パーガトリ上級戦士の受け入れは、その出自から考えればとても静かな物になっていた。まあパーガトリと違って、特に歓迎式典など用意されていないから仕方が無いとも言えるのだが。それでも受け入れ初日には、コハク自ら3人に「しっかりやるのだ」と激励の言葉を与えていた。ちなみにパーガトリ王族、アイオライトの言葉もあったのだが、どちらかと言えばコハクの威光にかすんでしまったのが実情だった。

「われは、ぬしらに大きな期待を抱いておるのだ!」

 しかもそこまで言われれば、タイガーアイでなくとも感激してしまうと言う物だ。いったいどこの戦士だと聞きたいぐらい、一日でコハクのシンパになってしまったという。ちなみにその背景には、側仕えのユウガオに一目惚れしたという噂もあったのだが。いずれにしても、パーガトリ上級戦士の受け入れは、心配された混乱もなくスタートを切ったのである。

「そうか、今日からお前のことは「トラ」と呼ぶ!」

 ちなみにこの一言で、タイガーアイの愛称は「トラ」に決まったという。付け加えるなら、名付けの親は魚屋太助の大将である。体の大きなタイガーアイを気に入った小柄な大将は、背中を叩きながらよろしく頼むと言ったのだった。

「魚屋のイロハは、この俺がしっかりと教えてやる!
 聞いたところによると、パーガトリには魚がうようよいるって言うじゃないか。
 だったらお前、魚屋にとって天国のようなところじゃないか!」

 あっはっはと大笑いしながら、大将はどんぶりから酒を呷った。ちなみにまだ日は高く、つまみは売り物の中落ちだった。

「女将さん、放っておいて良いんですか?」

 いきなり仕事中に酒盛りを始めたことに、さすがにタイガーアイも面食らわないではいられなかった。だから女将に聞いたのだが、いつものことだと諦めているようだった。

「だから、あたしはあんたが働いてくれるってんで喜んでいるんだよ。
 良いかい、あたしは飲むなとは言わないよ。
 でもちゃんと仕事をしてから飲むようにしておくれ!」

 宜しいかいと聞かれ、タイガーアイはしっかりと頷いた。戦士にとって仕事というのは命をかける場なのである、酒を飲むのはあくまで休息の時でしかないと考えていたのだ。だから女将の言うことは、タイガーアイにも受け入れやすいことだった。
 だが頷いているタイガーアイの隣で、大将の酒盛りはさらに進んでいた。中落ちに飽きたのか、今度は鰯を捌き始めていた。

「どうだトラ、お前も一杯やらないか!
 今の時期の鰯は、脂がのってそりゃうまいんだ!」

 ほれと差し出されれば、手をつけないわけにはいかないだろう。良いのかと女将の顔を伺ったトラは、おそるおそる差し出された鰯の刺身に手を出した。

「……うまいな」
「だろう、それと合わせるのはやっぱり日本酒だ!
 ほれ、今日ぐらいは遠慮しないで俺様につきあえ!」

 そう言って、もう一つどんぶりを取り出して、一升瓶からどぼどぼと酒をついだ。そして「飲め!」とタイガーアイに差し出した。

「いや、さすがに仕事中は……」
「だから、今日ぐらいは固いことを言うな!
 どうせ今日はまともな売り物は残っちゃいないさ。
 だったらトラを歓迎するためにも、これから酒盛りをするんだ!
 ということでかかあ!
 アラを炊いた奴があっただろう、出し惜しみをしないでここに持ってこい!!」
「女将さん……」

 困ったように見られた女将は、仕方がないと肩をすくめて見せた。

「あんたの歓迎は、もっとちゃんとしてあげたかったんだけどね……
 トラさん、今日は許してあげるから、うちの亭主につきあっておくれ」

 そう言って奥に消えたものだから、タイガーアイは断る理由を無くしてしまった。仕方がないとどんぶりを受け取ったタイガーアイは、そこに満たされた日本酒をぐいっと一息で飲み干した。

