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 ドタバタの一夜が明けた朝、初詣に行くためマドカ達全員シンジの家の前に集合していた。なぜシンジの家の前かと言うのは、待ち合わせ場所を指定しても分からないだろうと言う親切心からである。もっともレイが付いているのだから、ただ単にその方が集まりやすかったと言うのが本当のところだろうか。
 シンジの家の前に集まったのは、オリジナルの4人に、ユイとアキラを加えた6人だった。花澤は、全国ツアーが始まったという事で欠席になっていた。

 時間を見れば、朝の9時を過ぎていた。そこにシンジは、とても眠そうな顔をして「おはようございます」と言って現れた。
 ちなみにその時のシンジは、ざっくりとしたベージュのセーターに、ぴっちり折り目の付いた紺のスラックスだった。初詣と言うこともあり、それなりにいい格好をしたということである。そして遅れて出てきたレイも、シンジとお揃いのセーターに、紺と緑のチェック柄のスカートを穿いていた。着物を着ていないのは、碇家には晴れ着が一着もないと言う理由からである。
 一方集まったジャージ部の女性達は、いずれも振袖姿だった。その辺り、全員が前日の約束を果たしたとことになる。「見せたかった」と言うのが、一番強い気持ちだったのかもしれない。

「なんか、一緒に行きづらい状況ね……」

 晴れ着の中に、女性としてただ一人レイだけが普段着なのだ。それを考えると、文句の一つも言いたくなると言うものだ。
 ただ、行きづらいと言っても今更いかないと言う選択は出来ない。兄とのペアルックと言う事で、とりあえず我慢して初詣に行くことにした。

「ところで碇君、私達に言うことはないの?」

 せっかく晴れ着を着て集まったのだから、お約束とは言え一言欲しいものだ。女性陣を代表したナルは、シンジに対して褒め言葉を要求した。シンジのために全員が晴れ着を着てきたのだから、それに応える言葉があってしかるべきだというのである。

「え、ええっと、皆さんとても良く似合っていますね……」

 覚悟はしていたが、シンジは少女達の艶やかさに圧倒されていた。その様子に「よし」と拳を握ったマドカは、「レイちゃんレイちゃん」とレイを手招きした。

「ここは、気を利かせてあげましょう」
「でも、別々に行動するのは良くないと思う……」

 晴れ着を見せるためだけに集まったのではないのだから、一緒に神社に行くべきなのだ。それを主張したレイに、「それぐらい分かっている」とマドカは笑った。

「二人には、後ろから付いてきてもらえばいいでしょう?
 たぶん、色々と話すこともあると思うし……」
「きっと、そうなんでしょうね……」

 今までなら、「当てられたくない」と言うのが理由になるはずだった。だが今の兄とアサミでは、背中を掻き毟りたくなる空気が醸し出されるはずがない。昨日の今日と言うこともあり、「話をする」と言うのは、極めて適切な理由だった。世間体を気にしたときも、二人が一緒に歩いている必要があった。

「じゃあ碇君の面倒はアサミちゃんに任せるからね。
 私達にはぐれないよう、ちゃんと付いてくるのよ」

 「レッツゴー」と合図をして、マドカとナルが先頭で歩き出した。そしてその後ろに、ユイとアキラが続き、その後ろをレイとキョウカが並んで歩いた。横に広がらなかったのは、周りの迷惑にならないためと言う、極めて優等生的な考えからである。

「じゃあ先輩、一緒に行きましょうか?」

 そう言って右手を差し出され、シンジは恐る恐るその手をとった。一晩たったせいで、前の日の激情は影を潜めている。しかも自分からのメッセージを見たため、抱えきれないほどのプレッシャーを感じるようになっていた。当然だが、手をつなぐ事への羞恥心も抱いていた。

「先輩のメッセージを見たんですか?」

 シンジの様子に、アサミは残されたメッセージを見たのだと推測した。そしてその推測は、硬い表情でシンジが頷いたことで肯定された。

「意外と早かったですね」
「ま、まあ、色々とあったから……」

 その辺り、湯あたりのドタバタとか、恥ずかしくて話せないことがきっかけになっていた。それもあって、シンジは、理由については言葉を濁した。

「でも、よく分かったね……」
「人間観察は得意中の得意なんですよ。
 だから、昨日との違いにピンときたんです」

 そう言って自慢されると、ますます凄いと尊敬してしまった。しかも晴れ着も、もの凄くよく似合っていた。美少女揃いのジャージ部でも、ひときわ華やかなのがアサミだったのだ。その隣に自分を並べてみると、どう考えても釣り合いがとれるとは思えない。恥ずかしいことと合わせて、シンジはアサミの顔を見ていられず顔を逸らしてしまった。
 しかもアサミは、自分の残したメッセージのことを知っていた。そうなると、どこまで中身を知っているのかが気になってしまう。

「ほ、堀北さんは、メッセージの中身を知っているの?」
「いえ、先輩からは教えてもらっていませんよ」

 それを聞いたシンジは、安堵からほっと胸をなでおろした。ただアサミの前でそんな真似をすれば、すぐに変化を悟られることになる。シンジの顔をのぞき込んだアサミは、「何か恥ずかしいメッセージがありましたか?」と探りを入れてきた。

「い、いやっ、普通に励ましのメッセージとか、これからどうしたらいいのかのアドバイスだったよ」

 中身を知らないのなら、ここは何もなかったことで押し切る他はない。その覚悟の元、何も無いとシンジは言い切った。ただその覚悟は、アサミの前では意味の無い物だった。

「先輩も、自分には優しかったということですね。
 きっと、昔の観察記録のことを持ちだしていると思いました」
「し、知っているのっ!」

 予想外のことに、シンジは大きな声を出してしまった。よりにもよって、自分の一番恥ずかしい部分をアサミが知っているのだ。穴があったら入りたい、シンジは顔から火が出るかと思ってしまった。
 だがアサミにしてみれば、騒ぐほどのことでも無いと思っていた。

「知っているも何も、タブレットのデータは先輩と一緒に確認しましたからね。
 そこで一緒に過去の戦いを分析して、これからにどう活かすかを相談したんですよ。
 お陰で、先輩の生い立ちから、ご両親のことまで知っていますよ」
「知ってるんだ……」

 そこまで知られていると言うことは、自分の情けないところを知られていることになる。「終わった」と言う思いに、シンジはがっくりと肩を落とした。
 それを見たアサミは、考え過ぎと笑い飛ばして見せた。

「知ってますけど、大変だったんだなぁと思った程度ですよ。
 だから先輩も、あまりに気にすることはないと思います。
 大切なことは、先輩がこれからどう生きるのかと言うことだと思いますから」
「だけど、僕にとっては消し去りたい過去なんだよ……」

 そう零したシンジに、アサミは小さくため息を吐いて「だめだめですね」とシンジに言った。

「誰にだって、消してしまいたい過去なんて一つや二つありますよ。
 もちろん私にだってありますし、遠野先輩達にだってあるんですよ。
 でも、絶対に過去は消せないし、消してはいけないものだと思っているんです」
「堀北さんの消してしまいたい過去?」

 そんなものがあるのかと驚いたシンジに、「誰にでもありますよ」とアサミは繰り返した。

「ただし、まだ教えてあげるわけにはいきませんね。
 私はまだ、先輩の恋人になっていませんからね。
 誰にも渡したくないと思うほど、先輩のことを好きにさせてくれるんですよね?」

 昨日のことを持ちだされ、シンジは顔を赤くして黙ってしまった。勢いから吐き出されたその言葉も、いつか消してしまいたい過去になることだろう。
 ここで黙られれば、シンジの考えていることなど手に取るように分かってしまう。そしてその理由が、残されたメッセージにあることも分かっていた。自分からのアドバイスには、普通なら反発してしまうことになるだろう。それを受け入れると言うことは、そこにはそれなりの理由があると言うことだ。

「アドバイスを聞いて、勝てないと思ったんですか?」
「正直、凄すぎると思ったよ。
 これからの戦いについての分析、それから僕にしてくれたアドバイス。
 とてもじゃないけど、今の僕が敵う相手じゃない」

 自分の凄さを認めたシンジは、「ただ」と言葉を続けた。

「それでも、いつか絶対に超えてみせる。
 いや、すぐにでも超えてみたいと思うんだけど……
 僕には色々と足りないものがあるのを思い知らされたよ。
 違うか、本当に足りないものだらけなのを教えられたよ。
 だから、超えるための足がかりとして一つ一つ追いついてこうと思うんだ」
「良かった、一応前向きに捉えることが出来たんですね」

 観察記録にあるシンジだと、ここでいじけて終わってしまう所だった。ほっとしたアサミに、「一つだけ勝っていることがあるから」とシンジは打ち明けた。

「僕には、彼には与えられなかった時間があるんだ。
 それに、彼が出来た以上、僕には出来ないなんて泣き言は言えないだろう。
 だったら、自分を信じてやってみるしか無いと思うんだ……」

 その答えは、アサミの予想した範囲のことだった。ただそれに安住して貰っては困るので、ちょっとだけねじを巻くことにした。

「でも、時間があるなんて油断していてはいけませんよ。
 先輩が居なくなって、私はもの凄く落ち込んでいるんですから。
 それに、先輩分が補給できなくて、もの凄くストレスが溜まっているんですよ。
 他の人で補えたら楽なのにって、たまぁに思うことがあるぐらいです」

 つまり、「いつか」などと気の長いことを言っていると、他の人に乗り換えると言ってくれたのだ。その辺り、シンジに指摘されたのと同じ事を言われたことになる。しかも本人から言われれば、余計に危機感を抱いてしまうものだった。
 だが、アサミにはそれを言う権利があるのは分かっていた。愛する人が、自分の目の前で壊れてしまったのだ。その悲しみは、想像に絶するものに違いない。なまじ同じ顔をした自分が居るだけに、ストレスが溜まるというのも納得ができるのだ。そして「いくら同じ」と言っても、今までどおりである理由はなかった。

「でも、先輩が何を見せてくれるのかは楽しみですね。
 とりあえず、それで先輩分を補給したことにしてあげます」
「とりあえず……か」

 それに文句を言えないのは、乗り越えるべき壁の高さを思い知らされたからに他ならない。残されたメッセージに、それだけ自分の凄さを思い知らされたのだ。だから今は、それで我慢しておくしか無い。相手にしてもらえるうちに、何とか変えてみせると考えていたのだ。



 重要人物の動向だから、シンジのことは細大漏らさず後藤に伝えられていた。当然「湯あたり」と言う微笑ましい出来事も報告されていた。そして今日の初詣も、報告書とともに後藤に伝えられていた。

「とりあえず、無事一晩乗り切ったってところかしら。
 その辺り、さすがはジャージ部と言うところね」

 同じ報告書に目を通した神前は、「さすがね」と万能薬「ジャージ部」の存在に感心した。ここに押しこむことで、自動的に子供の抱えていた問題が解決されていくのだ。碇シンジに始まり、堀北アサミ、篠山キョウカとその効能が示されてきた。更には高村ユイ、大津アキラと仲間が増えていったのだ。そして再び、碇シンジへとジャージ部の効能が戻ってきた。胡散臭いカウンセラーなどより、よほど効果的だと思えてしまったほどだ。

「遠野達先輩二人の前向きさと、堀北アサミが居たのが大きいだろう。
 遠野と鳴沢は、本当に裏表の無い性格をしているからな。
 あの二人に「大丈夫」と言われれば、本当に大丈夫になった気持ちになれる。
 大人の汚さを知っている彼にしてみれば、あの二人の態度には救われることだろう」
「じゃあ、堀北アサミは?」

 先輩二人に裏表が無いと言うのなら、思いっきり裏表のある堀北アサミはどうなのか。一応答えは分かっているが、それでも神前はその答えを後藤に求めた。

「対象Iとしての碇シンジにとって、彼女は憧れのアイドルだ。
 そのアイドルが、本当に手の届くところに降りてきてくれたのだぞ。
 彼女に優しくされたら、男として彼が発憤しないはずが無いだろう。
 以前の自分に対して、競争心を抱くのもきわめて自然なことに違いない。
 そして以前の彼には通用しなかったことが、今の彼には十分以上に通用している。
 それぐらいのことは、堀北アサミが一番理解していることだ。
 しかも彼女は、誰にも見抜けない演技をすることが出来る。
 今の碇シンジを踊らせるのは、彼女にとってとても造作も無いことだろう」
「女の怖さそのものね……」

 遠野マドカと鳴沢ナル、そして二人とは対照的な堀北アサミの存在。それを考えると、ジャージ部というのはとても特殊な場所だと言うことが出来るだろう。その環境に対象Iを押し込めたのは、これもまた奇跡と言っていいことに違いない。まだツキは自分たちを見放しては居なかった。順調な滑り出しに、神前は天に感謝したほどだった。

 ふっと笑った神前は、これからのプランを後藤に確認した。碇シンジの症状については、原因不明の記憶喪失で押し通すことになっていた。そのあたり、過去の問題を覆い隠すという理由が一番大きかった。そして真実の公開は、時として誰のためにもならないことが多かったのだ。今度のことにしても、真実を公開したところで、問題の解決には少しも役立ってくれないだろう。
 だから事実の隠蔽は、必ずしも不適当なこととは言えなかったのだ。ただ英雄を失った痛手からの挽回を考えないと、世界が再び暗黒に向かってしまうことになりかねなかった。そのための手段は、何手も先を読んで考えておく必要があった。

「で、次の一手はどうするの?」
「そのあたり、堀北アサミと碇シンジが何を残したかによるのだが……」

 堀北アサミやジャージ部の意向を無視すると、迎撃態勢に深刻な問題を引き起こしかねない。その意味で、彼女達の考えを無視して行動することは出来なかった。そしてもう一つ、彼に対して残された遺言も問題だった。間違いなくこれからの碇シンジに多大な影響を与えるし、その中身によっては迎撃態勢にも深刻な影響を与えかねなかったのだ。
 すぐにでもヒアリングをしたいところだが、現時点で基地関係者が顔を出すのは微妙な問題になりかねなかった。パイロット登録は解除されていないとは言え、相手はまだ“回復していない”状態なのだ。ここで下手を撃つと、ジャージ部のご機嫌を損ねることになりかねなかった。

「じゃあ、理想的な展開はどうなの?」
「彼が、前向きに歩き出してくれることが一番だな。
 もちろん、すぐに元通りになってくれれば言うことは無い。
 ただ、挫折から立ち直る姿を世間に示すだけでも、空気という奴はがらりと変わってくれる。
 少なくとも、それだけで半年は乗り切ることが出来るだろう」
「彼が前向きに歩き出す姿って……つまり、復興に重ね合わせようと言うこと?
 確かに、ストーリーとしてはできすぎだものね」

 世界を絶望が覆い隠していたとき、碇シンジは希望の光となって輝いて見せた。そしてその光に導かれ、世界はギガンテスの闇を打ち払い、光溢れる世界へと歩き始めたのである。そして病に倒れた希望の光が、再び自分の足で歩き始めようとしている。民衆向けの宣伝として、確かにできすぎたストーリーに違いなかった。

