主催している勉強会の意義に関わること、しかも副議長様から助言もあったこともあり、ジントは時間を作ってカエデを訪ねることにした。それを話した時、当然のようにメンバーの何人かは同行したいと申し出た。だが妻であるマディラが行かないと主張したことで、渋々彼らも同行を諦めることにした。適当な断りの言葉を持たなかったジントは、マディラの配慮に感謝したのだった。
 だがマディラにしたところで、ジントへの配慮ばかりが理由ではなかった。やはりカエデとは顔を合わせにくい事情がそこにはあったのだ。

 大使館経由で連絡をつけたところ、カエデも夕方から翌朝まで時間の都合をつけてくれることになった。あからさまな時間設定と言えばそれまでだが、だからといって文句を言う者など誰もいないだろう。それどころか、そうしないと逆にいろいろなところから文句を言われそうな風向きだった。取り次いでくれたヘマタイトが、「ようやくですか」と安堵していたのを覚えている。

「どうして、俺は緊張しているんだ?」

 ジュネーブの旧市街、その石畳を歩きながら一人つぶやいていた。なぜカエデに逢いに行くのに、自分はこんなに緊張しているのだろう。今までも、何度も逢っているはずだし、カエデの家に泊まったこともある。もともと日本にいた時には、一緒に住んでいた仲なのだ。それを考えれば不思議としか言いようがないのだが、カエデの家が近づくに連れ、感じている緊張はさらに酷くなっていた。そして入り口の呼び鈴を押す段になって、心臓は今まで以上に激しく自己主張を行ってくれた。
 「ビー」と言う、日本ではあまり使われない音が聞こえて少し、インターホンからカエデの声が聞こえてきた。ジントは何度も深呼吸をしてから、「俺だ、カエデ」と日本語で答えた。そのときジントは、インターホンの向こうでも息をのんでいるのを感じた。何のことはない、自分だけでなくカエデも緊張していたのだ。

「ロックをはずしました……」

 少し控えめな、そして緊張を含んだ声がインターホンから聞こえてきた。そして少し遅れ、入り口のロックがはずれる金属音が響いた。その音を確認し、ジントは古ぼけた木の扉を引っ張った。とたんに建物の中の少しひんやりとした、そしてそして少しだけかびくさい臭いが鼻についた。い記憶に残る臭いに、ここに来たのだとジントは身を引き締めて中へと入っていった。
 階段を上がり、突き当たりまで進んでいけば、目指すカエデの部屋はすぐそこである。ジントの足音が聞こえたのだろうか、扉の前ではすでにカエデが待っていた。ジントの姿を認めたカエデは、自分の行動を恥じたのか視線を逃れるように俯いた。そんなカエデに、「よ、よう」と間抜けた声を掛けたジントは、中に入ろうと提案した。

「そ、そうですね、立ち話も何ですから……」

 ごめんなさいと謝る姿は、いつものカエデのものに違いない。それでもジントは、多少の違和感を覚えていた。まるで何かを隠しているかのようと言えばいいのか、普段以上におどおどとしているように見えたのだ。

「じ、ジン君は座っていてください。
 今すぐに、お茶を用意しますから!!」

 見慣れたはずの部屋の景色を、ジントは首を巡らせてみた。小さなキッチンでは、カエデが忙しそうに動き回っている。見れば、いくつかの食材が冷蔵庫から出されていた。みそとか豆腐とか有るところを見ると、ジントのために日本食を作ろうとしているのだろう。やっぱりカエデだなと壁際に目を転じれば、そこには赤い薔薇が飾ってあった。綺麗なことには違いないが、カエデらしくない花でもあった。
 自分では意識していなかったが、どうもまじまじと薔薇を見ていたらしい。それに気づいたカエデが、「花屋のおじさんの好意」だと説明してきた。