「おおっ、こりゃ良い飲みっぷりだぁ!
 さすがはパーガトリの上級戦士、酒にはめっぽう強いってのは本当だな。
 おい、かかあっ!」

 飲みっぷりに気をよくした大将は、煮物を取りに入った女将を大声で呼んだ。

「三河屋に言って、一升瓶を5、6本届けて貰ってくれ!
 この程度の酒じゃ、こいつには物足りねえだろう!!」
「はいはい、いつもの奴で良いんだろう」

 大きな皿に魚の炊き合わせを盛ってきた女将は、仕方がないと携帯電話を取り出した。

「ああ、サクラちゃんかい。
 悪いけど、いつもの奴、今日は10本持ってきてくれないかい。
 ああ、うちの人が酒盛りを始めちゃってね……
 そう、ゲンさんちもトメさんちも同じなのかい……」

 どういう基準で受け入れ先を探したのか、上級戦士を受け入れた先の主人は、いずれも酒好きだったようだ。結局昼の日中から、三カ所とも酒盛りになっているらしい。

「仕方がないねぇ……」

 女将は小さくため息を吐くと、もう一度携帯電話を取り出した。

「マサさんかい、悪いけど特上を10人前届けちゃくれないかい。
 なんだったら、お前さんも店を閉めて宴会に混じるかい?
 その代わり、つまみは自分で持ってくるんだよ!」

 電話を切った女将は、ふうっと小さなため息を吐いて空を見上げた。晴れ上がった1月の空は、少し涼しくて気持ちが良かった。こういう日に外で飲むのは、そりゃあ気持ちが良いのは分かっていた。

「まあ、男って奴はどこでも一緒なんだね……」

 久しぶりに飲もうか、女将はにやりと笑ってどんぶりを取りに戻った。







<<学園の天使>>

152:







 情報交換のために帰ってきたコハクは、「複雑な物がある」と最初にアスカに零した。何のことだと訝ったアスカに、ヒスイを前にした男達の反応だとコハクは説明した。

「仕方のないことだと諦めてはいたが、やはり見せつけられるのは辛いと言うことだ。
 われが連れて行ったのだからな、文句を言うのは筋違いだと分かっておるのだが……」

 ちなみに宴で若手の事務方は、ヒスイの周りに群れをなしたというのだ。その真ん中で歌わされたというのだから、ヒスイにとっても迷惑なことだったのだろう。別のところで、「もう嫌だ」という愚痴をアスカも聞かされていたのだ。いくら視線になれていても、なめるように間近で見られるのは耐えられないと言うのだ。
 顔で笑って心で泣いて、「もういやっ」と心で叫びながら、ヒスイは笑みを絶やさず事務方の相手をしたという。その努力が報われた……のか、ますますヒスイの評判があがったらしい。喜ぶべきことなのだろうが、なぜか素直に喜べないとヒスイは零していた。

「まあそれは置いておいて、何かそっちは進展があった?」
「何もない……と言うところだろう」

 少し微妙な間に気づいたアスカは、どうしたのかという目でコハクを見た。それに気づいたのだろう、コハクはもう一度何もないと繰り返した。

「本当に、恐ろしいほど何もないのだ。
 最高評議会は落ち着いたものだし、事務方からも不満は聞こえてこない。
 行政機構に、まったく支障は起きてはおらぬ……」
「でも、何か引っかかるところがあるの?」

 はっきりとしないコハクに、もう一度アスカは聞き返した。悪いところが見つからないというのは本当のことだろう。ジントのルートからも、エデンは落ち着いているという評判が聞こえてくるのだ。それでもコハクの様子には、何かがあったと思わせるところがある。
 だがコハクは、考えすぎなのだろうと口にした。

