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 12月に入ると、世間が落ち着かなくなってくるものと相場が決まっていた。年の代わりが間近になること、そして恋人達にはクリスマスと言うイベントが訪れることがその理由だった。
 同様の落ち着かなさは、テレビ界でも見ることが出来た。年末進行で特番が増えるのもそうだが、やはり特番イベントとしてもクリスマスは欠かすことが出来なかったのだ。

「先輩、そこを何とかお願いします!」

 生徒会に顔を出した後、部室に行ったらなぜか花澤が顔を出していた。そしてシンジの顔を見た花澤は、唐突に、「ヒ・ダ・マ・リ」へのゲスト出演をお願いしてきたのである。「何とか」と花澤が手を合わせたのは、当たり前のようにシンジが断ったからだった。
 ただ、花澤にしても、シンジが素直に首を縦に振るとは思っていなかった。だから、断られたぐらいでは引き下がらなかった。どうしても出て欲しいと食い下がり、後輩と言う立場をこれでもかと言うほど主張したのである。

「今年は、3時間スペシャルを組むんすよ。
 その中に、ジャージ部の映像特集も入れるんすけど、是非とも先輩に出てい欲しいんす!
 可愛い後輩の顔を立てると思って、無理を承知でお願いします!」

 両手を合わせ、床に座り込まれると、心情的に断りにくくなってしまう。かと言って、簡単にはうんと言えない事情がシンジにもあった。だからシンジは、とりあえずダメな理由を挙げることにした。

「部として、すみれ園と福寿園に慰問に行くことになっているんだぞ。
 その上テレビに出たら、アサミちゃんとデートができなくなるじゃないか」
「本番は、ボランティア活動の後でも間に合うっす。
 デートの方は、ええっと……」

 その辺りは想定の範囲だったのか、花澤はポケットからメモを取り出した。普段窮屈しているだろうから、餌が役に立つと誰かが考えたのだろう。

「ええっと、りっつかーるとんの高い部屋をとってあると言う話っす。
 だから、デートの方も、問題ないって木村さんが言ってたっす」
「配慮には感謝するけどね。
 今更、そう言う部屋をありがたがることもないんだよ」

 海外合宿でも、ワシントンDCやカサブランカでは最上級のスイートを使っていた。その辺りの事情は、香港やムンバイでも同じだった。それを考えると、今更最高級ホテルと言われても有り難みが薄かった。
 それを言われると、花澤も引き出しがなくなってしまう。そして苦し紛れに持ちだしたのは、普通なら十分にご褒美と言える、そしてシンジにしてみれば、どうでもいいと言う餌だった。

「ええっと、後は豪華ゲストとのパーティーが有るとか……」
「花澤君、君は僕の性格を理解していないね」

 豪華とか目立つとかに価値を感じていない相手に、豪華なホテルとか芸能人とのパーティーを餌に持ちだしたのだ。「性格を理解していない」とシンジが主張するのも当然の事だった。
 そこまで言われると、花澤には完全に打つ手がなくなってしまう。視聴率とか色々と考えると、ここは是非ともシンジに出演してもらいたかったのだ。そうでなくとも、大物ゲストからは、いつシンジを連れてくるのだと催促をされていた。だが「性格を理解していない」とまで言われたら、ゲスト出演は絶望的に思えてしまう。その点で、花澤には打つ手が無くなってしまった。

 もっとも、シンジも花澤を突き放すだけではだめだと思っていた。あまり好きではなかったのだが、テレビに出てもいいという気持ちになっていたのだ。その辺り、ナルから急いでいるようにみえると言われる理由になっていた。自分の生きた足跡を残していきたい、意識そこしていないのだが、明らかに行動パターンが変わってきていたのだ。
 三拝九拝する後輩に、だったらとシンジは妥協案を出すことにした。

「僕から妥協できる条件を出してあげよう。
 クリスマスイブの夜、僕たちはS市を出る訳にはいかない。
 デートと言うのは半分冗談、半分本気なんだが……
 S市から出られないことについては、別の理由もそこにあるんだ。
 ギガンテスの襲撃が予想される時期に、のこのことS市を離れる訳にはいかないんだよ。
 だから、S市にいることを条件にテレビに出てあげるよ。
 当然芸能人を集めたパーティーはないし、豪華ホテルのスイートも必要ないよ。
 番組への参加は、中継と言うことになるんだろうね。
 それでもいいと言うのだったら、協力することに同意するよ」
「とりあえず、それで良いか木村さんに聞いてみるっす!」

 必要な妥協案を貰ったので、ちょっとと言って花澤は部室を出て行った。そして5分ほどしてから、嬉しそうに戻ってきた。

「木村さんも、それで良いって言ってたっす。
 後は、俺もこっちで参加しろと言われたっす」

 花澤が真面目に部活をしていると言うことにするためには、確かにS市に居た方が都合が良いだろう。その程度は問題ないと、シンジは話を進めることにした。

「遠野先輩、イブの日ってスリーサイズの営業はどうなっていました?」
「碇君、うちのお店、BWHって言うんだけどなぁ。
 と言う話は置いておくけど、聞いてみないと分かんないかな。
 特にクリスマスパーティーはやってないんだけど、今年は事情が事情だからねぇ」

 間違いなくかき入れ時なのだから、夜に子供のイベントをやるには不向きな場所なのかも知れない。しかもテレビ中継をするとなると、入れ物自体の大きさも問題となってくる。だったらと、アサミは外の施設を提案した。

「でしたら、どこかにパーティー会場を借りますか?」
「でもさぁ、それって高校生の部活らしくないよね」

 ホテルでパーティーと言うのは、マドカの言う通り、確かに高校生らしくない。だが高校生らしい場所を選ぶと、テレビ中継がしにくくなると言う問題もあった。

「だったら、ジャミング事務所に任せるというのはどうでしょうか?
 初めからテレビ中継を前提にすれば、わざとらしくなくて良いと思いますよ」

 良くある二元中継だと考えれば、視聴者の理解も得られやすくなるだろう。そんなアサミの提案に、だったらとシンジは番組自体をS市でやればいいと提案した。

「こっちでも、必要なスタジオを用意することは出来るんだろう。
 だったら、薄桜隊全員でこっちに来れば良いんじゃないのかな。
 セットだって、特番だったら普段と違う物を利用するんだろう?」
「確かに、その手は有ると思うんすけど……
 うちの事務所だけじゃ、決められない問題っすね。
 しかも、結構スケジュールが押し迫っているんすよ」

 クリスマスイブまで、残すところ2週間とちょっとになっていた。それを考えると、花澤の言う通り、今からでは出演者のスケジュール調整が難しくなる。番組すべてをS市でやるには、もう少し早くから動き始める必要があったのだ。
 もっとも、その辺りまだシンジ達の価値を低めに見ていたのかもしれない。普通のゲストならば、スケジュールさえ調整すれば呼ぶことも難しくない。だが、「ヒ・ダ・マ・リ」以外は記者会見でしか露出がないのが、シンジ達を始めとしたパイロットである。その希少すぎるシンジ達の譲歩を得られるのなら、他のゲストのスケジュールなどぶっちぎるのが芸能界だった。

 それを知っているわけではないが、シンジは扱いを花澤への宿題とした。もっと言うのなら、「ヒ・ダ・マ・リ」と言う番組自体への宿題としたのである。必要な時間は空けておくから、その活用方法を考えろと言うのである。

「7時から10時ぐらいまでなら空けておいてあげるからね。
 その時間をどう使うのか、木村さん達と相談したらいいんじゃないのかな?」
「空けておいてくれるのは、碇先輩だけっすか?」

 アサミがテレビに出たがらないのを知っているが、シンジが一緒だとどう言うことになるのか分からない。分からないのだから、花澤は素直に聞いて見ることにした。

「アサミちゃん、どうする?」
「先輩が出るんだったら、当然私も出ますよ。
 でも花澤君、番組が私をゲストに呼ぶ勇気はあるのかしら?」
「碇先輩をゲストに呼ぶ時点で、その質問は無意味っしょ。
 うちのメンバーじゃ、誰を並べても敵いっこないっす。
 女性ゲストだって、よっぽどの大御所を連れてこないと無理っすね。
 もう別格って感じにしとけばいいんと思うっす。
 どうせ、みんなミーハーに騒ぎ立てるだけになるんすからね」

 世界のヒロイン対ぽっと出の地域限定のタレントでは、そもそも比較になるものではない。だったら、絵的にもヒーローとヒロインを並べた方がずっとメリットが大きかった。そのあたり、花澤の認識はきわめて正しいと言うことになる。
 これでアサミの出演も決まったので、後は他のジャージ部メンバーがどうなのかを聞けばいい。そして番組を盛り上げるためには、主力4人が揃ったほうが好ましかった。

「遠野先輩と鳴沢先輩はどうします?」
「う〜ん、テレビって見るのはいいけど、あまり出たくはないんだよね……」

 そう言って否定的なことを口にしたマドカだったが、しばらく悩んでから「まぁいいかっ」と出演を認めた。そうなると、半分自動的にナルの出演も決まったことになる。

「マドカちゃんが出るって言ったら、私は断れないわね……」

 ふっと苦笑を浮かべたナルは、「あなた達はどうする?」とユイとアキラにも話を振った。

「じ、時間的に問題はないのだが、私達が出てもいいのだろうか?」
「僕達は、まだパイロット候補なんですよ。
 襲撃も近いのに、そんなに浮かれたことをしていて良いんでしょうか?」

 あまりにももっとな疑問に、シンジは「いいんじゃないのかな?」とのんびりとしたことを言った。

「衛宮さん達までだと問題はあるけど、高村さん達は同じボランティア部員だろう?
 だったら、一緒に出ても問題はないと思うよ。
 と言うか、君達も一緒に晒し者になるんだよ。
 そう言う事情だから、篠山、お前も都合がつくんだったら顔を出せよ」
「俺かっ!?」

 最近少し陰が薄いキョウカは、驚いたように自分を指さした。ちなみに影が薄い理由の一つに、部活への出席率低下があった。

「しかし、俺はパイロット候補でもないんだぞ」
「確かにそうだが、お前はオリジナルのボランティア部メンバーだろう?
 一緒にアメリカ合宿にも行ったんだから、出演する権利は有ると思うぞ」

 忘れていないと言う意味を強調したシンジに、キョウカは少し考えてから「申し訳ない」と謝った。そしてキョウカは、思いがけないダメな理由を口にした。

「せっかく先輩が誘ってくれたのだが、やはりテレビに出ている暇はないと思う。
 先輩達には話していなかったのだが、最近母様の具合が良くないのだ」
「最近部活を休みがちなのも、それが理由なの?」
「うむ、咳が酷くなったのでフユミ姉さまの病院に入院しているんだ。
 食べ物が喉を通らなくなったので、今は点滴をしてもらっている。
 父様からも、今は少しでも母様と一緒に居るようにと言われているんだ」

 日に日に痩せていく母親を見ていれば、それが何を意味しているのかぐらい、さすがのキョウカも理解しているのだろう。やけに神妙な顔をしているのも、状況を理解しているからだと想像できる。

「キョウカちゃんのお母さんって、一度部活を見に来てくれたよね。
 ねえ碇君、私達も一度お見舞いに行った方がいいんじゃないの?」

 ちらりとしか見ていなかったので、マドカはキョウカの母親の容態を理解していないのだろう。だからシンジは、すぐに答えを返さなかった。そして同じく事情を知っているアサミも、横から口を挟んで来なかった。
 それでも、マドカに答えなくてはいけない。ただ、ここで知っていることを教えるのも適当ではない。だからシンジは、この場において一番当たり障りの無い答えを返すことにした。

「そうですね、でも僕達の都合だけで伺うのは良くないと思いますよ。
 篠山、一度お父さんに、僕達がお見舞いに行っていいのか聞いてくれないか?」
「父様にだな。
 うん、今日にでも聞いてみることにする。
 母様は、碇先輩のファンだからきっと喜ぶと思うぞ」

 嬉しそうにしたキョウカに、シンジはチクリと胸が痛むのを感じた。キョウカの母親が、何を願っているのかは分かっていた。だが、その願いを叶えることが出来ないのも分かっていたのだ。ただ、そのことを口にしていいものではない。だから、「そうだな」とシンジも答えるだけだった。



 そしてキョウカから母親の容態を聞いた週末、アサミと夕食の買い物をした帰りに、シンジは綾部サユリに呼び止められた。それを珍しいと驚かず、二人は来るものが来たのかと覚悟した。

「綾部さんが来たということは、篠山のお母さんのことですね?」
「さすがは碇さんですね。
 ただ、歩きながらお話することではないので、場所を変えさせていただいて宜しいでしょうか?」
「そうですね、立ち話で済ませる話じゃないでしょうね……」

 シンジが同意したので、サユリは「こちらです」と二人を路地裏に案内した。そこには、黒塗りの大型車が止められていた。

「お話の後、ご自宅までお送りいたしますよ。
 ですから、その前に少しだけお時間をいただければと」
「だったら、上がって行きませんか?」

 中にユキタカが居るのかと身構えたのだが、さすがに土曜の昼間に出歩いていないようだ。短時間で終わる話でもないと、シンジはサユリを自宅に招待した。

「私のような者がおじゃまして宜しいのですか?」
「ダメな理由はないと思いますよ。
 ところで、その話はアサミちゃんが聞いてもいい話ですか?」

 キョウカの母親の話ともなると、色々と微妙な問題も含まれてくる。それもあって、シンジはアサミに聞かせていいのかと確認した。

「ええ、是非とも堀北さんにも聞いていただきたいと思います」
「だったら、なおさら僕の家の方がいいですね」

 シンジの誘いに、サユリは「ありがとうございます」と承諾した。シンジの言うとおり、落ち着いて話せる場所の方が好ましかったのだ。
 もともと歩いて帰る距離なのだから、車に乗ってしまえばあっという間に到着する。「ありがとうございます」と車から降りたシンジは、「どうぞ」と綾部を自宅に招き入れた。

「じゃあ、お茶を入れてきますね」

 先にパタパタと上がっていったアサミを見て、「ご夫婦のようですね」とサユリは素直な感想を口にした。ただ、このあたりのことは、さんざん海外合宿で見ていたはずのことだった。

「結婚したわけでもないので、ままごとみたいなものですよ」

 そう答えたシンジは、サユリを連れて居間へと向かった。そしてソファーにサユリを座らせ、自分は洗面所に手を洗いに行った。その間の相手は、妹とアサミに任せることにした。
 洗面所から戻った時、居間にいた3人の間に会話はなかった。事情が事情だけに、アサミ達には荷が重かったようだ。当然3人の間には、得も言われぬ緊張感が漂っていた。その空気に割って入ったシンジは、単刀直入用件を尋ねることにした。

「綾部さん、お待たせしました。
 それで、僕にお話とは何でしょうか?」

 そしてサユリも、余計な挨拶は不要だと考えたようだ。いきなりシズカの容態から説明を始めた。

「はい、実は碇さんにお願いがあって参りました。
 すでにお気づきかと思いますが、シズカ様はもう長くはありません。
 今は意識を保たれていますが、まもなくその意識も混濁して何も分からなくなるかと思います。
 延命治療ですが、これ以上は必要ないとシズカ様が行わないことを希望されました。
 それもあって、新しい年は向かえられないと、主治医からは宣告されています」
「以前お見かけした時、相当悪いとは分かっていましたが……
 末期の癌を、なんとか抗癌剤で持ち堪えていたということですね」

 ボランティア活動で会った時は、ひどく痩せて髪の毛もかなり抜けていたのを覚えている。だから綾部の話にも、シンジは来るものが来たとは考えたが、さほど驚いてはいなかった。

「そのことは、篠山は知っているのですか?」
「昨日、ユキタカ様がお話になりました。
 かなり取り乱されたのですが、今は何とか落ち着かれています」
「部活に顔を出さなかったのは、それが理由ですか……。
 それで綾部さん、僕にお願いがあると言うお話でしたね?」

 薄々想像は出来ていたが、それでも中身を聞く必要はある。説明を促したシンジに、「これは私の独断です」と断って、サユリはシンジが予想した答えを口にした。

「明日、シズカ様にキョウカ様の花嫁姿を見せてあげることになっています。
 少しでも意識がはっきりしている内にと、ユキタカ様がお考えになりました。
 勝手なお願いとは分かっていますが、碇さんに花婿になって欲しいのです。
 シズカ様に、最後に幸せな思い出を差し上げたいのです」

 「お願いします」と、サユリはソファーから降り床に手をついて頭を下げた。そしてそのままの姿で、シンジの答えを待ったのである。
 そんなサユリを前に、シンジはすぐに答えを返さなかった。予想していた話ではあるが、答えまでは用意していなかったのだ。そしてサユリのお願いを聞くことが、シズカに対して優しくて、そして残酷な嘘を吐くことになるのが分かっていたのだ。

「どうして、綾部さんが僕のところに来たんですか?」

 しばらくして、シンジの口から出たのは答えではなく質問だった。

「そう言う話なら、篠山がしてくるものだと思っていました」
「キョウカ様は、ご自分の立場を弁えていらっしゃいます。
 ですから、新郎のいない花嫁姿になるのだと笑ってらっしゃいました。
 ユキタカ様も、仕方がないと笑っておられました。
 ですから、出すぎた真似だとは分かっていても、私がこうしてお願いに参りました」
「でも、篠山のお母さんは、それが嘘だと分かってしまいますよ」
「たとえそうでも、一瞬だけでもキョウカ様が幸せなところをお見せしたいのです」

