師匠に電話を掛ける時点で、上倉の問題は解決していたと言っていいだろう。自分が何をしたらいいのか、彼を悩ませていた霧が晴れているのだ。ならば、真っ直ぐに目的地を目指せばいいだけだ。
 ビジュアルホンの呼び出しを待つこと5回、「着信」のメッセージが出たところで上倉は一つ深呼吸した。彼の師匠であり、そしてあこがれの人であるアンナが電話に出てくれる。それだけで、シンジ相手とは違う緊張をしていた。いよいよ相手の画像が出る、そう思って身構えた上倉だったが、「お兄ちゃん!」と言う大声と、画面一杯に映し出された少女の顔にのけぞってしまった。

「え、エリスぅ!!」

 金髪に青い目をした少女は、にぱっと笑ってみせた。

「うん、エリスだよ、本当にお兄ちゃんだぁ!!
 ママ、うるさい!!
 今はエリスがお兄ちゃんと話しているんだからぁ!!」

 どうやら着信メッセージに上倉の名前が出たため、エリスが電話を横取りしたらしい。少女の顔が大写しになった背景から、「ごめんなさい」と言うアンナの声が聞こえてきた。

「ヒロキ君が帰ってこないから、エリスが寂しがっているのよ。
 悪いけど、もう少しこの子に付き合ってくれない?」
「お、俺なら、構わないですけど……」

 憧れの人に頼まれれば、絶対に嫌と言えるはずがない。それに電話に出ているエリスも、上倉にとって可愛い“妹”なのだ。

「お兄ちゃんは、エリスとお話をしているの!
 ママは少し黙っていて!!」

 横取りをされたことを怒ったエリスに、アンナは「はいはい」とおとなしく引き下がった。モニタ画面では、少女の顔が少し膨れているのを見ることができる。相変わらずだと笑いながら、「寂しかったか!」と上倉は話しかけた。

「……だって、お兄ちゃん、帰ってきてくれないんだもん。
 それに、お電話だって、滅多に掛けてくれないし……
 おばさんも、「薄情な息子だ!」って零していたのよ。
 だめよ、ちゃんと親孝行しないと!」

 少女でも、9才になるとしっかりとしてくるらしい。大人びた説教に、上倉は少しだけ口元を引きつらせていた。

「悪いなエリス、生徒会で忙しかったんだよ」
「だったら、もうすぐ生徒会も終わりなんでしょう!
 これからは、毎晩お電話をしてくれる!?」
「毎晩かぁ〜」

 さすがにそこまでヒマじゃない。と言うか、現役高校生が毎日親戚の家に電話を掛けるのも不自然だろう。それにこれからは、別の理由で忙しくなってしまう。だから上倉は、「ごめん」とエリスに謝った。

「お兄ちゃん、これから絵の制作に入るんだよ。
 ちょっとした大作だから、なかなかこれが忙しいんだ!」
「お兄ちゃん、絵を描くの!?」

 謝られたことより、上倉が絵を描く方が大切だったようだ。画面の向こうで目を輝かせたエリスは、文句の代わりに「お兄ちゃんの絵は大好き!」と言ってくれた。

「それでお兄ちゃん、いったい何の絵を描くの?」
「聞いて驚くな、エリスも碇シンジさんは知っているだろう?」
「碇シンジさん……英雄様の碇シンジさん?」
「芙蓉学園には、碇シンジって名前は一人しかいないよ」

 驚いて目を丸くしたエリスに、上倉は小さく吹き出した。そして「凄いだろう」と口元を歪めた。

「凄いっ……凄い凄い凄い凄い凄いよ、お兄ちゃん凄すぎる!!」
「いやっエリス、いくら何でもそこまで言うことじゃないぞ」
「でも、本当に凄いんだもん。
 でもお兄ちゃん、写真とかをモデルにするんじゃないよね?」

