持ちきれないほどの荷物やお土産も、交通機関を乗り継がなくても済めば楽な物だった。しかも使う宅配便は特別仕立てと来ている。途中で景色を眺める風情には欠けるが、それで文句を言うのは贅沢と言えるだろう。それでも感想が必要と言うことなので、このことを書こうかと宝仙夫妻は考えていた。逆に言えば、それ以外は何の不都合も感じない移動方法だったのだ。目的地がはっきりしていれば、これ以上ないと言っていいかも知れない。

「何から何までお世話になりました……」

 今回の旅行に関して、碇家側ではエリカがほとんど仕切っていた。このあたり、共同事業の責任者という立場が大きかった。いずれにしても3界1の勇者の妻にして、パーガトリ支援の中心人物。そして沢近グループの役員という立場を持っているのがエリカである。そのエリカが添乗員まがいのことをしてくれるのだから、普通のサラリーマンにとっては破格の扱いに違いない。

「まあ、私も楽しめましたし……
 パーガトリの皆さんにも、休暇のような物でしたよ」

 ねえと話を振られたアイオライトは、その通りとしっかりと同意してくれた。

「それに、皆さんのおかげでシンジ君のご招待に与れました。
 このことについて言えば、いくらお礼を言っても足りないと思っています。
 おかげさまで、楽しい時間を過ごさせて頂きましたよ」

 丁寧に礼を言うアイオライトに、逆に宝仙夫婦は恐縮してしまった。総ては一般人のわがままから始まったのに、止ん事無き方まで巻き込んでしまったのだ。

「それでエリスちゃん、芙蓉学園を希望するの?」

 これでお別れになることもあり、エリスは上倉にくっついていた。その頭を撫でたエリカは、2年後の希望をエリスに聞いた。返ってくる答えなど、もちろん知っての上でのことである。

「うん、絶対に芙蓉学園に入るつもり!!」

 元気よく答えるエリスに目を細め、楽しみねとエリカは上倉に話を振った。

「そのころは、上倉君は上位の大学に入っているわよね。
 敷地は隣同士になるみたいだから、一緒に通うことが出来るわね」
「一緒と言っても、ずいぶんと建物は離れることになるよ」

 事実は違うという上倉に、エリカは少し口元を歪めた。

「だったら、寮を出てアパートを借りてみたら?
 そこからだったら、一緒に通えるでしょう?」

 そこでエリカは、上倉ではなくアンナに同意を求めた。もちろんアンナからは、良いアイディアだという同意が返ってきた。

「あ、アパートって、結構懐が厳しいんだけどな」

 そのまま寮にいれば、食住が無料で提供されるのだ。それを考えれば、あえてアパート暮らしをする必要はない。さすがの芙蓉学園でも、アパートでの生活保障まではしてくれないのだ。それにアパートに住めば、三食の支度から炊事洗濯とすることが目白押しになる。積極的に選択する意味は無いという物だ。

「でも、逆に寮だといろいろと不便じゃない?」
「不便って……三食悩まずに済むんだけど?」
「そっちじゃなくて、夜の方よ……」

 うふっと口元を隠したエリカに、何を言うと上倉は肩を落とした。そして芙蓉学園の生徒には当然の、そして外部からは非常識に思える寮の実態を口にした。

「芙蓉学園の寮は、基本的に男女の行き来に制限はありません。
 有るのは、隣に迷惑を掛けないこと、相手の同意を取ることぐらいです!」
「つまり、寮でも夫婦生活には影響が出ない訳ね」
「なぜ、そこまで話を進めます……」

 そのころのエリスは、まだ中学1年生のはずなのだ。どうしてその年で“夫婦生活”を心配しなくてはいけないのだ。勘弁してと言う上倉に、今更逃げられるかとエリカは言い返した。

