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 シミュレーターの“バグ”は、シンジの件を除いてもあってはならないことだった。なかなかヘラクレスで実戦訓練が出来ないため、訓練のほとんどをシミュレーターに頼っていたのだ。そのシミュレーターが当てにならないとなると、これからの対応に問題が生じることになる。特にヘラクレス操縦に関するパラメーターに疑義が生じた場合、これまでのパイロット選抜方法にも問題があったことにも繋がってくる。その確認を含め、喫緊の課題とされたことは言うまでも無い。
 ただこの問題に関しては、一朝一夕で片が付くようなもので無いのも分かっていた。これまでうまくいっていたことも有り、誰も全体の見直しを行っていなかったのだ。そこに問題が降って沸いたのだから、単なるプログラムの見直しとは訳が違っていた。

「シミュレーターとヘラクレスに乗った結果は、比較的一致していたのよ」

 その日の訓練が終わったところで、クラリッサは新たに持ち上がった問題を説明した。

「まあ、完全に一致するものじゃ無いと思っていたけど……
 今まで、実戦に影響するような誤差は出ていなかったのよね?」

 アスカにしてみれば、シミュレーターはよく出来ていると思っていたのだ。そして言葉通り、シミュレーターの結果は、実戦に良く一致していたのだ。両者の差は、実際に乗っているのかどうかぐらいしか無いと思っていた。

「それで、デバッグって言っていいのかしら。
 それって、スケジュール的にはどうなってるのよ?」

 現行のパイロットだけを見れば、今回発覚したバグの影響は無視できるだろう。だが「英雄」に関わることとなると、世論を無視することも出来なくなる。シミュレーターの“バグ”で訓練できないと言うことになると、間違いなく非難の矛先が自分たちに向けられることになるのだ。一刻も早くバグを改修しないと、世界中から集中攻撃を浴びることになりかねなかった。
 単なる“バグ”なら、さほど時間が掛かることは無いのだろう。だが本質的な問題への対処となると、どの程度時間が掛かるのかはまったく未知数だったのだ。暫定処置として“落ちなく”することは出来るが、その結果に対して誰が責任を持てるのか。それが次の問題として浮かび上がってくる。何しろ今回問題を起こしたのは、恐怖の対象Iだったのだ。

「落ちなくするだけなら、ログ解析をして落ちた原因を除去すれば終わりよ。
 パラメーターのマスク程度なら、それこそ1週間で出来るんじゃ無いの?」
「1週間ねぇ、そりゃまた、微妙な時期と言うか……」

 バグの暫定対処が出来る頃が、ちょうどギガンテス襲撃時期に当たっているのだ。すぐに出撃と言うことは無いにしても、いざという事態に備える必要はあるだろう。だがシミュレーターを使えなければ、碇シンジを実戦に出すことも出来なくなる。システム的問題で、新たな切り札の投入が不可能になったのである。

「そうなのよね、ちょうどギガンテス襲撃時期になっているのよね。
 そうなると、次の襲撃がどこになるのかが問題になってくるわ」
「確かに、どこって言うのは大きな問題ね。
 ただ、それ以上に問題なのは、過去の亡霊が出てこないかって事よ。
 私やカヲルで、本当にそいつを倒すことが出来るのか。
 日本のエリアを襲ってきたとき、あの二人で倒すことが出来るのか。
 ギガンテスだけなら、今なら本当に何とか出来るのよね」

 これまでFifth、Thirdと襲ってきた以上、今後も無いとは断言できなかった。そしてギガンテスの嫌らしいことは、まるでこちらを見ているようなタイミングで仕掛けてくれることだ。新たな希望が生まれたときには、その希望をたたきつぶすような襲撃が行われてきた。たまたまシンジが居たおかげで、返り討ちにすることが出来ただけだった。

「ねえクラリッサ、いい加減敵の目的について考察がまとまっていないの?」
「それを私に求めるのは、はっきり言って筋違いと言うものよ。
 私の専門は、心理学や大脳生理学なんだからね」

 化け物の考察は、そっちの専門家に任せてある。そう言いきったクラリッサに、だったらとアスカは座っていたベッドから身を乗り出した。

「だったら、少し私達で考えてみない?
 ほらシンジ様の考察に、過去の亡霊が模倣によって発生したと書かれていたじゃ無い。
 それを拡張して考えると、模倣する主体があると言うことになるでしょう?
 あんな複雑な物を模倣できるんだから、かなりの知能を有していると考えて良いんじゃ無いのかな?」
「アスカ、自然を舐めちゃいけないわよ。
 自然界には、それこそ驚くような模倣の例が沢山あるのよ!」
「擬態ってやつ?
 でも、あれって、嫌になるほど時間を掛けてできあがった物でしょう?
 ある意味、進化の収斂とも言えるし……
 でもギガンテスって、本当に数年の事じゃない」

 環境に適応して変化したと言うより、何かの目的を持って作り上げられたと考える方が相応しい。その意味で、アスカは「何か」の意思を再度持ちだした。

「なんでギガンテスが同じ格好をしているのかというのもあるけど。
 でもApostleの出現は、明らかに悪意を感じるじゃない。
 絶対に、何かの意思が働いていると考えた方が良いわよ」
「それを否定するだけの根拠を持ち合わせていないんだけど……
 でも、その「何か」って一体何?
 あんな化け物を作り上げられるなんて、それこそ神様みたいな物?」

 勝負の相手が神様だとしたら、この勝負は負け以外考えられなくなる。さもなければ、ギガンテス襲撃は神の試練と言うことになる。だとしたら、勝利条件は一体どこに設定されているのだろうか。
 神様を持ち出したクラリッサに、アスカは少し考えてから「違う気がする」と答えた。

「私達だって、ヘラクレスを作り上げて見せたんでしょう?
 だったら、ギガンテスを作り上げる奴が居ても不思議じゃ無いと思うわ。
 もしくは、何かのプラントがどこかで動いているとか」
「……ついに、陰謀説になっちゃったわね。
 じゃあなに、私達がヘラクレスを作るように、どこかの誰かがギガンテスを作っているというの?」
「それを、特定の人に求めていないけどね……」

 とどのつまり、アスカの言っていることは、「分からない」と言うことを言い方を変えただけのことだった。

「でも、使徒という存在はSIC後しか発生していないでしょう?
 そしてギガンテスは、TIC後にしか発生していない。
 だとしたら、TICの何かがギガンテスを生む理由になったってことでしょう?」

 それを指摘したアスカに、クラリッサは小さくため息を吐いて返した。

「何を今更……
 結局、それを言うのは何も分かっていないのと同じってことなのよ。
 TICにおいて、生物は一度物理的形態を失っているわ。
 生物を生物として外界から区別する境界の消失と言う形でそれが説明されている。
 そしてその境界が再構築されたことで、こうして私達が復活したってことでしょう?」
「だとしたら、未帰還の人達はどう説明できるのかしら?
 境界の再構築によって、すべての生物が復活できたのかしら?
 なんか、そのあたりにギガンテスが発生した理由がありそうな気がするのよね」
「アスカが言いたいことは分かる気がするんだけどねぇ……」

 だからと言って、それを明確に説明することが出来ないのだ。非常に重要な問題を含んでいるのは分かるが、全ておいて情報が不足しすぎている。こんな所で暇つぶしに話すにしては、含まれた問題が深刻かつ複雑すぎたのだ。

「戻ってきていない生物、それがギガンテスを生んでいると言うのは仮説としてあるわよ。
 ただ、どうしてギガンテスと言う形をとっているのか。
 なぜ人類を襲ってくるのか、そのあたりのことが全く想像がつかないのよ」
「確かにね、帰還に失敗したって感じじゃないのもね……」

 もしもそうであれば、もっと出来損ないが現れてもおかしくないはずだ。それなのに、生物として異常だが、毎度同じ形のギガンテスが発生している。しかも過去の亡霊まで再現してくれるのだから、とても失敗作とは思えなかった。そう考えると、なにか特別な仕組みがあるようにも思えてくるのだ。

「アスカが言うとおり、私達はもっとギガンテスのことを考えないといけないわよ。
 ようやく撃退の筋道がついたんだから、この機会に究明を進めることにも反対しない。
 どうしてギガンテスが発生するのか、それを突き止めない限り私達は戦いから解放されないのよ」
「確かに、このままだといつまで続ければいいのか分からないわね……」

 それはぞっとしないと自分の体を抱きしめたアスカは、「考え方を変えてみない?」とクラリッサに提案した。

「考え方を変えるって、具体的にどう変えるっていうの?」

 ギガンテスについては、すでに多方面から考察が行われているのだ。従って、今更多少考え方を変えた所で、新しい発見があるとは思えなかった。
 だから「どう」変えるのかと言うのが、クラリッサの疑問となるのである。その疑問に対して、アスカは「目的」と使い古されたものを持ちだしてくれた。

「ギガンテスが何を目的として襲ってくるのかよ。
 そしてその目的が達成された時、どう言うメリットが生じるのかと言うことよ」
「それも、いい加減議論が尽くされた話だと思うわよ。
 ただ、目的についてはギガンテスの考えなんか分からないってことで正確なことは分かっていない。
 結果からの推測として、2つの目的が候補に上がっているわ。
 その一つが、人類だけを滅ぼすということね。
 ただ、それにしても、どうしてと言う本質的なことまで推測ができていないわ。
 特に人を捕食している訳でもないし、ただ単に施設を破壊して、同時に人を殺しているだけよ。
 そしてもう一つが、人類を鍛えていると言うものね。
 ただこっちについては、さすがに荒唐無稽だろうって言われてる。
 それこそ、“何のために”と言うことに説明がつかないのよ」

 神の試練を持ち出すには、人は酷い目に遭い過ぎていた。それもあって、宗教関係者も「神の試練」を口にすることがなかったのだ。その為「使徒」と言う言葉も、今は見なおすべきと言う議論が起きていた。ましてや、使徒に天使の名前を冠することなど許される状況では無くなっていた。

「そうなると、やっぱり人を滅ぼすためって方が固い線か。
 TICで構築された世界から逃げ出した人類を、抹殺しようとしているのかしら?」
「その説明の方が、有りそうな気がするわね……
 だとしたら、本当に終わりの見えない戦いになりそうね」

 嫌だなぁとぼやいたクラリッサに、「同感!」とアスカも嫌そうな顔をした。どう考えても、仕事として前向きに思えないし、負けたら人類が終わるというプレッシャーは、さすがに勘弁して欲しかったのだ。ただ勘弁して欲しいと言っても、話が通じるあいてにも思えなかった。

「しかも、あのバカは当面戦力になりそうもないし」

 全くろくなことが無いとぼやいたアスカに、「少しは遠慮しようよ」とクラリッサがこめかみをひくつかせた。

「一応アスカの記憶は戻ってないことになっているのよ。
 せっかくの私の配慮を、無にしないで欲しいんだけど」
「まあ、それは、そうなんだけどねぇ……」

 確かにバレれば面倒なことになる。それを思い出し、アスカはごめんと謝った。

「せっかく乗る気になったのに、いきなりこれじゃみんな拍子抜けでしょうに」
「そのあたり、日本の基地司令が頭を抱えていたって話よ。
 どうやら、一気呵成に連携訓練まで行きたかったみたいね。
 それが、予想もしないバグでポシャっちゃった……」
「そりゃあ、頭も抱えたくなるわっ」

 面白そうに吹き出したアスカに、「余裕ね」とクラリッサは皮肉を口にした。

「別に余裕ってことはないわよ。
 たださぁ、めぐり合わせってあるんだなと思っただけよ。
 よりにもよって、あいつが乗った時にバグが出るだなんてね」
「バグって言うより、想定外のパラメーター入力が有ったみたいなんだけどね。
 ただ、その意味が不明だから、余計に面倒になっているのよ」
「だから、ただ今学者さん達が頭を悩ませているってことね……
 まあ、いざとなればヘラクレスに乗せればいいんだから大丈夫でしょう」

 昔を思い出すと、そんなことばかり繰り返されてきたのだ。だから“いきなり”乗ることに対して、アスカはさほど不思議なことだとは思っていなかった。

「そんなことがないことを願うわよ。
 それでも、乗ってくれる気になったことはありがたいんだけどね」

 自発的に乗るようになるまで、かなり時間が掛かると考えられていたのだ。それが蓋を開ければ、目覚めて1週間で乗る気になってくれたのだ。今後のことを考えれば、間違い無くありがたいことだったのだ。
 そして「ありがたい」と言うクラリッサに、「下心でしょう」とアスカはズバリと言い切った。

「やっぱりさぁ、あいつも男だったてことじゃないのぉ。
 憧れのアイドル様が、うまくおだててくれているんでしょう?
 ちっ、アタシもあのバカを操縦してやればよかったのかしら」
「アスカが?」

 少し驚いた顔をしたクラリッサは、すぐに右手を振って「無理無理」と言った。

「アスカみたいなお子様が、男を操縦するだなんて……あり得ないわね」
「そのあたり、全力で否定したいところなんだけど……
 まあ、自分でもそう思うから絶対に無理だったわね」

 はははと笑ったアスカは、返す刀で「凄いわね」とアサミのことを褒めた。

「結構、精神的にまいっていると思うんだけどなぁ。
 それでも、こうしてあのバカに動機づけをしているんでしょう?
 それが出来るだけでも、本当に尊敬できるわぁ」
「シンジ様が居ない今、日本基地の大黒柱になっているらしいわね。
 たださぁ、専門家から言わせてもらえば、ちょっと負担をかけ過ぎだと思うわ。
 もっとも、どうしたら良いのかなんて私にも分からないけど。
 一つだけ言えることは、今日本基地に踏ん張ってもらわないと困るってことね。
 あの3人だけでどこまで出来るのか、それを確かめてみたい気もするんだけど……」

 もしもうまく行かなかった時、その影響は計り知れないものになる。それを考えると、しばらくアジア地区にギガンテスは来て欲しくなかった。

「そうは思うんだけど、しばらくこっち側に来て欲しいって気のほうが強いわ」

 そう言ったクラリッサに、「難しいわね」とアスカはギガンテスの嫌らしさを口にした。

「いつも、こっちの嫌なところを突いてくるでしょう?
 だとしたら、今度はアジアじゃないかなって思うのよ」
「縁起でもないって言いたいけど……あり得るから怖いわ」

 希望をつなぐたびに、新たな絶望を教えてくれる。それが今までの、ギガンテスの襲撃だったのだ。それを考えると、今度も同じ事になりかねない。悪意しか感じられないと、二人はお互いの顔を見て零したのである。そして、次はアジアだなと考えていたのだ。



 シンジの問題は全く進展していないのだが、それ以外についてはかなり順調に予定が消化されていた。次なる課題とされたユイとアキラの訓練も、ようやくマドカ達との連携にまでこぎつけることが出来たのだ。シミュレーションだけなら、二人がかりであればギガンテスを仕留められるところまで達していた。

「ようやく、ここまでこぎつけてくれた」

 シミュレーションの結果を観察した後藤は、第一段階が終了したことに安堵の息を漏らした。

「玖珂、この結果をお前はどう評価する?」
「シミュレーションとしては、ようやく他基地に並んだというところでしょうか。
 高村、大津の二人はサンディエゴ、カサブランカの非主力組の力があるかと思われます」