「3年間の記憶を失うと言う“大きな病”を患ったのだ。
 だから世界は、そこからの復帰を祝い、再び歩き出そうとする彼を応援するだろう。
 そして碇シンジを支える恋人や仲間の存在を、美談として扱うことになる。
 たとえまやかしの美談でも、人々を前向きな気持ちにはしてくれるだろうな」
「それが、あなた達の考えたシナリオと言うことね」

 これからのシナリオとして、後藤の説明は納得のいく物だった。確かに、空気と言う不確かな物に対して、とても効果的に働いてくれるだろう。ただその時の問題は、ギガンテスによる被害が発生しないことだった。それにしても、軽微な物なら我慢することも出来るだろう。ただ被害が深刻な物となったとき、誰もが迎撃態勢の弱体化に気づくことになる。
 そして再度過去の亡霊が襲ってきたとき、本当に英雄が居なくて乗り切ることが出来るのだろうか。残念ながら、それがまったく未知数だったのだ。

「それで、半年乗り切った後はどうなるの?」
「むしろ、そちら方が問題なのだが……」

 いつまでも、期待だけで周りをごまかすことは出来ない。それを考えると、半年後にはマドカ達を超える戦力になってくれないと困るのだ。最低でも西海岸のアテナ達の水準になれば、時間を稼ぐことが出来るはずだった。ただ、その道筋だけはまったく見えていなかった。

「本人が希望しない限り、パイロットとして扱うことが出来ないんだ。
 だから、今の時点であれこれ口出しをすることが出来ない。
 それに、色々と遺言が残されているはずだから、こちらが余計なことを言えば混乱することになる。
 そのあたりについては、堀北アサミと相談する必要があるだろう」
「言っていることは分かるけど。
 ……なんか、高校生に頼りっぱなしって情けなくない?」

 碇シンジが健在なときには、碇シンジに。そして不在となった今は、堀北アサミに頼っているのだ。それを情けないと指摘したくなるのは、無理もないことだった。
 後藤にしても、同じようなことは考えていた。だがどう頑張ってみても、主導権を取り返すことが出来ないのだ。政治的な面で長けていても、ギガンテス迎撃ではどう頑張っても高校生に敵わない。ようやく通常兵器による迎撃スキームが出来上がってきたのだが、それにしても高校生が考えだしたものだったのだ。そして高校生の考えた以上のことが、未だ誰も成し得ていないと言うのも問題だった。

「……情けなくはあるが、それは日本だけの問題じゃないだろう」
「まあ、ギガンテス迎撃に関して言えば、かつてのチルドレンに依存しているのよね。
 そう言う意味では、堀北アサミは特別な位置に立っているとも言えるわね」

 西海岸のアテナ、砂漠のアポロン、そして「英雄」と言われる3人は、いずれもチルドレンとして登録されていた子供だった。一人アポロンは微妙な所はあるが、早くからネルフに関わっていたことは確かなのだ。
 それに引き換え、堀北アサミはアイドル俳優でしか無かった。そのアイドル俳優が、今やギガンテス迎撃の屋台骨を支えようとしている。「特別」と神前が言うのも、あながち間違いではなかったのだ。

「特別か……確かに特別には違いないのだが。
 あくまで、碇シンジが彼女の才能に目をつけた結果の特別さだと思われる。
 そう言う意味では、遠野マドカ、鳴沢ナルの二人も特別だと言えるのだ」
「あの二人が……ああ、確かにそうかもしれないわね」

 普通にしていると忘れがちなのだが、二人の同調率が際立って高いというわけではない。レベルから行けば、他基地の主力組と同じくらいというところだろうか。その二人が、あろう事かアテナやアポロンに並ぶ破壊力を示しているのだ。他基地の水準を考えると、特別と言っても間違いではなかった。
 ただその特別さも、碇シンジが育てたものだと言うことが出来る。

 そうやって考えると、すべてが碇シンジへと帰ってくることになる。それを認めた神前は、後藤の前で小さくため息を吐いた。

「こうやって改めて考えてみると、本当に彼って特別だったのね」
「ああ、碇シンジが居なければ、今頃世界が終わっていたのかもしれない。
 そう言う意味では、あの時早まった真似をしなかったことに感謝する」
「早まった真似……後顧の憂いをたつべしと言う主張のことね。
 言われてみれば、よく踏みとどまってくれたわね」

 TICから復帰したとは言え、世界は無事とは言い難いものだった。しかも復讐の相手が誰も残っていないとなれば、唯一残った碇シンジにその目が向けられるのも当然の成り行きだった。その状況で彼の命が守られたのだから、神前が「よく踏みとどまった」と言うのも当然の事だった。

「結局、誰が彼を守ったんだっけ?」
「誰がって……誰だった、いや、確か誰かが守ったはずなのだが……」

 混乱の中にあったとは言え、それが分からないはずがないと後藤は考えた。だがいくら思い出そうとしても、具体的な“誰”が思い出されなかった。

「あの女ってことはないわよね?」
「それだけは、絶対に無いと自信を持って言える。
 抹殺の是非が議論されたのは、カウンセラーが付く前の事だった」
「でも、具体的“誰”と言うのが思い出せないのよね」

 それでも確かなことは、誅殺論が出ていたシンジが生き延びたことだった。だからこそ、今の状況があると言えたのだ。

「石葉前総理に尋ねれは分かるかしら?」
「一番可能性があると言うレベルだろうな。
 最終決定は、総理が己の権限で行ったはずだからな」

 手がかりのありかは分かったが、だからと言って今更“誰”を確かめることに意味があるとは思えない。そんなことに時間を使うぐらいなら、これからのシナリオを精査する方がよほど有意義だったのだ。
 だから二人は、過去を洗うのではなく、これからどうすべきかに頭を悩ませる事にした。現時点における一番の課題は、碇シンジにどう動機づけを行うのかと言う事だ。パイロットにしないことには、何も始まらないと考えたのである。



 2019年1月8日は、S高にとって2019年を始める日となった。まだ正月気分の明けやらぬ中、S高生徒全員は歓喜の雄叫びを上げることになった。クリスマス・イブに原因不明の病に倒れた英雄が、無事学校に顔を出してくれたのである。
 歩いて通学してきたシンジは、いたる所で激励の言葉や、言葉にならない雄叫び、涙を流して喜ぶ生徒の姿を見せられたのである。

「兄さん、結構ストレスを感じているでしょう?」

 隣を付き添ったレイは、兄に向かって的確な指摘をしてみせた。暗かった頃の兄は、周りの視線を苦手としていたのだ。いくら前向きになってやる気を見せたと言っても、そうそう簡単に性格が変わるはずがないと思っていた。
 そして妹の指摘に、シンジは硬い表情で頷いた。多少のことは覚悟していたのだが、まさか何百人の歓声に迎えられるとは思っていなかったのだ。

「今更だけど、自分がどう見られていたのかよく分かったよ」

 ふうっと小さくため息を吐いたシンジは、少し俯いて何かを小さく呟いた。レイの耳に聞こえたのは、最後に「よし」と気合を入れた部分だけだった。

「兄さん、それは何なの?」

 初めて見る不思議な行動に、レイは当然のようにその意味を尋ねた。記憶にある兄は、自分の前でそんな行動をとったことがなかったのだ。

「なにって、気合を入れたというのか、決意を思い出したというのか……」
「決意?」

 また不思議なことを。そう思って聞き直した妹に、シンジは「内緒」と真面目な顔で答えた。

「実の妹にも内緒にすること?」
「こう言ったものは、自分が自分に誓を立てるものだからね。
 人に教えた途端、なにかありがたみが無くなってしまうんだよ」

 だから「内緒」と繰り返したシンジに、レイは当てずっぽに「アサミちゃんのことでしょ?」と聞き直した。

「な、なんで、そこで堀北さんが出てくるんだよ」

 途端に狼狽えた兄に、「なんて分かりやすい」とレイは口元を歪めた。

「だって、兄さんが決意することって、アサミちゃんのことぐらいでしょう?
 絶対に彼女にしてみせるって、誓と言っても、その程度なんでしょ」
「そ、その程度ってことはないだろうっ!」

 自分にとっては、とても重要なことに違いない。それを「その程度」と言われ、シンジは妹に対して頬を膨らませて文句を言った。
 その反応を見れば、兄が何を呟いたのか想像できてしまう。兄の立場を考えた時、その程度かとも考えなくはなかった。だがそれもまた動機としては適当かと、レイは前向きに考えることにした。

「まあ、頑張る動機としては間違ってはいないわね。
 ところで兄さん、学校内のことは全く分からないのよね?」
「なにしろ、初めて来るところだから……」

 休みの間学校に寄り付かなかったこともあり、S高と言うのは、シンジにとって未知の場所となっていた。なるほどそこから始めればいいのかと、レイは兄をとりあえず必要な所に連れて行くことにした。ジャージ部部室まで連れて行けば、後は義姉に任せればいいはずだった。

「じゃあ兄さん、最初にジャージ部部室に案内するわね」
「最初に部室って……普通職員室とかじゃないの?」

 いろいろな事情があったのだから、まず職員室に顔を出すものだと考えていた。だがレイは、それを直ちに否定してくれた。

「兄さんは、転校生じゃないんだからね。
 だから、姉さんの居るところ連れて行くことにするのよ。
 そこから先は、姉さんに任せればいいんだからね」
「姉さんって?」

 自分には妹はいるが、姉がいるとは聞いていない。そう考えた所で、メッセージにあった「弟として」と言う言葉をシンジは思い出した。それからすると、レイが口にした「姉さん」と言うのは、マドカとナルの二人だろうと想像した。

「もしかして、遠野先輩と鳴沢先輩のこと?」
「そうなる可能性があったことは否定しないけど……
 この場合の姉さんは、アサミちゃんのことを指しているのよ。
 兄さんと結婚すれば、アサミちゃんが私の姉さんになるんだからね。
 正直、秒読み段階だと思っていたんだけどなぁ……」

 両親の同意もとっているのだから、二人の結婚を妨げる物は何も無かったのだ。唯一有るとすれば、二人がまだ高校生と言う意識だけだった。それにしたところで、出来てしまえばなし崩しになると思っていた。
 だがシンジにしてみれば、そこまで進展していたとは想像もしていなかった。だから「もの凄く落ち込む」と言うのが、まだ自分に遠慮した物だと言うことを思い知らされてしまった。

「こんな事を聞くのはなんだけど、僕が倒れた時堀北さんがどうなったのか知ってる?」
「そこはまず、自分の妹がどうなったのかを聞いて欲しいなぁ」

 少し不満そうに、そして少しからかうような顔をしたレイに、シンジは「ごめんなさい」と謝った。確かに、一番気にすべきは目の前の妹のことだった。

「まっ、別に良いけどぉ。
 でも、それって聞かない方が幸せだと思うよ」
「それって、教えて貰ったのと同じ意味なんだけど……」

 知らないと言われるのならいざ知らず、聞かない方が幸せでは、それだけのことがあったと言うことになる。「教えて貰ったのと同じ」とシンジが言うのは、至極当然のことだったのだ。

「でもありがとう。
 だいたい事情が分かったよ」

 ああ、本当に自分は残酷な選択をしてしまったのだ。アサミを襲った悲劇に、シンジは自分の責任の重さを呪った。あの時自分が逃げていなければ、アサミにこんな苦しみを味合わせなくてもすんだのだ。それだけでも、万死に値する罪だと思えてしまった。

「僕の責任がそれだけ重いと言うことなんだね」
「でも、兄さんばかりが悪いわけじゃ無いと思う……
 ああ、下駄箱はそっちだから」

 歩いていれば、いつか目的地に着いてしまう。校舎に入るためには、まず上履きに履き替える必要があった。1年と2年の場所は離れているが、レイはひとまず兄を案内することにした。

「兄さんのは、左上の碇って書いてあるやつよ」
「ああ、ありがとう。
 それで、履き替えたらそこで待っていれば良いかな?」

 指さされた場所を見て、レイはうんと頷いた。

「すぐに戻ってくるから、ちょっと待っててね」

 そう言って小走りに駆けていく姿は、どこから見ても普通の女の子だった。自分の知る綾波レイとは、まったく違った性格を持つ少女。それが記憶操作の結果だとしたら、喜んで良いことなのかシンジには分からなかった。ただ、「朽ち果てたアパートに一人で居ることに比べれば、今の方がずっと良いはずだ」。そう考えることは、傲慢なのでは無いかと思っていた。

「レイも、自分の記憶が操作されているのは知っているんだよな……」

 そうしないと、兄妹として暮らしてきた辻褄が合わなくなる。「レイも自分と同じ目に遭うのでは無いか」そんな漠然としたことを、妹を待ちながらシンジは考えていた。

「ああっ、また後ろ向きのことを考えているでしょう!」
「い、いや、別に、そう言うわけでは……」

 後ろ向きよりもっと悪いことを考えていたのだが、本人に向かってそれを言えるはずが無い。適当にごまかすことにしたシンジは、「それで」と言って道案内をお願いした。

「そうね、とりあえずジャージ部部室に案内しますか」

 この状態でアサミに会わせて良いのかとも考えたが、向こうの方がうまくやってくれるとレイは考え直した。そして生徒会を含め、案内して回るのはアサミの役目だとも思っていた。
 そう頭の中で整理して、レイはシンジを連れて旧校舎へと行くことにした。目的地は、旧校舎3階奥にある地学準備室。ボランティア部ことジャージ部が部室で使用している部屋だった。

 あまり人通りの無い通路を歩いて行き、二人は無事地学準備室に到着した。そこでレイが扉をノックしたのだが、中からなんの返事も返ってこなかった。

「あれっ、まだ誰も来ていないのかしら?」
「時間が早いからね……」

 時計を見たら、7時45分を過ぎたところだった。始業式が9時と言うことを考えると、誰も来ていなくても不思議では無い時間でもある。

「仕方が無い、私が職員室まで案内するか」
「それって、仕方が無いって言われることなの?」

 もう少し優しくてもと、シンジは妹の態度を嘆いて見せた。ただそれぐらいのことで、何かを感じる妹では無かった。「だって予定外だし」と言い返して、未練がましく扉に手を掛けた。

「あれっ、空いてるじゃ無い」
「トイレにでも行っているのかな?」

 扉が開いている=誰かが来ていると考えたレイは、初めの予定通り兄をジャージ部部室に置いていくことにした。誰かが来ている以上、ここから先はその人に任せれば良いのだと。

「じゃあ兄さん、後はジャージ部で解決してくれるかしら」
「まあ、あの人達だったら大丈夫だと思う……し」

 本当に大丈夫かと言う不安はあったが、置いていく気満々の妹を引き留められないと諦めていた。それに部室で待っていれば、誰かに会えるのは確かなのだ。マドカ達なら、よほど妹より親切だと考えることにした。アサミだったら、朝からラッキーだと思うことも出来るだろう。

「んじゃね」
「ああ、僕は中で待っているよ」

 バイバイと手を振って、レイは兄を残して地学準備室を後にした。とりあえず部室にまで連れて行ったのだから、後はジャージ部員に任せればいいはずだった。

 レイに置いていかれたシンジは、部室の扉を閉めてからぐるりと中を見渡した。シンジの記憶には、中学時代のことしか残っていない。そう言う意味では、準備室とは言え高校の施設は新鮮に映っていた。

