<<学園の天使>>

179:







 土日を利用してと言っても、時差を考えると使えるのは1日半しかない。しかもそのうちの1日は、キール・ロレンツの所に行く予定を立てていた。事態の重大さを考えれば、クレシアの実家行きは延期すべきなのだろう。いかにも時間という意味では、不足しているように感じられた。
 だが表向きの体裁を整えるためには、ここに来ての予定変更は回避しなくてはいけない。それを考えると、ジントとの対決は半日しか時間が使えなくなってしまう。その短い時間で問題を解決するためには、入念な準備が必要となのは言うまでもない。それでもシンジは、休息を準備に優先することにした。この時期の時差が8時間あり、現地がまだ昼下がりと言うことを計算したのだ。

「辛くなりそうだから、2時間寝てから行くことにするよ。
 アスカには、クレシアへの説明をお願いしていいかな?」

 1日早く行動を始めると言うことで、シンジはその説明をアスカに任せることにした。クレシア達の出発までには帰ってくることを考えると、かなりの強行軍と言うことになってくる。カエデとの話がハードな物になるのを予想したシンジは、心の休息を優先することにした。
 その意を理解したアスカは、求められた役割を果たすことにした。

「着替えとかどうする?」
「とりあえず日帰りだから、あまりに気にしなくてもいいと思うどけ……」

 とはいえ、パジャマで行くわけにはいかない。そして、かしこまっていくのは翌日の仕事となる。それもあって、シンジは「普段着」を用意しておくようにアスカに頼んだ。

「りょーかい!
 それでゴムは1ダース持たせてあげればいいのね?」
「だから……」

 議論するのも疲れるので、シンジはさっさとベッドに潜り込むことにした。これから2時間後、11時に目を覚ませば現地時間の5時前にはジュネーブに到着できるだろう。
 目覚ましをセットして布団を被ったシンジに、アスカは小さく舌打ちをした。この頃肝が据わったのか、からかい甲斐が無くなってきたのだ。それが成長とか頼り甲斐と思えばうれしいのだが、同時に寂しくも感じてしまった。もっとも、この場合はシンジの対応が全面的に正しいのは分かっている。直接自分が動くわけではないのに、胃が痛くなるのをアスカも感じていたのだ。だから少しでも、スタミナは温存しておく必要があった。

「頑張ってね」

 だからアスカも、それ以上シンジを構うことはなかった。その代わり励ましの言葉を一つ残して、部屋の明かりを消すことにした。そのとき布団がもぞりと動いたのを見ると、励ましはシンジに届いているのだろう。
 シンジの部屋を出たアスカは、その足で妻(仲間)達の待つ居間へと降りていった。シンジと話し合って方針が決まったこと、それをもう一人の当事者、クレシアに事情を説明する必要があった。そのほかにも、家族の間で必要な根回しをしておかなければいけない。

 居間に降りていくと、そこには妻達が勢揃いしていた。離れた所に住んでいるエリカまでいるのだから、何か特別な日かと思えてしまう。それは、彼女たちが今回の出来事を重視している現れでもあった。

「シンジがおらぬと言うことは、覚悟を決めたと言うことだな?」

 アスカの顔を見て、コハクが代表して話し合いの結果を尋ねた。それに頷いたアスカは、準備が先だとユウガオを呼びつけた。

「すぐにシンジの着替えを用意して。
 そうね……黒い半袖のポロシャツにジーンズがいいかしら」
「着替えは必要ないのですね?」
「一度こっちに帰ってくるからね」

 かしこまりましたと頭を下げて、ユウガオは出発準備のため居間を出て行った。そしてユウガオと入れ替わりに、お茶とお菓子を持ってナズナとナデシコが入ってきた。

「こんな時間に甘いものを食べると太るわよ」
「余分に摂取したカロリーは、ご主人様に消費して貰えばいいと思います」

 すかさず反論したナデシコは、すぐに「しまった」とばかりに右手で口を押さえた。さすがに場をわきまえたのかと安心したアスカだったが、すぐに相手の考えが斜め上を行っていることを思い知らされた。
 申し訳ありませんと頭を下げたナデシコは、シンジの分を忘れていたキッチンに戻っていったのだ。しかも戻ってきたときには、お菓子の他に栄養ドリンクまでお盆にのせていた。