 だったらがっかりと言うエリスに、「お兄ちゃんを見くびるな!」と上倉は言い返した。

「もちろん、本人にモデルになって貰うぞ。
 しかも俺のためだけに、碇さんはモデルになってくれるんだ!」
「凄い凄い凄い凄い、凄すぎるぅ〜」

 ボキャブラリィの乏しさ以前に、エリスには「凄い」としか言いようがなかった。開校されて2年、そしてマスコミ公開されて1年が経過し、芙蓉学園の姿は世間でも広く知られるようになっていた。その中でも碇シンジ、コハク、ヒスイの3人の知名度は別格で、エリスのような小さな少女でも知っているほどである。特にシンジは、来年の社会科の教科書に載ることも決まっており、生きながらにして伝説になりつつあった。
 その伝説というか、教科書に載るような偉い人の絵を、大好きなお兄ちゃんが描くというのだ。エリスは引きつけを起こしそうなほど興奮していた。ものぐさなお兄ちゃんのことだから、きっとおばさんには報告していないだろう。だったら私が、教えに行ってあげないといけないわと。

「それでお兄ちゃん、いつから絵を描き始めるの!?」
「これから、平日の放課後にモデルになって貰うんだ。
 だから明後日から碇さんに協力して貰うんだぞ!」
「凄いなぁ〜良いなぁ〜羨ましいなぁ〜」
「エリスも、碇さんの絵を描きたいのか?」

 あまりにも羨ましそうなので、どうかと上倉は聞いてみた。そうしたら間髪おかず「うん」と言う元気な返事が返ってきた。

「でもエリスは、コハクさんを描いてみたいなぁ。
 お兄ちゃん、コハクさんの絵は描かないの?」
「碇さんの絵で納得いく物が描けたら、今度はコハクさんやヒスイさんに頼んでみるよ。
 ただ、俺がどこまで碇さんを描ききることができるか、ちょっと不安はあるがな」
「だったら絶対に大丈夫っ!!
 エリスが保証してあげる、お兄ちゃんなら絶対に大丈夫だから!!」

 画面の向こうでは、小学校3年生が胸を張って偉そうにしている。こんな物で励まされるかと思いながら、それでも力がわいてくるのを上倉は感じていた。

(エリスにここまで保証されたら、弱音なんて吐いていられないな……)

「それでお兄ちゃん、春休みには帰ってくるの?」
「春休みかぁ〜春休みねぇ……うん、春休みだな……」

 よくよく考えてみれば、生徒会選挙が終われば春休みはすぐそこに待っている。帰る予定を全く立ててなかっただけに、エリスの質問は上倉にとって痛いところを突いていた。

「……帰ってこないのね。
 おばさんに言いつけてあげるからね!!」
「悪いな、ちょっと予定を立てていないんだ……
 エリス、どうかしたのか?」

 怒っているかと思ったら、目の前の少女がにやにやと笑っているのだ。何かあると思った上倉に、エリスではなくアンナが答えを返した。

「エリスの春休みにね、美咲市まで旅行に行くことにしたのよ。
 申請書を出したら、運良く許可が下りたのよ!」
「ママ、内緒にしてお兄ちゃんを驚かせるつもりだったのに!!」

 バラスなんて酷い。真剣に抗議をする少女をよそに、上倉は「言ってくれれば」とアンナに言った。生徒会長の権限を使えば、叔父夫婦の申請を通すことは雑作はないのだ。

「権限を使えるのも最後なんだから、言ってくれれば良かったのに」
「ヒロキ君に迷惑を掛けたくなかったのよ。
 制作中に悪いけど、エリスと遊んであげてね?」
「タイミングが合えば、碇さん達にも紹介してあげるよ。
 おばさんにも、甥っ子の凄いところを見せてあげないといけないからね」
「絶対に、コハクさんに会わせてね!!」

