<<学園の天使>>

180:







 パレ・ド・ナシオン、国連本部の置かれたエリアはそう呼ばれていた。国際連盟時代の建物が多く、その後の大戦、セカンドインパクトを無事乗り越えてきた歴史ある建物達である。
 その一角に設けられたオフィスを出たカエデは、広い敷地の中を散歩するように出口へと向かった。カエデほどの立場になれば、送迎の車が用意されてしかるべきである。だが、予定外に早く出たこと、天気が良いから歩きたいというカエデの希望に従い、今の状況が作り上げられることとなった。春と言う季節が分かりにくくなっているが、4月の太陽はジュネーブの町を燦々と照らしていた。至る所に作られた花壇には、色とりどりの花が咲き乱れている。仕事を放り出したという罪悪感を忘れれば、とても気持ちの良い景色がそこに広がっていたはずだった。その景色の中を、少し楽しげにカエデは歩いていた。

「もう、春なのね……」

 特に季節を意識したわけでも、その言葉自体に深い意味があったというわけではない。ただ自然に、カエデは周りの事を口にしただけだ。だがその言葉が口に出たことは、カエデに変化が現れるきっかけとなったようだ。「春なんだ」ともう一度口にしたのをきっかけに、カエデの表情が曇りはじめていた。
 そしてカエデは気づいていないのだが、彼女は周りの注目をしっかり集めていた。ハイティーンの日本人女性自体珍しいこともあるが、国連の中では知らない者が居ないほど有名だったのだ。そのカエデが、敷地内を散歩しているように見えるのだから、注目を集めるのも当然のことだろう。それでも誰も声を掛けてこなかったのは、それを拒む空気をカエデが纏っていたからに他ならない。結局誰一人から声を掛けられることもなく、バス通りに面した正門へとカエデはたどり着いた。カエデの住む旧市街までは、電気バスに乗って15分ほどの距離にあった。

 運転手に無料パスを見せたカエデは、そのまま連結された前方の車両に乗り込んだ。まだ早い時間と言うこともあり、乗っているのは数人の観光客程度だった。いくつか空いていた席のうち、一人掛けの席を選んだカエデは、黙って座るとバスの桟に肘をついた。そして明るい外の世界へ、ぼんやりとした視線を向けた。だが、いくつか立ち並ぶ国際機関の建物も、綺麗なホテルやブティックのディスプレイも、そして芽吹いたばかりの緑の木々も、目には入っても、カエデの心には届いていなかった。
 ぼんやりとしたカエデだったが、目的地にたどり着いたところで瞳に意志が帰ってきた。だが浮かんだ表情は、魅力的というにはほど遠いものだった。それはまだ17の女性が浮かべるには、あまりにも疲れた表情となっていたのだ。そしてバスから降りたカエデの足取りは、疲れた表情を写し取ったようにとても重かった。それは光あふれる世界とは全く対照的、カエデ一人世界から取り残されているように見えた。

 重い足を引きずりながら、カエデは表通りから一本奥の裏道へと入っていった。もっとも旧市街ともなると、表通りと裏道の差は少ない。石畳が敷かれた道は、どちらも車が通れないほどに狭かった。ただ違いと言えば、建物の表口か裏口かの違いぐらいだろう。そして裏道ともなると、さすがに人通りが少なくなってくる。昼間でも日陰になって薄暗く、しかも人通りが少ないことをノエインの少女達は心配していた。
 だがカエデの立場にもなれば、危ないことなど起きようがないというのが現実だった。人通りが少なく見えても、あくまでリリンの基準での事だった。視線を多層空間に向ければ、と言っても、リリンにはその感覚がないため見ることはできないのだが、多層空間経由で手厚い警護体制が敷かれていたのだ。無警戒に裏道を歩けるのも、それを知らされているからだった。

「早く帰っても……何もすることなんてないし」

 風通しが悪いせいか、裏道には熱気が籠もっていた。ひょっとしたら、季節外れの暑さにエアコンが動いていたのかもしれない。トートバッグからハンカチを取り出したカエデは、せわしなく額ににじんだ汗をぬぐった。オフィスを出るときは、いろいろとしなくてはと思っていたはずだった。だが現実に家に近づいてくると、その“何”が思い当たらなかった。