「旦那様は、9人分必要なんですよね」

 先日解禁されたこともあり、自分も数に含めていたのだ。全員集合の意味を取り違えていないか、そのあたりをこんこんと説教したい気にもなったが、今はそんな時間も惜しいと諦めることにした。そして気を落ち着けるように……このあたりはナデシコのぼけが響いているのだが……深呼吸をして、3時間以内に出発すると全員に告げた。

「シンジが、直接カエデと対決することになったわ。
 だから1日先行して、シンジだけジュネーブに行くことにしたわ」
「明日の朝にはお帰りになるんですね?」

 確認するクレシアに、そうだとアスカは頷いた。

「今回は、カエデに集中することにしたの。
 どっちも問題を抱えているけど、より緊急度の高いカエデを優先するわ。
 それにカエデが変われば、花菱も変わらざるを得なくなるから」
「それで、この問題の落としどころをどうするのだ?」
「その落としどころなんだけどね……」

 それを答える前に、アスカはジントの持っている準議員の身分を問題とした。正確には、準議員の持つ権利を問題とした。

「そもそも準議員って、財政的にどれだけ優遇されるの?」
「何も決まっていない……というのが、この場の答えになるな」

 即答したコハクは、そもそもと準議員自身の意味を持ち出した。

「もともと最高評議会には、準議員などと言う立場は存在しておらぬ。
 今回無理矢理立場を作ったところもあり、処遇などが決められておらぬのだ。
 しかも、あちらにおるときは、アデュラリア殿の所に身を寄せておったからな。
 待遇が問題になることはなかったのだ。
 同時にマディラの夫という立場もあるゆえ、財政的にな事を気にする必要もなかった。
 何しろマディラには、第5位のアデュラリア殿がついておるからな」
「でも、名誉職って事はないんでしょう?」

 準は付いても、議員の一人なのである。末席だとしても、それなりの余録があってしかるべきなのだ。だがアスカの疑問に、コハクは「何も決まっていない」を繰り返した。

「決める必要性に迫られておらなんだ。
 従って、何も決められておらんのだ」
「じゃあ、決めてって言えば決めてくれるのかしら?」

 問題が有ることを指摘したのだから、その問題を解決すべく動かなければいけない。アスカの指摘に、確かにそうだとコハクは認めた。認めた上で、問題もあると付け加えた。

「前例もないこと故、最高評議会の議決に掛けることになるだろう。
 我とサードニクス様の案なら否決されることはないだろうが、それにしても手続きを踏む必要がある。
 そしてそれ以前に、そのことでサードニクス様と一度も話をしておらぬのだ。
 すりあわせから始めるので、最低でもそれに数日はかかるであろう。
 それから議決と言うことになるのだが、さすがに緊急課題として扱うわけにはいくまい。
 従って、定例の最高評議会開催まで待つ必要がある。
 ちなみに定例議会は、およそ1ヶ月後の開催と言うことになる。
 相応しい処遇をすることに異論はないが、物理的準備が必要となってくるのだ」

 アスカにとって期待はずれの答えを返したコハクは、同時に議長副議長の裁量を持ち出した。

「もちろん、世の中には抜け道は用意されている。
 俗に言う最高評議会議長裁量、副議長裁量と言う物だ。
 問題解消に時間が掛かる場合、我らが権限を持って暫定対処を行うことが可能だ。
 それならば、今すぐにでも答えを出すことが可能だぞ。
 それでアスカよ、ぬしはどの程度の暫定処置を希望するのだ?」
「そうね、居住場所の便宜ぐらいかしら?
 最高評議会準議員にふさわしい住居を与えてあげて欲しいんだけど」

 どう? と聞かれたコハクは、「とても難しい問題だ」と期待とは違った答えを返した。

「こらそんな顔で我を見るのではないぞ。
 この場で持ち出すのだから、その住居というのはわれらの世界ではないのだろう。
 となると、何を持ってふさわしいとするのが問題なのだ。
 何しろ副議長たるわれが、このように狭いところに住んでおるのだぞ。
 そうなると、たかが準議員に用意できる住居などたかがしれておるだろう。
 下手に広い屋敷を用意しよう物なら、必ずシンジがとばっちりを受けることになる。
 シンジは、広い邸宅に住みたいとは思っておらぬだろうに」