 シンジに会えると言う話に、エリスは不満を忘れて画面にかじりついた。おでこが大写しになった画面に笑いをこらえ、「お願いしてみる」と上倉は答えた。

「その代わり、エリスもお母さんの言うことを聞いて良い子にしているんだぞ」
「ええっ、エリスはいつも良い子だよぉっ!」
「そうね、エリスはいつもわがままを言わないわよね?」

 少しと言うか、かなり皮肉が混じっていたのだが、エリスは何の疑いもなく「うん」と元気よく返事をした。その様子がおかしくて、とうとう上倉は吹き出してしまった。

「ひどぉ〜い、エリスは良い子なんだから!」

 笑われたことに怒ったエリスは、ふぐのように顔をふくらませて上倉に文句を言ったのだった。







<<学園の天使>>

159:







 3度目の正直の機会に、エリカはこれ以上ないほど力を入れていた。特にこれまでの2回は、いずれも実家の横やりが入っていた。「二度あることは三度ある」と言う言葉が現実にならないよう、エリカはしっかりと父親にも釘を刺したのだ。「三度目の正直」に絶対にしなければならないのだと力を込めて。
 だから土曜日の団らんも、後ろ髪を引かれたが帰ることにした。それに、送ってくれたナズナのおかげで、準備の時間も十分に取れそうだ。

「ではエリカ様、性交の成功をお祈りしています」
「……ナズナさん、誰にそんな親父ギャグを教わったの?」

 嫌だわと言うエリカに、事実だから仕方がないとナズナは言い返した。

「だってエリカ様は、過去2回とも邪魔が入っているじゃないですか。
 二度あることは三度あるって言うぐらいですから、今度も危ないんじゃないんですか?」

 痛いところを突いたナズナに、エリカは少し顔を引きつらせた。

「だ、大丈夫よ、今更パパが邪魔をするはずがないから」
「でも、思いもよらないところから邪魔が入ることもありますよぉ」
「コハクさんも事情を知っているから、そんなことにはならないと思うけど?」

 冗談にならないから止めて欲しい。心の中で文句を言ったが、そんなことがナズナに伝わるはずがない。

「でも、海で急に嵐に襲われてそれどころじゃなくなったりして……」

 でもと、自分で口にした言葉に、ナズナはしっかりと反応していた。脅したつもりが、実はおいしいシチュエーションだと気が付いたのだ。

「荒れ狂う海、閉ざされた船の中……
 生命の危険が、若い二人を燃え上がらせ。
 最後の時まで、愛し合っていようってっっ!!」

 天気予報を見れば、明日は風一つ無い晴天と出ている。そんな可能性は全くないのだが、ナズナは一人で盛り上がっていた。それにシンジがいれば、たかが台風ぐらいで命に危険が及ぶはずがない。船ごと港に運べば、それで終わりである。下手したら、台風ごと消し去ってくれるかも知れない。そこまでしなくても、船を周りと切り離してくれるだろう。ちなみにエデンでは、気候制御のおかげでシケは存在しないという。

「それで人のことは良いけど、ナズナさんはこれで帰るのよね?」

 送ってくれたことには感謝するが、これ以上関わって頭痛の種を増やしたくない。そんな思いの言葉だったのだが、「どうしてですか?」とナズナは驚いた顔をしてくれた。

「はい、是非ともエリカ様のお手伝いがしたいと思っています。
 コハク様もアスカ様も、手伝うべきだと仰ってくださいました」
「いやっ、これぐらいのことなら実家の使用人を使えばできるわ」

 押しつけたなと、エリカはにたにた笑う二人の顔を想像した。だがエリカも、やられっぱなしでいるわけにはいかない。打ち返すことが出来ないのなら、ババ抜きのババを押しつける相手を考えればいい。真っ先に浮かんだのは、とても真っ当に聞こえる相手だった。