「それに、今の内に捕まえとかないと後悔するわよ。
 エリスちゃんが大きくなるのを、いろいろな人が待っているんだから」

 ねえとエリカは、話をエリスに振った。なるんだったら、誰の奥さんになるのが良いのかなと。

「やっぱりお兄ちゃん……かな?」

 美咲市に来る前は「お兄ちゃん!!」だったのが、今では「お兄ちゃん……かな?」にまで変化している。その微妙な違いを、お約束のようにエリカが突っ込んだ。

「やっぱり、アイオライトさんは素敵だし……
 花菱さんも格好良いし……碇さんは……結構好みかな」
「やっぱり、目移りしちゃうもんね」

 お兄ちゃん大変と、エリカは口元を歪めた。からかわれていることは分かっていても、やはり言わなければいけないこともある。

「沢近さん、子供に何を言わせているんですか……」
「そうやって子供扱いすると、本当に他の男に走られるわよ。
 今の子供はね、結構耳年増だったりするんだから」
「わざわざ煽らなくても良いでしょう」

 それにと、上倉はしゃがんでエリスの視線に合わせた。

「とにかく、エリスはまだ芙蓉学園にも入学していないんだからな。
 そう言うことは、入学してからにしなさい!!」

 くしゃっと頭を撫でられたエリスは、「お子様じゃないもん」とふくれて見せた。だからそう言う扱いをするなと言うのである。

「沢近のお姉さんだって入れなかったんだぞ。
 だからエリス、よっぽど勉強しないと芙蓉学園には入れないからな」
「……お姉ちゃん、勉強しなかったの?」
「ちょっと上倉君、語弊のある言い方は止めてくれない。
 勉強って意味なら、ほとんどの芙蓉学園生徒に勝っているんだからね!」

 少なくとも上倉に対しては、天と地ほどの差をつけているとエリカは主張した。だから自分が入学できなかったのは、学力が理由ではないと言うのだ。

「じゃあお姉ちゃんは、中学の時の素行が悪かったのね?」

 なんでそうなると、エリカは反射的にエリスを睨み付けた。しかしおびえるエリスに、すぐにその顔は引きつった笑みに修正された。

「え、ええっと、お姉ちゃんの場合、いろいろと事情があったのよ……たぶん」

 それは本当のことなのだが、子供に詳しく説明出来るものではない。それに大人の事情は、説明しても子供には理解できないだろう。そのせいで説明も苦しくなるのだが、そんな事情をエリスが理解できるはずもない。だからエリスは、笑うに笑えない慰めの言葉をエリカに掛けてくれたのだった。

「でも、今は立派にコウセイしているんだよね。
 それに碇さんの奥さんにまでなれたんだから、威張って良いと思うわ」

 更正とはどういう事だ。突っ込むに突っ込めない言葉に、エリカの引きつりは更に大きくなったのだった。







<<学園の天使>>

174:







 知恵比べでは負けないと言われても、そのまま引き下がれないところにまで来ていた。それで萎縮してしまえば、それこそサードニクスの思うつぼとも思えてしまう。だからシンジは、計画を継続することにした。20人もの少女は厄介でも、行動のパターンは掴めていたのだ。それを利用すれば、その目を欺くことも難しくないだろう。
 そう気を取り直したところで、この後どうするかをシンジは考えた。サードにクスの言葉通りならば、この後お風呂でご奉仕と言うことになる。だがシンジは、仕切りなおしの必要も感じていた。それに己を省みてみると、どうもお腹が空いてたまらない。このままでは、入る力も入らないというものだ。

「それは良いんですけど、結構お腹が空きません?」

 音楽会からデッサンまで、結構な時間を使っていたのだ。外を見れば、日もしっかり暮れていた。シンジが空腹を覚えるのも、時間からすれば当然の結果だった。そしてサードにクスも、シンジの主張に同意した。

「確かに、少しばかり時間を使いすぎたかな?
 もともと、湯の後に夕食でもと思っていたのだが……」

 シンジに指摘されて、サードニクスも自分の腹具合に気が付いた。お風呂でさっぱりしてからと言うのも良いのだが、それに使う時間を考えると、さすがに腹具合もきつくなる。それに夕食の準備も、すでにできあがっているようだった。せっかく用意した食事なのに、冷めてしまっては興ざめになるだろう。