「望遠鏡に岩石見本……地学って、そう言うものなんだ」

 中学時代に、理科の授業でやったなと考えながら、シンジは部室に置かれているものをチェックしていった。そして、ロッカーの中に自分の名前の書かれたボードを見つけた。

「これは、去年の日付だな……
 なにか、24日って予定が目白押しになっていたんだな。
 「ヒ・ダ・マ・リ」出演って、ああ、テレビに出ると言っていたやつのことか」

 ジャージ部常駐部員8人の名前が書かれ、シンジのところから「〃」マークが繰り返されていた。それを見る限り、全員が一緒に行動していたことになる。そしてその日から更新が止まっているのは、ジャージ部全体がそれどころでなくなってしまったからだろう。
 だがシンジは、それ以上予定の書かれたボードを気にしなかった。元あった所にボードを戻し、「ジャージ部用」と書かれたダンボールの中を覗いていった。

「なんで、膝当てやらスパイクがあるんだ?
 テニスラケットもあるし、これってピンポンのラケットだよな」

 箱をチェックしていくと、一体何をしていたのかと言いたくなるものがザクザクと出てきた。「ボランティアが主な活動だよな」と首を傾げながら、隅に置かれていた大きめのダンボールを覗きこんだ。そこでようやく「ボランティア部」らしきものを見つけて、ほっと胸をなでおろした。

「ホウキにちりとり、ゴミバサミにハンドマイクか……
 これは、公園の清掃活動にでも使うのかな」

 これこそボランティア活動と感心しながら、シンジは次の箱に取り掛かった。だがそこにあったのは、なぜか大きな鍋だった。

「いきなり料理部……いやいや、老人施設で料理を作るというのもあるか。
 でも、そう言うのは相手先に設備がありそうな気もするな……
 なんでメガホンやバトンまであるんだ?」

 本当に何を主体としたクラブなのだろうか。備品を漁っているうちに、シンジはますますジャージ部が何をしている部活動か分からなくなってしまった。よくよく考えてみたら、「困っている人の手助けをする」以外の説明を、過去の自分から受けていないことに気がついた。

「証拠を集めたら、余計何をしている部活か分からなくなったな……」

 これ以上漁ったら、余計に分からなくなってしまうだろう。備品漁りを打ち切ったシンジは、外の景色を見ながら誰かが来るのを待つことにした。

「ここからだと、ネット越しにグラウンドが見えるんだな……」

 時計を見たら、すでに8時を過ぎていた。ネット越しに見えるグラウンドには、大勢の生徒が部活で走り回っていた。

「なにか、中学までと違うんだ……」

 第三新東京市にいた頃は、部活をする生徒というのを見た記憶がなかった。それが普通だと思っていたのだが、こうして見ると異常な環境にいたのだと思えてしまった。これが普通の学校生活なのか、シンジは窓を開けて外から聞こえてくる音に耳を澄ませた。

「なんか、こう言うのって良いかもしれない」

 ネルフにいた頃は、訓練に明け暮れていた記憶しかない。トウジやケンスケとつるんでいたが、それで何をしたと言う記憶が無かったのだ。結局生活のすべてがエヴァに振り回され、遊びに行くことも出来なかったのだと思いだした。ましてや、運動部で汗を流すこともなかったのだ。

「違うか、僕自身何かをしようとしていなかったんだ。
 そしてここの僕は、とにかくなんでもやってみたんだよな……」

 椅子を窓際まで持ってきたシンジは、腰を下ろして窓枠に両肘を突いた。そして頬杖を付くように、手の平に顎を置くような格好をして外の景色を見た。あの頃にはとても考えられない平和な風景に、世界は復活したのだとシンジはようやく実感することができた。そして時間を忘れ、窓から見える風景を眺め続けたのだった。



 兄を部室に連れて行ったレイは、その足で自分の教室に戻っていた。教室にアサミの姿は無かったが、鞄があるところを見ると学校には来ているのだろう。だとしたら、部室に置いてきたのは正解と言うことになる。
 レイが一人でいた事もあり、クラスメイトが周りに集まってきた。当然彼女達の目的は、イブに倒れたレイの兄のことだった。

「ねえレイちゃん、碇先輩はもう大丈夫なの?」
「体の方は大丈夫なんだけどね。
 ちょっと頭の方が悪くなったままなのよ」

 言っていることに嘘はないのだろうが、物には言い方があるだろう。ただそれを突っ込んでも意味が無いと、「記憶が戻らないの?」と聞き直してくれた。

「そうね、だいたい3年分ぐらいの記憶が無くなっているわね。
 だからもう、帰ってきてからが大変だったのよ。
 昔のしょぼくれた兄さんにいきなり戻ってくれたのよ。
 勉強もだめだし、運動も全くだめなのよねぇ」
「へぇ、昔の碇先輩ってそんなだったんだ……」

 1年ともなると、しょぼくれていた時のシンジを知らない生徒ばかりだった。だからレイの説明に、「そうなのか」と単純に驚いてくれた。

「そうそう、高1の秋ぐらいまで、兄さんはしょぼくれていたのよ。
 遠野先輩、鳴沢先輩に鍛えられたおかげで、S高のスーパーマンになったんだけどねぇ」
「振り出しに戻っちゃったんだ……」
「記憶は無くなったけど、鍛えた体だけは残っているんだけどね。
 体の動かし方まで忘れているから、スポーツもだめだめなんじゃないかな?」

 記憶喪失など、ドラマ以外でお目にかかることは無いものだ。そんな貴重な出来事が、S高生徒会長の身の上に起きたのである。集まったクラスメイト達は、レイの説明に「なるほど」と大きく頷いていた。

「だったら、アサミちゃんの事はどうなったの?
 碇先輩、アサミちゃんのことも覚えていなかったんだよね?」
「そうそう、でもアイドル時代のアサミちゃんのことは知っていたのよ。
 だから、引き合わされた時に、椅子から落ちそうになるほど驚いたんだって」
「恋人同士だって言われたら、それこそ失神したりして……」

 くすっと笑ったクラスメイト達に、「それそれ」とレイは手を叩いて見せた。

「遠野先輩によると、声にならない声を上げて狼狽えていたんだって。
 まあ、あの頃の兄さんを考えたら、当たり前の結果だと思ったわ」
「でも碇先輩、アサミちゃんのことを知らなかったってテレビで言っていたわよね?
 記憶をなくしたら、なぜかアサミちゃんのことを思い出したんだ」
「そう言われれば、不思議ね……」

 疑問を口にしたクラスメイトに、自分が調子に乗って言い過ぎたことに気がついた。だからレイは、「確かにそうね」とわざとらしく驚いてみせた。

「それに、どうして3年分なのかしら?」

 無くすとしたら、もっと昔の記憶を無くしてもおかしくない。しかもアサミのことは、逆に思い出しているのだ。そう考えると、不思議なことがありすぎるとクラスメイトは指摘した。

「3年分については、TICと関係があるんじゃないのかな?
 ちょうどTIC後の記憶が綺麗さっぱり無くなっているもの」
「そう言われれば、TICがあったわね。
 先輩、何かTICの時に酷い目にでもあったのかな?」

 そう考えると、3年分の記憶が消えたのにも納得がいく。うんうんと頷いたクラスメイトに、「きっとそう」とレイは同意しておくことにした。

「でもさぁ、アサミちゃんも大変だよね。
 パイロットに生徒会にと、碇先輩のフォローをすることになるんでしょう?
 早く記憶が戻らないと、アサミちゃんがおかしくなっちゃわないかしら」
「でも、アサミちゃんは強いと思うし。
 それに、兄さんが隣にいるから大丈夫だと思う」
「まっ、いつかは記憶が戻ってくるからいいか。
 それに、これから思い出を一緒に作っていけばいいんだしね」

 うんうんと頷いたクラスメイトは、扉を開いて入ってきたアサミに「明けましておめでとう!」と声を掛けた。アサミを襲った出来事を考えると、「おめでとう」はいささか不適切な挨拶に違いない。だが挨拶を受け取ったアサミは、それを気にしないで「明けましておめでとう!」と返してきた。
 そして自分の席に座って、隣に居るレイに「おはよう」といつも通りの挨拶をした。

「おはようアサミちゃん、兄さんは大丈夫だった?」

 当然のように聞いてきたレイに、アサミは少し驚いた顔をした。

「先輩……って、私は会っていないわよ。
 今日は生徒会室に顔を出したけど、先輩は来ていなかったし」
「じゃあ、部室を開けたのは遠野先輩達か……」
「今日は、先輩達も部室には行かないって言ってたわよ」

 アサミの言葉に、レイは「あれっ」と首を傾げた。部室が開いていた以上、誰かが顔を出したと思っていたのだ。だがアサミやマドカ達が顔を出していないのなら、一体誰が部室を開けたというのか。

「だとしたら、高村先輩か大津君かな?」
「今日は朝の部活は無いことになっているのよ。
 だから、あの二人も部室を開けることはないと思うんだけど……」
「でも、ちゃんと部室は開いていたわよ?」

 だから誰かが来たはずだ。そう主張したレイに、アサミは一瞬そうなのかと納得しかけた。だが過去に似たようなことがあったのを思い出し、その可能性をレイに尋ねることにした。

「レイちゃんが先輩を部室に連れて行ったのって、何時ぐらい?」
「何時って……時計を確認していなかったんだけど……」

 どうだったかと記憶をたどったレイは、兄が時計を見ていたのを思い出した。

「そう言えば、兄さんが時計を見ていたわね。
 8時よりは、前だったと思うけど……」

 それを聞いたアサミは、やっぱりと言って席を立ち上がった。予想が外れていなければ、シンジは部室に閉じ込められているはずだった。

「アサミちゃん、どうかしたの?」
「ちょっと先輩を迎えに行ってくるのよ。
 このままだと、先輩が部室を出られないから」

 アサミの答えに、レイは「どうして?」と驚いてしまった。部室から出られないと言われても、そもそも地学準備室の鍵は開いていたのだ。そこからの行き先が分からないとしても、下駄箱のところまでは戻って来られるはずだと思っていた。そして下駄箱にまで戻れれば、誰かに行き先を尋ねることも出るはずだ。

「地学準備室、開いていたわよ」
「それって、8時ぐらいにまた閉まるのよ……
 レイちゃん、先生には生徒会で先に出るって言っておいて……自分で言えばいいのか」

 最初の目的地は、鍵の置かれている職員室なのだ。行き違いになるとは考えにくいので、途中で事情を説明すればいい。
 そう考えなおしたアサミは、「行ってくる」と言い残して教室を出て行った。その後姿を見送った所で、もしかしてまずいことをしたのかと、ようやく何が起きたのかを理解した。だがアサミが引き受けてくれた以上、ここから先は任せるべきだと考えることにした。

 途中で会った教師に事情を説明し、アサミは職員室から地学準備室の鍵を持ちだした。キーボックスに鍵が2本揃っていた以上、地学準備室が開いている可能性は否定される。もしも気づかずにいたら、自分と同じように閉じ込められているはずだった。

 小走りになって校舎間を移動したアサミは、階段を急いで3階まで上がっていった。そして目的の地学準備室の前で、一度深呼吸をして呼吸を整えた。念のため扉に手をかけてみたが、思った通り鍵がかけられていた。

「気がついて出ていてくれれば問題ないんだけど……」

 自分でも気づかなかったのだから、シンジが気づかないことは大いにあり得ることだった。持ってきた鍵で扉を開いたアサミは、中に入って予感が当たったのを知らされた。ただちょっとだけ予想と違っていたのは、シンジがぼうっと外の景色を眺めていたことだった。そしてその姿は、アサミの知っている碇シンジと重なっていた。そのせいで、少し鼻の頭がつんと来てしまった。

「先輩……?」

 涙が出そうになるのを我慢して、アサミは外を見ているシンジに声を掛けた。
 アサミの声は、幸せな魔法を解く鍵になっていたのだろう。シンジがアサミに気づいた時、アサミの好きだったシンジの面影は綺麗に拭い去られた。そして振り返ったシンジは、アサミの姿に驚いていた。

「堀北さんが来てくれたんだ……扉が開かなくなったからどうしようかと思ったんだよ。
 仕方がないから、ぼうっと窓の外を見ていたんだけど……どうかしたの?」

 言い訳をしたシンジだったが、アサミの様子がおかしいのに気がついた。だがアサミから返って来たのは、「なんでもない」と言う答えだった。

「ここの鍵は、7時45分から8時ぐらいの間開いていることがあるんです。
 用務の人が見回りをするのが理由なんですけど、終わったら締めて行ってしまうんですよ。
 中から開けるのにも鍵がいるから、閉じ込められたら出られなくなっちゃうんです。
 だからそこに、その時のための内線電話があるんですよ……」

 その説明は、アサミがシンジから受けた物とまったく同じだった。その同じ説明を、今度はアサミがシンジにすることになったのだ。そしてその説明をすることで、アサミは失ってしまった時間を思い出していたのである。大好きな人の面影を残す人、そして失った時を思い出したことで、アサミの心は悲しみに震えていた。

「堀北さん……」

 普段なら、アサミは演技以外で感情を表に出していなかった。だが今のアサミは、溢れ出る思いを押さえることが出来なかった。それを訝ったシンジに、「何でもありません」とアサミは無理に微笑んで見せた。

「そんなことより、早く教室に戻った方が良いですよ。
 始業式が始まるまで、あまり時間が残っていませんからね」

 時計を見たら、8時50分を過ぎていた。9時から始業式が始まることを考えると、直接講堂に向かった方が良さそうだった。ただアサミの場合はそれでも良かったのだが、シンジは鞄までここに持ってきていたのが問題だった。始業式後のことを考えると、教室に鞄を置いておく必要があったのである。

「でも、もう時間が無いよね」
「そうですね、私と一緒に講堂に行きましょうか。
 始業式は生徒会として挨拶はありませんから、そこでクラスに混じってください。
 鞄は置いていっても良いですよ」

 短い会話で精神を立て直したアサミは、「行きましょう」とシンジの背中を押した。一応立て直しはしたが、このまま二人で居ると、また悲しみがこみ上げてきそうな気がしていた。

「レイちゃんに、部活の予定を教えておけば良かったですね」
「そうだけど、閉じ込められたこと以外は来て良かったと思っているよ。
 ジャージ部……が、色々なことをしているのだけはよく分かったから。
 それに、こうして堀北さんが迎えに来てくれたんだ……」

 にっこりと微笑んでアサミを見たシンジは、「迷惑だった?」と聞いてきた。

「別に、迷惑と言うことはありませんよ。
 先輩は、まだ学校のことをよく知りませんから。
 だったら、それを教えるのは私の役目でもあるんです」

 本当なら、「役目」などと言う表現をアサミは使わなかっただろう。ただシンジとの微妙な距離感が、アサミに「役目」と言う言葉を使わせていた。以前レイが「仕事だから」「任務だから」と言っていたが、それと同じだとシンジは感じていた。
 ただ、シンジはそれをおかしいと言うつもりは無かった。レイの話からも、昔の自分とアサミの深い関係を教えられたのだ。その自分と比べ、今の自分が同じであってはいけないと思っていたのである。その人の体を貰っただけでは、権利を主張するなどもってのほかなのだ。権利を主張するためには、まず自分が行動を起こさなければいけないはずだ。