「私じゃなくて、ナゴミの手伝いをしてきたら?
 ナズナさんが行くと、お店が繁盛するって聞いているわよ」

 今でもときどき手伝いに行っているのだから、パスをする相手として自然なのは言うまでもない。だから良いだろうというエリカに、ナズナからは予想もしない答えが返ってきた。

「でも、今日はユウマさんがいらしてると聞いています。
 私が行って邪魔をしては申し訳ありませんから」

 だからだめというナズナに、エリカは非常に理不尽なものを感じていた。なぜナゴミの邪魔になると考えて、自分の邪魔になるとは考えてくれないのか。そのあたり、ちゃんと話をしてみたかったのだが、「ムダムダ」と首を振るシンジの顔を思い出し、その欲求を抑え込むことにした。そしてエリカは、代わりに「とても失礼」な決めつけをした。

「大丈夫よ、ナゴミはMだから邪魔があった方が喜ぶのよ」

 可愛い後輩をMと決めつけるのはいかがなものか。さすがに問題のある提案なのだが、ナズナの答えはさらに想像の斜め上をいっていた。

「ナゴミさんがマゾと言うことは知っていますけど、
 あくまでユウマさんに“叱って”“ぶって”貰いたいだけです。
 私が邪魔をしても、少しも喜ばないと思いますよ?」

 だから邪魔をしないというナズナに、「どうしてそこまで知っているのか」と、逆にエリカは聞いてみたい気持ちになっていた。そして同時に、ユウマ達を見る目が変わるなとも考えていた。結構お似合いのカップルなのに、そう言う危ないプレイに興じているのか。だがあのナゴミが、「ぶって」と迫っている様を想像すると、どこかおかしくもなってくる。
 そこまで考えたところで、何も問題が解決していないのに気が付いた。だからエリカは、次の犠牲者を捜すことを考えたのだった。



 そして明けて日曜日、天気予報はエリカを裏切らず、抜けるような青空が広がっていた。ナズナをトキコに押しつた時点で勝利は確信していたが、これで何の憂いも無くなってくれた。「勝ったわ」と拳を握りしめたエリカは、早速おめかしをすることにした。人生の記念すべき日に、一点の曇りもあってはいけない。だから下着も、一番の、そしてシチュエーションに似合った物を身につけなければいけない。特に今日は、すべてをシンジに任せることにしている。それを考えれば、何一つとしておざなりにできるはずがないのだ。
 邪魔をしたらただじゃおかない。そう言って父親に釘を刺したら、逆にとんでもないと言い換えされてしまった。そして返す刀で、「作ってしまえば勝ちだ」とまで言われてしまった。何のことかというと、英雄様の子供のことである。それが理由で責任をとるということにならないはずなのだが、やはり父親はそうは思っていないようだ。できてしまえば、むしろ娘の立場が強くなると考えている節がある。

「と言っても、普通子供は早いと思うわよ。
 それに、そんなことになったら、コハクさん達が黙っているはずが無いじゃない……」

 先を越されたことに激高し、自分にも作れと迫るのが目に見えるようだ。当然ヒスイも黙っているはずが無く、同じようにシンジに強請ることだろう。下手をしたら、エデンとパーガトリ、国を挙げての問題になるかも知れない。こんなことで3界のメンツを競われては敵わない。

「とにかく、世間のしがらみから解放されて……
 12年も待ったんだから……」

 ずっと思い続けてきた。一度も心が揺れたこともなかった。その思いがようやく叶うのだ。この純粋な思いを、よけいな物で汚して欲しくない。3界1の英雄に絡むから、きれい事だけで終わらないのは分かっている。だけど今日だけは、そんなことは忘れさせて欲しいとエリカは願っていた。

「シンジクン、エリカはずっとシンジクンだけを思っていたんだよ」

 だから芙蓉学園の名簿にシンジを見つけた時は、狂喜乱舞して喜んだのだ。シンジの入学が決まっているのなら、自分も芙蓉学園に入学すればいい。そうすれば、ずっとシンジと一緒にいられると思っていた。落ちるなんてことは、想像すらしていなかった。だが結果は、受験に見事失敗した。だからといって、諦められる物ではなかったのだ。

