−19







 日曜の河川敷掃除は、予定通り大勢の生徒が参加することになった。事前にキョウカから聞いていたのは60名程度だったのだが、数えてみたら100名を超えていた。そして参加した生徒以上のマスコミも河川敷に集まっていた。砲列のように並んだテレビカメラには、マスコミ各局のシールが貼られている。そして河川敷を見下ろす堤防には、清掃の見学に大勢の人が集まっていた。
 その大勢の参加者とマスコミの前に、いつも通りシンジがハンドマイクを持って立った。さすがにこれだけ人が多くなると、地の声では指示が通りにくくなってしまう。

「本日は参加者が多いので、清掃区域を広めに取ることにします。
 平成橋から三郷橋までのおよそ1kmの区間を掃除の目安とします。
 河川敷両側を清掃しますから、みなさん指示に従って2班に別れてください。
 第1班は、遠野先輩がリーダー、高村さんをサブリーダーにします。
 そして第2班は、鳴沢先輩をリーダ、大津くんにサブリーダーになってもらいます。
 花澤くんには、第1班に入ってもらいます。
 ゲストで来ていただいたティアラの二人には、第2班に入ってもらいます。
 最後に人数を調整しますから、まず自分がどちらのグループに行くのか決めてください」

 シンジの指示に従って、集まった生徒たちはばらばらとそれぞれのリーダーの方へと散っていった。さすがは現役アイドルと言えばいいのか、花澤の居る第1班の方が人数が多くなっていた。そして男女比率も、第1班は女性が多くなっていた。

「少し人数の差がでたようですが……この程度なら調整の必要はありませんね。
 では第1班の皆さんには、河口に向かって右側の河川敷を清掃してもらいます。
 第2班の皆さんには、その反対側、左側の河川敷を清掃してもらいます。
 終了目安は午前11時とします。
 各自無理はしないよう、自分の体調に相談しながら清掃を行なってください。
 本部には飲み物が用意してありますので、適宜休憩に来てください。
 では、早速清掃に掛かってください!」

 シンジの号令に従い、各リーダーは集まった生徒たちを先導して指定された河川敷へと歩いて行った。その姿を見送ったシンジは、葵が用意したテントのところへと戻ってきた。このテントは、本部にするため葵がS高から借りだしてきたものだった。
 シンジが戻ったところで、いつも通り花澤のマネージャー、枯木村こと木村が近寄ってきた。普段と違って少し緊張した木村は、畏まって「ありがとうございます」とシンジに頭を下げた。

「いやいや木村さん、それは僕の台詞でしょう。
 ジャミングさんが協力して下さるお陰で、だんだん清掃活動も大規模になって来ました。
 僕達だけでやっている時は、本当に神社の境内を掃除するぐらいしかできなかったんですよ」

 そう答えたシンジは、「ありがとうございます」と逆に木村に向かって頭を下げた。そんなシンジの態度に恐縮した木村は、「本当に感謝しているのだ」と繰り返した。

「もう、番組に協力して貰えないかと思っていたんです。
 ですから碇さんに連絡をもらった時には、事務所の全員が歓声を上げたぐらいなんです。
 ですが碇さん、午後には訓練があるのに、こんなことをしていて宜しいんですか?」

 テレビ番組と世界を救うこと。比較するまでもなく、世界を救うことのほうが重要なはずだ。その為の訓練があるのなら、それを優先するのが当然だと木村も思っていた。
 だがシンジは、木村の予想とは違う答えを返した。

「宜しいも何も、こちらから連絡させていただいたことですよ。
 少し大げさになりましたが、こちらの方が僕達にとって日常なんです。
 パイロットの仕事を疎かにするつもりはありませんが、それだけと言うのは避けたいんですよ。
 だから、ボランティア活動、パイロットのいずれにも全力でぶつかっていくつもりです」

 その答えに、なぜか木村は「ああ」と天を仰いだ。

「木村さん、どうかなさりましたか?」
「い、いえ、すみません、ちょっと自分でもどうしたら良いのか分からなくなって……」

 もう一度「すみません」と謝った木村は、「握手をしていただけますか?」と恐る恐る聞いてきた。

「別に、握手ぐらい構いませんけど……」

 今まで一度もなかったお願いに、シンジは少しだけ首を傾げた。だが、別に断るほどのことでもないと、木村に向かって右手を差し出した。
 その差し出された右手を、木村はすぐに取ることはなかった。少しだけ気を落ち着けるように深呼吸をし、大切な物に触れるようにゆっくりと両手で握りしめた。

「木村さん?」

 両手で握られることでも思いがけないことだったのだが、シンジは自分の手を握る木村が震えているのに気がついた。だからどうかしたのかと聞いたのだが、木村の口から出たのは思いがけない事実だった。

「ようやく、ようやく、恩人にお礼を言うことができます。
 わ、私の実家は、高知の山奥にある小さな村なんです。
 その村は、ギガンテスの侵攻予想ルートの真上にありました。
 だからあの日、私の両親、祖父母は歩いて避難をしたそうです。
 でも、麓に着いたところで力尽き、私の家族は公民館に逃げ込みました。
 その公民館には、逃げたくても逃げられない人たちが沢山集まっていたそうです。
 そこには、年寄りだけでなく、多くの若い人もいたと言います。
 私の両親など、若いのに可哀想にと彼らを見て思ったと言っていました。
 だから碇さん達が戦いに出たと聞かされて、全員ラジオ放送を聞きながら神様に祈ったそうです。
 ずっとずっと化物の恐怖に怯え、助けてくださいとひたすら祈り続けたと聞かされました。
 碇さん達がすべてのギガンテスを倒した時、全員抱き合って涙を流したと聞かされました。
 神様が現れて、自分達を助けて下さったのだと。
 ありがとうございます、本当にありがとうございます。
 この御恩は、一生忘れません!」
「い、いや、その、そこまで言ってもらうような……」

 予想外の態度に驚いたシンジは、小さくため息を吐いてから「木村さん」と声を掛けた。

「僕達があそこでした決断、それが間違っていなかったと言うことですね。
 それを教えてくださってありがとうございます」
「間違っていただなんて……絶対にそんなことはありません。
 もしもそんなことを言う奴が居たら、私が命をかけて否定して見せます!」

 シンジを見上げた木村の目には、涙が蕩々と溢れ出ていた。そんな木村にシンジは感動したのだが、今、自分達が何をしているのか思い出した。

「お気遣いありがとうございます。
 ただ、今は清掃のボランティア活動中なんですよ。
 リーダーがいつまでも油を売っていたら、みんなに示しが付きませんね」
「し、失礼しました……その、ご迷惑をお掛けしました」

 平身低頭、シンジに何度も頭を下げて、ようやく木村は解放してくれた。そして手を放してからも、木村は何度も頭を下げながら離れていった。
 それを真面目な顔で見送ったシンジは、ようやくアサミの待つ本部へと戻ることができた。そこで見たのは、山のように積み上げられた「箱」だった。

「ええっと、これは何?」

 一つ一つ見ると、綺麗な包装紙で包まれていた。サイズから見ると、何かのお菓子が入っているようにも思えた。

「皆さんからの差し入れです。
 マスコミの人や、ご近所の人たちが持ってきてくれました。
 遠慮無く食べてくださいって言ってましたから、多分お菓子だと思うんですけど……」
「こんなに有ったら、ジャージ部だけじゃ食べきれないね……
 賞味期限とか大丈夫なんだろうか?」

 ひぃふぅみぃと数えてみると、ちょうど50箱積み上げられていた。7人の部活では、食べきるのに一体何日掛かることだろうか。はぁっと小さくため息を吐いたシンジは、「配ろうか」と消費方法を提案した。ジャージ部のボランティア活動への寄付なのだから、参加者全員でシェアするのが筋といえば筋なのだと。

「どうも、そうするしかなさそうですね」
「葵さん……葵先生、ラッピング用の袋を手配してもらえますか?」
「それは構わないけど、手伝いを呼ぼうか?」

 お菓子を分けるにしても、総勢100名以上集まっている。そこに取り分けるだけでも、一仕事に違いなかった。

「そうですね、とりあえずティアラの二人には手伝ってもらおうと思っています。
 あとは、そうですね、大津君ぐらいを呼び戻しましょうか?
 そうすれば、僕を含めて6人になりますから、なんとかなるんじゃありませんか?」
「いやいや、碇君は全体を見ていないとまずいでしょう。
 ラッピング用の袋は誰かに持ってこさせるから、私も袋詰を手伝うわよ……
 って、あの車は一体何なのかしら?」

 河川敷の荒れた所には不似合いな、黒塗りの立派な車が近づいてくるのが目に入った。一体何事と葵が訝った時、「うちの車だ」とキョウカがその答えを口にした。

「母様が、一度俺の部活を見てみたいと言っていたんだ。
 今日は天気がいいから、多分父様が連れてきたんだと思うぞ」
「この上、篠山家ご当主夫妻まで顔を出すの?」

 なにかとても大げさな事になってしまった。シンジ達の立場を考えれば不思議ではないのだが、それでもどうしてと思えてしまう。単なる父兄とは、話が違うと葵は考えていた。

 そしてテントの少し手前で停まった車からは、キョウカの言葉通りとても見慣れた顔、綾部サユリが降りてきた。そしてもう一人、少し背の高いメガネを掛けた男性が姿を表した。普段は秘書としてぴっちりスーツを着ている二人だったが、場所に合わせたのか白系統のアウトドアスタイルをしてくれていた。
 先に降りた二人は、外から黒塗りの車の後部ドアを開けた。サユリの方が日傘を指しているのを見ると、そのドアから篠山家当主婦人シズカが降りてくるのだろう。

