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 1ヶ月も過ごせば、さすがにシンジも周りの環境にも適応することが出来る。マドカとナルに連れ回されたことも有り、知り合いと呼べる人達も格段に多くなった。そのおかげで、学校内の至る所で声を掛けられるようになったし、その相手とちゃんと会話が成立するようにもなっていた。能力の面で元通りとは言えないが、以前の生活にかなり近づいてると言って良いだろう。
 そして2月には、高校生男女にとって一大イベントが控えていた。一部お菓子屋の陰謀とも言われたが、さすがに何十年も経過すれば、日本におけるヴァレンタインデーはイベントとして定着していた。その日が間近に迫ったことも有り、S高内も落ち着かない空気が漂い始めていた。

 そんな2月の木曜日の放課後、部活に行こうとしたシンジはクラスメイトの一人に声を掛けられた。少し落ち着かない様子の綾瀬ハルカは、「少しいい?」と言ってシンジを呼び止めた。

「別に、急いでいないけど?」

 それで? と、シンジは呼び止められた理由を聞いた。そんなシンジに、呼び止めたハルカは「ええっと」と言葉を濁して視線を宙にさまよわせた。

「どうかしたの、綾瀬さん?」

 シンジには、どうしてそんな態度をとられるのか理由が分からなかった。それもあって、ハルカに「どうしたの?」ともう一度聞き直した。

「ええっとね、うわさ……をちょっと耳にしたんだけど。
 あ、あくまで噂だから、違っていたらごめんなさいね」
「はあ、噂……ねぇ」

 何だろうと首を傾げたシンジに、ハルカは「堀北さんのこと」ときわどい話を切り出した。

「別れたって噂が聞こえてきたのよ。
 あっ、違ってたらごめん、でも、そう言う噂があるってことで……」

 本人を前に、「本当に別れたの?」とはさすがに聞きにくいようだ。それで口ごもったハルカに、シンジは「ああ」と小さく頷いた。

「確かに、最近部活や生徒会、それに基地でしか顔を合わせてないからなぁ。
 別れたって言われても、なかなか否定しづらいところがあるんだよな……」
「前は、あんなにべったりだったのに?」

 それを持ちだされても、そのベッタリしてきたアサミのことを知らなかった。それでもシンジは、自分の想像するアサミの事情を口にした。

「さすがに、堀北さんも辛いんじゃ無いかなって思うよ。
 それに、忙しいからとっても疲れているように見えるからね。
 その上僕のことまで構っていると、もっと疲れるんじゃ無いのかな?」

 ただ、シンジの答えにしても、恋人同士と言う物では無かった。しかもあっさりと答えてくれたので、「もしかしてまずいこと?」と逆にハルカが心配してしまった。

「いやっ、碇君、恋人のことを話すのにその言い方は無いと思うよ」
「う〜ん、綾瀬さんの言うとおりなんだろうけど……
 僕自身、堀北さんと恋人同士だったって記憶が残っていないんだよ。
 恋人にしたいって気持ちは強いけど、付き合っているって気持ちが全然沸かないんだ」
「つまり、二人ともフリーの状態って事?」

 その質問は、とても微妙で、そして重要な問題を含んでいた。それもあって、ハルカが「フリー?」と聞いたとたん、クラス全体がシンジの答えに注目をした。
 自分が注目を集めていることに気づいたシンジは、どう答えるべきかと考えた。下手な事を口にすると、それだけで騒ぎが大きくなってしまうし、アサミとの関係がこじれてしまうことになりかねない。

「付き合っている気持ちが沸かないって言ったけど、フリーと言うのは違うと思うんだ。
 だから綾瀬さんに告白されても、「ごめんなさい」って謝ることになると思うよ」
「どうして、そこで私の名前を出してくれるかなぁ〜」

 その気持ちが全くないとは言わないが、だからと言ってここで言って欲しくなかった。そのことに文句を言ったハルカに、「質問が悪い」と逆にシンジが言い返した。

「そうやって、僕達の間に波風を立てることを聞く方が悪いんだよ。
 だいたい、みんなが見ている前で、「フリー」だなんて言えると思う?
 そう言う事は、誰も居ないところで聞くべき物じゃ無いのかな?
 だから綾瀬さんを引き合いに出したのは、ちょっとした仕返しのつもりだよ」
「二人きりだったら、もしかしてオーケーしてくれるのかしら?」

 少し挑戦的に言い返したハルカに、「今はみんなが居るからね」とシンジは笑った。その状況では、何を聞かれても否定しか言えないというのだ。

「それに、堀北さんと付き合いたいって言ったよね。
 もう一度、どきどきするところから始められるのって素敵だろう?」
「そりゃあ碇君はそうでも、堀北さんはどうなのかしら?
 どうして思い出してくれないんだって、やきもきしているんじゃ無いの」

 勝手だと決めつけたハルカに、「確かにそうか」とシンジもそれを認めた。言われてみれば、初めからやり直すのは自分だけの勝手な思いでしか無い。もしもアサミにそれを期待するのなら、以前の自分と今の自分が全く別人で無ければならなかったのだ。かなりその条件は満たしているのだが、それをここで口にするわけにもいかなかった。

「確かに、言われてみれば僕だけがいい思いをすることになるのか……」
「まあ、もう一度恋をするって言うのも素敵だとは思うけどね」

 そう言って笑ったハルカは、「ちぇっ」と小さく舌打ちをした。

「結局、碇君にあてられただけだったわね。
 でもさ、私ももう一度堀北さんと恋が出来るよう応援するわ。
 まあ、その前に記憶を取り戻した方が良いんだけどね」
「そっちはそっちで努力中なんだけどん……
 こればっかりは、どうしたら良いのか分からないんだよね」

 はははと笑ったシンジに、ハルカは「変わったわね」とため息を吐いた。

「変わった……のかなぁ?
 あんまり自覚は無いんだけど」
「うん、変わったと思う。
 碇君、あまり周りの目を気にしなくなったよね?
 なんか、自信が付いたって言うのか、以前の雰囲気に戻ってきたわよ」

 その指摘は、シンジにとって少し意外なものだった。それもあって、少し驚いた素振りで「そうかなぁ」と疑問を口にした。

「そうは言うけど、自信なんて付いたとは思っていないし。
 ただ単に、開き直っただけじゃ無いのかな?
 相変わらず勉強は駄目だし、運動だってまだまだだと思うんだけど」

 それを考えると、自信などつきようが無いのだ。そのことを主張したシンジに、ハルカは「順調なんでしょう?」と聞き返した。

「その辺りは、みんなが協力してくれるおかげかな?
 思ったよりは早く、中学は卒業できそうだよ。
 運動の方は、体が出来ているのが一番の理由かな?」

 そう説明したシンジは、「ありがとう」とハルカに頭を下げた。

「いやっ、私は何も手伝っていないし」
「でも、みんなの理解があるからやっていけるんだよ。
 だから、僕はみんなに感謝しているんだ」
「だ、だったら、構わないんだけど……」

 顔を赤くしたハルカは、少し慌てて「邪魔をしてごめんね」と立ち上がった。

「部活に行くのを引き留めちゃったわね」
「うん、でも綾瀬さんと話が出来て良かったと思うよ」

 もう一度ありがとうと言ったシンジに、「こちらこそ」とさらにハルカは顔を赤くした。そして「じゃあね」と言ってそそくさとシンジの所を離れていった。いかにも不自然な行動だったのだが、理由を考えては駄目だとシンジはこだわらないことにした。

「周りの目を、もう少し気にしないといけないのかな……」

 そうしないと、アサミの事で回りが騒がしくなってしまう。何か対策を考えなければと、シンジはこれからの事を思った。そうしないと、自分ではなくアサミが悪者にされてしまう可能性があったのだ。



 結局その日も、シンジはアサミの顔を見かけることはなかった。弦楽部の後バスケ部に顔を出したシンジは、「お疲れ」とキャプテンの三井に声を掛けられた。始める前から「お疲れ」なのは、今日も複数回っていることを知っていたからだった。
 そして三井は、ここのところの進歩を話題にした。今までどおりとは行かなくても、かなりいい線に行くようになっていたのだ。

「碇、だいぶ勘を取り戻してきたんじゃないのか?」
「多分、三井君の指導がいいからだよ。
 取り戻したって言うより、改めて指導し直されたって感じかな?」

 トレードマークのジャージ姿のシンジは、準備運動の屈伸から始めていた。そんなシンジに、三井は「また背が伸びたか?」と聞いてきた。

「最近測っていないからよく分からないなぁ〜」

 う〜んと唸ったシンジの隣に並んだ三井は、「やっぱり伸びているだろう」と自分と比べて言った。もともと三井の背が高くないこともあり、シンジの目の下辺りに頭がきていた。

「碇ぐらい身長があるといいよなぁ。
 高校レベルになると、俺ぐらいじゃゴール下はきつくなるんだ。
 それにお前、結構ジャンプ力があるじゃないか。
 前から言っているけど、お前は絶対バスケ向きの体をしているんだよ。
 今からでも、バスケ部に入部しないか?
 お前だったら、入部即レギュラー、いやいや、エースになれるぞ」
「僕が?」

 驚いた顔したシンジは、すぐに「ないない」と右手を振った。

「生徒会長にジャージ部部長に、その上バスケット部ってのは無いと思うよ。
 しかも、これでもパイロットにも登録されているんだ。
 これ以上忙しくって……なんか、今のところ名前ばっかりのが多いけどね。
 そのうち復帰するから、さすがにそこまで手が回らないと思うんだ」
「ジャージ部を辞めるって話にならないのは、碇らしいっていうのか……」

 そう言って口元を歪めた三井は、本心を隠すように、わざとらしく「残念」と悔しがってくれた。

「記憶を無くした今なら、うまく乗せられてくれるかと思ったんだがな。
 やっぱり、お前にとってジャージ部って所は特別な場所なんだな」
「僕の原点……ってところだね」

 三井と話しながらも、シンジはストレッチを中断していなかった。それもあって、部活の準備がちょうど整ってくれた。

「それで、今日は何を教えてくれるんだい?」
「そうだなぁ、どれだけ勘を取り戻したか試してみるか。
 どうだ、俺と1on1をやってみるっていうのは?」
「1on1?」

 「なにそれ」と首を傾げたシンジに、「1対1だ」と三井はゴールを指さしていった。

「片側のゴールを使って、俺と1対1の戦いをやるんだよ。
 攻守がめまぐるしく変わるから、結構ハードな練習になるんだ」
「二人で、同じゴールを狙うってことか……」

 う〜んとしばらく考えて、「よしっ」とシンジは三井の提案に乗った。単なる基礎練習もいいが、試合形式の方が面白そうだったのだ。

「何事も経験ってことで、三井君の提案に乗ることにするよ」
「よぉし、いっちょ揉んでやるか!
 お〜い、これから俺と碇で1on1をやるぞ!」

 三井の言葉に、基礎練習をしていた部員たちから「おおっ」と言う歓声が上がった。以前からこの二人の戦いは、かなり白熱していたと言う事情がそこにあった。そしてシンジの回復具合を見るには、一番いい方法だと誰もが理解していたのである。

「基本的ルールは通常のバスケと同じだ。
 だからトラベリングは駄目だし、他の反則も同じようにとる。
 ドリブルで俺を抜いてもいいし、フリースローでいきなりゴールを狙ってもいい。
 シュートミスのリバウンドをそのまま叩き込んでもいいってルールだ」
「とにかく、反則なしにゴールを入れればいいってことか……」

 ふんふんと頷いたシンジに、三井は「お前からでいい」と言ってボールを渡した。

「フリースローのラインから、ゲームを始めるぞ。
 通常のフリースローと違って、シュートブロックはありだからな」
「だから、ドリブルで抜いてもいいってことか……」

 なるほどと頷いたシンジは、ボールを持ってフリースローラインに立った。そしてシュートをするフェイントを掛けて、三井の脇を抜いていこうとした。

「ふっ、甘いな……」

 だがそのフェイントは、完全に三井に読まれていた。これでもかと言うほど簡単にインターセプトされ、そのままレイアップでゴールを決められてしまった。

「じゃあ、次は俺の番だな」

 フリースローラインに立った三井は、ガードに立ったシンジを気にせず、何事もなかったようにフリースローを決めた。

「おいおい、突っ立ってるだけじゃ、俺の邪魔は出来ないぞ」
「そう言われても、シュートのタイミングが掴めないんだよ……」

 こんどこそと意気込んだシンジは、タイミングを測ってここだとジャンプをした。だが三井のフェイントに引っかかって、ドリブルで飛び上がった脇を抜かれてしまった。そしてそのままゴール下まで運ばれ、「3ゴール目」と簡単に決められてしまった。

「だからと言って、こんな簡単なフェイントに引っかかるなよ。
 それに、高く飛べばいいってもんじゃないだろう?
 よし、これから3セット目だからな」

 もう一度フリースローラインに立った三井は、今度はフリースローの構えをとらなかった。その代わり、シンジの前で左足を軸にして、何度もフェイントを繰り返してくれた。

「ちゃんと、目で俺の動きを追うんだ。
 必ず、ボールを前に出す動き出しがあるからな」

 自分のボールに釣られて動くシンジに、「反応しすぎ」と三井は注意した。そしてシンジが自分から少し離れたのを見て、フェイント動作からそのままシュートを放った。

「マークを緩くすれば、こんなふうにシュートを打てるんだ」
「……なかなか、難しいものなんだね」

 ふうっと息を吐きだしたシンジは、教えられたことを反芻して、もう一度三井の前に立ちふさがった。そんなシンジに、今度は三井がくるりと背を向けた。

「俺の体の動き、重心をちゃんと確認するんだぞ」
「全く、一度に色々と詰め込もうとし過ぎだよ……」

 そう言って文句を言った瞬間、三井はくるりと体を反転して、一瞬でシンジの横をすり抜けてくれた。そしてやすやすとシュートを決めて、「注意不足だな」ともう一度フリースローラインに立った。

「いやいや、注意不足って言うより、実力が不足していると思うんだけどな」
「以前のお前は、俺と互角の勝負をしていたんだよ。
 だから勘さえ取り戻せば、簡単な引っ掛けには掛からなくなるさ」
「いやぁ、その手のことは全部どこかに忘れてきちゃったんだよ……」

 そう言い返したシンジは、三井が自分にしたこと思い出しながら、シュートガードの位置に立った。

「ようやく、まともな間合いに入ってくれたな」
「本当に、これでいいのかは分かっていないんだけどね……
 一応、見よう見まねというのか、三井君のポジションを参考にしてみたんだ」

 相変わらずボールのフェイントに引っかかっているが、決定的な隙は見せないようになっていた。それを「大した進歩だ」と感心して、三井は再度フェイントでシンジの脇をすり抜けた。

「褒めては見たが、まだまだ簡単に引っかかりすぎだな」
「なかなか、難しいものだね……」

 三井にされたことを反芻しながら、シンジはもう一度ガードのポジションに立った。1対1で高度なテクニックを見せてくれるのだから、この機会に技を盗もうというのである。

「碇、へばったのならへばったって言っていいんだぞ」
「いや、体力だけは有り余っているから大丈夫だよ」
「だったら、お前が音を上げるまで続けるか」

 そう言って、三井は先程とは逆のサイドをフェイントで抜いていった。だがシンジも、抜かれることを考慮したのか、すぐに三井の動きについて行った。だがドリブルの中から流れるようにフェイントを掛けられ、簡単にガードを外されてしまった。