「だから、だから……」

 絶対に誰にも邪魔をさせない。お祈りをするように、両手は胸のあたりで握られていた。それはまるで、神に祈りを捧げる乙女のようだった。

「邪魔なんかしてくれたら……つぶしてやる」

 だが顔に浮かんだ凶悪な笑みは、幸せな時を待つ乙女の物では絶対になかったのだった。



 いつもなら渋滞する道なのに、まるで貸し切りのように他の車に出会わなかった。駐車場の入り口でも並ばないどころか、他の車が見あたらない。まるで休業日のように、一般駐車場もがらんとしていた。家を出てから不思議だとは思ったエリカだったが、さい先が良いのだと気にしないことにした。いくら自分の父親でも、ここまでの政治力はないはずだ。それに運転手の前島も、この事態にはついて行けてない。父親の手配だったら、彼が驚くはずがないだろう。

 驚くほど早く駐車場にたどり着いたところで、前島は「前回のお詫びをしたい」と申し出た。船に置き去りにしただけでなく、あまつさえ銃まで向けてしまったのだ。その後のごたごたで忘れられていたが、お詫びをしなくてはいけないことには違いない。
 だがエリカは、「お詫びがお詫びにならないことがあるのよ」と脅しをかけた。せっかく気分が高まっているのだから、今更よけいなことで時間を使いたくない。凶悪とも言える表情をしたエリカに、前島もそれ以上何も言えなくなってしまった。冗談でも何でもなく、逆らったら命がないと感じてしまったのだ。だから前島は、極めて事務的に“その後”の予定を聞いてきた。

「それで、帰りのお迎えはどういたしましょう?」
「シンジクンがいて、そんな物が必要だと思う?」

 そう言って目を細めるエリカに、前島は真剣に身の危険を感じていた。エリカはエリカで、これ以上何か言ったら魚の餌にしてやろうと考えていた。
 その考えが伝わったわけではないが、前島は青い顔をして車に戻っていった。身の安全と家族のことを考えたら、おとなしく従うほかに残された道はない。何も見なかった、よけいなことは言ってはいけない。前島は、身の安全をすべてに優先したのだった。もっとも当のエリカの頭からは、すっかり前島のことは消えていた。

「食べるものの準備もしてあるし、燃料もちゃんと確認してある……
 下着はちゃんと替えてきたし、おかしな薬も捨ててきた……」

 ちゃんと正しく、そして直接結ばれることが重要なのだ。その結果は、受け入れてしまえば済むことだ。とにかく今の純粋な気持ちのまま、ちゃんと結ばれるのが大切だった。周りを脅しまくっていて、純粋な行為を語ることへの疑問は忘れることにした。

「シンジクン、もう来ているかしら?」

 『待たせる真似はしない』そう言われていても、やはり不安になるのは仕方がないことだった。しかも、今日に限って早く着きすぎていた。
 何かと忙しく、周りに頼られているシンジだから、小さなことでも足止めを食らってしまうこともある。一生の思い出と考える自分とは違い、シンジにとっては7人のうちの一人でしかない事情もある。
 だがエリカの不安も、クルーザーの前で霧散した。なぜか一隻離れて係留された船の上に、たたずむ人影を見つけたのだ。それが誰なのか、絶対に見間違えるはずがなかった。

「シンジクン!!」

 この瞬間、エリカの頭は真っ白になっていた。惚れた弱みというか、ついに願いが叶う喜びというか、すべての計画、ごたごた、そんな物はどうでも良くなっていた。それでもシンジが、自分を見ていないのに気が付いた。誰かと話しているようなのだが、どう見ても辺りに誰もいない。それを考えれば、エデンかパーガトリの護衛とでも話をしているのだろうか。

