酔いつぶれた翌朝というのは、いつも後悔から始まる物だ。それは宝仙家主であるミキトにも例外ではなく、彼は快適なベッドで不快な朝を迎えたのである。いい気になって付き合ったと言うか、ウワバミたちに付き合わされた結果、盛大な二日酔いが彼を待っていたのである。そしてもう一つ、非常に大きな後悔もまた襲ってきたのである。同僚に対して、散々美咲市に行くことを吹聴して回ったのだ。そして散々同僚達を羨ませたのだ。そうなると彼には、結果報告の責任がついて回る。碇家ご招待という実績を作りはしたが、その証拠となる物を何一つとして用意できなかったのである。二日酔いで痛む頭を抱えながら、どうした物かとベッドの上で途方に暮れたのだった。
そしてもう一人、最終日になったのを盛大に悔しがっている少女が居た。彼女にしてみれば、最後の夜は思いっきり遊ぶつもりだったのだ。だが悲しいかな体力が付いてこれず、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていたのだ。そのせいで、大好きなお兄さんとの時間も残り少なくなってしまった。
「ねえママ、もう一日泊まっていっても良いでしょう?」
だからエリスとしては、精一杯良い子ぶって、旅行の延長を主張したのだった。もちろん一家の主婦、アンナが首を縦に振るわけがない。一日延ばせば、また一日延長したいと言い出すのに決まっているのだ。アンナとしても、少しぐらいと思う気持ちが無いわけではない。だが早く現実に戻らないと、社会復帰が難しくなってしまう恐れもあった。
母親を強敵と見たエリスは、お願いする相手を上倉へと切り替えた。優しいお兄様というのを前面に出し、良い子にするからとしっかりとおねだりしたのだ。もっとも上倉にしても、事前にアンナに釘を刺されていた口だった。滞在期間の延長や宿泊の延長は、彼の権限……というか、口利きで何とか出来る範囲でしかない。唯一気になるのは、移動手段ぐらいだろうか。それにしたところで、お願いすれば何とかなるレベルだろう。以上の条件は揃っていたが、やっぱりだめと答えるしかなかったのだ。
「また今度、遊びに来ればいいだろう?
それにエリス、芙蓉学園に入学すれば、いつだってここにいられるんだぞ?
あと2年頑張って、絶対に芙蓉学園に入学すればいいんだよ」
「私でも、芙蓉学園に入れるの?」
「俺だって入れたんだ。
エリスなら、絶対に入れるよ!」
そう保証はしてみたが、芙蓉学園の選考基準は謎に包まれていたのだ。平均的に見れば、成績不良者は存在していない。だからと言って、成績だけが選考基準でないのは確かだ。多少事情はあったにしても、成績では上倉はエリカに敵わないのだ。同学年の面子を思い出しても、統一した選考基準が思いつかない。それで居て、一人一人が何らかの光る物を持っているのだ。それをもって選考基準に出来るのかは、上倉にも自信を持って断言できなかった。と言うか、募集から選考までの短い時間で、それが可能とはとても思えなかった。
とりあえずエリスをなだめていると、とても朝とは思えない……ある意味朝らしくもあるのだが……顔をしたミキトが起きてきた。ぼさぼさの頭に、今にも戻しそうな顔の色。重度の二日酔いであるのは疑う余地はない。シンジに渡された薬を思い出し、さすがは気配りの英雄様だと上倉は感心していた。
「叔父さん、おはよう!」
辛いだろうと分かっていても、上倉は敢えて大きな声で朝の挨拶をした。そんな大声に、当然のようにミキトから勘弁してくれと言う泣き言が返ってきた。上倉の声が、頭の中でがんがんと響いているというのだ。そんなミキトに苦笑を浮かべ、上倉は一錠の薬を手渡した。
「これは?」
「二日酔いの薬だよ。
これを飲んでシャワーを浴びれば、少しは楽になると思いますよ」
「そうかぁ〜」
これまで生きてきた中で、間違いなく一番の二日酔いだろう。そんな物が、これぐらいで楽になるはずがない。疑わしげに錠剤を見たミキトは、アンナに貰った水でそれを飲み込んだ。
「まあ、気は心って言うからな……とにかく、シャワーを浴びてくるわ」
少しふらつきながら出て行ったミキトに、上倉は少しだけ口元を歪めた。何しろ貰った薬は、エデン特性の酔い覚ましというのだ。どのくらいの効果があるかは、すでに上倉が体験済みだったりする。これでシャワーから出てきたときには、別人に変身しているだろう。
「それで、今日の予定だけど……観光で良いかな?」
「後は、おみやげを買うぐらいかしら?
