−027







 持ってくる方としては、気を利かせて探してきてくれたのだろう。ただ、ドラマを歯抜けで持ってこられては、楽しもうにも楽しめるものではない。いくらアサミが綺麗で可愛くても、中途半端な見せ方をされると、逆にフラストレーションが溜まってしまうのだ。
 だからシンジは、途中でドラマを見ることを放棄した。これぐらいだったら、アサミにこだわらずに、ちゃんと通しで見られるドラマの方がよほど良いと思ったぐらいだ。

 そのせいもあって、シンジは“英雄”と言われる人の戦いを見る作業へと復帰した。ただ、それだけだと疲れるので、時折ピンポイントでアサミの顔だけを見ることにした。可愛い女の子を見ることに、窮屈さへの癒やしを求めたのだ。

「早川さんが、危機感を抱くのはよく分かりますよ……」

 ムンバイの戦いを見た後、シンジは「お気の毒に」と逆に早川を哀れんだ。これだけの精神的支柱を失えば、世界中がパニックになるのが理解できるのだ。小さな戦いでも、それほど“英雄”と言われる人の働きが際立っていた。

「まあ、彼は半分マゾっ気があるからいいけど。
 それで、どのへんで危機感を抱いたと思ったの?

 早川にしてみれば、極めて不当な山本の決めつけに違いない。「いいのかなぁ」と額にシワを寄せた早川を思い出しながら、シンジは“どのへん”に当たる部分を説明することにした。

「香港でもう一人加わりましたけど、その人は大した動きができていないんです。
 それでも戦力になっているのは、やっぱり英雄って言われる人が凄いんだと思います。
 ムンバイ……ですか、その戦いにしても、作戦を考えたのは英雄さんですよね?
 山本さんは、これまで撃退はしてきたけど、被害がそれなりに出ているって言いましたよね。
 この戦いって、その問題への答えになっていますよ。
 しかもムンバイまで、たった3回しかこの人達って出撃していないんですよね。
 そんな経験の少ない人を、カヲルくん達が尊敬しているのが分かるんです。
 この人がそれだけ凄いと言うことにもなるし、居なくなったら大変だって言うのも分かりますよ。
 そんな人が急に居なくなってしまったら、なんとか代わりを見つけようとするでしょう」
「まあ、私達の置かれた事情はその通りね。
 それぐらい、彼が果たした役割は大きいもの。
 颯爽と現れて、あっさりと世界を救って見せてくれたのよ。
 世界の人たちが、夢を見ても不思議ではないと思うでしょう?」

 同意を求めた山本に、シンジは素直に頷いてみせた。自分の経験に置き換えてみても、苦しんで苦しんで何度も絶望していたのだ。その時に、颯爽と正義の味方が現れてくれたら、どんなに嬉しかったことだろうか。ただ、自分の時には、そんな夢の様なことは起こってくれなかったのだ。

「事実、彼はとても格好が良かったわ。
 見た目という点でもそうだけど、普段の言動も含めて格好が良かった。
 それは、助けを求める人達だけじゃなく、パイロットとして戦っている人達にとってもそうだった。
 彼の言葉は、絶望を希望に書き換え、そして勇気を与えてくれた。
 彼とは一回り歳の違う私でも、テレビに彼が映った時には胸がときめいたもの。
 あの冷静で皮肉屋の早川君だって、彼の言葉に感動の雄叫びを上げたぐらいなのよ。
 もっとも、M市の戦いでは、集まった記者の皆さんも感動の雄叫びを上げていたけどね」

 普通なら誇張と考える山本の言葉も、ここまでの実績を見せられればうなずけてしまう。だからこそ、自分では代わりにならないとシンジは考えていた。ただ暴れるだけならいざ知らず、言葉でも人々を勇気づけなければならないのだ。そんな真似は、どう逆立ちしたって出来るとは思えなかったのだ。

「どうする、次はジャクソンビルの戦いだけど?」
「第三使徒と一対一をやった戦いですか……」

 第三使徒との戦いは、シンジにとって初陣となった物だった。頭をつかまれ失神した後、気がついたのは医務室のベッドと言う情けない戦いである。初号機暴走が無ければ、いったいどうなっていたことだろう。

「こっちは、1時間ぐらいの戦いになるわね。
 日本の4人は参戦していないけど、初のエース3人が揃った戦いになるわ」
「時間から言ったら、十分余裕はありそうですね……」

 見れば見るほど、英雄と言われる人の凄さを理解することが出来る。それもあって、逆に気が楽になるのをシンジは感じていた。どう頑張ろうと対等になどなれないし、周りだってそれぐらいは理解しているだろうと思えたのだ。だからこそ、英雄と言われる人が倒れなければ、自分が呼び起こされることは無かったのだと。

「んじゃ、次の記録に行ってみようか!」

 とても気楽に、山本はリモコンのボタンを「ポチッ」と押したのだった。

 ジャクソンビルの戦いは、シンジにとって二つの意味で驚かされた戦いだった。英雄と言われる人の戦いにも驚いたのだが、アスカとカヲルの二人が、大人しく共同作戦をしていたのだ。しかもアスカが、仲間の指示に従って、きわめて冷静に作戦を遂行していた。その行動もまた、シンジには想像も付かないことだった。

「どう、彼の戦いは?」

 戦いを見るのに熱中していたことも有り、映像が終わったところでシンジは大きく息を吐き出した。それを見計らって、山本が声を掛けてきた。これまでまともな感想が返ってきたことも有り、シンジがどう考えるかに興味が沸いていたのだ。

「すべての能力を動員して戦っているというのがよく分かります。
 それから、同調率があまり高くないというのも理解できました。
 その人だけだと、単独では第三使徒のATフィールドを突破できないんですよね……」
「でも、彼は単独でThird Apostleを仕留めたわよ」
「そこが凄いところだと思っています……」

 「だって」と、シンジはなぜ凄いと感じたのか、その理由を山本に説明した。

「本当に色々と可能性を考えて、それを実行する能力があると思うんです。
 破れないはずのATフィールドにしても、本当は万能じゃないことを見抜いているんですよね。
 その仮説を立てて、一つ一つ検証していって、仮説を証明しているんです。
 最後はとっても派手でしたけど、それにもちゃんとした理由があるんですよね。
 戦いを見せられれば、なるほどって思えますよ。
 でも、自分も同じ事が出来るかって聞かれたら、絶対に出来ないって答えます」
「その派手さでね、終わった後に一部の新聞に叩かれたことがあったのよ」
「この人を叩く理由なんて有るんですか?」

 どう考えても、期待通り世界の英雄としての活躍をしているのだ。その英雄を新聞が叩いたと言われて、「まさか」とシンジは驚いた。

「そのまさかよ。
 左巻きの人たちなんだけどね、ヘラクレスは侵略兵器だって騒いでいるのよ。
 そう言う人たちって、彼が英雄として尊敬を集めるのは都合が悪いのよ。
 だから、同じ考えを持った新聞社が、スタンドプレーが過ぎるって批判記事を書いたわ」
「スタンドプレーって……どう言う意味ですか?」

 そこでがっくりとした山本は、「あのね」とシンジの顔を見た。ただ申し訳なさそうな顔をしたシンジに、仕方が無いと山本はため息を一つ吐いて見せた。

「一般受けを狙って、必要の無い派手なことをすることね。
 君が“派手”だと言ったことが、批判の的になったのよ」
「結果をちゃんと出したのに、それでも批判されるんですか……」

 それを考えると、ますますパイロットになどなりたくなくなってしまう。さらに後ろ向きになったシンジは、「嫌な話ですね」と顔をしかめた。

「そう思ったのは、君だけじゃ無かったのよ。
 だからその新聞社に対して、大規模な不買運動が発生したわ。
 あまりにも悪意に満ちていて、もはや批判記事にもなっていないって購読者が自発的に動いたのよ。
 そのおかげで、英雄様は戦い後に記者会見を開いているわ。
 簡単に作戦の意図、それが変わったときには、なぜ変わったのかを説明してくれたのよ。
 おかげで、ますます英雄様への評価が高まったぐらいよ。
 ただ一般の民衆レベルでは、批判さえ許されない雰囲気になっていたわね」
「それはそれで怖いですね……」

 もしも自分の立場なら、きっと天狗になってしまっただろう。そしてそれを伝えられた山本も、「よく分かるわ」としみじみと答えた。

「でもね、彼や周りの仲間達も含め、誰も天狗になんかなっていないわ。
 それどころか、本当に今までと変わらない生活を送ってくれたのよ。
 部活もちゃんとやっているし、訓練にもちゃんと顔を出しているのよ。
 むしろ、周りの期待に応えるべく、色々と努力をしていたと聞いているわ。
 そしてそれをはっきりと世間に示したのが、1ヶ月前にあったM市の戦いよ。
 この戦いは、ギガンテスの発見から上陸まで、僅か4時間と言う短さだったわ。
 そしてもう一つ、65体と言う途方も無い数のギガンテスが襲ってきた……
 一昨日説明したと思うけど、誰もがもう駄目だって諦めていたぐらいなのよ。
 全部倒すことは出来ても、かなりの被害は覚悟しなくてはいけない。
 せっかく持ち直した人類が、再び滅びの道を歩き始めたと考えたのだよ。
 だから、襲撃予想地点のM市では、誰も避難しようとはしなかったの。
 逃げても無駄だって、一瞬で全員が諦めてしまったのよ」
「立ち向かう気力すら沸かない……って事ですよね?」
「そう、だからサンディエゴやカサブランカも、水際での迎撃を諦めたぐらいよ。
 分散した状態になったところで、戦力を投入することを考えていたわ。
 早川君も言ったと思うけど、それが私達の限界だと思っていたのよ」

 「私達」と言ったとおり、山本自身どうにもならないと思っていたのだ。

「それを、その人が覆したんですよね……」
「そう、少し早いけど、その記者会見から見せてあげるわ。
 君が疑問に思っていたこと、なぜ英雄がリタイアしたのかそれで理解できると思うから」
「その人の素性が分かるんですね……」

 ごくりとつばを飲んだシンジに、山本は神妙な顔をして頷いた。ここから先シンジがどう反応するのかは、賭となっていたのだ。こればっかりは、試してみないと分からないことだった。
 本当なら、もう少し先に正体を明かしたいと思っていた。だがこの先のスケジュールを考えると、先延ばしできない状況になっていたのだ。

「じゃあ、心して見てちょうだい」

 言わずもがなのことを言って、山本はリモコンのスイッチを押したのだった。



 目覚めてから4日後の1月5日、シンジは初めて外出することを許された。ただ外出と言っても、人に会うために外に連れ出されるというのが正確な表現だろう。本人の知らないことだが、ジャージ部女性部員達の強いお願いにより実現した面会だった。
 初めて部屋を出たところで、シンジは自分がかなり立派なマンショの一室にいたことを知ることになった。ただそのことも、これからの出来事に比べれば些末なことだった。

「これから、僕を知っている人たちに会うんですよね……」

 情報を小出しにした関係で、シンジが知っているのは自分が起こされた理由だけだった。その時に、「起こす予定は無かった」と山本に教えられたのだが、それも仕方が無いと諦めることが出来ていた。さんざん凄いと言い続けてきたと思ったら、最後に「あなたの事よ」と教えられたのだ。それが無くても、同じ立場だったら自分でも入れ替えないと納得してしまったぐらいだ。憧れてしまうほど、立派な自分がそこに居たのだ。
 それもあって、自分を知っている人に会うのは怖いと思っていた。間違いなく比較されるし、比較されれば失望されるのに決まっていたのだ。あからさまにがっかりとされたら、いったいどう言う顔をして会えば良いのか。心の準備など、どれだけ時間を掛けても出来るはずが無かったのだ。

「やっぱり怖い?」

 シンジの隣には、山本が並んで歩いていた。前は自分より背の高かった彼女も、今はすっかり背が低くなっていた。こうして並んで歩くと、時間の経過を思い知らされてしまう。アスカにまで憧れられた人の体を貰ったのだが、どうしてもその実感が沸いてくれなかった。
 見上げるようにした山本に、「怖いですよ」とシンジは言い返した。

「だって、間違いなくがっかりされると思います。
 なんでお前なんだって、邪魔に見られるのが分かりきっているじゃ無いですか」
「まあ、君ならそう言うと思ったわ……」
「僕じゃ無くても、普通はそう言うと思いますよ……
 僕の場合、記憶喪失じゃ無くて、記憶が戻ってこうなんですから」

 はあっとため息を吐いたシンジに、山本は「乗って」と言って車のドアを開いた。

「これから、2時間ぐらい乗って貰うからね。
 その間に、世界がどう変わったのかを見てみると良いわね。
 少なくとも、3年前の地獄はどこにも残っていないわよ。
 あなたがしたことが正しかった事を、その目で確かめてみなさい。
 少なくとも、私は悪い世界じゃ無いと思っているわよ」
「それも、もう一人の僕が頑張ったおかげですよね……」

 M市の戦いの前の記者会見では、シンジ自身体に震えが来たのだ。「困っていて助けが欲しくて、どうしようも無い人の味方」と言い切る自分に、涙さえ出てしまったほどだ。もしもあの時この人が居たら、自分にこんな力があったのなら、アスカが壊れることは無かったはずだし、カヲルを殺すことも無かったのだろう。綾波だって、自爆などしなくてもすんだはずなのだ。根拠無く自分が悪いというのは自意識過剰な事に違いない。だが英雄と言われたもう一人の自分を見せられると、自分が原因としか思えなかったのだ。
 そうやって落ち込むシンジに、やっぱり問題のある性格だと山本はあきれていた。ただフォローする方法も無いので、黙って落ち込むままに任せることにした。

 それでも時間と言うのは偉大な物で、復興した世界の姿は、多少シンジの心に安らぎを与えてくれたようだ。そのあたり、百聞は一見にしかずの言葉通り、目で実際に確かめる意味が大きかったと言うことになる。

「本当に復興したんですね……」
「そうね、あなたが戦っていた頃より、世界は確実に良い方向に変わっているわよ。
 世界を覆っていたギガンテスの恐怖も、今はずっと軽い物に変わっているわ。
 後は、あなたが歩き出せば、世界は間違いなく良い方向に向かってくれるわよ」
「僕が歩き出せば……ですか?
 でも、僕は違うんですよ」

 「ああ、また暗くなった」どうしてこうも後ろ向きなのだろうか。伝え聞くジャージ部の前向きさに比べて、あまりにもマイナス思考が強すぎるのだ。だがそれを指摘すれば、さらに落ち込まれることは想像に難くない。だから山本は、「これから会う人だけど」と話を変えることにした。

「僕のことを知っている人だという話ですよね。
 こんな僕に会わせるんですから、パイロットの仲間なんでしょう?
 僕の事情を知っているんだったら、なんでお前なんだって目で見られるのが分かっていますよ」
「そっかなぁ、そう言う人たちじゃないって聞いているんだけど。
 それからあらかじめ言っておくけど、これから会うのは4人の女の子よ。
 美少女揃いだから、期待して行っても良いと思うわよ」
「期待してって……あり得ないでしょ、それは」

 少し前の自分は、今の見た目に加え英雄と言われた活躍をしていたのだ。周りの女性が、居なくなった自分にどんな目を向けていたのかぐらい簡単に想像が付く。現にあのアスカですら惚れさせたというのだから、身近に居る女性がどう思っているのかなど、今更頭を悩ませる必要も無かったのだ。
 しかも戦う姿を見せられれば、お互いが強い信頼関係で結ばれているのが理解できるのだ。そこに、まったく違う自分が現れたら、反発を受けるのが目に見えるようだった。それこそ、疑いようのないことだとシンジは思っていた。

「でもね、今の世界があるのは君のおかげでもあるのよ。
 君が14歳の時に使徒と戦って、そして世界の復帰を願ったんでしょう。
 それが無ければ、この世界に誰も生き残っていなかったんじゃ無いの?
 一人罪悪感を持つのは勝手だけど、事実としてそれを認めるべきだと思うわよ」
「でも、あの人ならもっとうまくやれたと思います。
 あの人だったら、アスカ達や世界は壊れなくてもすんだんだと思います」

 それだけの凄さを、さんざん映像で見せつけられたのだ。ただ、話を聞かされた山本には、その思いを共有するだけの知識はなかった。ただ経験として、それが無い物ねだりだと言うのは分かっていた。英雄と言われた碇シンジにしても、高校入学時には目立った生徒では無かったのだ。

「でも、英雄と言われた彼も、間違いなくあなたなのよ。
 高校に入ったときには、暗くて目立たない生徒……だったっけ?」

 そのあたりの言い方が違っていたかと、山本は定説として言われていることを思い出そうとした。

「ええっと、逆に暗くて目立っていたって話だったような気が……
 だから、今日会う人たちに目を付けられたって聞かされているわ」
「そんなことを言われて、信用できると思いますか?
 僕を乗せようとしたって無駄ですよ。
 自分のことは、自分が一番分かっているんですから」

 見た目が良い分だけ、後ろ向きのことを言われると鬱陶しくなる。よほど一発殴ってやろうかと思ったが、それをすると話は余計にややこしくなるだろう。もうすぐ目的地に着くことを考えれば、その役目は少女達に任せるのが一番良いのだ。

「そろそろ目的地だから……
 そのあたりも、本人達に確認するのが一番良いと思うわよ」
「今から帰るって訳にはいかない……ですよね」

 これからのことを考えると、どうしても後ろ向きになってしまう。シンジは胃がきゅっと縮まり、痛みさえ感じ始めていた。

「そうね、世の中開き直るしか無いって事もあるのよ」
「僕には、とてもそんな開き直りは出来ませんよ……」

 そう嘆いてみても、車は順調に行程を消化してくれていた。知らない街にある見たことも無い基地の入り口に着いたところで、胃の痛みは最高潮に達してくれた。

「山本さん、真剣に胃が痛いんですけど……」
「だからと言って、今更帰るって話にはならないわよ。
 って言うか、あなたが帰ってきたことはもう知れ渡っているからね」

 ほらと指さされた先を見ると、警備の人たちが涙を流して喜んでいるのが見えたのだ。きっと英雄の復帰に、感激の涙を流しているのだろう。

「いやっ、ますます気が重くなるんですけど……
 いったい僕は、みんなにどう伝わっているんですか?」
「公式には、原因不明の症状で倒れたことになっているわね。
 そのせいで、ここ3年程度の記憶をすっぱり失っているって寸法よ。
 記憶喪失って、どこか格好良くない?」
「どこが格好いいんですか……
 それに、記憶喪失って嘘を吐いても……」