「護衛、そんな物が僕に必要だと思っているの?
 覗いたりしたら……そんな度胸があるのなら試してみたらいいよ。
 少しでも邪魔をしたら、そのときはどうなっているか分かっているね?」

 それからと、シンジは何カ所か指さした。

「見つからないなんて、人をなめた真似をしないこと。
 ここまで忠告した以上、裏切ったらどうなるか覚悟しておいてね」

 にやりと笑った顔は、誰かの遺伝が色濃く表れていた。そしてその顔で、大勢の監視者……護衛に脅しをかけている。自分のためだと思えば、これ以上頼もしいことはない。それを考えれば、脅しの中身がシャレで済まないことでも気にならないというものだ。もっとも、自分が警告を受ける立場にはなりたいとは思わないが。
 エリカ目線で「頼もしい」シンジは、一通りの脅しと、それに伴う人員の撤退を確認してから、ようやくデッキにいるエリカに気が付いた。

「ああっエリカ、早かったんだね……」

 周りを脅していたのが恥ずかしかったのか、シンジは頭を掻きながらエリカの前に移動していた。そして頬を染めて見上げるエリカを、しっかりとその胸に抱きしめた。

「道が、とっても空いていたから……
 それに、駐車場も全然並んでいなかったし……」

 別に言い訳など必要ないのだが、それでもエリカは理由を口にしていた。とても運が良かったのだと。
 実はエリカの知らないことだが、道が空いていたことには当然カラクリがある。ただ邪魔をしないようにとシンジが指示を出しただけだが、それをコハクが忠実に果たしてくれたのだ。なぜ何もないのにアラエルが上空で待機しているのか、それが答えだと言えば非常識なのが分かるだろう。そして港の外には、ガギエルが待機しているという。冗談ではなく、海上封鎖が実施されていたのだ。
 当然シンジは、そのカラクリを知っている。だがそれを口にせず、「祝福されているんだよ」などと言う、三文小説にも出てこない気障なせりふを吐き、優しくエリカの背中を押した。客観的に見れば、鏡を見ろと言いたくなる行動である。

「せっかくの時間、無駄にするのはもったいないよ。
 エリカが、僕のためにいろいろとしてくれるんだろう?」
「えっ、ええ、その、期待していて……」

 いろいろとの中身を想像し、エリカの言葉は消え入るように小さくなっていた。多分今のエリカを見れば、一刻館の生徒達は別人だと思うだろう。それほど普段の姿と、全く違う姿をエリカは見せていた。

「期待しているよ……」

 優しく声を掛けたシンジだったが、なぜかその顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。奥さんと初めてを迎えるのに、なぜこんな顔をしているのだろうか。

(放置プレー、羞恥プレー……)

 どうやら、トラウマ克服を図ろうとしているらしい。もちろんエリカが、シンジの企みを知るはずがない。のどから心臓が飛び出しそうになりながら、できるだけ可愛らしく見えるようにがんばっていたのだった。



***



 政策集団を作って検討を進めているのだから、得られた結果は正しく使われなければならない。それが集団を作った者の義務であるし、それを実行してこそ集団の意気も上がると言うことになる。
 議論の方向がまとまったところで、花菱ジントはマディラを伴ってコハクを尋ねることにした。なぜサードニクスでないかというと、ジントなりに相手を見た結果でもある。多少おとなしくなっても、いたずら好きな議長様である。必要のない時に顔を出して、よけいなちょっかいを掛けられる訳にはいかない。それに構って欲しい時には、嫌でも関わってくるのが議長様なのだ。

「すっかり貫禄が付いた物だな」

 マディラを伴って現れたジントに、たいした物だとコハクはその器量を褒めた。体格の良さもあるが、堂々と胸を張って歩く姿は、シンジより確実に見栄えが良いだろう。もっとも褒められたジントは、あまり喜んではいないようだった。「虚仮威し」と自嘲し、毎日が一杯一杯だと弱音を吐いた。