「そ、その、ジン君が来るって言ったら、特別だよと持ってきてくれたんです」
「花屋のおじさんって……大丈夫なのか?」

 そう言われて、ジントはもう一度じっくりとバラの花を見てしまった。何しろカエデは、一度罠にはめられた経験がある。しかも花をくれた相手が、その実行犯なのだ。大丈夫とは言われていても、不安に感じてしまうのは仕方がない。

「だ、大丈夫ですよ、し、しっかり、クレシアさんの息が掛かっていますから!!」
「そ、そうか、だったらいいんだが……」

 それにしても、どうしてカエデが慌てているのだろう。解けない謎を感じながら、ジントは出されたお茶をずずっと啜った。日本風で通すつもりなのか、しっかりと渋めの緑茶だった。

「そ、それでジン君、き、今日はどうしたんですか?」
「そ、それはだな、ちょっとカエデに相談したいことがあってだな。
 コハクさんにも、カエデを頼れと突き放されたというか……」
「コハクさんがですか?」

 少し目を見開いたカエデは、そうですかとすぐに顔を伏せた。

「ジン君、コハクさんに頼ったんですね」
「い、いやっ、エデンのことだからな。
 ま、マディラを連れてコハクさんに質問に行ったんだ」

 エデンのことというのは良かったが、マディラを連れてと言うのは自爆に類することだった。そうですかと声を暗くしたカエデは、「お代わりはどうですか?」と立ち上がった。

「い、いやっ、あまりお茶ばかり飲んでいると、カエデの作ってくれたご飯が食べられなくなる」
「じゃあ、少し早いですけど晩ご飯にしますか?
 今日はジン君の好きななめこは有りませんけど、豆腐のみそ汁なら用意できましたよ。
 あとはカレイの煮付けと、ポルチーニのソテーとパンプキンの煮たのと……
 ああっ、もちろん白いご飯も炊いてありますからっ!」

 それにお漬け物にふりかけと。カエデは、普段日本で食べていたものを数え上げた。

「俺のために、そんなに無理しなくて良いんだぞ。
 俺だったら、別にこっちの料理でも問題ないぞ」
「無理だなんて……私は、ジン君にご奉仕するのが生き甲斐なんですから。
 ああっ、ご奉仕と言っても、その、エデンで言っているのとは違いますから……
 いえ、その、違っていなくても困りませんけど……」

 赤くなったカエデは、話の続きを促した。コハクに突き放されたということが、どうして自分に関わってくるのか。だがジントは、夕食を先にとることを提案した。

「ついでで話せるようなことじゃないし、
 今日は泊まっていくから、相談する時間なら十分にあるだろう?」
「十分にある……とは思いますけど」
「カエデ、何か気になることでもあるのか?」

 少し口ごもったのを気にしたジントに、何でもないのだとカエデは両手を振って否定した。

「と、とにかく、すぐにご飯の準備をしますからぁ〜」

 少し声を裏返らせ、そして何かをごまかすように、カエデはキッチンへと身を翻した。いつものことかと諦めたジントは、カエデの後ろ姿を見て時間をつぶすことにした。



 カエデの作った料理は、日本との距離を感じさせない物だった。エデンには“和食”がないため、久しぶりの美味にジントは出された料理をむさぼり食った。そしてちょっと渋めの緑茶でしめ、「ごちそうさま」とジントは手を合わせた。それに併せて立ち上がったカエデは、手際よく汚れ物をキッチンへと運んだ。そして簡単に汚れを落とし、食器洗い機に押し込んだ。後はスイッチを入れれば、自動的に食器は洗い終わる。

「それでジン君、お話って何ですか?」

 お茶請けに塩昆布を用意したカエデは、大きめの急須を持ってジントの横に腰を下ろした。

「エデンのことって言いましたよね?」
「ああ……」

 ジントの方が座高が高いため、少しだけカエデを見下ろす格好になる。そうなると、少し開いた胸元が気になってくる。洗い物とかしたせいか、いつもより開いた胸元から、白い下着と胸の谷間が覗いているのだ。それに気づいた瞬間、どきんと大きく胸がはねた気がしていた。