 はあっとため息を吐いたシンジに、「間違ってないでしょ?」と山本は言い返した。

「記憶操作後の記憶をなくしたんでしょう?
 だったら、記憶喪失って言うのもあながち間違ってないと思うわよ。
 だって君には、その間に別の記憶があるわけじゃ無いでしょ?」
「そう言われれば、確かにそうなんですけど……
 でも、それってどこか違っていませんか?」

 確かに記憶をなくしたのだから、記憶喪失というのは間違っていないのだろう。だからと言って、それを素直に受け取れるかというのは別物だった。顔色を悪くしてため息を吐いたシンジに、「嘘じゃ無いでしょ」と山本は繰り返した。

「そんなことより、目的地に着いたわよ。
 ようこそS基地へ、ここが世界を守る主要拠点の一つよ!」

 車が止まったところで、厳つい顔をした兵士がドアを開いてくれた。しかも渋々車から降りたシンジに向かって、背筋を伸ばして敬礼までしてくれた。その感激した顔を見れば、自分がどう思われているのか一目瞭然だった。

「ねえ山本さん、本当にやめませんか?」

 しかも歩いて行く途中で、嫌と言うほど多くの視線を感じてしまうのだ。そこまで見られるというのも、シンジには苦痛以外の何物でも無かった。
 だからやめたいと訴えるシンジに、山本は怒鳴りたくなる気持ちを抑えていた。どうしてそこまで卑屈に、そして後ろ向きになれるのだ。いい年した男なんだから、子供のように甘えるんじゃ無いと言いたかった。

 その衝動を押さえ込んで、山本はなんの変哲も無い部屋にシンジを連れ込んだ。その部屋にあったのは、ごく普通のオーバル型をした会議机と、少し低めの椅子だけだった。会議室として考えると、10人程度が使う会議室だろう。

「ここで座って待っていれば良いんですね?」
「そっ、給茶機があるけど、何か飲みたいものはある?」
「給茶機って、お茶ぐらいしかないと思いますけど……」
「ところがどっこいっ!」

 自分の手柄でも無いのに、なぜか山本は偉そうに給茶機を指さした。

「コーヒー紅茶、ココアからコーンスープまで揃っているわよ。
 美容に良い、ホットレモネードまでメニューにあるって優れものなのよ!」
「ここって、自衛隊ですよね……」

 とても場違いな給茶機に、シンジはどうしてと首をひねった。だがそんなことはどうでも良いと、山本は「何が良い?」と聞き直してきた。

「ええっと、じゃあ、ココアで……」
「あらぁ、甘ちゃんねぇ。
 こう言う時は、大人ぶってブラックコーヒーを頼む物よ」
「ブラックコーヒーなんて飲んだことがありませんよ……きっと苦いんでしょう?」
「そう、じゃあ、何事も経験って事でっ!」

 そこで押しつけるのなら、希望を聞くんじゃ無い。そう文句を言いたいのを我慢して、シンジは紙コップのブラックコーヒーに口を付けた。やはりというか、苦くて喉を通ってくれなかった。

「どうして、こんなにおいしくも何ともない苦い飲み物をありがたがるんですか?」
「う〜ん、大人になると、この苦みがおいしく感じられる物なのよ」

 そう言っているくせに、山本はミルクのたっぷりと入ったコーヒーを飲んでいた。言行が一致してないよなと考えながら、シンジは「帰りたいなぁ」と憂鬱な気持ちを抱いていた。
 だが自分から帰るとは言えないし、誰も帰っても良いと言ってくれなかった。だから「嫌なのに」と心の中で唱えながら、シンジは苦痛が早く過ぎ去りますようにと、体を丸めて椅子に座っていた。

 二度とコーヒーにも口を付けず、体を丸めたまま5分と言う時間が経過した。待っているのだから誰かが来るのは当然なのだが、響いてきたノックの音にシンジは驚いたようにびくりと体を震わせた。
 もっとも、山本にしてみれば、ある意味厄介払いが出来ることになる。「はいはぁい」と嬉しそうに、ドアの所まで来客を出迎えに行った。

「お待ちしていましたぁ〜」

 あくまで軽く、山本は女子高生達を出迎えた。当たり前のことだが、やってきたのはマドカを初めとした、S高ジャージ部の4人娘達だった。
 少女特有の華やかさに当てられたシンジは、緊張半分、おっかなびっくり椅子から立ち上がった。その様子を一目見たマドカは、「なるほどねぇ」とナルと一緒に大きく頷いてくれた。

「ええっと、初めまして碇シンジです……」

 少し前まで知り合いだったことを考えると、「初めまして」と言う挨拶はおかしな事に違いない。だが、シンジにとってみれば、マドカ達とは初対面だったのだ。かなり緊張して頭を下げたシンジに、マドカは笑顔を作って「S高3年の遠野マドカよ」と自己紹介した。

「そして、ここに居る4人が、碇君と一緒の部活動をしていた4人よ。
 S高ジャージ部、困っている人の味方をするのが部活のモットーになっているの。
 と言うことで、自己紹介をしていきましょうか。
 さっきも言ったけど、3年の遠野マドカよ。
 碇君に引き継ぐまでは、ジャージ部の部長をしていたわ」
「同じく3年の鳴沢ナルよ。
 ジャージ部って言うのは、私とマドカちゃんが1年の時に作ったクラブなの。
 2年になって碇君が入部してきて、ますます発展していったのよ」

 よろしくと言われて、シンジは「こちらこそ」と恐縮した。

「1年の堀北アサミです。
 碇先輩に憧れて、ボランティア部に入部しました。
 中学2年までは、アイドルをしていましたっ。
 碇先輩、これからもよろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ……って、ええっ!」

 とっても綺麗な子だなと思って聞いていたのだが、「堀北アサミ」と言う名前が脳に届いたところで、シンジは大きな声を上げてしまった。まさかこんなところで、憧れのアイドルに会えるとは思ってみなかったのだ。そのあたり、最後の最後まで情報を絞った山本のせいでもあったのだ。

「ほ、堀北アサミさんって、あの堀北アサミさんですかっ!」

 よほど動揺したのか、その質問はまともな質問になっていなかった。それでも意味が通じたのか、アサミは「そうですよ」とにっこり笑って見せた。

「でも、とっても複雑な気分ですね。
 碇先輩は、初めて会ったとき私のことをまったく知らなかったんですよ。
 だからみんなに、さんざん非常識だって責められていました」
「た、確かに、それは非常識すぎると思う……
 僕達の歳なら、アサミちゃん……堀北さんのことを知らないはずが無いと思う。
 あっ、僕が何か悪いことを言いましたか?」

 いきなりアサミの瞳に涙が浮かんだのを見て、シンジは自分が何か悪いことを言ったのかと慌てた。

「ご、ごめんなさい、何でも無いんです」

 そう言って涙をぬぐったアサミは、順番をキョウカに譲った。

「篠山キョウカだ……です。
 碇先輩には、色々とご指導いただきました。
 これからも、よろしくお願いします」

 黒髪ロングのお嬢様が、少し頬を染めて頭を下げてくれたのだ。アサミに驚いたシンジだったが、キョウカに対してもしっかりと意識をしてしまった。このあたりの好みは、記憶改竄を乗り越えた物だったのだろう。

「こちらこそよろしくお願いします……」

 自分を見る目がとても優しかったことに、シンジは少しだけ安堵を感じていたりした。しかも相手が美少女揃いだったため、別の意味でしっかりと緊張もしていた。

「じゃあ、ここから先は若い人同士でお話をしてね」

 まるでお見合いの席のようなことを言って、山本はさっさとその場から逃げ出してくれた。だがシンジにとってはそれどころでは無かったし、マドカ達もどうでも良いと思っていた。ただ問題は、話を切り出すきっかけが難しいと言うことだった。
 それでもきっかけが必要と、マドカが代表として口火を切った。

「ええっと碇君、私達のことはどこまで聞いているの?」
「どこまでって……皆さんのことは、何も教えて貰っていませんでした。
 ここに来るのも、僕を知っている人に会わせると言われただけですから……」
「そう、だったら、私達との関係は知らない訳ね。
 もう一つ、以前の碇君のことはどこまで聞いているの?」

 普段通りに聞いてきたマドカに、シンジは緊張しながら「戦いは全部見ました」と答えた。

「後は、M市の戦い前に行われた記者会見も見せて貰いました。
 仲間のパイロットのことは、まったく教えてくれませんでした」
「なるほど、そこまで隠したのかぁ」

 うんうんと頷いたマドカは、「私達がパイロットよ」と正体を打ち明けた。せっかくどっきりを仕掛けてくれたのだから、それを有効に活用しようと考えたのだ。
 だがせっかくのどっきりも、仕掛けられた方が驚かなくては意味が無い。至極あっさり「そうですか」と返され、マドカはつまらないと唇をとがらせた。

「そこは、思いっきり驚いて欲しかったんだけどなぁ」
「ここまでの話を聞いていれば、すぐに予想が付くと思いますよ。
 それに、山本さんの性格を考えたら、それぐらいのどっきりは予想できましたから。
 だいたいこんなところで合わせるんですから、仲間のパイロットだと考えるのが自然でしょう?」

 シンジの答えに、マドカは「ちっ」と小さく舌打ちをした。せっかく驚かせようとしたのに、まったく意味が無くなってしまったのだ。しかも言い返してきた言葉が、記憶をなくす前と同じでとても理屈っぽかった。
 そんなマドカに、「教えてください」と逆にシンジが切り出した。

「皆さんが入ってきたとき、僕を見て「なるほど」って納得していましたよね。
 あれって、いったいどう言う意味なんですか?」

 そのあたりが分からないと、シンジとしても気持ち悪いことこの上なかったのだ。だからその理由を尋ねたのだが、返ってきた答えは予想とはまったく違った物だった。

「碇君は、この3年の記憶がまったく残っていないんでしょう?
 私達は、碇君が3年前に戻るって説明されたのよ。
 だから部屋に入ったときに碇君を見て、想像通りだったなって思った訳よ」
「想像通り……ですか」

 そこで暗くなったシンジに、「これよこれ」とマドカとナルは手を叩いて喜んだ。

「アサミちゃん、キョウカちゃん、これが私達が初めて会った時の碇君よ。
 二人とも良かったわね、見てみたかった碇君が目の前に居るのよ」
「あのぉ、それって喜ばれることなんですか?」

 どうも期待と違う反応が違っていると、シンジは戸惑いを隠すことは出来なかった。まさか、情けない自分を前に喜ばれるとは思ってもみなかったのだ。

「二人とも、完璧超人の碇君しか知らないのよ。
 だから私達が昔話をすると、とっても悔しそうにしてくれるのよね。
 今の碇君は、S高に入学してきたときとまったく同じなのよ。
 見た目については、ずいぶんと格好良くなったんだけどねぇ」

 うんうんと頷いたマドカは、「他に聞いていることは?」と確認した。アサミを見て驚いたのだから、一番重要なことは聞いていないだろうと当たりを付けたのだ。

「他にと言われても、あまり教えて貰っていませんでしたから……
 これまで行われた6つの戦いを見るので精一杯だったと言うか。
 さっきもありましたけど、人間関係については教えて貰っていないんです」
「そう、じゃあ良いことを教えてあげるから目を閉じてくれるかな?」
「良いことって……目を閉じれば良いんですか?」

 話しやすい人だなと、シンジはマドカのことが気に入っていた。含むところのありすぎる大人達に比べ、本当に自然体で自分に向かい合ってくれていたのだ。

「そう、椅子に座ったままで良いわよ」

 にやりと口元を歪めたマドカは、さぁとばかりにアサミの背中を押した。色々と思いはあるが、やはりアサミが優先されるべきだと考えたのだ。
 マドカが何を考えているのかは理解できたし、それぐらいのことはしても良いと思っていた。それでも、アサミの中に、複雑な思いがあったのも確かだった。目の前に居るシンジは、自分が愛した人と同じ顔、同じ体をした別人なのだ。記憶喪失と考えれば、「別人」と考えるのは飛躍しすぎなのだが、経緯を考えると別人だと思えてしまう。

 それもあって少し迷ったアサミだったが、もう一度自分の思いを確かめてから席を立った。これから先、そのままの形で自分の愛した碇シンジが帰ってくることは無い。それでもいつか取り戻してみせると、アサミは誓っていたのだ。
 だからゆっくりとシンジに近づいたアサミは、息を止めて優しく唇を重ねたのだった。

 何があるのかとおっかなびっくりだったシンジは、人の気配が近づいたところで緊張から身を固くした。そして唇に柔らかな感触を覚えたところで、「えっと」驚いて目を開いた。そしてそこに居たのは、恥ずかしそうにしたアサミだった。

「えっ、ええっ!
 ち、ちょっっと、あああの、こ、これはっ」

 言葉にならない声を上げて狼狽えたシンジに、マドカ達3人は「よしっ」と拳を握りしめた。それぐらい、シンジの反応は期待を裏切らなかったのだ。

「碇君に恋人が居たことぐらいは聞かされているでしょう?
 その恋人と言うのが、目の前に居るアサミちゃんなのよ」
「そうそう、もうリア充全開で当てられっぱなしだったのよねぇ」
「えっ、その、ちょっと、なんで、その、あの……」

 恋人同士と言われても、そんなことをすぐに信じられるはずが無い。しかも憧れの人が相手と言われて、シンジの頭は完全にパニックになっていた。

「いやぁ、さすがにアサミちゃんは強力すぎたか」
「先輩、お茶でも飲んで落ち着いてくださいね」

 いつの間にか用意されたお茶を手渡され、シンジはそれをぐいっと飲み干した。この際中身が何かなど、本当にどうでも良いことだった。おかげで多少マシになったのだが、上がってしまった鼓動は収まってはくれなかった。

「もう一度キス、しますか?」
「い、いやっ、あの、ひ、人が見ているからっ!」

 声を裏返して慌てるシンジに、アサミは「くすり」と笑って「分かりました」と答えた。そして椅子を引いて、シンジの隣に腰を下ろした。

「ほ、堀北さんっ!?」
「隣に座るだけですから安心してくださいね」

 そう言って顔を見て微笑まれるだけで、シンジは頭に血が上ってくるのを感じてしまった。それをおもしろそうに見ていたマドカは、そろそろ良いかとシンジに声を掛けた。

「どう、さすがに驚いた?」
「そ、そりゃあ、もうっ。
 で、でも、本当に堀北さんがもう一人の僕の恋人だったんですか!?」
「アサミちゃんが、恋人じゃ無い人にキスをすると思うの?
 これは、ドラマなんかじゃ無いのよ」

 そう言われれば、絶対に「思う」などと答えられるはずが無い。だがそうなると、本当に自分の恋人が憧れのアイドルだったと言うことになる。「英雄」と呼ばれていたことを忘れ、自分はいったいなんだったのかとシンジは驚いていた。

「ようやく納得してくれたみたいね。
 ちなみに教えておくけど、私とナルちゃんは振られ組なのよ。
 そしてキョウカちゃんは、浮気相手になれないか条件闘争中だったのよ。
 ちなみにキョウカちゃんは、篠山家って言う町一番のお金持ちのお嬢様よ」
「そ、そんなことを言われても……」

 とてもでは無いが、シンジの理解の範疇を超えていた。頭の中を沸騰させたシンジに、「普通はそう思うよね」とマドカは言った。

「でも、それが私達にとっての碇君だったの。
 まあ、振られた私とナルちゃんは、お姉さんの役目をしていたんだけどねぇ。
 さすがに、アサミちゃん相手には勝ち目がなかったのよ。
 だから、そう言う関係も良いかなって思っていたわ。
 でもさぁ、よーいドンだったらって、アサミちゃん、冗談よ冗談」

 アサミに睨まれ、マドカは慌てて自分の言葉を取り消した。

「でも、私とナルちゃんは碇君の顔を見て安心したわ。
 酷いことをされたって聞いていたから、本当に帰ってきてくれるのか心配していたのよ。
 でも、こうして話してみると、やっぱり碇君なんだなって思ったから」
「でも、僕は全然違うと思うんですけど……
 僕は、あんなに立派じゃないし、凄いことは全然出来ませんよ」

 見せられた記録が凄すぎるだけに、同じと言われてもシンジには納得がいかなかった。だが「違う」と主張するシンジに、マドカは「同じだよ」と繰り返した。

「でも、私とナルちゃんの記憶にあるのは、「勘弁してください」って眉毛をハの字にした碇君なのよ。
 その顔って、ちょうど今の碇君がしているのと同じなのよ。
 なさけなくって、だめだめで、運動神経ナッシングだった碇君を私達は知っているのよ。
 たぶん学校に行ったら、クラスメイトも同じ事を言うんじゃ無いのかな?
 完全に振り出しに戻ったわけじゃ無いんだから、もう一度始めれば良いんじゃ無いのかな?」
「もう一度始めるんですか……
 それって、僕にパイロットになれって言っているんですよね?」

 ああ、これで優しくしてくれる理由が分かってしまった。やっぱり人が優しくするときには、絶対理由があるのだとシンジは落胆したのである。
 落胆を顔に出したシンジに、「まさか」と言ってマドカは笑いとばした。

「私達の知ってる碇君は、パイロットだけがすべてじゃ無いのよ。
 ジャージ部でボランティア活動をしたり、他のクラブに助っ人に行ったり。
 温泉旅行で簀巻きにされたりとか、それも全部私達にとっての碇君なのよ。
 パイロットのことで悩むのは、後藤さんに任せれば良いと思っているわよ。
 パイロットになりたくないんだったら、無理してなる必要なんて無いわよ!
 誰かが文句を言うんだったら、その誰かを私達が黙らせてあげるわよ!」

 任せなさいと胸を叩いたマドカに、シンジは少し救われた気持ちになっていた。マドカの顔を見ていると、騙されているとはとても思えなかった。本当に裏表の無い、竹を割ったような性格だというのが分かるのだ。