「さっきよりは、随分と良くなったじゃないか!
 後は、もっと俺の動きをよく見て、そして俺の動きを予測するんだ!」
「それって、結構難しいんだけどなぁ……」

 だが三井が付き合ってくれている以上、簡単に音を上げる訳にはいかない。この機会に、一つでも多く何かを掴みたい。シンジは、全神経を集中して、三井の動きを追いかけていったのだった。



 そしてその夜、レイは久しぶりにばてて帰って来る兄を目撃することになった。疲れて玄関でヘッドスライディングをした兄を、レイは「ウケ狙い?」と冷たい言葉で迎えた。

「いや、ちょっと躓いたというか……」

 疲れたとそのままの姿勢でいる兄に、「そこ、掃除していないわよ」とレイは起き上がることを推奨した。確かに言われてみれば、LEDの光に色々なものが浮かび上がっていた。

「ああ、埃とか髪の毛が浮いているのがよく見えたよ」

 そう言って立ち上がったシンジは、服を払いながら「お風呂入ってる?」と聞いた。予想以上に埃まみれになったので、夕食前に流しておこうと考えたのだ。

「一応入っているわよ。
 でも兄さん、そんなにばてて帰ってくるのは久しぶりね。
 今日は、いったい何をしてきたの?」
「バスケ部で、部長の三井君と1on1をやったんだよ。
 僕がムキになって突っかかったから、2時間ぶっ続けで試合やったんだよ。
 最後は、二人共コートにぶっ倒れてしまったなぁ」

 はははと顔をひきつらせて笑った兄に、「体力だけはあるのね」とレイは皮肉を言った。

「まあ、今は体力だけって言われてもしかたがないか。
 でも、最後の方は結構ついて行けるようになっていたんだよ。
 あっ、カバンは後から持って行くから、そこに置いておいていいからね」

 そう言って、玄関脇の洗面所に入ったシンジは、「覗かないでね」と言って扉を締めた。

「それは、覗いて欲しいって意味かしら?」

 いやねと口元を歪めた妹に、「まさか」とシンジは扉の反対側から声を上げた。時間が経ったこともあり、妹のからかいにも簡単に返せるようになっていた。

「ただ、着替えを持ってきてくれると嬉しいかな?」
「はいはい、それぐらいは自分でやって欲しいものね……」

 仕方ないなぁと、レイは少し口元を緩めて2階に上がることにした。なんのかんの言って、兄の面倒を見られるのは嬉しいのだ。しかも毎日頑張って帰って来る兄を見るのは、昔に戻ったようでとても懐かしかった。

 着替えの準備を妹に任せて、シンジはすぐに浴槽へと飛び込んだ。少し熱めのお湯が、体のこわばりをほぐしてくれるようで気持ちが良かった。
 「ふぃ〜」と息を漏らしたところで、扉の向こうに妹の気配を感じた。そしてそれと同時に、「着替えを置いておくからね」と言う声が聞こえてきた。

「ありがとう。
 ところでレイ、少し話をしても良いかな?」
「別に構わないけど、それって一緒に入ろうって意味?」

 そう言ってからかってきた妹に、「それはだめ」とすかさず言い返した。

「やっぱり、僕が恥ずかしいから駄目だよ」
「普通さぁ、女の子の裸をみたいと思う物じゃ無いの?」
「普通は、妹を女の子に数えない物なんだよ」
「血が繋がっていないのに?」

 だから女の子に数えろと主張した妹に、シンジは「それはそれ」と言って却下した。

「それに、またお風呂でのぼせたくないからね」
「こうして話をしていると、またのぼせちゃうんじゃ無いのぉ」

 そう言った妹に、シンジは「気をつけている」と答えた。さすがに、ガードの人にまで迷惑を掛けるのは辛いのだ。

「それで、私に話って何?」
「レイに聞くんだから、堀北さんのことだよ。
 堀北さん、最近の様子はどうなのかな?」

 恋人の様子を、実の妹に確認する。それはどうかと考えたが、最近二人が顔を合わせていないのをレイも知っていたのだ。そして、そのせいで聞こえてくる噂も、当然気がついていた。

「最近、ちょっと人相が悪くなったわね。
 綺麗なのは相変わらずだけど、目元がちょっと険しくなっているのよ。
 それに引き替え、兄さんは……」

 はあっとため息を吐いた妹に「兄さんは?」とシンジは聞き返した。

「なんか、のほほんとしちゃって……
 まあ、アサミちゃんの人相が悪くなったのは、そのせいばかりとも思えないけど……」
「ちゃんと、話はしている?」

 自分を避けていても、妹を避ける理由は無いはずだった。そこで妹が避けられていたら、問題はかなり根深くなると思っていた。
 そして妹からは、「ほとんど」と問題の大きさを認識させる答えが返ってきた。

「特に避けられているってことは無いんだけど。
 アサミちゃんの口数が、ここの所めっきりと減っているのよ。
 責任が重くなったから仕方無いねって、みんなで言っては居るんだけどね……」
「一番大きいのはそれかもしれないけど……」

 前の戦いでも、全員が今までに無い重圧を感じているのが分かったのだ。そしてその重圧が、緊張という形で動きを固くしていた。もしも自分が介入しなければ、誰かが失敗をしている可能性があったぐらいだ。
 そしてその重圧を一番感じているのは、アサミであることには間違いないだろう。あの場面において、チームをリラックスさせるのは、アサミの役割に違いなかったのだ。だがそのアサミ自身が、緊張を解きほぐすための手立てが打てなくなっていた。そこでシンジが介入したことで、話はさらに厄介な方向に向かっていたのだ。

 昨年ならば、自分が介入することは、誰もおかしいとは考えなかっただろう。そもそもチームの状態に注意を払っていたのは、アサミでは無く自分自身だったのだ。それが例のアクシデントのせいで、お鉢がアサミに回ってしまったのだ。同じ事をするにしても、感じる責任の重さは格段に重くなってしまったのだ。
 問題自身は、シンジの介入で事なきを得ていた。だがシンジの介入に、アサミが理不尽さを感じてしまったのが問題の始まりだった。

「一番大きな問題は、兄さんとの関係でしょ?
 クラスに居て、アサミちゃんから兄さんのことを聞いたことが無いのよ。
 そりゃあ、誰かが聞けば話をしてくれるけど、最近は誰も兄さんのことを口にしなくなったのよ」
「堀北さんが、僕の話をするのを嫌そうにするからかな?」

 「嫌われたかな?」と軽く口にしたシンジに、「違うと思う」とレイはすぐに言い返した。

「アサミちゃん、自分の気持ちが分からなくなっているんだと思う……
 ええっと、違うか、感情の整理が付かなくなっているって言う方が正確かな」
「やっぱり、僕が原因って事か……」

 ふっと小さくため息を吐いて、シンジはお湯から上がり浴槽の端に腰を下ろした。話が長くなりそうなので、湯あたりの対策をしたのである。

「昔の僕だったら、自分が悪いって首をすくめて嵐が治まるのを待っていたんだけど……」
「もしもそんなことをしたら、“最低”って軽蔑してあげるわよ」

 冷たい声で答えた妹に、シンジは「自分もそう思う」と同意した。

「そうだね、そんなことをしても誰も幸せになれないんだよね。
 少し前の僕は、そんな簡単なことも分からなかったんだよ。
 だから僕自身を含め、周りの人たちもどんどん不幸になっていったんだ」

 その言葉を聞く限り、兄は「何もしない」と言う選択をしないのだろう。ただ、同時にこの問題が難しすぎることもレイには分かっていた。何しろ、どこにも解決策らしきものが見当たらなかったのだ。

「それで、兄さんはどうするつもりなの?」
「それが、一番の問題なんだけどね……
 昔の僕はなんて偉そうなことを言ったけど、だったらどうすれば良いのかがまったく分からないんだ。
 でも、一つだけ言えることは、この問題から絶対に逃げないと思っていることだけだよ。
 だから、明後日の土曜にデートに誘ってみようと思っているんだ」
「結構、微妙なタイミングね……」

 デートに誘うことに反対はしないが、そのタイミングが微妙だとレイは思っていた。前回の襲撃が1月20日だから、ちょうどその頃にギガンテスが襲ってくる可能性があったのだ。それを考えると、デートに邪魔が入る可能性が高かった。そしてもう一つ、学校帰りのデートはいまいちだとも思っていた。

「どうせだったら、日曜の方が良いんじゃ無いの?」
「日曜は、ちょうど訓練が入っているんだけどね……
 まあ、訓練は午後だから、午前中にデートすれば良いのか。
 後は、ギガンテスがどのタイミングで襲ってくるかだね。
 出来たら、ギガンテスが襲ってくる前にデートしたいんだよ」

 抱えている問題を考えると、確かに兄の言う通り早いほうが好ましのだろう。確かにそうだと納得したレイは、だったらと「両方すれば良い」と提案した。

「一応恋人同士なんだから、別に毎日デートしてもおかしくないでしょう?」
「まあ、確かにレイの言う通りなんだけどね……」

 それはそれで、勉強やら運動やらに影響が出てしまう気がする。アサミに手伝って貰えば良いことなのだが、まだその段階にも達していないと思っていた。アサミには、しっかりと独り立ちした姿を見てもらいたかった。

「明日は……そっか、確か朝から生徒会の集まりがあったな。
 だったら、その後デートに誘えば良いんだっ」
「兄さん、結構前向きになったのね……」

 嬉しいわと口元を歪めた……と言っても、シンジからは見えないのだが……妹に、「努力しているから」とシンジは答えた。

「もしも失敗するにしても、前向きの失敗の方が良いだろう?
 後ろ向きだったせいで、これ以上無いってほど大きな失敗をしたんだ。
 だから、二度とあんな事をしないためにも、無理してでも前向きであろうと考えているんだよ。
 それに、後ろ向きになっていると、どんどん気持ちも落ち込んでいくからね。
 そう言ったのって、絶対に楽しくないんだよ」

 やはり妹からは見えないのだが、シンジはそう言って笑って見せた。

「それからもう一つ、前の僕だったらこんなときどうするのかを考えたんだよ。
 間違いなく、前の僕は今の僕より経験を積んだ大人なんだよ。
 張り合うところは張り合うけど、認めるところは認めないといけないと思っているんだ。
 前の僕だったら、絶対に堀北さんと話をすることを選ぶだろう?」
「そりゃあ、多分そうなんだろうけど……
 それで、デートをして何の話をするの?
 その当てがあるんだったら、私は何も言わないけど……」

 せっかく兄がやる気を出しているのだが、本当に実力が伴っているかについては疑問を感じていた。前向きになるのは良いことだが、結局討ち死にして終わってしまうことが無いのか。無策の前向きさは、後ろ向きで居るより悪いと思えてしまうのだ。
 だがこれだけ自信満々に言ってくれるのだから、当然作戦があると思っていた。だが、返ってきた答えはとても微妙なものだった。

「当てねぇ、それが一番難しいんだけど。
 まあ、嫌われていなければ何とかなるんじゃ無いのかな?」
「一気に、嫌われることが無いようにしてね。
 こんな事で、世界にニュース配信されて欲しくないんだからね」

 世界の英雄とヒロインの破局は、きっと大々的に扱われることだろう。それを思うと、「早く何とかしろ」と言う気持ちと、「このままの方が良いのでは?」と言う気持ちが拮抗してしまう。だが一度やる気になった兄を止めるのは、今更出来ないだろうとレイは諦めることにした。

「まあ、玉砕しないようにせいぜい頑張ってね」
「当たって砕けろって励ましかな?」
「いや、砕けちゃったら駄目だから……」

 本当にこれで大丈夫なのか。兄とのやりとりで、レイはよけいに不安が増した気がしてならなかった。



 そしてその翌日、妹に予告したとおり、シンジは生徒会に顔を出した。少し早く行き過ぎたためか、生徒会室に居たのは副会長の滝川ヨシノ一人だった。
 シンジが入ってきたのを見つけた滝川は、「久し振りですね」と問題の多い挨拶をした。生徒会長と副会長の二人が、「久しぶり」で生徒会としていいのか。そんなことを聞いてみたくなる滝川の言葉だった。

 もっとも、「久しぶり」と滝川に言われるのは、全面的にシンジの方に問題があった。特段イベントがないことを理由に、生徒会室に足を運んでいなかったのである。滝川が優秀なのに甘えて、自分のことを優先した結果でもあった。

「久しぶりか……さすがに、生徒会長としてそれは問題なんだろうね」
「まあ、特にイベントがないから問題ないと思いますよ。
 それよりも会長、今日はどう言った風向きなんですか?」

 生徒会長が生徒会室に顔を出すことを不思議がられるのは、やっぱり問題だと考えていいだろう。「そう言いますか」と苦笑したシンジは、「ちょっと野暮用」とぼかした答えをした。

「なるほど、野暮用ですか……
 ジャージ部じゃなくて、ここに来たのがその理由ってことですね」

 せっかくシンジが答えをぼかしたのに、滝川にはしっかりと目的が伝わっていたようだ。察しが良すぎると、シンジは滝川の事を評価した。

「そのあたりは、想像にお任せしておくよ。
 それで、生徒会の方は、目立った活動は無いんだよね?」
「一応、来年度予算の編成ってのがありますけどね。
 ジャージ部が特別予算を持っていますから、それ以外は例年通りになります。
 だから、各部から希望をとって、機械的に配分すればいいかと思います」

 来年1年の活動を左右することを考えれば、本当に適当でいいのかと疑問を感じてしまう。だが、どこかに色をつけるにしても、基準にするものが難しいという問題がある。だから「機械的に」と滝川が言うのも、ある意味正解と言えたのだ。

「そうは言うけど、予算ってそんなに適当でいいのかな?」
「特別に、配分を変える理由はありませんからね。
 特別な活動、例えば甲子園出場が決まったりすれば、特別予算が学校から下りてきます。
 だから、通常の活動に対しては、特別部員が増えたりしなければ、例年通りでいいんですよ。
 だからその配分については、会長は承認だけしてくれればいいんです。
 ああっと、邪魔だから関わるなと言っている訳じゃありませんからね」

 慌てて補足した滝川に、シンジは思わず苦笑を返していた。

「つまり、余計な手出しはするなってこと?」
「会長のお手を煩わせるまでじゃないってことですよ。
 会長に拗ねられると、僕が辛い立場になるので勘弁して下さい」

 「そう言う事です」と言って滝川が笑ったところで、ガラリと扉を開けてアサミが入ってきた。そして「おはようございます」と言ったところで、シンジの顔を見つけて驚いたように目を見開いた。

「今日は、ジャージ部じゃなかったんですか?」
「生徒会長が生徒会室に来て問題があるの?」

 疑問に疑問を返したシンジに、「そんなことは言いませんけど」とアサミは答えた。そして何かを諦めたように、定位置となった自分の席に腰を下ろした。ちなみにその席は、ちょうどシンジの斜め右前にあった。

