最高評議会と言うくくりとは別に、エデンの中に“政策集団”的なものが作られたのは驚くべきことではないはずだ。もともと議員達は、私的に人を集め、必要な政策に付いての研究を行っていた。そして必要に応じて、他の議員と個別に議論を戦わせていたのだ。政策集団がその延長と考えれば、その成立自体不思議なことではないだろう。
 だがその名前もない集団は、発足と同時に注目を集めることになった。3界を今後どうしていくのか、その研究課題自体珍しい物ではない。似たようなことを主題に、多くの議員達は議論を重ねていたのだから。その集団が注目を集めたのは、そのリーダーの出自が理由となっていた。

「では、今日の会合はお開きにする!」

 設立された政策グループの代表に収まったジントは、20人ほどの男女を前に会の閉会を告げた。ジントの元に集まった者達は、いずれも年若く、中には子供と言って差し支えない年齢の者も混じっていた。彼らはリーダーの解散の合図に、次の課題に取り組むべく自分の場所へと帰っていった。その顔には、いずれも充実した輝きがあった。
 行政官まで交えていたこともあり、彼らの議論は幅広く、そして想定外の方向にも広がっていた。それを受け入れるだけの柔軟さを持った彼らは、むしろ新しい発見に喜び想定外の議論にも答えていた。議論すること、未来を考えることが楽しい。その評判は口づてに広がり、参加を希望する物は後を絶たなかった。
 そんな集まりを主催したジントは、三々五々散らばっていくメンバー達を見送っていた。アデュラリアの後ろ盾で発足した勉強会も、今はジントを中心に運営されている。そしてジントの妻として、マディラが裏方として働いていた。精神的に疲れる仕事だが、それだけやりがいもある仕事でもあったのだ。

 ふうっとため息をジントが吐き出したとき、一人の少女が駆け寄ってきた。年の頃ならまだ小学生ぐらいなのだが、それでも資格候補と言うだけのこともあり、見た目から想像されるよりずっとしっかりとしていた。この集まりに来るのだから、当然議論にも参加していた。

「エメラルド、何か質問があるのかい?」

 少し興奮しているのか、エメラルドは息を切らせ頬を上気させていた。そしてジントを見上げるようにして、「お願いがあります」と唐突に切り出した。

「俺に、お願いか?」
「はい、花菱様にしかお願いできないことなんです!」

 そう言われれば、悪い気のするものではない。それでと話を続けさせたところ、エメラルドは「欲しい物が有ります」と切り出した。

「その、リリンで流通している雑誌ですので、
 お願いできるお方が、花菱様以外にいらっしゃらなくて……」

 なるほどと、ジントはエメラルドの申し出の理由を理解できた気がしていた。コハクが3界融和を進める方針を打ち出したこともあり、芙蓉学園の役職者への門戸が広げられたのだ。と言っても、新たに入学を許可されるのは中等部、高等部併せて4人だけである。そのうちの一人が、ジントの目の前に居るエメラルドだった。ジントは、入学を前に「リリンの情報を集めようとしている」と考えたのだ。

「それは構わないが、どう言う雑誌なんだ?」

 引き受けるにしても、どういう雑誌か分からなくては手配のしようもない。ジントの質問に、「それは」とエメラルドは頬を染めて俯いた。

「その……ファッションというのですか、きれいな洋服の沢山付いた雑誌が欲しいんです。
 せっかくリリンに行くのですから、リリン向きの格好もしてみたいと思いました……」
「そうなると、ファッション誌と言うことになるのか……」

 なるほどと納得したジントだったが、それはそれで問題があると気が付いた。ティーン向けのファッション誌なら、留守番をしているアカネたちに頼めば難しいことではない。ただそこで紹介されている洋服が、目の前の少女に似合うかとなると全くの別物なのだ。天使の素材の良さを考えれば、たいていの物が似合ってしまうのは今更のことである。だが少女の特徴を考えると、日本で売っている物で良いのかというのが疑問なのだ。何しろエメラルドは、リリンで言う北欧系の顔立ちをしているのだ。
 銀色をした髪は、頼りないほど細く、そしてどうしようもないほど美しい輝きを誇っている。それだけでも目を引く特徴なのに、顔立ちもまた美しく整っていた。しかも白すぎる肌に、緑色の澄んだ瞳とくれば、リリンの少女向けの洋服では力不足という物だ。日本のファッション誌を買ってきても、参考になるのかも難しい。
 だが話を切り出した本人にとって、そんなことはどうでも良いらしい。目をきらきら輝かせたエメラルドは、どうして雑誌が欲しいのか力説してくれた。

