イツキの転居計画は、当初の予定から1週間以上の遅延が生じていた。本来住居の用意が終わったところで、間をおかずに転居する予定を立てていた。だが健康の問題という切実な事態が発生したため、日程先延ばしを余儀なくされたのである。情にほだされたというのが、根本的な理由となっているのだが。
もともと少ない人数で転居したいと考えていたイツキは、自分とプリムラ以外の人数を絞ろうと考えていた。そのための候補として、巨乳美少女のネリネを考えていたのだが、そこには非常に大きな問題が横たわっていたのだ。何しろ生活するためには、炊事洗濯お掃除と言ったスキルが必要なのは疑問を挟む余地はないだろう。一応スキル持ちのイツキなのだが、パーガトリ顧問が専業主夫をするわけにはいかない。だからといって、生活のパートナーをおさんどんだけを基準に選ぶことも出来なかった。イツキとしては、自分の会話に付いてこられる知性を第一優先にしたいと考えていた。だからこそ、見た目も希望に合致した少女を選んだのだが、彼女には第二優先事項が壊滅的に備わっていなかったのだ。
「自信作です」と言って差し出された料理を前に、「天は二物を与えず」と言う諺を思い出していた。リリンの本を参考書にしたと言ってくれたが、いったい何を参考にすれば目の前の物体ができあがってくれるのか。そのあたりをじっくりと事情聴取をしてみたかった。もっとも女性に優しいことを信条とするイツキだから、彼女を傷つける真似を出来るはずがない。
黒いパンケーキと言えばいいのだろうか、明らかに「肉じゃが」とは異なる見た目をした物体は、焦げ臭い臭いをあたりに振りまいてくれた。なぜ肉じゃがなのに、肉もジャガイモも見あたらないのか。にんじんは? タマネギは? と言う疑問も、その臭いの前には意味が無い気がしてならない。それ以上に、豚肉か牛肉かの議論は、この料理の前では不毛だろう。
「これは、ネリネが作ったのだな」
「はい、リリンの本に書いてあるとおりに作ってみました!」
どうでしょうと、目をきらきらとされては、食べないという選択肢をとれるはずがない。ふと横を見れば、プリムラが青い顔をして座っている。イツキに見られているのに気が付いたのだろう、ぷるぷると首を振って、食べたくないことを必死でアピールしてくれた。
「それで、ネリネは味見をしてみたのか?」
「最初に、椎名様に食べて頂きたくて……」
家事は壊滅していても、食べ物の味ぐらいは判別できるだろう。その判別を通り抜けてきたことを期待したイツキだったが、自分が最初という答えに望みが絶たれたことを知った。それでも被害者が自分だけならまだ許すことが出来る。目をきらきらと輝かせている少女は、当然プリムラも食べることを期待しているのだ。自分が我慢をしたなら、次はプリムラが我慢をしなければならなくなる。その結果何が起こるのか、またプリムラの遺伝子が変化してしまうかもしれない。
「今一度確認するが、これはなんて言う料理なのだ?」
「はい、参考にした本には「肉じゃが」と書かれていました。
ふるさとを離れた男性が、特に恋しくなる料理と書いてありました」
いわゆるお袋の味という奴である。疲れた単身赴任のお父さんなら、誇張はあっても書いてあることに間違いはないだろう。だが健康な高校生男子、普段から肉じゃがなど食べない層が、どうしてそんな物を恋しいと考えるのか。女性の「家庭的」なところを売り込むには、よく引き合いに出されていることは知っていた。だがこんな物を出されたら、逆効果としか言いようがないだろう。
色々と時間の引き延ばし、そしての危険回避……問題の先送りをしていたイツキだったが、いよいよ運命の時が訪れた。
「感想を聞かせてください!」
と迫られれば、口にしないわけにはいかないのだ。南無三と覚悟を決めたイツキは、黒色の物体をスプーンで分離し、恐る恐るそれを口へと運んだ。運んだのだが、なかなか口に入ってくれない。何度か逡巡した後、罰ゲームと考えればいいと諦め、ようやく口の中に不思議な物体を放り込んだ。
「苦いな……」
やはり焦げていたのか。卒倒するほどの味でないことに安堵し、イツキはゆっくりと成分分析を開始した。何をどうすれば、こんな物体ができあがってくるのか。イツキの示した姿勢は、食事とは絶対に呼ばれない物である。強いて言うのなら、化学実験というのが適当だろうか。
「醤油の味が全くしない……だがこの黒さは、必ずしも焦げているだけではないだろう。
この嫌らしいほどしつこい甘み、そして攻撃的なまでの酸味……
甘みは砂糖だと分かるのだが……酸味は……」
何だと考えたイツキは、天啓を得てかっと目を見開いた。
「こ、これは、ソースか!
