目が覚めたとき、その先にあったのは見たくもない天井だった。やけに広い部屋の真ん中に、そのベッドは置かれていた。まさにぽつりという状況に、どういうことだとシンジは思わず苦笑を浮かべてしまった。窓から差し込む光は、昼だというのに薄暗くなっている。これで隣に綾波レイがいたら、まるであの時の繰り返しになってしまう。
 シンジがバカらしいと思ったとき、過去によく聞いた、そして今は聞くことのできなくなった声が聞こえてきた。抑揚の乏しいその声は、「目が覚めた?」と記憶に残る問いかけをしてくれた。

「綾波……?」

 あわてて声の方を向くと、そこには一人の少女が座っていた。記憶に残るままの姿をした彼女は、読んでいた本を開いて立ち上がった。

「本日、ヒトフタマルマル……」

 だがシンジは、少女に最後まで言葉をしゃべらせなかった。自分を見る赤い瞳を見つめ返し、「無駄だよ」と静かに語りかけたのだ。

「あのときを繰り返しても、僕は惑わされたりしないよ」
「……何を、言っているの?」

 本当に記憶に残っているとおりだと、シンジは少女の反応に感激もしていた。失われてしまって二度と逢えないと思った彼女が、今こうして目の前にいてくれる。だがそれは、シンジがいるべき世界のことではなかった。そしてこれが、現実の世界でないことも理解していた。

「綾波、どうしてこんな真似をしたの?」
「私は、あなたが何を言っているのか分からない。
 私は、葛城一尉からの命令を伝達に来ただけ」

 少女の浮かべた困惑は、さらに深まったように見えていた。その表情もまた、シンジのよく知る少女の物だった。懐かしさに胸は苦しくなったが、もう乗り越えたことでもあった。

「第伍使徒がネルフ直上で停止」
「現在ドリルで、隔壁破壊中と言うんだろう?」

 ふっと息を吐き出したシンジは、意味のないことは止めようと優しく言った。今更過去を繰り返すことに意味はない。そんなことで自分は惑わされないし、夢だと思うことも絶対に無いのだと。シンジは裸のままベッドから降りると、驚く少女に近づいた。そのときの自分を見れば、中二の頃の体格をしている。鍛錬のかけらもない体は、薄い筋肉しか付いていなかった。当然左手の薬指には、赤い指輪は着けていない。それでもシンジは、自分が夢を見ていたのだとは思っていなかった。それは確かな実感、そして意志がそこにあったのだ。

「僕は、自分の世界に帰らなくちゃいけないんだよ。
 こうして綾波と逢えたのはうれしいけど、ここは僕のいる世界じゃないんだ」

 そしてシンジは、薄明るい窓から広がる世界を見た。そこには、記憶に残るジオフロントと全く変わらない世界が広がっていた。だからこそ、それが本当の世界でないことが分かってしまう。通り過ぎた過去、それを繰り返すことに意味など有るはずが無い。どんな過去でも、今より大切な物はないのだから。

「融合した世界、精神だけとなった僕の存在……」

 シンジは振り返ると、真っ直ぐに綾波レイの顔を見た。

「精神の世界では、自分の形は自分で思い出さなくてはいけないんだ!」

 シンジがそう口にした瞬間、中学生の体は成長した高校生の体に変わっていた。鍛えられた体には、しなやかな筋肉が宿っている。そして左手には、少女の形見となった指輪が赤く光っていた。