「みんなは、美容サロンに行くって言っていましたね……ああ、そうだった」

 そこでカエデは、自分も美容院に行くという感覚が抜け落ちていたことを思い出した。ここのところカットに行っていないせいか、髪のまとまりが悪くなっていたのだ。以前は肩口に掛かるぐらいの長さの髪も、今は背中にまで届こうとしていた。狙ってロングにしたのではなく、それが無精の結果というと悲しくなってしまう。

「美容院は……新市街だったっけ。
 またバスで戻らなくちゃ……」

 せっかく帰ってきたのに、またバス停へと後戻りと言うことになる。と言っても、このまま家に帰るのもしゃくに障ってしかたがない。小さくため息を吐いたカエデは、今来た道を引き返そうと振り返った。そして振り返ったところで、思いがけない顔を見つけて大きく目を見開いた。

「やあ、驚かせてしまったかな?」

 自分に向かって微笑む相手、そして掛けられた声に、幻ではないことをカエデは確認した。だが幻ではないことは分かっても、頭の方は働いてくれなかった。

「え、その、なぜ、どうやって……碇さんは、明日到着する予定ですよね。
 出発したって連絡も貰っていませんよ……」

 シンジを相手に、どうやってと言うのは相当な愚問だろう。何しろシンジには、最高評議会副議長様が付いている。さもなければ、エリカがパーガトリのビジネスパートナーになっている。そのどちらかの力を借りれば、ジュネーブに来るのは買い物に行くのと変わらない労力のはずだった。そしてシンジは、多層空間の感覚を持つ、唯一のリリンでもあったのだ。
 だがカエデも知らないことなのだが、シンジは今回の件でどちらの力も使っていなかった。ジュネーブまでの移動も、全て自力でやってのけた。命じたことと言えば、カエデに付いているガードを外したぐらいだろう。自分の許可が出ない限り、自分およびカエデに対して一切の監視を禁止したのである。

 狼狽するカエデに、シンジは微笑みを返した。そしてカエデに近づき、「会いに来た」と簡単に告げた。

「で、でも、どうして……わざわざ一人で」

 会いに来たという言葉に、カエデの顔に朱が差していた。そしていままで以上に狼狽えて、どうしてをもう一度繰り返した。
 そんなカエデの隣に立ったシンジは、答える代わりに腰に手を回して引き寄せた。

「い、碇さんっ!」

 普段のシンジからは考えられない行動に、声が裏返るほどカエデは驚いた。だが本当の驚きは、次の瞬間周りの景色が変わったことだろう。たった今まで、旧市街の裏通りにいたはずなのだ。だが瞬きする間もなく、とても見慣れた場所、そう自分の部屋に帰っていたのだ。
 驚きのあまり声を失ったカエデから離れたシンジは、キッチンから椅子を二つ運んできた。そのうちの一つをカエデの後ろに置くと、さっさと自分は腰掛けた。

「僕にも、これぐらいのことはできるって事だよ。
 とりあえず落ち着いて話をしようか?」
「お、お話ですか……」

 言われるままに腰を下ろそうとしたカエデだったが、すぐにシンジに何も出していないことを思い出した。そして「いけない」と立ち上がり、「何か飲みますか?」と聞いてきた。状況にはしっかりと置いて行かれているが、主婦としてしなければいけないことを思い出したのだ。

「僕は、家を出るときに飲んできたよ。
 桜庭さんこそ、僕に遠慮しなくてもいいんだからね」
「え、えっと、私は、その、のどは渇いていませんから」

 どうしようかと一瞬迷ったカエデだったが、キッチンに行くことなく椅子に座り直した。顔が少し赤くなっているのはそのままだったが、その視線はシンジからは逸らされていた。シンジに見られていることが分かるだけに、目を合わすことができなかった。こうしてシンジと顔を合わせてしまうと、自分の全てが恥ずかしくなってしまう。適当に化粧をした顔、無精して伸びてしまった髪、しわになった服も女として恥ずかしかった。

「どうして桜庭さんは、僕から目を逸らすのかな?」

 シンジは話の取りかかりとして、視線を合わそうとしないカエデの態度を持ち出した。これまでの付き合いでは、じっと見つめられたことはあっても、こんな風に視線を避けられたことはなかった。
 シンジに指摘されたことで、カエデは更に顔を上げにくくなってしまった。そして消え入りそうなほど小さな声で、恥ずかしいのだと白状した。