 それがサユリの本心であることは、ひしひしとシンジにも伝わってきていた。だが、それでも嘘を吐くことがいいことなのか、シンジも判断することが出来なかった。いくら意識が朦朧としていても、シズカならばそれが嘘だとすぐに気づくことだろう。それでも本当に喜んでくれるのか、キョウカとユキタカが自分に頼まなかったことも含め、どう答えていいのか分からなかったのだ。
 ずっと床に手をついたままのサユリを前に、シンジはいつまでも答を出すことは出来なかった。「分かりました」と答えることも、「お断りします」と答えることも、どちらがいいのか判断がつかないのだ。結局、シンジとサユリの間には、重苦しい沈黙だけが横たわることになった。

「先輩、私は嘘でも良いと思いますよ」

 その沈黙を破ったのは、それまで黙って話を聞いていたアサミだった。

「嘘を吐くことで、キョウカさんのお母様の夢を叶えてあげられるのですよね。
 嘘だと分かっていても、夢に見たことを実現して貰えるのはうれしいものだと思います。
 だったら、あまり難しく考えなくても良いんじゃありませんか。
 1日ぐらいだったら、先輩のことをキョウカさんに貸してあげても良いんですよ」
「堀北さん……ありがとうございます」

 意外な助け舟に、サユリはしっかり驚いていた。アサミの同席を許したのも、説得が二度手間になるのを避けるためだった。アサミには、一番反対されると思っていた。

「でも、本当に1日だけですよ。
 ちょうど明日は日曜日だから、ずっと一緒にいてあげられますよね?
 その日一日のことなら、何をしても大目に見てあげます。
 ただし、変な書類にサインしたりしないでくださいね」

 アサミはそう言ったのだが、それでも本当に良いことなのかシンジには分からなかった。
 そんなシンジに、アサミは「考えすぎてはいけません」と繰り返した。

「ここは、綾部さんの顔を立ててあげても良いんじゃありませんか?
 キョウカさんも、篠山のおじさまも、本当は先輩にお願いしたいんだと思います。
 でも、それをするわけにはいかないと、私のことも考えて遠慮されているんだと思います。
 それに、キョウカさんのお母様は、今の先輩を皆さんの記憶に残してくださいますよ」

 アサミの言ったすべてを、サユリは理解できたわけでは無い。それでも気づいたのは、アサミの言葉に不自然な物が含まれていたことだ。
 だがサユリその意味を聞く前に、シンジが重い口を開いてくれた。結局アサミの言葉が、シンジを動かしたことになる。

「分かりました、綾部さん手引きをお願いします」
「ありがとうございます。
 本当にありがとうございます!」

 その時サユリが流した涙が、果たして本物の涙かどうか、シンジには区別することは出来なかった。だが、それでも良いと考えたのも確かだった。誰に対しても未来を約束できない自分なのだから、せめて今だけでも人の役に立ってあげてもいいのだろう。結局、自分に出来ることなど、悲しくなるほど何も無かったのだ。

 何度も頭を下げて、サユリは碇家から去って行った。その後ろ姿を見送ったシンジは、「本当に良かったのかな」と小さく呟いた。引き受けることは決めたが、それでも本当に良いことなのかが分からなかったのだ。

「どこまでキョウカさんのお母様の意識がしっかりしているのか分かりませんけど。
 きっと、先輩や皆さんの思いやりだと分かってくれると思います。
 難しいことを考えないで、今はそれで良いと思いませんか?」
「そうなのか……そうなんだろうね」

 それが善意から成り立っているのが分かっているのに、なぜ消極的になってしまうのか。その理由を考えた時、問題はシズカでは無く自分にあることに気がついた。シズカが消えることは、シズカの死として誰もが認識してくれる。だが自分の消滅は、単なる記憶喪失として扱われることになる。その違いが、シンジの中でわだかまりとして残っていたのだ。
 後の影響を考えた時、真実を公開するのは問題が大きすぎるのだ。だから、自分に存在に何が起きたのかは隠されることになる。その結果、事実を知る者は両手に余るぐらいだろう。同じように運命の日が間近に迫っているのに、自分は誰にも知られず消えていくことになるのだ。口にこそ出していないが、それがどうしようも無く理不尽だと感じていた。

 そんなことを考えていたシンジの手を、アサミはぎゅっと握りしめた。

「先輩、私だけじゃ駄目ですか?」
「アサミ……ちゃん?」

 自分の考えが読まれていたのか。それにどきりとしたシンジに、アサミはもう一度「私だけじゃ駄目ですか?」と繰り返した。

「私は、絶対に先輩のことを忘れません。
 それでも足りないというのなら、先輩のしたいようにしてくれもいいんです。
 一緒に死んで欲しいと言うのだったら、喜んで一緒に逝きますよ」
「僕は、そんなことを望んではいないよ……
 むしろ、さっさと忘れて、新しい恋に生きて欲しいぐらいだ……
 アサミちゃんは、ただ僕が生きていたことを覚えてくれていれば良いんだ……
 あれっ、矛盾したことを言っているかな?」

 う〜むと考えたシンジに、「絶対に忘れません」とアサミは答えた。

「私が、先輩のことを忘れるはずがありませんよ。
 元通りと言うのは難しくても、絶対に今の思い、記憶を取り戻して見せますから。
 もしもそれが出来たら、もう一度私と恋をしませんか?」
「そうだね、アサミちゃんとだったら、何度でも恋をしたいと思っているよ……」

 ああ、本当にそれが叶うことがあるのだろうか。とても素敵だと思いながら、あり得ないだろうとシンジは諦めに似たものを感じていた。そして諦めるのと同時に、縛ってはいけないのだとも考えていた。自分が消えてしまった後は、本当の自分が好きにすれば良いことなのだ。その自分とアサミがどのような関係を構築しようが、それは残された者達の自由としか言いようが無かった。
 自分の生きた足跡を残すことも、本当に意味があるのか分からなくなり始めていたのだ。



 その翌日、空はあいにくの雨模様となっていた。12月ともなれば、気候の狂った今でも肌寒さを感じることが出来る。少し厚着をして、シンジは鷹栖総合病院へと歩いて行った。これからのことを考えると、アサミと一緒にいくわけにはいかなかった。
 吐く息が少し白く感じるのは、それだけ気温が下がっているからか。あいにくの天気に、街も人通りが少なくなっていた。さすがにシンジの周りも落ち着いたので、追いかけてくるカメラマンの姿はどこにも見られなかった。

「気持ちを表したような天気だな……」

 今の自分の気持ちに、この雨模様の天気は似合っている。黒い大きなジャンプ傘を差して歩きながら、シンジは晴れることの無い自分の気持ちを考えた。後藤の話を聞いて以来、うれしいと思えたことはあったが、楽しいと感じたことは一度も無かった。大好きでたまらないはずのアサミと居ても、今では胸の痛みを感じるようになっていた。

「これ以上何を失えば心は許されるの。
 どれほどの痛みならばもういちど君に会える……」

 昔はやった歌を口ずさみながら、シンジは人通りの少ない道を歩いて行った。シンジが居ることが自然となったのか、特に騒がれることも無くなっていた。

「命が繰り返すのなら何度でも君のもとへ
 欲しいものなど、もう何もない
 君のほかに大切なものなど……」

 ああ、これが自分に課せられた罰なのだろうか。世界を一度壊した自分に、幸せになる資格など無いのだ。感じた苦しみが大きいほど、絶望が深ければ深いほど、自分は罪を償うことになるのだろうか。大好きなアサミが、自分と同じ顔をした別人に愛される。どんなにアサミが頑張っても、今の自分は二度と現れることは無い。それを考えると、心が引き裂かれるような痛みを感じてしまう。
 ただ、泣いたところで何かが解決するわけでは無い。それに泣いたぐらいで癒やされるような、簡単な問題でも無かったのだ。だからシンジは、凍り付いた顔で冬の街を歩いて行った。

 15分ほど歩いたところで、シンジは鷹栖総合病院の入り口へとたどり着いた。休日の昼間と言うこともあり、正面の入り口は閉まり、開いているのは緊急外来の入り口だけだった。しっとりと濡れた傘を畳み、入り口の傘立てへと無造作に突っ込んだ。
 そしてシンジは、扉を押して入ったところで紺のスーツを着たサユリに会った。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」

 時計を見たら、一応約束の時間ぎりぎりだった。遅れては居ないが、とても微妙な時間と言うことも出来るだろう。それを謝ったシンジに、「とんでもありません」とサユリは頭を下げた。

「本日は、お忙しいところを無理をお願いして申し訳ありませんでした。
 お着替えの準備が出来ておりますので、ご案内させていただきます」
「よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げたシンジを、「こちらです」とサユリは先に立って案内した。以前通ったこともある、篠山家の特別室へ通じる道だった。

「今日の具合はどうなんですか?」
「ここ数日の中では、良い方としか申し上げられません。
 ただ、意識だけははっきりとされていらっしゃいます」
「そうですか」

 天気の具合もあるのか、以前通った時に比べて、何もかもが薄暗く感じてしまった。まるで自分の心と同じだと考えながら、シンジは特別室から少し離れた部屋に案内された。

「和装と洋装の両方を用意しています。
 申し訳ありませんが、途中で一度着替えていただくことになります」

 案内された部屋は、まるで楽屋のようにいろいろなものが置かれていた。そしてそこに居た全員が、シンジの顔を見て早速準備に取りかかってくれた。

「では、後ほどお迎えに参ります」

 丁寧に頭を下げて、サユリはシンジの控え室を出て行った。結婚式とはこんな事をするのか、少しだけシンジは新鮮な気持ちになっていた。
 どんな時代でも、男に身支度などさほど時間が掛かる物では無い。紋付き羽織袴を着せられたシンジは、髪型を整え、軽い化粧をしてから待たされることになった。その間、シンジは何も考えず、ただぼうっと意識を発散させていた。

 それからどれくらい経ったのだろうか、「碇さん」と言うサユリの声に、シンジは現実世界へと復帰した。

「キョウカ様の用意が出来ました。
 申し訳ありませんが、私と一緒に来ていただけないでしょうか?」
「付いていけば良いんですね」

 少し緩慢な動作で立ち上がったシンジは、先導するサユリの後を付いていった。そして見慣れたドアの前で、「少しお待ちを」とサユリに押しとどめられた。

「すぐに、キョウカ様がお見えになります」

 そう言ってサユリが頭を下げたタイミングで、別の部屋の扉が開いた。そこから病院らしからぬ、そしてある意味病院らしい、白ずくめの着物を着たキョウカが現れた。S高に入学以来磨き続けた甲斐があってか、どこに出しても恥ずかしくない、とても美しい花嫁姿になっていた。

「……先輩、俺は」

 シンジを見つけたキョウカは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。だが花嫁衣装に、悲しい涙は似合わない。「我慢しろ」とキョウカに命令して、「今日は任せておけ」とシンジはすべてを受け止めると告げた。

「お母さんに、お前の綺麗なところを見せるんだろう?
 だから、そんな悲しそうな顔をするんじゃない。
 いいか、今日のことは全部僕に任せろ」

 一度鼻水をすすったキョウカは、「はい」と珍しく女らしい返事をした。

「じゃあ、付いてくるんだぞ」

 そう言って、シンジはシズカの居る病室のドアを開いた。

 これが盛大なドッキリだったらどれだけ良かったのだろう。ドアを開いた所に居るのが、すっかり元気を取り戻したシズカだったら、怒るのよりも先に、きっと自分も喜んでいたに違いない。してやったりと言う顔で、ユキタカが婚姻届を用意していたら、きっと笑いながら破り捨ててあげただろう。
 だが現実は、とても残酷で、とても寂しいものだった。結婚式につきものの、華やかな飾りや人の集まりはどこにも見つけられない。広い病室の中で華やかなのは、花瓶に活けられた質素な花達だけだった。そしてベッドに横たわっていたのは、以前会った時の面影もない、すっかり痩せ細ったシズカだった。顔色も、どす黒さと不気味な黄が混ざり合ったような色だった。

「母様、碇先輩だぞ」
「キョウカ、もう碇先輩は無いだろう?
 そうですよね、お母さん」

 シンジの問いかけに、シズカはとても小さな声で「そうですね」と答えた。

「でも、名前で呼ぶのは恥ずかしいわよね」
「ああ、顔から火が出るのかと思うほど恥ずかしいぞ」
「それでもキョウカ、今日からは僕の呼び方を変えるんだよ」

 いいかいと優しい顔をしたシンジに、キョウカはすっかり顔を赤くしてうんと頷いた。そんな娘の様子に目を細めたシズカは、「綺麗ですね」と隣に居たユキタカに聞いた。

「ああ、三国一、世界一の花嫁だよ。
 さすがは、お前の娘だけのことはある」
「あら、あなたの娘でも有るんですよ。
 でも、碇さんはとっても立派だわ。
 私と結婚した時のユキタカさんより、ずっと立派に見えるわ」
「まだまだ、僕は若造ですよ。
 これからも、お父さん、お母さんに色々と教えてもらわないといけません」

 教えて下さいねと言うシンジに、シズカは微笑みながら、小さな声で「そうですね」と答えた。

「嬉しいわ、碇さんに「お母さん」と呼んでもらえて。
 キョウカさんにお話を聞いてから、ずっと「お母さん」って呼んでもらえるのを夢見ていたの。
 ひょっとしたら、キョウカさんより私の方が碇さんに夢中だったのかもしれないわね。
 ねえ碇さん、最後に一つだけお願いをしていいかしら?」
「一つだなんて遠慮しなくていいんですよ。
 それに、まだまだ最後なんかじゃありませんからね。
 それで、お願いと言うのはなんですか?」

 そう聞いたシンジに、シズカはすぐにはお願いを口にしなかった。そしてその代わりに、ユキタカに向かって「起こしてください」とお願いした。

「起こせばいいんだな?」

 リモコンを使って、ゆっくりとシズカの寝ているベッドの頭の部分を持ち上げた。そしてある程度まで持ち上げた所で、後は直接抱えるようにしてユキタカは妻の体を起こしてあげた。

「ありがとうあなた。
 でも、ちょっとだけ向こうを向いていてくれないかしら?」
「俺に見られたら、まずいことをするのか?」

 ほんの僅かだけ口元を歪めたユキタカは、妻から離れてゆっくり背を向けた。それを目だけで確認したシズカは、シンジに向かってささやかなお願いをした。

「抱きしめて、「お母さん」って呼んでくれないかしら?」
「それで、いいんですね」

 立っていると難しいので、シンジは部屋の隅に会った丸椅子を持ってきた。それに腰を下ろすと、ちょうどシズカを抱きしめるのにいい高さになってくれた。

「お母さん、これでいいですか?」

 壊れ物に触れるように、シンジはゆっくりとシズカの体を抱きしめた。そして耳元で、お願いされたとおり「お母さん」と呼びかけた。抱きしめたシズカの体は、とても小さく、とても冷たく、そして骨ばっていた。

「もっと、お母さんって呼んでくれないかしら?」
「お母さん、お母さん……お母さん。
 どこか痛いところとか苦しいところはありませんか?
 もっとして欲しいことが有ったら言ってくださいね、お母さん」

 優しく抱きしめながら、シンジはゆっくりとシズカの背中を叩いた。そしてシズカが願ったとおり、「お母さん」と何度も呼びつづけた。

「キョウカもおいで」

 そうやってシズカに「お母さん」と呼びかけながら、シンジはキョウカにも来るようにと呼んだ。そしてシンジに呼ばれたキョウカは、自分もシズカの体に手を回し、「母様」と呼びかけた。

「ああ、なんて幸せなんでしょう。
 いろんな夢が、いっぺんに叶ってしまったわ。
 ここまで、頑張って生きてきた甲斐があったわね」

 嬉しそうに目を細めたシズカは、「ああ」と感嘆の言葉を漏らした。

「キョウカさんの赤ちゃんを抱いてあげたかったのだけど……
 でも、その代わり絶対に叶わないと思っていた夢を神様が叶えてくれた。
 ああ、もう、何も思い残すことは無いわね」
「あと1年頑張れば、赤ちゃんを抱くこともできますよ。
 お母さん、1年なんてあっと言う間ですよ」
「そうね、元気な頃には1年なんて、ほんと、あっと言う間の時間だったわね。
 でも、今の私には、とても遠くて、どうにもならない時間なのよ」

 だからこれで十分。シズカがそう答えた時、サユリが慌てて病室に飛び込んできた。普段に無い慌てぶりは、それだけで何かがあったのを感じさせるものだった。

「申し訳ありません。
 碇さんに、緊急呼び出しが掛かりました」

 ああ、どうしてこんな時にギガンテスは襲ってくるのか。こちらの都合が何の意味も持たないことは分かっていても、どうしても理不尽さが先に立ってくれた。だがパイロットになった以上、力の限り戦う義務をシンジは負っていた。

「お母さん、無粋な奴らが襲ってきたようです。
 すぐに倒して戻ってきますから、それまで待っていてくださいね」
「だからと言って、あまり無理をしないでくださいね。
 碇さんが怪我をしたら、私がキョウカさんに怒られてしまいます。
 でも、頑張ってきてくださいね」
「はい、頑張って敵を倒してきますよ」

 そう言ってシズカから離れたシンジは、キョウカに向かって「お母さんと一緒にいろ」と命令した。

「必ずすぐに戻ってくるから、お前はお母さんと一緒にいて僕の戦いを見ていろ。
 お前の旦那は、世界一だと言うところをこれから見せてやる!」
「はい、お早い帰りをお待ちしている、います……」

 緊急招集が掛かった以上、いつまでも名残を惜しんでいる訳にはいかない。「行ってきます」と頭を下げて、シンジはシズカの病室を出て行った。そこに見慣れぬ女性が居たのは、おそらく自衛隊関係者なのだろう。