 果たしてサユリの開いたドアから現れたのは、キョウカの母親篠山シズカだった。水色のストライプのワンピースに、少しつばの大きな白い帽子をかぶって現れたシズカは、サユリの手を借りてゆっくりと車から降りてきた。
 それを見たシンジは、キョウカを連れて挨拶に行く事にした。

「葵先生、ラッピング袋の手配をお願いします。
 それから篠山、僕と一緒に迎えに行くぞ」
「それはいいが、どうして先輩が迎えに行ってくれるんだ?」
「それが、お客様を迎えた時の礼儀ってやつだ」

 とにかく来いとキョウカを引っ張り、シンジは車から降りたシズカを迎えに近づいて行った。

「やあ、わざわざ出迎えてもらってすまないね」

 すでに何度も顔を合わせていることもあり、篠山家当主ユキタカは、「よっ」とばかりに右手を上げた。そしてお辞儀をしたシンジに対して、妻のシズカを紹介した。

「前に来てもらった時には、あまり体調が良くなかったんだよ。
 だが、どうしても君に会いたいって我儘を言われたんで連れてきたんだ。
 なかなか君は、うちに遊びに来てくれないだろう」
「なかなか、遊びに行く機会がありませんからね。
 初めまして、碇シンジといいます。
 ボランティア部の部長をしています」

 そう言って自分にお辞儀をしたシンジに、「シズカです」と帽子をとってシズカは頭を下げた。その時色々と気になるものが目についたのだが、それをシンジは見なかったことにした。地肌の見えるほど髪の抜けた頭、そして筋が目立ってしまうほど痩せた顔。白すぎる肌は、健康状態の悪さを物語っているようだった。

「お体が悪いと伺いましたが、今日は大丈夫なんですか?」
「ええ、今日は珍しく体調がよろしいんですよ」

 ほほほと笑ったシズカを、シンジは本部へとシズカを案内した。幾分日差しが弱くなったとは言え、直射日光が当たるところは良くないと考えたのだ。そしてそこで待っていたアサミが、どうぞと冷たいお茶をコップに入れて差し出した。
 そこでアサミの顔を見たシズカは、「あらまあ」と驚いた顔をした。

「あら、あなたがナオキさんのお嬢様なのね。
 噂には聞いていたけど、本当にとてもお綺麗なのね」
「父のことをご存知なのですか?」

 ニコニコと笑うシズカに、アサミは遠慮がちに父との関係を尋ねた。

「ええ、こんなになる前はお父様に綺麗にしていただいたのよ。
 その時に、お嬢さんが俳優をされていると、とても自慢げに教えて下さったのよ」
「そうですか、父がそんなことを言っていたんですか……」

 事前に色々と知っていたこともあり、シズカと話すことに複雑な思いをアサミは抱いていた。だが目の前のシズカを見て、そんなことはどうでもいいと思えてしまった。すっかり痩せて目が落ち窪んだ様子に、長くはないのだとシズカの寿命が近いことを感じてしまった。

「ええ、自慢の娘だといつも仰ってましたよ。
 本当に綺麗だから、私の娘ではとても勝負になりませんね」
「でもキョウカさん、S高に入ってとても綺麗になられましたよ」
「それは、あなたの恋人のおかげなんでしょうね。
 相手があなたでなければ、篠山の力で奪い取ることもできたのにね」

 残念だわと笑ったシズカに、「負けませんから」とアサミは答えた。
 アサミがそう答えた時、葵が手配していたラッピング袋が届けられた。それを見つけたシズカは、「どうかしたのですか?」と新しい紙袋の理由を聞いた。

「沢山頂き物をしましたから、小分けしてゴミ拾いの参加者に配ることにしたんです。
 ですから、これから100人分以上にお菓子を分けるんですよ」
「あら、とても楽しそうね。
 良かったら、私にも手伝わせていただけないかしら?」
「でしたら、袋詰めしたお菓子に封をしてもらえますか?
 金色のビニタイで口を閉じていただければ結構です」

 一番簡単で、その場を動かなくても済む仕事をアサミは割り当てることにした。その心遣いに感謝したシズカは、「ありがとう」と言って金色の針金入りのビニールテープを受け取った。

「こういう事をするのは、高校の文化祭以来かしら。
 あの時は料理部で、手作りのクッキーを作って販売したの。
 こう見えても、私はあなた達の先輩なんですよ」
「じゃあ、キョウカさんが料理部に入ったのもそれが理由だったんですね。
 わかりましたおばさま、袋に入ったお菓子を持ってきますから後はお願いしますね」

 「任せてください」と微笑んだシズカを残し、アサミは作業を指示するためにお菓子の山の所へと移動した。葵が手配してくれたのか、ティアラの二人や大津も戻ってきていた。

「では、これからおみやげにするお菓子の箱詰めをします。
 最初にお菓子の中身、数を確認してから適当な数を袋に入れていってください。
 袋の封はおばさまがしてくださいますから、大津くんは封をしたものから箱に入れていってください」

 その場をしきったアサミは、さっそく作業を始めることにした。ゴミ拾いが終わるまでには、まだ1時間以上時間は残っているが、数が数だけに早めに済ませておく必要があったのだ。それにゴミ拾いの途中には、給水休憩も予定されていた。それを考えると、作業時間にあまり余裕がなかったのだ。

「私達もお手伝いしましょう」

 作業にかかろうとしたところで、上司を連れて綾部が手伝いを申し出てくれた。

「じゃあ、仕事を少し入れ替えます。
 ええっと、すみません、お名前を教えていただけますか?」
「失礼しました、秘書をしている下川辺ともうします」

 そう言って頭を下げた下川辺に、アサミは力仕事を任せることにした。もっとも力仕事と言っても、封をしたお菓子の運搬程度である。

「大津君、お菓子の包装を解く仕事に回ってくれる?
 くれぐれもゴミにしないよう、丁寧な仕事をしてくださいね」

 アサミの指示に、「はい」と素直にアキラは返事をした。相手は同学年なのだが、立場はずっとアサミの方が強かった。

「綾部さんは、袋詰の方をお願いしますね」
「ええ、手早く済ませてしまいましょうね」

 こちらの方は、海外合宿中ずっと顔を合わせた相手である。だからアサミも、遠慮なく仕事をサユリに押し付けた。

 その頃シンジは、少し離れたところで本部の様子を見ていた。そこでシズカが手伝いを始めたのを見て、「いいんですか?」と隣に立つユキタカに尋ねた。

「ああ、あの程度の作業なら大丈夫だろう。
 それに、こうやって一緒に作業をするのは、あれのためになると思っているんだ」
「だったら、何も言いませんけど……」

 髪の毛の抜け方、そして骨が出るほど痩せてしまった体。そんな病気は、シンジには一つしか思い当たらなかった。強い薬で治療を続ける、きっとそのせいで髪が抜けてしまったのだろうと。
 だがそのことを、この場で口にする訳にはいかない。だからシンジは、ユキタカに向かって「部長」の役目を果たしに行くと告げた。

「こんなところで油を売っていると、後から先輩達にどやされますから。
 ひと通り回ってから戻ってきますから、よろしければ涼しいところで待っていてもらえますか?」
「ああ、シズカを見ていないといけないからな。
 忙しいところを邪魔して悪かった」
「まあ、こんなものは高校生のボランティア活動ですからね。
 一刻を争うようなものじゃありませんから、気にしていただかなくても結構ですよ」

 それではと頭を下げたシンジは、広いストライドでゴミ拾いをしているグループの方へと走っていった。その時聞こえてきた黄色い歓声に、「人気があるのだな」と今更ながらユキタカは感心した。

「背が高くて顔が良くて、運動神経も良くて性格も良くて頭もいい。
 恋人は元トップアイドルで、しかもヘラクレスのエースパイロットか……
 まるで、少女漫画の主人公のようだな」

 人の羨むものをいくつも持っている。しかも高校生のくせに、アメリカ大統領とまで人脈ができている。冷静に考えれば、凄すぎるとしか言い様がないのだろう。だからこそ、ユキタカは惜しいと感じてしまった。ここまで大きくした篠山でも、シンジを収めるのには不十分なものでしか無かったのだ。「婿に迎えろ」とうるさかった親戚筋も、現実を目の当たりにして尻込みするようになっていた。

「それでも手に入れたいと考えるのは、身の丈に合わない願いなのだろうか」

 凄すぎるからこそ手に入れたい。それが身を滅ぼすことに通じるとしても、ユキタカはその欲望が抑えられないほど高まっているのを感じていた。

 至るところで黄色い歓声に迎えられながらシンジは、幾つかできたグループを回っていった。その都度「適度な休憩」をとることをお願いし、「今日は有難う」とお礼を言って行った。最後にまとめて言われるのより、こうして身近なところで言った方がいい。それもまた、シンジなりの気配りの一つだった。

 ただこうした巡回は、花澤の居るグループを避けるのが常だった。今までの清掃活動では、事務所の方から一緒にならないようにとお願いをされた事情があったのだ。今日に限ってその話はなかったのだが、今までどおりと考え、シンジは花澤のグループを避ける事にした。
 だが今まで通りシンジがすり抜けようとした時、なぜか花澤の方が「碇先輩!」と言って駆け寄ってきた。