「はい、こちらでは地味な洋服ばかり着用しています。
 ですからリリンでは、派手やかな物を着てみたくて……
 花菱様、どうかなされましたか?」

 ジントの様子に気が付いたエメラルドは、どうかしたのかと聞いてきた。自分のわがままで困らせてしまったのでは、そう思って顔を少し曇らせた。

「ああ、ちょっと困ったかなと思ったんだよ。
 雑誌を集めるのは難しくないんだが、エメラルドに合っているのか分からなくてな。
 芙蓉学園の近くで売っているのは、黒髪や茶髪向けのばかりなんだ」
「そう言うことですか……」

 ジントが困った方向性に安堵したエメラルドは、参考にするのだから大丈夫と答えた。

「だったら、適当な物を見繕って持ってくるか……
 明後日には持ってこられるかな?」

 目的をアカネたちに言って、適当なお金を渡しておく。そうすれば、明日にはジントの家に届くことになるだろう。
 それで良いかと自分を見たジントに、エメラルドは顔をぱっと輝かせた。その表情があまりに豊かで、そして可愛らしくて、ジントは恥ずかしくなって顔をそらしてしまった。

(だめだ、可愛すぎる……)

 本当に天使の笑顔は犯罪だ。当の本人がその効果に気づいているのかどうか、それは分からないがエメラルドは無邪気に喜んでいた。それを見ると、ジントもついうれしくなってしまう。

(まあ、なんだ、こういうのもいいかな……)

 シンジの真似をして頭を撫でようとしたところで、動きかけたジントの手がぴたりと止まった。そのジントの視線の先には、微妙に顔を引きつらせたマディラの姿があった。そしてジントもまた、つられたように顔が引きつっていった。

「花菱様、どうかなされましたか?」

 空中で手をぶらぶらさせていれば、エメラルドが不思議に思うのも無理もない。首をかしげた少女に、何でもないのだとジントは焦って言い訳をした。だがその言い訳は、あまり意味がなかったようだ。にっこりと笑ったエメラルドは、ズバリと核心をついてきた。

「花菱様って、マディラ様のお尻に敷かれているんですね」

 それではと頭を下げたエメラルドは、振り返ってマディラにも頭を下げた。

「それでは、明後日を楽しみにしています」

 お願いしますと、軽やかな足取りでエメラルドはジントの元を離れていった。後に残されたのは、微妙に気まずい空気をまとった二人だけだった。







<<学園の天使>>

155:







 生徒会選挙も終盤戦となると、その大勢も見えてくる。そのとき現役員の胸をよぎるのは、一抹の寂しさと言えばいいのだろうか。激動の1年を乗り越えた達成感より、これで最後だという寂寥感の方が勝っていた。

「さてと……」

 生徒会会長にして美術部部長の上倉は、白熱する役員選挙を完全に傍観していた。SSSの会長としての影響力は健在だが、時代は非公開のIIIに移っている。今更SSSがキャスティングボードを握るはずもなく、のんびりと選挙戦を傍観することができたのだ。そのおかげというか、本来の美術部員として部活に精を出すこともできた。今の彼にとって、春の桜花展への出品作品を描き上げることが最優先事項だった。

「……にしても、いろいろとあったなぁ」

 真っ白なキャンバスを前にすると、いろいろな思いがわき起こってくる。生徒会長などと言う大役をこなしたこともあり、その手の思い出に事欠かない一年だった。その思いをキャンバスに表現しようと考えた上倉は、何をモチーフとするのか決めきれないでいた。この際静物は対象外だが、風景にするのか人物にするのか、そしてそれぞれ何を選んだらいいのか。