 「ありがとう」歩きながらお礼を言ったシンジは、「僕は」とこれからの事をアサミに話した。

「やっぱり、パイロットになるべきだと思っているんだ。
 今はまだ足手まといにしかならないけど、すぐにみんなに追いついてみせるよ」

 本当は、「大好きな人を守りたいから」と言いたかったのだが、さすがにそこまで口にする勇気は無かった。その時点で「だめだめ」なのだが、「今はまだ」とシンジも諦めていたのである。自分が残していった物を追いかければ追いかけるほど、本当にすべてが不足しているのを思い知らされてしまうのだ。

「いいんですか、パイロットになるなんて言って。
 先輩は、そのことが辛かったんじゃ有りませんか?」
「ジャージ部のみんなと、同じ場所に居たいと思っているんだ。
 そこから始めないと、何も始まらないような気がしているんだ。
 だから僕は、パイロットになろうと思う。
 それが、堀北さんやジャージ部の仲間と会ってから出した結論なんだ」

 はっきり言い切ったシンジに、アサミの答えは「そうですか」と言う素っ気ない物だった。

「先輩が必要だと考えたのなら、私が意見することではありませんね」

 そう答えたアサミは、「着きましたよ」と校舎の外れにある講堂へとシンジを案内した。

「まだ始業式は始まっていませんけど、こっそりと中に入りましょうか?」
「そうだね、生徒は全部集まっているだろうから……」

 遅刻してきた者が、目立ったことをするのも良くない。アサミの提案を受け入れたシンジは、そおっと講堂の入り口を開けようとした。だが少しだけ扉を開いたところで、中から大きく扉を開かれてしまった。それだけでも驚きなのだが、聞こえてきた大きな拍手に、アサミ共々目を丸くして驚いてしまった。
 講堂に居る全員が、自分たちを見て拍手をしてくれていたのだ。

「このどっきりは、堀北さんも荷担していたの?」
「だったら、こんなに驚いていませんよ……
 たぶん、滝川副会長が仕組んだのだと思います」

 ほうっとため息を吐いたアサミは、「行きましょうか」とシンジに声を掛けた。どっきりはやり過ぎだと思ったが、それをした意図はよく理解できるのだ。新たなプレッシャーを掛ける事への疑問はあったが、仕掛けが動き出した以上、今更文句を言っても始まらないことだった。
 ただ滝川には、後から文句を言わないとと思っていた。自分にも内緒にするところは、性格が悪いとしか言いようが無かったのだ。

「そうだね、止まっていても何も始まらないね……」

 それでも、目立つのは嫌と言う気持ちがシンジには残っていた。ただそれを言っても始まらないので、今は与えられた役目を果たすしか他に無かったのだ。それに自分を超えるためには、こう言った時の態度をも求められていると考えていた。以前の自分は、世界に求められる以上の役割を果たしていたのだ。嫌だからと逃げていたら、結局自分を超えることなど出来ないのだと。

 周りの視線に少しびびりながら、シンジは確かな足取りでステージへと歩いて行った。その姿に答えるように、講堂を包んだ拍手はさらに大きく鳴り響いていた。そしてステージの下にたどり着いたところで、こちらに来るようにと教師に先導された。

「教頭の佐世保です。
 始業式の前に、一度ステージに立って貰えませんか?」

 本来教師と生徒の関係を考えると、佐世保の態度はあり得ないものだろう。だが世界の英雄という立場がシンジにあるため、佐世保は来賓と同じ態度をとったのである。そしてステージの上では、校長の舞鶴がシンジを迎えるように拍手をしていた。
 講堂に居る全員が、自分がステージに上がることを期待している。それは、シンジにとって大きなプレッシャーに違いなかった。だが、そのプレッシャーこそ、自分に与えられたチャンスなのだと考えることにした。こうして周りが期待してくれることこそ、自分に与えられた大きな財産なのだと。

 大きな拍手に迎えられ、シンジはステージへの階段を一歩一歩踏みしめながら上っていった。そして舞鶴に招かれ、ステージに作られた演壇の前に立った。1千名にも及ぶ人たちの視線を集めることに、シンジは恐れと同時に、背筋がぞくぞくする不思議な感覚を味わっていた。

「挨拶が出来ますか?」

 小さな声で聞いてきた舞鶴に、シンジは少し考えてから小さく頷いた。前の自分なら、絶対にここで逃げたりしないだろうと。
 シンジの同意を確認した舞鶴は、「静粛に」と全員に呼びかけた。そしてもう一度「静粛に」と繰り返してから、生徒達に向かって語り始めた。

「生徒諸君も、クリスマスイブに起きた事件のことで心を痛めていたことでしょう。
 碇君が倒れたと言うニュースは、あっと言う間に世界を駆け巡ることになりました。
 世界中の人々が碇君の無事を願い、再び元気な姿を見せてくれることを願っていました」

 そこで言葉を切った舞鶴は、目を閉じて何かをこらえるように小さく深呼吸をした。

「すべてが元通りとは言いませんが、こうして碇君が私達の前に帰ってきてくれました。
 そのことが……そのことが、私は何より嬉しいと思っています」

 少し涙声になって、舞鶴は声を張り上げた。

「これから、碇君は無くした物を取り戻す戦いに臨むことになります。
 私は、その戦いに、少しでもお手伝いできたらと思っています。
 生徒諸君も同じ思いを抱いていると私は信じています。
 生徒諸君、これからは私達も一緒に碇君と歩いて行こうじゃありませんか。
 同じS高に学ぶ者として、そして人として一緒に歩いて行きましょう。
 それに賛同してくれるのなら、是非とも大きな拍手を持って答えて貰いたい」

 舞鶴の呼びかけに、講堂に居た全員、生徒だけで無く教師達も力一杯手を叩いて答えた。割れんばかりの拍手が、S高講堂を包み込んでいた。
 講堂を包み込んだ拍手に、シンジの体は感動に打ち震えていた。自分が築き上げてきたもの、そしてこれからの自分に対して、これだけ多くの人が感謝の気持ちと期待を持ってくれているのだ。冷たい目で見られていた過去とは違う、守りたい世界がここにはあったのだ。

 満場の拍手に舞鶴は大きく頷き、「ありがとう」と全員に向かって感謝の言葉を述べた。そしてもう一度「ありがとう」と言ってから、「碇君」とシンジに対して呼びかけてきた。

「是非とも、仲間達に君の声を聞かせてあげてはくれないか?」

 指示では無くお願いをして、舞鶴は演壇をシンジへと譲った。
 ゆっくりと、そして緊張しながら演壇に登ったシンジは、自分に向けられる視線に圧倒されていた。誰もが、自分に対して期待を込めたまなざしを向けくれているのだ。そして自分がこれから口にする言葉を、一言も聞き漏らさないようにと集中してくれている。自分に向けられた期待は、シンジが想像した以上に大きなものだった。
 その期待を受け止めるには、まだシンジには実力が不足していた。そのため演壇に立ったところで、言葉を発することが出来なくなってしまった。

 何かを言おうとして口を開き、そして言葉に出来ずにまた口をつぐんでしまう。全員が自分に向ける期待、希望は痛いほど理解できる。だが、それに答える言葉がどうしても浮かんでくれなかったのだ。
 何度も言葉にしようとしたのだが、それがシンジの口から発せられる前に消えていった。それを何度も繰り返したところで、講堂の中から「碇っ頑張れ!」と言う声が掛けられた。そしてそれに呼応するように、至る所から「頑張れ!」と言う声が掛けられた。そしてその声は、大きなうねりとなって拍手とともに講堂全体を包んでいった。

 それでも、シンジの口から言葉が出てきてくれなかった。何かを言おうと努力するのだが、それでも言葉になってくれなかったのだ。そうやってもがき苦しんでいるとき、「先輩」と言う澄んだ声が耳に届いた。たったそれだけのことで、シンジの頭の中がすっと綺麗に整理された。

「皆さん、応援ありがとうございます」

 ようやく発せられたシンジの声に、講堂に居た全員は、さらなる拍手でそれに応えた。
 そしてその拍手が収まるのを待って、シンジはもう一度「ありがとうございます」とお礼を言った。

「みなさんご存じの通り、今の僕にはS高で過ごしてきた事を忘れてしまっています。
 それでも、皆さんの声援を聞いて、S高と言うところが、大切な場所だと言うことは分かりました。
 これから僕は、記憶を取り戻すだけでは無く、S高がもっと大切な場所になるように努力していきます。
 出来ない事ばかりで申し訳ないのですが、皆さんに認めて貰えるように頑張っていきます。
 ですから、これからも応援をお願いします!」

 とても短く、そして簡単な挨拶だったが、シンジの気持ちは全員に届いていた。そしてその言葉に応えるように、シンジが頭を下げたところで生徒達全員がステージの前に駆け寄ってきた。始業式だと考えれば、本来あり得ない行動に違いない。だが教師達は、誰もそれを止めようとはしなかった。それどころか、教師の特権を生かし、ステージ上に居るシンジの所に全員が詰めかけた。S高の誇りが、再び歩き始めようとしている。それが嬉しくて、全員がその気持ちを表したのだ。

 本来なら、冬休み明けの始業式を行うところだろう。だが、この光景を前に、誰も式を進めることは出来なかった。高校で行われることすべてが教育と言うのなら、この時間を分かち合うことこそ、他に変えようの無い教育だと考えたのだ。だから舞鶴を始め、教師たちもこの時間を大切にしたのだった。
 こうして碇シンジの高校デビューは、予想とは違う形で始まることになったのだった。



***



 シンジの残した検討資料は、詳細な解説とともにサンディエゴ、カサブランカ両基地へと展開されていた。その中の幾つかは、すでに戦いの場において実践されたものだった。過去の亡霊への対処として、ThirdからSixteenthまで、どうしたら攻略できるのか、そして攻略を難しくする要素が何なのか。それが事細かく記載されていたのである。その記載を読めば、Third Apostleの攻略も、事前検討の勝利だと理解することが出来た。
 そしてシンジの検討の中に書かれていた、過去の亡霊への考察もまた議論を呼ぶことになった。FifthおよびThirdと戦った経験から、過去の亡霊としていたApostleが、再登場ではないと仮説が立てられたのである。残念ながら仮説を検証する方法まで記載されていなかったのだが、その仮説が正しければ襲ってくる亡霊の種類を推測することが出来たのだ。

「もはや、感心する以外の何物でもないな……」

 シンジの情報を検討した席で、エリックは短く刈り上げた髪をがしがしと右手で掻いた。過去の亡霊に対する検証が、事細かく、そして分かりやすく記載されていたのだ。しかも攻略法に至っては、「なるほど」と膝を打ちたくなることが記載されていた。

「言われてみれば、Fifth Apostleって、加速粒子砲以外に攻撃手段がないのよね。
 それさえ防げば、攻略は防御壁を突破することだけを考えればいいのか。
 タイミングよく磁界に影響を受けない実体弾を使えば、その防御壁も無かったことに出来るんだ」

 マリアーナは、以前シンジに出された宿題を思い出していた。「頭を使っているか?」とその時言われたのだが、そう言われても仕方がないと思えてしまったのだ。難攻不落に見えたFifth Apostleにしても、本当に色々な攻略法が示されていた。
 その一つ一つが、本当に有効なのかは検証できない。だがアイディアとして提示された、しかも成功への条件まで記載されていてれば、本当に自分達の至らないところが分かってしまうのだ。

「同時に1箇所しか攻撃できないんだったら、囮を使えば隙を突くことも出来るか……
 確かに、そう言った目で過去の戦いを分析すると、本当にFifth Apostleって隙だらけなのよね」
「Fifthだけじゃなく、他の奴だって複数ヶ所同時に攻撃できないのよね……」

 ふうっと息を吐きだしたライラは、「凄いなぁ」としみじみと吐き出した。

「確かに、みんな言うとおり凄いと思うんだけどね。
 僕が一番注目したのは、なぜ過去の亡霊の模倣が出来るのかというところなんだ。
 シンジ君は、その理由としてTICによる人類の融合を上げているんだよ。
 人類の記憶に残っているから、その記憶を頼りに過去の亡霊を作り上げることができた。
 だから記憶に残らない形で始末されたApostleは、再現されないと推測しているんだよ」
「検証は出来ないが、推測としては納得できるものに違いない。
 出来れば、ギガンテスへの考察もして欲しかったところだな」

 自分の言葉を受けたエリックに、確かにそうだとカヲルは頷いた。論理的に整理された仮説を見ると、本当に色々と気付かされるところがあったのだ。

「エリックの言うとおり、ギガンテスへの考察、なぜ襲ってくるのかというものも欲しかったね。
 ただ、シンジ君のお陰で、もはやギガンテスは脅威では無くなっているんだ。
 このまま技術開発が進めば、通常兵器単独でも撃破が可能になることだろうね。
 そうなると、ギガンテスを生み出している何者かと、僕達人類の根比べになってくるんだ。
 そしてこの根比べは、僕達の勝利に終わることが分かっていた」
「それだけの勢いを、俺達人類は得たからな……」

 エリクが言葉を濁したのは、その勢いに水を差す事件が起きたからに他ならない。数々の功績を上げてきた英雄が、限界を迎えて破綻してしまったのだ。そのため人類は、せっかく得た勢いを失速させてしまった。今更過去に戻ることはなくても、これまでほど万全でなくなったことは確かだった。

「シンジ様が倒れられたのが痛いわね」
「でも、シンジ様は本当に多くのことを残してくださったわよ。
 それに、Third Childrenなら、違った期待もできるんじゃないの?」
「違った期待か……」

 ふっと息を吐きだしたエリックは、「なんなのだろうな」と小さく呟いた。そしてその言葉を聞きつけたカヲルは、「期待ばかりじゃだめなんだ」と言った。

「僕達は、自分の足で歩かなくてはいけないんだよ。
 確かにパイロットとして、シンジ君のあげた功績は巨大なものだ。
 凡人がいくら集まっても、天才の代わりは出来ないのかもしれない。
 でも僕達は、シンジ君から本当に大切なものを学んだんだよ。
 シンジ君は、持てるものすべてを動員して、どうすれば困難を乗り切ることが出来るのかを考えていた。
 僕達ももがき苦しんではきたけど、まだシンジ君に比べれば甘かったとしか言いようが無いんだ。
 過去の亡霊への対処方法にしても、一体僕達はどれだけ知恵を使ったのだろう。
 シンジ君は、彼に残された短い時間を使って、知恵を振り絞ってくれたんだよ。
 僕達は、いつまでもシンジ君に甘えていてはいけないんだ」
「俺達は碇シンジに手を引かれ、ようやく歩き始めることが出来た。
 だったら、いつまでも手を引かれていてはいけないと言うことだな」

 そして親切に手を引いてくれた碇シンジは、もうこの世界から居なくなってしまった。エリックが言うとおり、今こそ自分の足で歩かなければならないのだ。

「そのため僕達に何が出来るのか。
 遅ればせながら、僕達それを考えなくてはいけないんだよ」

 それこそが、手を引いてくれたシンジの恩に報いる道なのだ。カヲルの主張に、パイロット達は全員責任の重さを改めて考えたのだった。



 似たようなやりとりは、当然サンディエゴ基地でも行われていた。アスカを先頭に、自分たちに何が出来るのか、パイロット達全員が考えることにしたのだ。日本に、正確に言うのなら、シンジ一人に頼っていた状況を反省したのである。これからどうして行くのか、それを喫緊の課題として共有したのである。
 そしてアスカは、仲間達とは別に、クラリッサともこれからの事を相談していた。ただその相談内容は、復帰したThird Children、碇シンジにまつわることだった。