いやいや、ソースと言っても、色々と有るはずだ。
単にウスターソースだけではない味も感じられるぞ。
そうか分かったぞ、トンカツソースも混ぜられているのだ!」
どこかの料理漫画ののりで、イツキは目の前の料理と言われる物体の分析を行った。それを喜んでいるのだと勘違いをしたネリネは、「正解です!」とイツキの分析を肯定した。
「みりんが有りませんでしたので、その代わりに砂糖を使用しました。
甘めの方が宜しいかと、書いてあるのよりも少し多めに足してあります。
後は味付けにショーユと有りましたので、ソースとしてトンカツとウスターを使いました」
みりんの代わりに砂糖を使うのは我慢できる。みりんの目的の一つには、甘みを足すことも含まれているのだ。だがショーユと指定されているのに、どうしてソースを使うのか?
「ネリネ、どうしてショーユではなくトンカツソースなのだ?」
「ウスターソースも使いましたよ」
「いや、だから、どうしてソースなのかと聞いたのだが?」
日本人にしてみれば、両者の間に類似点は全くない。だからこそのイツキの疑問になるのだが、文化が違うネリネにそのあたりの機微は伝わってくれなかった。
「注釈で、なんとかソースと書いてありました。
その部分が分かりませんでしたので、知っているソースを使ったのですが?
なにか、私は大きな間違いをしでかしたのでしょうか……」
イツキの表情を見れば、期待通りの効果が出ていないのは理解できる。そうなると膨らんでいた期待は、反転して失望に取って代わられる。こんなことでは、敬愛する椎名様に連れて行って貰えないことになる。青菜に塩という諺の通り、可哀相なほどネリネはしょげかえってしまった。
「イツキ、覚悟を決める?」
さすがに可哀相と思ったのか、プリムラも横から口を出してきた。おさんどんから離れれば、ネリネは優しいお姉さんだった。イツキのことが好きというのは分かっているから、少しは手伝ってあげたいとも思っていた。もっとも、命に関わってくれば、話は別と言うことになるのだろうが。
「別に、覚悟など決めなくても良いだろう。
必要なのは、衣食住の環境を整えれば良いことだからな。
俺様としても、ネリネを仲間はずれにするつもりはないしな」
「椎名様??」
自分には、決定的に家事能力が欠けているのは理解できていた。連れて行ってくれるのは嬉しいが、役に立たないとなればその喜びも半分である。そして誰も家事をする物がいないというのは、心に重くのしかかってくることでもあったのだ。
「このあたりのことは、一応王様にも相談してあるのだ。
とりあえず食事環境改善のため、リリンから一人呼び戻してくれるという話だ」
「でしたら、私は何をすれば宜しいのでしょうか?」
家事を期待していないのに、一緒に連れて行ってくれるという。もしかしてと桃色の想像をしたネリネは、両手を頬に当てて顔を真っ赤にした。
「椎名様が望まれるのなら……どんなプレイにも耐えて見せます!」
まあ自動的に導き出される結論なのだが、イツキとしては「ちょっと待て」と言いたくもなる結論だった。それでも否定するまでのこともないと放置したのだが、プリムラの言葉はそれを台無しにしてくれた。
「ネリネ、自分を大切にした方が良いわ。
イツキの趣味は、冗談では済まないそうだから」
「椎名様は、危ない趣味をされているのですか?」
そうは見えないと驚いたネリネに、当たり前だとイツキも同調した。
「でも、あの人がそう言っていた……」
この場合の“あの人”は、3界1の英雄様に他ならない。それを理解したイツキは、どうやって締めてやろうかと報復の方法を考えることにした。