 シンジの姿を見送ったシズカは、小さな声で「ありがとう」とサユリに言った。

「あなたのお陰で、夢が叶いましたよ。
 サユリさん、本当にありがとうね」
「いえ、私は当然のことをしたまでです」
「それでも、とっても嬉しかったんですよ……
 こんなすてきな気持ちで死ねるのなんて、私は本当に幸せものなのね。
 ねえ、あなた」

 そう呼びかけてきた妻に、「まだまだだ」とユキタカは答えた。

「もっともっと、すてきなことは沢山あるんだぞ。
 それを、俺はもっとお前に見せてやるつもりなんだ」
「でも、私にはもう力は残っていませんよ。
 不思議なことですけど、もうお迎えがそこまで来ているのが分かるんです。
 こんな幸せな目にあったんだから、もういいだろうってことなんでしょうね」

 「だから」と、シズカは夫に向かって「ありがとう」とお礼を言った。

「私は、本当に幸せな人生を送れたと思っていますよ。
 それは全部、あなたのお陰だと思っているんです。
 ええっと、最近は碇さんのおかげのところもありますね」

 寂しそうにしていた娘が、高校に入ってからは見違えるように元気になったのだ。そして家に帰ってきたら、毎日のように憧れの人の話をするようになった。優しい先輩に、好きな人を取り合えるライバル。勝ち目が無いのが少し残念だけど、それでも夢の様な時間には違いなかった。

「ああっ、本当に夢の様な人生だったわ……
 ねえあなた、本当に最後のお願いをしていいかしら?」
「最初のお願いだろう?
 最後というには、まだまだ時間は沢山あるよ」

 優しく微笑んだユキタカに、シズカは「起こしてくださいね」とお願いをした。

「どうしても、碇さんが戦っているところを見てみたいんです。
 だからあなた、もしも私が寝ていたら、その時は起こしてくださいね」
「ああ、それぐらいならお安いご用だ。
 シズカ、彼は凄いぞぉ!」
「ええ、私達の新しい息子ですからね」

 そう言って弱々しく笑ったシズカは、「疲れました」とユキタカに告げた。

「これからしばらく眠りますけど、絶対に起こしてくださいね。
 それからキョウカさん、あなたも私と一緒にテレビで応援しましょうね」
「ああ、母様。
 碇先輩は、とっても凄い人なんだぞ!
 俺が、どう凄いか母様に教えてやるからな!」
「それは楽しみですね……」

 そう答えたシズカは、そのままゆっくりと目を閉じた。胸元が大きく上下しているところを見ると、本当に疲れて眠ってしまったようだ。医者が飛び込んでこない以上、大きな変化も無いのだろう。
 そんな妻の様子をじっと見ていたユキタカは、少し小さく深呼吸をしてから「キョウカ」と娘に呼びかけた。

「なんだ、いえ、何でしょうお父様」
「別に言葉遣なんかはどうでも良い。
 お前は、なにかやりたいことは無いのか?
 やりたいことがあるのだったら、俺がすべてを許してやる。
 篠山の跡取り娘などと言う立場を忘れて、やりたいことをやってみろ」

 それは、キョウカにとってとても難しい話には違いない。生まれて今までかごの中で生きたことしか無い小鳥に、外に出て自由に飛び回ってみろと言うことなのだ。親の庇護が及ばない世界に出るには、キョウカはまだひ弱な子供でしか無い。自立の必要が無い篠山の娘に、本来あり得ないユキタカの言葉だった。

「やりたいことと言っても……」

 本当なら、いろいろとやってみたいことがあるはずだった。だが篠山の娘と生まれたキョウカには、すぐにやりたいことなど思い浮かぶはずが無かった。正確には一つあったのだが、絶対に駄目だと反対されたものだった。母がこうなった以上、自分には責任があるのだとキョウカも考えるようになっていた。

「父様、特にやりたいことは無いな」
「そうか、やりたいことは無いのか……」

 そうかと言うユキタカの小さな声の後、二人の間で会話がなされることは無かった。



 知らない自衛隊員に付き添われ、シンジは紋付き羽織袴姿で病院の屋上に来ていた。緊急事態なので、着替えている暇もなかったのだ。なぜ屋上かというと、そこに来れば緊急搬送用のヘリポートが利用することが出来るからである。上空を見ると、接近してくる自衛隊のヘリコプターを見つけることが出来た。

「ええっと、ギガンテスの情報は入っていますか?」
「卜部と言います。
 申し訳ありません、現在情報が錯綜しているため確認を急いでいます」

 その答えに、シンジは一瞬軽い違和感を覚えた。これまでの戦いで、情報が錯綜するようなことは一度もなかったのだ。今度も何か新しいことが起きているのか、卜部の言葉に不吉なものを感じたのである。
 だが分からない相手に事情を聞いても、何も得るものはない。頭を切り替えたシンジは、降りてきた移動用のヘリコプターに飛び乗った。たとえどんなイレギュラーがあっても、大好きな人達のいるこの世界だけは絶対に守ってみせる。悲壮とも思えるその思いは、胸の中で高まっていたのだ。



***



 同じ思いを共有したからか、さもなければ朝食に招待したことが良かったのか、最近のシンゴからは少しだけ肩の力が抜けたように見えた。だからと言って、いきなりスーパーマンになれるはずもないし、ぶっちぎりの優等生に化けるはずもない。ただほんの心持ち、自分との距離が近づいたのかなとだけ思えるようになっていた。だからと言って、恋人になるのは別のことだった。それでも、シンゴはアイリにとって一番親しい異性の友達になっていた。

 そして12月の第二日曜日、クリスマス色に染まった街で、アイリはサクノと一緒に喫茶店にいた。お出かけの目的は、クリスマスパーティーで交換するプレゼントの下見。椋梨ハヤタが、奥手の友人のために焼いたお節介が理由となっていた。

「アイリさんは、誰かにプレゼントをあげたことがあります?」

 待ち合わせてすぐ、二人は小さな喫茶店に入ることにした。これから何をするにしても、とりあえず甘いものを補給しておこうとサクノが提案したからである。そこでホットチョコレートをずずっとすすりながら、サクノはかなりきわどい質問をぶつけてきた。
 ただ、あげたことがないような聞き方に、それはないだろうとアイリは文句を言った。

「サクノちゃん、なにか、私のことを寂しい女だと思っていない?」
「でも、碇さんにあげたことはないんですよね?」

 時期的なものを考えると、二人が付き合っていた時期とクリスマスは重なっていない。その事実を突きつけたサクノに、アイリは「あのね」と少し不満気に紅茶を啜った。

「その言い方だと、私は他に男の子と付き合ったことがないみたいに聞こえるわよ」
「付き合ったことがあるんですか……」

 へえっと感心したサクノに、「当然でしょ」とアイリは少しだけ目元を痙攣させた。実のところ、シンジと付き合うまで、誰とも付き合った経験が無かったのだ。そのせいで、シンジとの距離をうまく測れなかったところがあった。
 もっとも、そんな事情をサクノが知るよしも無い。だからとても素直に、アイリの経験を聞いてきた。

「それで、その時はどんなものをあげたんですか?
 私、兄さんにしかあげたことがないから、参考にしたいの」
「ま、まあ、今となったら特別なものじゃないわね」

 今更無いとも言えないので、アイリは記憶をずんと遡ることにした。だがその努力は、幼稚園まで遡った所で諦めることにした。そこまで遡れば、さすがにプレゼントをあげた実績を見つけることが出来る。だがあげたものが、安物のおもちゃでは、答えとして恥ずかしすぎるのだ。
 だからアイリは、相手がシンジだったらと考えることにした。ギガンテスが襲ってこなくて、ゆっくりゆっくり付き合うことになっていたら、今頃二人でプレゼントを選んでいたことだろう。

「それで?」
「特に変わったことのない写真立てだけど?
 携帯でも写真は見られるけど、部屋の中に私の写真があるのもいいでしょう?」
「なるほど、そうやって自分が彼女だというのを主張するのですね」

 ふんふんと頷いたサクノは、本来の目的へと立ち返ることにした。今日待ち合わせたのは、クリスマスパーティーで交換するプレゼントを見繕うためなのだ。恋人相手ではないのだが、じっくりと選ぶつもりで居たのである。

「ではアイリさん、アイリさんは何をプレゼントにするんですか?」
「それを、ここで教えたら面白く無いでしょう?」

 誰のを、そして何を貰うのかわからないからこそ、貰った時のサプライズが有る。そのためには、何が入っているのか教えない方がいいのだ。
 そんなアイリに正論に、「確かにそうです」と大人しくサクノは引き下がった。そしてアイリの顔をチラチラと見ながら、ずずっとホットチョコレートをすすってくれた。

「なに、私の顔に何かついてる?」
「いえ、そう言うわけではないのですが……」

 そう言って、サクノはもう一度ホットチョコレートをずずっとすすった。

「なに、瓜生君のこと?」
「いえ、兄はまだまだだと思っていますから」
「じゃあ……碇君のこと?」

 自分に興味を持つとしたら、優しい兄のことか、世界の有名人のことしか無い。何か聞きたげなサクノの様子に、アイリはシンジのことかと予想した。どうも瓜生兄妹にとって、シンジと言う存在は避けては通れないものらしい。

「いえ、その、そのことは聞いてはいけないと思っていますから……」
「別に、それなりに時間も経ったから大丈夫なんだけど?」

 「それで」と先を促したアイリに、サクノは一瞬口を開きかけ、すぐに黙ってしまった。

「私が、どうして碇君と付き合うことになったのか、とか?」

 自分が聞きたいことを予想したアイリに、サクノは少し違うのだと遠慮がちに言った。

「少し違うの?」

 今をときめく世界の英雄と普通の女の子。そんな二人がどうして付き合うことになったのか、てっきりそのことを聞かれるのだと思っていた。だから「少し違う」と言うサクノの言葉に、アイリは少し驚いた。
 そんなアイリに、「少し違うんです」とサクノは繰り返した。そこで覚悟が決まったのか、付き合うことではなく、別れたことだとサクノはアイリに言った。

「どうして、碇さんと別れたんですか?
 この前、私が振ったことになってるっておっしゃいました。
 つまり、アイリさんが振られたと言うことになるんですよね?
 堀北さんに乗り換えたから、アイリさんは振られたと言うことなんですか?」
「随分と、答え難いことを聞いてくれるのね」

 はっきり苦笑を浮かべたアイリに、「ごめんなさい」とサクノは謝った。そんなサクノに、「別に構わないわ」とアイリは素っ気なく言った。そして、自分が何を考えたのかを話し始めた。

「きっかけは、ママが引っ越すって言い出したことね。
 その時は下宿していたから、別に私まで引っ越さなくてもいいだろうと反対したのよ。
 でも、それじゃ意味が無いってママが譲らなかったの。
 詳しい理由までは教えてくれなかったけど、ママにはママなりの理由があったんだと思う。
 だから、ママにくっついて、ここに引っ越してきたのよ。
 引っ越すと分かった時、近くにいられないんだと思ったら、何か急に怖くなったのよ。
 どうして、私たちは付き合っているんだろうって疑問にも思ったわ。
 碇君の周りには、とっても素敵な人が沢山いるのよ。
 堀北さんもそうだし、遠野先輩、鳴沢先輩もとても素敵な人よ。
 それに、篠山さんって1年の子も、碇君に出会ってからとても綺麗になったの。
 そしてね、その4人は全員が碇君のことを大好きだったのよ。
 それなのに、どうして私なんだろうって……
 ちょうど海外合宿に行く時だったんだけど、その合宿もパイロットが理由になっていたの。
 色々と事情も教えてくれたんだけど、向こうから来て欲しいと頼まれたんだって。
 なんの取り柄もない私が、そんな凄い人と付き合っていていいのかなって。
 ねえサクノちゃん、碇くんとキスしたこともないって言ったら信じられる?」
「アイリさんを見ていたら、信じられるような気もします……」

 その答えに、アイリは「なんでよ」と少しへそを曲げた。ただ自分が言い出したことだと、話を進めることにした。

「付き合い始める少し前だったかなぁ、
 夜に送ってもらった時、部屋に上がってかないかって誘ったことも有るのよ。
 もちろん、夜に部屋に上げる意味は理解しているわよ。
 でも、せっかく勇気を振り絞ったのに、それは良くないって断られたわ。
 こんな夜遅くに、自分が上がるのは私のためにならないって。
 確かに、あの日碇君が上がっていったら、ママに通報されていたわ。
 すっごく碇君って冷静だから、周りのことが見えすぎちゃんだろうね。
 それから付き合い始めてからでも、私の部屋に上がってくれたことはなかったわね。
 レイちゃんがいるから、碇君の家には何度も行ったことが有るのよ。
 碇君の部屋も、何度も見せてもらったことが有るわ。
 でもね、碇君は私に何もしてくれなかった……
 腕を組んで歩いたのも、高知の日の時だけだった。
 本当に、品行方正を絵に描いたようなお付き合いだったわね。
 ただ、あの頃は、別に急ぐ必要も無いと思っていたんだけどね。
 それに、そんな関係も心地良いって思っていたのも確かだし」

 少し自嘲気味に口にしたアイリは、「なんでかなぁ」と寂しそうに言った。

「すっごく大好きで、今でも碇君のことを好きなんだと思う。
 抱かれていたら、きっと今でもメールとか送って必死になって繋がっていたと思う。
 今でも覚えているんだけど、初めて会った時の碇君って、とっても頼りない男の子だったのよ。
 背だって今のサクノちゃんより少し高いぐらいだし、運動なんて全くダメダメだったわね。
 その碇君がジャージ部の先輩達に連行されて、それからクラス委員に立候補して……
 碇君と話すようになったのは、ちょうどその頃ぐらいなのかな?
 ほら、自分で言うのもなんだけど、私ってかなりきつい性格をしているでしょう?
 だから碇君、私に対しておっかなびっくり接してきたのよ。
 そうだなぁ、ちょっと前の瓜生君をもっと情けなくした感じかしら。
 そんなだったから、私も結構厳しく当たったこともあったしね……
 たぶん、私は“天敵”だって思われていたんじゃないのかな?
 でもね、そんな頼りのない碇君が、みるみるうちに変わっていったの。
 背も高くなって、運動部で鍛えられてたくましくなって、成績もぐんぐん良くなったわ。
 私がきつく言っても、優しく受け止めてくれるようになって……
 綺麗だねって言われた時には、頭に血が上って何も考えられ無くなったりした。
 それから碇君の妹さんが入学してきて、部活の後輩になったの。
 ちょうどサクノちゃんみたいに、碇君と私をくっつけようと色々としてくれたのよ。
 でもね、堀北さんも一緒だったから、勝ち目がないなぁって思っていたわ。
 堀北さんってね、テレビで見るよりもずっと綺麗なのよ。
 女の子の私でも、綺麗だなぁって見とれちゃうぐらいだもの。
 そんな堀北さんが、いつも碇君のそばに居たのよ」
「でも、碇さんはアイリさんとお付き合いをしたんですよね?」
「でも、抱いてくれるどころかキスもしてくれなかった……
 結局、彼女というより、仲のいいお友達って言うのが私たちの関係だったわね。
 そう言う意味では、私達って恋人と言う意味では相性が悪かったのかもしれない。
 しかも碇君は、高知の奇跡を演じた英雄なのよ」

 そこで言葉を切ったアイリは、冷めた紅茶をすすって「怖くなった」と打ち明けた。

「絶対に、碇君と私じゃ釣り合わないもの。
 さっきも言ったけど、海外は相手に頼まれて行くことになったのよ。
 ママに引越しのことを言われた時、やっぱり無理なんだなって気づいたのよ。
 だから携帯電話も解約して、すっぱりと忘れるつもりだったんだけど……
 やっぱり忘れられなくて、レイちゃんに手紙を書いたり、公衆電話から電話をしたりした。
 前の日に堀北さんに会ったんだけど、お別れしたくないって泣いちゃったわね。
 結局、私が碇君についていけなくなったのが別れた理由なのよ」
「今でも、碇さんのことが好きなんですか?」
「嫌われる理由はあっても、嫌いになる理由なんてどこにもないもの。
 でも、憧れと好きと言うのが区別できなくなっていると思うわ。
 それに、堀北さんとくっついちゃったから、もう手遅れだしね」

 ふっと笑ったアイリに、「あの」とサクノはシンゴのことを持ちだした。

「兄は、碇さんの代わりになれるのでしょうか?」
「絶対に無理だと思う。
 碇君の代わりだなんて、絶対に誰もなれないから」

 はっきり言い切られて、サクノは失望を顔に出していた。そんなサクノに、アイリは「でもね」と言葉を続けた。

「でもねサクノちゃん、私は碇君の代わりなんて求めてないのよ。
 ただ今は、恋のリハビリをしている所かな?
 それぐらい、強烈な人と付き合っていたと思ってくれる」

 まだまだねと笑った時、アイリは店内に微妙な空気が流れているのに気がついた。まさか自分達の話が聞かれたのかと身構えたのだが、「テレビテレビ」と言う声に、関係ないと安堵した。
 ただテレビに得るような何かがあるのか、それを確かめるために、アイリは慌てているウエイトレスを捕まえた。

「それが、何か海がおかしいって騒ぎが起きているのよ。
 だからテレビを付けてみたんだけど、テレビじゃ何も言っていないし……
 バケモノだったら、すぐにテレビで教えてくれるでしょう?」
「海がおかしいんですか?」
「何か変な音が聞こえるし、魚が全く居なくなったらしいのよ。
 何か起こるんじゃないのかって、みんなざわめいているんだけど……」

 おかしいわねとウエイトレスの女性が首を傾げた時、突然テレビの画面が切り替わった。緊張した面持ちのアナウンサーが画面に現れ、少し上ずった声で「非常事態が発生しました」と声を上げた。