「せっかく裸になったのだから、このまま風呂の方が都合が良かったんだが……
 確かにシンジの言うとおり、先に夕食を済ませた方が無難だろうね」
「そうして貰えると、結構助かります……」

 また脱ぐことを考えると、少し間抜けに感じるのは仕方がないだろう。だが食事をするのに、裸というのはどうも宜しくない。諦めたサードニクスは、仕方がないと脱ぎ捨てた服を身につけた。少女達にも同じようにすることを命じてから、これからの都合を尋ねたのだった。色々な予定が変わったのだから、この後の遊び方を考えなければいけない。とりあえず大切な娘を預かっているのだから、少女達の予定は優先する必要があると言うのだ。

「夕食を先に済ませると、帰りが遅くなるが構わないかな?」

 サードニクスにとって、シンジと遊ぶのには少女達の存在が必要だった。だが未成年をいつまでも引き留めておく訳にもいかないので、答えに従って後のことを考えようとした。だが少女達からは、彼にも予想外の答えが返ってきた。

「帰りが遅くなるって……泊まっていってはいけないんですか?」
「泊まっていって……って、やはり君たちはご両親の保護下にあるからね。
 大切なお嬢さんを預かった私としては、適正な時間に帰らせる必要があるんだよ」

 少し顔を引きつらせながら、サードニクスにしてはまともなことを口にした。やはり節度のある大人としては、夜遊びに少女を付き合わせるわけにはいかない。奉仕にしても、冗談の域を超えてはいけないと思っていたのだ。
 だがその辺りの感覚は、送り出す方とはかなりずれていたようだ。良識を持ち出したサードニクスに、少女達は「どうして?」と言う疑問を顔に表していた。彼女たちは、聞かれる前から泊まっていくつもりでいたのだ。

「それに、両親からは自由にして良いと言われています」

 すかさず返ってきた答えに、シンジだけではなくサードニクスも顔を引きつらせた。どうやら、せっかくの機会と彼女たちの両親は張り切っているようだ。考えてみれば、紫の奏者がだめでも議長様という選択肢もある。どちらかに引っかかれば、儲け物と考えても不思議はないだろう。それを考えれば、「自由にして良い」と言うのは真実をオブラートに包んだ言い方に違いない。むしろ「今晩は帰ってくるな!」と言うのが正しいのだろう。

「サードニクスさんも、そんな顔をするんですね」
「少しだけ、シンジの気持ちが理解できたと言ってあげよう」

 顔を見合わせた二人は、どちらからともなく小さく吹き出した。

「どうも、私もリリンの常識に毒されていたようだ。
 これぐらいのことは、普段忘れるはずがないのにね」
「そう言うミスをしてくれると、とても安心できますね……
 それに、僕としては犠牲者(なかま)が増えるのは歓迎ですよ」

 様々なところで、居心地の悪さを味わっているのだと。だから同じ境遇を持つ人が増えるのは、問題解決にならなくても気分的には楽になるのだ。

「私としては、この手のことでシンジの仲間になるつもりはないのだがね。
 まあ良いだろう、今日のところは仲間で我慢しておくよ」

 それでと、サードニクスはシンジの予定を聞いた。

「シンジも、当然泊まっていって良い口だろう?」
「なぜ、そこで“当然”という言葉が付いてくるんですか?」
「この状況で、君が帰ることを彼女たちが許すと思うかい?」

 だから当然だとサードニクスは主張した。それにシンジを帰すと、自分の身が危なくなるのだと。自分をスケープゴートにするかと文句を言ったシンジだったが、仕方がないと泊まっていくことを承諾した。その代わり付けた条件が、絶対にしないと言うことだった。

「もちろん強制できることではないのは理解しているよ。
 ただ、誘惑をだめと言うことは私にも出来無いのだよ」

 建前を持ち出したサードニクスに、それぐらいは理解しているとシンジは答えた。

「実のところ、誘惑はあまり心配していませんよ。
 可哀相だけど、あの子達ではヒスイを超えては来られませんよ」
「それは、どうしようもないほどの真実なのだろうね……」