「冷たいじゃないですか先輩!
 俺達のグループにも顔を出してくださいよ」

 そう言って手を引っ張る花澤に、「いいのかい?」とシンジは大人の事情と言う奴を聞くことにした。

「事務所からは、積極的に先輩に絡めって言われていますよ。
 まあ、今まで先輩に近づけたくないって事務所の気持ちもよく分かりますがね。
 俺が言うのも何ですけど、先輩格好良すぎっすよ。
 背が高くてルックスが良くてパイロットで恋人が堀北アサミでしょ。
 ヒ・ダ・マ・リの楽屋でも、ゲストに先輩の事ばっかり聞かれるんですよ。
 俺が学校に行ってないって言ったら、もったいないから学校に行けって説教してくれるんです。
 そして自分がゲストにはいるときに、ゲストとして呼んできて欲しいって言われるんですよ」
「そうだね、時間があるんだったら、学校に来て部室に顔を出したらいいよ。
 そうしたら、もう少し先輩らしいことをしてあげられるんじゃないのかな?」

 そう言うことだと笑ったシンジは、集まった部員たちに「適度に休憩をとるように」と、他のグループと同じ事を伝えた。すでに10月になったのだが、まだまだ日は高く、気温も30度近くまで上がっていた。油断をすると、あっという間に熱中症になってしまう天気だった。

「じゃあ、僕は本部に戻るからね」
「もうっすか、先輩!?」

 まだいいのではと渋った花澤に、「目的はゴミ拾いだ」とシンジは笑い飛ばした。

「もっと一緒の絵が撮りたかったら、みんなを連れて本部に来ることだね。
 休憩ならば名目がたつし、アサミちゃんと一緒の絵もとることが出来るよ」
「でも、いいんすか?」

 アサミを気にした花澤に、それはこちらの台詞だとシンジは言い返した。

「アサミちゃんと一緒に映る度胸があるんだったら構わないよ」
「確かに、度胸が必要そうだなぁ……」

 花澤の知っている堀北アサミより、今のアサミは格段に磨かれていたのだ。花澤の知る限り、同年代の芸能人では太刀打ち出来る歌手や俳優はいないだろう。それどころか、年齢を上げても勝てそうな俳優が居るとは思えなかった。

「一応俺も男っすから、綺麗な女の子は近くで見てみたい気があるんです」
「ならいいけど、僕の彼女だって忘れないように!」
「先輩と張り合うなんて、無謀な真似はしませんって。
 じゃあ、もう少ししたら、みんなを連れて休憩に行きます!」

 そう言って頭を下げた花澤に、「本部で」と言ってシンジは離れていった。それを見送った花澤は、「撮ってくれた?」と一人の女子生徒の所に近づいていった。

「もうばっちり!」
「ありがと。
 やっぱ、碇先輩って格好いいよなぁ」
「それ同感。
 でも、堀北さんが相手じゃ勝ち目無いしねぇ。
 しかもジャージ部って、いつの間にか美人揃いになっちゃったし。
 もう、壁が高すぎって感じ!」
「まじ、うちの社長が全員まとめて欲しがってた。
 でもなぁ、どう考えても手がでないよなぁ、あれって」

 それまでの部員5人中4人が世界を救ったパイロットなのである。そして残った1人にしても、日本有数の資産家令嬢と来ている。たかが芸能プロでは、手が出せる相手ではなかったのだ。

「それで花澤君、これからは学校に顔を出すの?」
「そうすれば、碇先輩とじっくり話ができるんだろう?
 事務所も、なんとか時間を作るから行けって言ってた。
 そこでゲストに出てもらうよう、お願いをして来いってさ」

 ジャミング事務所にとって、花澤がボランティア部に入っているアドバンテージを生かさない手はない。仕事ではなく、後輩として頼み込めば、テレビかコンサートのゲストに出てもらえると踏んだのだ。だから花澤が言った通り、学校に顔を出す時間を作るのは、ジャミングにとっても緊急の課題となっていた。

 ゆっくり回っていたこともあり、シンジが戻った時にはラッピング作業は終盤に差し掛かっていた。しかも篠山家当主まで一緒になって、袋詰をしてくれている。一高校の部活と考えると、なかなかめずらしい光景に違いなかった。
 それを確認したシンジは、クーラーボックスから緑茶のペットボトルを取り出した。そしてコップを人数分並べ、緑茶をそこに注いでいった。暑い中作業をしてくれたのだから、その努力を労おうというのである。

「みんさんご苦労様です。
 お茶を入れましたから、一度休憩しませんか?」
「あらっ、素敵な殿方にお茶を入れてもらうなんてうれしいわ」

 そう言って喜んだシズカは、出されたお茶に少しだけ口を付けた。気温が上がっていることを考えると、それもまた不自然な行為だった。

「でも、本当に高校生に戻ったような気分ね。
 こうやって明るい日差しの下で、みんなで作業が出来るなんて思ってもいなかったわ」
「これからもボランティア活動は続きますから、気が向いたら来ていただいてもいいですよ。
 これからもう少し涼しくなりますから、外にいてももう少しは楽になると思います」
「だったら、主人に内緒であなたに会いに来ていいかしら?」

 そう言って少女のような笑顔を浮かべてくれたのだが、やせ細った顔が痛々しさを増していた。

「いいんですか、本気にしますよ」
「でも、私はユキタカさんを愛しているし……
 できたら、キョウカちゃんと遊んで上げて欲しいんだけど。
 素敵な恋人がいるから、やっぱり無理なお願いになるわね」

 残念と笑ったシズカは、「少し疲れました」と隣にいたユキタカに告げた。

「下川辺、綾部、俺はシズカを車まで連れていく。
 お前たちは、引き続きお手伝いをして差し上げろ」

 二人に指示を出したユキタカは、シズカを支えて椅子から立ち上がらせた。そしてゆっくりと、止めてあった車の方へと歩き出した。ゆっくりとゆっくりと、まるで止まっているような速さで、二人は車へと向かって歩いている。夫婦の絆の強さを感じさせるのと同時に、それだけ健康状態が思わしくないのだとシンジは想像した。
 そして同じ事を、アサミも感じていたようだった。「先輩」と小声で声を掛けたアサミは、離れようとこっそりと外を指さした。

「すぐに戻るから、大津君が指示を出してくれるかな?」
「了解しました。
 急いで戻ってこなくてもいいですからね」

 何かを勘違いしているようなのだが、シンジは敢えてその勘違いを利用させてもらうことにした。そして先に席を立ったアサミを追いかけ、人目につきにくい橋の橋脚へと向かった。そこならば、ちょうど全員の死角になっていた。

「篠山のお母さんのことかい?」

 深刻な顔をしたアサミに、シンジは思っていたことをぶつけた。この短い時間で持ち上がった問題は、キョウカの母親以外に考えられなかったのだ。

「ええ、病気はかなり悪いみたいですね。
 おじ様や綾部さん達は、お手伝いをしながらずっと気にかけていました。
 それに、こんなに暑いのにほとんどお茶を口にしていなかったんです。
 でも、一番気に掛かったのは、キョウカさんが気づいていないことです。
 キョウカさん、おばさまの容態を知らされていないんじゃありませんか?」
「知らされていないのか、さもなければ理解していないのか……と言うところかな。
 あいつは気づいていないが、今日はかなり無理をして来たんだろう」

 こんな暑い日に無理をしなくてはいけない。そのことからも、二人はシズカが長くはないことを感じていた。ただ二人きりの今でも、それを口にすることはできなかった。ただ無邪気に喜ぶキョウカを見て、悲しいなとだけ考えていた。

 車の後部座席にシズカを座らせたユキタカは、大丈夫かと声を掛けて冷房を更に強めた。そして冷たく冷えたおしぼりを、シズカの額に当ててあげた。

「ありがとうあなた、今日は本当に楽しかったわ。
 だから私、もっと一緒にいられなくて本当に悔しいの。
 ナオキさんのお嬢さんは可愛いし、碇さんはとっても素敵だと思ったわ。
 それに、あなたと違って、碇さんはしっかりと彼女を受け止めてくれている。
 あんな素敵な関係じゃ、キョウカちゃんは割りこむことはできないわね」
「俺と違っては、少し余計じゃないかな?
 俺は、お前のことをしっかりと受け止めているつもりだぞ」

 心外だと少し憤って見せた夫に、シズカは「違いますよ」と弱々しく笑ってみせた。

「私が言っているのは、マナミさんとのことですよ。
 あなたとマナミさんは、あの二人のような強く結びついていなかった。
 だから私は、安心してマナミさんからあなたを奪うことができた……
 ごめんなさい、随分と身勝手なことを言っているのは分かっているのよ」
「ああ、とても身勝手なことを言っているな……
 それでも言わせてもらえば、俺はお前のことを誰よりも愛しているぞ」
「キョウカのこともでしょう?」

 娘を付け加えた妻に、そうだなとユキタカは小さく頷いた。

「でも、無理を通しては駄目ですよ。
 キョウカちゃんは、碇さん達二人の関係に憧れているんです。
 そんな二人の間を引き裂くような真似をしたら、あなたは一生あの子に恨まれるわよ。
 篠山の家なんて、私の代で終わらせてしまっても構わない。
 だって、今の篠山は、あなたが作ったものであって、お祖父様が守ろうとしたものではないんだもの。
 だから私が死んだら、もう誰にも遠慮することはないでしょう?」
「まだ、お前は当分死なないさ。
 だから俺は、今まで通り篠山を守っていくんだよ」

 ハッキリと言い切った夫に、「嘘ばっかり」とシズカは笑った。

「私の体のことは、私が一番理解しているんですよ。
 キョウカちゃんが素敵な人と結ばれるまでと思って頑張ってきたけど。
 それも、そろそろ限界が来たみたいなの。
 だから碇さんの顔がどうしても見てみたくて、こうして無理を言って連れてきてもらったんでしょう?
 これは私の望んだことだし、死ぬといっても今日明日のことじゃないんですからね。
 だからあなた、そんな顔をしなくてもいいのよ」

