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 「生徒会長になるんですよね?」と無邪気に聞かれたとき、シンジは決まって「生徒会とジャージ部、そしてパイロットの時間的両立は難しい」と返していた。
 裏では、「作ろうと思えば時間は作れる」とは言っていたが、一般的事実としては両立は難しいと言うのが正しいと思われていた。だからマスコミも、シンジがS高生徒会長に決まったときには、「日本一忙しい高校生がますます多忙に」と書いてくれたほどだ。

 そしてその現実は、生徒会長就任早々に突きつけられることになった。もちろん、突きつけられた現実にしても、誰もが想定した範囲ではあった。

 新任生徒会役員の就任は、11月頭からと言うことになっていた。そのお披露目のために行われた全校集会で、生徒会長となったシンジは、講堂のステージの中央に立っていた。その両側には、新任の生徒会役員が並んでいるのだが、なぜかアサミが左隣に立っていたりする。ヨシノが右隣なのは、副会長という立場を考えれば当然なのだが……

「このたび生徒会長に就任することになった碇シンジです。
 新生徒会長として着任するに当たって、抱負のようなものをお話ししたいと思います」

 そこで話を切って、シンジは講堂に整列した全生徒の顔を見るように、ゆっくりと顔を右から左に動かした。それから十分に間をとって、いざ抱負を話そうと口を開いたところで、持っていた携帯電話がうるさく自己主張を始めた。同時にステージの上で1つ、そして座席の方から5つ鳴り響いた呼び出し音は、もう一つの役目、パイロットとしての非常事態を知らせる物だった。
 出鼻をくじかないで欲しいとは思ったが、緊急事態ともなれば文句も言っては居られない。仕方が無いとため息を吐いたシンジは、マイクを握って「緊急呼び出しが掛かりました」と落ち着いて告げた。

「続きの進行は、副会長の滝川君に任せることにします。
 生徒会長の所信演説は、まあ、生徒会のWebにでも載せておくことにします」

 「行ってきます」と頭を下げたシンジを、全校生徒は大きな拍手で送り出した。S高の生徒会長が、世界を救う戦いに出て行く。それはパイロットになる夢が叶わなかった者達にとっても、胸躍る事だったのだ。
 会長不在の時は、副会長がその役目を代行する。出撃するシンジを見送ったところで、副会長の滝川ヨシノが演壇に立った。前回は出撃するシンジ達への声援を要求したヨシノだったが、今回は役員として興奮を抑える方向に生徒達を誘導した。
 「静かにしてください」とマイクで呼びかけたヨシノは、少し会場の反応を待ってから、少し強い調子で「静かにしろ!」と命令した。その口調の強さに驚いたのか、講堂を埋めた生徒達が一瞬で押し黙ってくれた。
 その反応をじっくりと確認してから、「ご協力ありがとうございました」とヨシノは普段の調子に戻った。

「これからは、こう言ったことが日常になります。
 そのたびに生徒行事がおかしくなったら、碇君に会長になって貰った意味がありません。
 そうは言っても、みなさんが興奮する気持ちは分かります。
 そう言う僕だって、早くテレビで会長たちの戦いを見たいと思っていますからね。
 ただ、経験上戦いがあるのは私達が家に帰ってからになるでしょう。
 それまでは、S高生徒として、やるべき事をやっておきましょうか」

 そう言って呼びかけたヨシノは、会長を代行して全校集会を取り仕切った。

「まず碇会長の就任挨拶ですが、これは別の機会に実施することにします。
 ただし、いちいち全校集会をするのも面倒ですから、お昼の校内放送ででもやって貰いましょうか。
 と言うことで、次に新任役員の紹介を行いたいと思います。
 まず最初に、私が副会長の滝川ヨシノです。
 「日本一多忙」な生徒会長を補佐し、S高生徒会を運営させていただきます」

 そう言って頭を下げたヨシノに、会場からはぱちぱちとまばらな拍手が起きた。
 反応の悪さを気にしないで、ヨシノは順番に役員を紹介していった。

「次に、会計をして貰います1年の椎名さんです。
 そして書記も、同じく1年の曽我君です。
 生徒会長の片腕となって働く総務委員長は、2年の鎖部君が就任しました。
 そして会長と一緒に出撃していった1年の堀北さんが環境委員長です。
 他校や近隣住民との交渉には、2年の林水君に担当して貰います。
 S高の風紀を取りしますのは、2年の藤乃さんにお願いします。
 とまあ、紹介させて貰いましたが、
 時間もありますから、一人一人新任役員の抱負でも簡単に話して貰うことにしましょうか」

 ヨシノの言葉に、ステージに並んだ新任役員達の顔が、ほんの少し引きつるのが分かった。だがそれを気にもとめずに、「私からですね」とヨシノは「副会長」としての抱負を語り始めた。すんなりと話し始めたところを見ると、どうやら自分だけは準備していたらしい。それに気づいた他の役員は、「性格が悪いのでは?」とヨシノの事を危険人物として考えることにした。
 ただ彼らの考えにしても、一部メンバーを見れば「類が友を呼んだ」のに過ぎなかった。特に2年の役員は、よくもまあと言えるほどくせ者が揃っていたのだ。だからこそ、激動の1年をとりまとめることが出来る。投票する方がそう考えたのかは分からないが、結果的に適任者が揃ったと言うことになるのだろう。



 ギガンテス発生の知らせに、S基地は基地としての動きを始めていた。作戦司令所に駆け込んできた後藤は、すぐに状況の報告を求めた。

「インド洋を北上しているのを確認。
 予想上陸地点はムンバイ、推定襲撃数は3、予想時刻はおよそ9時間後となっています」

 日本で無いことに安堵した後、後藤はムンバイと言う場所が微妙な問題を含んでいると考えた。距離的には日本からの方が近いのだが、ジェット気流の関係で、カサブランカからでも距離の差は無いのと同じになっていた。その上、キャリアの性能は、カテゴリ1に配備された物の方が上回っている。到着時間を考えた場合、カサブランカから出撃した方が早くなるのだ。日本がカテゴリ2だと考えれば、出撃対応はカサブランカが行うのが正規手順のはずだった。

「しかし、ムンバイか……」

 海沿いの人口は、ニューヨークを凌ぐ大都市圏だと言うことが出来る。周辺まで合わせれば、およそ2千万もの人口を抱えたインド第一の都市圏なのだ。迎撃が間に合うのは間違いないが、ほんの少しの手違いで、大きな被害を発生させることに繋がってくる。
 そしてもう一つ、ムンバイはシャームナガルに近いと言う事情もあった。過去の惨劇が間近で起きたこともあり、住民にすり込まれた恐怖は想像を絶するもののはずだ。それも含めて、非常に扱いが微妙な地域となっていた。

「政府の対応はどうなっている?」
「日本政府は、特に何も発表していません……
 いえ、ちょっと待ってください、外務省から連絡がありました。
 インド政府は、日本に対して出撃の要請を行ったと言うことです。
 日本政府からも発表が来ました、インド政府の要請に基づき“英雄”を出撃させると!」

 “英雄”と言われるパイロットが、日本の外交手段になっていることは承知していた。それを仕方が無いとは諦めていたが、今回の出撃は後藤の恐れていたことが現実の形となってしまった。
 本来カサブランカから十分余裕を持って間に合うのだから、3体程度の襲撃で、日本から支援を行う必要は無かったのだ。だがインド政府は、襲撃規模にかかわらず、すぐさま日本に対して支援の依頼を行ってきた。それは、既存迎撃基地の地位低下に繋がり、日本に対する過剰な期待を示した物でもある。あまりにも見事すぎた、香港での手際が招いた結果だと推測された。

 一方で後藤としても、インド政府の判断はやむを得ない物だと思っていた。政府としては、なんとしても住民のパニックを押さえ込む必要がある。それに失敗すれば、犠牲者が増えるだけで無く、政権が転覆する恐れも出てくるだろう。そして住民に対して安全を保証するためには、今までのやりかたでは駄目なことも分かっていた。そのためにも、香港で存在感を高めた、英雄様の出撃が必要になっていたのだ。

「出撃準備はどうなっている?」
「あと、30分で完了します。
 パイロット到着まで、15分の予定です!」

 基地に詰めていない分、パイロット招集に時間が掛かることになる。今後同じように世界各地に引きずり回されたら、そのロスが重大な問題を引き起こすことにもなりかねなかった。それを避けるためには、彼らが望まぬ身柄拘束も考える必要が出てくる。
 そしてもう一つの問題は、基地の迎撃機能の貧弱さだった。本来国内限定の基地として配備されたため、設備的にもカテゴリ1の基地に劣っていたのだ。出撃準備に時間が掛かるのもその一つなのだが、配備されたキャリアの性能が低いというのも重大な問題だった。キャリアの高速化を図らないと、今後類似の対応にも支障が出かねなかった。

「課題が目白押しと言うことか……」

 ふっと小さく後藤が呟いた時、カサブランカ基地の出撃が報告された。当たり前のことなのだが、発見の報告が上がってから、わずか15分の早業である。日本に比べて、30分のアドバンテージを持っていたのだ。

「パイロットまもなく到着します。
 ヘラクレス1号機から4号機、キャリアに搭載完了。
 燃料注入完了まで、あと20分です!」
「ムンバイの様子はどうなっている!?」
「比較的平穏です。
 インド政府の発表が影響しているようです!」
「避難は!?」
「沿岸部5kmに対して避難命令が発令されています。
 対象人口は、およそ20万人かと思われます。
 5km圏外であれば、時間的には十分な余裕を持って避難可能でしょう」

 それでも、避難人口が20万ともなれば、かなりの時間が掛かると思われる。それでも救いがあるとすれば、避難対象地域にいるのが、比較的学歴の高い層と言うことだ。秩序を保って避難するには、都合が良いと言えたのだ。
 いずれにしても、この戦いに勝つことは難しくない。だが今求められているのは、ただ勝つことでは無くその勝ち方だった。結果的にパイロットを追い詰めることになりかねない期待なのだが、ここが踏ん張りどころだと後藤も理解していたのだ。



 S高から基地までは、移送用のヘリを使った空路が利用されていた。S高にヘリを常駐させることで、地上を走るのに比べて移動時間を短縮していたのである。
 そしてその移動時間を利用して、シンジ達パイロットに状況の伝達が行われていた。出撃までの時間を短縮するためには、移動時間も有効に活用する必要があった。そこで葵から状況を伝えられたシンジは、本質的な「なぜ」を投げかけた。

「カサブランカの方が早いのに、どうして僕たちも出撃することになったんですか?
 襲撃数が3なら、カヲル君達なら危なげなく撃退できると思いますよ」
「たぶん、碇君の言うとおりだと思うんだけど……」

 葵にしても、詳しい事情が分かっているわけでは無い。持っている情報にしても、シンジと大差があるわけでは無かったのだ。それを理解したシンジは、答えを探すべくデータを漁ることにした。

「ムンバイですよね……アサミちゃん、地図がすぐに出る?」
「これで良いですか、先輩?」

 アサミの示したスマホの画面で、シンジはムンバイの位置を確認した。位置的にはインドの西部、距離的には、日本からの方が若干近いのだろう。ジェット気流の関係でカサブランカの方が早く着くのなら、特に自分たちが行く必要も無いように思われた。
 だがムンバイの近くを拡大したところで、そう言う事かとシンジは事情が理解できた気がした。

「葵さん、インド政府から要請があったんですよね?」
「日本の立場としては、相手方の要請が無いと出ていけないのよ。
 出撃命令が出たと言うことは、要請があったと考えてしかるべきね」

 葵の答えで理由を確信したシンジは、マドカ達に向かって「なぜ」自分たちが行くことになったのかを説明することにした。

「以前、シャームナガルの悲劇って説明しましたよね。
 ムンバイとシャームナガルの間は、400kmぐらいしか離れていないんですよ。
 つまり、住民には2年ほど前の悲劇に対する記憶が強く残っているんです。
 だからパニックを押さえるために、僕たちにもお鉢が回ってきたと言うことですよ」
「つまり、香港みたいに被害を出さないで倒せって事?」

 少し顔を曇らせたマドカに、「それだけじゃない」とマドカの言葉を肯定しつつ、シンジは自分達が行く意義を説明した。

「もう、ギガンテスの恐怖に怯えなくてもすむ。
 カサブランカからでも、日本からでも十分に国土を守れると示したいんだと思いますよ。
 そうすれば、よほどの複数襲撃が無い限り安全だと国民にも示すことが出来ますからね。
 今回被害を押さえることも重要ですけど、そこをアピールする目的があるんだと思いますよ」

 シンジの説明に、葵までうんうんと頷いていた。葵の理解にしても、香港の実績が理由になっている程度でしか無かったのだ。だがシンジに言われて、「空気」と言う不確かで、しかも重要な理由があることに気づかされた。世界に蔓延した諦観を払拭するには、ふさわしい英雄の出現と、見捨てられていないと言う保証が必要だった。

「それで、今回はどうするの?
 3体ぐらいだったら、共同作戦っての難しいでしょう?」

 獲物が少なすぎると、共同作戦も採りにくくなる。一度共同でシミュレーションをした実績こそあるが、そのときはもっと多数のギガンテスを相手にしていた。3体と言う数は、自分たちだけでも比較的容易に倒すことの出来る襲撃規模だったのだ。

「それは、移動しながら考えるつもりですけど……
 香港と同じ手は使えないと思いますから、被害を押さえる方法を考えることになるんでしょうね。
 間違いなくギガンテスは加速粒子砲を撃ってきますから、その防御方法がポイントになると思います」
「防御スクリーンで街を守るって事?」
「ヘラクレスの数が揃えば、数発だったら守りきることが出来ると思いますよ」

 なるほどとマドカ達が感心したところで、シンジ達を乗せたヘリが基地へと到着した。後はキャリアに乗り込むことで、出撃準備は完了する。

「数が少ないから、アサミちゃんの出番は無いかもしれないね」
「でも、ヘラクレスの数が多いから、全体を統制する必要はあるんですよね?」
「それはそうだけど、言葉の方は大丈夫?」

 他基地との連携となると、公用語として英語が必要になってくる。それを問題にしたシンジに、「勉強しています」とアサミは少し自慢げに胸を反らした。

「今まで内緒でしたけど、合宿からかえってずっと英語の勉強をしているんですよ。
 先輩ほどは使えませんけど、それなりには理解できるようにはなったと思います。
 余録なんですけど、お陰で期末考査の英語は満点を取れました!」

 恋人にそこまれ言われれば、信用して任せないわけにはいかない。アサミが主張した全体を統制する役目を、シンジは信頼して任せることにした。そもそも、言葉の問題さえ無ければ、アサミが一番適任者だと思っていたのだ。

「じゃあ、詳細な指示は移動しながら連絡するからね。
 それから葵さん、カヲル君とも話が出来るようにしてください。
 迎撃作戦について、事前に擦り合わせておきたいんです」
「了解、特務一佐に上申しておくわ!」

