仕事が増えたというのが、帰ってきてからのシンジの感想だった。おかげで色々と勉強にはなったが、その分宿題も渡されたというのだ。そして肝心の調査についても、予想通り白という結果しか出なかったのだ。

「やはり、サードニクス様の仕業にしては波及範囲が小さすぎたか」
「今回の調査に関して言えば、結果を疑うことは出来ないでしょうね。
 まあ何もないことの確認みたいな物だったから、落胆するほどのことではないと思うけど……」

 それでとアスカが問題にしたのは、風呂でも行われていた監視のことだった。サードニクスも知らなかったのだから、そこに手がかりが無いのかと考えたのだ。
 だがシンジは、全然と肩をすくめて見せた。その後追求してみたのだが、単なる手違いという結果が返ってきたのだ。それに気づいたところで、慌てて撤収させたのだと言うのだ。その前に一度裸になっていることもあり、そこを手違いの理由に挙げられてしまった。

「手違いねぇ……」

 胡散臭げな顔をしたアスカに、そうだねとシンジも苦笑を返した。シンジにしてみれば、興味本位とかヒスイが見たかったと言われた方が説得力があるの。まあ正直に口に出来ないから、手違いという表現になったのかも知れないが。

「尻尾を掴んだと思ったんだけどね。
 直接面接したら、平身低頭して謝られたよ。
 ヒスイの針も使ったけど、結局何も出てこなかったんだ」

 だから正真正銘まるっきりのシロと言うことになる。シンジが悔しそうに見えるのは、ぬか喜びしたせいもあったのだろう。

「それでも、成果はあったからよしとしないといけないんだろうね……」

 そう言ってシンジが持ち出したのは、サードニクスの調査結果だった。いろいろと有ったが、本来の目的を果たせたのだ。それで我慢しておくのが欲張り過ぎなくて良いのだろう。その結果については、アスカも同感だと認めた。

「この問題に関しては、おっさんが敵じゃないってのは意味があるんでしょうね」

 そうだねとシンジは相づちを打った。表面上は、サードニクスが敵ではないというのは、今後の計画を進める上で都合が良い。だがシンジは、別の成果についてアスカ達には教えなかった。全ての監視を排除した環境で、サードニクスと今後の進め方に付いての議論を交わしたのだ。その中でいくつかの罠を張ることに合意したのだが、敢えてそれをアスカ達に説明しなかった。当然ヒスイもそのことを知っているのだが、シンジに口止めされたので口出しする真似はしなかった。
 今後も気の長い話を続けていくと総括したシンジは、別の宿題だと言って貰ってきた絵をみんなに見せた。その絵を見たとたん、アスカはあきれたと右手で顔を覆った。バストアップの絵でも、モデルが裸なのは分かるのだ。そこにヒスイが描かれていれば、どのような状況下は一目瞭然だった。

「あんた、結局ヒスイまで裸にしたのね?」
「とてもじゃないけど、断れる状況じゃなかったからね……」

 苦笑を浮かべたシンジに、そうですねとヒスイは相づちを打った。そしてその上で、結果的には良かったと付け足した。

「絵の才が無い私でも、とても良く描けているのが分かります。
 しかも最高評議会議長様が、シンジ様と私を描いてくださったのですよ。
 パーガトリの姫として生まれた私には、過ぎたもてなしだと思っています」
「確かに、もの凄く綺麗に描けているわね……」

 絵の中身に触れられれば、アスカもそうだと認めるしかない。どうと話を振られたコハクも、確かにそうだと同意して見せた。

「サードニクス様が絵を描くことは知っておったが、まさかこれほどとは思ってもおらなんだな。
 シンジはまだしも、よくぞヒスイ殿をここまで描き込めたとわれは感心しておる。
 シンジにしても、とても良く本質を描き出していると思っているぞ!」
「コハクは、これが僕の本質だと思ってる?」

 この絵だけ見ていれば、確かに格好良いと思えてしまう自分がそこにいる。だからこそ、確かにいい絵だが自分が美化されていると思っていたのだ。だが妻達の感想は、シンジをよく表しているというものだった。

「うむ、非常によくシンジの特徴を現していると思うぞ。
 写実的に見ても、これを見せれば誰もがシンジだと認めるであろう。
 桂あたりに見せたなら、是非とも欲しいと言い出すのではないのかな?」
「僕には、どうもそう思えないんだけどね……」
「まあ、見た目に自信を持てとは言わないけど……」