 現地での作戦を担当するのが、玖珂一尉の役目となっていた。その玖珂の目から見た二人は、何とか使い物になるだろうと言うものだった。

「本当ならば、遠野と鳴沢の二人を単独任務に当たらせたいところです。
 二人のうちどちらかをフロントのアタッカーに据え、3人で殲滅に当たらせる。
 今までの戦い方なら、そうした方が効率的に思えるのですが……」
「高村と大津では、確かに破壊力が不足しているな」

 玖珂の意見に頷いた後藤だったが、同時にマドカとナルの二人を切り離せないと考えていた。「効率」と言う意味であれば、玖珂の言うとおり二人を分離した方が効率がいいと考えられる。だがどちらが確実かという意味であれば、二人はペアで扱った方が確実だったのだ。二人を分離することは、間違い無く能力の最大値を下げることになるだろう。
 その懸念を示した後藤に、玖珂は「リスクの大きさは認めます」と答えた。今までいくども大胆な作戦を撮ってきたS基地なのだが、その作戦の出処はすべてシンジからだったのだ。そのシンジが居ない今、新たな試みは行いにくい環境になっていた。

「不足する破壊力は、通常兵器とバックアップ部隊で埋めることになります。
 ギガンテスの数に関わらず、遠野と鳴沢の二人を、自由に動かすことが作戦の鍵となるでしょう。
 バランスを堀北に任せれば、数体程度のギガンテスなら問題なく退けられるはずです」

 65のギガンテスに飛び込んだ経験があるのだから、マドカとナルの度胸と実力は折り紙が付いていた。玖珂の言う「数体程度」と言う評価は、まだまだ控えめなものだったのだ。
 ただ、これまでと違うのは、英雄と言われたシンジが居ないことだった。その条件で二人がどれだけの力を出せるのかは、全く未知数となっていた。これまでどおりの力を本当に振るうことが出来るのか、こればかりは実戦になってみなければ分からないことだった。

「最終的な作戦は、堀北と議論することになるだろう。
 それで、通常兵器の方はどうなっている?」

 M市の戦いのお陰で、通常兵器の活用方法は分かってきていた。ヘラクレスの戦力を通常兵器で補完することで、これまで以上の戦いが出来る事が分かっているのだ。M市の戦いからすでに1ヶ月が経過しているのだから、後藤はそこに進捗を求めたのである。

「それは、私の方から」

 そう言って手をあげたのは、研究所から来た稲垣という男だった。階級は三佐、小柄ながらがっしりとした体格をしていた。

「N電気から売り込みのあった、自動兵器の試験運用を開始することを考えています。
 考え方は米軍の無人機と同じですが、コストが段違いに低いため、大量投入が可能となっています」

 こちらにと、稲垣は情報をスクリーンに投影した。

「ベースは、標的用の機体を利用しています。
 赤外カメラを利用し、画像解析で加速粒子砲発射寸前のギガンテスを判別します。
 加速粒子砲発射寸前のギガンテスを見つけたら、自動航行で機体ごと口の中に飛び込みます。
 そして加速された粒子の漏れを検出し、それをトリガに抱いている5キロ爆薬を炸裂させます。
 粒子加速器の強度は正確には分かっていませんが、複数突入することで破壊は可能と考えています」

 スクリーンに投影されたのは、巡航ミサイルに似たフォルムを持つ飛行物体だった。違いを見出すとすれば、飛行を安定させる主翼が大きいことだろう。後は、絶対的なスケールと言うところか。

「考え方は理解した。
 それで、こいつはどうやって運用するんだ?」
「運用方法ですが……一つ課題とされているのが、戦場への運搬方法です。
 小型軽量化しているため、搭載燃料に制限が発生しています。
 30分程度しか飛行時間を取れないため、自立で現地へは到達出来ません。
 従って、何らかの方法で現地まで運搬、タイミングを見て射出するのが必要となります。
 今のところ、輸送機で運搬し、上空からばら撒くことを考えています。
 積載量から考えて、1機の輸送機で50程度運ぶことができます。
 あとは、M重工とN電気が共同で航続距離を延ばす検討に入っています」

 うまく行けば、かなり有効な迎撃手段になることは想像できた。だがいざ実戦となると、どこまでリスクを犯せるのかという問題があった。不確かな兵器を試すことで、万が一被害が出た場合の責任の所在が問題となるのである。国内ならいざしらず、海外の場合国際問題に発展してしまう。
 しかもボルドーの戦いでは、航空戦力の投入が成功している。効果が同じだと考えると、今更新しい兵器の開発に対してネガティブな反応が起こる可能性があった。他に方法の無い時ならいざ知らず、今は確立された迎撃手段があることになっていたのだ。

 将来のことを考えると、新兵器の投入は好ましいことに違いない。いつもいつも、熟練したパイロットが用意できるとは限らないという事情もある。そう言う時には、練度に関係の無い武器が使用出来るか否かで、迎撃の難易度が格段に違ってくるのだ。
 兵器の利点は理解できたが、投入には超えなければならない壁が多すぎた。まず一番の問題は、総理大臣の首を縦に振らせることだろうか。新しい試みをして、失敗の責任など取りたくないと誰もが考えるのだ。

 こう言う時に、シンジが居なくなったのが痛いと後藤は考えていた。彼ならば、有効性さえ理解すれば、周りを説得する方法を考えてくれるのだ。そして実験が失敗した時に備えて、リカバリーの方法を考えてくれる。シンジが必要と言えば、誰も異議を唱えない空気も作り上げられていたのも大きかった。

「嵌れば、非常に大きな効果が得られるのを期待できるが……」

 だからと言って、自分では周りを説得するのに壁が高すぎる。たとえ自分の首を賭けた所で、上が首を縦に振るとは思えなかった。
 それを理解しているのか、稲垣は真剣な顔をして「堀北アサミに相談してみては?」と後藤に持ちかけた。英雄碇シンジの亡き今、無理を通す説得力を持つのは彼女以外に居なかったのだ。そして支援兵器がうまく機能すれば、楽になるのも彼女達だったのだ。

「稲垣三佐、君の言いたいことは理解できる。
 これが碇シンジだったら、俺もためらわずに相談することが出来ただろう。
 だが彼女は、狭い範囲の戦術は語れても、将来に向けての戦略までは語れないのだよ。
 気持ちは分かるが、高校1年の女子に期待しすぎるのは宜しくない。
 俺たちがすべきことは、彼女の負担をいかにして減らすのかと言うことだ。
 このままでは、堀北アサミがプレッシャーに潰されることになる」
「その点、碇シンジとは違うと言うことですか……」

 彼女を襲った悲劇は、あまりにも有名なことだった。その悲劇が継続していることを考えると、どれだけ心労が溜まっているのかと誰もが考えていたのだ。その彼女に新たな負担を掛けることは、どう考えても自殺行為に等しいことだった。

「ああ、必死になって彼の残したものを活かそうとはしている。
 だが、それが過ぎると周りが見えなくなる可能性もある。
 居なくなった碇シンジを絶対視し、周りの意見に耳を傾けなくなることもあり得るだろう。
 精神的に、それぐらい追い詰められていると考えて対処する必要が有ると考えている」
「確かに、まだ1ヶ月も経っていませんでしたね……」

 プレッシャーを与えるにしても、折れてしまわない限度を考えなくてはいけない。そしてそれ以外のケアも、十分に行う必要が有ったのだ。それを考えると、日本の守りは一気に不安定になってしまったとしか言いようが無い。
 それを理解した稲垣は、計画の一時凍結を考えることにした。一日でも早い投入が期待されるのだが、それを急ぐことで別の問題を引き起こしかねなかったのだ。ならば機が熟するまで、凍結するのもやむなしと考えたのである。



 1週間も経てば、それなりに環境への適応もすることが出来る。そのあたり、周りが気を遣ってくれたという事情も影響しているのだろう。新生碇シンジのS高生活は、一応無難な滑り出しをすることが出来た。
 ただ無難とは言ったが、いきなり高2の学習についていけるはずはないし、体力の面でも出来ないことが相変わらず出来ないままなのは変わりなかった。

「さあ碇君、今日はどこに行くことにする?」

 ここのところ日課になった部活巡りは、マドカが連れて行くことが多かった。そのあたり、運動部への顔の広さが理由となっていた。
 ただこの日は、マドカの誘いにシンジが首を横に振った。

「弦楽部から、練習に来ないかって誘われたんです。
 ジャージ部なんだから、たまには文化系の手伝いにも来いってことらしいです。
 でも、ジャージと文化部って、どこで結びついているんでしょうね?」

 不思議だとシンジは首を傾げたのだが、あいにくマドカはその疑問に取り合ってはくれなかった。それよりも、弦楽部と言うところを問題にしてくれた。

「弦楽部……如月さんのところかぁ。
 でもさ、碇君は弦楽器の演奏が出来るの?」

 前のシンジが出来たとしても、今のシンジができる保証はどこにもなかったのだ。それを気にしたマドカに、「チェロを少々」とシンジは頭を掻いた。

「小さい頃から習っていたんですけど、ただ習っていただけって感じだったんです。
 ただ、体を動かすことばっかりじゃなくて、そっちの方面もたまにはいいかなって」
「あそこは、慢性的にチェロ不足だからねぇ。
 うん、そう言うことだったら気分転換にもちょうどいいっしょ!」

 うんうんと頷いた所で、「質問」と言ってマドカは聞きに行っていいかと聞いてきた。

「だめとは言いませんけど、あまり期待しないでくださいね。
 最後に弾いたのは、半年前……今からだったら、3年以上前になりますから」
「でも、碇君の頭の中ではたった半年のことなんだよね?」

 だったら大丈夫と、マドカは根拠のない保証をしてみせた。ただ、それだけでも大丈夫な気がするから不思議だった。

「なにか、先輩に言われると大丈夫な気がするから不思議ですね」
「案ずるより産むが易しってね、まずはやって見ることが大切だと思ってるのよ!」

 持ち前のポジティブさを全面に出したマドカに、「ありがとうございます」とシンジはお礼を言った。

「でも、前の僕が先輩のことを好きだった理由が分かる気がします。
 先輩と話をしていると、とっても気持ちが楽になるんですよね。
 それに、僕と違って考え方がとってもポジティブだし」
「理由がわかるって、それは碇君も同じってことを言っているのかな?」

 だったらと、マドカは少し真面目な顔をしてシンジのことを見た。

「アサミちゃんじゃなくて、私と付き合ってみるのはどうかな?」
「今の僕は、堀北さんと付き合っているわけじゃありませんよ。
 だから、堀北さんじゃなくてって正確じゃありませんね。
 ただ、今の先輩も僕のことを恋人として見て言っている訳じゃありませんよね?
 だから、僕は僕で最初に感じた気持ちを大切にしたいと思っています。
 前の僕がどうだったじゃなくて、今の僕が堀北さんを好きだと言う気持ちを大切にしたいんです」
「まっ、用意ドンだったらアサミちゃんの方が絶対に有利なのよねぇ」

 「残念」と悔しがったマドカは、「行こうか」とシンジを誘った。体を鍛えるのは一時中断して、頭の方を鍛えることにしたのだ。それもまた、以前のシンジがやっていたことだったのだ。



 その夜、珍しくへろへろになっていない兄に、「サボったの?」とレイはきつい言葉をごちそうした。今の兄がサボるはずはないと思っているが、そのあたりは軽い言葉のキャッチボールが必要だと考えたのである。
 そして兄からは、当然のように「まさか」と言う答えが返ってきた。

「今日は、弦楽部に行っていたんだよ。
 そこでソロを一度弾いてから、グループ練習をしたんだ」

 そう答える兄の顔が、普段よりは元気がいいように見えていた。だからレイは、「うまくいったの?」と言わずもがなのことを口にした。

「うまく……か、そうだね、久しぶりにしてはうまく言ったと思うよ。
 考えてみたら、練習ばっかりで人の前で弾いたことがなかったんだよね。
 アスカにしても、僕が弾いていた時偶然帰ってきただけだったし」
「アスカさんが、帰ってきた?」

 はてと首を傾げた妹に、シンジは「なにかおかしいかな?」と逆に首を傾げてみせた。

「だって、アスカさんが帰ってきたんでしょう?
 そこに当たり前のように兄さんがいる状況って、なに?」

 話のつながりから考えると、弾いていたのが教室とは思えない。普通ならば、自分の家で弾いていると考えるのが適当だろう。そうなると、兄の住んでいる家に、アスカが帰ってきたことになる。
 だから「なに?」と言う妹に、シンジは「ああ」と小さく頷いてみせた。当時の事情を知らなければ、不思議に思われてもしかたのないことだと気づいたのだ。

「アスカとは、行きがかり上共同生活を送ることになったんだ。
 上司にミサトさんって人がいたんだけど、その人が無理やり僕達を同じ家に住まわせたんだよ。
 ミサトさんも一緒だったけど、あの人、あまり役には立っていなかったなぁ」
「なぁんだ、同棲って事じゃなかったのね。
 危ないことが有ったんだったら、アサミちゃんにチクってやろうと思ったのに」

 残念と悔しがる妹に、「あり得ないよね」とシンジは苦笑を返した。

「レイは、僕の性格をよく知っているだろう?
 その僕が、あのアスカと一緒に住んでうまくやっていけると思う?」
「あのって言われても、よく分からないんだけどね……
 でもさぁ、前の兄さんは”あの”アスカさんを惚れさせたんだよ。
 だったら、兄さんがアスカさんと危ないことになってもおかしくないと思うよ。
 ほら、何かの弾みにお互いの雰囲気が高まってとか、さぁ」
「何かの弾み……ねぇ」

 もしも自分がアスカとキスをしたことを話したら、妹はそれなりに驚いてくれるだろうか。そのことに興味はあったが、余計な問題を引き起こしかねないので、シンジは興味を封印することにした。それに、今から思い出しても、あまりいい思い出では無かったのだ。今よりもずっと子供の二人が、気持ちの高まりも無く、ただ物理的に唇を重ねただけのことだ。結局、お互いが傷ついただけで終わったファーストキスだった。

「何かの弾みだったら、僕がアスカに殴られることのほうがあり得ただろうね。
 たださぁ、お互いが顔を合わせたくないと思うようになると、そんなこともしなくなるものなんだよ。
 だから僕達は、戦いの最中にどんどん壊れていったんだよ」
「それで、TICが起きたったことね。
 しかもそれに利用された兄さんは、罪の意識に耐えられなくなりましたと。
 その結果、科学者とか言う悪人にさんざん頭の中を引っ掻き回されたんだ」

 「お気の毒に」と、とても軽い調子で言ってくれる妹に、シンジは少し目元を引き攣らせて「軽いね」と口にした。事件自体は、全生物を巻き込んだ大変なもののはずだった。そしてシンジ自身に起きたことにしても、悲劇と言って差し支えの無い事のはずだった。
 だがレイにしてみれば、「軽い」と言うのは当然の事のようだった。

「こんなもの、ヘビィに話していい事なんかないでしょう?
 今更どうにもならないし、同情した所で意味があるとは思えないもの」
「そりゃあ、まあ、そうなんだろうね……」