 そう答えたコハクだったが、自分の口にした言葉の意味を考え直した。そしてジントに屋敷を与えることが、むしろ都合がいいことに気がついた。

「よくよく考えてみれば、シンジはもっと立派な屋敷に住むべきなのだ。
 このままリリンに本拠を置くというのであれば、この地に相応しい屋敷を構えるべきなのだ」

 良いかと身を乗り出したコハクは、妻(仲間)達全員の顔を見渡した。

「このような狭い家に、全員が揃うというのは如何にも無理があるのだ。
 妻達全員が別々に屋敷を構え、そこをシンジが順番に訪れるという方法もあるだろう。
 だがシンジの性格を考えると、そのような方策をとるとは考えられない。
 となると、今後子供が生まれることを考えると、広さを確保する必要があるのだ。
 しかも我らの立場を考えれば、安全に対する備えも必要となってくる。
 人が増えれば、世話をする側仕えも呼び寄せる必要があるだろう。
 その側仕えには、エデンだけではなくパーガトリの住人も必要なのだろう。
 シンジの個人スタッフを抱え込む必要も生まれてくるから、入れ物はやはり重要となるのだ。
 エリカよ、ぬしの実家でもそのようにしておるのだろう?」

 いきなり話を振られたエリカは、とりあえず苦笑混じりに頷くことで同意を示した。このあたりは、実家で色々言われている実績があったのだ。特にエリカの父親は、離れて暮らしている事への危機感を募らせていたのである。それもあって、さっさと既成事実、すなわち子供を作れと迫っていた。
 だがコハクの問題提起は、この場において脇道にとされるものだった。コハクの意見を認めた上で、アスカは話を本題に引き戻すことにした。

「それで、相応しい住居を与えること自体に問題は無いのね?」
「問題は無いというか、そうすべきとわれも考えるぞ。
 そもそもカエデの家にマディラを連れ込もうという発想自体が問題なのだ。
 話を持ち出す花菱も花菱だが、受け入れるカエデもカエデなのだ」

 コハクの言質を得たアスカは、そこに落としどころを求めると説明した。

「それだけと言うつもりはないけど。
 目に見える形の落としどころは、準議員に相応しい住居をこちらにも構えて貰うわ。
 それをどこにするのかは、これからの課題となるわね」
「しかし、用意に時間が掛かる話ではないか?」

 これから用地確保、そして建設という運びになると、時間ばかり掛かって仕方がないだろう。しかも芙蓉学園との立地条件を考えると、使えるエリアも限られてくる。

「コハクが問題にしたとおり、どこに作るのか、そしていつできるのかが問題になるわね。
 でも、それを含めてカエデの宿題にするって方法もあるのよ」
「しかし、それを指示する大義名分が必要となるのではないのか?
 花菱とカエデは、改築という事で話を付けておるのだろう?」

 落としどころについては、今更意見はない。だがそこに至るまでの問題を解決しない限り、その落としどころを使うことはできない。それをコハクが持ち出すのは、アスカにとって想定の範囲だった。ただ想定の範囲であっても、具体的な答えは持ち合わせていなかった。

「そこの話は、シンジがカエデとすることになるわね。
 それから先に言っておくけど、どうやってと言うのは聞いていないわ。
 ナニをスルのかも聞いていない。
 ただ何があっても、あたし達が肯定するってことだけ伝えてあるわ」
「それに対して、シンジはどう答えたのだ?」

 何があってもが何を指しているのか、当然シンジも理解しているはずなのだ。だからそれを持ち出したとき、どう答えが返ってくるのかが問題となる。コハクの問いは、シンジの考えをアスカに質す物となっていた。

「自分に制限を掛けるって、その代わり出し惜しみはしないって言ってたわよ」
「出し惜しみはしないと言うことか……その場面を見てみたい物だな。
 もっとも、見ていて分かるかという問題はあるがな」

 シンジが出し惜しみをしないということは、それだけ不思議なことが起きることに繋がってくる。ただ妻達は、夫が非常識の世界に踏み出す事への疑問はないようだ。妻達全員、アスカも含めてコハクの決めつけに頷いたのだった。