「ああ、一応言っておくけど、パイロットになるなとも言わないわよ。
 碇君のおかげで、ギガンテスを倒すのも難しくなくなったわ。
 それでも何が起こるのか分からないし、やっぱり碇君が居てくれれば安心感はあるもの。
 私やナルちゃん、アサミちゃんにキョウカちゃんは、ずっと碇君の背中を見てきたんだからね」
「で、でも、僕は違うんですよ……」

 4人の憧れる、立派な碇シンジでは自分は絶対に無い。安心感を与えられることなど、絶対に無いとシンジは“分かって”いたのだ。だが「違う」と言うシンジに、「違わないよ」とマドカは繰り返した。

「碇君は碇君だよ。
 15歳までの碇君、去年までの碇君、そして今の碇君は全部碇君だと思っているのよ。
 そりゃあ、今までは完全に碇君に頼っていたけどさぁ。
 だから碇君が「違う」って言いたくなる気持ちも理解できるわよ。
 何も分からないところに来て、いきなり今まで通りって言われても困っちゃうよね。
 でもさあ、それでも私達は碇君が居てくれるだけで安心できるのよ。
 碇君が見ていてくれるだけで、絶対に大丈夫って思えるんだ。
 だから、しばらくは無理をしないで見ていてくれるだけでも十分なんだよ」
「……本当に、そんなことで良いんですか?」
「“急がば回れ”ってことわざがあるのよ。
 何かをするにしても、ちゃんと準備をして腹を決めてからじゃ無いと駄目なことが多いのよ。
 パイロットなんてさぁ、絶対自分の意思でならないといけないと思うのよ。
 ちゃんと自分で考えて、どうするのが一番良いのか納得して……
 高知の時だってね、出撃するんだって私が騒いだとき、碇君が叱ってくれたのよ。
 困っている人を助けたいって気持ちは大切だけど、周りを巻き込むことを考えないといけないって。
 ただパイロットになって出撃するだけじゃ駄目で、
 どうしたらみんなを助けられるのか考えなくちゃいけないのよ。
 そうしないと、結局みんな不幸になっちゃうだけだって。
 結局碇君が悩んで悩んで、考えて考えて、その結果が高知の奇跡に繋がったのよ。
 碇君の事情を知っている人たちも、無理に乗れとは言わなかったわね。
 その人達も、次に備えるんだって諦めていたみたいよ。
 とまあ、格好良いことを言ってみたけど、碇君は結構大変な目に遭うのは覚悟してね」
「な、なんですか、大変な目ってっ!」

 良いことを言っているときに、いきなり脅し文句を言われたのだ。過剰に反応したシンジに、「だって」とマドカは口元を歪めた。

「学校に戻ったら、高校2年から始まるのよ。
 この3年間の記憶が無くて、勉強について行けるのかなってね。
 キョウカちゃんと一緒に、中学から勉強のやり直しをしないといけないかもよ。
 それに、一応生徒会長なんかになっているから、生徒会の仕事もしないといけないし。
 ジャージ部部長の仕事も待っているんだからね。
 どう、パイロットに関係なく、結構大変だと思わない?
 でもさ、もっと大変なのはレイちゃんとの関係だと思うのよ」
「綾波のことですか?」
「そっか、碇君はレイちゃんのことを知っていたんだ。
 綾波って言うのが、本当の名字だったのね」

 そのことは教えて貰っていなかったため、マドカ達は少しだけ驚いた顔をした。

「碇君が倒れた後、レイちゃんはうちで預かっているわ。
 碇君が目を覚ましたんだったら、この先どうするのかを考えないといけないでしょう。
 今まで通り、兄妹として一緒に暮らしていけるのかとか、
 色々と考えなくちゃいけないことがあると思うのよ」
「確かに、これからのことを考えないといけないんですね……」

 マドカに指摘されたことは、一つ一つ問題だとシンジも理解させられた。パイロットに関係なく、普通の生活に戻っていく必要があるのだ。その時には、学校の勉強もしないといけないし、家族の問題も解決しなくてはいけなかった。事実が公表されることが無いと考えると、綾波との関係も継続させていく必要があるのだろう。

「先輩から見て、あ、レイはどんな感じですか?」
「レイちゃんかぁ、とっても良い子よ。
 明るいし、働き者だし、とっても可愛いしねぇ」

 そう言って、マドカはレイの親友アサミに話を振った。

「お兄ちゃん大好きっ子でもありますね。
 先輩の前では、結構ずぼらなところもあったんですよ。
 今は料理部に入っていて、学園祭では活躍していたんです。
 先輩のせいで、恋人が出来ないって嘆いていましたよ」
「レイが、ですか……」

 その話を聞く限り、自分の知っている綾波レイとは別人としか思えない。驚いたシンジに、アサミは「はい」と言ってスマホに映ったレイの写真を見せてきた。

「これが、レイ……」

 髪の色とか瞳の色とか、自分の知る綾波レイとは別人の少女がそこには写っていた。だがじっくりと写真を見てみると、レイの面影がはっきりと残っていた。

「そうか、レイは幸せだったんですね……」
「碇君が帰れば、レイちゃんだって嬉しいと思うわよ。
 すぐには難しいかもしれないけど、今まで通り兄妹としてやっていけるんじゃ無いの?」
「そう、なんでしょうか……」

 今まで通りと言われても、シンジが今までを知っているわけでは無い。ただ髪の色が茶色くなったレイを見て、なぜか懐かしさを感じてしまった。

「私達の目から見たら、二人は本当に仲の良い兄妹に見えたわよ。
 だったらさあ、そう思ってやり直してみるのも良いんじゃ無いのかな?」
「そう、ですね……そうだと思います」

 記憶操作後一緒に住むのは、もともと自分がお願いしたことだったはずだ。それを考えれば、記憶が戻ったからと言って、離れて暮らす理由は無いはずだ。
 マドカの言葉に頷いたシンジは、「ありがとうございます」と頭を下げた。目が覚めて4日間、頭の中は色々なことでごちゃごちゃになっていたのだ。そのごちゃごちゃとした物が、マドカ達のおかげでかなりすっきりとした気がしてきたのだ。

 頭を下げたシンジに、「どういたしまして」とマドカは胸を張った。その態度が偉そうでおかしかったので、思わずシンジは噴き出してしまった。

「いやぁ、それはちょっと失礼じゃ無いのかなぁ」
「でも、先輩の態度がおかしくって。
 でも、感謝しているのは本当なんですよ。
 おかげで、少し気持ちが楽になって気がしているんです」

 それは、シンジの顔を見れば理解することが出来た。初めて会った時の暗さ、卑屈さが影を潜めていたのだ。そうなると、マドカの記憶にある“可愛い“シンジのことが思い出されてしまう。

「まあ、お礼はお礼として受け取ってあげましょう。
 それで碇君、これからどうすることになっているの?」
「それは、僕にも分からないんですけど。
 いつか社会復帰しないとは分かっているんですけど、それがいつかなのか分からないんです」
「いきなり帰ってくるってのも、なかなか難しいか……」

 レイの事とか考えると、受け入れも難しくなってしまうのだ。「記憶喪失」とすでに発表されているが、だったらどうすると言うのは誰にも分かっていなかった。
 これが、アサミやマドカのようにしっかりとした家族がいれば問題はなかったのだろう。だが、妹のレイ一人では、記憶喪失の兄の面倒を見ることは出来ない。かと言って、いつまでも山本と一緒に居るのもおかしかった。

 ただ、いつまで考えてもマドカにはどうして良いのか分からなかった。だからマドカは、分かる人間を呼びつけることにした。

「おばさぁん、こっちに来てくれるかなぁ」

 なぜか天井に向かって、マドカは呼びかけてくれた。それがおかしくてシンジが首を傾げた瞬間、とても荒々しく会議室のドアが開かれた。

「だ、誰がおばさんよ!
 さ、31歳の女ざかりなのよ!」
「でも、ここにいるのは全員10代だよ。
 一回り違ったら、十分におばさんだと思うんだけどなぁ」

 あっけらかんと地雷を踏みつぶしたマドカに、山本の顔はこれ以上ないほどひきつっていた。だが相手が相手と言うこともあり、さすがの山本も爆発することが出来なかった。

「そ、それで、私に何の用があるのよ」

 それでも、震える声が心中を表しているのだろう。指先が震えているところを見ると、よほど精神的に堪えているのかもしれない。もっとも「おばさん」と呼んだ方は、そんなことを全く気にしていなかった。

「碇君なんだけど、これからどうするのかなって。
 色々と考えけど、いつまでもおばさんと一緒に居ない方がいいと思うんだけど」
「おばさん、おばさんって言わないでよっ!」
「だってぇ、名前も教えてもらっていないんだもん」

 だからおばさんと、マドカは更に山本の神経を逆なでしてくれた。

「わ、私には、山本エヴァンジェリン・ヨウコって名前があるのよ!」
「じゃあ、山本のおばさん、碇君はいつ返してもらえるんですか?」

 悪意があるのかと言いたくなるほど、マドカは執拗に「おばさん」と言い続けた。

「只今検討中よ。
 今日の様子を観察させてもらったから、その結果を見て判断させてもらうわ!」
「だったら、可及的速やかに返してもらえますか?
 悪いんですけど、私達はおばさんのことを信用していないんです。
 おばさんも、碇君の頭の中をぐちゃぐちゃにした人の仲間なんですよね」
「わ、私は違うわよっ!」

 慌てて言い返した山本に、「信用出来ません」と今度はアサミが口を挟んだ。

「中2の先輩のカウンセリングをしたのが山本さんなんですよね?
 それからの3年間、先輩がどうなったかは当然知っているんですよね?
 だとしたら、山本さんも共犯者だと思いますけど。
 そのくせ、またいけしゃあしゃあと先輩の担当をしているんですね。
 今度は、先輩がヘラクレスに乗るように誘導することがお仕事なんでしょう?」

 アサミの指摘は、山本の受けた命令その物だった。だがそれをここで認める訳にはいかないと、「社会復帰が自分の役目だ」と言い返した。

「そのために、私達の戦いを最初から見せたんですか。
 しかも最後の最後に、英雄と同一人物だと教えて。
 そうやって逃げ場のない所に追い詰めて、自分からパイロットになるように誘導しているんですよね。
 それが山本さんの言う社会復帰なんですか?」
「自分が、この3年間何をしてきたのかを知る必要が有るでしょう。
 それを、できるだけショックの少ない形で教えてあげただけよ!」

 こちらの方は、山本にとって専門分野だった。だからアサミの指摘に、適切な方法だと言い返すことが出来た。だがアサミには、その説明も通用しなかった。

「この3年間の事を知る必要が有るのは認めますよ。
 でも、先輩が目覚めてからまだ4日しか経っていないんですよね?
 ショックの少ない形でって言うくせに、やけに慌てて説明したんですね。
 それって、ゆっくり精神が落ち着く前に情報を圧縮して押しこむってことですよね。
 そうやって正常な判断を出来ないようにして、思った方向に誘導していく方法でしたね」

 的確に痛い所を突いたアサミは、シンジと再会した時の観察を口にした。

「私達が入ってきた時、先輩はかなり追い詰められた表情をしていました。
 遠野先輩と話をしていて、かなり表情からこわばりが取れているのが分かるんです。
 なぜ、いきなりパイロットとして活躍したことを教えたんでしょうね。
 そんなことを教えるから、私達と会うことにもストレスを感じてしまうんですよね。
 もしも記憶の入れ替わりを教えられただけなら、もっと気楽に会えたと思いますよ。
 まともに考えれば、そこに意図があると考えませんか?」
「現実は、早めに認識させた方が回復に役立つという研究があるのよ」

 「だから素人は」、そう言って嘲った山本に、「うそばっかり」とアサミは言い返した。

「私達が利用できると考えたのなら、初めからそう言えばいいのに。
 プレッシャーを掛けて追い詰めて、どうしようも無くなった所で私達に救わせたんでしょう?
 私達を依存の相手にして、私達に引っ張られる形でパイロットにする。
 回復って言いましたけど、先輩はどこにもおかしいところはないんですよ。
 そうやって問題をすり替えて、私達を煙に巻こうとしているんです。
 山本さんって、軽そうに見せる演技をしているんですけど、目が裏切っているんですよね」
「それが目的で、わざわざ「おばさん」って連呼したわけね」

 ふんと鼻で笑った山本に、「おばさんは事実ですから」とアサミは挑発的に言い返した。

「短いスカートに生足なんて勘違いをしているからおばさんなんですよ。
 化粧だってやけにチークが濃いし、口紅も赤すぎますね。
 その格好で胸元を開くところなんて、舞台じゃ娼婦の扮装だって知ってます?
 そう言う願望があるのか、さもなければ、そうやって周りを煙に巻いているのか。
 たぶん、山本さんは後者のつもりなんでしょうね」
「まだ子供のくせに何を言っているのやら」

 バカにしたように言い返した山本に、「子供のくせにですか?」とアサミは口元を歪めた。

「そうやって本筋に関係の無い年齢を持ち出すのは、言い返す言葉に困ったときですよ。
 さあ、私達の先輩を返してもらいましょうか」
「……どうなっても知らないからね」

 「後の責任は持たない」と脅し文句をいった山本に、「演技は通じませんよ」とアサミは口元を歪めた。

「初めっから、一緒に返すことも選択肢の一つに入っていたんですよね。
 私達が先輩を受け入れて、先輩が普通の生活に戻ることを考える。
 その条件を満たしたんだから、元の生活に戻してもいいはずです。
 これ以上山本さんと一緒にいても、先輩に普通にやっていく自信なんて付きませんよ」
「素人のくせに、いっちょまえのことを言ってくれるわね」

 ふっと口元を緩めた山本は、「好きにすればいいでしょう」と投げやりに言い返した。総理大臣さを動かすことが出来る少女達相手に、いくら突っ張っても勝ち目などどこにもないのだ。しかも言っていることは、悔しいことにこちらの考えを言い当ててくれている。「子供のくせに」とバカにして言ったが、むしろ「子供なのに」と驚いている方が正解だった。
 もっとも、そんなことを顔に出すほど山本も若くはない。手強すぎる少女達、特にアサミは手強すぎるのだが、あいにく対象Iこと碇シンジは少女達ほど肝が座っていなかった。だから山本は、矛先をシンジに向けることにした。

「それで君は、このまま彼女達と一緒に帰ってもいいと思っているのかしら?」
「そ、それは……」

 自分のことなのに傍観者へと追いやられていたシンジは、急に話を振られて慌ててしまった。マドカと話をしていて気持ちは楽になったのだが、それがすぐに帰ることには結びついていなかったのだ。
 慌ててマドカ達と山本の顔を見比べたのだが、やっぱり答えは出てくれなかった。一緒に居るのならマドカ達の方が良いのだが、本当に大丈夫なのかと言う不安が残っていた。素人と専門家、付き合いの長さもあって、専門家の方が良いようにも思えていた。

 だから山本と言いかけたシンジだったが、「先輩」とアサミに声を掛けられその言葉を飲み込んだ。しかもアサミの方を向いた所で、そっと手を重ねられた。

「堀北さん?」
「先輩は、したいようにすればいいと思います」
「あらあら、早速色仕掛け?」

 バカにしたように口元を歪めた山本に、「下卑たことを言いますね」とアサミは軽蔑した眼差しを向けた。

「恋人を励ますのが、色仕掛けですか」
「あなただって、違うってことを知っているんでしょう?」

 山本としては、会心の反撃をしたつもりだった。英雄として君臨し、堀北アサミを恋人としたのは、目の前に居る碇シンジではない。それを知っているのだから、恋人とアサミが言うのも演技だと指摘したのだ。いい気になっている子供をへこますのに、ちょうどいい反撃だと考えたのである。だがそんな攻撃は、アサミにはまったく通用しなかった。

「こう言うのを“馬脚を現す”って言うんでしょうね。
 違うことを前提に話をするってことは、なぜ違うのかを知っているということですよ。
 結局、先輩の頭の中をぐちゃぐちゃにした人達の仲間だって白状しているじゃありませんか。
 ねえ先輩、先輩の記憶操作、本当は一度行えば目的は達成できたんですよ。
 でも、貴重な実験材料だって、何度も実験を繰り返したんです。
 やり直しが効くからって、興味を優先して色々といじったって話です。
 そのせいで、中3からの先輩は、絶対に長続きしなかったんです。
 この人は、先輩が酷いことをされているのを知っていたんですよ」

 アサミの言葉に、山本は自分が致命的な失敗をしたことを思い知らされた。シンジ自身、何度も実験に付き合わされたことを記憶している。それがどういう意味を持っていたのか、そのことをアサミが暴露したのである。今更自分は関与していないと言った所で、一度芽生えた疑念は拭い去ることは出来ないだろう。

「だから、僕は何度も起こされたのか……」
「結局、この人達は先輩の前で綺麗事を言っていただけなんです。
 パイロットとして利用価値があるから、死なないように保護をしただけです」
「そ、それは言いすぎよっ!
 わ、私は、彼が精神的に追い詰められていたから、保護が必要だって上申したのよ!
 私はずっと、彼の味方だったのよ!」

 シンジの自分を見る目の厳しさに、山本は慌てて自己弁護の言葉を吐いた。だがその言葉も、アサミの前に意味のないものにされてしまった。

「精神的に不安定な子供を尋問して、TIC情報を聞き出したんですよね。
 そこで不安定になった心を、あなたがケアをして、また尋問を続ける。
 本当に味方だったのなら、最初の所で保護を上申すべきですよね?
 先輩が利用されただけと言うのは、尋問前に分かっていたはずですよ」
「堀北さん、それって本当のことなの!?」

 「誰が悪いのか、何が起きたのかを調べるために必要」だからと、シンジは辛い尋問を何度も受け来たのだ。だが、それが別の意味を持っていたと知らされ、目を大きく見開いてアサミの顔を見た。

「必要なことだからって、すべての記録を先輩と私は見せてもらいました。
 その記録を見た先輩は、酷すぎるって本気で怒ったぐらいなんです。
 子供を守るつもりなど全くない、法律を無視した尋問だと言うのが先輩の見解です」