 ふっとため息を吐いたアスカは、それにしても自信がなさ過ぎだとシンジを責めた。どうもこの手の話題をすると、シンジが後ろ向きすぎて嫌な気持ちになるのだ。自分たちが愛する夫なのだから、もう少しだけでも自信を持って貰いたいものだ。

「まああんたの基準が高くなるのは理解できるわよ。
 ヒスイとかコハクとか、美形具合で釣り合おうってのがそもそも無駄なあがきなのよ。
 世の中には、そうそうフローライト国王みたいな人はいないの。
 あんたの場合、個性を磨いた方が現実的ってことなのよ」
「それって、褒め言葉になっていないね……」
「精一杯の慰めだと思ってちょうだい……
 でもね、私たちにとってはこの絵に描かれているシンジに違和感はないわ。
 だから、これが格好良いと思うのなら、あんたは実際には格好が良いのよ」

 認めなさいと言われたシンジは、そうなのかなぁと何もない天井を見上げた。そんなことをしても、答えが書かれていることはあり得ない。
 そうなのだと言い返したアスカは、その絵をどうするのかと質問した。最高評議会議長が描いたとなれば、それなりに価値のある絵と言うことになる。ヒスイしか描かれていないことに不満はあるが、飾っておくには十分以上の価値がある絵でもあった。

「飾っておくの?」
「ああ、この絵は行き先が決まっているんだ。
 サードニクスさんがね、上倉君に見せろって指定したんだよ。
 僕の絵を描くんだったら、最低これぐらいは描いてみせろと。
 それが出来たら、喜んで留学を受け入れるって」
「ずいぶんと自信があるというか、何というか……」

 自信家だなと吐き出たアスカに、そうかも知れないとコハクも相づちを打った。

「しかし、われの目から見ればかなり水準の高い絵であるのは確かだぞ。
 これを上倉に示すのは、かなりのプレッシャーを与えることにならないか?」

 そもそも絵を描き出した目的が違うはずだとコハクは指摘した。リリンの展覧会に応募することが、初めの目的だったはずだ。

「まあ、話が色々な広がりを持っちゃったからね。
 それに、上倉君の留学なんて話が出ちゃっただろう?
 花菱君の時も、サードニクスさんの思惑と合致したから受け入れてくれたじゃないか。
 だったら、今度も何か受け入れたいと思わせる物が必要だと思うよ。
 それが、政治的な物じゃなかったのは良かったと思うんだけどね」

 そしてシンジは、このテストには心配していないと付け加えた。

「確かに厳しい課題だとは思うけど、上倉君なら乗り越えられると思っているんだ。
 それに、上倉君には頼もしい味方が一杯いるじゃないか。
 だから僕は、逆に優しい課題なんじゃないかと思っているんだよ」
「いずれにせよ、サードニクス様は基準を示されたわけだ。
 ならばそれを、上倉に伝える他はないのだろうな」
「じゃあ、上倉にはおっさんの度肝を抜いて貰いましょうか」

 芸術ならば、対等の土俵で勝負できるのだ。ならばこの勝負を避けて通る必要はないだろう。碇家の意見がまとまったところで、それならばとコハクが手を叩いた。

「今回はヒスイ殿がシンジと一緒に絵となったのだ。
 ならば次は、われがシンジと一緒になるのが自然であろう。
 上倉には、われのヌードを描く名誉を与えてやるか!」

 良い考えだろうと胸を張るコハクに、それだけは止めた方が良いと全員が口を揃えた。そんな真似をしようものなら、学園内で上倉の安全が保証できなくなるだろう。まず間違いなく、KKKの必殺リストに載ることになってしまう。

「たぶん、落ち着いて絵を描けなくなってしまうと思うよ」

 だから賛成できない。シンジはコハクの願いを却下したのだった。










<<学園の天使>>

176:







 短い春休みが終われば、いよいよ芙蓉学園も3年目の春を迎えることになる。まだ2年という考え方もあったが、そこに学ぶ生徒にとっては、もう2年という想いの方が強くなっていた。特にシンジ達が卒業することもあり、この1年に賭けている生徒が多かったのである。
 そして新学期には、ジントの復学という目玉もあった。一緒に順位を持つお嬢様が付いてきてはいるが、エデンの常識に染まった生徒達には関係が無いようだった。しかもアカネたちともうまく行っていると言うことで、下位層の少女達も目を光らせているとの評判なのだ。その上他の上位階層の生徒に対するフォローで、ジントは頻繁に寮に顔を出していた。これもまた、生徒間の垣根を取り払う役に立っていたのである。