 S基地の整備速度より、パイロットの進歩の方が上回っている。その中心となっているのが、対象Iとしての力を封印された少年なのだ。その封印処置が期待とは違った効果を発揮してくれたのだから、世の中何が幸いとなるのか分からない。ただ日本にとって、追い風が吹いているのは確かだと葵は感じていた。何しろ葵自身、気づかないうちにシンジを頼りにしていたのだ。



 わずか3の襲撃数に対して、二つの基地からヘラクレスが出撃する。もう一つの基地の役目が遅延作戦なら問題ないのだが、カテゴリー2の基地が遅れて到着することになっている。これまで世界を守ってきた自負があるだけに、カサブランカ基地は日本からの出撃に対して複雑な思いを抱いていた。
 あてにならないと言うのであれば、これ以上無い侮辱に違いない。だが直前の襲撃で見せられた手際は、どちらの力が上かをはっきりと示す物だった。そしてカサブランカ基地内にも、日本が実績を積むことを歓迎する空気があるのも確かだった。自分たちの負担が減ること、そして新しい戦闘データが得られること。日本が実戦を積み重ねるのは、カサブランカにとってもメリットが大きかったのだ。

 一方基地全体の空気とは別に、パイロット達は日本の出撃を歓迎していた。すでに積み重ねた経験は否定され、どちらが上かははっきりと示されていたのだ。しかも個人的感情でも、共同作戦を喜ぶところがあったのだから、インド政府の要請は彼らにとって渡りに船の物だった。そのおかげで、深夜に叩き起こされたにも関わらず、カヲルはとても機嫌が良かった。

「さて、念願のシンジ君との共同作戦と言うことだよ」

 集まった7人に対して、「心して掛かるように」とカヲルはハッパを掛けた。シンジ達が残していった物を、自分たちがどう取り入れたのか。それを示す絶好の機会が訪れてくれたのだと。

「襲撃数が3と言うことは、被害をいかに押さえるかが戦いのポイントとなるね。
 戦い方、そしてギガンテスの攻撃に対する防御が課題となってくるわけだ」
「勝つことは難しくないと思うが、防御の方はどうするんだ?」

 エリックの質問に対して、「それはこれから」とカヲルは答えた。

「せっかくシンジ君の知恵が借りられるんだよ。
 だったら、相談して決めるのが筋という物じゃ無いのかな?」
「それもそうか、今回は移動時間が長いから、さっさと出発した方が良いな」

 どんな対策をとるにしても、いち早く現地に着いている必要があった。それを考えれば、ここで議論をしている暇は無いのだろう。

「だが、日本も可哀想な状況だな。
 このままだと、本来必要の無いところまで引っ張り出されることになる。
 英雄様が言っていた、普通の生活が送りにくくなる条件だな」
「ああ、訓練ではなく、日常的に出撃待機を要求されるようになるからね。
 ただ、日本の場合は、本質的な問題はパイロットの招集時間じゃ無いんだけどね」

 座って話している暇は無いと、カヲルは立ち上がって日本の問題を口にした。それは後藤達も認めている、基地の保有する設備の問題が大きかった。

「カテゴリー2の基地と言うのが、機動性の足かせになっているからね。
 配備されているキャリアも、近距離移動を前提とした物になっているんだよ。
 だからうちに比べて、かなり足が遅くなっている。
 常時燃料を満タンにしておく訳にもいかないから、出撃のたびに長時間の給油が必要になる。
 ヘラクレスのテストも必要だけど、機体のテストもかなり頻繁に行わなくちゃいけなくなるんだ。
 環境のアセスメントとかを含めて、解決すべき問題が山積みになっていると思うよ」
「最初にボタンを掛け違えたという訳か……
 まさか、英雄様にここまで力があるとは誰も思っていなかったんだろうなぁ」

 シンジの存在は、ただ単に迎撃態勢が厚くなった以上の意味で捉えられている。迎撃不可能と考えられたFifth Apostleの単独迎撃を成功させ、香港では都市部への被害をゼロに抑えてくれた。それは、今までの体制では、とうてい見込めない戦績だったのだ。その結果、日本のチームは両基地を超える世界の希望となっていた。
 しかもシンジが関与したおかげで、既存基地の能力まで向上している。その事実を突きつけられれば、新しい意味もそこに求められてしまう。普通なら“英雄”などと言う呼称は、恥ずかしくて使えない物だろう。せいぜい特定の戦いを頭につけ、限定的に使用するのを考える物だった。だが世界は、“英雄”をシンジ一人を意味する、固有名詞にしてくれた。裏を返せば、それだけ世界が精神的に疲弊していたことにも繋がっていた。

 追いかけるように歩いてくるエリックに、カヲルは「非常に重要な問題だ」と口にした。

「ギガンテスの迎撃態勢は、シンジ君……いや、日本の4人かな。
 彼らを中心にして、再構築する必要があるんだよ。
 そうしないと、僕たちはむざむざ希望の光を閉ざしてしまうことにもなりかねない。
 ただ問題は、世界がそこまで冷静に考えることが出来るのかと言うことだね。
 そしてカサブランカにサンディエゴ、EUとアメリカと言い換えた方が良いのだろうか。
 彼らが、日本を中心に置くことをよしと出来るかという問題もある。
 TICを起こしてしまったという反省が、感情的な難しさを作っているからね」
「俺たちパイロットは、出来ることをするしか無いんだろうな……」

 カヲルの言っていることが理解できるだけに、エリックもつい「難しいな」と零してしまった。政治の世界は、往々にして論理では無く人の感情に支配されることがある。そう言う意味でTICと言うのは、すべてを平伏させる威力がある物だった。その強すぎる感情は、合理的判断を否定する方向に働きかねない。そもそも、検討のステージにすら立たせて貰えない可能性があるのだ。
 出来ることをするしか無いと言うエリックの言葉は、カヲル達の置かれた状況を、一番よく表している言葉だった。それがアポロンと称えられていても、一パイロットの限界でもあったのだ。



 カヲルとの会議で、シンジは予想通り被害を押さえることを重点とした。ただ、そこで示されたのは、かなり予想とは異なる方法だった。

「インドの兵力も投入するというのかい?」

 被害を押さえるために、第一に考えるべきはギガンテスの先制攻撃だった。ムンバイ近海の水深から、香港の作戦はとれないと判断したシンジは、人海戦術による防御を打ち出したのだ。ギガンテス殲滅が難しくないというのは、共通の認識だったのだが、投入できる戦力のすべてを投入するというのは、カヲルの予想を超えた方法だった。
 自分のプランに驚くカヲルに、シンジはその狙いを説明した。

「確実に被害を押さえるという目的が第一だけどね。
 統制さえとれれば、防御壁は多い方がありがたいんだ。
 ただ、それ以上に、今回はインドの人達がどう受け取るかも考慮したんだよ。
 せっかく基地を作ったんだったら、そこから出撃させるべきなんだよ。
 自分たちの用意した戦力が役に立つ。
 そして僕たちのどちらかが間に合えば、被害を出さずにギガンテスを倒すことが出来る。
 それを示してあげれば、インドはシャームナガルの悲劇を過去の物に出来ると思うんだよ。
 それは、カテゴリー2の基地を建設した各国にとっても、大きな意味を持つことになると思う。
 せっかく用意した基地とパイロットは、活用すべきだと僕は思っているんだ。
 そうしないと、彼らの士気も保てないんじゃ無いのかな?」

 その説明を聞かされたカヲルは、「ああ」と思わず天を仰いでしまった。いかに被害を出さないかと言う考えは同じなのだが、そこから先の考え方が違っていたのだ。そしてそれを考えられるシンジを、凄いと素直に認められたのだ。
 被害を出さないだけなら、おそらく日本から出撃する4機だけでも達成可能だろう。そこにカサブランカが加わること、そして自前の戦力が加わること。それがどれだけの意味があるのかを、ちゃんと理解し、利用しようとしている。ただ戦って勝つことだけを考えている自分とは、背負おうとしている責任の重さが違っていると教えられた気がした。

「シンジ君の言うとおり、今回は出せる戦力のすべてを投入すべきだね。
 今回の出撃で、世界のどこでも8時間以内にカバーできることが証明できる。
 これで、多地点同時襲撃でも取り得る選択肢が増えることになる。
 しかも、新たに配備した戦力の有効性も示すことが出来るんだ。
 これで、ギガンテス迎撃が新しい時代を迎えたことが示すことが出来るよ」
「それで、直接の迎撃はカヲル君達に任せて良いかな?
 今更3体のギガンテス相手に、新しいこともやりようが無いと思うんだよ。
 僕たちは、シールドを持って街を守っているからね」

 勝手に役割を決めたシンジに、「いやいや」とカヲルはすかさず反論した。

「やっぱり、世間受けはシンジ君達がやった方が良いと思うんだよ。
 その方が、インドの人たちも納得がいくんじゃ無いのかな?」
「せっかく戦力が揃っているのに、3対3の戦いをしなくても良いと思うんだけどね……」
「確か、君たちは4機出撃していると聞いているのだがね」

 3と言う数字に引っかかったカヲルに、「ああ」とシンジはその意味を説明した。

「アサミちゃんは、全体を統制する役目だからね。
 ある意味、戦いの演出家ってところかな?
 英語の勉強もしたみたいだから、役に立ってみせるって張り切っていたよ」
「サンディエゴで、彼女の能力は立証されているからね。
 なるほど、彼女が全体統率をするんだったら、安心なのかもしれない。
 だけどシンジ君、君達なら3対3でも問題は無いと思うのだけどね。
 少なくとも、香港では3対3の戦いをしたのだろう?」
「陸に揚げてからは、3対2の戦いだったんだけど……
 まあ、カヲル君達も控えているから、やってみても大丈夫か」

 了解したと、シンジはカヲルの提案を受け入れた。

「だったら、先に着いた僕らが、現場の準備を進めることにしよう。
 インド政府にも、カサブランカ側からの依頼と言う形で出撃を指示するよ。
 そのときに、ちょっとだけシンジ君の名前は利用させて貰うけどね」

 構わないかというカヲルに、シンジはあっさりと自分の名を使うことを認めた。その方がスムーズに運ぶのであれば、余計な横やりを入れる理由も無い。それにインドの戦力投入を提案したのは、誰でもない自分だったのだ。

 そして二人の通信から6時間後、ムンバイでの戦いが始まった。シンジが予想したとおり、ギガンテスは上陸直前に加速粒子砲の攻撃を仕掛けてきた。だが遠距離からの攻撃は、市内に展開した混成ヘラクレス部隊によって、完璧に防御された。
 そうなると、次は上陸するギガンテスとの直接対決となる。これまでの戦いでは、マドカとナルには必ず2対1となるように配慮してきた。リスクを軽くするために、必ず数敵優位を保つようにしたのだ。だが今回の戦いでは、あえて1対1の戦いを指示することにした。その背景には、二人に対する信頼と、これまでの完璧な戦い方と言う実績があった。

「遠野先輩、鳴沢先輩、もしも危ないようだったらすぐに助けが来ますからね」

 そしていざという時のために、カサブランカの精鋭が後ろに控えていた。彼らは、アサミからの号令で、いつでも参戦できる状態で待機していたのである。市内に展開された混成部隊も、戦闘による被害に対処するため、すべてアサミのコントロール下に置かれていた。

「う〜ん、たぶん大丈夫っしょ」
「ようやく、本当の実力を出すステージが用意されたって事ね」

 気負いも緊張も感じさせない二人に、さすがだなとシンジは感心していた。そして後ろで全体を統括しているアサミに、「よろしく」と声を掛けて3人はギガンテスとの戦闘に突入した。

 海面のわずか上を滑空してきたギガンテスは、そのままの勢いでシンジ達に飛びかかってきた。まっすぐ飛び込んでくるギガンテスに対して、3人は揃って踵落としと言うか、踏みつけると言う攻撃で迎え撃った。ギガンテスにとって一番の武器、鋭い顎を踏みつぶすことで、決定的な武器を無効化することを狙ったのである。
 まるで動きをコピペしたように揃えた3人は、頭を踏みつぶした勢いで左足でギガンテスの背中を踏みつけた。そしてそのまま両手で短い尾を持ち上げ、左足を軸にして、力任せにギガンテスの体をへし折った。

 あっさりとした攻撃なのだが、これだけでギガンテスの殲滅作業が終了してしまった。完全に二つに折られた姿を見れば、復活する恐れも無いことだろう。
 接触してから体をへし折るまで、わずか3秒という早業は、今までの戦いと比べるまでもなく、圧勝としか言いようのない結果だった。初めての1対1の戦いも、マドカ達は危なげなく乗り越えてくれた。

 真ん中で両手を挙げたシンジに、マドカとナルは両側からハイタッチでそれに答えた。そして振り返ったシンジ達は、後ろで控えていたカサブランカの精鋭達とも、ハイタッチを交わして勝利を祝った。

「シンジ君、やっぱり君達のチームは凄いよ、凄すぎるよ!」

 その強さは、間近で見れば余計に強調される。3人の強さに感激したカヲルは、凄すぎると賛辞の言葉を繰り返した。
 しかも冷静に分析すれば、シンジの提案はすべて期待通りに機能していた。都市を守るように配置したインドの戦力は、アサミの指示の下、加速粒子砲の攻撃を防ぎきることに成功した。その成功によって、ムンバイの受けた被害はギガンテスが上陸した岸壁だけに押さえられたのである。死体の処理や、陥没した施設の復旧と言う作業はあるが、これまでの実績に比べたら、被害とは言えない程度の軽微な物だった。

「玖珂さん、作戦は完了しました。
 撤収および、この後の行動への指示をお願いします」
「撤収については、インド政府からシャームナガル基地への特別便が手配されることになった。
 君達の乗った機体は、そこから日本に行きに使ったキャリアで運ばれることになっている」

 機体のことだけ説明した玖珂一尉に、「ここでもですか」と苦笑混じりに聞き返した。

「インド政府から、シャームナガルとムンバイの双方で式典をしたいと依頼があった。
 最終的には、後藤特務一佐の指示となるが、覚悟をしておいてくれとしか言いようが無い」
「シャームナガルで式典を行いたいと言う気持ちは分かりますけどね……」

 最大の悲劇が起きた地で勝利を祝うことが、人類が新たな一歩を歩む象徴となる。そこに日本だけでは無く、カサブランカ、インドのパイロットが揃うことに、非常に大きな意味が着いてくるのだ。
 仕方が無いと諦めていたら、玖珂から新しい事実を告げられた。意外にも、サンディエゴ基地から、主力メンバーが駆けつけて来るというのだ。そのあたり、ギガンテス襲撃のリスク低下を鑑みた処置なのだろう。

「それに加えて、各国要人もシャームナガルに駆けつけると言うことだ」
「ずいぶんと、派手なことになりそうですね……」

 移送を待ちながら、シンジは、これがいったい誰が仕掛け人なのかを考えた。シャームナガルでの式典を開く意味の大きさは、改めて考えるまでもなく理解していることだった。そこに各国首脳が集まるのも、最大の悲劇が起こった地だと考えれば、政治ショーとしての効果も望めるだろう。しかも悲劇の地シャームナガルで、世界を守る3人が顔を揃える。人類反撃の象徴として、これ以上ふさわしい舞台はあり得なかった。
 だが、これほど大がかりな式典が、自然発生的に行われるはずが無いのである。当然、誰か仕掛け人が居ると考えるのが自然だった。

