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 人を人として認識できる世界を望んだはずだ。だが、自分の望んだはずの世界で見せられたのは、地獄のような現実だった。インフラが壊滅した多くの街では、人々が水を求めて争いを起こしていたし、食べ物にしても一日一回口に出来れば良い方だった。その一回にしても、カロリーすら十分でなく、バランスを語る以前のものだった。
 その状況に比べれば、大勢の行方不明者が出たことは、まだマシなことだったのかもしれない。行方不明とされたほとんどが、正確には未帰還者だったのだ。

 その地獄のような世界で、彼は重要参考人として保護されていた。そのおかげで、普通ならあり得ないまともな食事が支給されたし、住むところにしても寒さをしのげるだけで無く、入浴もほとんど毎日することが出来た。だからこそ、対象Iこと碇シンジにとって、その生活は苦痛以上の何物でも無かったのだ。

 TICと略される大災害、Third Impact Crisisは、一度地球上に生きる生物を消し去った。過去大量絶滅と言われる事件でも、30%の種が生き残ったとされている。それを考えると、今回の事件が、いかに尋常で無いかを理解することが出来るだろう。
 種は帰還という形で回復こそしているが、本当にすべてが回復したのか、新たな種が発生していないのか、その解明には長い時間が掛かるとされていた。そしてその謎を解明するための重要な手がかりが、対象Iこと碇シンジと言う存在だったのだ。

 だが謎を解明するための尋問は、同時にシンジの心を壊していく行為となっていた。その時何が起きたのか、情け容赦なくヒアリングと言う名の尋問が行われたのだ。地獄のような世界と併せて、日々シンジの心は苛まれていくことになった。そしてシンジは、ヒアリングが終わったところで、保護官に対して救いを求めたのである。

「もう、耐えられないんです。
 寝ようとすると、あの世界のことが思い出されてしまうんです。
 世界をこんなにして、お前はどうして生きているんだって聞こえてくるんです」

 だから助けてください。シンジの中には、死も救いだと考える気持ちがあった。どんな形でも、今の苦しみから逃れたい。毎日苦しむ彼には、それ以外のことは考えられなくなったのだ。死が救いと考えるほど、シンジは追い詰められていた。
 その願いを受け取ったシンジの保護官、山本エヴァンジェリン・ヨウコは、時の総理大臣石葉シゲルに、救済措置の実行を上申した。上申理由は、未成年者の保護および治療である。本人からのヒアリングおよび集められた証拠から、碇シンジが違法行為を行っていないことは確認されている。ゼーレと呼ばれる組織、および実父の犯罪行為に利用されただけなのだから、政府として保護する必要があるとしたのである。

 その上申に対して、政府内では様々な議論が行われた。ちょうど開発の始まったヘラクレスが、シンジの扱いを難しいものにしていた。うまく利用すれば、ヘラクレスの世界でも日本が技術的優位に立つことが出来る。その一方で、高すぎる適性がFICの引き金を引く恐れがあると言う懸念も示された。リスクとベネフィット、その両面から激しいやりとりが行われ、結局リスク派が勝利を収めることになった。
 ただ活用派にしても、ただ単にリスク派の言うことを聞いたわけでは無かった。「保険」の必要性を強く主張し、保険を掛けることで記憶および精神操作を了承したのである。その保険こそが、非常時において、直ちに記憶を復元できることと言う条件だった。その条件が持ち出された事情には、その頃発表された研究成果が理由になっていた。

 その研究成果、すなわち人間の脳に仮想領域を確保し、そこに記憶を転写するという考えは、発表直後から倫理面で非難の的になったものだった。言うまでも無く、人間の尊厳を踏みにじると言うのが理由である。その認識を、研究を発表した者もすぐに受け入れ、禁止技術として扱われることも決まっていた。
 その禁止技術を利用することを決めた時点で、もはやリスク派ベネフィット派のいずれにも正義など無いことが分かる。だが外部委員会からの正規の答申である以上、石葉は即時の実行を承認することしかできなかった。
 承認が行われたのは、2016年3月3日のことだった。奇しくも、堀北アサミの誕生日と同じ日だったのだ。



 2018年12月24日夜の事件は、世界に深刻なパニックを引き起こした。人々の心には、高知の奇跡、ニューヨークの奇跡、そしてM市の奇跡が鮮烈に記憶されている。そして国連事務総長も、シンジを中心に据え、人類の反攻を高らかに宣言したのだ。その中心となるシンジが倒れたともなれば、世界が再び恐怖に包まれるのは、ある意味当然の成り行きだった。しかももう一人の希望、堀北アサミも同時に入院してしまっていたのだ。半年前より戦力が充実しているはずなのに、世界は精神的にぎりぎりの所まで追い詰められてしまった。
 しかもシンジの症状は、原因不明としか発表されなかった。すなわち、過去行われた非人道的行為が、公表されることは無かったのである。

 そのパニックが若干緩和されたのは、12月31日に行われたボルドーの戦いで完勝したことだった。12体のギガンテス襲撃に対して、カサブランカ、サンディエゴから出撃したヘラクレス部隊、およびフランス空軍が完璧な戦いを繰り広げたのだ。そのおかげで、日本抜きでも被害を完全に押さえ込むめどが立ったのである。
 ただこの完璧な戦いにしても、碇シンジの功績抜きでは語ることは出来なかった。多数のギガンテスを迎え撃つ作戦、そして通常兵器の活用方法は、すべてシンジが確立したものだった。その事実の前に、人々は失ったものの大きさを思い知らされたのである。そして未だ改善の見られない容態に、人々は神への祈りを捧げたのだった。



 碇シンジに何が起きたのか。マドカ達は、その説明を後藤から受けることになった。それは、シンジが倒れた翌日、12月25日の夜のことだった。そこまで説明が遅くなったのは、後藤自身マスコミ対応に追われた結果だった。
 その説明の場で、後藤はシンジの“正体”をマドカ達に明かした。世界が等しく被害を受けたTIC、シンジはそのTICに人身御供として捧げられた少年なのだと。そしてもう一つ、シンジに行われた操作が、本人の事を考えた物では無いと言うことも伝えた。本来記憶操作など、一度行えば目的を達せられるものなのだ。だが関わった者達は、二度と無い機会に何度も実験を繰り返したと言うのだ。

「い碇君は、じじじ実験材料に、ささされたと言うことなのね」

 初めは何を言っているのか理解できなかった。だが後藤の言葉を理解できたとき、マドカは目の前が真っ赤になった気がしていた。助けを求めてきた子供に、どうしてこんな酷い真似が出来るのか。辛くて辛くて仕方の無い子供に、学者達は好奇心から好き勝手に心を弄んだというのである。あまりの怒りの激しさに、マドカの体は、声は、はっきりと震えたぐらいだ。
 仮想領域を作れば何度でもやり直しがきく。その気楽さで、何度も実験が繰り返された。シンジが破綻したのも、やり直しを何度も行ったことに原因が有ることも教えられた。さんざん実験を繰り返し、これ以上出来ないところで最終措置が行われた。大人しく措置をしていたら、破綻が起こらなかったことが明らかになったのだ。

「後藤さん、その人達が今どこに居るのか教えてくれますか?」

 マドカと同じように、ナルの体も小さく震えていた。やり場の無い怒りが、今まさに噴き出そうとしている。噴き出させなければ、自分が自分で居られなくなってしまうとさえ二人は思えていた。
 そんな二人に、後藤は「教えるわけにはいかない」と答えた。教えることが、二人のためにならないと考えたのだ。

「君達の気持ちが分からないなどと言うつもりは無い。
 彼は、俺にとって息子のようなものだったのだぞ。
 この半年、彼が成長していくのを見ているのは楽しかったんだ。
 この俺自身、そいつらを八つ裂きにしてやりたいぐらいだ。
 だが奴らを八つ裂きにしたところで、何も解決してくれないんだ。
 もちろん、このまま放置しておくつもりは無い。
 だが、君達に手を汚させるわけにはいかないんだよ」
「手を汚さなくなって、記者会見で名前を出してやるだけで十分でしょう」

 そうすれば、間違いなく世間が私刑を実行してくれるだろう。だが後藤には、そんな真似をマドカ達にさせるわけにはいかなかった。シンジを初めとしたジャージ部は、「正義の味方」で無ければいけないのだ。

「それも、君達が手を汚すのと同じ事なんだ。
 碇シンジ君に後を託された身として、君達にそんな真似をさせるわけにはいかない。
 一度悪意を人に向けた者は、自分もまたその悪意に染まってしまうんだ。
 彼は、そんなことを君達に望んでいない」
「でも、こんな気持ちじゃ戦えないよっ!」
「それでも、彼は君達に後を託したことを忘れないでくれ。
 それから高村、大津、お前達も早まった真似をしてくれるなよ」

 後藤に釘を刺された大津は、「世の中に正義は無いのですか」と食い下がった。

「碇さんは、命の恩人なんですよ。
 その碇さんがこんな目に遭わされて、どうして黙っていなくちゃいけないんですか。
 こんな事をした人たちに罰が与えられてこそ、正義があると言えるんじゃ有りませんか!
 僕は、僕は、こんな事を認めることは出来ません!」
「たとえそうでも、お前達に罰を与える権利があるわけでは無い。
 そして彼が罰を与えないと決めた以上、お前達がとやかく言える物では無いだろう。
 お前達が本当にすべきことは、この逆境をはね除けてみせることだ。
 お前が碇シンジに恩があると思うのなら、今度はお前が碇シンジを助けろ。
 碇シンジが守った世界を、今度はお前が守って見せろ!」

 どんなに言葉で取り繕ってみても、納得など出来ないことは分かっていた。それでも後藤の立場では、そう言うことしか出来なかったのだ。それは政府の立場を守ると言う、自らの保身から出た物では無い。世界の存続は、碇シンジが願っていたものだったのだ。
 それでも不満を顔に出したアキラに、後藤は「聞き分けろ」と怒鳴ろうとした。だがその直前に、後藤の持っていた携帯電話が鳴り始めた。

「そうか、彼女が目を覚ましたか……
 ご両親も、一緒におられるのだな」

 大津達の反発以上に、堀北アサミの状態の方が問題だった。いくら覚悟をしていても、そんな覚悟など意味が無いことを思い知らされたばかりなのだ。もしもアサミが脱落することになれば、日本の迎撃体制の崩壊は決定的なものとなる。
 だがマドカ達にとって、そんな事情はどうでも良いことだった。アサミが目を覚ましたと言う知らせに、すぐに会いに行こうと後藤に背を向けた。そんなマドカ達に、「行くのなら覚悟をしていけ」と後藤は声を掛けた。

「行ってはいけないなどと言うつもりは無い。
 だが君達だけで行くと言うことは、もう碇シンジが居ないことを教えることになるのを忘れるな。
 いつまでも隠し通せることではないし、隠すこと自体に意味があるとも思えない。
 ただ、そう言うことになることだけは覚悟して行くことだ」
「たとえそうだとしても、アサミちゃんには知る権利があるわ。
 何も知らないまま、アサミちゃんに悲しい思いをさせるわけにはいかない。
 それから後藤さん、私達は正義の味方なんてやっているつもりは無いわ。
 頑張って頑張って、それでもどうにもならなくて、それでも頑張ろうとしている人たちの味方なのよ。
 正義なんて、訳の分からないものの味方になんてなったつもりは無いわ!」

 「だから我慢なんかしない」と言い残し、マドカ達はアサミの居る基地内の病院へと向かった。基地整備が進んだおかげで、総合病院クラスの医療施設が基地内にできあがっていた。

「それを、正義の味方って言うんだけどね……」

 マドカ達が居なくなったのを見計らい、隣の部屋から神崎が現れた。そして後藤に対して、どうするつもりなのかと聞いてきた。

「どうするか……か。
 どうしようも無いと言うのが、今の答えなんだがな……
 機械的に行う作業として、彼が残した分析データを両基地に展開する。
 過去の亡霊に対する分析を示さないと、それだけで俺たちはアウトだからな。
 そして、対象Iの記憶回復措置を実行することになる。
 その結果がどう転ぶのかは分からないが、やらないわけにはいかないだろう。
 実際、これからどうなるのかはジャージ部に掛かっているとしか言いようが無いんだ。
 俺に出来ることは、せいぜい彼女たちが動きやすくすることぐらいだ」
「各国の回答も返ってきているんでしょう?
 それは、教えてあげないの?」

 公開こそされていないが、碇シンジの問題は、各国政府に共有されたものだった。そしてその問題に対して、各国は本気で解決策を模索したのである。だがその結果は、絶望しか生み出さなかった。

「現時点で、記憶を結合する方法は無い。
 それを教えることに、どんな意味があると言うのだ?
 奇跡を待つほかに方法が無いことなど、もう堀北アサミは知っていることだ」
「そうか、彼女は彼から色々と教えられていたのよね……」

 二人の関係を考えれば、本当に色々なことを教えられているはずだった。そしてシンジの能力を考えれば、記憶を結合する可能性が無いことも分かるはずだ。

「ただ、俺たちが忘れてはいけないのは、これはありふれた悲劇にしか過ぎないと言うことだ。
 突然の、そして理不尽な死など、世の中には本当にごまんとあることなんだ。
 碇シンジが失われたことにしても、その一つでしか無いと言うことだ」

 世の中に与える影響を忘れれば、後藤の言うとおりなのだろう。SICやTICを持ち出すまでも無く、ほとんどの死と言うものは、理不尽で残酷なものと相場が決まっていた。
 「ありふれた死」と行った後藤に、「データ上はそうね」と神崎も認めた。

「こうしている間にも、日本では30秒に1人死んでいるんだものね」
「そのうちの一人だと考えれば、特に、特に珍しいことでは無いっ!」

 そう吐き捨てた後藤に、神崎は「無理は良くない」と慰めた。どこまで行っても、データと感情は交わることは無い。そして碇シンジを失って悲しむ気持ちは、データに表すことなど出来ないものだった。

「それで、対象Iへの措置はいつ行うの?」
「しばらく猶予を置いて、年末と言うのが内閣の決定だ。
 26日から延期されたのは、意識が戻るかもしれないと言う期待からだ」
「たぶん、意識が戻ることは無い……か。
 そして戻ったとしても、破綻が待ち構えていることに変わりは無い」

 意識が戻ったとしても、処置を行うことは確定していたのだ。結局早いか遅いかだけの違いで、結果が変わることは無かったのだ。

「対象I、もう碇シンジと言った方が良いのかしら?
 彼も、大変な重荷を背負うことになるのね。
 それで、目を覚ました後、どう発表することになっているの?」
「原因は不明、意識は取り戻したが、この3年ほどの記憶を喪失していることにする。
 適正以外のパイロットとしての能力は、一切が不明と言うことになるだろう」
「適正が高そうなのはありがたいけど、頭脳が失われる損失を埋められるのかと言うところね」

 果たして、堀北アサミに代わりが務まるのだろうか。“遺産”が残っていても、それが万能であるとは思えないのだ。そうなると、アテナとアポロンの能力も当てにしなくてはいけなくなるだろう。

「あっちの二人の記憶を戻すって話は無いの?」
「この状況で、誰もリスクを負うことは出来ないと言うことだ」

 すなわち、二人の記憶は戻ることは無い。その意味を理解した神崎は、暗澹たる気分の中「そう」とだけ答えたのだった。



 後藤に言われなくても、自分たちが顔を出す意味など分かっていた。だが分かっていても、顔を出さない事が許されないことも分かっていた。だからマドカ達は、迷うこと無くアサミの病室に駆けつけた。それでも、病室をノックする時には、本当に良いのかと考えてしまった。
 だが迷っていても何も解決しないと考え直し、マドカが代表して病室の扉をノックした。ノックから少し遅れて、中から「はぁい」と聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。

「あら皆さん、ありがとうございます」

 扉を開けたマサキは、お見舞いに駆けつけたマドカ達にお礼を言った。そして「アサミなら起きています」と4人を病室に案内した。そこで初めて自分たちが手ぶらだったことを思い出したのだが、仕方が無いとそのまま入っていくことにした。
 マドカ達が部屋に入ったとき、すでにアサミは体を起こしていた。そのあたり、体に悪いところは無いのだから、別に不思議なことでは無いのかもしれない。ただ、本当に良いのかという気持ちだけはマドカ達にはあった。そんなマドカ達に、「大丈夫ですよ」とアサミは微笑んで見せた。ただその悲しそうな微笑みに、マドカ達は胸が締め付けられるような思いがした。

