一介のサラリーマン夫婦が、こんな待遇を受けて良いのだろうか。宝仙一家が現実を直視できない時間を過ごしている時、碇家ではその長が奥さん’s達にあきれられていた。なんのことはない、シンジが鏡の前で百面相してくれたのだ。そのほとんどが笑顔のシミュレーションなのだから、まったくもって不気味としか言いようがなかった。いい加減鬱陶しくなったこともあり、回りからしたら順当な、そして本人にとって非情な介入が行われた。
「シンジ……正直キモイんだけど?」
この手のことは、当然アスカから発せられることになる。そして多少ソフトではあるが、コハクも「似合わないことはしない方が良い」と追い打ちを掛けてくれた。いくら“シンジLove!”のコハクでも、やはり言わなければいけない状況だと判断したのだ。
似合わないというのは自分でも理解しているつもりだった。キモイと言われるのも、覚悟していたことだった。だが改めてそれを言われると、かなり落ち込む物である。落胆したシンジは、沈黙していた妻達に、そうなのかと話を振った。
「やっぱり、似合っていないかなぁ……」
最初に話を振られたヒスイは、何も答えず黙って顔を背けた。ヒスイとしては、シンジを励ましてあげたかった。だが同時に、シンジに嘘は吐きたくなかったのである。そのジレンマに悩んだことになるのだが、シンジにはその反応だけでも十分なようだった。がっくりと肩を落とし、さらに落ち込んでくれたのだ。3界の代表に確認したのだから、共通認識なのは明らかだろう。
「そりゃあ、自分でも嫌になるくらい父さんに似てきたよ。
だからちっちゃな子に怖がられないよう、どうしたらいいのか考えていたのに……」
「顔のことは……敢えて論評しないことにするけど。
あのね、そう言った不自然なことをするのがキモイってことになるのよ」
「やっぱり、論評を避けなければいけない顔なんだ……」
はあああぁっと深すぎるため息を吐いたシンジは、どうしようと“前向き”な質問をすることにした。もっとも、どうしたら“泣かれないか”“怖がられないか”というのが前向きかどうかは難しい問題である。
だが“どうしよう”と言われても、世の中にはどうしようもないことはある。自分たちは“慣れた”から良いのだが、たしかに子供にはきついかも知れない。かといって、そこまで拘られると“なにかイヤ”という気持ちになってくる。本人も辛いのだろうが、妻として“愛している”と言っているのは自分たちなのだ。これでは自分たちの趣味が“特殊”だと言われている気がしてならないのだ。
「男の顔って言うのは、遺伝の影響よりどんな人生を送ってきたのかが効いてくるのよ。
あんたの場合、遺伝……はまあ置いといて、これまでの人生って意味なら誇って良いんじゃないの?
それが顔に出るんだから、とりあえず自信を持って大きく構えることね」
「……開き直れってこと?」
「そう言う解釈もあるわね……」
さすがに開き直りを否定することは出来ない。そうねと認めたアスカに、そうですかとシンジはもう一度肩を落とした。はっきりと落胆したシンジに、そんなことよりとアスカは差し迫った問題を持ち出した。何しろこの問題は、どう頑張っても解決策が存在しないのだ。だったら解決すべき問題を話題にした方がましなのだ。
「花菱達がこっちに来る日が迫っているのよ。
あたし達は、火種が大きくならないように気を付けなくちゃいけないのよ」
分かっているかと言われれば、これもまた分かっているとしか答えようがなかった。ただシンジとしては、ジントの線からは攻めにくい問題でもあったのだ。それもあって、結構難しいとコハクが話を引き取った。
「花菱もそうだが、マディラ殿も功を焦っておるように見えるのだ。
そのあたり、われもあまり人のことを言えた義理はないのだがな。
同じ過ちをした立場からすれば、これだけは自分で気づくしか方法がないのだ。
他人から言われれば、たとえシンジからでも反発を感じてしまうだろう」
「そう言うことで、今は完全に手詰まり状況なんだよ。
イツキの話だと、かなり桜庭さんが苛立っているんだろう?」
「苛立っているって言うより、精神的に不安定って言うところかしら。
いつものとおりのことをしたら、ヒステリックな反応が返ってきたって言うから。
ただその後で、自分がしたことに戸惑っていたようだし……」
それだけ追いつめられていると、アスカはカエデの状況を説明した。
「ただ話しているうちに落ち着いてきたとも言っていたわね。
そう言う意味では、一人きりってのが状況として良くないんでしょうね」
「かといって、誰かと同居って訳にもいかないだろう?」
シンジの疑問に「そりゃそうだ」とアスカは頷いた。
「そんなことの出来る人がいるわけがないでしょう?