 ただ、シンジはあくまで一パイロットにしか過ぎない。アメリカ大統領に会ったことがあると言っても、それ以上の人脈があるわけでもなく、実際に世界を動かしているわけでも無い。インド基地を活用するのは自分の提案だが、いつの間にか、さらに進んだ提案に置き換えられていた。知らされた式典内容に、本当に凄いとシンジは世界の意思を感じたのだった。



 翌日行われたシャームナガルでの式典は、民族衣装で着飾った楽隊の演奏から始まった。そしてその後ろを、20台にも及ぶオープンカーがゆっくりと追従した。その先頭車両には、日本基地を代表してシンジとアサミの二人が座り、その後ろの車には、同じくマドカとナルが座らされた。そしてその次には、アスカとカヲルが、両基地を代表して座った。それ以降の車には、仲良くサンディエゴとカサブランカのパイロットが並んで座ることになった。
 車の配置からしても、日本基地が特別に扱われているのは明白だった。そしてその後開かれた式典で後にシャームナガル宣言と呼ばれる国連事務総長による演説が行われた。事務総長グエン・ホーは、集まった聴衆、テレビカメラに向かって、「人類の勝利」を高らかに宣言したのだ。

「われわれ人類は、ようやく新たな力を手に入れることに成功した。
 ムンバイの戦いでは、その力が全人類に示されたことだろう。
 これで、ギガンテスとの戦いが終わったわけでは無いのは確かである。
 だが、われわれ人類は、ギガンテスの挑戦をはね除ける力をここに得た。
 滅亡に向かっていた世界は、これで一転して繁栄に向かうことになる。
 それをここ悲劇の地で、私はこの世界に生きる人々に向けて宣言する!
 彼ら若き力によって、われわれの世界は、力強く繁栄する権利を得たのだ!」

 口から泡を飛ばし、グエンは全身を使って「新しい時代」の到来を民衆に伝えた。そして「彼ら」と紹介された若い力、ヘラクレスのパイロットを全世界に紹介したのである。一人一人が、今更誰かと紹介することなど必要は無い。そこに一同顔を合わせることが、世界に力を示す事になるのである。
 そして集まったパイロットの中心には、日本から来た4人が据えられた。そうすることで、ことさら新しい力を強調することが出来る。そして直前に行われたギガンテスとの戦闘は、その力を示すのに絶好の機会でもあったのだ。

 式典の最後に、守り神とも言われる3人が手を取り合ったのも、その目的からすれば当たり前の行為だっただろう。そしてその中心にシンジが居たことも、3人の関係をよく表したものだった。会場に詰めかけたカメラマンは、手を取り合う3人の写真を、いつまでも撮り続けたのだった。



***



 SICと呼ばれる大災害で、海沿いの地域は大きな打撃を被った。巨大な地震と大津波、その後の海面上昇は海沿いにある都市の大半を飲み込んだ。SIC自体、通常の地震とは違うため、再発する恐れはきわめて低いと言えただろう。それでも人々の海に対する恐怖は、その後の街作りに大きな影響を与えた。
 SIC被害からの復興で、その傾向は顕著に表れたと言えるだろう。利便性の面で、すべてが海から離れることは不可能だった。それでも、波にのまれた反省を生かし、可能な限り沿岸部から居住区は廃除されたのであるそして十分な津波対策のとれない低地は、利用を港湾施設や公園に限定された。それが、ギガンテス襲撃時の被害を押さえる役に立ったのだから、人間何が幸いするのか分かったものでは無かった。

 それは日本の北、北海道の地でも状況は同じだった。かつて製鉄や石炭で栄えたM市も、一番の繁華街は海の底に沈み、街の中心は少し内陸に入ったところへと移動していた。街の姿は、製鉄業が盛んだったかつての隆盛に及ぶべきも無いが、計画的に整備された街は、それなりの人々を集め、日本各地の都市と同様の活気を持っていた。
 そしてそのM市にある学校に、シンジの元カノ、瀬名アイリは転校していた。

 S高の反省か、彼女の母マスミは、新しい学校の近くに住処を求めた。娘の行動を監視するほど暇では無いので、そのあたりは利便性を求めたと言うのが正しいのかもしれない。そして暇では無いと言う事情の通り、月の半分以上は家に帰ってこなかった。

「結局、生活ってあまり変わっていないわね……」

 母親と同居することで、今までの生活がどう変わるのだろうか。それを考えていたアイリだったが、結局S高時代とあまり変化は無かった。その御蔭で、一人住まいが許されたことも理解できたほどだ。裏を返せば、S高時代も一人住まいにこだわる必要は無かったことになる。
 一人住まいよりは格段に広くなった家を、やっぱり一人で使っている。母の仕事部屋とか寝室とか、部屋こそ増えたがアイリにはあまり関係の無いことだったのだ。ただありがたいのは、家族用の住宅なので、キッチンが広くなったことだろう。それだけ使い勝手は良くなったのだが、あいにく手料理を振る舞う相手が居なかった。

「ついに、“英雄”になっちゃったんだ……」

 「健全な社会生活を送るため」と言う母の主張により、なぜか新聞を2紙瀬名家は取っていた。地元のH新聞と全国紙のA新聞、いずれも時折アイリが憤慨するような記事を書く両紙だった。そしてH新聞の今日のコラムは、「踊らされる子供」と言うタイトルで、シンジ達のことが揶揄されていた。“英雄”と言う名称にしても、明らかに否定的な意味合いを持って使用されていた。
 何度か切り刻んで捨ててやりたいと考えたことはあるが、リサイクルできなくなるだけだと裁断処理は諦めることにした。

「碇君……か」

 携帯の待ち受けには、可愛い猫の写真を使っている。だが写真のホルダの中には、シンジと撮った写真が沢山残されていた。そして電話帳には、シンジの携帯番号とメルアドも残っている。メールのゴミ箱には、出すことも出来ずに捨てられたメールが沢山貯まっていた。今更メールを送ってどうなるというのか、分かっていても、気がついたらメールを書いていたと言うことが何度もあったのだ。

「学校に行こう……」

 ぼうっとしていても、何も良いことは無いだろう。それに気づいたアイリは、壁に掛かった時計で時間を確認した。新しい学校までは、10分ほど歩けばたどり着くことが出来る。8時に家を出れば、十分余裕を持って教室に入ることが出来る距離だったのだ。S高の頃は頑張っていた部活も、転校してきてからはどこにも入部していなかった。

 学校に行こうと立ち上がったアイリは、着ていたパジャマ代わりのジャージを脱いで、白いパンツとブラだけの姿になった。
 濃い紺色のインナーに、アクセントとなるピンク色のリボン、そして茶色のアクセントが入った白のスカートと、それに合わせる同じく白の上着は、きっとおしゃれを意識して決められた物だろう。ただ、シンプルなS高のセーラー服に比べると、パーツが多くて着るのに時間が掛かるのものだった。ただ格好としては、こちらの方が可愛いと、結構気に入っている制服だった。
 それを手早く身につけたアイリは、最後に鏡の前で髪型と服装の乱れをチェックした。

「うん、完璧!」

 最後に鏡の前でくるりと回って、自画自賛の完了となる。少し太めになった紺のサブバッグを肩に掛ければ、登校の準備はすべて完了である。

「行ってきます」

 誰も居ないのだが、それが当たり前のようにアイリは家の中に声を掛け、しっかりと戸締まりをして明るい世界へと出て行った。

 新しい環境には、2ヶ月たってようやく慣れたと言うところだろうか。そのあたり、引っ越してきていきなり出来た友達のおかげと言うところがあるのだろう。
 夕方、地理に不案内で迷子になっていたところで、同じく迷子になっていた女の子と知り合ったのだ。そのときの状況から行くと、むしろ相手の方が困っていたのかもしれない。小雨が降るのに傘も持たず、携帯電話も電池切れと言う、にっちもさっちもいかない状況にあったのだ。

 お互い迷子同士と言うことでシンパシーを感じ合った二人は、アイリの携帯を使うことで無事危機から脱することが出来た。その時走ってきた男の子に、「ああ」とアイリはシンジのことを思い出してしまった。お兄さんだと教えられた男の子が、妹を大切にしているのも同じだったのだ。そして兄妹二人暮らしをしていると言うのも、シンジ達と同じだった。
 ただ兄妹二人暮らしはしているが、両親は仕事で長期不在になっているだけだと言うことだ。そのあたり、家を空けがちな母を持つ自分と大差は無かった。

「アイリさん、おはようございます」

 いつもの通り家を出たら、いつもの通り校門のところでその女の子に会った。自分より背が高いところが、レイとは違うところだろう。
 おはようございますと挨拶をしてきた瓜生サクノに、「おはよう」と元気よく返事をした。そこでサクノの横を見たアイリだったが、居るはずの男の子が居ないことに気がついた。

「あれ、お兄さんは?」
「兄は、ちょっと旅に出ています」

 11月の何もない時期に、高校生男子が「旅に出る」と言うのは普通はありえない。自分に並んで歩き出したサクノに、アイリは突っ込むことにした。

「サクノちゃん、授業をサボって旅に出るほどお兄さんは不良さんじゃ無いでしょ?」
「旅に出るのは不良じゃ無くて、人生を探しに……
 と言うのは軽い冗談、S市から帰ってくる予定が延びたの」

 S市と言うサクノの言葉に、アイリは少し心臓が飛び跳ねた気がした。ただ、その変化を表に出さず、「パイロットテストを受けたの?」と平静を装った。

「応募しているだなんて、初めて聞いたわ」
「結構悩んでいたから。
 それから、アイリさんには言いにくかったのだと思う」

 アイリがS市から転校してきたことは、最初に教師に紹介されたから、クラスでも知らない人は居ない。ただS高にいたことは、知っているのは本当に身近な人たちだけだった。そしてその人たちの中には、瓜生兄妹も含まれていた。

「私に?」
「だってアイリさん、S高の事を話したがらないから」
「だから、気を遣ってくれたって事ね」

 いくら何でも、それは気の使いすぎに違いない。はあっとため息を吐いたアイリは、「気を遣わなくても良いのに」とサクノに文句を言った。

「合格したら、結局分かっちゃうことでしょう?」
「落ちた時、気まずくならないためだと思う……」

 受かってしまえば、S市に引っ越すことになるのだから、気まずさと言うのを気にすることも無いのだろう。だが落ちてしまうと、これからも顔を合わせるから、気まずくなってしまうと言うのだ。これまでの合格率を考えると、落ちた時のことを考えても不思議なことではない。

「まあ、男の子がパイロットに憧れるのは仕方が無いと思うけど……」

 冷静な目で見れば、パイロットは間違い無く“格好いい”のだ。ヒロイックな面でも、男子が憧れるのも仕方が無いと思っていた。そう言う意味で、サクノの兄がパイロットを志望したのも理解できる。

「瓜生君は、堀北さんが狙いなのかしら?」
「ファンだと言う事は確かです。
 ですが、端から相手にされるとは思えません」

 地元の新聞が、どんなに回りくどく悪口を書こうが、日本の4人はヒーロー・ヒロインに違いなかった。しかも意地になって悪口を書いたせいか、明らかに発行部数が落ちているとの噂が立つぐらいだ。色々と書いていた全国紙の方も、最近は明らかに論調を変えたぐらいだ。それを考えれば、地元紙が屈服するのも時間の問題のように思われた。

「とにかく、今晩帰ってきますから色々と聞いてみます」
「でも、もしもカテゴリAになったら、瓜生くんは一人でS市に行くのかしら?」

 両親の仕事を考えると、家族揃ってM市を離れると言うのは考えにくい。そうなると、合格すればサクノの兄一人がS市に行くことになる。
 それを指摘したアイリに、サクノは「複雑」と少し顔を曇らせた。

「付いて行ったほうが良いとは思うのだけど……
 お父さん達のことを考えたら、この町を離れるのもどうかと思う」

 そう答えたサクノは、「でも」とアイリの顔を見た。

「もしものことを言っても、あまり意味は無いと思う。
 多分兄さんは、テストに引っかからないと思う。
 もう10万人近くテストしているのに、合格者は2人しか居ないから」
「5人も引っかかるジャージ部が特殊なのよね……」
「うん、そう思う……5人?」

 アイリの言葉に含まれていた間違いに、サクノはもう一度「5人?」と言って首を傾げた。

「もとからジャージ部に居た人で、パイロットになっているのは4人のはず。
 後から来た人は、特殊と言う話には関係ないと思うし……」
「あれっ、そうだっけ?」

 サクノが引っかかったことで、アイリは自分が秘密を口にしたことに気がついた。ただ、そこで慌てると余計におかしいと、いかにも勘違いをしたように振舞った。
 ちなみに、サクノはアイリがS高出身と言うことを知っていた。ただS高出身と言うことは知っていても、ジャージ部との関係どころか、シンジと同じクラスにいた事は教えられていなかった。ましてや元カノと言うことなど、アイリが口にするはずもなかったのだ。

「アイリさんが居た時には、碇さん達4人だったはず」
「そうかぁ、ジャージ部が5人で活動していたから勘違いしちゃったか」

 えへっと笑って誤魔化したアイリに、「多分そう」とサクノはそれ以上踏み込んで来なかった。ジャージ部の変遷は、テレビや週刊誌で取り上げられたおかげで、日本の高校生なら誰もが知っていることだった。そしてS高のスーパーマンを世界の英雄に鍛え上げた3年の二人、遠野マドカと鳴沢ナルは、憧れの先輩としての地位を固めていた。

 校門に入ってしまえば、下駄箱までさほど歩くはずもない。階段を上がった所で、サクノは小さくお辞儀をして自分の下駄箱の方へと駆けていった。自分より背が高いのは気になったが、「可愛いわね」とアイリは優しい眼差しでその後姿を見送った。
 そしてサクノを見送りながら、アイリはパイロットに応募したサクノの兄、瓜生シンゴのことを「らしくない」と考えていた。アイリは、二人が兄妹仲良く支えあって生きてきているのを知っていたのだ。そして、サクノが兄に抱く恋にも似た思いも感づいていた。そしてシンゴも、同じくらい妹のことをとても大切にしていた。それを知っているからこそ、パイロットに応募したことを「らしくない」と感じてしまったのだ。

 ただ、瓜生兄妹のことは、兄妹で解決すべきなのだ。少なくとも、自分が世話を焼くことではないのは確かだろう。だから「らしくない」と考えたアイリだったが、それ以上何かおせっかいをしようとも考えていなかった。
 下駄箱で上履きに履き替えたアイリは、浮かんでいた憂いの表情を消した。そして普段通りのキリッとした顔に戻り、ようやく慣れてきた教室へ向かって歩き出した。特にドキドキする事も、そして辛いことも感じない、とても平穏でゆるやかな空間。それがアイリにとって、新しい環境、M高での生活だった。



***



 国連事務総長のシャームナガル宣言は、日本のS基地に大きな転換を迫るものだった。大々的にS基地の4人を取り上げたことで、S基地のカテゴリ見直しが現実のものとなったのだ。エースが対象Iと言う恐怖も、示された巨大な功績の前に、世界は先に進むことを選択したのである。