「じゃあ会長、僕はちょっと職員室に行ってきます」

 初めから予定していたように、滝川はそう言って席をたった。当然気を利かせての行動だが、そう見えないようにするのがポイントだった。

「葵先生に会ったら、今日は生徒会室に顔を出していると伝えてくれないかな」
「葵先生にですね」

 了解しました。そう答えて、滝川はさっさと生徒会室を出て行ってしまった。そうなると、いきなり生徒会室はシンジとアサミだけとなってしまった。しばらくぼうっとしていたアサミだったが、シンジの顔を見ないで立ち上がった。

「何か仕事があるかと思ってきたんですけど、何も無さそうなので教室に戻ります」

 言い訳をしたアサミに、「今日デートをしよう」とシンジはいきなり声を掛けた。その誘いに、アサミは少し驚いたような顔をした。

「今日は平日です。
 それに、私の帰りは何時になるのか分かりませんから。
 今日は、環境委員会に顔を出します」

 「デートをするつもりはない」暗にそう答えて、アサミは生徒会室を出て行こうとした。だがシンジは、その答えを気にすることもなく、「じゃあ、待ち合わせ場所を決めておこう」と背中から声を掛けた。

「6時でいいかな、駅前の時計台の下で待っているよ」
「私は、一言も行けるとは言っていないんですけど」

 冷たく言い返したアサミだったが、シンジは全く堪えた様子を見せなかった。

「忙しいんだったら、遅れてきても構わないよ。
 なぁに、女の子を待つのは男の甲斐性って言うからね」
「勝手にしてください」

 はあっと一つため息を吐いて、アサミは振り返りもせずに生徒会室を出て行った。その反応だけを見れば、普通ならば相手にされていないと考えるところだろう。だがシンジは、全くめげた様子を見せなかった。

「さて、後は何をするのか考えればいいな」

 すでにアサミが来ることを前提にしたシンジは、デートのプランを考えることにした。まだS市の地理に不案内なシンジは、「お薦めはあるかい?」と少し大きな声を出した。

「僕に頼られても、あまりそう言うのは得意じゃないんですけどね」

 そう文句を言って入ってきた滝川に、「協力ついででしょ」とシンジはもう一度お薦めを聞き直した。

「例えば、滝川君が彼女と行くところとかでもいいよ」
「僕の場合、勝手に連れまわされているところがあるんですが……
 まあ、無難に公園辺りが良いと思いますよ。
 ただ会長と堀北さんの場合、どこに行っても目立つことを忘れないように」
「かと言って、人目につかない所に行くのは高校生として問題が多いだろう?」

 「生徒会役員だし」と言ったシンジに、「何を今更」と滝川は呆れてみせた。

「二人は、全世界公認の関係でしょう。
 どこでも、スイートルームを用意してくれることを忘れたとは言わせませんよ」
「う〜ん、残念ながら“忘れて”居るんだよ。
 何しろ僕は、記憶喪失になっているんだからね」

 開き直ったシンジに、「それを言いますか」と滝川は顔を引きつらせた。

「それでも、これまでの記録には目を通しているんでしょう?」

 たとえそうだとしても、何をしたのかぐらいは目を通しているはずだ。そんな滝川に、「それだったら」と、シンジは別の理由を持ちだした。

「頭の中は中坊だからね。
 大人の世界は、まだちょっと早すぎるんだよ」

 それが理由になるのだったら、自分が恋人に言われていることはどう考えればいいのか。確か中学3年だったよなと、滝川はアイカの顔を思い出していた。

「説得力のあるような無いような理由だね」

 ふっと口元を緩めた滝川は、「そういう事にしておきましょう」と引き下がった。

「とりあえず、お薦めは言いましたからね。
 後は、会長が堀北さんと行きたい所を考えればいいんですよ」
「全部忘れちゃったお陰で、どこって候補がないんだよね……
 その分、どこに行っても新鮮な気持ちになれるってメリットもあるけど。
 とにかく、アドバイスに感謝するよ」

 ありがとうと言って立ち上がったシンジは、「部屋の後始末をお願いするよ」と戸締りを滝川に任せた。

「確かに、そろそろ教室に戻った方が良さそうですね」

 壁にかかった時計を見た滝川は、「僕も出ます」と言って壁にかけられた鍵を手に取った。そしてシンジの後から生徒会室を出て、ドアの施錠を確認した。
 生徒会室を出てみたら、なぜかアサミ以外の役員が勢揃いしていた。誰も部屋に入って来なかった所を見ると、自分達に気を使ってくれたとしか思えなかった。

「もしかして、気を使わせちゃったかな?」
「会長達のことは、全生徒が心配していますからね」
「あら滝川はん、私は心配なんてしてませんよ。
 会長はんだって、本当は心配なんてしとらへんでしょ?
 会長はんが心配してるのは、堀北はんが無理をしないかだけですやろ」

 そうですよねと微笑んだ藤乃シズルに、「そこまでの自信は無いよ」とシンジは目元を引き攣らせた。

「まあ堀北さんのことについては、その通りかな?」
「堀北はんが羨ましいなぁ。
 うちにも、早く良い人がでけへんかしら?」

 「ごちそうさま」そう言ってお辞儀をした藤乃は、「そうですやろ?」と1年下の椎名マフユに聞いた。

「はい、私も会長みたいな人を見つけたいと思います!」
「僕みたいって……そんな大したものじゃないと思うんだけど?」

 照れるなと頭を掻いたシンジに、全員揃って「現実を見ろ」と文句を言った。自分の問題も解決していないのに、そのくせ恋人のことを心配して行動を起こしている。それを見せられれば、マフユのように憧れてもおかしくない。本人にとって大したことはなくても、周りから見れば十分に大したことだったのだ。



 6時と言うのは、中途半端に遅く、中途半端に早い時間に違いなかった。学校からはバスで15分、乗り継ぎを考えれば30分あれば到着する距離である。そして授業が4時半までなのだから、1時間の余裕が有ることになる。
 もっとも、放課後何もしなければ、時間の余ってしまう待ち合わせ時間に違いない。だが放課後に部活や委員会活動があれば、逆になんとも窮屈な時間割となってしまうのだ。そしてアサミは、「環境委員会」があると、シンジに告げていたのだ。

 ホームルームが終わった所で、シンジは一度部活に顔を出そうと考えていた。そこから弦楽部の練習に30分だけ顔を出せば、待ち合わせ時間に十分な余裕を持って間に合うことができる。
 そのつもりで教室を出ようとカバンを持ったシンジを、ユイが「碇」と呼び止めた。

「1時間とは言わない、30分ほど私に付き合ってくれないか?」

 真剣な顔で話しかけられたので、何かあるのかとシンジは考えた。だが超能力でもなければ、ユイの考えなど分かるはずもない。幸い弦楽部とも約束はしていないので、「構わないけど?」と答えて、「何か用かな?」とユイの用向きを尋ねた。

「いや、少し練習に付き合ってもらおうと思っただけだ。
 1ヶ月経ったのだら、どの程度勘が戻ったのか確かめてやろう」
「合気道だったっけ。
 出来たら、明日以降にして欲しいんだけど……」

 本当なら、30分程度の練習であれば問題はないはずだった。だがこれからデートだと考えると、汗にまみれて行くの失礼以外の何物でもない。その意味で、激しい運動は避けたいと思っていたシンジだったが、「今日がいいのだ」とユイは強硬に主張した。

「そろそろギガンテスが襲撃してくるタイミングだ。
 だとしたら、できるだけ碇の能力を上げておいた方がいいだろう。
 いつもいつも、前の戦いのように圧勝できるとは限らないからな」
「確かに、高村さんの言うとおりなんだけどね……」

 自分が出撃する、正確には出撃して戦力になるためには、少しでも格闘系の勘を取り戻しておく必要が有る。ユイと練習するのは、その目的には合致してたのだ。それにユイが言うとおり、まもなくギガンテスの襲撃があると予告されていたのだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて練習をつけてもらおうか」
「そうかっ」

 そこで表情を明るくしたユイを、可愛いなとシンジは密かに感動していた。こうして、自分と練習することを喜んでくれる。やっぱり仲間はいいなと思っていたのである。

「だったら、私に着いてきてくれるか?
 私が通っている道場が駅の近くにあるのだ」
「駅の近くだったら、僕にも都合がいいね」

 待ち合わせが駅の時計台なのだから、時間のロスを考えなくてもいい。それを考えたら、直ぐに行動に移した方が都合がいいだろう。

「うむ、時間が惜しいからさっさと行くことにしようか!」

 そう言ったユイは、「行くぞ」と嬉しそうにカバンを持った。

「ところで碇、最近余裕が出てきたようだな」

 並んで歩きながら、ユイは見上げるようにしてシンジに話しかけてきた。もともと小柄なユイと大柄なシンジだから、並んで歩くと大人と子供のようなバランスになっていた。
 余裕が出てきたと言うユイに、「そうかな?」とシンジは少し首を傾げた。

「うむ、環境に慣れたと言うのとは違う、余裕をお前から感じるぞ」
「そうかなぁ、ただ単に慣れただけって気もするんだけど……」

 ユイに評価されるほど、シンジは自分自身余裕ができたとは思っていなかった。

「その受け答え自体、余裕を感じるようになっているのだ。
 以前のお前なら、そう言った時には視線が落ち着かなかったのだぞ。
 それが今では、全く揺らぐことが無くなったではないか。
 だから私は、お前に余裕ができたと感じているのだ」
「その辺りも、慣れが一番大きいと思うけどね。
 後はそうだな、周りの環境も大きいんだろうね。
 何しろ3年前の僕は、本当に酷い目に遭っていたんだよ。
 初めの頃は、その時の気持ちを引きずっていたんだ」

 シンジの答えに、「そうか」とユイは小さく相槌を返した。

「時間が惜しいので、タクシーを使うが問題はないか?」
「それは構わないけど、タクシー代は僕が出そうか?」

 バス待ちを考えれば、その方がずっと時間の節約になる。だったら恩恵を受ける自分が支払うべきだと、シンジは主張した。

「なに、誘ったのは私の方だからな。
 それに、これでも小遣いは潤沢に貰っている」

 校門の所に出た時、まるで図ったようにタクシーが近づいてくるのが見えた。右手を上げてそれを止めたユイは、シンジを先に押し込んでから、「駅前1丁目の間宮道場」と行き先を運転手に告げた。

「学校の道場と違って、そこの方が見物人が少なくていいのだ。
 それに先生の間宮さんは、なかなかの教え上手だからな。
 そして実力の方も、日本でトップレベルであるのは間違いない!」
「へぇ、S市にもそんな人が居たんだね」

 感心しながら、シンジはタクシーがどのルートを通っているのかを観察していた。後から駅に行くのに、どの程度時間がかかるのかを確認するためだった。

「その道場から、駅に行くのにはどれぐらい掛かるの……」

 そう口にした所で、シンジはそこはかとない違和感を感じた。なぜかユイが、自分の予定を把握しているように感じてしまったのだ。

「駅までなら、歩いて5分というところだな。
 時計台なら、更に2分程度というところだろう」
「つまり、高村さんは僕の予定を知っているということか……」

 それで合点がいったシンジに、「何を今更」とユイは無表情に答えた。

「お前が堀北を誘ったことは、すでに全校に知れ渡っているぞ。
 お前をこうして連れ出したのは、うるさいことにならないようにと言う意味もある」
「そうか、高村さんにも気を使わせてしまったんだね」

 「ありがとう」とお礼を言ったシンジに、「仲間だろう」とユイはぶっきらぼうに答えた。

「前の戦いは、お前のお陰で無事乗りきれたと思っているんだ。
 お前があそこで話しかけてくれなければ、私達は間違い無く手痛い失敗をしていただろう。
 それぐらい、先輩達を含め、私達が全員が今までと違った雰囲気の中に居たんだ。
 それではだめだと誰もが考えいていても、どうしたら良いのか誰も分からなかった。
 あっ、ここです……」

 タクシーが目的地に着いたので、ユイは財布から千円札を取り出した。そしてお釣りをもらって、先にタクシーから降りた。

「へぇ、立派なお屋敷なんだね……」

 駅から5分の場所にあるとは思えない、立派な門構えの屋敷がそこにあった。表札に「間宮」とある所を見ると、ここが目的地に違いなかった。

「立派と言っても、篠山の家はもっと立派だぞ。
 さあ、私に着いてきてくれないか」

 大きな門の横にある通用口を開いたユイは、こっちだとシンジを招き入れた。

「へえ、綺麗なお庭があるんだね……」

 目の前に広がった手入れされた庭に、シンジは思わず感嘆の声をあげていた。だがユイにしてみれば、キョウカの家の方がはるかに立派なことを知っていたのだ。

「お前は、一度篠山の実家に行ってみた方がいいな。
 まあ、色々と難しい問題はあるだろうが、今なら無理も言われないだろう」
「確かに、今なら言われないんだろうね……」

 その辺りに事情は、自分からのメッセージに残されていた。それを思い出したシンジは、「難しい問題」と言うのは確かだと考えた。
 途中であった家人に頭を下げて、ユイは庭の奥にある建物へとシンジを連れて行った。そこには「修身場」と言う、墨で書かれた看板が掛けられていた。

「ここが道場?」
「ああ、時々稽古をつけてもらっている」

 カバンから鍵を取り出し、引き戸の鍵穴に差し込んだ。

「そう言えば、ジャージを持ってきていたか?」
「週末だからね……」

 シンジは、持っていたサブバッグを右手で叩いた。つまりその中には、洗濯の必要なジャージが入っていると言うことだ。
 なるほどと頷いたユイは、引き戸をガラリと横に引いた。そうすると、小さな土間の先に広がる、綺麗に磨かれた板張りの廊下が目の前に伸びていた。土間で靴を脱いで上がったユイは、少し歩いた所で「ここだ」と扉を指さした。扉には、ただ「更衣室」とだけ書かれていた。

「そうか、だったらここを使ってくれ。
 私は、別の部屋で着替えてくる」

 シンジをその場に残したユイは、そそくさとその場を離れていった。ユイがあまり荷物を持っていない所見ると、道着がここに置いてあるのだろう。
 なるほどねと感心して更衣室に入ると、かなり強い汗の匂いが鼻についた。それを気にして、シンジは明かり取り程度の小さな窓を開けることにした。

「あ、どうもお邪魔しています」

 窓を開いた時、偶然通りかかった老婦人と目が合った。白い髪をした温和そうな女性は、シンジを見てニッコリと微笑んだ。そして「ごゆっくり」と声を掛けて、庭の奥の方へと消えていった。