「手入れして無くて、髪も肌も荒れているし。
 洋服だって、こんな風にしわだらけになって……」
「僕が、それだけ桜庭さんに負担を掛けている証拠だろう?
 だったら、僕はその全てを受け止めなくちゃいけないと思うんだよ」
「ち、違うんです、これは、その、今までその気にならなかったというか……」

 それこそカエデが本心を吐露したのだが、シンジが聞けたのはそこまでだった。喋りすぎたことにカエデは気がつき、そこから先は黙り込んでしまったのだ。だからシンジは、ストレートに自分が先行してやってきた事を持ち出した。

「本当は明日クレシア達と一緒に来る話になっていたよね。
 いやっ、正確に言えば本当なら僕一人で来る予定だったかな。
 本当は桜庭さんに、色々と聞きたいことや謝っておかないといけないことがあったんだ。
 だからその分を、一日早く来て済ませてしまおうと考えたんだよ」
「聞きたいこと、謝りたいこと……」

 ようやく顔を上げたカエデは、シンジから見ても自信という物が欠落していた。そんなカエデに、「そうだね」とシンジは柔らかく微笑んだ。

「今回の集まりの目的、桜庭さんは当然気がついているんだろう?」
「それは、ジン君をここに連れてくること……」

 急遽変えられた理由は、当然カエデも気がついていた。だがそのことは、考えないようにしていただけだった。今ジントと顔を合わせても、意味のある話ができるとは思っていなかった。カエデ自身、ジントと何を話せばいいのか分からなくなっていた。
 ジントの名前を出すとき、カエデは少しも嬉しそうではなかった。それどころか、自分の気持ちが分からないかのように、戸惑いがそこにはっきりと現れていた。予想されたカエデの反応に、「それだけじゃだめなんだ」とシンジは答えた。

「イツキあたりに言わせれば、自分のこともままならないくせにって事だろうけどね。
 桜庭さんと花菱君にお節介を焼くことにしたんだよ。
 まあ、今回色々と仕掛けをしたこともあるから、そのお詫びって意味もあるんだけどね」
「仕掛け、お詫び……ですか?」

 理解できないという顔をしたカエデに、一番聞きたくない名前をシンジは口にした。

「マディラさんのことだよ。
 彼女をリリンに連れてきて、芙蓉学園に入学させることを提案したのは僕なんだ。
 そして桜庭さんの家に居る天使の女の子達と一緒に住むことを提案したのも僕なんだよ。
 そのことでずいぶんと桜庭さんに迷惑を掛けてしまったから、そのことへのお詫びをしに来たんだ」
「そ、それは、お詫びをされるような事じゃありません……
 マディラ、さんが芙蓉学園に入学することには大きな意味がありますから。
 それにアカネさん達と一緒に住むことも、芙蓉学園として大きな意味があります」

 それは、ジントがカエデに話したことに他ならない。そしてその価値については、カエデも理解はしていた。
 これまで3界の融和に貢献してきた芙蓉学園だが、それでも手の付けられていないことが残っていた。その最たる物が、エデンにおける階層社会の融和だった。最上位がコハクだけしか居ないこともあり、下層世界との溝は埋めがたかったのだ。役職候補の少年少女が入学しても、彼らの目は上にしか向かないだろう。それを埋めるためには、マディラが入学することは都合が良かったのだ。そして報告を見る限り、マディラは求められた役割を立派に果たしていた。
 だからカエデも、大きな意味があるとマディラの入学を肯定した。そしてその入学を意味のある物とするため、アカネたち下位階層の少女達と一緒に住む意味も肯定した。そんなカエデに向かって、シンジはその真意をもう一度確認した。

「本当に、桜庭さんはそう思っているのかな?」
「本当です。
 マディラさんが入学したことで、芙蓉学園の中での垣根が小さくなったと思います」
「でも、桜庭さんはマディラさんの入学が気に入らないんだよね?」
「そんなことはっ!」

 違うと否定しようとしたカエデだったが、まっすぐ自分を見るシンジの視線に口をつぐんでしまった。じっと心の奥底まで見通すような視線に、全てを見透かされている気持ちになってしまったのだ。だから反論する勢いも消え、シンジから目を逸らして俯いた。そんなカエデに、シンジは追い打ちを掛けた。