 ナオキの手を借りて立ち上がったアサミは、「心配をお掛けしました」とマドカ達に頭を下げた。水色をした病院着のせいか、あまり顔色は良さそうには見えなかった。

「本当は、もっと早く先輩達に打ち明けなくちゃいけなかったんです。
 でも、それが出来なくて、ずるずるとこんなことになるまでお話が出来なくて。
 だけど遠野先輩、私は大丈夫だから心配しなくても良いですよ。
 すぐには無理でも、必ず立ち直って見せますからね。
 それが、碇先輩と私の約束なんです」
「でも、碇君は……」

 「もうだめ」と言いかけたマドカを、ナルが必死になって口を押さえた。そんな二人に、「分かっていますよ」とアサミは寂しそうに笑って見せた。

「奇跡でも起きない限り、先輩が帰ってこないのは分かっています。
 違いますね、元の先輩が帰ってくるような奇跡があってはいけないと思っているんです。
 どんな辛い過去だって、過去の記憶が無いのなんて可哀想じゃ無いですか。
 だから中学2年までの先輩、中学3年からの先輩が一緒にならないといけないんです。
 それが出来たときこそ、本当に奇跡が起こったのだと思いますよ」
「いや、アサミちゃん、凄く立派なことを言っているのは分かるんだけど……
 それって、やっぱりどこか違ってない?」

 困惑したマドカに、「違っていませんよ」とアサミは笑った。

「だって、記憶をぐちゃぐちゃにされた先輩には、何の罪も無いんですよ。
 だとしたら、死ぬまで眠ったままと言うのも残酷なことじゃ有りませんか?
 どうせ目覚めてしまうのだったら、みんなが幸せになる方法を探した方が良いと思います。
 もうすぐ目を覚ます先輩は、辛くて辛くて、逃げなくてはいけないほど酷い目に遭っていたんですよ。
 だったら、優しくして貰える世界があっても良いと思いませんか?
 たとえ私達との記憶がなくても、先輩が先輩であることに違いはありません」
「アサミちゃんは、本当にそれで良いの?」
「良くないって言っても、もうどうにもならないことなんです。
 私の大好きな碇先輩は、もう壊れてしまったんですよ。
 私の目の前で、私にキスをしようとして……とっても嬉しそうな……」

 アサミが言葉に詰まったところで、これ以上は駄目だとナルが割り込んだ。マドカに悪気は無くても、心の中にまで踏み込みすぎていたのだ。自分で解決できる問題なら許せるが、解決策の無い時にここまで言って良いはずが無かった。

「マドカちゃん、それ以上言ったら絶交するわよ。
 それからアサミちゃん、無神経な聞き方をしてごめんなさいね。
 マドカちゃんもそうだけど、みんなとても冷静では居られないのよ。
 正直言って、まだ私は頭がついていっていないわ。
 ただ、私達はもっと落ち着いてから話さないといけないのよ。
 だからアサミちゃん、私達はもう帰るわね」
「そうですね、私が黙っていたから、先輩達にも突然でしたよね」

 もう一度「ごめんなさい」と謝ったアサミに、ナルは「気にしないで」と返した。そんなことでは駄目だと分かっていても、何をどうして良いのかナルにも分からなかった。だからそれ以上何言わず、アサミの両親に頭を下げて病室を出て行った。

「ナルちゃん、ごめん……」

 あそこで止めて貰わなければ、言ってはいけないことを口にしていた。アサミに非がないのも分かっているのに、言葉が止まらなくなってしまっていたのだ。それを止めてくれたナルに、マドカが謝ったのも当然のことだった。

「謝んなくても良いわよ。
 アサミちゃんの言葉に納得できないのは私も同じだから。
 たださ、それを言っても仕方が無いことも分かっているのよ。
 こんなことさ、相談されでもどうしようも無いでしょう?
 アサミちゃんは、間違いなく私達より苦しんだはずよ。
 碇君も、ものすごく苦しんだんだと思う。
 だってここの所、二人とも本当に笑っていたことが無かったでしょう?」
「その辛い気持ちを、私はほじくり返しちゃったのね……」

 それを思うと、自分で自分が許せなくなる。「くそっくそっ」とはしたない言葉を吐いたマドカに、「落ち着きなさい」とナルは諭した。

「アサミちゃんだって、マドカちゃんの気持ちぐらい分かっているわよ。
 それよりも、私達はレイちゃんの心配もしないといけないわよ。
 こんな事情だから、碇君には誰も会えないんでしょう?」
「そうだね、レイちゃんとお話をしないといけないんだね……」

 何かをしなくてはいけないと言う意識はあっても、その何かがまったく思い浮かばなかった。マドカ達に突きつけられたのは、何も出来ないという悲しくなる事実だけだった。



 一人でテレビを見ていたレイは、そろそろ寝ようとしたところで兄が倒れたと言う報せを受け取った。そしてその電話を握りしめたまま、レイは呆然と立ち尽くしてしまった。電話の向こうで何かを言っているのは聞こえるが、まったく耳に入ってこなくなってしまったのだ。いくら覚悟をしていても、そんなものは、現実の前には何の役にも立ってくれなかった。

 それから何をして居たのか、自分でも何も覚えていなかった。たぶんトイレには行ったのだろうが、何かを食べた記憶も残っていない。ベッドで寝た記憶すら無かったのだ。そんなレイが少し現実に戻ったのは、玄関のチャイムが激しく押されたからだった。そこで誰が来たのかも考えず、のそのそと玄関まで歩き扉を開けた。そこでレイは、いきなり誰かに抱きしめられた。

「レイちゃん、大丈夫だった!?」
「あ、ああ、遠野先輩……」

 自分を抱きしめたのがマドカだと分かり、初めてレイの瞳に涙が浮かんできた。そして次から次へと、涙があふれ出てきた。そしてそこから、レイは何も話すことは出来なかった。ただマドカの肩に顔を埋め、ただ兄を呼び泣き続けた。

「ふぇぇぇぇえ、お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」

 細くか弱い悲鳴のような鳴き声に、マドカはレイの体を抱きしめることしか出来なかった。どんな言葉を掛けようと、レイの兄が失われた事実を変えようは無い。そしてどんな慰めも、何の意味も持たないのが分かっていたのだ。だからマドカに出来ることは、震えながら抱きついてきたレイを、しっかりと抱きしめてあげることだけだった。

「マドカちゃん、ごめん、私も泣かせて貰う」
「ず、ずるいよナルちゃん、私だって泣きたいんだから……」

 困って困ってどうしようも無くなって、それでも何とかしようとする人たちを助けてきた。困った人の味方というのが、ジャージ部のモットーだったはずだ。だがそんな自分たちが、一番身近に居る人を助けることが出来なかった。そして自分自身、一番大切にしているものを失ってしまった。それが悔しくて、それが悲しくて、マドカとナルも大声を上げて泣き出した。
 恥も外聞もなく、三人は大きな口を開いてわんわんと泣いた。そんな3人に、ユイとアキラは言葉を掛けることは出来なかった。一緒に居た時間が長いほど、そして思いが強いほど、失った悲しみは大きくなる。その悲しみの前には、どんな言葉も力など持つはずが無かったのだ。



 シンジが倒れたと言う知らせは、直ちに世界中に伝わった。そしてその状況を知らされたアスカは、本当に世の中は残酷に出来ていると、悲劇の当事者となった二人に同情した。覚悟はしていても、幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされたのである。15歳の少女に、乗り越えろというのが無理な相談なのだ。
 そしてアスカ自身、辛すぎると感じていた。こんな悲劇を招いたのは、間違い無く「無邪気な悪意」が理由だったのだ。その世界を守ったことで、碇シンジは破綻してしまったのだ。

「クラリッサ、少し一人にしてくれないかな?」
「ついでに、アスカが1時間ぐらい遅刻すると上申してくるわ。
 もっとも、みんなそれどころじゃ無いと思うけど……」

 ブルックリン南の戦いは、最終的にはニューヨークの決戦と語られるようになっていた。その決戦に勝利をもたらした立役者、そしてジャクソンビルの戦いでも過去の亡霊を葬り去った英雄の不幸は、間違いなく各基地のあり方に影響を与えるものだったのだ。しかも悪いことは、ギガンテスの襲撃にはまったく関係の無い出来事だと言うことだ。サンディエゴとカサブランカには、再び世界に希望の明かりを灯す責任が降りかかってきた。
 だが単なる勝利では、全然足りないことをクラリッサは理解していた。むしろ単なる勝利だけでは、失ったもの大きさを知らしめるだけになってしまうのだ。それほど、碇シンジの示した功績は巨大なものだった。

 「気が済んだら出てらっしゃい」と言い残して、クラリッサは二人の部屋を出て行った。心の恋人にして精神的支柱を失ったのだから、それを悲しむ時間ぐらい与えてあげなくてはいけない。思いっきり悲しみをはき出してこそ、再び歩き始めることが出来るのだからと。

「ありがとうクラリッサ……」

 相方が出て行ったのを確認し、アスカは椅子の背もたれに体を預け部屋の天井を見上げた。そして、シンジ様に出会ってからの5ヶ月間の出来事を思い返した。
 それはとても刺激的で、夢のような5ヶ月間だった。心から凄いと思える相手、なによりそれがシンジだったことが一番の驚きだった。再会した時には自分の記憶も戻っていなかったので、本当にフラットな状態でシンジのことを見ることが出来た。そしてその時のシンジに、恋をすることが出来た。

「あのばか、なんでこんな世界を救ったのよ……」

 恋はしたが、片思いにしかならないことは嫌と言うほど分かっていた。それほど、二人が惹かれ合っているのを見せつけられたのだ。こんな世界だから巡り会えたのだろうが、待っていたのが悲劇では意味が無いと言いたかった。

「可哀想なシンジ様……」

 幸せな瞬間逝けたと言うのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。だが目を恋人に向ければ、最悪のタイミングとしか言いようだ無いだろう。自分の腕からこぼれ落ちていくシンジを見るのは、どれだけ心が悲鳴を上げることだったのだろう。
 それを思うと、まだ自分はマシだったのだとアスカは考えた。そして世の中の不幸を引き受けた二人に対して、アスカは深く同情したのだ。ただその時流した涙は、同情からだけなのかは分からなかった。

「あのばかも、可哀想にとしか言いようが無いわね……」

 シンジ様のおかげで、アスカのシンジに対する嫌悪の気持ちは無くなっていた。そして冷静に事態を振り返ることで、むしろシンジに対して同情したほどだったのだ。あの頃は、自分を含め、周りに居た人達はシンジを壊すためだけに配置された存在だった。使徒を倒すという間接的な目的はあったが、本来の目的のためにはシンジを徹底的に壊す必要があったのだ。そんな境遇で、ひ弱な14歳の心が耐えられるはずが無い。そして周りが意図したとおり、シンジの心は音を立てて壊れてしまったのだ。
 そんな邪魔な環境さえ無くしてしまえば、あれだけ魅力的な男になれることも証明されたのだ。その邪魔な環境の中には、アスカは自分自身が含まれていたのだと理解することも出来た。もしも記憶操作が自分と同じ程度だったならば、悲劇の結末は迎えずに済んだのにと思ったぐらいだ。

 だがいくら仮定を考えたとしても、あの碇シンジが返ってくるのは確定している。幸い自分は離れたところにいるので、当分直接顔を合わせることは無いのだろう。ただシンジ様の恋人、そして仲間達は、あのシンジをどんな風に迎えるのだろうか。クラリッサの言う、記憶の結合を唯一の拠り所にするのだろうか。

「私達は、シンジ様、そして彼女達から沢山のものを貰ったわ……」

 ニューヨークの決戦以降、シンジ様の側には必ず堀北アサミ、遠野マドカ、鳴沢ナルの3人が居た。香港の戦い、ムンバイの戦いと、その4人には本当に沢山ものを貰ったと思っていた。それは将来への夢、戦いへの希望、そして羨ましくなるほどの仲間との関係。その極めつけは、M市での戦いだろう。一緒に戦う事への、心からの欲求があの時にはあったのだ。あんなに興奮したことは、使徒と戦っていた頃には無かったことだ。
 その恩に報いる方法は、今は一つしか無いと思っていた。彼女たちに貰ったものを生かし、襲撃してくるギガンテスを撃破し続けることだ。それだけと言うのは悔しいが、分をわきまえるしか自分に出来ることは無かったのだ。

「シンジ、頑張んなさいよ。
 あんたには、その才能があることが証明されているんだからね」

 その証明こそが、シンジにとって重荷になることも分かっていた。だがこの程度の重荷で音をあげていたら、消えてしまったシンジ様に申し訳が立たないだろう。

「頑張れば、ご褒美に世界のアイドルが付いてくるんだからね」

 自分には、ついぞ見せてくれなかった男を見せてみろ。アスカは、遠く日本の事を考えたのだった。



 一方カヲルは、謹慎処分の最中にシンジの不幸を知らされた。謹慎の理由は、“事故”によるマディソン・ブリッジの殺害である。謹慎程度の軽い処分で済んだのは、カヲルが負った重い役目が理由になっていた。従って謹慎にしたところで、訓練以外自室から出ることを許されない程度のものだった。
 マディソンを尋問したため、シンジの身に何が起きたのかをカヲルは理解していた。これが、大好きなシンジとの別れを意味しているのだと。天を仰いで、カヲルはシンジとの別れを嘆き悲しんだ。

「ああっシンジ君、君は逝ってしまったんだね……」

 このカヲルには、日本に行った事実は無かった。従って、使徒戦の頃のことは何も知らなかった。だからカヲルにとっての碇シンジは、この半年にも満たない時間での碇シンジだった。
 シンジとの別れを嘆き悲しんだカヲルは、少し早まったかとマディソンの事を考えた。もっとも、早まったと言うのは時期だけのことで、手を下したこと自体は反省すらしていなかった。この悲しみ、そして悔しさを晴らす相手が居ないことを悔やんだだけだった。

「さて、西海岸のアテナはどう考えるのだろうね。
 ああっ、それ以上に考える必要があるのは、あの素敵な女の子達のことか。
 彼女たちは、いったいどんな選択をするのだろうか。
 本当にシンジ君の記憶が繋がることを、考えているのだろうか……」

 それともと、カヲルは消えてしまったシンジのことを考えた。これまでシンジには、本当に驚かされ続けてきたのだ。もしかしたら、まだ何か隠している可能性もあるかもしれない。

「シンジ君のことだ、すべてが人任せとは思えないね……」

 なにかウルトラCが隠されている可能性もある。いや、あってしかるべきだとカヲルは考えた。それでこそ、自分が好きになった碇シンジと言う男なのだと。

「だとしたら、僕はその結果を楽しみに待てば良いのかな?