ねえヒロキ君、フローラって何かグッズを扱ってる?」
「フローラのグッズって……俺、行ったことがないよ」
聞かれても困ると答えた上倉に、アンナが大きなため息を返した。
「ねえヒロキ君、叔母さんちょっと心配になったんだけど……」
「な、なにが?」
改めて心配されるような心当たりがあるはずもなく、どうかしたのかと上倉は聞き返した。そんな上倉に、アンナはもう一度大げさにため息を吐いた。
「ヒロキ君は健全な男の子のはずよね?
だったら、どうしてフローラに行こうって思わないの?
学園紹介で、世界的に有名になったお店なのよ。
私には、ヒロキ君が行かない理由が思いつかないわ!」
「べ、別に、個人的な趣味の問題だろ!」
「その、個人的な趣味って言うのが気になるのよ。
正常な趣向を持った男の子なら、絶対にフローラに行っているはずなのよ。
叔母さんにだって、それが自然だと思えるぐらいのことなのよ!」
それなのに行ったことがないとなれば、心配になるのも仕方がない。そう強調したアンナに、それほどのことなのかと上倉は考え直した。
確かにフローラに行けば、美形の天使が給仕をしてくれる。だがそれ以上何かがあるかと言えば、何もないのがフローラなのである。上倉にしてみれば、美形の天使など学園で見慣れているのだ。それに食堂に行けば、三々五々戯れているのを鑑賞することも出来る。それを考えれば、今更お金を払ってまで行く理由に欠けていたのである。それに食堂でも、十分においしいお菓子を食べられるのだ。しかも、ただで。
「だからといって、行かない理由にはならないでしょう?」
「そりゃあ、まあ、そうかもしれないな……」
そこまで言われて、無理に断る理由もなかった。それに言われてみれば、フローラが有名店なのは間違いないのだ。美咲市にまで来て、フローラに行かないというのは確かにおかしいことに違いない。
「あそこだったら、テイクアウトのお菓子もあるだろうし。
じゃあ、今日のコースにはフローラを入れることにしようかって叔母さん?」
「何かしらヒロキ君?」
「今、あからさまに安堵しませんでした?」
「何のことかしら?」
おほほほほとしらを切るアンナに、何か上倉は事情が掴めた気がした。思い出してみれば、アンナがスピネルと何か話していたののだ。
「ひょっとして、スピネルさんに何か頼まれていません?」
鋭いなと感心はしたが、敢えてアンナは知らぬ振りを通すことにした。実のところ、スピネルには営業成績拡大の協力依頼を受けていたのである。ちなみに協力する見返りは、来店時のサービスと言うことになっていた。ちなみに依頼の詳細は、常連を一人確保することである。
本当かと疑わしい目でアンナを見たのだが、ほほほほとしらを切り通されてしまった。しかも上倉の追求は、ミキトがバスタオル一枚で飛び出してきたことで遮られてしまった。何のことはない、エデン特性の酔い覚ましは、シャワーを浴びる短い時間で、劇的な効果を示してくれたのだ。
「こ、これ、まとめておみやげに出来ないか!」
「残念ながら、エデンの薬は美咲市外持ち出し禁止です」
本当に残念そうなミキトに、そこまでのことかと上倉は苦笑したのだった。
<<学園の天使>>
173:
上倉の用事を済ませれば、次は最大の山場が待っている。本当ならジュネーブに渡ってカエデの様子を見に行きたいところなのだが、昨日の今日で会いに行くのも不自然かと思えてしまった。それにガーデンパーティーでは、待っているよとしっかりと釘を刺されてしまった。
「この上、まだ遊びに来いと言うんですか?」
シンジにしてみれば、しっかり家族全員と顔合わせをしているのだ。しかも人の家の庭先で、大人同士の酒盛りまで始めてくれた。ここまで図々しい真似をしておいて、遊びに来いもあった物ではない。
だがサードニクスは、それそれと軽く交わして見せた。これはあくまで、上倉に対するサービスであって、シンジに対する物ではないというのだ。
「彼は、激動の2年目を無事まとめ上げてくれたからね。
そのお礼するのと同時に、どのような人なのかを知ってみたかったんだよ」
「どうして、そこまでする必要がありますか?」
いくら芙蓉学園生徒会長でも、最高評議会議長直々に人物評定するまでもないはずだ。そこまでサードニクスがしたことに、逆にシンジが疑問を持った。
「彼が、次の留学生候補なんだろう?