 そして、内閣経由で後藤は国連の決定を受け取った。予想されたことだが、S基地が正式にカテゴリ1に変更されたのである。

「これで、篠山がますます富を手に入れることになるのね?」
「基地を動かすことは現実的でないからな」

 既存の自衛隊基地を利用すれば、新たな基地設立自体は難しくないだろう。現在のS基地を拡張するのに比べて、取り立てて難易度が高くなると言う事もなかったのだ。
 だが後藤は、基地移転はあり得ないと断言した。その背景には、施設以上に重要な、パイロットの事情が理由となっていた。国連で大々的に持ち上げられたにもかかわらず、シンジ達4人は未だ「民間協力者」の扱いなのである。そのあたり、「強制徴用」できないことが理由になっていた。

「それで、拡張計画はどうなってるの?」

 神前の質問に、「交渉中」と簡潔に後藤は答えた。

「もっとも、用地については篠山からは格安の借地料で提供するとの申し出がある。
 S市市長も、基地に対して全面協力をすると言ってきている。
 そういう意味では、「交渉」と言うのも、便宜的な物言いでしか無いな。
 どれだけの土地を、借地料がいくらで提供を受けるのか、その調整をしていると言うのが正解だ。
 同時に、市ともアクセス道路の調整が必要になってくる。
 こちらも、ルートさえうまく取れば、用地買収相手もほとんど篠山と言うことになる」
「買収交渉が簡単に済むと言う意味ではありがたいけど……
 癒着とか、裏金とか色々と騒がれそうな話ね」

 基地の拡張が行われれば、莫大な税金が投入されることになる。そのかなりの金額が篠山に落ちることになれば、痛くない腹を探られることになるのだろう。政府と篠山の関係がマスコミに載るのも、容易に予想されることだった。
 ただ、対象Iの取り込みを考えた時、基地はS市になければならなかったのだ。そして篠山の協力なしで、S市に基地を作るのは不可能だった。基地移転ができない以上、そこから先は、自動的に篠山が潤う構造ができていたのである。そして癒着については、後藤が巻き込まれる恐れのない問題でもあった。

「まあ、そっちの方は総理か国交相が悩めばいいだけだからな。
 むしろ、設備整備の方が厄介な問題となっている」

 そこで席を立った後藤は、部屋の入口にある「高性能給茶機」へと歩いて行った。色々と抵抗をしてみたのだが、結局セルフサービスの壁を突き崩すことができなかったのである。
 そこでカフェオレをカップに入れた後藤は、自分の席に戻りながら、「やることが多すぎる」とぼやいてみせた。

「ヘラクレス用の新型キャリアの導入が必要となるんだが……
 新しく発注した所で、納期が1年以上掛かると言うことだ。
 だから、サンディエゴとカサブランカから、保有機の一部を借用することになった。
 これで、移動時間を10%以上短縮することが出来るようになる。
 ただ、給油施設の改良や、格納庫の拡充が必要となるんだがな。
 それに加えて、滑走路の延長も考えなくてはいけなくなる。
 後は、常時給油されているので、セーフティーゾーンを広く取らなくてはいけない。
 消防設備についても、増強しないといざという時に対応できないんだ。
 輸送機一つとっても、これだけやることが有ると言うことだ。
 しかも、カテゴリ1となると、各国のパイロットの教育要請を受けることになる。
 すでに、ほとんどの基地から受け入れ要請が来ているんだ。
 そうなると、受け入れ施設の準備も必要だし、シミュレーターの性能アップもしなくてはいけない。
 しかもその中には、サンディエゴやカサブランカからの要請も有るぐらいだ。
 どうだ、やることが多すぎるというのを分かってもらえたか?」

 極端な話、予算的にはもう一つ基地を作るぐらい必要となるのである。カテゴリ変更に伴う費用の一部は、国連からも支出されることは決まっていた。だが負担としては、圧倒的に日本に大きくのしかかってくるのだ。
 そして、後藤が嘆いたことだが、サンディエゴやカサブランカとの関係も問題となる。明らかにノウハウに優れる両基地から、所属パイロットの訓練を依頼されているのだ。S基地の状況を考えれば、本来有り得ないはずの事だった。

「気持ちは分かるけど、あまり現実的とは思えないわね……
 教育と言っても、ここに教育するほどのノウハウはないでしょう?」

 S基地と言うのは、暫定運用開始からでも、半年も経っていない基地なのだ。それを考えると、教育の受け入れなど出来るはずがない。なにをどう教育するのか、基地運用のノウハウすら持ち合わせていなかったのである。パイロットにした所で、教育などしたこともなかったのだ。
 一つの前提を棚上げした神前の決め付けに、ぼりぼりと頭を掻きながら、「そうなんだよなぁ」と後藤はぼやいた。そして要請の中に含まれていたリクエストを、裏事情として神前に教えた。

「訓練受け入れに際して、短期留学の斡旋も要請されている」
「S高に入学させろって言うこと?」

 即答した神前に、「予想されることだな」と後藤はそれを認めた。

「彼の身近な所に置くことに意味がある。
 まあ、考え方としては間違っていないだろうな」

 現在主力となっている二人、遠野マドカと鳴沢ナルは、正式に訓練を受けた事実はない。それなのに、同程度の同調率を持つ他基地のパイロットを凌ぐ戦闘力を示しているのだ。単体能力でアポロンに次ぐと言えば、どの程度の能力か理解することが出来るだろう。
 その二人の能力が、S高での生活で形成されたと考えるのは、客観的事実をとして間違っていないだろう。同時に行われた碇シンジに対する分析でも、能力の形成がS高ジャージ部にあると確認されたのである。そこまで分析されれば、訓練生をその環境に放り込みたいと考えるのは当然の事だった。

「だけど、さすがのあの子たちも、多国籍対応は難しくない?」
「あそこは、小所帯だから成立していたところがあるからな。
 もっとも、それでも何とかしてしまうと言う期待させるところもある……」

 その答えに、なるほどそうかと神前も考えた。特に3年の二人とシンジの組み合わせは、不可能を可能にしてしまう期待を抱かせてしまうのだ。

「まあ、そちらの方はおいおい調整されることになる。
 うちがカテゴリ1になる以上、受け入れ方法を考えなくちゃいけないのは確かだ」

 やることが盛り沢山と、後藤は神前に対して繰り返した。

「そしてもう一つ、非常に重要な課題が残っているんだな。
 そして、その課題についてようやく総理から許可が下りることになった」
「重要な課題?
 それって、パイロット公募のことじゃないわよね?」

 重要な課題に心当たりの無い神前に、「忘れたのか」と後藤はシンジに対する記憶操作のことを指摘した。

「もはや、記憶の復帰措置は切り札では無くなっているということだ。
 新しい迎撃体制の要は、間違い無く“今の”碇シンジなんだよ。
 パイロットとしての技能以上に、正しい戦術眼……いや戦略眼もそうだな。
 その方が、今は貴重だと思われている。
 彼の記憶を復元させた時、その能力が失われないのなら問題はない。
 だが3年と少し前の碇シンジに戻ってしまったら、あまりにも失うものが多すぎるんだ。
 パイロットとしての能力にしても、1対1の戦いですら今の碇シンジの方が上だろう。
 ましてや、全体の統率、適切な作戦の実行など期待できなくなってしまう。
 世界を滅ぼすリスクより、今の碇シンジを失うリスクの方が大きくなっているんだ。
 だから今の碇シンジを守るため、記憶復元の鍵を握る人物に会うことにした。
 その許可が、ようやく総理から下りたところなんだ」
「不用意に、記憶復元されないようにするってことね?」
「ああ、彼にも余計なことをさせるわけにはいかないからな」

 何がきっかけで記憶が復元されるのか分からなければ、常にそのリスクを抱えていることになる。それを避けるためには、ある程度記憶操作の中身に踏み込む必要があった。ただ、それが重要機密であるため、後藤にすら開示されていなかったのだ。

「ただ単に思い出すだけなら、何も思い悩むことはないんだろうな。
 今の能力のまま同調率だけが上がれば、我々はますます力強い味方を得ることになる。
 だが、俺の勘ってやつが、そんなに良いことはないって騒ぎ立ててくれるんだ。
 そして嫌らしいことに、いずれ究極の選択を迫られると言ってくれているんだ」
「究極の選択……って」

 いつに無く深刻な顔をした後藤に、神前はゴクリとつばを飲み込んだ。

「同調率はそこそこ、その代わりにそれ以外の才能に溢れる、俺達が知っている今の碇シンジを取るのか。
 さもなければ、同調率以外は並以下の碇シンジを取るかの選択だ」
「今の彼は、Fifth Apostleすら倒したのよ。
 同調率だけを求められる敵なんて、実際に存在するの?」
「可能性として無いわけではない、としか言い様がない。
 もしも過去の戦闘記録を見せられるのなら、攻略方法を検討させようと思っている。
 その意味でも、俺はキーパーソンに会う必要があると思っている」

 その説明で、「重要な課題」と後藤が言うことに神前は理解できた。ある意味、基地機能の拡張より問題としては重大に違いなかった。

「それで、いつ会わせてもらうの?」
「いつでもいいと言うことだ。
 だから、今日の午後会いに行くことにした」
「随分と早いのね……」
「こんなこと、先延ばしにしても良いことはないからな」

 何を確認するかは、すでに総理に報告していることだった。だから面会が許可されたからといって、改めて準備するようなことはなかったのだ。
 先延ばしにしても良いことはない。神前は、確かにそうだと後藤の言葉を認めた。様々なリスクを考えた時、知るべきことは早めに知っておくべきなのは間違いではなかったのだ。



 どんな凄いところかと身構えた後藤だったが、鏑木に指示された場所は、ごく当たり前の大学の研究室だった。T大と言えば日本トップの大学なのだが、研究の中身を考えると、言い方は悪いがマッドな雰囲気があるかと考えたのだ。
 そして後藤は、「ようこそ」と茂木と名乗る教授に向かえられた。教授と言う役職、そして見た目から50過ぎかと後藤は茂木を観察した。偏見なのかもしれないが、ぼさぼさ頭というのが研究者らしかった。

「お話については、鏑木総理から伺っています。
 後藤さんと仰いましたか、包み隠さずお話しますので、なんなりと質問してください。
 ただ、私も直接の当事者ではない部分もあるため、分からないところがあることをご容赦願います」
「直接の当事者ではない?
 なぜ、直接の当事者に会わせていただけないのですか?」

 以前の碇シンジに接した学者に会えると期待しただけに、茂木の言葉に後藤は失望を感じていた。だが茂木の答えに、それ程のことなのかと逆に驚かされた。

「出来るのであれば、お引き合わせしたかったのですが。
 碇シンジの記憶操作……正確には違うのですが、それを主導した澤口教授は亡くなられています。
 残された遺書には、罪の意識に耐えられず自死を選ぶと書かれていました」
「自殺をした!?
 しかも、この件が理由になっているのだと?」

 驚いた後藤に、「ええ」と茂木は簡潔に答えた。そして少しせわしなく視線を動かしてから、ぼさぼさになった髪を右手で掴んでから話しだした。

「なぜ病的にまで記憶を操作したのに、簡単に元に戻すことができるのか。
 ここにたどり着いたということは、あなたはそれを疑問に感じたのだと理解しています」
「疑問に感じましたが、あくまでそれはきっかけにしか過ぎません。
 私が一番知りたいのは、碇シンジの記憶復元措置の意味です。
 第一に、日常生活で予期せずして記憶が戻ってしまうことがあるのか?
 記憶を戻さないために、気をつけて置かなければいけないことはあるのか?
 もしも記憶が戻った時、今の記憶や人格はどうなってしまうのか。
 当然記憶を戻すことになった時、どの程度時間がかかるのかも重要だとは思っています」
「ギガンテス迎撃に責任のあるあなたなら、当然の疑問でしょうな……」

 ふっとため息を吐いた茂木は、「少しお待ちを」と言って立ち上がった。そしてドアを開けて、隣の部屋へと入って行った。そして少ししてから、両手にコーヒーの入ったマグカップを持って戻ってきた。

「お気遣いは不要でしたのに」

 それを自分に対する気遣いと考えた後藤に、「違うのだ」と茂木は苦笑を浮かべた。

「私自身、心を落ち着ける必要があるということです。
 後藤さん、ある意味私はあなたに感謝をしているんです。
 澤口教授が亡くなられて、私はこの秘密を一人胸のうちに収めるという重荷を抱えていました。
 その少しを、ようやく下ろすことが出来るのですよ」

 ふっと寂しく笑った茂木は、いきなり核心を話し始めた。

「私と澤口教授が行ったのは、記憶の操作ではなく記憶の保存・複写でした。
 ある意味コンピューターの仮想化に似た方法で、もう一人の碇シンジを脳の中に作り上げたのです。
 そしてオリジナルには、深い睡眠に似た状態に入ってもらいました。
 私達がしたのはそこまでで、後は別の学者たちがコピーに対して記憶操作を行いました。
 だから休眠している元の碇シンジを起こせば、容易に記憶を取り戻すことができます。
 夢すら見ない深い睡眠状態からの復帰ですから、彼は時間の経過を感じることはありません。
 ただ単に目を閉じて開いた、その程度の変化しか感じ取れないでしょう。
 そのことからお分かりいただけると思いますが、
 今の記憶や人格は、綺麗さっぱりなかったことにされると言うのが答えとなります。
 彼が眠りについてからの経験は、絶対に引き継がれることはありません。
 彼は、ただ眠りについた3年前に戻るだけなんです」

 茂木の言葉に、後藤は自分の手が震えているのに気がついた。いや、震えているのは必ずしも手だけではなかった。なぜか歯がガチガチと音を立て、全身からも血の気が引いたように震えが起きていたのだ。鏡を見れば、間違い無く顔色は真っ青になっていただろう。

「今の記憶、彼の経験や思い……それはすべて失われると言うのですか?」
「現象的には違いますが、結果としてはそう言うことになるでしょう。
 脳の中に情報としては刻まれていますが、それを過去の碇シンジに結びつけるものが無いのです。
 そしていずれは、刻まれていた情報も消去されてしまうことでしょう」

 ぐいっとコーヒーを煽った茂木は、「それが罪なのだ」と苦しげに吐き出した。

「彼の記憶を戻さないために気をつけることは、と言うことでしたね。
 結論から言えば、日常生活の刺激で記憶が戻ることはありません。
 仮想領域に確保された人格が、元の人格に影響をおよぼすことはあり得ないんです。
 だから今の彼が、何を考えようと、何を見聞きしようと、眠っている本人格は目覚めないんです。
 本人格を目覚めさせるには、特殊な薬の投与と電気的刺激が必要となります。
 緊急対応で行う場合、およそ1時間程度で完了する措置だとご承知おきください。
 そしてその措置自体、私や澤口教授が死んでも行えるようになっています」

 ふっと寂しく笑った茂木は、「ありがとう」と後藤に対して感謝の言葉を口にした。そんな茂木に対して、「もう一つ」と後藤は質問を付け加えた。ありがとうの言葉の意味を、後藤は気にしなかった。