「芙蓉学園生の俺としては、やっぱり碇さんが一番良いんだが……」

 その素材は、あまりにもはまりすぎて、そして狙いすぎた物に思えてしまう。だが上倉が過ごした2年を物語るには、欠かすことのできない存在でもあったのだ。その気持ちを残すためにも、展覧会に関係なく絵にしたいと考えてもいた。
 もっともモデルの都合を考えると、おいそれと題材に選ぶわけにもいかなかった。本人が恥ずかしがり屋という事情はさておき、ここのところ多忙を極めているのが分かるのだ。絵のモデルともなれば、それなりの時間を拘束することになる。それを考えれば、モデルになって欲しいとは言いにくいのだ。

「やっぱり、ほかのモチーフを探すしかないか……」

 ふっとため息を吐き出し、上倉は窓の外へと視線を向けた。3月といっても、今は年中暑い季節のない時代になっている。青々とした広葉樹と、青い水をたたえた美咲湖が目に飛び込んできた。この景色もまた、上倉が入学してからずっと目にしてきた物だった。

「桜花展か……」

 上倉の才能を評価した美術教師に、腕試しにどうかと持ちかけられたのがきっかけだった。若手の登竜門として歴史の有る展覧会で、4月に行われるから「桜の花」から名前をとったという。今では4月でも桜は咲かないが、名前だけが残った一例だった。

「仕方がない、頭でも冷やしてから考えてみるか……」

 椅子から立ち上がった上倉は、イーゼルを美術準備室に片づけた。行き詰まったときには、いくら考えても実りはない。だったら適度な気分転換も必要だろう。上倉は自分を納得させ、生徒会室に行くことにした。後は引き継ぎだけとはいえ、現行生徒会にもやることは残っている。それに引き継ぎ資料も作った方が良いだろう。美術教師に勧められてから1ヶ月、上倉は全く同じ理由で道具を片づけた。



 現世に復帰してから、シンジの活動拠点は芙蓉学園を飛び出していた。その背景には、自分が不在の間に歪んだ部分の修正という目的があった。一見うまく回っていたように見えたのだが、やはりそこには多くの“無理”が存在していたのだ。特にリリンにその傾向が顕著だった。

「碇さんに来て貰うと、本当にいろいろなことが片づくんですよ」

 ありがとうございますと頭を下げたカエデに、持ち上げすぎだとシンジは顔を引きつらせた。確かに多くの案件を片づけはしたが、そのお膳立てはすべてカエデが行っていた。正確には指示を受けたノエインの少女達が地均しをしたのだが、すべてに目を通したのはやはり彼女なのである。そこまでがんばらなくてもと、シンジでなくとも言いたくなると言う物だった。

「それで碇さん、今日はゆっくりできるんですか?」
「ゆっくりしたいのは山々なんだけどね……」

 過去の出来事は出来事として横によけても、なかなか外泊しにくい事情もあった。それにジュネーブは、すでに隣近所になっている。特にコハクの仕掛けを使わなくても、アイオライトの事業がその代わりとなっている。その仕組みを使えば、時差さえ忘れれば十分に日帰り圏内となっていた。

「今度こそ、ちゃんとごちそうしようと思ったんですよ。
 最近ジン君も忙しくて、また顔を出してくれなくなりましたし」
「花菱君が?」

 またかという顔をしたシンジに、責任はシンジ達にもあるとカエデは不満をぶつけた。

「コハクさんが、芙蓉学園に役職者も受け入れる方針を打ち出したじゃないですか。
 それで入学予定の役職候補者と、事務方の皆さんがジン君を頼ってきたんです。
 だからジン君、その人達の面倒を見なくてはいけなくなって……」
「ここしばらく、解放されないってことか……」

 だからといって、自分に責任を持ってこないで欲しい。そう目で訴えたシンジに、カエデは「寂しいんです」と目を潤ませた。

「仕方がないことは分かっているんですよ。
 ただ、お互い時間ができるタイミングがすれ違っちゃって……」
「い、いやっ、だからといって、僕を誘わなくたって……」
「ノエインの皆さんを招待しても、ごちそうのし甲斐がないんです」