<<学園の天使>>
157:
自分が気に入っているのだから、きっとシンジにも通じるだろう。美咲アヤは、シンジの説得に上倉の絵を利用することにした。問題となるシンジの呼び出しも、副会長様が便宜を図ってくれるという。後は言われたとおり、“お願い”モードに入れば問題は解決する。その時のことを考えながら、美術準備室でアヤはおとなしく待っていた。
「もうすぐ、碇君がここに来るのね……」
相談した手前、鷺ノ宮アイにも計画のことは話してある。「言ったとおりでしょう」と胸を張ったアイは、返す刀で「うらやましい」とアヤを羨んだ。
『個人的に会ってみると、碇君ってちょっと違っているわよ。
彼を、年下の高校生だと思わないことね。
いいなぁアヤ、美術準備室で二人っきりになるのよね。
あそこだったら、碇君を裸にしても言い訳が立つじゃない』
美術だからと言って、いつも裸体を描いている訳じゃない。と言うか、今時裸体画などあまり流行っていないのだ。それにアヤの得意は、どちらかと言えば風景画だった。だからアヤは、勘違いと思いっきり言い返したのだ。アヤにとって、アイの決めつけは心外その物だった。
「まったくアイったら、どうして生徒と会うのにそんなことを考えるのよ……
いくら私が男の人と付き合ったことがないからって、からかうにもほどがあるわ……
…………ええっと、男の人?」
よほど気に入らなかったのか、アヤはシンジを待ちながらも親友の決めつけに文句を言っていた。だが相手が男と口にした途端、ちょっと待てと想像がおかしな方向へと流れ出した。アヤ自身意識していなかったのだが、そう言われてみれば碇シンジはれっきとした男なのである。しかも奥さんを沢山娶った絶倫男でもある。確かに一高校生としてみるには、いろいろと問題の有る相手だろう。しかも放課後の美術準備室で、二人きりの時間を過ごすという。そう考えること自体先走りとか勘違いのたぐいになるのだが、男性に対する免疫が無いアヤは、心臓がどきどきと早鐘を打ち出していた。
「どどど、どうしましょう……
こ、心の準備が……できていませんわ」
急に狼狽えたアヤだったが、すでに後悔も手遅れという物だ。何しろ待ち合わせの時間まで、残りは5分を切っている。上倉の事情を考えれば、今更無かったことにもすることはできない。どうしようと焦りまくったアヤだったが、今更どうしようもないというのが実態だった。
「あわわわわ……お父様、お母様、アヤは、今日、女になりますぅ……」
どうして生徒を呼び出し、かつ愛弟子のモデルになることを頼むことが、女になることに繋がるのだろうか。その辺りの理解すらできないほど、アヤの頭はすっ飛んでいた。そして待つこと5分、アヤが別の覚悟を決めたタイミングでシンジが美術準備室の扉をノックした。
シンジに話をするとき、サラはいろいろと注意をしなければと考えていた。相談を受けたときに、相手が天然というのを思い知らされたのだ。だから何の準備もなく会わせたりしたら、きっと話がおかしな方向に向くに違いない。だからシンジには、美咲アヤの用件を掻い摘んで説明し必要な態度を忠告していた。その忠告もあって、シンジの方が心構えができていたりした。
「失礼します!」
そう言って美術準備室に入ったシンジは、サラの分析が正しかったことを理解した。目の前の女性教師の目が、どう見ても尋常そうではないのだ。「自爆しやすそう」というサラの分析どおり、妄想がおかしな方向に飛んでいるのだろう。だからシンジは、話は聞いていると先手を打つことにした。話をリードすることで、妄想に入れないようにすることにした。
「は、話は聞いている!?」