「まあ、余裕でこなされては他の役職者の面目も立つまい。
 だがな花菱よ、ここまで積み上げてきた実績は誇って良い物なのだぞ。
 なあマディラ殿、ぬしもそう思わぬか?」
「私では、お手伝いするのが精一杯です。
 父も、立派な仕事だと賞賛しておりました」
「花菱よ、そう言うことなのだ。
 シンジと同じで、謙遜さは必ずしも美徳でないことを知れ」

 軽口を終えたところで、コハクは尋ねてきた用向きを聞いた。普段は遠慮して顔を出さないジントが、わざわざマディラを伴って面会を求めてきたのだ。何か言いたいことがあって来たのに違いない。

「実は、芙蓉学園の運営のことなんですが……」

 そう言ってジントが切り出したのは、エデンから入学している生徒の構成だった。人口比でいえばおかしくはないのだが、下位層出身者が大半を占めていることを問題とした。

「勉強会での議論では、もっと上位階層、特に役職候補者で構成すべきと言う意見が大半を占めた」
「集まった者達を考えれば、別に不思議な意見ではないな」

 それでと、その先をコハクは求めた。そのことだけが理由なら、特に面会する必要もない。当然ジントも、彼らの代弁だけで終わらせるつもりもなかった。

「芙蓉学園を志望する者の多さを考えれば、確かに不思議な話じゃない。
 いくらあいつらと一緒にいるからと言って、それだけで俺もこんな話をする訳じゃない」

 そう言ってジントが持ち出したのは、エデンの下位階層との関わりだった。これまでの3界融和に対して、彼らの出番は生徒を派遣したことだけなのだ。将来の布石と考えればそれらしき説明も付くが、そのための動きがまったく起きていないのだ。そうなると、下位階層の参加する意味が問われてしまう。

「リリンの生徒は、どうやって3界の将来に関わろうかと考えている。
 その影響を受けたのか、パーガトリの生徒にもその気持ちは芽生えている。
 まあフローライト国王の方針ってのも、奴らがやる気を出す理由にもなっているのだがな」
「我らの下位層、その者達にその意識が見られないというのか?」
「皆無とまで言うつもりはないが、非常に希薄なのは確かだろう。
 そして、その受け皿が出来ているとの話も聞いていない。
 それが、勉強会に集まっている奴らの目にとまったと言うことだ」

 ジントの説明に、なるほどとコハクは意見の背景を理解した。エデンにいると、そして上位階層にいると見逃しがちな問題、それをジントは口にしていた。今後の芙蓉学園の成果を考えた時、確かに提起された問題は無視し得ないだろう。だがその解決策は、いずれをとっても新たな問題を引き起こす可能性があるものだった。

「そう言う意味では、3年目から役職者を受け入れることにしたのは正しい決断なのだろう。
 だがエデンから役職者達を受け入れるに当たって、解決しなければいけない問題が有ると思っている」

 そこでジントは言葉を切ったが、コハクは口を挟もうとはしなかった。それを続けろという意味にとり、ジントは自分の分析した問題を説明した。

「取り越し苦労と言われればそれまでなんだが、あいつらが見ている物に問題があると思っている。
 あいつらは、芙蓉学園の価値を碇やコハクさん、ヒスイさんに求めているんだ。
 だが裏を返せば、それ以外の価値を認めていないんだ」
「ぬしやカエデの価値を認めておるのではないのか?」

 ジントが提起した本質を理解していたが、敢えてコハクは問題の方向をずらしてみた。だがジントは、正しく問題の所在へと話を引き戻した。

「特定の個人に価値を求めていることが問題だと思っているんだ。
 学園祭に来た役職者達は、3界が渾然となった芙蓉学園に意味を感じてくれた。
 2Aの展示の刺激が大きすぎたが、それまでの話はそっちがメインだったんだ」
「だが、勉強会にいる者達からはその意見が聞こえてこないと?」
「水を向けてみたが、全く食いついてこなかった。
 どうして芙蓉学園なのだと聞いてみたら、碇とコハクさんを理由に挙げてくれたよ」