 なにかとても納得のいかないことを言われたのだが、だからと言って何を言えばいいのか分からなかった。確かに、ここで同情されても意味がないことだけは確かだった。
 そうやって兄を黙らせたレイは、用意してあった爆弾を破裂させることにした。

「と言う事で、アサミちゃんからの伝言があるから教えてあげるね」
「堀北さんから?」

 そう言われて、今日一日アサミの顔を見ていないことを思い出した。なんでだろうと首を傾げたシンジに、「良かったね」と妹は意味不明なことを言ってくれた。

「良かったねって、何が?」
「アサミちゃんの伝言よ。
 「とっても素敵でした」って。
 こんなこと、自分で伝えればいいのにね」

 そう言われれば確かにそうなのだが、今は褒められたことで十分だとシンジは思っていた。

「聞いていたんだったら、弦楽部に顔を出してくれればいいのにね」
「でも、僕にしてみれば、堀北さんがいたら緊張していたと思う。
 お陰でトチらなかったんだから、悪いことばっかりじゃないと思うよ」
「それはそうなんだろうけど……なんでアサミちゃん、顔を出さなかったんだろう?」

 二人の関係を考えたら、顔を出すことに問題があるようには思えないのだ。むしろ、顔を出さない方が不自然に思われたことだろう。それぐらいのことは、アサミだったら考えて行動しているはずなのだ。

「なんでって言われても、堀北さんは堀北さんなりに忙しいんじゃないのかな?
 生徒会の方だって、僕の代わりに会長みたいなこともしてくれているし。
 パイロットの方でも、そろそろギガンテスが来るから準備に忙しいみたいだよ」
「準備……?」

 はてと首を傾げたレイは、「準備?」と言ってもう一度首を傾げた。

「兄さんの時は、そんなことをしていたようには見えなかったんだけど?」

 なんでだろうと腕を組んだ妹に、「状況が違うからね」とシンジはアサミを弁護した。

「僕が居なくなったんだから、S基地の戦力が大幅にダウンしているんだよ。
 それに、次の戦いから高村さん達が加わるみたいだからね。
 そのための作戦も、ちゃんと練っておく必要があるんだと思うよ」
「そっかぁ、兄さんは当分乗れないんだものね……」

 張り切って基地に行ったのはいいが、結局シミュレーターのバグで何も出来なかった。そしてバグが直るまで、何も出来ないと教えられていたのだ。

「今週末辺りが危ないから、余計に緊張するんだろうね」
「でも、年末にもギガンテスの襲撃が有ったよね?
 その時は、こんなこと……になる余裕もなかったか……
 そう言う意味で、みんな日常を取り戻し始めているってことか」

 だから、色々と問題が目につくのだろう。なるほどと納得したレイは、兄に向かって「教えてくれる?」といつも通り軽く聞いてきた。

「今度はなに?」
「うん、ちょっと疑問に思ったから。
 あのね、もしかしたら私にもヘラクレスの適性があるんじゃないの?」

 軽く聞いてきた割には、その中身は非常に大きな問題を孕むものだった。自分の知っているレイとは違っても、妹が同じ遺伝子を持つことは確認されていたのだ。それを考えれば、妹もヘラクレスに乗れると考えてもおかしくない。だからと言って、ヘラクレスに乗せていいのかとなると、全く別の問題があった。ある意味、自分以上に危険だと考えられてもおかしくない。
 それを考えると、迂闊なことを口走る訳にはいかない。「う〜ん」とわざとらしく考えた真似をしたシンジは、「どうなんだろうね」と答えをはぐらかした。

「もしも可能性があるんだったら、それこそレイも巻き込まれていたんじゃないのかな?
 それぐらい、日本はにっちもさっちもいかないところに来ていたんだろう?
 僕が倒れたんだったら、なおさら戦力増強を考えると思うんだ。
 それでもレイに声が掛からないってことは、多分適性が無いと思われているんだよ」
「そっか、ふがいない兄に代わって、私が活躍してあげようと思ったのに。
 そしたらさぁ、きっと世界中からファンレターが届くと思うのよ。
 もう男なんて、よりどりみどりに違いないわっ!」
「よりどりみどりって……
 僕の所に、世界中からファンレターなんて来ていたの?」

 個人情報の公開はいかがなものか。本質とは違うことを考えていた兄に、レイは「まったく」とファンレターの存在を否定してくれた。

「確か、応援のお便りの送り先はあったと思うけど……
 まあ、普通は自宅の住所を教えないよね」
「つまり、そんなものは来ていないってことか……」

 お陰で面倒な目に遭わずにすむのだが、それはそれで寂しいなと感じてしまった。
 ふっと息を吐きだしたシンジは、大きく背伸びをした。

「そろそろ、お風呂に入ってくるよ。
 いい加減勉強をしないと、明日が辛くなるからね」
「勉強ねぇ、ちゃんと進んでいるの?
 良かったら、私が教えて差し上げましょうか」

 真面目なところは変わっていないと思いながら、レイは軽いちょっかいを掛けてきた。以前ならば、絶対にあり得ない申し出だった。
 そんな妹に、シンジは「今のところ大丈夫」とまじめに答えた。

「今の参考書はよくできているから、それを見れば大抵のことは分かるんだよ。
 僕にとって一番の問題は、絶対的に時間が足りないことかな?
 中二から復習代わりに始めたんだけど、学年のまだ半分しか済んでいないんだ。
 一度やったところでもこれだから、これから先どうなるのかが怖いんだよ」
「まあ、量だけは多いからしかたがないんじゃないの?
 それでも、半年分を1週間ちょっとで終わったと思えば凄いんじゃないのかな」
「でも、一度やったはずのところだからねぇ。
 今やってみて、おもいっきり忘れているところが多いんだ。
 それどころか、やった記憶の無いものも混じっているよ。
 どんだけ、勉強して来なかったのか、頭が痛くなったというか……」

 だめだめだと頭を振ったシンジは、もう一度「お風呂に入ってくる」と妹に告げた。こうして兄妹の話をするのも大切なのだが、とにかく第一目標を達成する必要があった。さもないと、留年が冗談ではすまなくなりかねなかった。

「ちゃんと肩まですくむのよ。
 それから、湯あたりなんて恥ずかしい真似はしないように」
「それを、いちいち持ち出さないで欲しいんだけど……」

 再会していきなりの失態に、シンジは勘弁してとお願いをした。だが妹から返って来たの、「いや」と言う簡潔明瞭な答だった。



 忙しいとシンジに言われたのだが、それは半分正解であり、半分シンジの誤解でもあった。誤解の部分は、シンジに会えないほど忙しいわけではないと言うことである。そこには、アサミをして顔を合わせにくいと言う事情があったのだ。
 そして正解の部分は、ギガンテスの迎撃態勢が理由になっていた。M市の戦いで、本当に色々なことが動き始めていた。シンジが居ない今、様々な判断がアサミに頼られているところがあったのだ。しかも、襲撃予想時期が近づいているので、余計に忙しくなっていた。

 そのせいで、生徒会が終わってから、アサミは基地に行くのが日常になっていた。そこで疲れた顔を見せられると、後藤でも「無理をするな」と声を掛けたくなってしまう。だが、この状況において、それを口にするのは後藤の立場では許されないことだった。
 そしてアサミは、後藤に対して現状の戦力分析を説明した。

「戦い方の基本フォーメションは、むしろ高知に似た形になると思います。
 遠野先輩、鳴沢先輩の二人がギガンテスにダメージを与え分断を行います。
 そして群れから切り離されたギガンテスを、高村先輩、大津君の二人で撃破します。
 襲撃数にもよりますが、航空戦力は先制攻撃を抑える方に専念した方がいいでしょう。
 襲撃数が10ぐらいまでなら、そのフォーメーションで乗りきれると思います」
「それよりも多くなったら、M市の戦いをなぞると言うのか」

 確認した後藤に、アサミは「その通りです」と答えた。

「遠野先輩達は、ギガンテスの群れに飛び込んだ実績がありますからね。
 同じように暴れるだけなら、比較的難易度は低いのではないでしょうか。
 ただ、その場合は高村先輩、大津君の二人が先輩をフォローする必要があります」
「具体的に、二人に何をさせるのだ?」

 大規模な乱戦になった時、二人に出番があるとは考えていなかった。そこに違う考えが示されたため、後藤はその理由を尋ねることにした。

「あまり難しいことはさせられませんから、本当にフォローぐらいですね。
 私かキョウカさんから、そのあたりは適宜指示を出そうと思っています。
 何しろ遠野先輩、鳴沢先輩の二人が脱落したら、私達は終わりですからね。
 最悪二人には、身を呈してでも先輩二人を守ってもらいます。
 まあ、覚悟を決めて飛び込めば、すぐに食いつかれることもないと思いますよ。
 二人には、その時のための訓練をしっかり積んでもらっていますからね」
「なるほど、あの訓練にはそう言う意図があったと言うことか」

 ここにも、シンジの遺産がしっかり残されていたのだ。それを確認した後藤は、もう一度「なるほど」と大きく頷いた。

「ただ、問題となるのは航空戦力による支援攻撃です。
 M市でかなり弾薬を使ったみたいですけど、補充とかは十分なんですか?
 支援の攻撃がないと、私達だけでは多分乗り切ることは出来ないと思います」
「その点については、緊急予算がついたところだ。
 ただ、店頭で売っているものでないため、納入までに時間が掛かることになっている。
 在日米軍も、前回の戦いでかなり消耗したと聞いている」
「つまり、弾の残りが少ないということですね……」

 せっかく通常兵器が活用出来るようになったのに、その通常兵器が弾切れを起こしそうだと言うのだ。基本的に、空対地ミサイルは専守防衛には不要とされていたのだ。日本の役割を考えるとしかたがないとも言えたのだが、なんともめぐり合わせが悪いとしか言いようがなかった。

「だとしたら、私達も戦い方を考えないといけないですね。
 それで後藤さん、こう言う時は物語だったら新兵器が出てくるものですよね。
 1ヶ月時間がありましたから、なにか、こう、局面を打開できる兵器は無いんですか?」
「世の中、そんなに簡単に兵器の開発なんて出来ないものだ。
 しかも1ヶ月では、通常兵器の改良にもままらない時間といえるだろう」
「やっぱり、世の中はドラマとは違っているということですね……」

 ふっと息を吐きだしたアサミは、何かを思い出そうとするように目を閉じた。

「衛宮さん達に配備する、ポジトロンライフルはどうなっていますか?」
「何とか、出撃数まで用意できそうと言うところだ。
 ただ現時点では、使い物になるのは5丁ぐらいだろう。
 そのあたりについても、ニューヨークの時からあまり変わっていない」

 有効性に疑問が持たれていたため、配備計画が後回しにされていたのだ。それが、ここに来て影響していたのである。

「やっぱり、もう少し通常兵器を使うプランを早く出すべきでしたね。
 ただ先輩も、考えがまとまったのはジャクソンビルの後だから仕方がないんですけど。
 それでも、5丁あるだけでもマシだと思うしかありませんね」
「支援が不足することは申し訳ないと思っている」

 「すまん」と頭を下げた後藤に、「いいですよ」とアサミが疲れた顔で微笑んでみせた。

「最初は、支援攻撃すら意味のない戦いをしていたんです。
 それに比べれば、今はかなり楽になったのだと思いますよ」
「だが、敵と戦うのは本来我々の仕事なんだよ。
 それを君達に任せきりにするのは、申し訳ないとしか言いようが無い」

 もう一度謝った後藤に、「やめましょう」とアサミは答えた。

「誰の仕事かと言うのは、あまり生産的なこととは思えません。
 私達は、今出来る事を精一杯やって、勝ち残っていくしか無いと思っています。
 いずれM市の成果が、戦い方そのものを変えていくことになるのだと思っています」

 そこでアサミは、「後藤さん」と真剣な顔で後藤に呼びかけた。

「どうかしたのか?」
「いえ、先輩に言われたことを思い出していたんです。
 アメリカから帰ってきた時のことですけど、「出来るのなら二度と乗りたくない」って言ったんです。
 先輩のその気持ちは、今ならとてもよく理解出来ます。
 香港の戦いに向かう時、本当に私は怖くて仕方がなかったんです。
 でも先輩は、「香港を火の海にしても守る」と言ってくれました。
 そして私を理由に香港を火の海にするような戦いはしないと言ってくれました。
 あれ以来、ヘラクレスに乗りたくないと思ったことはありませんでした……」
「今は、乗りたくないと思っているということか……」

 そばで支えてくれた人が居なくなったのだから、その時の恐怖がぶり返してもおかしくはない。それ以上に、戦う意味を見失っている可能性もあったのだ。

「どちらかと言えば、乗りたくないと言うのが正解ですね。
 3体程度のギガンテスなら大丈夫だと思いますけど、もっと襲ってきたらどうなることか……
 そして過去の亡霊が出てきたら、逃げ出したいと間違い無く思うでしょうね」

 そう話したアサミは、もう一度「後藤さん」と呼びかけた。

「私達は、いつまでこんなことを続ければいいんでしょうか?
 先輩が捲いた種、それがいつになったら芽が出るのでしょうか?」
「いつ……か。
 なかなか難しい質問ではあるな……」

 アサミの質問に、後藤はどう答えるべきか少し考えた。だが多少考えたぐらいで、適切な答えなど出るものではない。そもそも「いつ」など、世界中の誰にも答えることの出来ない問題だったのだ。

「現在研究の進められている攻撃方法は、いずれもギガンテスの攻撃を待つ受動的なものだ。
 その方法だけでは、ギガンテスの上陸を防ぐことなど出来るはずがない。
 時間を掛ければ倒すことは出来るのだろうが、インフラの破壊を防ぐことは出来ないのだ。
 だからヘラクレス抜きの迎撃は、世界を破滅から救うことなど出来ないのだよ」
「そうですか……では、もう一つ教えてください。
 パイロットの補充ですが、あれから適性の高い人は出て来ましたか?」
「それは、テレビで報道されていると思うが……」

 テレビさえ見れば分かることを、どうしてアサミが質問してきたのか。その質問意図がどこにあるのか、後藤はすぐに理解できなかった。
 だがアサミの質問は、テレビでは分からない部分を含んだものだった。

「いえ、日本だけではなく、世界レベルのことを言っているんです。
 サンディエゴ、カサブランカ、そして日本。
 その3基地の主力組程度の適性を持つパイロットは選出されましたか?」
「新たなパイロットが選出されたとは聞いていないな……」

 質問の意味は理解したが、やはり質問の意図までは理解できなかった。そのせいで言葉を濁した後藤に、「そうですか」とアサミは小さくため息を吐いた。

「そのお話を伺うと、あの日だけAランクが出たのはとても不思議なことですね。
 ジャージ部の特異性と合わせて、説明のつかないことが多すぎます」
「確かに、君達は5人とも初めから適性を持っていた……」

 ジャージ部の特異性については、シンジとも話をしたことがあった。だがその時でも、意味のある仮説すら立てることが出来なかった。そしてその特異性について、自衛隊内でも解明のため何人も研究者が割り当てられていた。だが現時点で、これと言った報告は挙げられていなかったのだ。