 そうすることで、自分の精神安定も図ることが出来る。その方が前向きだと、カヲルはとりあえず世界を守り続けることを考えたのだった。



 目が覚めたとき、シンジはもう一度実験するのかと辟易とした気持ちになっていた。もともと自分が頼んだことなのだが、だが何度も同じ事を繰り返されると何か違うと思えてしまう。しかも作業をする科学者達を見ていると、どうも目的がずれてきているようにしか思えなかったのだ。だからシンジは目覚めたとき、「いい加減にして貰えませんか」と文句を言った。

「何度同じ事を繰り返せば良いんですか?」

 そう言って起き上がろうとしたとき、シンジははっきりとした違和感を覚えていた。何か自分の体が自分の物で無いように思えたのだ。しかも自分が出したはずの声も、どこかトーンが低くなっているように感じてしまった。

「おはよう、ようやく目が覚めた?」

 あれっと首を傾げたところで、聞き覚えのある声が聞こえてきた。そして声の方に顔を向けたところで、シンジはもう一度首を傾げた。最近会った記憶のある女性が、少し老けた顔をしてそこに立っていたのだ。

「山本さん……ですよね。
 いつの間に老けたんですか?」
「ほほう、レディに向かってそんな口を叩くなんて、君は結構度胸があるのね」

 そう言って凄まれ、シンジはすかさず「ごめんなさい」と謝った。目元と口元が引きつる山本に、とても危険なものを感じていたのだ。そして謝ったところで、話を年のことから逸らすことにした。

「ところで、いつもの先生達じゃ無いんですね?」

 また同じ繰り返しになるのかと思ったところに、いつもと違って少し老けた山本が現れたのだ。疑問としては、とても正当なものに違いなかった。そんなシンジに、「説明の必要なことが沢山あるのよ」と山本は言った。

「一番最初に説明しておくと、あれから約3年の時間が経っているの。
 だから私は、より大人の女性に変身したという事よ」

 「お分かり?」と言う微笑みが怖くて、シンジは何度もかくかくと頷いて見せた。そして頷いてから、「3年!?」と大きな声を上げた。シンジにしてみれば、目を閉じて目を開いたと言う意識しか無かったのだ。

「そっ、3年経ったのよ。
 その証拠に、ベッドから降りて立ってごらんなさい」

 3年も寝たきりだとしたら、簡単に起きられるはずは無いと思って居た。だが予想に反して、体は記憶にあるときよりも軽く感じた。しかも記憶にある山本は、自分より背が高く、正面からは少し見上げるようにしていたはずだった。だが今は、逆に見下ろすようになっていた。

「背が、伸びたんですね……」
「最新のデータでは、185センチになったようね。
 鏡を見せてあげるから、自分がどう変身したのか確認したらどう?」

 あっちよと指さされた方には、確かに小さな扉が一つ壁にあった。分かりましたと頷いたシンジは、少しぎこちない足取りでその扉の方へと歩いて行った。どうも、歩くときの感覚が、記憶にあるのとずれてしまっていたのだ。
 そして扉を開いたところにある3点式の洗面所の鏡で、シンジは今の自分の姿に驚くことになった。少し情けない表情こそ浮かべているが、記憶に無い精悍な顔をした青年がそこに写っていた。

「これが、僕……ですか?」
「どう、自分でも格好良いって思わない?」
「え、ええ、まるで自分じゃ無いみたいです……
 でも山本さん、3年間僕はどうしていたんですか?
 それに、その3年間で世界はどうなったんですか?
 まさか、滅びてしまったとか言わないですよね……」

 自分の姿を見る限り、3年経ったと言うのは冗談では無いのだろう。だとしたら、その3年間世界がどうなっていたのか。一度世界を壊した者として、どうしても気になってしまうのだ。
 世界を気にしたシンジに、山本は自分の目で確かめてみることを勧めた。

「そこのカーテンを開けば、今の世界を確認することが出来るわよ」
「カーテンを開けば良いんですね……」

 そこでゴクリとつばを飲み込んだのは、どんな世界を見せられるのかと言う恐怖からだった。だが自分が言い出した以上、自分の目で見て確認する必要がある。言われたとおり窓に近づいたシンジは、少し覚悟をしてからカーテンを少し横に引いた。
 だが覚悟をした割には、目に映った景色はあまりにも平凡なものだった。自分がどこに居るのか分からないが、ごく普通の街中の景色がそこに広がっていたのだ。通りを見れば、車が何台も行き交っているし、歩道には大勢の人たちが楽しそうに歩いていた。そこで少し気になったのは、晴れ着を着ている人が沢山居たと言うことだろうか。

「あなたが復活を願った世界は、ちょっとした問題はあっても落ち着きを取り戻しているわ。
 人々は、普通の生活を送り、食糧事情も特に問題となることは無くなっている。
 世界は昔のように結びつきを強め、普通と言われる世界を営んでいるのよ。
 だから、もうあなたがサードインパクトのことで苦しむ必要は無いわ」
「そうですか、世界は元通りになったんですね……」

 ほっと安堵の息を漏らしたシンジに、「そう言う事」と言って山本はにっこりと笑って見せた。そんな山本に、もう一つと言って、シンジは今がいつなのかを聞いた。約3年とは言われたが、だったら今は何年の何月何日なのだろうかと。

「そうね、とりあえず明けましておめでとう。
 今は、2019年の1月1日よ。
 あれから、およそ2年と10ヶ月が経過しているわ」
「明けまして……おめでとうございます」

 本当にめでたいのかどうかは分からないが、シンジは山本に合わせておめでとうを言った。そんなシンジに、「着替えてから出てきて」と言って、自分はもう一つの扉から出て行った。
 そしてその5分後、普段着に着替えたシンジは隣の部屋へと顔を出した。着慣れない服に少し手こずったが、何とか形になったようだった。

「どう、目が覚めたらイケメンになった気分は?」
「イケメンって……
 本当に、これが僕なのか自信が無いんですけど……
 あれっ、ああ、すみません、初めましてですよね?」

 居るのが山本だけかと思ったら、もう一人鋭い目をした男が床に座っていた。それに気づいたシンジは、慌てて男に向かって頭を下げた。

「内閣調査室の早川だ。
 まあ、堅い挨拶は抜きにして、おせち料理でも食べようじゃ無いか」
「焼き餅も、お雑煮もあるわよぉ〜」

 山本の軽い調子に誘われ、シンジは箸の置かれている所に腰を下ろした。そんなシンジに合わせて、山本は「はい」と言って雑煮を前に置いた。

「おせちは、好きなのをとってくれて良いからね。
 有名料亭のおせちだから、ちょっと豪華なものになっているのよ」

 そう言われてお重を見ると、確かに巨大なエビとかカニとかがはみ出していた。他にも、色々と豪華そうな料理が詰め込まれていた。もっとも初めて見るものが多いので、どれがおいしいのかシンジにはまったく分からなかった。

「どうして、内閣調査室の人がここに?」

 お雑煮に手を伸ばす前に、シンジは自分の置かれた状況を聞くことにした。罪を問われることは無いと聞かされていたが、それでも自分はサードインパクトを起こした原因なのだ。3年間何があったのかは知らないが、こうして元に戻された以上、何か新しいことがあったことは間違いない。
 そんなシンジに、早川は「総理に押しつけられた」と少し憮然としながら答えた。

「山本の知り合いと言うことで、状況が落ち着くまで面倒を見ろと言われたんだ。
 まあ、君の扱いはきわめて政治的になっているから、仕方が無いと俺も納得しているんだ」
「やっぱり、サードインパクトが理由ですか……」

 そう言って落ち込んだシンジに、山本と早川は何も言わなかった。違うと否定することは簡単だが、そうすると説明が長くなってしまうのだ。

「君が知らない3年の出来事は、追々教えることになるだろう。
 とりあえず、せっかくの正月だ、腹を膨らませようじゃ無いか」

 早川はそう言うと、自分のお椀のお餅を箸でつまんだ。そしてそれに倣うように、山本もお雑煮に取りかかった。

「どうしたの、結構おいしいわよ」

 シンジが手を伸ばさないのを見て、山本は「遠慮はいらないわよ」と笑って見せた。

「たぶん、お腹がすいていると思うわよ」
「お腹がすいている……ですか?」

 そう言われても、あまり空腹感を覚えていなかった。ただいつまでも食べないのは不自然だと、お雑煮の汁を一口すすった。そこで初めて、目がさめたような気がしてきた。

「おいしいですね、これ、おいしいですよ」

 鰹だしの効いた汁が、舌から喉を伝って胃の中に落ちていった。ぷんと鰹だしの香が鼻孔に広がり、口の中にじわっとつばが広がってきた。そして汁を受け入れた胃袋が、もっと寄越せと自己主張を始めだした。

「でしょでしょ、結構な自信作なのよ」

 山本が嬉しそうにしている前で、シンジはがつがつと雑煮をむさぼり食った。ただ少し慌てすぎたせいで、喉に餅がつかえて咳き込んでしまった。

「誰もとらないから、ゆっくり食べて良いのよ」

 あらあらと山本は、シンジの隣に来て背中を叩いた。だが「ありがとうございます」と言いかけた所で、目の前にある開いた胸元、そしてそこから覗く谷間に、シンジは顔を赤くして横を向いた。年頃の男の子には、いささか刺激的なものがそにはあった。

「あら、興味があるんだったら、あとから触らせてあげるわよ。
 なんだったら、もっと良いことをしてあげましょうか?」

 うふっと笑った山本に、早川は「山本っ!」とすかさず叱責した。

「つまみ食いをしたら、お前の責任問題になるからな。
 有無を言わさず、豚箱にぶち込まれることを覚悟しろ!」
「あなたの責任問題にもなるわね」

 はいはいとシンジから離れた山本は、「残念ね」と言って正面から笑って見せた。

「こんな機会、二度と巡ってこないのに。
 素敵なお姉さんが、手取り足取り大人の世界を教えてあげようと思ったのにね」
「どさくさに紛れて、自分の願望を叶えようとするな!」

 そう言って山本を叱った早川は、「すまなかった」とシンジに謝った。

「もしも貞操に危険を感じることがあったら、すぐに俺に知らせてくれ」
「えっ、あっ、はい」

 話について行けず、シンジは目の前にあったおせちに箸を伸ばすことにした。そして何か茶色い物体をつまみ、確認もせずに口の中に放り込んだ。
 こう言ったとき、ろくな事が起きないのが世の理だった。ただ運が良かったのか、口に入れたのは結構おいしいものだった。

「食べてから聞くのはなんですけど、これって何ですか?」
「ああ、牛肉と牛蒡の柳川巻きよ。
 やっぱり、若い子は味の濃い肉が口に合うわよね。
 あと、こっちのかまぼこも高級品だからかなりおいしいわよ」

 そうやって勧められれば、手を伸ばさないのは失礼に当たるだろう。山本が取り分けてくれた紅白のかまぼこを半分かじったシンジは、「これもおいしいですね」と残りを口に放り込んだ。

「なんか、食べ出したらお腹がすいてきました」
「まだまだ食べ盛りだからね。
 無くなったら追加するだけだから、どんどん食べて良いのよ」

 やけに気前の良いことを言ってくれたが、それを気にせずシンジは料理に手を伸ばした。中には「これはちょっと」と思うものもあったが、総じてどれもおいしかった。
 しばらく料理を貪ったところで、ようやくお腹の虫も収まってくれた。「はい」と出されたお茶をすすったところで、「ところで」とシンジは部屋に置かれていたテレビを指さした。

「どうして、テレビがついていないんですか?
 お正月だったら、なにかおもしろい番組をやっていますよね?」
「ああ、あれね、残念ながらテレビ番組が映らないようになっているのよ」
「テレビが映らないって……どうしてですか?」

 だったら何の為にテレビがあるのか。軽い気持ちで疑問を口にしたシンジに、山本は「教えたくないことがあるから」と笑いながらきわどいことを口にしてくれた。

「教えたくないこと……ですか?」

 自分の立場を思い出したシンジに、「そう言う事」と山本は軽い調子で答えた。そして隣でお茶を飲んでいた早川が、「そろそろ良いか」と鋭い視線をシンジに向けてきた。

「君の知らない3年の間に、何が起きたのかをかいつまんで説明しよう」

 そう言って、早川は後ろからノートパソコンを取り出し、テレビのケーブルにつなぎ込んだ。そしてしばらく操作した後、テレビにどこかで見覚えのある巨人の姿を映し出してくれた。その姿を見た瞬間、シンジの体は後ずさっていた。

「こ、これって、エヴァですか……」

 自分の知っているエヴァンゲリオンとは、見た目自体はかなり違うものになっていた。そのあたり、外部装甲の違いが一番大きいのだろう。だが思い出したくない過去の遺物に、シンジの声は震えていた。

「本質的には同じ物だが、今はヘラクレスと呼ばれている。
 世界各地に基地が設置され、登録されたパイロットは100名を超えている。
 日本にもS市に基地が設置され、17人のパイロットが登録されている」
「そんなに!」

 過去の規模に比べて、格段に大規模になっていることをシンジは驚いた。そしてかつてミサトに聞かされたことを、シンジは思い出した。

「まさか、トウジやケンスケがパイロットになっているって言うんじゃありませんよね」
「ああ、彼らはヘラクレスに関わっていない。
 記憶操作の後カウンセリングを行ったが、当時のことは覚えていないのを確認している。
 今、パイロットとして登録されているのは、君がまったく知らない者達だ」

 知らない人と言うことに少し安堵したシンジは、なぜエヴァの仲間があるのかを聞くことにした。うろ覚えなのだが、エヴァを作るのにものすごくお金が掛かるはずなのだ。それを考えると、理由も無くヘラクレスとか言うものを作るはずが無いと考えたのだ。

「どうして、ヘラクレス……でしたっけ、そんなものを作ったんですか?
 エヴァは、ものすごくお金が掛かるって言われていた気がするんですけど」
「それが、次に君に説明するものだ。
 きれい事を言わせて貰えば、人類を守るために作られた」

 そう答えた早川は、次に不思議な格好をした生物をテレビに映し出した。その生物は、ワニの前後を少し切り落とし、さらに前後から押しつぶしたような格好をしていた。言葉だけだと滑稽に聞こえるが、写真だとかなりグロテスクな格好をした生物だった。

「これが、今の人類にとって脅威となっている生物だ。
 我々は、これをギガンテスと呼んでいる。
 大きさはそうだな、全長で50mほどと言ったところだな。
 こいつらが、集団で世界の沿岸部を襲ってきているんだ。
 当初別の目的で作られたヘラクレスだったが、今はギガンテスを倒すために運用されている」
「ギガンテスって、使徒みたいなものですか?」

 巨大生物と言われれば、シンジにとっては使徒という存在だった。それを持ち出したシンジに、「不明だ」と早川は言い切った。

「特性的に、使徒と呼称された物に似ているのは確かだ。
 ATフィールドと言ったかな、それに類する防御壁を持っているのを確認されている。
 その他にこれまで2度ほど、使徒と呼ばれた存在とともに襲撃してきている」
「それで、無事倒せているんですか……」

 その説明を聞いたとき、なぜ自分の意識が戻されたのかを理解できた気持ちになっていた。ギガンテスと呼ばれる存在と戦うために、かつてパイロットだった自分が必要とされたのだろうと。

「無事と言うには、これまで出した犠牲者が多すぎるな。
 2016年の終わりから2018年の6月に掛けて、およそ200万人の死者を出している。
 迎撃に出たパイロットも、結構な数が再起不能になってもいる。
 そしてそれ以上に深刻なのは、沿岸の設備に大きな被害が出たことだ。
 港やコンビナート、それから都市がギガンテスによって破壊されたんだ。
 特に港が破壊されたため、海上輸送に大きな打撃を受けることになった。
 2018年の6月まで、世界は静かに滅びへと向かっていたんだ」
「それが、僕を目覚めさせた理由って事ですか……」

 堅い口調をしたシンジに、「話は最後まで聞く物だ」と早川はたしなめた。

「今は、2019年の1月だと聞いたはずだ。
 俺は、2018年の6月まではと言っただろう。
 つまり、その間に7ヶ月と言う時間が経っている。
 2018年の6月に、世界は大きな転機を迎えることになった。
 と、その転機を説明する前に、君に縁のある人の消息を教えることにする。
 まず大人のネルフ関係者だが、結局誰一人として生き残っていない。
 死んだのか、帰ってこなかったのか、今となっては知るすべも無いと言うのが現実だ。
 そして君のクラスメイト達だが、こちらも消息が掴めているのは僅かというのが現実だ。
 かなりはサードインパクトのどさくさで亡くなられたか、帰ってこなかったと思われる。
 そして消息を把握されている者は、先ほど説明した通りとなっている。
 今の彼らは、余計なことを忘れて普通に暮らしているよ」
「普通の生活を送っていると言うことですか……」

 少しほっとした顔をしたシンジに、「そう言う事だ」と早川は肯定した。

「それが幸せかどうかまでは、我々が関与することでは無いからな。
 周りの子供達と同じように学校に通い、同じように色々な苦労を背負っている。
 今言えることは、せいぜいその程度だと言うことだ」

 それでも、シンジの気持ちを少し楽にする効果があったのだろう。それを表情から読み取った早川は、一番重要な3人のことに触れることにした。

「まず渚カヲルと言う少年だが、ヒアリングしたところ君のことを知らなかった。
 そのことから、日本に現れた渚カヲルとは別人だと考えられる。
 ただネルフに関わっていたため、危険な記憶は操作されている。
 そしてその上で、ヘラクレスのパイロットとして活躍している。
 砂漠のアポロンと言う通り名で、世界を守るヒーローの一人に数えられている」
「カヲル君……と言っても、違う人と言うことですか?」