 そう言って笑ったシズカは、「疲れました」と言って瞳を閉じた。

「家に着くまで、ここで休ませてくださいね。
 もう少し体力があったら、もっと楽しい時間が過ごせたのにね」

 残念と口元を少し歪め、シズカはそれっきり口を開かなかった。静かに上下する胸の動きが、ただ彼女の生を伝えてくれていた。



 午前中のボランティア活動は、特に問題が起きることもなく終了した。大量にもらったお菓子の山も、集まった全員に無事配り終わることができた。マドカを先頭に、パイロット全員がお菓子を配って回ったことで、出席者全員が喜んで帰っていった。それは取材に来たマスコミも例外ではなく、マドカ達に手渡されたお菓子に感激して帰ってくれた。

 一方本部にしていたテントは、葵の手配で撤収も完了していた。そして清掃に使用した道具も回収を終え、一箇所に集められていた。今までの活動では、シンジ達が自分で運んでいたのだが、今回は流石に量が多いと車で運ぶことになっていた。このあたりは、基地からの手伝い要員が活躍してくれるのだろう。

「さて、これからお昼を食べて基地に向かうんだけど。
 みんな、お昼のあてはあるのかしら?」

 運び出される荷物を背に、葵はこれからの予定を口にした。迎えが出るのが1時半なので、それまでの時間の使い方が気になったのだ。

「僕達は、BWHの売上に貢献しようと思っているんですが。
 葵さんはどうします?」
「葵先生でしょう?
 それはいいとして、なぁんか喬られそうな気がするのよね。
 ロスで散財したから、結構懐が寂しくなっているのよ」

 高級ブティックで、値段を気にせず買いまくったのだ。それを考えれば、寂しくなった程度で済んだのは運が良かったとも言えるだろう。その辺り、アサミママが気を使ってくれたおかげかもしれない。
 「喬られる」と口にした葵に、シンジはすかさず「経費につければいい」と言い返した。

「僕達は、それぐらいしてもらう権利があると思いますよ。
 まあ、これからの出撃では、危険手当が付くんでしょうけどね」

 民間協力者が正規のパイロットとなったのだから、報酬についても必要な額が支払われることになる。過去の分はいらないことになっていたが、これからの出撃、及び訓練に際しては金銭的保証が行われることになっていた。そしてシンジの言うとおり、危険手当まで含めたら、支払総額は葵が羨む金額となっていた。
 ただ、命の値段と考えた時、それでも安いというのが後藤の考えだった。そして果たしてきた功績を考えた時、タダ同然というのがマスコミを含めた世間の評価でもあった。

「おごれというのは冗談ですけど、一緒に行動したほうが都合良くありませんか?」
「まあ、その方が都合がいいっちゃ都合がいいのよね」

 どうせ少し後には迎えに来るのだから、わざわざ別行動をする必要もない。それを認めた葵は、シンジの誘いに乗ることにした。どうせここで別れたとしても、どこかのラーメン屋に入るのが関の山だったのだ。
 とりあえず葵の件を片付けたので、全員ジャージのままカフェBWHに向かうことにした。どうせこのあと基地に行くのだから、わざわざ着替える必要もなかったのだ。

 清掃をしていた河川敷から、歩いて20分ほどの距離にカフェBWHはあった。注目度抜群のシンジ達が歩けば、至るところで声を掛けられるのは当たり前すぎることだろう。もともと顔が広かったこともあり、予定以上の時間が掛かってしまった。

「すっかり有名人って言うか、もともとあなた達って有名人だったのよね」

 S高ジャージ部の活動の中には、商店街への協力も含まれていたのだ。イベントの司会や着ぐるみを着た街宣活動までしているのだから、商店街で知らない人が居る方がおかしかった。それを考えれば、至るところで声を掛けられ、おみやげを持たされるのも不思議なことではないのだろう。

「う〜ん、今までよりは声を掛けられることが多くなった……気もするけど。
 まあ、多分その辺りは気のせいでしょ!」

 そう言って話を纏めたマドカは、「帰ったよ〜」とBWH扉を開いた。だがすぐに、中の様子に「おおっ」とのけぞった。最近客足が増えて居るのだが、まさか満員になっているとは思っていなかったのだ。
 そして満員の客は、マドカの顔を見て「おおっ!」と歓声を上げた。どうやら、全員マドカ達を目当てに集まっていたようだった。

「なになに、どうしてこんなに集まっているのぉ!」
「決まってるだろう、マドカちゃん達の顔を見たかったんだよ。
 いつもヒ・ダ・マ・リの収録の後は、全員ここでお昼を食べているだろう?」

 そう言って種を明かしてくれたのは、ご近所の秋元のご主人だった。この秋元さん、経営している八百屋を留守にしてBWHに顔を出していた。
 そしてその事情は、他の客にも共通していた。中には知らない顔も居たのだが、ほとんどが商店街の人達だったのだ。

「マドカちゃん達、このあとヘラクレスって奴の訓練に行くんだろう。
 だからその前に、俺達が応援しているのを見せてやろうって集まったんだよ」
「え〜、ちゃんと売上に貢献してくれてるの?」

 顔を出すだけでは駄目と言ったマドカに、「きついねぇ」と秋元は頭を掻いた。

「だって、お店が一杯だとお客さんが入ってこれないじゃない!」
「そりゃ、まあ、確かにそうなんだが……
 おう碇の坊主、なんとか言ってやってくれないか」
「なんで、僕に振ります?」

 一応顔見知りということもあり、シンジは秋元に助け舟を出すことにした。もっともそれが助け舟かどうかは、非常に判断に苦しむところではあったのだが。

「遠野先輩、僕達が出ていった後に、しっかりと貢献してくれますよ。
 多分、このあとは昼間っから酒盛りになると思いますからね。
 秋元さん、と言うことでいいんですね」
「お、おう、そのへんは任せておけや……」

 多少目元がひくついているのは、帰ってからが怖いのに違いない。だがシンジに仲裁を頼んだ以上、飲んで帰らないわけには行かなくなってしまった。

「お〜いマドカ、みんなの昼飯ができたぞぉ」
「はぁ〜い、今運ぶから待ってて」

 慌ててエプロンをしたマドカは、キッチンから8人分のランチを運んできた。今日のメニューは、きのこと山菜のペペロンチーノだった。

「はい碇君は大盛りね」
「いやっ、それにしてもこれは極端でしょう」

 どうして大皿、どうして山盛り? そう言いたくなるほど、シンジの前に置かれた皿にスパゲッティーが山盛りになっていた。

「おっとこの子でしょう!」
「いやいや、それって理由になっていませんから。
 それに、男ってことなら大津君も男ですからね」

 比較になるアキラの方には、普通の大盛りが置かれていた。普通の大盛りでも多いのに、シンジの方は更に倍の量が盛られていたのだ。食べろと言われれば食べきる自信はあるが、後に訓練が控えているから軽めに抑えておきたい。この半分でいいのにと、シンジは恨めしそうに山盛りのスパゲティーを見ていた。

「だったら、アサミちゃんと取り分けたら?」
「アサミちゃんの前にも、1人前のスパゲティーがあるんですけど?」
「だったら、こっちのお皿は遠野先輩にあげればいいんです。
 私は、先輩の方から取り分けてもらいますから。
 と言うことなので、遠野先輩、取り分け用のお皿をお願いしますね」

 はいとスパゲティーの盛られた皿を渡され、マドカのこめかみがひくひくと引きつった。その辺り、自分の量が倍になるという問題より、間違えて地雷を踏んでしまったと言う思いが有ったのだろう。どうしてそこでアサミに話を振った、「マドカのバカバカ」と内心しっかり後悔していた。
 もっとも、先に立たないから後悔と言われるのである。しかも相方のナルからは、とても冷たい眼差しを向けられてしまった。葵やユイ達からも迷惑そうに見られれば、自分がしでかしたことの迷惑さも分かるということだ。

「はい、先輩!」
「ありがとう、アサミちゃん」

 マドカのお陰で、背中を掻き毟りたくなるような光景がBWH店内で見られることになった。それは集まっていた商店街の人達も同じなのか、ごく一部の独身男性は悔しそうにお店の壁を殴っていた。
 そうやって居合わせた全員に嫉妬の嵐を巻き起こしたカップルは、「どうしたんですか?」と更に感情を逆なでするようなことを言ってくれたのだ。

「そんなことより、今日の訓練スケジュールってどうなっているんです?」

 色々とイベントが重なったこともあり、集まっての訓練は今日が初日となっていた。その為、今後の訓練方針が示されていなかった。だからどうなっていると言うのは、質問としては極めて真っ当なもののはずだった。
 だがいくら真っ当な質問でも、受け取る方の心の準備ができていなければ意味が無い。

「ち、ちょっと待ってくれる、今心を落ち着けているから」

 そう言って「すーはー」と深呼吸を二度した葵は、冷たい水をぐいっと一息で飲み干した。それでようやく人心地ついたのか、「盛りだくさん」と切り出した。

「今日の訓練から、衛宮君達も加わることになっているわ。
 まず最初に、訓練方針の説明から始まって、当面のフォーメーションの議論を始めるの。
 それが終わってから、フォーメーションに従ったシミュレーションを実施するの」

 ふんふんと葵の説明を聞いていたのだが、その中に一つ気になる言葉にシンジは気づいた。

「どうして、フォーメーションは議論になるんです?
 普通は、指示を僕達が貰う事になるんですよね」
「普通だったらそうなんだけど、誰が第一人者か考えたら分かりそうなものでしょ?」