だから時々誰かが、ガス抜きに行く必要があるんだけど」
「あからさまだと、逆効果になるって?」
「カエデ、勘が鋭いから……」
余計に難しいと零すアスカに、だったらとシンジはエリカの名前を持ちだした。
「当然、エリカだけに任せることはできないよ。
でもパーガトリ支援が理由なら、エリカが行っても不自然じゃないだろう?
後は僕やイツキがフォローするってのはどうだろう?」
「根本的な解決策じゃないのは確かね。
ただ今は、それぐらいしか手がないのも確かでしょうね」
「任せてって言いたいところだけど」
必然的に全員に視線を向けられたエリカは、難しいと弱音を吐いた。
「私自身、カエデさんが得意じゃないってのも有るけど……
カエデさんにしても、私相手にどこまで本音を喋ってくれるのか。
後はパーガトリ関係だと、逆に行きにくい状況になっているわ」
エリカが言うには、カエデのところに行く段階は過ぎているらしいのだ。今活発にカエデにコンタクトしているのは、エデンに技術を売り込もうとしているところらしい。その関係を考えると、逆にエリカが行くのは問題が多くなると言うのである。
「それに、アイオライトさんの件で先日行ったばかりだし……
できるだけ理由は探してみるけど、あまり期待しないでちょうだいね」
「ってことは、やっぱりシンジが一番身軽なのかぁ……」
「身軽って、僕とヒスイは議員さん達を回っているんだよ」
「その情報交換ってことなら、理由も立つでしょう?」
「そうするしかないのかなぁ……」
頭の中でスケジュールを考えると、なかなか空いている時間がないのが実情だった。だがカエデの抱えた問題も分かるだけに、シンジとしても放置するわけにはいかなかった。
「国連に顔を出した方が良いのも確かだから……」
エデンの役職者を回ることは、それだけリリンの不安を煽ることにも繋がってくる。そのことを思い出したシンジは、それをスイス行きの理由にすることにした。
<<学園の天使>>
169:
ここのところヒスイと出歩いていたこともあり、時間を寄越せとコハクが強く権利を主張した。たまの休みなのだから、デートに連れて行けと言うのである。断る理由も、断らなければいけない訳も無い以上、シンジに選択の自由はない。妻達の間で合意が出来た時点で、土曜はコハクとのデートということになってしまった。
「やっと念願が叶ったのだぞ!」
家から一緒にお出かけするにあたり、コハクはそう言って満面に笑みを浮かべた。
ひも付きのタンクトップに短めのスカート。背が低いこともあり、後ろから見ると小学生に見えるコハクだった。そして父親に似て順調に背の伸びたシンジが横に並ぶと、本当に大人と子供に見えてしまうことになる。しかもコハクがシンジの腕にぶら下がるのだから、お兄ちゃんと小さな妹というのが世間一般の見方となるだろう。それでも嬉しそうに、コハクはシンジの腕にかじりついた。
「念願が叶ったって……デートをしたことは無かったっけ?」
う〜むと悩んで見ると、たしかに二人きりで外を歩いた記憶がない。デート自体の計画がなかったわけではないが、思い出したくない事件で台無しになってしまった。それ以来改まって“デート”をしたことがないのだから、コハクの言うのも正当なことなのだろう。
「コハクと居る時間が一番長い気がするんだけど……
たしかに、二人きりで外を歩いたことはなかったね」
「うむ、必ず誰かおまけが付いておったからな。
シンジよ、われが嬉しいという気持ちを理解してくれるか?」
そう言われれば、そうだねとしか言いようがない。シンジの肯定を受け止めたコハクは、だから思いっきり甘えるのだと腕に力を込めた。相変わらずの日差しの下、普通なら“暑い”と不満が出る状況だろう。だがそんなことで言い争いもしたくはなく、シンジは少しずるををして暑さを凌ぐことにした。何のことはない、指輪を利用することにしたのだ。色々な使い方を覚えたおかげで、この程度のことなら大した苦労もなく実行できるのだ。気温と湿度を調整し、少しだけ風を起こしてやれば、それだけで格段に過ごしやすくなってくれる。
当然そんな真似をすれば、コハクが気が付かないわけがない。だがコハクにしても、暑いよりは涼しい方が良いのは決まっている。自分の愛を証明するのには良いのかも知れないが、そのために苦行をするのはどこか違うと思えてしまう。それに涼しくなったおかげで、もっとくっつくことが出来るのだ。それがシンジの意思だと考えれば、嬉しくなってしまうのである。