「それで、私に求められる役割は何なのでしょうか?」

 話が一区切り付いたところで、ただ一人シンジに同行するクレシアが口を開いた。

「具体的に言えば、話のネタ振りなんでしょうね。
 芙蓉学園学園寮のトピックを持ち出すのが必要になるわね」

 ジントが寮に来ることで、3界を巻き込んだ対話の場ができている。その話を持ち出すのには、クレシアが寮に住んでいることは都合が良い。

「そこから話を膨らませて、マディラさんのお住まいのことに持って行くんですね?」
「当然花菱は、カエデの家に連れて行く主張を繰り返すでしょうね」

 そこから先は、シンジがどうカエデと決着を付けるのかに関わってくる。だがこうやって話をしていると、好ましい決着方法が見えてくるような気がしてきた。そしてその決着方法を、クレシアが初めて口にした。

「私生活と交流の場は本来分けるべきなのでしょうけど……
 今の良い流れを、どう維持していくのか、それが今回の鍵になりそうですね」

 準議員に与えられる屋敷が、必ずしも庭付き一戸建てである必要はないはずだ。部屋が余りまくった寮をクレシアは思い出した。

「そのあたりの考え方は、最終的に国連判断になるわね。
 でも、その方が大義名分が立ちそうね」

 そしてアスカも、クレシアの考えを認めたのだった。直接の住居に絡める必要はないのかも知れないが、今の成果を一時的な物にしないことは重要なのだ。そのための方策を考えることを、ジント達に求めるのはおかしくないだろう。



***



 さすがに今日ぐらいは、早く帰れと言う忠告に従うだろう。それがシンジ達到着を前にした、ノエインの少女達の考えだった。だが何度か執務室を覗きに行ったのだが、いっこうにカエデは帰る気配を見せていない。まだ昼過ぎとは言え、そろそろ無理矢理にでも帰らせるべきだと彼女たちは決心した。
 こういう事は一人で言いに行ってもだめだと考え、数を頼りにすることにした。そしてもう一つ、現実を突きつける方法をとることにした。

「ですが、仕事はまだ残っていますし、それにまだお昼が過ぎたばかりですよ……」

 今日は帰れと言う少女達の言葉に対し、カエデは予想通りの答えを返してきた。その答えに、まずジョイスが用意していた答えを返した。

「その程度のことは、私たちに任せていただいて結構です。
 そうやって仕事を抱え込むのは、カエデの悪い癖だと思います」
「でも、もともとこれは私の仕事ですから……」
「カエデ、それは私たちの仕事です。
 代表というのは、あれもこれも自分一人で抱えるのが仕事ではありません」

 組織のことを持ち出しても、カエデが引かないことは分かっていた。だからジョイスの追求も、彼女たちにとって第一弾のジャブでしかなかった。そしてそのジャブは、多少の効果をもたらせたようだ。
 どう答えようか迷っているカエデに、「体調を整えるのも仕事だ」とクラウディアが追い打ちを掛けた。もちろん、その程度では反論があるのは承知の上である。だからカエデが反論するよりも早く、「周りからどう見えるかが問題だ」と追い打ちを掛けた。

「今のあなたは、どう見ても健康的な顔色をしていない!」

 クラウディアの追い打ちに同調し、桃花がカエデの横に並んだ。そしてリリーナが、少し大きめの鏡を差し出した。

「同じアジア系の桃花と比べてみてください。
 あなたの顔色が、どれだけ不健康か分かるでしょう!」
「こ、これぐらいだったら、今晩休めば元に戻るから……」
「つまり、顔色が不健康なことは認めるのですね!」

 比較対象を横に置かれれば、さすがに否定することはできなくなる。従ってカエデも、渋々頷くことになった。そんなカエデに、さらにマーガレットが追い打ちを掛けた。

「そんな顔色を、シンジ碇に見せるのですか?
 そんなことをされたら、また私たちが嫌がらせをしているように思われてしまう」
「そ、ここでのことは報告があがっていますから。
 だから碇さんが、皆さんのことをそんな風に思うことは……」
「ならば、カエデの顔色を見てシンジ碇は何を思うでしょうね?」
「ど、どうして、そこで碇さんの話が出るんですかっ!」

 赤面したおかげで、少し顔色がましになったと言うのは皮肉な結果なのだろう。それはそれで突っ込みどころなのだが、マーガレットはそのことには触れなかった。反応に予想はできていたが、利用にリスクがあると判定していた。追い詰める方策が決まっているのだから、余計なリスクを背負い込むことはない。