 その点については、記録を見せた後藤も同意していることだった。だがそれを言うと迷惑がかかるので、アサミは敢えてシンジの考えだけを強調した。

「結局、先輩は急ぐ必要の無い、調査と言う名の尋問で追い詰められたんです。
 それは、今回目が覚めてから、いきなりパイロットと言うことを言われたのと同じ事なんです。
 そんなものは、もっとゆっくり、精神的に落ち着いてからすればよかったことなんですよ」
「ち、違うわ!
 ギガンテスと戦っていくためには、すぐにでも彼の力が必要なのよ!
 ゆっくりなんて、悠長なことは言っていられないはずよ!」

 世界の情勢を考えた時、山本の言っていることは間違いではなかったはずだ。だがアサミを前にそれを口にするのは、はっきり言って自殺行為だった。

「山本さん、先ほど私のことを「素人は」と言って笑いましたね。
 だったら、今度は同じセリフをお返ししますよ。
 現場も知らないドシロウトが、私に向かって偉そうなことは言わないでください。
 自分が悪者にならない所で、ぎゃあぎゃあと喚き立てて居るだけのつまらない人。
 そんな人が先輩と一緒に居ることを、私が我慢出来ると思っているんですか?
 そう言えば、まだ先輩の答えを聞いていませんでしたね?
 先輩は、この人と一緒に帰ることを選ぶんですか?」

 シンジをそのまま連れ帰らせる事は、選択肢の一つに入っていたのだ。だから最終的に連れ帰られても、自分の失点にはならないはずだった。だがアサミに誘導されて、山本は言わなくてもいいことをいくつも口走ってしまった。そのため、完全にシンジの信頼を失うことになってしまったのだ。それは、山本にとって、致命的な汚点を付けたことになる。
 そしてこれだけ裏の顔を見せつけられれば、シンジが山本と行動することはあり得なかった。だからシンジは、山本を睨んで「絶対に嫌だ」と答えたのである。

「これで、決着が付きましたね。
 用済みになったおばさんは、さっさと退場してもらいましょうか」
「このままで済むと思っているのっ!」
「その言葉、そっくりそのままお返ししましょうか?
 山本さんこそ、このまま何事も無く済むと思っているんですか?
 14歳の先輩がされたことを公開したら、間違い無く私刑の対象になるんですよ。
 ご希望でしたら、記者会見で山本さんのことを名指しにしてあげましょうか?
 そうしたら、世界のどこにも逃げ場所はなくなりますよ。
 日本政府に責任を押し付けられて、どこかで野垂れ死にすることになるんじゃありませんか?
 優しくしているうちに、尻尾を巻いて逃げたほうがいいですよ」

 山本の失敗は、子供だとアサミ達のことを甘く見たことだった。そのため対応を間違え、言わなくてもいいことまで口にしてしまった。それでも準備がなければ、アサミも不注意な発言を逆手に取ることは出来なかっただろう。だがシンジとともに分析を続けたことで、僅かなほころびすらアサミは見逃さなかったのだ。

「お、覚えてらっしゃい!」

 結局、山本は捨てぜりふを残して部屋から逃げ出していった。それを見送ったところで、アサミは「覚えておく必要なんて無いんですけど」と口元を歪め、スカートのポケットからスマホを取り出した。

「後藤さんですか?
 今の人に脅迫されました。
 身の危険を感じましたので、必要な対処をしてくださいね。
 はい、話は付いているんですね。
 じゃあ、後のことはお任せします」

 電話を切ったアサミは、そこで初めてホッとしたように大きく息を吐きだした。そしてマドカ達に視線を送り、「せ〜の」と合図をした。

「お帰り!」

 アサミとマドカ、ナルにキョウカは、声を揃えてシンジに声を掛けた。

「お、お帰りって……山本さんも言ってたけど、僕は違うんだけど」
「遠野先輩も言いましたけど、どこも違っていませんよ。
 先輩は、ただちょっと私達のことを忘れているだけなんですよ。
 先輩の頭の中には、私達との記憶が残っているんです。
 さっきも言いましたけど、中三までの先輩、去年までの先輩、そしてこれからの先輩。
 全部、同じ碇シンジなんですよ。
 だから私達は、先輩にお帰りなさいって言うんです」

 そう言ったアサミは、もう一度シンジに向かって「お帰りなさい」と繰り返した。

「碇君、「ただいま」は?」

 それでも「ただいま」と言う言葉を口にしていいのかシンジには分からなかった。だがマドカに促され、シンジは恐る恐る「ただいま」と4人に答えた。それを受けて、4人はもう一度「お帰りなさい」と声を合わせた。

「お帰りなさい先輩。
 もう一度、私と恋をしてくれますか?」
「ぼ、僕なんかで……いいの?」

 アサミに手を重ねられ、シンジは顔を赤くして狼狽えた。憧れの人に「恋をして欲しい」とまで言われたのだ。エヴァのパイロットをしている時を思い出しても、こんな素敵な思いをしたことはなかった。

「先輩じゃなきゃ嫌なんです」

 そう言って立ち上がったアサミは、「一緒に行きましょう」と言ってシンジに手を差し出した。差し出された手を恐る恐る握ったシンジは、その柔らかさ、暖かさに感動していた。

「じゃあ、私達の居場所に帰ろうか」
「と、遠野先輩!?」

 後ろからマドカに背中を押されたシンジに、ナルが「冬休みは残ってるからね!」と微笑みかけた。

「そうだな、先輩には俺の晴れ着姿も見てもらわないとな」
「明日、みんなで初詣に行きましょうか」
「レイちゃんも誘って行かないとね」

 ナルやキョウカにも手を引かれたシンジは、頭に淀んでいた澱が消えていくのを感じていた。山本から感じた作為も、アサミ達からは全く感じられない。自分がここにいることを、全員が素直に喜んでくれている。それが感じられるだけでも、シンジは救われた気がしていた。

「とりあえず、私の家までレイちゃんを迎えに行きましょう」
「だったら、碇先輩の家で退院祝いのパーティーをしませんか?
 高村先輩や大津君も呼んであげると喜ぶと思いますよ」
「そうね、碇君が元気なところを見せてあげるのが一番ね」

 「よし決定!」アサミの提案に、マドカは一も二もなく飛びついてきた。その辺り、「お祭り好き」と日本全国に知られるだけのことはある。

「じゃあ、後藤さんに頼んで車を出してもらいましょう」
「葵さんに頼んで、食べ物を仕入れてもらおうか?」
「そうですね、私の手料理は明日からということにします」

 少女達の華やかさに当てられ、シンジはどこかむず痒いものを感じていた。本当なら色々と解決すべきことがあるはずなのだが、今はこれでいいのかと思えてしまった。くよくよ悩んだ所で、今の自分に出来る事はない。だったら、この状況を受け入れる方が、よほど前向きだと思えていたのだ。



 重要な顔合わせと言うこともあり、シンジのいる部屋は完全にモニタされていた。その辺の事情をマドカ達が知っていたのは、天井に向けて「おばさん」と言ったことからも明らかだろう。
 そしてモニタルームで、後藤と神前はアサミと山本のやり取りを苦笑交じりに眺めていた。相手を子供と見て甘く見た結果、回復不能なまでに叩き潰されてしまったのだ。この辺り、自分達が犯した失敗を見せつけられた気持ちになってしまった。

「さすが、彼の性格が完璧に分析されているわね。
 この辺り、全部堀北さんの書いた筋書きかしら?」

 マドカを見る限り、とても自然に振舞っていたのだ。演技ができる質でないことを考えれば、ここでのやり取りはマドカの本心に違いない。だがアサミに目を向けた時、それが本心かどうかは神前にも判別できなかった。だから神前は、「アサミの書いた筋書き」と言って後藤に話を振ることにした。
 だが話を振られた後藤も、「さあ」と言って言葉を濁した。百戦錬磨の後藤にも、今のアサミの演技を見極めることが出来なかった。それでも言えたことは、好ましい方向にシンジが誘導されたと言うことだった。

「あそこまでされたら、碇シンジも頑張らざるをえないだろう。
 いや、むしろ自発的に頑張ろうとするに違いない。
 それが彼女の書いた筋書きと考えるのかどうかは、俺にも見極めることは出来ないな。
 それに、この状態が続くのであれば、無理に見極める必要もないだろう」
「まあ、彼女達に任せた以上、黙って見守るしか無いのも確かね……」

 つくづく凄いと感心した神前は、「それで」と言ってもう一人の当事者を話題にした。ただこの当事者は、少女達によって強制退場させられていた。

「彼女、どうするつもりなの?」
「内調の早川とは話が付いている。
 今後、あの女には俺のところからガードが付くことになった」
「ガードね……監視の間違いじゃないのかしら?」

 監視とガード、常に身辺を張っているのだから、やっていることに大差は無いだろう。そしてアサミとした約束を考えれば、ガードと言うより監視という方が役目としてふさわしかった。
 それを当てこすった神前に、「ガードだ」と後藤は真面目な顔で繰り返した。

「だから、必要と判断した時には直ちに身柄の確保を行う手はずだ」
「まっ、鼻持ちのならない女だから、別に構わないけど」

 さっさと山本を切り捨てた神前は、一緒に基地を出て行くアサミ達の映像へと視線を向けた。

「ギガンテスが襲ってくるとしたら、今月中から末に掛けてよね。
 その時、彼は使い物になっているのかしら?」
「過去の亡霊が出てこない限り、彼に出番は与えられないだろうな」
「出撃はそうでも、訓練はどうするつもり?」
「訓練か……本人と彼女達の考えに従うとしか言いようが無い。
 恐らく、訓練さえさせないのではないか?」

 本人に向かって、「無理になる必要はない」とまで言ったのだから、後藤の言ったとおりになる可能性は高かった。ただそれはそれで、色々と騒ぎを起こしそうなことだった。
 だが、今やアサミの頭脳は日本の宝となっている。たとえ内閣でも、手を出せない存在となっていたのだ。しかもマスコミまで味方につけているのだから、ある意味最強と言って良かった。他基地の精鋭達にも、後藤以上に顔を覚えられていた。

「何れにしても、しばらく様子を見るほかはないだろう。
 恐らく彼女は……いや、彼はまだ碇シンジを巻き込む時期ではないと考えているのだろう」
「私達の知らない筋書きがあるはずだってやつ?」
「ここまで想定したのだ。
 無いほうがむしろ不自然というものだ。
 ただ、その筋書きの目指すところがどこにあるのかは分からないが……」

 筋書きを残した者のことを考えれば、それは恋人の幸せを目指すものと言うのは疑いようがない。ただその時のプレーヤーが誰となるのか、それが全く予想のつかないことだったのだ。だから後藤としては、この件に付いては見守る他は無かったのである。

「こうして考えると、通常兵器が使えるようになったのも、タイミングを見計らっていたように思えるわ」

 そのお陰で、パイロットのことがうるさく言われないようになった。重要性が下がったわけではないが、以前ほど扱いが神経質で無くなっていたのだ。その理由がM市の戦いにあるのだから、狙ってやったと考えてもおかしくなかった。

「その可能性については、本人しか分からないことだろうな」

 可能性は否定できないが、今更確かめようの無いことだった。そしてそれを確かめた所で、今更意味があるとも思えなかった。

「俺のやることは、このまま迎撃体制を維持していくことだけだ。
 昨日までで13万人の検査をしたが、あれ以来一人もカテゴリAにランクされていない。
 当分、現在の体制でやっていくしか無いと言う事だ」
「やっぱり、彼が抜けた穴は大きいわね」

 はあっとため息を吐いた神前に、「何を今更」と後藤は苦笑した。

「それでも、俺達は生き残っていかなくちゃいけないんだ。
 そのためには、やり難くはあっても今は堀北アサミを操るしか無い」
「確かに、あの子はやり難いわ……
 彼が用意するような落とし所をちゃんと作ってくれるのかしら?」

 同じ要求をするにしても、シンジの場合必ず落とし所へと誘導しようとしていた。だからお互い本音を隠して話もできたが、アサミの場合はその感覚が掴めていないように見えるのだ。純粋に正論を主張されると、後藤もおいそれと引けなくなってしまう。その結果敵を作りまくってしまい、自分の首を絞めることになりかねなかった。

「彼女、とっても他人にドライだから……」
「その辺り、頭のキレる女性にありがちなところなんだが……」

 手綱を握る者が居なくなった今、その賢さが裏目に出ることはないのか。一見安定して見えるアサミに対して、二人はどうしようもない危惧を抱いてしまったのだ。



 基地から出るとき、アサミはマドカとナルの二人とは別行動をとることにした。自分はシンジを連れて真っ直ぐ家に帰り、マドカにはレイを連れて来て貰うことにしたのである。
 広いセダンの後ろに座ったアサミは、隣りに座ったシンジに対して「疲れていませんか?」と声を掛けた。

「え、ええっと、特に疲れているということは……」

 長時間の車移動の後、極度の緊張状態に晒されたのだ。それを考えれば、本当なら疲れていてもおかしくないはずだった。だが今のシンジにとって、アサミと二人きりというシチュエーションの方が重要だった。子供の頃から憧れていた少女が、こうして自分に話しかけてくれる。しかももう一人の自分と恋人同士だったと教えられたのだから、冷静な気持ちでいられるはずがなかったのだ。
 それもあって、シンジは隣に座るアサミの顔をちらちらと何度も覗き見た。そして、本当に綺麗だと心の中で感激していた。「叶うならば、この幸せな時間がいつまでも続きますように」たかが町中の移動に、シンジはそんなことを願っていたのだ。

 普段回り道をすることの多い移動だが、今日の目的地はシンジの家だけだった。その御蔭で、20分もしないで車はシンジの家にたどり着いた。自衛隊の男性に扉を開けてもらい、アサミはシンジの手をとって二人で車から降りてきた。
 車から降りたところで、アサミはドアを開けてくれた男性にお礼を言った。

「ありがとうございます。
 特に、変わったことはないんですよね?」
「はい、周辺の警備は完璧に行われています。
 部屋の清掃も、業者が入って行なっています」

 アサミを前にすると、すべからく男というものは緊張するものだと相場が決まっているようだ。年齢的には子供が居るような男が、がちがちに硬くなって留守宅の状況を伝えてくれた。

「掃除までしてくれたんですか。
 いつも本当にお世話になっています」

 そこで頭を下げるのは、間違い無く男にとってご褒美になっていただろう。そこまでするかと言うほど顔を赤くして、「当然のことです」とアサミの顔を見ないで男は言った。

「でも、坂本さんのお陰で、私達は嫌な思いをしないで生活できるんですよ。
 これからも色々とお世話になるかと思いますので、よろしくお願いしますね」
「は、はいっ、喜んでっ!」

 二人のやり取りを見せられたシンジは、ネルフ時代とは違うのだなと感心していた。あの頃のガードは、自分達のことを人として見ていなかったのだ。だからとても機械的で、とても高圧的だった。それに引き換え、目の前に居る男性は、とても人間味があるように思えるのだ。アサミに対する態度も、相手を考えれば当然だと思っていた。

「じゃあ先輩、早速中に入りましょう」
「僕は、ここに住んでいたんですか……」

 記憶に無い自宅は、比較的立派な2階建ての建物だった。季節柄芝生は枯れているし、花壇もしっかり土が見えていた。それでも綺麗に片付いた庭は、住んでいる人の性格を表しているようだった。
 その光景をしばらく眺めたシンジは、「家に入りましょう」とアサミに促された。

「これから、毎日暮らす家なんですよ。
 お庭の手入れも、先輩とレイちゃんがしないといけないんですからね」

 そう言って微笑み、アサミは自分のバッグから鍵を取り出した。その鍵には、ジャージの形をしたマスコットが付いていた。

「堀北さんが、僕の家の鍵を持っているんですか……」
「不思議ですか?
 この鍵、実は先輩に貰った物なんですよ。
 先にばらしちゃうと、私の部屋も用意されているんです」

 そう言いながら鍵を開けたアサミは、「ただいま」と言ってさっさと玄関の中に入っていった。まるで自分の家のような態度に驚きながら、シンジはどうすれば良いのか考えてしまった。
 アサミの部屋があると言うことは、それだけ二人の関係が親密だったと言う証明になる。そしてこの家自体、自分が住んでいた場所では無いのだ。

「先輩、そこで悩んでも何も始まりませんよ。
 家に上がってくれないと、お茶も出せませんからね」

 「早く」とアサミに急かされ、シンジはようやく家に入る事を決断した。ただその時に口にしたのが、「お邪魔します」と言う挨拶だった。もちろん、すかさずアサミから注意を受けることになった。

「先輩、気持ちは分かりますけど、「ただいま」って言わないとおかしいですよ。
 先輩は、今日からこの家で生活するんですよ。
 はい、恥ずかしがらないでやり直しをしてくださいね」

 別に恥ずかしがっていたわけでは無いのだが、そう言われて少し気持ちは楽になっていた。
 それでも、「ただいま」とは言いにくかった。何とかつまりつまり「ただいま」と言ったところで、「お帰りなさい」とアサミが笑顔で迎えてくれた。

「じゃあ、ちゃんと手洗いうがいをしましょう。
 私に付いてきてくれますか?」
「え、あ、はい、よろしくお願いします」

 このあたり卑屈になってしまうのは、アサミに対して気後れしているのが理由だった。先輩達がレイを連れて帰ってくるまで、アサミと二人きりになってしまうのだ。普通なら色々と妄想も働くのだが、相手が相手だけに妄想もしぼんでしまっていた。
 そのあたりのことは、当然アサミは気がついていた。だが急いでも仕方が無いと、多少の卑屈さは我慢することにしていた。

 それから手と顔を洗わせタオルで拭かせてから、アサミは居間へとシンジを連れて行った。そしてソファーのいつもの場所に座らせ、キッチンに行って飲み物を用意した。
 1週間以上家を空けているのだから、本当ならば冷蔵庫の整理も必要なはずだろう。だが事前に手を打ってあったことも有り、冷蔵庫の中にはちゃんと賞味期限内の食材が揃っていた。当然お菓子のありかも分かっていたので、茶器に盛ってお茶と一緒に持って行くことにした。

