残る日数を考えれば、連絡は早めにつけておく必要がある。特に予定を入れていない美術教師には、すぐにでも教えておく必要があった。もっとも上倉がアヤの連絡先を知るはずもなく、仕方がないので学園に顔を出すことにした。学生は休みになっても、教師は学校に出ているはずだ。
 日頃指導にかまけているが、アヤは将来を嘱望された画家なのだ。だから時間があれば、自分の絵を描くことに不思議はない。美術教室に来た上倉は、中にいた人影に予想が当たったと喜んだ。

「ビンゴ……かな?」

 だが部屋の中を覗いて、上倉はすぐには声を掛けられなくなってしまった。普段おっとりとした、そしてシンジのことをからかうと、顔を真っ赤にして怒るアヤが、見たこともない真剣な表情でキャンバスに向かい合っていた。外からでも分かる集中した状態に、邪魔をすることがはばかられてしまった。
 邪魔をしては悪いと、上倉はそっと美術準備教室から中に入った。鍵を開ける時に「かちゃり」と金属音がしたのだが、集中したアヤはそれに気づいていないようだった。そっと椅子を引き寄せた上倉は、窓越しにアヤの描く絵を眺めていた。

「本当に、風景画が好きなんだな……」

 描きかけの絵を見ると、どうやらモチーフは美咲湖らしい。美しい青を湛えた湖に、山々の緑が映えている。その一つ一つの色が、綺麗に調和し、輝いているように見えた。普段のアヤから感じられない力強さ、そして見た目通りの繊細さ、両者が喧嘩することなく、見事な調和を醸し出していた。
 さすがと驚く以上に、綺麗だと上倉はキャンバスに広がった世界に見とれてしまった。自分でもしばしば題材にする景色なのだが、アヤの描いた景色は普段以上に輝いて見えた。だがそれは、心の中で美化されたものではない。「ああ、そうなんだよな……」と上倉に、美咲湖の景色を思い出させるものだった。

「あそこで、濃い緑を使って……」
「風に砕ける波頭は白く……」

 乗せられていく色を見ていると、現実の景色が頭の中に甦ってくる。年中暑い美咲市でも、この時期は特に緑が濃くなってくる。綺麗だと感動した上倉は、もっと近くで見たいと言う欲求を抑えられなくなった。
 椅子から立ち上がり、そっと美術教室に通じる扉を開いた。注意したおかげで、たいした音を立てずに扉が開いてくれた。そして上倉は、音を立てないようにそっと教室の中へと入っていった。若くて美人の教師の背後から、音も立てずに忍び寄る。上倉にその意志はないとはいえ、端からはとても危険な行動に見えただろう。それでもアヤは、何も気が付かないように自分の絵に集中していた。

 そして上倉が美術教室に来て1時間が経過した時、ようやくアヤは小さく息を吐き出して筆を置いた。それは自分自身に掛けた魔法を解いたように、アヤの持っていた空気が変化させた。そしてその空気につられるように、上倉も溜めていた息を吐き出した。小さな音なのだが、静かな美術教室の中に響き渡った。

「いつから、そこにいたんですか?」

 さすがに後ろでため息を吐かれれば、鈍感なアヤでも気づいてしまう。だが特に驚くこともなく、「上倉君」とにっこりと笑い振り返った。

「え、ええっと、その……」

 逆に慌てた上倉は、確認するように自分の時計を見た。だが時間を確認した上倉は、目を擦ってもう一度時計を見直した。

「どうかしましたか?」

 不審な行動に首を傾げ、アヤはその意味を上倉に聞いた。

「その、1時間前……らしいんですけど」
「その不確かさはどうかしたんですか?」

 芸術系だが、上倉は生徒会長を勤め上げた実績もある。別にアバウトに生きている生徒ではないはずだ。不審な者を見る目で見られ、上倉は慌てて言い訳をした。

「ええっと、俺としては10分ぐらいのつもりだったんですが……
 時計を見たら、いつの間にか1時間が経過していて……その。
 あの、先生の描く絵が素晴らしくて……時間を忘れていたみたいなんです」
「上倉君は、そう言うお世辞を言う人だったんですか?」