「こう言うときに、シンジの力も役に立つのだな」
ほくほくと笑うコハクに、そうだねとシンジもつられて笑みを浮かべた。暑さが和らげば、それだけ散歩も楽しくなる。余裕が出来れば、回りの景色も見えてくる。山中にある美咲市は、景色という面でもなかなかの物なのだ。年中変わらないというと風情が無くなるが、深い緑が湖面に映る姿は改めてみると美しいのだ。そしてこの景色は、芙蓉学園に入学して以来、ずっと見続けてきた物でもあったのだ。
そんな景色に目を細め、コハクは「2年経ったのだな」と感慨深げにつぶやいた。
「まだ、たったの2年なんだね」
その2年を振り返ると、本当に色々な出来事があったように思える。濃密さという意味では、使徒戦の時よりも上回っているのかも知れない。そしてこの2年を総括すれば、充実していると言うのが正しいだろう。
「たしかに、わずか2年の出来事なのだな。
だがそのわずかな時間で、われの人生は大きく変わってしまったのだ。
あの時シンジに出会い、そして婚約者として一緒に暮らすことになった。
あのふざけた出来事が、このような最良の結果となってくれた。
このことに関しては、われはサードニクス様にどれだけ感謝しても足りないと思っておる。
どうだシンジ、ぬしはこの2年をどう思っておる?」
どうかなと考えたシンジだったが、返す答えは一つしかないことに気が付いた。何をどう理由を付けようと、「幸せだ」と言う以外の答えがあり得るはずがない。
「始めてコハクに逢ったときには、こんな関係になれるとは思っていなかったよ。
こうして2年という時間を一緒に過ごしてきて、もうコハクの居ない生活は考えられなくなった。
そう言う意味では、僕は父さんに感謝しなくちゃいけないんだね」
色々な思惑があり、そして色々と遊ばれた気がしないでもない。それでも結果を見れば、これ以上無い物となってくれているのだ。これで文句を言ったら罰が当たるという物だろう。
シンジの答えは、コハクの期待通りの物だった。それでもコハクには、聞いてみたい質問があった。今が幸せというのなら、よけい確認する必要があったのだ。
「どうだシンジ、今でも普通の学校とやらに行ってみたいか?」
常々普通が良いと言っていたこともあり、シンジはコハクの質問に改めて自分の気持ちを考え直してみた。使徒戦という混乱があったお陰で、波瀾万丈は懲り懲りだと思っていた。普通というのは、その対局の姿として思い描いていた理想だったのだ。だがその“普通”から最も遠く離れた今、それを失うことを良しと出来るのか。その答えもまた、今更の物となっていた。
「普通って言葉に憧れていただけなのかも知れないね。
もしも普通というのがコハクを失うことなら、僕は間違いなくコハクを選ぶよ」
それは偽らざるシンジの気持ちだったのだ。ただ今の今まで、それを改めて考えたことがなかっただけのことだった。自分の本当の気持ち、今が幸せだというのを認めたことで、シンジは自分の中で何かが変わった気がしていた。それが何かと言葉にすることは出来ないが、気の持ちようと言うのか、何か体が軽くなったような気がしていた。
「そうか、僕は今が幸せなんだ……」
ここまで来るのに、片手では足りない事件が起きていた。苦しいことも沢山あったような気がしている。それでも、この時間の為と考えれば、これまでの苦労も報われた気がする。
「今更だがわれも言わせて貰うぞ。
こうしてシンジといられる時間、われはこの上もない幸せを感じておるのだ」
穏やかに微笑むコハクに、なぜかシンジはとても恥ずかしい気持ちになっていた。今更口にするまでもなく、コハクは天使の誰にも負けない美しさを誇っている。そのコハクが、自分に向かって微笑んでくれるのだ。心臓を鷲掴みにされると言うのが、どういう事なのか理解できた気がした。
「どうしたシンジよ、われの顔に何か付いておるのか?」
じっと見つめられたコハクは、顔を赤くしてうろたえた。だからシンジから視線をそらし、抱えた腕に力を込めた。そうしていると、なぜか心臓が早鐘を打ち出し、顔も益々熱くなってきた。
恥ずかしいと言うコハクに、自分もだとシンジも顔を赤くした。
「今の気持ち、どう言葉にして良いのか分からないんだ。