「なんか、うちとは別世界だな」

 それをユイに言ったら、またキョウカのところに行ってみると言われるのだろうか。そんなことを考えながら、シンジは洗濯前のジャージに着替えた。

「汗、臭くないよな……」

 仮にも女の子に稽古をつけてもらうのに、汗の匂いを振りまくのは失礼に違いない。それを気にして匂いを嗅いでみたら、とても微妙な状態だと言うことだけは分かった。

「僕は、こんなものを持ってデートに行くつもりだったのか?」

 鞄ならまだ許せるが、汗臭いジャージを持っているのはどうかと思う。こう言うところが気が利かないと反省しながら、シンジは更衣室を出て道場に向かった。

「う〜ん、いかにもって場所だな」

 合気道用と言うより、武道全般と言った方がいいのだろう。道場の壁には、「精神統一」と言う額がかかっているし、その横を見れば木刀が何本か掛けられていた。

「あの汗臭さは、もしかしたら防具の匂いか?」

 だとしたら、臭いのも納得することが出来る。S高剣道部で使った防具を思い出し、どこでも同じなのだとおかしな納得の仕方をしていた。
 そんなことを考えて道場を見学していたら、「待たせたな」と言ってユイが現れた。

「それが、正式な格好なのかな?」
「うむ、さすがにジャージでは締まらないからな」

 そう答えたユイの格好は、黒の袴に白い道着姿だった。そして普段は結んでいない髪を、後ろでポニーにしていた。確かに、ジャージ姿よりも、こちらの方が格好良く見えた。

「では、軽く準備運動をしてから手合わせをするか」
「初心者だから、その辺りはお手柔らかにお願いするよ」
「私は、お前の実力を確認すると言ったはずだ」

 それ以上でもそれ以下でもない。そう言ってユイは、軽いストレッチ運動を始めた。それに倣うように、シンジも屈伸運動をから入っていった。

「ここを、5時40分までに出ればいいのだな?」
「シャワーとか、あるかな?」

 これから更に汗を掻くことを考えると、シャワーぐらい浴びていく必要が有る。特にデートなのだから、エチケットに気を使う必要が有るのだ。
 そんなシンジの質問に、「風呂ならある」とユイは答えた。

「なんだったら、背中でも流してやろうか?」
「いやいや、同級生の女の子にしてもらうことじゃないでしょ、それ」

 「からかわないで」と文句を言ったシンジに、「本気で言っていたらどうする?」とユイは聞き返した。

「その方が、もっとまずいと思うんだけどな」
「まあ、これからデートに行く男を誘惑するのは宜しくないだろう。
 さあ、そろそろ体も温まっただろうから、軽く手合わせでもするとしようか!」
「くれぐれも言っておくけど、お手柔らかにお願いするよ」

 「きっと痛いだろうな」と、シンジは綺麗に磨かれた床へと視線をやった。柔道の畳とは違って、見る限り何もクッションが無かったのだ。

「まあ、一応加減は心得ているつもりだ」

 そう言って口元を歪めたユイは、「始めよう」と言ってシンジの前に立った。

「もともと合気道と言うのは、争うための武術ではない。
 だから、自分から攻撃する技もないのだ。
 だから碇、お前から攻撃してくれないか?」
「攻撃と言われてもね……」

 武術系で顔を出しているのは、空手部と柔道部、そして剣道部だった。まさか木刀で殴りかかる訳にはいかないし、拳で殴るのも相手が女の子だと思うと遠慮してしまう。仕方がないと、シンジは道着の襟を掴むことにした。
 だが襟に手が触れたと思った瞬間、掴んだ手が巻き込まれ、気がついたら道場の床に転がされていた。痛いと言うことは無かったのだが、不思議な感覚を味わったのである。

「どうだ、これが合気だ。
 相手を傷つけることを目的としていないため、転がされても痛くは無いはずだ」
「なんか、気がついたら転がされていたね……」

 不思議だなと立ち上がったシンジは、もう一度ユイと正面から向かい合った。

「どうだ、遠慮や手加減が不要だと分かっただろう?」
「それでも、本気にはなりにくいんだけどな」

 自分と比べると、ユイの体はずっと小さかった。それに正面から見るユイは、そこそこ綺麗な女の子だったのだ。暴力とは無縁に見える女の子に掴みかかると言うのは、男として見下げた行為に思えてしまうのだ。

「稽古において、その遠慮こそ相手への侮辱になると思うのだな。
 そしてこの時点において、遠慮や手加減が必要なのは私だと知ることだ」

 だから来いと手招きされ、シンジは遠慮がちにユイへと手を伸ばした。だがユイの肩に触れたとたん、簡単につかんだ腕を折り曲げられ、そのまま床に押し倒されてしまった。

「これを防げない時点で、お前の方が弱いというのは分かっただろう?」
「なにか、不思議な感覚だね……」

 転がされたのに、特にどこかに力が掛かったという気がしていない。本当に、気づいたら転がっていたのだ。まるで何かにだまされたような感覚を、シンジはユイに対して抱いていた。

「合気道と言うのは、非常に理にかなった力の使い方をするのだ。
 「小よく大を制す」と言われるように、体の小さな私に似合った武術だ。
 それに合気道は、相手を攻撃する武術では無く、身を守るための武術でもあるのだ」
「なるほど、だから不思議な感覚があったのか……」

 うんうんと頷いたシンジに、ユイはちょっとした爆弾を落とした。

「護身術であるのを、お前に身をもって教えてやろう。
 よく痴漢対策にも取り入れられるのだが、わ、私に、後ろから抱きついて見ろ」
「い、いやぁ、さすがにそれはモラルが厳しくない?」

 小柄なユイに抱きつくと、本当にのしかかるようになってしまう。その後どうなるのか、色々な意味で怖かった。

「な、なに、これはあくまで稽古だからな。
 ややや、疚しいところなど、か、感じなくても良いのだぞ」

 そこで焦られると、余計に結果が気になってしまう。合気道の事は分かったが、なぜその練習で抱きつかなければ行けないのか。その辺りの感覚が、シンジには今ひとつ理解できなかった。
 どこかおかしくないかと悩むシンジに向かって、ユイは顔を赤くして「さっさとやれ」と急かしてきた。

「う、後ろから、襲いかかるようにしてくれればいい」
「やれって言うんだったら、まあ、遠慮無く……」

 本当にいいのかなぁと考えながら、シンジは背中を向けたユイに近づいた。そして少し腰を落とし、ユイの腰の辺りに両腕を回した。そして両腕ごと抱え込み、そのまま体を持ち上げた。

「ち、ちょっ、い、碇っ!」

 想定外の攻撃だったのか、返し技に入れずユイはばたばたと両足をばたつかせた。だが小柄で軽量のユイが暴れても、シンジの足下がふらつくようなことは無かった。手首を支点にホールドをほどこうとしているのだが、体勢が悪くてそれもうまくいっていなかった。

「高村さんは、思っていたより軽いんだね」
「そ、それはいい、もう下ろしてくれっ!」

 さすがにどうしようも無くなったので、ユイはシンジに降参だと告げた。降参だから、すぐに下ろして欲しいのだと。

「もともと勝負じゃ無いんだから、降参も何も無いと思うけど……」

 シンジはそう言うと、言われたとおりにユイをゆっくりと地面に下ろした。

「わ、私はまだ未熟だった……」
「たぶん、油断のしすぎじゃ無いのかなぁ。
 本当は、あんなにがっちりと捕まれる前に、仕掛ける必要があるんだろう?」

 ユイから離れたシンジは、両手をぱたぱたと振っていた。大人げないと言うのか、さすがに少し力を入れすぎたと思っていたのだ。

「そ、それはそうなのだが、やはり私の未熟さ故の失敗だ」

 精神的にと付ければ、間違いなく事実を正確に現していることになる。シンジに抱きつかせると考えたことで、ユイは自分が舞い上がっていたことに気づいていたのだ。そのせいで、普通なら遅れることの無い対処が、ワンテンポもツーテンポも遅れてしまっていた。
 それでも達人ならば返し技が出来るのだろうが、ユイの精神状態ではそれも難しかったのだ。シンジに抱きつかれた瞬間、頭の中が沸騰してしまっていたのである。

「それでどうするの?」
「い、碇への指導が残っているからな。
 ととと当然、まだ続けるに決まっているだろう!」

 何を焦っているのか分からないのだが、ユイの精神状態が正常でないことだけはシンジにも分かった。だからと言って、やめると言えば意固地になるのも短い付き合いでも理解していた。

「だったら、最初のをどうやったのか教えてくれないかな?
 襟をつかもうと思ったのが、いつの間にかひっくり返されていただろう?」
「うむあれか。
 あれは、かなり基本的な動きを使っているんだ。
 そうだな碇、まず私の襟を掴んでくれないか?」
「今度は、いきなりってのは無しにしてよ……」

 少しおっかなびっくりシンジは、ユイの道着の襟に手を掛けた。

「合気道と言うのは、相手の重心をコントロールすることに意味がある。
 小さな力で相手を制御するためには、てこの応用を活用している」

 襟を掴んだ手の肘を抑え、ユイは外側に向けて体の中心軸をずらした。

「腕が伸びると、力が入りにくくなる。
 そして体の中心軸から外に外れることで、更に力というのは入らなくなるのだ」

 そう説明して、ユイは円を描くように体をシンジの横へとずらした。そうしたことで、襟を掴んだ腕が逆にひねられるような形になった。そのタイミングで、ユイは襟を掴んだシンジの手をつかむのと同時に、反対の手で傾いた肩をぐっと下に押した。

「こうすることで、掴んでいた手が離れ、しかもお前の体勢が前のめりになる。
 そして逆を取った腕を持ち上げ、更に体を下に押してやればお前を制圧することが出来る」

 「このように」と言ってユイが力を入れたため、シンジは耐え切れなくなって床にうつ伏せにされた。右手が決められたままなので、逃げることもできなくなってしまった。

「このように、合気道は力ではなく相手の重心体勢をコントロールする。
 そうやって態勢を崩してやれば、容易に投げや固め技を掛けることが出来るのだ」
「い、言いたいことは分かったから、そろそろ放してくれないかな?」

 真似ができるのかどうかは別として、考え方は理解することができた。ここから先は、練習を繰り返すしか無いのも分かっている。だから放して欲しいと、シンジはユイにお願いした。
 だがシンジのお願いに、ユイはすぐには答えなかった。そして特に力を込めることもなく、シンジを制圧し続けた。

「高村さん、いい加減放してくれないか?」

 このまま時間だけすぎるのは、どう考えても意味のあることとは思えない。少しきつ目の声で、シンジはユイに自分を放すようにと命令した。
 だがユイは、掴んだ腕を放す代わりに「碇」とシンジに呼びかけた。

「なぜ、このような日にお前は堀北をデートに誘ったのだ?」
「別に、何時誘ってもおかしくないと思うけど……痛たっ!」

 完全に関節を決められているため、シンジは全く抵抗することが出来なかった。そして決められた腕に力を入れられれば、みしみしと関節が悲鳴を上げる事になる。

「お前が帰ってきてから、もう1ヶ月以上が過ぎているだろう。
 だが時間とともに、堀北はお前のことを避け始めているではないか。
 この前の戦いの時には、堀北は、言わなくてもいいことをお前に言った。
 お前がみんなをリラックスさせようとした時も、堀北だけがムキになって加わらなかった。
 一体堀北は何をしようとしている。
 そしてお前は、どうしてそこまで堀北にこだわるのだ」

 「答えろっ」そう大声で叫んだユイに、これが理由なのかとシンジは理解した。敢えて今日という日に、学校から離れた所での稽古に誘う。こうして誰の邪魔も入らない環境を作り、溜まっていたものを吐き出そうと言うのだろう。
 その行動は、恐らくユイの優しさから出ているのに違いない。自分からのメッセージにある通り、とても優しくて不器用な少女だったのだ。それが理解できたから、シンジはユイの詰問に答える訳にはいかなかった。力づくで口を割らせた、そんなことをさせる訳にはいかなかったのだ。
 だからシンジは、きめられたのとは反対の左腕に力を込めた。反撃のために、体を持ち上げようと言うのである。もちろん、そんなことをすれば、決められた右肩が激痛を訴えることになる。

「よせ、この体勢からは逃げられん!
 無理をすれば、お前の右肩が壊れてしまうことになるぞ」

 ミシミシと悲鳴を上げる右肩を無視し、シンジは更に左腕に力を込めた。激痛に脂汗が流れ出てきたが、それでもシンジは左腕に力を込めることをやめなかった。

「よせ、それをすれば右肩が外れるぞ!」

 「やめろ」と叫んでも、シンジは左腕に力を込めるのをやめなかった。このままでは、本当にシンジの右肩を外してしまうことになる。そうなると、たとえ元に戻してもしばらく右肩が上がらなくなってしまうだろう。それにもかかわらず、シンジは左腕に力を込めた。もう少しで体が床から離れる、そうなった所でユイはきめていた右手を放した。
 それを待っていたように、シンジは自由になった右手でユイの襟を掴んだ。そして体をくるりと回し、巻き込むようにしてユイを逆に床へと組み伏した。

「お前は、これを狙っていたのか?」
「まあ、高村さんが本気で僕の関節を外せる訳が無いからね。
 だから、無理をすれば必ず右手を放すと思っていたんだ。
 そして右手を放した瞬間、高村さんに隙が生まれるのも予想していたんだよ」

 そう言って、シンジはユイの上からゆっくりと立ち上がった。そしてきめられていた右腕を、確かめるようにグルグルと回した。

「お前というやつは、記憶を失っても冷静なのは変わっていないな」

 少し乱れた胸元を直しながら、ユイはゆっくりと立ち上がった。ちなみに、Tシャツを着ていなかったことを後悔していたりした。

「この程度のことは、あまり大したピンチじゃないからね」

 そこでシンジは、壁の時計で時刻を確認した。すでに道場に来てから、40分が過ぎていた。そろそろ汗を流して、待ち合わせの場所に向かう必要があった。

「悪いけど、そろそろ時間だからお風呂を使わせてもらうよ」
「碇、本当に行くつもりなのか?
 おそらく、待っていても堀北は現れないぞ!」

 アサミの行動を予見したユイに、「堀北さんは必ず来るよ」とシンジは返した。

「まあ、遅刻ぐらいはするだろうけどね。
 でも、僕は絶対に堀北さんが来てくれると信じている。
 だから、僕は絶対に遅刻をしてはいけないんだよ」
「お前が遅刻をしてはいけないの下りは理解できないが……」

 それでも、この勝負は自分が負けたのは間違いない。だからユイは、シンジをお風呂場まで案内することにした。脂汗まで流させてしまったのだから、絶対にお風呂にはいらなくてはいけなくなってしまった。

「バスタオルは、すぐに持ってくるので心配するな。
 それから、汗まみれのジャージはここに置いていけ。
 私が洗濯をして、明日お前の所に持って行ってやる。
 大丈夫だ、誰かが来る前にお前の席に置いておくからな」
「い、いやっ、そこまでしてもらう程じゃないと思うんだけど……」

 洗濯を、クラスメイトの女の子にさせる。これが彼女ならいざしらず、部活の仲間にさせることではないだろう。部活のマネージャーなら分かるが、ユイとはそんな関係でも無かったはずだ。
 だがユイは、「やらせて欲しいのだ」と譲らなかった。