「とりあえず、初日は無事に滑り出したみたいね……」

 すでに寮での共同生活も始まっているから、あまり心配することは無いと思っていた。それでも新しい環境への対応には、少なからぬ不安もあったのだ。だがエデンから派遣された少年少女達は、無事初日を乗り越えてくれた。このあたりは、ジントが主催した勉強会が生きていると言えるだろう。
 アスカの総括に、そうだねととりあえずシンジは頷いた。そしてその上で、毎年同じことが繰り返されていると零したのだった。何のことかというと、高1を含めた新入生のシンジ達のクラス参りのことである。エデン上層を含め、授業の合間ごとに足繁く通ってくれたのだ。
 いささかを通り超え、かなり煩わしいことには違いないだろう。だが残念なことに、それを持って「来るな」とは口にすることはできなかった。何しろシンジのクラスには、お約束のようにジントがいてくれたのだ。だからジントを口実にされると、簡単に追い返すわけにもいかなかった。さすがに将来の役職者を、ヒスイの針で強制送還という訳にもいかなかったのだ。

「一応花菱君も注意してくれているようだけどね……
 もう少し、クラスにとけ込む努力をしてくれたらなぁと思うんだよ」
「だがなシンジよ、必ずしも悪いことばかりではないと思うぞ。
 何しろあやつらは一人ではシンジの所にたどり着けぬのだ。
 そのために利用しているとは言え、必ずリリンの生徒と一緒に行動しておる。
 うち解けるための第一歩と考えれば、必ずしも悪いことばかりではないであろう」

 違うのかというコハクに、別の方面で困っているとアスカが助け船を出した。それは、主にシンジの性格方面のことだった。

「シンジの場合、大勢に囲まれるのが苦手なのよ。
 特に、自分目当てで人が集まってくるのに慣れていないから」
「ならば、シンジのためにもなっておるのではないのか?
 シンジは、これからも日の当たる道を歩むことになるのだ。
 そして多くの者たちが、シンジの元に集まることになる。
 あの程度で苦痛に感じるようでは、この先々で苦労することになるからな」

 うんうんと頷くコハクに、勘弁してとシンジは零した。見せ物になるのは耐えられないし、これからもっと酷くなると言われるのは辛いとしか言いようがない。もっともそんな苦情がコハクに通じるはずがない。見せ物ではないと一括したコハクは、それが賢者の宿命なのだと言ってくれた。

「これからシンジは、力ではなく智で皆を導く必要があるのだ。
 3界最高の戦士から、3界最高の賢者へのクラスアップが必要だろう」
「……RPGじゃないんだから」
「ならば指導者の宿命と言っておこうか。
 なにあまり心配する必要はない、奴らも慣れておらぬだけのことだ。
 物珍しさも、すぐに収まることだろう」

 1年前を考えれば、コハクの言っていることが正しいのだろう。それもそうかと考え直したシンジは、少しの辛抱だと考えることで心の平安を求めることにした。正確に言えば、そう考えないとやっていられないと言うことだ。

「それでナズナ、マディラさん達はどうしているんだい?」

 そしてシンジは、自分の所に顔を出さなかったマディラへと話題を変えた。他の生徒のことを考えれば、マディラも同じように顔を出してもおかしくないはずだった。だが今日一日を見る限り、マディラはシンジのクラス近辺にも現れていない。彼女の立場を考えれば、たぶん遠慮したのだろうと想像されてしまう。
 はいと答えたナズナは、よく分からないのだと期待とは少しずれた答えを返した。ちなみになぜナズナなのかというと、マディラは1学年下に編入してたからである。

「なにか、他の皆さんに捕まっていましたよ。
 どうもその対応が忙しくて、花菱様の所に行けなかったようで……」
「他の生徒に捕まっていた?」

 すわ、いじめかと言うところなのだが、あいにく芙蓉学園ではいじめというのはシンジ相手以外に発生していない。それでと先を促されたナズナは、みんながみんな、寮から出て行かないようにとお願いしていたというのだ。もっとも直接的な表現ではなく、手を変え品を変え、間接的に寮に残って欲しいと言っているようだ。

