絵のモデルをすることに、碇家の妻達はおおむね好意的な反応をしていた。まあシンジが忙しいという問題はあっても、仲間の手助けをすることに目くじらを立てることもない。それに同性から絵のモデルに頼まれるのは、普通に考えれば光栄と考えて良いことだろう。しかも置かれた立場を考えれば、こういったことは想定の範囲でもあった。

「んで、ヌード?」

 昼食後のデザートをつつきながら、アスカはそう言って意地悪く口元を歪めた。まあお約束のつっこみという奴である。予想されて当然のからかいに、シンジは一緒にモデルになる相手を募集すると切り返した。どう? と妻達に確認すると、アスカ以外が即座に手を挙げた。ナズナやナデシコも挙げているのだから、都合8名ということになる。やや数が多いのは、学園に関係の無いエリカやユウガオも混じっていたからである。その反応に、やられたとアスカは頭を掻いた。

「つまり、ヌードじゃないってことね」

 これだけ勢揃いしたら、何が起こるのかが逆に恐ろしい。それにそんな絵を描いたら、上倉の命が危なくなるかも知れない。冗談で言ったアスカだったが、逆に本当になったら怖いことを理解した。それにそんなことになれば、自分も参加しないわけにはいかない。
 だがアスカの葛藤も、コハクにとってはどうでも良いことだった。シンジと一緒、そして絵と言うキーワードが、コハクはいたく気に入ったようだ。

「別に脱衣だろうが着衣だろうが、われはどちらでも構わぬぞ。
 シンジとともに絵の題材となるのだ。
 後世に残す第一号となるのだから、むしろ喜んでモデルとやらになろう!」

 いいことだと、コハクは満足そうに頷いた。

「写真も良いが、絵というのはまた別の趣があるのだ。
 人の手を通すことにより、そのときの有りようがそこに表現される。
 上倉がどのようなシンジを描くのか、今から楽しみでならないのだ!」
「上倉さんは、どのような絵を描かれるのでしょうね!」

 コハクの言葉に、すぐにヒスイも追随した。絵の才こそないが、その題材になる意味はヒスイも理解していた。偶像を残さないパーガトリだからこそ、逆にその価値も高くなる。その初めての名誉を、学園の生徒に与えることに問題が有るはずがない。生徒会長にして美術部部長なら、その相手として不足はないだろう。
 大方の納得を得たモデルの件だったが、エリカが別の問題を指摘した。それは当然予想されて然るべきことでもあった。

「でもシンジクン、上倉君って結構大胆ね。
 シンジクンを題材にする以上、生半可な出来じゃ周りが納得しないわよ。
 たぶん描いていく内に、もの凄いプレッシャーが掛かるんじゃないかしら?」

 公式にモデルになる第一号なのだから、世間での注目も半端ではないだろう。しかも絵の出来によっては、今後の標準となる意味も持っている。シンジをモデルに選ぶことは、それだけ重い意味を持ってしまう。
 大変だと言うエリカに、自分は心配していないとシンジは笑った。

「それぐらいのことは、上倉君も承知しているよ。
 聞いてみたら、ずいぶんと迷ったらしいんだ。
 何度も諦めようとして、それでも諦めきれなくて……」

 それだけの思いが、絵に込められることになる。

「そうなると、あんたの責任も重大ね……」

 その言葉の意味を理解し、シンジはうんと頷いた。

「モデルとして、上倉君の込める思いに恥じない生き方をするつもりだよ」

 そう言って、シンジはにこりと微笑んだ。その笑みがまぶしくて、アスカは恥ずかしくなってしまった。しゃくに障ることこの上ないのだが、言い返そうにもその言葉が浮かんでくれなかった。

 アスカが言葉に詰まったところで、そう言えばとコハクが手を打った。モデルになるのは良いが、聞いていないことが残っていたのだ。

「シンジよ、モデルとやらはいつから始めるのだ?」
「ええっと、あくまで学校の課題と言うことで、平日の放課後ってことだけど?」

 シンジの答えに、うむうむとコハクは頷いた。

「ならば、土日はモデルにならないというのだな?」
「エデンやパーガトリに行くこともあるとは言ってあるけどね。
 基本的に、種々の行事を優先するという約束にしたよ」