『ただいま、ギガンテスの発生が発表されました。
 襲撃予想地点は北海道南東部、襲撃予想数は現時点でも正確に把握されていません。
 かつて無い大規模襲撃になることだけは確かだと言うことです。
 待ってください、襲撃予想時刻が発表されましたっ!
 い、今から、4時間後の14時に、北海道南東部M市を中心とした地域に上陸すると見られています。
 襲撃数は、に、20以上、信じられないほどの大規模襲撃になるとのことです。
 政府より、北海道南東部全域に避難命令が発令されました。
 みなさん、とにかく逃げてください!
 繰り返します、少しでも避難該当区域から脱出してください!
 ぞ、続報が入りました、現時点で40以上のギガンテスが確認されています。
 襲撃規模は、今後更に膨れ上がるとの情報が出ています!』

 すでに、過去最大の襲撃規模の4倍に届こうとしている。しかもそれが、確認された分だけだと言うのだ。最終的に、襲撃規模が一体どれだけのものとなるのだろうか。
 高知もニューヨークも、そして先のジャクソンビルも、今回の襲撃規模には全く及ばない。これまで人類が経験したこともない、未曾有の大規模襲撃であることは間違いなかった。これだけの数になると、3基地が合同してあたっても、とても撃破できるとは思えなかった。
 しかも襲撃予想時間が4時間後となると、カサブランカどころかサンディエゴ基地からでも絶対に間に合わない。最低でもサンディエゴ基地の合流を待つとなると、2時間以上ギガンテスの蹂躙を許すことになる。

 避難しろとテレビで叫んでいるが、狭い喫茶店の店内では、誰も動くことができなくなっていた。ギガンテスの恐ろしさは、これまで散々教えられてきたことだった。そして数々の悲劇も、テレビで見せられていた。その恐怖に対して、ようやく人類は対抗手段を手に入れることができたと思っていた。だがその対抗手段を持ってしても、40以上のギガンテスを倒すことは出来るはずがないのだ。
 直感的にそれを感じた人々は、逃げると言う行動をとることができなくなってしまった。これから4時間という短い時間では、大した距離を逃げることは出来ない。空路も海路も、輸送能力はたかが知れていたのだ。そして内陸に逃げるとしても、一体どこに逃げればいいのか。誰も、その答を出すことは出来なかったのだ。それは、テレビで事情を知ったアイリも同じだった。

「サクノちゃん、瓜生君は家にいるの?」
「午後には、出かけるようなことを言っていましたけど……」
「電話は……通じるわけ無いか」

 居場所を確認しようとしたアイリだったが、携帯の画面には「規制中」の表示が出ていた。全員が一斉に電話をかけようとしたので、きっと回線がパンクしているのだろう。

「ねえサクノちゃん、サクノちゃんはどこに行きたい?」

 本当ならば、逃げようと言うところなのだろう。だが、どう頑張っても逃げられないことをアイリは頭の中で理解していた。だから逃げるのではなく、「どこに行く?」と言う問いかけになったのである。「死ぬのならどこがいい?」とサクノの意思を確認したのである。

「とりあえず、兄の所に戻りたいと思います」
「じゃあ、一緒に行こうか?
 これからなら、お昼ぐらいは一緒に食べられるわね」

 そこが自分の死に場所となるのだろうか。意外に取り乱さないのだなと、アイリは不思議な感覚に囚われていた。数々の奇跡を起こしてきたシンジでも、今度だけは絶対に無理だと感じていた。
 アイリと同じ思いを、誰もが感じていたようだ。意外に落ち着いた店内では、今まで通りの時間が経過していた。新しいお客さんは入ってくるし、出て行くお客さんもちゃんとお金を払って出て行った。「ありがとうございました」と見送る店員の姿も、普段と全く変わらないものだった。

 そんな不思議な平穏さの中、アイリとサクノの二人は喫茶店を出た。お昼を用意するため、帰り道にあるスーパーに寄っていこうと言うのである。最後ぐらいは、ちゃんとしたお昼を作ろう。そんなことを考えながら、二人はぼんやりとスーパーへと向かった。そしてたどり着いたスーパーの店内も、ほとんど普段と変わりがなかった。むしろ、普段より穏やかな空気が流れているようにも感じられた。

「さすがに、12時には閉店になるんですね」
「みんな、家に帰りたいんだと思うわよ」

 食べるのが3人だからと、アイリは男の子の好きそうなものを買い物カゴに入れていった。ただ時間がかかる料理はできないので、簡単に下ごしらえが出来るものに限られていた。

「アイリさんって、料理が得意なんですか?」
「まあ、S高に居た時は、一応料理部の部長なんてしていたからね。
 今でもそうだけど、一人暮らしをしているから、自分で作らないといけないのよ」

 揚げ物メインでいいかと、鳥のもも肉と冷凍食品のポテトやレタスをかごに入れた。

「サクノちゃん、調味料とかは揃っているのよね?」
「一応、うちも自炊で生活していますから……」

 サクノの答えに、「そうよね」とアイリは微笑を返し、真っ赤に熟れたトマトをかごに入れた。ご飯をどうするのか迷ったのだが、炊いている時間が有るのでパックのご飯を買うのはやめにした。

「時間をつぶしてても仕方がないから、早く帰ってお昼の用意をしましょうか?」
「兄さんが出かけてないといいのだけど……」
「出かけていても、きっと帰ってきているわよ」

 他に行く所、行きたいところがなければ、家族の顔を見たいと考えるだろう。だとしたら、シンゴも家に帰ってくるに違いなかった。そして周りを見ても、家に帰ろうとする人が多いように見えた。

「そうですね、兄もきっと家に帰ってくると思います」
「サクノちゃんのご両親は?」

 同じ事を考えると、仕事に行っている親も帰って来るのだろうか。アイリの場合、同じ北海道には居るのだが、もっと東の方に行っていると聞かされていた。知床半島あたりだと、車で飛ばしても間に合わない時間だろう。それに、今更戻ってこられるとも思えなかった。

「今、本土の方に行っていますから。
 だから、どう頑張っても帰ってこられません」
「だとしたら、連絡も取れないからご両親は心配なさってるわね」

 携帯電話を見れば、未だ発信規制中だった。これで、通信という意味でも、完全に外部と遮断されたことになる。得られるのは、テレビやネットからの情報だけになっていた。

「ねえアイリさん」

 少し遠慮がちに声を掛けてきたサクノに、「なに?」とアイリは振り返った。

「いえ、碇さんは助けに来てくれるんでしょうか?」
「今度ばっかりは分からないわね……
 最終的に、ギガンテスは全部やっつけないといけないのは分かっているわ。
 でもさ、今までみたいに被害を出さないで戦うのって不可能じゃない。
 日本の戦力だけじゃどうにもならないから、
 サンディエゴやカサブランカからの応援を待つことになるんでしょうね。
 それから、根気よくギガンテスを倒していくんだと思う。
 そうした方が、結果的に被害を抑えることになると思うから」

 その時に、M市にいる人達が助かるのかは別問題となる。新たな悲劇として語り継がれるだろう襲撃は、北海道を人の住めない場所にするのかもしれない。周りを海に囲まれている以上、逃げ出すには船や飛行機を使うしかないのだ。それにしても、短時間ではたいした人数を運べるものではなかった。

「アイリさん、冷静なんですね?」
「そう言うサクノちゃんだって、全然冷静に見えるわよ。
 まあ、今更じたばたしても駄目だって気持ちになってるからかもしれないわね」

 それでも、少しでも遠くへ逃げようとしている人はいるのだろう。だが周りを見る限り、誰もが平穏な日常を送っているように見えていた。市役所の広報車が回っているのだから、ギガンテスの襲撃を知らないと言うことは無いはずだ。

「とても不思議な気持ちですね。
 もうすぐ死ぬことになるのに、なぜか実感が沸かないというのか」
「たぶんね、そう言う感覚が麻痺しちゃったんだと思うわ」

 時計を見たら、10時30分になっていた。これからシンゴの家に行き、昼食の準備をすれば、きっと12時には食卓を囲むことが出来るだろう。最後の晩餐がザンギと言うのはなんなのだが、仲の良い友だちと一緒にいられるのなら、それも悪くはないとアイリは考えたのだった。



***



 かつて無い大規模襲撃のニュースは、一瞬にして世界を駆け巡ることになった。国連事務総長のシャームナガル宣言から、僅か2ヶ月後に人類は最大の危機を迎えようとしている。Fifth Apostleの襲撃も恐怖だったが、その襲撃にしてもFifth Apostleさえ倒せば数は大したことが無かったのだ。だが今度の襲撃規模は、英雄の存在を持ってしても乗り越えられないとものだと考えられた。
 そしてこの襲撃規模は、サンディエゴ及びカサブランカ基地の判断を変えさせるものだった。今までならば、襲撃が判明した時点で、直ちに必要な出撃措置が採られていたのだ。だが今回に限っては、いずれの基地でも待機命令が発せられた。それは、複数箇所同時侵攻を恐れたものではなかった。

「どうしてです、ギガンテス迎撃の作戦判断は私に権限があるはずです!」

 出撃しようとしたアスカに、サンディエゴ基地司令ルーカス・ゲイツは待機を命令した。アスカの判断が覆されることは、異例としか言いようのない事態だった。だがブリーフィングルームに現れたゲイツは、直々に前パイロットに対して待機を命じたのである。
 そして命令に反発したアスカに、「待機だ」と繰り返して部屋を出て行った。これで、いくらアスカが出撃を主張しても、基地が動かないので日本にたどり着くことはできなくなった。

「出撃しないと、私たちはギガンテスに負けた事になるのよ!」

 後ですべてを殲滅したとしても、一部地域を見捨てた事実を消すことは出来ない。それは、シャームナガルで謳いあげた宣言を帳消しにするだけでなく、再度人類に絶望を突きつけるものとなる。

「だけど、60を超えるギガンテスにどう対抗するのですか?
 分散させて、個別撃破していくしか対処方法はないと思います」
「そのために、どれだけの犠牲者を出すの?
 百万、二百万、それとももっと?
 それだけ犠牲を出して、世界がそのままでいられると思うの?
 世界が、今までのように秩序を保っていられると思うの?
 シンジ様に対する絶対の信頼が無くなった時、私達は立ち直ることが出来ると思うの?」

 ライナスの冷静な意見に、アスカはムキになって言い返した。

「それでも、無謀な戦いをする理由にはならないと思います。
 それだけの犠牲を出したとしても、ギガンテスを倒さなくてはいけないんです。
 ここで無理をしたら、それですら出来なくなるんじゃありませんか?
 そうしたら、その時点で世界は終わってしまうんですよ」

 どちらも、正論を言っていることには違いなかった。ただどちらがより正論かと言われれば、ライナスの言葉の方がより正論なのだろう。それぐらいのことは、出撃を主張しているアスカも分かっていることだった。それでも、敵が襲撃してくるのに、黙ってみているというのは苦痛だったのだ。
 ただ、ここでライナスと言い合いをした所で、何も問題は解決しない。一度ライナスを睨んだアスカだったが、すぐに大きく息を吐きだして「作戦を考えるわよ」と全員に告げた。

「被害を最小限に抑え、かつ確実にギガンテスを倒す方法を考えます。
 パティ、ホッカイドーの地図を出してくれるかしら?」
「地形図の方がいいですね」

 了解と答えたペパーミント・パティは、端末を操作して北海道の地形図を出した。そこに推定上陸地点を重ね、上陸後のギガンテスの動きを考えるのである。今のように密集されると手も足も出ないが、分散してくれれば個別撃破が可能となるのだ。

「山を越えていくのか、さもなければ人の多い地域を進んでいくのか」

 戦うには、後者の方が都合がいいのだが、その分被害が拡大することになる。だが被害に目をつぶってでも、平坦な地形で戦いたいとアスカは思った。そうしないと、足場が悪く、かつ樹木の密集した地域でギガンテスと戦うことになる。ヘラクレスの利点が消されることを考えると、本当に勝てるのかも分からなくなってしまうのだ。

「最悪、山間部での戦いも考慮にいれることにしましょう!
 ゲイツ司令に、作戦担当を寄越すように依頼して!」

 ここで我慢する以上、我慢しただけの結果を残さなくてはいけない。頭を切り替えたアスカは、最善をつくすための方策を考えたのだった。



 カサブランカにおいても、下した決定はサンディエゴと同じものだった。ただこちらの場合、移動に14時間掛かるという問題が存在していた。その為、ギガンテス襲撃の発覚と同時に出撃命令は出されたが、目的地は中国に作られたカテゴリー2の基地だった。そこで一度体制を整えた上で、北海道に上陸するギガンテスに対処するのである。
 直ちに出撃とならないので、パイロット達はヘラクレスと別の輸送機で移動することになった。その機内で、エリックは隣のベッドで寝ているカヲルに声を掛けた。

「なあカヲル、世界はどうなってしまうんだ?」
「人類は存続するよ、させてみせるよ……
 そうとしか、今の僕には言い様がないんだ」

 厳しい現実というのは、今まで本当に嫌になるほど突きつけられてきた。ようやく希望の光が見えたと思った所に、今まで以上の絶望を教えられてしまった。ギガンテスを倒す意思こそ失われてはいないが、もう二度と、今までのような高揚感は得られないと思えてしまった。

「英雄様とアテナ、二人が居てもせいぜい10ちょっとが限度か……
 それを考えると、60以上と言うのは絶望的な数だな」
「いつかあるのではないかと恐れられていた襲撃だよ。
 時間と手間を掛けさせすれば、今の僕達なら倒すことは不可能ではないだろうね。
 その点ではFifth Apostleよりは与し易いのだけど、生じる被害が桁違いに大きくなる。
 ある意味、Fifth Apostleより始末におえないのかもしれないね。
 これを繰り返されたら、本当に世界は破滅を迎えることになるんだ……
 あえて考えないようにしていた襲撃が、ある意味最悪の地で起きてしまったんだよ」
「最悪?
 比較的人口の少ない地域だと思うんだが?」

 それがなぜ最悪なのか。カヲルの言葉を、エリックもすぐには理解することが出来なかった。発生する被害を考えた場合、人口が少ない場所のほうがありがたい。その意味で、まだマシな地域だと考えていたところがあった。

「日本と言うのは、最悪としか言いようが無いんだよ。
 ここで最善と思われる作戦をとったとしても、間違い無く被害の責任をシンジ君が負うことになる。
 いや、シンジ君ならば、人に言われなくても責任を感じることになるのだろうね。
 今や大黒柱となったシンジ君に、そんな責任を負わせなくてはいけないんだよ。
 僕が、最悪と言った意味を理解してもらえると思うけどね」
「確かに、最悪といえば最悪の場所か……
 しかしカヲル、英雄様はこの危機にどうすると思う?」

 今までの戦いでは、自分達の想像を超えることばかりしてくれた。Fifth Apostleとの戦いでもそうだが、次のThird Apostleとの戦いでも、予想もしない方法で倒してくれたのだ。その実績を考えると、今度の戦いでも、思いもよらない事をしてくれるのかもしれない。現実に対して諦めを感じていても、どこかシンジに対する期待をエリックは抱いていたのだ。
 だがエリックの問いかけに、カヲルは「分からない」としか答えようがなかった。エリックの感じている期待を、カヲルも同じようには感じていたのだ。だが一番冷静なシンジが、今更無謀な戦いに出るとは考えられない。そして今度の戦いに必要なのは、圧倒的な物量への対処だったのだ。奇策が通じるような余地など、どこにも残っていなかったのだ。

「今度ばかりは、シンジくんでも正攻法を採らざるをえないと思う。
 そしてそれ以外の方法を採ることを、誰も認めることは出来ないと思うよ。
 戦いにおいて、数と言うのは圧倒的な正義なんだよ。
 いくらシンジ君たちが化け物じみて強くても、60を超えるギガンテスの相手はできないよ」
「それが、残酷な現実と言うやつか……」

 今度ばかりは、期待することも許されないのか。暗澹たる気持ちで、エリックはカヲルと話すことをやめることにした。



 シンジがS基地についた時、ギガンテスの襲撃についての情報精度が上がっていた。ただそこで突きつけられたのは、絶望としか言いようのない現実だった。

「あと、4時間弱で北海道に来るんですか……
 しかも、60以上って……」

 思わず絶句したシンジに、後藤の浮かべた表情は悲痛なものだった。この襲撃に比べれば、高知やニューヨークで感じた絶望など、まだまだ生やさしいものだと分かってしまったのだ。希望すら残されていない現実に、後藤も為す術がなかったのである。
 そしてシンジが後藤から状況を聞いている所に、マドカとナルが駆けつけてきた。そしてそれからほんの少しだけ遅れて、アサミも合流してきた。髪型が少しおかしくなっているところを見ると、ヘアカットをしている途中だったのだろう。

「碇君、北海道に来るんだって!」
「ええ、4時間もしないうちに、60以上のギガンテスが襲ってきます」
「6、60以上って、うそ……」

 その圧倒的な数字は、さすがのマドカからも言葉を奪ってくれた。これまでの戦いで、数の意味は十分に思い知らされていたのだ。あれほど苦戦した高知でも、襲ってきた数は僅か6でしかない。その10倍以上となれば、まともな戦いになるとも思えなかった。

「それで後藤さん、サンディエゴとカサブランカの援軍は来ないんですよね?」

 全員が揃ったので、シンジはこれから行われる戦いのことを聞いた。ただそこでの指摘に、後藤は改めてシンジの冷静さを思い知らされた。

「なんで、アスカさんやカヲルさんが来ないの?」
「来ないわけじゃないと思いますよ。
 ただ、今までどおりの迎撃方法を採らないというだけです。
 上陸後、ギガンテスが分散した所で、個別撃破を行なっていく。
 そのための、準備をしてから出撃をするってことでしょうね」