「せっかくお友達になれたのだから、ずっと寮にいて欲しいと言われたみたいですよ。
 それに、寮の方がお風呂も広いし、他人に気兼ねしなくても済むからって。
 お互いの部屋に遊びに行くのも便利だろうとも言っていましたね」
「他人への気兼ねって……普通は共同生活の方があるんじゃないの?」

 不思議だなと首を傾げたシンジに、そうですねとナズナも笑って見せた。さすがのナズナも、論理的矛盾ぐらいには気が付いているようだ。

「でも寮の居心地が良いのも確かですよ。
 身の回りのことは、ほとんど何もしなくても生活できますし。
 ご飯やおやつも、好きなときに食べにいけます。
 それに仲の良いお友達がいれば、一緒に食堂でお話も出来ますから」
「じゃあ、ナズナは寮に戻りたいかい?」
「私の場合は、ここにご主人様がいらっしゃいますから……
 確かに寮の生活も楽しいですけど、寮ではご主人様にご奉仕できません」

 つまりご奉仕できるのなら、寮が楽しいというのである。なるほどとナズナの考え方に納得したシンジは、ジントの行動をナズナにばらした。

「花菱君は、寮に通っているようだよ」
「もちろん知っていますよ。
 だからみなさん、マディラさんに寮に残って欲しいと思っているんですから」
「ああ、そう言うことね……」

 理由を聞けば、脱力してしまうような物だった。確かにジントが目当てなら、マディラが寮にいてくれた方が嬉しいだろう。

「これだったら、みんなにマディラさんを引き留めて貰うのも手かな?」

 そうすれば、マディラがカエデの家に入らなくても済むことになる。姑息ではあるが、一つの方法であることには違いない。そしてナズナは、みんなが喜ぶ以外の利点もあると話を続けた。

「他にも花菱様が寮に通われると、色々なメリットがあると思うんですよ」

 そう答えたナズナは、ここ数日の出来事だと人から聞いた話を伝えた。

「いきなり部屋に籠もられることなく、皆さんとお話しされているみたいですね。
 役職候補者の皆さんも交えて、食堂でわいわいとお話しされていると聞いています。
 そこには、パーガトリや下位階層の皆さんも混じっているそうです。
 おかげで、広く3界の交流場所になっているようですよ」

 それを聞かされれば、確かに良いことだと思えてしまう。ジントが目当てというのに引っかかりは感じても、下位階層を含めて話の出来る場所というのは貴重だろう。だが「ご主人様もどうですか?」と聞かれれば話は別である。意味合いは分かるが、本当に自分が顔を出して良いものかが分からない。それに、顔を出す理由に乏しいのにも気が付いた。

「やっぱり、僕が行く理由に欠けているかな?
 それに、僕が行くと話がおかしくなりそうだからね。
 しばらくは、花菱君に任せておいた方が良いだろうね」
「ですが、クレシア様はまだ寮にいらっしゃいますよ?」

 それを考えたら、寮に行く理由になると言うのである。それならどうだと聞かれたシンジは、恥ずかしいから嫌だと言い返した。何が恥ずかしいのかというと、寮に行く目的がはっきりしているからだというのだ。

「そうは言いますが、クレシア様はどうされるのですか?
 クレシア様だって、この家にいらっしゃるときの目的ははっきりしていますよ」

 その決めつけは、クレシアにとって心外だったようだ。すかさず「それだけじゃない」と言い返したのだが、世間はそうは受け取ってくれないとナズナもすかさず言い返した。

「そう思っているのは、クレシアさんだけです。
 外出されるクレシアさんを見て、皆さん今日はあの日だと思っているんですから……」

 はっきりと言い切られると、さすがのクレシアも恥ずかしくなる。顔を真っ赤にして、どうしましょうかとシンジに相談した。慎ましやかに生きていると“考えている”クレシアには、回りの目はやはり気になってしまう。しかも目的が、あれだと思われるのは更に恥ずかしい。
 だがどうしようと言われても、シンジに答えがあるはずがない。離れて暮らしている以上、必ず行動が人目に付いてしまうのだ。シンジが代わりに寮に行ったとしても、回りがどう考えるかは変わらないだろう。結局早く増築を終え、クレシアが引っ越してくる以外に解決策はないのだ。