「はい先輩、お茶とお菓子を持ってきました」
「あ、ありがとうございます……」

 これまでの生活で、同居していた人に優しくされた記憶は一度も無かった。それはアスカやミサトだけでなく、第三新東京市に来る前から何も変わっていなかったのだ。だから、これがアサミで無くとも、シンジが大いに感激したのは間違いない。そしてアサミに優しくされたのだから、感激するなと言う方が無理な相談だった。
 ただ、感激しながら、一方で気持ちが冷えていくのも感じていた。アサミほどの女性に、自分が優しくされる理由は一つしか無い。それは、自分の中にあると言われる、彼女の恋人の人格だった。それがあるからこそ優しくされるし、それがあるからこそ嫌われるのだと考えたのだ。

 だから出されたお茶に手を付けず、思い詰めた声で「堀北さん」と隣りに座ったアサミに呼びかけた。

「堀北さんは、僕が憎くないんですか?
 僕がこうして現れたせいで、堀北さんの恋人が消えてしまったんですよ。
 僕さえいなければ、堀北さんの恋人が消えることも無かったんですよ」

 吐き出された言葉は、アサミの事を考えた物では無い。シンジが抱えた不安、恐怖が表に出た物だった。だからこの問いかけは、アサミで無くても成り立つ物だった。そしてそれぐらいのことは、アサミもちゃんと理解していた。

「それが、先輩の抱えた不安なんですね?」

 浮かんでいた笑みを消し、アサミはお尻をずらして正面からシンジと向かい合った。そして慰めるのでは無く、かなり厳しい言葉を投げかけた。

「今ここで私が否定しても意味がありますか?
 そんなことはない、恨んでなんかいないと答えても、
 私が演技をしているだけだと思うのではありませんか?
 私の言葉一つで変わってしまうほど、先輩の抱えている物は小さくないと思っています」

 「違いますか?」と聞き返され、シンジはアサミから視線を逸らして頷いた。指摘されたとおり、アサミに何を言われても、根っこのところで信用できていなかったのだ。
 確認こそしたが、答えなど初めから分かりきっていたことだった。だからアサミは、シンジの答えに構わず話を続けた。

「聞くのは辛いと思いますけど、少し我慢して私の話を聞いて貰えますか?」
「辛い、ことなら慣れているから……」

 消極的な同意を示したシンジに、「いけませんよ」とアサミは少しだけ表情を和らげた。

「辛い事なんて、絶対に慣れることの出来ない物ですよ。
 ただ心が麻痺して、壊れているだけのことなんです。
 だから、聞きたくなければ聞きたくないって言ってくれてもいいんです。
 ただ、私はこれからの話を先輩に聞いて貰いたいと思っているんです」

 もう一度「聞いて貰えますか?」と聞き直したアサミに、シンジは黙って小さく頷いた。それを確認したアサミは、自分のことを話し始めた。

「先輩も知っていると思いますけど、私はちっちゃな時から芸能界に居ました。
 ママと歩いているときに声を掛けられたのがきっかけでした。
 それからドラマのオーディションを受けて、テレビのCMにも出て、
 幼稚園にも行けないほどテレビに出続けていました。
 それは、小学校に上がっても変わりませんでした。
 だから私にとっては、芸能界にいることは当たり前のことだったんです」

 そこで話を切ったアサミは、まっすぐ視線をシンジへと向けた。もともと綺麗だと言うこともあったが、その真剣な光にシンジは気圧される物を感じていた。

「見た目については、自分でも自信を持っていました。
 それから演技についても、絶対にうまいはずだって自信を持っていました。
 ただちょっと、歌はあまり自信が無かったのですけど……
 出してみたら、そこそこ売れちゃったんですよね。
 それだけ、俳優としての私にファンが多かったんだなあって思っていました。
 中学2年になるまで、私は芸能界をやめるなんて、一度も考えたことは無かったんです」
「ぼ、僕だって、堀北さんが引退しているなんて想像もしていなかった……」

 シンジにしてみれば、その頃のアサミは雲の上の存在だった。ずっと小さな頃から憧れていて、大きくなってもその憧れが続いていたのだ。出演していたドラマも素晴らしかったし、自信が無いと言う歌だって、とっても綺麗な声だと思っていたぐらいだ。だからアサミの引退など、想像すらしていなかったのだ。

「でも、結局中3の夏に引退しちゃいました。
 ある事件があって、パパとママが芸能界に残ることへ反対したんです。
 私も、芸能界に抱いていた夢が覚めてしまったんですよ。
 でも、芸能界を辞めたら辞めたで大変だったんです。
 周りの目は、相変わらず芸能界にいた私を見ているし、
 私自身、何をして良いのかまったく分からなかったんです。
 とりあえず勉強ぐらいしかすることが無いから、地元の進学校に入ったんですよ。
 どうして地元かと言うのは、家族から離れたくなかったからです。
 ママは世界を飛び回っているし、パパは遅くまで帰ってきませんけどね。
 でも、芸能界にいたときのように、一人で暮らすのに耐えられなくなっていたんです。
 ただ、地元のS高に入っても、何も変わらないと諦めていたんですよ。
 どうせ周りからは特別な目で見られるし、居場所も無いんだろうなと思っていました。
 そして入学してみたら、一つの例外は有りましたけど予想したとおりだったんです。
 でも、その例外が、私にとってとっても大切なことだったんですよ。
 先輩、それがなんだか分かりますか?」

 その時のことを思い出しているのだろうか、アサミの頬はほんのりと上気していた。そして今までにはない、艶っぽさを発散していた。その変化に喉をゴクリと鳴らし、「ひょっとして」と自分の存在を口にした。

「それが、堀北さんの知っている僕のことですか?」
「まあ、バレバレですよね」

 そう言って笑ったアサミは、「一目惚れでした」とシンジに打ち明けた。

「先輩は、とっても自然に接してくれました。
 背が高くて格好が良くて、今まで会った他の人とは雰囲気がまったく違っていたんです。
 でも、その時の先輩、私のことを知らなかったんですよ。
 それが、かなり癪に障ったりもしました。
 先輩の妹さん、レイちゃんと隣の席になったのも縁だと思いました。
 レイちゃんに付き合っている人が居ないと聞かされて、本当に運命って有るんだって思いましたから。
 でも、私からは告白が出来なかったんです。
 だから、一度他の人にとられちゃったんですよ。
 どうして、告白できなかったのか分かりますか?」
「そ、そんなことを言われても……」

 もともと女心など分から無いし、理解しようとしたことも無かったのだ。そんな自分に聞いたところで、答えなど分かるはずが無いと思っていた。

「その時出会ったのが、今の先輩だったら私から告白できたと思います。
 先輩って、とっても頭が良いんですけど、ある意味頭でっかちだったんですよ。
 だから何かをする前に、頭の中だけで結論を見つけてしまうんです。
 だから私のことも、住む世界が違うと初めに決めてしまっていたんですよ。
 とっても優しくしてくれるんですけど、一線を引かれているのが分かってしまったんです。
 だから振られるのが怖くて、私から告白することは出来なかった……
 自分から告白できないから、振り向いて貰えるように一所懸命誘惑したんですよ」
「今の僕だったらって……僕も似たような所はあるし……」

 もしも同じ立場だったら、自分もアサミと付き合うことは考えなかっただろう。ただその理由を考えると、「自分では絶対に釣り合わない」と言う後ろ向きの理由だった。結局到達した結論が同じでも、その理由は大きく違っていたのだ。

「でも、今の先輩は最初から私のことを知っていましたよね?
 その時の先輩は、私が誰か分かってから微妙に距離感が変わったんです。
 綺麗な女の子から、元芸能人の女の子に変わってしまったんです。
 勝手に、普通の高校生なんか相手にしないと結論づけてくれたんですよ。
 それって、とっても酷いことだと思いませんか!?」
「え、ええっと、そうだね……」

 とりあえず同意してくれたシンジに、「でも」とアサミは話を続けた。

「それでも、私は先輩のことが好きだったんです。
 でも、それがいけなかったんだって、最近になって分かりました。
 私が先輩に恋をしなければ、恋人同士にならなければ、先輩は壊れなくてすんだんです」
「そ、それって、どう言うこと!」

 半分惚気、そして半分が自分を責める話だとシンジは思っていた。これだけ大好きな人を、自分という存在が奪い去ってしまったのだ。アサミの話は、間接的にそれを責めた物だと思っていた。だから辛い話と、最初に言われたのだと。
 だが、アサミは自分が原因だと告白した。その告白は、シンジにとって想像だにしていないことだった。驚いたシンジに、アサミはもう一度自分のせいだと繰り返した。

「私と恋愛をすることで、先輩は寿命をどんどん縮めていったんですよ。
 違いますね、ここまでだったら大丈夫と言う制限を超えるようになったんですよ。
 パイロットになったのも、私がきっかけを作りました。
 こっちについては、多少早いか遅いかの違いでしか無かったんですけど……
 私の前に付き合った人とは、普段の先輩らしいお付き合いをしていたんです。
 だから、先輩の脳にもあまり負担は掛かっていなかったんです。
 でも、私達は、その、自分で言うのもなんですけど、とても情熱的な恋をしました。
 それが、どんどん先輩に掛かっていた安全弁を壊していったみたいなんです。
 だから脳が耐えられなくなって、その結果先輩が壊れてしまったんです。
 もしも私が恋人で無ければ、先輩は壊れなくてすんだんですよ……」

 そう告白したとき、アサミの瞳からは涙が流れ落ちていた。告白内容にも驚いたが、アサミが涙を流したことで、自分が触れてはいけないことに触れ、言わせてはいけないことを言わせたのだとシンジは気がついた。

「だ、だけど、その時の僕は幸せだったと思う。
 堀北さんみたいな人と、そんなにも愛し合えたんだよ。
 それが幸せじゃ無くて、何が幸せなんだよっ!」

 だからアサミをかばう言葉を口にしたのだが、「勘違いしないでください」とアサミはすぐに否定した。

「私は、先輩が不幸だったなんて言っていませんよ。
 ただ、先輩が壊れたのは、結果的に私にも原因があったんだって言っているだけです。
 でも碇先輩、居なくなった先輩は幸せだったのかもしれませんよ。
 だったら、残された私はどうなんですか?
 クリスマスイブに、愛する人が腕の中で壊れていった私はどうなんですか?
 一緒に死んでも良いと思うぐらい、先輩のことが大好きだったんですよ。
 その大好きな人を、私が自分自身で壊していたんですよ。
 結局、私と先輩の恋は初めから破局することが運命づけられていたんです」

 大きな声を上げるわけでも無く、ただ淡々とアサミはシンジに説明を行った。アサミの感情を示してくれたのは、頬を伝う涙だけだったのだ。なんの激情も無い告白だからこそ、シンジはアサミの辛さが分かってしまった。
 お互いが相手を好きになればなるほど、愛すれば愛するほど、破局が運命づけられた恋。そしてあっという間に訪れた破局は、それだけ二人が深く愛し合っていた証拠でもあったのだ。それを告白させることがどれほど残酷なことか、いくらシンジでもそれぐらいのことは理解できた。

 アサミの「聞くのは辛い」と言った通り、その告白を聞くのはとても辛かった。だが本当に辛いのは誰なのか、「憎んでいないか」と聞いた自分の甘えを、シンジは嫌と言うほど思い知らされ、死にたくなるほど後悔したのだ。
 こんな時どうすればいいのか、シンジには一つしか思い浮かばなかった。自分が色々と期待されていることは分かっている。そして何かにつけて、消えてしまった自分と比較されることも分かっている。だったら、自分が消えてしまった自分を超えればいいだけなのだ。泣いているアサミを抱きしめ、その誓いを捧げることしかその気持ちを癒すことが出来ないのだと。

 今までのシンジを思うと、ある意味あり得ない考えなのだろう。だが、静かに悲しむアサミを見て、シンジの心は大いに揺り動かされていた。だから自分に誓うためにも、アサミを抱きしめるのだとゆっくりと近づいた。
 だがもう少しで手を回すことが出来る。そこまで近づいた所で、「だめですよ」とアサミに拒絶されてしまった。

「私は、先輩の質問に答えただけです。
 それに先輩、先輩は今の雰囲気に流されているだけです。
 私を抱きしめ、僕が代わりになってみせる……でしょうか?
 そんな安っぽい言葉で、私を慰められるなんて思っているんですか?
 代わりなんかで、私の心が癒されることなんて絶対にありませんよ。
 私にとって、消えてしまった先輩以上の男の人なんて絶対に居ないんですからね」

 アサミに、誰も代わりになれるはずがないと言われたのだ。それは、シンジにとってどうしようもない拒絶の言葉に思えた。

「それに、私はどうしようもないほど面倒な女なんですよ。
 今日の山本さんも、中途半端に頭が良くて、生意気な子供だと思っているんじゃありませんか?
 答えのない正論で相手をやり込めて、相手を見下している嫌な女だと思っているんでしょうね。
 山本さんだけじゃなく、私にやり込められた人達は全員そう思っていると思いますよ。
 もしも先輩が私を抱きしめたら、きっとあれこれ無理難題を吹っかけると思います。
 プライドの高い私ですから、今まで以上のことをしてみせろと要求するでしょうね。
 でも、そんなこと、誰にも絶対に出来ないことなんです。
 そして先輩、先輩はそんな我儘に付き合う必要なんて無いんですよ。
 激しい恋は出来ないと思いますけど、そのうちそこそこ好きな人が私にも出来ると思いますから。
 その人と結婚して、子供を産んで、その子供に昔話をするんです。
 お母さんは、高校の時にもの凄く情熱的な恋をしたんだって」

 無理に作られた笑顔が、シンジにはとても綺麗で、とても悲しく見えた。すぐそこに居て、少し手を伸ばせばアサミに触れることができる。そのアサミが自分ではない自分を見て、そして自分ではない他の誰かに抱かれることを口にしている。
 「そこそこ好き」程度の相手に、目の前に居るアサミを奪われてしまうのだ。せっかく手の届くところに来てくれた人を、どうでもいい誰か知らない人に奪われてしまうのだ。自分と同じ顔をした消えてしまった自分のせいで、目の前の宝を自分のものにすることが出来ない。たかだか自分のコピーに過ぎない男が手に入れた宝を、オリジナルの自分が手に入れられないのだ。そんな理不尽なことを、シンジは許すことが出来なかった。

「堀北さんを他の男に渡すなんて、絶対に僕が認めない。
 堀北さんの知っている僕も、この僕に違いないんだっ!
 だったら、もう一度僕が堀北さんの碇シンジになってみせる。
 違うっ違うっ、僕こそが本当の碇シンジだって堀北さんに分からせてみせる。
 僕の中に居る碇シンジ以上に、堀北さんに僕のことを好きにさせる!
 そのためだったら、僕はどんなことからも逃げたりしない!」

 絶対に自分の物にすると誓ったシンジに、アサミは消えてしまった愛しい人のことを思い出した。家に帰ってきた時に見せたおどおどした顔も、今は男の顔に塗り替えられていた。それは、今まで何度も見せられた愛する人の顔にとても似ていたのだ。
 それでもアサミは、今のシンジを受け入れなかった。わざと小さなため息を吐いて、「だめだめですね」とシンジの決意を否定してみせた。

「今こうして、私が目の前にいるから言えるだけですよ。
 どんなことからも逃げないと言うのは、本当に私のことを考えているんですか?
 私は、もう大好きな人を失うことに耐えられないんですよ。
 こんな思いをするぐらいだったら、情熱的な恋なんてたくさんなんです。
 先輩は、私にもう一度あんな悲しい目に合わせたいんですか?
 私は、生涯ずっと一緒にいてくれる人を好きになりたいと思っているんですよ」
「だったらっ!」

 さっきはゆっくりと遠慮がちに近づいていた。だが今度は、アサミに拒絶する暇さえ与えずその体を抱きしめた。夢にまで見た憧れの人は、とても柔らかくていい香りがしていた。

「もう一度、僕を誰にもとられたくないと思わせてやる。
 僕が他の人のことを好きになるのが、耐えられないほど好きにさせてやる。
 もっともっと情熱的な恋をさせてやる」

 耳元で叫ぶシンジに、「ああ」とアサミは歓喜の言葉を漏らした。ここで「ずっと一緒に居る」と言われたら、間違い無くシンジのことを拒絶するつもりでいた。つまらない男に成り下がった碇シンジなど、全身全霊をかけて愛する相手ではなかったのだ。
 抱きしめる力の強さは、きっと自分に向ける思いの強さなのだろう。だがそれ以上何もしてこないシンジに、まだ子供なのだとアサミは考えた。体は大きくなったが、心のなかはまだ14歳で止まっているのだと。そこから駆け出さない限り、まだまだアサミの愛する人には届くはずがなかった。

「情熱的な恋って、抱きしめるだけのことですか?」

 熱を込めて耳元で囁くアサミに、シンジは「えっ」と驚いた。そんなシンジに、アサミはもう一度「抱きしめるだけなんですか?」と繰り返した。

「そ、それって……」
「先輩は、女の子にそれ以上言わせるんですか?」

 「やっぱりだめだめですね」と、アサミは可愛く耳元で囁いた。
 そこまで言われれば、シンジにも何を期待されているのかぐらい理解できる。抱きしめたアサミの体を少し離し、正面からアサミと向かい合った。潤んだ瞳、少し濡れた唇、間近で見たアサミは、どうしようもなく綺麗で、どうしようもなく愛おしく感じられた。アサミを手に入れることが出来るのなら、他の何もいらないと思えたほどだ。

 アスカとのファーストキス以上に緊張して、シンジはゆっくりとアサミに近づいていった。このキスからすべてが始まり、アサミを自分のものにすることが出来る。どうしようもない胸の高まりを感じながら、アサミの唇に自分の唇を重ねようとした。
 だがもう少しで唇が重なると言う所で、無情にも来客を告げるチャイムが鳴り響いた。その音が聞こえた瞬間、アサミは手のひらを唇の間に割り込ませ、「時間切れですね」とシンジに告げた。