 そうすることで、上倉の負担を減らすとにもなる。スケジュール的に桜花展に間に合わないのだが、仕方がないと指導教官の美咲とも話が付いていた。時間を気にしないで、二人の納得がいく作品を作り上げればいいのだと。

「つまり、明日はヒマだと言うことだな?」

 そう解釈したコハクの真意は、だったら遊べと言うところにある。最近忙しかったというのがその背景なのだが、残念ながらすでに先約がいた。

「ええっと、明日は先に約束しちゃった……」

 おずおずと手を挙げたエリカは、それでも主張することだけは主張した。

「明日は天気も良さそうだから、その、二人でクルージングしようって」

 これが他の者だったら、もう少しコハクも食い下がっただろう。だがエリカの事情を考えると、さすがに譲らないと可哀相だという気持ちになってしまう。何しろエリカは、寵愛を受けていない二人の内の一人なのだ。明日のデートの意味が分かるだけに、さすがに邪魔をするわけにも行かなかった。
 もっとも邪魔をしないと言っても、浮かんだ疑問を口にするのは躊躇わなかった。

「何故、操船する者を連れて行かぬのだ?
 その方が、シンジといられる時間が多くなるではないか……
 アスカ、久しぶりだからと言って、それは止めろと言っているだろう」

 頬をつんとつつかれたコハクは、何をするとアスカに噛みついた。それを迎え撃ったアスカは、少し口元を歪めてよけいなフォローをしてくれた。

「そう言う野暮なことを言うんじゃないの!
 船なんて、単なる舞台装置だって分からないの?」
「単なる舞台装置……」

 おおと納得し、コハクはわざとらしくぽんと手を打った。もちろんすべてを承知の上の反応である。もっとも自分の身に置き換えてみれば、そんなことは絶対に気にするはずがないのだ。

「そう言えば、エリカは“まだ”だったのだな。
 なるほど、余計な口出しは無粋な真似に違いない。
 済まなかったなエリカよ、これ以上何も言わぬ故、存分に思いを遂げてくるが良い!」
「……そう言うあからさまな言い方って」

 その気がないと言うつもりはないし、もとよりその予定なのだが、はっきりと言い切られるのは恥ずかしことに違いない。勘弁してとエリカが思うのも仕方のないことだった。

「だからアスカよ、それは止めろと言っておるだろう!」
「だったら、あんたも空気を読むことね。
 ナズナだってよけいなことを言わないのに、あんたが言ってどうするの!」

 ねえと話を振ろうとしたアスカは、それがどれだけ意味のないことかを思い知らされた。ナズナが静かだったのは別に空気を読めるようになったからではない。単にナズナはナズナで、自分の世界に飛び込んでいただけだったのだ。

「だったら、私は機動兵器の中で……
 しかもフィードバックをしっかりと効かせて」
「今が平和なんだって……本当によく分かるわ」

 褒め言葉じゃないと付け加えたが、お花畑の本人の耳には届いていないようだった。







<<学園の天使>>

158:







 盛り上がりという意味では、今年の生徒会選挙は失格と言っていいのだろう。KKKとSSSの全面対決となった昨年とは違い、立候補の時点で会長、副会長が鉄板となってしまったのだ。これで盛り上がれと言う方がどうにかしているだろう。
 その盛り上がりに欠ける生徒会選挙に、どういう訳か2年連続で佐藤セイが選挙管理委員会委員長に就任していた。

「なんで2年連続なんですか……」

 同じく副委員長に引きずり込まれた海原ハルカは、シクシクと己の立場を嘆いていた。学園に入ってからの付き合いなのだが、どうも自分は目を付けられているらしい。どうして自分がお目付役なのか、そのあたりの巡り合わせを誰かに文句を言いたかった。と言って、誰に言えばいいのか分からないのがさらなる問題なのだが。

「今年の選挙って、鉄板過ぎるじゃないですか。
 会長は桂さんの信任投票だし、副会長だって似たような物じゃありませんか。
 それに現生徒会長は碇さんじゃないから、余り面倒を掛けられないし……
 委員長の野望には、何の貢献もないと思いますよ」