 からかってはいたが、それぐらいのことはサードニクスも承知していたのだ。それにまだ少女達の年齢では、配偶者選びは深刻な物にはなっていない。憧れと義務感は持っていても、まだ幼すぎるというのは確かだったのだ。むしろ彼女たちは、シンジとヒスイの関係に憧れているのだろう。そしてそれぐらいのことは、二人とも理解していたのだ。

「一応理解しましたが、僕だけに押しつけるのは止めてくださいよ。
 まあ夜通しのパーティーには、最後まで付き合って貰いますからね」
「それは、なかなか楽しそうな催しだね。
 ところでシンジに質問なのだが、自由恋愛というのは理解して貰っていると考えて良いのだね?」
「あまりしつこくすると、命の保証はしませんよ」

 何がと誰にと言うのは、口に出さなくても双方承知しているようだった。確かにそうだと苦笑を浮かべたサードニクスは、ほどほどにしてみると言ってきた。

「やめておくじゃないのがチャレンジャーですね」
「その辺り、男として素直な感情だと思ってくれないか。
 やはり姫の美しさは尋常ではないのだよ。
 彼女を見ていると、この私ですら理性に自信が無くなってくる。
 だめだと分かっていても、誘惑してみたいという想いが押さえきれないんだ。
 そうしている自分に、憧れるというのが正しいのだろうね」
「……結構、夢想家だったんですね」

 驚いた顔をするシンジに、自分も驚いているのだとサードニクスは頭を掻いた。

「こんな想いを抱いたのは、コハクの母親以来だと思うよ」
「サードニクスさんにも、そんな時代が有ったんですねぇ……」
「その辺りのことは、今晩酒の肴にしないかね?」

 それぐらいならつきあえると、シンジは笑って承諾したのだった。



 さすがのサードニクスも、まだ子供相手に遊ぶことは出来なかったのだろう、夕食会は極めて穏やかな物になっていた。だから話題も、政治的な物はいっさい出ず、どちらかと言えば3界の文化についてが多くなっていた。このあたり、芸術的流れが続いていたのだろう。その中でも、サードニクスはヒスイの歌を絶賛した。

「それにしても、姫の歌はすさまじい物だね。
 芸術に乏しいパーガトリにあって、良くもまあここまで磨かれた物だと感動したよ」

 最大級の賛辞を送るサードニクスに、ヒスイは恥ずかしそうに頬を染めていた。賞賛ならいつも受けていたが、さすがに相手がエデン議長ともなれば特別になる。今日一日で親しみも増したため、余計に恥ずかしくなっていたようだ。

「リリンに来てから音楽を良く聴くようにもなりました。
 おかげで、声の出し方は上手くなったと思います。
 それに、シンジ様とコハク様にはずいぶんと教えて頂きました」
「つまり、姫の歌声は3界が共同して磨き上げたと言うことだね。
 これもまた、芙蓉学園の成果に違いなと言うことかな」
「そう仰有って貰えて、光栄だと思います……」

 よしよしと頷いたサードニクスは、次にシンジのチェロを俎上に上げた。何のかんの言って、シンジのチェロも形になっていたのだ。最強の戦士の手習いとして考えれば、秀逸と言っていいだろう。

「それで、シンジのチェロというのはどうなんだい?」
「僕のチェロですか……」

 フムと考えたシンジは、あまり記憶がないのだと白状した。

「小さな時に始めたんだけど、惰性で続けていたというのが一番かなぁ。
 別に、何かの目的を持って続けた訳じゃありませんでしたね。
 アスカに聞かれたときは、誰も止めろといわなかったから続けたって答えたし」
「まあ、なかなか子供が目的を持つことは難しいだろう。
 それを考えると、ゲンドウ殿は将来を見越していたと言うことかな?」
「父さんがですか……」

 父親が何かをしてくれたという記憶は、残念ながらシンジには残っていなかった。だが冷静になって考えると、自分がチェロを続けられた理由が思いつかなかったのだ。習い事として、音楽というのはお金が掛かる物の一つに違いない。孤児院に入れられた自分に、施設がお金をかけてくれるとは考えられなかった。