 だからと、カエデは右手をそっとシンジの胸に当てた。シンジは薄い布地越しに、手のひらの暖かさが伝わってくる気がしていた。そしてそれにつられて、心臓が早鐘を打ち出した。

「さささささ桜庭さんっっっっ!」

 声を裏返らせたシンジに、「どうかしましたか」とカエデはきょとんとした顔をした。

「どうかしたのかって……」

 そう言ってシンジが顔を赤くするから、漸くカエデも自分のしたことを理解した。そして同時に、これでもかと言うほど顔を赤くしてシンジから離れた。

「あ、ああ、あのですね、これは、その、ちょっと違ってですね」

 つい気安くてと、言い訳になっていない言い訳を口にした。そしてカエデは、「ごめんなさい」と勢いよく頭を下げた。

「つ、つい、人恋しくなってとか、碇さんならいいかなぁって……
 その、ええっと、今言ったことも全部忘れてください!」

 もう一度お願いしますと頭を下げられ、シンジは苦笑とともに「聞かなかったことにする」と返した。

「花菱君には、桜庭さんに寂しい思いをさせるな!
 って言っておくよ」
「あのぉ、出来たらそれも止めて欲しいんですけど……
 そんなことをしたら、ジン君に迷惑が掛かりますから」
「桜庭さんがそれで良いって言うのならね……」

 それほど気にすることかと思いながら、シンジはカエデの言葉を受け入れた。その代わりと、シンジは外に出ないかと提案をした。

「ほら、夕食はごちそうになれないけど、
 一緒にお茶ぐらいならすることは出来るだろう?」
「でしたら、旧市街の方に素敵なお店を見つけてありますよ!」
「旧市街ね……」

 はっきり言って、旧市街には良い思い出がないのだ。と言っても、訳の分からない花を売りつけられた程度の思い出なのだが。その後の混乱を考えれば、一応悪い思いでと言っていいものだろう。
 そんなシンジの気持ちが分かったのか、「今は大丈夫です」とカエデが保証した。

「クレシアさんとビンセントさんのおかげで、そのあたりの心配はなくなりましたから」
「あの二人が活躍してくれたんだね」
「それはもう!」

 はっきりと言い切ったカエデは、だからとシンジに一つお願いをした。

「今度いらっしゃるとき、クレシアさんとビンセントさんも連れてきてくださいませんか?
 前の事件では、お二人にいろいろとお世話になったと聞いていますから。
 そのことにお礼がしたいんです」

 この前の話とは、カエデを嵌めた古い秘密結社を暴き出したことを言っている。シンジの命令に張り切ったビンセントは、たちまちの内に組織を暴き出してくれたのだ。しかも何を取引材料にしたのかは分からないが、逆にカエデの身を守ることの約束まで取り付けてくれた。
 分かったと答えたシンジに、もう一つとカエデは学校のことを持ち出した。

「碇さんが忙しいのは分かっていますけど、ちゃんと学園も顔を出してくださいね。
 やっぱりアスカさんだけでは、リリンの顔としては不足ですから。
 それに、碇さんに相談したいと思っている人が沢山居ると思いますよ」
「そう言えば、ほとんど顔を出していないなぁ……」

 それだけ忙しかったと言うことになるのだが、さすがにそれはまずいとシンジも理解していた。そしてカエデは、シンジにとって予想外、そして世間常識からすれば当たり前の事実を持ち出した。

「進級には、出席日数と言う条件があることを忘れないでくださいね。
 3界1の英雄が留年したなんて、さすがに世間体が悪いですから」
「出席日数?」
「この3ヶ月、ほとんど出席していませんよね?」

 鋭い指摘に、シンジは「公欠」を持ち出そうとした。だがそれよりも早く、カエデはその逃げ道を塞いでくれた。

「公欠のためには事前の届け出が必要ですからね。
 初代生徒会長なんですから、それぐらいは覚えておいてくださいね」
「確かに、生徒会長の承認事項の中に入っていたような……」