「シンジ碇は、護衛からの報告を受ける立場だからです。
 私たちが指摘したようなことは、当然シンジ碇にあがっているはずです。
 その報告を自分の目で確認したとなれば、彼ならば間違いなく行動に出るでしょう」
「た、確かに、碇さんは報告を受ける立場ですね……
 だ、だったら、今更取り繕っても意味がないと思いませんか?」
「ええ、思いませんね。
 そもそもカエデは、そんな顔でシンジ碇の前に出るつもりですか?
 女として、私にはそんな恥ずかしいまねはできません!
 私たちも早く帰って、美容サロンに行く予定なんですよ」

 それぐらいの手間を掛けなければいけない相手だ。マーガレットの主張は、女として至極まっとうな物だろう。シンジの顔を思い出したカエデは、確かにそうだと思い始めていた。せっかく来てくれるのに、疲れた顔で出迎えるのは失礼としか言いようがない。

「今回シンジ碇は、常任理事国の決定に対し、明確にノーを突きつけました。
 カエデは、その意味を正しく理解すべきです。
 シンジ碇は、あなたに会うことを目的にジュネーブまで来るのですよ!
 それなのに、カエデはそんな顔で彼を出迎えるつもりですか!!」

 そう言ってマーガレットは、わざとらしく机を叩いた。安っぽい威嚇だし、普段のカエデなら通用するはずのない威嚇でもあった。だがシンジのことで追い込んでいることもあり、威嚇は正しく効果を発揮してくれた。
 びくりと反応したカエデに、マーガレットは反論の余地を与えなかった。

「これは私たちの総意でもあります。
 そんな顔でシンジ碇の前に顔を出して、私たちに恥を掻かせないでいただきたい!」

 有効だと言う分析の元、マーガレットはシンジの名前で押し通した。ただいくら分析をしたと言っても、これが賭けであることには違いなかった。明日の訪問には、花菱ジントの名前があることは、誰よりもカエデが一番知っている。それをあたかも来ないようにシンジだけ名前を出したのだから、どれほどのリスクのある試みなのか理解できるだろう。だが敢えてジントの名を出さない説得は、期待通りカエデの譲歩を引き出せた。
 マーガレットの詰問に、カエデは「分かりました」と同意を示したのだ。ただその時、譲歩案とでも言うのか、「5時になったら帰る」と逆提案をした。時計を見れば、今は午後3時を指していた。あと2時間待って欲しいと言うことだ。だがマーガレットは、カエデに対して譲歩をしなかった。

「カエデが帰らなければ、私たちも帰れないのを理解してください。
 私たちは、サロンの予約を4時に入れているんですよ。
 従って、カエデは30分以内にこの部屋を出てください!」
「で、でもですよ、美容院に行くとか、そう言うのってとても私的なことじゃないですか!
 そんなことで公務を切り上げていいはずがないと思います」

 仕事という意味では正論なのだが、カエデ達の就いている仕事は正論の通じにくい物でもあった。もともとnine to fiveの規則もないのだから、帰宅時間など明確に定義されていなかった。そのことだけでもカエデの反論を封じ込められるのだが、マーガレットは敢えてシンジのことを問題とした。

「出迎える相手に相応しい用意をすることは、私たちの立場からすれば当然のことです。
 もしも私たちの言葉で不足というのでしたら、カヒム事務総長にも伺ってみたらどうですか?
 そこまで行かなくとも、他の職員を呼んできても良いんですよ?」

 どうしますかと全員に迫られたカエデは、渋々彼女たちの言葉を受け入れることにした。全員で迫ってきた以上、そのあたりの根回しは済んでいると考えた方が良い。つまり誰を呼んできたとしても、彼女たちの主張を補強するだけなのだ。そんな状況で、これ以上反論することに意味はない。それに今更ながら、顔色の悪さに気がついたというところもある。言われたとおり、信じに対して女として恥ずかしい真似をするわけにはいかなかった。

「今日は、皆さんの言うことに大人しく従うことにします。
 ただ、このままというのはさすがに恥ずかしいので、机上の整理だけはさせてくださいね」
「見られて困る物が無ければ、私たちも手伝いますよ」
「困る物は……無いと思いますけど、皆さんも自分の片付けを優先してください。
 たぶん、10分も掛からないと思いますから」