 ただ決定的な理由は見つかっていないが、仮説自体は幾つも立てられていたのも確かだ。その中で一番最もらしかったのは、「碇シンジ」と言う特異体を理由にしたものだった。5人とも適性を持つジャージ部は言うに及ばず、関係の無いはずの二人にしても、碇シンジと同じ日にテストを受けていたのだ。その事実を元に、「碇シンジ」に理由を求めたと言うことである。
 ただこの仮説も、比較的簡単な方法で否定することができた。もしも「碇シンジ」との関わり合いが理由なら、彼のクラスメイトにも適性が現れなければおかしいことになる。だが事実として、クラスメイトから適性を持つ者は見つかっていない。そして碇シンジと大津アキラの間には、6時間という時間差が存在している。そこまで影響が残っているのなら、翌日の結果にも影響を与えていなければおかしいだろう。更に言うのなら、カテゴリAが出た以外は、全体のテスト結果は普段と変わらなかったのだ。

「後藤さん、新しい人が出てきない限り、私達はずっとパイロットを続けないといけないんです。
 私達の適性が維持出来ればいいんですけど、もしも乗れなくなったらどうなるんでしょうね?
 ヘラクレスで迎撃を続けるのはいいんですけど、それにも時間制限があるように思えるんです」
「新しくパイロットの補充ができなければ、そう言うことになるのだな……」

 それが何時ということは分からないが、アサミの言うとおりさほど遠くないように思えてしまったのだ。もしもアテナやアポロンが乗れなくなる事態が生じたら、世界は一体どういうことになるのだろうか。残ったパイロットだけで、本当に乗り切っていくことが出来るのか。それどころか、他のパイロット達にしても、何時までも適性を維持できるとは思えなかった。

「私達が稼げる時間はさほど残っていないのかもしれません。
 私達が時間を稼いでいるうちに、根本的な対策がとれなければ人類は終わりますよ」
「たとえ勝ち続けていても、破滅を避ける事が出来なくなるということだな……」

 改めて指摘されれば、その通りとしか言いようがなかった。だが後藤の立場では、ただ迎撃を続ける他に出来る事はなかったのだ。そのあたり、各国の研究を期待したいのだが、残念なことに大きな進捗があったとは知らされていなかった。
 「ううむ」と唸っては見たが、何か考えが浮かぶわけではない。その結果たどり着いたのは、行けるところまで行くと言う、ある意味開き直りに似た考えだった。

「それでも、勝ち続けていけば何か見えるのではないか?」
「結局、私達に出来る事って悲しくなるほど何もないんですね。
 後藤さんが仰るとおり、今は勝ち続けることだけを考えましょう」

 これ以上話すこともないので、アサミはぺこりと頭を下げて後藤の所から帰ることにした。次の襲撃まで時間がないことを考えると、頭の中を整理しておく必要が有る。そしてもう一つ、シンジと纏めた対策を見なおして置かなければいけなかった。そうしないと、イレギュラーが生じた時、対応できる自信が持てなかったのだ。



 前日の結果に気を良くしたシンジは、翌日もまた弦楽部を訪れていた。そこでフウカに喜ばれたことは、更にシンジの気分を軽くする意味を持っていた。

「記憶を無くしたって聞いていたから、チェロが弾けるのか不安だったのよ。
 でも、昨日聞いてみたら全く問題がなくて驚いたのよ。
 これだったら、2ヶ月後の卒業式にもヘルプで出てもらえそうね」
「2か月後って……」

 う〜んとスケジュールを思い出したら、確かに3月の頭に卒業式が控えていた。それを思い出した所で、シンジは二つの大きな問題を突きつけられることになった。
 そのうちの一つ、比較的小さな方は、シンジが生徒会長をしていることだった。当然卒業式ともなれば、在校生代表として挨拶をする必要が有る。それをさせたいがために、陸山がシンジを生徒会長にしたのだから、卒業生のみならず、来賓からも挨拶を期待されているのは間違いないだろう。

 ただその時の問題は、シンジがちゃんと挨拶を出来るのかと言うことだった。冬休み明けの始業式でも、なかなか挨拶の言葉が出て来なかったのだ。あの時は色々と理由があったことを周りが理解してくれたが、卒業式ともなれば、甘えたこと言っていられないだろう。副会長に任せればなんとかなるとは聞かされていたが、忙しくもないのに人に任せるのはどうかと思えてしまう。やはりここは、自分で挨拶を考えなくてはいけないのだ。
 だが、卒業式の挨拶は、本質的な問題に比べればまだ軽いと言えただろう。3年への進級についても、山のような貯金が役に立っていた。だが自分が3年になると言うことは、マドカとナルの二人が卒業すると言うことである。つまり、心の支えとなっている二人が、学校に顔を出さなくなってしまうのだ。その方が、今のシンジにとって大きな問題だった。

「ついに、その時期が来てしまったんですね……」
「ついにって、もう1月も半ばだから、普通に来ると思うけど?
 まあ、碇君が大変なのは分かるけど、3年になっても頑張ってね……
 って、碇君、どうかしたの?」

 なぜか顔色を悪くしたシンジに、フウカは慌てて肘の所を引っ張った。そのあたり、大人と子供ほど身長差があることが理由だった。
 フウカに肘を引っ張られ、シンジははっと我に返った。そして「なんでもありません」と、顔色を少し悪くしたままその場を取り繕った。シンジにとって一番の問題は、マドカ達が学校からいなくなることだったのだ。

「もう、そんな時期になったんだって、ちょっと驚いてしまっただけです。
 まだ思い出していないから、なにか3年ほど損した気持ちになったんですよ」
「そっか、中2からいきなり高3じゃね。
 その間にあったことを考えると、損したって気持ちは大いに理解できるわ!
 碇君にとって、去年1年って、波瀾万丈の1年だったものね。
 それを忘れちゃうのって、確かに大損した気持ちになると思うわ」

 うんうんと頷かれると、取り繕うために言った言葉が大きな意味を持っているように思えてしまった。だが考え直してみると、意外に真実を突いているのだと気づいてしまった。ごく普通の高校生が、日本の危機に颯爽とヘラクレスに乗って現れ、奇跡と呼ばれる戦いをしてみせたのだ。そしてそれから快進撃を続け、しまいには「英雄」とまで言われるようになっていた。しかも、小さな頃から憧れていたアイドルまで恋人にしたのだ。そのすべてを忘れてしまったのだから、フウカが「大損」と言うのも確かだった。

「……確かに、大損と言った方がいい気がして来ました」
「堀北さんとのことも忘れちゃったんでしょう?
 やっぱりさぁ、初めてとやり直しって感動が違うと思うのよ。
 だから碇君、自分のためにも早く記憶を取り戻したほうがいいよ。
 もの凄く素敵な思い出を忘れたままって、やっぱりもったいないと思うもの」

 自分にとっては初めてでも、アサミにとっては初めてではないのだ。それを考えると、確かに嫌だと言う気持ちになってしまう。「処女じゃないからね」と自分に言われたことが、ずんと重くのしかかってきた気がした。

「如月先輩から見て、以前の僕ってどうでしたか?」
「どう、って……」

 それを面と向かって聞かれるのは、もの凄く恥ずかしいことに違いなかった。「とっても格好良かった」程度なら許されるのだろうが、まさか「好きだった」などと告白できるはずがない。だから思いっきり狼狽えたフウカは、とっても無難な答えを選ぶことにした。

「憧れの存在ってところかしら。
 背が高くて、頭が良くて、運動神経が抜群で、その上世界の英雄でしょう?
 しかもチェロも結構上手だったのよ、まあ、この点については今でも変わっていないけどね。
 完璧超人のくせに、それをちっとも感じさせなかったのよねぇ。
 堀北さんが彼女じゃなかったらって、多分女の子たちはみんな考えていたんじゃないの?」
「みんなって、先輩もですか?」

 なぜそこで聞き返してくる。そう文句を言いたいところなのだが、墓穴を掘ったのは自分自身だった。それを思い出したフウカは、気を落ち着けて「そうね」と素っ気なく答えた。

「でも、現実に堀北さんが必ず側にいたのよ。
 そりゃあ、もう、とっても迷惑な二人だったわよ」
「なんで、迷惑って言われなくちゃいけないんですか?」

 話が飛んだ上に、「迷惑」とまで言われてしまったのだ。シンジとしては、納得の行く説明が欲しいところだった。

「だって、時々私達が耐えられなくなる空間を作ってくれるのよ。
 美男美女にイチャイチャされると、やっていられないって気がするのよね」
「美男美女って、堀北さんは分かりますけど、僕は美男じゃないと思いますよ」

 そう答えたシンジに、フウカは今までで一番大きな声で「はあぁっ」と声をあげた。

「碇君、謙遜は美徳かもしれないけど、過ぎると嫌味になるって知ってる?
 碇君がパイロットだって分かる前から、碇君には日本中にファンが沢山居たのよ。
 「ヒ・ダ・マ・リ」にほんの少し顔を出しただけで、ファンレターが沢山送られてきたのよ。
 人気アイドルを食っちゃうぐらい、碇君は格好いいってことを自覚すべきよ。
 だから堀北さんも、碇君に一目惚れしたんでしょう!」
「で、でも、それは記憶を失う前の僕のことだし……」

 そう答えたシンジに、フウカは自覚が足りないと叱った。

「無くしたのは記憶だけでしょう!
 昨日だって、碇君が演奏している時、女の子達がぼうっと見つめていたわよ!
 それぐらいのこと、碇君は気づいていなかったの!?」
「い、いえ、その時は演奏に没頭していましたから……」
「そう言うところも含めて、碇君は格好がいいのよ!」

 どうしてこんなことを力説しているのか、そんな疑問を感じながら、フウカはシンジが格好いいのだと力説した。それを自覚することは、けして天狗になることではない。何事にも真剣に取り組む姿勢が格好いいのだと、フウカは何度も繰り返したのである。

「自信満々になれとまでは言わないけど、碇君は自分を卑下しすぎよ。
 前からそう言うところはあったけど、記憶をなくしてからそれが酷くなったわよ。
 昨日の演奏だって、とっても心のこもった素晴らしい演奏だったわ。
 私の保証じゃ信用出来ないかもしれないけど、以前の碇君よりうまかったと思うわよ」
「以前の僕より……?」

 そんなことがあるのか、シンジはフウカの言葉に耳を疑った。だがフウカは、今の方が音が豊かだと断言してくれた。

「以前の方が、音が無機質だったのよ。
 でも今の碇君の出す音は、ずっと豊かで人の出す音になっているわ。
 まあ、その分、少しだけスケールに問題は出ているけど……
 でも、間違い無く、音楽的には今の碇君と一緒に演奏する方が楽しいわよ」
「僕の出す音が豊か……なんですか?」
「私にはそう聞こえるし、周りのみんなも演奏に引き込まれていたでしょう?
 それが私の答えってことじゃ、納得がいかないかしら?」

 下から見上げるように、そしてかなり近い距離で見てきたフウカから、シンジは少し照れて顔を逸らした。そこでようやく自分が近づきすぎていたことに気づき、フウカはきまり悪そうに「えへん」と咳払いをした。

「と言う事なので、碇君は自信を持っていいのよ。
 それに、3年分の記憶を無くしたんだから、前より劣っていて当然だと言うことを忘れないで。
 そうじゃないと、「3年の積み重ねってなに?」ってことになっちゃうでしょう?
 例外って言えば、チェロの音楽性ぐらいかしら。
 以前の碇君って、正確に弾くことが命になっていたのよ。
 オケならそれでいいんだろうけど、なにか味気ないなあって思っていたんだからね」
「でも、これからするのは合奏ですよね?」

 だとしたら、正確さが悪いとはとても思えない。その点で劣っているのなら、やっぱり今の方がだめなのだとシンジは考えた。

「こんな小所帯じゃ、合奏という程じゃないのよ。
 今度だって、やるのは弦楽四重奏でしょう?
 正確さと感情、そのバランスが必要になってくるのよ。
 そのバランスは、今の碇君の方が優れていると思っているわ」
「もっと、自信を持てってことですか……」

 弦楽部の部長なのだから、こんなところで嘘は言わないだろう。だとしたら、今の自分の方が音楽表現に優れていると言うことになる。

「だから、僕は壊れたのか……」

 思わず呟いた言葉に、フウカが「何?」と反応してきた。

「い、いえ、お陰で少しスッキリしました。
 ところで、皆さん少し遅くありませんか?」
「そう言えば、確かに集合時間が過ぎているわね……」

 へんねと壁にかかった時計を見ると、練習開始時間を5分ほど過ぎていた。これが一人や二人なら分かるのだが、自分達以外全員となると変だと思えてしまう。

「まさか、今日は練習が休みってことはありませんよね?」
「昨日、そんなことを言った覚えはないんだけど……」

 もう一度「変ねぇ」とフウカが首を傾げた所で、ようやく遅刻してきた部員がぞろぞろと入ってきた。そこで不思議だったのは、纏めて全員が入ってきたことだった。

「須賀君、なんで全員まとまって遅刻したのかしら?」

 そうやって聞かれた須賀は、「さあ」としらばっくれてみせた。

「俺は、教室を出るときに先生に呼び止められたからなんだが?」

 そう言って須賀は、隣に居た友田に話を振った。少し無精髭を伸ばした友田は、「俺は掃除当番」ともっともらしい口実を口にしてくれた。

「それで久住君は、日直とか言わないわよね」
「い、いえ、ちょっと波多野さんとヤボ用で……」
「え、ええっ、少し相談に乗ってもらっていたんですっ!」

 少し慌てた波多野ミカを、フウカは疑問のこもった目で睨みつけた。だが全員がもっともらしい口実を付けてくれたせいで、それ以上遅刻理由について問いただすことが出来なかった。

「まあいいわ、じゃあこれから練習を始めるから準備を急いで!
 碇君、始まるのが遅くなってごめんなさいね」
「いえ、別に急いでいるわけじゃありませんから大丈夫ですよ」

 そう言って微笑まれたせいで、フウカはくらっとめまいを感じてしまった。何のことはない、シンジの笑顔が好みのど真ん中だったのだ。

「如月先輩?」
「な、なにかなっ!?」

 そこで不思議そうな顔をされると、つい焦ってしまう。慌てたフウカに、なんだろうとシンジは首を傾げてしまった。
 そしてその光景を生暖かく見守った部員たちは、「初だな」と彼らの部長のことを分析した。

「せっかく、二人きりの時間を作ってあげたのに、何も進展がなかったんですね」
「身長と一緒で、お子様だからしかたがないだろう」
「積極的に行かないと、堀北さんと勝負にならないのに……」
「多少積極的になったぐらいで、勝負になるとは思えませんが……」

 四人で顔を見合わせて、「はあっ」と大きくため息を吐いた。フウカの気持ちなどミエミエなのだから、S高生活も残り短くなった今、告白ぐらいさせてやろうと考えたのだ。特に自信をなくしている今なら、精神的守りも薄くなっているはずなのだ。最強の壁が離れているのを利用すれば、そこそこいい所に行くはずなのにと目論んでいた。

「まあ、好きすぎるから言えなくなるんだろうな」
「どうしても、比べてしまうだろうな」
「初めから、勝てる戦いじゃありませんね」
「堀北さんに勝てる子って、居ないと思いますよ……」