「何かあるべきだ、その思いがわれを不安にさせるのであろう。
 だから、本当に小さなことでも不安に感じるのではないかとな」
「小さなこと?」

 おかしなことを感じるのなら、小さなことでも重要だろう。そのつもりで聞いたアスカに、それも考えすぎなのだとコハクは苦笑した。

「ただ、我らはこんなに落ち着きがなかったのかと思っただけだ。
 ……違うな、どこか“軽い”ように感じると言っていいのか。
 もう少し口うるさい奴らが多かったように思ったのだが……」
「みんなの物わかりが良いって?」
「それに近い物は感じておる。
 もっとも、違和感と呼ぶにも些細すぎる感覚なのだがな」

 もう一度ううむと唸ったコハクは、どうした物だろうとアスカに聞き直した。

「シンジが不在だから、何か起こって然るべきだと……
 違うな、シンジがいるから平和なのだとわれが思いたいだけなのかもしれない。
 だからこのように平和だと、どこか違うのではと思ってしまうのだろうか」
「平和は、シンジによって守られている。
 シンジがいないのだから、平和であるはずがないって?」
「正直、そう言う気持ちがあるのは確かだ……」

 コハクの告白に、アスカは小さくため息を吐いた。アスカもまた、同じようなことを感じていたのだ。

「あたしの方が、もうちょっと深刻かな。
 今が平和だと、シンジが帰ってこないような気がしているから。
 この世界には、もうシンジは必要ないからって……」
「それだけ、リリンもまた平和と言うことか……」

 ため息を吐いたコハクに、アスカも合わせるようにもう一度ため息を吐いた。3界の頂点に君臨する者が、平和に対して嘆くのは問題が多すぎることだろう。だが今の平和さが、大切な人の帰還を否定するとなると、平和のありがたみが無くなってしまう。

「カエデの件、最後のところで引っかかってはいるわ。
 それでもクレシアのおかげで、リリン側の謎はかなり解けたわよ」

 分かってみれば簡単なことだった。どうでも良さそうに、アスカは言葉を続けた。

「結局、みんながグルだっただけだったのよ。
 古くからの町ってことで、秘密結社みたいなものができていただけ。
 クレシアとビンセントが乗り込んでいったら、あっさりと白状してくれたわ。
 今は花の出所と女の正体を追っているところよ。
 どうも偽名を使ったようだから、こっちの方が少しだけやっかいね」

 少なくとも、解決すべき問題は残っている。アスカはそう言ったはずなのだが、どうも解決への熱意に欠けているように見えた。そしてその理由は、すぐにアスカから明かされた。

「クレシアが、「ここに来てお尻に火がついたみたいだ」ってぼやいていたわ。
 まるでみんなが義務に目覚めたみたいに、協力的になったんだって。
 功刀さんの情報では、新横須賀市の方も静かになったみたい。
 結局シンジがいないんで、もしもの時が怖くなったようね……」
「まさしく、サードニクス様がおとなしくなった理由と同じだな。
 シンジがいなくなったおかげで、今までと同じことも怖くてできなくなったようだ。
 ヒトという者は、一度頼るものをを手に入れると弱くなるものだな」

 それを失ったがために、何をするにもおっかなびっくりなってしまったというのだ。しかも思慮深くなってしまったというのだから、そこに不条理を感じるのもおかしくないだろう。
 一度大きなため息を吐いたコハクは、ほかにはどうかとアスカに尋ねた。

「本当に、こっちも何もないわよ。
 おかげさまで、カエデが張り切ったというか……仕切りまくってるわ。
 たぶん、いまい一番危機感を持ってるのはシンジのファンクラブじゃないかしら」
「シンジのファンクラブ……とな?」

 初めて聞く存在に、コハクはそんなものがあったのかと首をかしげた。何しろシンジは、3界1の鬼畜男として、数多くの男達にとっての敵となっていたのだ。KKKやSSS、AAAにNNN……最近はCCCの設立も近いと噂されている。見渡すばかり敵ばかりのシンジにファンクラブというのだから、ぴんとこないのも仕方はないだろう。
 だがアスカは、今まで無かった方が不思議だと言い返した。コハクの言いたいことも分かるが、それは学園初期のことだと言うのである。だがコハクは、そんなことは理解していると言い返した。