「ええ、美咲先生がすばらしい絵を見せてくださると聞いてきました」
驚いたアヤに、シンジは単刀直入、そして教師としての職業意識を呼び起こす言葉を発した。それが成功したのか、とたんにアヤの顔は指導者のそれに変化していた。ピンク色の妄想は、効果的な攻撃により振り払われたのである。そしてアヤにとって、妄想よりももっと大切なことを思い出させた。
「そう、そうそう、碇君に見て貰いたい物がありました!」
それでも、それまでの妄想は無かったことにはできない。あわてて立ち上がったアヤは、躓きながら何枚かの絵を持ち出した。この辺りも、いつものシンジならば手助けをしているところだろう。だがサラの忠告は、話がこじれるから気を遣わない方が良いという物だった。その忠告に素直に従ったおかげで、アヤの話はわき道にはそれていかなかった。
「碇君に、正直な感想を聞いてみたいんです」
「この絵のですか?」
そう言って見せられたのは、シンジの見たことがない風景を描いた物だった。海や夕焼け、そして一面の花畑……モチーフを取り上げれば、取り立てて珍しい物はどこにもないだろう。だが一目見た瞬間、シンジの心は暖かい物に包まれていた。行ってみたい、この目でその景色を見てみたい、そんな強い気持ちを感じていた。
どう? と聞きかけたところで、アヤはその問いかけが意味のないことだと受け止めた。上倉の絵を見つめる姿を見れば、シンジがどう感じているかは一目瞭然なのだ。分かってくれた、そのことがうれしくてアヤはシンジが何か言うのをじっと待つことにした。ちゃんと理解してくれたのだから、きっとお願いも聞いてくれるだろう。
そして待つこと10分、シンジは小さなため息を吐いた。そして持っていた絵を机に起き、ありがとうございますとアヤに頭を下げた。
「石田さんの言葉を疑った訳じゃないんですけどね。
やっぱり、本物ってすばらしいんだと分かりました。
見せて頂いた絵には、どれも描いた人の心が籠もっているのが分かりました。
絵って、本当にいろいろな物を伝えてくれるんですね!」
シンジの感想に、アヤは心から楽しい気持ちになっていた。教えたことのない生徒が、ちゃんと絵の本質を理解してくれた。そして願った通りに、正しく上倉の絵を理解してくれた。
「碇君から見て、どういう気持ちが伝わってきました?」
「そうですね……沢山の気持ちが伝わってきましたけど……」
うんと考えたシンジは、最初に「楽しい」と口にした。
「絵を描くことが楽しい……そう言う気持ちでしょうか。
それが分かるから、僕もつられて楽しい気持ちになってしまうんです」
そう答えたシンジは、次に「愛情」を持ち出した。
「この絵を描いた人は、本当にこの景色が大好きなんですよね。
さっきの楽しいにも通じますけど、見ていると暖かい気持ちになれるんです。
それから、世界ってこんなにきれいなんだと、そう言う感動もあります」
ああと、アヤはシンジの答えに感動していた。どうしてこの生徒は、自分の求めていることを返してくれるのだろうか。すばらしい絵を描くのにも才能は必要だが、それを理解するのも別の才能が必要になる。絵を描く才能、そしてそれを理解する才能、その二つに巡り会ったことをアヤは素直に感謝していた。
「ねえ碇君、その絵を描いた人に、自分の絵を描いてもらいと思いませんか?」
「僕の、ですか?」
驚いたシンジに、その通りとアヤは力強く答えた。だがシンジは、自分がモデルで良いのかと聞き返した。自分で言うのも何なのだが、どう考えてもモデルには不向きの顔をしているだろう。
「コハクとか、ヒスイとかの方が良くありませんか?