「はぁ〜い、今出ます!」

 大きな声をあげたアサミは、シンジから離れて鏡で自分の格好をチェックした。大したことはないと思っていたのだが、結構服装が乱れていたようだった。

「こんな格好で出て行ったら、遠野先輩達に笑われちゃいますね」

 そう言って笑ったアサミは、手早く乱れた服を直していった。そしてひと通り終わった所で、あっけにとられたシンジに近づいて軽く唇を重ねてきた。

「私を抱きしめた以上、約束は守ってもらいますよ。
 でも、知れば知るほど、自分を超えるのが大変だと理解できると思います」

 そう言って玄関を開けに行こうとしたアサミは、一度立ち止まってシンジの方を見た。

「でも、今の先輩は少しだけ格好良かったですよ」

 そう言い残してから、小走りに玄関へと走っていった。

 その後姿を見送ったシンジは、自分の言葉を思い出していた。アサミには「その場の勢い」と言われたのだが、それがどうしようもなく真実を言い当てているのに気がついたのだ。それに少し怖気づいたシンジだったが、同じくらい、いや、それ以上にアサミを誰にも渡したくないと言う思いを持っていた。
 今のシンジの中では、アサミはもはや憧れのアイドルでは無くなっていた。手の届くところにいる、誰にも渡したくない、一人の可愛い女の子になっていたのだ。

 アサミが玄関に駆けて行って少し経ってから、マドカを先頭に女の子が5人入ってきた。そのうちの一人、アサミの写真にあったレイを見つけ、「そうなんだ」とシンジは心の中で納得していた。

「本当にお兄ちゃん、なの?」
「その点については、多分としか答えられないんだ……」

 その理由を答えようとしたシンジだったが、口を開く前にレイに抱きつかれてしまった。記憶にあるレイは、自分と同じくらいの身長をしていた。だが再会したレイは、記憶にあるのよりずっと小柄で、ずっと普通の女の子になっていた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」

 自分は違うと思いながら、それを口にするのは空気を読まないことだと分かっていた。だからシンジは、抱きついたレイの頭に手を置き、「ただいま」と優しく語りかけた。
 心温まる光景を見ていたマドカは、僅かな時間でのシンジの変化を口にした。

「いやぁ、さすがはアサミちゃんと言っていいのかしら。
 あっという間に、碇君が男の顔をするようになっているわ」
「いったい、ナニをして自信をつけさせたのかしら?」

 くんくんと鼻を蠢かせたナルに、アサミは「さあ」ととぼけてみせた。

「そんなことより、これからお祝いの料理を準備しますからね。
 キョウカさんも一緒に作ってくれますか?」
「おおっ、ここは料理部の腕前を見せてやろう!」

 清楚なお嬢様が使った乱暴な言葉に、シンジは信じられないものを見る目をした。それに気づいたマドカは、笑いながら本性が出たと口にした。

「あれが、キョウカちゃんの本当の姿よ」
「篠山さんって、いいところのお嬢様なんですよね?」

 まだ驚いた顔をしているシンジに、「みんないろいろな事情を抱えているのよ」とマドカは答えた。

「その事情を抱えたまま、みんな前に進もうとしているのよ。
 だから碇君もって……今更こんな言葉は必要ないか」
「そんなことはないと思います……
 ただ、僕はまだまだ甘えていたんだってことだけは分かりました」

 ぽんぽんとレイの頭を叩いたシンジは、上体を屈めて「レイ」と耳元で囁いた。

「なに、お兄ちゃん……お兄ちゃん分を吸収しているんだから、静かにしてくれるかな?」
「え、ええっと、僕をお兄ちゃんって呼んでくれるの?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの。
 ちょっとあり得ない形で、私のことを忘れているだけなんでしょう?」

 あり得ない形とはどんな形なのか。それを考えようとしたのだが、すぐに自分には無理だとシンジは諦めた。それでも分かっていたのは、妹のレイに受け入れてもらえたと言うことだった。これからどうなるのかは分からないが、今はこれで良いと開き直ることにした。アサミに対して大きく出たことを考えれば、それ以外はたいしたことが無いように思えたのだ。



 生まれて初めて、パーティを楽しいと思えた。全員からどさくさ紛れに抱きつかれたり、なぜかマドカに鯖折りをされたりしたが、全員が自分のことを嫌っていないことが感じられたのだ。しかも誰かが抱きつくたびに、アサミが所有権まで主張してくれたのだ。ミサトの家に居たときのことを思うと、信じられないほど優しい時間がそこにあったのだ。
 しかもミサトの家に居たときには、後片付けは全部自分に押しつけられていた。だがこの日は、終わった後の片付けまで、全員が協力して済ませてくれた。

「明日なんだけど、全員で初詣に行くから覚悟しておくように。
 特に碇君、君は町中の人から声を掛けられる立場というのを忘れないように!
 ファンの女の子が押しかけてきたり泣かれたりしても、おたおたしないようにね」
「ふ、ファンの女の子……ですか」

 元の立場を考えれば、ファンの一人や二人居てもおかしくは無いだろう。そして原因不明の病に倒れ、記憶こそ失ったが無事復帰したというのだ。だったら周りから注目されるのも、理由を考えればおかしな事では無かった。
 そこでひるんだシンジに、マドカは心配いらないと笑ってみせた。

「まあ、アサミちゃんを超えられる女の子はいないけどね。
 だから、遠巻きで見られるのがせいぜいって所かな?」
「柄澤先輩あたりが絡んできそうな気もしますけど……」

 アサミの指摘に、「おおっ」とマドカは声を上げた。

「そっか、一応親友の柄澤君が居たか。
 うんうん、彼だったら、間違いなく声を掛けてくるわね。
 まっ、結構気遣いの出来る男の子だから、問題にはならないでしょう!」
「ええっと、柄澤君って……?」

 話を聞く限り、共通の友人と言うことは分かる。だが名前を出されても、当然シンジには誰のことか分からなかった。

「中学からのお兄ちゃんのお友達。
 情操教育と言って、いやらしい本を沢山置いて言ってくれた人よ。
 返却が終わっていないから、書庫代わりの部屋に置いてあるの」
「アサミちゃんの……って、あれは返したって言ったわね。
 アスカさんの写真集だったら、まだ残っているんじゃ無いのかな?
 碇君は、アスカさんのことはよく知っているのよね?」
「よく知っていると言うか……」

 はっきりと苦笑を浮かべたシンジに、全員その関係を理解できた気がした。マドカ達にしても、アスカのことをよく知っているわけでは無いが、それでも伝え聞く噂と、直接会った時の話で、どう言う性格かはおおよそ掴めていたのだ。昔のシンジを思い出せば、絶対にそりが合うはずが無いと分かるのだ。

「碇君は、ずっとアスカさんに虐げられてきたってことか」
「そのあたりについては、説明を遠慮させて貰います……」

 情けない自分を説明するのは、やっぱり気分の良い物では無いのだ。だから遠慮すると言ったシンジに、「まだまだだねぇ」とマドカは笑った。

「まあ、いきなりスーパーマンになれって方がおかしいか。
 みんな碇君が記憶をなくしたのを知っているから、たぶん色々と気を遣ってくれるよ」
「まず、普段の生活を取り戻すことですね。
 そのあたりは、レイちゃんに任せるけど大丈夫かな?」

 アサミに話を振られたレイは、「たぶん」と頼りない返事をした。

「ええっと、アサミちゃんは手伝ってくれないの?」
「私達は、高校生として節度のあるお付き合いをしているのよ。
 家のことは、妹であるレイちゃんがすることだと思うわよ」

 事情を知る者からすれば、「節度ある」と言ったアサミの言葉は、間違いなく笑うところだろう。だが事情を知らないシンジは、アサミの言葉を当然のものとして受け止めていた。自分の家に部屋が用意されていることを考えれば、本当ならどこが節度があるのだと考えるところだろう。どうやらシンジは、そのことをすっかり忘れているようだった。

「私は、生徒会の方を受け持つからね。
 副会長の滝川さんと協力すれば、今の先輩でも何とかなるでしょう」
「お飾りで良いって言われていたものね……」

 元々は、忙しすぎて「お飾り」になっていたはずだった。だが今は、能力が無いから「お飾り」になってしまう。事実であるだけに、さすがに辛いなとシンジも感じてしまった。

「まあ、パーティーの時にも話したけど、今日はまず落ち着くところから始めましょう。
 だから碇君、兄妹水入らずでじっくり語り合ってね。
 焦る必要は無いから、ゆっくりと色々なことを覚えていきましょう」
「そうですね、そうさせて貰うことにします」

 本当はそんなことではいけないのだが、マドカに対してシンジは「ゆっくり」と言うのを否定しなかった。これからアサミとの関係を考えたら、時間を掛けては居られないと思っていたのだ。時間を掛ければ掛けるほど、アサミの目が他の誰かに向けられてしまわないか。今のシンジは、そのことが一番の恐怖となっていたのだ。

 全員が帰っていったのは、夜の9時を過ぎてからだった。「節度ある」と言ったとおり、アサミもマドカ達と一緒に帰って行った。その後ろ姿を見送ったところで、シンジは「寂しい」と言う気持ちを感じてしまった。アサミやマドカ達と一緒に居るときは、本当に賑やかで楽しい時間を過ごせていたのだ。
 だがみんなが帰ってしまうと、家にはレイと二人きりになってしまう。今まで一度も経験したことのないレイとの二人暮らし、マドカ達が居なくなったことでそれが実感として襲いかかってきたのだ。

「お兄、ちゃん……」

 そのあたりの感じ方は、おそらくレイも同じだったのだろう。少しおどおどした感じで、シンジに声を掛けてきた。そしてシンジも、驚いたように「な、なに」と答えてしまった。

「え、ええっと、お風呂の用意が済んでいるから……先にお風呂に入ってくれるかな」
「そ、そうだよね、寝る前にはお風呂に入らないといけないね……」

 マドカ達が居るときには、二人ともとても自然に話すことが出来ていた。だが二人きりになったところで、話す言葉もぎこちなくなってしまった。

「き、着替え、用意しておくから……」

 そう言って、レイはぱたぱたとスリッパの音を立てて、2階へと上がっていった。慌てているように見えるのは、どうして良いのか分からないからだろうか。

「と、とにかく、お風呂に入らなくちゃ……」

 誰も聞いていないのに、シンジは自分の行動を口にした。それだけ気が動転しているのか、立ち上がってからの動きもぎくしゃくとしていた。
 それでも何とか湯船につかったシンジは、ほっと大きくため息を吐いた。軟禁されていたマンションから連れ出されてから、今日一日本当に色々なことが起きたのだ。こうして一人でお湯につかったところで、ようやくそのことを思い返すことが出来るようになった。

「これって、今日一日の出来事だったんだよな……」

 アサミとの事にインパクトがありすぎて、その他のことの記憶がはっきりとしなくなっていた。だがゆっくりと思い返してみると、全部今日一日で起きたことだったのだ。そしてその結果、“妹”のレイと二人で、同じ屋根の下で暮らすことになったのだ。

「レイは、僕の知っている綾波とは違うんだな」

 ネルフの施設から、最後の一人として保護されたのだと聞かされていた。だから記憶操作後は一緒に住みたいと申し出たのだが、それまで一度も顔を合わせてなかったのだ。顔も見ないまま一緒に住みたいと言ったことに、どれだけ追い詰められていたんだと、シンジは自嘲気味にその時の自分を笑ってしまった。
 ただ、“あの”綾波で無くて良かったと自分が安堵しているのにも気がついていた。もしも“あの”綾波と一緒に住んでいたら、自分はどうして良いのか分からなくなっていたはずなのだ。そして綾波にしても、何をしていいのか分からずにいたはずだ。何をしていいのか分からない同士、生活が成り立つはずが無い。それを考えれば、今のレイは取っつきやすいと思っていた。

「僕に、妹か……」

 家族と呼べる人は、結局誰も居ないのだとずっと思っていた。だからレイと兄妹でと申し出たのだが、その結果はかなり自分の考えたものとは違っていた。ただ違ってはいたが、ずっとまともなものに思えたのも確かだった。マドカ達と一緒に居たときのレイは、本当に普通の女の子のように、ころころと笑い転げてくれていた。
 そんなレイのことを思うと、胸が温かくなるのを感じていたのだ。そんなことを考えていたとき、突然レイに「お兄ちゃん」と声を掛けられた。

「着替えとバスタオルを置いておくから……」
「あ、ありがとう……」

 扉の向こうに、レイが居るのがぼんやりと透けて見えていた。これも妹の居る日常かとシンジが考えていたら、いきなりレイが爆弾発言をしてきた。

「ねえ、一緒に入って良い?」

 こういうのも良いなぁと感慨にふけっていたら、いきなりこの爆弾発言である。まさかと慌てた弾みで、シンジは風呂桶の中でお尻を滑らせてしまった。

「げ、げほ、げほ、そんなこと良い訳ないだろうっ!」
「良かった、私のことを女の子だと見ていてくれるんだ」

 「冗談よ」と、レイが扉の向こうで笑っているのが見えた。「ちぇっ」と唇をとがらせたシンジは、「酷いなぁ」とからかわれたことに文句を言った。

「ごめんごめん、でも、そう言うところはやっぱりお兄ちゃんだと思うよ。
 だから、少し安心したって所かな?
 変に理屈っぽくないから、かえってやりやすいと思うし……」
「でも、僕は暗いだろう?
 直そうと思っているけど、かなり後ろ向きのところが有るし……」

 シンジにあるイメージは、颯爽とした世界の英雄としての碇シンジだった。だから「違う」と言う意味で「後ろ向き」なところを出したのだが、逆にレイから「夢を見すぎ」と言い返されてしまった。

「遠野先輩達に会う前のお兄ちゃんって、もっと暗くて後ろ向きだったわよ。
 友達だって、柄澤さんぐらいしか居なかったし、人と関わるのがとっても苦手だったもの。
 お兄ちゃんが格好良くなったのは、遠野先輩達にしごかれてからだったわ。
 1年の秋ぐらいかな、運動でも勉強でも周りについて行けるようになったし、
 背も高くなって格好良くなっていたわ。
 その時ね、お兄ちゃんは遠野先輩に告白もしていたのよ」
「ぼ、僕が……って、だから振られ組って言われたのか?
 あ、あれっ、僕が告白したんだったら、振ったのは遠野先輩になるはずだし……」

 もう一度あれっと首を傾げたシンジに、「振られたのはお兄ちゃん」とレイは答えた。

「鳴沢先輩も、お兄ちゃんのことが好きになっていたの。
 それを知っていたから、遠野先輩はお兄ちゃんの気持ちに答えなかったんだって。
 今になってみたら、惜しいことをしたって笑っていたわよ。
 それからアサミちゃんと付き合うようになってから、ダメ元で鳴沢先輩がお兄ちゃんに告白したのよ。
 アサミちゃんと付き合っているので、気持ちに答えられないって振られたんだって。
 おかげですっきりしたって、鳴沢先輩が言っていたわ」

 そう言って笑ったレイは、もう一度「お兄ちゃん」とシンジに呼びかけた。

「なに?」
「私が、妹でいて良いの?」

 真剣な問いかけに、シンジは「僕がお兄さんで良いのかなぁ」と質問に質問で答えた。

「結局、私達って、そこから解決しないといけないのね」
「そうだね、ずっと一人で居たから兄妹って言われてもぴんとこないんだ」
「だから、あんなに暗い性格に育ったのか」

 それをしみじみと言わないで欲しい。自分のことで無いのは分かっているが、似たような物だとシンジも諦めていたところがあったのだ。

「その、暗い暗いってのを止めてくれないかな。
 自覚しているから、他人に言われると止めを刺された気になるんだ」
「他人じゃ無いよ、私は妹だからね」
「だったら、なおさら悪いよ……」

 そう文句を言ったシンジだったが、なぜか突然おかしくなってしまった。よくよく考えなくても、まさかレイとこんな会話をするとは思っていなかったのだ。レイと軽口をたたき合える関係など、絶対にあの時には想像も出来ないことだったのだ。

「でもさ、なんかレイと話をしていると楽しいね」
「どきどきとするとか、むらむらしてくるとかは無いの?
 実の妹だと思っていたのが、実は血のつながりが無かったのよ。
 漫画だったら、私達は恋に落ちないといけない関係なのよ」
「残念なことに、これは漫画なんかじゃ無いんだ。
 それに、僕は堀北さんを恋人にしてみせるって約束したんだ」

 だから絶対に妹相手はない。それを断言したシンジに、レイは「ちぇっ」っと舌打ちをした。

「やっぱりアサミちゃんには敵わないか。
 でも兄さん、アサミちゃんはとっても手強いわよ。
 ううん、アサミちゃんの記憶にある兄さんは、手強すぎるわよ。
 あのアサミちゃんが、でれでれになったぐらいなんだからね」
「でも、それも僕には違いないんだろう。
 比較されるのは厳しいけど、やる前から諦めるのは違うと思うんだ。
 ここで逃げたら、また元の僕に戻ってしまいそうな気がするんだよ」
「ほほう、アサミちゃんの魅力は、兄さんも前向きに変えてみせるのか」

 「凄いなぁ」とレイは、親友の破壊力に尊敬の念を抱いていた。キングオブネガティブシンキングの兄に、前向きなことを考えさせるように動機付けをしてくれたのだ。マドカが半年掛けたことを、アサミは1日にも満たない時間でやってのけたことになる。それを考えると、凄いとしか言いようが無かった。

「そうだね、堀北さんを誰にも渡したくないと思ったよ……」

 それを力強く言ったところで、シンジは頭に血が上るのを感じていた。やっぱり、アサミの事を考えると、冷静では居られないのだなとぼんやりと考えていた。

「だめだな、堀北さんのことを考えると、頭に血が上ってくる気がするんだ」
「そりゃあ、兄さんが興奮するのも理解できるけど……
 湯あたりしないように気をつけてね」
「湯あたりって……そんな馬鹿な……」

 はははと笑った所で、本当に頭がクラリとしてきた。

「ま、まずいかも……」
「ち、ちょっと、それってシャレにならないから……」

 勘弁してと零したちょうどその時、お風呂の中から「ぼちゃん」と言う水の音が聞こえてきた。

「に、兄さん、ち、ちょっと冗談でしょ?」

 だがいくら呼びかけても、中から答えが返ってなかった。しかも、うっすらと見えるお風呂場の中で、兄の姿が動かなくなっていた。
 これは絶対にまずいことだ。「アサミちゃんごめんなさい」と心の中で唱え、レイは浴室のドアをガラリと開いた。