「今更ファンクラブなど作る意味があるかと聞きたいのだ。
 芙蓉学園において、シンジのファンで無いなどと言う不思議な者はおるのか?」
「……それは、ちょっと極端な話だと思うけど……」

 だがコハクの言っていることは間違いではないだろう。確かに芙蓉学園にいる生徒、特にリリンはシンジがいたから入学したところがある。それを考えれば、全員潜在的なファンであるのは間違いないだろう。裏を返せば、初めからファンクラブなど作る必要がなかったのである。

「それを敢えて作るなどと、かなり勇気のある者だな。
 それで会長には、いったい誰が収まったのだ?」
「ヒナギク……ほら剣道部に一時期顔を出していたじゃない。
 そこの部長が、IIIってのを発足させたみたいなのよ」
「ヒナギク、ああ桂ヒナギクか……なるほど、あの者ならやりかねんな」

 人となりを思い出したコハクは、確かに危機感を持つだろうとアスカの話に納得した。何しろ活動の中心がシンジに有るのだから、不在となればその存在意義を保つことも難しくなってしまう。
 なるほどと納得したコハクに、問題はその程度だとアスカはため息を吐いた。3界1の英雄、リリンの守り神にして、パーガトリ内乱を納めた功労者。その行方がしれなくなったことの影響が、たかがファンクラブの存在意義程度というのだ。アスカが嘆きたくなるのも仕方がないと言えるだろう。



 恐ろしいほど何もないと言うのが、アスカたちの共通した分析だった。だが独自の調査を進めていたサードニクスは、逆にそこに不自然な物を感じていた。紫の奏者が不在の今こそ、コハクをエデンに取り戻す好機に違いない。いくら思慮深い最高評議会議員でも、勇み足をする者ぐらいいてもおかしくないはずなのだ。だがその声すら聞こえてこないことは、逆に潜行している何かの存在を感じさせていた。だがその何かを、サードニクスも掴めていなかった。

「やはり、一時的にも監視を引き上げたのは失敗だったか……」

 全力で捜索しないわけにはいかなかったが、その結果として一時的に監視が手薄になってしまった。リリンで行われた攻撃を考えれば、何者かがこの世界で策略を巡らしているのは明らかだろう。だから今度こそしっぽを掴めるかと期待したのだが、シンジの失踪による混乱はすべての捜査をフイにしてしまった。

「もともと、あの程度の攻撃では揺らぐはずのない関係だった……」

 サードニクスにしてみれば、カエデが誰の物になっても大差はないと考えていたところがある。碇シンジと花菱ジント、その存在の大きさは今更比べるまでもない。せいぜい手駒が減る程度の影響しかなかっただろう。もう一つあるとしたら、シンジが罪悪感にさいなまれることだろうか。それにしても、混乱と言うには烏滸がましい程度のものでしかない。せいぜいわずかな隙が生じると言うところだろう。だがその隙にしても、さらに大きな混乱を起こすには不足その物でしかなかった。そして今回の事件は、彼らの結束を強める効果しかなかったのだ。結局碇ゲンドウ、桜庭カエデに対する攻撃は、紫の奏者という絶対者のおかげで、攻撃した者の意図とは違う方向にしか進んでいないのだ。

「そう言う意味では、彼らは壁の高さを実感したはずだ」

 再度目的を分析したサードニクスは、攻撃した者が現実に突き当たったと考えていた。こちらを出し抜いたところまでは見事だが、周到に計画しても“あの程度”のことしかできなかったとも言える。もしも体制の転覆を考えているとしたら、その困難さを逆に実感したことだろう。