 ああ、どうしてこの少年は、こちらの手の内を知り尽くしてくれるのだろう。感動と恐れ、その両方を同時に抱いた後藤は、「そのとおりだ」とシンジの言葉を認めた。
 普段ならば、犠牲を前提とした作戦には、マドカが強く反発していただろう。だがさすがのマドカも、60を超えるギガンテスの脅威を理解することが出来た。その辺りは、高知以降に経験を積んだからともいうことが出来る。自分の力、ギガンテスの力を理解すれば、60という数がどれだけ絶望的なものか理解できるのだ。

「たぶん、誰が聞いても文句を付けられない考えでしょうか……
 ところで後藤さん、日本政府はどんな判断をするのですか?」
「今のところ、両基地と同じ判断をせざるを得ないだろう。
 世界を存続させるためには、どんな形でも勝ち続ける必要がある……」

 それは同時に、多くの日本国民を見捨てることにつながってくる。これから避難した所で、僅か4時間では大した数を逃がすことは出来ない。襲撃数の多さを考えると、避難エリアが広くなりすぎるのだ。まともに考えると、北海道南東部から西部は壊滅するだろう。札幌とその周辺都市を考えると、300万ぐらいの人口を抱えた地域が壊滅するのだ。
 国民を守るのを使命と考える後藤にとって、見捨てることは断腸の思いをすることになる。だが、今の自分達にはそれが限界でしか無かったのだ。そう言って悔しそうにする後藤に、シンジは「すぐに記者会見を開いてください」とお願いをした。

「それは構わないが、一体何を話すつもりなのだ?」

 一刻を争う事態で無くなったため、記者会見の時間をとることは難しくない。むしろ、今後の対応を説明するためには、記者会見を開くべきだったのだ。ただその場合、パイロットを矢面に立てない配慮が必要だった。
 だがシンジが記者会見を開けと要求した以上、自分がその会見に出るつもりということになる。だからこそ、「何を話すつもりだ」と言う後藤が疑問を感じることになった。

「後藤さんは、僕に全てを任せる覚悟はありますか?」
「そもそも、ギガンテスの迎撃は、君に任せっきりというところはある。
 だから今更すべてを任せると言われても……」

 なぜそんなことを聞く。そのつもりで聞いた後藤だったが、自分に微笑むシンジに、すべてを理解した気がした。

「ま、まさか、出撃すると言うのか?」
「その、まさかって奴ですよ。
 ここで正面からの戦いを避けたら、再びみんなの心を折ってしまいます。
 そうなると、人類滅亡を示す時計がまた進み出してしまいますよ。
 大丈夫、何も作戦を考えないで飛び込むほど、僕も馬鹿じゃありませんよ。
 一応、大規模襲撃に対する対処方法も、ずっと検討してきたんですからね。
 だから、すぐに記者会見を開いてください。
 それを説明するだけで、皆さんの気持ちもかなり変わると思いますから」

 検討してきた結果だと言われれば、後藤も要求を認めない訳にはいかない。その検討の正しさは、すでにThird Apostleとの戦いで証明されていたのだ。

「無駄に時間を掛けたくありませんから、すぐに手配をお願いします」
「ああ、基地に詰めている奴らだけでも集めておく」
「じゃあ、僕はジャージに着替えてきますから」

 そこで全員、シンジが紋付羽織袴を着ているのに気がついた。今まで気づかないと言うのは、それだけ全員の気が動転していたことになる。

 そしてシンジが頼んでから10分後、いつもの記者会見場には30名ほどの記者が集まっていた。テレビカメラが来ているところを見ると、この様子はリアルタイムで放送されるのだろう。それでいいと頷いたシンジは、マイクを取って「集まっていただいてありがとうございます」と最初にお礼を言った。

「時間がありませんので、今回の襲撃に対する対処について説明させてもらいます。
 質問を受けられたとしても、せいぜい一つぐらいだと御理解願います。
 さて、今回のギガンテスの襲撃ですが、現時点で65と言う数字が示されています。
 今更説明の必要もないと思いますが、かつて無い大規模襲撃に違いありません。
 正直言って、絶望的な数が押し寄せていることになります。
 従って、迎撃方法も今までどおりというわけにはいかなくなりました。
 ですから、こうして普段行わない出撃前の記者会見を開かせて頂きました」

 そこで言葉を切ったシンジに、全員が定説となりつつ有る作戦が行われるのだと考えていた。3基地が合同であたっても、今までどおりの迎撃方法を採ることは出来ない。そして一番遠いカサブランカからでは、およそ14時間という移動時間が必要となる。最大の戦力が揃った所で、上陸したギガンテスを各個撃破していく。それ以外に、今回の襲撃を乗り切る方法はないと考えられていたのだ。
 だからシンジの会見も、そのことを説明するものだと誰もが考えていた。ただ全員が抱いた疑問は、パイロットに言わせることではないだろうと言うものである。ある意味命の選別にも繋がる決定は、基地の責任者、さもなければ最高責任者である総理大臣が説明すべきだと考えたのだ。

「では、今回の作戦を簡単に説明させて頂きます。
 作戦自体は、とてもシンプルなものと言うことができます。
 僕達4人は、今まで通り推定上陸地点に出撃します。
 そこで直接の迎撃に加え、上陸するギガンテスの分断を行います。
 そして可能であれば、人口の少ない方向にギガンテスを誘導します。
 65と言う数は確かに多いのですが、北海道はそれ以上に広大です。
 大都市圏に侵攻させなければ、被害を最小限に抑えることが可能となります。
 そしてうまく分散させれば、すぐにサンディエゴ、カサブランカの戦力を投入することができます。
 苫小牧、千歳、札幌まで絶対にギガンテスを行かせません。
 上陸が予想される地点の市民の皆さんも、絶対に守って見せます。
 そのために、皆さんにお願いしたいことがあります。
 秩序を保って、正しい方向に避難するよう伝えてください。
 少しでも多くの人が避難してくれることで、僕達も戦いやすくなります。
 宜しく、お願い致します」

 そう言って立ち上がったシンジは、もう一度「お願いします」と頭を下げた。だがそんなシンジに対して、「無謀だ」と言う声が会場のあちこちから上がった。もう一度座ったシンジは、その質問にもなっていない叫びへの答えを口にした。

「確かに、無謀に見える戦いかもしれません。
 ですが、僕達は助けを求めている人を見捨てることはしません。
 困っている人の手助けをするのが、僕が高校に入ってから先輩達に教えられてきたことです。
 どうしようもなくて、本当に困っている人の手助けをする。
 それが、僕達ジャージ部員全員が心がけてきたことなんです。
 その気持を無くしてしまったら、僕達は二度と戦えなくなってしまうでしょう。
 ですから皆さんにもお願いをしたいんです。
 僕達は、僕達にしか出来ない戦いに出ることにします。
 ですから皆さんには、少しでも被害を押させるための協力をお願いします。
 けしてあきらめないで、希望を持って行動するようにお願いしてください。
 僕達S高ジャージ部は、絶対にその期待に応えて見せます」

 もう一度「お願いします」と頭を下げたシンジは、「出撃します」と言って立ち上がった。そんなシンジを、野太い雄叫びが包み込んだ。
 記者会見が開かれる前にあったのは、どうしようもない絶望と諦めだった。いくら英雄を擁していても、今度ばかりはどうにもならないと諦めていたのだ。だが色々と自分達が批判した少年は、こんな絶望的な状況でも態度を変えなかった。それどころか、絶望に苛まれ、諦めてしまった自分達に、諦めるのは早いと教えてくれた。そんな少年を前にして、彼らは思いを言葉にすることは出来なかった。ただただ大きな声で声援を送る、それが雄叫びとなって体から発散されたのだった。

 その雄叫びを背に、シンジはマドカ達の待つ部屋へと戻ってきた。そこで真剣な顔をした3人に、「ごめんなさい」と最初に謝った。

「先輩たちに聞かないうちに、勝手なことを言ってしまいました」

 もう一度ごめんなさいと謝ったシンジに、マドカは逆に「ありがとう」とお礼を言った。

「4人と言ってくれて本当にありがとう。
 碇君のことだから、一人で行くって言うんじゃないかと思っていたわ」
「マドカ、そこはアサミちゃんと二人ででしょう?
 でも碇君、本当にありがとうね。
 お陰で、体に一本筋が通った気がするわ。
 もう一度、世界の度肝を抜いてあげましょう!
 こらこら、まだ泣くのは早いと思うわよ」

 ぼろぼろと涙を流すシンジに、二人は「頑張ろう」と声を掛けた。頼りない頃からずっと一緒に居た弟が、立派になった今でも自分達のことを頼ってくれる。そして自分達が作ったジャージ部の心構えを、テレビカメラの前ではっきりと言い切ってくれた。今まで一緒にやってきて、これ以上嬉しいことはないと思っていた。
 そんな感動的な場面を繰り広げている4人の所に、後藤が苦笑を浮かべながら現れてくれた。

「まったく、総理にどやされてしまったぞ」
「それで、僕たちは出撃できるんですよね?」

 今までの状況ならば、出撃は絶対に認められるはずはなかった。だからシンジは、反則とも言える記者会見を開いたとも言える。

「記者会見で宣言した以上、もう誰にも止めることは出来ない。
 だから総理も、出撃を許可してくれたよ。
 ただし、今度は君達だけが戦うわけじゃない。
 陸海空、日本の持つすべての力を投入する決定がなされた。
 攻撃自体効果が薄いのだろうが、注意を引き付けることは出来るだろう。
 少しでも君達が有利な条件で戦えるよう、全軍が総力を結集することになった」
「それは、随分と凄いことになったんですね」

 そう言って微笑んだシンジは、後藤に衛宮達の出撃も依頼した。

「ただ、高村さんと大津君は、今回の見学にしてください。
 能力自体は高いんですけど、現場での連携を練習したことがありませんからね。
 それから衛宮さん達には、あくまで被害を抑えるための役割をお願いすることにします。
 だからギガンテスが襲ってきたら、すぐに逃げてもらうことになるのでしょうね。
 それから、衛宮さん達全員には防御用の盾を持たせてください」
「彼らが、役に立つと考えているのだな?」

 能力的には、加速粒子砲の防御がせいぜいと言われていた。その衛宮達を、これだけ絶望的な戦いに投入すると言うのだ。物量が必要な戦いではあるが、本当にそれが役に立つのか。逆に足を引っ張らないか、後藤は不安を感じてしまった。
 そんな後藤に、衛宮達の出撃には、二つの意味があるとシンジは説明した。

「一つは、盾を利用した防御陣の構築です。
 少なくとも、盾で囲まれた部分は比較的安全な地域を作ることが出来ます。
 そしてもう一つが、予備機体の準備と言うことにあります。
 いくら僕達でも、今度ばかりは無傷というわけにはいかないと思います。
 だから、損傷した機体の予備が必要になると思っています。
 ただ単に予備を持って行くのより、ほかの仕事もして貰った方がいいでしょう」

 そうやって説明されると、本当に大規模襲撃への対処を考えていたのだと理解できる。予備機体の準備もそうなのだが、あえて記者会見を開くことで、自分達が逃げないことを世界に知らしめてくれたのだ。これで無事襲撃を乗り切れたなら、大規模襲撃ですら人類の反攻を止めることが出来ないと示す事が出来る。
 そして何万人もの被害を出したとしても、逃げずに立ち向かったという事実は大きな意味を持ってくる。誰一人として見殺しにしないと示す事は、パイロット達への信頼に関わってくるのだ。

「配備については了解した。
 それから、住民の避難についてはこれから確認する。
 北海道各基地から、住民避難用の車両、艦艇を急行させる。
 歩ける者は、少しでも安全な場所に移動させる手はずを整えている。
 4時間もあれば、10km以上内陸に移動させることが可能だ」
「よろしくお願いします。
 僕たちは、作戦の打ち合わせをしてから現地に向かうことにします」
「衛宮達にも、集合の指示は出してある」

 S基地から現地までは、およそ1時間程度の移動時間となる。今まで通り1時間前に到着することを考えると、猶予時間は1時間程度だろう。その時間に、ヘラクレスをどう配置し、どう戦うことになるのか。それを、全員に周知する必要があったのだ。

「じゃあ、支援攻撃はお任せします」

 後藤にそう言い残し、シンジはアサミ達を連れていつもの部屋へと向かっていった。そのいつもとあまりにも変わらない姿は、逆に後藤に不安を感じさせたほどだった。本当にそれでいいのか、そう聞いてみたい誘惑に駆られたのだ。

 「英雄」の記者会見のニュースは、瞬く間に世界へと広まった。そこで示された方針に対しては、賛否両方の意見がいくつも出されることになった。反対意見の主たるものは、相手の規模から「無謀」だと言うものだった。無理して水際で迎撃するのでは無く、3基地が共同して粘り強く殲滅すべしと言うのである。その方が結果的に、被害を押さえることが出来るはずだと言うものだった。
 一方賛成の立場をとる者は、敢然と危機に立ち向かう姿勢が重要だと評したのである。結果的に同じ事になったとしても、最初から自国民を見捨てる事になれば、すぐに世界が立ちゆかなくなると言うのである。避難をすることもまた、ギガンテスと戦うことになる。それを示す事こそ、世界が存続するために必要なことだと主張したのである。それを示すためにも、英雄の出撃が必要とされるのだと。

 この議論については、どちらが正しいという結論は出されなかった。ただ事実として、日本政府が後者を選択したことが残ったのである。

 そして記者会見のニュースは、当然アスカ達にも届けられた。緊急作戦会議をしていた全員が、シンジが何を話すのか、息を呑んで見守っていた。そしてシンジの言葉が終わるのと同時に、どんと机を叩いて立ち上がった。

「もう、誰が何と言っても出撃するわよ!
 私たちは、後方の山中に陣をとって誘導されたギガンテスを殲滅します。
 ライナス、それでも反対するのだったら、私を拘束することね!」

 挑戦的に睨んできたアスカに、ライナスはぼさぼさの頭を右手で掻いた。

「反対できるわけがないと思いますよ。
 記者会見を聞いて、どうしてすぐに出撃しなかったのか悔やんだぐらいですからね。
 いつの間にか、僕たちは安全な方に逃げてしまっていたことに気付かされました」
「みんな、反対意見はないわね!?」

 ライナスが折れた以上、誰も反対するはずもない。それでも確認したアスカに、全員が口をそろえて「行きましょう!」と答えた。

「ここから先は、一刻を争うわよ。
 全員直ちに出撃!
 次に落ち合うのは、日本のホッカイドーよ!」

 アスカの言葉に、全員が「おー」と言う掛け声で答えた。けして逃げない、見捨てないと言うシンジの言葉が、パイロット達の闘争心に火を付けたのだ。

 そして同じ頃、中国に向かう機中でカヲル達も同じ放送を聞いていた。そしてシンジの言葉を聞いた所で、全員が「おおっ」と歓声をあげた。

「くそっ、やってくれる!」

 右拳を左手で受け止めたエリックは、残念さを滲ませながらそう叫んだ。

「なんで俺たちは、こんなに遠いところに居るんだ!」
「その気持には、大いに同意させてもらうよ。
 と言うことで、僕達の目的地を新千歳の自衛隊基地に変更してもらったよ。
 残念ながら、戦闘開始8時間後となるから、美味しい所には間に合わないのだろうけどね。
 それでも65体のギガンテスだ、僕達にも出番ぐらいは残っているだろうよ」
「シンジ様が、私達の分を残しておいてくれるかしら?」
「シンジ様って言うより、アテナが残しておいてくれないんじゃないの?」

 ライラとマリアーナも、日本との距離が恨めしかった。もっと早くたどり着ければ、世紀の戦いに初めから加わることができたのだ。だが嫌になるほど遠いカサブランカからでは、マヌケなことに遅刻するしか無かったのだ。

「ねえ、もっと早く飛べないの?」
「いやっ、聞いた所によると性能限界まで速度を上げたらしいんだ。
 どうやら、彼らの心にも火が着いたようだね」
「ああ、この戦いに燃えないようじゃ、軍人はやってられないからな!」

 それまで沈んでいた空気が、シンジの言葉で一変してくれた。それまでは、彼らを諦めの気持ちが支配していたのだ。だが「絶対に期待に応える」と言うシンジの言葉が、諦めを希望に変えてくれたのだ。

 そして影響を受けたのは、ヘラクレスのパイロットだけではなかった。S基地には、各国から支援の申し出が殺到したのである。

「ロシア極東基地から、新千歳基地滑走路の使用許可申請が来ています。
 同じく、米軍横須賀基地から、原子力空母ロナルド・レーガンが北上を開始しました。
 沖縄、岩国基地からも、F35の編隊が出撃したとの報告が来ています」
「それで、奴らはなんと言ってきている?」

 戦力の提供はありがたいが、統制がとれていなければむしろ邪魔な存在となる。それを心配した後藤に、情報収集していた部下は、「こちらの指示に従うそうです」と報告した。

「カトーの元に集う、それで分かるだろうと言うことです」
「加藤一佐の指揮下に入るということだな」

 それならば、一糸乱れぬ統制を見せてくれるだろう。それだけでも、作戦の幅が広がるように感じられた。

「中国からは、ヘラクレスを出さなくていいのかと問い合わせが入っています」
「だったら、盾を持って集合するように伝えろ!
 壁は、少しでも多い方が役に立つ!
 中野、市民の避難状況はどうなっている!?」
「ようやく、まとまった避難が始まったようです。
 JRは、貨物を利用して避難民の輸送を始めています」