 そう言って指さされたシンジは、「勘弁して」と葵に懇願した。

「そうやってパイロットに、なんでも責任をもって来ないでくださいよ」
「でもさぁ、サンディエゴ基地だって君に頼っていたじゃない。
 それよりも経験がないS基地なんだから、君に頼ってもしかたがないでしょう?
 一応これまで検討は行なっていたんだけど、いろんな前提が変わってしまったのよ。
 だから、今は必死になってフォーメーションを練り直しているところなの」

 だから諦めてと、葵はシンジの顔を見ながら言った。

「3人で出撃するんだったら、今更決め事をする必要はないでしょ?
 でも、堀北さんとか高村さん、大津君が加わったら、決め事が必要になってくるのよ。
 衛宮君達がどう支援するのかとか、色々と考えなくちゃいけないことがあるでしょう?
 それを考えるのに、絶対に君の助けが必要になってくるのよ」
「だとしたら、当面フォーメーションを考えても意味が無いと思いますけど。
 高村さん達は、かなり訓練をしないと実戦には出られないと思います。
 それより同調率の低い衛宮さん達は、直接迎撃に出ることはないと思いますから。
 フォーメーションを考えるのは、高村さんと大津君の訓練が進んでからでいいと思います」
「つまり、それまでは3人で出撃するってこと?」

 シンジの話を聞く限りだと、フォーメーションを決めても無駄だと言うことになる。つまり、高知と同じで、3人で出撃することにつながってくる。

「いやいや葵さん、アサミちゃんを忘れてもらっては困りますよ。
 今まで5人でフォーメーションを組んでやってきたんですよ。
 アサミちゃんには、戦場全体を俯瞰して、状況分析と指示を出してもらいます」

 シンジに言われて、葵はようやくこれまでのシミュレーションを思い出した。確かにシンジの言うとおり、S高の5人は圧倒的な成績を示し続けてきたのだ。そのチームにおいて、アサミとキョウカも重要な役割を担っていたのだ。
 最終的な作戦判断はシンジがするにしても、それまでの情報の分析と評価、それを伝える役目が必要となってくる。今の状況では、シンジの言うとおりアサミこそその役目に適していた。

「でもさ、その役目って必ずしもヘラクレスに乗っていなくてもいいのよね?」
「それを否定するつもりはありませんけど、今のところ適当な居場所がないのも確かですよね。
 一番いい方法が見つかるまでは、アサミちゃんにはヘラクレスに乗って貰うつもりです」
「堀北さんは、それでいいの?」

 葵としては、戦場に出ることを聞いたつもりだった。だがそれを受け止めたアサミから、葵の考えとは違う答えが返ってきた。

「どうするのが一番いいのか、先輩と考えて決めたんです。
 本当は私もヘラクレスに乗って先輩と一緒に戦いたいんですよ。
 でも、後ろにいた方が先輩の助けになるのなら、喜んで後ろに下がることにしたんです」

 チームの動きに対する分析力の高さは、すでにサンディエゴで実証されていた。僅か1時間の分析で、サンディエゴ基地の問題をあぶり出し、解決策までアサミが用意したのである。それを考えれば、戦いへの関わり方も決まってくるというものだった。
 二人の説明を聞いた葵は、自分達の方が素人なのだと思い知らされた。通常兵器を使った戦いならば、比べようもなく自分達の方がプロだった。だがヘラクレスを用いた集団戦闘になった途端、日本の誰も二人の頭脳に敵わないのだ。大人として子供に頼ることへの悔しさは有ったが、よくぞ二人の天才が巡りあってくれたと感謝もしていた。この二人が出会わなければ、今頃世界は破滅を迎えていたのは間違いない。

「今の話、後藤特務一佐に報告しておくわ」
「そうしてくださるとありがたいですね……」

 そこで時間を見たシンジは、そろそろ基地へ移動する時間が来たのに気がついた。全員昼食が終わっているが、一つだけ言っておくことが残されていた。

「篠山、今日はリーダーご苦労だったな。
 お前は早く帰って、お母さんに無事終わったことをちゃんと報告するんだぞ。
 それから、お手伝いしてくれたことを、僕達が感謝していると伝えてくれ」
「俺を、見学に連れて行ってくれないのか?」

 パイロットとして登録されていなくても、見学ぐらいさせてもらえると思っていた。それをシンジに否定されたので、キョウカは駄目なのかと葵の顔を見た。
 だが葵が答えるのよりも先に、シンジは「駄目だ」と見学を否定した。

「ここから先は、僕達はパイロット候補としての行動になる。
 だから候補でないお前の出番はどこにもないんだ。
 そして見学をすると言っても、今日の予定に見学は入れていないんだ。
 ずっと駄目だとは言わないから、今日は我慢して家に帰れ。
 それに暑いところでお母さんに無理をさせたから、ちゃんと家に帰って安心させてやれ。
 いいか、お母さんを安心させられるのは、お前にしかできないことなんだからな」
「先輩が、そう言うんだったら……
 でも、本当に見学をさせてくれるんだな」
「僕が、今までお前に嘘を吐いたことがあるか?
 アメリカでも、ちゃんと生きて帰ってきただろう?」

 シンジにそこまで言われれば、キョウカも引き下がらない訳にはいかない。シンジの言うとおり、今までキョウカは嘘を吐かれたことはなかった。自分が諦めた時でも、約束通りシンジは帰ってきてくれた。それに比べれば、訓練の見学など容易い事に違いなかった。

「分かった、今日の所は大人しく帰ることにする。
 母様には、先輩がお礼を言っていたと伝えておくぞ!」
「またお話出来るのを楽しみにしていると付け加えてくれ」
「うん、分かった!」

 力強く頷いたキョウカは、ポケットからスマホを取り出した。これから帰るから、BWHまで迎えに来いというのである。その辺り、痩せても枯れても篠山家の一人娘というだけのことはあった。

「じゃあキョウカちゃん、明日学校でね」
「ああ、明日は立候補の締め切りだったな」

 なんの脈絡も無くキョウカが口にしたことは、当たり前だがシンジにヒットした。忘れていたと言うわけではないが、今の今まで気にもしていなかったのだ。だがここまで会長への立候補者がいない以上、明日になって誰かが立候補するとは思えなかった。

「篠山、嫌なことを思いださせるなよ……」
「だがな先輩、たとえ忘れていても、結果は変わらないと思うぞ」
「だとしても、ここで思い出すことに意味なんかないだろう?」

 どうして気分をダウンにさせる。その辺りを説教したかったのだが、残念ながらその機会はシンジには与えられなかった。シンジが文句を口に仕掛けた瞬間、BWHの扉を開いて自衛官が一人入ってきたのだ。

「みなさん、お迎えに上がりました!」

 そう言われたら、大人しく基地に向かうしか無い。キョウカへの小言を飲み込んだシンジは、仕方がないとマドカ達に合図して立ち上がったのだった。



 その月曜日、予想通り生徒会役員には新たな立候補者は現れなかった。そしてお昼時間の締め切りが終わったところで、不足した生徒会長候補と環境委員長候補に、シンジとアサミが指名されたのである。このあたり、全校生徒を巻き込んだ、壮大な仕込みとしか言いようのない結果だった。

「……やってくれましたね」
「その辺り、初めに言ったとおりだと思うのだがな?」

 放課後生徒会室に殴りこんだシンジに、陸山はしれっと言い切ってくれた。確かに陸山が言うとおり、候補者がいなければ指名権は生徒会長にあることになる。それを陸山は、ハッキリとシンジに伝えていたのである。

「そこまでは認めますが、どうして本人も知らないうちに選挙ポスターがあるんですか?」
「いやあ、美術部と写真部が協力的でね。
 君たちを指名した直後、突貫作業でポスターを作ってくれたんだよ。
 誓って言うが、俺が手を回したと言うことはないからな」

 そんなことで尻尾をつかませると思えず、そうですかとシンジはとても不機嫌そうな顔をしてみせた。だがいくら不機嫌そうにしたところで、受け取る方が気にしなければ意味が無い。それどころか、陸山は立会演説会の予定を教えてくれた。

「木曜午後に立会演説会をして、金曜のお昼に投票を行うからな。
 放課後に開票するから、すぐに役員を教えて上げることが出来るよ」
「それはそれは、ご親切なことで……」
「そして、いよいよ来週末にはS高祭だ。
 それが終わったら、この役目も君に引き継ぐことになるんだな」

 シンジが引き継ぐことが既定路線と、陸山は晴れやかに言い切った。
 普通なら選挙前に、誰が会長になるのか決まるはずはないだ。だが候補者が一人で、信任投票となれば、シンジが不信任されるはずがなかったのだ。そもそも誰も候補者が出なかったのは、全校一致でシンジを生徒会長にするためなのだ。それを考えれば、万が一にも不信任されることはあり得なかった。
 だから陸山の、「君に引き継ぐ」と言う言葉は、どうしようもなく真実を突いていたのだ。

「君のお陰で、今回の生徒会役員選挙は面白いことになっているよ。
 君と堀北さん、滝川君が鉄板なのを除けば、後はかなりの乱戦だからね。
 書記、会計、総務、渉外の4人が誰になるのか楽しみにしていてくれ」

 最初に上げた3人は、対抗がいないのだから鉄板と言うのは確かだろう。「ああそうですか」と投げやりな答えを返したシンジだったが、陸山の言葉に引っかかるものがあるのに気がついた。