 お祭り好きのセイが関わる理由がないと、ハルカはいくつかの事実を持ち出した。その一つ一つを取り上げれば、何を目的で選挙管理委員会に入るのかを疑問に感じたくなる物だが、セイと言う個人に当てはめれば、極めて真っ当な指摘だったのである。
 だが当然すぎるハルカの疑問に、そんなことはないとセイは笑い飛ばした。

「うなばらハルカ君、そこには深慮遠謀という奴が存在しているのだよ。
 目先の楽しみだけではなく、その後に控えている物を考えてみる必要がある。
 そのために私は、選挙管理委員会委員長としてこの選挙をコントロールする必要があるのだよ!」
「かいばらです!
 で、何ですか、その深慮遠謀という奴は!!」

 さっさと吐けと迫るハルカに、そんな物は口に出来ないとセイは言い返した。そんな物をばらしたら、せっかくの計画が水の泡になると言うのだ。
 もっともらしい答えに、期待はずれだとハルカは大きなため息を返した。

「いつから、そんなに我慢強くなったんですか?
 委員長は、欲望に忠実に動く人だと思っていましたよ。
 それをこんな回りくどい……」
「うなばらハルカ君、君は私のことをなんだと思っているのかね?」

 失礼なと憤慨するセイに、見たまんまのことを言っただけだとハルカは言い返した。

「後先考えずに碇さんに迫ったって聞いていますよ。
 それが急に愛人狙いの会に入って、しかも下っ端で収まっているなんて……」

 どういう風の吹き回しなのかと。ハルカは疑惑の籠もった眼差しをセイへと向けた。

「下っ端というのは失礼な話だな。
 あの会は、会長、副会長以外に意味のある役職など無いのだよ。
 碇さんへの繋がりという意味では、一応私も一目置かれているのだよ」
「で、何を狙っているのですか?」

 立場のことはどうでも良い。狙いを言ってみろとハルカは迫った。面倒な選挙管理委員会委員長を引き受けるのだから、それなりの目的という物があるのだろうと。

「うなばらハルカ君、立場というのはどうでも良いものではないのだよ。
 今後碇さんに関わっていこうと考えたとき、何らかの後ろ盾があった方が便利なのだよ。
 そのためにIIIというのは、非常に便利な組織だと私は思っている。
 ストーカー桂に秘書石田が頭に立っているのだ、奥さん’s以外ではこれ以上のメンツはあり得ない!
 そのためには、IIIの中でのプレゼンスを高めておく必要があるのだよ」
「で、委員長?」

 意味不明だと言うハルカに、簡単な理由だとセイは笑い飛ばした。

「一つは、桂を確実に会長にする必要がある。
 それ以上に重要なのは、藤田を副会長にすることなのだよ。
 IIIとして選挙協力を申し出た以上、約束は確実に果たす必要があるのだよ。
 そうしないと、善行や芝村から報復を受けることになってしまう。
 それに石田副会長に逃げられることにも繋がってしまうのだよ。
 この3人を敵に回しては、IIIの存続自体怪しくなっちゃうのよね」

 それぐらい意義の大きな仕事なのだと、セイは大仰に宣ってくれた。だが問題の有りすぎるその主張は、当然ハルカから指摘を受けることとなった。

「委員長、選挙管理委員は“中立”であることはご存じですよね?
 なんですか、藤田君を副会長にするって言うのは。
 選挙結果を、管理委員会が決めてどうするんですか!!
 明確な選挙違反、明確なルール違反ですよ!!」
「禁止行為をしなければ、ルール違反をしたことにはならないよ」

 だがセイは、ハルカの糾弾を涼しい顔をして受け流した。そして良いかと、顔を寄せて「空気」が大切なのだと種を明かした。

「必要なのは、IIIが選挙に本腰を入れているのを見せることなのだよ。
 選挙をコントロールするのを見せれば、それを示す一つになる。
 これは会員に対して約束を思い出させる手段でもあるわ。
 IIIに所属するのなら、自分たちが交わした約束を忘れるなとね」
「……おかしな真似はしませんよね?」
「意味のないペナルティーなど与えたりはしないよ。
 それにIIIから対立候補を出さない限り、A組が選挙に負けるはずがない。
 と言うか、A組が本腰を入れたらIIIでも勝つのは難しい。
 だから私は、イレギュラーが起きないことだけを注意しているのよ」