 そこでもう一度顔を見合わせ、「だよなぁ」と全員が深くため息を吐いた。ジャージ部の先輩二人でも強敵なのに、現役の彼女は更に一枚も二枚も上手を行っていたのだ。元トップアイドルにして、世界のヒロインともなれば、魅力値はマックスに振れているだろう。
 「憧れるのがせいぜい」と言う結論に達するのは、ある意味当然の事だったのだ。



 そして週末の日曜日、シンジが家で中3の勉強をしている時、渡された携帯がけたたましく鳴り響いた。予想されたとおり、ギガンテスの襲撃が確認されたのである。

「兄さん、行くの?」

 乗れないのにと言う意味を込めて聞いてきた妹に、シンジは「役目だから」と小走りに玄関へと向かった。

「いざと言う時は、ヘラクレスに乗る覚悟はできているんだ。
 だめなのはシミュレーターだけなんだから、実際の機体は大丈夫なはずだ!」

 ズックの靴を引っ掛けたシンジは、迎えが来ているはずだと玄関のドアを開いた。そしてシンジが予想したとおり、玄関の前には白バイに乗った警官が待っていた。

「碇さん、基地までお送りいたします。
 ちょっと早いですから、しっかり捕まっていてくださいね」
「捕まればいいんですね?」

 言われたとおりしっかりと捕まったところで、白バイ隊員は「行きますよ」とシンジに声を掛けた。そしてその声に続いて、750のエンジン音が高らかに鳴り響いた。サイレンの音すらかき消す爆音を残し、シンジを乗せた白バイはあっという間にレイの視界から消えていった。

「兄さんの悲鳴すら聞こえなかった……」

 「行ってらしゃい」、そう声をかける必要があったのかと、レイは疑問を感じたのだった。

 出来ればアジア地区には来て欲しくなかった。今の迎撃態勢に、後藤はギガンテスの位置を記すスクリーンを恨めしそうに睨みつけた。

「それで、襲撃地点はどうなっている!」
「このまま行けば、台東あたりになりそうです。
 予想襲撃時間は、8時間後の18マルマルです」
「襲撃数は4か……」

 数が少なかったことが救いなのだが、4と言う数字も実際には微妙な数だった。マドカとナルの二人ならば、4体のギガンテスを蹴散らすことも難しくはない。ただ、そのまま殲滅するわけにもいかないので、殲滅事態は他の方法で行う必要が有る。

「台湾の空軍は出撃できるのか?」
「F16、10機の出撃準備ができているようです。
 ち、ちょっとまってください、太平洋上に別のギガンテスの反応を確認。
 真っ直ぐ東に向かっていますので、北米大陸が目的地と思われます。
 襲撃予想時刻は7時間後の17イチマルです。
 襲撃規模は、5と言う報告が上がって来ました!」
「これで、サンディエゴの支援は期待できなくなったか……」

 8時間後の襲撃であれば、サンディエゴからでも十分間に合う時間だったのだ。だが同時進行が確認されたことで、サンディエゴの戦力はあてにできなくなってしまった。こうなると、日本だけでギガンテスを殲滅しなければならない。いよいよ、不安が現実の物となってしまうのだ。

「パイロットは?」
「現在招集中です。
 5分後に、遠野、鳴沢、碇が揃います。
 さらに5分後に、高村、堀北、篠山、大津が揃います。
 バックアップ部隊は、すでに集合を完了しています!」
「二人は、一緒に居なかったのか……」

 すでに後藤の所には、シンジとアサミが 行動を共にしていないと報告が上がっていた。それもしかたがないと諦めている所はあったが、こうして日曜の昼に別行動をされると、どうしても不安が先にたってしまう。諦めているシンジの方はいいのだが、アサミの精神状態に懸念が生じてしまうのだ。
 だが、この状況でメンタルケアをしている暇はない。大黒柱二人に期待をして、後藤はチームを送り出すことにした。

 5分早く到着した3人のうち、なぜかシンジが一番しっかりしていた。マドカとナルの二人は、白バイから降りた途端へたり込んだのだが、シンジ一人けろっとしていたのである。

「なんで、碇君は平気でいられるの?」

 それがおかしいと文句を言ったマドカに、「どうしてでしょうね?」とシンジも首を傾げた。白バイ隊員に捕まっている時には、前の景色が溶けて流れていたのだ。それが怖くてしっかり捕まっていたのだが、あったことと言えばそれだけだったのだ。マドカたちのように、足腰が立たなくならなかったのだ。

「走っている時はかなり怖かったんですけどね……
 別に、振り回されたことについては、あまり被害がなかったかな……と」

 もう一度首を傾げたシンジだったが、実はしっかり理由があったりしたのだ。記憶に残っていない訓練なのだが、Phoenix Operationの訓練で、しっかりと三半規管が鍛えられていたのである。戦闘機で掛かるGに比べれば、まだ白バイのGは生易しかったと言うことだ。

「とにかく、急がないといけないんですよね?」
「そ、そうなんだけどね……ありがとう」

 目を回しているマドカとナルに、シンジは「どうぞ」と言って手を差し出した。せっかく飛ばしてもらったのに、ここでへばっていてはその甲斐がなくなってしまうのだ。

「ええっと、それでどこに行けばいいんでしたっけ?」
「そっか、碇君はこう言ったのは初めてなんだよね」
「じゃあ、お姉さん達と一緒に行きましょうか!」

 シンジの手を借りて立ち上がった二人だったが、今度は二人がシンジのことを引っ張っていった。シンジがどう言う形で出撃するのかは分からないが、ここまで来て行かないということはないと考えたのである。

「ところで、碇君は何をしていたの?」
「僕ですか?
 みんなに追いつけるように、中学の勉強をしていました。
 もう少しで3年に入りますから、2月中には高校に突入できますね」
「へえ、結構順調に進んでいるんじゃないの?」

 1年間の勉強を3週間で済ませるというのだから、順調どころか早すぎると言っていいだろう。それを感心されたシンジは、「気合ですっ!」と珍しい威張り方をしてみせた。

「気合って……留年したくないって言う?」
「貯金のお陰で、留年は無さそうなんですけど……
 それでも、生徒会長が落第生じゃ情けないじゃないですか。
 集中すれば、結構早く進むのも分かりましたから、今は集中してやっているんです!」
「なんか、前にも似たようなことを聞いた気がするわ」

 前のシンジも、授業を聞いていれば十分だと言っていたのだ。それを勉強会で聞いたのも、遥か遠くのことに思えてしまった。
 そんな話をしながら歩いていたら、自衛隊員が警備しているドアの所にたどり着いた。シンジ達の姿を確認した二人は、そこまでするのかと言いたくなるほど背筋を伸ばし、「ご苦労さまです」と敬礼をしてくれた。

「いつも、こんな感じなんですか?」

 警備の方が緊張している様子に、シンジは少し驚いていた。そして昔はどうだったのかを思い出そうとしたのだが、思い出そうにも何も見ていなかったことに気がついた。

「碇君、どうしたの?」
「いえ、前はどうだったのかなと思い出そうとしたんですけど……
 でも、前って人と触れ合うことが極端に少なかったんだと思いだしたんです。
 そう言ったところも違うんだなって、ちょっと感心していたんですよ」
「今は、みんなとっても親切にしてくれるわね」

 そう言ったナルの言葉に、確かにそうだとシンジも思っていた。初めて家に帰った時でも、警備の人たちはとても人間味にあふれていたのだ。そして基地に来るたび、これでいいのかと思いたくなるほど、周りの人達が自分に気を使ってくれていた。それだけでも、随分と違うのだと分かってしまう。

「ロッカーに着替えがあるからジャージに着替えてきてね」
「本当に、ジャージで出撃するんですね」

 後藤には聞かされていたが、実際に目の当たりにするとやはり感じ方は変わってくる。それでいいのかと言う思いと、自由なんだなと感心する二つの思いがシンジにはあった。

「私達は、ジャージが制服なんだからねっ!」

 ビシっとマドカに指差され、やっぱり変わっているとシンジは思ったのだった。ただこだわることではないと、言われたとおりロッカールームで着替えることにした。

 シンジが着替えて出てくるのと、アサミたちが控え室に入ってくるのはほぼ同時だった。ジャージに着替えたシンジを見て驚いたアサミは、すぐに「絶対に出撃させませんよ」と言い残してロッカールームへと消えていった。その言葉の響きが、“恋人”に向ける物としては、かなり冷たい物を持っていた。
 それを苦笑で見送った時、作戦司令の玖珂が控え室に入ってきた。そしてシンジを見つけ、「一緒に来てほしい」と声を掛けた。

「いきなりヘラクレスに乗せるわけにはいかないでしょう。
 だから、私と一緒に現地へと飛んでください」
「留守番と言う訳ではないんですね」

 置いてきぼりにならないことにホッとしたシンジに、「保険が必要です」と玖珂は答えた。

「通常のプロトコルでは、碇さんがヘラクレスに乗ることはないでしょう。
 ただ、戦いである以上、あらゆる局面に備える必要があります。
 最悪バックアップ部部隊の機体を使うことも考慮が必要です!」
「あまり、考えたくない可能性ですね……」

 そうは言ったが、常に最悪を考えて行動する必要が有る。それに4体と言うのは、結構微妙な数だとシンジも理解していたのだ。欲をかかなければ負けることはないと思っているが、戦いと言うのは何が起きるのかわからないものである。それを考えれば、いくつも手を打っておく必要は理解できたのだ。

「分かりました、玖珂さん、ですよね。
 よろしくお願いします」

 恐らく、前の自分とは関わりの深かった人なのだろう。だが今のシンジにとって、会う人のほとんどが初めて会う人ばかりだったのだ。だからとても他人行儀に、「お願いします」と頭を下げることもおかしなことではなかったのである。

「では、現地に作戦本部を開設します。
 すぐに出発しますので、私に着いてきていただけるでしょうか?」
「すぐに、出発するのですね?」

 アサミが着替えて出てくるのを待ちたいと言う気持ちもあったが、会ってどうするのかと言う気持ちも同時にあった。普通に考えれば、自分が出撃できるはずがなかったのだ。それを考えれば、面と向かって「絶対に」と言い切る必要はなかったのである。そこにどんな意味があるのか聞いてみたかったが、それを今確認することに意味があるとは思えなかった。たとえどんな答えが返ってきたとしても、納得など出来ないと思うし、余計なしこりを残すだけだと思っていたのだ。
 だからシンジは、玖珂に言われるまま控え室を出ることにした。まだパイロットとして半人前なのだから、半人前なりに出来る事をしなくてはいけない。そこから積み上げていくことで、仲間の信頼も得られるのだろうと。

 マドカとナルが着替えて出てきた時には、すでにシンジは玖珂と一緒に出て行った後だった。着替えに手間取っているのかと男子更衣室を見ていたら、がちゃりと扉が開いて中からアキラが着替えて出てきた。

「あれ大津君、碇君を知らない?」

 いくらなんでも、アキラより遅くなるとは思えなかった。だからどうしたのかと聞いたマドカに、「いないんですか?」と逆にアキラが驚いていた。

「僕達が来た時には、碇先輩はジャージに着替えていましたよ」
「だったら、碇君はどこに行ったのかしら?」
「ひょっとしてトイレかしら?」
「更衣室の中にトイレもあるんですけど……」

 それを考えると、トイレと言うのは考えにくい。アキラの指摘に、確かにそうだと二人は頷いた。

「だとしたら、碇君はどこに行ったのかしら?
 碇君って、全く基地の構造を知らないはずよね?」
「普通、勝手に出て行くとは考えられませんよね?」

 う〜むと考えたアキラは、「もしかして」とシンジが居なくなった理由を直前の会話に求めた。

「そう言えば、堀北さんが、碇先輩に「絶対に出撃させませんよ」と言っていました。
 碇先輩がそれを気にして……とか、は、考えにくいか」
「確かにねぇ、碇君が出撃するのって、戦況が酷いことになってるってことでしょ。
 でも、アサミちゃんはどうしてそんなことを言ったのかしら?」
「最近、堀北さんは碇先輩と一緒にいませんよね?
 今日だって、お休みなのに別行動をしていたんですよね。
 学校でも、最近一緒に居るのを見た覚えが無いし……」

 別にアキラは、だからどうしたと言いたいわけではなかった。ただ、最近二人が疎遠になっているように”見える”と言いたかっただけだ。
 だがそれを受け止めたマドカは、まずいことになっているかなと、二人ではなく周りの反応を気にした。二人の間に、解決すべき感情の問題があるのは分かっている。そしてその解決が簡単ではないのは、年明けからの出来事で嫌というほど思い知らされていた。だが二人が、特にシンジが解決しようと努力しているので、大きな問題ではないと思っていたのだ。
 だがシンジと逢わないアサミの行動が、周りに余計な憶測を呼ぶことになっている。そこに善意と勘違いが絡まり合うと、予想もしないことが起きかねなかったのだ。もしかしなくても「まずい?」と、マドカとナルは対策を考えなければと思い始めていた。

 だがその懸念を抱くのは、少しばかり遅すぎたようだ。マドカ達が出た後の更衣室で、小さくない問題が発生したのである。そのきっかけは、「どう言うつもりだ」とユイがアサミに食って掛かったことだった。

「どう言うことって、何のことですか?」

 黙々と着替えをしているアサミに、「今の態度だ!」とユイは声を上げた。

「なぜ、言わずもがなのことを口にした!
 碇だって、自分が出撃することの意味ぐらい理解しているぞ」
「だったら、別に何の問題もないと思いますけど?」

 ブラウスも脱いで下着姿になったアサミは、クリーニングされた袋からジャージの上下を取り出した。そして中身をチェックして、付いていたクリーニングタグを取り外した。

「物には言い方があるだろう!
 なぜ、あんな邪魔にしているような言い方をする。
 「余計なことはするな」と言っているようにしか聞こえなかったぞ!」
「それは、高村先輩が勝手にそう思っているだけですよ」

 食って掛かるユイを気にしないで、アサミは着々と着替えを進めていった。もともとジャージを着るのに時間が掛かるはずもなく、あっと言う間にアサミの着替えは終わっていた。

「ふん、私だけが思っているか?
 学校で最近のお前達がおかしいと聞こえてくるのは、私の空耳なのか?」
「自分で答えを言わないでください。
 それは、高村先輩の“空耳”なんですよ。
 その証拠に、碇先輩は明るく頑張っているでしょう?」
「ああ、かなり無理をしているのが“頑張っている”と言うのならそうだろうな。
 堀北、お前は絶対に出きないことをさせようとしているのが分からないのか!」

 食って掛かるユイに、「面倒くさいなぁ」と言う顔をして、アサミは「私が強いたことじゃありませんよ」と言い返した。

「自分が納得するために、碇先輩が自分で考えてやっていることでしょう?
 だとしたら、私が口出しすることじゃないと思いませんか?」
「ああ、お前が“恋人”でなければそうなのだろうがな。
 だが恋人なら、もっと協力しあっていくものではないのか!」

 正論に正論で言い返したユイは、「どう言うつもりだ!」ともう一度アサミに答えを迫った。

「あいつはあいつなりに、着実に前に進んでいるんだぞ。
 ようやく環境に馴染んだのか、最近はいい顔をするようになってきた。
 それがお前と顔を合わせないのが理由なら、お前たちは別れた方がいいんじゃないのか」
「目的地が近いからいいようなものの……」