「今の彼の経験、記憶、思い、それを元の人格に引き継ぐことは可能ですか?
 いえ、すぐにではなく、その方法があるのかという意味ですが」
「不可能ではない、ただしその方法は分かっていない。
 そしてその方法を研究している者は誰もいないと言うのが答えです。
 何しろ机上理論でしか無かった、脳内への仮想人格の構築、その被験者第一号が彼なんです。
 そして恐らく、最後の被験者になるかと思います。
 あまりにも非人道的すぎて、二度と使われる技術ではないでしょう」

 不可能ではないと茂木は言ったが、事実上不可能と言うことになる。それを理解した後藤は、「もう一つ」と新しい質問を加えた。これまでの話を聞いた限り、碇シンジの記憶を戻すという選択を行えない。勝手に復元することがないというのなら、むしろ都合がいいと考えたのだ。ただそのためには、どうしてももう一つ確認しておく必要が有った。

「彼は、今のまま生涯を過ごすことは出来るのですか?」

 その質問に対して、すぐには茂木から答えが出て来なかった。せわしなく視線を彷徨わせ、何度も口を開きかけてはすぐにつぐんでしまった。それに焦れた後藤は、「先生」と答えを促した。

「あなたは、碇シンジに対して責任があるはずです。
 彼は、今のまま人生を送ることが出来るのですか?」

 そう言って迫った後藤に、茂木はようやく重い口を開いた。

「確かに、私は彼に対して大きな責任を負っています……
 澤口は死を選びましたが、私が死ななかったのはそれが理由になっているんです。
 今になって考えれば、どうしてあんなことをしてしまったのかと思っています。
 私と澤口は、人として許されないことをしてしまったのだと今も思っているんです。
 いくら命令されたからと言って、あんなことをしてはいけなかったんです。
 辛い記憶を忘れさせるだけなら、他にもたくさんの方法があったんですよ」

 懺悔の言葉を口にした茂木に、後藤はもう一度「どうなのですか?」と強い口調で迫った。それでようやく覚悟を決めたのか、茂木は後藤に対して過酷な現実を突きつけた。

「結論から言えば、破綻するのはさほど遠くはありません。
 制限された仮想領域ですから、さほど容量が有るわけではないのです。
 報告書にあった、突然冷静になってしまうという現象。
 あれは、感情が昂ぶらないようにするという処理が理由ではないのですよ。
 ただ単に脳のキャパシティを超えるため、そこで頭打ちになっているだけなんです。
 ある意味、これ以上は無理だという脳からの警告となっているんです。
 彼が学んだ知識、そして恋愛という経験、その全てが割当てられた領域を圧迫しています。
 多少の自動拡張は有ったとしても、限界が近いというのは疑いようはありません。
 そして限界を超えてしまうと、今の碇シンジという存在は崩壊してしまうでしょう。
 その結果何が起こるのか、残念ながら確かなことは何も言えません。
 ただ単に、古くて奥の方にしまわれた情報から忘れられていくのか、
 さもなければ、精神に異常をきたすことになるのか……
 最終的には、記憶の部分喪失から精神異常に進んでいくのではないでしょうか」
「い、今の彼を、もう一度別の領域に転写することはできないのですか!」

 過去に一度成功しているのなら、もう一度同じ事が出来るはずだ。そしてより広い領域に転写すれば、破綻を免れることも出来るはずなのである。そう考えた後藤に、「現実的には難しい」と茂木は答えた。

「新たに広い領域を確保し、転写後今の領域と結合を行う。
 実際のコンピューターなら、さほど難しくない技術でしょう。
 ですが、人間の脳がそれほど簡単なものであるわけがない。
 それでも、可能か不可能かと言われれば、不可能ではないという答えになります。
 ですが、本当に実行するのかというと、あまりにもリスクが大きすぎるとしか言いようがありません。
 うまくいかなければ、大本の碇シンジにダメージを与える恐れもあります。
 失敗するリスクが高すぎて、そして失敗した時の影響も大きすぎるのです。
 そしてその分野を受け持っていたのは、自殺した澤口教授なんですよ」

 後藤が口にした、記憶の再転写による人格の保護は、誰にも行えないと言うのである。その説明は、今のシンジに対する死刑宣告にも等しいものだった。何をどう頑張ったとしても、遠くない未来に今のシンジは消え失せることになるのだ。
 そしてシンジ個人の問題と同時に、世界は貴重な戦力を失うことになってしまうのだ。いくども行われた分析では、ただひとつの例外を除き、記憶を取り戻すことは戦力ダウンにしかならないとされたのだ。まさに最悪の状況が、後藤に突きつけられたのだ。

「もう一度確認します。
 本当に、今のままでは居られないのですか?」
「今後何十年もと言う意味であれば、間違い無く不可能としか言いようがありません。
 先程も言いましたが、それはさほど遠い未来ではないと考えられます。
 すでに、いくつか限界が近いことを示す兆候が現れているんです。
 今後の状況にもよりますが、もって1年から2年というところではないでしょうか。
 その間に元の人格を呼び起こさないと、待っているのは破綻でしか無いでしょう」
「あなた達はっ!」

 その時後藤が感じたのは、茂木たちに対する純粋な怒りだった。僅か14の少年の心をいじるだけでなく、僅かな期間で破綻するような稚拙な操作をしてくれたのだ。しかも普通の少年として生きてきた3年間の時間まで、綺麗サッパリ無かったことにされてしまう。それがどれだけ残酷なことか、間近に接してきたこともあり、後藤にはとても許せることではなかった。
 激昂しかけた後藤だったが、茂木を殺すようなことはしなかった。ふと感じたことなのだが、茂木自身死を望んでいるように思えてしまったのだ。澤口と言う共同研究者は、自責の念から死を選んだと聞かされた。そして同じように自責の念を感じている茂木は、死を選ぶ事も出来なかったのだと感じていたのだ。だから自分がこの男を手に掛けることは、この男にとっても救いなのだと分かってしまったのだ。

 なんとか感情を抑えようとした後藤に向かって、茂木はへらっと口元を歪めた。そしてその口から、後藤を挑発するような言葉を吐き出した。

「私だけを責めるのですか?
 元はと言えば、対象Iの精神操作はあなた達が命令したことなんですよ。
 だったら、あなた達だって同罪じゃないですか。
 自分達は悪くないなんて、人に責任を押し付けないでくださいよ」
「ああ、確かにあなたの言うとおりなのでしょう」

 茂木の言うとおり、対象Iを彼らに差し出したのは日本政府なのだ。そしてすぐに復元できるようにと注文をつけ、14の少年の心を切り刻むことを容認した。罪の重さを比べることは、今更意味のないことだろう。
 そこで心を落ちつけた後藤は、最後にもう一つだけ確認をすることにした。

「破綻の兆候は、どのようなものが考えられますか?」
「普通なら覚えているようなことを忘れること。
 普段ならしないような失敗をするようになること。
 本来あり得ないことが起きるようになったら、その徴候だと考えればいいでしょう。
 短時間の意識喪失と言うのも想定されます」
「その状態になったら、記憶を復元するしか彼を救う方法は無いということですか……」

 それを確認した後藤に、「救えませんよ」と茂木は吐き捨てた。

「何れにしても、今の彼は消え失せることになります。
 別の人格を持った、たとえそれが元の人格だとしても、それが救ったことになりますかね」

 だから「救うことはできない」と、茂木は後藤に対して繰り返したのだった。そしてその極め付けが、どうしようもないほど真実であるのを後藤も理解してしまったのだ。



 後藤にとって、茂木の話はあまりにも衝撃的すぎた。本人にとって重大なことだからと、初めはシンジに説明するつもりで居たのである。だが聞かされた中身は、打ち明けることをためらわせる物だった。
 そしてもう一つ後藤にとって衝撃的だったのは、翌日の新聞で茂木の自殺を知らされたことだ。後藤が帰ってから、研究室で首を吊ったというのである。「これで楽になれます」と言う遺書と、研究室の学生達の証言から、警察も自殺として処理を行った。

「これで、関係者はすべてこの世を逃げ出したか……」

 ひ弱と言うより無責任だ。いや、茂木としては、後藤に責任を渡したと考えたのかもしれない。いずれにしても、死と言うのは碇シンジに対する責任の取り方では無い。それを考えると、逃げ出した二人、澤口と茂木に対して、どうしようも無い怒りがこみ上げてくるのだ。
 だがいくら怒ろうとも、その相手は墓の下に行ってしまった。責任を渡された後藤としては、この情報をどう扱うのかを考えなければいけなくなってしまった。

 そこに天の助けか地獄の使いか、鏑木総理から後藤に電話が掛かってきた。それを部下から受け取った後藤は、電話に出たとたん「何をした」と鏑木に責められた。

「何をしたと言われても、私は説明を受けただけです。
 少なくとも、私から死を迫るようなことは絶対にしません。
 彼には、彼しか出来ない責任をとって貰うつもりでいたんです」
「奴にしかとれない責任?」

 電話の向こうで、鏑木が訝っているのが想像できた。そんな鏑木に、「お時間をいただけますか?」と後藤は予定を聞いた。

「時間か、今晩ならば多少とれないことは無いが……」
「では、すぐにそちらに参ります。
 何時にどこへ伺えばよろしいでしょうか?」

 後藤の対応に、鏑木は重大な話があるのだと察した。それを理解して、「少し待て」と電話を保留にした。そして電話口で待つこと5分、鏑木から帰ってきたのは、「そちらに向かう」と言う予想もしない答えだった。

「明日の予定を、S基地視察に組み替えた。
 夕方そちらに向かうから、適当な場所を指定してくれ。
 なんだったら、お前のお気に入りのカフェでも構わないぞ」
「さすがに、そこでは話をするのに憚られます」

 説明する内容が、あまりにも関係者に関わりすぎている。それを考えると、BWHで話をするわけにはいかない。そうかと納得した鏑木は、任せると言って電話を切った。
 小さく息を吐き出した後藤は、早速密会場所の手配に掛かった。総理を迎えるのに失礼が無く、そして秘密を十分に守れる場所が必要だった。そして自分が会っても不自然では無いと言う条件をつけて、部下に手配を命じたのである。適当な場所が無ければ、基地の会議室でも構わないと考えていた。

 そしてその夜、市内にあるホテルの一室に鏑木と後藤はいた。結局、鏑木が泊まるホテルに、会談の場所を求めたのである。SPや秘書も排して二人きりになったところで、後藤は「碇シンジのことです」と話を切り出した。

「対象Iとは言わないんだな?」

 そう言って混ぜ返した鏑木に、後藤は「碇シンジの問題です」と言い返した。

「総理にお許しをいただいて、対象Iに最初に操作を行った茂木という男に会いました。
 そこで、世界にとって、看過し得ない事実を聞かされました」
「世界にとって、か?」
「はい、碇シンジの問題は、間違いなく世界全体に影響します。
 説明を後回しにして申し上げますが、“今”の英雄碇シンジはまもなく消えることになります」

 後藤の言葉に、鏑木は思わず腰を浮かして驚いてしまった。

「そ、それは、回復しなくても記憶が戻ると言うことか!?」
「いえ、それよりももっと悪いと言えるでしょう。
 いつと言う断言は出来ませんが、精神的に破綻を起こすという物です。
 その結果、何が起こるのかは茂木教授にも想像が付かないと言うことでした。
 それでも一つだけ言えるのは、それはそう遠くない未来だと言うことです。
 そしてそんな事態が起きたなら、世界は再び破滅に向かうことになるでしょう。
 いえ、加速して破滅に向かうと言った方が正しいのかもしれません」

 わずか4回の戦いで、碇シンジは世界の精神的支柱の立場を確立したのである。その支柱が突如失われることになれば、間違いなく迎撃態勢に深刻な影響が現れてくれるだろう。日本における迎撃態勢が壊滅するだけで無く、サンディエゴ、カサブランカの両基地に対しても悪影響が及ぼされることになる。
 そして英雄の喪失は、空気という意味で世界をどん底に突き落とすことになる。新たな英雄の出現が望めない以上、それは回復不能な痛手となって世界を襲うことになるだろう。

「そ、それを、回避する方法は無いのか?」

 さすがに声を震わせた鏑木に、「一つだけ」と後藤は究極の選択を持ち出した。

「対象Iの記憶を復元させることです。
 そうすれば、不安定な仮想人格の問題を回避できます」

 回避方法が想定の範囲だったことに、鏑木はほっと安堵の息を漏らした。だがそんな鏑木に、後藤は何も安心できないと現実を突きつけた。

「記憶の回復をした場合、対象Iに碇シンジの記憶は引き継がれません。
 記憶操作を行った時に遡って、人としての連続性を確保することになります。
 従って、碇シンジがこれまで示した、卓越した指揮官としての能力は失われます。
 いえ、パイロットとしても、数段落ちる能力しか示せないことになります。
 唯一優れているのは、ヘラクレスとの同調率だけでしょう。
 作戦指揮どころか、部隊連携も出来ないお粗末なパイロットしか居なくなるのです。
 そして重要なことは、遠野マドカ、鳴沢ナル、堀北アサミとの連携が望めなくなることです」

 後藤の言葉が正しければ、日本の迎撃機能が壊滅すると言う事になる。破綻よりはましとは言え深刻な事態が生じることに疑いようが無かった。

「そんなことになったら、3人は戦えなくなるだろうと言うのだな」
「時間が掛かるでしょうが、遠野マドカ、鳴沢ナルは何とか持ち直してくれるでしょう。
 しかし、堀北アサミの復帰は絶望的かと思われます」
「2つの頭脳を失うことになると言うのだな」
「二人の天才を失うことになると言うことです……」

 いっそのこと、すっきりと死んでくれた方が、後腐れが無かったのかもしれない。だが、今はどちらに転んだとしても、世界が深刻な危機に襲われることは確かだったのだ。鏑木は、どちらを選んでも地獄しかないスイッチを目の前に置かれたような気がしていた。二つの違いは、どちらの方が多少ましかと言うことだった。
 突きつけられた事実は、二人から言葉を奪うのに十分な物だった。こんな時に、何を口にして良いのか、さすがの鏑木にも思い当たらなかったのだ。

「どうにもならないと言うのか……」

 しばらくして鏑木から絞り出された言葉は、今更の物でしか無かった。そして後藤は、「避けられない未来です」と希望を打ち消した。

「当初私は、聞かされたことを碇シンジに説明するつもりでいました。
 そうすることで、今後の適切な対処が可能になると考えていたのです。
 ですが聞かされた事実は、私が想像した以上に悪い物でした。
 ですから、このことを本人に伝えるべきかどうか、迷いが生じてしまいました」
「どう転んでも、お前はもうすぐ消えると言う宣言をすることになるのか……」

 それを本人に告げるというのは、確かにとても残酷なことに違いない。しかも待っているのは死では無く、自分と同じ顔をした別人が入れ替わると言うのである。受け取る方として、これ以上残酷なことは無いだろう。

「だが、話さないわけにはいかないだろう。
 その時の備えをしておけば、被害を少しでも押さえることが出来る」
「私の中の結論も、総理のお考えと同じです。
 いえ、冷静に考えれば、伝えないという答えはあり得ないと思っています。
 しかし、辛すぎるのですよ、いくら私が汚れていても……」
「その泣き言を聞いてくれる相手が欲しかったと言うことか……」