 自分の知っている渚カヲルは、使徒として手に掛けてしまった。そしてサードインパクトの世界で、自分を導いてくれたのを覚えている。そのカヲルが居ないことに、シンジは複雑な思いを抱いていた。あのカヲルが居ないことを寂しいという思い、そして死んだ人間が生き返っていない事への安堵の気持ちだった。いくら生き返ったとしても、自分の罪を見せつけられるのは耐えられなかったのだ。
 「そうだ」とシンジに答えた早川は、もう一人とても関わりの深い名前を持ちだした。

「惣流アスカ・ラングレーだが、彼女もまた当時の記憶を操作されている。
 そして今は、西海岸のアテナとしてギガンテス迎撃のエースパイロットとなっている。
 一番ヘラクレスに高い適性を示し、一番沢山ギガンテスを倒している。
 世界を守るヒロインの一人だ」
「さすがはアスカ……と言うことですか」

 記憶を失っても、相変わらずヘラクレスで活躍していると言うのだ。それをアスカらしいと、シンジは感心した。

「ああ、去年の6月までは、一番人気のあるパイロットだったな。
 もちろん、今でも絶大な人気があることは変わっていない」

 また去年の6月か。言葉の端々に出てくる6月と言う日付に、シンジは何があったのだと悩んでしまった。だがその疑問を解消する前に、もう一人消息を確認しておく大切な人が残っていた。

「それで、綾波はどうしています。
 記憶操作をされる前に、一緒に暮らせるようにってお願いしましたよね」
「綾波レイについては、君の希望を叶える措置を行った。
 君の一つ下の妹として、最近までS市で一緒に暮らしていた。
 とても仲の良い兄妹だと、近所でも評判が良かったと言うことだ。
 そして彼女だけは、ヘラクレスに関わっていない」
「そうですか、綾波はエヴァに関わっていないんですね……」

 ほっとしたシンジに、それが関係者の消息だと早川は締めくくった。

「そしてこれからが本題だ。
 君も気づいていると思うが、2018年の6月が重要なキーワードになっている。
 そこで何が起きたのかと言うと、ある意味奇跡と呼ばれる出来事があった。
 高知の奇跡と言えば、世界では知らない人が居ないと言われる出来事となっている。
 それを説明する前に、当時の基地配置を説明することにしよう」

 そう言って早川は、テレビ画面に世界地図を写しだした。

「当時は、迎撃基地はアメリカ西海岸のサンディエゴと、北アフリカのカサブランカにしかなかった」

 地図上の赤い印に、なるほどとシンジは頷いた。

「その2カ所から、ギガンテス迎撃のためヘラクレスが出撃していった。
 さて、この迎撃体制の問題点がどこにあるのか分かるかな?」
「問題がどこにあるって……」

 う〜んと考えたシンジは、過去の自分の経験と照らし合わせることにした。

「ギガンテスって、必ずこの2カ所を襲ってくるんですか?」
「俺は、世界の沿岸部と言ったはずだが?」

 つまり、襲撃箇所は特定できないと言うことになる。「そうですか」と頷いたシンジは、「距離ですか?」と早川の質問への答えを口にした。

「距離と言うのを時間に置き換えれば、その答えは間違っていないな。
 少し情報を補足すると、ギガンテスの発生は離散的な物になっている」
「すみません、離散的と言われても分からないんですけど……」

 申し訳なさそうに言うシンジに、そうだったと早川は「違う」ことを思い出した。

「ギガンテスが襲撃間隔には、ある一定の間隔があることが知られている。
 一度世界のどこかで襲撃があると、3週間程度の次の襲撃まで間隔が空いているんだ。
 ちなみに、一番最近の襲撃は、12月31日、つまり昨日あったんだ。
 フランスのボルドーに12体のギガンテスが襲撃してきて、両基地の活躍によって撃退した」
「つまり、しばらくギガンテスは襲ってこないと言うことですか……」

 そう言われると、なぜか少し安心してしまう気持ちに気がついた。そんなシンジに、「他に問題は考えつかないか?」と早川は聞き返した。

「襲撃に間に合わないというのは、時間の問題になるわけですよね。
 アスカやカヲル君が居るんだったら、ギガンテスに負けるってことは無いと思うし……」

 正確に言うのなら、カヲルはシンジの知っているカヲルでは無い。それを知っていても、つい知っているカヲルと同一視ししていた。それが気になったが、特に否定することも無いと早川は聞き流した。

「そうだな、彼らが負けたことは一度も無かったな。
 ただ、チームとして言うのなら、かなりの被害を出しているのも事実だ。
 さっきも言ったが、20人以上が負傷により離脱している。
 ちなみに、6月までは、パイロットには15名程度しか登録されていなかった」

 それが今は100名を超えていると言うのだ。十分何かがあったと思わせることなのだが、そんな物はシンジが想像できることでは無かった。だからシンジは、早々に「分かりません」とギブアップした。
 少しは影響が残っているのかと期待した早川だったが、やはり無理だったのかと少し落胆していた。ただそれを顔に出さず、説明を続けることにした。

「昨年の6月というのは、色々なことが動き出した月だった。
 先ほど言った各基地からの距離だが、迎撃が間に合わないとその地点で大きな被害が出ることになる。
 それを少しでも軽減するために、各地に遅延を目的とした基地が作られることになった。
 そしてそのうちの一つが、日本のS市に作られることになったんだ。
 なぜS市かと言うと、そこに君が住んでいるからと言うのが理由の一つになっている。
 必要なときに君を巻き込むためには、近くに基地がある必要があったと言うことだ」
「じゃあ、各国に作った基地がうまく機能したと言うことですね」

 しきりに2018年の6月と言われたのだから、それが理由になっているはずだ。そう考えたシンジに、早川は「まさか」と言って否定した。

「そんな物が役に立つぐらいだったら、それまでだって苦労なんかしていない。
 ギガンテスを倒せる能力を持っていたのは、サンディエゴとカサブランカ両基地だけなんだ。
 従って、もう一つの問題は、同時に複数の箇所が襲われたらどうなるかと言うことだ。
 そしてその6月に、ロサンゼルス、カサブランカ、そして高知の3カ所が同時に襲われた。
 当時の人類には、2カ所しか同時に対処できる能力は無かった。
 だとしたら、放置される1カ所がどうなるのかは分かるだろう?」

 そうやって言われれば、いくらシンジでも理解することは出来る。ゴクリとつばを飲み込んで、「大きな被害が出ますよね」と答えた。

「それが、日本の高知と言うことだ。
 高知は、他の襲撃箇所に比べて2時間早くギガンテスが上陸することが分かっていた。
 そして他の基地が助けに来るまで、14時間待たなくてはいけない状況にあった。
 その時推定された被害は、死者が70万以上になると言うものだ。
 高知だけでは無く四国全体が廃墟になり、瀬戸内海を渡られたらさらに被害が拡大していた」
「そ、それで、どうなったんですか」

 被害の大きさは、シンジの想像を超えるものだった。もう一度つばを飲み込んだシンジに、「だから高知の奇跡だ」と早川は答えた。

「その時の襲撃数は、6と言う数だった。
 ちなみにその数は、当時は両基地が共同して対処する規模になっていた。
 つまり、その時の我々には、歯を食いしばって耐える以外の道は残されていなかったんだ」

 その時のことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。早川自身、どうしようも無い無力感に襲われていたのだ。そして3人の高校生達が起こした奇跡に、立場を忘れて狂喜したのだった。

「それを救ったのが、今まで一度もヘラクレスに乗ったことの無い3人の高校生だ。
 そう言われて、君は信じることが出来るかい?」

 そこで聞かれたと言うことは、それが事実なのだろうとシンジは考えた。だが信じられるかと聞かれれば、それこそ「まさか」としか言いようが無かった。自分たちが戦っていたときも、1体の使徒に3人がかりで向かっていったのだ。それを考えれば、素人3人が6体の使徒に立ち向かうのは、どう考えてもあり得ないことだったのだ。

「僕達は、1体の使徒に少なくとも二人で立ち向かっていました。
 それを考えれば、6体のギガンテス……ですか、それに3人で立ち向かうのは絶対に無理です。
 初めて乗るとかどうとか関係なく、絶対に無理だと思います」
「それが、誰もが考えた答えなんだよ。
 だが初めて乗った3人は、5時間の死闘の末、ほとんど被害を出さずにギガンテスを撃退した。
 だから世界は、高知の奇跡として熱狂することになったんだよ」
「す、凄い人たちなんですね、その3人の人達は……」

 話だけ聞けば、アスカを凌ぐ天才が集まったと言うことになる。そんな人が今までヘラクレスに関わってこなかった、そしていざという時に偶然居合わせたと言うことに、本当に凄いとシンジは考えた。

「そんな人達が現れたから、そこから反撃が始まったと言うことですね。
 だから、早川さんがさんざん6月からと言ったわけですか……」
「ああ、そこから世界は大きく動き始めた。
 そしてその3人の力は、ニューヨークで再び示されることになった。
 それは、去年の7月も終わりの事だった。
 11体のギガンテスと、Fifth Apostle……君には、第伍使徒と言った方が分かりやすいかな。
 君達が「ヤシマ作戦」でかろうじて倒した使徒が襲撃したんだ」
「な、なんで、倒したはずの使徒が襲ってくるんですっ!」

 大声を上げたシンジに、「落ち着け」と早川は強い調子で叱責した。その言葉の強さにシンジは、怯えた目を早川へと向けた。

「そんなこと、むしろこちらが聞きたいぐらいだ。
 とにかく、第伍使徒を倒さなければ、ニューヨークが廃墟になっていただろう。
 その時に失われる人命は、数百万とも言われていた。
 これまで以上の悲劇が、まさに人類の目の前に迫っていたんだ。
 だが偶然居合わせた素人3人は、見事その危機を乗り切ってみせた。
 3人のうちの一人が、第伍使徒倒す作戦を考えついたんだよ。
 そしてそれを実行し、見事一人で第伍使徒を倒してみせた。
 そしてその後、アスカ・ラングレーと共同して、残りのギガンテスを粉砕した」

 第伍使徒を一人で倒したと言う説明に、シンジは「凄すぎる」と驚いた。一度は死にそうな目に遭わされた第伍使徒に、単独で戦いを挑み、見事殲滅してみせたというのだ。その後の戦いに加わったところを見ると、無傷で切り抜けて見せたのだろう。シンジの常識では、本当にありえない戦いだった。

「そ、そんな凄い人が居るんですか……」

 思わず声を震わせたシンジに、「凄すぎる少年だ」と早川は答えた。その戦いだけでも、救世主のような働きをしてくれているのだ。その後の功績を考えると、まさに「凄すぎる」としか早川にも言い様がなかった。
 だが「凄すぎる」少年こそ、自分の目の前で驚いている碇シンジなのだ。今は違うことは分かっていても、どうしても落胆を感じてしまう。

「ああ、その後彼は、カサブランカで特異な能力を示してくれた。
 経験を積んだどのパイロットより、ギガンテスの性質を冷静に分析してみせたのだ。
 そしてそのための対処について、非常に分かりやすく伝達してくれた。
 そのお陰で、各国パイロットのスキルが数段上がったとされている」

 驚きすぎて、シンジは声を発することが出来なかった。自分の知らない間に、そんな凄い人が現れたと言うのだ。もしもそんな凄い人があの時いてくれれば、誰も不幸にならなかったのにとも思えた。

「その後、香港、ムンバイと戦いが続いた。
 そこで、もう一人仲間を加えた4人は、世界の度肝を抜き続けた。
 さらにアメリカ東海岸ジャクソンビルでの戦いでは、
 Third Apostle、つまり第参使徒も彼は単独で撃退した。
 同調率、つまりシンクロ率ではさほど高くないパイロットが、完璧な戦いで勝利を収めたんだ。
 だから、いささか大げさな、「英雄」と言う呼称が彼に対して使われるようになったんだよ」

 聞かされた話は、本当に凄すぎるとしか言いようがなかった。ただ、それが本当のことだとしたら、なぜ自分が目を覚ます事になったのか。その疑問が、シンジの中に浮かんできた。

「そ、そんな凄い人が居るんだったら、どうして僕が目を覚ましたんですか?
 3年も経ったんだったら、今更僕を起こす必要なんて無いと思います」
「ああ、君の言うことはまったくもって正しいな。
 もともと君の存在は、いざという時の切り札として考えられていた。
 だが彼の活躍によって、君を起こす必要など無いと誰もが考えるようになった。
 ただ、去年のクリスマス・イブに悲劇が起こらなければだ……」
「その人に、何か有ったんですね……」

 悲劇と言われるぐらいなのだから、大怪我とかをしたのだろうか。その「英雄」と言われる人が戦えなくなったから、代役として自分が起こされたのだとシンジは考えた。
 だが早川は、「何が起きた」のかを答える前に、さらに「彼」の活躍を説明した。

「彼がいれば、人類はギガンテスに負けるはずがない。
 滅びに向かっていた世界は、再び繁栄を取り戻すのだと誰もが考えるようになった。
 そしてムンバイの戦いの後、それを示すために国連は大きな式典を開いたんだ。
 そしてその式典の中心には、彼とその仲間の4人が据えられたんだよ。
 だがその希望を打ち砕くかのように、12月9日にギガンテスが襲ってきた。
 北海道の南東部にあるM市に、65と言う膨大な数のギガンテスが襲ってきたんだよ」
「ろ、65ですかっ!」

 使徒の恐ろしさを知っているからこそ、65と言う数が途方も無いことは理解できた。そして、その戦いが悲劇に繋がるのだとシンジは想像した。

「その人は、そこで怪我をされた……もしかして亡くなられたのですか?」
「その話をする前に、もう少し説明を続けることにしよう。
 65のギガンテスに対して、我々はギガンテスを分散させた上での各個撃破と言う選択をした。
 3基地が合同すれば、そして時間さえ掛ければ65体のギガンテスでも倒せると判断したんだよ。
 ただその時、ギガンテスが上陸するM市、そして周辺の被害は諦められていた。
 更に言えば、数十万の人命も諦められていたんだ。
 見捨てるのは悔しいが、そうしないと勝てないと誰もが考えたんだよ。
 だがその決定に対し、彼だけが反対をしたんだ。
 そんなことをしたら、再び世界の心が折れてしまう。
 困って困って、どうしようもなくて、助けて欲しいと思っている人達を助けるのが自分達だ。
 彼はそう言って、仲間とともに直接迎撃すると世界に宣言した。
 そして仲間の力、世界の力を集結させ、見事65体のギガンテスを撃退してみせた。
 発生した被害は、沿岸部の建物が多少壊れたぐらいだ。
 ギガンテスに殺された人は、一人もいないと言う完璧な戦いをしてくれたんだよ」

 そのことを思い出すと、今でも体に震えが来る。出撃するときのシンジの言葉に、早川は感動の涙を流したぐらいだ。一緒にいた仲間たちも、両手をぐっと握りしめ、声にならない何かを喚いていた。

「凄いとしか言いようが無いんですけど……
 でも、どうしてその人の身に何が起きたんですか?
 やっぱり、その戦いで大怪我をされたとか……」

 早川が口にした話は、まるで物語のように凄すぎる話だった。自分の置かれた状況を考えなければ、きっと担がれていると考えたぐらいだ。

「今思えば、すでにその時に予兆は現れていた。
 戦いが終わった直後、彼の乗ったヘラクレスが倒れたんだよ。
 その時の説明は、長時間の戦いで疲れが出たのだと説明された。
 だが、それは疲れとかそんな生やさしいものじゃなかったんだ……」