「そんなことはないって否定しないんだね。
 花菱君との思い出の詰まった家に、マディラさんが土足で上がり込んできた。
 そしてアカネさんやヒバリさんも、すんなりとマディラさんを受け入れている。
 自分の恩を忘れて、マディラさんに懐いた二人も気に入らないんだろう?
 味方だと思っていたキキョウさんまで、マディラさんが溶け込むのに手を貸しているのも気に入らない。
 誰も自分のことを考えてくれない、そう思って腹を立てているんだろう?」
「そんなことは、思っていません!! 思っていないんです……」

 すぐに反発したカエデだったが、その言葉も尻すぼみになってしまった。そんなカエデに近づいたシンジは、「おかしな事じゃない」と耳元で囁いた。

「桜庭さんを追い詰めるようなことを言ったけど、別に悪いなんて言っているつもりはないんだ。
 だって、気持ちの問題なんて理屈で割り切れるほど簡単な事じゃないだろう?
 思い出が一杯詰まった場所に、他人が入り込んでくるのが嫌だって言うのはおかしな事じゃないよ。
 しかもそこには、桜庭さんがいないんだからね」

 打って変わった優しい言葉に、カエデは驚いたように顔を上げた。その時になってシンジの顔が、息が掛かるほど近くにあることに気がついた。それはカエデにとって、ジント以外誰も近づけたことのない距離だった。驚いたカエデは、とっさに背筋を伸ばしシンジから距離をとろうとした。だがシンジは、逃がさないとばかりにさらに近づいた。

「たぶん桜庭さんは、そんなことはないって否定するんだろうね。
 僕は、それを嘘だと言うつもりもないんだ。
 でもね、それが全てだとは思っていないんだよ」

 そう言ってシンジは、更にカエデに近づいた。お互いの鼻が触れそうな距離に近づいたシンジは、「どうしたいの?」とカエデに聞いた。

「僕には、桜庭さんがどうしたいのか分からないんだ。
 花菱君やマディラさんのしたことは、役目を考えたら正しいことだと思っている。
 でもそのことが、桜庭さんを精神的に追い詰めているのも確かなんだ。
 そんな物は、監察報告を見なくても、こうして逢うだけでも分かることなんだ」
「私が、どうしたいのか……」
「そう、桜庭さんがどうしたいのかだよ」
「私は……」

 あまりの近さに顔を逸らそうとしたカエデだったが、シンジはそれを許さなかった。うつむき掛けたカエデのあごに右手を当て、まっすぐに自分の方へと向き合わせた。

「もう、時間を巻き戻すことはできないんだよ。
 桜庭さんが花菱君とこれからどんな人生を送りたいのか。
 それをはっきりさせない限り、身動きがとれない状態になってしまったんだ。
 花菱君は、これからもいろいろな事に向かい合い、多くの物を手に入れることになるだろうね。
 でもそれは、桜庭さんが用意した物ではなく、花菱君自身が自分でつかみ取る物なんだ。
 それを認めることができないのなら。これからもずっと桜庭さんは苦しみ続けることになる。
 そして花菱君は、そんな桜庭さんの苦しみに気づくことはできないんだよ。
 花菱君が努力を続けるのは、何よりも桜庭さんのためなんだからね」
「ジン君は、私のために……」
「そう、桜庭さんだって花菱君がどんな思いをしてきたのか分かっているはずだよ。
 花菱君は、ずっと自分が桜庭さんにふさわしい男なのかって悩み続けていた。
 桜庭さんが思いを向ければ向けるほど、花菱君は悩みが深くなったはずなんだ。
 だから周りからも認められるよう、ずっと自分に何ができるのかを考え続けてきた。
 自分でも気づかないうちに、僕の後を追いかけているのはそれが理由だよ。
 まあ、マディラさんを奥さんにしたのはそれだけが理由じゃないけどね」

 そこまで話して、シンジはようやくカエデを解放した。カエデから離れたシンジは、ゆっくりと自分の椅子へと歩いて行った。だが椅子には座らず、シンジは背もたれに手を置いた。