 そこまで時間を切ったことで、ノエインの少女達はカエデを解放することにした。これまでの付き合いで、約束を違えないのは承知していたのだ。

「では、私たちも自分の片付けをすることにしましょうか」
「そうですね、荒れたオフィスを見せるのも恥ずかしいですから」

 意味ありげに視線を交わした少女達は、「くれぐれも早く帰るように」と釘を刺してカエデの部屋を出て行った。カエデの件が片付いたら、彼女たちにもしなければいけないことがある。磨き上げるのは冗談にしても、実力者に取り入るのは重要な仕事に違いない。
 出て行く仲間を見送ったカエデは、はっきりと大きなため息を吐いた。その行為自体、彼女たちのプレッシャーがきつかったことの証明となる。まったくと呟きながら、広がった書類を束ね始めた。

「あっ、これ、早く決済をしないといけない……」

 カエデほど整頓を心がけていた女性が、紙の束から未決済書類を見つけるのは異常なことだろう。それぐらい、色々なところで行き詰まっていたという証拠でもある。
 古風な紙の束を捲ろうとしたカエデだったが、すぐにその欲求を抑え込んだ。ここで時間を使うと、またマーガレットたちの突き上げを食らうことになる。それ自体無駄な行為だし、自分自身帰ると決めたところなのだ。これまで放置して問題がなかったのなら、一日二日延びたところで実害はないと思うことにした。

 そう決めてしまうと、整理自身意味のない行為に思えてしまった。だからカエデは、仕分けをやめて、無造作に紙を束ねることにした。もしも差し支えが出るようなら、誰かが騒いでくれるだろうと開き直った。
 その結果、ノエインの少女達が部屋を出てから5分後にカエデはオフィスを後にすることになった。時計を見れば午後3時10分。まだまだ日が高く、一日を十分使うことができるだろう。

 カエデがオフィスを出たのを、当然のようにノエインの少女達は気づいていた。予想よりも早い退出に、全員が一斉に壁に掛けられた時計に視線を走らせたほどだ。

「こんな事なら、明日ジント花菱が来ない方が良いのではないのか?」

 シンジの効果が絶大だったこともあり、リリーナはジント達が集合することに疑問を呈した。それに同意したジョイスも、来るのはシンジだけで良かったと主張した。

「だが、カエデが相手を乗り換えることが最良の結果とはならないだろう」

 だが桃花は、決着の方向に対して異論を口にした。シンジだけで来ると言うことは、ジントと別れることを意味している。

「確かに、望ましい方向ではないのは確かね。
 カエデ、ジント花菱、イツキ椎名、そのトライアングルが崩れることになってしまう」
「でもクラウディア、私たちにとってジント花菱のありがたみは少ないわよ」

 “望ましい”決着とは離れても、痛手は少ないとマーガレットは反論した。リリンから最高評議会に準議員を出した事の意義は認めても、だからと言って何かの恩恵があったと言うことはない。それにエデンのことは、副議長とサードチルドレンがきめ細かな配慮をしてくれている。将来を別にして、準議員が実質的な役に立っているのかは疑問があったのだ。
 その意味では、彼女たちにとってリリンの顔が安定することの方が重要だった。そして今の不安定さを考えると、ジントの存在は有害だと考えていたのだ。

「確かに、短期的に見れば準議員のありがたみは少ないわね。
 でもジント花菱の上げた成果は、必ず将来に繋がってくる物よ。
 彼が最高評議会に入り込み成果を上げることは、必ず将来の新しい枠組みに生きてくるもの」
「私たちも、そのことを否定するつもりはないわよ」

 3界統一がなったとき、必ず最高評議会に代わる意志決定機関が必要となる。そこにリリンがどのように入り込むことになるのか、大きく関わるにはシンジ以外の実績が必要だとは認められていた。その第一歩がジント花菱が準議員に推挙されたことなのは言うまでもない。そしてそれに続く芙蓉学園からの留学生が、新たな一歩を示す必要なのも同様である。
 ただ将来を語るにしても、今をどう乗り切るのかを考える必要がある。その時には、今の二人の関係は有害だというのが一致した見方でもあった。