「今の私には、それぐらいしか手伝えることがないからな。
 だいたい碇、お前は彼女とデートをするのに、汗臭いジャージを持っていくのか?」

 「がっかりだな」と言われると、さすがに問題だとシンジも思えてしまった。かと言って、コインロッカーに預けたりしたら、その後どうなるのかが恐ろしい。一つの問題、ユイに洗濯させていいのかを除けば、任せたほうが賢いのは確かだった。

「ええっと、本当にお願いしてもいいのかな?」
「ああ、そうしてくれると私も嬉しいのだ」

 そうやって喜ばれると、任せることへの罪悪感は少しだけ軽くなる。それでも、本当にいいのかという気持ちは残っていた。その迷いを、ユイはシンジを急かすことで押し切ることにした。

「早く風呂に入って汗を流さないと、待ち合わせ場所に遅れることになるぞ」

 そう言われれば、確かに時間が無駄に過ぎた気がする。慌てて浴室に入ったシンジは、さっさと着ているものを脱ぎ捨てた。

「随分と、広いお風呂なんだね……」

 木でできた風呂桶と、岩を組み合わせた床でお風呂ができていた。どこかの温泉みたいだと、凄いなとシンジは感心した。家の小さなお風呂とは違う、解放感を感じていた。

「出来たら、もっとゆっくりと入りたかったかな?」
「ならば、またここに来ればいいだけだ。
 タオルを置いておくから、いつでも上がってきていいぞ」
「あっ、ありがとう……」

 外から聞こえてきた声に、シンジは思わず前を隠してしまった。もしもここでユイが入ってきたりしたらどうなるか、それはいけないと思いながら、少しだけアクシデントを期待していた。
 もちろんユイが、背中を流しに来るはずはない。最初にシンジが駄目だと言ったのだから、それを無視するつもりはなかったのだ。だが背中を流しに来る代わりに、ユイは「答えをもらってもいいか?」と声を掛けてきた。

「答え……か?」

 それがジャージの洗濯でないことは、さすがにシンジも理解していた。ユイに制圧された時に聞かれたこと、そのことへの答えを求められたのだと。

「僕はもう、後悔をしたくないし、後悔をさせたくもないんだ。
 堀北さんが悩んでいるのを分かっているのに、何もしない自分は絶対に嫌なんだ。
 僕が帰ってきたあの日、堀北さんや先輩達が僕の手をとってくれた。
 だったら、今度は僕が堀北さんの手をとる番だと思っている」

 それが答えだと言うシンジに、「そうか」とユイは呟いた。

「やはり、お前はお前と言うことなのだな」
「そりゃあ、僕は僕でしか無いんだからね」

 まるで禅問答のようなやりとりなのだが、それでもお互い意味は通じたようだ。もう一度「そうか」と小さく呟いたユイは、「急いだ方が良いぞ」とシンジに声を掛けた。

「だったら、脱衣所から出て行ってくれるかな?
 同級生の女の子の前に、裸で出て行けるほど肝は据わっていないんだ」
「そうだな、さすがに私も恥ずかしいという気持ちがあるからな」

 「待ってろ」と声を掛けて、ユイはお風呂の脱衣場から出て行った。遠くの方から「もう良いぞ」と言う声が聞こえたので、シンジはお風呂から上がることにした。時間が無いので、本当に汗を流すだけの入浴だった。それでも、お湯のおかげかかなりさっぱりとした気持ちになっていた。

「しかし、替えの下着は持っていなかったな……」

 汗臭いジャージはすぐに脱ぐから良いものの、それ以外は着替えを持っていなかった。さすがに仕方が無いと諦め、シンジは着替えるために更衣室へと向かった。それに、今の関係で下着が問題になることはあり得ないだろう。
 そこで手早く制服に着替えたシンジは、更衣室の前で待っていたユイに“洗濯物”を手渡した。

「本当に、任せて良いのかな?」
「うむ、私が好きでやっていることだ。
 碇は、細かいことを気にする必要は無いのだぞ。
 それよりも、いくら近いからと言って、のんびりしていると遅刻をすることになる。
 駅までの道は、ちゃんと分かっているだろうな?」

 シンジから預かったジャージを胸元で抱え、ユイは「大丈夫なのか」と心配してきてきた。その顔には、よほど良いことでもあったのか、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

「一応、来る時に確認はしてあるから大丈夫だと思うけど……」

 頭の中でルートを確認したシンジは、「たぶん」といささか心許ない保証の言葉を口にした。

「いざとなれば、スマホの地図もあるから大丈夫だと思うよ」
「まあ、広い通に出れば駅まですぐだからな。
 分からなくなったら、私に電話してくれれば案内してやる」

 初めてであった時には、ユイは駅までの道をしっかり迷った経験がある。それを考えると、偉そうに道案内を口に出来る立場では無いはずだった。ただその時の記憶をシンジも無くしているので、突っ込みの言葉が出ることは無かったのだ。

「たぶん、そんなことにはならないと思うけど……
 まあ、その時は高村さんに電話することにするよ」

 じゃあと言って靴を履いたシンジに、「がんばれよ」とユイは手を振って見送った。

「まあ、あまりがんばる必要も無いと思うけど……
 とにかく、今日は付き合ってくれてありがとう。
 色々と参考になることがあったよ」

 ユイに合わせるように手を振ったシンジは、そのまま道場を出て行った。しっかり日の落ちた庭を、白い服を来たシンジが解けて消えていくのをユイは見送った。

「碇の、匂いだな……」

 胸元に抱えているのは、たった今までシンジが着ていたジャージだった。本当なら汗臭くて仕方が無いはずなのだが、それがシンジの匂いだと思うと嬉しかった。だがすぐに自分のしていることに気づき、「いかんいかん」とユイは激しく首を振った。気がついていたら、いつの間にかジャージに顔を埋めていた。

「こ、これでは、まるで変態では無いか。
 こ、これは、碇から洗濯をして欲しいと預かったものなのだぞ」

 正確には、洗濯をさせて欲しいとお願いしたものである。多少の事実を書き換えたユイは、いかんいかんともう一度首を振った。

「わ、私はノーマルだからな……」

 誰も聞いていないはずなのに、ユイは力一杯言い訳の言葉を口にした。だが、本当に周りに誰も居ないのを確認してゴクリと喉を鳴らした。

「す、少しぐらいなら構わないよな……」

 そう言い訳をして、再びユイはシンジのジャージに顔を埋めた。そこで大きく息を吸い込むのは、恋する乙女と言うところか。ただその行為は、いささか異常な行動に違いないだろう。それが分からないから、恋する乙女なのかもしれなかった。



 ユイの耳に届くぐらいだから、委員会出席者がアサミの事情を知っているのは当然のことだろう。それもあって、5時から始まった環境委員会では、アサミの顔を見た全員が本当に良いのかと顔を見合わせてしまった。委員長として定例委員会に顔を出すのは当然なのだが、待ち合わせ時間に遅刻すること必至だったのだ。
 それもあって、副委員長の富沢が、「良いんですか?」と代表してアサミに質問をした。

「議題から行くと、終わりが6時を過ぎることになりますが……」

 終わってから駅に向かうと、到着は7時頃になってしまう。待ち合わせが6時だと考えると、大幅な遅刻と言うことになる。
 それを気にした富沢ほか環境委員達に、「関係有りません」とアサミはきっぱりと言い切った。

「私は、碇先輩に委員会があるから行けないって言ったんです。
 それを無視した碇先輩が悪いのであって、皆さんに責任はありません!」
「そうは言いますが……」
「月に1回の委員会ですよ。
 それに委員長が出席しないでどうするんですか?
 それとも富沢さんは、委員長として私がいらないと仰るんですか?」

 そこで建前を通したアサミに、富沢は言い返す言葉を持っていなかった。生徒会としての公務は、ずっと前から決まっていたことだった。そしてその公務について、生徒会長及び環境委員長が従うのも当然のことだったのだ。それを考えれば、公務を無視して「私的用事」を入れた生徒会長が全面的に悪いことになる。
 そんな正論を持ち出されれば、誰もアサミの出席に異を唱えることは出来なくなる。それでも出来ることがあるとすれば、いかに早く委員会を終わらせるのかと言うことだった。それにしたところで、通常1時間以上掛かる委員会を、30分以内に終わらせるのは不可能に等しかった。

「いえ、委員長の出席は必要だと思っています……」

 そこで折れた富沢は、いかに早く委員会を終わらせるのかを考えることにした。今回の議題は、年度末の整理を伴う10案件。これまでの常識に従うのなら、ボリューム的に90分程度掛かるものだった。

「では、早速環境委員会を開催します。
 今回は、3月の学年末に向けて、課題事項の整理を目的としています。
 出席者各位の積極的な発言をお願いします」

 “積極的な発言”とは言ったが、出来るだけ意見を出して欲しくないというのが本音だった。そして出席した委員達も、「絶対に余計なことは言わない」「おかしな突っ込みはしない」と心に決めていた。とにかく、第一優先は委員長を一秒でも早く送り出すことだ。微妙な噂を、これ以上まき散らすわけには行かなかったのだ。

「では、一番目の議題ですね。
 校内10箇所にある花壇の整理統合並びに植栽計画についてですが……」

 その計画書に目をやったアサミは、すぐに問題点を見つけ出してしまった。

「富沢副委員長、いくら例年と変える必要が無くても、資料をコピペで済ますのはどうかと思いますよ。
 ここに書かれている第3花壇ですが、これって昨年廃止されていますよね?
 その代わり、別の場所に第11花壇が作られたはずです。
 広さも違いますから、まったく同じには出来ないと思いますよ。
 従って、全体の予算の見直しも必要になりますね?」

 総数は合っていても、面積が違うと掛かる費用も変わってくる。予算総枠が決まっているので、簡単な修正だけで辻褄が合わなくなってしまうのだ。そのため全体を精査する必要があるのだが、それをやると最低でも30分は掛かってしまうことになる。つまり、その時点でアサミの遅刻が確定すると言うことだ。
 迂闊だったと後悔しても、見つけられてしまった以上後の祭りと言うことになる。この危機をどう乗り切るのか、のっけからの問題に、富沢は頭を悩ませることになったのだった。



 間宮道場を出たシンジは、待ち合わせ時間の10分前に時計台に到着していた。どんなことがあっても遅刻だけは駄目と言う、固い決意からの結果でもある。
 そしてシンジが現れれば、当然駅前に居た人たちの注目を集めることになる。さすがに年上の人たちから声を掛けられることは無かったが、中学生の女子達からは、「待ち合わせですか?」と何人かに声を掛けられることになった。
 そのたび事に、「そうだね」と答えたシンジに、なぜか女子中学生達は「きゃぁ」と黄色い歓声を上げてくれた。中には、「写メ」して良いですかと、携帯を取り出す女子も何人か居た。

「別に、それぐらいは構わないけど……」

 影響の大きさを考えずに同意したため、そこから先は「私達も」と言う混乱が駅前広場に起きてしまった。駅前に居たほとんどの人たちが、シンジの所に来て携帯で写真を撮りまくってくれたのだ。その反応に、シンジは今更ながら以前の自分の人気を知ることになった。
 少し顔を引きつらせながら、シンジは時計台で時間を確認した。到着からおよそ10分、そろそろ勝手に主張した待ち合わせ時間になる頃だった。ただアサミの性格を考えれば、仕事を投げ出してくるとは考えにくい。だから問題は、どれだけここで待てば良いのかと言うことだった。

「まっ、8時前には来てくれるだろう」

 すっぽかされると言う考えは、シンジの頭の中にはかけらも存在していなかったのである。

 そしてちょうど待ち合わせ時間となった時、アサミは環境委員会の終わりを全員に告げていた。普段に無く早く終わったのは、それだけ委員全員が協力的だったことに理由がある。そしてのっけからの躓きも、富沢が再報告と言う逃げ道を見つけることで、最小限の影響に押さえ込むことに成功した。

「委員長、私達で後片付けはしておきます!」
「バスの時刻まで、あと10分ですから急いでくださいね!」

 うまくバスに乗れば、30分程度の遅刻で済ませることが出来る。そのためには、さっさとアサミを送り出す必要があったのだ。だから集まった委員全員が、「ご苦労様でした」と大きな声で挨拶をして、アサミがその場に残るのを許さない空気を作り上げた。

「別に、追い出さなくても良いと思うんですけど」

 そうは言っても、この状態で出て行かないのは許されそうも無かった。シンジを無視するのは、さらに許されそうな雰囲気では無かった。仕方が無いと鞄を持ったアサミは、「行ってらっしゃい」と言う全員の声に見送られ、委員会を後にしたのである。

 委員会に使っている生物準備室を出たアサミは、そこから小走りに1年生の下駄箱へと向かった。平気そうな顔をしていたが、シンジを待たせていることはずっと気になっていた。委員会の人たちはバスの時間を気にしてくれたが、いざとなったらタクシーを使うこともアサミは考えていたのだ。
 校門を出たアサミは、タクシーを捕まえるのよりも早くバスに乗ることが出来た。少し込んでいるのは気になったが、10分程度のことだと我慢することにした。だが乗った直後のアナウンスに、アサミは考えが甘かった事を思い知らされた。すでに、夕方の渋滞がピークを迎えていたのだ。

「これだったらタクシー、も同じか」

 たとえタクシーでも、渋滞を回避することは出来ない。少しずつ動くバスに、アサミはこのまま乗り続けることを選択した。外に出て急いだとしても、バスより速く到着できるとは思えなかった。

「さすがに、先輩にメールをした方が良いですね」

 あの調子なら、すっぽかしても駅前で待っていることだろう。せっかく駅前に行こうとしているのだから、ちゃんとそのことを伝えた方が良いと考えたのだ。時計を見れば、すでに待ち合わせ時間も20分ほど過ぎている。本当ならば、こんなことになる前に連絡をしておくべきだったのだ。
 連絡のためアサミが携帯を取り出したのと、緊急連絡の着信音が鳴動するのはほぼ同時だった。けたたましい音が鳴り響いた瞬間、アサミは大きな声で「ここで下ろしてください!」と運転手に言った。

「堀北アサミです、緊急事態ですから下ろしてください!」

 そう繰り返したアサミに、運転手からは「少し待ってください」と言う答えがあった。ちょうど動き出したところなので、ここで扉を開くのは危険だというのである。

「すぐに、道ばたに寄せますのでそれまで待ってください!」
「よろしくお願いします!」

 こうなると、今更シンジに連絡をしても意味が無くなってしまった。それにシンジにも緊急招集が掛かっているのだから、どうせ基地で逢うことになるのだ。遅れたことは、そこで謝れば良いとアサミは割り切ることにした。
 だがバスが路肩で止まったところで、いつもとは違うことをアサミは思い知らされた。普段ならば、すぐにでも白バイがピックアップしてくれるのだが、あいにくの渋滞でそれもままならなくなっていたのだ。それにこの状況では、いくら白バイでもすべての道を突っ切ることは出来ないだろう。

 仕方が無いと諦めたアサミは、携帯を取り出して基地に連絡を入れることにした。幸い学校からあまり離れていないので、そこから空を利用することを考えたのだ。学校に行けば、待機している自衛隊のヘリが居るはずだった。