 そこで言葉を切った早川は、目をつぶって深呼吸をした。

「そして、いよいよ運命の12月24日がやって来た。
 その日の彼は、高校の部活動でボランティア活動をしていた。
 朝から老人ホームや孤児院へ慰問に行き、食事の手伝いや一緒に遊んだりしたと言う。
 そしてそれが終わってから、あるテレビ番組にゲスト出演をした。
 世界の英雄が来てくれたんだ、その番組が盛り上がったのは言うまでもないだろう。
 瞬間視聴率で、90%を超えるという記録的な視聴率も叩きだし、番組は大成功のうちに終了したよ。
 そしてその後、彼は恋人と一緒にイブの街にデートに出た。
 ツリーに願い事の星を掛けたりとか、ごく普通の恋人達がするようなことをしていたと言うことだ。
 そして、もうすぐ日付が変わると言う時、二人を悲劇が襲ったんだ……
 恋人にキスをせがまれ、彼がそれに答えようとした時……」

 心を落ち着けるように、そこで早川は言葉を切った。

「恋人にキスをしようとした時、突然彼の体が崩れ落ちた。
 そしてそのまま、彼は二度と目を覚ますことはなかったんだ」
「だ、だから、悲劇……ですか」

 恋人と一緒に居る幸せから、一転して不幸のどん底に突き落とされてしまったのだ。それを考えると、早川の言うとおり悲劇に違いなかった。そしてそれを聞かされ、シンジは自分が目覚めさせられた理由を理解した。自分の存在を不要とした天才が急逝したため、「切り札」として自分が求められたのだ。だが聞かされた話に嘘がなければ、自分では「英雄」の代わりができるとは思えなかった。

「ああ、悲劇も悲劇、第一級の悲劇に違いない。
 だが、我々は彼を失っても、戦い続けていかなくてはならないのだ。
 ただ君については、すぐに決断を求めようとは思っていない。
 世界中の誰でも、アスカ・ラングレーでも渚カヲルでも代わりなど務められない。
 まして今の君では、彼の代わりを務めることなど出来ないのは分かっているんだ。
 だから君には、しばらく考える時間を与えることにする。
 少しずつ真実を伝え、それから君の考えを聞くことにする。
 それまでは、悪いがここに軟禁させて貰う事になる。
 情報をコントロールするためには、そうするしか方法がないんだよ」
「いきなり乗れとは言わないんですね……」

 今までは、すべて問答無用の扱いをされていた。それはネルフにおける立場だけでなく、「保護」されてからも扱いは変わっていなかった。それを考えれば、今回も「有無をいわさず」パイロットにされるものだと思っていた。
 そんなシンジに、早川は「状況が違う」と答えた。

「日本には、主力となるパイロットが4人いる。
 そして新たに、2名が主力となるべく訓練を受けている。
 そしてその6人をサポートする形で、10人のパイロットが選定されている。
 彼らとの関係を考えたら、無理やり乗せるという話にはならないんだ。
 同調率……シンクロ率なら、間違い無く君の方が高いだろう。
 だが現時点でパイロットとしての能力は、間違い無く4人の方が上だ。
 そんな中に、強制されたパイロットを加えてうまくいくとは考えられない。
 なにより、4人から「酷いことをするな」と反発されてしまうだろう。
 だからこそ、君の意思が重要になってくるんだ。
 君が自分の意志で戦うことを選択すれば、彼女たちは快く迎えてくれるだろう」
「僕は……」

 恐らく「乗りたくない」と口にしようとしたのだろう。口ごもったシンジに対して、「慌てるな」と早川は制止した。

「今聞かないのは、「乗りたくない」と君が言うのを分かっているからでもある。
 この半年何が起きたのか、どうやって我々が乗り切ってきたのか、ビデオがあるから見てくれ。
 残念だが、余計な情報を与えないため、テレビ番組を見せる訳にはいかない。
 その代わり、何か見たい映画とかドラマがあれば、手に入れてくるのは吝かではない。
 ある程度状況がつかめた所で、まだ話していない真実も教えてやる。
 乗るか乗らないかを決めるのは、その時にしてくれないだろうか?」
「そんな、ゆっくりしていていいんですか……」

 少し前、実際には3年以上前なのだが、それを思うと、あまりにも自分に対して気を使いすぎている。それを疑問に思ったシンジに、早川は「それが今の世界だ」と答えた。

「君が救った世界は、いい方向へと向かいつつあるんだよ。
 だから、TICに対して、いつまでも罪の意識に囚われる必要はない。
 あれは、君のせいではなく、周りの大人達が君を利用したために起こったんだ。
 君は加害者ではなく、一番の被害者なんだよ。
 4人のパイロットも、君が被害者だということを知っているんだよ。
 だから、無理やり君を乗せることには反対することになる」

 そう言われれば、気分も多少マシになると言うものだ。「そうですか」と納得したシンジは、「どれぐらい時間が貰えるんですか」と早川に尋ねた。

「そうだな、とりあえず1、2週間という所か。
 君に心の準備が出来たなら、4人のパイロットに引き合わせることを考えている。
 一応予告しておくが、全員がなかなかの美少女だからな」
「は、はぁ……」

 美少女だからと言われても、「だからどうした」としか言いようが無い。結局パイロットをしていても、中学の時にもてた記憶が全くなかったのだ。アスカには冷たい目で見られ、綾波には子供のように見られていたのを覚えている。それを考えれば、美少女に期待しても空しくなるだけだと思っていた。

「とりあえず、戦闘記録はいつでも見られるようにしてある。
 俺は調整に出歩いているが、山本は常に君に付き添うことになっている。
 だから何か希望があれば、山本に言ってくれればいい。
 この建物を出られないこと、新聞やテレビを見られないことを除けば、ほとんど生活に制限は無い。
 まあ外の情報を制限するのだから、ネットを使うことも許可は出来ないがな」

 「それから」と言って、早川は真剣な顔をして「寝るときは鍵を掛けておけ」と忠告した。

「年増の餌食になったら、真剣に俺の首が飛ぶんだ」
「そ、そこまで言われる人なんですか……」

 ちらりと横を見たら、山本が憮然とした表情をしていた。そう言う意味では、シンジも山本と似た考えを持っていた。記憶にある山本は、自分のことを本当に子供として扱っていたのだ。それを考えれば、性的な関係になるとは思えなかったのだ。
 だが早川に言い返した山本に、それが甘い考えであるのをシンジは思い知らされた。

「早川君、無理矢理って言うのは私の主義に反するのよ。
 こう言ったことは、お互いムードを盛り上げて、熱くなってするから良いんじゃ無い」
「ちなみに、どんな状況を持ち出されても許可は出来ない!」

 山本の主張を切り捨てた早川は、「何か希望はあるか」とシンジに聞いた。一刻も早く戦闘の記録は見て貰いたいが、それだけでは15歳の心を持ったシンジには退屈すぎると考えたのだ。適度な発散が無ければ、それこそ山本の毒牙に掛かりかねなかった。

「希望って言われても……
 新聞とか雑誌とかは駄目って言われたし……
 外に出ることも出来ないみたいだし……
 テレビが駄目って事は、映画とか昔のドラマぐらいしか見る物が無いんですよね?
 3年間のブランクがあるから、最近のドラマとか映画も分からないし……」
「だったら、何か適当に見繕って持ってこよう。
 SFとか学園物とかアニメとか有るが、何がいい?」

 何と聞かれても、そうそう簡単に思い浮かぶ物では無い。だが何か言わないと許してくれそうも無いので、シンジは以前よく見た映画とドラマを一つずつあげることにした。

「そうですね、映画だったら「風少女」でしたっけ。
 ドラマだったら、「満里奈の日々」だったと思います。
 主演の子のファンなので、この3年間でその子の新作があれば見せてください」
「ええっと、悪いが主演の子の名前を教えてくれないか?
 なんだ山本、何かあるのか?」

 ここ数年ドラマなど見たことも無いので、早川は簡単に主演の名前を質問した。だが何か言いたげな山本の様子に、少しだけ引っかかりを覚えた。それがなんであるのか、すぐにシンジの答えで知ることになった。

「早川さん知らないんですか?
 堀北アサミちゃんって言えば、知らない人が居ないぐらい人気があったんですよ。
 すっごく綺麗だし、演技ももの凄くうまかったんです」
「あっ、ああ、彼女か……」

 もの凄くばつが悪そうにした早川に、きっと恥ずかしいのだとシンジは想像した。いくら忙しくても、国民的アイドルを知らないのは恥ずかしいことなのだ。

「彼女は、学業を理由に中学3年の夏に引退したんだ。
 だから、君が期待したような新作が無いんだよ」
「アサミちゃん、引退しちゃったんですか……
 だったら仕方が無いですね、旧作で我慢しておきます」

 いかにも残念そうにするシンジに、早川は複雑な感情を抱いていた。二人が初めて出会った時、シンジがアサミのことを知らなかったことは有名なエピソードになっていた。その理由がどこにあるのか、こんなところでその理由を教えられたのだ。

「分かった、適当なのをレンタル屋で借りてきてやる。
 体が動かしたくなったら、スポーツジムがあるからそこに行けばいい」
「あまり体を動かすのは好きじゃ無いんですけど……
 食べて寝てばっかりだと、太っちゃいますね」

 早川が意外に親切だったので、シンジは最初に抱いた恐れを感じなくなっていた。それもあって割と、はっきりと物を言うようになってきていた。
 このあたりは観察記録通りかと、早川はこれからの対応方法を考えた。本人の希望次第とは言ったが、シンジを乗せないという選択はあり得なかった。S高ジャージ部が決め手になるのは分かっているが、それまでに地ならしをしておく必要があったのだ。

「では、私は少し外に出てくる。
 必要なことがあったら、山本に言ってくれ」
「たぶん、戦闘記録……でしたっけ、それを見るので精一杯だと思います」
「早川君、夕食はどうする?
 まっ、どうせ出前しかとれないけどね……」
「冷蔵庫に、それなりの材料があっただろう」
「早川君が作ってくれるの?」

 山本の答えに、早川は「あー」と天井を見上げた。どうしてエリート官僚の自分が、こんなところで生活能力の無い女のために食事を作らなければならないのか。その理不尽さに、何とか理由を付けようとしているようだった。
 そんな二人を見ていて、「女の人はみんなそうなんだ」と言う、間違った、そしてある意味正しい認識をシンジはしていた。綺麗なのと家庭的なのは両立するものではない。ミサトやらアスカやら綾波やらが、特殊では無いと言うのを理解したのだ。

「夕食前には帰ってくる……」

 仕方が無いと諦めたのだろう、少し肩を落として早川は部屋を出て行ったのだった。

「いってらっしゃーい……と。
 さてシンジ君、これから何をしようか?」

 そう言ってすり寄ってきた山本から、シンジは顔を背けるようにして距離をとった。

「あらぁ、お姉さんのことが気に入らないの?」
「い、いえ、あまりそう言うのは得意じゃ無いんです……」

 この反応も報告通り。それを確認した山本は、「残念ね」と口元を歪めてシンジから距離をとった。そしてテレビを操作して、シンジに見せるギガンテスとの戦いをメニューに表示した。

「時間順に1番から並んでいるわ。
 まあ、映像的に見物なのは1番と2番、それから5番、6番ね。
 それぞれ、高知、ニューヨーク、ジャクソンビル、M市の戦いが入っているわ。
 香港とムンバイの戦いは、戦い自体はあまりおもしろい物じゃ無いんだけどね。
 ただ戦略的には、世界的にとても大きな意味を持つ物になったわね。
 んで、どれから見る?」
「じ、じゃあ、1番から……」

 あまり見たいという気はしないのだが、見ないことが許される雰囲気では無かったのだ。だからシンジは、大人しくギガンテスとの戦闘記録を見ることにした。そうしておけば、色々と文句を言われなくてもすむ。いつもの、事なかれ主義が働いたのだった。



 シンジの家に踏み込んだマドカは、そのままレイを保護して家に連れて帰った。大切な兄が帰ってくるのなら、それを頼りに家で待たせることも出来ただろう。だが二度と帰ってこないのだから、一度引き取って身の振り方を考える必要があったのだ。
 その問題にたどり着いたところで、「うちだったら大丈夫」とマドカが男気を発揮した。そしてタクシーを呼んで、そのままカフェBWHへと連れ帰ったのである。

 そして12月31日の夜、待機体制が解除されて家に帰ったマドカは、店の中に入って目を丸くして驚いた。大晦日なので深夜営業するのは聞いていたが、店内には予想以上に大勢のお客さんが詰めかけていたのだ。しかもそのお客さんの中を、エプロン姿のレイが忙しく動き回っていた。

「とーちゃん、無理やりレイちゃんを働かせちゃだめでしょう!」

 あんまりだと叫んだマドカに、それまで騒がしかった店内の喧騒がピタリと止んだ。そしてマドカに名指しで避難されたヒロシは、「それが」と言って頭を掻いた。だがヒロシの言葉にかぶせるように、レイが答えを口にした。

「遠野先輩、私が働きたいって無理にお願いしたんです」
「俺は、無理しなくていいって言ったんだけどな……」

 ぼりぼりと頭を掻いた父親を見て、マドカは「いいの」とレイに聞いた。人が沢山集まれば、聞きたくないことまで聞かされてしまうことがある。それが悪意から出ていない分、余計にたちが悪いとも言えたのだ。
 だがマドカに心配されたレイは、「大丈夫です」とはっきり言い切った。

「一人でじっとしていると、良くないことばかり考えてしまいますから。
 だったら、こうして働いていたほうがずっと気が紛れます。
 それに、皆さんとっても優しくしてくれますよ」

 ねえと同意を求められ、店にいた客全員が「そのとーり」と大声を上げた。その答えを聞く限り、全員がしっかり酔っ払いだった。
 ただ本人がいいと言っているのだから、グダグダこだわっても仕方がないのだろう。まあいいかと割り切ったマドカは、着替えるために部屋に上がっていくことにした。ずっと守り続けてきたBWHの看板娘の座、それをぽっと出のレイに奪われてはいけないのだ。

 そして同じ頃、アサミは自衛隊の車で自宅に帰っていた。大晦日は書き入れ時なので、ナオキはまだ家に帰ってきていなかった。

「ただいま、パパは、まだ帰って来られないのね」

 それでも、家には母親のマサキが待っていてくれた。少しはにかんだ笑みを浮かべたアサミは、着替えてくると二階に上がっていった。その後姿を見送ったマサキは、小さくため息を吐いて「一週間じゃね」と呟いた。目の前で最愛の人が倒れて、まだ一週間しか経っていない。立ち直ったように見えても、まだまだ心が不安定なのは分かっていた。

「テレビでも点けられるといいんだけど……」

 せっかく娘が帰ってきたのだから、明るい雰囲気で迎えてあげたかった。普段ならテレビがその役にたってくれたのだが、あいにく今回ばかりはそういう訳にはいかなかった。テレビをつければ、どの番組でもシンジのことを取り上げているのだ。隠すことがいいこととは思えないが、今の娘に不用意な刺激は与えたくなかった。

「もう、恋なんて出来なくなるのかもしれないわね……」

 激しく燃え上がり過ぎたため、今は完全に燃え尽きてしまっている。もう一度、娘の心に火がつくことがあるのだろうか。誰を連れてきても、もうこんなに激しい思いは出来ないように思えてしまったのだ。
 しかも、娘の心はまだ縛られたままなのだ。愛した人の体に、知らない人が宿って現れるのだと聞かされた。そしてその知らない人の心の奥深くに、愛した人の心がしまい込まれていると言う。その心を取り戻すための戦いを、これから始めるのだと愛娘が言ったのだ。本当にそんなことが出来るのかと聞いたら、「奇跡でも起きないと無理」とはっきりと言ってくれた。それでも奇跡を目指すのだと、愛娘は寂しそうに笑ったのだ。

「亡くした人に心を囚われるのは、間違い無く不幸なことなのよ……」

 マサキも、SICの地獄を乗り越えてきた一人なのだ。SICによる地獄の日々が、本当に多くの人達の心を壊したのを目の当たりにしていた。
 あまりにも非現実的な破壊の前に、人々はそれが現実のことだと受け入れられなかった。そのせいもあって、大切な人の死を受け入れられない人達が大勢いたのだ。おしゃれから人の心を取り戻そうと努力したマサキは、そんな人達を本当に沢山目の当たりにしたのだ。そして現実を受け入れられない人達には、どんな言葉も届かないのは分かっていた。ただ時間だけが、傷ついた心を癒してくれたのだ。