「碇君、何を言っているの」
「この世界の真実、僕が生きていく世界のことだよ」

 裸だったシンジは、いつの間にか洋服を着ていた。茶色のズボンに白いワイシャツ、そして茶色のベストの格好は、シンジの家とも言える芙蓉学園の制服だった。

「僕は、自分の生きている世界に絶望などしていない。
 そしてそこには、一緒に生きていきたい人たちがいる」

 驚いた顔をした少女に、シンジははっきりと宣言した。

「綾波、僕は元の世界に帰らなくちゃいけないんだ。
 そこには、僕の大切な人たちが僕の帰りを待っていてくれるんだよ」
「でも、そこには私の居場所はない……」

 そう答えたときのレイは、中学生ではなく成長した姿に変わっていた。それはシンジには見ることも叶わなかった、別の時間軸での少女の姿だった。

「私は、碇君と一つになりたかった。
 私の願いは、ただそれだけだった……」
「僕も、綾波と一緒にいたかったよ」
「だったらっ!」

 少女が何を言いたいのかは分かっていたが、シンジはそれを受け入れるわけにはいかなかった。だめだと首を振ったシンジは、帰らなくてはいけないと繰り返した。

「僕には、果たさなくてはいけない責任があるんだよ」

 だから聞き分けて欲しい。シンジは少女に近寄ると、優しくその体を抱き寄せた。その暖かさにうっとりとした少女は、シンジの予想とは斜め上、そしてシンジを知る者なら「またか」と言われることを口にした。

「して、くれるの?」
「……どうして、そう言うことを言うのかな?」

 明らかに、もの凄く困った顔をシンジはした。

「だって……」

 少女は少し口元を歪め、シンジにとって聞き慣れた、そして少女の口からは……誰からの口からも聞きたくないことを言われた。

「碇君は、“鬼畜”なんでしょう?」
「綾波……」

 脱力したシンジは、いいかいと言って少女の両肩を掴んだ。そして正面から、赤い瞳を覗き込んだ。

「鬼畜というのは、女性を弄ぶ人のことを言うんだよ」

 だから僕は鬼畜じゃない。そんなシンジの主張は、当然少女には通じなかった。

「碇君は、私の心を弄んでいるわ。
 これって、十分鬼畜の用件を満たしていると思うの」

 だからと、少女は瞳を閉じ、キスをせがむように少しのびをした。

「綾波……僕には」
「恋人が居るというのは理由にならないわ。
 複数の人を相手にしているから、“鬼畜”って言われるのよ」

 してくれなければ帰してあげない。理由らしき物をこしらえ、少女はもう一度のびをしたのだった。







<<学園の天使>>

153:







 サードニクスの配下達は、コハクに内緒という主の命令を忠実に果たしていた。正規ルートを通すわけにはいかないと、用務員室ルートを利用した彼らは、命令からわずか1週間でパーガトリに基本部分を構築した。ちなみに構築場所は、更地となった黒曜石の住まい跡である。消えた場所に一番近いところが良いだろうというのがその理由だった。そしてさらに1週間後、必要となる原料も設備に注入された。後は紫の奏者が復帰するのを待つばかりである。

「おい、本当にこれが役に立つのか?」
「役に立ってくれると良いなぁと言うところだね。
 私としては、結果的にシンジが帰ってきてくれれば良いんだよ」
「そらあ、まあ、そうなんだがな……」

 で、と、ロードナイトは培養槽……というか、どう見ても風呂桶にしか見えない施設に視線を向けた。

「なんだ、あの、趣味的な作りは?」

 そう言いたくなるのも無理がないと思うほど、その設備は“お風呂”だった。しかもどこで調べてきたのか、“露天風呂”風情になっているのだ。なぜ壺を持った女性をかたどった湯口が必要なのだろう。

「3界1の勇者を迎える設備なんだよ。
 色気のない培養槽じゃ申し訳ないとは思わないかい?」
「どっちにしても、長く入っている物じゃないだろうに……」

 満たされているのが透明なお湯ではないのだ。生命のスープ、タンパク質やらカルシウム、脂質が入り交じった物となれば、一瞬でも早く出たいと考えるだろう。そんな設備が、露天風呂で有って良いのだろうか。
 そんな疑問を抱いたロードナイトに、それとこれは別だとサードニクスは繰り返した。

「必要な舞台装置だと思ってくれないか?
 もしも仮説が正しければ、再構成には原料が必要なんだ。
 ミョルニルの照射で失われた物質、それを補給する必要があるんだよ。
 そしてそれは、パーガトリに有るのが相応しいという結論に達したんだ」
「まあ、言わんとすることは理解しているがな……」