 くすりと笑ったアヤは、もう良いと追求の手をゆるめた。そして休みの日にどうしたのかと、上倉が学園に顔を出した理由を聞いた。部活が無い日は、生徒というのは学校に寄りつかないと相場が決まっている。

「え、ええ、ああ、そうだ、その、先生、今週の日曜日は暇ですか!!」
「上倉君、私たちは生徒と教師なんですよ。
 たとえ疚しいところが無くても、言動には気をつけなければいけません!」

 誤解を招くようなことは慎みなさいと。アヤにしては真剣な顔で、上倉に注意した。

「それから、そう言うことは同年代の女の子に言いなさい!」
「ち、ちよっと、その、それは大きな誤解です……
 ええっと、その、先生を誘いに来たというのは確かですけど。
 その、目的がですね、あの、先生にお礼がしたいというか、その、何というか?」

 しどろもどろになった上倉は、うまく用件を伝えられなかった。それが分かったのだろう、アヤは小さく吹き出すと、少し落ち着いたらと深呼吸する真似をして見せた。

「はい、大きく息を吸って……はいて、もう一度息を吸って、吐いて……
 少しは気持ちが落ち着きましたか?」

 素直にアヤに従い、上倉は何度も大きな深呼吸をした。そのおかげか、それとも時間をおいたせいか、少しは動悸も収まっていた。

「ええっと、すみませんでした……
 俺が今日ここに来たのは、碇さんの家に行くのに先生を誘いに来たんです。
 ほら、先生の妹さんが、ヒスイさんのファンだと言っていたじゃないですか。
 それを伝えたら、是非招待したらと言ってくれたんです」
「い、碇さんの家にっつ!!!」

 どこからそんな大声が出るのか。いきなりの叫声に、上倉は慌てて耳を塞いだ。だがそれはあまり意味のない行為のようだった。本当かと詰め寄ったアヤが、上倉の両腕を掴んだのだ。

「ええ、本当ですよ……と言っても、相談したのはコハクさん達にですけど」
「その日は、碇さんは家に居るんですよね?」
「そうだと聞いていますが……」

 モデルを頼んだ時、さんざんその話は出ていたはずだ。今更確認するまでもない問いに、そうとう舞い上がっているなと上倉は正しくアヤの状態を計りとった。それを考えると、どの口が「言動に気をつける」と言ってくれたのだろう。
 だがアヤは、自分の言葉に矛盾を感じていないようだった。それどころか、頭の中で勝手に話を進めていたりした。

「家族同士のおつきあいから……ちゃんとステップを踏まなくちゃ」
「家族同士のおつきあいって、あちらは全員碇さんの奥さんなんですけど?
 それに、碇さんも芙蓉学園の生徒なんですけどね……」

 普通とは全然違うだろう。真っ当に聞こえる上倉の指摘も、今のアヤには通じてくれなかった。







<<学園の天使>>

167:







 その日イツキがパーガトリ国王を訪問したのは、大使館経由で受け取った手紙が理由となっていた。何のことはない、それはイツキの両親から送られた物だった。留学の際にジュネーブで別れたのだが、それ以来顔も出していない息子の親不孝さをなじっていた。

「たしかに、それは子供として責められることでしょうね」

 手紙の中身を聞いたフローライトは、よく分かるとイツキの両親に同情の言葉を贈った。そして返す言葉で、この程度のことは相談されるほどのことではないと言い返した。留学時の条件で、イツキには里帰りの自由は保障されている。しかも里帰りに支障が出るような、重要な案件がないことは王室顧問様なら知っているはずなのだ。

「それで椎名殿が、わざわざ私のところに来た理由は何ですか?」

 だから何かあるのかとフローライトが考えるのは、極めて真っ当な感覚だろう。そしてイツキも、その何かを肯定してくれた。

「ついでと言っては何だが、家族でバカンスに行こうと思っている。
 従って、王様にはプリムラ達の出国許可を貰いたいのだ」

 達と言う以上、ネリネやタンポポも一緒と言うことになる。芙蓉学園や大使館関係者、それに合弁事業の関係者だけがリリン渡航を許されているのを考えれば、伺いを立てられるのも当然だといえただろう。しかも今回は、仕事でも何でもなく「保養」を目的にしている。イツキに仕えていなければ、あり得ない厚遇に違いない。
 ただ待遇が良すぎるという批判には、イツキの物と言うことで押し切ることが出来る。