「アスカに頼まれていたShinji Ikariの診断記録だけど……」
「極秘事項だから出せないって?」

 処置後のシンジを調べるため、アスカはルームメイトにその調査をお願いしていた。そしてその答えが芳しくないのは、自分を前に口ごもったことから理解することが出来た。

「そうね、必要なカルテは提供して貰えなかったわ。
 貰ったのは、今はきわめて安定していると言う程度の情報だけよ。
 今後、障害を起こす可能性はきわめて低いと言うのがあちらの見解ね」
「シンジ様の記憶は、一切残っていないのよね?」
「残っていること自体、不安定さの原因になるからね」

 記憶の操作が目的通りの効果を発揮したのなら、3年間の記憶は綺麗さっぱり消えていなければいけない。クラリッサの言う通り、その記憶が残っていることは、不安定さの原因となるのだ。安定しているというのであれば、まったく残っていないと考えるのが適当だった。

「それで、日本は……違うか、世界はどうしようとしているの?」
「日本政府の対応は、様子を見守ると言うことになっているわ。
 “原因不明”の“記憶喪失”状態なのだから、無理はさせられないと言うことよ。
 これから精神的に落ち着いたところで、身の振り方を本人に任せることになっているわ」

 「原因不明」と「記憶喪失」を強調したクラリッサに、こうして真実は闇に葬り去られるのだとアスカは理解した。ただそのことについては、どうでも良いことだと考えても居た。それに反発したところで、自分に良いことがあるわけでもないし、復帰したシンジにも良いことがあるとは思えなかったのだ。むしろ真実を公開することで、自分を含め、身の回りが騒がしくなってくれるだろう。

「それでクラリッサ、Shinji Ikariはどういった行動をとると思う?」
「Shinji Ikariではなく、周りがどう言う行動をとらせるのかと言う所ね。
 無難な線は、以前カウンセリングしたカウンセラーを付けて、しばらく様子を見るという方法ね。
 そこでパイロットになることへの意識付けを行うと言うところね」

 クラリッサが「無難」と言ってあげた方法は、誰もが普通に考える方法に違いなかった。希代の英雄が破綻した以上、どんな形でも希望が必要となってくる。その一番手軽な方法は、復帰したシンジをパイロットにすると言うものなのだ。そのためカウンセラーに誘導させるというのは、まともに考えれば有効な手段に違いないだろう。
 だがアスカは、その方法をとった場合に問題になり得る要素を知っていた。かつての自分達のように、パイロットの関係が疎遠であれば、そして今の自分たちのように、機能として一緒に居るだけであれば、おそらく問題になることはないのだろう。だが日本の基地が抱えた特殊性を考えると、カウンセラーによる誘導は、間違いなく問題を引き起こすものだった。

「確かに、クラリッサが提示した方法は常識的だわ。
 でも、常識的な方法が、いつもうまくいくとは限らないと思うわよ」
「まあ、私も、無難だとは思うけど、その方法自体にはかなり懐疑的よ。
 あそこのチームは、個人的繋がりが大きすぎるのよね」

 恋人の堀北アサミは言うに及ばず、他の3人との繋がりも深すぎたのだ。そこに誘導されたシンジが入っていって、何事も無く受け入れられるとは考えられなかった。

「間違いなく、嫌々やらせたら問題になるわね」
「嫌々じゃ無ければ良いんでしょう?」

 そう言って言い返したクラリッサに、「それが出来たら」とアスカも言い返した。

「クラリッサ、あのShinji Ikariが自発的にパイロットになるって考えられる?
 本当に精神状態がぼろぼろになって精神操作を受けることになったのよ。
 逃げ道を塞がれ、パイロットになるしか無い状況を作られるのに決まっているでしょう?」
「確かに、Shinji Ikariが自発的にパイロットになるとは考えられないわね。
 つまり、“無難な方法”って奴は、失敗以外あり得ないことになるのね」

 「ジャージ部」と言われるチームが、日本の力となっていたのだ。英雄碇シンジと、その補佐をする堀北アサミ。そして実働部隊である遠野マドカに鳴沢ナル、さらに堀北アサミをサポートする篠山キョウカ。英雄碇シンジが抜けた後に、同じ顔をしたシンジが嫌々入ってくれば、チームがおかしくなるのは目に見えていた。戦力増強のつもりが、かえって戦力を低下させるだけで無く、チーム全体の士気を低下させる恐れも出てくる。

「だとしたら、アスカならどうしたら良いと思う?」
「方法の一つとして、パイロットにしないというのもあると思うわ。
 パイロットにしないことを前提に、S高ジャージ部の一員としてあげるのよ。
 そうやって、あのチームに馴染ませるのが一番“無難”な方法だと思うわ」
「それって、高校生に丸投げするって意味よね」

 「なんだかなぁ」と嘆いたクラリッサに、「キーパーソンの存在が重要だから」とアスカは答えた。

「こう言っちゃなんだけど、日本のパイロットはプロじゃ無いのよ。
 ジエータイの人たちはプロなんだろうけど、パイロットはハイスクールのノリでしょう?
 両者の間をうまくコントロールしていたのがシンジ様だったのよ。
 堀北アサミが、うまくシンジ様の代わりを出来れば良いんだけどねぇ。
 たぶん出来ないから、丸投げするのが一番うまくいく方法だと思っているわ」
「素人の集まりか……作戦遂行能力はぴかいちなんだけどね……」

 意識が素人である以上、能力がいくら高くても素人には違いなかった。だから時には感情的に動くし、時には道理を曲げる決定をする。それをうまくコントロールすれば、M市のような絶望的な戦いにも恐れず挑むことが出来るようになる。あの戦いは、プロだけだったら絶対に成立しない戦いだったのだ。
 自分たちより優れていると評価したクラリッサに、アスカは少しだけ不機嫌そうな顔をした。よりにもよって、サンディエゴのリーダーに向かって、素人の方が作戦遂行能力があると言ってくれたのだ。不機嫌そうな顔だけで済ませただけ、アスカが優しかったのかもしれない。

「シンジ様が居た時なら、その決めつけに反論しないけど……
 いくら頑張っても、堀北アサミじゃ精神的支柱にはなれないわよ」
「そっかー、奇跡のチームも奇跡を生む力をなくしたか」

 指摘されたとおり、今のチームでM市の戦いに臨むことは出来ないだろう。僅かな可能性と、その可能性を大きく広げるプランを作り上げ、そして実行してみせる存在が必要だったのだ。堀北アサミなら、うまくコントロールすることは出来るのだろう。だが“一から”プランを作り上げていくことは、彼女に求められた役割では無かったのだ。

「いずれにしても、日本がどんな手を打つのかが分かれ道になるわね。
 そのあたり、クラリッサの所に情報は入ってくるの?」
「その程度だったら、寄越せと要求すれば、事実を教えてくれるんじゃ無いの?」
「できたら、Shinji Ikariと話してみたいんだけどね……」

 恋い焦がれていた時にも実現しなかったのだから、この微妙な状況で実現するはずの無いアスカの希望だった。そしてそれを受けたクラリッサは、言下に「絶対に無理」と否定してくれた。

「そもそも、アスカが何を彼と話すと言うの?
 別に嫌っていないと伝えたところで、意味のあることじゃないでしょう?」
「まあ、そうなんだけどねぇ……」

 ほうっと息を吐き出したアスカは、変わらぬ調子で「ところで」と話を変えた。

「いつ気づいたの?」
「割と最近よ。
 でも、今となってはどうでも良いことだと分かったわ。
 アスカが落ち着いていて、自分の使命を見失っていない。
 こんな事だったら、Shinji Ikariにも同じ処理をすれば良かったのにと思ったわよ。
 と言うことで、特に司令には報告していないわよ。
 今更、余計な面倒を抱え込みたくも無いしね」

 そこで「カサブランカのように」と、クラリッサはもう一人の対象者を持ち出した。

「私は、あんな風に殺されたく無いわよ」
「貞操の危険を感じない限り、クラリッサを始末したりしないわよ」

 ふふっと口元を歪めたアスカに、クラリッサはこれ以上無いと言うほど顔を引きつらせた。なにしろ、身に覚えのある前科があったのだ。

「そ、その程度のことで殺されるのは勘弁して欲しいんだけど」
「別に、大人しくしていてくれれば問題ないでしょ?
 それとも、まだ私の体を狙っているの?
 だったら、もう一度躾けてあげても良いんだけど」

 アスカの脅しに、クラリッサは「ごめんなさい」と謝った。少しは良いかなと思ったこともあるが、やはり相手は男の方が良かったのだ。

「まあ、アスカのことは、大きな問題にはならないでしょう」
「あんた達も、今更事を荒立てるわけにはいかないもんね」

 お互いがお互いの事情を分かっているし、基地の管理が軍に委譲されたのだから、これ以上記憶操作が問題となることは無かったのだ。そして極めつけは、基地司令のゲイツが科学者を嫌っていたことだった。そのおかげで、アスカ達の待遇もかなり改善されていた。
 その面でもシンジ様に感謝しなければと、アスカは思っていたのだった。



***



 予想して然るべき事なのだが、クラスメイトの態度はシンジの予想とは違ったものになっていた。講堂での出来事から、激励されるものだと考えていた。さもなければ、情けない姿に落胆されるのかと思っていた。だがシンジを迎えたクラスメイト達は、「やっぱりねぇ」と理解の出来ない何かに納得してくれたのだ。

「ええっと、そうやって納得されると気持ち悪いんだけど」

 とりあえず苦情を口にしたシンジに、「だって」と綾瀬ハルカがクラスを代表して答えた。さらさらの黒髪をした、結構美人かなと言うのがシンジの感想だった。

「私達は、1年の碇君を知っているのよ。
 最近の記憶を無くしたって聞いたから、もしかしてと思っていたのよ。
 そうしたら、碇君って本当に予想したとおりだったのよ」

 さらさらの長い髪を手で掬ったハルカは、「どんな気分?」と逆に聞いてきた。

「やっぱり、私達のことが怖いと思ってる?」
「さ、さすがに、怖いと思うことは無いんだけど……
 やっぱり、慣れていないというのか」

 覚悟はして居たが、周りを囲まれると怖じ気づいてしまうのだ。しかも女の子に気楽に話しかけられると、どうしても話すときに構えてしまう。嫌では無いが、慣れていないと言うのが、一番正確に状況を説明していただろう。
 そんな態度がツボにはまったのか、取り囲んだ生徒達はもう一度大きく頷いてくれた。

「いやぁ、やっぱり碇君だわ」
「みんなの中にある僕って、一体どうなっていたの?」
「どうって……ねぇ」

 難しい質問に、ハルカは助けを求めるように仲間を見た。そして助っ人とばかりに、自称親友の柄澤が間に入ってきた。

「俺たちにとって、情けない碇も、格好の良い碇も、許せない碇もあるんだよ」
「柄澤君、許せないって男の子達だけのことでしょう?」

 すかさず言い返された柄澤は、「確かにそうだが」とその突っ込みを認めた。

「だから今の碇も、俺たちにとっての碇なんだよ。
 遠野先輩達とか瀬名のおかげで卒業したと思ったんだがな。
 1年間の苦労が、綺麗にご破算になったというわけだ」
「でもさ、体は鍛えられているんだから、綺麗に無くなったわけじゃ無いでしょう?」

 ハルカのフォローに、柄澤は小さく頷いた。そしてシンジに向かって、肝心な部分を聞いてきた。それはシンジにとって、かなり切実な問題でも有ったのだ。

「元優等生の碇シンジ君に尋ねよう。
 高2の学習について行けるのかな?」
「分かってて聞いているでしょう?」

 綺麗さっぱり記憶が抜け落ちているのだから、当然勉強したことも抜け落ちている。都合よく“人間関係”だけ忘れるようなことはありえなかったのだ。
 いじけて答えたシンジに、柄澤はうんうんと頷いてみせた。

「つまり、今のシンジの頭の中は中坊ってことか。
 もしかして、中二病真っ盛りってことはないよな?」
「たぶん、経験したことを話せば、中二病って言われると思う……」

 だから否定も肯定もしない。そう言い返したシンジに、「まあ良いか」と柄澤は追求を棚上げした。

「それで、中二の学力しか無いお前が、これからどうやって高校生をやっていくんだ?
 一応S高は、県でも有数の進学校なんだぞ」

 授業に出ていても、全く理解できなければ意味のある行為とは思えない。「どうやって」と柄澤が聞いたのは、ある意味切実な問題でも有ったのだ。そして「どうやって」と聞かれたシンジも、どうしようねと眉毛をハの字にしてみせた。

「泥縄だけど、中3の復習……と言うか、やった記憶が無いから復習というのもおかしいか。
 篠山さん用に作ったカリキュラムを見つけたから、それを始めたところなんだけど」
「そう言えば、お前はジャージ部で先生をやっていたんだな……」

 その先生が、今では一番勉強の出来ない子に落ちぶれたのだ。それを考えると、人間何が起こるのか分かったものではなかった。「しかたがないなぁ」と溜息をついた柄澤は、「任せろ!」と言ってシンジの背中を強く叩いた。

「どうせ授業を聞いても分からないんだから、授業中は中学の勉強をするんだな。
 先生も碇の事情は分かっているはずだから、うるさいことは言わないだろう。
 あと分からないことが有ったら、授業中でも俺たちに聞いてくれ」
「そう言ってくれるのはとても嬉しいんだけど……」

 本当にいいのかなぁと言う顔をしたシンジに、「すぐに追いつけばそれでいい」と柄澤は言い切った。

「記憶が戻れば、今の努力も無駄になるのかもしれないがな。
 ただ、どうやったら戻るのか分からない以上、現実的な対処をするしか無いだろう。
 お前の置かれた立場もあるから、学校も追い出すような真似は絶対にしないさ。
 そもそも追い出すんだったら、朝のようなことはしないだろう」
「ねえ、もう一度体を鍛え直すの?」

 無邪気に聞いてきた涌井ミコノに、「それなんだけど」とシンジは頭を掻いた。

「柄澤君が言ったとおり、現実的な対処をするしか無いと思っているんだ。
 だから高1の時と同じで、みんなのお世話になろうと思っている。
 あの頃よりは体ができているから、多少は時間の短縮ができると思うんだけど」

 前向きな答えを口にしたシンジに、集まった女子達が声を揃えて「似合わない!」と言ってくれた。

「せっかく可愛い頃の碇君に戻ったのに、どうして前向きなことを言ってくれるの?
 あの頃の碇君は、絶対にそんなに前向きじゃなかったわよ!」
「そうそう、しっかりヘタれていたんだよね。
 部活に向かう時なんて、背中に哀愁を思いっきり漂わせていたしぃ」

 そうやって声を揃えて言われると、一体自分は何だったのかと思えてしまう。せっかく前向きに頑張ろうとしているのに、どうしてやる気を削ぐようなことを言ってくれるのかと。