 3界の将来の姿に対する意識が乏しい。それをジントは、自分の考える問題とした点を挙げた。

「それが問題だと言うことは認めよう。
 だが、直ちにそれが悪いかと言われれば賛成できないな」

 なぜだという顔をしたジントに、コハクは芙蓉学園設立の意味を説いた。

「そもそも芙蓉学園は、われらとリリンの相互理解を目的として設立された。
 共同して学園生活を送ることで、双方の理解を深める……図ることが目的だ。
 つまり理解できていないことを前提にしているのだ。
 と言うより、とにかく異なる環境を作り、そこで起こる反応を期待したのだ。
 だいたいわれを考えてみればいいだろう。
 入学前のわれが、リリンを取り立てるなどと誰が想像した?
 そもそもわれは、強硬派の危険人物だったのだぞ。
 わずか2年にも届かぬ前のことだ、ぬしも忘れてはおらぬと思うがな?」

 そう聞かれればそうとしか答えようがない。自分を例に出したコハクに、何を言いたいのかジントは理解した。

「とにかく放り込んでしまえば、後は何とかなるってことか。
 確かに、副議長候補様がリリンの男に惚れるとは想像が付かなかったな」
「花菱よ、重要なことを間違えるでない。
 われが惚れたのは、シンジなのだ。
 リリンかどうかなどと言う卑小な問題ではないのだ!」

 どこが違うのかと聞きたくなる話なのだが、コハクにはこだわりがあるようだった。まあ良いと話を戻したジントは、別の問題を持ち出した。

「他には第4、第5階層への対応も問題となる。
 彼らの受け入れを継続する限り、将来体制への影響が出てくると思うんだ」
「便宜上エデンと言うが、われらの社会体制への影響を言っておるのだな?
 確かに、第4、第5階層が“対等”の立場に立ってくれば、小さくない摩擦が起こるであろうな」

 コハクの口調に深刻さが見られないことから、ジントはこの程度は予想の範囲なのだと理解できた。

「リリンとパーガトリが……違うな、リリンの立場が上がることに比べれば、
 逆に小さな問題なのかも知れないか……」

 最下層の更に下がリリンの位置づけだったはずだ。そのリリンが、パーガトリ支援ではエデンと張り合っている。そして最高評議会にも、自分が特別議員として参加を果たした。それを考えれば、同族間の階層問題は大したことではないかとジントは考えた。
 だがコハクは、それこそ大きな勘違いだと指摘した。

「もともとリリンは、我らの社会システムに組み込まれておらなんだ。
 ただ“印象”として、一番下だと考えられていただけのことだ。
 シンジの存在、そしてぬしやカエデの働き、それによって初めて評価が確立しただけなのだ。
 だから、もともと評価の確立している第4、第5層と同じに語ることは出来ぬ」
「だったら、一番深刻な問題になるはずじゃ……」

 何もないように言うコハクに、ジントの理解は追いつかなかった。問題の深刻さを考えれば、自分以上に要職であるコハクこそ頭を悩ますべき問題なのである。だがコハクの返した答えは、極めて簡単なものだった。

「そのための芙蓉学園であることを知れ」

 芙蓉学園の存在が問題になるのに、問題解決の鍵も芙蓉学園にあるというのだ。降参だと白旗を揚げたジントに、「これは宿題だ」とコハクは答えを出さなかった。そして、含みの多すぎる助言をジントに与えた。

「ぬしには、マディラ殿以外にも相談できる相手が居るのではないのか?」

 シンジから話を聞いていることもあり、コハクは解決をカエデに任せたのだった。







続く

inserted by FC2 system