 それで十分と嘯くセイに、そう言うことかとハルカはようやく事情を理解した。色々と言ってくれたが、何かの役に付きたかっただけと言うことなのだ。学園祭に比べれば位置づけは低いが、翌年の道を決める重要な役割が選挙の管理である。混乱が起きにくいことを考えれば、非常においしい仕事だったのだ。

「とまあ、うなばらハルカ君の質問に答えたわけだが、
 ここで私から、逆に質問しても良いのかな?」
「……かいばらです。
 答えられないことには答えませんよ」

 何しろセイが相手だと、何を聞いてくるのか分からないのだ。思わず身構えたハルカに、怖がるほどのことじゃないとセイは笑った。

「いや、なに、どうしてうなばらハルカ君はIIIに入らないのかなと思ったのだよ。
 なにかい、君は碇シンジ君を尊敬していないというのかね?」
「IIIって、そう言う集まりでしたっけ?」

 会の目的を美化している。目を細めて睨んだハルカに、間違っていないとセイは言い返した。

「尊敬しているからこそ、少しでもお近づきになりたいと思う集まりだよ。
 別に、目的を歪めているつもりはないのだがね」
「愛人になるのが、尊敬の印ですか?
 どう考えても、目的が不純じゃないですか!」

 いかがな物かと追求するハルカに、分かっていないとセイは言い返した。

「別に会の名前は、直接の目的を示している訳じゃないさ。
 うなばらハルカ君、君はもう少し遊び心を持った方が良いよ。
 IIIのメンバーの多くは、実際には彼氏持ちなんだよ。
 愛人というのは、あくまでのりを優先した物なんだよ」

 ただと、反論しようとしたハルカを制し、分かっているとセイは言葉を続けた。

「中には、本気でそう思っているメンバーも居るさ。
 だけど、そんなことはたいしたことじゃないと思っている。
 芙蓉学園に通う生徒の目的、それを果たすための手段だと考えればいいんだ」
「なんです、その目的というのは?」
「あれっ、うなばらハルカ君は、目的を持ってここにいる訳じゃないのかね?」

 そう混ぜ返されたハルカは、目的なら当然あると言い返した。

「私は、3界のこれからに関わっていきたいと思っています!」
「そのためにはどうしたらいいか、それをちゃんと考えているかい?」
「それは……」

 そう追求されると、考えているとは答えにくい。自分が起こした具体的な行動と言えば、選挙管理委員会の副委員長ぐらいの物なのだ。それでも立派と言えるのだが、それが将来に繋がるとは考えにくい。だからハルカは、考えているとは返すことが出来なかった。そして何をしたらいいのか、それを考えたとき、具体的な何というのが浮かんでくれない。

「うなばらハルカ君も分かってくれたようだね。
 芙蓉学園に居ることは、自動的に将来3界に関わると言うことではないのだよ。
 正確に言うのなら、この世界に関わる者すべてが3界の行方に関わってくるんだよ。
 積極的に関わるというのなら、確かに芙蓉学園の生徒は有利な立場にある。
 しかしだね、じゃあ、具体的にどう関わるかとなると実態が見えないのだよ。
 確固たる地位を築いた石田さんはいいよ、でも普通の私たちはどうしたらいい?」
「どうしたらいいって言われても……」

 漠然としか考えていなかったこともあり、ハルカは問いかけへの答えを持っていなかった。だからIIIなのだとセイは強調した。

「仲間を作ればそれで良いってことじゃないのは分かっているわよ。
 でもね、桂さんが生徒会長になれば、また違った展開も見えてくるのだよ。
 桂さん、石田さん、美嶋さん……実績を積んだ人が仲間にいるだけで、
 どうしたらいいのかを考える手がかりになるだろう?
 だからIIIは来る者を拒まないし、会員を女性に限っていないのだよ」

 ちゃんと意味があるだろうというセイに、確かにその通りだとハルカも納得した。漠然と感じている将来への不安、それを解消するために群れるというのも悪くない選択に違いない。

「だったら、私も是非IIIに入りたいんですけど……
 具体的にどうしたらいいのですか?」
「特に何もする必要はないさ。
 言ってみれば、自分がIIIの会員と言うことを自覚するぐらいだろうね。
 まあ特典を受けるためには、世話役の一人、長門に登録して貰う必要はあるがね」
「特典って?」
「情報共有のためにWebが開かれて居るんだよ。
 そこに参加するための、IDとパスワードが発行されるんだ。
 桂の持っている情報が公開されるから、結構なお宝が転がっているぞ」