自分で言っては何ですが、僕の顔は絵のモデル向きだとは思えませんよ」
「彼の描いた絵を見て貰えば、碇君のその考えも変わると思いますが」
「いやっ、本当に僕なんかがモデルでいいのかなって……」
そちらの方が気になると言うシンジに、正しく自分を評価しようとアヤは答えた。
「この絵を描いた子もね、自分なんかが碇君を描いて良いのかって気にしていましたよ。
正直に言うと、彼は碇君の絵を描きたくて仕方がないんです。
でも、碇君はとても忙しいでしょう?
だから迷惑を掛けてはいけないって、その気持ちを抑え込んでいるんです。
でもそのせいで、他の絵まで描けなくなってしまって……」
「忙しいのは確かですけどね。
でも、そこまで思って貰えるなんて……
なにか、とても感激してしまって……」
どう答えて良いのか分からない。言葉を探すシンジに、アヤはお願いがあると繰り返した。
「本当は、本人がお願いしないといけないのは分かっています。
こうして出しゃばるのも、あまり良いことではないのも分かっています。
だけど碇君、彼のためにも絵のモデルを引き受けてあげれくれないかしら?」
「先生も、上倉君の絵を見てみたいんですね」
シンジの言葉に、アヤは力強く頷いた。だがすぐに、驚いて目を大きく見開いた。誰とも話をしていないのに、シンジは上倉の名前を挙げてくれた。
「知っていたんですか?」
「いえ、石田さんは教えてくれませんでした。
でもこの絵を見て、誰の描いた絵か分かったんです」
「だったら、私がこんなことをした理由も……」
本人がお願いできなかった理由。それを口にしようとしたアヤに、大丈夫ですとシンジは微笑んだ。
「僕が、上倉君に負い目があるのを気にしたんでしょうね。
先生が僕を呼び出したのは、どうしたら良いのかを相談するためなんでしょう?」
3界1の英雄様、そしていくつかの問題を解決したと言うことは知っていた。確かに女子生徒の憧れる、格好の良さがそこには有るのだろう。だから熱狂的なファンクラブができるのも仕方がないと思っていた。それだから自分には関係がない、逆にアヤはそうも思っていたのだ。だがそれが、とんでもない勘違いだと思い知らされた。「とっても優しい」とサラは言ったが、それすらシンジのことを正確に言い当てていないとアヤは思った。ただ単に優しいだけなら、誰にでもできることでもある。シンジの優しさは、相手のことを考えるというところに立脚している。だから上倉の遠慮、そして自分が行動した理由。それを理解し、どうしたらいいのか考えてくれる。ただ単に優しいだけではできないことなのだ。
ああと感動したアヤに、「こういうのはどうでしょう」とシンジは提案してきた。
「僕と先生で、上倉君にちゃんと話をしませんか?
変な策略を練るより、正直に先生の気持ちを伝えた方が良いと思うんです。
僕もちゃんと、モデルにして貰えるかってお願いしてみますから」
「碇さんも、お願いしてくれるんですか?」
「だって、こんなすばらしい絵を見せられたんですよ。
こんな僕を、どんな風に描いてくれるのか、それを考えたら我慢できるはずが無いじゃないですか」
ありがとうございます。逆にシンジが、アヤに頭を下げた。
「美咲先生、このことを教えてくれてありがとうございます。
先生が教えてくれなければ、僕はこんなすばらしい絵に出会うこともできませんでした。
僕が絵のモデルになることもなかったと思いますよ」