「桜庭さん、花菱君、そしてイツキ……僕から見たらみんな凄いよね。
 僕と違って、みんな自分で考えて道を切り開いて行っているんだ。
 僕なんか、用意された役割をこなすだけで精一杯なのにね」
「でも、私たちの今があるのは、全部碇さんのおかげなんです!
 椎名君は分かりませんけど、ジン君も私も、碇さんが手伝ってくれなければ何もできませんでした。
 役割を演じる……碇さんがしていることはそんな小さな事じゃないんです。
 エデン、パーガトリ、リリン……その3界を束ねる英雄の役割なんて誰も考えられません。
 碇さんだから、碇さんだから果たすことができる役割なんです!!」
「だとしたら、桜庭さん達がしていることも常識じゃ考えられないことだよね?」

 椅子から手を離したシンジは、もう一度カエデへと近づいてしゃがみ込んだ。視線をカエデに合わせたシンジは、もう一度「どうしたいのか」と問いかけた。

「桜庭さんが、現実から目を背けるために仕事に逃げているのは知っているよ。
 でもそれは、問題を先送りするだけで何の解決にもならないんだ。
 そのまま先延ばしにしても、花菱君は桜庭さんの抱えている物に気づきはしない。
 それは花菱君だけが悪いんじゃなくて、桜庭さんにも責任があるんだ。
 それぐらいは、桜庭さんも自覚しているだろう?」
「私が、ジン君に隠すから……」
「そうだね、桜庭さんは絶対に花菱君に苦しい顔を見せたりしない。
 そして花菱君も、桜庭さんなら絶対に大丈夫だと信頼している。
 一番自分のことを理解しているのは桜庭さんだと思っているし、
 桜庭さんのことを一番理解しているのも自分だと思っているよ。
 でもさ、一番ではあるのかもしれないけど、全部を理解している訳じゃないんだ。
 その錯覚が、今度のことを引き起こしてしまったんだよ。
 だから僕は、何度でも桜庭さんに問いかけるんだよ。
 桜庭さんは、「どうしたいの」かってね」

 そこまで言って、シンジは立ち上がりカエデに背を向けた。カエデは、背を向けたシンジに「分からない」と小さな声で答えた。

「どうしたいのか分からない……か。
 でも、自分が何に苦しんでいるのかは分かっているんだろう?」
「私が苦しんでいること……」

 黙ってしまったカエデに、「分かっているんだろう」とシンジは追い打ちを掛けた。

「分かっているけど、それを口にするのが怖いんだ。
 それを口にしたとたん、自分が嫌な女になってしまう気がするんだろう?」
「……たぶん、いえ、碇さんの言うとおりです。
 マディラのこと、ヒバリさん達のこと……憎いと思っている私がいるんです。
 私の気持ちを分かってくれないジン君を憎いと思う気持ちもあるんです!」

 心情を吐露したカエデに向かって、「まだ嘘を吐いている」とシンジは追求した。

「私は、本当のことを言ったつもりです!」
「マディラさん達への気持ちは本当なのだろうね。
 でも、花菱君に対してはまだ正確じゃないと思っているんだ。
 確かに、花菱君が自分のことを分かってくれないという怒りはあると思うよ。
 でも、その怒りの原因はもっと根深いところにあるんじゃないのかな?」

 どう? と言うシンジに、カエデは何も答えを返さなかった。そのときのカエデは、驚き、悲しみ、そして恐れを顔に出していた。

「桜庭さんが一番気に入らないのは、花菱君が自分の手を離れることだろう。
 天使の女の子が欲しいんだったら、桜庭さんが用意してあげる。
 何か大きな役目をするんだったら、必ず陰で手助けをしてあげる。
 結局、桜庭さんは、花菱君に自分の引いたレールの上だけを歩いて欲しかった。
 自分が与える物だけ、それだけで満足していて欲しかったんだよ。
 だからそこから外れて動き出した花菱君に苛立っていたんだよ。
 そしてそのことは、花菱君にぶつけられるはずがない。
 だからどんどん自分を追い詰めていってしまったんだよ」
「そんなことは……」

 シンジの言葉を、カエデはすぐさま否定しようとした。自分はそんなことを一度も考えたことはない。そんな上からの目線で見ていたつもりなど無い。力一杯、シンジの誤解を解こうとした。だが否定の言葉は、カエデの口から発せられることはなかった。指摘をされれば思い当たるところがある。カエデは、シンジの決めつけを否定できなかった。