コハクを見ていると胸が締め付けられるような気がして……
でもずっとコハクの笑顔を見ていたくて……
抱きしめたくて、叫び出したくなって……何をして良いのか分からなくなって……」
「シンジも、そうなのか?」
そう言って見上げるコハクに、シンジは頭を何発も殴られたようなショックを受けていた。恥ずかしそうにほほを染め、その目元は少し潤んだような光を湛えている。濡れたピンクの唇も、どうしようもないほど魅力的に映っていた。
「シンジは、われとどうしたいのだ?」
問いかけ自体、いつもと同じ物だった。だがそこに含まれている意味は、とても大きな物があった。その意味をじっくりと考えたシンジは、「ずっと一緒にいたい」と答えた。その答えを聞いたコハクは、満面の笑みで自分の気持ちを表した。
「ずっとわれを側に置いてくれるのだな?」
「ずっと一緒にいてくれるかな?」
天下の往来と言うことを忘れ、自分たちだけの世界を二人は作り上げたのだった。
さすがに公道でいちゃつかれると、周りの人間からすれば迷惑この上ないだろう。しかも相手が、世界で二番目に偉い女性と英雄様とくれば、文句一つ言うのも憚られてしまう。その分余計に鬱陶しくもあるのだが、意外にも周りの目は好意的だったりする。何しろ二人の作り上げた空気は、文句を言うのは野暮だと思えてしまう物だったのだ。それどころか、邪魔をすることが罪悪とも感じてしまう。だから町ゆく人々は、暖かい眼差しを向けるだけで、何も存在していないかのように通り過ぎていった。
ただ世の中には例外は存在する物で、余人の立ち入りがたい空気を作り出す二人をじっと見ている者たちがあった。もっともその例外にしても、二人の邪魔をしようとか、暗殺するには良い機会だと狙っていたわけではない。声を掛けるに掛けられない、そんな状況に陥ってしまっただけのことだった。
「せっかくだから、ご挨拶をと思ったのですが……」
フローライトの浮かべた残念そうな表情は、果たして挨拶できないことに対しての物なのか。色々と突っ込みどころがあるのだが、さすがのイツキも空気という奴を読むことにした。それにフローライトは、今回は奥さんを連れてきている。そこで他の女性の話題を出すのも不謹慎と……普通なら考えるだろう。
「帰りがけにでも、シンジの家になら連れて行ってやろう。
だから今日は、挨拶はしないでおくことにしよう。
まあ、あんなコハクちゃんを見られたのだから、それで満足しておくのだな」
自分に向けられたものではなくても、コハクの笑みは犯罪と言っていいレベルにまで威力を増していた。何しろイツキですら、胸が高鳴ってしまっていたのだ。その分シンジに対する反発も強くなるはずなのだが、不思議にその気持ちは沸いてこなかった。何しろシンジも、コハクに負けない良い笑顔を浮かべていたのだ。そんな物を見せられれば、さすがのイツキにも祝福の気持ちが芽生えてしまっていた。
もっともイツキにとって、別の問題が起きていたのも見逃せないだろう。何がと言うと、シンジ達を見た女性軍の反応だった。素敵とセージが憧れている程度なら問題ないが、その横では二人ほど妄想の海にダイブしてくれていたのだ。気を利かせて立ち去ろうにも、この二人を現世に復帰させる必要がある。その時の問題は、妄想の海を行く燃料が大量に供給されていることだ。ちょっとやそっとチョップを入れたぐらいでは、簡単に妄想の世界に引き戻されてしまうのだ。
「これは、この場から強制撤退するしか方法がないね」
「国王様にお願いできるか?」
通常の手段でだめなら、多層空間を使った移動しかない。その方法を持たないイツキだから、そのためには国王をしなければいけなくなる。
「シンジ達の目には、たぶん私たちは映らないだろうね。
それでも、やっぱり気を利かせるべきだと私も思うよ」
ただと、フローライトは彼にとっての気がかりを口にした。
「今あそこに見える関係を、ヒスイも作り上げてくれているのか、
兄として、それだけが気がかりなんだよ」
パーガトリ、特に王族は一人だけと言う文化はない。ただそれが、等しく妻達が寵愛を受けることに繋がることとは別物なのだ。碇家においての序列は、アスカが1位でコハクが2位、そして彼の妹であるヒスイが3位となっている。だがフローライトの目には、コハク一人が図抜けているのではないかと思えてしまうのだ。それぐらい、今の二人からは深い信頼と愛情、それが感じられてしまう。