「その程度のことなら、別に問題にするつもりはありませんが……」

 そこでフローライトが拘ったのは、バカンスとやらの内容だった。その背景には、リリンに渡ったアイオライトが楽しんでいるという事情がある。弟ばかりでなく、たまには自分も息抜きしたいと考えたのだ。

「許可する見返りといっては何だけど、私たちも一緒に連れて行ってはくれないか?
 名目は、そうだな私とセージの新婚旅行というのはどうだろう?」
「どうだろうと言われてもな……」

 イツキにしてみれば、そこで頼られる理由が分からなかった。リリンとの交流が絞られているときならいざ知らず、今は大使館以外にも交流の場は広がっている。遊びたいのなら、アイオライトあたりに命令すればすむことだろう。沢近の協力の下、贅沢三昧楽しむことが出来るはずだ。
 だがイツキの指摘は、フローライトにしてみればおもしろ味のない提案だったようだ。

「マラカイトに任せたら、間違いなく退屈な物になってしまうよ。
 それに、いつもアイオライトとつるむのもどうかと思えてしまうんだ。
 それにあいつには、ちゃんと仕事をさせないといけないからね」

 自分を口実に遊ばせてはいけない。とりあえず理由にはなっていたが、だからといって頼られるのも面倒くさい。それにパーガトリ国王など連れて行ったら、途端に骨休めが他の物に変わってしまう。それに面倒を見るのは、プリムラ達だけで十分なのだ。

「やはり、俺様としては受け入れにくいと言っておこうか」
「ならば、出国許可を出さないだけのことですが?」
「そう言う権力の乱用をしてくれるのか?」

 にっこりと笑って、利用できる物は何でもするとフローライトは言ってのけた。そして面倒にはしないつもりだと、何の保証にもなっていないことをフローライトは口にした。

「公式訪問にしなければ、大事にはならないだろう?
 椎名殿のご両親には、親しい友人だと紹介してくれればいい。
 幸いというか、アイオライト以外に面識はないはずだろう?
 だいたい最高評議会議長や前国王がうろうろとしているんだ。
 今更私がお忍びをしたとしても、誰も大事になどしやしないよ」
「そうまでしても行きたいのか?」

 「そりゃあもう」と頷かれれば、理解しないわけにも行かない。

「必要な費用は、パーガトリ持ちと言うことでどうだろう?」
「別に、金に困ってなど無いのだがな……」

 それぐらいは必要な譲歩かと、イツキはフローライトの我が儘を聞くことにした。遊び回っている前国王、そして沢近が面倒を見ている弟を見れば、少しぐらい息抜きをしたいと考えるのもおかしくない。それに「新婚旅行」を口実にされれば、セージのために便宜を図っても良いかと思えてしまう。人の物とはいえ、やはり素敵な女性は大切にしなければいけない。

「ならばスケジュールだが、まず最初に美咲市に寄ることにする。
 せっかくだから、コハクちゃん達に挨拶しておいた方が良いだろう。
 それからは、定番だが料理のうまい温泉宿を予約しておこう」
「申し分のない、最高のプランですね!」

 KKKの名誉会員証を持つフローライトなのだから、コハク詣でははずせない行事に違いない。横に新妻がいるというのは、この際イツキは忘れることにした。世間常識ならば、後から夫婦の諍いの原因となるのだが、一夫多妻のパーガトリなのだから、何も問題がないと割り切ることにしたのだ。
 そこまで決まれば、後は雑事をこなす必要が出る。美咲市滞在中の心配はいらないが、温泉旅行ともなれば、宿の手配が必要となる。残り時間を考えれば、特別ルートを使わなければいけないだろう。

「ならば俺様は、必要な手配をしなければいけないのだ。
 先行してリリンに戻るから、今度の土曜日……六日後だな。
 俺様の家族を連れて、美咲市に来てくれないか?」
「それぐらいの手間なら、大したことはないよ。
 そうか、コハク様にお会いできて、更に温泉旅行という贅沢か……」