「そ、それはだな……」

 気を落ち着けようと努力したが、どうしてもそれが成功してくれない。それどころか、カエデの胸元から目を離せなくなっていた。これではいけないと体を離そうとしたのだが、肝心の体が言うことを聞いてくれない。それどころか、いけない右手がカエデの太ももに伸びようとしていた。
 それでもなし崩しは良くない、自分は目的を持ってきたはずだと、ジントは強い精神力を発揮して、不埒な右手の行動を押さえようとした。だがそんなジントの努力も、カエデの行動の前に意味のないものになってしまった。「良いんですよ」と言ったカエデは、ジントの右手を取り、自分の太ももへと誘ったのだ。柔らかな素肌の感触が、ジントの理性を沸騰させた。

「ジン君は男の人なんですから、こんな時に我慢しなくても良いんです。
 私でしたら、ジン君だったらいつでも大丈夫なんですよ」
「か、カエデ、俺は……」

 ぷつりと、どこかで理性の切れる音がした。それが誰の物なのか、今更説明する必要はないだろう。左手でカエデを抱き寄せたジントは、欲求の求めるままカエデの唇を奪った。

「ジン君、そのままここで……」

 よけいな心配はしなくて良い。気を利かせたカエデの言葉だったが、理性を飛ばしたジントの前では意味のない言葉でもあった。普段にない荒々しさを見せるジントに、やっぱり特別製は良いとカエデは感謝していたのだった。







<<学園の天使>>

160:







 殺到する見学希望者を排除し、そして“ご一緒”を希望する部員を排除して、上倉の制作は開始された。場所は鍵の掛かる美術準備室……別室。一応の立ち会い者として、教師のアヤも参加していた。ちなみにシンジは、いつものとおり芙蓉学園の制服姿だったりする。

「本当に、この格好で良いのかなぁ……」

 せっかく絵のモデルになると言うのに、代わり映えのしない制服姿なのである。それを第一に問題としたシンジに、それが一番良いのだと上倉は答えた。

「やっぱり、碇さんと芙蓉学園は切り離せないじゃないですか。
 って言うか、芙蓉学園を碇さんから切り離せないんですけどね。
 とにかく芙蓉学園の生徒の立場として、碇さんを描くのなら制服姿と決めていました」
「上倉君がそう言うのなら良いんだけど……
 それで、モデルはどういうポーズをすればいいのかな?」

 何しろ絵のモデルなど初めての体験である。そのあたりの細かなことは、全く知らなかったのだ。それでもモデルを引き受けた以上、何かのポーズを取る物だとシンジは信じていた。

「特にこれと言ったのはないですけどね。
 自然な碇さんを描きたいと思っていますから、自然にしていてください」
「それが、一番難しい要求だって理解しているよね?」
「そうですね、普通は何をして良いのか分かりませんよね」

 あっさりと同意した上倉は、だったら座っていてくださいと椅子を指さした。

「とりあえず、絵のイメージを膨らませてみようと思っています。
 だから、そこに座って、少し話し相手になってくれれば良いんですよ」
「話し相手で良いのかな?」
「たぶん先生も、色々と聞いてみたいことがあると思うんですよ」

 そうですよねと話を振られ、アヤは「はい」と大声をあげ背筋を伸ばした。見とれていたというと言い過ぎかも知れないが、ぼうっとシンジのことを見つめていたのだ。そこに突然話を振られたため、驚いて過剰な反応をしてしまった。もちろん、それを指摘しないだけの良識を彼女の生徒達は持ち合わせていた。

「そうですね、まずは当たり障りのないことから聞きましょうか。
 碇さんは、芙蓉学園入学を希望していなかったと聞いていますが?」
「そりゃあね、波乱って奴なら中2の時に嫌ってほど味わったからね。
 だからその後の人生は、平穏で穏やかな時間を過ごしたいと思ったんだ」