 それにしても趣味が悪い。ロードナイトは、コポコポと音を立てる“露天風呂”を見た。そこには、どろっとした赤い液体が満たされていた。

「俺だったら、あんなところから出てくるのは願い下げだがな」

 気色悪さ満点だと、本当に嫌そうにロードナイトは答えたのだった。



***



 いくら巧妙に隠し立てをしても、サードニクスが完全にコハクを出し抜くことは不可能だった。何しろエデンでは、コハクの方がシンパが多い。その上パーガトリ国王は、コハクに対する点数稼ぎを至上命題にしているのだ。だったらパーガトリのことなど、コハクに対して隠し立てできるはずがない。

「サードニクス様がな、パーガトリでおかしなことをしておるようだ」

 その結果、パーガトリでの培養槽……別名露天風呂設置はコハクの耳に届くことになる。サードニクスの目的がどこにあるのか、それは今更考えるまでもないことだろう。そしてそれを自分に内緒にする理由もまた、今更問題にするほどのことではない。自分の上役の性癖など、今更騒ぎ立てることでもないのだ。

「それでコハク、あんたはどうするの?」

 その認識はアスカも同じだったのだろう、とっても醒めた言葉でコハクに対処を聞いた。目的を考えれば、制裁するほどのことではない。ただ“バカらしい”と思った程度のことだった。
 だがコハクは、どうすると言うアスカの言葉を別の意味で受け取った。どうするかと問われたコハクは、悩んでいるのだとその気持ちを吐き出したのだ。

「今の形で捜索しても、意味がないのではと思えてしまうのだ。
 今や世界でシンジのことを知らぬ者は居ないであろう。
 ならばシンジが見つかれば、必ず我らの耳に届くと思えるのだ」

 コハクの考えに、その通りだとアスカも認めた。シンジの不在が知れ渡ったのだから、コハクが言うとおり発見されさえすれば自動的に通報されるのは間違いない。それがないところを見れば、未だどこでも見つかっていないのだろう。消え方を考えれば、まだ現れる時期ではないのかもしれない。
 それでもアスカは、シンジが帰ってくることを疑っていなかった。それは根拠のないコハク達の信じ方とは、また別の理由を持っていた。それはプリムラの証言に出てきた、シンジを待っていた少女の存在である。

(あのバカが執着しているんだろうけど……)

 精神だけの存在になったのに、未だにあきらめが悪いとアスカは文句を言っていた。それはかつての同僚にして、大融合、すなわちサードインパクトを引き起こした綾波レイに対する文句である。いい加減シンジを諦めればいいのに、未だに執着しているだけでなく、こんな事件まで起こしてくれたのだ。綾波レイを知るだけに、アスカとしては文句の一つや二つでは収まらないところがあった。すでにシンジは、この世界に大切な人を沢山作っているのだ。今更過去の女が出てきたところで、いつまでも引き留めておけるはずがないというものだ。

(そりゃあ、シンジは“バカ”が付くほどお人好しだけど……)

 それでも帰ってこないことはあり得ないと、アスカは信じている。自分やコハク、ヒスイが悲しむことだけが理由ではない。せっかく救い出した少女が、責任に押しつぶされてしまう可能性もあるのだ。お人好しだが責任感も強いシンジが、そんなことを見過ごすはずがないだろう。だから必ず帰ってくる、アスカはそう信じて疑わなかったのだ。だから不安を顔に出し始めたヒスイにも、「バカね」とはっきり言うことが出来た。

(あたし達は、シンジが帰ってくることを知っている)

 信じているのではなく、知っているのだとアスカは気が付いた。だからこんなにも、自分は落ち着いていられるのだと。そして帰ってくるのなら、どうやって懲らしめるのかを考えなければいけない。いくら少女一人助けるためとは言え、しでかしたことが重大すぎるのだ。これでは帰ってきたら、本当に神様に祭り上げられてしまうかも知れない。それを考えたら、ちゃんと叱ってやらなければいけないだろう。
 それにと、アスカは自分自身の感情を顧みた。帰ってくることに疑問は持っていなかったが、逢えないことへの寂しさは感じていたのだ。たぶんそれは、コハクやヒスイも同じなのだろう。それだけ大切な奥さんを待たせたのだから、ちゃんと落とし前を付けてもらわないといけないという物だ。

(本当は、ファーストにも責任を取らせないといけないけど……)