体力系の花菱君とはちょっと違ったタイプじゃないか。
リリンの芸術家というのはどういう物か、興味を持ったと考えてくれ」
「芸術家に興味を持ったって……似合わないことを言っていますね」
そう決めつけたシンジに、失礼なとサードニクスは憤慨して見せた。
「最高評議会議員は、例外なく何等かの芸術を嗜んでいるんだよ。
コハクは音楽だと思ったが、私は絵画方面を楽しんでいるんだ」
「サードニクスさんが……絵を」
しっかりと驚いた顔をするシンジに、サードニクスはもう一度失礼なと憤った。
「古来役職者という物は、芸術に造詣が深くないといけないんだよ。
また役職者が無関心だと、芸術が育ってくれないんだ。
従って、私もその良き習慣に従っているんだ。
だから自分の絵を描いて貰っていると聞いて、彼に興味を持ったんだよ。
芸術に縁のなさそうなシンジの興味を引いたんだ。
どれだけの才能を持っているのか確かめたくなったんだよ」
「芸術に縁がないって……泣かせてあげましょうか?
これでも、小さいときからチェロを習っているんですけど……」
自分も芸術系だと主張するシンジに、今度はサードニクスがわざとらしく驚いた振りをした。このあたりは、仕返しの意味も大きかったのだろう。
「私は、シンジこそ芸術から一番遠いところに居ると思っていたよ。
そうか、シンジは女性を侍らせる以外の特技があったのだねぇ。
それともその特技は、女性を落とすための持ちネタの一つなのかね?」
「本当に、僕に喧嘩を売っています?
そんなに信じられないのなら、今晩うちの音楽室で披露して見せますけど」
ムキになったシンジに、それは後の楽しみに取っておくとサードニクスは笑った。何しろ天上の旋律と一緒に遊びに来てくれるのだ。だったらその芸を披露してくれても良いだろうというのだ。
「分かりました。
じゃあピアノを用意しておいて下さい。
ヒスイの伴奏に使いますから。
それから、僕もチェロを持って行きます!」
「だったら、聴衆はどれくらい集めたらいいかな?
せっかく3界1の英雄とパーガトリの宝石が音楽を披露してくれるんだよ。
私だけが独り占めするんじゃもったいないだろう!」
その言葉に、そう来たかとサードニクスの意地の悪さをシンジは確認した。この様子だと、シンジが楽器を使うことぐらい知っていたのに違いない。だが普通に弾いてくれと言ったのでは、たぶんシンジはうんと言わなかっただろう。こうしてムキにさせることで、自分から弾くと言わざるを得なくなってしまったのだ。このあたりの駆け引きは、まだまだサードニクスの方が上手と言うことだ。
しかもヒスイのことまで持ち出すだから、観客が集まることを嫌とは言えなくなってしまった。大げさなことの嫌いなシンジに対して、効果的な嫌がらせといえただろう。
そう言うことだからと、上機嫌でサードニクスは帰ろうとした。これがミキトを酔いつぶした後だと考えれば、恐るべきウワバミぶりと言えるだろう。だが帰ろうとしたところでふと立ち止まり、感想を忘れていたと振り返った。
「私としては、上倉君よりも宝仙母子が興味深かったね。
エリスと言ったかな、あの子は非常に豊かな才能を持っているね。
出来るなら、パトロンになって才能を伸ばしてあげたいところだよ」
「だったら、2年後に芙蓉学園に入れてあげて下さい。