 ししししといやらしく笑うセイに、お宝の方向が見えた気がした。だがそれも良いかと考え直し、ハルカは委員長様にお願いをすることにした。当然III会員への推薦である。

「別に構わないが、それならそれでちゃんと手続きを踏んで欲しいなぁ」
「手続き?」
「人に者を頼むんだよ、それならばすることがあるって言う物じゃないのかな?」

 ほれと手で催促されたハルカは、そう言うことかとセイの顔を見た。当然そこには、意地悪な笑みが浮かんでいる。本当に困った人だと思いながらも、一応正論かと考え、「お願いします」と素直に頭を下げた。

「宜しい、うなばらハルカ君は素直だねぇ」
「かいばらです!!」
「まっ、そのことは置いておいて、素直な君にご褒美をあげよう!」

 そう言って手渡された紙切れを見たハルカは、そう言うことかと手がぶるぶると震えていた。そこにはIII会員のIDとパスワードが書き込まれていた。もちろん会員名は、「うなばらはるか」となっていた。

「どうだ、気の利く委員長様だろう?」

 にやりと笑われたハルカは、どうしたら仕返しが出来るのか。それを真剣に悩んだのだった。



***



 エリカが指摘したとおり、シンジをモデルにするのは大きな意味を持っていた。シンジしか居ないと強い願いを持っていた上倉だったが、それが叶ったところで現実に引き戻されてしまった。考えるまでもなく、これまでシンジがモデルになったことはない。それどころか公式の写真にしても、生徒会長として募集要項に載った程度でしかない。つまり今回の件は、非常に大きな意味を持つことになる。つまり願いが叶ったからと言って、喜んでばかりは居られないと言うことだ。

「碇さんが、引き受けてくれてしまった……」

 休みの日に部屋で一人、上倉はベッドに座って考え込んだ。今更無かったことにできるはずもなく、開き直って絵を描くしか他にない。だが冷静になればなるほど、事実が上倉には重圧としてのしかかってきた。本当に自分のような者が、シンジをモデルにして良いのか。信頼されて絵を描いたのに、結果的に恥を掻かせることになりはしないか。カーテンを引いた部屋の中、上倉の思考は負のループを巡っていた。
 しかも悪いことに、どういう絵を描こうという意識がきれいに抜け落ちてしまったのだ。開き直ってキャンバスに向かっても、手が一向に動こうとしてくれない。真っ白な頭に、何も景色が浮かんでこないのだ。

「……最悪だ」

 あれだけモデルにしたいと願っていたのに、いざそれが実現したら、一本の線も描けなくなってしまった。いくら何でも、これでは恥ずかしすぎる。だめだと上倉はベッドに倒れ込んだ。せっかくの土曜日というのに、朝からこの繰り返しだった。

「俺は、碇さんを描きたいと思ったはずなんだ……」

 そのときの熱意は、一体どこに消えてしまったのだろう。実際に絵を描いたわけでもないのに、すでに充足感を得てしまっていた。そのせいもあって、結局何も浮かんでこない。

「最悪だ……」

 今日一日で、どれだけ同じせりふを吐いただろう。最悪を繰り返した上倉は、仕方がないとベッドから起きあがった。このまま部屋にいても、結局何も浮かぶはずがない。どつぼにはまってしまったのなら、気分転換をした方が良いだろう。

「仕方がない、食堂にでも行くか……」

 天使の美少女達を見ていれば、少しは気分が明るくなるかも知れない。そんなことが理由でないのは分かっていても、つい上倉は逃げ道を探してしまった。

 食堂に来てみたが、予想したとおり上倉の悩みには何の解決にもなってくれなかった。デザートを囲んで戯れている天使達は確かにいるし、それを見ているだけで幸せな気持ちになれるのも確かだ。だがその気持ちも、絵のことを考えたとたんに消え失せてしまう。だめだと頭を振っていると、周りの少女達からは不思議な物を見る目で見られてしまう。
 これじゃいけないと場所を変えようとした時、思いも掛けない相手から声を掛けられた。と言っても、普段避けられているというわけではないのだが、あまり接点がないというのが正直なところだった。

