうが。外に目を向ければいくらでも情報を集めることはできます。おかげで寝不足なのですが、おおよそのことは理解することができました。ですから総領主様が求められたセンテニアルの成功。そのためには、ザイゲルへの対策が必要になると思っています」 「ザイゲルは、何をしてくると考えているのかな?」  テロの危険性については、マグダネル大将も指摘していることだった。それを念頭に、ジェノダイトはアセイリアの考えを質した。 「たしか、皇女殿下はグリゴンを訪問されていますね。皇女殿下らしいと言えばそれまでなのですが、かなり彼らを混乱させたと言う記録を見ています。行政機能の10%が麻痺し、しかも投入した軍まで虚仮にされています。おそらく、彼らは皇女殿下を引き裂いてやりたいと思っているのではないでしょうか」  アセイリアの指摘に、ジェノダイトは苦笑交じりにそれを認めた。 「もともと皇帝に対して強く反発しているのがザイゲルだ。そしてグリゴンは、そのザイゲルの総本山でもある。そこで虚仮にされれば、アズライト様を宿敵と考えてもおかしくはないだろう」  ジェノダイトの答えに、アセイリアは満足そうに頷いた。 「H種の地球が、センテニアルと言う節目を祝う式典を開く。そしてそこに、宿敵とも言える皇女殿下が派遣される。間違いなく、皇女殿下はザイゲルの目の前にぶら下げられた餌ですね。それを考えれば、彼らのとる行動など容易に推測ができます。皇女殿下を拉致し惨殺する。そして惨殺死体をセンテニアルの式典で晒す。その上で、式典自体を攻撃する。おそらく、観光客に紛れて工作員が潜入していることでしょうね」 「その可能性は、マグダネル大将からも指摘された。だが、今の所潜入工作員を捕捉できていないらしい」  彼我の技術レベルを考えれば、補足するのは困難を極めるはずだ。その認識は、ジェノダイトも共有したものだった。そんなジェノダイトに、「思いつきですが」と断ってアセイリアは対策を一つ提案した。 「古くから地球にある方法ですが、犬を使うのはいかがでしょうか。種それぞれに特有の匂いがあるのなら、匂いを頼りに工作員を探す方法があります。機械を使うより広範囲で捜索できますから、工作員捕捉の効率を上げることができるかと思います」  その提案の効果は、ジェノダイトには理解できなかった。だがアセイリアの提案だからと、マグダネル大将に伝えることにした。 「私には理解できないが、一応マグダネル大将には伝えることにしよう。ネイサン、今の説明と併せてマグダネル大将に伝えておいてくれ」  ジェノダイトの指示に、アバターのネイサンはすぐに情報をマグダネル大将に伝えた。  自分の意見が採用されたことに喜んだアセイリアは、もう一つとジェノダイトにお願いをした。 「明日から発足する統合司令本部ですが、そこに私も加えていただけないでしょうか?」 「知っていたのかね。まったく、情報管理はどうなっているんだ」  つい苦笑してしまったジェノダイトは、アセイリアの希望を叶えることにした。 「分かった。メンバーとして、君も登録しておくことにする。その際君に与える権限だが、私の代行と言うことで良いかな?」  総領主の代行ともなると、各軍に対する命令権を持つことになる。それを持ち出したジェノダイトに、アセイリアは必要ないと首を振った。 「領主府から派遣していただければ、スタッフの一人と言うことで結構です。その方が、皆さんの反発も少ないかと思います。もっとも、すぐに鼻つまみ者になる自信はありますけどね」  楽しそうに笑うアセイリアに、ジェノダイトは小さくため息を吐いた。 「君は、どうして面倒を背負い込もうとするのだね?」 「それが、皇女殿下をお守りするのに最善だと考えているからです。殿下だけは、私の命に代えてもお守りする覚悟ですよ」  その覚悟が本気だと分かるだけに、ジェノダイトは素直に認めることはできなかった。だが否定しようにも、彼女を頼らなければならない事情に変わりはなかった。それを認めたジェノダイトは、アセイリアのしたいようにさせることにした。 「では、君を主要検討メンバーに加えるよう通達を出しておく。その方が、無駄な時間を使わなくてすむだろう」 「総領主様のご配慮に感謝いたします。では、そろそろ私は休ませていただきます。さすがに、徹夜を二日続けたくはありませんので」  アセイリアのお辞儀に合わせて、彼女の後ろに出入り口が現れた。 「総領主様も、お休みになられた方が宜しいですよ。明日からは、ますます忙しくなると思いますから」  失礼します。そう言い残し、アセイリアは扉をくぐって反対側の世界に消えて行った。そしてアセイリアが通った扉は、その役目を果たしたところで唐突に消滅した。 「今は、余計なことを考えている時ではないか」  すでに、式典までは1週間を切っている。式典の成功以外のことは、すべて切り捨てなければならない時が訪れてしまったのだ。改めてそれを思い知らされたジェノダイトは、必要な手配を済ませることにした。 Episode 1 The young man and the young Princess... end