 本当に嬉しそうにするフローライトに、まあいいかとイツキは前向きに考えることにした。



 余計なことで騒がないようにと釘を刺しておくために、イツキは最初にカエデを訪ねることにした。カエデが何も知らないとなると、後から問題にされる可能性があるし、一言お願いをしておけば、煩わしいことから解消されるというメリットもあった。それに人の物とはいえ、美少女に会いに行くのはイツキの信条に沿った行動なのだ。だから普段通りに、「カエデちゃ〜ん」と逢った途端に抱きつくことにした。
 ちなみにジントがいるときには絶対成功しない行為なのだが、ジントさえいなければ抱きつくことは難しくはない。今まで何度も成功しているが、その都度「虚しくないですか?」などと容赦の無いつっこみが返ってきていた。今日はどんなつっこみが返ってくるのか、それを期待するというのは自虐的な行為だろうか。だが今日に限って、少しだけカエデの反応が違っていた。

「止めてください!!」

 ヒステリックな大声で言われれば、さすがにイツキも驚いてしまう。だからすぐさま「ごめん」と謝ったのだが、その先のカエデも反応も予想から外れた物だった。
 これほど明確に嫌がられたのだから、少しぐらい謝ったぐらいで怒りが収まる物ではないはずだ。しかも相手がカエデなのだから、どれだけ手厳しい糾弾が待ち受けているのか、空気を読み損なった罰だとイツキは覚悟していたのである。だが予想に反して、怒っているはずのカエデが狼狽えているのだ。どうやら、反射的に口に出た言葉に戸惑っているようだった。

「カエデちゃん、重ねてお詫びをしておこう。
 無神経な真似をして、申し訳なかった……」

 腰を折って頭を下げたイツキに、「もういいです」とカエデは許しを与えた。そして気まずさをごまかすように、今日はどうしたのだと本題を切り出した。

「ちょっと家族連れで里帰りを計画しているのだ。
 と言うか、一度顔を出せとおしかりの手紙を貰ってしまった」
「その程度のことなら、別に私に話を通さなくても……」
「カエデちゃんに逢う口実……と普段なら言うのだがな」

 カエデの変化に気づいたイツキは、まじめに訪問の理由を説明した。話をしている最中でも、カエデの視線が不安定に揺れているのが分かるのだ。何か有ったことは想像が付くが、何かが分からなければ対応のしようもない。

「プリムラ達を連れて温泉に行こうと思っている。
 ところが、それを王様に相談したら「連れて行け」と我が儘を言われたのだ」
「お忍びで、パーガトリ国王がいらっしゃるのですね?
 事情は分かりましたので、とりあえず関係方面への根回しはしておきます」
「ああ、感謝する……」

 ところでと、イツキは春休みの予定をカエデに振った。

「カエデちゃんも、たまには家に帰ってみてはどうなのだ?
 シンジの家に押しかけて、みんなでバカ騒ぎをするのも楽しかろう。
 いくら忙しいと言っても、それぐらいの時間はとれるのではないのか?」

 なんなら手伝うというイツキに、「ありがとうございます」とカエデは頭を下げた。

「でも、人に任せるわけにはいかない仕事ですから。
 それにお父さんは、今出張でこっちに来ています。
 だから無理をして家に帰らなくても、親孝行なら出来ますから」

 だから「ごめんなさい」と。カエデはもう一度イツキに頭を下げた。
 固辞されれば、それ以上誘うことは出来ない。「誘惑し損なった」と軽口を叩いたイツキは、大人しく引き下がることにした。カエデの性格を考えれば、何を聞いても「特に何もない」と答えをはぐらかされるのが落ちなのだ。ならば明らかになった事実を付き合わせ、変調の理由を探るしかない。

「ところでカエデちゃん、選りすぐりのエリートと言うのを紹介をしてはくれないか?
 なかなかの美少女揃いなのだから、俺様が挨拶しないわけにはいかないだろう?」
「紹介するのは良いですけど……」

 ふっとため息を吐いたカエデは、「国際問題を起こさないように」とイツキに釘を刺した。

「それぞれ、有名な家のお嬢さんばかりなんですよ。
 無責任な真似をしたら、本当に国際問題になりますからね」
「その時は、カエデちゃんの威光を借りるとしてだな」
「そう言うことは、自己責任でお願いします!!」