「堀北です。
 渋滞に引っかかっているので、学校まで戻ることにします。
 はい、襲撃予想地点はヨーロッパなんですね……」

 その連絡に、アサミはほっと安堵の息を吐き出した。多地点襲撃の可能性は残っているが、これで緊急度合いが下がってくれたのだ。出撃することも無ければ、一度どこかで待機することになるだろう。デートのことは、そこでシンジに謝れば良いはずだと考えた。
 それでも、アサミが急がなくてはならない事情に変わりは無い。車の間をすり抜けてきた白バイを捕まえたアサミは、S高に連れて行くようにと指示を出した。

「そこからは、ヘリで基地まで移動します」
「了解しました。
 S高のグラウンドまで案内すればよろしいですね」

 アサミを後ろに乗せた白バイ隊員は、緊急を示すサイレンを鳴らした。そして普段とは比べものにならない遅さで、渋滞の道を逆走していった。幸いS高から離れていないので、2、3分で目的地まで到達できるはずだった。

 駅前の時計台の下で待っていたシンジは、「待ち合わせ時間を失敗したかな」と自分の計画性の無さを反省していた。生徒会役員の責任を考えれば、デートより委員会を優先するのは当たり前のことだったのだ。そして委員会の会議時間を考えれば、待ち合わせ時間を1時間ほど遅くした方が良かったのだ。そうすれば、こんな目立つところで待ちぼうけをする必要も無かったのである。これでは、ますますアサミが悪者にされてしまうのだ。

「しかも、なんかS高方面が混雑しているしな……」

 これだと、普段なら間に合う時間に出たとしても、交通渋滞だけで遅刻をすることになるだろう。結構待つことになるのかなとシンジが考えたところで、いきなり携帯が緊急音を鳴らしてくれた。これで、今日のデートはお流れと言うことが確定した。
 「やっぱり巡り合わせが悪い」とため息を吐いたシンジは、周りを取り囲んだガードの誘導に従い、駅前で待っていた白バイの所に駆けていった。



 パイロット二人の関係は、S基地にとって最重要課題に分類される物だった。それもあって、今日の“デート”の事は、後藤の耳にも届けられていた。

「ついに、彼が動き出したって事?」

 この問題の解決には、シンジが動く以外の方法は無いと思っていた。それを指摘した神前に、「そのようだ」と後藤も少し安堵したように答えた。

「こうしてみると、ネルフ時代って本当に環境が悪かったのね」
「情報をつなぎ合わせると、環境が悪かったのは肯定される。
 ただ、すべてが意図的かと言うと、色々と疑問が残るところがあるな。
 彼の父親自身、円滑な人間関係の構築を苦手としていたようだ。
 その父親が、子供とずっと離れて暮らしていたんだ。
 まっとうな親子関係など、構築できるはずも無いだろう。
 そして彼の保護者になった女性も、円滑な人間関係構築と言う意味では不適格者だった。
 思いつきの行動が多く、周りを振り回す傾向が認められている。
 そして幼少時代の家庭環境にも、多大な問題を抱えていた」

 要するに、すべてが問題だらけだったと言うのである。そんな環境に多感な子供が置かれれば、間違いなくまともな成長は望めないのだ。間違いなく、自分で自分が分からなくなってしまったことだろう。

「必ずしも、S高だからってことは無いのかしら?」
「いや、ある意味一番良い環境にあることは間違いないな。
 しかも彼は、酷すぎる挫折を経験している。
 その傷を癒やす意味でも、S高と言う環境が最適なのは間違いない」
「そして、ジャージ部の存在ね」

 最終的には、すべてがジャージ部に戻ってくるのだ。そのジャージ部を作った二人、遠野マドカと鳴沢ナルの二人が居たおかげで、すべてが良い方向へと向かってくれたことになる。

「それで、あの子の方はデートに行く気になっているの?」
「さすがに、皆にお膳立てされれば行かないという訳にもいかないだろうな。
 後は、本人が直接誘ったと言うのもポイントが高かったようだな。
 多少遅刻はしても、間違い無くデートには行ってくれるだろう」
「遅刻は、するのね」

 そう言って口元を歪めた神前に、「女心はそっちが専門だろう」と後藤は言い返した。

「まあ、いきなり嬉しそうに行くって言うのもおかしいか。
 とりあえず、仕方がなくってポーズぐらい作らないとね」

 初々しいなぁと口元を緩めた神前に、「そうなのか?」と今度は後藤が聞き直した。

「俺には、しっかりと駆け引きに走っているように思えるのだが?」
「その駆け引きのやり方が、初々しいっていうのよ。
 ただね、あの子の場合、それが本気なのかどうか分からないのが怖いんだけど。
 まあ、あの子の本音を言うのなら、いつでもそばに居て欲しいってことじゃないの?」
「つまり、自分のことだけにかまけているなと言うことか?」

 記憶を取り戻してからのシンジがしたことは、学習が遅れているのを取り戻すことと、以前の繰り返しとなる部活動行脚だったのだ。言われてみれば、アサミの相手を全くしていなかった。そのことに拗ねていると言われれば、そう言うこともあるのかと思えてしまう。

「たぶん、それだけじゃないとは思うけどね。
 そういう気持ちがあっても、おかしくないとは思うわよ。
 まあ、そんな女の子らしい気持ちなんて、私にも記憶が残っていないんだけどね」

 何年前のことかと、神前は遠い目をして思い出を探った。だが自分を見る後藤の目に、「おほん」と咳払いをして「そう言うことよ」と誤魔化した。

「これで、あの子たちの関係も少しは落ち着くことでしょう」
「二人のと言うより、周りの騒ぎがと言うのが正しいのではないのか?」

 前回の戦いの時もそうだったのだが、二人が不仲だと周りが受け取ってしまったのだ。同じ事がS高でも起きていたことを考えると、これで騒ぎも沈静化することだろう。後はシンジがパイロットとして復帰出来れば、日本の迎撃機能も整うと言うものだった。

「ところで、彼自身はどこまで自分を取り戻せたの?」

 3年間の苦労が水の泡となったのだから、それを取り戻すのは簡単なことではないだろう。だが、取り戻してもらわないと、自分達が困るのも確かだった。それを確かめた神前に、「徐々にだな」と後藤は答えた。

「体ができているのが、良い面と悪い面の両方で出ている。
 体力的に練習についていけているのだが、逆に感覚がなかなか追いついてこない。
 まだまだ、かなりアンバランスと言うのが葵の見立てだ」
「でも、それだったら時間の問題ってことね」

 以前ほどではなくても、近づいてくれれば十分に戦力になってくれる。その意味では、シンジの進歩は一番の問題だったのだ。その目処が付きそうと言われれば、安堵する気持ちが生まれてもおかしくはない。

「これで、今度の襲撃を無事乗り切れば時間が稼げるわね」
「ああ、出来ればヨーロッパに来て欲しいところだ」

 そうすれば、時間を稼ぐことが出来る。その意味で後藤が願望を口にした時、いきなり基地内に警報が鳴り響いた。

「まったく、噂をすればなんとやらってところね……」

 迂闊なことを口にするものではない。そう言って神前が嘆いた所で、後藤の口から「北大西洋」と言う言葉が漏れ出ていた。期待通りの出現位置にホッとした瞬間、「なんだと!」と後藤が大声をあげた。

「襲撃数が20以上だと!
 しかも、その中にギガンテスと一致しない影があるのかっ!
 分かった、すぐに司令室へ行く」

 受話器を下ろした後藤は、「最悪かもしれない」と神前に告げた。

「20以上のギガンテスに、過去の亡霊が混じっているらしい。
 場所は北大西洋を、北東に移動していると言う事だ。
 ギガンテスの侵攻ラインはドーバー海峡と言うことだ」
「過去の亡霊まで混じっているのっ!」

 20以上と言う襲撃数は、かなり厳しくはあるが超えられない数では無くなっていた。少なくとも、カサブランカ、サンディエゴの両基地の力を合わせれば、20程度なら乗り切ることが出来るはずだった。現にボルドーでは、12体のギガンテスを危なげなく撃退している。その時と同じフォーメーションが取れれば、撃退は時間だけの問題となるはずだった。
 だが過去の亡霊がまじるとなると、話はガラリと変わってくる。タイプによるが、確実に戦場が亡霊に支配されることになるのだ。うまく足止めが出来ないと、防衛線が総崩れになる可能性もある。しかもPhoenix Operationをするにも、英雄碇シンジは過去の人になっていたのだ。

「とにかく、司令室に行って情報を確認する!」

 慌てて飛び出ていった後藤を、神前もまた追いかけていったのだった。



 後藤が司令室に飛び込んだ時、すでにそこは喧騒の中にあった。普段以上に騒がしいのは、問題の大きさを示していたのだろう。

「報告っ!」

 司令室に入ると、後藤はすぐに状況報告を求めた。後藤の声に答えて、オペレーターの一人が立ち上がった。

「北大西洋で32体のギガンテスが確認されています。
 さらに、14番目のやつと思われる影を確認しています。
 予想上陸地点は現時点で不明。
 約8時間後にドーバー海峡に到達します」
「イギリス、フランス政府はなにか言ってきているか!」

 14番目と32体のギガンテス。状況としては、考えうる中では最悪に近いものだろう。2基地が合同したとしても、明らかに戦力不足と思われるのだ。だが支援をしようにも、それを行う力は日本から失われていた。

「今のところ何も……
 い、いえ、ただ今カサブランカから通信が入りました。
 Phoenix Operationは発動できるのかとの問い合わせです」

 そのキーワードに、後藤は一瞬言葉に詰まった。昨年の12月24日の夜以来、すでに有名無実となった作戦名なのだ。
 だが可能性を切り捨てるわけにはいかないと、後藤は準備状況を確認した。

「Phoenix Oneの準備はどうか?」
「機体は整備されていますが、パイロットの準備ができません!」
「どっちのだっ!」
「両方ですっ!」

 Phoenix Operationの鍵となるのは、熟練したF15のパイロットと、英雄といわれるパイロットの二人だった。だが英雄が失われた今、待機体制も有名無実なものとなっていたのだ。

「碇シンジはどうなっている!」
「すでに、基地に到着しています!」
「堀北アサミは?」
「現在、S高にヘリが向かっています」

 結局二人は逢えなかったのか。そのことが頭の片隅をよぎった後藤だったが、今はギガンテスの迎撃が第一だと切り替えた。だが碇シンジを送り出すにしても、肝心のパイロットが準備できていなかった。

「遠野マドカ、鳴沢ナルの二人はどうなっている」
「堀北アサミと、S高でピックアップの予定です!」

 その報告に、後藤の頭に迷いが生じた。日本からだと、フランス西部まで急いで12時間かかることになる。それでも出撃する意味があるのか、その判断を迷ったのだ。

「他に、ギガンテス発生の兆候はないか!」
「現時点で、太平洋上にギガンテス発生の兆候はありません。
 サンディエゴから、アテナが出撃したとの情報が入りましたっ!」

 ここで日本から出撃するのは、ある意味賭に等しいものとなる。だが絶対的な戦力不足を補うためには、エースの二人を派遣する他に方法はなかった。

「遠野マドカ、鳴沢ナルが到着次第、直ちに出撃させろ!」
「堀北アサミはどうします?」

 アサミの役割は、戦場全体の統制に置かれていた。遅れて到着して、その役目を任せていいものか。一瞬迷った後藤だったが、すぐにアサミの出撃を決断した。

「堀北アサミも到着次第出撃させろ!
 出し惜しみは無しだ、総力戦を覚悟しろ!」

 襲撃数自体はM市の時より少ないが、14番目が加わったことで同等以上の脅威となっていた。これを無事乗り切らなければ、人類に明日は訪れないのは間違いない。そのためには、可能な限りの方策を打っておく必要があった。
 それを決断した後藤に、思いもよらない報告が上がってきた。

「Phoenix Oneから出撃許可が出ています!」
「ばかなっ、飛ばせるパイロットが居ないだろう!
 誰が、あれに乗っているんだっ!」
「Phoenix Oneと通信を開きますっ!」

 こんな時に誰がと後藤が驚いた時、「やぁ」とのんびりとした声が聞こえてきた。

「虫の知らせと言うのかな、たまたま基地に顔を出していたんですよ」
「加藤一佐、あなたはまだ完治していないでしょう!」

 M市の戦いで重傷を負った加藤は、ようやくリハビリを始めたところだった。とてもではないが、長時間のSupercruiseに耐えられる状況では無い。だから許可を求められても、二つ返事で許可を出すわけには行かなかった。
 その意味で“完治”を問題とした後藤に、加藤は笑いながら否定した。

「なになに、ただ真っ直ぐ飛ぶだけなら大丈夫ですよ。
 それに人類の一大事ともなれば、怪我だとか甘えたことは言っていられないでしょう。
 部下の到着を待っていたら、せっかくの準備が無駄になりますよ」
「しかし、ヘラクレスのパイロットはっ!?」
「碇シンジくんなら、私の後ろに乗っていますよ」

 加藤の声に続いて、通信機から「後藤さん」とシンジの声が聞こえてきた。つまり、すべてを承知してシンジはPhoenix Oneに乗ったと言うことだ。

「本当に、いいのだな?」
「これは、僕が決断したことです」

 迷いのないシンジの言葉に、後藤はPhoenix Operationの発動を決意した。人類最大の危機に、もはや迷っている余裕などどこにもない。今は最善をつくす以外に、後藤にも出来る事はなかったのだ。

「加藤一佐、よろしくお願いします」
「ガソリンスタンドの用意をお願いしますよ」

 加藤の言葉を受けて、後藤は少しだけ目を閉じ息を吸い込んだ。そしてかっと目を見開き、大きな声で「Phoenix One発進せよ!」と命令を出した。この賭がどう転ぶのか分からないが、成功以外に人類が勝ち抜く道は残されていなかった。

「Phoenix One発進してください!」
「内閣に、Phoenix Operation発動を報告。
 カサブランカ、サンディエゴ基地にも“英雄“の出撃を通達しました!」
「ロシアに、ガソリンスタンドの設置を依頼しろ!」
「ロシア政府から連絡が入りました。
 すでに、主要位置にガソリンスタンドを待機させたとのことです!」
「日本政府から発表ありました。
 カサブランカ基地からの依頼に基づき、Phoenix Operationを発動したと」

 これが本当に最善の手なのか。後藤にも、そのことへの確信は持てなかった。もしもシンジが期待通りの働きが出来れば、間違い無く戦いは人類に有利に運ぶことになるだろう。だが肝心のシンジは、目覚めて以来、一度もヘラクレスに乗っていない。賭と言うには、あまりにも分の悪すぎる賭だった。
 だが後藤の思いを他所に、作戦司令室は“英雄”の出撃に活気づいていた。この戦いで英雄が復帰すれば、S基地の機能は元通りに回復する。それこそが、世界が存続するための必要条件なのだ。そのことを、基地に居る全員が肌で感じ取っていたのだ。だからこそ、英雄の出撃に全員が期待を寄せていた。