「いや、人がやる気になっているのに、どうしてそんなことを言うのかな?」
「だって、碇君って前向きとかやる気って、似合わないタイプだったしぃ」

 すかさず言い返され、それはないだろうとシンジは文句を言った。

「た、確かにヘタれたかもしれないけど、1年の頃と同じじゃだめだと思っているんだ。
 あの頃と違って、僕には沢山の仲間ができているんだ。
 だったら、仲間の期待に応えるためにも、努力をしないとだめだと持っているんだ」
「う〜ん、そう言うのが似合わないんだけど……
 仲間のためって言うより、堀北さんのためなんでしょう?」
「なっ、どうして、いきなりそう言う話になるんだよっ!」

 そこで焦るシンジに、女子達は「可愛いな」と少しときめいていたりした。もっとも勝負する相手が悪いので、それ以上の気持ちは抱かないようにしていたのだが。

「やっぱり、頭の中が中学2年て本当ね。
 堀北さんと付き合いだした頃なんて、碇君しっかりと開き直っていたのにね。
 そこで焦るところなんて、弟を見ているようで可愛いわよ」
「元トップアイドルにして、今は世界のアイドルになっちゃったもんね。
 確かに、ヘタれた碇君でも、頑張ろうって気持ちになるのも分かるわ」
「と言うことで、お前は男達から妬まれているんだ」

 そう言って割り込んできた柄澤は、「大変だな」とシンジの肩を叩いた。

「堀北さんが彼女だと、今のお前にはプレッシャーがきついだろう」
「そんなこと……は、やっぱりあるかな」

 無いと言いたいところなのだが、柄澤の言うとおり、いつもプレッシャーを感じていたのだ。ただそれ以上に渇望する気持ちがあったので、逃げ出さないで済んでいただけだった。

「まあ、頑張れば頑張っただけの意味がある女の子だ。
 それからシンジ、絶対の彼女のことを崇拝するんじゃないぞ。
 気丈そうに見えても、お前のことでかなり苦しんだんだからな」
「今でも苦しんでいる、が正しいんでしょう?
 碇君が倒れた後、堀北さんもしばらく入院していたのよ」

 こうして、妹が教えてくれなかった事実を、クラスメイトが教えてくれた。ただ、覚悟はしていたため、思ったよりはショックが少なかった。

「あの時の堀北さん、もの凄く取り乱していたものね」
「うんうん、いきなり碇君が倒れたから私も驚いちゃった!」
「ええ、トモミもあの場所に居たの?」
「副会長の滝川君も、彼女と一緒に居たみたいよ」
「遠野先輩達も、覗いていたって言うし……」
「まあ、人通りの多い公園だったからな」

 みんなの話を総合すると、自分は「人通りの多い公園」で「いきなり倒れた」と言う事になる。そしてアサミが「もの凄く取り乱し」た結果、数日「入院」したと言うことになる。

「そんなことが有ったんだ……」
「いやっ、自分のことなんだから知らない方がおかしいでしょ!」
「い、一応、記憶喪失だし……
 目が覚めた時には、もう年が明けていたんだ……」

 だからと言って、「英雄」を襲った悲劇を知らないという理由にはならない。翌日の新聞とか週刊誌を見れば、大騒ぎになったのが分かるはずだ。今では落ち着いたが、テレビでもうるさく騒ぎ立てたぐらいだ。

「だったら、その時の新聞とか週刊誌とか持ってきてあげようか?」
「ええっと……」

 そう言って、シンジは女子生徒の胸元の名札を確認した。

「ありがとう林原さん。
 出来たら、僕が出た「ヒ・ダ・マ・リ」だっけ、そのビデオが有ったら見せて欲しいんだけど」
「クリスマスイブのだけでいいの?
 見たいんだったら、去年の分なら全部あるわよ。
 なんだったら、うちまで見に来る?」
「メグミ、そんなことをしたら堀北さんに睨まれるわよ」
「でもユウコ、こんなチャンスは二度と無いのかもしれない……はははっ、みんな忘れてくれるかな」

 こっそりと物陰で話しているのならいざしらず、衆目監視の中で話すようなことではない。それに気づいた林原メグミは、とても気まずそうに顔をひきつらせた。

「まっ、ビデオぐらいだったら俺が持ってきてやるよ。
 いいかみんな、見た目と違ってシンジは中2のお子様なんだからな。
 からかうのもいいが、大概にしておかないと後から困るぞ」
「あー、柄澤君が保護者モードに入っちゃった」
「まっ、言ってることは間違ってないから、仕方がないか……」
「じゃあ碇君、雑誌とか持ってきてあげるね」

 ちょうど遅れていた教師が入ってきたので、集まっていた生徒たちは散り散りに自分の席へと戻っていった。そこでようやく一息つき、シンジは小さくため息を吐いた。

「碇、そこでため息を吐くものではないぞ」

 それを見とがめたユイが、ぶっきらぼうに注意してきた。反射的に「ごめん」と謝ったシンジだったが、慌てて「ありがとう」と言い直した。

「別に謝られることも、お礼を言われることもないと思っている。
 ただ私は、必要なことを口にしたまでだ」

 更につっけんどんになったユイに、シンジはその理由がわからなかった。ジャージ部に居るときには、こんなに愛想が悪いことはなかったはずだ。そして今日一日、特に怒らせるような真似はしていないはずだった。ただ理由も分からず不機嫌そうな顔をされるのは、気持ちが悪いとシンジは感じていた。
 ただ、それを口にすることも出来ず、ただ黙って受け入れるだけだった。



 そしてその夜、レイはふらふらになって帰ってきた兄を迎えることになった。「ああ、こんな事もあったな」と懐かしがりながら、「大丈夫なの?」と聞くことにした。

「た、たぶん……」

 ごつごつと壁に当たりながら、そして時々階段に躓きながら、シンジは自分の部屋へと上がっていった。
 そんな兄の姿を見送ったレイは、食卓に晩ご飯を並べようとした。今日のメニューは、唐揚げに野菜サラダ、そして豆腐の味噌汁だった。
 だがいざ並べようとしたところで、本当に並べて良いのか不安になってしまった。以前似たようなことがあったときには、降りてくることが出来なくなったこともあったのだ。

「よ、様子を見に行った方が良いわね」

 もしかしたら、ベッドで落ちている可能性もある。もしもそうなら、用意した晩ご飯が無駄になってしまうのだ。無理矢理起こすつもりは無いが、一応準備も必要になってくるだろう。そう自分に言い聞かせて、レイは階段を上がっていった。

「兄さん、入るわよ……」

 とりあえず断ってからと言い訳をして、レイはいきなりドアを開けた。そしてそこで、いささか予定外の物を目撃し、しげしげと観察してしまった。

「い、いきなり入ってこないでよ!」
「いやぁ、疲れ切って寝てないか心配だったから……」

 着替えの為パンツ一丁になったシンジは、股間を隠すようにして妹に背を向けた。半月ほどトレーニングが疎かになっていたが、そこそこ鍛えられた背中が妹の方に向けられた。
 その背中を見たレイは、「ううむ」と所々にある青痣に唸ってしまった。そしてすぐに問題かもしれないと考え直し、必要な確認をすることにした。

「悪いけど、恥ずかしがらずにこっちを向いて貰える?」
「な、なんでだよっ!」

 いくら妹でも、裸の姿を見られるのは恥ずかしい。だから抵抗したシンジに、レイは「こっちを向いて」と強い調子で命令した。そこで気づいたのだが、青痣は目の周りにも出来ていた。

「兄さん、まさかとは思うけど、いじめられた?」
「い、いや、そんなことは無いんだけど……」

 おずおずと答えた兄に、「だったら」とレイは近づいて青痣を指で示した。

「目の周りとか、胸のあたりとか、背中に出来ている青痣はなんなの?」
「こ、これは、僕が鈍くさかったからいけないだけで……」
「だからと言って、これは無いと思うんだけど?」

 胸元の青痣を指で突いた妹に、シンジは「やめてよ」と両手で胸元を隠してくれた。

「やめても良いけど、どうしてそんなに女の子っぽい反応をしてくれるのよ……」

 はあっとため息を吐いたレイは、兄に向かって「説明してくれる?」と要求を突きつけた。

「そ、それは、構わないけど……とりあえず、一度部屋から出て行ってくれるかな?
 いくら妹でも、着替えを観察されるのは恥ずかしいんだ……」
「一応、全部ばっちりと見ているんだけどなぁ」
「そ、それとこれとは別だろうっ!」

 本気で文句を言う兄に、レイは「はいはい」と言うことを聞くことにした。

「じゃあ、下で待っているからすぐに着替えてきてね」
「そ、そうしようとしたのに、邪魔したのはレイの方だろう!」

 もう一度文句を言ってきた兄に、「はいはい」とレイは軽くあしらった。そして一言も謝らずに、兄の部屋を出て行ったのである。

「まったく、以前の綾波とは大違いだよ」

 ぷんぷんと腹を立てたシンジは、クローゼットからニットの部屋着を引っ張り出した。そして手早く部屋着を身につけ、大人しく妹の指示に従うことにした。

「まったく、こんなだから彼氏が出来ないんだよ!」

 自分のことを棚に上げ、シンジは妹のがさつさに文句を言った。だがそれを直接ぶつけないのは、未だ妹に対して気後れするところがあるからだろう。
 それでも不満が収まらないのか、ぶつぶつと呟きながら、シンジは階段を下りていった。そこでテーブルに並べられた物を見て、今度は驚きに目を丸くしてしまった。ある意味今更何をと言う所はあるが、普通に肉が食卓に並んでいたのだ。

「なに、これでも料理部に入っているんだけど?」
「い、いや、ちゃんと作ってくれたんだなって……」

 まさか、妹の知らない綾波レイのことを持ち出すわけにも行かず、シンジの言葉は曖昧な物になっていた。シンジにしてみれば、肉を食べる綾波レイなど考えたこともなかったのだ。

「まっ、良いけどね。
 とりあえず、お話はお腹を膨らませてからにしましょうか」

 「いただきます」そう言って唐揚げに手を伸ばすレイを、シンジはついしげしげと眺めてしまった。
 女の子の食べる姿を観察するのは、間違いなく失礼なことだろう。いくら兄妹だとしても、やはり遠慮は必要なのだ。だからレイは、失礼な真似をする兄に、その理由を説明させることにした。

「兄さんの知っている私と、そんなに違って見えるの?」

 そう聞かれて、シンジは妹のことをじっと見ていたのに気づいてしまった。

「い、いや、そう言うわけでは……確かにあるけど」

 そう言って口ごもった兄を、「まあ、いいけど」とレイは許した。一緒に住みだして、まだ4日しか経っていないのだ。それを考えると、色々と疑問に思うことが出てきても不思議では無い。
 だからレイは、もう少し身近なことを問題にすることにした。

「それで、体中に出来た痣の理由を教えてくれる?
 いじめじゃ無いって話だったよね?」
「さ、さっきも言ったけど、僕が鈍くさかっただけだから……」
「それにしても、全身に痣を作るのっておかしいと思うよ」

 もう一度「それで」と先を促した妹に、シンジはしぶしぶ自分が何に頑張ったのか説明することにした。

「空手部とボクシング部に行ったんだよ。
 そこで、どの程度覚えているのか試してみようと言うことになって……
 それぞれの主将が相手をしてくれたんだよ」
「それで、目の周りに痣を作ってきたの……」

 実力程度なら、ちょっと見ればすぐに分かるはずなのだ。特にキャプテンレベルなら、スパーリングなどしなくても分かるはずだった。
 それなのに痣だらけになったのだから、そこに故意があると考えてもおかしくないはずだった。だが兄は、自分の言葉に少し違うのだと言ってくれた。

「全然駄目だって話になって、1年生と一緒のトレーニングから始めたんだ。
 そこで組み手の練習とかしたんだけど、その時に受け損なったりした結果なんだ。
 みんなに、「本当に全部忘れたんだな」って感心されたよ」
「それって、感心するようなことかしら?」

 簡単な説明だが、いじめで無いことは確認することが出来た。だが同時に、本当に鈍くさく生まれ変わってくれたのだと言うことも分かってしまった。1年と少し前を思い出せば、確かに似たような事件もあったはずだ。だがオリジナルの兄は、パイロットとして訓練を受けていたはずなのだ。それなのに、どうしてここまで駄目なのかと感心してしまった。

「兄さんって、パイロットをしてたんだよね?
 確かエヴァ、だったっけ、それでギガンテスと戦っていたんだよね?
 なんで、そんなに体が鍛えられていないの?」
「だ、だって、そう言う訓練は全くなかったから……」

 改めて指摘されると、確かに自分でも変だと思えてしまう。エヴァを動かすことに体は関係ないと言われたが、少し前の自分と比べると、それが嘘だと分かってしまうのだ。もしもそこに何かの意図があるのか、さもなければ組織自体が素人の集まりだったのか、まさか後者じゃ無いよなと真剣にシンジは考えてしまった。いずれにしても、よく生き残れた物だと背筋が寒くなってしまった。

「それで、行ったのはボクシング部と空手部だけ?」
「後は、体操部にも行ったんだけど……」
「痣の中には、跳び箱を巻き込んだ奴もあるって事ね」

 はあっとため息を吐いたら、兄は「どうして分かるんだよ」と驚いてくれた。

「以前教えて貰った兄さんと同じ事をしているからよ。
 予告してあげようか、これから兄さんは鉄棒から落ちるし、プールで溺れるからね」
「そ、そんなことはしないと……プールの方は自信が無いけど……思うけど」

 妹の言葉を聞く限り、以前の自分はプールで溺れ、そして鉄棒から落ちたことがあることになる。それだけじゃ無くて、跳び箱を跳び損なって跳び箱ごと転がったこともあることになる。もしかしたら、もっと色々なことをしでかしているのかもしれない。
 だから周りは、心配しつつ笑っていたのか。シンジは、自分が失敗したときの反応が分かった気がした。

「兄さんさぁ、体が覚えているって所は無かったの?」
「……そう言う意味では、以前よりはマシって言われたけど」
「単に、前よりは体力があるからじゃ無いの?}

 そう言われると、そこに理由があると思えてしまう。確かに、思った以上に体が動いているところがあったのだ。失敗の中には、動きすぎたための失敗も含まれていた。以前ならば足腰が立たなくなっている……それ以前に、ここまで頑張ることは出来なかっただろう。それぐらいハードなことをしたのに、ふらつく程度で帰ってくることも出来たのだ。

「兄さんは、体の動きとイメージが一致していないんだと思う。
 中学の頃の兄さんと今の兄さんは、軽自動車とスーパーカーぐらいの違いがあるからね。
 ええっと、自転車とスーパーカーと言った方が良いかしら?」
「そ、それは、ちょっと言い過ぎじゃ……ないの……かな」

 出来ない事だらけの自分と、何でも出来る自分。真剣に体力や出来ることを比較したら、それぐらいの違いがあるのかもしれない。だからシンジの反発も尻すぼみになってしまった。

「でも、中学の頃の兄さんって、とってもひ弱だったしぃ。
 足だって、全然遅かったんだよ。
 もう運動不足そのものって感じで、すぐに息切れしていたんだから。
 今は、それだけやっても息切れしないでしょう?」
「そこまでは言わないけど……確かに、ほとんど息切れしないというか……
 すぐに、動けるようになると言うのか」

 う〜んと考えた兄に、「だったら」とレイは一つ提案をした。

「自分の体を、エヴァだったっけ、そう思ってみたら?
 確か、あれだと自分が出来ること以上のことが出来るんだよね?」
「そんなに簡単な物じゃ無いと思うんだけど……
 それに、エヴァの場合、無理しすぎた時に壊れるのはエヴァだからね」