上倉君をお兄ちゃんと慕っていますから、きっとここを志望しますよ」
「その機会を待って、留学生として攫ってくると……うん、なかなかいい手だね」
それならどこにも角が立たない。真剣に感心するサードニクスに、本気かとシンジはあきれた。そもそも攫うと言う言葉自体穏やかでない。
「本気も本気、芸術はどこの世界でも共通言語だからね。
そして豊かな才能というのは、どこにあっても貴重な物なのだよ。
しかも、なかなか将来性が豊かそうな美少女じゃないか」
「エリスちゃんは、サードニクスさんの子供でもおかしくない年なんですよ。
どうしてそう言うことを言いますか?」
「アスカでもそうなんだけどね、違った文化を持った美少女というのはそそられるのだよ。
それに私達の世界は、完全に自由恋愛が成立しているんだ。
その証拠に、君のところには幼女もご機嫌伺いに行ったんじゃないか?」
そのときは、さんざんエデンの常識を疑ったものだ。それをこの場で持ち出されると、益々エデンの常識を疑いたくなる。それでもお客さんを待たせているので、これ以上の追求をシンジは諦めることにした。このまま続けていると、際限ない泥沼に落ちていきそうな気がしてならなかったのだ。
そんなやりとりがあったお陰で、シンジはチェロを抱えていく羽目になった。まあ大荷物と言っても、空間跳躍を使えば大した苦労ではない。それに持って行かないで嫌みを言われるぐらいなら、この程度の譲歩はどうと言うことでもなかったのだ。
だがサードニクスの私邸前に来たとき、やられたとシンジは相手のしたたかさに舌を巻いた。空間を飛び越えたところで、入り口の前に大勢の少女が出迎えに出てるのが見えたのだ。しかもよく見れば、中には一度会った事のある少女も混じっている。そう考えると、集まっているのは側仕えではないと言うことだ。
「ええとサードニクスさん、この子達は……?」
「他の役職者や行政官に声を掛けたんだよ。
そうしたら、是非ともシンジの演奏を聴きたいと言うことになってね。
制限を付けたら、女の子ばかりになってしまったと言うわけだよ」
「制限を付けたら……どんな制限を付けたら、小さな女の子ばかりになるんですか!!」
大声を出すわけにも行かず、サードニクスの耳元でシンジは糾弾した。だがサードニクスにしてみれば、この程度のことは想定内のことである。えへんと胸を張って、この後に「ご奉仕がある」と言ってのけた。
「20人ぐらいいるんですけど……」
奉仕と言っても、普段は1対1しか経験したことがなかった。それを考えたら、20人というのは如何にも多すぎる。そんな疑問に、これもまた習慣の一つだとサードニクスは答えた。
「なに、シンジに相手をしろとは言わないよ。
とりあえず、全員私に奉仕することになっているんだよ。
なに、奉仕するのは一人でなければならないという決まりはないんでね」
にやりと笑うサードニクスに、やられたとシンジは天を仰いだ。生きている習慣と言う言葉を逆手に取られてしまったのだ。大勢の少女に囲まれるのも苦痛だが、それ以上にヒスイが封じられてしまったのが痛い。いくらシンジでも、これだけの少女の目を誤魔化すことは出来ないだろう。
「どうして、そう、効果的な嫌がらせをしてくれます?」
「嫌がらせとは心外だね。
これも、3界1の勇者を持てなそうという気遣いの結果だよ!