「きゃー、兄さんしっかりしてっ!」

 浴槽のヘリに捕まってぐったりするシンジに、レイは慌ててお風呂場の中に入っていった。こうなると、恥ずかしいとか甘えたことは言っていられなくなる。担ぎあげるのは絶対に無理だから、レイは躊躇わずお風呂の線を引っこ抜いた。そうやってお湯をなくし、水で体を冷やしてあげる。引っ張り出せない以上、それぐらいしか出来る事がなかったのだ。色々と観察しながら、レイは黙々とすべきことを遂行したのだった。

 その後シンジが目を覚ましたのは、2階にある自分のベッドの上だった。お風呂に入った後の記憶の無いシンジは、なぜ自分がベッドで寝ているのか理解できなかった。しかも枕代わりに、冷凍枕が敷かれていた。

「なんで、僕はベッドで寝ているんだ……」

 だがいくら考えても、記憶がぷっつりと抜け落ちていた。だからシンジは、事情を聞きに行こうと部屋を出ることにした。少し足がふらつくのだが、寝ていたせいだと考えることにした。
 階段を降りて行ったら、レイがテレビでお笑い番組を見ていた。楽しそうに見ていたのだが、シンジが扉を開いたところで顔だけ向けてきた。

「兄さん、もう大丈夫なの?」
「大丈夫なのって……何があったのか覚えてないんだけど」

 その時に向けられた視線の位置が気になったが、シンジは敢えてそのことには触れないことにした。

「何がって、しっかりと湯あたりしてくれたんだけど。
 もう図体がでかいから、本当に大変だったんだからね……」

 相変わらず視線の位置が気になったが、湯あたりしたと言う言葉に、ようやくシンジは何が起きたのかを思い出した。お湯に浸かりながら話をしたため、つい長湯をしてしまったのだ。しかもアサミのことを考えたのが、余計に頭に血を上らせることになってしまったのだろう。ただ自宅のお風呂で湯あたりするのは、高校生として恥ずかしいことだと考えた。
 だが恥ずかしいことと考えてすぐ、もっと恥ずかしいことがあるのではないかと考えなおした。何しろ自分は、浴槽で湯あたりして意識を失っている。その自分がパジャマを着て、ベッドの上に寝ていたのだ。自分でやったとは思えないので、パンツを誰かに履かせてもらったことになる。

「え、ええっと、レイが僕の面倒を見てくれたの……」

 そこにたどり着いた所で、妹の視線の意味が分かってしまった。つまり自分は、ぶっ倒れている時、妹に恥ずかしいところをしっかり見られたということなのだ。顔を合わせた初日……じゃなくても、しっかり恥ずかしいことに違いなかった。

「お湯を抜いて、冷たい水で体を冷やすところまではね。
 その後は、ガードの人を呼んで2階まで運んでもらったわ。
 服を着せるのも、ガードの人に手伝ってもらったわよ」
「つまり……見たんだ」
「おっきくなっていない時は、結構小さなものなんだなって」

 ふふっと笑われると、なぜかバカにされている気がしてならなかった。もちろんレイが本当の大きさを知るはずもないし、バカにしているというのも被害妄想に違いなかった。だが、冷静でないシンジに、そんなことが分かるはずがなかった。

「ち、ちっちゃくなんかないや〜」

 と叫び声を残し、2階への階段を駆け登っていった。あっけにとられて見送ったレイは、ふっと小さくため息を吐いた。

「やっぱり、こっちの兄さんの方が感情が豊かなんだ……」

 言い方は悪いが、前の兄は「機能制限版」だと言うことが分かったのだ。機能制限をした上であれだけのことをしたのだから、フルバージョンだったら一体どれだけのことが出来るのだろうか。

「可哀想な兄さん……」

 だからこそ、頑張っていた兄が不憫に思えて仕方がなかった。初めから、消えてなくなることが予定されていた存在。どうして人はそこまで残酷なことが出来るのだろう。それが例外だと分かっていても、レイはこの世界の復活に対して強い後悔の念を抱いたのだった。

 2階に駆け上がったシンジは、その勢いのままベッドに飛び込んでいた。まるで火が出るほど顔は真っ赤になっていたし、心臓はばくばくと激しく鼓動を刻んでいた。そして頭の中には、「見られてしまった」と言う思いがグルグルと回っていた。

「ああっ、なんて恥ずかしいことをしてしまったんだぁ〜」

 しかもガードの人まで巻き込んだというのだから、湯あたりして倒れたという恥をしっかり晒してしまったことになる。せっかくアサミに、「もっと情熱的な恋をさせる」と啖呵を切ったのに、その日のうちにこれでは合わせる顔が無いというものだ。

「こんなことじゃだめだっ!
 相手は世界の英雄なんだぞ!!」

 相手がしたのは、何度も世界の度肝を抜く事だった。それに引きかえ自分は、湯あたりして恥を晒すことしかしていない。そもそも競争にもならないくせに、言うことだけはいっちょまえなのだ。

「2回もキスをしてくれたのに、これじゃ同情でしてもらったことになるじゃないか」

 そんなことじゃ、本当にアサミの言うとおり「だめだめ」なのだ。しかも、努力もしないでベッドの上に転がっている。これでは、何を言っても口だけになってしまう。

「本当に、こんなんじゃだめだよ……」

 そうつぶやいて、シンジはベッドから起き上がった。何をしたらいいのか全く分からないのだが、何かをしなくてはいけないのは確かだった。
 そのままベッドから降りたシンジは、脇にあった椅子に腰を下ろした。目の前の机が綺麗に整頓されているのは、きっと前に使っていた自分が几帳面だったのだろう。

「こんな所に、タブレットがあるな……」

 シンジはやけに頑丈なタブレット端末が、引き出しの中にしまわれているのを見つけた。どうせパスワードは分からないと思ったが、ものは試しと電源を入れてみた。
 だが電源を入れた所で、「顔認証クリア」と言う文字が画面に表示された。そして次の操作として、人差し指をセンサーに当てろと言う指示が出てきた。指示されたとおりに人差し指を当ててみたら、あっけなくすべての認証が終わってしまった。

「考えてみれば当たり前か。
 前に使っていたのも、僕なんだから……」

 中身が変わっても、入れ物自体何も変わっていない。それを考えれば、「生体認証」を通り抜けてもおかしなことはなかったのだ。ただこうしてコンピューターが認証してくれたことで、外から見れば「同じ」だと言うことを改めて教えられたことになる。
 ただタブレットを開いてみたが、特別な情報があるとは思っていなかった。スケジュールとか、お気に入りのサイトとか、あってその程度の情報だと思っていたのだ。

 だがシンジが開いたのは、後藤から支給された特別製のタブレットだった。消えることが分かってから支給されたタブレットには、秘密情報が満載になっていた。いくつかのアイコンを指で押したところで、これは凄いと宝物を掘り当てた気持ちになっていた。

「凄いな、僕も知らないことが沢山書かれているよ……」

 TICと呼ばれる人災は、自分が当事者だと思っていた。だが画面に表示された情報には、自分の知らないことが沢山書かれていたのだ。しかも別のファイルを開くと、ネルフ時代の自分の情報も書かれていた。他人から自分がどう見られているのか、眺めてみたところでシンジはしっかり落ち込むことになった。

「最悪だ……間違ってはいないと思うけど……」

 客観的な記載のため、表現に遠慮がなかったのだ。「不適格」とか「未熟」とか「問題児」とかの言葉ばかり見せられると、気分はどんどん落ち込んで言ってしまう。一番悲しいのは、示された評価が否定できないことだった。

「これって、堀北さんは見ていないよな……」

 もしもこんな評価が見られていたら、自分に対する印象は最悪の物になってしまう。いくら何でも、自分が自分の恥を恋人にみせないはずだと、シンジは自分の常識を期待した。

 自分の評価はもう良いと、シンジは別の情報へと画面を変えた。そこに現れたのは、自分が乗り越えてきた、過去の戦いの記録だった。客観的にみせられると、英雄だった自分との差がよく分かってしまう。一つ一つの戦い方が、どれをとっても稚拙な物にしか思えなかったのだ。
 全部を見るのは、とてもではないが一晩で終わる物では無かった。それもあって、どんな情報が入っているのか確かめることを優先した。今の世界を理解するため、これから自分が何をしていけば良いのか、そのための指針がここにあるのを理解したからである。中には、自分が残した、「過去の遺物」への考察も残されていた。

「こうしてみると、本当に僕って凄かったんだな……」

 その考察を見る限り、本当に小さな事まで見逃していないことが理解できる。それは、直接使徒と向かい合った自分でも気づいていない、本当に小さな変化まで記載されていたのだ。そしてその中に書かれた一文に、「やっぱり凄い」と消えてしまった自分に驚かされた。

「第参使徒、第伍使徒が本物では無いと疑っていたのか……
 再生ではなく、模倣では無いか……か。
 見た目の能力は似ているが、ギガンテスの変種と考えた方が適切と考えられる……
 そのため、オリジナルに比べて攻略が容易になっている……
 いやいや、第伍使徒なんて絶対に攻略は簡単じゃ無かったよ」

 見せられた戦いの凄さを考えると、オリジナルでも撃破できてしまうとしか思えなかった。それぐらい凄い戦い方だし、それを実行する実力も凄いと思っていた。だから「攻略も容易」と言う評価に対しても、実力の裏付けがあるからだと思えてしまった。
 凄いなぁと半分感心、そして半分敗北を感じながら、シンジは他の情報を漁っていった。この情報を見るだけでも、自分が何を考え、そして何をしようとしていたのか伺い知ることが出来た。

「有るとは思っていたけど……」

 これだけ準備をしているのだから、自分宛へのメッセージがあるだろうと思っていた。そして予想通り、一番分かりやすいトップ画面に、「自分へ」と書かれたアイコンが有るのに気がついた。それを最初に気づかなかったのは、あまりにも堂々と置かれていたからだった。
 自分から自分へ、その不思議なアイコンをタップするのに、シンジは一度手の汗をパジャマのズボンでぬぐった。いったいどんなメッセージが残されているのか、ここまで綿密な分析を行う人なのだから、きっと凄いメッセージが残されているのだと期待したのだ。

 そしてその期待は、アイコンをタップしたところで最高潮に達した。よほど大きなファイルなのか、砂時計マークが出て、すぐには中身を見せてくれなかったのだ。

「な、何が出てくるんだろう……」

 砂時計マークが消えたところで、シンジはゴクリとつばを飲み込んだ。いよいよ残された自分への、重要なメッセージを見ることが出来るのだと。
 だが画面が切り替わったところで、肩すかしというか、思いがけないいたずらにシンジはのけぞってしまった。嬉しいことは嬉しいのだが、もう少しまじめにやって欲しい。居なくなった自分に対し、声に出してシンジは文句を言った。

「いったい、どんな性格だったんだよ……」

 それでも文句を言い切れないのは、画面に出たのが水着姿のアサミだったからだ。そのままベッドに籠もりたくなるほど、とても綺麗でエッチに見える写真だった。
 それでも配慮に感謝し、シンジはじっくりとアサミの水着姿を鑑賞させて貰った。やっぱりいいと感動しつつ、他に無いかとスケベ根性を出して画面をタップした。そこでシンジは、再びのけぞってしまうことになった。

「サービスは気に入ってくれたかな?」

 そう言って笑いながら、自分の顔が大写しになったのだ。

「これを見ていると言うことは、僕が消えてしまったと言うことだね。
 だとしたら、残された僕に対して、少しだけお節介をしようと思う」

 そう切り出した画面の向こうに居る自分は、最初からとても痛いところを突いてくれた。

「これから高2の碇シンジとして生きていくためには、3年間のブランクを克服する必要があるね。
 まず第一に、中2の学力しか無い君が、高2として生きていくために必要な勉強だよ。
 自分のことだから、どの程度の学力があるのかは分かっているつもりだ。
 だから、中2の復習から始めて、高2の学習をどうすれば良いのか纏めておいた。
 学習のカリキュラムというファイルが出来ているはずだから、それに従えば何とかなるだろう。
 やってて分からないところは、アサミちゃんに教えて貰えば何とかなると思うよ。
 間違っても、遠野先輩や鳴沢先輩、篠山に期待しちゃいけないよ。
 せめて、同じクラスの高村さん程度にしておいてくれないかな?」

 その説明で、シンジはジャージ部といわれる集団のうち、誰の学習能力が高いのか理解することが出来た。頼りになると思っていた先輩も、「間違っても」と言われる程度だと分かったのだ。

「もともとこれは、篠山用に作ったものなんだ。
 なんだったら中1分からあるから、自信がなければそれも使ってくれればいいよ」

 ニヤリと口元を歪められ、シンジはタブレットを叩き壊したい誘惑にかられた。だが短気は損気と考えなおし、自分が何を言うのか先を見ることにした。

「今言ったことは、本棚の右上に纏めてあるからそれを見てくれればいいよ。
 と言うことで次の伝達事項だけど、生徒会についてはあまり言うことはないかな。
 忙しすぎるから嫌だと言っておいたから、名誉職に祭り上げられているんだ。
 だから副会長の滝川君に任せれば、生徒会は僕が居なくても回っていくんだよ。
 節目の挨拶ぐらいなら、今の君でも多分大丈夫だと……まあ、大丈夫だろうね」

 なぜそこで考える。色々と不満はあったが、とりあえず我慢して先を確認することにした。冷静に考えれば、不安を持たれるのも仕方が無かったのだ。

「体を鍛える方面だけど、こっちは遠野先輩達に頼ればいいと思っている。
 あの人達は、僕から見てもスーパーガールだからね。
 いろいろな運動部に貸しがあるから、二人に頼まれれば誰も嫌とは言わないよ。
 まあ、僕も貸しを作っておいたから、きっと君が行けば歓迎してくれると思うよ。
 僕の活躍を凄いと思ってくれたのなら、そのバックグラウンドはS高の運動部で鍛えられたことなんだ。
 アサミちゃんにいいところを見せたかったら、少なくとも僕のレベルに達する必要があるからね」

 アサミちゃんにと言う所で、シンジは自分に見透かされた気持ちを感じていた。自分に負けないと言った以上、運動の面でも自分を超えなくてはいけなかったのだ。

「と言うことで、僕が何をやってきたのかリストを作っておいた。
 僕を超えてやろうと闘志満々だと思うから、それが簡単なことじゃないのを思い知らせてあげるよ。
 まあ、体は鍛えてあるから、スタートラインはかなり前の方にあると思うけどね。
 それでも簡単じゃないのは、と言うか、君の意識が邪魔をすると思うから頑張ってくれればいい。
 学校のことで伝達することは……まあ、部活のことは仲間に聞いてもらえばいいかな。
 正式名称ボランティア部、世間ではジャージ部で通っている部活は、
 遠野先輩と鳴沢先輩が作った、なんでもありの部活なんだ。
 お祭り騒ぎが好き、賑やかなことが好き、人の助けになることが好きという落ち着かない部活だよ」

 「だけど」と画面の向こうの自分は、そこで言葉を切って瞳を閉じた。

「僕が変われたのは、ジャージ部に連れ込まれたからだと思っている。
 僕は自分のことが好きじゃなかったし、人から必要とされているとは思っていなかった。
 その辺りは、きっと君も同じだと思っているよ。
 そんな暗くて後ろ向きの僕が変われたのは、ジャージ部に入ったお陰なんだ。
 今まで自分で出来ないと思っていたことが、自分が勝手に作った限界だと分かったんだよ。
 そしてその限界を超えた時、周りが僕を見る目がはっきりと変わったんだ。
 邪魔者、お荷物、どうしてここにいるんだって目が、仲間を見る目にかわってくれたんだ。
 それが嬉しくて、僕はどんどん、ジャージ部の活動にのめり込んでいったんだよ。
 そして僕を変えてくれた二人、遠野先輩や鳴沢先輩のことが大好きになったんだ。
 勢いで遠野先輩に告白したけど、もしも成功していたら後悔していたと思う。
 それで二人の関係が壊れることはないのだろうけど、僕が鳴沢先輩の顔を見られなくなったと思うんだ。
 どっちでも良かったと言ったら叱られるけど、どっちも大好きだったと言うのが本音なんだ。
 二股出来たらどれだけいいのか、真剣にその方法を考えたぐらいなんだよ。
 それぐらい、僕はあの二人のことが大好きだった……
 そしてあの二人には、アサミちゃんと付き合うようになっても迷惑をかけ続けたと思っている。
 アサミちゃんとうまく行ったのも、あの二人のおかげとしか言いようが無いんだ。
 だから僕は、残された君に大切なお願いをする。
 遠野先輩、鳴沢先輩の二人を守ってあげて欲しい。
 “弟”として、あの二人の未来の手助けをしてあげて欲しい。
 とっても強い二人だから、ほんの少し手を貸すだけで未来を切り開くことが出来るんだ。
 もう僕には何も出来ないから、君にすべての責任を負わせたいと思っているんだ」

 「お願いをする」そう言って、画面の向こうのシンジは、自分に向かって頭を下げていた。その真剣な瞳は、どれだけ二人のことが大切なのかを物語っていた。

「ジャージ部のことに話を戻すと、後輩に篠山キョウカと言う女の子がいる。
 今から写真を見せるけど、入学時はしっかりヤンキーをしていたんだ。
 ユキタカさん、篠山のお父さんが、将来を考えてジャージ部に入れと勧めたのが入部の理由なんだよ。
 そこで僕は、彼女の人生に大きく関わってしまったんだ。
 もしも君が彼女のことを魅力的だと思ったのなら、その理由の大半は僕にあると思ってくれ。
 篠山は、僕の理想とするお嬢様になるため、色々と努力を続けてくれたんだ。
 もしものことにどれだけ意味があるのかわからないけど、
 もしもアサミちゃんが居なければ、僕は篠山と恋人同士になっていたと思う。
 言葉遣いに問題はあるけど、篠山は本当に素直で可愛い女の子なんだよ」

 その説明の間、画面にはけばけばしい化粧をした女の子が映っていた。それが篠山キョウカだと言われなければ、シンジも誰だか分からなかっただろう。それが今や自分好みの魅力的な女の子になったと言うのだから、言われなくてもキョウカが抱いた気持ちなど分かりきったことだった。