そう言って微笑むシンジに、反則だとアヤは恨めしい気持ちになっていた。どうしてこんなにすてきな男性が、自分の生徒なのだろう。こんなに優しく、こんなにすてきに、そしてこんなに美しく微笑まれたら、どうして好きにならずにいられるだろうか。親友の言ううらやましいと言うのはこういうことか、確かにうらやましいところにいるとアヤは自分の立場に気が付いた。
そして同時に、教師としての喜びも感じていた。目の前の生徒と、自分の愛弟子を結びつける。そんな役目を果たせるのだから、教師としてこれ以上幸せなことはない。
「碇さん、私は芙蓉学園に赴任できて良かったと思っています。
でも、できたら生徒としてこの時間を過ごしてみたかった……」
ううんと首を振ったアヤは、もう一つお願いがあると切り出した。
「いつか、そういつかで良いんです。
この先も縁があったのなら、私のモデルもして貰えませんか?」
「僕なんかでよければ、喜んで」
本当に反則だ。幸せを感じながら、ずるいと心の中でアヤは文句を言い続けた。
***
英雄様を味方に引き入れたのだから、話はさっさと進めた方が良い。時間をおかない方が良いというシンジの忠告にも従い、アヤは上倉に指導という名の説得を行うことにした。最初から手札を見せた方が良いという勧めに従い、話をするときにはシンジも同伴することにした。
上倉に話をするに当たり、シンジはサラにも協力を求めることにした。あまり大事でなく、自分からの呼び出しを伝えるのには、彼女が一番相応しいように思えたのだ。
「石田さんって、碇さんの秘書みたいですね」
サラを利用したシンジに、似合っていますよアヤと笑って見せた。
「そうでしょうか?」
「ええ、碇さんも自然に接しているでしょう。
そして石田さんも、ごく自然に頼まれごとをしていますよ。
だから、長年一緒に仕事をしている秘書みたいに見えるんです」
「その辺り、あまり意識したことはありませんね」
「だから、よけいにそう見えるんですね」
そうかも知れないとシンジが同意したとき、美術準備室の入り口がノックされた。時間から考えると、美術部員が来たとは思えない。少し早いが、サラが用事を果たしてくれたのだろう。
「一応頼まれたことはしたわよ」
じゃあと帰ろうとしたサラを、もう少しとシンジは呼び止めた。
「でも、用があるのは上倉君にでしょう?」
「ちょっと、石田さんにも手伝って貰おうかと思っているんだよ。
っていうか、ちょっと助っ人になって貰おうかとね」
そう言ってウインクをするシンジに、サラは小さく吹き出した。
「碇君、それってあんまり似合っていないわよ」
「やっぱり、自覚はしているんだけど……つい、気安くてね」
それでと、サラとの会話を掴みにして、シンジは緊張している上倉に向かい合った。
「僕は、また上倉君にお願いをしなければいけなくなっちゃったよ」
「美咲先生がいるってことは、絵のモデルのことでしょうか?」
緊張から噛みそうになりながら、上倉は単刀直入にモデルのことを持ち出した。そしてシンジも、よけいな駆け引き抜きで肯定した。
「単刀直入に言うよ、僕の絵を描いてくれること。
それをお願いしても良いかなって」
「碇さん、俺に借りを返そうとか思っていませんか?」
上倉としては、どうしてもそのことが頭から離れてくれない。だからいの一番に、公欠届けのことを持ち出した。だがシンジは、その逆だと言い返した。
「もう一つ、僕に借りを作らせてくれないか?
いやっ、時間とかで迷惑を掛けるから、あと二つぐらいかも知れないね」
「……どういう意味、ですか?」
理解できないという上倉に、これからわがままを言うからだとシンジは返した。
「上倉君に、絵を描いて貰いたいと思っているんだ。
でも、僕が忙しいのは確かだろう?