誓って言うが、強制した結果ではないからね。
彼女たちは、喜んでシンジに……もとい、私に奉仕すると言ってくれたんだよ」
わざとらしく間違えるサードニクスに、それ以上シンジは追求することを諦めた。すでに場はサードニクスの手の内にある。よけない抵抗をするより、じっくりと策略を観察して対策を打った方が意味があるだろう。そう諦めたシンジは、中に入りましょうとサードニクスを促したのだった。
何事が起こるのかと構えた割には、最初の音楽会では大したことは起きなかった。そう言う意味では、音楽会は期待はずれとだったのかも知れない。シンジのチェロ独奏に対して、サードニクスは普通に賛辞を送ってくれたのだ。そしてヒスイの歌に対しては、これでもかと言うほど涙を流して喜んでくれた。そこまでするかと思わないではなかったが、確かにヒスイの歌は感動的に美しかったのは間違いない。
感動したと大げさに言ったサードニクスは、悪いことを言ったとシンジに謝った。
「どうやら、私はシンジに失礼なことを言ってしまったようだ。
芸術に縁がないと言ったが、それは謹んで訂正させて貰うことにするよ。
その弦楽器の独奏も素晴らしかったが、パーガトリの姫の伴奏も素晴らしかった。
それ以上に驚いたのが、あの美声の伴奏を出来るという神経だね。
その図太さは、いくら賞賛の言葉を贈っても足りないぐらいだよ」
「最後のは、誉められている気がしないんですけど?」
褒めるのなら、どうして素直に褒めないのか。その曲がりまくった根性に、今更ながら感心させられた。
「なに、芸術家というのは時に鈍感でなければいけないんだよ。
その鈍感さを持っていると言うことは、シンジもまた芸術家と言うことになる」
「やっぱり、誉められている気がしないんですが?」
鈍感だとか図太いとか、少なくとも芸術を誉める時に使う言葉ではない。どちらかと言えば、繊細とか折れそうなとかの方が適切だろう。だがサードニクスは、まじめな顔で「鈍感」だと誉めてくれるのだ。うんうんと自分で納得しているところを見ると、結構まじめに褒めてくれているのかも知れない。このあたりは文化が違うのだと、割り切ることでシンジは心の平穏を求めようとした。
そして一緒に演奏を聴いた少女達はと言うと、こちらはもう少し素直な性格をしていたらしい。全員が全員、ヒスイのところで賞賛しているのだ。パーガトリの宝石と名高いヒスイに、少しでも近づきたいというのが正直な気持ちなのだろう。それは分かるが、誰も自分のところに来ないのは、さすがに寂しいと感じてしまう。ヒスイが嬉しそうな顔をしているのは、救いと言えば救いなのだが。
「それでシンジ、素晴らしい音楽を聴かせて貰ったお礼がしたいのだがね?」
「別に、僕は約束を守っただけですよ」
来たかと警戒したシンジに、構えるほどのことではないとサードニクスは笑った。
「シンジが芸術系だと証明してくれたのでね。
私も、絵画が好きだというのを証明しようかと思ったのだよ。
時間の制約で鉛筆デッサンになってしまうのは承知して欲しい」
「本当に絵を描けるんですか?」
疑わしそうにしたシンジに、もちろんとサードニクスは胸を張った。
「言っただろう、芸術というのは議員の嗜みなんだよ。
最高評議会議長としては、そう言った点でも皆の規範にならないといけないんだよ」
比較的納得できる説明でもあり、シンジはそれ以上拘ることはしなかった。その代わり、何の絵を描くのかと話を進めることにした。
「私の得意は、裸婦像なのだがね。
さすがに君の奥方を描くのは、問題が多いから遠慮しておくことにするよ」
「別に、裸体に拘る必要は無いと思いますよ。
この場だったら、着衣で良いんじゃありませんか?」
ヒスイなら、絵のモデルとして申し分無いとシンジも思っていた。それでも裸婦というのは抵抗があるので、着衣を提案したと言うことである。
だがサードニクスは、それも遠慮すると答えた。どうしてという顔をしたシンジに、自分の手に余るのだと苦笑した。
「女神というのは、キャンバスに描き留める物ではないのだよ。
それに、私ごときの腕では、彼女の美しさを表現することは出来ないだろうね」
「まあ、綺麗すぎるのも問題があるんでしょうね……」
旦那としては、奥さんを褒められたのだから悪い気がする物ではない。確かにヒスイの絵を描くのは、本人と比較されるだけに度胸が必要となる。シンジの腕では、絶対に描きたくない素材でもある。
「だから、少し趣向を変えてシンジを描こうと思うのだが?」
「ぼ、僕ですか?」
大げさに驚くシンジに、それほどのことかとサードニクスは笑った。学園では、上倉のモデルになっているのである。それを考えれば、自分のモデルになっても良いと言うのだ。確かにそう言われれば、おかしなことではないはずだ。
「それとも、上倉君には許して、私にはだめだというつもりかね?