「ま、まあ、クレシアの問題は追々解決するとしてだよ。
 とりあえず、マディラさんは上手くとけ込んでいると考えて良いんだね?」
「どうも、コハク様より適応力があったようです!」

 なぜそこで自分の名前を出す! コハクの視線が厳しくなった物だから、びくりとナズナの背中に一本筋が通った。

「で、ですがコハク様、そのころのコハク様は旦那様べったりだったじゃないですか!」
「良いかナズナ、われの魂までもシンジの物なのだ!
 全てを捧げると誓った夫とべったりの何が悪い!」
「ええっと……」

 そう言いきられると、反論は難しくなる。それでも主張したいのは、入学したての頃は、そんなことを口にしていないはずなのだ。だからといって、ナズナがコハクに向かって正論が言えるとは思えない。

「まあ、コハクとマディラさんでは条件が違うからね。
 彼女の場合、花菱君の集まりで予備知識を十分に身につけてきたから」

 凄んだコハクの頭に手を置き、そこまでにしようとシンジは笑った。とにかく無事一日を終えたのだから、この状態を続けることを考えた方が良い。問題があるのなら、出来るだけ絞り込んだ方が解決しやすいことになるのだと。



***



 「こう言うのも楽しいですね」と言うのが、寮で生活をしてみたマディラの感想だった。エデンに居るときは、年上に周りを囲まれていたのだ。リコリスという側仕えは居たが、対等に話せる相手ではなかった事情もある。それが寮に入れば、周りは同い年の少女達が大勢居てくれる。考え方や文化の違いはあったが、そう言う物だと理解すれば大きな問題ではない。ちゃんと準備をしていれば、乗り越えるのに難しい問題ではなかったのである。
 寮での朝食は、一人食堂で食べることにしていた。ジントと一緒にと考えないでもなかったが、さすがに回りの視線を意識してしまう。それにジントがいれば、きっと大勢の人が集まってくることになる。朝は静かにしていたいからと、リコリスも連れずに朝食をとることにした。考えようによっては、これも自分のことは自分でする勉強になるに違いない。そう考えれば、多少の不便や不思議な味は我慢することが出来るだろう。

「でも、どうして寮に入ったんですか?
 マディラさんだったら、立派なお屋敷を用意してもらえると思うんですけど?」

 この日も一人で食べていたら、知らない少女に捕まってしまった。誰だったかと記憶を探ったマディラは、クラスの自己紹介で見た顔だと思い出した。瞬時に頭の中で検索したマディラは、「涼宮さんでしたよね」と相手に尋ねた。その時に聞いた不思議な言葉は、この際気にしないことにした。

「そ、涼宮カスミよ。
 で、さっきの質問に対する答えは?」

 いささか厚かましいとは思わないでもなかったが、始まったばかりでもめ事を起こすのも宜しくない。だから気にしたそぶりも見せず、それが良いと思ったからだと答えた。

「お屋敷に籠もってしまったら、芙蓉学園に入学した意味が薄くなると思ったんです。
 それに、今までとは全く違った環境ですから、ここにいるといろいろな発見があるんですよ」

 だからおもしろいのだと、そんなマディラの答えにカスミは瞳を輝かせた。

「その発見って、たとえばどんなことなの?」
「そうですねぇ……初めて寮に入ったときは総てが新鮮でした。
 どうしようもなく狭い居室とか、人の多すぎる食堂とか……
 大勢の女性だけで入るお風呂とか……側仕えが居ないのも新鮮でしたね」

 自分では広いと思っているものを、マディラは狭すぎると言い切ってくれたのだ。なるほど価値観が違うと感心したカスミは、マディラの言葉の中に問題発言を見つけた。マディラは、「女性だけで入るお風呂」が発見だと言ってくれたのだ。それを考えれば、彼女の世界では“混浴”が常識と言うことになる。
 そう言うことなのかと、興味津々という顔でカスミはマディラに聞き返した。もしもそうなら、いろいろとおもしろそうな遊びが出来るだろう。最近お休みになっている街探検にも、新しい発展が望めるのかも知れないのだ。文化の違う人間を引き回すと、違った視点を見せてくれるだろう。

「その、混浴という観念が理解できていないのですが……
 私達の場合、公衆浴場という観念がありません。
 それに、私のように夫を持つ身ですと、ご奉仕することが多くなります」
「つまり、みんなで入る大浴場が珍しいんだと……」