「確かに、考えてみるとそうなのかも知れませんね……」

 シンジの様子が寂しそうなのに気づいたサードニクスは、どうかしたのかと尋ねた。

「僕は、ずっと父さんに捨てられたと思っていたんですよ。
 でも、色々と考えてみると違っていたんだなぁって……
 楽器を続けることにしても、父さんが考えてくれなければ出来なかったんですよね」
「彼は、君の成長を誰よりも喜んでいたよ。
 そして君のことを一番信頼もしていた。
 我々が攻撃を仕掛けたときのことは分からないが、
 少なくとも芙蓉学園プロジェクトは、君がいなければ成り立たなかった。
 ゲンドウ氏は、初めからそれを理解してくれていたよ」
「そう考えると、なぜかとても悔しくて……
 僕は、父さんに何も親孝行が出来なかった……」

 それが一番の後悔だというシンジに、まだ機会は残されているとサードニクスは諭した。

「今のゲンドウ氏もまた、君の父親であることには変わりないだろう。
 もしもシンジに後悔があるのなら、その分親孝行をすれば良いだけのことだよ。
 それから私が言っても説得力に欠けるのは分かっているが、
 君が元気で活躍するのも、立派な親孝行になっているんだよ。
 その証拠に、君のことを語るとき、ゲンドウ氏はとても嬉しそうだったよ」

 楽しそうと言う意味もあったが、それを敢えてサードニクスは飲み込んだ。せっかくいい話をしているのだから、自分からぶちこわす必要はないだろう。そうですかとうれしそうにしたシンジは、すぐに顔を赤くして恥ずかしがった。周りの少女達から向けられる視線もそうだが、サードニクスに対して無防備な表情を見せていたのだ。だからシンジは慌てて、自分のことから話をそらした。

「僕のことは良いんですが、サードニクスさんはどうして絵だったんですか?」
「私かい、私の場合はあまりおもしろい話は無いと思うのだがね……
 なにしろ、最高評議会議員は芸術の嗜みがなければいけないからね。
 だから私は、それがたまたま絵だったと言うだけのことなんだよ……」
「たまたま、なんですか?」

 そうだねと答えたサードニクスは、昔を思い出すように瞳を閉じた。もともと芸術を嗜むという習慣自体、反発を感じていた時期もあったはずなのだ。それなのに、なぜ絵を続けてきたのだろうか。

「そう言えば、ある人に褒めて貰った記憶があるね。
 それがとても嬉しくて、だから一時期絵にのめり込んだことがある……」
「ある人ですか?」
「もう、今は亡くなられている人だよ。
 モデルになって貰うという口実で、何度も通い詰めたことがあったね。
 今となっては、もう思い出としか言いようのない古いことだよ」

 その相手が、とても大切な人だったのはサードニクスの顔を見れば分かることだった。その表情に、それが誰なのかシンジは理解できた気がしていた。

「色々と参考にしたいので、それも今晩の酒の肴にしましょうか」
「そう言う恥ずかしいことを私に言わせたいのかね?」
「もともと、自分で言い出したことでしょう?」

 そうだったかと頭を掻いたサードニクスは、仕方がないと肴になることを承知した。もっとも自分だけが犠牲なることをよしと出来るはずもなく、色々と聞かせて貰うと口元を歪めた。

「僕には、あまりお聞かせするようなことはありませんよ」
「しかし、アスカと同居していたのだろう?
 だったら、その時のことをばらしてくれても良いと思うのだがね。
 もちろん、笑い話で済む範囲に限定してくれて構わないからね」

 そう言われれば、なかなか断りにくいところもある。仕方がないと折れたシンジは、半分やけになって「暴露大会だ」と口にした。

「だからヒスイも、この際ぶちまけて良いからね」

 そこで話を振らないように。ヒスイにしては珍しく、はっきりと迷惑だと表情に出していたのだった。



***



 何事もそつなくこなすと言うことは、大きなアクシデントが起こりにくいと言うことに繋がる。細やかな気配りを心情とする……と言っても、誰も信用してくれないのだが……椎名イツキは、この旅行でも本領を発揮していた。おかげでトラブルと言っても、初日の料理が足りないぐらいで済んでいた。それにしたところで、追加手配で無事解決をしている。
 それでも、4人もお荷物がいれば忙しくもなる。はしゃいだ問題人物を特別室(ベッドルーム)に押し込んで、ようやくこの日のお仕事も終わってくれた。後はのんびりとお湯につかり、一日の疲れを癒せば完璧だろう。ベランダに作られた露天風呂からは、ちょうど南の空を見渡すことが出来ていた。空を見上げれば、おあつらえ向きの満月が浮かんでいる。月見風呂など、絵に描いたような風流ではないだろうか。