「修復力の高さ、そして逆手にとるしたたかさ……
 それは、策謀を諦めさせるのに十分な物だったはずだ」

 もしも同じ立場に立っていたら、相手の手強さに計画を諦めていただろう。その後追撃がなかったことを考えれば、その想像ははずれてはいないはずだ。
 そしてサードニクスは、今回の騒動の影響を考えた。今度こそ大きな隙を晒し、しかも絶対者が不在になってしまったのだ。これでまたぞろ穴の中から何かがはい出してくるのではないかと。そう考えて注意深く役職者達の動きを観察したのだが、結局何の計画も見つけることはできなかった。

「疑心暗鬼になっているというのだろうか?」

 絶対に何かあるはずだ、そして今以上にその好機はない。そう考える自分の意識が、ありもしない陰謀を考えさせていないのか。いや、陰謀がなければゲンドウは倒れず、カエデはシンジに迫りはしなかったはずだ。そしてリリンの古い組織を利用して、攻撃などしなかっただろう。

「役職者以外に、大きな力を持つ者はいない……」

 事務方達が何かをしようにも、実行力となる大きな力はない。機動兵器を持たない者に、エデンを征服するのは不可能だろう。やはり考えすぎなのかと、サードニクスは小さく頭を振った。そして考えを整理するため、技術士のオークを呼び出した。

 主の呼び出しとなれば、何を置いても駆けつけなければならない。それは年老いたこの技術士にも例外ではなかった。息を切らして現れたオークは、「お呼びでしょうか」と床に腰を下ろして礼をした。

「パーガトリで発生した融合現象にまつわる事件、その分析はどうなっている?」

 そしてオークを呼び出したサードニクスは、彼向きの問題を持ち出した。このあたりは、気分転換という意味合いが大きい。

「正直に申し上げるなら、あまり分析が進んでおりません」
「やはり、データが少なかったか?」

 事態を収めることを優先したため、採取されたデータは恐ろしく少なくなっていた。確かに分析を行うには、映像情報だけでは不足しているのは仕方ないだろう。
 そしてオークは、主の決めつけを否定しなかった。だが肯定したその口で、もっと大きな理由があると付け加えた。

「プリムラなる者の証言に出てきた女……その正体が掴めないのです」
「ホムンクルスであること、シンジに執着があったと言うことを考えれば、
 我々がリリンに送り込んだうちの一体に違いないのではないか?」
「私が問題にしているのは、“誰”かと言うことではありません。
 それがどういった存在なのか、その正体と言うことなのです」

 ふむと口元に手を当てたサードニクスは、すぐに説明を続けろと命じた。

「はい、証言を重ね合わせる限り、リリンが綾波レイと呼ぶ者に間違いないでしょう。
 そこで疑問となるのが、プリムラなる者と綾波レイの間に接点がないことです。
 そしてプリムラなる者の内に存在したという別の存在、
 そのような精神的な存在として、どうして存在することができたのか。
 付け加えるなら、本当に精神的なものとして存在することができるのか?
 言っては悪いのですが、綾波レイはたかがホムンクルスなのです。
 そのような高次の存在になりうるとは思えません」
「しかし、現実に何者かがあの少女の中に寄生していた。
 そしてその何者かは、シンジを明確に追い求めていたと言うのだ」
「ですから、どのような存在か正体が掴めないのです。
 そしてもう一つ、どうして融合現象とミョルニル、そこから生還できたのか……」

 融合現象からの復帰であれば、すでに20年近く前に理論構築と実験がなされていた。その結果を持って、コハクの父アンバーはリリンへの使用を提案したのである。ただそこで問題となるのは、誰も復帰のプロセスをとっていないことだった。しかも融合現象の中心には、核を消滅させる攻撃が敢行されたのだ。パーガトリの行った攻撃は、確かに中心部を貫いたはずだった。

「確かに攻撃は命中していたのです。
 ですがあの付近一帯の被害は、融合現象初期で発生したものだけでした。
 でしたら、ミョルニルのエネルギーはどこに行ったのでしょう?
 融合現象からの復帰には、あれほどのエネルギーを必要としていません」
「やはり、何も分からないというのが正解か……」
「碇様が関わった事件は、私の手に余るというのが正直なところです……」