 どこにも居ない相手には、責任を取らせようが無い。だったらシンジに、代わりに責任を取らせればいいだろう。どう責任を取らせたらいいのか、早速コハク達と相談しようとアスカは考えた。



***



 結果だけを見れば、何もしなくてもシンジは帰ってきた。それはパーガトリの事件から2ヶ月とちょっと、もうすぐ生徒会の選挙が始まる頃だった。
 いきなり碇家玄関に現れたシンジは、チャイムを鳴らそうかどうか迷っていた。何しろ今まで音沙汰が無く、帰るとも連絡を入れていない。短くない時間放置した奥方達のご機嫌を考えると、身の危険すら感じてしまうのだ。「九死に一生を得た」「奇跡の生還」とまあ、題字をつけるのならいくらでも考えつくが、そこまで素直な奥方達とは思えない。そもそも、そうなる理由を作ったのはシンジ自身なのである。

「ひ、ヒスイなら、きっと理解してくれるさ……」

 このあたり、シンジは正しく情勢を認識していると言うことだ。どうしてここまで時間が掛かったのか、勘の鋭いと言うか、一番事情を知っているアスカなら感づいているに違いない。だから一番“優しい”ヒスイならと、シンジは期待してしまったのである。
 その思いを頼りにチャイムを押そうとしたのだが、いざというとき一番誰が恐ろしいのかを思い出した。何しろヒスイは、“殺戮の美姫”なのだ。さすがに今度は、本気で怒っているのかもしれない。

「こ、コハクだったら、髪の毛一本まで僕のものと言ってくれたから……」

 だからきっと理解してくれる。そう思い直し、シンジはもう一度チャイムに指をかけた。だがいざ力を入れようとしたところで、烈火のごとく怒る顔を思い出してしまった。常々自分を大切にと文句を言われていたのを思い出したのだ。少なくとも、ミョルニルに飛び込むのは自殺行為としか言いようがないだろう。

「アスカは……一番容赦がない気がするし」

 結局アスカに戻ってきたのだが、ちっとも救いにならないのは今更言うまでもない。このまま帰ったら、一番酷い制裁を加えてくれるのは彼女に違いないのだ。それを考えると、どうしてもチャイムを押すことができない。3界1の英雄、そしてミョルニルを生身で受け止め、融合現象まで収束させた英雄が、妻達の怒りを恐れているのである。アンバランスと言えばそれまでなのだが、逆にシンジらしいと言うこともできた。
 そこでエリカやクレシアの名前が出なかったのは、卓越した危機回避能力の賜物と言っていいだろう。優先すべき相手を間違えれば、それだけで怒りに油を注ぐことになる。つまりシンジに残された道は、碇家玄関のチャイムを押すこと以外にはあり得なかったのだ。

「だけど、このまま時間をおいたら……」

 おそらくもっと恐ろしい目に遭うか、それともきれいに忘れ去られるか。そのどちらにしても、シンジに良いことは一つもない。それを考えれば、面倒を先に延ばして一つも良いことはない。玄関前で5度深呼吸したシンジは、意を決して碇家のチャイムを押した。
 ピンポ〜ンと言う軽やかな音に続いて、ぱたぱたと言うスリッパの音が聞こえてきた。足音の軽さから、きっとナズナだろうと安堵したシンジは、緊張しながら玄関が開くのを待った。そして足音に続き、ドアのロックをはずす音が聞こえてきた。どうやら不審者とは思われなかったようだ、一つの関門は超えたとシンジは小さくため息を吐いた。そしていよいよ開く扉に、シンジは身構えた。しかし待てど暮らせど、玄関の扉は開いてくれなかった。それどころか、ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかっていくのが聞こえてくる。ロックがはずされたのだから、きっと玄関は開くのだろう。

「……不用心じゃない?」

 まあしっかりと警備されている碇家だから、玄関の鍵ぐらいでセキュリティレベルが下がるわけではない。それでもロックをはずして居なくなるのは、不用心と言って良いだろう。だが一番の問題は、自分が帰ってきたことが分かったはずなのに、誰も迎えに出てくれないことだった。