 高1で老成するのはいかがかと思うが、シンジの気持ちも分かる気がしていた。確かに、世界の命運を背負うのは重すぎる運命だろう。それから解放されたのなら、後は穏やかな人生を考えてもおかしくない。
 だが上倉は、分かるという代わりに中3時代はどうだったかと聞いた。今と比較して、充実した時間だったかを確認したのだ。

「中3時代ねぇ……近くにうるさいイツキはいたけど……
 それなりに充実した、普通の生活をしていたと思うんだ。
 ただ問題と言えば、まったく女の子に持てなかったことかな?
 中3の1年間、女の子にデートどころか告白されたことがなかったよ。
 バレンタインデーでも、下宿のおばさんに義理チョコを貰っただけなんだよ。
 おばさんには、同い年の女の子がいたのに、綺麗さっぱり無視をされたよ」

 今の姿と全く違うシンジの告白に、へえっと上倉は感心して見せた。今のシンジの状態を見れば、絶対に誰も信用しない話でもある。だからこそ、おもしろいと上倉は考えていた。

「そのおばさんは、美人でしたか?」
「25年前だったら、多分喜んで踊り出していただろうね。
 さすがに、喜ぶには年の差が有りすぎたよ。
 それに、どこまで行っても義理チョコだからねぇ〜」
「じゃあ、その下宿のお嬢さんは?」
「う〜ん……」

 質問されるまで、下宿の女の子の顔を思い出したことがなかったのだ。だからシンジは、記憶に残る顔を一所懸命思い出した。そして考えること3分、ようやく目指す相手にたどり着いた。

「美人って意味なら、芙蓉学園の女の子には敵わないね。
 でも、その当時だったら、多分十分以上に可愛い子だと思うよ。
 確か、結構持てていた記憶があるから……」

 だから余計相手にされなかった。そう告白したシンジに、そうでしょうかと上倉は口元を歪めた。

「その子も、今はきっと後悔していると思いますよ。
 何しろその当時だったら、ライバル無しで碇さんを物に出来たんですから。
 と言うか、碇さんなら絶対に手を出していたと思ったんですけどねぇ」
「勘弁してよ、そのころには全く彼女ができなかったんだから……
 自分でも謎だと思うんだけど、本当に彼女ができなかったんだよ。
 だから芙蓉学園じゃなく、共学の公立に行こうって誓っていたんだ」
「そんなの、椎名さんが許してくれなかったでしょう?」

 今のイツキを見れば、上倉もそれぐらいのことは想像ができる。そしてシンジも、上倉の言葉を肯定した。

「イツキからは、逃げるのかって責められたよ。
 それに、共学に行っても無駄だって言われたね。
 “本当に下手な鉄砲は、いくら撃っても当たらない”って」
「見事すぎる喩えですね……
 でも、そう言う意味では、芙蓉学園に来て良かったんじゃないですか?
 少なくとも、女の子って意味ではこれ以上ない環境にありますよ。
 しかも、どっちに向かって撃っても、鉄砲をはずしようがない」
「否定は難しいけど、それはそれで結構難しい問題があるんだよ。
 ほら、“過ぎたるは及ばざるがごとし”って言うだろう。
 今の状況を説明するには、まさにぴったりの言葉だと思うんだ」
「それって、凄く贅沢な話だと思いますよ」

 シンジの置かれている状況、奥さんとして家に入っている顔を思い浮かべれば、上倉の言葉の方が説得力を持っていた。さすがのシンジも、それを認めないわけにはいかない。コハクやヒスイ、まともに考えれば巡り会える相手ではない。

「確かにね、コハクやヒスイ、それにスッピーを見ているとそう思うよ。
 多分僕は、とっても贅沢な悩みを言っているんだろうね」
「ええ、外で口にしようものなら、思いっきり妬みを買いそうですね。
 っていうか、碇さんの女性関係に関しては、思いっきり妬まれていますよ。
 碇さん、ネットの掲示板とか見たことがありますか?」
「学校の裏サイトとか?」