 自分が生徒会長の時には、一度も承認をした覚えがないのだ。だからこそシンジ自身忘れていたと言うところがある。そしてそのころの記憶を引きずり出すと、クラブ他準校務の外出には公休が適用されるが、そのためには公休届の提出が義務づけられていたはずだ。そしてその届が特殊なのは、リリンの生徒だけに義務づけられていたことである。
 その届けを一度も出していないのだから、これまでシンジが休んだのはすべて私用の欠席扱いとなる。つまりそれだけ出席日数から減らされると言うことだ。

「手遅れにならないうちに、上倉さんに相談した方が良いですよ。
 そうじゃないと、冗談抜きで留年ってことになってしまいますからね。
 皆さんの模範を示さなければいけない立場を忘れないようにしてくださいね」
「確かに、留年なんかしたらシャレにならないね……」

 それだけシンジの在学期間がのびるのだから、一部で留年は歓迎されるだろう。だが特に理由があるわけでもないのに、高校留年はやはり恥ずかしい部類にはいることだろう。留年の理由が、届け出忘れではさすがに嫌すぎるというものだ。

「帰ったらすぐに、上倉君に相談してみるよ」

 貴重な助言と情報をありがとう。心から感謝したシンジに、だったらとカエデは一つ提案を付け加えた。

「おいしいレストランで早めの夕食はどうですか?
 もちろん支払いは、情報料と言うことで碇さん持ちになりますけど」
「僕持ち……?」

 二人きりの食事には、さすがに抵抗がないわけではなかった。だがすぐに、家への招待でなければ、それぐらいは良いかとシンジは考え直した。この際多少懐が痛んでも、掛けた迷惑に比べればたいしたことではないだろう。

「そうだね、たまには良いかも知れないね」
「本当ですか、本当にありがとうございます!」

 もう一度頭を下げたカエデは、善は急げとばかりに端末の電源をいきなり落とした。

「あれっ、仕事の方は良いの?」

 ノエインの女性達の忙しそうな様子を見ると、カエデの時間が自由になるとも思えない。だからシンジが心配したのだが、大丈夫だと笑ったカエデは、人差し指を立てて見せた。

「碇さんのことは、最優先事項なんですよ!」

 と、どこかで聞いたような台詞を口にしてくれたのだった。



***



 アホ、バカ、マヌケとまでは罵られなかったが、それに近い罵倒を浴びせられた……主にというか、すべてアスカからだったのだが……シンジは、早速身の安全を図るために生徒会長に会うことにした。間違って留年しようものなら、どんな制裁を受けるのか分からないのだ。

 今回の生徒会、生徒会長訪問は極めて個人的、かつ、余り大げさに出来ない性格もあり、シンジは現生徒会長上倉を呼び出すことにした。それも「来い」ではなく、「相談があるから時間が貰えるか?」と言う極めて下手に出たものだった。しかも「内密に」などとメールを送ったものだから、受け取った方も冷静ではいられなかった。何しろ相手は、3界1の英雄にして、ほとんど最高権力者と言われる相手なのである。その英雄様から、「折り入って話がある」などとメールを貰えば、「いったい何事!」と構えてしまうのも仕方がないというものだ。指定された小会議室にたどり着くまで、「どうして?」と言う疑問が上倉の頭の中を飛び交っていた。

「ごめん、ごめん、いきなり呼び出して迷惑だったかな?」

 こびを売るような笑みを浮かべ、シンジは生徒会長様を会議室に招き入れた。何事かと部屋の中を見ると、席の一つにジュースとお菓子が用意されている。他に誰も居ないことを考えれば、たぶん自分のために用意されたのだろう。しかし英雄様が此処まで卑屈な態度を取るとは、いったい何をしでかしてくれたのか。

「ええっと、上倉君はオレンジジュースで良かったかな?
 違うのが良かったら、すぐにでも買ってくるけど」

 しかし此処までされると、さすがに気持ち悪くなってくる。それに相手はあの碇シンジなのだ、図に乗って大きな態度を取ろうものなら、後から何を言われるのかが恐ろしくもある。だから上倉は、事務的に呼び出された理由を尋ねることにした。とにかく用件を先に聞かないと、落ち着かないという意味も大きかった。