「ええっと会長、副会長候補のことを「滝川君」って言いませんでしたか?」
「ああ、確かに滝川君と言ったけど。
 それがどうかしたのかい?」

 ジャージ部員全員が、「滝川ヨシノ」を女性だと思っていた。だがそれならば、陸山は「滝川さん」と言わなければおかしかった。

「いえ、ヨシノって言う名前だから女の子だと思っていたんですけど……
 君づけだから、男だったのかと思っただけです。
 何れにしても、同学年なのに顔が浮かんでこないんですよ」

 盛大に首を傾げたシンジに、そう言うことかと陸山は頷いた。確かに女の名前だよなと考えながら、シンジが知らない理由を口にした。

「彼は、特に部活をしていないからな。
 だから顔の広い君でも、面識が無かったのだろうな。
 クラスもF組だから、共同授業でも一緒にならないからな」
「ああ、そう言う事情ですか……」

 そこで納得したシンジに、「どういう生徒か聞いてこないのだな」と陸山は突っ込みの言葉を入れた。だがシンジにしてみれば、副会長”だけ”単独候補になったのである。その不自然さを考えれば、陸山の息が掛かっているのは自明の理だったのだ。だから今更、どんな生徒かなど確認する必要もなかったのだ。

「滝川君が副会長に立候補したのも、会長が裏で手引きしたんですよね。
 だったら、能力的に問題がないのは分かっているんでしょう。
 後は、クラスの誰かに滝川君のことを聞けば分かることだと思いますから」
「ああ、その辺りは見え見えってところか」

 そう言って笑った陸山は、「万全の体制を用意した」と言い切ってくれた。

「激戦になったところまでは保証できないが、副会長にはこれといった奴に引き受けさせた。
 なかなかの曲者と言う評判だが、度胸が座っているのはピカ一と言うことだ。
 後は、根回しが得意と言うか、謀略が得意だと言う評判だな」
「いやいや、それって褒めてないでしょう」

 度胸が座っているのなら褒め言葉だが、謀略が得意と言うのはどう聞いても褒め言葉ではない。それを指摘したシンジに、「必要な素養」と陸山は嘯いてくれた。

「表の顔をサポートするのだから、彼には汚れ仕事が求められるんだよ。
 まあ、たかが生徒会だから、汚れと言っても大したことはないんだがな」
「そうやって、人のことを煙に巻きますか」

 酷い人だと苦笑したシンジに、「君には負ける」と陸山は言い返した。

「君は、生徒会長になるのが避けられないのを分かっていたんだろう?
 そのくせマスコミの前では、やりたくないと散々吹聴してくれたじゃないか。
 あれは、自分の忙しさを宣伝して、彼らに自制を求めようと思っているんだろう?
 それに加えて、新執行部に、君を支えると言う動機づけを行ったとしか考えられない。
 全校一致で生徒会を支える、そう言うコンセンサスを俺に作らせたのだろう」
「やりたくないのは、今でも変わっていませんよ。
 何しろ生徒会長になると、ジャージ部の活動がやり難くなりますからね。
 手伝いに行った先で、予算の話なんかされたくありませんからね」

 その程度だと言い返したシンジに、「なるほど」と陸山は断られた理由を理解した。

「君にとっては、生徒会よりジャージ部の方が大切ってことか。
 確かに、今やジャージ部は君なしでは成り立たないからな。
 それに引き換え、生徒会は君でなくても十分にやっていける。
 まあ、それにしても、今更言うなってところか」

 はっはと笑った陸山に、「そう言う事です」とシンジは苦笑した。陸山が「今更」と言うように、候補に指名された以上今更のことでしか無かったのだ。

 そして陸山が告げた通り、その木曜午後に生徒会役員立候補者による立会演説会が開催された。どういう演出なのか、演説は名簿の一番下にある渉外から行われた。最後に会長候補の演説で〆て、演説会を盛り上げようという腹なのだろう。

「しかし、どうしてこうも演出効果を狙うんだろうね。
 立会演説なんて、淡々と候補者の主張を言わせればいいのに」

 隣に座った滝川に、シンジは現生徒会の悪乗りを愚痴った。ちなみに滝川ヨシノのことは、以前から顔見知りだったことが直前に判明していた。ただ今まで、顔と名前が結びついていなかっただけのことだった。

「陸山会長は、あれで結構なお祭り好きだからね。
 たとえ立会演説会とは言え、何事も無く終わるのは気に入らなかったんじゃないのかな」
「僕を生徒会長にってところから、そう言うところがあるのは分かっていたけど……」

 ふぃっと息を吐きだしたところで、アサミに演説の順番が回ってきた。その途端、今まで静かだった講堂に大きな歓声が沸き起こった。

「いやぁ、とても1年生とは思えない貫禄だね。
 しかも、今までの誰にもない華も持っている。
 これじゃあ、次に演説する鎖部君が可哀想だ」

 ヨシノの感想に、「そうだね」とシンジも素直に頷いていた。特に体が大きいわけではないのに、演壇に立ったアサミがとても大きく見えるのだ。しかも照明の明るさが変わらないのに、アサミが立った途端にその一角だけ明るくなったように思えてしまう。良く通る綺麗な声もそうだが、遠く目で見てもアサミが魅力的な笑みを浮かべているのが分かる。アサミが立っただけで、聴衆はぐっと引き寄せられていた。

「来年の話はまだ早いんだろうけど、次の生徒会長は堀北さんで決まりだろうね。
 彼女ぐらいしか、碇君の後で生徒会長を出来る人が見当たらないよ」
「たぶん、猛烈に拒否されるんじゃないのかな?
 僕もアサミちゃんを会長にしようと思わないから、多分実現しないと思うよ」

 一緒に居られる時間が短くなるのだから、アサミが生徒会長を引き受ける理由が存在しない。しかもその時の生徒会長が自分なのだから、今年のような根回しが行われないのだ。だからあり得ないとシンジは言ったのだが、「諦めようよ」とヨシノは小さな声で言い返した。

「碇君だって、生徒会長をしている堀北さんを見たいと思っているんだろう?
 それに碇君には、次の生徒会長を信頼出来る人に任せる責任ができてしまったんだ。
 大丈夫、その辺りの根回しは僕がやるから任せておいてくれないかな?」
「い、いや、そんな根回しは必要ないからっ」

 本当にアサミに生徒会長をさせたければ、シンジがお願いすれば済むことなのだ。それを考えれば、今年のような、盛大な出来レースは必要ないのである。
 だがヨシノの考えは、少しシンジとは違っていた。

「君たち二人をその気にさせないといけないんだろう?
 その為の根回しってのが必要になると思うんだ」
「つまり滝川君は、会長の意向に逆らって根回しをするって言っているのかな?」
「いやいや、口に出せない碇君の願望を叶えてあげようと思っているだけだよ」

 ふふっと笑ったヨシノに、確かに性格が悪いとシンジは陸山の論評を認めてしまった。言うに事欠いて、自分の願望などと言ってほしくない。
 だがヨシノに向かって、「性格が悪い」とシンジが口に仕掛けた時、支給されていた携帯が大きな音を響かせた。演壇のアサミ、そして脇に座っているシンジ、そして講堂の中から4箇所、周りを切り裂くような音が響き渡った。その鋭い音に、何事かと生徒たちの間に動揺が走った。

「すみません、演説の途中ですがここで打ち切らせてもらいます。
 皆さんが想像した通り、これは私達に対する緊急呼び出しです。
 太平洋地区にギガンテスが発生したと言う知らせです!
 だから私たちは、すぐにS基地にいかなくてはいけなくなりました」

 そう言い残し、アサミは聴衆に頭を下げて演壇を降りた。そして立ち上がったシンジの所に駆け寄り、「行きましょう!」とその手を取った。それをヨシノが、「ちょっと」と呼び止めた。

「出ていくんだったら、舞台裏からじゃなくて正面から行ってくれないかな?
 なに、どちらを通ってもかかる時間に大差は無いだろう?
 S高の仲間から、出撃する君たちに声援を遅らせてもらってもいいと思うんだ」
「そうですね、じゃあ先輩真ん中を突っ切りますから!」

 ヨシノの言葉に賛同したアサミは、こっちですとシンジの手を引っ張った。
 芝居がかったやり方に疑問は感じたが、すぐにこれも必要なことかとシンジは考えなおした。そしてそれならそれで、もっとやり方があるだろうと考えた。緊急呼び出しといっても、迎えのヘリが降りるまでにはまだ時間がかかるはずだ。だったら一言残していっても、大勢に影響が出るとは思えなかったのだ。

 だからシンジは、逆にアサミの手を引き、マイクのある演壇に立った。そして未だにざわめいている仲間たちに向かって、大きな声で「応援してください!」と呼びかけた。

「これから僕達は、ギガンテスを叩き潰してきます!
 だから、みんなの応援をお願いします!」

 シンジの声で、講堂を包み込んだざわめきはピタリと収まった。そしてその代わりに、ヒーローの出撃に対する歓声が沸き起こった。それに呼応するように演壇に登ったヨシノは、マイクをとって大声で「シンジっ!」と全員に号令を掛けた。

「シ〜ンジ、マァ〜ドカ、ナァ〜ル、アサミっ!」

 マイクを持ったヨシノは、そう言って出撃する仲間の名前を大声で呼んだ。そして講堂に居た生徒たちは、その音頭に合わせるようにシンジ達の名前を大声で唱和した。その声は、大きな唸りとなりS高の講堂を包み込み、出撃するシンジ達の背中を後押ししたのだった。