 そうそうと頷いた上倉に、シンジは綺麗さっぱり無いと答えた。意外に忙しいことと、家で一人のんびりとしていることがないのがその理由だった。ただネットを見ていなくても、どう書かれているのかぐらいは想像が付いていた。

「聞きたいですか、自分の評判?」
「どうせ、鬼畜とか書かれているんだろう?
 そう見えることは理解しているけど、だったら代わってくれと言いたいよ」
「女性関係“だけ”なら、代わることも吝かじゃない人は多いと思いますよ。
 でも、それ以外のごたごたまで引き受けるとなると、ちょっとやそっとじゃ嫌でしょうね。
 だから碇さんは、妬まれるだけで済んでいるんですよ。
 それとも、“大変ですねぇ”って同情されたいんですか?
 そんなことになったら、まず間違いなくアスカさんに締められますよ」

 正しく碇家の情勢を言い当てた上倉に、シンジは引きつった笑みを返した。確かに大変な今の状況なのだが、それを正直に口にして良い物ではないだろう。しかも上倉は、シンジの痛いところも突いてきた。

「今更誰か一人、もしくは二人に絞ることができますか?」
「そう言われると、返す言葉がないのは分かっているよ……」

 少しいじけたシンジに、上倉は小さく吹き出した。そして同意して良いのか分からないことを口にした。

「だから、碇さんは今を肯定するしかないと思うんですよ。
 そしてこれからも、来る者は拒まずの姿勢をとり続けてください」
「今を肯定するってのは分かるけど、なんで来る者は拒まずなのかな?」

 すかさず疑問を呈したシンジに、それが望まれていることなのだと上倉は言い返した。

「なんだよ、それ……人のことをさんざん鬼畜って言っているくせに」
「仕方がないですよ、俺は多くの女性の気持ちを代弁しただけですから。
 みんな、碇さんが鬼畜じゃないのを逆に残念がっているぐらいですよ。
 碇さんって、意外に身持ちが堅いんですよね」
「なにか、辺り構わずってのは人間捨ててる気がして……」

 そうぼやいたところで、「おい」とシンジは言い返した。

「人のことをさんざん言ってくれたけど、そう言う上倉君はどうなんだよ!」
「お、俺ですか?
 どういう訳か、誰とも付き合ったことがないんですよ」

 不思議ですねと笑う上倉に、それが信じられるかとシンジは迫った。

「こういうとひがみっぽく聞こえるけど、上倉君はけっこう美形じゃないか。
 しかも選挙で生徒会長になったぐらいの人気があるんだ。
 それで持てないってことはないと思うんだけど……」

 ふむと考えたシンジは、だったらと上倉にとって否定したい決めつけをしてくれた。

「まさか、イツキと同じってことはないよね?」
「俺は、あんなに節操がないってことはありませんよ。
 本当に、誰ともお付き合いしていないんです」

 きれいさっぱり否定した上倉だったが、シンジが逃がしてくれるはずがない。だったらと、最近の目撃証言を突きつけてきた。

「この前の週末、上倉君がにやにやしながら電話をしていたと言う目撃証言が有るんだ。
 芙蓉学園関係者じゃないところを見ると、故郷にガールフレンドを残してきたんじゃないのか?」
「故郷にガールフレンドを残してきたって……」

 はあっと、上倉は驚いた顔をした。

「電話の相手は、親戚のちっちゃな女の子なんですよ。
 その目撃したって人が、どこか間違った見方をしているんですよ」
「ふ〜ん、上倉君って“ロリコン”だったんだね」

 シンジがそう言った瞬間、「がた」っとアヤが立ち上がった。と言っても、アヤが上倉に気があったと言うことではない。教え子に異常な性癖があることに、動揺してしまったのだ。