 文句を言いつつも、カエデは「楽しい」と感じ始めていた。
 仕方がないとわざとらしくため息を吐き、カエデはクラウディアで良いかと聞き返した。

「クラウディアちゃんと言えば、フランスのお嬢様だったかな?」
「ええ、碇さん好みの金髪碧眼の美少女です。
 なかなか手強そうですけど、椎名さんどうですか?」

 そう言って笑いながら、カエデは電話に手を掛けた。そして「よろしく頼む」と言うイツキの言葉に、クラウディアを呼び出すボタンを押した。

「今、パーガトリ特別顧問の椎名さんが来ています。
 是非ともクラウディアさんに紹介して欲しいと頼まれましたので……」

 そこまで言って、カエデは受話器を隠すようにして声を潜めた。

「紹介はしますけど、嫌なことは嫌と言っていいんですよ。
 多少のことでは堪えない人ですから、はっきり言ってあげた方が親切です。
 いいですね、自分の体を大切にしてくださいね!」

 いくら小さな声で話をしていても、しっかりとイツキの耳に届いていた。そこまで言うかと疑問に感じながらも、多少はましになったかと安堵もしていた。だからイツキにしては、大人しく自分への評価を聞いていたのだった。

「すぐに迎えに来てくれるそうですから……
 それから椎名さん、一応釘を刺しておきますからね。
 くれぐれも無責任な行動をしないようにしてください!」
「大丈夫だよカエデちゃん、俺様の愛情は分け隔て無く降り注ぐためにあるのだ。
 天上の愛情を分け与えないことこそ、無責任な行為だとは思わないか?」
「ええ、普通の人は無責任だと思いませんよ。
 椎名さんの基準が、普通の人に当てはまると思わないように!」

 良いですかと、カエデが人差し指を立てて注意をしたとき、来客を告げるブザーが鳴った。タイミングからすれば、クラウディアが駆けつけてきたのだろう。
 相手を確認したカエデは、解錠のボタンを押そうとしたところで思いとどまった。そして今更ながらの注意をイツキにした。

「くれぐれも、いきなり抱きつくような真似をしないこと!」
「いやだなぁ、アレは親愛の表現だと思っているのだが?」

 だから初対面の相手にしたことはない。本当かと言いたくなる決めつけをしたイツキに、カエデは小さくため息を吐いた。くどいぐらい注意はしたのだ、だからこれ以上は自分の責任ではないと割り切ることにした。それでも備えだけは必要だろう。イツキとの間に割り込むように立って、カエデはクラウディアを招き入れることにした。

「すみません、忙しいときに呼び立てるような真似をして……」

 ごめんなさいと謝ろうとしたカエデだったが、まだイツキを過小評価していたことに気づかされた。一体いつの間にと言いたくなる身のこなしで、イツキがクラウディアの前に跪いていたのだ。

「美しい女神を前にして、私の胸は歓喜に打ち震えています!」

 わざとらしく手を差し出すイツキに、何者だこいつという目でカエデはイツキを見た。それ以上に驚いたのは、イツキが自分のことを「私」と言ったことだろう。議長様や国王様の前でも「俺様」を通すのがイツキなのだ。それが美少女の前では、猫をかぶって「私」と言ってくれる。
 だが細かなことと、カエデはこれ以上拘らないことにした。そして「自分を大切に」とくどいぐらいの注意をして、イツキをクラウディアに引き渡したのだった。

 クラウディア達には、単身パーガトリに乗り込んだイツキへの評価は高い。同じく世間的に評価の高いジントに比べても、イツキの方が高くなっているのだ。それはイツキが、後ろ盾に頼らず今の地位を築いたことも理由になっている。碇シンジの関係者と言うアドバンテージはあっても、逆にそのシンジを利用しているのが回りから分かるのだ。だからクラウディアにとっては、イツキとの繋がりが出来るのは好都合なところがあった。
 ただクラウディアが考えているようなことは、当然イツキも知っていることだった。だからイツキは、逆にその感情を利用させて貰うことにした。パーガトリ支援事業は、今は沢近の手に握られている。だが王室顧問を味方に付ければ、その分得られる果実は豊かな物になる。公明正大を主張するシンジ達に比べ、そのあたりの融通は遙かにイツキの方が利きそうなのだ。