「第五位のお嬢さんを娶ったのでしょう?
 だったら、ジント花菱にはもっとエデンに入り込んで貰った方が都合が良いわ。
 だから別れることが、必ずしも二人にとって悪いことだとは私は思っていない」
「でもマーガレット、あの二人が穏便に別れることになると思う?」
「桃花、あの二人がではなく、カエデがそれを認めるのかと言うことでしょ?」

 すかさず聞き返したジョイスに、その通りだと桃花は認めた。そして桃花は、カエデにこそ一番の問題があると主張した。

「みんなが同じ分析を見ていると思うけど、相手に対する拘りはカエデの方が遙かに強いわ。
 そうでなければ、ジント花菱が複数の女性と関係している事への説明が付かない」
「これまでの女性は、全てカエデがあてがってきましたね」

 ジョイスの指摘に、それこそが問題のポイントだと桃花は答えた。

「ジント花菱の目が外に向かないよう、先回りをして連れてきたのでしょう。
 そうすれば、彼の行動は全てカエデがコントロールすることができる」
「エデンの女性を連れ込んだのは、ジント花菱への“餌”と言う分析があったわね」
「そうすれば、理解のある女性として振る舞うことができる。
 押しとどめようがないのなら、自分からあてがった方が後々のコントロールが掛けられる。
 初めから計算していたのか、それとも無意識のうちに選択したのか……」
「過保護な母親という分析にも繋がる説明ね」
「子離れできていない母親……子供の将来の全てを、自分で用意しようとする母親ね」
「それが、恋人に対しても向いてしまったと言うこと」
「そのあたりは、ジュニアハイでの関係が影響しているという話だったわね」
「そう、ジント花菱が“いじめ”を受けていたという奴ね。
 もともと妬まれる要素があったところに、カエデの態度が引き金を引いたという話だったわね」
「ジント花菱は、自分に相応しい男性だ……か。
 それを示すためには、誰をも黙らせる実績を作る必要があったと言うこと」

 理由を考えれば、同情してしまうところもある。そしてカエデの前には、最高にも最悪にもなり得る環境が用意されてしまった。時計を早回しすることは、必ずどこかでひずみが生じることになる。

「それを考えると、あの二人は芙蓉学園に入学すべきではなかったのかも知れませんね」
「シンジ碇に出会ったことで、カエデに欲が出てしまったのでしょう。
 だからシンジ碇を真似るように、エデンの女性を家に連れ込んだ。
 そうすることで、ジント花菱が“特別”であるのを示そうと考えた」

 それから先は、つじつま合わせが何度も行われた。だから今まで、目立った問題は出てこなかったのだが。ただ問題は、つじつまを合わせ続けたことで、余計にひずみが大きくなってしまったことだろう。

「皮肉と言えば皮肉なのだが、ジント花菱がカエデが思った以上に大物だったと言うことか。
 だからカエデの予想を超える形で、成果を示すようになってしまった」
「ふさわしい男になるため努力を続けた……結局それがすれ違いの原因となった。
 本当に世の中というのは、皮肉な物ですね」

 お互いがお互いのことを思い、一緒にいられるよう、周りに認められるように努力を続けた。その結果がお互いの心をすれ違わせるのだから、桃花が皮肉というのも無理はなかった。

「ここまでこじれた関係を、あの家族はどう解決するつもりなのでしょうか?」
「シンジ碇の力ならば、一時しのぎは難しくないでしょうね」
「一時しのぎをして時間を稼ぐ、それだけをとってみれば悪い選択ではないのでしょう」
「どちらかを切り捨てるという考え方はありませんか?」
「その場合、どちらを切り捨てるかで彼らの考え方も分かりますね」

 エデンかリリンか、その踏み絵になるとジョイスは口にした。それに頷いたクラウディアは、ある意味好都合だと今度の問題を論評した。

「あのファミリーの考え方、能力を測る絶好の機会だと思いませんか?
 それに、うまくいけば彼らの力を削ぐこともできるかもしれない」
「しかし、エデンの力を弱めるわけではないだろう?
 だとしたら、私たちにとって不利益になる可能性もある」
「でも、誘導しやすくなる可能性もあるわ」
「いずれにしても、混乱は新しい動きのきっかけとなるわね。
 そう言う意味では、シンジ碇の手際を拝見させて貰いましょう」

 かかる火の粉としては、とても軽微な物になるだろう。だから静観することに、ノエインの少女達は決めたのだった。







続く

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