「もう一つ篠山のことを教えておくと、彼女はS市に君臨する篠山家の跡取り娘なんだよ。
 その立場が、小さな頃から友達を作りにくくしていたんだよ。
 派手なヤンキーの格好をしていたのも、それぐらいしか相手にしてくれる人達が居なかったからだ。
 だからジャージ部に入り、遠野先輩達出会って、彼女は変わることが出来た。
 僕が一番大きな影響を与えたのは確かだけど、遠野先輩達がいたことが大きなポイントなんだ。
 それから彼女のお父さん、ユキタカさんには、「婿になってくれ」と結構迫られていたよ。
 でも、そんなことも全部、僕が居なくなったことでご破算になったと思ってくれ。
 それから、彼女のお母さんは、12月に亡くなられている。
 そのお母さんのために、僕は篠山と一緒に新郎新婦の格好をしたこともある。
 だから篠山とは、ただの先輩後輩より、もっと関わりが深かったのだと思ってくれ。
 とっても綺麗になった、とっても素直な可愛い後輩なんだ。
 アサミちゃんとの関係は難しいけど、彼女を大切にしてあげて欲しい」

 優しい顔をした画面の向こう側に居る自分を見れば、どれだけキョウカを後輩として可愛がっていたのか理解することが出来る。シンジは、そんな人間関係を築いた自分をうらやましく感じていた。

「それから、あと3人ジャージ部の主要メンバーが居るんだ。
 一人は、薄桜隊って言うアイドルをしている花澤君だよ。
 最初は下心があって先輩先輩と慕ってくれたけど、今はすっかりジャージ部に馴染んでいるよ。
 後から紹介する大津君と二人、1年生の主要メンバーになってくれている。
 彼と一番関わりが大きいのは、「ヒ・ダ・マ・リ」って言う番組への協力なんだ。
 ただジャージ部のボランティア活動を紹介するだけなんだけど、
 これが、結構人気のコーナーだったりするんだ。
 後は、クリスマスイブに「ヒ・ダ・マ・リ」の特番に出ることになっている。
 なぜ未来形で語っているかと言うのは、僕がそれを記録する前に壊れたからなんだよ。
 もしも僕が番組に出演していたのなら、誰かにビデオで見せてもらうといいよ。
 そこで僕が幸せそうにしていたのなら、悪い人生じゃなかったと思ってくれればいい」

 温和な、笑みさえ浮かべながら話をしているが、シンジには画面の向こうの自分が泣いているように思えた。こうして高校生活の一つ一つを語ることで、輝いていた時間を失う辛さを感じているのだと。だから涙を流さず、心の中で慟哭しているのだと思っていた。

「セットで扱うと怒られるかもしれないけど、高村ユイさん、大津アキラ君も大切な仲間なんだ。
 二人は、公募で選ばれたパイロット候補なんだよ。
 もの凄く癖の強い高村さんだけど、竹を割ったような真っ直ぐな性格をした女の子なんだ。
 後からジャージ部に入部したから、外の視点から色々と話をしてくれるよ。
 それから大津君は、S高に来る前はいじめられっ子だった。
 色々とお節介をした覚えはあるけど、今はしっかり自信をつけていると思う。
 花澤君と仲がいいから、ジャージ部の将来を任せられると思っていいんじゃないかな。
 これからどんどん二人は伸びていくから、パイロットとしても期待できると思うよ」

 「分かったかい」、画面の向こうの自分は、そう言って微笑みかけてきた。

「これが、僕が君に残してあげられるものだよ。
 優しい先輩、そして頼りになる同級生、そして可愛い後輩。
 大切にしてくれれば、きっと君にも宝物になってくれると思う。
 これから、ずっとお互いを支えあって、学校やパイロットでも頑張ってくれればいい」

 そう話した所で、画面の向こうのシンジは大きく深呼吸をしてくれた。シンジは、向こう側の自分が本当に大切なことを話していないのを知っていた。それを話すことがどれだけ辛いことなのか、心を落ち着けないと話すことも出来ないのだと考えた。
 それで気が落ちついたのか、「ガールフレンドのことだ」と画面の向こうのシンジが話を続けた。

「堀北さんと付き合う前、僕はクラスメイトの女の子と付き合っていた。
 結構気が強くて、面倒見が良くて、とっても綺麗な女の子だった。
 瀬名アイリって言うんだけど、僕は夏休み前に彼女に振られ、M市の戦いで彼女に再会した。
 もしも彼女と続いていたら、多分今でも僕は君と入れ替わっていなかっただろうね。
 情熱的な恋とは違い、とっても落ち着いた、一緒に居ることが自然な関係だったと思っているよ。
 キスすらしたことのない恋人同士だったけど、焦ることはないと思っていた。
 たぶん、そんな自分勝手な思いが、長続きしない理由だったんだろうね。
 もしも彼女に会うことが有ったら、元気になってよかったねと伝えてくれるかな。
 ああ、説明がまだだったけど、M市で再会した時、彼女は大怪我をしていたんだ。
 戦いが終わった後、僕も病院に駆けつけたけど、一時本当に生命が危なかったんだ。
 それからどうなったかを教えてもらっていないから、さっきの伝言と言う事になるんだ」

 その時の顔を見れば、どれだけ未練を残しているのか痛いほど理解することが出来た。平静な素振りをしているが、表情が完全に作り物になっていたのだ。

「最後に、僕の大切な人のことを話さないといけないね。
 堀北アサミさん、多分君ならば、芸能界にいた時のアサミちゃんを知っていると思う。
 とても賢くて、とても可愛くて、とても綺麗で、とても優しくて、少しだけ腹黒くて……
 大切で、大好きで、誰にも渡したくなくて、どれだけ一緒に連れて行こうかと思った女の子……
 夏休みにアメリカに行った時に僕が告白して、その日のうちに晴れて恋人同士になれたんだ。
 それから、本当に色々とアサミちゃんには助けてもらったと思う。
 アサミちゃんさえ居てくれれば、他の誰もいらないと本気で思っていた。
 たとえ世界を火の海に変えても、アサミちゃんだけは守ってみせると考えていたよ。
 ただ、アサミちゃんのせいで、世界を火の海にすることは出来ないだろう?
 だから、どうしたら世界を守ることが出来るのか、それが僕にとっての戦う理由になっていたんだ。
 可愛いアサミちゃんが好きだ、綺麗なアサミちゃんが好きだ、拗ねているアサミちゃんが好きだ、
 普段のアサミちゃんが好きだ、ベッドの中で両手を広げてくれるアサミちゃんが好きだ、
 しがみついて、僕の名前を呼んでくれるアサミちゃんが好きだ、
 恥ずかしそうにキスをせがむアサミちゃんが好きだ、
 先輩分の補給と言って抱きついてくるアサミちゃんが可愛くて仕方がない……
 僕と一緒に、僕が壊れた時の準備をしてくれるアサミちゃんが悲しかった、
 笑っているアサミちゃんが好きだ、怒っているアサミちゃんが好きだ、
 屁理屈を言っているアサミちゃんが好きだ、我儘を言っているアサミちゃんが好きだ……
 僕は、僕は……大好きなアサミちゃんを残していく自分が悔しかった。
 楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、もっともっとアサミちゃんと一緒の時間を過ごしたかった。
 アサミちゃんと結婚して、可愛い子供を授かって、幸せな生活を送りたいと願っていたんだ。
 自分の子供に、お父さんとお母さんがどう出会って、どう恋をしたのかを教えてあげたかった。
 アサミちゃんと一緒に歳をとって、未来の世界を見てみたかった。
 もっともっと、本当にいろいろなことをアサミちゃんとしたかった……
 僕にとって、本当にアサミちゃんが全てだったんだよ」

 「だから僕は壊れたんだ」アサミへの思いを語った画面の向こうの自分は、悲しそうに告白した。

「僕には、そんな激しい恋をすることは許されていなかったんだ。
 そんなにも人を好きになることは許されていなかったんだよ。
 アサミちゃんを好きになることで、僕の脳は簡単に許容量を超えてくれたんだ。
 だから僕は破綻して、君が僕のメッセージを聞くことになっている。
 ねえ、それってもの凄く理不尽なことだと思うだろう?
 アサミちゃんを好きなればなるほど、僕が壊れるのが早くなるんだ。
 アサミちゃんが可愛くて、綺麗で、魅力的で、そう思えば思うほど僕は壊れるんだ。
 それが分かっていても、僕はアサミちゃんを好きになることを止められなかった。
 アサミちゃんが好きだという気持ちを抑えることが出来なかったんだよ。
 アサミちゃんと一緒に居ることが嬉しくて、抱きしめた温もりが心地よくて。
 大好きで大好きで大好きで大好きでたまらなかった。
 それなのに僕は、アサミちゃんに一番酷いことをしてしまった。
 だから僕は、アサミちゃんがこれからどうするか、誰を好きになるのかを語る資格は無いんだ。
 だから君に残していくのは、アドバンテージと大きなハンデだよ。
 もしも君がアサミちゃんに恋をしたのなら、そのハンデを乗り越えていく必要があるんだ。
 僕と同じ事をしていたら、君はアサミちゃんの恋人にはなれないだろうね。
 君で無ければ出来ない事を見つけないと、僕の陰をぬぐい去ることは出来ないんだ。
 どうだい、世界の英雄という大きな壁が目の前に立ち塞がる気分は?
 生半可な努力で超えられる物では無いと思うよ。
 これが、僕が君に残した大きなハンデで有り、そしてそれ以上のアドバンテージだと思ってる。
 君が、僕のオリジナルであるのは疑いようが無いんだ。
 そして僕は、君の機能制限版でしか無いんだよ。
 君の持っている可能性は、僕なんかよりもずっと大きな物なんだ。
 そしてなにより、君には僕に与えられなかった時間があるんだ。
 どうだい、才能があると言われるのは結構プレッシャーだろう?
 だけどそのプレッシャーを乗り越えなければ、君は僕を超えることは出来ないんだよ。
 僕は、破滅しかけた世界を、僕だけが救えるというプレッシャーと戦ってきたんだ。
 どっちが重いと言うつもりは無いけど、勝てばアサミちゃんと本当の恋人同士になれるんだ。
 決して悪い勝負じゃ無いと思うんだけどね」

 「まあ、頑張ってくれ」と軽く言い、画面の向こうのシンジは、軽い調子で語りかけてきた。

「それから、居なくなる僕からもう一つ忠告を残していこうと思う。
 僕と君の記憶を連結できないかと、アサミちゃん達が考えていると思うんだ。
 何しろ僕達の記憶は、時間的にぶつかることは無いからね。
 君が持っていない中3から高2の今までの記憶だったら、結合しても問題ないと考えてもおかしくない。
 そのことを否定するつもりはないし、もしも可能だったら、君にもメリットはあることだと思う。
 ただ、色々と考えてみたが、ほぼ不可能だと言う結論に達したよ。
 なにしろ君と言う存在は、この先世界にとって無くてはならない物になっていく。
 だからリスクの大きすぎる人体実験なんか、絶対にすることは出来ないんだよ。
 こんなことで、100%の可能性なんて絶対に実現しないんだ。
 もしも失敗したら、いや、失敗以外の結果は無いと思っているんだけど。
 そんなことになったら、オリジナルの君も壊れてしまうことになるだろう。
 だから、中3から今までの記憶は、諦めてくれとしか言いようが無いんだ。
 せいぜいアルバムから、何が起きたのかを眺めるぐらいにしてくれないかな?」

 そう言ってまっすぐ自分を見た画面の向こうの自分は、「納得がいかないかな?」と口元を歪めて見せた。

「だけど、世の中には、そうそう都合の良い奇跡なんて無いってことだよ。
 たぶん君も知っていると思うけど、僕と君の間には何人か知らない僕が居るんだよ。
 その僕達は、ぐちゃぐちゃにいじられて、壊されてしまったのだと推測できる。
 僕と君の記憶を結合するとき、その壊されてしまった僕達も一緒に結合されてしまうんだ。
 それがどんなものかは、さすがに僕も分からないよ。
 ただ、真っ当な精神では耐えられないものになると思う。
 だから、誰も怖くて“記憶の結合”に手を出すことが出来ないはずなんだ」

 その説明は、シンジにとって理解の出来るものだった。画面の向こうに居る自分が言うとおり、記憶操作を何度もやり直した記憶が残っている。今度のことにしても、それと同じだと思っていたのだ。それが「ぐちゃぐちゃにいじられた」結果と言われれば、確かに怖くて手を出したいとは思えない。
 それを認めたシンジだったが、やっぱり凄いと向こう側に居る自分のことを尊敬した。本当にいろいろな可能性を考え、そのことへの考察を加えてくれている。今の説明にしても、どこも間違っていないと思わせるものになっていたのだ。

「まあ、君に伝えたい事はこれぐらいかな。
 細かなことを言えば、本当に色々と出てくるんだけどね。
 でも、それをやっていると際限がなくなってしまうんだ。
 だから君は、ここから先、自分の足で歩いていかなくちゃいけないんだよ。
 大丈夫、多少の弱音なら、ジャージ部の仲間たちが受け止めてくれるよ。
 それから、S高の仲間たちも受け止めてくれると思う。
 君は君だ、他の誰でも無いことを誇りに思うことだ。
 TICの責任は、君の代わりに僕が持って行ってあげよう。
 だから、終わった過去にいつまでも拘ってはいけないよ。
 僕が果たせなかった将来の夢、出来たら君が代わりに叶えてくれないかな。
 “憧れの”アイドル、アサミちゃんとの将来なんだ。
 君にとっても、悪い話じゃないと思うよ」

 そこまで話したシンジは、「じゃあ」と気楽に手を振ってみせた。

「ここまで付き合ってくれた君に、ご褒美の映像特典を見せてあげよう。
 写真集にもなかった、アサミちゃんのフルヌードっていうのはどうかな?
 たぶん反対は無いだろうから、特別公開してあげよう。
 じゃあカウントダウンをするよ、3、2、1……」
「ち、ちょっと、それは……」

 マジですか。これから表示されるお宝映像を見逃さないよう、シンジはタブレットに顔を近づけ食い入るように画面を見つめた。
 だが「0」とカウントダウンが終わった所で、「やめておこう」と画面の向こうの自分が口元を歪めて言ってくれた。期待が大きかっただけに、思わずシンジはタブレットをベッドへと投げ捨てた。

「ぜ、絶対に人をからかって楽しんでいるだろう!」
「いやいや、まあ、ちょっとそう言うところもあるかな」

 まるで聞こえていたような反応に、シンジはぎょっとして目をむいた。

「まあ、君がどういう反応をするのかは予想がつくからね。
 それはおいておくとして、アサミちゃんのヌードについては自分で努力してくれないか。
 ああっ、今更だけど、君は童貞じゃないからね。
 初体験の記憶が無いのは、まあ運が悪かったと諦めてくれ。
 もちろん、アサミちゃんも処女じゃないからね。
 悔しいだろう、はっはっは、ざまあみろ!」

 そこで映像がぷつりと切れてくれた。ホーム画面が現れたところを見ると、データがこれで終わっているのだろう。色々とおちょくられた気もするが、自分の思い、そして周りの人達、色々と教えてもらえたと思っていた。

「何がざまあみろだよ。
 アサミちゃんは、最後に僕のものになるんだ。
 それこそ、ざまあみろだよ!」

 何も映っていなない画面に、シンジは子供のように言い返していた。これだけおちょくられて、絶対に黙って引き下がるものか。こんな自分にだけは、絶対に負けてたまるものか。すぐには無理でも、必ず超えてやるとシンジは誓ったのだった。
 ただ勝ち誇って言い返しては見たが、色々と情報が欠けているのに気がついた。

「あ、あれ、レイのことは何もないのかな?」

 身の回りの人のこと教えてくれたのに、肝心のレイのことには触れられていなかったのだ。まだ作成途中だったのかなと、タブレットの画面を見た所で、いきなり自分の顔が大写しになってくれた。

「な、なんだぁっ!」

 思わずシンジがのけぞった所で、画面の向こうの自分がニヤリと笑って「驚いたろう」と言ってくれた。

「きっと君は、僕にだけは負けてなるものかと思っただろうね。
 でも、僕を超えるんだったら、できるだけ急いだ方がいいんじゃないのかな?
 いつかなんて時間的目標を決めないのは、結局何もできないことになるからね。
 なにごとも、計画的に進めて行かないといけないよ。
 いきあたりばったりだと、アサミちゃんに軽蔑されるからね」
「言ってろよっ!」

 ここまで見透かされて、怖いと思うのと同時に、何かとても腹立たしくなってしまった。だからこそシンジも文句を言ったのだが、相手の方が一枚に二枚も上手だった。

「う〜ん、ほっといてもいいんだけど、まだ色々と知りたいことがあるんじゃないのかな?
 妹のレイがどんな女の子なのかとか、ヘラクレスには、どんな関係者が居るのかとか。
 僕がこれまで行なってきた分析、君が戦ってきた使徒の倒し方とか。
 それがどうでもいいと思うんだったら、右上の「消去」のボタンを押してくれるかな。
 今まで君が見たデータも含めて、僕からのメッセージが完全に消去されるよ。
 きっと綺麗にデータが無くなったら、君も清々することだろうね。
 それから、この先も是非とも聞きたいと思ったら、右下に出る「お願いします」のボタンを押してくれ。
 そこから先は、指示に従って操作すれば、君の欲しい情報を手に入れることができるよ。
 さあっ、ファイナルチョイスだよ!」

 そう言って、再生映像はストップしてくれた。画面を見れば、言われた所に言われた通りのボタンが現れていた。右上には、確かに「消去」のボタンが小さく表示されていた。そして右下には、消去ボタンとは比較にならない大きさで、「教えてください、お願いします」のボタンが表示されていた。
 単なる選択ボタンなのだから、表示に何が書かれていたとしても、気にする必要など無いはずだった。だが、シンジは「お願いします」のボタンを押すのをためらってしまった。それを押したら、なぜか負けた気がしてならなかったのだ。だがこれからのことを考えると、必要な情報はちゃんと貰っておいた方が身のためなのだ。う〜と画面を散々睨んでから、シンジは諦めて「教えてください、お願いします」のボタンを押した。

「いやぁ、随分と迷ったようだね。
 仕方がない、先輩として色々と教えてあげようじゃないか!」

 とても偉そうにされ、シンジはむかつくのと同時に勝てないなと、自分の手強さを思ったのだった。







続く

inserted by FC2 system