「この俺様が親孝行か……」

 石造りの露天風呂は、イツキ一人の専用となっていた。大きく手足を伸ばし、ぼうっと月を見つめている。そうしていると、なぜか色々と考えてしまうのだ。特に両親を連れてきたことを考え、お笑いだとつい漏らしてしまった。もちろん、両親を大切に思う気持ちは持っている。だから出来るだけのことはしてあげたいと思っていた。その一方で、自分こそ一番親孝行に遠いところにいるつもりでいたのも確かだ。だがこうして温泉に連れてきて、両親に喜ばれると悪い気はしないのだ。それを思い出すと、不思議な気持ちにもなってくる。
 これも平和のせいだと、イツキは自分の感情を整理した。あまりにも平和だから、余計な感傷に浸ってしまうのだ。

「つかの間の平穏、つかの間の休日か……」

 風がないため、お湯の表面は鏡のように穏やかだった。そこに映し出された月を見て、これが平和かとイツキは哲学的なことを考えた。この美しく見える月は、ちょっと手を動かすだけで激しくかき乱される。その不安定さ、儚さが平和そのものに見えてしまうのだ。そしてその儚さが有るからこそ、よけいに美しくも見えていたのだ。そして手でお湯をすくえば、平和は自分の手の内に来る。
 月の姿に平和を見たイツキは、その平和を乱す物を想像した。議長様がおとなしくしてくれているせいで、3界は今までになく落ち着いた物になっている。だがそれは、あくまで表に現れている部分だけのこと。見えない世界では、相変わらず権謀術数が渦巻いているだろう。だがそれは、今に始まった物ではないのも知っている。自分たちの世界は、平和の裏で血みどろの戦いが続けられてきたのだ。その歴史を考えると、逆に今はうまくいっている方なのだろう。何しろシンジの妻、クレシアがにらみをきかせているのだ。そのおかげで、少なくともリリンの世界では裏の世界にまでコントロールが及ぼうとしている。それでもイツキは、問題はあると思っていた。

「混乱の種は、必ずしも敵が撒く物だけではない。
 むしろ味方の撒く種の方が、よりやっかいな根を張ることになる……か」

 そのときイツキが思い浮かべたのは、不安定さを増したカエデのことだった。とても有能だが、とても不安定な彼女は、その存在自体が混乱の引き金となるだろう。彼女が力を発揮すれば、少なくともリリンは発言権を失うことはない。リリンの顔として、活躍することも可能だろう。だが彼女自身の持つ危うさは、その功績すら吹き飛ばしかねない物だと思えてしまうのだ。もしもその爆弾が爆発したとき、準議員という思い人の功績も吹き飛んでしまう。得難い人材には違いないが、軌道に乗った今なら無くても乗り切れる人材でもあるだろう。

「そう言う意味で、あの攻撃は意味があることになる。
 いや、逆に成功してくれた方がありがたかったのかも知れないな……
 そうすれば、カエデちゃんはシンジという安定した基盤の上に立つことが出来た。
 喪失の痛手は、シンジとならば短い時間で解決できただろうに……」

 相手の策略にはまり、そしてそれを上回る答えを見せつける。その意味では、出した答えは中途半端だったのかも知れない。結局お互いの心の中に、小さなとげを残してしまったのだ。