だから時間が空いているときしかモデルになれないし、
ひょっとしたら、そのせいで展覧会に間に合わないかも知れない……
それでも描いて欲しいというのは、やっぱり僕のわがままになるだろう?」
違うのかと聞かれた上倉は、どう答えようかと少し迷ってしまった。シンジの申し出自体、上倉の願ったことでもあった。だが目立つことの嫌いなシンジが、どうしてモデルを引き受けてくれるのだろう。それを考えると、自分への借り、そして美術教師のお願いが思い浮かんでしまう。こういうときには、シンジは頼まれたら嫌とは言わない。それは芙蓉学園生徒で共通した認識でもあったのだ。
そして上倉は、迷った末にそれはできないとシンジに返した。自分のためにモデルになると言ってくれるのはうれしいが、シンジにはもっとすべきことがあるのだろうと。
「碇さんは、今や3界の要なんですよ。
まだまだリリンは、碇さんに対して懐疑的なところがあります。
俺は、今こそ攻めるチャンスだと思っているんです。
だから碇さんには、俺のことじゃなくて世界を相手にして欲しいんです」
「そのための手は、ちゃんと打っているつもりなんだけどね……」
ふっと息を吐き出したシンジは、サラに向かって「残念だ」と零した。
「日頃の行いのせいかな、上倉君に振られちゃったよ」
「それは、お願いする熱意が足りないんじゃないの?」
「熱意ね……熱意なら有るつもりなんだけど。
じゃあ、ありきたりだけど拝み倒すことにしようか」
と言うことでと、シンジは上倉に向かい合った。そして何をするのかと構える上倉の前で、シンジはどっかりと床に腰を下ろした。そして前にかがむようにして、頭を床にくっつけた。いわゆる土下座というのをシンジはしたのだった。
「ち、ち、ちょっと、碇さん!!
そ、そんなことを、碇さんがしちゃいけませんよ!」
慌てた上倉に、これが誠意の見せ方だとシンジは返した。
「僕にはね、他に方法が思いつかないんだよ。
仕方が無いじゃないか、どうしても僕を描いて欲しくなったんだから」
「碇君、上倉君の絵に惚れたの?」
「惚れた……確かに、そうなのかも知れないね。
僕みたいな素人でも、上倉君の絵が凄いのは分かるんだよ。
あんな物を見せられたら、僕をどう書いて貰えるのか見たくなったんだよ」
だからお願いする。もう一度頭を下げたシンジに、止めて欲しいと上倉は狼狽えた。3界1の英雄が、一般人に頭を下げる物ではない。土下座などはもってのほかなのだ。
「碇さん、そんな真似をしたらずるいですよ。
本当だったら、俺からお願いしなくちゃいけないのに……」
もう一度止めてくれと懇願した上倉は、今度は自分が大きく腰を折って頭を下げた。
「俺なんかで良ければ、碇さんの絵を描かせてください」
「僕は、上倉君に描いて貰いたいんだよ。
ねえ石田さん、上倉君の絵って凄いんだ。
とても優しくて、とても暖かくて、見ていてとても幸せになれるんだ」
それがお世辞でないのは、すばらしいと語るシンジの顔見れば分かることだった。子供のように目を輝かせたのを見れば、嘘など付いていないのは分かるだろう。だがサラは、それならそれで大変だとも理解していた。ここまでシンジに言わせ、しかも土下座までさせてしまったのだ。この事実を知れば、生半可な絵では周りが納得しないだろう。それだけ上倉にもプレッシャーを与えることになってしまう。うまく描ければいいのだが、失敗しよう物なら立ち直れなくなる可能性もある。
だがそのことに気づきはしたが、サラは3人に向かって指摘することはできなかった。シンジの無邪気さと言うのも理由の一つだが、サラ自身上倉の描いたシンジを見てみたいと言う気持ちが強かったのだ。人を見るシンジの目が確かなのは、これまでの経験で分かっているつもりだ。だったら今度も、シンジの見込み通りになってくれるのだろうと。
「ところで上倉君、その絵ってヌードとかじゃないわよね?」
「いくら碇さんでも、俺が男のヌードを描きたいと思います?
それにそんなことが知れたら、落ち着いてえを描くことができなくなりますよ」
「確かに、桂さんあたりが放っておいてくれないわね」
美術部室がパニックになるだろう。そのとき先頭に立つヒナギクの姿が見えるだけに、上倉の判断は正しいとサラも認めていた。ただ上半身ならと言う上倉の言葉に、それはそれで良いかも知れない。こっそり見学させて貰う方法を、サラは考えることにした。
続く