なかなか個性的な顔をしているからね、モデルとしては最適なんだよ」
「そこまでは言いませんが……」
上倉を持ち出されると、今更嫌だとは言うことも出来ない。個性的と言われるのは気になるが、相手は美形揃いの天使なのだ。それを考えれば、個性的で済ませてくれただけ優しいと言えるだろう。だからシンジは、渋々モデルになることを承諾した。ただ問題は、すぐに持ち上がることになった。良かったと顔をほころばせたサードニクスは、綺麗さっぱり脱いでくれとシンジに言ったのだ。
「……なんで、脱がないといけないんです?」
「私の専門が、裸体画だからだよ。
男性を描くときには、筋肉の美しさを描こうと思っているんだよ。
それに男性のヌードモデルは、リリンでも普通に行われることだろう?」
にやりと笑われれば、なるほどと油断した自分をシンジは呪うことになる。シンジを招くに当たって、嫌がらせの方法を各種取りそろえてくれたのだ。ここでリリンの常識を持ち出すことで、シンジに嫌といえない状況を作り出そうというのだ。ちなみにシンジも、裸体のスケッチが基本だと言うことは知っていた。
嫌そうにするシンジに、この後のことをサードニクスは持ち出した。それを考えれば、裸になることは大したことではないというのだ。
「それにシンジ、この後は湯が待っているんだよ。
今更裸になることを照れなくても良いんじゃないのかな?」
「それとこれとは、ずいぶんと違う気がしますけどね……」
風呂は風呂、人前でモデルのために裸になるのとは違うのである。だから困るというシンジに、サードニクスは曲解して話を進めることにした。
「ふむ、一人だけ裸というのが嫌と言うことかな?」
勝手に解釈したサードニクスは、シンジが制止する間もなく少女達に声を掛けた。言うまでもなく、全員裸になるようにとである。普通に言えばセクハラそのもの、まあ普通じゃなくてもセクハラになるのだが、サードニクスは諸悪の根元をシンジにするからたちが悪い。
「紫の奏者の裸体画を描こうと思うのだがね。
どうも彼は、一人だけ裸になるのは嫌らしいんだ。
だから君たちには申し訳ないのだが、彼に付き合って裸になって貰えるかね?」
こんな話に「喜んで」と返ってくる状況は、シンジには異常としか思えなかった。だが少女達は、思い思いに着ていた服を脱ぎだしたのである。年齢のせいで痩せぎすとは言え、いずれの少女達も美しかった。そしてサードニクスまで服を脱ぎ始めてくれた。ここまで来れば、シンジも付き合わないわけにはいかなくなる。そうなると、ヒスイがシンジに従うのも当然だった。
「……シンジ様?」
「あっちの方が、上手だったと言うことだよ」
仕方がないというシンジの言葉に、ヒスイは諦めて着ていた物を脱ぎだした。さすがに全員が裸と言うこともあり、脱ぐことへの羞恥心は軽くなっていた。むしろシンジの前というのが効いたのだろう、ヒスイはしっかりと顔を赤くしていたのだ。
そしてヒスイの恥じらいは、しっかりとシンジを刺激してくれた。悲しい男の性(さが)と言えばいいのか、ごく一部がしっかりと反応していたのだ。そこでシンジが辛かったのは、周りを囲んだ少女達の視線だった。見慣れぬ物に興味を示すのは我慢できるが、期待するような眼差しを向けられるのは勘弁して欲しい。しかも全員の視線が一点に集中するのは、さすがに勘弁して欲しいと言いたくなった。
「ふむ、以前とは見違える体になったね。
これならば、私も腕を振るいようがあるというものだよ」
その中で意外といえたのは、サードニクスがヒスイに関心を示さなかったことだ。どうも彼の関心は、シンジにだけ注がれているようだ。ひとしきりシンジに感心したサードニクスは、どこからか取り出したスケッチボードにとても熱心に描き始めてくれた。
「前に見たときは、まだひ弱さが残っていたのだがね。
今はどうして、力強い理想的な体をしているじゃないか」
「力強いって、僕はあまり筋肉は付いていませんよ」
少女達の視線にテレながら、かといって隠すわけにはいかない状況にシンジは困っていた。しかもどういう訳か、サードニクスはまじめに絵を描いてくれている。だったらモデルとして、それに答える必要もある。
筋肉質じゃないというシンジに、本質はそこではないとサードニクスは返した。
「十分な強さとしなやかさを持った筋肉を身につけているんだよ。
しかも、見る限り余計な脂肪は全くと言っていいほど付いていない。
だから、私は力強く理想的と言ったのだよ」
シンジを肯定したサードニクスは、そこまで描いた自分の絵を見直していた。モデルとして申し分ないのだが、何か一つ描けている気がしてならなかった。それが何かが分からないが、一つの手だと隣に並んでくれるようにとヒスイにお願いをした。
「どうも創作意欲が刺激されてしまってね。
申し訳ないが、夫君の隣に並んでは貰えないだろうか?