「せっかくですから、ゆっくりと外でお話をしませんか?」

 はっきりと誘惑してきたクラウディアに、「喜んで!」とイツキは口元を歪めた。

「俺様に目を付けるのは、なかなか良い着眼点だと褒めてやろう!」
「常々、椎名様とお近づきになれたらと思っていましたから。
 宜しければ、パーガトリのことを教えてくださいませんか?
 おそらく、私たちに共通の利益が得られると思いますから」

 そう来たかと、クラウディアの反応にイツキは落胆も感じていた。たしかにカエデが言うとおり、クラウディアは美少女に違いない。だが性格は、かなり悪い方にひねくれているようだ。純粋な美少女を見慣れていることもあり、イツキは彼女に魅力を感じていなかった。

(ならば、利用させて貰うか……)

 女性との化かし合いは趣味ではないと零しながら、イツキは罠に飛び込むことにした。必要な護衛は、気づかれないように付けてある。それにこの時点で、ことを荒立てても何も良いことはないだろう。その制限の多さの中、どれだけ知恵を絞ってくれるのか、イツキはそれを楽しむことにしたのだ。



***



 約束された便宜を説明するのに、上倉は結構緊張していたりした。これがエリス相手なら、「偉いだろう」と自慢することも出来たのだが、憧れの叔母を前にはその手も通じない。芙蓉学園生徒会長の権力を考えれば、VIP用の宿舎を押さえるのは難しいことではない。むしろ芙蓉学園での意味を考えれば、それぐらいしてもおかしくないと言えただろう。ただ問題は、それがこれから説明する相手に通用するかと言うことだった。
 ヴィジュアルホンの呼び出し音が5回鳴ったところで、画面に接続のメッセージが出た。今度も来るかと身構えていたら、予想通り画面には少女の顔が大写しになっていた。ただちょっと予想から外れたのは、少女が涙目に見えたことだった。

「お兄ちゃん!!」

 耳をつんざく大声に耳を塞ぎ、「声が大きすぎ」と上倉はすかさず言い返した。だがその抗議を物ともせず、画面に現れた少女は上倉を糾弾してくれた。

「航空券やホテルをキャンセルしろって、一体どういうことなのよ!
 せっかくエリスが遊びに行ってあげるのに、これじゃあ北海道を出られないじゃない!!
 お兄ちゃんは、エリスが遊びに行くのが嫌だって言うの!!」

 後はぎゃあぎゃあと、言葉にならないわめき声が聞こえるばかりだった。あまりの大写しのため分からないが、きっと後ろでは叔母さんが苦笑を浮かべているのだろう。

「誰が来なくても良いなんて言った?
 エリス、とにかく落ち着いて俺の話を聞け!」
「でも、飛行機に乗らないとお兄ちゃんのところに行けないよ……」
「エリス、お前は俺をなんだと思ってる?
 元とはつくが、芙蓉学園の生徒会長様なんだぞ。
 ちゃんと、そのあたりのことは考えてあるさ!」
「本当に?」

 来てはだめと言われなかったおかげで、エリスの機嫌はかなり回復したようだ。それでもまだ不安なのは、震える声を聞けば想像が付く。表情の方は……依然と大写しのため、そのあたりはよく分からなかった。だから上倉は、出来るだけ優しい声で「叔母さんに代わってくれ」とエリスに言った。

「そうしないと、どうやって遊びに来ればいいのか説明できないだろう?」
「……そうだけど。
 本当に、エリスが遊びに行ってもいいの?」
「ああ、お前のことは碇さんにも話してあるよ。
 コハクさんも、お前が遊びに来るのを楽しみだと言ってくれたよ」

 本当と喜んだエリスに、本当だともと上倉は大きな声で言い切った。それでようやく納得したのか、画面の前からどいてくれた。そして現れた女性は、最初に「ヒロキが悪い」と糾弾した。

「キャンセルしろってメールだけでしょう?
 だからエリスが驚いちゃって、本当に大変だったんだから」
「言葉足らずですみません、キャンセル料とか考えたら早いほうが良いのかと思って……」