 世界を包んだ観測網からの一報に、S基地はすぐに緊急体制へと移行した。未だカテゴリが2の基地ではあるが、実効的には東アジア地区唯一、ある意味世界最強の戦力を有していたのだ。国連の決定など、政治的駆け引きでどのようにでもなる性格のものでしか無かった。

「どこに来る!」

 作成司令室に駆け込んだ後藤は、すぐさまギガンテスの襲撃予想場所、規模を部下に求めた。そこで返ってきた答えは、色々と問題を含んだ地域だった。

「台湾の東300km程をまっすぐに西に向かっています。
 推定上陸位置は香港島とされています。
 上陸まで、およそ7ないし8時間です!
 襲撃数は、3ないし4と言うことです」
「サンディエゴからでは間に合わないということか……」

 どんなに急いでも、サンディエゴからでは10時間が必要となる。そうなると、2ないし3時間遅延作戦を実施しなくてはいけなくなる。それができなかった時点で、悲劇の再現ということになる。もしも香港島に上陸したなら、人口密度の高さから言って、シャームナガルどころではない悲劇が引き起こされることになるだろう。そしてその影響は、全世界の経済に及ぶことになる。

「政府はなんと言ってきている!」
「現状ではまだ何も」
「出撃までの猶予時間は!」
「1時間と30分です。
 それ以上かけると、到着が上陸に間に合わなくなる恐れがあります!」

 中国との関係を考えると、おいそれと結論が出る問題ではない。だが迎撃を与る身としては、ギガンテスの被害を出すわけにはいかなかったのだ。そして世界経済を考えた時には、ここで被害を出せば、二国間の関係を超えた問題となってくる。その状況になれば、もはや責任追及どころの話ではなくなってくる。

「パイロット到着を待って、全機出撃させろ。
 中継点を沖縄に置き、そこで政府決定を待つことにする」

 日本国内の移動であれば、国際法上問題を起こすことはない。そこで稼いだ3時間で、双方の政府間調整も行うことが出来るだろう。

「候補の二人はどうします?」
「搭乗訓練もしていないパイロットに出番はない。
 本部でギガンテスとの戦いを見学させろ!」
「了解しました。
 あと5分で、パイロットを乗せたヘリが到着します」

 政府の決定がどうなるか分からない以上、今は僅かな時間も無駄にすることはできない。警報発生からパイロット回収までに要した時間は30分。けして短くはないが、前後の手続きを考えれば許容範囲に収まっていた。基地としての問題は、どれだけ早く出撃準備が整うのかと言うところだった。

「輸送機の給油完了まで、あと20分です。
 各機関に通達が完了、沖縄までの航路は全てクリアになっています。
 小牧、新田原のスクランブル体制も完了しています!」
「中国の動きはどうなっている!」
「現在情報は入っていません。
 いえ米軍からの情報来ました。
 遼寧、黒竜江の2隻が南下開始。
 核搭載機と思われる機影も確認されています!」
「政府発表ありました!
 日本政府は、懸かる危機に対しあらゆる援助を行う用意があると発表されました!」
「後は、中国政府の出方か……」

 日本からの支援を待たず、独自の遅延作戦を行う可能性は消滅していない。核搭載機を持ち込んだということは、海上での使用を考慮したということだろう。ただ、それは今までの戦いの中、ほとんど効果が得られない作戦でもあった。わずかに時間を稼いだとしても、2時間以上蹂躙を許せば、数百万の犠牲者が出ることになるだろう。そして数多の歴史を重ねた香港が、その歴史を閉じることになる。

「パイロット到着しました。
 現在ヘラクレス1号機から4号機に向かっています」
「アメリカはどうなってる!」
「サンディエゴ基地からの出撃を確認。
 到着予想時刻は、およそ9時間30分後です!」

 これまでいくども出撃したこともあり、準備の速さにおいては日本の比ではなかった。それでも地理的な遠さ故に、これまで何度も悲劇を引き起こしていた。

「香港の映像が入って来ました!
 やはり、各所でパニックが発生しています!」
「7百万人の大移動か……何割避難が出来る?」
「1割にも満たないのではないでしょうか。
 すでに、郊外に抜ける幹線道路は事故渋滞を起こしています!」

 その状況でギガンテスの襲撃を受ければ、間違い無く死傷者数は数百万に及ぶことになる。そうでなくとも、このままパニックが拡大すれば、数万人規模の死傷者が出るだろう。
 そのパニックを沈静化し、しかもギガンテスを撃退するには手段は一つしか残されていないはずだった。だが中国政府は、最後の手段を未だ選択していなかった。

「やつら、香港を見捨てるつもりか?
 自分達の喉元に、ナイフを突きつけるつもりなのか」
「パイロット出撃準備完了!
 輸送機の給油完了まで、あと10分です!」
「台湾政府から、輸送機の受け入れ準備があるとの連絡が入りました!」
「ギガンテスの進路はっ!」
「変化ありません!
 襲撃数確認完了、襲撃数は3です」

 日本の3人ならば、1時間も掛けずに撃退可能な襲撃規模だった。だがその支援がなければ、香港が炎に包まれるだけでなく、深セン、広州も多大な被害をうけることだろう。

「政府からの連絡は!」
「中国政府と調整中ということです」
「出撃猶予時間は!?」
「あと1時間と10分です!」

 10分後に中継地に向けて出撃すれば、調整時間は大幅に稼ぐことが出来る。だがそれが諸刃の剣であるのを、後藤は承知していた。

「だが、相手がそれを見透かしていたらどうなる……」

 最終的には日本の支援を受け入れるのは疑いようが無い。そして日本としても、支援せざる負えない事情というのが存在しているのだ。何しろ香港が陥落して困るのは、何も中国政府だけということではない。世界規模での混乱を考えれば、各国とも支援せざるおえないのである。
 その状況で支援依頼が出ないと言うのは、中国政府の瀬戸際外交で有るのは疑いようがなかった。自国民を人質にすることへの怒りはあったが、それが政治だと言われればそれまでである。だが、こうしている間にも、パニックで大勢の人が死んでいっているのだ。

 「くそったれ」、そう吐き捨てた後藤は、部下に総理とのホットラインの開通を命じた。

「鏑木総理がお出になりました!」

 それなりに待たされるかと思ったが、意外に早く鏑木がホットラインに出てくれた。裏を返せば、それだけ日本政府も手詰まりになっているという証拠でもある。

「指示があるまで、出撃を延期する。
 パイロットには、ヘラクレス機外で待機させろ!」
「出撃停止、パイロットは機外で待機!」

 必要な指示を出した後藤は、手元の受話器を取り上げた。

「お忙しいところ申し訳ありません。
 相手は、一体何をごねているのですか?」
「日本国旗の付いた機体が来ることを拒否している。
 機体はあちらで用意するから、パイロットだけ寄越せと言うことだ」

 緊急時と言うこともあり、お互い余計な言葉は付け加えなかった。鏑木の言葉で状況を理解した後藤は、「出撃体制を解除しました」と自分の出した指示を伝えた。

「これで、およそ30分ほど時間をロスすることになります。
 従って、あと30分以内に出撃要請がなければ、我々は間に合わないことになります。
 総理、すぐに次のことを報道発表してください。
 出撃要請がないため、S基地は出撃体制を解除し、警戒態勢に移行したと。
 再度出撃するためには、要請受領後30分の時間が必要になると」
「締め切り過ぎの要請には答えられないと言っておけばいいのだな。
 ついでに、未調整の機体での出撃はできないとも発表しておく」

 阿吽の呼吸で意図を理解した鏑木に、その通りと後藤は答えた。

「はい、パイロットの安全のため、期限過ぎの出撃はできないと発表ください。
 仰る通り、未調整の機体を使用するのはリスクが高すぎます。
 それに、本基地が第2カテゴリである以上、国連における出撃義務は課せられておりません」
「そうなると、要請までのリミットは残す所35分ということか。
 ところで後藤、実態は何分有るのだ?」
「プラス20分です」

 つまり、55分が本当のリミットということになる。それを理解した鏑木は、「待っていろ」とホットラインを切った。軍が場を作ってくれた以上、後は政治が力を示すだけだった。

「1号機から4号機の準備はどうなっている?」
「出撃準備はできています。
 パイロット4人は、輸送機内で待機中です」
「只今、日本政府から、出撃要請が無いため待機体制でいるとの発表がありました。
 要請リミットは、30分後と指定されています!
 これ以上遅くなった時、パイロットの安全が図れないため出撃できないとしています」
「これで、とりあえず日本政府の不手際として叩かれないだろう……」

 自国民を救うためなら、間髪おかずに支援要請を出すべきなのである。それが世間一般に通じる常識だと考えれば、誰も日本政府に落ち度があるとは誰も言えない。すでにギガンテス発生の知らせから1時間が経過し、なおかつサンディエゴからでは間に合わないことが初めから分かっていたのだ。人命を第一に考えれば、すぐさま支援依頼を出さない方に問題がある。
 そして未だに残る基地反対派に対しても、待機体制でいることはこれまで自衛隊がしてきた主張を補強することになる。日本は、武力を要して自ら海外に出向くことはない。支援の依頼があって初めて、責任を果たすため武力を派遣するのだと。

 ただ、色々と口実は作ったが、それでも屁理屈が付けられることは承知していた。だがどんな屁理屈に対しても、論破するだけの口実はすでに用意されていた。待機体制にいることにしても、最悪を想定してのことだと言えば乗り切ることも出来る。

「ギガンテスの進路はどうなっている?」
「変化ありません。
 まっすぐ、香港島を目指しています。
 いえ、情勢に変化、中国海軍がギガンテスへの攻撃を開始します!」
「引き伸ばしの理由はこれか……」