 それが、わざわざ面と向かって事情説明をした理由なのか。後藤の態度に、鏑木は急な面談の理由を理解した。そして後藤が言うとおり、あらゆる面で「辛すぎる」宣告に違いなかった。

「だが、お前には責任がある」

 それでも、一国を与る者として、最善を尽くす義務が鏑木にはあった。だから鏑木は、「責任を果たせ」と後藤に迫ったのである。

「ここで逃げたら、お前はもう、二度と戦えなくなるぞ」
「逃げたところで、状況が好転しないのは分かっていますよ……
 ただ、誰かに話を聞いて貰いたかっただけです」
「ふん、光栄だと言ってやろうか?」

 不機嫌そうな顔をした鏑木に、そうですなと後藤は同意した。そして少し間を置いてから、「最善の措置を執る」と約束した。

「最善の措置……か?」
「避けられないことなら、それを前提に行動するしか無いでしょう。
 ならば、彼の知恵をぎりぎりまで絞り出す以外は無いと思われます」
「残酷な事実を突きつけると言うことか?
 だが、そんなことをして本当に大丈夫なのか?」

 余計なことを知らせて、自暴自棄になったりしないか。特に破綻が近いことを教えるのは、決定的な問題を引き起こす可能性がある。もしもその先に破滅が待っているのなら、事実を伏せることも対処の一つであるのは間違いなかった。
 「大丈夫なのか」と言う鏑木に、後藤は「おそらく」と言う不確かな保証を返した。その答えに目を剥いた鏑木に、さほどリスクが高くないことを後藤は説明した。

「今の彼は、あまり感情を高ぶらせることは無いんですよ。
 それこそが、限界が近い証拠にもなっています。
 どんなに感情を高ぶらせても、ある一線を越えると潮が引くように収まってしまう。
 それは、後から行われた精神操作が理由では無かったと言うことです。
 だからこの話を伝えても、一瞬動揺はするでしょうが、
 すぐに悲しくなるほどの冷静さを示してくれるでしょう」

 そう答えた時、すでに後藤はいつもの後藤に戻っていた。それをさすがと認めた鏑木は、これで終わりかと後藤に聞いた。

「ご相談したいことは、これで終わりです……が」

 そう言って時計を見た後藤は、まだ十分に時間があるのを確認した。

「いつもの店にご案内しようかと思ったのですが……」
「遠野マドカの実家か。
 警備上問題が無い場所だな」

 ぞろぞろとSPを引き連れていったら、目立つことこの上ないし、くつろぐことも出来ないだろう。そう言う意味で、周辺警備の厚くなっているBWHならば、SPを残して入店することも可能だろう。横に自衛隊の精鋭が居るのだから、店内でも危険なことはあり得ないはずだ。
 それを考えた鏑木は、「おもしろい」と言って誘いに乗ることにした。日本の誇る4人のうちの1人の実家だと考えれば、自分が顔を出す立派な理由になってくれたのだ。



 後藤がシンジを呼び止めたのは、鏑木と話をしてすぐ、11月も終わりに近い土曜のことだった。リスボンの戦いが無事に終わった後、待機解除となったところで声を掛けたのである。

「すまないが、碇シンジ君とだけ話をしたい」

 いつも以上に真剣な顔に、シンジはアサミに先に帰っているようにとお願いをした。

「たぶん、あまり遅くはならないと思うよ」
「じゃあ、レイちゃんと夕食を作って待っていますね」

 じゃあと手を振ってから、アサミは軽快な足取りでシンジの元を離れていった。それを見送ったところで、シンジは後藤の方へと振り返った。

「それで、どこで話をするんですか?」
「ああ、私の部屋に来てくれないか」

 少なくとも、後藤との間で解決すべき問題は起きていないはずだ。そして他基地との関係でも、今は解決すべき問題があるとは思えない。協力要請にしたところで、アサミまで遠ざける理由は思い当たらなかった。
 何だろうと不思議に思いながら付いていったシンジに、後藤はいきなり核心から話し始めた。

 ・記憶操作のこと
 ・記憶を戻すことで、今の記憶、経験のすべてが失われること
 ・今のままでも、破綻が近づいていること

 何れにしても、遠くない未来に今の碇シンジと言う存在はいなくなる。重要な話を、後藤は淡々とシンジに伝えたのである。そして一通り伝え終わったところで、まっすぐシンジを見てその反応を待った。
 鏑木に対しては、シンジは冷静に受け止めるだろうとは言ったが、17の少年にそれを求めるのは無理があることは理解していた。泣きわめくか、さもなければ茫然自失とするのか、そうなって当たり前だと考えていたのだ。
 だがそんな予想に反し、シンジはあっさりと後藤の言葉を受け止めた。そのせいで、後藤も「冷静なんだな」と言わなくても良い一言を口にしてしまった。

「もう、どうしようも無く止めを刺されてしまいましたからね。
 だから、ただ冷静に見えるだけだと思いますよ。
 それに、後藤さんが教えてくれたことは、だいたい予想した通りって事もありました。
 どうも、体は大きくなっても後ろ向きな性格は変わっていないようですね。
 一人になると、悪いことばっかり考えてしまうんですよ。
 こういうところは、先輩達の前向きさを見習わないといけないのに……
 でも、アサミちゃんには悪いことをしたんだよなぁ」
「予想、していたのか……」

 これまでいろいろと驚かされたが、予想していたと言うシンジの言葉に一番後藤は驚かされた。

「自分のことですから、いろいろと可能性を考えてみたんですよ。
 記憶の復元が保険と言うのだったら、保険として役に立つ必要があるんでしょう?
 だったら、どう転ぶのか分からない方法を選ぶことは出来ないと思いますよ。
 そこで思いついた一番確実な方法は、記憶操作した時点に戻すと言う方法でした。
 もちろん、どうやったらそんな真似が出来るのかまでは分かりませんよ。
 ただ、その方法の場合、今の僕は消えて無くなるんだと思っていました。
 だって、残っていたらどうなるか全く分からないですからね。
 そんな保険を使わなくてもいいようにと考えていたんですが、それも無駄だったと言うことなんですか。
 それだけが、ちょっとだけ予想と違っていたのかなと思っただけです。
 それにしたところで、やっぱりそうなのかと納得がいったんですよ」
「やっぱり……とは、何か自覚症状があるのか?」

 もしも自覚症状があるとすれば、それだけ破綻が近づいていることになる。それを心配した後藤に、さんざん言ってきたことだとシンジは、急に冷静になる症状を持ち出した。

「感情の起伏を押さえる操作はできても、あんな不自然な冷静になり方はあり得ないでしょう。
 あれって、何かが限界を超えたから、その反動で押し戻されたような感じなんです。
 そう考えたら、何か歯車が狂っているんじゃ無いかって思い始めたんです。
 最初は、記憶の封印が解ける兆候かと思ったんですけどね。
 もう一つの可能性として、入れ物が限界に近いんじゃないかとも考えました。
 今の後藤さんの話は、僕に正解を教えてくれただけのことなんです」
「だから、冷静で居られるというのか?」

 「絶対にそれはおかしい」、後藤は大声でそう叫びたい気持ちに襲われていた。泣いて叫んで、自分を殴ってくるのが正常な反応だと思っていたのだ。シンジに限ってそれは無いと思っていても、そうしてくれることを後藤は期待していた。そうしてくれた方が、自分も救われることになるのだと。
 だがシンジは、自分が予想した以上に冷静に事実を受け止めてくれた。それはおかしいとか、間違っているとか言うことは簡単だった。だが本人が受け入れている以上、それを口にするのは甘えでしかなかった。

「別に、冷静って訳じゃありませんよ。
 でも、今更怒ったところでどうにかなる問題じゃ無いでしょ?
 叫んでわめいて、暴れてどうにかなるんだったら、いくらでも暴れて見せますよ。
 でも、それって逆に自分で自分の首を絞めることになるんですよね。
 だったら、淡々と事実を受け止め、これからどうするのかを考えた方が良いじゃ無いですか。
 そもそも、後藤さん相手に泣いたって何の解決にもならないんですよ」
「そう言われればそうなんだが……
 だが、感情というのはそう言う物では無いだろう?」

 今のシンジを襲っているのは、間違いなくどうしようもない理不尽なのだ。その理不尽さに腹を立てるのは、人として自然な感情のはずだった。その感情すら抑え込むのは、後藤で無くてもおかしいと考えるだろう。

「だから言ったでしょう?
 自分でもおかしいと思うようになったんだって。
 この話をいくら議論しても、絶対に解決策なんてあり得ないんですよ。
 だから後藤さん、後藤さんとはもっと重要な話をしたいんです。
 破綻するまで放置するわけには行きませんから、どこかで記憶の復元措置を行うんですよね。
 偽物の僕が本物の僕にバトンタッチするんですから、本物の僕が困らないようにする必要があるんです。
 間違いなく、中2の僕は情けない男だったと思いますからね。
 そうじゃなきゃ、後藤さんが泡を食って記憶操作のことを説明したりしないでしょう」

 ここまで冷静に分析できる頭脳を失うのは、間違いなく世界にとって大きな損失に違いない。そしてその代わりに現れるのは、未熟な心を持った子供なのである。それを考えると、シンジの言うとおり、その時どうするのかを考えるべきなのだ。

「分かった。
 これ以上俺は感情の話を持ち出さない」

 そう言いきった後藤は、必要な資料を渡すとシンジに告げた。

「今後どのような変種が発生するのかは予想できない。
 だがFifth Apostleのような、過去襲来した奴が来る可能性は考えておく必要がある。
 だから君には、過去の戦闘データを渡すことにする。
 君の精神操作をした教授の言葉を信じる限り、今の君に何をしても元の記憶は復元されないからな」
「確かに、分かっている奴の戦い方を考える必要はありますね。
 それで、データはいつ貰えますか?」
「明日の訓練後には渡せるだろう」

 日曜日には、定期訓練が実施されることになっている。わざわざ出向かなくてすむのだから、受け取る場所としては適当に違いない。
 分かりましたと答えたシンジに、「帰るのか?」と後藤は当たり前の質問をした。

「ああ、まあ、普通は家に帰るでしょう?」
「だが、家では彼女が待っているんだぞ」

 こんな話を聞かされた後で、落ち着いて顔を見ることができるのかと言うのだ。それを聞かれたシンジは、「そうですね」と少しだけ考えた。

「後藤さんの目から見て、普段の僕と違って見えますか?」
「俺の目に違って見えなくても、彼女なら気づいてしまうんじゃないのか?」

 人間観察の天才と言うのが、堀北アサミの築き上げた評価だった。それを持ちだした後藤に、「ああ」とシンジはその事実を認めた。

「それでも、僕が話す気になるまでは待ってくれますよ。
 ただ、僕もアサミちゃんへの接し方を考えないといけないんだな……
 こう言うのって、恋人が不治の病に冒されているのと同じなんですかね」
「目の前からいなくなると言うのならそうなのだろうが……
 だが、同じ顔をした別の君が次に現れることになるんだからな」
「それって、結構辛いことですね」

 もう一度「う〜む」と考えたシンジは、アサミへの説明方法を考えることにした。それでもはっきりしていることは、今の関係を続けることはできないということだろう。

「堀北さんのお父さんに謝らないといけないんだな……
 死期が迫った人って、みんなこんなことを悩むんですかね。
 後は、そうか、レイも一人っきりになっちゃうんだな。
 そうすると、レイのこれからのことも考えないといけないのか。
 考えなくちゃいけないことが山のように有るんですね。
 やっぱり、落ち込んでいる暇は無さそうですよ」

 そうやってあっけらかんと笑われると、後藤にはどう反応していいのか分からなくなってしまった。それが分かったのだろう、「心配しなくていいんです」とシンジは後藤に告げた。

「別に、誰が悪いわけじゃないと思うんです。
 もしも記憶操作をしなかったら、多分僕は生きていなかったと思いますからね。
 それでも悪人を探すとすれば、僕をTICに利用した人たちでしょうか。
 それに……やっぱり僕も、結果責任は負わなくちゃいけないと思うんですよ。
 巻き込んでしまったアサミちゃん達には悪いんですけどね……
 どこかの誰かが言った“天罰”ですけど、意外に当たっているのかも知れませんね」
「俺には、君が負わなくてはいけない責任があるとは思えない……
 ましてや、罰を受けるような悪事を働いたとは思っていない」

 初めて見る後藤の辛そうな顔に、「ありがとうございます」とシンジは礼を言った。

「後藤さんのそんな顔、初めて見ましたよ。
 それだけでも、僕はここにいて良かったんだと思えました。
 それから後藤さん、やっぱり僕にはTICを起こした責任があるんです。
 だから、その責任も一緒に持って僕は消えることになると思います。
 戻ってきた僕には、3年のハンデがあるんですよ。
 なかなか難しいとは思いますけど、暖かく見守ってあげてください」

 もう一度「ありがとうございます」と言い残して、シンジは後藤の前を去っていった。そんなシンジを、後藤は引き止める言葉を持っていなかった。そしてまた、引き止めるだけの理由もなかったのである。やり場のない怒り、晴らすことのできない苦悩、もろもろの負の感情だけが後藤の所に残されたのだった。



 シンジが言ったとおり、アサミの目をごまかすのは無理だったようだ。「ただいま」と普段通りに家に帰ったシンジを迎えたアサミは、「何が有ったんですか!」とシンジの変化に狼狽えた。

「何がって、後藤さんと話をしてきただけだよ」
「話をしただけで、どうして先輩の顔色がそんなに悪くなっているんです!
 他の人の目はごまかせても、私の目をごまかすことはできませんよ!」

 そう言い切ったアサミに、「ああ」とシンジは心から感動していた。こんなにも自分の事を思い、そして心配してくれる人がそばに居てくれるのだ。それが幸せでなくて、一体何と言えばいいのだろうか。
 そしてアサミの上げた大声を聞きつけて、妹のレイも玄関に駆けつけてきた。

「どうしたのアサミちゃん、いきなり大声を上げちゃって?」
「レイちゃん、レイちゃんは先輩がおかしいのに気が付かないの?」
「兄さんがおかしいって……」

 どこがとまじまじと顔を見ても、毎日顔を合わせるお兄様との違いは見当たらなかった。だからレイは、「どこが?」とアサミに向かって首を傾げてみせた。
 そんな二人に、シンジは居間で待っているようにとお願いをした。

「手を洗ってうがいをしてから行くから、先に居間に行っていてくれないかな?
 こんな所で立ち話をしてもしょうがないだろう」
「それはそうですけど……」

 自分と話をしているうちに、多少顔色もマシになってきた。それに安堵したアサミは、言われたとおり居間でシンジを待つことにした。せっかく夕食を作ったのだから、その準備もしなくてはいけなかった。