 それならそれで、こちらで手配すると一文添えればすむことなのだ。それを怠った以上、上倉が全面的に悪いと言うことになる。それを指摘され、上倉は「ごめんなさい」ともう一度謝った。

「それで、言われたとおり全部キャンセルしたわよ。
 後は、私たちはどうすればいいのかしら?」
「その前に確認だけど、金曜日出発、月曜日帰りで良いんだよね?」
「それも含めて、どうすればいいのか教えて欲しいんだけど?
 一応うちの人も、それに合わせて休みを取ったわよ。
 美咲市に行くって吹聴したみたいだから、今更無かったことには出来ないわよ」

 それでともう一度迫られた上倉は、色々とあったのだと事情を説明することにした。

「コハクさん達の都合を聞きに行ったら、足の方は向こうで用意してくれることになったんだ。
 碇さんの奥さんに、沢近って言う女性が居るんだけど……
 そこでパーガトリとの合弁事業でしようする移動方法のモニターを頼まれた。
 直接移動に掛かる時間は0と言う優れものを使わせてくれることになったんだ。
 だから航空券とかをキャンセルして貰うことになったんだけど……」

 やっぱり迷惑だったかと言われ、アンナはそんなことは無いと笑って見せた。

「だけど、私たちみたいな一般人が使って良いの?
 モニターってことは、ただってことなのよね?」
「お金の心配をする相手じゃないと思うけど……
 ああ、使用した感想を書いて欲しいとは言われたな」

 逆に要求されたのはそれぐらいなのだ。いやそれすら要求されていなければ、本当にお金のことを心配しただろう。だからアンナは、「優しいお友達ね」と上倉に言ったのだ。

「それで、泊まるところはどうしたらいいの?」
「そっちは、俺が芙蓉学園のゲストハウスを手配したよ。
 せっかく美咲市に来るんだから、芙蓉学園の施設の方が良いだろう?
 ただ残念なことに、こちらはただって言うわけにはいかないんだ」
「もの凄くお金は浮いたから、多少のことなら大丈夫だと思うけど……」

 学校の施設なのだから、めちゃくちゃな値段を言われることはないだろう。それでも世間的に非常識と言われる芙蓉学園なのだから、ゲストハウスだからと言って安心して良いものではない。だが上倉の出した金額は、アンナの予想を完全に裏切っていた。食事込みと言われた金額は、予約していたホテルの半額どころか3分の1の金額だったのだ。それで大丈夫なのかと、逆に聞きたくもなる金額だった。

「もしかして、もの凄く狭いところに押し込まれたりしない?」

 せっかくの機会だから、芙蓉学園の施設を使うことに異論はない。だからといって、物には限度があるとアンナは主張した。いくら一家三人でも、六畳一間では3泊も我慢できないと言うのだ。
 アンナの疑問に、上倉はどう答えるべきかを考えていた。上倉が用意したのは、VIP用の特別室なのである。スイートルームと言っても、世間一般のレベルではは収まらない。ただそれをバカ正直に話してもおもしろくないだろう。だから上倉は、広さの問題は無いはずだと答えをぼかすことにした。

「3人家族なら十分だって総務の人に言われたけど?」
「だったら、良いんだけど……」

 不安そうなアンナに、大丈夫だと上倉は胸を叩いて見せた。

「最初のプランより、絶対に良い旅行にしてみせるから。
 コハクさん達も、協力してくれるって言ってくれたんだ」
「でも、限度はちゃんと考えてね。
 芙蓉学園の常識は、少し世間一般とはかけ離れているから」

 それは碇家と言いたいのを我慢した、それぐらい承知しているとアンナに答えた。

「10時ぐらいに迎えを寄越すけど、それで良いかな?」
「……そんなにゆっくりで良いのかしら?」

 もともとの予定では、朝の5時には出発するはずだったのだ。それを考えれば、10時というのは格段に楽な日程に違いない。だが空間移動を知らないアンナには、大丈夫と言われても簡単に納得できる物ではなかったのである。

「それぐらいだったら、こっちでゆっくりとお昼が食べられるだろう?」

 そうねと答えて良いのか、やはりアンナには理解できなかったのだった。







続く

inserted by FC2 system