「ええっと、ちょっと遡って申請したい書類が有るんだけど……」
「遡って申請したい?」

 初代生徒会長のおかげで、学園運営に関わる決裁書類の多くが、生徒会長決裁となっている。それを考えれば、上倉が頼られるのも理解できないことはない。それでも理解できないのは、英雄様が此処までしなければいけないような申請書があったのかと言うことだった。アルバイトの申請にしても、出していないからと言って、英雄様を処分できるはずがない。もっとも、シンジの仕事はアルバイトで有るはずがない。

「そもそも、何の申請をするんですか?」

 全く予想が付かない上倉は、単刀直入に申請内容を尋ねることにした。此処まで来たら、話を引き延ばされるのも気持ちが悪いのだ。

「その、公欠届なんだけど……」
「はあ、確かに公欠届は生徒会長決裁になっていますね……
 で、誰の公欠届なんですか?」

 上倉の把握している限り、シンジの関係者に公欠届の必要な人はいないはずだ。ジント達3人の扱いは留学だし、コハクの最高評議会出席は、登校と同じ扱いにされている。だからこそ上倉には、公欠届の必要性が理解できなかった。唯一心当たりがあるとしたら、高一のクレシアなのだが、ビンセントと併せて二人分がすでに提出されていた。
 「誰の?」と言う質問に、シンジはきまりが悪そうに視線を宙にさまよわせた。そして口ごもり、言いかけたのを取りやめ、何度も逡巡した結果、ようやく「僕の」と小さな声にした。

「はあぁっ?」

 別に上倉は、聞こえなかったとか、聞き直したというつもりはなかった。ただ純粋に、驚き、そして理解できなかったのである。だがシンジはそうは取らず、もう一度小さな声で「だから僕の」と繰り返した。

「いえ、碇さんのとは聞こえたんですが……」
「ほら、ちょくちょくエデンやパーガトリに行ったりしたじゃないか。
 それに桜庭さんに会いに、スイスにも行っているし、
 それに年末にはちょっと行方不明になっていたじゃないか……」
「だから、公欠届ですか?」

 うんうんと頷いたシンジに、上倉はこれでもかというほど大きなため息を吐いて見せた。

「そんなことで俺を呼び出したんですか?」

 上倉の反応に不満たらたらのシンジは、非常事態だとまくし立てた。

「そんなことって、僕にとっては大事なんだよ!
 出席日数不足で留年したなんて、そんなことになったらアスカに締められるんだ!
 それに世間体だって、もの凄く悪いじゃないか!!」

 だから公欠届と力説するシンジに、上倉は脱力しながら「なんだ」と吐き出した。もちろん上倉の反応に、シンジが反発したのは言うまでもない。「死活問題だ!」と迫るシンジに、少し落ち着けと上倉は座り直した。

「碇さんを留年させるだなんて、そんな世間体の悪いことが出来ると思いますか?
 そんなことをして、芙蓉学園にとって良いことなんて一つも……」

 そこまで言って、引っかかるものがあって上倉は言葉を飲み込んだ。普通に考えれば、確かに世間体の悪いことに違いない。だが考え方を少し変えてみれば、必ずしもデメリットとばかりは言えないのだ。何しろ英雄様を留年させれば、在学期間がもれなく長くなると言うメリットが付いてくるのだ。そうなると、世間的には学園の魅力が増す結果になるだろう。

「学園のことを考えたら、留年して貰うのも一つの手かも知れませんね」
「まさか、本気でそんなことを考えていないだろうね……」

 止めてくれと懇願するシンジに、冗談ですと上倉は笑った。

「一応公欠届は出されていますからね。
 出席日数では碇さんを落第させられないんですよ」
「公欠届が出ている?」

 家の中では、誰もそんなことを言ってくれなかった。それどころか、アスカからは本気で罵られたのだ。それを考えれば、奥さん’sの誰かが気を利かせてくれたとは思えない。そして上倉も、シンジの考えを肯定してくれた。