「ヒスイちゃんも、シンジにとって大切な奥さんであるのは間違いないさ。
あいつのことだから、誰か一人を特別に扱うことはないだろう。
ただ無意識のうちに、差が付くことは大いにあり得るな。
その点では、今はコハクちゃんが大きな位置を占めているのだろう」
今はと強調したイツキは、自分たちの心配することではないと答えた。それぐらいのことは、シンジの妻達なら理解していることだし、そのための競争をいつも繰り広げているだろうからと。そしてシンジの性格を考える限り、勝者は居ても敗者が生まれることはないのだと。
「たしかにそうなのだろうね。
ヒスイを見ていれば、今が幸せなのは理解できるからね」
拘るだけ意味のないことだと、フローライトも理解した。そしてイツキの提案通り、この場は黙って離れることにした。
「ならば椎名殿、二人のことはお願いできますか?」
「俺様の家族なのだから、当然だと言っておこう。
プリムラ、俺様から離れるのではないぞ!」
うんと可愛く頷いたプリムラは、邪魔にならないよう後ろからイツキのシャツを引っ張った。そんなプリムラを引き連れたまま、イツキは両手でネリネとタンポポの腰を抱いた。
「し、椎名様!」
チョップ程度では復帰してくれなかったのだが、こっちの方は効果があったようだ。現世に引き戻された二人は、嬉しそうにイツキの胸に頭を預けた。
「あの二人の邪魔をするわけにはいかないからな。
挨拶は後日にしておいて、ここは大人しく退散することにする」
「椎名様がそう仰有るのなら……」
代表して答えたネリネに、それで良いとイツキは微笑んだ。それを合図に、フローライトは多層空間移動を配下に命じた。目的地は言うまでもなく、甘い物が食べられるところ。第一候補は喫茶フローラとなっていた。
***
突然決まったのだから、マディラの芙蓉学園入学は火種になりかねない問題だった。だが二つの点で、役職者達は問題にしないという判断を下していた。その第一は、これがコハクの決定と言うことだった。責任者であるコハクが必要と判断を下したのなら、そのこと自体に異を唱える必要はないのである。それに情実などで無いことは目的からしてはっきりとしていたのだ。
そして第二が、マディラがジントの妻という立場を持っていたことだ。夫が復学するのだから、妻として従うのは当然の行動と考えられていた。しかもその夫には、準議員という立場が与えられている。紫の奏者の代理人という立場も合わせれば、それぐらいの無理を通せる力があったのである。
「ジント様、いかがでしょうか!?」
入学が許されたのだから、当然マディラにも芙蓉学園の制服が支給されることになる。コハクが入学していることもあり、芙蓉学園の制服着用は一種のステータスにもなっていた。それが届いたのだから、すぐにでも身につけてみたいと考えるのは自然なことだろう。その結果、ジントやキキョウを巻き込んでのファッションショーとなったのだが……
今更言うまでもなく、マディラは天使に分類される少女なのである。一時の“ツン”期は過ぎ、今は“デレ”期に突入している。元々の素材の良さ、そして一頃との表情のギャップ、その相乗効果はマディラをいっそう魅力的に見せていた。そのマディラが、自分のために制服姿を見せてくれるというのだ。いくらジントでも、その気持ちぐらいは理解できていた。
「ああ、もの凄く似合っているぞ。
こうしてみると、やっぱりマディラも天使なんだなぁと思うな!」
日頃接している時間が長い分だけ、ジントも素直にマディラを褒められるようになっていた。それにジント自身、マディラが綺麗だと思う気持ちに偽りはなかった。好き嫌いという気持ちを表せば、間違いなく“好き”だと言えるようになっていた。
「そ、そうですか、似合っていますか……」
自分でどうかと聞いて、照れるのもどうかと思えてしまう。だが大好きな人から、似合っていると言われるのはやっぱり嬉しいのだ。恥ずかしそうに俯いたマディラの顔は、しっかりと赤くなっていたりする。それにつられるように、ジントの顔も赤くなっていた。自分で口にしておきながら、今になって恥ずかしいという気持ちが生まれていたのだ。その恥ずかしさをごまかすように、ジントはリコリスにも話を振った。
「そ、そう言えばリコリスにも制服が届いていただろう?