「上倉さん、相手が親戚でもそれは犯罪ですよ!」
「美咲先生、いくら何でも発想が飛躍しすぎです。
 俺は、その子が生まれた時から知っているんですからね。
 可愛い妹だと思っても、それ以上の感情なんて持っていません!」
「でも、上倉さんはロリコンなんですよね?
 年上にも同年代にも興味がないなんて、ロリコンとしか言いようがないとは思いません?」

 ちょっと良いなと思っている女教師にロリコンと言われるのは、結構きつい物がある。だから上倉は、勘弁してくださいと懇願した。

「これでも、SSSの会長なんですよ。
 同年代に興味がないなんてことは、絶対にありません!」
「でも、誰とも付き合っていないんだよね?」
「興味があるからって、必ずしも付き合えるとは限らないじゃないですか!
 そう言うことを言うのなら、碇さんの中学時代はどうでした?
 女の子と付き合わなかったのは、やおいとかロリが趣味だったからじゃないでしょう?」

 そう切り替えされると、さすがに追求を引っ込めざるを得ない。本人の希望と付き合うことは、必ずしもイコールでないのは自ら証明していた。

「俺のことに限って言えば、理想の女の子に巡り会っていないだけです。
 ほら、ここにいると見た目は条件から外れるじゃないですか。
 だから、一緒にいて元気を分けてくれるような女の子が良いと思っているんですけどね」
「ああっ、それ、分かる気がするよ。
 一緒にいて、元気が出てくる女の子って良いよね」

 うんうんと頷いたシンジに、あのぉとアヤが割り込んできた。

「大人しい控えめな女性というのは趣味から外れますか?
 それから、年上の女性というのも対象外でしょうか?」

 あまりにも具体的、かつ何を聞きたいのか分かる質問に、シンジはどう答えようか悩んでしまった。ここで迂闊な答えを返せば、また余計な物を背負い込んでしまいかねない。かといって、相手を傷つけるようなことも言えない性格なのだ。「ええっと」と迷ったシンジは、「優柔不断だから」と明らかな墓穴を掘って見せた。

「こう見えても、なかなか決められない性格をして居るんですよ。
 あとは、いつまでも引っ張る性格もしているんです。
 だから、お姉さんみたいな人にあこがれるっていうのはありますよ」
「年上は、だめってことはないんですね?
 それで、いくつぐらいまでなら許容範囲ですか?」
「いくつぐらいって……年齢じゃなくて、その人を見ているつもりですから」

 アヤに迫られたシンジに、上倉は助け船を出そうかと考えた。だが困った顔をするシンジを見て、逆にこれが求めた姿なのだと助け船を思いとどまった。英雄と言うことで、格好良い姿ばかりを考えていたが、生徒会で付き合ってきて、一番目にしたのはシンジの困った顔だった。確かにそうだと考え直した上倉は、モデルを見る目で二人のやりとりを見守った。
 上倉の目から見て、アヤは完全に誘惑モードになっていた。普段から控えめで“大人しい”彼女が、どうしてここまで変貌したのか。シンジが特に何かをしたとは思えないが、きっと何かが美術教師の琴線に触れたのだろう。“必死”の攻防なのだが、なぜか他人事としか思えないやりとりでもある。なるほどこうやってIIIのメンバーが増えていくのか、おかしなところで感心したりもしていた。

「でも、余計な気を持たせるのが悪いところかなぁ……」

 “天然ジゴロ”だよなぁと、反面醒めた目でも上倉は見つめていたのだった。



***



 半年以上ため込んだ物が、たった一夜で解消できる物なのだろうか。だがカエデは、普段にないジントの姿を見たことと、それに伴う……まあ、しっかりと満足することが出来た。そうなると、わざわざジントが訪ねてきた理由が気になってくる。ジントが抱えるエデンの問題で、どうして自分に相談することがあるのだろうか。せっかく当てにしてくれたのだから、やっぱり良いところを見せておかないといけないだろう。だから早起きをしたカエデは、最初に証拠隠滅を図ることにした。
 薔薇の花を袋に詰めて、換気のために窓を開ける。冷たい空気が気持ちいいが、これで起こしてしまわないかとカエデはジントを見た。だがよほど疲れたのか、ジントはぴくりとも動かなかった。