 そして基地全員、世界の期待を乗せて、Phoenix Oneは、闇を切り裂きS市の空へと飛び立っていった。



 白バイで送られたシンジは、S基地についてすぐにパイロットの控え室へと向かった。一度来たこともあり、どこに行けばいいのか迷うことはなかった。
 そして、もう少しで控え室に着くと言う所で、松葉杖をついた男性に声を掛けられた。とても温和な顔をした男性は、シンジに向かって「加藤です」と名乗った。

「君は忘れていると思うが、Phoenix Operationでタクシーの運転手をしていたよ」
「あなたが加藤、一佐ですか?」

 記憶をほじくり返したシンジは、自分へのメッセージからその名前を引っ張りだした。Phoenix Operation、そして怪我をしていることから、目の前の男性が加藤一佐だと推測したのである。

「そう、その加藤だよ。
 歩きながら状況を説明するが、どうやら君の力を借りないといけなさそうだ。
 フランス西部に、32体のギガンテスと、第壱十四使徒が襲撃してくる。
 カサブランカとサンディエゴだけでは、間違い無く戦力不足だろうね」

 その説明に、シンジは言葉を失ってしまった。32体と言う襲撃数も脅威だが、そこに過去の亡霊、第壱十四使徒も混じっていると言うのだ。確かに、カサブランカ、サンディエゴ両基地だけでは戦力不足となるだろう。そして今の状況では、誰が行っても戦力不足であるのは間違いなかった。

「もしかして、Phoenix Operationをすると言うことですか……
 でも、僕は……もう違うんですよ」

 だが必要性は分かっても、その役目が自分に務まるとは思えなかった。Phoenix Operationは、あくまで英雄であった以前の自分を前提にした物なのだ。力を失った自分では、目的を達成することなど出来ないのだと。
 今は違うと否定したシンジに、加藤はにっこりと笑顔を浮かべ、その言葉を否定した。

「いや、君は違わないよ。
 そして私の勘がね、君以外にこの危機を打開できる人は居ないと告げてくれているんだ」

 そう言って、加藤は持っていた袋をシンジに投げてよこした。

「君のジャージが中に入っている。
 どうだい碇シンジ君、私と一緒にフランス旅行に行くと言うのは?」
「でも、命令が出ていませんよっ」

 勝手な行動をしていいのか。それを心配したシンジに、加藤は「私が上申する」とシンジに保証した。

「君に、命令違反をさせるつもりはないよ。
 ただ、一刻を争うから、準備を先に進めておこうと言うだけだよ。
 後藤特務一佐へは、私から出撃許可を貰うことにする。
 どうだい、一緒にフランス旅行をしてくれるかな?」
「加藤さんは、僕が役に立つと思ってくれているんですね?」

 いくら同じだと言われても、その実感をシンジはもてないでいた。それどころか、違うと言う事なら、いくらでも言えると思っていたぐらいだ。
 だが「役に立つのか?」と言うシンジの疑問に、「当然だろう」と加藤は答えてくれた。

「ああ、飛行機乗りの勘が、君は変わっていないと教えてくれるんだよ。
 そしてその勘が、君こそが、この危機を乗り切る鍵となると教えてくれているんだ」

 そう言う事だと笑った加藤は、「これでも不足かな?」とシンジに聞き返した。

「加藤さんは、僕のことを信じてくれるんですか?」
「もちろん、君のことを信じているよ。
 そして君ならば、私の期待を裏切らないと確信しているんだ。
 どうだい、ちょっとフランスまで足を伸ばしてみると言うのは?」

 もう一度答えを求められたシンジは、「はい」と言って加藤の問への答えを返した。未だ自分への疑問は感じていても、こうして自分を信じてくれる人が居るのだ。その人がいる限り、自分は再び戦うことが出来る。自分にしか出来ないでは無く、自分ならば出来ると信じてくれる人が居るのだ。

「分かりました。
 使い立てして申し訳ありませんが、僕をフランスまで連れて行ってください」
「了解した。
 最高のフライトをしてみせてあげよう!」

 満面の笑みを浮かべ、加藤はこっちだとシンジをPhoenix Oneへと案内したのだった。



 S高に戻ったアサミは、そこで同じように動けなくなったマドカ達と合流した。結局、白バイよりも空を飛んだ方が早いと、基地からの指示があったためである。

「碇君は一緒じゃないの?」

 当然マドカも、アサミがデートに誘われたことは知っていた。だから、アサミが一人で居るとは思っていなかったのだ。だが現れたたのは、アサミただ一人だった。

「先輩は、駅から基地に向かっていると思います」

 それだけで、二人が逢っていないことになる。「そう」と小さく呟いたマドカは、降りてきたヘリコプターへと最初に乗り込んだ。そしてアサミの背を押して、ナルもヘリコプターへと乗り込んだ。すぐにシートに座った3人は、安全のためシートベルトをかちりと締めた。

「アサミちゃん、デートには行かなかったの?」

 そしてマドカに代わって、ナルがアサミが一人でいる理由を聞いた。さすがに今日は、デートをしてくると思っていたのだ。

「もともと、用があって行け無いって言ってあります」
「それは、碇君を失ってでもしなくちゃいけないことなの?」

 離陸する爆音の中、ナルはそれでいいのかとアサミを問いただした。

「私の都合も聞かずに誘われたんですよ。
 それって、私に責任があるんですか?」
「私は、アサミちゃんの考えを聞いたのよ。
 誰に責任があるのかじゃなくて、アサミちゃんがそれでいいと思っているのかを聞いたの。
 思いとか期待とか、口にしなくても伝わるって嘘だと思ってる。
 だからアサミちゃんの思いも、ちゃんと口にしないと駄目だと思ってるわ。
 アサミちゃんが優先したことは、碇君と居ることよりも大切なことなの?
 碇君の勇気を、踏みにじるだけの意味があることだったの?」

 まっすぐにアサミの瞳を見つめ、ナルは「どうなのか?」と問いただした。ナルにも、学校に流れている噂ぐらい耳に届いていた。ただ、噂は噂、それ以上の意味を持たないものだと思っていたのである。だから放置しておいても、二人の間がおかしくなることはないと思っていた。
 だが、その噂を放置できなくなっているのも分かっていた。本人たちに問題がなくても、噂が理由で関係がおかしくなることもあり得たのだ。だからシンジも、敢えてこの時期にデートに誘ったのだと思っていた。
 もしもアサミが顔を出さなくても、シンジは別に気にすることはないのだろう。だが、学校中にデートの噂が広がっていることを考えると、ここですっぽかすのは噂を裏付けることになってしまう。これでは、デートを誘う前より悪くなってしまうのだ。

 「それは」とアサミが答えようとした時、無線から「Phoenix Operation」と言う言葉が聞こえてきた。それを耳に止めたアサミは、まさかと操縦席の方を見た。そしてその意味を確認しようとした時、外を見ていたマドカが「あれは何?」と基地から高速で遠ざかる赤い光を指さした。

「そんな、まさか……」

 こんな時に、基地から飛び立つ機体は一つしか考えられない。信じられない出来事に、アサミの顔からは血の気が一瞬にして引いていた。それでも確認が必要だと、ヘリの操縦者に飛び去った機体のことを確認した。

「Phoenix Oneが発進したんですか?」
「はい、聞こえてきた通信からは、Phoenix Opetrationの発動が報告されています。
 今S基地から飛び立った機影は、間違い無くPhoenix Oneだと思われます」
「なんで、先輩が……」

 顔を青くしてへたり込んだアサミに、「そう言うことか」とマドカとナルの二人は納得した。結局、ここでもアサミのプライドが邪魔をしていただけだったのだ。シンジのことを心配していたのは、誰よりもアサミ自身だったのである。
 そしてそのプライドが、アサミから再びシンジを奪う可能性を生み出してくれた。アサミが顔を青くして自失するのは、その恐怖を感じ取ったからに他ならなかった。



 少しでも時間を短縮するため、加藤は離陸してすぐにF15に音速を突破させた。その時の振動とGに、加藤は小さくうめき声をあげた。2ヶ月以上のブランクは、加藤の体にも容赦なく襲いかかってきたのである。

「さすがにきついですね……」

 自分でもきついのだから、後ろに乗っているシンジはもっときついだろう。もしかして失神でもしているのかと、インカムで「大丈夫ですか?」とシンジに声を掛けた。そこで返ってきたのは、予想よりもしっかりしたシンジの返事だった。

「は、はい、かなり苦しいですけど、耐えられないことはありません」
「そうですか、さすがは碇君ですね」

 シンジの答えに、「やはり同じなのだ」と加藤は確信していた。色々と事情があることは知っているが、それでも後ろに乗っているのは間違い無く碇シンジなのだと。だから長いフライトの暇つぶしにと、もう一度シンジに声を掛けた。

「先程君は、自分は違うと言いましたね。
 今でも、そう思っているんですか?」
「ええ……僕は、違うんだと思っています」

 少し苦しそうに答えたシンジに、「普通の人は」と加藤は話し始めた。

「超音速の飛行をSupercruiseと言うのですけどね。
 戦闘機の超音速飛行に耐えることはできませんよ。
 訓練を受けている私ですら、ブランクのせいで結構苦しかったりするんです。
 それなのに、君は私ほどでないにしろ、かなり平然と乗っていますよ」
「それは、前の僕が訓練を受けたからで……」

 引き継いだのは体だけで、それ以外のものは引き継いでいない。だから違うのだと言うのが、シンジの考えだった。
 だが加藤は、「それはおかしいですね」とすぐに言い返した。

「君を見た時、私には君の言う差は分かりませんでしたよ。
 空気と言うとても不確かなものですが、君から感じた空気は変わっていませんでした。
 私から見れば、君が言うように、前と変わっているようには思えないのですよ。
 多分、違いを探そうとすれば、それなりの違いはあるのでしょうけどね。
 ですが、細かな違いを忘れれば、君は碇シンジ君に違い無いのですよ」
「僕には、とても細かな違いとは思えないのですけど……」

 能力的にすべて劣っているのだから、それを細かな違いと言えないと思っていた。だから加藤の言う「細かな違いしかない」と言う言葉は、とても信じられるものではなかったのだ。

「君の言う違いとは、どんなことを言っているのですか?」
「どんなことって……
 なんとか中3の勉強は終わりそうですけど、高校の分はまだ手付かずなんです。
 とてもではありませんが、僕は優等生とはいえないと思います。
 それに運動だって、ほとんど初心者と変わらないんですよ。
 加藤さんの言う細かな違いですが、僕にはとても細かな違いとは思えないんです」

 大きな違いだと主張したシンジに、「それが理由ですか?」と加藤は聞き直した。

「それで、十分だと思いますけど?」

 そんなものかと言う加藤の空気に、「大違いだ」とシンジは反発した。

「もう一度聞きますが、碇君にとって、それが違うと言う一番大きな理由ですか?」
「そうです、だから僕は追いつかなくてはいけないと思っているんです!」

 シンジの答えに、「なるほど」と加藤は小さく頷いた。そして「やっぱり同じですよ」と、シンジの予想とは違う答えを返してきた。

「碇君のあげた理由が正しければ、今日の君と明日の君は違う人と言うことになりますね?
 私の理解は、どこか間違っているでしょうか?」
「全然違いますよっ!」

 思わず声を上げたシンジに、「どこがですか?」と加藤は言い返した。

「どこがって、今日と明日で僕が変わるはずがないでしょう」
「でも君があげた違うと言う理由は、今日と明日の間でも成り立つと思いませんか?
 君は、時間を掛ければ習得できる能力を、人間が違うと言うことの理由にしています。
 人と言うのは、頭がいいとか、運動が出来るとかで区別できるものですか?
 君も、彼も、私から見たら同じ碇シンジにしか見えないんですよ。
 君が君としてある根本的なもの、そこに違いがあると私には思えません」
「加藤さんは、僕が変わっていないと仰るんですか?」

 本当にそうなのか。加藤の言葉を、シンジは頭の中で何度も反芻していた。自分では分からない、性格、態度、物の考え方。それが本当に前と変わっていないのかと。
 だがシンジの中でその答えが出る前に、加藤から「外を見てください」と声を掛けられた。

「何かあるんですか?」
「ええ、ロシア空軍がスクランブルして来ました。
 どうやら、困難に立ち向かう君を激励するのが目的のようですね。
 こちらPhoenix One、Over!」

 そこで加藤が英語に切り替えたのだが、その後の会話が何故かシンジの耳にすんなりと入り込んできた。英語は駄目だったよなと驚いていたら、「極東の白百合からのメッセージです」と加藤が声を掛けてきた。

「活躍を信じている……ですか?」
「やはり、理解できていたんですね。
 どうです、これでも君は違っていると言いますか?」

 「まだ不足か?」加藤の言葉には、そんな気持ちが込められていた。

「僕には、まだ同じだと言う確信は持てません……」
「そうですか、確信が持てないですか。
 しかし、なぜ君は“違っている”ことを前提にしているのですか?
 それとも、同じであることが気に入らないのですか?」
「気に入らないとか、そんなことは考えていません」

 言下に答えたシンジに、「そう聞こえますよ」と加藤は微笑んだ。

「言い方を変えると、同じであってはいけないと言っているように聞こえますね。
 前の自分はこんなに凄かったんだ、だから自分と同じであってはいけないんだとね。
 ですが碇さん、私から見れば、あなたは十分以上に凄いんですよ。
 なによりも、こんな空気の薄い所で、私と普通に話をしているじゃありませんか」
「それは、多少慣れたからで……」

 大したことではないという意味で答えたシンジに、十分大したものだと加藤は答えた。

「彼は、最後まで私とまともに話はできませんでしたよ。
 多少慣れたぐらいで、普通にできるのは十分に凄いことなんですよ。
 そしてそれは、彼が積み上げてきたものを、君が正当に引き継いだからでもあるんです。
 だから君は、彼の延長線上に存在する碇シンジなのですよ。
 けっして、違う碇シンジなどと言うものでは無いんです。
 私の言葉では納得行かないでしょうから、一度堀北さんにでも聞いてみてください。
 きっと彼女も、そのことを認めてくれますよ」
「堀北さんが……ですか?」

 とてもそうは思えない。半信半疑どころか、シンジは加藤の言葉が全く信じられなかった。

「最近避けられている……ですか?
 もしも違うことが理由だと思っているようなら、もう少し女心を勉強すべきですね。
 君は、ここの所自分のことだけにかまけていませんでしたか?」
「そんな事はないと……思いますが」

 否定はしたが、シンジは本当にそうなのかと見つめなおしていた。そして加藤が言うとおり、自分からアサミに会おうとしていないのだと気がついた。勉強にしても運動にしても、格好をつけて「一人で」努力をしていたのだ。

「無くしたものを取り戻そうとするのは立派ですよ。
 ですが、それは堀北さんとの時間を犠牲にしてまですることですか?
 恋人なのですから、二人で一緒に努力していけばいいことではありませんか?
 優先することを間違えているから、堀北さんが拗ねているとは思わないのですか?」
「堀北さんが、拗ねている……」

 加藤の決め付けに、シンジは「まさか」と言う思いが強かった。だが「拗ねている」ことを除けば、言われてたことは思い当たることが多かった。もう一度アサミを惚れさせるため、見えない所で努力することが格好いいと思っていなかったか。
 本当に好きなら、まず最初にするのは一緒に居ることだった。だがシンジは、アサミではなく以前の自分を見ていたのだ。「優先するものが違う」と言う加藤の言葉は、どうしようもないほど真実を突いていたのだ。