「アサミちゃ〜ん、パパは帰って来てないけどお蕎麦を食べましょう!
 今日は、老舗のお蕎麦屋さんで生蕎麦を買ってきたから美味しいわよ。
 アサミちゃ〜ん、早く着替えて降りてらっしゃい!」

 コンロを見れば、大きな鍋の中でお湯がいい具合に煮立ってきていた。アサミが降りてきた所でお蕎麦を茹でれば、すぐに美味しいざるそばを作ることが出来る。他には煮物やお刺身も用意してあるので、大晦日の晩御飯には十分だろう。

「アサミちゃ〜ん、お蕎麦を茹でるから早く降りてらっしゃい」

 なかなか返事がないので、マサキは今まで以上の大きな声を上げた。そこまでして、ようやく「今行く」と愛娘の声がかすかに聞こえてきた。その返事に安堵の息を漏らし、マサキはこれからどうしようかと考えた。

「本当なら、旅行でもして気分を変えるのがいいんだけど……
 アサミちゃんは、遠くに旅行はさせてもらえないだろうし」

 シンジが居なくなったことで、アサミの頭脳は日本の大黒柱になってしまった。緊急事態への対処を考えると、ふらふらと遠くまで旅行をしているわけにはいかなかったのだ。

「そうなると、近場で温泉に行くしか無いか。
 パパが帰ってきたら、どこかいい所がないか聞いてみましょう」

 温泉に行っても、楽しい気分になることは出来ないだろう。それでも、少しは空気を変えたいとマサキは考えていた。空気を変えれば、気持ちも少しは変わってくれるかもしれない。それぐらいしか、愛娘にしてあげられることがなかったのだ。
 ただ、焦ってはだめなことはマサキも分かっていた。どこにも答えがない以上、焦った所で状況が好転するはずがない。むしろ、焦りは失敗に繋がる可能性がある。それを考えれば、慎重に対処しないといけなかった。

「できるだけ自然に、腫れ物に触るようにしないで……」

 ただ、これでしばらく日本を空けることはできなくなった。先の見通しが立たないのが痛いと、マサキは仕事のことを考えたのだった。



 初めは嫌々見始めた記録ビデオだったが、最初の高知からシンジは映像に引き込まれていった。ギガンテスと呼ばれる敵性体とヘラクレスの戦いは、想像した以上に激しいものだったのだ。そして自分が経験した使徒との戦いとは、全く違う戦いが繰り広げられていた。

「この人……アスカより凄いな」

 当日初めてシミュレーターに乗って、ギガンテス襲撃を受けて急遽搭乗訓練を行ったと説明を受けた。経験が全くなく、同調率にしてもさほど高くないパイロットが、目を見張るような活躍をしてくれていたのだ。なぜパイロットの情報が示されないのかは分からないが、凄すぎるとしか言いようのない戦い方だった。

「どうして、パイロットがどんな人か分からないんですか?」

 戦いの映像が終わった所で、シンジは大きく息を吐き出してしまった。それほどまでに、見せられた戦いは衝撃的なものだったのだ。だからこそ、どんな人がパイロットなのかを知りたいと思った。
 そんなシンジに、山本は苦笑を浮かべて「大人の事情」と答えた。

「早川君が言うには、余計な先入観を与えないためらしいわよ。
 まず、戦い方をじっくり見て、君がどう感じるのかが重要らしいわね」
「僕がって……凄すぎるとしか言いようが無いんですけど。
 このフロントに立ってギガンテス……ですか、それをさばいた人って本当に初めてなんですか?」

 「絶対に信じられない」と主張したシンジに、山本は「嘘を吐いていないわよ」とまじめに答えた。

「この戦いを見て、誰も初心者の戦いだとは思わなかったわ。
 そう言う意味で、君が疑うのは極めて常識的なことだと思う。
 だけど、正真正銘、彼らはこの日初めてヘラクレスに乗ったわ。
 そして、この日まで一度も訓練を受けたことが無いのも確認ができているわ。
 その証拠というのか、戦いが進むに連れて動きが良くなってきているでしょう?」
「その辺りはよく分かりませんけど……
 確かに、そろそろ危ないと思った直後、急に動きは良くなりましたね」

 「凄いなぁ」と感心するシンジに、山本は笑みを浮かべながら内心落胆を感じていた。中2の時点で止まっているとは言え、戦いに対する分析能力が低すぎるのだ。とてもではないが、伝え聞く碇シンジの能力を秘めているとは思えなかった。

「それから、凄いという意味では他の二人も凄いですね。
 攻撃に躊躇いがないと言うか、情け容赦無いというのか……」
「君だったら、もっと凄いことが出来るんじゃないの?」

 使徒戦では、エースパイロットとして活躍していたはずなのだ。それを念頭に聞いてきた山本に、「無理ですよ」とシンジは言い返した。

「僕が勝てることがあるとしたら、スピードぐらいしか無いと思います。
 それにしたって、ただ真っ直ぐ走るのなら勝てるのかなってぐらいです。
 後は……、そうですね、最後に敵の攻撃を受けていましたよね。
 あれだったら、何とか防げるぐらいかなぁって感じですか」
「あらぁ、随分と謙遜しているわね」

 あえて謙遜と言ったが、シンジの答えはサンディエゴやカサブランカの分析と一致しているのを知っていた。同調率の高い二人より、碇シンジの方がうまくヘラクレスを操っている。その理由として説得力を持っていたのが、碇シンジが多種多様なクラブ活動に参加していたことだった。そして遠野マドカと鳴沢ナルの二人も、同様に各種のクラブ活動に参加していた。そのバックボーンが、ヘラクレスの操縦に生かされていると言うのだ。裏を返せば、その素養がなければ、大したことが出来ないことになる。そして今の碇シンジには、格闘技を含めマドカ達の足元にも及ばない能力しか無かったのだ。

「謙遜って……僕は、正直に感想を言っただけですよ。
 でも、ギガンテスとの戦いって、使徒との戦いとは違っていますね。
 なにか、特撮ものの怪獣と戦っているような気がします」
「あらぁ、若いくせに特撮なんて知っているんだぁ」

 そっちの方は、山本は素直に感心していた。そんな山本に、「テレビを見るぐらいしかすることがなかった」とシンジは寂しそうに答えた。

「親戚の家にいるときは、ずっと庭の片隅の小さなプレハブに居ましたから。
 本当に、テレビを見るぐらいしかすることがなかったんです。
 第三新東京市に来てからは、テレビすらまともに見る余裕はなかったんですけどね」
「でも、アサミちゃんのドラマとかは見ていたのね?」

 まだ堀北アサミとシンジの関係を教える訳にはいかない。だから山本は、あくまで観察の一つとしてアサミのことを持ちだした。

「だから、テレビだけは見ていたって言ったでしょう。
 アサミちゃんって、小さな頃からもの凄く輝いていたんですよ。
 だから、いいなあって憧れていたんです」
「パイロットになれば、もしかしたら彼女に出来るかもしれないわよ?」

 「どう?」と口元を歪めた山本に、「あり得ないでしょう」とシンジは情けない顔をした。

「その、英雄って言われた人なら分かりませんけどね。
 僕なんて、アサミちゃんに相手にしてもらえるとは思えませんよ」
「まあ、彼女も芸能界をやめたから、今は一般人なんだけどね……」

 この話題は、あまり深追いをしてはいけない。話をコントロールした山本は、「次を見る?」とシンジに確認した。

「夕食までには時間があるから、ニューヨークの決戦ビデオをみてみる?
 前ふりを含めて、2時間ぐらいで最大の山場を見ることが出来るわよ」
「2時間ですか……」

 時計を見たら、もう5時になっていた。食事の時間を考えると、ちょうどいい区切りなのかもしれなかった。どうせ外に出してもらえないのだから、時間を気にすることもないのだろう。規則正しい生活を諦めたシンジは、「そうしましょうか」と消極的に賛同した。

「最初は、第伍使徒を倒すところまでね。
 予め言っておくけど、第伍使徒を倒す作戦も、英雄と言われた彼が考えたものよ。
 彼が提案するまでは、ヤシマ作戦と同じ方法で倒す計画を立てていたわ。
 もしもそんなことになったら、ニューヨークは地上から消えていたでしょうね。
 死者は、そうね、最悪1千万人を超えると覚悟されていたわ」

 聞かされた話が確かならば、それをほとんど無傷で乗り切ってみせたと言うのだ。それを考えると、英雄としか知らされていない人の作戦立案能力は、ネルフを凌駕しているのだろう。本当にそんな人が存在するのか、どんな人なのだろうとシンジは見も知らぬ「英雄」に興味を抱き始めていた。

 ニューヨークの決戦については、米軍の総攻撃からビデオは始まっていた。そしてすべての攻撃が第伍使徒に粉砕されたのは、シンジの経験にも合致していた。ヤシマ作戦の前に、目くらましのため、ありとあらゆる支援設備を使ったのだ。だが攻撃が敵に届くどころか、施設ごと蒸発させられていた。

「やっぱり、第伍使徒は凄いですね。
 でも、どうしてアメリカ軍はこんな無駄な攻撃をしたんですか?
 僕達の記録を見れば、やっても無駄なことぐらい分かりそうなものだと思いますよ」
「じゃあ、君が同じ立場ならどうする?」

 無駄と切って捨てることは簡単なことだった。だが無駄だと断じた以上、何らかの対案を出す必要がある。それが出来るか出来ないかで、無駄な人材か有益な人材かの選別が出来ると言っても言い過ぎでは無いだろう。実際この戦いからヒントを得て、碇シンジは第伍使徒の攻略法を考えついたのだ。

「僕ならって……今までそんなことを考えたことは無かったんですけど。
 そう言う事は、全部ミサトさんがやってくれましたから」

 その答えに山本は落胆したのだが、それが過剰な要求だとすぐに気づいた。正常に組織が機能しているのなら、作戦立案は現場のパイロットがする仕事では無かったのだ。打つ手が無い状況とは言え、それをなした碇シンジが凄かっただけなのだと。

「じゃあ、今考えたら何が出来ると思う?」
「今考えたら……ですか?」

 聞き方を変えてきた山本に、シンジはまじめに攻略方法を考えた。

「地上に出た瞬間、狙い撃たれた経験があるんです。
 ある程度距離をとれば攻撃されないから、レンジ外から強力な攻撃が出来ないかを考えます。
 だからミサトさんは、強力なポジトロンライフルを用意したんですが……
 でも、結局攻撃を受けたから、もっと距離をとるとかしないと難しいか……
 後は、攻撃を受けられる盾を用意するという方法もありそうですね。
 その盾で攻撃を防ぎつつ接近して、攻撃が途切れたところで直接叩く……ぐらいかなぁ」

 最初のプランは、アメリカでも考えられたものだった。結局ヤシマ作戦の焼き直しなのだが、それでも経験で補正を掛けただけ評価できるだろう。そしてもう一つのプランは、今回使用できないとは言え、試してみる価値のありそうな攻撃方法だった。ただ問題は、そんな強度を持った盾が用意できるのかと言うことだった。

「作戦的には有りだと思うけど、このときに間に合うかは難しい問題ね。
 そう言う事なので、彼は別の方法を提案したわ。
 その作戦の前提には、君が無駄だと言った攻撃も参考にされているのよ。
 一つ目として、第伍使徒は、水中にいる相手には攻撃をしない。
 これは、戦闘機が攻撃されたのに、潜水艦が攻撃されなかったことからの推定よ。
 後は、ネルフ本部へも攻撃しなかったことも、その推測の補強条件になっているのよ。
 もう一つは、起動していないヘラクレスは敵と認識されない。
 ごめん、こっちの方は、これまでの戦いから導き出された経験則よ。
 その二つの条件を生かして、彼は海中から第伍使徒を攻撃し、見事撃破したわ」
「う、海の中からですかっ!
 でも、周りにはギガンテスが居るんですよね。
 だとしたら、第伍使徒を倒せても、他のギガンテスにやられませんか!?」

 それに気づいたところには、評価が出来る。シンジの査定をした山本は、映像を進めることにした。ここから先は、口で説明するより実際に見せた方が早いと考えたのだ。

「じゃあ、映像を先に進めるわね。
 第伍使徒を倒すところは、目を皿のようにして見ていてね」

 シンジは言われたとおり、画面をじっと見つめることにした。なにやら音声はうるさいのだが、英語なのでまったく理解できなかった。

「ここで外野がうるさいのは、作戦が当初の計画とは突然変更されたからよ。
 当初は、一度ヘラクレスを起動したら、そのまま第伍使徒を倒す予定だった。
 でも彼は、起動したヘラクレスを一度停止したのよ。
 だから何が起きたのかと、司令室が騒然としたって事よ」
「パイロットが、勝手に作戦を変更したんですかっ!
 でも、それって良いんですか?
 確かに、先行していたギガンテスがおかしな動きをしたとは思いますけど……」

 兵士という意味では、目の前の少年の方がまっとうな常識を持っているのは確認できた。臨機応変と言えば聞こえは良いが、勝手な判断で作戦を変えられては、作戦の成功もおぼつかなくなってしまうだろう。加えて、ギガンテスの反応に気づいたのも合格だと思っていた。

「そのあたりは、与えられた役割によるわね。
 そろそろ決着が付くから、見逃さないようにしてね」

 外野こそうるさいが、しばらく映像には何の変化も現れていなかった。本当に決着が付くのかとシンジが瞬きをした瞬間、第伍使徒が下から何かで突き刺されていた。

「ち、ちょっと、今のところをもう一度見せてくれませんか?」
「やっぱり、一度で追いかけろって言うのは無理だったか」

 そのあたりは、砂漠のアポロンも同じだったと聞かされている。それを考えれば、このシンジが見逃しても不思議なことでは無かったのだ。ひとり合点した山本は、言われたとおり映像を少しだけ元に戻した。

「どう、今度は見逃さなかった?」
「い、いえ、さっきのもちゃんと見えていたんですけど……
 これって、本当に第伍使徒なんですか?
 攻撃とかは記憶にあるとおりなんですけど、こんなに弱かったのかなって」

 ううむと考えたシンジに、山本は「作戦がはまったからでしょう」と答えた。あまりにも作戦が見事に当たったため、相手が弱く見えてしまうのはありがちなことなのだ。

「う〜ん、そう言われるとそうとも思えるんですが……」

 本当にそうかと考えてみたが、山本の言葉を否定するだけの理由を思いつかなかった。それに、「作戦がはまった」と言う説明は、言われてみれば納得のいくものでもあったのだ。だから、「分からないことはいくら考えても分からない」と諦め、シンジは先に進むという選択をすることにした。
 シンジの感じた疑問は、すでにもう一人のシンジが提起していたものだった。ただ、それを山本が知らなかったと言うだけのことだった。直接向かい合った経験が、第伍使徒に違和感を覚えさせたのかもしれない。本来なら、それを指摘したことは特筆すべき事だったはずだ。

「これ以上考えても無駄みたいですから、先を見ましょうか」
「そうね、議論するための材料もなさ過ぎるわね」

 この件については、山本はシンジに対してポジティブな評価を下していた。ちゃんと撃破の瞬間を見逃さなかったこと、第伍使徒の真正に疑問を感じたことに対して評価をしたのだ。ただ惜しむらくは、山本はシンジの報告を知らないことだった。知っていれば、別の展開も期待できたのだ。
 再び動き出した映像を見たシンジは、「凄いなぁ」と素直に感心していた。山本の興味も、すぐにその方へ向いてしまったのだ。

「具体的に、どのあたりが?」
「いえ、絶体絶命の状況なのに、もの凄く冷静なんだなって。
 この人、ギガンテスに食いつかれても、まったく慌てていないんですよ。
 だから、エントリープラグも、冷静に狙いを付けて飛ばしているんです。
 ここまですれば、拾い上げるのも難しくないと思いますよ」

 映像が止まっていなかったので、シンジの視線は画面に向けられたままだった。そこで山本が感心したのは、シンジの関心が派手な作戦に向いていないことだった。英雄とまで言われたパイロットが、何考え、どう行動したのか。それをじっくり観察しているところは、この先有望だと考えたのだ。