リコリスは、着てみなくても大丈夫なのか?」
「花菱様、そう言う照れ隠しは宜しくないと思いますよ。
私の制服姿でしたら、ご奉仕の後にゆっくりとごらんになって頂きます。
今はマディラ様が、花菱様にそのお姿を見て頂く時だと思います」
「そう言うことよジント、照れないでもっとマディラ様を褒めてあげたらぁ!」
ジントの逃げ道はリコリスに塞がれ、横で悪のりしたキキョウに追い打ちを掛けられてしまった。そう言うことをするかと恨みがましい目でキキョウを見たのだが、涼しい顔で受け流されてしまったのだった。しかもキキョウは、ジントにも制服を着せることを思いついてしまった。ジントにも制服を着せて、マディラの横に並べようと言うのである。
「と言うことでジントはすぐにお着替えをして。
リコリス、アデュラリア様をお呼びしてくれない?
せっかくだから、二人揃って制服を着ているところをお見せしないと」
「き、キキョウっ、そう言うことをするかぁ!!」
そうは言ったが、ジント自身それも良いかと思ってていた。小学校の頃からカエデの家に住んでいたが、中学入学の時は二人揃ってカズシに制服姿を見せていなかった。芙蓉学園入学で、ようやくお披露目することが出来たのだが、その時のカズシは本当に喜んでくれたのを思い出したのだ。世界は変わっても、その気持ちは変わらないだろうと考えたのだ。
「ど、どうするマディラ?」
「父がリリンに行く機会は多くないと思います。
ですからジント様と一緒の制服姿を見せてあげられるのなら……」
「たしかに、この格好も後1年で終わるんだな……」
大学が創立されても、制服が採用されるとは考えられない。そうすると、このブラウンを基調とした制服も、この1年で着納めと言うことになるのだ。たしかに義理の父親に、その姿を披露しておくのは大切なことだろう。
「じゃあすぐに着替えてくるか」
「ちゃんと身だしなみは整えてきてね」
バイバイとジントを送り出したキキョウは、リコリスにもすぐに行くようにと指示を出した。
「なぜ、私があなたの指示を受けなければいけないのですか?」
「芙蓉学園では、私の方が先輩になるのよ。
ここは黙って、先輩の言うことを聞きなさい!!」
当然の不満をいなしたキキョウは、さっさと行ってこいとリコリスを追い出した。屋敷内の移動には空間移動を利用していない。広すぎる屋敷を考えれば、のんびりとしては居られないだろうというのだ。相手の立場を考えれば、電話で呼び出す話形にもいかないのだ。せっかくジントを追い出したのだから、リコリスが残っていては意味が無くなってしまう。
ジントは何も気づいていないようだったが、もう一人の主役はキキョウの意図に気が付いていた。気づいたと言っても、自分と二人きりなるところまでだった。その先何をしようとしているのか、さすがにそこまでは想像できていなかった。だからバイバイと手を振っているキキョウに、何をしたいのかと単刀直入に尋ねることにした。
「さすがはマディラ様、ちゃんと気づかれているのですね」
真剣な顔をして振り返るキキョウに、重大なことかとマディラは気を引き締めた。だがキキョウが最初に口にしたのは、肩すかしと言っていいマディラへの謝罪だった。
「最初に、マディラ様には謝らせて頂きたいと思っていました。
ジント……花菱様を守るためとは言え、色々と失礼なことをしてしまいました」
「それは、お互い様と言うことで水に流しましょう。
それから、そう言うことはリコリスに言ってあげなさい。
かなり落ち込んでいた時期があったわよ」
どうしてと言うところまでは聞いていないが、はっきりと態度に表れていたのだ。何のことか分かったキキョウは、埋め合わせならしてあると事情をばらした。
「マディラ様を出し抜いて悪いのですが、彼女の方が先だったんです。