 生身の場合、壊れるのは自分自身になってしまう。それを考えると、迂闊に無茶な真似をするわけにはいかなかった。

「でもさ、間違いなく今の兄さんが想像していること以上のことが出来たんだよ。
 空手部だって、主将と正面から殴り合えたって聞いているし。
 体操部だって、選手と同じとが出来たって聞いているわよ。
 そのほかの部だって、試合に出て欲しいって言われたぐらいなのよ。
 だったら、兄さんがその目で見た事ぐらいは、頭さえ着いてくれば出来るはずなのよ」
「その頭さえって言うのが難しいんだけどね……」

 色々やっていて、特に体操部では目がぐるぐると回ってしまったのを覚えている。そのあたり、本当に頭が着いてきてくれなかったのだ。だから「頭さえ」と言われても、それが一筋縄でいくとは思えなかった。

「そりゃあ、簡単じゃ無いのは分かっているわよ。
 前の兄さんだって、半年って時間が掛かったんだもの。
 でもさ、その頃に比べれば、体だけは鍛えられているんでしょう?
 だったら、その分短縮できても不思議じゃ無いと思うよ」
「否定はしないけど、僕は勉強も追いつかないといけないんだ……
 こればっかりは、前の僕も短期間でやっていないだろう?」

 だから難しいと零した兄に、レイは必殺技を炸裂させることにした。

「そっか、だったら兄さんが弱音を吐いていたってアサミちゃんにちくってあげよう!」
「ど、どうして、僕の足を引っ張る真似をするんだよっ!」

 すかさず、そして火の付いたような抗議をしてきた兄に、レイは少し口元を歪め、「事実だから」と言い放った。

「それに、駄目だったら早めに見切りを付けた方がお互いのためでしょう?
 兄さんも、アサミちゃんをすっぱり諦めて、他の恋を探せば良いんだし」
「そ、そんなの、絶対に嫌だっ!
 堀北さんを、他の男なんかに渡したくないっ!
 前の僕が出来たんだったら、僕はもっと凄いことをしてみせるんだ!」

 かなり真剣に、顔を真っ赤にして主張する兄に、レイはかなり真面目に「だから駄目なんだよ」と言い返した。

「なんで、いちいち前と比較するかなぁ。
 はっきり言って、前の兄さんはちょっと異常だよ。
 あれを基準にして考えると、たぶん誰も勝てないと思うよ。
 それに、もうさんざん凄いことをやった後なんでしょう?
 だったら、それ以上ってはっきり言って無理目だと思うのよね。
 それを追求することって、私にはどこか間違っているとしか思えないわ。
 それにさ、前の兄さんも今の兄さんも同じ碇シンジなのよ。
 アサミちゃんが、本当に何を求めているのか考えてみた方が良いんじゃ無いの?」

 そこまで格好良いことを言っておきながら、味噌汁をずずっとすすってくれるのだ。もう少し緊張感があってしかるべきと思ったが、妹はシンジの目の前で唐揚げをぱくついてくれた。

「せっかく作ったんだから、冷めないうちに食べてよね」
「あ、ああっ、ごめん……」

 妹に急かされ、シンジは慌ててご飯を掻き込んだ。まあ、こんな事をすれば、喉に詰まらせるのは当たり前のことだろう。いきなり喉を押さえた兄に、レイは「はい」と言ってお茶を渡した。

「それから兄さん、もっと落ち着く事ね。
 なかなか難しいと思うけど、周りの顔色ばっかり見ない方が良いわよ。
 何か言われたからって、慌てる必要なんて全くないの。
 その辺りは、自分に自信がないからなんだろうけど……」
「自信なんて、あるはずがないだろう……」
「まっ、人に言われて自信なんて付くもんじゃないけどね」

 ずずっとお茶をすすったレイは、「頑張んなさい」と人ごとのように言ってくれた。

「それでもだめだったら、まあ、その時はその時ってことで。
 気が向いたら、私が相手をしてあげてもいいわよ」
「兄妹で……それって、けっこう嫌かも」
「シクシク、血が繋がってないのにそこまで否定されるの」

 そう言って泣きマネをしたレイは、ちらりとシンジの表情を伺った。だが真面目な顔でご飯を食べているのを見て、少しだけ落ち込んでしまった。この辺りのノリの悪さは、前とは少しも変わっていなかったのだ。

「それで兄さん、今晩はこれからどうするの?」
「お風呂に入って、それから勉強かな?
 運動よりは、こっちの方が確実に差を縮められる……と言うより、
 早く周りに追いつかないと、2年で留年することになっちゃうからね」
「それならそれで、同じクラスになれるといいわね。
 それに、アサミちゃんと同じクラスになれるかもしれないよ」

 それはそれでちょっといいかもと考えたが、シンジは頭を振ってすぐにその考えを否定した。落第して同じクラスになると言うのは、さすがに格好悪すぎると考えたのだ。

「いや、絶対に落第しないように追いついてみせる!
 気を抜いたら、いつの間にか後輩になっている可能性もある!」
「まっ、頭の中は中学2年だもんね。
 確かに頑張らないと、アサミちゃんが卒業してもS高に残っていることになるわね」

 「はいはい頑張って」そう言いながら、レイは終わったところから食器を片付け始めた。とりあえずいじめがないことは確認できたのだから、それ以上はあくまでおまけでしか無い。柄にも無く忠告をしたが、それも過ぎると逆効果になると思ったのだ。そして兄にねじを巻くのは、アサミの仕事だと考えていたのだ。

「食べ終わったら、食器はキッチンに持ってきてね。
 お風呂は湧いているから、気が向いたら入ってくれる?
 あと、背中を流して欲しかったら、遠慮なく言ってね」
「たぶん、そんな事は考えないよ……」

 それも素敵か、以前触ったレイの胸を思い出しながら、だめだめとシンジは頭を振った。こんな所でよそ見をしていたら、本当にアサミに見限られてしまう。努力と言っても始めたばかりなのだから、弱音を吐くのも早すぎると思ったのだ。

「まあ、それならそれで構わないけど。
 後がつかえているんだから、さっさとお風呂に入ってね」

 ごちそうさま。レイはそう言うと、集めた食器を持ってキッチンへと運んでいった。



 シンジがパイロットを希望したことは、アサミから後藤に伝えられていた。「少し早い気もしますが」とアサミは不安を口にした後、「多分大丈夫でしょう」と心許ない保証をしてくれた。
 それを受け取った後藤は、これからの対処を考えることにした。「挫折から歩き出した英雄」と言うのは、当初書かれた筋書きに有ったことである。それを考えると、このことはマスコミを使ってうまく広めてやる必要が有った。そうすることで、世界に対して新たな希望を提示することができると考えていたのだ。

 だが今の状況で広めることは、予期せぬ問題を起こす恐れがあった。同調率以外の能力が低いと言う予想が、後藤を慎重にさせていたところもある。期待が高いと言うことは、裏切られた時の失望も大きくなってくる。手のひらを返した民衆たちが、彼を攻撃しないとも限らなかったのだ。そうでなくとも、うまくいかないことの焦りが、自縄自縛に陥らせる可能性もあったのだ。
 だから情報の公開は、慎重でなければならないと考えていた。馬鹿正直にデータを公開するのも、この状況では得策ではないのだろう。

 そしてその週の日曜日、シンジはマドカ達と一緒にS基地へと現れた。普通ならすぐにシミュレーターでの訓練に入るのだが、今回はその前にもう一つステップが置かれることになった。

「はじめまして碇シンジ君。
 私が、S基地の司令をしている後藤タカシだ」

 とりあえず意志の確認をするため、後藤はシンジと二人きりの面談を行うことにした。他人の報告ではなく、後藤自信自分の目でシンジを確認するという意味もそこにはあった。
 ミサト以上にずぼらに見える後藤を前に、シンジはしっかり緊張していた。そもそもシンジには、自衛隊に対する良い印象が残っていなかった。

「はじめまして……で、いいんですよね」
「君は、俺に会ったことがあるのかな?」
「い、いえ、記憶は無いんですけど、多分会っているはずだと思いましたから」

 すぐに言い訳をしたシンジに、「色々とやりあった仲だ」と後藤は答えた。

「俺としては、色々と君には踊ってもらったと思っていた。
 ただ、だんだんと扱いにくくなっては来たんだがな」
「扱いにくい……ですか。
 後藤さんの目から見て、僕はどんな風に見えていたんですか?」

 シンジの質問に、「そうだな」と後藤は少し考えた。

「本当に毎日精一杯生きているように俺には見えたな。
 もう少し好意的な見方をすると、毎日を楽しんでいたと言っていいのかもしれない。
 恐らく先輩二人の影響だと思うが、忙しいことも楽しいと考えていたところがある。
 子供どころか結婚もしたことのない俺だが、こんな息子がいればと思ったぐらいだ」
「僕のことが好きだったんですね……」

 自分のことを語る後藤が、とても優しい顔をしていたのだ。だから自分のことを気に入っていたのだとシンジは想像した。

「そうだな、君を失うと知らされた時、どうしてこんなに辛いのかと思ったぐらいだ。
 いつの間にか、君の成長を楽しみにしている自分がいるのに気がついた」

 そう言って「ふっ」と口元を緩めた後藤は、「言っておくことがある」と急に厳しい顔をした。

「間違っても、俺は善人なんかじゃないと覚えておくことだ。
 俺は職務を全うするためなら、どこの誰でも利用することを厭わない。
 そうすることで、俺はここまでのし上がることが出来たんだ。
 俺と利害が一致していると思うことは、間違い無く勘違いだと思うことだ。
 利害が一致しているから俺が裏切らない、そうやって君を騙しているのだとな」
「それを伝えることに、なにか意味があるんですか?」

 黙っていれば、うまく自分を騙すことが出来るだろう。そしてこうして打ち明けたとしても、結局騙すことには違いがなかったのだ。それを告げて自分に用心させたとしても、最後は経験がものを言ってくるはずだ。高校生の自分に、百戦錬磨の大人に敵うはずがないのである。
 それを考えれば、「意味があるのか」とシンジが疑問に感じるのも無理の無いことだった。

「さあ、俺は言いたいことを言っただけだ。
 それから碇シンジ君、君がパイロットに戻ると言う決断をしたことには感謝する。
 宣伝の意味でも、君が再び歩き出すことには大きな意味があるのだ。
 だから我々は、このことを大々的に宣伝するだろう。
 その分、君には大きなプレッシャーが掛かることになる。
 世界は、記憶の戻っていない君に対して、これまでと同じ能力を期待するだろう。
 そしてその期待に答えられない時、失望からの攻撃をしてくることが考えられる。
 パイロットになると言う事は、そう言うリスクを負うということだ」
「僕には、どの程度の猶予があると思えばいいんですか?」

 いつまでに成果を出せば、世界が手のひらを返さないのか。そのリミットを確認したシンジに、後藤は「長くて半年」と答えた。

「もちろん、その間に大きな被害が発生しないことが条件となっている。
 うまく迎撃が行われ続ければ、その猶予は長くなってくれるだろう」
「でも、その時は僕が居なくても同じってことになりますよね」

 シンジの質問に、「頭は良いのだな」と後藤は評価した。そしてその賢さは、後藤にとって望みをつなげるものになっていた。

「ギガンテスを無事倒し続けられれば、確かに君のことは顧みられなくなるだろうな」
「世界のためには、その方が本当は良いことなんだと思います。
 でも僕は、それではいけないと思っているんです。
 階段の陰で震えている僕から卒業しないと、僕はまた大切な人達を失ってしまうかもしれない。
 何もできなくて、叫んでいるだけの自分はもう嫌なんです!」

 それが何のことを言っているのか、データを見た後藤には理解できた。シンジの感じた後悔が、自分自身を精神的に追い詰め、自分を実験材料として差し出すことになったのである。そしてその結果が、大切な人を悲しみのどん底に突き落とすことになったのだ。

「君の意気込みは理解できた。
 だが現実は、そんなに簡単なものじゃない。
 同調率は、たしかに君は素晴らしいものを示してくれるだろう。
 だが今の君が持っているのは、恐らくそれだけでしかないはずだ。
 はるかに同調律の低い遠野マドカと比べても、一対一で戦ったら勝つことは出来ないだろうな」
「そうだとしても、僕は物陰で震えていたくはないんです!」
「震えている場所が変わることには意味が無いんだよ」

 シンジの言葉を否定した後藤だったが、それ以上否定することはしなかった。日本にとって、英雄が再び歩き出す意味は大きかったのだ。日本を世界に変えても、その意味の大きさは変わっていない。それを考えれば、シンジがパイロットを志願するのはありがたかった。

「とまあ色々と言ったが、これも君を利用するためだと思ってくれればいい。
 最初に言ったが、君が前進することを示す意義は大きいのだよ。
 だから君には、これから様々場面でマスコミに露出することになる。
 とりあえず今日は、君がテストを受けたことを非公開にするがな」
「……自分の意味ぐらいは理解しているつもりです」

 その辺り、さんざん山本達からビデオを見せられたことで分かっていた。あんな英雄が居なくなったら、間違い無く誰かにその役目を求めるのだ。そしてその第一候補は、記憶以外は同一人物である自分以外には考えられなかった。

「そうか、ではこれからの予定だが。
 最初にシミュレーターに一人で乗ってもらう。
 ヘラクレスの操縦に慣れた所で、チームでギガンテス迎撃のシミュレーションを行う。
 ギガンテスの迎撃がどのようなものか、そこで理解してくれればいい。
 30分後にテストを開始するから、それまでにジャージに着替えてくれ」

 そこでジャージを持ち出したのは、後藤もまだ勘違いをしていたと言うことだ。目の前に居る碇シンジは、ネルフでパイロットの経験を持っていたのである。ジャージ姿での出撃は、一度も経験したことは無かったのだ。

「あの、どうしてジャージなんですか?
 ヘラクレスに乗るのとシミュレーションで分けているって事ですか?」

 このあたり、情報を得るためと家にあった写真集を見たことも理由になっていた。アスカの写真集なのだが、その中にはヘラクレスに乗っているときの写真も含まれていたのだ。その時の格好は、少なくともジャージ姿では無かった。
 シンジの疑問に、後藤は自分がジャージ部の常識に染まっていたことを思いだした。10人のサポートパイロットは、いずれも正規のパイロットスーツを着用していた。そのあたり、ジャージ部が特殊だったのだ。

「マドカちゃんが、最初の出撃でジャージを主張したんだよ。
 ジャージが、彼女にとっての制服だと言ってくれたんだ。
 そしてそこで奇跡を起こしたことで、ジャージが君達の出撃スタイルになったんだ。
 事実、すべての戦いで“君”はジャージを着て出撃した。
 そして日本のパイロットは、ジャージを着て出撃することが世界的にも認知されている。
 おかげで、レプリカのジャージが世界で売られているぐらいだ」
「でも、パイロットスーツの方がいろんな意味で安全なはずですよね?」

 エヴァに乗っていたときには、様々なテレメーターが取り付けられていたのだ。心停止が起きたときの対処も行えたのだから、身を守るという意味では専用のスーツの方が良いはずだった。