「……でも、ナズナだし……」

 常識を期待してはいけない、意を決して何の変化もない玄関を開くことにした。

「……ただいま」

 何の抵抗もなく開いた玄関から中に入り、シンジは小さく声を掛けた。どういう訳か、居間の方からは何の反応もない。ナズナが居たぐらいだから、留守と言うことはないだろう。それに耳を澄ませば、笑い声も聞こえてくる。シンジは、先ほどよりは大きな声で「ただいま」と呼びかけた。だが、それでも誰も反応してくれない。「放置プレーですか?」と落胆し、シンジは靴を脱いで中へとあがっていった。

「あの、ただいま……」

 今度こそ何か反応して欲しい。そう願いながら居間のドアを開いたが、残念なことに誰もシンジに反応してくれなかった。アスカとコハクは、テレビゲームに打ち込んでいるし、ヒスイはヘッドホンを耳に当てて音楽を聴いている。ユウガオとナデシコはキッチンで忙しくしているし、ナズナはテーブルに皿を並べていた。
 ナズナの並べた皿の数は7。ひいふうみいと中にいる数を数えると、自分を含めて7人となる。ちょうど数が合うのだが、逆にそれが不思議に思える。

「ええっと、ただい」「うるさい!!聞こえているから、何度も騒ぐんじゃない!!」

 責められるのも辛いが、無視されるのはもっと辛い。注目してと声を出したシンジだったが、言い終わる前にアスカにしかられてしまった。そうなると、もう声をかけることもできない。しかも怒ったアスカも、すぐにコハクとのゲームに注意を向けている。「これが罰ですか?」と肩を落とし、シンジはすごすごと居間を出て行った。どこかに逃げるわけではなく、一応着替えるために部屋に戻ったのである。それを確認したナズナは、「もう良いです」と全員に合図をした。

「アスカ、やりすぎではないのか?」
「これぐらいやらないと、あのバカ反省しないわよ!」
「ですが、シンジ様にも仕方のない事情があったのかと……」

 部屋で泣いていないか、天井を見上げたヒスイに、それぐらい必要だとアスカは言い切った。

「この2ヶ月間、あたし達がどんな思いで居たか、どれだけ辛かったのか。
 帰ってきたら、それで目出度しって訳にはいかないのよ……で、ナデシコ、どこに行くつもり?」

 力説したアスカは、居間を出て行こうとしたナデシコに目をとめた。こういうときには、誰の抜け駆けも許してはいけない。それでは罰を与えた意味が無くなってしまう。

「ええっと、ちょっとおトイレに……」
「がまんなさい!!」

 でもと言い返そうとしたが、つり上がったアスカの目にナデシコは次の言葉を飲み込んだ。碇家において、誰が権力者なのかは言うまでもない。シンジに逆らえても、アスカにだけは逆らってはいけないのだ。

「とにかく、こういうときにはびしりと……ヒスイは?」

 たった今まで、目の前に居たはずなのだ。そのヒスイが、どういう訳かどこにも見あたらない。しかもいなくなったのはヒスイだけではなかった。

「あの、コハク様も姿が見えないのですけど……」

 おそるおそる声をかけてきたナデシコに、そう言うことかとアスカは居間を飛び出した。二人の姿が見えない以上、行き先の心当たりは一つしかない。階段を駆け上がったアスカは、ここかと目指す扉を開いた。自分の考えが間違っていない限り、二人はシンジの部屋にいるはずなのだ。そして期待通り、二人の姿をそこに見つけた。

「……あんたたち、そうやってシンジを甘やかすから」

 がっくりと肩を落としたアスカの前で、シンジはヒスイの胸に顔を埋めていた。その横では、コハクがシンジの頭をなでていた。

「夫が落ち込んでいるのだから、それを慰めるのは妻の務めなのだ。
 なに、アスカはシンジに怒っておるのだろう、その怒りが収まるまで下で待っておれば良いぞ!
 我らは、2ヶ月分シンジに奉仕することに決めたのだ」