「でも、結構な綱渡りを繰り返しているんですね」

 それは、不時着した先で機体を乗り換える映像に対しての感想だった。だが「そうね」と山本が相づちを打つ前に、シンジは「凄い」と大声を上げくれた。

「やっぱり、このパイロットの人は凄いですよ。
 まるで、ギガンテスがどう反応するのか分かっているように動いています!
 凄いなぁ、僕達が束になってもこの人に敵わないと思いますよ。
 悔しいなぁ、この人が居てくれたらあんな結末にならなかったのに……」
「そう、アスカさんも凄かったって聞いたけど?」

 シンジの下した評価は、おおむね世界で共有されたものと同じだった。あえてそれを無視して、山本はシンジの考えを試すことにした。

「アスカ……は、今とあまり変わっていないと思いますよ。
 凄いことは凄いんですけど、戦いになると周りが見えなくなるんです。
 ただ追い詰められると、急に頭が冴え渡ってくるようなんですけど……
 性格的に暴れることが大好きだから、暴れているときは周りが見えなくなるんです。
 この戦いだって、フォローして貰わないと危ない場面が結構ありますよ。
 それだけアスカがこの人のことを信用しているとも言えるんですけど……
 ただ、あのアスカが、そこまで他人を信用するとも思えませんし……
 今まで一緒に戦ったことが無ければ、なおさら信用できるとも思えません」

 初めは嫌々見ているようだったが、今は結構のめり込んでいるように見えた。それを良い傾向だと考えた山本は、休憩を入れずに映像を流し続けた。その結果出てきたのが、西海岸のアテナに対する評価である。よほど苦労をさせられたからなのか、アテナに対する評価は的を射ていたのだ。

「この戦いの後なんだけどね、アスカさんは英雄様に懸想したらしいわよ」
「懸想ってどう言う意味ですか?」
「恋をしたってことね」

 失敗失敗と頭を掻いた山本に、シンジはやけに大きく頷いて見せた。

「なによ、やけに実感がこもっているじゃ無い。
 アスカさんが他の誰かに恋をして、嫉妬とかしたりしないの?」
「どうして、僕が嫉妬なんかしなくちゃいけないんですか!?
 アスカと僕の相性なんて、それこそ最悪中の最悪だったんですよ。
 たぶんアスカだって、僕の顔なんか見たくないと思っていますよ」
「そこまで言い切る自信があるんだ」

 少しあきれた山本に、「自覚ぐらいあります」とシンジは苦笑を浮かべた。

「でもこの人は、戦い方を見る限り、アスカの好きなタイプだと思います。
 凄く冷静で、しかもアスカを本当に自由にさせてあげています。
 きっと、もの凄く大人なんだと思いますよ」
「でも、年齢は君と一緒なのよ」

 「大人ってことは無いだろう」その意味で年齢を指摘した山本に、「大人って年のことを言っていませんよね?」とシンジは言い返した。

「たぶん、アスカがぶつかっていっても受け止めてしまうんじゃありませんか?
 そんな真似、僕には絶対に出来ませんよ。
 ぶつかるどころか、どうやったら逃げられるかしか考えていませんでしたから」
「それって、結構情けないことだと思わない?」

 すかさずツッコミを入れた山本に、「何を今更」とシンジは言い返した。

「僕が情けなくなかったら、結果はもう少しだけ変わっていた……のかなぁ。
 ただ、この人がいれば、アスカはおかしくならなかったと思うし、
 ミサトさんだってもっとまともな作戦が立てられたと思います。
 僕達は、あんなに追い詰められなくてすんだと思いますし、量産型にも負けなかったと思いますよ」

 シンジの正直な感想……その辺りは、さんざん分析されたとおりなのだが……を聞いた山本は、だから劣悪な環境で育てられたのかとシンジの父、碇ゲンドウの意図を理解した。
 碇シンジに才能があることは疑いようは無い。それは、消えてしまった英雄様が身を持って証明してくれているのだ。その才能を正しく育てていれば、シンジが嘆いたような悲劇は起きなかったのだろう。もっとも、健やかに育ったシンジが、パイロットとして呼ばれたかと言うのは別の問題でもあったのだが。

「これで、ニューヨークの決戦も見たけど、2つの戦いを見てどう思った?」
「どうって、凄すぎると思いますよ。
 それから、ニューヨークの戦いを見て、高知が初めてだったと言うのはよく分かりました。
 もしも高知がニューヨークの後だったら、あんなに苦労をしないで乗り切ったと思います」
「他には?」

 そう聞かれて、シンジは「う〜ん」と考えた。2つの映像を見て気づいたことなど、それこそ山のように有ったのだ。だから「どう思った?」と無邪気に聞かれても、どう答えていいのか分からなくなってしまう。

「その、色々とありすぎて困るっていうか……
 やっぱり、“英雄”って言われた人の凄さが目立ちますね。
 初めてのくせに、6体の……数え方はこれでいいですか?
 6体のギガンテスに一人で立ち向かうところとか。
 絶対に不利な条件なのに、第伍使徒を倒すために海に潜るところとか。
 度胸があるっていうのか、冷静に最善を考えているって言うのか……
 絶対に、僕には真似ができないことだと思います」

 同じ事をしてくれないと困るのだが、そのことを山本は触れなかった。その代わり、「他には?」と言って、さらなる感想をシンジに求めた。

「他にはって、そう言えば、あと他の2人も高知は初めての戦いでしたよね。
 “英雄”って言われた人がいたお陰って言うのもあると思いますけど、
 この二人もすごいとしか言いようがありませんね。
 シンクロ率……同調率ですか、それが更に低いんですよね?
 それなのに、怖がらないで戦いに入っていっています。
 それから、3人の信頼関係が凄いなって思います」
「どのあたりで、信頼関係を感じた?」

 なかなかの観察眼だなと感心しながら、山本はその理由を尋ねた。

「高知が初めてと言うのに、役割分担をしっかり守れたことです。
 途中で、かなり危ない場面が有ったんですけど、それをじっと我慢しているんですよ。
 それって、絶対に大丈夫だって信頼しているからですよね?
 そうじゃなきゃ、危なくなった所で2人も一緒になってギガンテスと向かい合っていますよ」
「その方が、簡単に勝てると思わない?」

 M市の戦いでは、2人がギガンテスを蹴散らすまでになっていたのだ。それを考えると、3人で戦った方が確実にギガンテスを仕留められたかもしれない。その仮定で、山本はシンジに意見を求めた。

「可能性としてはあると思いますけど……
 う〜ん、やっぱり我慢したほうが良さそうな気がしますね。
 ニューヨークの決戦の時ぐらいになっていれば、それもありだと思いますよ。
 でも、高知の時だったら、やっぱり後ろで待っていた方が良かったと思います」
「なるほど、さすがは使徒相手に戦い続けてきただけのことはあるわね」

 とりあえずおだてておいた山本は、キッチンに向かって「晩御飯まだぁ!」と大声を出した。その声を聞いて、シンジは早川が帰っていたことに初めて気がついた。

「早川さん、帰っていたんですか?」
「もう8時だからね。
 1時間近く前に帰っていたわよ。
 さっきからキッチンでゴトゴトとして居たんだけど、気づかなかった?」

 不思議そうに顔を見られたのだが、シンジにしてみれば早川が帰ってきたのにまったく気づいていなかったのだ。だから、とっても素直に「いいえ」と首を横に振った。

「それだけ、集中していたと言うことだろう」

 そのタイミングで現れた早川は、黄色いエプロンを着けて土鍋を抱えていた。それなりに似合っているのだが、どこか哀愁を漂わせているようにシンジには見えていた。

「面倒だから寄せ鍋にした。
 出来たら、君にも運ぶのを手伝って貰いたいのだが?」
「山本さんには言わないんですか?」

 人手が必要だったら、まず最初に声を掛けるのは山本であって然るべきだと思っていた。だがシンジの指摘に、「作り直したくない」と早川はきっぱりと言い切った。

「なによ、私はそんなにおっちょこちょいじゃ無いわよ!」
「冷静な観察の結果だと思ってくれ。
 作り直すだけじゃ無く、後片付けをするのも大変なんだからな。
 もう一度買い物に行くのなんて、まっぴらごめんだ!」

 山本の苦情を、早川は一切受け付けなかった。そしてシンジを連れて、キッチンへと入っていった。それを不服そうに見送った山本だったが、シンジの姿が消えたところでタブレットをバッグから取り出した。

「ほとんど、過去の観察通りか……
 それでも、少しはマシになっているのかもしれないわね」

 山本は、「助けてくれ」と懇願してきたときのシンジを覚えていた。その時のシンジは、はっきり頬がこけ、目の周りも落ちくぼんでいたのだ。しかもそう言った外見の変化に加えて、心因性のチック症が現れていた。だが今観察した範囲では、小刻みな痙攣は起きていなかった。そう言う意味では、心理的に落ち着いていると考えることが出来た。
 記憶操作からの復帰が、言われている通りの目を閉じて開く程度の物だとしたら、とてもこの変化を説明することは出来ないだろう。だからと言って人格の融合と考えるのは、あまりに安易な物に違いない。むしろ、記憶操作を受けるという安堵が、気持ちを楽にさせたと考えた方が良いのだろう。付け加えるのなら、3年経った世界がまともに見えることも効果があったと考えられる。

 とりあえず観察を終えた山本は、溜めていた息を小さく吐き出した。英雄が失われた今、碇シンジの存在は世界の命運に関わってくる。少女達がどう考えているのか分からないが、彼がヘラクレスに乗らないことは許されなかったのだ。その方向付けが使命なのだから、食事の準備など本当にどうでも良いことだった。男にすることが必要ならば、躊躇わずに関係する覚悟も出来ていた。

「じっくりと現実を認識させ、経過を見て彼女たちに会わせる……か」

 その時発生する問題を考えると、次の襲撃を乗り切った直後がXデーなのだろう。カレンダーを確認した山本は、「20日の週か」と目標を設定したのだった。そのあたり、山本は女子高生達の行動力を甘く見ていたのだった。



 そしてギガンテス襲撃から一夜明けた2019年の1月1日、アサミはマドカ達を誘ってS基地を訪れていた。本来待機体制が解かれたのだから、アサミ達が基地に顔を出す理由はなかった。年始の挨拶と言うもっともらしい理由はつけられていたが、それが必要な相手だとは誰も思っていなかったのだ。
 喪中と言う事で、キョウカはほとんど普段の格好と変わらなかった。一方アサミはと言うと、白地に御所車の振袖姿をしていた。マドカとナルも、それぞれブルーとピンクの振袖を着ていた。どう言う訳か、ユイやアキラは誘われていなかった。

 ギガンテス迎撃には盆暮れ正月など関係ないこともあり、S基地には大勢の隊員が集まっていた。その中を、晴れ着姿の美少女たちが歩いて行ったのである。若い独身男性達は、ひと目でもその姿を見ようと大勢群がってきた。
 その群れをかき分けて進み、アサミ達は勝手知ったる基地の中を歩いて行った。そして最高責任者である後藤のところに、アポ無しで押しかけた。もっとも4人が基地に来ることは、事前に後藤のもとに報告されていたことでもある。

「後藤さん、明けましておめでとうございます」

 本当にめでたいのかと疑問はあったが、儀礼的な挨拶と割り切り、後藤も「おめでとう」と返した。さすがの後藤も、美少女たちの艶姿に頬がしっかり頬が緩んでいた。

「しかし、正月早々君達が来るとは思っていなかったな」

 せっかくのお客さんなのだからと、後藤は4人に座るように勧めた。そんな後藤に、「お世話になっていますから」とアサミは建前を口にした。

「飲み物は甘いモノがいいかな?」

 相変わらずセルフサービス、しかも秘書は正月休暇で居ないので、後藤は少女達をもてなすために立ち上がった。ただこの辺りは、アサミの方が一枚上手だった。後藤よりも早く“高性能給茶機”のところに行き、「何がいいですか?」と逆に聞いてくれた。
 「ああ、普段と扱いが違う」と感動した後藤は、「ホットコーヒー」と代わり映えのしないものをお願いした。

「先輩達は、ココアでいいですか?」
「それで良いんだけど……なんで、そんなものが用意されているのかしら?」

 この部屋の住人及び訪ねてくる客を考えると、ココアが必要とは思えなかったのだ。とても自然なマドカの質問に、「秘書の趣味だ」と後藤は口元を歪めた。

「まあ、疲れた時には甘いモノが欲しくなる時もあるからな。
 だから、たまに利用はさせてもらっている」
「……似合わないわね」

 ずばりと言い切ったマドカに、「ほっといてくれ」と後藤は拗ねたようなことを言った。だがアサミにコーヒーを手渡され、目尻を下げて「ありがとう」と答えた。

「後藤さんがにやけてる……」
「し、仕方がないだろう、嬉しいものは嬉しいんだっ!」

 それを指摘されるのは、さすがに恥ずかしいと思えてしまった。少し慌てた後藤に、「虐げられているのね」とマドカは指摘した。

「相変わらず、セルフサービスなんですか?」
「それを、言ってくれるな……」

 少し哀愁を漂わせた後藤は、「今日はどうしたのだ?」と少女達の訪問理由を聞いた。

「挨拶に来たって言いませんでしたか?」
「いや、それは覚えているがな。
 だが、君達の顔を見る限り、それだけではないのだろう?」

 その辺りの観察は、さすが基地司令をしているだけのことはある。それを認めたアサミは、「先輩のことです」と単刀直入に切り出した。

「もう、目が覚めているんですよね?」
「ああ、昨日記憶回復の処置を行った。
 どこに居るのか教えることは出来ないが、これからゆっくり事情を説明していくことになっている」

 記憶回復をしたということは、愛した人が消えてしまったことを示していた。覚悟はしていたが、それを告げられるのはやはり辛かった。

「やっぱり、奇跡は起きなかったんですね……」

 ほんの少しだけ顔を曇らせたアサミは、「いつ会わせてもらえるんですか?」と尋ねた。

「なかなか難しい質問だな……
 その件に関しては、俺は直接関与していないんだ。
 今は、3年前に彼をカウンセリングした女性が担当しているらしい。
 君達に会わせるのは、彼女の許可が出てからということになるな」
「いつ頃と言うのは分からないんですね?」
「デリケートな問題である以上、急ぎすぎるのは良くないだろう」

 そもそも、元の人格は記憶操作をしなくてはいけないほど追い詰められていたのだ。それを考えれば、慎重にことを運ばなければいけないのは確かだろう。復帰させられた人格が、正常だと言う保証もなかったのだ。
 だから、「慎重に」と後藤が言うのは理解することは出来た。だが、納得できるのかと言うのは全く別なことだった。ちらりと先輩達の顔を見たアサミは、二人が頷いてくれたのを確認して、後藤に対して要求を突きつけることにした。

「でしたら、可及的速やかに会わせてください。
 会わせてくださるまで、私達4人は一切の協力を拒否します。
 3日以内に日程の回答がない場合、知っていることをすべて公開します。
 と言う手札があるのですが、後藤さんはどうされますか?」
「それが、どれだけ問題のある行為か分かっているのだろうな」

 アサミの言葉は、子供だからと言って看過し得ない発言だった。協力拒否も問題だが、情報の公開はさらなる問題を発生させることになる。相手が世界の英雄だと考えると、内閣が吹っ飛ぶぐらいでは収まりがつかなくなってしまうだろう。本人達への影響を含め、そんな真似をさせるわけにはいかなかった。

「そこまでの我儘を許せると思っているのかっ!」

 新年気分も吹き飛ばし、後藤は今までで一番厳しい表情をアサミに向けた。これまではかなりポーズで脅しをかけていたのだが、今回は真剣に怒りを顔に出していた。
 だがそんな後藤の怒気にも、アサミは全く怯まなかった。そして後ろで話しを聞いていた3人もまた、全く怯んだ様子を見せなかった。そして「任せた」と言って、後藤に背を向けてくれた。

「後藤さん、今更そんな脅しが通用すると思っているんですか?
 この1週間、私がしてきた思いに比べれば、後藤さんの怒りなんて大したことじゃないんですよ。
 日本政府が先輩にしたことを考えたら、信用なんて出来ると思う方が間違っているんです。
 先輩やレイちゃんが、どれだけ嘆き悲しんだのかを知っていますか。
 後藤さんにとっては、沢山見てきた中の取るに足らない悲劇の一つかもしれませんよ。
 だからと言って、当事者が我慢できるだなんて思って欲しくはありません。
 ちょっと凄めば怖気付くとか、覚悟の程を確かめるだなんてふざけたことを考えないでください。
 私は、先輩みたいに優しくなんてありませんからね」
「脅しを掛ければ、思い通りになるなどと思うなっ!」