 不可解な現象が、あまりにも簡単に行われている。しかもこれまで頼ってきた原理が、全く役に立たないところにある。オークが手に余るというのも、無理もない話だったのである。そしてもう一つ、オークは理解できない状況を説明した。

「融合現象の実態、それもまた、解析が進んでいないところがあります。
 もとより融合現象の分析は、アンバー様が主体で行われていました。
 融合現象によって、人はその形を失い、精神世界にのみ存在することになる。
 復帰に物理的に必要なのは、肉体を再構成するための素材だけと言うことになっているのですが……」

 それがそもそも疑問なのだとオークは答えた。

「確かに、無から有は生じさせることはできません。
 だからといって、素材さえあれば人が復元できるというのも……
 それに精神世界と言われても、そんな物がどこに存在できるのか?
 私たちの認識できる世界の他に、さらには精神世界が存在することになります。
 その入り口は、いったいどこにあるのでしょう?」
「なるほど、調べれば調べるほど疑問に突き当たると言うことか……」

 もう一度頷いたサードニクスだったが、オークの言葉に引っかかる物を感じた。その引っかかりを確認するため、言葉を選んでサードニクスは質問をした。

「少し確認したいことがあるのだが……」

 そう言ってサードニクスが持ち出したのは、別の場所で復帰する可能性だった。

「融合からの復帰には、素材が必要と言ったな。
 ならばその素材の在処は、どこでも構わないのだろうか?」
「検証例が少なすぎます故、断定した答えは差し上げられませんが」

 そう前置きをして、「おそらく」とオークは答えた。

「私たちの常識では、形質を失ったときの残滓、それが必須と考えるのが考えやすいかと思います。
 ですが残されているデータからは、必ずしも必須条件ではないとされています」
「では、何をきっかけとして融合状態から復帰するのか?」
「偶然……としか、お答えようがありません。
 私たちが大融合から復帰したのもそうですが、私たちには復帰の理由が分かっていません。
 伺った話では、大融合の際には碇様の意思が決め手になったのだと。
 ただそこからは、碇様自身が復帰のプロセスを行ったのか、他の何者かが行ったのか……
 その点についての、具体的な説明をいただいておりません」

 そうかと頷いたサードニクスは、一つの可能性をオークに質した。

「紫の奏者が、未だ精神世界に居る可能性は有るのか?」
「無いとは言えない、その程度の可能性かと。
 あの場で起きた現象自体、私には説明が不能ですから……」

 それはいいと許したサードニクスは、もう一つの仮定を持ち出した。

「もしも紫の奏者がとどまっていたとしたら、復帰のために素材を用意する必要はあるのか?」
「用意の必要があるかと言われれば……」

 うむと腕を組んだオークは、その必要性を再考した。人体の再構成に必要な要素は、自然界にありふれた物となっている。しかもリリンの世界には、融合実験の失敗で作られた培養体が海となっているのだ。それを考えれば、今更用意する必要もないと言えるのだが。もしも問題があるとしたら、“鮮度”と言う、ふざけているとしか言えない理由だろうか。

「有った方が良い、その程度ではないかと思います。
 リリンの世界には、原料となる物が豊富にありますゆえ……」
「リリンはそうだろうが、パーガトリはどうなのだ?」

 その質問も、オークを困惑させる物だった。何しろ大融合には、3界分け隔て無く巻き込まれていたのだ。そうなると、融合した世界で3界に区別があるのか疑わしい。しかし3界は、多層空間で仕切られている。影響が及ぶのと、世界が同じことが同義でなければ、サードニクスが問題にしたことも説明が付いてくる。

「サードニクス様は、碇様が復帰なさらないことの理由をそこに求められているのですか?」
「可能性として、それがあるのではないかと考えたのだよ。
 もしかしたら、戻ろうにも戻れなくなっているのではないかと考えたんだよ」
「可能性としては、大いにあり得ることでしょう」