君たち二人が揃えば、もっと素晴らしい絵が描けそうなんだよ」
「どのようなポーズをお望みですか?」
ヒスイの質問に、そうだなとサードニクスはポーズを考えることにした。普通に並べただけでは芸に欠けるが、かといって演出過剰も宜しくない。それに元々の素材が極上なのだから、出来るだけ手を加えないのが得策といえるだろう。
そう考えたサードニクスは、軽く寄り添って欲しいとリクエストを出した。
「君たちの関係に、あまり余計な演出は必要ないだろう。
姫には申し訳ないが、軽く寄り添うぐらいにして貰えないかな?」
「このようにすればいいのですか?」
シンジの隣に並んだヒスイは、その胸の辺りに頭を預けるように身を傾けた。二人とも何も身につけていないのだが、全くいやらしさを感じさせない自然な景色を作り出した。それがどれだけ美しいのか、回りで見守っていた少女を見れば一目瞭然だった。初めはシンジの局部を見つめていた少女達も、今はうっとりとした表情で二人の顔を見てくれていたのだ。
「まったく、嫌になるほどお似合いの二人だね」
「そう、ですか……」
そう褒められると、シンジにしても悪い気のする物ではない。テレながら苦笑を浮かべるシンジに、だから自信を持って良いのだとサードニクスは付け加えた。
「骨に皮をくっつけただけの見た目に、あまり拘る必要はないのだよ。
異性の気を引く一つの要素ではあるが、最大の要素ではないと言うことだ。
その証拠に、集まった少女達は私ではなく君のことを見ているだろう?
どうもシンジは、単純な見た目に拘りすぎている。
その基準にしたところで、酷いコンプレックスを持っているようだ。
一番いい顔をしているときの顔というのは、自分では見ることのできないものなのだよ」
「ずいぶんと、珍しいことを言ってくれるんですね……」
そんなことを言われるとは思っていなかったこともあり、シンジは純粋に驚いた顔をした。まさかサードニクスに、ここまで褒められるとは思ってもいなかったのだ。
「年寄りのお節介だと思ってくれればいい。
コハクの親代わりとして、必要な助言をしたまでだ。
それに、倒れたゲンドウ氏の代わりだと思ってくれても良いよ。
彼は、とても君のことを気にしていたよ。
そして君と同居するときのことを、とても嬉しそうに話してくれた」
悔しそうにするサードニクスから、嘘を付いている様子は全く見つけられなかった。そうすると、自分がこれからしようとしていることは、一体どういう意味を持つことになるのか。自分を信用し、話をしてくれている相手を裏切ることになりはしないか。
「だから私は、裏切り者達を許すつもりはない。
私はね、自分の遊びに邪魔が入るのを許すことは出来ないんだよ」
「……僕は、あなたの遊び道具じゃないんですけど?」
今の言葉を聞く限り、自分の抵抗は遊びの範囲に収まっていることになる。それはないだろうと言うシンジに、それが現実なのだとサードニクスは言い返した。
「まだ君たちでは、知恵比べで私に勝つのは経験不足なんだよ。
さてと、絵の方はとりあえず完成だ!」
見てみるかと差し出された絵は、言うだけのことのある素晴らしい物だった。力強くしかも少ない線で、ヒスイや自分の特徴がよく表現されていた。一つ気になったとことと言えば、その絵がバストアップだったことだろう。どうしてというシンジに、お土産にするためだとサードニクスは言った。
「これぐらいは描いてみろと、上倉君に伝えてくれ。
それが、適性試験の代わりだと思ってくれればいい」
自分が満足すれば、喜んで留学を受け入れる。サードニクスにしては、珍しくまじめに答えたのだった。
続く