「ジン君が、あんなにケダモノになるなんて……」

 他人と比較は出来ないが、ジントは淡泊だとカエデは思っていた。そのあたりは、我慢強い性格が徒となっているのだろう。その枷をはずせば、こうして欲望を前面に出してくれる。毎回ではさすがに体が辛いが、たまのことなら刺激的で良いだろう。
 だがそうなると不思議なのは、シンジには効果がなかったことだ。ヒスイのように、毒物耐性があるのなら分かるが、シンジにはそちらの特性はないはずだ。ならば二人の違いはどこにあるのか、ううむとカエデは考えてしまった。

「やっぱり、ノエインの皆さんが居たのが良くないんですね!」

 次があったら、そのあたりは気を付けることにしよう。よしと決意を固めたところで、カエデは朝食の準備を始めることにした。ジントと話をしなくてはいけないが、その前にはやっぱり朝食が必要なのだ。昨夜して貰った分以上に、ご奉仕してお返しをしなければいけない。早速カエデは、ご飯を炊くところから準備を始めることにした。

 それから2時間後、朝食の片づけも終わり、二人はテーブルを挟んで相対していた。初めは照れの残っていたジントも、普段見たことのないカエデの表情に気を引き締めていた。休暇で帰ってきたのではなく、大切な用事があったはずだ。それを忘れては、準議員の立場が泣くという物だ。

「コハクさんに、俺の主催している勉強会の話をしたときのことだ」

 訪ねてきた以上、自分から説明を始めなければならない。ジントは、コハクとの話をかいつまんで説明した。芙蓉学園に入学する役職候補者の意識、そしてそこに通う生徒の位置づけ。その中で、エデンの第4、第5階層の扱いが難しいと問題を提示した。

「コハクさんが言うには、リリンの存在は例外に属する物らしい。
 感覚的に最下層の更に下に置いていても、エデンの社会構造には組み込まれていなかった。
 だからリリンの地位が上がったとしても、社会構造的に問題は生じないと言うことだ」
「第4、第5階層の人たちの場合、簡単な話ではないと言うことですね?」

 そうだとジントは頷いた。

「俺とマディラは、そう思ったんだ。
 コハクさんもその問題は認めたが、そのための芙蓉学園だと突き放された。
 俺への宿題にされて、カエデに相談してみろと言われたんだよ」
「それで、私のところに来てくれたんですね」

 どんな理由でも、ジントが来てくれるのは嬉しい。だからカエデは、期待に応えるために問題を整理するところから始めることにした。

「第4、第5階層の人たちも、私たちと同じように自治組織を持っているんですよね。
 そしてコハクさん達とは、その代表者の皆さんを通じてお話をされている。
 芙蓉学園では、そのステップが飛ばされて直接コハクさんとのルートが出来てる……」

 そこまで“事実”を口にしたカエデだったが、口にしてから本当にそうかと考え直した。

「クラスメイトとしてなら分かりますけど、それ以上のこととなるとちょっと違いませんか?
 パーガトリもそうですけど、政治的な話や3界の未来のことになると、
 発言しているのはリリンの生徒ばかりって気がしますけど……」
「最近は、パーガトリの生徒も積極的になってきていると聞いているぞ」
「そう言えば、フローライトさんが号令を掛けたって聞きました」

 ええっとと、カエデは腕を組み、人差し指を頬に当てて考えた。

「パーガトリとかリリンがしゃしゃり出ても、エデンって体制は揺らいでいませんよね?」
「碇がいてもか?
 それに、俺みたいなのが準議員に収まっているぞ?」
「でも、エデンの枠組みが壊れたってことはないですよね?
 ジン君が準議員になったのも、あくまでエデンの枠組み内のことですよね?」