 多少期待した方向と違っていたので、カスミは落胆から小さなため息を吐いた。何かおもしろい方向に話が向かないか、入学したてのマディラに期待したのだ。だがマディラにしてみれば、おもしろいことなどそうそうあり得ない。それにおかしな真似をしないよう、彼女の夫が勉強会を開いてくれたのだ。

「それで涼宮さんは、どうして私に声を掛けられたのですか?」
「決まってるでしょう、何かおもしろいことがないかを探していたのよ!
 最近碇先輩が遊んでくれないから、新しい遊び仲間を捜しているっていうのが正しいかしら?」
「碇先輩?」

 はてと首を傾げたマディラに、とっても有名人だとカスミは笑った。

「1学年上の碇先輩。
 フルネームで言うと、碇シンジ。
 3界1の英雄様の事よ」

 遊び相手がシンジと言うことで、今度はマディラが驚いた顔をした。「本当なんですか?」と言うマディラに、「ホントもホント」とにかっと笑って見せた。

「去年の今頃なんだけどね。
 先輩を引っ張り回して、街の探検をやっていたのよ。
 ヒスイ先輩とかスピネル先輩とか、一度コハク先輩にも参加して貰ったわよ」
「凄いメンバーとお知り合いなんですね……」

 まあシンジを引っ張り出せれば、そのあたりはおまけで付いてくることになる。それは分かっていたが、シンジを引っ張り出すこと自体が難しいとマディラも分かっていたのである。何しろエデンの役職者達でも、ようやくシンジと個人的に会うことが出来るようになったばかりなのだ。だからシンジだけではなく、コハク達と遊び回ったというカスミに、純粋に凄いとマディラは感心したのだった。
 もう一度凄いと感心したマディラは、カスミをどこかで見たような気がしてきた。どこだったかと悩んでみたが、どこだというのが思いつかなかった。それでも会った気がするのだから、気持ち悪いことこの上ない。そんなマディラの苦悩が分かったのだろう、どうかしたのかとカスミが水を向けた。

「確か、どこかでお会いしたような気がするんです。
 ですが、それを思い出せなくて、何か詰まったような気がして……」
「ふ〜ん、そう言うところも私達と同じなのね。
 で、どこかで会ったという件だけど、去年の学園祭の事じゃないの?
 あの時私は、学園祭の実行委員をしていたから。
 それに、コハク先輩の宴会にも呼んで貰ったんですよ!!」

 カスミの種明かしに、ああとマディラが大きく頷いた。学園祭と宴の二つで、ようやく目指すものにたどり着くことが出来たのだ。これで気持ちがすっきりしたマディラは、あの時のと、宴のことを持ち出した。

「隅っこの方で、飲んだくれていましたよね?」

 ただ思い出したことは、あまりうれしいことではなかったようだ。そう来るかと目元を引きつらせたカスミは、仕方がないと口をアヒルにした。

「だって、あんな政治ショーじゃ居場所なんて無いんだもの」
「ですが、芙蓉学園の皆さんはどこにでも顔を出すって聞いていましたよ。」
「そんなのは、ごく限られた人だけ。
 花菱先輩にカエデ先輩、椎名先輩ぐらいのものよ。
 でも、私にはあまりマディラさんの記憶がないのよね?」
「私は、そのころはまだ議員の資格を持っていませんでしたからね」

 それでもいろいろと恩恵は有ったのだとマディラはばらした。

「学園祭には、初日から参加させて頂きました。
 それに、碇様のお宅に泊めても頂いたんですよ。
 あのような狭い屋敷と言うのは、とても文化的衝撃を受けました。
 まさかコハク様が、あのようなところにお住まいだとは思いませんでした」
「まあ、あれでもリリンの庶民感覚から行けば豪邸なんだけどね……
 でもマディラさん、碇先輩のところに泊めてもらったんだぁ。
 ねえねえ、碇先輩が夜ばいに来てくれなかったの?」
「夜ばいとは何ですか?」

 まだリリンの文化、特に日本の歴史など習っていないのだ。従って夜ばいと言われても、マディラに理解できるはずがない。だから何だと、盛大に首を傾げることになった。
 なるほど文化が違うのだと理解したカスミは、夜ばいの意味をマディラに耳打ちをした。その中身が恥ずかしかったのか、それともよほどの心当たりがあったのか、マディラの白い肌が、首筋まで真っ赤に染まってくれた。