 シンジが記者会見をするまで、襲撃予想地点で避難行動は見つけられなかった。それが何を意味しているのか、後藤には痛いほど理解できていた。どこに逃げても同じという諦めが、故郷を死に場所にする気持ちに繋がっていたのだ。だが「絶対に守る」「諦めるな」とまで英雄様に言せたのだ。そしてその戦いに、英雄様は本当に命を賭けようとしている。その決意を見せられれば、恥ずかしくて諦めてなどいられるはずがない。自分達が避難することで、希望の星が戦いやすくなるというのだ。だったら、どんな努力をしてでも、避難するほかに出来ることは無い。
 シンジが言うとおり、逃げないことを示すことで、世界に希望の光を明るく輝かせることができた。ただ、確実にギガンテスを殲滅するという問題は残されている。ここでシンジ達を失うことがあれば、世界は再び闇に包まれることになる。本当にその壁を乗り越えることが出来るのか、シンジを信頼していても、後藤は未だ確信が持てなかった。



 シンジの記者会見を、アイリ達はシンゴの家で見ていた。そこで速やかに避難してくださいと言われ、アイリとサクノはお互いの顔を見てから頷いた。記者会見に続いて表示された避難経路を見て、どの方法が一番確実かを二人で確認した。

「こんな事だったら、パンでも買ってくれば良かったわね」
「そのあたりは、諦めた罰と言うことで我慢しましょう。
 それよりも、すぐに出発する準備が必要ですね」
「瓜生君は、まだ帰ってこないのかしら?」

 ギガンテス襲撃を知っているのなら、すぐにでも家に帰ってくるはずだった。それがまだという所を見ると、どこかで引っかかっていたのかもしれない。

「アイリさん、うちの自転車を使いますか?」
「貸してくれるんだったらありがたいけど……いいの?」

 身の回りの物を持って行くためには、一度家に戻る必要があった。それを手早く済ませるためには、自転車を貸してくれるというのがありがたい事に違いない。ただ、それを借りてしまうと、瓜生家の足が無くなってしまう問題があった。
 それを気にしたアイリに、サクノは「大丈夫です」とにっこり笑った。

「どうせ、避難には使えませんから。
 私は、兄さんが帰ってくるのを待ってから出発します。
 国道36号線を登別方面に歩いて行くことにします……と思ったら兄さんお帰り」

 これからのことを話していたら、どたどたと足音を立ててシンゴが部屋に飛び込んできた。

「サクノ、すぐに逃げる……瀬名さん!?」

 なんでと言う顔をしたシンゴに、「話は後」とアイリは答えた。今必要なのは、細かな事情を聞くことより、早く安全なところに逃げることだった。

「じゃあ、私は自転車を借りていくね」
「兄さんも帰ってきましたから、私達もアイリさんの家に行きましょうか?」

 その方がはぐれなくてすむ。そのつもりで言ったサクノに、「任せる」と言ってアイリは出て行った。その後ろ姿を見送ったサクノは、兄に向かって「荷物をまとめてください」と命令した。

「ジャージと下着を何枚か。
 後は、水とかお菓子とかを持って行きます。
 急ぎますので、すぐに取りかかってください」

 そう言う事ですと告げて、サクノはすぐに自分の部屋に入っていった。未だ状況がつかめていないシンゴだったが、すぐに自分がすべきことを思い出して、自分の部屋へと急いだ。今度ばかりは、街がどうなるのか分かった物では無い。だから、着の身着のままで逃げるわけにはいかなかったのだ。

 それから5分で荷物をまとめた二人は、その足でアイリの家に向かうことにした。自転車で5分掛かる距離と、何事にも手早いアイリだと考えると、途中で出くわすことになるのだろう。そのため二人は、あえて少し遠回りとなる大通りを利用することにした。
 だが、迎えに行くのが無謀だと、すぐに思い知らされることになった。すでに大通りには警官が出て、避難する人たちの誘導を行っていたのだ。車の通行をシャットアウトし、道路全体を使って歩行者を誘導していた。その流れに逆らうのは、いくら何でも無理だとすぐに諦めた。

「避難するしか無さそうですね」
「瀬名さん、家に帰れたのかな?」

 警官に誘導され流れに乗った二人は、まっすぐ登別方面へと向かうことにした。周りを見れば、誰もが真剣な顔で前を見て歩いている。そこで凄いと思ったのは、誰も諦めたような顔をしていないことだった。よくよく見ると、車椅子を押して貰っている人も居る。小さな子供を背負った母親も何人か居た。日曜の昼のおかげか、ほとんどの人が夫婦連れになっていた。
 そうやって歩いて行く人たちに、交通整理をしている警官から「無理をしないように」と言う声が掛けられていた。空からも、「歩けない人、病気の人は、優先して収容します。すぐに申し出てください」と広報されていた。たった一つの記者会見で、一斉に人々が動き始めたことになる。

「兄さん、碇さんは凄い人です」

 その事情は、サクノも全く同じだった。家で静かにしているつもりだったのが、こうして国道を歩いて避難している。だからサクノは、シンジのことを「凄い」と言った。そして妹の言葉に、「そうだね」とシンゴも素直に認めた。

「僕なんかと違って、本当に凄い人だと思うよ……」

 今更のことを口にしたシンゴに、「誰も敵いませんよ」とサクノは兄の言葉に付け加えた。

「だけど、憧れることしか出来ない相手でもあるんです。
 あんな人に釣り合う女性なんて、絶対に居ないと思いますよ」
「サクノも憧れているのかい?」
「私は、普通の感覚を持っているつもりです。
 たぶん、直接会ったら感激で失神してしまうと思います。
 でも、それだけだと思います」

 そう答えて、サクノは隣を歩く兄の手を握った。憧れの人は、手の届く物では無いと言う意味を込めたのだろうか。そしてシンゴも、ぎゅっと妹の手を握りしめたのだった。

 その頃アイリは、まだ避難者達の列に加われないで居た。サクノが考えたとおり、手際よく荷物をまとめたところまでは良かったのだが、家を出たところでトラブルに出くわしてしまったのだ。ご近所に住んでいるおばあさんが、家を出たところでうずくまっているのに出くわしたのである。

「計良のおばあちゃん、大丈夫ですか?」

 慌てて駆け寄ったアイリに、計良カズコは「右足を挫いた」と打ち明けた。

「痛くて痛くて立ち上がれないのよ」
「どこですか?」

 少し触るだけでもうめき声が出るのだから、かなり酷いことになっているのだろう。そう思ってズボンの裾をまくってみたら、挫いた場所がどす黒く変色していた。

「これ、折れているんじゃ……」
「ああ、日頃の不摂生が祟ったのかねぇ。
 これじゃあ、歩いて避難することも出来ないよ」

 顔から脂汗を流しながら、カズコは仕方が無いと無理矢理笑って見せた。

「こんなおばあさんは放っておいて、あなたはさっさとお逃げなさい。
 私は、這ってでも家に戻って、仏壇でお祈りしているよ」
「計良のおばあちゃん、諦めるのはまだ早いわよ。
 表通りに出れば、警察の人達も沢山居るはずだからね。
 市役所の人も、歩けない人は収容してくれるって広報していたでしょ?
 だから、私が市役所の人を呼びに行ってくるわ。
 すぐに戻ってくるから、ここで待っててね。
 いい、ここで待っているのよ!」

 そこでアイリは持っていた荷物を置いて、人が居そうな方向へと向かうことにした。誰かを見つけることが出来れば、一緒に計良のおばあさんを運ぶことが出来る。そうすれば、市役所の人たちにも引き渡すことが出来るだろうと。
 アイリの家から広い通りに出るには、近くにある階段を上るのが近道だった。高さにして3mほどの階段を駆け上がったアイリは、「誰か居ませんか」と大きな声を出した。だがすでに避難が済んでいるのか、誰もアイリの声に答えてはくれなかった。

 仕方が無いと、アイリはもう少し大通りへと向かうことにした。もっと遠くから避難する人も居るのだから、大通りに行けば何とかなるだろうと考えたのだ。
 だがこれが住民の本気度なのか、多少の通りに出ても、すでに人っ子一人いない状態になっていた。すでにヘリコプターからの広報も居なくなり、街はまるでゴーストタウンの様相を呈していた。かろうじて、広報車の音だけが風に乗って聞こえてきていた。かすかに聞こえる声によると、逃げ遅れた人が居ないか確認しているようだった。

 そこで時計を見たアイリは、すでに12時になっているのに驚いた。襲撃予想時刻が14時だから、もうすぐここにヘラクレスが勢揃いすることになるのだ。そうなったら、普通の方法では避難することもままならなくなってしまう。
 背負って逃げることも考えたアイリだったが、階段を上るのも無謀だと、その方法はすぐに諦めた。それだったらと、巡回している車を待つことにした。そうすれば、けがをしているおばあさんは車で運んで貰えるし、自分は自転車を使えば遠くに逃げることも可能になる。それが一番いいと、アイリはすぐにカズコの所に戻ることにした。

「アイリさん、どうだった?」
「もう、みんな避難が終わったみたい。
 だから、通りに出ても誰も居なかったわ。
 ただ、遠くの方で逃げ遅れた人を探している声が聞こえたわ。
 たぶん、こっちにも来ると思うから、それを待つことにしましょう。
 そうすれば、車で運んで貰えるわよ」

 それが一番確実と説明したアイリに、カズコは先にアイリに逃げるようにとお願いした。

「だったら、私が大声を上げて車を呼び止めるわ。
 だからアイリさん、あなたは私を置いて逃げなさい」

 そう諭したカズコに、アイリは「大丈夫」と言って残ることを主張した。

「私が居た方が、確実に見つけて貰えるでしょう?
 それに、私だったら自転車で逃げることが出来るから、少しぐらい遅くなっても大丈夫よ」
「そうは言うけど、私はもう十分に生きたのよ。
 だから、まだ若いあなたのような子から逃げないといけないのよ」
「まだまだ、十分なんかじゃ無いわよ。
 計良のおばあちゃんには、いろいろと教えて貰うことが残っているわ。
 だから、私と一緒に逃げましょう」

 いいわねと笑うアイリに、カズコは「ああ」と涙を流した。足が痛いのだと勘違いしたアイリは、「大丈夫?」とカズコの顔をのぞき込んできた。

「足が痛いの?」
「足は痛いけど、それ以上にうれしくてねぇ。
 おじいさんには先立たれたし、子供達は寄りついてもこないし。
 こんなに優しくされたのは、本当にいついらいかしら?
 そう思ったらうれしくてうれしくて……」

 そう言って顔を歪ませたカズコは、「お願いだから逃げてちょうだい」とアイリに懇願した。

「アイリさんが来る前に、一度見回りの車が通っていったわ。
 だから、待っていてもここには来ないと思うのよ。
 だからアイリさん、こんな足手まといのことは忘れて、あなただけでも逃げてちょうだい。
 あなたにもしものことがあったら、わたしゃ死んでも死にきれないと思うからね」
「車が来ないんだったら、私がおばあちゃんを担いで逃げます!
 階段を上れば、後は自転車の後ろに乗せてあげられると思います。
 そうすれば、二人でも速く逃げられるでしょう?」

 だからと言って、アイリはカズコに捕まるようにと背中を向けた。

「でも、私は重いわよ」
「捕まってくれないと、背負えないでしょう?
 おばあちゃんが捕まってくれないと、私も逃げられないんだからね!」

 絶対に一人では逃げない。アイリの強い意志に、カズコは大人しく従うことにした。自分がわがままを言うことで、この優しい少女が逃げ遅れることがあってはならないことだった。
 ただカズコを背負うのは、いささかアイリには無理が多かった。年寄り独特のたるんだ体に、運動不足から来る肥満が重なり、見た目以上にカズコは重かった。標準的な体格かつ、運動部ではないアイリには、カズコを背負うだけでもかなりの重労働となったのだ。しかも目の前には、たかが3mとは言え、急な階段が控えている。急に絶壁になってしまった階段を前に、アイリは一度ゴクリとつばを飲み込んだ。

「アイリさん、やっぱり無理をしないほうが……」

 少し足元が頼りないのは、背負われている方にはよく分かる。しかも捻った足は、ずきずきと痛んでくれる。背負う方がゆらゆら揺れるので、そのたびに鈍い痛みがカズコを襲っていたのだ。
 それでもアイリが泣き言を言わないので、カズコもまた冷や汗を掻きながらも泣き言は言わなかった。こんな年寄りを助けてくれる天使のような少女に、これ以上心配をかけてはいけないのだと。

 普段ならとんとんと上れる階段も、体重が倍以上になると急に絶壁に思えてしまう。しかも背負っている相手が不安定だから、余計に階段を上りにくくなってしまう。それでも絶対上って見せるという強い意志で、アイリは一段一段しっかりとコンクリートの階段を踏みしめた。安全にと言う意識より、これ以上早く登れなかったと言う体力的な事情もそこにはあった。
 それでも一歩一歩踏みしめて上れば、3m程度の階段ならすぐに一番上に達することが出来る。だが、これで安心と最後の一歩を踏み出したのだが、そこにアイリの油断が無かったとはいえないだろう。ほんのすこしだけなのだが、砂に足を取られてしまったのだ。

 それだけなら、すぐに態勢を整えれば、大事には至らなかっただろう。だが少しだけバランスを崩したことで、捻ってしまったカズコの足に、かなりの負担がかかってしまったのだ。

「痛いっつ!」

 さすがにもう一度捻られると、我慢も限界に達してしまう。酷い激痛にカズコが身を捩ったため、狂ったバランスが更に狂ってしまった。それでも何とか歯を食いしばり、アイリは階段から落ちないようにと体を捻った。その御蔭で、なんとか階段の下に滑り落ちることだけは免れたのだが、完全に足場を失いカズコとともに激しく地面に叩きつけられた。しかもその拍子に頭を手すりにぶつけ、頭から血を流して気を失ってしまった。

「いたた、アイリさん、大丈夫だった?」

 こちらは打ちどころが良かったのか、カズコは腰を抑えながら何とか起き上がった。ちょうど階段の一番上に座るようにして、隣に転んでいるアイリの方へ視線を向けた。だが、そこにあったのは、頭から血を流して倒れている少女の姿だった。

「あ、アイリさん、アイリさんっ!」

 頭から流れる血は、コンクリートの地面を赤く濡らしていた。そんな少女に触れていいのか分からず、カズコは大きな声でアイリの名を呼んだ。だがいくら名前を呼んでも、アイリからは何の反応も返って来なかった。

「ね、ねえ、アイリさん、誰かぁ、誰かいないの。
 あ、アイリさんが、アイリさんが大変なのよ。
 ねえ、誰か聞いていたら、アイリさんを助けて!」

 だがいくら叫ぼうとも、あたりには全く人影はなかった。遠くから聞こえていた広報のアナウンスも、今は全く聞こえなくなっていた。

「誰か、誰か助けて……
 神様、私はどうなっても構いませんから、この優しい女の子を助けて下さい。
 このままだと、このままだとアイリさんが死んでしまいます」

 ああっとカズコが嘆いた時、何か四角いものが落ちているのに気がついた。そしてそれが、携帯電話だとすぐに気がついた。

「そ、そうよ、電話で助けを呼べばいいのよ。
 そうすれば、警察の人がすぐに助けてくれるわ」

 電話を拾い上げたカズコは、ロックの掛かっていないことを幸いに、110番を震える指で押した。だがギガンテス襲撃による通信規制で、聞こえてくるのは「ツーツー」と言う話中音だけだった。

「ど、どうして電話が掛からないの。
 誰でもいいから、早くこの子を助けてあげて。
 誰かぁ〜っ」

 カズコのあげる悲痛な叫び声も、人気の無くなった街では誰の耳にも届かなかった。

「めえると言うのだったら、誰かに通じるのかもしれない……」

 藁にもすがる思いで、カズコはアイリの携帯電話を一所懸命にボタンを押した。何をどうすればメールを送ることが出来るのか分からないが、どこかに必ずその仕組があるはずだと。
 そうやって携帯をいじっていたら、偶然アイリが残していた写真が画面に映し出された。アイリが、知らない男の子と微笑みながら映っていた。だが、そんな写真は、カズコの求めるものではない。これは違うと写真を消そうとした所で、一緒に映っているのが誰だか気がついた。

「こ、これは……」

 写真を消そうとした指が止まり、カズコはじっと映っている顔を見てしまった。そこに映っていた男の子は、少し前にテレビで記者会見をしていた英雄様だったのだ。
 その写真を大切そうに胸に抱き、カズコは奇跡が起こることを真剣に願った。自分では、携帯電話でメールを送ることは出来ない。そしていくら叫んでも、誰も助けに来てくれない。本当に奇跡でも起きなければ、この優しい少女を助けることが出来ないのだ。

「英雄様、是非ともアイリさんをお助けください。
 この子は、とっても優しくていい子なんですよ。
 だから、こんな年寄りと一緒に死んで良い訳がないんです。
 だからお願いします。
 アイリさんを助けてあげてください。
 お願いします、お願いします、お願いします」

 もはや自分に出来ることは祈ることしか無い。動かなくなったアイリの前で、カズコは携帯電話を抱いて、必死に祈り続けたのだった。



 特別室ともなれば、各種の設備が整っているのは言うまでもない。すべての仕事を部下に任せたユキタカは、今日だけはと妻のシズカに付き添っていた。そしてユキタカの隣には、白無垢姿のキョウカが座っていた。シンジが出撃していってから、着替えるに着替えられなくなっていたのだ。

「父様、先輩は大丈夫なのだろうか?」
「ああ、彼ならどんな敵がやってきても大丈夫だ。
 お前に、世界一と言うのを見せてくれるのだろう?」
「ああ、碇先輩が世界一なのは俺が一番知っている!
 それに、先輩は俺に嘘を吐いたことが無いからな!」