「結局、総てシンジが鍵となってくるのか……」

 そう考えると、自分は運命的な出会いをしたことになる。そして自分の人を見る目は、全く持って正しかったのだと。

「まだまだ、俺様は退屈しないで済むと言うことか……」

 困った物だと苦笑を浮かべたとき、水面に浮かぶ月の像が少し乱れた。なるほど平和などと言う物は、こんな風に簡単にかき乱されるのだと感心した。

「何を隠れている」

 いくら足音を忍ばせても、こんな静かな夜に気配は隠しきれない。もう一度苦笑を浮かべたイツキは、後ろを振り返らずに声を掛けた。

「一緒に入りたいのなら、遠慮する必要など無いのだぞ」

 応答が無いのにじれたイツキは、そう言って相手に決断を迫った。ここまで言えば、いくら自信が無くても思い切るしか他にない。

「それとも、そこで夜が明けるまで過ごすつもりなのか?」
「……本当に、宜しいのでしょうか?」

 ようやく返ってきた答えに、イツキは自分の想像が正しかったことを知った。まあこんな事をするのは、ネリネかタンポポ以外にあり得ない。そして一番自分に自信が無く、陰から見ているのがネリネだったのだ。

「俺様は、良いと言ったつもりだが?
 ネリネには、そう聞こえなかったのか」
「……そう言うことではありません」

 振り返りもしないイツキに不安を感じたのか、ネリネはもう一度「良いのか?」と繰り返した。

「俺様は、いつだって女性には優しいのだ。
 そして勇気を振り絞った女性には特に優しいと来ている」

 だから遠慮するな。そこまでイツキが言ったお陰で、ネリネは覚悟が出来たようだ。豊かな体を隠すタオルをはずし、「失礼します」とイツキの横に滑り込んだ。月明かりの照らす湯に、ネリネの白い胸が浮かび上がっていた。少しだけ視線を動かしてみたイツキは、綺麗だなとぼんやりと考えていた。
 混浴の割に落ち着いているイツキとは対照的に、ネリネの心臓は早鐘を打っていた。これで新しい一歩を踏み出すことが出来る。話し相手という立場だけではなく、女としてイツキに尽くすことが出来るのだと。

「タンポポとプリムラはどうした?」
「プリムラちゃんはもう寝ています……
 タンポポさんは……たぶん寝ていると思います……」
「確かに、誰も覗きには来ていないようだな……」

 そのまま黙ったイツキに、ネリネは次の言葉を待った。だがイツキからは、いつまでも期待した言葉は出てこなかった。

「椎名様……」

 勇気を出して、そっと体を寄せてみた。素肌が少し触れた瞬間、ネリネは心臓が大きく跳ねたのに気が付いた。それに頭に血が上ってきた気もする。だがここまでしても、イツキからは何の反応も返ってこなかった。勇気を出したせいもあり、逆にネリネは悲しくなってきた。イツキの側仕えとして家に入ったのに、未だ何もしてもらえないのだ。自分に魅力がないのか、それとも身分が問題なのか。どちらが理由にしても、ネリネにはどうしようもないことだった。
 もう一度名前を呼んで、これで駄目なら諦めよう。そうネリネが覚悟を決め、震える唇を開いたとき、「静かだな」とイツキが声を掛けてきた。

「ええ、そうですね……」

 不意打ちに慌てたネリネだったが、イツキは意に介したそぶりを見せなかった。

「俺様は、本当はこんな静かな時間が好きなのだ」

 そう言われると、自分が邪魔をしたと言われている気になる。やはり迷惑だったのかと諦めたネリネは、失意の内にお湯から上がろうとした。だが少し腰を浮かしたところで、突然イツキがネリネの右手を捕まえた。

「椎名様?」
「もう少し、俺様の隣にいてくれないか?
 お前となら、ゆっくり落ち着いた時間を過ごすことが出来そうなんだ」

 駄目かと聞かれたネリネは、そんなことはないと頭を振った。

「だったら、もう少しだけこうさせてくれないか」

 それからと、イツキは少しテレながら鼻の頭を掻いた。そしてネリネにとって、ずっと聞きたかった言葉を口にした。

「その後に、お前を抱いても良いだろうか?」

 はいと答えるのが恥ずかしくて、ネリネはそっとイツキに体を預けたのだった。







続く

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