「中学の時、花菱君は桜庭さんとのことで虐められていたんだろう。
 それは桜庭さんの誤解が解けた後でも変わらなかった。
 美人でスポーツも万能、それに成績もトップクラス。
 そんな桜庭さんと、いつも花菱君は比べられていたんだ。
 だから花菱君は、いつもおまけのように言われていたんだ。
 それを否定したくて、花菱君が凄いところを見せたくて、
 自分の好きな人が、自分のおまけじゃないことを示したかったんだろう。
 だから桜庭さんが、いろいろな事を花菱君のためにお膳立てをしてきたんだ。
 そしてそれは、芙蓉学園に入ってからも変わらなかった。
 天使の女の子を連れ込んだのも、僕の真似をすることで花菱君の評価を上げたかった。
 花菱君が特別だって事を周りに示したかった。
 桜庭さんが生徒会に入ったのも、そうすれば僕に近いところにいられるからだろう?
 そうすれば、花菱君も僕の目にとまるって計算をしていたんだ。
 キキョウさんを連れてきたのは、ヒバリさん達では階層的に不足していると考えたから。
 そう言う意味では、役職にある女性が加わること自体は反対じゃなかった。
 でも、マディラさんをあてがうのは自分の役目だと思っていたんだろう?
 その思惑が狂ってしまったから、余計に苛立ってしまったんだ」
「碇さんは、私をどうしたいんですか。
 そんなことを暴き立てて、いったい何をしたいんですか!
 いくら碇さんだって、言っていいことと悪いことがあるんですよ!」

 容赦のないシンジの指摘に、カエデは怒鳴るように大きな声を上げた。だが顔を赤くして大声を上げたカエデを前にしても、シンジは全く表情を変えなかった。ただ淡々と、カエデの心の闇を暴き出していった。

「いい加減、子離れのできない母親のようなことはやめた方がいいよ。
 せっかく桜庭さんが望んだとおり、花菱君が才能を開花させようとしているんだ。
 自分の手のひらからはみ出すぐらいなら、失敗した方がいいとでも思っているのかな?」
「そんなことを思うはずが無いじゃないですか!!
 ジン君は、やればできる人なんです。
 わ、私が足を引っ張るだなんて、そんなことをするはずがありません!」

 大声を上げて反論したカエデに、シンジは振り返って「現実を見よう」と言い返した。

「僕がわざわざくること自体、問題があると周りが認識していると言うことだよ。
 桜庭さんの変調は、ノエインの人たちも問題にしていることなんだ。
 気づいていないのは花菱君だけ、そして隠しているつもりになっているのは桜庭さんだけなんだ。
 マディラさんもキキョウさんも、問題があることは理解しているんだ。
 でも二人が相談もしないで決めてしまったから、今更口出しできなくなってしまった。
 だって桜庭さんが認めているのに、マディラさんがあの家に住むのは嫌だとは言えないだろう?
 嫌だと言ったら言ったで、きっと桜庭さんはマディラさんに腹を立てることになるだろうね。
 それが分かっているから、マディラさんも花菱君に従う他はなかったんだよ。
 周りを混乱に巻き込んでいるのは、全部花菱君や桜庭さんなんだよ。
 二人とも、いい加減それを理解して欲しいんだ」
「私たちが迷惑だったら、邪魔だったら切り捨てればいいじゃないですか!
 どうして、こんな個人的なことにまで口を突っ込んでくるんですか!!」

 シンジの言葉は、その一つ一つがカエデの心をえぐっていた。だから冷静な反論もできず、ただ大声を上げるだけになってしまった。立ち上がって大声を上げたカエデは、放っておいてとシンジに怒鳴った。

「これは、私とジン君の問題です。
 碇さんだって、勝手に口を出していいって事はありません!」
「本気で二人だけの問題だと思っているんだったら」

 それまで感情を抑えて、どちらかと言えば穏やかに接していたシンジだったが、口を出すなと言うカエデの言葉に表情を一転させた。まるで蔑んだようなと言えばいいのか、とても冷たい視線をカエデに投げかけた。

「二人が芙蓉学園に来てからの2年と少しの日々、それを無かったことにしなくちゃいけなくなる。
 せっかく3界がうまく動き出しているのに、君たち二人のせいでそれがおかしくなってしまうんだ。
 3界と君たち二人、どちらに天秤が傾くのかは今更議論の余地はないだろう?」
「…な、何を言っているんですか!」