「おや、これは上倉君も美少女鑑賞ですか?」

 その声に振り返れば、どうもこの場にそぐわない顔二つ、善行と芝村の顔がそこにあった。特に話をしたこともない相手だけに、どういう風の吹き回しだと上倉は考えていた。

「そう言う人聞きの悪いことは言わないでくれ。
 ちょっと行き詰まったから、気分転換に来ていたんだ。
 ところで俺に声を掛けるなんて、どういう風の吹き回しなんだ?」
「別に深い意味は有りませんよ。
 同好の士を見つけたから、声を掛けたまでのことです。
 それで、隣を邪魔して宜しいですか?」

 隣を見れば、図ったように椅子が二つ空いていた。共有の場所なのだから、断る理由も存在していない。

「ちょうど場所を変えようと思ったところだ。
 遠慮無く使えばいいだろう」

 そう言って立ち上がろうとした上倉を、まだ良いでしょうと善行が呼び止めた。

「せっかくですから、一緒に天使を愛でるというのはいかがでしょう?」
「だから、俺は天使を愛でに来ていたわけじゃないだが……」

 だからいいと言い返した上倉に、それは宜しくないと善行は言い返した。

「どこかのアナウンサーに言わせれば、この世の桃源郷らしいですよ。
 それを愛でないのは、男としてどこか間違っているとは思いませんか?
 生徒会の任期も終わりなんですから、もう少し肩から力を抜いたらどうでしょう」
「別に会長だから、天使を愛でないって訳じゃないんだがなぁ……」

 とはいえ、誘いをむげに断るわけにも行かない。それに断ったとしても、他にすることがある訳じゃない。今のままでは、どこに場所を変えても結果は変わらないだろう。だから上倉は、上げかけた腰を再び椅子に下ろした。

「それで、天使を愛でるって言うのはどうすれば良いんだ?」

 誘った以上、それを伝える義務がある。そんな質問だったのだが、芝村は意味のない問いだと切り捨てた。ふんとめがねを指でなおした芝村は、美しい物を愛でるのに、どうして構える必要があるのだと言い返した。
 にやり、そんな擬音が似合う笑みを芝村が浮かべた時、食堂に来たばかりの天使が微笑んでいった。軽く手を振る彼女に、芝村も“微笑んで”また手を振り替えした。見た目と仕草のギャップに目眩がした上倉だったが、とりあえずそれを口にしない理性は働いていた。だが驚くことに、後から入ってきた天使達は、揃って善行や芝村に挨拶をしていった。中には、一緒にお茶をしないかと誘ってくる者までいた。

「別に、肩肘を張って何かをしなければいけないことはない。
 ただこの場の空気にとけ込んで、楽しい時間を過ごせばいいのだ」
「はあ、それだけで良いのか……」
「じろじろ見たりしたら、相手に失礼ですからね」

 イメージからしたら、どこかのカメラ小僧の様に目が血走っているのかと思っていた。だが目の前の二人は、全く普段と変わらぬ様子を見せている。いや普段より、柔らかな表情をしていると言って良いのかも知れない。なるほどと感心した上倉は、大きく深呼吸をして肩から力を抜いた。

「ところで上倉君、ここにいた目的は美少女鑑賞ではないと言いましたね。
 だったら、何をしに食堂まで来たんですか?
 見たところ、別におやつを食べていた様子もないようですが」
「あ、ああ、ちょっと気分転換というか……」
「それは、先ほど伺いましたよ。
 どうも気分転換がうまくいっていないように見えるんですよ。
 宜しければ、話を聞くことぐらいはできるんですよ」
「誰か抹殺したい相手が居るのなら、こっそりと耳打ちをしてくれ」