「じゃあ、晩御飯の用意をしてきますから」
「じゃあ、すぐに行くから待っててね」

 そう言って、シンジは玄関脇の洗面所に入って行った。すぐに水の音が聞こえてきたのを見ると、言葉通りに手を洗っているのだろう。

「アサミちゃん、兄さんがどうかしたの?」
「分からないよ。
 でも、なにか、胸がドキドキするの……」

 そう言われて、なぁんだとレイはアサミの態度に勘違いをした。普段のノロケがまた始まった、アサミの言葉をそう取り違えてくれたのだ。それぐらいの事はアサミの顔を見れば分かることなのだが、レイはさっさと居間に戻って行ってくれた。アサミ自身、顔からはっきりと血の気が引いていたのだ。

 それでも、夕食の間は何事も3人の間には起きなかった。一人残って後藤と何を話したのかも、夕食の話題には上って来なかった。普段通りのレイと、少しよそよそしい二人、僅かな緊張が食卓に漂っていただけだった。
 夕食が終わり、シンジの前にお茶を置いた所で、いつになく真剣な顔で「先輩」とアサミが口を開いた。

「後藤さんとのお話、私には聞かせられないことなんですか?
 だったら教えて欲しいなんて無理を言いませんけど……」
「いつか、アサミちゃんにはきちんと話さないといけないことなんだけどね……
 レイにも、話さないといけないことでもあるね」

 そう言われれば、勘の鋭いアサミは、シンジが後藤と何を話してきたのか予想がついてしまった。自分とレイの二人に関わることと言えば、シンジ自身のこと以外にはあり得なかったのだ。そうなると、本当に考えられることは限られて来る。そしてその話が良いことで無いのは、帰ってきたシンジの顔を見れば想像が付くことだった。

「いつか、なんですか?」
「私にも関係するって……私は、ヘラクレスに関わっていないわよ。
 もしかして、基地移転で私達が引越しでもするの?」

 日本基地のカテゴライズ変更については、連日ニュースでも取り上げられていた。カテゴライズ変更に伴い、基地が大幅に拡張され、多くの施設が作られるというのだ。その為、居間のS基地を拡張するのか、さもなければ移転をするのかが、様々な観点から報道されていたのである。
 それを持ちだしたレイに、「移転はないよ」とシンジは断言した。

「少なくとも、僕達が今いる環境を変えようと思っている人は居ないと思うよ。
 特に、これから研修生が送り込まれて来るのならなおさらだね」
「だったら、余計に私に関わることがないと思うんだけど?」

 う〜むと悩んだレイに、「潮時なのか」とシンジは本当のことを話すことにした。こればかりは、いつ話をしたとしても、何も解決策などないことなのだ。アサミに気づかれた以上、説明するのなら今をおいて他に無いのだろう。
 だからシンジは、妹に向かって「これからの話しを落ち着いて聞いてほしい」と告げた。

「なにか、衝撃の事実でも教えてくれるの?
 別に、アサミちゃんと結婚するって言われても驚かないわよ。
 お腹の中に赤ちゃんがいるって言われても、ああ、そうって話だからね。
 別れるって話だったら、さすがに少しは驚くと思うけど……」
「う〜ん、最後のは多少近い線を突いている気もするけど……」

 最後のと言うのは、アサミと別れると言うものである。その言葉に「ええ」っと驚いたレイに、「僕達兄妹のことだよ」とシンジは説明を始めた。

「アサミちゃんには教えてあるけど、僕の記憶は操作されているんだよ。
 そしてレイ、僕と同様にレイの記憶も操作されているんだ」

 それは、普通に聞かされれば衝撃の事実に違いないはずだ。だがいきなり「記憶操作」を言われて、まともに受け取る方がおかしいと言うものだ。そして常識に従ったレイは、兄にからかわれていると言う結論に達した。義姉と二人して、盛大なドッキリを仕掛けてきているのだと。

「いやぁ兄さん、兄さんがそんなドッキリを仕掛けてくるのに驚いたって言うのか。
 さすがに、いきなりそれはないと思うわよ。
 義姉さんと二人でからかうんだったら、もう少しネタを選んだほうがいいんじゃないの?」
「残念ながら、これは手の込んだドッキリじゃないんだよ」

 そう言って真面目な顔をしたまま、シンジはずびっとお茶をすすった。

「僕達兄妹には小さな頃の記憶が残っていない。
 アサミちゃん達には、ちゃんと小さな頃の記憶が残っているんだよ。
 さすがに二人共って、やっぱりおかしいことじゃないのかな?
 それに、いくらレイでも、僕達がパイロットになった経緯はおかしいと思うだろう?
 狙いすましたように、僕達が建設中の基地見学に招待されたのか。
 そして、僕がいきなり高い同調率を示したのか。
 いくら何でも、できすぎだとは思わないかい?」

 そのあたりのことは、レイも「不思議だなぁ」と思っていたことでもあった。だからシンジの「できすぎ」と言う言葉にも、特に反発を感じなかった。

「事情を説明するために話を2015年に戻すけど、
 全世界を襲ったTIC、サードインパクトと呼ばれる大災害。
 あれは、自然現象なんかじゃなくて、人為的に起こされたものなんだよ。
 そしてその時に利用されたのが、記憶操作される前の僕なんだ。
 だから、僕がヘラクレスに同調するのは、初めから分かっていたことなんだ。
 何しろ、西海岸のアテナ、砂漠のアポロンと言う前例が有ったからね。
 世界を壊したパイロット、サードチルドレン碇シンジが僕の正体なんだよ」
「またぁ、話を大きくすれば騙せるって話じゃないんだけど……
 だからアサミちゃんも、そんなに驚いた演技をしなくてもいいんだよ。
 アサミちゃんが名優だってことは、しっかりと思い知らされているんだからね」

 いくらなんでも、兄の言っていることは突拍子もなさすぎた。だからレイは、話を信じるのではなく、担がれているのだと考えることにした。そんな妹に、シンジは苦笑を浮かべて「レイらしい」と言った。

「どうしてS市に基地が作られたのか。
 篠山さんの働きかけも確かにあったけど、僕が居たのが一番の理由なんだよ。
 日本政府としても、僕にサードチルドレンの記憶を取り戻させたくはない。
 サードチルドレンには、世界を壊す力があると考えられているからね。
 でも、ギガンテスの被害はますます拡大している。
 いつか、高知のように、どちらの基地からも間に合わないことが起きると予想していたんだよ。
 そのためには、僕を基地の近くにおいておく必要があった。
 そういう意味では、S市に基地を作るから、僕達がS市に住まされたと言う考え方もできるね」
「もしかして、映画研究会の新しい映画のストーリー?」

 頭から信じていないレイは、兄の話を映画研究会の新作に求めた。「ジャージ部5」なんて映画を考えていたのだから、それぐらいの筋を考えていてもおかしくないと考えた。

「だったら、本当に良かったんだけどね。
 今話したことは、自衛隊の人たちなら誰でも知っていることなんだよ。
 だから月曜にでも、ジャージ部顧問の葵さんにでも確かめてみると良いよ。
 だいたい、どうして高知の直後にS基地がカテゴリ1に格上げされなかったと思う?
 あれだけのことをしても、僕を乗せたくないって気持ちが世界的に強かったんだよ。
 それからニューヨーク、香港、ムンバイと実績を重ねたから、
 どっちのリスクが高いかを考えて、S基地のカテゴリ変更を行ったんだ。
 今は信じられなくても仕方が無いけど、そう言う事があったんだと覚えておいてくれれば良いよ。
 僕が本当に伝えなくちゃいけないことは、僕たちの記憶が操作されていることじゃないんだからね」
「一応、お話としては聞いておくけど……」

 今から話すことを、躊躇ったからなのかもしれない。それでと先を促したレイに、シンジは少しだけ間を置いた。

「その前に、昨日の朝刊を持ってきてくれないかな?」
「昨日の朝刊?」

 それが、今話をしているどっきりにどう影響してくるのか。理解は出来なかったが、とりあえずレイは兄の言うことを聞くことにした。「ちょっと待ってて」と立ち上がったレイは、ぱたぱたと足音を立てて二階へと上がっていった。

「先輩、お別れなんですか?」
「やっぱり、アサミちゃんには気づかれてしまったね。
 どうやら、どう頑張っても僕は今のままでは居られないらしいんだよ」

 「ごめん」と謝ったシンジに、「謝らないでください」とアサミは言い返した。

「謝って貰ったって、どうにもならないじゃ無いですか」

 そう言ってぼろぼろと涙を流すアサミを、シンジは抱きしめることが出来なかった。今までなら、考えるまもなく強く抱きしめていただろう。だが、一緒に居られないという思いが、シンジの行動を縛っていた。

「だぁから、そう言うわざとらしいのはやめてくれないかなぁ」

 ぱたぱたと足音を立てて戻ってきたレイは、目の前の愁嘆場に文句を言った。自分を担ぐにしても、あまりにも手が込みすぎているのだ。それに、あまりしつこいと、いつまでも笑って見過ごせなくなってしまう。

「それで、新聞を持ってきたけど?」

 ほいと手渡されたシンジは、3面記事の端っこにある小さな記事を指さした。そこには、T大の教授が自殺したと言う記事が、きわめて機械的に記載されていた。

「この人が何?」
「僕の記憶を操作した人らしい。
 木曜の日に後藤さんが会いに行って、その直後に自殺されたらしいんだ。
 もう一人、澤口さんと言う教授が居たんだけど、その人は去年自殺しているそうだよ。
 僕の記憶操作に関わった人は、これで二人とも自殺でこの世を去ったと言うことなんだ。
 そしてこれからが本題」

 そう言って新聞を脇によけたシンジは、レイに向かってまじめに受け取れば爆弾としか言いようのないことを告げた。

「僕の記憶は、いつでも戻せるように操作されている。
 その目的は、サードチルドレンの高い適性を利用するためなんだよ。
 だから高知の時には、僕の記憶を戻すことを真剣に考えたらしい。
 だけど、時間的にどう頑張っても間に合わないから、今のままで出撃することになったんだ。
 そうしたら、意外に今のままの方が良いんじゃ無いかって話になってきたんだ。
 何しろサードチルドレンは、レイも知っている中学の時の僕と同じだったらしいからね。
 作戦を考えたり、みんなを動かしたりすることが出来ないんだよ。
 だから、不用意に記憶を取り戻さないように、後藤さんがこの教授のところに話を聞きに行ったんだ。
 そこで教えられたのが、僕の記憶を戻すと言うことは、3年前に時間を巻き戻すと言うことなんだよ。
 予想通り、適性だけ高くて、情けない僕が代わりに現れることになるんだ」
「元々、元に戻さないってみんなが考えていたんでしょう?
 私には、何も問題が無いように思えるわよ?」

 そう言い切ったレイに、「そうだね」とシンジは苦笑を浮かべた。

「簡単な方法で記憶を戻すことは出来るけど、勝手に戻ることは無いって話だったよ。
 だから、それだけならレイの言うとおり、何も問題は無いはずだったんだ。
 ただ本当の僕は、僕の頭の中で深い眠りについている。
 それをどう考えるのかと言うだけの、僕だけの問題のはずでしかないはずだった。
 実際、後藤さんも、そう考えていた節があるんだ。
 だから亡くなられた教授に、今のままで居られるのかを確認したんだよ。
 そしてその結果、僕は後藤さんから死刑宣告を受けたんだよ。
 今のままだと、遠くない未来に僕の頭は破綻するらしい。
 それを回避するためには、破綻する前に記憶を復元する必要があるそうだよ」
「ええっと、ちょっと質問。
 記憶を戻すと、兄さんは3年前に逆戻りになるって言ったわよね?
 そうなると、私との関係はどうなるの?」
「レイは、3年以上前の僕との記憶が残っている?」
「つまり、私と兄さんは血の繋がらない兄妹だったって事なのね!」

 ああっとよろめいたレイは、「ゲームのようなお話ね」と嘆息して見せた。

「兄さんは、それを知っていて私に手を出さなかったの?
 今の話から行くと、兄さんは私との間で禁断の愛を育まないといけないのよ」
「ごめん、本当にまじめな話なんだよ」

 そう注意をして、シンジは本当にまじめな話を続けた。

「僕個人の問題で済んでいれば、個人的な悲劇で話は終わっていたんだろうね。
 でも、僕が今、何も残さないで居なくなったら何が起きると思う?」
「S市に基地が出来る前に戻るんじゃ無いの?
 一応、各基地のレベルが上がっているって話だから、その頃よりはマシだと思うけど?
 それに、日本には遠野先輩達が残っているでしょう?」

 それでと先を促したレイに、アサミが横から「そんな簡単な話じゃ無い」と口を挟んだ。

「アスカさんもカヲルさんも、先輩に頼ることを覚えてしまったのよ。
 そして先輩は、二人の期待に応えられることを証明してきた。
 その先輩が居なくなって、二人が今まで通りで居られると思う?
 国連の事務総長さんだって、先輩が居るからシャームナガル宣言なんて出すことが出来たのよ。
 それがみ〜んな無くなったら、大混乱だけじゃ済まなくなるわよ。
 遠野先輩達だって、絶対にすぐには立ち直れないと思うもの。
 だから先輩は、居なくなった後の準備をしようと考えているんでしょう?
 後藤さんだって、それが必要だと考えたから、先輩に辛い事実を教えたんだと思う」
「まあ、ほとんど正解ってところかな。
 だから、明日後藤さんから過去の戦いのデータを貰うことになっているんだよ。
 Fifth Apostleみたいなのが来た時、どう対処すべきか先に考えておくんだ。
 それに加えて、今後考えられるいろいろなパターン、
 たとえば、いやってほど沢山ギガンテスが襲ってきたらどうするかとか、
 3カ所を超えて襲撃があった時、どう戦力を分散して対処するのかとか。
 そう言ったことを残しておく必要があると思っているんだ。
 そして本当の僕に対しても、必要な助言とメッセージを残していく必要がある。
 それが、かりそめの姿とは言え、3年間この体を使った僕の責任なんだよ」

 それを淡々と言われるから、レイには余計に兄の言葉が信じられなかった。今言っていることが本当なら、もうすぐ自分は「死ぬのだ」と言っているのだ。それなのに、兄の様子は普段と変わったところが見られないのだ。義姉が大泣きしたと言うことはあっても、疑いの目で見れば、いくらでも疑うことが出来てしまうのだ。

「もしも、もしもよ、もしもそれが本当のことだとしたら、アサミちゃんはどうするの?
 入学した時から、ずっと兄さんのことだけを見てきたアサミちゃんをどうするつもりなの?」
「今まで通り付き合うことは出来ないんだろうね……
 アサミちゃんのお父さんにも、本当のことを話して許して貰おうと思って……」

 別れるようなこと口にしたシンジだったが、その言葉は最後まで喋らせて貰えなかった。隣に座っていたアサミが、いきなりシンジの頬を張り飛ばしたのだ。シンジにとって、アサミに殴られるのは二度目のことだった。ニューヨークに比べて力は弱かったのだが、感じた痛みはずっと重く心に響いてくれた。

「アサミちゃん……ごめん」

 心に染みた痛みなのだが、だからと言ってシンジにはどうしようも無いことだった。だが目に一杯涙を浮かべたアサミは、罵るのでは無く、精一杯自分の気持ちをシンジに訴えた。アイリのことを知っているだけに、絶対に諦めさせてはいけないと思っていた。