 はあっとため息を吐いたアサミは、「状況が分かっていますか?」とユイに質した。

「これから、台湾を襲撃するギガンテスを迎撃に向かうんですよ。
 それなのに、子供みたいに他人のことに先輩は干渉してくるんですか?
 もう少し、状況を正しく把握してほしいものですね」
「ああ、状況なら正しく把握しているさ。
 小規模襲撃なら、今のままでも乗り切ることが出来るだろう。
 だが大規模襲撃や過去の亡霊が出てきた時には、碇の力がなければ乗り切れない。
 そしてその時には、堀北、お前と碇の連携が問題になってくるんだ。
 そのお前たちがギクシャクしているのがおかしいと言っているんだ!
 それが目に付く形で現れたから、こうしておかしいと言っているのだろう!」
「一度も迎撃に出たことのない人が……」

 もう一度ため息を吐いたアサミは、「ギガンテスを舐めないでください」ときつい調子でユイに言い返した。

「迎撃に絶対と言うことはないんですよ。
 だから私達は、万全の準備で当たらないといけないのに……
 どうして、出撃前にチームワークを乱す真似をしてくれるんですか?」
「それを最初にしたのが誰かを考えることだな。
 S高ジャージ部の中心は、碇であり遠野先輩達だ。
 チームワークを持ち出すのなら、誰にでも分かるような思わせぶりで碇を振り回すな」

 絶対に負けないと言う気迫で言い返すユイに、アサミはどうしたものかと悩んでしまった。いい負けするつもりは無いのだが、それをしているほど時間に余裕が有るわけでもない。そもそも、これから作戦の確認をしなくてはいけないのだ。そのための時間を、こんなことに割いている暇はないはずだった。
 だがそれを持ちだした所で、今のユイが納得するとは思えなかった。そしてユイに言われるまでもなく、指摘されたことはアサミ自身自覚していることだったのだ。

 アサミ自身、今のシンジと前のシンジの間に、明確に線を引いてしまっている。ただ単なる記憶喪失であれば、本当ならば線を引く事自体に意味があるものではなかったはずだ。「記憶操作」と言う人の作為が、本来必要の無い線引をアサミにさせてしまっていたのだ。だから「同じ顔をした別の人」と言う意識が、アサミの中に強く残ってしまっていた。

「そのことをここで持ち出すことに、どれだけ意味があることですか?
 今度の戦いには、碇先輩が出撃することはないんですよ。
 今の碇先輩が出撃すると言うことは、私達に大きな被害が出るという意味なんですからね。
 最低でも、高村先輩が死ぬ目にでもあわない限り、碇先輩が出撃することはありません。
 正義ぶって色々と言ってくれていますけど、それが自分の首を絞める行為だと分かっていないんですか?
 同調率のあまり高くない私達が、チームワークを乱してどうしようと言うんです?」
「それをしているのが、誰なのかと私は言っているんだ!」

 お互い引けない所まで来てしまったこともあり、ロッカールームの中は険悪な空気に包まれることになってしまった。こうなると、キョウカは傍観者の位置から抜け出ることは出来ない。それを自覚したキョウカは、一番効果的な手段をとることにした。つまり、頼りになる先輩に仲裁を求めたのである。

「はい、そこまでっ!」

 キョウカに呼ばれたマドカとナルは、間髪入れずに二人の間に割って入った。「そこまで」と間に入ったナルは、「ユイちゃんにお仕置き」と言って、軽くその頬を張った。その後ろでは、マドカも同じようにアサミの頬を張っていた。

「二人とも、議論するのはいいけど時と場合を考えようね。
 二人して正論を言い合っていたら、絶対に議論の決着はつかないんだからね」
「まったく、大勢の人の命がかかった戦いに出る前なのに……
 やりあいたかったら、無事帰ってきてから思う存分やりなさい」

 二人に注意されたアサミとユイは、「自分は悪くない」と言い返そうとした。だがマドカとナルに微笑まれ、と言うか、凄みのこもった笑みに、何も言えなくなってしまった。
 「受けて立ってあげようか?」二人の笑みには、そんなメッセージが込められていた。

 そうやって二人を黙らせたマドカとナルは、作戦会議よと言って二人を控え室へと連れ出した。

「と言っても、さほど目新しいことがあるとは思えないけどね。
 それで、私達は今まで通り前線で暴れるとして、ユイちゃんと大津君は何をすればいいのかな?」

 無理やり作戦会議に持っていったマドカに、「それは」とアサミが説明を引きとった。

「今回は、あまり無理をしないことを考えています。
 4体のギガンテスのうち、1体を二人がかりで倒してもらいます。
 その1体にしても、先輩二人にダメージを与えてもらってからです。
 残りの1体は、状況に応じてバックアップ部隊か、航空戦力に仕留めてもらいます。
 残りが2体となった所で、後は遠野先輩、鳴沢先輩に任せることにします。
 今回の戦いでは、高村先輩、大津君には戦いに慣れることを最優先にしてもらいます。
 ギガンテスがどんなものか、実戦でヘラクレスがどう動くのか、そちらを重点に考えています」
「うんうん、妥当な作戦だね」

 よしよしと頷いたマドカは、「頑張ってね」とユイとアキラの背中を叩いた。

「しっかり傷めつけてからバトンタッチするから、二人共遠慮無くやっちゃってね」
「そ、それは、お願いします……」
「それで、キョウカちゃんの役目は?」
「キョウカさんは……」

 ふっと息を吐きだしたアサミは、「今日はお休みですね」と告げた。

「全体統率は私がしますから、せいぜい状況を注視する程度です。
 逐一、遠野先輩、鳴沢先輩に状況を伝えてくれますか?」
「確かに、4体程度だとやることは少ないな」

 うんうんと頷いたキョウカは、「了解した!」とアサミに答えた。

「と言うことなので、7時間後の戦いのために現地へと移動します。
 飛行時間は3時間程度なので、2時間はここで待機することになります」
「現地で2時間待ちって、ちょっと長くない?」
「だとしたら、早めに行って待機するぐらいしか他に選択肢はありませんよ。
 ぎりぎりの移動だと、アクシデントへの対応ができませんからね」
「そっかぁ、遅刻したらシャレにならないもんね」

 こう言う時に、マドカの明るさは気分を軽くする効果を持っていた。そして同時に、ジャージ部における二人の存在感を改めて示すことになった。シンジと言う柱が欠けた今、マドカとナルの二人がジャージ部の精神的な支えとなっていたのである。



 その頃シンジは、玖珂と移動する前に後藤と面会していた。S基地として初めてのことだけに、色々と確認しておくことがあったのである。
 そして後藤を前に、シンジは自分にまつわる状況を確認することにした。

「僕がヘラクレスに乗るまでには、どれだけステップが必要なんですか?」
「慎重論が強いことは確かなのだが……」

 そう前置きをした後藤は、「複雑な状況になっている」と説明した。

「シミュレーターなのだが、一朝一夕では解決しないことが判明した。
 従って、現時点では緊急パッチを当てるという話になっている。
 これで君が乗っても落ちなくはなるが、それでは結果が正しいと言うことは出来ないだろう。
 連携訓練は出来るが、それ以上の検証が出来ないという意味になるからな」
「でも、シミュレーターで、危険性の確認なんて出来るんですか?
 あれって、エヴァに乗っているのとは全く違うものですよ」

 暴走することも、過剰シンクロすることも無いのがシミュレーターなのだ。それを考えると、安全性の担保には成り得ないものだった。
 それを指摘された後藤は、確かにそうだとシンジの言葉を認めたのである。

「そもそもシミュレーターの目的は、適性を測るためのものではなかった。
 大規模な連携訓練を行う環境を整備できないから、代替手段としてのシミュレーターが用意された。
 それが比較的現実と一致していたため、用途が拡大されたと言うのが実態だ。
 だから君の言うとおり、シミュレーターでは安全性の確認など出来るものではないはずだ……
 と言うのが、冷静な見地からの答えと言う事になる。
 ただ、世の中すべてが冷静な議論で成り立っているわけではないのだ」
「そりゃあ、あれだけの大災害を二度も経験していればそうでしょうね……」

 中学時代に散々聞かされたSIC、そして自分が当事者となったTICと、人類は未曾有の災害を二度も経験しているのだ。それを考えれば、三度目の危険性に対して、過剰に注意深くなるのもしかたがないことと言えただろう。
 それを理解しているシンジに、「そう言う事だ」と後藤は頷いた。

「そう言うことなので、君を乗せることには慎重な意見が多く出されている。
 しかしその一方で、君がいつまでも乗らないことも問題が大きいんだよ」
「それは、TICに僕が関わったことを知らない人が世界の大半だからですか?」

 正しい認識に、後藤は小さく頷いた。

「そう言う事だ。
 そう言う人達にとって、君は紛うこと無く英雄なんだよ。
 その英雄が病魔を乗り越え前に進もうとしているのに、
 どうして水を差す真似をするのだと考える人達も大勢いると言うことだ。
 そして為政者たちも、TICを理由をするには、すねに傷を持ちすぎている。
 何しろ、TICの首謀者達に荷担していたのは、その時の為政者たちだからな。
 と言うことで、色々と君の処遇に対しては難しいことが多すぎるんだよ。
 誰が最初に猫の首に鈴をつけるのか、まあ、俺の仕事だと誰もが考えているんだろうな」

 そう言って苦笑を浮かべられると、「お気の毒に」としか言いようがなくなってしまう。それでも言っておかなくてはいけないと、シンジは「破滅なんて望んでいませんよ」と言うことにした。

「ヒアリングでも言いましたけど、僕は今の世界を望んだんです。
 ギガンテス問題の解決ならいざ知らず、世界の破滅なんて望むはずがないじゃありませんか。
 やり直しをするにしたって、僕の知っている中では今が一番いいと思っているんですよ。
 そもそも、どうやれば世界を壊せるのかなんて分かっていないんですからね」
「世界の破滅が、君の意思だけで成し遂げられるのならそうだろうな……」
「でも、TICを目論んだ人達は、残っていないんでしょう?」

 TICによる未帰還者は、1億を超えていると言われていたのだ。そしてその中には、当然のようにシンジの父親も含まれていたのである。そしてシンジの知らないことだが、人類補完機構と呼ばれた組織の者たちも、ことごとく還らぬ者となっていたのだ。

「確かに、そう言う意味ではFICの可能性は無いのだろうな。
 だから、俺はいざとなったら君を投入する覚悟はできているんだ。
 もっとも、その前に出来るだけマドカちゃん達との連携訓練をしたいと思っている」
「チームの動きが出来ないと、足を引っ張るだけですからね……」

 自分と言う怪物を除けば、日本の特徴は他を圧倒するチームワークだったのだ。そのチームワークに乱れが出ては、日本の長所を発揮できないことになる。
 それを理解したシンジに、そう言う事だと後藤は頷いた。そして時計を確認して、まだいいかと少し踏み込んだ話をすることにした。玖珂の行う現場指揮にしたところで、現地との調整以上の意味を持っていなかったのだ。

「玖珂、1時間後に碇シンジ君を迎えに来てくれ」
「はっ、1時間後に碇シンジを迎えに参ります!」

 敬礼を残して、玖珂は後藤の部屋を出て行った。それを見送った所で、後藤はインターフォンで秘書を呼び出した。

「彼に、飲み物を持ってきてくれないか?」
「はい、碇さん、何が宜しいですか?」

 後藤だけの時とは全く違う態度で、秘書官の結城は「ココアですか、ホットレモンですか、紅茶ですか?」と嬉しそうに聞いてきた。

「ええっと、じゃあレモンティーをお願いします。
 あ、ちゃんと甘みの付いたのでお願いします」
「はい、レモンティーですね。
 後藤特務一佐は、コーヒーで宜しいですね」
「ああ、ミルクと砂糖もお願いする」

 注文を聞いた結城は、高性能給茶機で注文のあったメニューのボタンをぽちりと押した。ただ後藤にはプラカップだったのに、シンジに対してはちゃんとティーカップが使われていた。しかも、どこから取り出したのか、スライスレモンと砂糖のポットまで用意されていた。

「はい、碇さん」
「あ、ありがとうございます」
「……どうぞ」
「なにか、俺には態度が違わないか?」

 後藤の前に置かれたのは、プラカップに入ったコーヒーと、ポーションのミルクにスティックシュガーだったのだ。どうしてそこで差別するのだと、後藤にしては正当な文句を口にした。
 だが言われた方は、その苦情を全く取り合わなかった。そしてシンジに対してお辞儀をしてから、さっさと後藤の部屋を出て行ってくれた。

「後藤さん、虐げられています?」
「上官に対する尊敬が薄いとしか言い様がないな……」

 はあっと小さくため息を吐いた後藤は、「それよりも」と言ってシンジのことを聞くことにした。

「最近、彼女との関係が思わしくないと言う噂が聞こえてくるのだが?」
「彼女と言われても……」

 少し顔を引き攣らせたシンジは、「実態と合っていません」と答えた。本人の意識の上では、アサミと付き合っているつもりは無かったのだ。

「そんなことを言っても仕方がありませんから、質問に答えますけど……」

 そう言って少し考えたシンジは、「問題ないと思いますよ」と答えた。

「だが、最近顔を合わせていないのだろう?」
「そうですね、先週基地に来てから、今日まで顔を見ていませんでしたね。
 堀北さんは、生徒会やギガンテスへの備えで忙しかったようですしね」
「それが、顔を合わせない理由には思えないのだがな?」

 以前ならば、お互いがどんなに忙しくても、一緒に居ないことの方が少なかったのだ。だが今は、アサミの方から顔を合わせないようにしているとしか思えなかった。しかもシンジに対する態度が、後藤の目から見ても冷たいように思えていたのだ。
 その意味で聞いてきた後藤に、シンジは真面目な顔で「どんな答えを期待しているんですか?」と聞き返した。

「もう、うまくいっていなくて悩んでいるんです!
 って答えを、後藤さんは僕に期待しているんですか?」
「いやっ、別に、そんなことを言わせようとは思っていないのだが……」

 そうやって改めて聞かれると、確かにどんな答えを期待していたのかわからなくなる。ただ周りから漏れ伝わってくる話が、無視し得ない重要な問題を孕んでいるように感じていただけだった。

「僕の気持ちは、前から変わっていませんよ。
 ただ僕の場合、普通の生活をするのにも問題を沢山抱えているんですよ。
 だから今は、みんなに追いつくのに精一杯ってところがあるんです。
 堀北さんは、あまり発破をかけすぎてはだめだと思っているんじゃありませんか?
 後は、今日の戦いを乗り切れば、もう少し気分も楽になると思います。
 僕もたくさん問題を抱えていますけど、堀北さんも同じように問題を抱えているんですよ。
 暖かく見守って下さるのはありがたいですけど、あまり僕達を型にはめないでくださいね。
 僕はまだいいですけど、堀北さんにはかなり負担になっていると思いますから」

 その答えに、後藤はシンジが少し変わったことに気づくことになった。最初に会った時に比べて、肩から力が抜けているように感じられたのだ。いい意味での開き直りが、言葉の端々に感じられるようになっていた。