 誇らしげにシンジの自慢をする娘に微笑みを向け、ユキタカはリモコンで備え付けのテレビのスイッチを入れた。ここに居ては、何も外のことを知ることが出来ない。ギガンテスのことなら、テレビを見れば分かるはずだと思ったのだ。だが、ゆっくりと立ち上がってくる画面が見えた時、二人は何かがおかしい事に気がついた。

「なんだ、やけに悲壮感が漂っているが……」
「と、父様っ!」

 ちょうど流れたテロップに、キョウカですら言葉を失ってしまった。北海道南東部に、40を超えるギガンテスが襲撃する。今までとは桁違いの襲撃規模、シミュレーションをしたことが有るだけに、その数がどれほど恐ろしいのかキョウカも分かっていたのだ。

「せ、世界が終わるのか……
 い、いや、これで終わることはないにしても……」

 今までの戦い方が出来ないのは、素人のユキタカにも理解できることだった。テレビ画面では、北海道に向かう影のような物体が映しだされていた。それがすべてギガンテスと言われれば、今までの戦いとは比べ物にならないほど危険なことは分かってしまう。
 それでも、最終的にすべてのギガンテスを倒すことが出来るのだろう。だが北海道が壊滅することで、再び世界をギガンテスの恐怖が覆い尽くすことになる。それは、巻き戻されていた時計の針が、再び破滅に向かって進み始めることを意味していた。

 そしてユキタカの考えを証明するように、テレビではアナウンサーがヒステリックに叫んでいた。かつて無い規模の襲撃は、今までのように乗り越えることはできないのだと。自分達には、これから起こる惨劇を、見ていることしか出来ない。その上で、これからどうしていくのかを考えなくてはいけないのだと。
 だがヒステリックに騒ぐアナウンサーの言葉とは別のことに、ユキタカは小さな引っかかりを覚えた。

「北海道南東部……南東部?」

 予想上陸地点の地図に、それが特別な意味を持つことにユキタカは気がついた。自分と完全に縁を切るため瀬名マナミが新たに居を構えた場所。その地名が、上陸予想地点のどまんなかに有ったのだ。

「父様、どうしたのだ父様!?」

 呆然としている父親と言うのは、キョウカの記憶に無いものだった。上陸地点が映った時の変化なのだから、そこに何か理由があるのかとキョウカは考えた。

「M市に、父様の大切な物が何かあるのか?」

 父様と何度も呼ばれ、ようやくユキタカは我を取り戻した。心配そうに自分を見る娘に、「大丈夫だ」と言ってその肩を抱いた。

「大丈夫だ、私は大丈夫だよ」
「だったらいいのだが……
 父様、何かが始まるようだぞ!」

 しばらく上陸予想地点の様子を写していたカメラが、突然記者会見場に切り替わった。何事かとテレビを凝視した時、大きなテロップで「碇シンジ緊急記者会見」の文字が踊った。

「碇先輩が何を話すのだ!?」
「さあ、それはすぐに分かるだろう」

 会見場が緊張に包まれているのは、今の状況を考えれば無理もないことだろう。そしてそこに現れたシンジの顔も、非常事態を表すように、今までにない厳しさがあった。その顔を見るだけでも、これから話すことがとても大切なことだというのが理解できた。
 そしてその会見で、シンジは「絶対に見捨てない」と力強く宣言してくれた。そして、困って困って、助けを求めている人を助けるのがジャージ部の心だと言い切ったのである。その言葉にどよめく会見場は、次第に異常な興奮状態に包まれていった。そしてその興奮は、テレビを見ている二人にも伝染していた。

「彼は、なんと素晴らしい男なんだ……」

 ユキタカは、自分が涙を流しているのに気がついた。シンジの言葉に、どうしようもなく心が震えてしまったのだ。そして今まで冷えきっていた心が、真っ赤に熱せられた気がしてきた。

「凄い、凄いな、彼は……」

 ああ、つい先程までここに居た少年は、なんと素晴らしい事をしてくれるのだろう。こんな素晴らしい少年が、自分の妻のために無理をして偽装結婚式までしてくれる。それがうれしくて、ユキタカは涙を流し続けた。

「父様っ」
「なんだ、キョウカ?」

 感動に打ち震えるユキタカに、キョウカは決意を込めた視線を向けた。

「父様は、俺にやりたいことがないかと聞いたな。
 特にやりたいことはないと言ったが、父様、あれは嘘だ!
 俺は、どんな時でも碇先輩の側にいたい。
 奥さんにしてくれなくてもいい、抱いてくれなくてもいい、ただ一緒にいられればいいんだ。
 だから父様、俺がパイロットになることを許してくれ!
 俺だったら、今の候補の奴らよりも絶対に先輩の役に立てる。
 そうすれば、こんなふうに先輩が帰ってくるのを待たなくてもいいんだ。
 そこで死ぬことが有ったとしても……惚れた男のために死ねるのなら幸せに違いない。
 だから父様、俺がパイロットになることを許してくれ、お願いだ!」

 そのお願い自体、もっと早くされる物だと考えていた。だが最初に聞いたときには、娘は碇シンジと一緒に居るという願いを、自分の立場を理解して封印していた。自覚が進んだという意味では、間違いなく娘にとっての成長なのだろう。そしてその時には、ユキタカも顔には出さなくても喜んでいたのだ。
 だがこの場に至って、娘は自分の願いをはっきり口にしてくれた。「ただ一緒に居られればいい」と言うのは、娘にとって偽らざる気持ちなのだろう。家督の相続を考えれば、パイロットにすることなどあり得ないことだった。だが娘の決意を聞いたユキタカは、その気持ちを尊重することを決意した。

「キョウカ、お前には責任があることは分かっているのだろう?」
「そんなことは、言われなくても分かっている!
 先輩にも、篠山を守る義務があるだろうと言われている。
 だけど、それでも俺は、先輩と一緒に居たいんだ!
 出撃していく先輩達を、寂しく見送るのはもう嫌なんだ!
 跡取りが必要だったら、そのうち誰かの子を産んでやる。
 その子が大きくなるまで、父様が頑張ればすむことだろう」
「お前の子を、そんなどうでもいいことのように言ってくれるな。
 キョウカ、お前は俺たち夫婦に望まれて生まれてきたんだぞ。
 お前の子も、同じようにお前に望まれて、愛されなくてはいけないんだ。
 それを忘れなければ、お前がパイロットになるのを許してやることにする」

 どうだと優しく問われ、最初は驚いた顔をしていたキョウカは、次に目に涙を溜めてうんと大きく頷いた。

「父様、分かったぞ。
 俺は、自分の心に正直に生きることにする!
 そして子供も、絶対に大好きな人に授けて貰う!
 生まれてきた子供には、父様が教えてくれたことを伝えるつもりだ!」
「だったら、反対する理由はどこにも無いな。
 うるさく言ってくる奴が居たら、俺がすべてねじ伏せてやる。
 ただキョウカ、親として一つだけ約束をして欲しいことがある」
「なんだ、父様?」

 じっと自分を見つめる愛娘に、ユキタカは心を込めて「必ず生き残ってくれ」とお願いした。

「親より先に子供が死ぬのは親不孝だぞ。
 だからお願いだ、どんな形でもいいから生き残ってくれ。
 別に、臆病になれと言っているつもりは無い。
 だが、勇気と無謀を取り違えてくれるなと言うことだ。
 これからパイロットになると言うことは、お前が世界を背負うことになるんだ。
 そんなお前が死ぬことは、残された人々を見捨てる事になるんだぞ。
 だから、どんなことをしても生き残ると約束をしてくれ」
「父様……うん、分かった。
 父様の言うとおり、絶対に勝ち残って見せる!」

 素直に自分の言いつけに従った娘の頭を、ユキタカはそっと抱き寄せた。そして耳元で優しく、「負けるなよ」と語りかけた。家に負けるな、世間に負けるな、そしてギガンテスに負けるなと言う意味を含んでいるのだろう。だがそれ以上に大切なのは、自分に負けるなと言うことだった。その思いを込めて、もう一度ユキタカは「負けるな」と繰り返した。



 大規模侵攻への対処ともなると、綿密な事前打ち合わせが必要となってくる。新たな指示を現場で出さなければいけないと言うことは、それだけ現場が混乱していることになる。そのときに、適切な指示を出せるはずが無かったのだ。
 だからシンジは、集まったパイロット達に、明確な役割分担を伝えることにした。そしてその役割毎に、果たすべき仕事と、撤退の条件、それを明確にすることで、無駄な損害を押さえようと考えたのである。

 その役割を伝えるに当たって、シンジは最初にユイとアキラの二人を連れて行かないことを宣言した。そしてこの決定に対して、いかなる説明もしないことを明言した。

「説明して貰わなくては分からないようなら、そもそも連れて行く訳にはいかない。
 だから、今は説明なんて無駄な時間を使うつもりは全くない!」

 そこまで言い切られると、ユイとアキラは何も言えなくなってしまう。「どうして自分を連れて行かない」と発することは、「なぜ」を理解していないことを白状していることになってしまう。そして自分たちに「なぜ」を説明することは、大事を前にすれば、確かに無駄な時間でしかないのだ。
 だが、出撃が無ければ、自分たちがここに居る意味は無い。アキラに目で合図をして、ユイは会議室を出て行こうとした。そんなユイ達に、「出て行くことを許可していない!」と言うシンジの罵声が飛んだ。そうなると、ユイとアキラは一歩も動けなくなってしまう。

 しかもシンジが、ユイ達を無視して説明を進めようとしたのだ。さすがに可哀想に思ったのか、「ちょっと」と言ってマドカが間に立った。

「碇君、さすがに二人が可哀想よ。
 期待って言うのは、口に出してあげた方がいいと思うよ。
 別に、そこまで時間的に追い詰められていないんだよね?」
「それを含めて、考えて欲しかったんですけどね……」

 マドカが間に立った以上、今までのやり方を通すわけにはいかない。それこそ、緊急時に時間の無駄になってしまう。仕方が無いと小さくため息を吐いたシンジは、二人を出撃させないところから説明を始めた。

「衛宮さん達には悪いけど、二人の立ち位置は僕たちの側にあるんだよ。
 ただ、今のレベルは、まだまだ中途半端な物でしか無いんだ。
 そろそろ実戦経験をさせてあげようと思ったんだけど、さすがにこれは厳しすぎるだろうね。
 それもあって、今回は見学と言う位置づけにしたんだよ。
 アサミちゃんの役割は、一番後ろで全体統括をするだろう?
 そうなると、前列に立つのが僕と先輩達の3人しか居ないんだ。
 そこに高村さんが加わって、4人体制にするのが最終的な目標だよ。
 そして大津君には、アサミちゃんの補佐について欲しいと思っている。
 そのための経験をつませてあげたいと思っているんだけど、
 今回衛宮さん達と一緒に現場に出すと、間違いなく自分の役目で一杯一杯になってしまうだろう。
 そうなると、全体がどう動いて、誰がどんな役割を果たしているのか。
 それを見ることが出来なくなってしまうんだ。
 だから、一番全体がわかりやすい場所で、僕たちがどう動くのかを見ていて欲しい。
 そして僕たちのしたことに疑問があれば、戻ってきたときにその疑問をぶつけて欲しい。
 それが、訓練中の君達に与えられた重要な仕事なんだ。
 その仕事の意味を考えると、今からのミーティングに出ない理由は無いだろう?
 と言うことなので、席について死ぬ気になって頭を使ってくれ。
 今の目標は、たとえ僕が居なくなっても、通常の襲撃なら撃退できる力をつけることなんだよ」

 「分かったかい」と聞かれれば、分からないなどと答えられるはずが無い。自分たちに期待してのことだと言われれば、戦場に出して貰えない不満も吹き飛んでしまう。

「拗ねたようなことをして申し訳なかった。
 だが碇、お前が居なくなってもなどと不吉なことを言ってくれるな。
 お前の存在は、世界の希望となっているんだぞ!」
「それぐらいのことは理解しているけど、僕たちはいろいろなことを想定しないといけないんだよ。
 その中には、複数箇所同時侵攻と言う現実的な物もあるんだ。
 最悪の場合、僕が単独で迎撃に当たる可能性も出てくるんだ。
 そうしないと、迎撃が間に合わないところで、新たな悲劇が生まれてしまうからね。
 そうじゃなくても、僕が病気になることだって考えられるだろう?
 様々なリスクを想定し、そのリスクに対して適切な対応策を考えなくてはいけない。
 それが、僕たちの負った責任だと思ってくれないかな?」

 そうやって説明されれば、言われたことに納得できてしまう。だからユイは、「すまなかった」と謝って自分の席に座った。

「じゃあ、今回の作戦について説明をします。
 65体のギガンテスを、すべて水際で殲滅するのははっきり言って不可能です。
 だからと言って、内陸深く侵攻させると、それだけ被害が拡大することになります。
 従って、今回の戦いではギガンテスの侵攻をコントロールすることに主眼を置きます。
 内陸に侵攻することは防げませんが、被害の起きない場所に誘導することは出来ると思います。
 その誘導および、ギガンテスの分断、殲滅の役割を僕と先輩達3人で受け持ちます。
 衛宮さん達には、出来るだけ居住地区に被害が及ばないよう、盾で守って貰います。
 はぐれたギガンテスぐらいだったら、逆に数を生かして押し返してください。
 盾で押さえつければ、まともに攻撃されることも無いと思います。
 場合によっては、衛宮さん達に道を作って貰うこともあります。
 正確に言うなら、ガードレールって所でしょうか。
 そうやって、人の住んでいない山間部へとギガンテスを誘導することにします。
 はい、間桐さん、質問をどうぞ」

 間桐は二人居るので、シンジは分かりやすくサクラを指さした。シンジ達とは違い、衛宮達は正規のパイロットスーツを着ている。体にフィットしたスーツは、サクラが着るといささかモラルに厳しいところがある代物だった。しかもサクラは、シンジに見せつけるようにしてくれるから、余計にほかの男達には刺激の強い物になっていた。
 シンジに指名されたサクラは、誘導先が適切なのかを問題とした。

「被害を押さえる意味でなら、山間部に誘導する意味は理解できますよ。
 ですが、殲滅作戦を考えたとき、山間部は障害物が多すぎませんか?
 ヘラクレスのスピードを殺すことになるのは、あまり得策には思えません」

 これまでの戦い方では、ヘラクレスの機動性を生かして優位に立っていた。その実績を考えると、足場の悪いところで戦うのはリスクが高すぎると考えたのである。
 今までの定石に従った疑問を呈したサクラに、シンジは自分の考えを説明した。

「現地に生えている針葉樹は、かなり根深くてしっかりとした物なんだよ。
 だから間桐さんが言うとおり、お互い動くのにかなり制限を受けることになるだろうね。
 そう言う意味では、ヘラクレスの機動力を殺すことになるのは否定できないよ。
 でもね間桐さん、はっきり言ってギガンテスは頭が悪いんだ。
 人と違って、状況に対する適切な判断なんて絶対に出来ないんだよ。
 誘導されれば、馬鹿正直に足場の悪いところにも平気で入ってくるんだ。
 僕は、その頭の悪さを利用しようと思っているんだよ。
 木をなぎ倒して前に進めても、簡単に方向転回はできないとは思わないかな?」

 逆にシンジに質問され、サクラはかわいらしく「う〜ん」と上を向いて考えた。サクラの頭の中には、寸詰まりのワニが、バキバキと木々をなぎ倒して前進している光景が浮かんでいた。
 その状態から後ろを向こうとしたらどうなるのか。言われたとおり想像してみたら、結構難しいことが分かってしまった。人のように小さく転回できればいいのだが、そんな器用な真似が、ギガンテスに出来るとは思えなかったのだ。そこまで考えて、ようやくシンジが意図したことを理解できた。そしてほかの9人も、サクラと同じ答えにたどり着いたのだろう。全員が、「おおぅ」と盛大に感心してくれた。

「理解してくれたようだけど、結局機動性はこちらの方が上なんだよ。
 後は、森林地帯に入ると、ギガンテスのほうが視線が低くなるという特徴がある。
 整備された森林ならいざしらず、原生林に近いと下の方ははっきり言って視界は期待できない。
 そう言う意味でも、ヘラクレスの方が有利になるんだ。
 そこで気をつけなくてはいけないのは、ギガンテスが加速粒子砲を使うことだ。
 その場合、山が大規模な火災に見舞われることになる。
 もっとも、そんなことになれば自分の方の被害が大きくなるんだけどね」

 とりあえず、疑問が解消したようなので、シンジは説明を進めることにした。

「それからもう一つ、衛宮さん達には重要な役目があります。
 ギガンテスの群れに飛び込む以上、僕達がいつまでも無事でいられる保証はありません。
 特に、機体が損傷するのは避けられないと思います。
 だから僕達の機体が損傷した時、衛宮さん達の機体を明け渡してください。
 できるだけそうならないように気をつけますが、こればっかりは保証ができませんから」

 その説明もまた、衛宮達には納得できるものだった。ギガンテスの群れに飛び込んで、無傷で済むと考える方がおかしかったのだ。そして何を優先すべきかを考えれば、シンジ達を優先するのが当たり前だった。

「次に、アサミちゃんの役割を説明する。
 少し遅れて中国の部隊も合流するから、アサミちゃんには全体の統制を行なってもらう。
 絶対に、みんなが避難した方向にギガンテスを向かわせないようにするんだ。
 だから、こちらも物量で対抗して、ギガンテスを山間部へ押し込んでやる。
 そのために、どこを厚くするとか、どこをあえて薄くするとかのコントロールをお願いする。
 そしてもう一つ、ギガンテスを混乱させるため、僕と先輩達で、ギガンテスの中に飛び込むんだ。
 そうなると、周りの気を使ってる余裕はないから、周辺情報を整理して伝えてほしい。
 おかしな動きのギガンテスがいないか、特に加速粒子砲を撃とうとしている奴がいないか。
 どちらかにギガンテスが集中しそうだったら、その情報も伝えてほしい。
 僕や、先輩達二人が気持ち良く暴れられるように誘導して欲しいんだ」