 カエデの指摘に、そう言うところがあるかも知れないとジントは考えた。

「そう言われれば、確かに最高評議会は何も変わっていないな。
 俺の立場も、エデンの最高評議会準議員の立場だしな」
「その場でリリンのことを主張しても、あくまで議員の立場と言うことになりますよね?
 エデンの体制が揺らぐという意味には繋がらないと思うんです」

 カエデの言葉を認めたジントは、それを第4、第5階層に置き換えてみた。芙蓉学園の生徒が、同じように3界の仕組みに口を出すようになったとしたら、いったい何が起こるのだろうかと。だがいくら考えても、何かが起こるとは思えなかった。

「だめだ、いくら考えても何も起こらないと言う答えになってしまう。
 だがそれでは、あいつらが芙蓉学園に通う意味が無くなってしまう」
「たぶん、エデンの枠組みを考えるからいけないと思うんです」
「エデンの枠組みを考える?」

 どういうことだと首を傾げたジントに、つまりとカエデは将来の体制を口にした。

「将来、3界がどうやって一つになるのかを考えたことがありましたよね」
「ああ、緩やかな統合と言うことを考えたことがあったな」

 その時の議論を思い出したジントは、意思決定の方法が重要だと思い出した。

「3界は基本的に独立して存在するが、重要な意思決定は3界で合議する必要がある。
 そのための意思決定機関を、3界の上に設置するという話だったかな?」
「その機関は、最高評議会がそのまま引き受けるのでしょうか?」

 カエデの疑問に、ジントは枠組みをもう一度考えた。3界における立場、そして実力、それを考えれば、最高評議会がスライドするのが一番無難だろう。だがそのままで、パーガトリやリリンが収まるとも思えない。そしてシンジも、最高評議会だけが上位に立つのをよしとしないだろう。そうなると、その両者から人を受け入れるという譲歩も必要になる。結局、3界の意志決定には新たな枠組みが必要となる。

「そのままというのは、碇も認めないだろうな」
「たぶん、コハクさんもそのままだなんて考えていませんよ。
 これは私の想像なんですけど、リリンやパーガトリから議員を受け入れることになると思います」
「それでも、第4、第5階層という話はないだろう?」

 あくまでリリンやパーガトリなのである。リリンはその抱える人口、そしてエデンとは一応対等の立場にある。だから代表を送り込むというのも、説明としてはおかしくない。そしてパーガトリも、エデンと1千年にわたって戦ってきた相手だ。講和を結ぶのであれば、やはり政治への参画が必要だろう。それを考えれば、元々被支配層の立場が変わるとは思えない。

「すぐには無いと思いますよ。
 でも、どうして芙蓉学園に第4、第5階層から生徒を入れたのか、
 そしてそれを決めたのが、誰だったのかを考えた方が良いと思うんです」
「サードニクスさんだったな……」

 それを考えると、何もないとは絶対に思えないのだ。どうすれば世界がおもしろくなるか、それを最優先にしてくれた議長様なのである。ならば最下層を学園に入れたのも、当然意図があると言うことになる。

「芙蓉学園卒業生の位置づけが大きくなれば、あの子達も絶対に今のままではいられないと思います。
 それに、リリンよりもエデンの下層社会の方が進んでいるんですよ。
 その人達を参加させないと、絶対に3界に歪みが出てしまいますから」
「……だから、芙蓉学園と言うことか」

 芙蓉学園に役職者が増えるようになれば、必然的に彼らの交流も生まれてくる。そのことによって、階層間の垣根が低くなることが期待できる。すべてが仕込みとは思えないが、よくも考えられた物だとジントは感心した。

「結局、碇とコハクさんが出会ったことで始まった流れか……」
「私たちは、幸運な時代に生まれたんですよ」

 だから、精一杯自分のできることをしよう。カエデの言葉に、確かにそうだとジントは頷いたのだった。







続く

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