「すこし、肩から力が抜けたように見えるな」
「以前の僕との違いが分かるようになって来ましたから。
 そしてその違いが分かったら、やっぱり僕だったんだって思えるようになりました。
 肩から力が抜けたように見えるんだったら、そのあたりのことが大きいんじゃありませんか?」
「参考までに、どう違っていて、どうして自分だと思えるようになったのか聞かせてくれないか?」

 目覚めて3週間、そして戻ってきてから2週間で、どうしてそこまで考えられるようになったのか。後藤の興味は、その一点に絞られていた。
 その疑問に、シンジは「とっても簡単なことでした」とシンジは笑った。

「以前の僕は、感情が抑制されていたんですよね。
 それに加えて、感情的に物を考える能力がなかったんです。
 だから、なんでも理性的に、ある意味機械的に物を考えていたんです。
 チェロを弾いていても、スケールとかは正確ですけど、機械が弾いているみたいに聞こえました。
 それが出来るだけ凄いと思いますけど、逆に言えばそれしか出来なかったんですよ。
 それ以外のこともそうなんですけど、決まったやり方しか出来なかったんです。
 そう言った目で過去の記録を見たら、彼の考え方がかなり理解できるようになりました」
「だが、彼は、何度も我々の勇気を奮い立たせてくれたぞ」

 それを考えると、思考から感情を排除しているようには思えない。自分の説明への疑問を口にした後藤に、「だから壊れたんですよ」とシンジは答えた。

「僕は、感情的になってはいけなかったんです。
 楽しいと思う行為への許容量が、以前の僕には殆ど無かったんですよ。
 遊んで楽しいとか、恋をして楽しいとか、そういった物への許容量がなかったんです。
 恋愛にしてもそうですね、心から人を好きになって、他の物を捨ててもその人だけを追い求める。
 そんなことが出来るような頭の中じゃなかったんですよ。
 やっちゃいけないことをしたから、僕は壊れてしまったんでしょう……
 どうしてそんなことをしたのか、その時の気持は、僕にも痛いほど分かりますから」

 そう言ったシンジは、「本当に酷いですね」と悲しそうに呟いた。

「“僕に”とって、初めての恋だったんだと思います。
 今まで感じたことのない思い、そして充足感、そんなものを堀北さんから貰ったんです。
 僕にとって、それはどんなに心地よくて、どんなに心が熱くなるものだったのでしょう。
 堀北さんのことが大好きで、もっと好きになるにはどうしたらいいのか。
 もっと堀北さんに好きになってもらうにはどうしたらいいのか。
 僕の中に、どう考えても理性的でない考えが大きな位置を占めるようになったんです。
 その時の僕の頭は、そんなことにとても耐えられるものではなかったのにです。
 だから堀北さんの事を好きになればなるほど、僕は壊れるしか無かったんです。
 その時の僕も、そのことには気がついていたんです。
 でも、一度火のついてしまった心は、破滅するまで走り続けてしまったんですよ」
「それが理解できたから、考え方が理解できるようになったのか?」

 直接結びつきそうにも思えなかったが、後藤はそれが答えなのかと確認した。
 そんな後藤に、「正確には違います」とシンジは笑った。

「ええっと、全く違うって訳じゃないんですけど。
 どうして、以前の僕がそこまで堀北さんのことを好きになったのかと言うことです。
 確かに堀北さんは綺麗ですけど、それだけでそこまでのめり込むと思いますか?
 それから、遠野先輩、鳴沢先輩も好きになりましたよね?
 その3人と、瀬名さんでしたっけ、その人とは大きな違いがあったんです。
 その違いが、とても僕には理解が出来たんですよ」
「3人と瀬名アイリとでは違っていた?」

 目を見張って驚いた後藤に、「そこが本質的な問題です」とシンジは答えた。

「瀬名さんと言う人は、作られた僕にとって相応しい恋人だったんですよ。
 綺麗で、スタイルが良くて、頭も良くて、家庭的で……
 初めは冷たかった子が、次第に打ち解けて親密になっていく……
 そんな子が身近に入れば、恋をしてもおかしくないと思いませんか?
 でも瀬名さんは、僕の心にまで踏み込んではこなかったんです。
 他人が恋しいくせに、近づかれると怖くて刺の付いた鎧を身にまとっているのが僕なんです。
 瀬名さんと言う人との付き合いは、その鎧越しの付き合いだったんですよ。
 だから、その時の僕は頭の中で色々と考えて付き合っていたと思いますよ。
 そして瀬名さんは、僕の纏った鎧に触れることもしなかった。
 まあ、触れるほどの付き合いをして居なかったというのが正解でしょうか。
 だから僕の纏った鎧は、強固なままで安定したんです。
 でも、遠野先輩や鳴沢先輩は、「暑いでしょう」と言って僕の鎧を脱がしてしまうんです。
 普通なら抵抗できるんですけど、あの人達の場合、気がついたら脱がされてしまったと言うか。
 考えてみたら、もの凄く危険な人なんですよね、あの二人……」

 そう言って笑ったシンジは、「だから好きになったんです」と後藤に言った。

「タイプは違いますけど、カヲル君もそんな人でした。
 人が恋しくて堪らないのに、それ以上に人が怖くて仕方がない時期があったんです。
 カヲル君は、そんな時に僕の前に現れたんです。
 そして怯える僕に向かって、怖くないからと言って鎧を脱がしていったんですよ。
 僕のことを好きと言って、僕から鎧を剥ぎとっていったんです。
 そして裸の心が表に出た所で、どうしようもないほど止めを刺してくれました。
 だからあの頃の僕は、違う意味で心が壊れて、TICを受け入れてしまったんです」

 黙って自分の話を聞く後藤に、「堀北さんは」と言ってシンジは言葉を続けた。

「堀北さんも、僕と同じ固い鎧を纏っていたんだと思います。
 長いこといた芸能界に裏切られ、学校では居場所がないとずっと思っていたんですよ。
 傷つくのが怖くて、元アイドルと言う鎧をまとって暮らしていたんだと思います。
 どうやってか知りませんが、以前の僕がその鎧を脱がしてしまったんですよね。
 そして鎧を脱がされた堀北さんが、今度は僕の鎧を脱がしてくれたんです。
 裸の心同士で結びついたから、僕は壊れる恐怖を忘れて堀北さんにのめり込んだんでしょうね。
 そうしないと、寒くて、怖くて、暖かみを感じられないから。
 遠野先輩達と違って、同じような怖がりだから、僕と堀北さんは強く結びついたんです。
 でも、僕にはそんなことをすることは許されていなかった。
 だから、僕は壊れて堀北さんを傷つけることになってしまった。
 後藤さん、今の堀北さんは周りのすべてが怖くて、もう一度固い鎧を纏ってしまったんですよ。
 だから、堀北さんから鎧を脱がした僕と一緒に居るのが苦しくなるんです。
 いくら鎧を纏っても、充足する喜びを知ってしまったんですよ。
 そして堅い鎧を着ていることが苦しくなってしまったのでしょうね。
 僕と一緒にいると、ふとしたことで鎧を脱ぎたくなってしまうんだと思います。
 だから一緒に居ることに、臆病になってしまうんでしょうね」
「君に、以前の君を見つけてしまうからか?」
「いえ、どちらかと言うと、期待をしてしまうからでしょうか」

 そう答えたシンジは、少し照れながら「自惚れじゃないですよ」と言い訳をした。

「今はまだ比べ物になりませんけど、僕は絶対に以前の僕に追いつけます。
 当たり前なんですけど、以前の僕は本当に色々なものを残していってくれたんですよ。
 置かれた環境、人間関係、その他もろもろ、鍛えられた体ってのもありますね。
 そして何より、彼は“想い”を僕に残していってくれました。
 それに、以前と違って周りの人たちは僕をやる気にさせてくれますよ」

 期待だけ勝手にして、それを果たしても褒めてはくれなかった。そしてさらに、勝手な期待を積み上げてくれた。その上少しでも逆らうと、人を人とは思わないような態度までとってくれたのだ。「メンタルケア」と言う言葉が笑い話になるほど、ネルフ時代は酷い環境に置かれていたのである。
 それに引き替え、同じように期待をされても、努力をすれば今はしっかりと回りも応えてくれる。この先理不尽なことが有るのかもしれないが、それでも自分で選んだ結果だと言うことが出来るのだ。そして頑張るだけの理由も残してくれたのだから、もう周りに文句を言うことも出来なくなっていたし、文句を言うつもりも無くなっていた。

「信じられないかもしれませんけど、僕は父さんとほとんど話をしたことが無いんです。
 そして後藤さんが話してくれたようなことを、父さんから聞かされたことは一度も有りませんでした。
 あの頃の僕だって、ちゃんと話をしてくれれば理解しようとすることも出来たんですよ。
 結局父さんやミサトさん、リツコさん、それにアスカだって何も話してくれませんでした。
 綾波にしたところで、父さんが信じられないのかとか、任務だからとしか言いませんでしたしね。
 「お前しか出来ないんだ」とかいきなり言われて、責任だけを押しつけられ続けたんです。
 そして「今は違うんだ」と思えるだけの物を、以前の僕が残してくれたんですよ。
 なにか、上からのしかかってきていた、重い物がなくなった気がしているんです。
 “妹”と話が出来るというのも、良かったのかもしれませんね」

 だから思いっきりチャレンジできる。そう答えたシンジに、後藤は少し気持ちが軽くなるのを感じていた。ただ一つだけあった小さな引っかかりに、そのことを確認することにした。

「君の妹のことだが、処置記録を見る限り特別な記憶操作は行われていない。
 なされたことと言えば、君と兄妹であるために必要な情報の植え付けだけだ
 だが今の話を聞いていると、かなり君の知っている綾波レイとは違って聞こえるのだが?」
「そうですね、全く別人と言っていいぐらい違っていると思いますよ。
 それがどうしてなのかは、さすがに僕には分かりませんけど……
 そもそも、今のレイと一緒に居たことは一度もありませんでしたし。
 そう言えば、一度だけ自分もヘラクレスへの適性があるんじゃ無いかって聞かれましたね。
 誰も乗せようとしていないんだから、たぶん無いんだろうって言っておきましたけど……
 一応、そう答えておけば良いんですよね?」

 レイに関わる問題は、二人の間で共通していると思っていた。だからシンジも、「それで良いのか?」と聞くことにしたのだ。

「確かに、今のところそう答えておいて貰うのが無難だろうな。
 君の配慮に感謝するよ」
「綾波がどんな存在だったのか、僕にも分かっていませんから……」

 記憶にあるのは、崩れていくレイ達の姿だった。ただその光景にしても、とても非現実的な、夢のような物としか思えなかった。そしてTICで作られた世界であったレイにしても、自分の知っているレイとはまったく違っていたのだ。だから何を持って、綾波レイと言えばいいのか、シンジにも答えることが出来なかったのだ。

「ただ、今のレイは本当に妹のように思えています。
 だから、こうして家族と一緒に居られるのが嬉しいんですよ」

 それもまた、シンジの心を落ち着ける役に立っているのだろう。「年相応」と言うとどこに基準を置くのか難しくなるが、年相応の子供の顔をして居るように後藤には見えていた。

「だから、僕は身の回りの物すべてを守りたいと思っているんです。
 妹と身を寄せ合って生きていく生活、学校生活やジャージ部で関わっている人たち。
 そして僕が残してくれた、頼りになる仲間達……
 その全部がとても愛おしくて、守っていきたいと思えるんです。
 そしてその延長上に、堀北さんとのこともあると思っているんですよ」

 そう口にしたシンジは、「格好付けちゃいましたか」と頭を掻いて見せた。

「そうだな、君が言ったことを実行するには、足りない物が多すぎるだろう」
「そうなんですよね。
 だから鋭意努力しているんですけど、先がまだまだ長そうです。
 僕が眠っていた3年間に追いつくには、かなり努力しないと駄目そうですね。
 しかも生意気なことに、その時の僕って結構優等生だったみたいですから。
 ちょっとやそっとの努力じゃ、まったく差が縮まってくれないんですよ」

 そう苦笑したシンジに、「そりゃそうだ」と後藤は同じように苦笑を返した。

「相手は、世界の英雄様なんだぞ。
 しかも学校での成績も、常にトップクラスという優等生だ。
 それを相手にするのに、3年のハンデはさすがに重すぎるだろう」

 後藤の決めつけに、「そうなんです」とシンジは肩を落として見せた。

「機能制限していたとしても、相手は僕なんですよね。
 能力的には同じぐらいだろうから、同じ事をやっていたら一生追いつけませんね。
 だからまあ、「前とは違うけど凄い」と言われる程度をとりあえず目指してみます。
 それだけでも、かなり難しいことだと思っていますから」
「確かに、難しいことこの上ないな……」

 何しろ、いくつか画期的な発見までしていたのだ。ここからのギガンテスとの関わりでは、これ以上のことをするのは不可能としか思えなかったのだ。だから同じ方面を目指さないことは理解できるのだが、だとしたら何で「凄い」と言わせてくれるのか。それもまた、とても難しいことに思えてしまったのだ。
 そう考えた後藤だったが、目の前のシンジからは少しも悲壮なところを見つけられなかった。それどころか、これからの事を楽しみにしているようにも見えていたのだ。

「だが、間違いなくいい顔をするようになったな」
「やっぱり、目標があるって良いことだと思いますよ。
 だから、頑張るのも楽しいと思えていますから。
 その辺りは、遠野先輩達の影響も大きいですけどね」

 まったくジャージ部と言うのは万能薬だ。シンジの言葉に、後藤はますますその思いを強くしたのだった。



 台東市は、台湾の東南に地位する小さな都市だった。東に太平洋、西に中央山脈に塞がれ、平地に乏しい街でもあった。そこには、周辺地域を含めて、およそ20万人の人々が暮らしていた。太平洋を見れば、青い海と珊瑚礁のある、美しい街でもあったのだ。
 その海岸線に、日本から出撃した16体のヘラクレスが並んで立っていた。そこに中国の機体が加わらなかったのは、双方にある複雑な政治情勢も理由となっていたのである。

 予定通り2時間前に到着したアサミは、「失敗したかな」と反省をしていた。アクシデントで遅れてはいけないと言う強迫観念が、時間の使い方をしくじることになってしまったのだ。2時間という中途半端な待ち時間のせいで、緊張感の維持が難しくなっていたのである。いくら危険な任務でも、否、危険な任務だからこそ、長時間緊張を維持するのは難しかったのだ。
 だからと言って、ここで緊張を解くのも無理な相談という物だった。待機している玖珂達を含め、この戦いの意味が大きいと考えていたのである。それはマドカ達も同じで、今までに無い緊張感を抱いていたのである。

「玖珂さん、いつもこんなにぴりぴりとした空気なんですか?」

 迎撃現場から少し離れた前線基地で、シンジはぴりぴりとした空気に当てられていた。重要な戦いを前にしているのだから、全員が緊張するのは仕方が無いと思っていた。だが自分だったら、2時間もこんな状態は続けられないと思っていたのだ。だから「いつもこうなのか?」と言う質問に繋がったのである。
 そしてシンジの質問に、玖珂は固い表情で「普段と違う」と答えた。

「確かに、今日はいつも以上に緊張していると言っていいだろう。
 そう言っておいてなんなのだが、私自身今までに無く緊張していると思っている」
「緊張する気持ちは分かりますけど……」