「確かに、サポート機能はそちらの方が豊富だな。
 ただ、我々にとって験を担ぐと言うのも大きな意味を持っている。
 うまくいっていることを変えるのは、かなりの勇気がいることなんだよ」
「僕だけパイロットスーツって言うのも変だとは思いますけど……
 ジャージって、持ってきてないんですよね。
 そう言う事だったら、あらかじめ教えておいて欲しかったです」

 そう文句を言ったシンジに、「心配するな」と後藤は保証して見せた。

「ロッカーには、君用のS高指定のジャージが常備されている。
 今日は、それを使えば問題ないだろう」
「なんで、そんな物が……」

 有るのかと聞こうと思ったのだが、よくよく考えれば別に不思議なことでは無かったのだ。験担ぎを含めてジャージで出撃するのなら、パイロットスーツ代わりに常備しておけば良いことだった。それに費用の面でも、専用スーツより遙かに安く上がるだろう。
 それを理解したシンジは、余計なことにこだわるのを止めることにした。アサミのスーツ姿を見てみたいとは思ったが、おそろいだと考えれば悪いことでは無かったのだ。

「ところで、僕はこれからどこに行けば良いんですか?」
「そうか、確かに案内が必要だな」

 初めて基地の中に入るのだから、中のことが分からないのは当然のことだった。それを理解した後藤は、案内の者を付けるためインターホンのボタンを押した。

「葵か、碇シンジ君を案内してくれ」

 ふっと息を吐き出した後藤は、「乗れるのか?」と聞いてきた。適性以外にも、シンジは様々な問題を抱えていたのだ。その中で一番大きなことは、精神的な拒絶反応だろう。

「これは、僕が希望したことです。
 そうしないと、何も始まらないと思っていますから」
「だったら、これ以上は何も言わないことにする」

 後藤がそう答えたとき、ドアがノックされる音が聞こえてきた。

「入れっ!」
「葵ユキナ3尉入ります!」

 ワンタイミング遅れて開いたドアから現れた女性に、シンジは少しだけ驚いていた。自衛隊だからごつい女性がと言うのは偏見かもしれないが、現れたのがどこにも居そうな女子大生ぐらいの女性だったのだ。自衛隊の制服を着ていなければ、本当に女子大生と思ってしまっただろう。

「君は、彼女とも顔見知りだったんだよ」
「そうなんですか……葵さん、よろしくお願いします」

 少しおっかなびっくりと言う顔をしたシンジに、葵は心の中で「可愛い」と感動したりしていた。もともと見た目は良かったのだが、自分への態度がよろしくなかったのだ。そのシンジに怯えた目を向けられると、なぜか胸がキュンとしてしまった。
 それを察知した後藤は、すかさず葵を注意することにした。

「堀北アサミと勝負になると思うなよ」
「そ、それぐらいのことは分かっています!
 わ、私は、これまでどれだけリア充にいじめられてきたことか!」
「そのリア充は、もう居ないんだよ。
 もしかして、「リア充に死を」とお前が呪ったのがいけなかったのか?」

 そんな事をしていたのか。シンジの疑念の籠もった視線に、葵は全身を使って否定して見せた。

「そ、それって、羨ましいって気持ちの裏返しだから。
 本当に死ねなんて、一度も思ったことは無いんだからね!」
「ここって、規律が緩んでいるんじゃ有りませんか?」

 そう言って皮肉を口にしたシンジに、「面目ない」となぜか後藤が謝った。

「そうやって、謝られても困るんですけどね……」

 ふうっと息を吐き出したシンジは、「案内をお願いします」と葵に頭を下げた。馬鹿話をして居ると、テストの時間が後ろにずれてしまうことになる。自分はまだ良いが、待たされているアサミ達に申し訳ないと思ったのだ。

「じゃあ、ロッカールームに案内しましょうか」

 軽く答えた葵は、「こっちよ」と言って後藤の部屋から出て行った。

 シンジが大人しく出て行ったのを見送ったとき、「どうだった?」と言って神前が入ってきた。

「どうもこうもない、ほぼ観察記録通りの碇シンジが現れただけだ。
 堀北アサミが誘導した、違うか、彼女に良いところを見せようと思っているのだろうな。
 意外なほど、パイロットになることへの抵抗感を持っていない」
「小さな頃からのファンだったと言うのが大きいのかしら?
 まあ、うまくやれば手に入るんだったら、頑張ってみようと思うのも分かるわね」

 シンジにまでも下心を抱かせるのが、堀北アサミという少女だったのだ。それが今回はうまく働いたと思って良いのだろう。

「ああ、中学生の素直な反応と言っていいだろうな。
 ただ肝心なのは、ヘラクレスに乗せた後なのだが……」
「そればっかりは、やってみないと分からないわね。
 高いと言われている同調率だって、どの程度の値が出るのかやってみて分かることでしょう?」
「その意味で、今日のテストは世界中の注目を集めているのだが……」

 本当に優れた値が出てくれれば、ひとまず安心することが出来る。これで同調率が変わらなかったりしたら、関係者がどれだけ落胆するのか分かった物では無い。

「まあ、ここまで来たら開き直るしか無いでしょう」
「俺は、対策を考えなくてはいけない立場と言うことだ」

 単純な開き直りでは何も問題は解決しない。後藤は、これから行うテストがどうなるのか、祈るような気持ちで結果を待つことになったのだった。



 後藤が教えるまでも無く、シンジはこのテストが持つ意味を正しく理解していた。絶対的なエースを失うと言う悲劇を悲劇で終わらせないためには、新しい希望が必要となってくるのだ。そして自分がその候補になるのは、これまでの経緯を考えれば当たり前のことだった。事情を知らない者にとっては、自分への期待はなおさら高くなることだろう。

 葵に案内された先には、12台のカプセルが並んでいた。ネルフ時代には見覚えの無い物だが、連れてこられた以上、これがシミュレーターなのだとシンジは想像した。

「ずいぶんと違うんですね……」

 そう言ったシンジに対して、葵は「そうなの?」と逆に聞き返してきた。

「ええ、ネルフの時は、エントリープラグに入っていました。
 それを機体連動って言ったかな、模擬体と接続してシンクロ率を測定していたんです」
「なるほどねぇ……
 それと比べたら、こっちは何をしているのか分かりにくいかもね。
 ただ座って、そっから先はスーパーコンピューターに任せることになっているから」

 そう答えた葵だったら、シミュレーターの構造に詳しいわけでは無かった。だからそこまで説明したところで、「そんなものよ」と言って説明を放り投げた。
 ただシンジにしても、詳しい説明をされたところで理解できなかっただろう。ただネルフ時代と違うことは理解できたので、「技術が進歩したのかな?」ぐらいに思っていた。

「危険なことは無いんですよね?」
「今まで、事故はただの一度も起きたことが無いのよ。
 だから、危険な事って言われても、何があるのかまったく分かっていないわね。
 あるとしたら、せいぜいまったく動かないぐらいじゃないのかな?」

 この辺りについても、葵は単なる案内人にしか過ぎなかった。だから公開されている事実を思い浮かべ、危険性の説明を行ったのである。
 納得したわけでは無いが「そうですか」と答えたシンジは、言われたとおりシミュレーターに乗り込んだ。中を見ると色々見慣れない機械が置かれていた。ただ質問しても意味が無いと、大人しくシミュレーションをすることにした。それを確認した葵は、久良岐にシミュレーションの開始を指示した。

 世界の英雄、恐怖の対象Iと言う肩書きを持つだけに、シンジのシミュレーションは大いなる注目を集めていた。だから当然のように、シミュレーションのコントロールルームには、後藤以下基地の主立った者が集まっていた。そしてマドカを先頭に、ジャージ部の面々も集合していた。
 全員が固唾をのんで見守る中、久良岐は緊張気味にインターホンのボタンを押した。

「久良岐です、これからシミュレーションを開始します。
 実際にヘラクレスと同調する訳では無いので、細かな部分で違いが出てきます。
 ただ、同調率に関しては、今までのデータではほとんど誤差は出ていません」

 「いいですか?」と確認した久良岐に、シンジはかなり緊張して「はい」と答えた。

「では、シミュレーションを開始します。
 できるだけ、リラックスするようにしてください」

 最後の注意をした久良岐は、「3」と声を上げてカウントダウンを行った。いきなり初めても良いはずなのだが、見守る方にも心構えが必要だったのだ。

「0、テスト開始!」

 その声を聞いた瞬間、シンジは目の前がちかちかと瞬いた気がした。そして何か頭に負担が掛かったと思った瞬間、唐突にすべての負担が嘘のように消え去ってくれた。そして負担が消えたと思った直後、目の前にモニタに「Error!」と赤字が浮かび上がってきた。

「久良岐さん、何が起きたんですか?」

 確かに危険なことは無さそうだが、いきなり止まるのはどう考えたら良いのだろうか。「バグかな」と首を傾げたシンジに、「申し訳ない」と久良岐の謝る声が聞こえてきた。

「どうやら、バグが顕在化したらしい。
 すまないが、これ以上君を乗せたシミュレーションは出来そうもない」
「やっぱり、バグ……ですか?」

 こんな事でいいのかと思ったが、自分には何も出来ないことだけは確かだった。だからシンジは、これからどうしたら良いのかを確認することにした。

「確か、この後の予定ってシミュレーターを使った訓練でしたよね?
 僕が乗れないって事は、その訓練はどうなるんですか?」
「すまない、後藤特務一佐に確認しないと分からない。
 こんな事が起こると言うのは想定されていなかったんだ」

 想定外とまで言われたのだから、シンジとしては待つほかに出来ることは無かった。幸い扉を開いてくれたので、窮屈なところで待たされることからは解放された。仕方が無いと外に出たら、向こうから葵が駆けてくるのが目に入った。

「ごめんごめん、ちょっと控え室で待っていてくれるかな」
「構いませんけど、大丈夫ですか?」

 「不安だなぁ」と零したシンジに、「こっちの台詞よ」と言いたい気持ちを葵は飲み込んだ。そして納得のいかない顔をしたシンジを連れ、近場にある控え室へと向かったのだった。

 シミュレーションすら出来ないのでは、切り札が役に立つのかどうかも分からないのだ。そしてシミュレーターがうまく動かない以上、いきなりヘラクレスに乗せるわけにもいかなかった。その意味で、S基地の計画は、いきなり躓いたことになる。

「久良岐、一体何が起きたんだ?」

 シンジに対して「バグ」と説明したが、後藤は頭からバグを信じていなかった。世界各国で使われたシミュレーションプログラムから、こんなに簡単にバグが顕在化するはずが無いのである。たとえそれがバグだとしても、それを引き起こした理由があるはずだった。
 だがいきなり聞かれても、理由など分かるはずが無かった。一応開発にも関わっていたが、基本部分は既存基地から提供されたものだったのだ。だから「バグ」が出たとしても、その解析はサンディエゴやカサブランカにお願いをする必要があったのだ。そしてそれを依頼するためにも、必要なログ情報を採取する必要があった。

 ログ取りの作業を進めながら、「おそらく」と断ってから久良岐は推測を口にした。

「これまでとは違う、パラメーター値が発生した。
 もしくは、パラメーター範囲を超えたのでは無いかと思っています。
 おそらく、シミュレーターだけで起こりうる問題では無いでしょうか?」
「だとしたら、ヘラクレスに乗せたら何が起こる?」

 機械が頼れないのなら、実際のヘラクレスを利用することが出来る。だが何が起こるか分からない以上、むやみにリスクを冒すわけにはいかなかった。
 その質問に対して、「おそらく」ともう一度久良岐は口にした。

「かなり高い同調率が示されることになるかと思います。
 バグが発生する直前に示された同調率で、すでにアテナの値を超えていました。
 ただ、それがパイロットに危険が無いかどうかまでは判断できません」
「バグの解析待ちと言うことになるのか……」

 相手が対象Iとなれば、安全性の確認が無い状態でのヘラクレス搭乗許可が出るはずは無い。そのためのシミュレーションなのだが、いきなりその当てが外れてしまったのだ。後藤としては、シミュレーションプログラムを恨みたいところだった。
 だがそれを言っても仕方が無いと、今日の予定を組み直すことにした。

「今日は、彼を加えてシミュレーションするつもりだったのだが……
 君達だけでやって貰うことになりそうだ」

 後藤は、シンジ亡き後リーダーになったアサミに、予定の変更を伝えた。それを受けたアサミは、訓練の変更を提案した。この辺りは、シンジが書いたスケジュールに従ったものでもあった。

「だとしたら、高村先輩達との連携訓練をしましょうか。
 私達の戦力が低下していますから、遠野先輩達へのサポートが必要だと思います」
「大津はどうする?」

 もともと、キョウカが加わらないことを前提にしてフォーメーションを考えていた。その時には、大津はアサミをサポートして、マドカ達の後方支援を行うことになっていた。だがキョウカが加わったところで、その役目はキョウカに任されていた。そうなると、アキラの立ち位置が不明瞭になってしまうのである。

「大津君には、当面高村先輩と組んで貰おうと思っています。
 ずっと一緒に訓練してきましたから、一番気心が知れているんじゃ有りませんか?
 結構良いコンビになるんじゃ無いかと思いますよ。
 とりあえずシミュレーションをしながら練り上げていけば良いと思います」

 そこで組み合わせを変えなかったことに、後藤はシンジの考えを理解した。独り立ちの出来ているマドカとナルに、半人前のユイとアキラを組み合わせるのもあるかと考えていたのだ。だが、そうなると、連携に問題が生じるリスクを抱えることになる。S基地の戦力が低下した今、新たなリスクを抱えるのを避けるのも、確実な迎撃に必要な考え方だった。

「たぶん、高村先輩達にはギガンテスを仕留める役目をして貰うことになります。
 その辺りは、自衛隊の皆さんと協力すれば大丈夫かなと思いますよ」
「M市の戦いが、ここでも役に立ったと言う事になるのか……」

 それを考えると、つくづく奇跡の半年だったことが分かるのだ。後は、その遺産でどう食いつないでいくのか。その遺産を食いつぶしたとき、自分たちはどうやって蓄えを作っていくのか。失ったものの大きさを、改めて後藤は思い知らされたのだった。

 新しい蓄えをするためには、一日でも早く碇シンジをヘラクレスに乗せる必要が有る。だがいきなり発生したシミュレーターのトラブルは、間違い無く解決には多くの時間を要することになるだろう。シミュレーターの根本にまで問題が及んだ場合、解決すら困難と言うことになる。そうなった時、どうやって碇シンジをヘラクレスに乗せるのか。その口実を作るのがいかに難しいか、TIC直後を知るだけに後藤には頭が痛いことだった。

 だが、いつまでも頭が痛いと言っていられないのも確かだった。S基地の迎撃体制再構築は、世界の迎撃体制にも大きな影響を与えることになる。まだ攻略法が確立されつつあるギガンテスはいいのだが、過去の亡霊が現れた時には、間違い無く碇シンジの力が必要となってくる。それまでに目処を付けないと、人類は本当に滅びを迎えかねなかったのだ。

「彼が、この事態を想定していたのかどうか……」

 さすがにありえないとは思ったが、どこか「もしかして」と言う気持ちも持っていた。その意味でも、堀北アサミとじっくり話さなくてはいけない。そのタイミングは、一日でも早い方が良いことは疑いようがなかったのだ。







続く

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