「ああ、アスカさんやクレシアさんではありませんよ。
 クレシアさんは気にしていましたが、届けが出ていると聞いて安心していましたよ」
「じゃあ、一体誰が?」

 家族の誰でもないというと、誰が出したのか気になって仕方がない。受け取ったのが上倉なら、提出した相手も知っているだろう。だが「誰?」と言うシンジの疑問に、上倉は別の答えを返すことにした。それは提出された公欠届けが、シンジの関与していないことを問題にするものだった。

「一応受理したんですけど、碇さんが頼んだ訳じゃないんですね。
 だったら虚偽の申請と言うことで、俺は却下しなくちゃいけないのかな?」

 どう思います?と聞かれれば、その通りとしか答えようのない問題でもある。申請という物は、直接関係する本人が出す必要があるはずだ。まあ家族ならば、本人に含められる物なのだが。

「一応家族からの提出であれば受理できるんですけよね。
 まあ女子からの申請ですから、いずれ碇さんのお手つきになるからと思ったんですが」
「いやっ、その決めつけも勘弁して欲しいんだけど……」

 そう言われると、とても自分が酷い人間になった気がしてならない。すでに「鬼畜」と言われ続けているのだから、開き直っても良さそうな物なのだが。
 真剣に悩んだシンジに、上倉はついに吹き出してしまった。そして「からかって申し訳ない」と謝って、届けの方は問題ないと説明した。

「石田さんが公欠届けを持ってきたとき、全員が思わず膝を叩いたぐらいなんですよ。
 家族以外の申請と言うことについては、とりあえず俺が押し切りました。
 まあ申請が出ていなくても、碇さんを留年させる度胸のある人はいないと思いますけどね」

 それでも変な波風は立てない方が好ましい。気を利かせて公欠届けを出してくれたサラに、シンジは心から感謝の念を抱いていた。おかげで恥を掻かずに済んだし、アスカに折檻されなくても済む。まさに神様仏様石田様と言うところだろう。

「と言うことなので、碇さんは安心して3年になってください」
「……本当に?」
「生徒会長の保証では不足ですか?」

 まじまじと顔を見られ、シンジはぶんぶんと首を振って否定した。

「なにか、とっても肩の荷が下りた気がするよ。
 石田さんには、どれだけ感謝をしても足りないね」
「たぶん、ありがとうの一言で十分だと思いますよ」

 サラの性格を考えれば、それで十分だと言えるだろう。もっとも上倉にしても、サラの深慮遠謀までは理解していない。IIIの設立、そして副会長就任は知っていても、巻き込まれたという見方を上倉はしていたのだ。当分直接的な行動には出ないだろうと推測していただけである。
 これでいいいかと、上倉は帰ろうと立ち上がった。シンジに呼び出された用件が終わったのだから、これ以上ここに長居をしてもしょうがない。それにシンジはシンジで、伝える相手が居るだろうと考えたのだ。だが返ろうとした上倉を、ちょっととシンジは呼び止めた。まだ何かあるのかという顔をした上倉に、「石田さんだけじゃなかったね」と上倉に頭を下げた。

「生徒会長にも、多大なるお世話になったと言うことだろう?
 ありがとうだけじゃ足りない気がするんだ。
 何か僕に出来ることがあったら、遠慮無く言ってくれないか?」
「別に、俺はそんなつもりで承認した訳じゃないし……」

 一瞬モデルのことが頭によぎったが、交換条件に出すようなことではないと上倉は思いとどまった。そうなると、特にお願いするようなことはない。そう思った上倉だったが、一つだけお願いした方が良いことを思い出した。ただそれにしても、個人的なものからは遙か遠く離れたものだった。

「碇さんにお願いすることがあるとしたら……
 そうですね、来年度の生徒会にも今まで通り支援して頂ければ。
 もうすぐ任期の終わる俺としては、それぐらいしかお願いすることはありませんね」
「それは、今まで通りにやっていくつもりだよ」
「だったら、俺からは特にありませんよ」

 「すべて公務の範囲です」と上倉は、気にしないようにとシンジに告げたのだった。







続く

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