 なあと話を向けられたヒスイは、その通りですと大きく頷いた。

「きっとシンジ様も寂しかったのだと思っています。
 ですから妻として、慰めて差し上げなければと……」
「そう言うなし崩しって良くないと思うんだけど……」

 ナデシコ達ならいざ知らず、コハクやヒスイには強いことも言いにくい。やってられないとため息を吐いたアスカは、「シンジ!」と大きな声で呼びかけた。

「帰ってきたのなら、家長の役目を果たしなさい!!
 とにかく下に降りて、何があったのかをちゃんと説明すること!!」
「アスカよ、とりあえず2時間ほど待ってはくれないか?」

 やけに具体的な時間を口にしたコハクに、絶対にだめとアスカはすごんで見せた。その時間を何に使うのかなど、今更確認するまでもない。アスカとしては、そんな抜け駆けが許せるはずがない。

「……1時間、待ちなさい!
 その後だったら、2時間なんて言わないから。
 っていうか、総掛かりで搾り取ってあげましょう。
 私の権限で、ナデシコにも解禁してあげます!」
「アスカ、搾り取るというのは下品ではないのか?」

 一応のつっこみを入れたコハクだったが、異存など有るはずがないと受け入れた。そしてユウガオたちを呼び出すと、ここにいない妻達を連れてこいと命令した。

「9人がかりで勇者に挑むことにする!
 それでも足りないようなら、本宅からサイネリア達も連れてこい!」

 妻達の浮かべた表情に、シンジは一瞬帰ってきたことに後悔したのだった。



***



 1時間とアスカは言ったが、残念なことにその程度では解放して貰えなかった。なぜというのは今更言うまでもないだろう。失踪していた3界1の英雄が帰還したのだから、周りが放っておいてくれるはずがない。知らせを聞いたジント達が、押っ取り刀で駆けつけてくれたのである。

「ようシンジ、とりあえずこれが俺様からの祝いの代わりだ!」

 にこにこ笑いながら、イツキは正面から、両手でぎゅっとシンジの首を絞めた。よく見ると、こめかみの辺りには青筋が立っている。それなりに怒っているのか、さもなければ相当力が込められているのか、おそらくその両方が該当していたのだろう。
 初めは「やめてくれ」とばかりに手を叩いていたシンジだったが、いつまで経っても力が抜かれないのに命の危険を感じ、イツキの両肘を親指で強く押した。ヒスイ直伝なのだが、これで両腕に力が一時的に入らなくなるらしい。

「い、イツキ、さすがにしゃれになっていないぞ!」

 げほげほと咳き込んだシンジに、イツキは冷たい視線を向けた。

「お前は、女性の首を絞めるのが好きだと噂に聞いたからな。
 そう言う性癖があるのなら、俺様が試してやったまでだ」
「し、失礼な、そんなことをした覚えは僕には無いぞ!」

 と言いながら、それなりに心当たりのあるシンジである。ただそれをした相手が口にするとは思えない。目で追う真似こそしなかったが、シンジはアスカの反応を確かめていた。当然にやにやと笑うだけで、目立った反応をしているわけではなかった。

「俺様には、情報源があるのを忘れたのか?」

 だがイツキは追撃の手をゆるめず、背中に隠していた一人の少女を紹介した。おずおずと現れた少女は、シンジに向かってごめんなさいと頭を下げた。

「ええっと、プリムラだったかな?」

 うんと頷いた少女に、シンジはにこりと笑って見せた。イツキとぶつかっていても、小さな少女に当たるような真似はしたくない。それに、イツキの言葉は意味不明だった。

「別に、あのときのことなら謝らなくて良いんだよ。
 あれは、プリムラが悪い訳じゃないんだからね」
「ううん、その、英雄様のこと。
 イツキが教えて欲しいと言ったから、知っていることを教えたの」
「知っていること……?」

 はてと首をひねったシンジに、「いろいろ」とプリムラは微笑んだ。

「あの人と記憶を共有していたから、本当にいろいろと覚えているの」
「あの人……!?」

 そう言われて思い浮かぶのはただ一人しかいない。ひくっと顔を引きつらせたシンジは、あまり話す物じゃないよと諭すようにプリムラの頭を撫でた。それがうれしかったのだろう、うんと頷いたプリムラは「もう話さない!」と約束した。
 それにほっとしたシンジだったが、イツキはそれを見逃してくれなかった。だがそれ以上にイツキの行動をヒスイが見逃さなかった。イツキが再攻撃しようとした瞬間、両手を伸ばしたままその体が硬直してしまったのだ。何のことはない、いい加減にしろとヒスイが手を出したのだ。