当然私が手引きをしてあげたんですが……」
だからそのことについてはチャラになっている。そう言うことかと事情を理解したマディラは、それも謝罪に含まれているのかと聞き返した。
「いえ、リコリスはどこまで行っても側仕えですから。
奥様であるマディラ様とは違っていると思っています」
「リコリスに先を越されたと聞いて、結構傷ついたのよ」
まあいいと許したマディラは、それだけなのかとキキョウを促した。わざわざ二人きりになったにしては、理由としては弱いと思ったのだ。
「はい、マディラ様には他にも謝らなければいけないことと、
お願いしなければいけないことがあります」
「時間が無いわ、早く話してくれないかしら?」
はいと頷いたキキョウは、リリンでの振る舞いのことだと切り出した。
「リコリスは知りませんが、学園では特別扱いはいたしません。
他の生徒がしているように、自分のことは自分でして頂こうと思っています。
特に学園内では、上限関係を持ち出さないようにお願いします。
これは私だけではなく、他の生徒に対しても同じだと思ってください」
「気を付けます……としか言いようがないわね。
その点については、気づいたことがあったら教えてくれない?」
「では、私から注意することにいたします」
それでと、マディラは先を促した。
「実は、こちらの方が重要だと思っています。
あくまでお願いしかできないのですが、
カエデ……カエデ様のことを気に掛けて頂きたいのです。
マディラ様もお気づきかと思いますが、
ジント……花菱様とカエデ様の関係はかなりデリケートなところがあります。
花菱様が甘えすぎているところもありますが、
カエデ様も、必要以上に過去を引きずって卑屈になっています。
実を言うと、マディラ様が芙蓉学園に入学することが火種にになるのではと思っています」
「私が入学することではなく、カエデ様の家に住むことがでしょう?」
正しく問題を理解しているマディラに、キキョウは少し安堵していた。これならば、問題の火種が大きくなる前に鎮火できるのではと考えたのだ。だがそんなキキョウに、そこまで期待するなとマディラは釘を刺した。
「この問題は、ジント様とカエデ様が話し合われて決めてしまったのよ。
今更その決定に、私が口を挟めるはずがないでしょう。
私たちの習慣では、妻は夫に従うことが美徳になっているのよ。
今更イヤだと言ったら、私が我が儘を言っているだけに聞こえるじゃない。
それにカエデ様も、どうして自分たちに逆らうのかと思うんじゃないの?」
「たしかに、それを否定することは出来ませんね……」
と言うか、今までの付き合いで得た経験から行けば、マディラの言っていることが全面的に正しいのだ。ジントがカエデと話し合い、カエデが納得したというのは表向きは正しいのだろう。そうして決めたことを、マディラが覆す理由が存在しない。カエデの感情を持ちだしたとしたら、大きなお世話と反発されることになるし、自分の感情を持ちだしたなら、芙蓉学園に入学した意義を考えているのかと言われるだろう。いずれにしても、マディラから働きかけるのは難しいとしか言いようがない。どこに問題があるかと言えば、ジントがカエデの感情を理解していないところに尽きるのだ。
「今まで良い意味で鈍感と言ってきましたが……」
「今回は、無神経と言い換えた方が良いでしょうね……」
いずれにしても、打てる手が少なすぎる。その問題に付いては、二人ともちゃんと理解していた。
「私の立場としては、カエデ様をお立てしようとは思っているわ。
でもそれ以上は、さすがに難しいと思っているのよ」
だから期待しすぎるな。難しい顔をしたキキョウに、マディラはもう一度釘を刺したのだった。
続く