「僕は、間違っていたんですか……」
「努力することを間違っているとは言いませんよ。
 ですが、碇君にとって誰が一番大切なのかを忘れてはいけませんね。
 でも、もう大丈夫ですね?」

 自分が何を一番大切にしなくてはいけないのか。それは、周りの目を気にすることでも、以前の自分に勝つことでもなかったのだ。一番大切な人と、少しでも一緒に居る時間を作ること。そして嬉しいことも悲しいことも、二人で分かち合うことだった。

「ありがとうございます。
 加藤さんのお陰で、僕は何をすべきなのか分かりました」

 相変わらず息苦しいのだが、それでも頭の中には爽やかな空気が広がっていた。自分は何者で、そして何をしなくてはいけないのか。それが、ようやくはっきりと形となってくれたのだ。今日にしても、デートに誘うことは間違っていなかった。だがその方法が間違っていたのだと、シンジは今になって理解することが出来た。
 格好をつけて駅前で待ち合わせするのでなく、環境委員会に乗り込み、会議が終わるのを待てばよかったのだ。委員会に乗り込む口実など、生徒会長の立場を使えば簡単につけることができたのだ。そうすれば、ずっとアサミを見ていられるし、こんなふうにギガンテスに邪魔されることもなかったのだ。

 自分の失敗を理解したシンジは、早速やり直さなければと考えていた。そのためには、これからの戦いを完全な勝利で終わらせる必要が有る。第壱十四使徒は厄介だが、攻略の方法が無いわけではない。アスカやカヲル、そして自分のシンクロ率を利用すれば、圧倒することも難しくないと思っていた。
 そのためには、こちらに被害が出る前に戦いに加わる必要が有る。もっと速度を上げて欲しい。息苦しさを感じながらも、シンジはそんなことを考えていたのだった。



 Phoenix Operationの発動は、当然アスカの耳にも届いていた。本当に大丈夫かと言う思いと同時に、これで戦いになると安堵も感じていた。14番めだけ、さもなければ32体のギガンテスだけなら、カサブランカと共同すれば、なんとか乗り切ることも出来るだろう。
 だが両者が同時に襲撃してくるとなると、どう考えても戦力が不足してくれていたのだ。14番めを自由にしないためには、自分とカヲルの二人で対応する必要が有る。そうなると、32体のギガンテスは、ライナス達に任せなければならなくなってしまう。M市の実績があったにしても、ここには遠野マドカや鳴沢ナルはいないのだ。今のメンバーで、32体のギガンテスを蹴散らせるとは、どう贔屓目に見ても考えられなかった。

 だがシンジが加われば、戦力を間違い無く厚くすることが出来る。もしも14番目をシンジ一人で抑えられれば、自分とカヲルは32体のギガンテスの制圧に回ることが出来る。そうすることで、ギガンテスを少しずつ削っていくことが可能となるのだ。

「後は、あのバカが使い物になってくれるのかが問題か……」

 目覚めてから、シンジは一度もヘラクレスに乗っていない。その点で、シンジが使い物になるのかアスカは不安を感じていた。
 ただ時間の連続性という意味では、最後にエヴァに乗ってからなら、意識の上ではさほど時間は経過していない。それが役に立つのなら、時間稼ぎぐらい期待してもいいのかもしれなかった。

「何れにしても、猫の手を借りたい状況ってのには代わりはないわね。
 なんとかPhoenix Operationが実行できたことに感謝しないといけないか」

 少なくとも、戦力不足で戦線が崩壊することはなくなるはずだ。絶望の中に希望が見えたと、シンジの出撃をアスカは前向きに捉えたのだった。



 同じ頃、カヲルもまたシンジが出撃した知らせを受け取っていた。ただアスカと違うのは、カヲルは以前のシンジを知らないことだった。それもあって、本当に大丈夫なのかと言う不安は、アスカよりも強いものがあった。
 そしてその思いは、エリックとも共有されているようだった。以前の自分達なら、Phoenix Operationの知らせを聞けば、全員の士気が高まってくれたのだ。だが今回に限れば、本当に大丈夫なのかという不安の方が強くなっていた。

「カヲル、碇シンジは期待できるのか?」
「それを、僕に聞かれても困るのだけどね。
 ただ、これで、手駒の不足を補えるのは確かだね。
 碇シンジが14番めを抑えてくれれば、僕達に勝ち目が生まれてくれるんだよ」

 その辺りの分析は、アスカとまったく同じ物だった。カヲルもまた、絶対的な戦力不足を感じていたのである。現有戦力だけでは、どう考えても32体のギガンテスの迎撃が精一杯だったのだ。

「だが、ギガンテスの上陸地点が定まらないのはどう考える?
 それから、碇シンジの到着は、計算上戦闘開始に微妙に間に合わない」
「今のところ、1時間の遅刻になりそうだね。
 そして日本からの支援は、さらに3時間遅れることになる」

 今回の問題を指摘したエリックに、カヲルは「やり方はある」とはっきり答えた。

「彼が到着するまで、そして日本からの第二陣が到着するまで。
 そこの戦い方を、僕達は考える必要があるんだよ。
 最終的にはアテナと調整するけど、最初の1時間は僕とアテナが14番目の相手になる。
 その間君達は、サンディエゴと共同の作戦行動を行うことになる。
 目的は、ギガンテスの侵攻を遅らせ、被害の拡大を防ぐことだね。
 戦力が整うまで、無理をしないことがポイントとなるだろう。
 そして彼が到着したところで、僕とアテナが君達に加わることにする。
 そこでようやく、ギガンテスの殲滅戦を開始することになるだろうね。
 彼が14番目を押さえている間に、少しでもギガンテスを減らしていく。
 それで3時間乗り切ったところで、日本の戦力を加えて一気にギガンテスを叩く」
「それしか無い事は分かるのだが……」

 14番目を忘れれば、32体のギガンテスに3基地総掛かりで立ち向かうことになる。M市の実績を考えれば、十分勝機のある戦いになるだろう。
 だが現実の戦いで、14番目を忘れることは出来ない。その14番目に対して、今の碇シンジ一人で大丈夫である保証はどこにも無いのだ。第一に考えられるのは、これまで一度もヘラクレスを動かしたことが無いと言う問題だろう。

「碇シンジは、大丈夫なのか?」
「それが、一番の問題だと言うのは理解しているよ。
 ただ、駄目なら駄目で、日本からの第二陣を待つだけのことだよ。
 彼女たちが加われば、ギガンテスの殲滅に移ることが出来るからね」

 碇シンジの力は未知数でも、日本の2人の力は実績を持ったものだった。その戦力が加わるだけでも、戦いが楽になると考えることが出来た。
 シンジと言うのは、間違いなく不確かな戦力となっていた。だが同時に、期待できる戦力でもあったのだ。だからカヲルは、駄目だったときのこと以上に、戦力となったときのことを考えていた。

「もしも彼が期待通りの力を示してくれたら……
 その時こそ、僕達はこの戦いを勝ち抜く確信を得ることが出来るだろう」
「まあ、藁にもすがりたい状況なのは確かだからな」

 「ところで」と、エリックはもう一度今回の襲撃への対応を確認した。現時点では、ドーバー海峡付近をギガンテスが通過することは分かっている。だがその後の上陸地点が、推定し切れていないのだ。特にドーバー海峡の場合、イギリスにもフランスにも上陸することが出来る。
 そこで発生する問題は、どちらにヘラクレスを集結するかと言うことだ。もしもヘラクレスの配置がギガンテスの侵攻に影響するのであれば、両国から強硬に反対されることが目に見えていた。

「部隊の配置はどうするんだ?
 襲撃地点が確定しないと、部隊配置が行えないぞ」
「それも、大きな問題だと思っているよ」

 同じ事は、カヲルも問題だと考えていた。そしてその問題を解決しない限り、戦いを理想的な展開に出来ない事も分かっていたのだ。

「両国政府の顔を立てることを考えると、我々はフランス側で待機。
 アテナ達には、イギリス側で待機して貰うことになるね。
 その時に起こりうる可能性は二つある」
「ギガンテスが分散される、もしくは片側を無視して一方に上陸される……か」

 もしも分散しなかった場合、それを確認してからの移動では、確実に対処が遅れることになる。そうなった場合、少ない戦力で32体のギガンテスに加え、14番目の奴と向かい合うことになるのだ。もしもそんなことになったなら、間違いなく持ちこたえることは出来ないだろう。
 そして分散された場合も、その分散の度合いが問題となってくる。そして、日本からの支援をどちらに振り向けるのかも問題となる。同時に、14番目がどちらに上陸するかでも状況は変わってくる。

 「悩ましいな」と吐き出したエリックに、カヲルは頷きながら「難しい問題だよ」と答えた。

「もしも片側に展開して、それが外れたらどうなることか。
 僕達は確実に出遅れるので、その間ギガンテスの蹂躙を許すことになる」
「それを避けるためにも、両側に配置する必要があると言うことか……」

 自分の側に集中することは、ギガンテスを招き入れることになり反対してくれるだろう。だからと言って、配備が無ければいざという時に対応が出来なくなる。その意味で、相手方だけに集中することも反対が予想される。両国の仲の悪さを考えれば、ここはバランスをとるしか方策は無いのだろう。

「僕達はコタンタン半島、そしてアテナ達には南部のプリマス辺りだろうか。
 およそ移動時間として、1時間の距離になるね」
「可能な限り、早く上陸地点を割り出す必要があると言うことだな」

 「了解した」そう答えたエリックは、「アイスランド基地はどうする?」と確認した。この際盾となる戦力は、多い方がありがたいのだ。

「もう出撃させているよ。
 こちらも、両国に配慮して5機ずつに分散しているさ」
「そうなると、どちらがババを引くことになるのかと言うことだな」

 その場合のババは、14番目と言われる、第壱十四使徒の事を指していた。今の状況では、大量のギガンテスより、過去の亡霊への対処が問題となっていたのだ。



 ヘリから降りたアサミ達は、控え室へと走っていった。シンジが出撃した以上、1秒たりとも時間を無駄にできないと思っていた。そして後藤に、なぜ出撃させたのかを聞く必要が有ると思っていた。
 普段なら一番着替えに時間がかかるアサミが、今日に限ってはマドカをぶっちぎって一番だった。「先に行きます」とマドカ達に声を掛け、本当に慌ててロッカールームを出て行った。

「やっぱり、やせ我慢をしていたのね」
「って言うか、拗ねていたって言うのが実態じゃないの?
 だけど、もう拗ねていられる状況じゃ無くなったでしょ」

 ナルの答えに、確かにそうだとマドカは頷いた。詳しい状況は聞かされていないが、Phoenix Operationをしなくてはいけないほど、ヨーロッパの戦いは難しいものになるのだ。自分達に先行して出て行ったことを考えると、“過去の亡霊”が襲撃してくるのだろう。
 以前のシンジならば、「絶対に負けない」と自信を持って送り出すことが出来た。だが今のシンジに対して、そこまでの自信をもつことは出来なかった。何しろ、肝心の搭乗訓練を一度も行ったことがなかったのだ。ヨーロッパに行ったとしても、本当にヘラクレスを動かせるのかも分からなかった。

「アサミちゃんが拗ねていた……か」
「そう、でもアサミちゃんだけが悪い訳じゃないわよ。
 マドカちゃんが世話したのもあるけど、碇君はアサミちゃんと逢ってなかったでしょう?
 碇君も、もっとアサミちゃんと一緒に居るようにしないといけなかったのよ。
 だからアサミちゃんも、構ってくれないから拗ねて意地になったっちゃんでしょう」

 適確なナルの説明に、「なるほど」とマドカは大きく頷いた。

「じゃあ、今度のことで雨降って地固まるのかしら?」
「そのためには、この戦いを無事乗り切る必要があるわ」

 だからのんびりとしていられない。「行くわよ」とマドカに声を掛け、ナルは更衣室を出て行ったのだった。



 更衣室を出たアサミは、その足で控え室を出て後藤が居る作戦司令室へ行こうとした。だがその途中で玖珂に捕まり、控え室へと連れ戻されていた。

「君達には、すぐにヨーロッパまで出撃してもらうことになった。
 だから、今は余計なことに時間を使っていられない」
「余計なこと、ですか」

 むっとしたアサミに、玖珂は「余計なことだ」と繰り返した。そしてマドカとナルが更衣室から出てきたのを見て、「説明する」とアサミの不満を脇に押しやった。

「状況を説明すると、あと8時間もしないうちに32体のギガンテスがドーバー海峡に到達する。
 しかも、それに加えて14番目の奴が並行して移動している。
 従って、本人からの上申により、Phoenix Operationを発動することになった。
 そして君達も、すぐに上陸予想地点まで出撃してもらう。
 4時間ほどの遅刻になるが、司令が総力戦になることを決断された」
「私達も、ヨーロッパに行くのね!」

 「よし」と気合を入れたマドカに、「その通りだ」と玖珂は肯定した。

「だから、一刻も早く出発する必要が有る。
 フライト時間は、およそ12時間となる。
 君達の到着は、戦闘開始後およそ4時間だと見積もられている」
「碇君は、どうなっているの?」
「彼は……」

 そこでデータを確認した玖珂は、「1時間の遅刻だ」と状況を説明した。

「中継基地で下りて、そこでヘラクレスに乗り換えることになる。
 その時間ロスで、1時間程度の遅刻になる」

 そこまで答えて、「以上だ!」と玖珂は説明を打ち切った。聞きたいことは沢山あるのだろうが、今は一刻を争う時なのである。知りたいことがあるのなら、移動中に聞いてくれればいくらでも説明できるのだ。

「出撃は、私達3人だけですか?」
「集まり次第、高村、大津、篠山も出撃させる。
 だが、今一番求められているのは、君達3人なのだ。
 だから、一秒でも早く現地にたどり着く必要が有る」

 玖珂の説明に、マドカとナルは顔を見合わせて頷きあった。M市に匹敵する困難な戦いだからこそ、自分達も力を貸さなければならないのだと。玖珂の言うとおり、今急ぐべきことは、一刻も早くキャリアに乗り込むことだった。

「アサミちゃん、詳しいことは後から聞きましょう!
 今は、一刻でも早くここを飛び立つことよ!」
「玖珂さん、出撃準備はできているんですよね}

 これでキャリアが飛び立てなければ間抜けだ。それを確認したアサミに、「当然だ」と玖珂は胸を張った。この日のために、S基地は整備されていたのだ。ここで役に立たなければ、何のため今まで頑張ってきたのか。大人としての役割を、必ず全うすると全員が心がけていたのだ。

「行くわよ、アサミちゃん!」
「はい、急ぎましょう!」

 マドカとナルに連れられ、アサミも控え室を飛び出していった。今は一刻でも早く現地にたどり着き、全員力を合わせてギガンテスを倒さなければならない。そうしないと、文句を言うことも出来なくなってしまう。それだけは絶対に許せない、まだ自分は何も伝えていないのだとアサミは考えていた。






続く

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