 物騒なことを言う芝村に、善行は「てい」とチョップを見舞った。

「芝村君が言うと、冗談に聞こえないのですよ。
 私たちは、抹殺などと言う物騒なことはしないんですよ」

 それは良いと、善行は話を上倉に戻した。

「もしかしたら、うちの副委員長が絡んでいた話ですか?」
「そうと言えば、まあ、そうかな……」

 と言うか、その物ズバリの指摘である。言葉を濁した上倉に、そう言うことかと善行は頷いた。

「碇さんをモデルにする、ことの重大さに今更ながら気が付いたと。
 確かに、尋常ではないプレッシャーのかかる話ですね」
「……どこまで、知っているんだ?」

 言いふらしたわけでもないのだから、知っている者はほとんどいないはずだった。だがこの二人は、当たり前のように自分がシンジをモデルにすることを知っている。

「細かな事情まで知っているわけではありませんよ。
 否定されなかったところを見ると、私の見立ては間違っていなかったと言うことですね」
「確かに、無謀なお願いをしたと思っているさ。
 恥ずかしい話、引き受けて貰ってからことの重大さに気が付いた。
 今まで生徒会長をしてきて、一体何を見てきたんだろうな」

 落ち着いて考えれば、すぐに分かることだった。自嘲した上倉に、そうでしょうかと善行は聞き返した。

「上倉君が言うほど、本当に重大なことなのでしょうかね。
 高校生が同学年の男子を絵のモデルに選んだ。
 世間的には、その程度のことだと思うのですがね」
「まあ、碇の奴がそこらの男子高校生かというとはなはだ疑問だがな」
「脅かしているのか慰めているのか、どっちかはっきりとしてくれないか?」

 善行がなだめ、芝村が脅してくれるのである。はっきりしろと苦笑を浮かべた上倉に、はっきりできない問題だと善行は言い返した。

「結局、どちらの解釈も成り立つと言うことですよ。
 思っていたほどたいしたことはなく、思っていた以上に大変なことというのが実態でしょう。
 実は意味なんて物は、後から付いてくる物なのですよ。
 そしてその意味は、“上倉君が”何をしたかで決まってくるのです。
 もしも重大だと思っているのなら、このことに上倉君がそう定義したと言うことでしょう」
「俺が、そう決めたと言うこと……」
「世間の前に、上倉君の気持ちが存在するのですからね。
 世間の反応なんて物は、終わってから初めて起きる物です。
 公開さえしなければ、世間はこの事実を知るすべはないんですよ。
 なのに上倉君は、どうして世間を意識して重大だと考えるのでしょうね?」

 どうですと聞かれても、上倉に返す答えはなかった。そして上倉は、善行の言葉に自分自身を振り返っていた。もしかしたら、自分はよけいなことを意識しすぎていないだろうか。自縄自縛に陥っていないだろうか。

「まあ、偉そうなことを言いましたが、私自身よく分かっているわけではありませんから。
 それから上倉君、もしも悩みがあるのなら、信頼できる人に相談してみたらどうですか?
 上倉君には、絵の先生の様な人がいるのではありませんか?」
「絵の先生か……」

 そのとき上倉には、金色の髪をした優しい女性の顔が浮かんでいた。北海道の実家を出る時、がんばってと励ましてくれた女性(ひと)だった。上倉にとって、小さな時からの憧れで、そして絵の師匠でもある人だった。

「確かに、俺一人で悩んでいても仕方がないんだな。
 ありがとう善行君、芝村君、少し光明が見えた気がするよ」
「私たちは、ちょっと世間話をしただけですよ。
 それどころか、忙しい上倉君を引き留めてしまった……」

 申し訳ないと謝って、善行は上倉を解放した。

「いや、俺一人だったら、今も悩んでいたと思う。
 貴重な助言をくれて、本当にありがとう!」
「でしたら、素直に感謝の言葉を受け取りますかね」

 もう良いですねと確認され、上倉はああと頷いた。抱えていた問題が解決したわけではないが、どうしたらいいのか分かった気がしてきた。それだけでも、食堂に気分転換に来た甲斐があったという物だ。
 ありがとう。そう言って消えていった上倉を見送ったところで、善行は小さくため息を吐いた。これで期待された役割を果たすことができたのだ。どうして巻き込むという不満はあったが、悩める仲間の役に立ったのだからよしとしよう。

「感謝の言葉は、石田に向けられるべきだな」
「石田さん、碇君に似てきましたね……
 あまり他人に気を遣っていると、早く老け込んでしまうのにね」
「関わった責任を感じているのだろう。
 それを考えたら、石田はいい女ではないか」
「何を今更、副委員長は初めからいい女でしたよ」

 それを本人が理解していない。残念だという善行に、同感だなと芝村は口元を歪めた。







続く

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