「え、ええと、何も無かったと思います……」
「思います?」

 今度はカスミが、マディラの答えに首を傾げた。こんな事は、簡単に有るないで答えることが出来るはずだ。思いますなどと不確かな記憶は、よほどのことがないとあり得ないだろう。

「ちょっと、その前に刺激の強いことがあったの……
 それで舞い上がってしまったらしくて、その後のことがちょっと定かじゃなくなっていて……」
「夢と現実が区別付かなくなった?」
「リコリスに聞いてみたら、ほとんどが夢だったようですけど……」

 ふうんと口元をチェシャ猫のように曲げたカスミは、そのものズバリ、ちょっと問題のある指摘をしてくれた。

「マディラさんに、そう言う願望があったって事ね?
 やっぱりエデンが自由恋愛って本当だったのね」
「別に、嘘を付くような事じゃないと思いますが……
 それに、まだそのころは、花菱様の奥さんにして貰っていませんでしたよ……」
「まあ、相手が碇先輩じゃ仕方がないと思うわよ」

 自分にも、似たような願望があるとカスミはばらした。

「っていうか、学園に居るかなりの女子が同じ願望を持っているわよ」
「最高評議会の議員の皆さん、もちろん女性の皆さんですが、
 碇様が水都においでになったときには、こぞって挨拶に伺っているようですよ」

 事情は似ているとばらしたマディラに、聞いたとおりだとカスミは納得した。シンジと遊んでいるときに、だから水都に行くと落ち着かないと零されていたのだ。奇しくも、マディラの口からその裏付けを得てしまった。

「でも、碇先輩って結構常識的なのよ。
 水都でのことも聞かされたけど、気が休まらないって零していたわ。
 だから学園の女の子達は、その壁をどうやって破ろうかと悩んでいるの」
「議員の皆さんと同じ事を悩まれているんですね……」

 自分を思い出せば、苦笑しか浮かんでこない。それでも分かったのは、どこでも大差がないという事実だった。もう一つ、聞かされていた倫理観とは若干違うとも気が付いた。なるほどこれが芙蓉学園の特殊性かと、混ざり合った文化があることをマディラは理解した。

「それでマディラさん、マディラさんは今では花菱先輩に一途なんですか?」
「……もちろん、そうですよ。
 私達には、一人の殿方に仕えることを美徳とする習慣もありますから」

 少し間の空いた答えに、しめしめとカスミは思惑が当たったと喜んだ。今までの話を聞く限り、マディラも仲間に引き込めそうなのだ。エデンの役職者を引き込めば、得られる情報も正確になる。

「ねえマディラさん、あたしが美咲市を案内してあげましょうか?」
「市内でしたら、ジント様と一緒に歩きましたよ」

 お誘いには感謝すると返したマディラに、おもしろいところを紹介するとカスミはたたみかけた。

「それから、スピネル先輩の居る喫茶店にも行きましょうよ。
 そこに行くと、運が良いと最高評議会議長様にも会えるわよ」
「サードニクス様に?」

 本当ですかと聞くマディラに、本当だと力強く頷いた。議長さんとパーガトリの前国王様が、そこの常連と言うのは有名な話なのだと。

「どう、連れて行ってあげましょうか?」
「ですが、私はまだリリンの貨幣経済に疎いので……」

 まだまだ一人では出歩けない。そう言って謝るマディラに、心配はいらないとカスミは保証した。

「財布の事は、ちゃんと宛があるから大丈夫よ。
 貨幣経済のことなら、あたしがゆっくりと教えてあげるわよ」

 そこまでお膳立てされたら、断るという考えは浮かんでこない。それに考えてみれば、今日はジントが寮に来ない日になっていたのだ。だったら気兼ねなく、遊び歩くことが出来るというものだ。

「涼宮さん、よろしくお願いできますか?」
「任せておいて。
 それから、そのときに良いことも教えてあげるわね!」
「良いこと、ですか?」

 何と首を傾げたマディラに、良いこととカスミは繰り返した。

「私はね、IIIの世話役もして居るんだから」
「IIIですか……」

 何かは分からないが、きっと凄いことなのだろう。シンジとも繋がりがあると言うことで、マディラはカスミが何かの大幹部なのだと誤解したのだ。もっともIIIが学園最大の組織だと考えれば、大幹部というのもあながち間違った答えで無いのかも知れないのだが。







続く

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