 そう言って机を叩き、「ふざけるな」と後藤は大声で恫喝した。その迫力は、部屋の中をビリビリと震わせるほどだった。だが後藤の迫力も、今度ばかりは通用しなかった。

「ふざけている、いえ、舐めているのは後藤さんの方ですよ。
 ここまでする以上、私が何の覚悟もしないで来ていると思っているんですか?
 先に言っておきますが、人質なんて意味がありませんからね。
 パパやママぐらい見捨てるし、人質をとった時点で後藤さんは破滅しますよ。
 私達を拘束すればどうにかなるなんて考えたら、本当にすべてを失いますからね」

 怒鳴りながらも、後藤はアサミの反応を観察していた。どこまで本気で、どこまで脅しなのか、それを言葉から、表情から読み取ろうとしたのだ。だが小さな頃から虚構を演じてきたアサミの前には、後藤の観察眼は役に立ってくれなかった。ならばマドカ達からと思ったのだが、黙って背中を向けられるとそれもできなくなってしまう。

「後藤さん、後藤さんには、私達に大きな借りがあるはずです。
 高知で、M市で、先輩や私達の力無しで日本は存続出来ましたか?
 後藤さんが諦めたことを、私達が救い上げてあげたんですよ。
 その貸しに比べたら、この程度のお願いなんてとても小さなことだと思います。
 それすら聞いてもらえないというのなら、私達は自分に出来る事をするだけです。
 大きな組織を相手にするのですから、手段を選んではいられないと思いませんか?
 可愛くお願いした程度だったら、「無理だ」の一言で済ませてはいませんか?
 事を荒立てたって、本当はいいことなんて無いのは分かっています。
 けど、今度ばかりは事を荒立てることにしました。
 それだけあなた達大人は、先輩に酷いことをしてくれたんですよ。
 誰もが先輩のことを利用するだけ利用して、責任を押し付けるだけ押し付けて、
 今も、どうしたら利用できるのかを考えて、先輩のことなんて誰も考えていませんよね。
 様子を見るというのは、ヘラクレスに乗るように誘導してからと言う意味ですよね?
 大人の都合で、また先輩の心を弄ぼうとしているんじゃないですか」

 「違いますか?」と聞いたアサミに、後藤は何も答えなかった。否、答えることが出来なかった。シンジを隔離している理由の一つは、今の世界に慣れさせることが目的の一つには違いない。ただそうする理由は、ヘラクレスのパイロットとして利用するためと言うのは明らかだった。「乗せない」と言う選択肢を用意しない以上、アサミの言っていることは間違っていなかったのだ。

「後藤さん、私達は本気なんですよ。
 だから後藤さんも、本気で上に楯突いてください。
 私達の要求は、交渉の余地がないほどシンプルなものです。
 それを利用すれば、後藤さんなら総理大臣だって首を縦に振らせることができますよね?」
「そんな真似をしたら、それこそ俺の首が飛んで終わりになる……」

 苦笑を浮かべた後藤に、「だったら」とアサミはもう一つ条件を付け加えた。

「私達を甘く見るなと伝えてください。
 これは、後藤さんの管理責任なんて小さなことじゃありませんからね。
 黙って要求を飲んでくれれば、誰も損をしないで済むことなんですよ。
 神前さん、私達の要求は理解してもらえましたか?」
「ええ、嫌ってほど理解できたわ……」

 後藤とやりあっていたのに、どうして自分のことまで頭が回るのだ。神前は、そんなアサミに対して恐怖を感じていた。特に後藤の身分については、自分を抑えておく必要があったのである。それをこの少女が理解しているのは、驚き以外の何物でもなかった。

「それで神前さん、神前さんはどう答えてくれますか?
 ああ、あらかじめお断りしておきますけど、先輩をパイロットにすることには反対していませんよ。
 ただ、本人にその気が無ければ、無理にパイロットにする必要は無いと思っています。
 逃げ道をふさいで、結果的にパイロットを選択せざるを得ない。
 そんな状況を作ったら、私達のチームは完全に壊れてしまいますからね」

 もう一度「どうです?」と聞かれた神前は、「聞かせて欲しい」と逆に聞き返してきた。

「彼が残したものがあっても、あなたたちだけで勝てると思っているの?
 ギガンテスは良いわ、でも過去の亡霊が出てきたらどうするつもりなの?」
「そんなもの、今の先輩を加えても結果は変わりませんよ。
 私達だけで勝てない相手には、今の先輩が加わっても勝てませんから。
 それが、神前さんの質問への答えになります」

 答えとしては変化球なのだが、アサミの答えはどうしようも無く真実を言い当てていた。

「そう、それがあなたの答えという訳ね……
 だったら、もう一つ」

 そう言って、神前はブレザーに手を突っ込み、隠してあった拳銃を使おうとした。もちろん撃つつもりなど無く、アサミ達の覚悟を試そうとしたのである。
 だが拳銃を取り出すのよりも早く、神前は後頭部に堅い物が当てられるのを感じた。

「それ以上動いたら射殺する!」
「あなた、自分が何をして居るのか分かっているの?」
「俺の役目は、ギガンテスを倒すことだ。
 妨害工作に対して、容赦などするつもりは無い。
 お前こそ、覚悟を試すような真似に、意味が無いのが分からないのか。
 ゆっくり、懐から手を出して両手を上げろ」

 この状態で、神前には何も出来ることはない。言われたとおり、大人しく両手を上げた。

「神前さん、後藤さんに感謝しないといけませんよ。
 神前さんの抜いた拳銃が誰かに向いていたら、後藤さんに射殺して貰っていました。
 ただ、神前さんにはがっかりしました。
 覚悟を試すような真似に、今更意味があるなんて思っていたんですか?
 まさかとは思いますけど、脅せばどうにかなるなんて本気で考えていませんよね?
 それで、私の要求にはどう答えてくれるんですか?」
「3日以内に答えれば良いのね?」
「当然、いつ会わせてくれるのかという答えですよ。
 可及的速やかにと言うのが分かりにくければ、1週間以内って言い換えましょうか?」

 余計なことを言わせたために、1週間以内と言う日程が切られてしまった。だが一度示された期限は、無視することの出来ない物になってしまった。「ぎりっ」と奥歯を噛みしめた神前は、「要求は理解した」と繰り返した。

「そんな親の敵を見るような顔をしなくても良いんですよ。
 私達だって、何をしてはいけないかぐらい分かっていますからね。
 先輩にだって、ちゃんと考えて接しますよ。
 いつも言っていると思いますけど、私達は困った人の味方なんですからね。
 先輩が困っているんだったら、今度は私達が助けるのが順番だと思いますよ。
 じゃあ、私達は初詣に行きますからこれで失礼しますね」

 そう言ったアサミに、他の3人も揃って頭を下げた。それを引きつった顔で見送った二人に、「そう言えば」とアサミは手を叩いた。

「お二人とも、もう少し演技の練習をした方が良いですよ。
 いくら即興だからと言っても、もう少しうまくやって欲しかったですね。
 それから神前さん、拳銃を懐に入れたらもっと大きく膨らんでいますよ」

 「そう言う事で」と、アサミはぺこりと頭を下げて出て行った。後に残された後藤と神前は、思いっきり顔を引きつらせていた。相手の演技は見抜けず、こちらの演技はカムフラージュにすらなっていなかったのだ。それこそ、「役者が違う」と言うのを見せつけられたのである。

「んで、どうするのよ」
「どうするもこうするも、素直に上申する他ないだろう。
 総理も、この程度のことで首をかける訳にはいかないはずだ」
「今のあの子達を敵に回せる政治家は絶対に居ないわね……」

 この程度のことで、誰も政治家生命を賭けたくはないだろう。ヘタをしたら、自国民だけではなく、世界中から袋叩きに遭いかねないのだ。そのリスクを冒せるとは思えないし、リスクを顕在化させるわけにもいかなかった。

「と言うことなので、俺の首は守ってくれよ」
「報復が怖いと伝えておくわよ……」

 一体どこまで置き土産をしてくれたのか。居なくなっても振り回してくれる英雄様に、後藤と神前は心の中で呪いの言葉を吐きかけたのだった。



 暇だし眠くないということで、シンジは過去の記録を続けて見ようとした。だがいざ香港の戦いを見ようとした所で、「息抜きでもしろ」と早川に別のビデオを手渡された。
 渡されたビデオは、確かにリクエストした物に違いない。だからと言って、もう少し配慮が必要だろうとシンジは言いたかった。

「確かに“風少女”を指定しましたけど、なんでテレビシリーズの3巻なんですか?」

 まともに考えれば、1巻から持ってくるものだろう。さもなければ、キスシーンのある5巻が選択されるべきなのだ。だが早川が持ってきたのは、中途半端な第3巻だった。全6巻と言うことを考えれば、本当に意味のないレンタルとしか言い様がない。
 それを指摘したシンジに、早川は憮然とした表情で「これしか無かった」と言い訳をした。

「レンタル店5店を探したが、あったのがそれだけだったんだ。
 レンタル店で聞いみたら、たまたま延滞されていたのが返ってきたところらしい。
 他の巻やタイトルは、しばらく予約が入っていてレンタル不能と言う事だ。
 絶版になっているため、今やお宝としての価値があるらしいな。
 ネットを漁れば動画サイトで探せるらしいが、残念ながらネットは許可できない」
「どうして、3巻だけあるか聞いてみましたか?」

 はあっとため息を吐いたシンジに、「何か意味があるのか?」と早川は聞き返した。

「3巻だけは、ほとんどアサミちゃんの出番がないんですよ。
 出てるシーンにしても、1巻、2巻の回想シーンだけなんです。
 まるっきりそのままだから、あんまり人気のない巻なんですよ。
 まあ、それでもアサミちゃんが出ているから見ますけどね……」

 それでも十分嬉しそうに、シンジは早川の持ってきたディスクをセットした。そして、まるでどこに肝心の映像があるのかを知っているように、リモコンを使ってドラマを早送りしてくれた。

「く、詳しいのだな」
「TVを見るぐらいしかすることがなかったって言ったでしょう。
 ああっ、やっぱりアサミちゃんは可愛いなぁ!」

 シンジが感動した画面に目を向けると、確かにとびっきり可愛い子が微笑んでいる絵が映っていた。まだ子供子供しているのは、堀北アサミが12歳の作品だからだろうか。

「なるほど、確かに将来性を感じさせる映像だな」
「これから4年も経っているんですよね。
 きっと、もの凄く綺麗になっているんだろうなぁ……
 でも、引退しちゃったんですよね」

 もの凄く悔しそうにするシンジに、「そんなにファンなのか?」と早川は聞かなくてもいいことを聞いてしまった。そんな早川に、シンジは「何を当たり前のことを聞くんですか!」と強い調子で言い返した。

「だが、君の周りにも2人も美少女がいただろう?」
「あの2人とアサミちゃんを比較しないでください!
 素直なところとか、綺麗なところとか、可愛いところとか全く違うんですから!」

 虚像をそのまま受け取るのはどうかと思うが、早川も一応男なのである。だからシンジが力説することに対して、一部共感を覚えていた。何しろこの3ヶ月間見せられた堀北アサミは、年齢差を物ともしない強力な魅力を放っていたのだ。ただ堀北アサミの隣には、世界の英雄様がいつも控えていると言う問題があった。しかも二人が交わす笑みは、見る人すべてを魅了していたのだ。誰も割り込めないと、諦めさせるほどの関係を作り上げていた。

「だが彼女も、もう16歳になるんだぞ。
 しかも芸能界を引退したんだから、恋人の一人ぐらい作っているんじゃないのか?」
「そりゃあ、確かに否定はできませんけど……」

 そう言って拗ねたシンジは、「釣り合う相手が思い浮かばない」と言い返した。

「つまらない相手だったら、絶対に長続きしないと思いますよ。
 アサミちゃん以前に、周りが絶対に許さないと思いますから」
「彼女と付き合い続けるためには、周りからも認められなくてはいけないと言うことか」

 実際の相手を考えると、確かに周りから認められるだけのものを持っていた。それどころか、力関係は男の方が強いと言われていた。

「ところで、君は堀北アサミと付き合う夢を見た口か?」
「結構残酷なことを聞いてくれるんですね……」

 そう言って顔をひきつらせたシンジは、「自覚ぐらいはある」と言い返した。

「どう考えても、僕なんかじゃ釣り合いませんよ。
 見た目も良くないし、運動神経もドン臭いし、頭だって大したことがないんですよ」
「つまり、彼女と付き合うためには君が言ったことの反対なら良いという訳か……
 ところで山本、彼は自分の姿を鏡で見たんだよな?」
「最初に見せたけど、多分忘れているんでしょうねぇ。
 ねえ碇君、もう一回鏡で自分の姿を見てくるぅ?」
「自分の姿をって……嫌になるぐらい何度も見てますよ……」

 はあっとため息一つ吐いて立ち上がったシンジに、早川は「背が高いな」と言って隣に並んだ。早川が言うとおり、確かにシンジの方が拳一つ分背が高かった。

「あ、あれっ?」
「忘れたの?
 君は寝ている間に、しっかりイケメンに生まれ変わっているのよ」
「ちなみに、記憶を戻す前の君は、運動神経抜群で成績も学年トップ。
 しかも、全校推薦で生徒会長に選ばれたと言うことだ」

 そう言って補足した早川に、「漫画じゃないんですから」とシンジは言い返した。現実の見た目を否定できないが、付け足された実績は、どうも信ぴょう性に欠けていたのだ。もとが自分だと考えると、運動神経抜群と言うのは、どう考えてもあり得なかった。

「その辺りは、おいおい社会復帰していく中で知ることが出来るだろう」
「社会復帰……しなくちゃいけないんですよね……」

 記憶を取り戻したのだから、ここから先は“普通”と言われる生活を送る必要が有る。前の自分がどうしていたのかは分からないが、普通に考えればそこに戻るのは問題が大きいだろう。何しろ、築いてきた人間関係に対する記憶が一切残っていないのだ。

「ここから出たら、僕はどうすることになるんですか?」
「我々としては、君にはパイロットになって貰いたい。
 山本から聞いていると思うが、日本は大切なパイロットを失ったところだ。
 これから戦い続けていくためには、君の力が絶対に必要になってくる」
「でも、“英雄”って言われる人の代わりは僕には無理ですよ」

 二つの戦いを見ただけでも、物の違いを見せつけられたのだ。その代わりをしろというのは、間違いなく不可能な要求だと思っていた。

「まあ、誰も代わりが出来るとは思っていないんだけどね。
 それから一つ言っておくけど、同調率は君の方が高いという予想がされているわ」
「シンクロ率ですか……それだけが拠り所の気もしますけど……
 なにか、この後の映像を見たらそれも否定されてしまいそうな気がしますよ。
 本当に、僕は乗らなくちゃいけないんですか?」

 いかにも嫌そうな顔をしたシンジに、「強制は出来ない」と早川は答えた。

「社会復帰後、君は普通の高校生として扱われる。
 従って、ヘラクレスに乗るにはまず第一に本人の意向が尊重される。
 君も感づいているだろうが、君には一人も親権者が残っていない。
 従って、誰か適切な人間に保護者になって貰う必要があるな。
 そしてパイロットになるためには、その保護者の同意も必要となってくる」
「でも、後のはどうにでもなる話ですよね」

 「嫌だなぁ」とはっきり口にしたシンジに、早川は何も答えなかった。このあたりの反応が、想定の範囲だというのもその理由である。まかり間違っても、積極的に乗りたがらないと言うのがシンジに対する分析結果だった。

「一応嫌だと言うのは覚えておこう。
 あれだけの経験をしたのだから、乗りたくないのも理解は出来る。
 ただ、世界が追い詰められているのも忘れないでくれ」

 暗に「責任がある」と脅す早川に、ここでも同じかと、シンジはネルフ時代のことを思い出していた。







続く

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