 自分と言う大黒柱を欠いて臨む、初めての戦いなのである。普段通りの力を出せば乗り切れると分かっていても、本当に大丈夫なのかと不安に思っても仕方が無かったのだ。その不安が、戦いに対する緊張感を高めている。そしてこのことも、自分に残されたメッセージに含まれていることだった。
 それを実際目の当たりにしてみて、こう言うことかと納得したのである。

「サンディエゴとかはどうしているんです?
 確か、あちらも近いところが襲撃ポイントになっているんですよね?」
「サンディエゴか……
 うちよりも早く、現地に入っているな。
 確か、アテナから眠かったら、現地で仮眠をとれと言う指示が出ているな」
「アスカらしいですね……」

 戦場に来て仮眠をとれる神経があるのかと考えると、さすがに難しいとシンジは言いたかった。だが過剰に緊張することが駄目なのは、今の状況を見れば理解することが出来た。さすがに今から「寝たら」とアドバイスも出来ないので、シンジは別の方法を考えることにした。この辺り、危険性は教えてくれたが、どうしたら良いのかは自分で考えろと突き放されていたのだ。

「だったら玖珂さん、みんなに通信をつないで貰えますか?
 激励と言うか、ちょっとリラックスさせられないか試してみますから」
「リラックス……ですか?」

 戦いが迫っていることを考えると、本当に良いのかと玖珂は考えてしまった。だがシンジに大丈夫ですよと保証されれば、本当に大丈夫のような気もしていた。その辺り、これまでの実績に加え、使徒戦の経験者と言う意識も働いていたのである。

「では、通信を接続する準備をします」
「よろしくお願いします」

 そう言ってお願いをしたシンジは、前線基地に設置された画像通信システムの前に陣取った。そしてカメラをのぞき込むように、顔をレンズへと近づけた。

「碇さん、接続しますからカメラから離れて貰えませんか?
 そのままだと、相手には目の辺りのアップ映像が送られてしまいます」
「わざとやっていますから、構わずにつなげてください」

 そう言われれば、玖珂は黙ってつなげるしかなくなる。本当に良いのかと考えながら、玖珂はスタッフに強制接続を掛けるように命令した。

「では碇さん、接続します」
「はい、お願いします……って、これで繋がっているのかな?」

 本来必要ないのだが、シンジは少しカメラから離れて、レンズを調整する真似をした。そしてもう一度レンズをのぞき込んで、「繋がっているんですか?」と質問した。

「はい、繋がっています。
 たぶん、パイロット達には碇さんのアップが送られているはずです」
「大丈夫なんですね。
 じゃあ、せっかくだから、リラックスするための応援でもしましょうか」

 この辺りのやり方は、前の自分が残したメッセージを真似した物だった。ここで意表を突くことを、話のつかみと考えたのである。
 レンズから離れたシンジは、「さて」と向こうに居る仲間に向かって語り始めた。



 緊張が辛いと感じていたのは、何もアサミだけでは無かった。普段は元気印のマドカも、いつもと違う緊張状態に、じりじりと焦燥する物を感じていたのである。だが、この場において、何をしたら良いのかマドカも分かっていなかった。

「いつもって、どうしていたんだろう……」

 今までの戦いを、こんな気持ちで迎えたことは無かったはずだ。もしも近い物を探すとしたら、ブルックリン南の戦いぐらいだろうか。あの時もナルと二人、緊張と恐怖にじっと耐えていたのだ。

「そっか、碇君が居ないからか……」

 シンジが居れば、戦いに恐怖を感じることは無かった。困難な戦いを前に、こんなに緊張することは無かったのだ。戦いの前には、必ずシンジが「大丈夫」と声を掛けてくれていた。たったそれだけのことで、リラックスして戦いに臨むことが出来たのだ。
 だがそのシンジも、もうこの世界には居ない。その事実が、自分を含めた全員に恐怖を感じさせ、酷い緊張感を感じさせているのだろう。

 駄目だなとマドカが頭を振ったところで、目の前のインディケーターが赤く点滅を始めた。

「あれっ、何か連絡があるのかな?」

 おかしいなとモニタを注目したら、いきなりシンジのどアップが映し出され、マドカは思わずのけぞってしまった。

「な、何をやっているのよっ!」

 予想外のことをしすぎると、マドカはモニタに映ったシンジに文句を言った。通話ボタンが押されていないので、残念ながらシンジには聞こえていなかったのだが。

「ええっと、この通信は皆さんに届いているはずですね。
 ギガンテスとの戦いまで、まだ1時間以上残っているます。
 こちらは退屈で仕方が無いので、少し皆さんにお付き合いして貰おうかと思っています。
 ああ、邪魔だと思われたら、遠慮無く通信を切っていただいて結構ですよ。
 接続は強制でやりましたが、それ以降は自由に切れるようになっていますから。
 ああっ、だからと言って、堀北さん、いきなり切らないでくださいっ!」

 そこで心底情け無さそうな顔をしたシンジは、「玖珂さん」とお願いをして再度アサミとの通信を接続した。

「はい、堀北さんも再接続しました」
「自由に切って良いって言いませんでしたか!」

 すかさず聞こえてきたアサミの文句に、シンジは勝ち誇ったように「言いましたよ」と言い返した。

「だけど、再接続しないとは言っていませんよね?」

 そのやりとりに、マドカはお腹を抱えて笑ってしまった。

「碇君って、結構やってくれるわね」
「そうそう、お姉さんもちょっと意外だったかな」

 自分の言葉に合わせるように、スピーカーからナルの言葉も聞こえてきた。

「それで碇君、何か話したい事でも有るのかな?」
「遠野先輩ですね、それがですね、特に話したいことって無いんですよね。
 しかも、こんなところでわざわざ話すような話って……」

 そこで少し為を作ったシンジは、「そう言えば」と右拳で手を打って見せてくれた。

「遠野先輩、そこから綺麗な海は見えますか?」
「綺麗な海って……おおっ、本当に綺麗じゃん!
 ねえねえナルちゃん、青い海に珊瑚礁がきらきら光ってるよ!」
「本当だ、白い砂浜がとっても綺麗ね」

 二人に言われて、他のパイロット達の注意も珊瑚礁の海に向けられるようになった。そこで漏らされたため息に、シンジは自分の作戦が成功したのだと考えた。そして目の前の海も分からないほど、全員が緊張していたのだと同時に知ることが出来た。
 そしてそれと同じ事は、カメラの後ろで聞いていた玖珂も感じていた。リラックスの必要性に懐疑的な物を持っていたのだが、今のやりとりで必要なことだと理解できたのだ。目の前の海も見えないようでは、まともに戦えるとは思えなかったのだ。

「今日は駄目ですけど、明日の朝なら日の出を見ながら海に入ることが出来ますよ」
「いやぁ、さすがにそれは無いっしょ!
 それに明日は、月曜だから学校に行かないといけないわよ」

 サボるのはいかがなものかと返したマドカに、「何とでもなります」とシンジはすかさず言い返した。

「生徒会長が良いって言うんですから、みんな公休扱いに出来ますよ。
 当然、バックアップの皆さん、ええっと、女性限定ですけど、ご一緒して貰おうかなって」

 そのお誘いに、通信機からは歓迎する歓声と、不満を示すブーイングが聞こえてきた。それを誰がしたのかなど、今更説明する必要も無いだろう。

「碇君、アサミちゃんが聞いているのにそんなことを言っていいの?」
「大丈夫です、堀北さんにはもう一度通信を切られていますから。
 ああっと、だから今のことはチクらないでくださいねっ」
「俺たちをハブっておいて、それが通用すると思っているのかっ!」
「ええっと、衛宮さんでしたっけ。
 そんなことを言うと、もっとハブってあげますけど良いですか?」

 ふふふと邪悪に口元を歪ませたシンジに、衛宮はすかさず「ごめんなさい」と降伏した。ここで下手に逆らうと、本当に肝心なときに誘って貰えなくなる可能性がある。この先おいしい目に遭うためには、多少の譲歩も必要だと考え直したのだ。

「と言う事で、明日は衛宮さん達もご一緒できると良いですね。
 ただ皆さんに注意をしておきますが、目の前の海がぐちゃぐちゃになったら無しになりますからね」
「ぐちゃぐちゃにならなくても、ギガンテスの死骸が転がっているんじゃないの?
 そんなところで海水浴って、あんまりぞっとしないわね」
「鳴沢先輩、鋭い突っ込みをありがとうございます。
 と言う事なので、戦場を広げないようにも注意してください。
 これだけ海岸線があれば、ギガンテスが見えないところだって有りますよ。
 と言う事なので、堀北さんに強制接続を掛けますっ!」

 もう一度「玖珂さん」と声を掛けたところを見ると、アサミへ再接続を掛けたのだろう。

「ええっと、備え有れば憂い無しとも言いますから、いざという時の決め事をしておこうと思います。
 いざという時のために、僕が誰の機体を使うのか決めておきたいと思います。
 そこで一つ提案なんですが、女性限定ですがタンデムで乗ろうと思っています。
 タンデムでもちゃんと動くことは、過去の戦いで経験済みだから大丈夫ですよ!
 さあ、我と思う方は立候補してください!」
「おおっ、碇先輩とのタンデムかっ!」

 一番最初に、キョウカが反応してきた。

「篠山さんが一番乗りかな?」
「ずるい、それに篠山さんは主力組だから戦場から離れちゃ駄目でしょう!」
「そうそう、機体を渡すのはバックアップ組の仕事なんだからね!」
「そうは言うが、今回はおれの仕事はほとんど無いんだ。
 だったら、碇先輩とタンデムをしてもおかしくは無いだろう!」
「でもぉ、それって私達の役目だと思うわよっ!」

 餌の効果か、女性パイロット達の間で、「自分が」と言う自己主張が飛び交った。そして男性パイロットからは、「碇ぃ」と言う怨嗟の声が上がっていた。ただその反応を見る限り、シンジの意図したリラックスさせると言う目的は達成できたようだった。
 それでも、これではまだ不足だとシンジは考えていた。ユイとアキラは仕方が無いとしても、アサミが一言も口を挟んできていないのだ。切断されていないことは分かっているので、今の話もアサミの耳に届いているはずだった。ここでアサミが文句、もしくはそれに類することを口にして、自分の目的が達成できるとシンジは考えていた。

 そしてシンジが期待したアサミの反応が、予想通りとても冷たい言葉で発せられた。その一言で、盛り上がっていた空気がいきなり盛り下がったぐらいだ。

「私は、絶対に出撃させませんと言ったはずです」
「だから、僕もこんな馬鹿なことを言っていられるんだよ。
 堀北さんが「絶対」と言ったんだったら、絶対に僕が出撃することは無いと思っている。
 僕は、堀北さんのことを信用しているからね」

 そう言って微笑んだシンジは、「そろそろ時間ですね」と時計を見る真似をした。

「堀北さんが、絶対に大丈夫だと保証してくれました。
 そして僕も、堀北さんが言う通り、もしもと言う事も無いと思っています。
 だから皆さん、普段通り思い切って戦ってください。
 黙って聞いていた高村さんに大津君、今日活躍すれば君達もヒーロー、ヒロインの仲間入りだよ。
 堀北さんや遠野先輩、鳴沢先輩がお膳立てしてくれるから、思い切って戦えば良いだけだ」

 「だから頑張って」そう二人を激励したシンジは、「頼りにしています」とマドカとナルにも声を掛けた。

「先輩達の凄い所を、少し離れた所で見させてもらいます」
「よぉし、お姉さん達の凄いところを見せてあげよう!」
「でも、あんまりお姉さん達を乗せると、碇君の戻ってくる場所がなくなるからね」

 そう言って笑ったマドカとナルの二人に、「それは困ります」とシンジは真剣に困った顔をしてみせた。

「出来たら、僕が戻る場所を少し残しておいてくれると嬉しいんですけど」
「そのあたりはぁ、碇君の心がけ次第なんじゃないかなぁ」

 よしよしと頷いたマドカは、全員に向かって「がんばろー」と声を掛けた。

「ユイちゃんとアキラくんも、今日は活躍する所を作ってあげるからね。
 それから衛宮君達も、街を守る役目の他にも活躍させてあげるからね。
 ちゃんと、私達の戦いを見ていてね」

 マドカの言葉に答えるように、バックアップ組から「おー」と言う声が上がった。その反応を見る限り、がちがちの緊張状態からは解放されたようだった。

「つーことで、アサミちゃん全体指揮をお願いね」
「私は、いつも通りやるだけです」

 そして全員が盛り上がる中、アサミ一人が表情が固いままだった。ただ、緊張だけが理由ではないので、マドカはそのことには触れなかった。

「碇君のお陰で、とても私達らしく時間を過ごすことが出来たわ。
 ギガンテスとの戦いまで、あと30分になったからね。
 みんな、気を抜かず、そして緊張し過ぎないように頑張ろうね!」
「碇君が悔しがるほど、完璧な戦いをしてみせるわよ!」

 そう言って鼓舞したマドカとナルに、アサミを除く全員が「おー」と声を上げて答えた。その様子を見る限り、この戦いも無事に終わりそうに思えるようになっていた。

 すでに、シンジは全員との通信から外れていた。ここまで気分を高揚させたのだから、自分の役目は終わったと考えたのである。そしてそんなシンジに、玖珂が声を掛けてきた。

「碇さん、これが碇さんの狙いですか?」

 パイロット達の緊張が解けたことは、通信を聞いていれば理解することが出来た。そしてこの状態は、いつもの雰囲気に近いものになっていたのだ。だから玖珂は、シンジがそれを狙ったのだと考えた。

「そうですね、ガチガチに緊張するのは良くないと思いますから。
 僕も、何も分からず緊張していて、結局何も出来なかったことがありますから」

 まさかいなくなった自分からの助言というわけにもいかず、シンジは経験からだと答えた。そしてその答えは、玖珂を大いに感心させた。

「なるほど、ご自身の経験からの助言ということですか」

 「素晴らしいですね」と称賛した玖珂に、「まだまだです」とシンジは自分の至らない所を口にした。

「僕は、本当はこんな所にいちゃいけないんです。
 僕が不甲斐ないから、堀北さんに重い責任を背負わせてしまいました。
 だから僕は、一日でも早く向こう側に行けるようにしたいと思っています」

 それが自分の居場所なのだ。スクリーンに映ったヘラクレスの姿を見つめ、シンジは「あそこに行きたいんだろう」と自分に語りかけた。その視線の先にあったのは、アサミの乗ったヘラクレスだった。
 作戦開始予定時刻まで、残す所30分となっていた。アメリカでは、アスカたちが1時間早く戦いに入っている。アスカの実力は分からないが、5体程度のギガンテスならば、もはや敵ではないと思っていた。

 アスカとカヲルの二人については、記憶操作されていると聞かされていた。それでももしも会うことがあれば、「帰ってきたよ」と声を掛けようと思っていた。あの時と違って、今度は自分の意思でヘラクレスに乗っている。そして自分の意思で、大切な人達を守ろうと思っているのだと。

「アサミちゃん、大好きだよ……」

 誰にも聞こえない小さな声で、シンジはモニタに映ったアサミに語りかけたのだった。







続く

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