「謝らないでっ!
 瀬名先輩の時みたいに、頭の中だけで決着をつけないで。
 瀬名先輩と違って、私はここに居るんですよ。
 大好きな先輩が目の前に居るのに、忘れることなんて出来ません!
 先輩が私を捨てても、私は絶対に先輩のことを捨てたりしませんから!
 ずっとずっと、一緒に居られるだけ一緒に居て、それでも先輩のことを見捨てませんから!」
「アサミちゃん……」

 「ああ」と天を仰いだシンジは、「悔しいなぁ」と小さな声で呟いた。ただ声こそ小さかったが、泣きたくなるほどの思いがそこに込められたものだった。

「なんで、こんなに悔しいんだろう。
 なんで、こんなに辛いんだろう。
 仕方が無いことだって、どうにもならないんだって諦めていたのに……
 悔しくて悔しくて、なんでこんなに悔しいんだろう……」

 上を向いたまま震えるシンジの頭を、アサミは立ち上がってその胸に抱き留めた。そこに理由など無く、ただアサミはそうしたいと思っただけだった。
 そしてアサミに頭を抱かれたシンジは、しがみつくようにその体にすがりついた。そして、けして大きな声では無いが、心が震えるような声で、「消えたくない」と思いをぶつけながら泣き続けた。
 そんな二人の姿に、傍観者となったレイは激しく動揺していた。兄が泣く姿など初めて見たし、親友の泣く姿にしても、ドラマで見るのとは全く違ったものだった。

「いや、兄さん、アサミちゃん、ねえ、演技だって言ってよ。
 映画研究会の作品に付き合っているだけって言ってよ。
 ねえ、全部嘘だって、二人で私をからかっているだけだって言ってよ。
 ねえ、そうじゃないと、私、ねえ、兄さん、ねえ、うえぇぇぇん」

 絶対にそんなことは無い、兄が居なくなるなんてことは無い。そう思いたい、そう信じたいのだが、二人の姿に心が震えてしまった。そして震える心が、それが本当のことなのだと教えてくれた。だからレイは、アサミにすがる兄に抱きつき、大きな声を上げて泣き続けたのだった。



 翌日の訓練で、マドカ達はシンジとアサミの纏う空気に、近寄りがたい物を感じていた。今までは、「当てられるのはいや」と冗談めかして言っていたのだが、今の二人は分かちがたい空気を纏ってくれていた。必要以上にべたべたしているわけではないし、特に何か口に出して言っているわけでも無い、ただ、空気という不確かなものが、今までとは全く違っていたのだ。

「ねえ、碇君、アサミちゃんと何かあったの?」

 それを聞くのも憚られる空気があったのだが、それをあえて読まずに、マドカはシンジに質問をぶつけた。だがシンジは、口元を歪めて「言って良いんですか?」と言い返してきた。

「そうやって地雷を踏むと、鳴沢先輩に怒られますよ」
「いやぁ、地雷だって自覚があるのも問題だと思うんだけどなぁ」

 なははと笑って、マドカはそれ以上地雷に近づくことを諦めた。せっかく警告してくれたのに、それで地雷を破裂させたら馬鹿としか言いようが無い。しかも被害を受けるのは、地雷を踏んだ自分自身なのである。

「ところで、今日終わってからうちでお昼をする?
 なぁんか、キョウカちゃんと花澤君も来たいって言ってきたのよ」
「来週のヒ・ダ・マ・リの事かな?」

 キョウカと花澤と言うのは、組み合わせとしては結構珍しいものになっていた。その二人が顔を合わせるとしたら、ボランティア部として協力している「ヒ・ダ・マ・リ」以外の理由は考えられなかった。花澤を学校に送り出したジャミング事務所にしても、その成果を期待したいのだろう。

「たぶんね、花澤君は、ゲストに出て欲しいってお願いしてくるんじゃ無いの?」
「最近、花澤君に懐かれているからなぁ……」

 たとえ下心があったとしても、「先輩先輩」と慕ってくれれば悪い気もしない。その後輩に頼まれれば、いつまでもいやとは言っていられないだろう。

「遠野先輩、ヒ・ダ・マ・リに出る気はありますか?」
「いやぁ、私はこれでも受験生っしょ。
 勉強時間を削るのって、良くないと思うんだよね〜
 それに、そう言う仕事って部長の仕事でしょ」

 マドカが嫌と言うのだったら、きっとナルも嫌がってくれるだろう。しかも部長を引き継いでしまったので、他人に回す口実も無くなってしまった。受験生に向かって、部長命令を出すのも横暴だろう。もっとも、マドカ達の受験がどう転ぶことになるのかは、五里霧中というところだった。世界のヒロインの進路には、様々な思惑が絡んでくるのだ。

「まあ、ヒ・ダ・マ・リ出演のことは考えてみますよ。
 それから、お昼の件は了解しました。
 ただ、今日も後藤さんに呼ばれているので、少し遅刻しますからね」
「タカさんに?
 ねえ碇君、タカさんの様子もおかしかったけど。
 何か大変なことでもあったの?」

 マドカにまで気づかれるのは、後藤だと考えれば迂闊としか言いようが無い。だが、まだ本当のことを話すべきでは無いと、シンジはこの場において、もっとも当たり障りが無く、説得力のある説明をすることにした。

「僕は、これからの対処のため、過去の戦闘データを貰うだけですけどね。
 後藤さんについては……まあ、あの人も責任者だからいろいろあると思いますよ。
 基地がカテゴリ1になっちゃったから、やることが目白押しだし、しかも予算には限りがありますからね。
 その上、周りから早く機能整備を終わらせろとプレッシャーを受け続けていると思いますよ」
「そっか〜、確かに、S基地の話は、結構テレビにも出ているわよね。
 大勢の人が来るからって、いくつかホテルの建設予定も出てきたし……
 キョウカちゃんち、またお金持ちになっちゃうわね」
「まあ、S市全体が賑やかになっていますね」

 マドカの言うとおり、小さなS市に大勢の人が集まってきているのだ。基地拡張工事に関わる人たちだけでも、近辺のホテルに収まりきらないほどだった。そのため、プレハブで仮説宿泊施設が作られたほどだ。その人達が街に繰り出すため、小さな繁華街もバブル景気に沸いていた。そのせいだけでは無いのだが、マドカの実家は連日満員御礼状態になっていた。
 その割に犯罪件数が増えないのは、自衛隊と警察が連携して治安維持に努めているからだろうか。

「じゃあ、碇君が顔を出すまで、料理を出すのは待ってるわね。
 お姫様と先に行っているから、急いで戻ってくること!」

 良いわねと念を押したマドカに、「ごめんなさい」とシンジは謝った。

「後藤さんのところには、アサミちゃんも一緒に行って貰います。
 まあ、僕ばっかり呼び出す事への仕返しをしようかなって」
「タカさんが切れないように気をつけてね」

 嫌がらせとしては、リア充カップルと言うのはとても効果的に違いない。ただやり過ぎると、間違いなく相手が切れてくれるだろう。だから「やり過ぎ注意」を、マドカは出すことにした。もちろん、自分たちにも配慮して欲しいと言う気持ちが含まれていたのだが。

「ところで、今日の訓練メニューってなんだっけ?」
「僕たちは、シミュレーターで連携をとって終わりですよ。
 高村さんと大津君は、いつもと同じで午後は別メニューです。
 そろそろ、あの二人を入れて連携訓練を始めようかなって考えています」
「結構、あの二人も上達したんだよね?」
「そこそこってところですか。
 同調率の問題もありますけど、高村さんは頑固だから……」

 ポテンシャルは高いのに、なぜかうまくヘラクレスを動かせていない。そんなユイのことを、シンジは「頑固」と評したのである。ただシンジに対して意固地になる必要が無いので、「不器用」と言う方が正解なのかもしれない。
 ただ、その決めつけも、マドカにとっては大した問題では無いようだった。「ふ〜ん」と分かったような顔をして、「後で」とシンジに背中を向けた。
 普段通りのマドカの態度なのだが、なぜかシンジは「寂しい」と言う気持ちを感じてしまった。だからと言って、マドカを呼び止める理由などあるはずも無く、ただ、その背中をじっと見つめることしか出来なかった。



 訓練の後、アサミを連れて現れたシンジを、後藤は当然のことのように迎え入れた。昨日からの変化を知らされているだけに、そうなるだろうと初めから考えていたのである。

「過去の戦闘データ、人物観察記録を用意した。
 人物観察記録には、ネルフ時代の人物相関図も含まれている。
 とても信じられないことも書かれているが、それを事実と受け取るところから初めて欲しい。
 後は、TIC後に行われたチルドレンと言われるパイロットのヒアリング記録、
 そして、TICを含めた2015年に起きた出来事への考察も渡しておく」
「ずいぶんと、危ない資料まで見せてくれるんですね」

 それが必要なことは、シンジも理解していることだった。だが必要だからと言って、見せられるのかというのは全く別物だと考えていた。特に自分に対しては、見せてはいけないものが多すぎるだろうと思っていた。

「君に見せることは、すべて総理から了解を貰っている。
 必要な情報を隠すことで、間違った判断をしないようにするためだ」
「確かに、間違った判断をしないようにする必要がありますね」

 「そう言う事だ」と頷いた後藤は、大きめのタブレットをシンジに渡した。

「すまないが、今からセキュリティを掛けることにする。
 そこのスリットで指紋認証をして、カメラで顔を映してくれないか」
「こう、ですか……」

 言われたとおりにカメラに顔を映したら、画面上に「認証完了」の文字が出てきた。おもしろいと思ったシンジは、ちょっとしたいたずら心で後藤に質問をした。

「これって、僕の写真で試したらどうなります?」
「登録した君の指と合わせれば、認証を突破できるだろうな。
 まあ、そのためには君の指を切り取る必要がある」
「ぞっとしませんね……」

 どんなセキュリティでも、破ろうと思えば不可能は存在しない。ただ、それをするために、どこまで違法なことをするのかと言うのが問題になるだけだった。
 身を震わせたシンジに、「今のところは無理だ」と後藤は言葉を続けた。

「まあ、通常の方法では突破は難しいだろうな。
 一応3次元認証を掛けているから、通常の写真では認証を通過しない。
 指紋認証にしても、印刷した物では通過しないようになっている。
 まあ、この手のことはいたちごっこになっているから、いつまでも大丈夫と言うつもりは無い」

 そう言う事だと、後藤は自分の用件は終わったと二人に告げた。そんな後藤に、「一つお願いがあります」とアサミが切り出した。

「なんだ、たいていのことは聞く用意があるのだが?」

 やけに気前の良いことを言った後藤に、「大したことじゃありません」とアサミは微笑した。だがアサミの口から出た言葉に、後藤にとって十分大したことだった。そして同時に、子供達の覚悟を思い知らされた。

「先輩のこと、絶対に諦めたくないんです。
 14歳までの先輩、そしてそこからの3年間、その二つをつなぐ方法はあると思うんです。
 時間的に重なっているわけじゃありませんから、つなげても矛盾は起きないと思います。
 確かに何事も問題なくとはいかないと思いますけど、もう一人の先輩のためにもなると思うんです。
 ですから、今すぐにと言うのは無理でも、そのための研究をして貰えないでしょうか。
 私にはそんな力はないし、先輩にはそのための時間も残されていません。
 だから、こんな事をお願いできるのは、後藤さん以外に誰も居ないんです。
 ものすごく難しいこと、無理なことをお願いしているのは分かっています。
 私やレイちゃんも、自分に出来ることなら何でもやるつもりです。
 先輩が3年前に戻ってしまうのだったら、そこからもう一度やり直す覚悟も出来ています。
 いつも先輩と一緒に居て、破綻の兆候が出ていないかも見守るつもりです。
 もしも先輩が3年前に戻っても、私達のことを忘れてしまっても……」

 そこで言葉を切ったアサミは、一度シンジの顔を見てから真っ直ぐに後藤を見た。

「絶対に見捨てたりしません。
 今の先輩が、碇シンジと言う人の可能性の一つという事なら……
 今度は私が遠野先輩、鳴沢先輩の代わりになって見せます。
 私達のことを忘れても、先輩はとっても沢山のことを残していくんですよ。
 それに気づいてくれれば、私は新しい先輩を取り戻すことが出来るんだと思います」
「アサミちゃんにこんなことを言われたら、落ち込んでなんか居られないんですよ。
 だから僕は、今出来る事をやらなくちゃいけないと思っているんです。
 こんな所で、立ち止まっているわけにはいかないんですよ」

 そう言ってアサミを見たシンジに、後藤はどうしようもない羨望を感じてしまった。二人を待っているのは、誰がどう考えても悲劇のはずなのだ。だがこうして決意を見せつけられると、訪れた悲劇ですら、大団円に向けた手続きの一つに思えてしまう。本当にそんなことが出来るのかは、誰にも予想はつかないだろう。だが出来ると信じて努力を続ける限り、いつか夢を叶えてしまいそうな勢いを二人から感じていた。

「だから、もしもの時は本当のことを世界に公開してください。
 先輩の思い、私の思い、それを世界の人に伝えて欲しいんです。
 そうすれば、誰かが先輩を助ける方法を見つけてくれる可能性が出てきます。
 先輩の中に眠っている、もう一人の先輩を否定するつもりはありません。
 でも、もう一人の先輩にも、中学3年から今までの記憶を上げてもいいじゃないですか。
 自分が寝ている間に、どんな経験をして、どんな思いを抱いたのか。
 それを知ることは、もう一人の先輩にも絶対にいいことだと思うんです。
 だから後藤さん、後藤さんも先輩のことを助けて欲しいんです」

 「お願いします」と頭を下げたアサミに、「ああ」と後藤は感動していた。しかも、どう言うわけか、鼻の付け根辺りがツンとしてきた。そして、鏑木に対して「辛すぎる」と言った自分が恥ずかしくなってしまった。もっと辛いはずの二人が、僅かな可能性に向けて歩き始めている。
 アサミが言うとおり、世界の英知を集めれば、二つの記憶を結合することも可能なのかもしれない。そしてその努力をしない限り、絶対に叶うことのない願いでも有ったのだ。

「何が大したことじゃない……だ」

 今の気持ちをどう表したらいいのか。後藤も、すぐにはその言葉に思い至らなかった。どんな言葉が適切なのか、どんな言葉を掛ければ、二人の期待に答えることが出来るのか。幾つも、本当に幾つもの言葉を思い浮かべたのだが、どうしてもその言葉は口をついて出てくれなかった。

「……約束する」

 何をどう約束するのか。その一切を省いた言葉こそが、後藤が口に出来る全てであり、一番思いのこもった言葉だった。

「後藤さん、ありがとうございます。
 僕たちは、これから出来る限りのことをするつもりです。
 せっかく世界に希望の光が点ったのなら、絶対にそれを消すような真似はしません」

 顔を見合わせた二人は、「出会わせてくれてありがとうございます」と後藤に頭を下げた。記憶を操作され、S市に送り込まれてきたからこそ、こうして二人出会うことができた。今は、何よりもそのことを感謝しているのだと。


 




続く

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