 シンジの雰囲気が変わったのと同時に、カエデは部屋の気温まで下がった錯覚を覚えていた。そこまで来て、カエデはシンジの逆鱗に触れたことに気がついた。カエデは、自分の体が震えだしたことを自覚していた。

「ノエインの人たちまで巻き込んだ問題、その解決方法のことを言っているんだよ。
 花菱君と桜庭さんに退場して貰って、代わりに別の誰かを据えるんだよ。
 桜庭さん達には、これまでのことを忘れて貰って、どこか関係のないところで暮らして貰うことにする。
 マディラさんやキキョウさん、ヒバリさん達には偽物の記憶を植え付けてあげよう。
 関係した人たち、二人のことを知っている人たちの記憶を書き換える」
「そ、そんなこと……」

 できるとは思えない。震えながら口にしたカエデに、「心配する必要はない」とシンジは言い放った。

「多少うまくいかないことがあったとしても、もう桜庭さんには関係の無いことだからね。
 だから桜庭さんが心配することも、気に病むことは無いんだよ。
 今から桜庭さんの記憶を消して日本に連れ帰り、花菱君の記憶もそこで消すことにしよう。
 美咲市にいて貰っては都合が悪いから、お父さんの所に送り届けてあげるよ。
 あとは関係した人たちの記憶を操作して、二人の痕跡を消してやれば終了だよ」

 「さようなら」シンジが別れの言葉を口にしたとき、部屋の中に淡い金色の光が広がった。その光に包まれたカエデは、意識がぼんやりとしてくるのを感じていた。そして次の瞬間、どうしようもない寂寥感に包まれることになった。それは今まで生きてきて、記憶として刻み込まれた物が消えていく感覚、それは大切だと思っていた物がなくなっていく感覚だった。

「い、いやっ、私から大切な物を奪わないで……」

 喪失の恐怖に、カエデは床に座り込み両手で自分の体を抱きしめた。自分の心が無くならないよう、力一杯体を抱きしめた。だがそんなことをしても、シンジの力から逃れられるはずがない。部屋を満たす金色の光が強くなるに従って、カエデは大切な記憶が次々と消されていくのを感じていた。どんなにもがいても、どんなに抵抗しても、ただひたすら奪われていったのだ。

 なぜそんな物が床に落ちていたのか。そしてなぜそんな物が、カエデの手に触れたのか。それが偶然なのか仕組まれた物なのか、カエデにはそれを判断する能力は残されていなかった。ただ大切な物が次々と失われていく恐怖から逃れるため、カエデは自分が手にした物をぎゅっと握りしめた。そして渾身の力を込めて立ち上がると、前に立ち塞がるシンジめがけて握りしめた物を突き立てた。そのことに、どんな意味があるのかカエデは理解していなかった。ただ今の苦しみから逃れたいという一心から、突発的な行動に出た。
 カエデが何かを突き立てた瞬間、部屋の中を包んでいた金色の光は消え失せ、消えていった記憶がカエデの中に帰ってきた。そして同時に、突き立てた両手に生暖かい感触が伝わってきた。記憶が戻ってきたことで、カエデも落ち着きを取り戻した。

「私は、いったい何を……」

 ただ自分の身に何が起きたのか、それを理解するまでには至らなかった。気持ちの悪さに恐る恐る手のひらを見ると、何か赤い物がべったりと付いているのが目に入った。

「私は……」

 視線を前に向けると、シンジの胸に何かが突き刺さっていた。そしてその何かを伝って、赤い物が大量にしたたり落ちていた。

「い、碇さん……」

 相手は、非常識を体現した存在なのだ。こんな事でどうにかなるはずはない。自分が目にしているのは、きっと何かの間違いに違いない。恐る恐る声を掛けたカエデだったが、シンジからは何も答えは返ってこなかった。そしてシンジは、ただ黙ったまま後ろに倒れていった。

「い、碇さん……冗談ですよね。
 ね、ねえ、碇さん……」

 自分のしでかしたことを認められず、カエデは何度もシンジの名を呼び続けた。今日シンジが会いに来たのは、何かの間違い、夢の中の出来事なのだと。だからこうして呼び続ければ、その悪い夢から覚めることができるのだと。カエデは何度も何度も、抑揚のない声でシンジの名を呼び続けた。







続く

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