 オークの肯定に、宜しいとサードニクスは大きな声で答えた。このままシンジにいなくなられては、彼としても色々と困るのだ。ここで復帰に手を貸しておけば、うるさい女性達の優位に立てるのかも知れない。あくまで、“かも知れない”のレベルなのだが。

「試してみる価値はあると言うことだな?」
「ですが、場所はパーガトリになります」

 難しいのではと言うオークに、特に問題となるようなことはないとサードニクスは言い切った。

「パーガトリ国王も、紫の奏者には帰ってきて貰いたいのだよ。
 そのための手伝いなら、二つ返事で引き受けてくれるだろうね」
「それで、このことはコハク様には?」

 シンジの不在で、誰が一番心を痛めているのか。オークの目から見れば、それはコハクに違いないのだ。その安全に関することなのだから、当然コハクに知らせて然るべきなのである。だから伝えるだろうというつもりの質問をしたのだが、相手はまともではない議長様だと言うことを忘れているようだ。オークに質問されたサードニクスは、にやりと口元を邪悪に歪めたのである。

「ぬか喜びをさせると可哀相だからね。
 成功したら教えてあげることにするよ」

 ただ口から出た答えは、意外に相手を思いやった物だった。成功する可能性は極めて低いからと、とってつけたような理由を付けてくれたのである。それが建前に過ぎないことは、オークにもよく理解できていた。自分の主は、“おもしろい”ことを信条としているのである。

「では、パーガトリ国王には?」
「とうぜん、私が個人的に連絡を取るよ。
 なに、芙蓉学園に戻れば前国王が居るからね。
 協力を取り付けること自体、そんなに難しいことじゃないんだ」

 それでと、具体的に何が必要なのかをサードニクスは質した。

「これもまた推測でしか有りませんが、ホムンクルスの培養液で宜しいかと」
「ストックは……この前の奴は破棄したのかな?」
「事件直後に、完全に……」

 それを命じたのは、サードニクス本人なのである。だから自分を責める目で見ないで欲しい、オークは向けられた視線にそう言いたかった。だが主人に向かって、「お前が悪い」と言うことも出来ない。彼に言えたのは、準備に必要な時間だった。

「原料自体特殊な物はありません。
 従いまして、必要量の準備には2週間ほどいただければ宜しいかと」
「だったら、すぐに準備をしてくれ。
 早く戻ってきて貰わないと、退屈で死んでしまいそうなんだよ」

 3界1の英雄の復帰が、退屈しのぎのレベルで語られるのか。本気で口にする主人に、オークはどうしようもない理不尽さを感じていた。だが彼の立場で、それを指摘するのも難しい。それに指摘したらしたで、よけいなことを聞かされそうな気がするのだ。だったらおとなしく従っておくのが得策と、オークは主の元を辞することとした。割り切って考えれば、紫の奏者が復帰することになる。趣味だろうが退屈しのぎだろうが、結果だけを取れば悪いことでないのは明らかなのだから。

「では、大至急用意することにいたします」
「くれぐれも、コハクに気づかれないようにするんだよ。
 何しろコハクは鋭いからね、しかも私にまで調査の手を伸ばしている。
 だからこのことは、時間よりも機密性を優先するように」
「遅くなっても構わないと仰有るのですか?」

 いかがな物かという目をしたオークに、そうは言っていないとサードニクスは口元を歪めた。

「情報の漏洩対策を優先しろと言っているだけだよ。
 もしも悪意を持った者に漏れたなら、どんな妨害工作を受けるのか分からないからね。
 紫の奏者の安全のためには、慎重すぎることはないだろう?」
「確か、コハク様と仰有ったような気がするのですが?」
「たぶん、気のせいだよ」

 だからさっさと準備をしろ。サードニクスは、そう言ってオークを追い出したのだった。







続く

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