 いいかなと聞いたシンジに、アサミは少し考えてから「手が足りない」と答えた。3人のことを考えると、細大漏らさずギガンテスを観察する必要がある。だがそうしていると、突破してきたギガンテスに注意を向けられなくなる。結果的に、誘導が失敗することにつながりかねかないと言うのだ。
 だが手が足りないと言っても、まだアキラには荷が重い役目だった。こんな時キョウカがいれば役に立つのだが、パイロットの候補にもなっていないのだから、無い物ねだりと言うことになる。

「と言っても、今は贅沢を言っていられませんね。
 頑張って、両方の役目を務めてみせます」
「若干不安が残ると言うことか……
 と言う事で、最後は僕達3人の役割です。
 遠野先輩と鳴沢先輩には、ペアを組んでもらいます。
 ギガンテスの先制攻撃を防いだ後、上陸してくる群れに僕が飛び込みます。
 そこで僕が暴れますから、少し離れた所に二人で飛び込んでください。
 そこから先はとても簡単で、回りにいるギガンテスを痛めつけてください。
 ただ注意して欲しいのは、欲を掻いて仕留めようと思わないこと。
 一撃で仕留められるのなら構いませんけど、そうじゃなければ1体にあまり関わらないように。
 数で圧倒されていますから、食いつかれないように気をつけて戦ってください」

 ギガンテスの群れに飛び込み、大暴れをすればいい。それだけなら、説明としては特に難しいことはないのだろう。ただ現実的に、それをするのは簡単なことではない。一歩間違わなくても、まともに考えれば自殺行為と呼ばれるものなのだ。
 だがシンジの指示に、マドカとナルは、「分かりやすくていいわね」と笑った。

「とにかく、暴れまわればいいってことでしょ?」
「まあ、私はともかく、マドカちゃんに難しい指示は意味が無いからね。
 さすがは碇君、お姉さんたちのことをよく理解した作戦ね」
「なんで、私はともかくなのよぉ」

 不満に頬を膨らませたマドカに、「事実でしょう?」とナルは言い返した。

「マドカちゃんって、考えるのよりも先に体が動くでしょう?」
「そ、それは否定しないけど……
 それだったら、ナルちゃんも同じじゃない!」
「ええっと、一応二人向けの指示と言うことで理解してください」

 どちらの味方をしても、後からろくな事にならないのは分かっていた。だからシンジは、どっちつかずの仲裁に入った。ただありがたかったのは、二人が普段通りの緩い空気を纏っていてくれたことだった。不謹慎と言われるかもしれないが、緊張でガチガチになるのよりずっと良かったのだ。そしてシンジを含め、一番危険な役割をする3人が、普段通りにリラックスしている。それを見せられれば、65体のギガンテスも、何とか出来ると思えるから不思議だった。唯一の不安要素は、アサミの役目が重くなりすぎることだった。

「さて、全員の役割は理解してもらえたと思います。
 高村さんと大津くんには、目を皿のようにして戦いを見守ってもらいます。
 他の皆さんは、あと10分したらヘラクレスのキャリアに乗ってもらいます。
 今回は移動時間が短いので、初めからヘラクレスに搭乗しておいてください」

 それからと言って、シンジは新しい試みがあることを全員に告げた。

「藁をも掴むと言う意味もあるけど、今回、新しい試みをしようと思っています。
 これまで散々ギガンテスを観察した結果を応用して、通常兵器で攻撃してみます。
 効果の程は分かりませんが、ダメージが与えられれば戦いを有利に進めることができます。
 すでに攻撃の方法は、加藤一佐に伝えてあります。
 アメリカとロシアのパイロットには、加藤一佐から伝えてもらえるでしょう。
 ギガンテスが数で攻めて来るのなら、僕達は知恵を使って迎え撃ちます。
 みんなで、もう一度世界の度肝を抜いてあげましょう!
 ええっと、後藤さん何か状況が変わったんですか?」

 檄を飛ばして「解散」と口にしようとした時、突然扉を開いて後藤が入ってきた。そこで気勢をそがれた気もしたが、後藤が現れた理由の方がシンジには気になった。最高責任者が、いちいち顔を出すのは不自然な行為だったのだ。ならば重大な変化があったのかと身構えたシンジに、後藤は「パイロットの補充があった」と言って頭を掻いた。
 さすがにシンジも、寝耳に水の話に目を丸くして驚いた。

「いや、パイロットの補充って……最近誰も合格していませんよね?
 いやいや、合格していたとしても、訓練すらしていないと思うんですけど。
 それなのに、どうしてパイロットが補充できるんですか?」

 あり得ないでしょうと言い返したシンジに、「それがあり得るんだ」と後藤は言い返した。

「もう一人、非公式だがカテゴリAにランクされた候補が居ただろう?
 保護者の同意がとれたので、パイロット候補に急遽登録されることになった」

 そこまで言われれば、シンジには誰のことを言っているのか理解できる。ただ理解できないのは、なぜユキタカがここに来て許したのかと言うことだった。

「なんで、篠山が……」
「正規の手続きに従った以上、我々は篠山キョウカをパイロット候補とすることにした。
 篠山キョウカ、入り給え!」

 後藤が名前を呼んだのに少し遅れて、「よう」と気楽にキョウカが会議室に入ってきた。もはや当然の事なのだが、その時のキョウカはS高指定のジャージ姿だった。

「喜べ先輩、父様がパイロットになることを許してくれたぞ!」
「喜べって、お前な……お前の家はどうするつもりだっ!」

 シズカの事情を考えれば、キョウカの負う責任はますます重くなったはずだ。それを考えれば、のこのことこんな所に居て良いはずが無い。だが「家はいいのか」と言うシンジの言葉に、キョウカは胸を張って言い返した。

「心配してくれるのはありがたいが。
 それは、篠山の問題であって、先輩には関係ないことだ。
 父様が認めてくれた以上、これ以上先輩にとやかく言われることは無い!」
「ユキタカさんもユキタカさんだけど……
 お前、お母さんのことは本当にいいのか?」
「それも、俺の家族のことだ!
 父様が、ちゃんと母様に話をしておくと言ってくれた」

 だから何も問題は無いと、キョウカはシンジの目を見て言い切ってくれた。

「お前、死ぬかもしれないぞ?」
「惚れた男のために死ねるのなら、これ以上幸せなことは無いだろう」
「戦いは、そんな格好のいい物じゃないんだがな……」

 だが客観的に見れば、キョウカの参戦は確実に戦力の増強となるものだった。いきなりアサミがヘラクレスに乗ったことを考えれば、同じ事を期待してもおかしくは無かったのだ。キョウカならば、アサミとの連携は何度もシミュレーションで経験している。いろいろと駄目な理由を考えたのだが、客観的に見て、キョウカが加わった方が都合が良かったのだ。
 それを認めたところで、シンジはキョウカが加わることを許すことにした。これで、全基地最強と言われた、S高ジャージ部チームが再結成されることになったのである。

「アサミちゃん、篠山が入れば手が足りるかな?」
「とても気に入らないことを言われた気はしますが……」

 そう言ってキョウカを見たアサミは、「歓迎します」と受け入れを認めた。自分の手が足りないのははっきりしているし、そのせいでシンジ達に危険が及ぶこともはっきりしている。そこに信頼できるパートナーが加わるのだから、拒否する理由は見当たらなかった。
 アサミの答えに、シンジは頭を切り換えることにした。これからの戦いには、少しでも役に立つ戦力が増えるのはありがたかったのだ。だったら手に入った戦力をどう生かすのか、今はそのことに集中すべきなのだと。

「篠山、これからいくつか指示を出すから頭にたたき込め。
 第一は、僕と先輩達でギガンテスに殴り込みを掛ける。
 お前は、僕達を取り巻くギガンテスの状況を逐一伝えてくれ。
 それが、お前に与える唯一の役割だ!」
「つまり、いつものシミュレーション通りと言うことだな?」

 うんうんと頷いたキョウカに、「そうだ」とシンジは簡潔に答えた。

「後は、現場での注意になる。
 一度もヘラクレスに乗ったことが無いんだから、下手に動こうとするな。
 キャリアから降りるときは、僕が安全にお前を下ろしてやる。
 下手に動くなとは言ったが、降りたところでヘラクレスの感触に慣れろ。
 そうすることで、自分の命を守ることが出来る!
 死ぬ気でやれば、ヘラクレスなんか5分で動かせる!
 後藤さんっ!」
「なんだ?」

 いきなり話を振られたが、シンジが何を言おうとしているのかぐらいは分かっていた。

「篠山の機体は準備できますか?」
「S基地を舐めるな。
 全15機、すでに出撃準備は整っている!」

 どうしてと言う理由は、今確認すべき事では無い。うれしいハプニングのおかげで、すでに出撃時間が過ぎていたのだ。ここから先は、修正した作戦に従って直ちに出撃しなくてはいけない。

「出撃時間が過ぎている。
 全員、直ちに出撃する!」

 シンジの指示に従い、パイロット16人が立ち上がった。その顔には、これから絶望的な戦いに向かう悲壮感はない。むしろ、なにか楽しいことがあるかのような高揚感が漂っていた。

「後藤さん、後のことはお願いします!」
「ああ、もう一度世界の度肝を抜いてやろう」

 人が相手でなくとも、本来これは、悲惨な戦争のはずだった。気持ちなど高揚するはずも無く、日々精神をすり減らしていくはずの物だった。だがシンジ達を見送る後藤の胸には、どうしようも無い熱い思いがあふれ出していた。

「高村、大津、あれが碇シンジだ。
 そして君達が仲間に加わった、S高ジャージ部だ」
「しかし後藤特務一佐、なぜ篠山が出撃できるのです。
 あいつは、一度も訓練をしたことが無いはずです」

 後藤の言うことは理解できるし、ユイ自身、すばらしい仲間を得たとは思っていた。だがユイには、一度も訓練を受けていないキョウカが出撃する理由が分からなかった。たとえ適正が自分達より高くても、戦いに出るには相応の準備が必要なはずだ。

「篠山キョウカは、高知の前、サンディエゴ、カサブランカでシミュレーターに乗っている。
 適性自体は、今でも堀北アサミよりは上なんだ。
 連携自体も、あの5人なら何の問題も無いだろう。
 だから碇シンジも、能力のことは一度も問題にしなかったのだ」

 言われてみれば、シンジは家のことしか聞いていない。そしてアサミも、仕事を分けることに抵抗を示さなかった。それは、二人がキョウカの能力を疑っていないという意味になる。
 それを悔しいと感じたユイだったが、同時に仕方が無いことだとも諦めていた。仲間に加わって3ヶ月になろうとしているが、まだジャージ部にとってお客様のところがあったのだ。そのあたり、何を目的にして入部したのかの違いがある。それが、越えられない壁として目の前に立ちはだかっていたのだ。
 その思いが顔に出ていたのか、後藤は上官として必要な助言をすることにした。

「勘違いしてはいけないのだが、彼は君達に期待をしている。
 高村の場合、遠野、鳴沢と同じ役目をこなして欲しいと考えているのだ。
 究極の目標は、彼が居なくても、堀北アサミの指示で、3、4体のギガンテスなら倒せることだ。
 そのためには、まだまだ高村には足りないところが多すぎる。
 特に君は、臨機応変と言うのが苦手のようだからな。
 それを、じっくりと矯正しているのが今のカリキュラムだろう」

 そしてと言って、後藤は大津の顔を見た。

「大津の場合、いろいろな問題があるのは自覚していると思う。
 碇シンジと堀北アサミは、当初君をパイロット候補にすることを反対していた。
 君なら、その理由ぐらい理解することが出来るだろう?」

 そう言って理由を問われたアキラは、少し考えてから「いじめられていたからですか?」と、本来自分に責任の無いことを理由とした。

「そうだ、継続的にいじめを受けていることで、作戦行動に支障が出ると主張した。
 ジャージ部の後輩としてなら受け入れられるが、パイロットと言う立場では受け入れられないとな。
 いざという時に体が竦むと、それだけで死ぬことになると言うのがその理由だ。
 それが、ちょうど君達が一次選考を通った夜の話だ。
 だがジャージ部内の議論の結果、君を受け入れる方向に方針を変えた。
 いや、正確には俺を含めた周りの覚悟を試したというのが正解か?
 まあ、遠野に「お前も似たような物だった」と言われたことも大きいのだろう。
 事実高校入学当初の碇シンジは、勉強以外はとても情けない状況だったからな。
 そのことを持ち出されると、未だに遠野達二人に頭が上がらないのだ。
 だから碇シンジは、シミュレーションの日に君達の手を取った。
 それは、1年と少し前に、自分がされたのと同じ事をしたのだ。
 そして二人に手を取られた碇シンジは、今は自分の足で歩き、二人を引っ張っている。
 篠山キョウカにしても、碇シンジに手を取られ、ようやく自分の足で歩き始めたのだ。
 だとしたら、彼らに手を取られた君達はどうするのだ?
 いつまでも、彼らに手を引いて貰わないと何も出来ないのか?
 君達は、これまでの訓練で、そしてジャージ部の部活で、彼に何を示してきた?」

 シンジが聞いていたら、おそらく「余計なことを」と文句を言っただろう。さもなければ、「何を似合わないことを言っているんですか」か。確かに、後藤らしくないことを二人に話していた。そしてらしくないことを話すぐらいに、後藤自身ジャージ部という存在に強いシンパシーを感じていたのだ。
 そして後藤の言葉に、ユイとアキラはジャージ部にいる意味を改めて考えた。シンジ達に手を取られと言うのは、とてもよく理解が出来た。あの日緊張でガチガチになっていた自分達を、ジャージ部の先輩達は、気遣って立ち直らせてくれた。それが有ったからこそ、自分達はこうしてパイロットになれたのだ。だとしたら、後藤が言うとおり、自分達の足で立って歩かなければいけない。自分達が何をすることが出来るのか。それを証明するため、これまで何をしてきたのか。未だ何もしていないことに、ユイとアキラは気がついたのだった。



 ヘラクレスの格納庫に向かう道すがら、アサミはキョウカに文句を言っていた。恋人を前にして、「惚れた男のために死ねるのなら、これ以上幸せなことはないだろう」とまで言い切ってくれたのだ。アサミにしてみれば、文句を言うのも当然だったのだ。

「キョウカさん、私の前でなんてことを言ってくれるんですか!」
「俺は、いつも言っていることを繰り返しただけだ。
 別に抱いてくれとか結婚してくれと言ってはいないだろう?
 今俺が先輩に抱いている気持ちを、聞かれたから正直に答えただけだ」

 そうやって悪びれることも無く言われると、アサミもそれ以上何も言えなくなってしまう。シンジが脅かすように、「死ぬかもしれないぞ」と聞いた事への答えなのだから、キョウカの答えとしては何も間違っていないのだ。だがあそこまではっきりと言われるのは、やはりアサミとしては気に入らないのだ。
 せっかく最大の障害の二人を姉の立場に追いやったのに、また新たな敵が生まれてしまった。しかも、一度はたたきつぶしたはずなのに、こうしてゾンビのように蘇ってくれたのだ。しかも前より手強くなっているのだから、余計始末に負えなくなってしまった。

「まったく、今日のことを許すんじゃありませんでした。
 情けなんて、掛けるものじゃありませんね」

 そう言ってため息を吐いたアサミに、「感謝している」とキョウカは頭を下げた。

「たぶん俺は、さんざん父様や母様に心配を掛けていたと思う。
 だけど、アサミのおかげで、少しは恩が返せたと思っているんだ。
 だからアサミには、感謝してもしきれないと思っている。
 それに、花嫁衣装も着せて貰ったからな。
 これ以上望むのは、贅沢と言うものじゃ無いか?」
「そうやって物わかりのいいことを言われると、余計に気味が悪くなるんですけどね……普通は」

 その“普通”が通用しないのは、今までのつきあいで嫌と言うほど思い知らされていた。だからアサミも、キョウカの言葉を素直に受け取ることにした。

「お礼は、素直に受け取っておきます。
 将来のことは、いろいろと終わったら、先輩を交えて相談しましょう。
 ただ、その前にキョウカさんにも手伝って貰うことがありますからね」
「ああ、俺に出来ることだったら、何でも言ってくれ。
 篠山の全財産をつぎ込んでも、期待に応えてみせるからな!」

 「任せろ」と胸を叩いたキョウカに、「その程度では駄目」とアサミは厳しく言い返した。

「その時は、私達の先輩への思いが試されるのだと思って。
 そんなもの、篠山の財産なんかじゃどうにもならないのよ」
「確かにそうなのだが……アサミ、お前は何を言っているんだ?」

 分かるように言えと迫ってきたキョウカに、「今は駄目」とアサミは答えた。

「手伝って貰う時が来たら、絶対に教えるから。
 だから、その時までは何も聞かないで欲しいの」
「信じて待っていろと言うことだな。
 よし、俺の先輩への愛は少しも揺るがないからな!」

 だから任せておけと、キョウカは胸を張ってアサミに答えた。それだけを見れば、とても頼もしい答えに見えたことだろう。だがアサミは、「揺るがない愛」が一番厄介だと考えていた。状況を理解できなければ、その思いが逆に足かせになりかねなかったのだ。
 だがそのことは、ここで口にするようなことでは無い。だからアサミは、「頼りにしていますよ」と、キョウカを乗せるだけにしたのだった。







続く

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