「でも、体の方は大丈夫なんですか?」

 イツキを無視して、カエデが側に寄ってきた。イツキの可哀想なところは、誰も心配してくれないことだろう。プリムラでさえ、気にしないでシンジの側に立っているのだ。ただそのせいで、微妙にヒスイが近寄れなくなっていた。おそらく、しこたまやられた記憶が残っているのだろう。

「うん、別におかしいところはなさそうだよ。
 まあ3度目だから、慣れた物って言えば慣れた物だからね」

 心配してくれてありがとう。そう言って笑ったシンジに、カエデの反応は少しだけ方向が違っていた。
 ほっとため息を吐いたカエデは、だから言っただろうとジントの方を見たのだ。

「やっぱりジン君が心配のしすぎなんです。
 碇さんは、自分でも非常識だって自覚しているんです。
 だからあの程度のことで、どうにかなるなんてあり得ないんですよ」
「いやっ桜庭さん、別に僕は非常識だってことを自覚している訳じゃないんだよ。
 っていうか、あまり非常識って言わないで欲しいんだけど」

 ものすごく嫌だと言うシンジに、そうでしょうかとカエデは首をかしげた。

「ミョルニルって、機動兵器だって受け止められないって聞きましたよ。
 それを生身で受け止めちゃうのは、普通非常識だって言いますよ。
 それに融合現象から何もなかったように帰ってくるんですよ。
 普通そう言うのは、“非常識”って言いませんか?
 それとも、そう言うのって誰にでもできる常識的なことなんですか?」
「いやっ、さすがに誰にでもできることじゃないけど……」

 そう言う聞き方をされれば、さすがにシンジも言葉に詰まってしまう。シンジの肯定に、そうでしょうとカエデは頷いた。

「そのくせ、変なところだけ常識的なんですから……」
「はっ、何のこと?」

 首をかしげたシンジに、何でもないとカエデはごまかした。ただ自分は、考え方のバランスが悪いことを指摘しただけだと。

「でも碇さん、誰も碇さんの心配をしなかったことを考えた方が良いですよ。
 それから碇さんが周りを甘やかしすぎていたのが今回で分かりました。
 特にリリンが顕著なんですか、皆さんとても協力的になったんですよ。
 それに新横須賀市もそうですが、リリン同士の争いが沈静化したんです。
 これって、皆さん碇さんに甘えていたと言うことに繋がっているんです!」
「……僕がいない方が、うまく回っていたって?」
「そこまでは言いませんが、その、それに近いところはありました」

 カエデの答えに、シンジははっきりと肩を落とした。何か考えると、自分が諸悪の根元のように思えてしまう。本当に帰ってきて良かったのか、それを突きつけられると悲しくなってもくる。
 落胆したシンジに、カエデは少しあわてて慰めの言葉を掛けた。だがその微妙な慰め方に、全員の顔が微妙に引きつった。

「ほら、碇さんがいなくて静かだったのは、単に次の手が思い浮かばなかっただけで……
 その、たぶん、碇さんが帰ってきたら、その、面食らっていると思います」
「また、計画を立て直さないといけないから?」
「そうそう、そうなんですよっ。
 だから碇さんが悪い訳じゃなくてぇ……」

 ええっとっと考えても、それ以上何か言えるわけでもない。ううむと考えたカエデに、それ以上はやめておけとジントが助け船を入れた。

「単にけがの功名って奴だよ。
 まあお前が頼りになりすぎたから、みんな知らないうちに頼っちまったんだよ。
 だからお前がいなくなったとたん、みんな思慮深くならなければならなくなった。
 ただ、それだけのことなんだ」

 それだけ評価されているのだと、ジントはフォローがてらにシンジを持ち上げた。

「それに、しばらくは議長さんもおとなしくしているだろうよ」
「それだけが、唯一の救いかな?」
「そう思って、元気を出すことだな」

 どんと力一杯背中を叩かれ、さすがのシンジも思いっきりつんのめってしまった。







続く

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