 ここで時間を稼げば、アテナの到着に間に合わせることができる。そうすれば、忌々しい日本の助けを借りなくても済むのだ。そのためには、核の使用も辞さないと言うのだろう。

「映像切り替えます!」
「中国海軍総出……か。
 だが、相手はギガンテスだぞ」

 ギガンテスが海中に居るため、使用した武器は主に対潜兵器となっていた。かなりの火力を投入しているのだろう、爆発に伴って吹き上がる潮だけは盛大だった。だがそこまでしても、海上にはギガンテスの血すら浮かんで来なかった。

「ギガンテス進行速度は変わりません」
「Su30が接近、核攻撃を敢行する模様!」
「いよいよ追い詰められたか……」

 時計を見れば、日本が切った時間まで15分となっていた。「国連決議に従って」と日本が宣言した以上、制限時間を超えての出撃は期待できない。意地を張って攻撃をするにしても、タイムリミットを意識しないといけなかった。

「核ミサイル着弾します!」

 弾頭を核に換装した対艦ミサイルは、少し離れた位置に着水し、そのまま海中をギガンテスめがけて進行していった。そして後少しで到達というところで、海面を白く盛り上げその威力を解放した。地上で使用するのとは違い、海中での核は爆圧を利用して敵を圧殺する用途として使用される。

「これで効果がなければ、奴らも打つ手が無くなるということだな」
「まさか、地上で核を使う訳にはいかないでしょう」

 今まで最も時間を稼いだ方法は、地上での攻撃核の使用だった。そこで最大1週間という時間を稼ぐことができたのだが、周囲50kmが死の大地と化したのである。香港島で同じ事をしたら、ギガンテスではなく、自分の手で香港を廃墟に変えてしまうことになるだろう。

「観測結果が出ました、ギガンテスの侵攻速度は変わっていません。
 結果的に、攻撃は空振りに終わったと見るべきでしょう!」
「そうか……」

 スクリーンに表示された時刻を見れば、日本が示した制限時間まで5分となっていた。もはや中国海軍に、新しい作戦を行う時間は残されていなかった。

 そしてそこから更に3分が経過したところで、首相官邸とのホットラインが存在を示した。いよいよかと、ホットラインをとった後藤に、鏑木は「直ちに出撃せよ!」と命令を発した。

「はっ、直ちに出撃いたします!」
「パイロットに出撃指示!」
「リニアレール準備完了、10分後に出撃可能となります!」
「パイロット搭乗完了、ヘラクレス全機出撃準備完了しました!」
「出撃、フェーズ2に移行!」
「フェーズ2に移行します!」
「玖珂一尉、現地作戦本部設営に向かえ!」
「玖珂一尉、現地作戦本部設営に向かいます!」

 総理大臣命令で、S基地は出撃の活気を取り戻した。それまでの政治的駆け引きで鬱屈した気持ちを晴らすように、全員が今まで以上に忙しく動き回っていた。

「ようやく、あちらが折れましたか」
「核が通用しなかったのが決め手だろう。
 国家主席から、ホットラインで泣きが入った。
 さて、これからは宣伝合戦と言うことになるな」

 駆け引きの第一弾は、日本側の勝利と言うことになる。世界経済を賭けたチキンレースは、襲撃箇所のハンデを覆すことはできなかった。だがこれからは、様々な意味での情報合戦が始まる。少しでも香港に被害が出たら、間違い無く声高に日本の責任を追求してくれるだろう。

「それで、彼らは勝てるのか?」
「勝つだけなら、たかが3体であれば難しくないでしょう。
 ただ、いかに被害を抑えるかと言うと、なかなか難しい問題があります。
 あそこは、港近くに施設が密集し過ぎています。
 正直な所、私でも彼らの力を正確には把握できていません。
 それでも言えるのは、僅か4機でも、世界最強であることだけは確かでしょう。
 その証明は、およそ6時間後にされることになると思います」

 後藤の保証に、鏑木は「期待している」とホットラインを切った。すでに、戦いのために切れるカードは全て切ったことになる。後は、戦いの行方を見守ればいいだけだ。

「日本政府から、”チームS”の出撃が発表されました!」
「マスコミの反応はどうなっている?」
「概ね、好評というところです。
 論調としては、むしろ遅いと言う物が多くなっています。
 ただこれにしても、中国側の対応を非難したものとなっています」
「中国側はどうなっている?」
「待ってください、今中国政府から正式発表がありました。
 ”世界の英雄が人民を救うため光臨する”とのことです。
 この発表は、同時に映像付きで中国全土に放送されています!」
「これで、香港のパニックも収束するだろうな」

 ”世界の英雄”の名は、ニューヨークの戦いで更に高まっている。それ以前でもパニックを抑えたことを考えれば、名声の高まった今は、更に効果が期待できた。

「この戦い如何で、彼の名は絶対のものになると言うことか……」

 そしてシンジを保有することで、日本の発言力が強くなるのである。そしてそれ以上に、世界が存続できる可能性が高くなるのだ。世界を滅ぼす対象Iが、今や世界の守り神となろうとしている。それが本当に偶然で作り上げられたのだから、天は人類に味方してくているのだろう。

「あと、6時間後か……」

 戦いとしては小さなものだが、これで世界は新しい一歩を刻むことになる。それを考えた後藤は、なぜか体に震えが来てしまった。



 なかなか出撃指示が来ないことに、マドカとナルは苛立っていた。自分達はとっくに準備ができているのに、伝えられた指示は「待機」なのである。被害を少しでも抑えるためには、少しでも早く現地に着いている必要があると思っていたのだ。
 だから二人の苛立ちは、すべてシンジにぶつけられていた。なぜか、シンジが平然としているように見えたのだ。もう一人アサミも平然としているのだが、シンジが理由だと考えればおかしなことではなかった。

「ねえ碇君、どうして待機なんかしなくちゃいけないのよ!」
「何か隠しているんだったら、さっさと吐いて楽になりなさい!」

 どうして自分が責められなくてはいけないのか、二人の言葉に理不尽さを感じながら、シンジは「何も隠していませんよ」と穏やかに言い返した。

「だったら、なんで落ち着いていられるのよ。
 すぐに出撃しないと、大勢の人が死ぬことになるのよ!」
「ここから香港だったら、だいたい6時間あれば到着しますよ。
 だから、あと30分ぐらい時間的余裕はありますね」
「だからと言って、待機している理由にならないでしょっ!」

 なんとか言えと迫られたシンジは、「大人の事情」と答えた。

「日本は、憲法で外国に軍隊を派遣することが制限されているんですよ。
 例外事項は、同盟国との演習や集団自衛権の行使、そして侵略相手に反撃するときだけです。
 元々の憲法の規定では、相手からの依頼だけでは出撃できないことになっているんです。
 ヘラクレスの運用は軍に準じますから、憲法を順守する限り出撃できないんですよ。
 日本は法治国家ですから、法律に法った手続きがなければ僕達は海外に行けないんです」
「緊急時にそんな事言っていられないでしょっ!」

 それで被害が拡大でもしたら、本末転倒だとマドカは主張した。だがシンジは、超法規措置こそ危険だと言い返した。

「一度拡大解釈をすると、ずるずるとなし崩しになってしまうんですよ。
 ギガンテスが襲撃してくる、相手国からの依頼が有る……
 確かに、超法規的措置を取るのに十分な条件だと思いますよ。
 でも、国内でクーデターが発生した、鎮圧するために軍を派遣して欲しいと依頼を受ける。
 相手と使う武器は違いますけど、やっていることは同じなんです。
 だから、拡大解釈ができないような理由を作って、閣議で決定する必要があるんですよ。
 それにしたところで、相手から依頼を受けないと出撃はできないんです。
 たぶん、この期に及んで支援依頼が来ていないんでしょうね」
「なんでよ、私達以外に間に合わないのは分かりきっているんでしょう!
 どうして、中国は日本に支援依頼をしてこないのよ!?」

 納得がいかないと喚いたマドカに、「僕に当たらないでください」とシンジは言い返した。

「最終的な指揮権は、内閣総理大臣に有るんですよ。
 どうしてって言うのは、そっちに聞いてくださいよ。
 それに、心配しなくても制限時間内に出撃することになりますよ」
「……碇君、ほんとに年を誤魔化してない?」
「先輩は、去年の僕を覚えているんでしょう?」

 情けないシンジを覚えていれば、歳をごまかしているとは絶対に考えられない。それを指摘されたマドカは、「そりゃあそうだけど」と文句を言った。
 そんなマドカに、シンジは「社会情勢の勉強」と言って口元を歪めた。

「世界史とか日本史でやったと思いますけど、日本とアメリカは西側。
 中国とかロシアは東側の体制に属していたんです。
 共産主義が崩壊して、多少体制って有耶無耶にはなったんですけど。
 日本にとってアメリカと中国は別物なんですよ。
 そして中国にしても、日本に対して色々と思うところがあるんです。
 だからそう言った物の無いインドあたりなら、間髪おかずに支援依頼を出してきたでしょうね。
 中国政府としても、無条件に「助けて」って言えない事情が有るんですよ。
 多分日本に対して、いろんな条件をつけてきているんじゃありませんか?」
「やっぱ、碇君ってどこかおかしいわ」
「おかしいって言われてもね……」

 苦笑を浮かべたシンジは、「真面目に授業を受けているか?」とマドカに言い返した。

「あとは新聞とかテレビにニュースとかドキュメンタリーとか。
 この前、変な人が因縁をつけてきたでしょう?
 基地の入口では、反対派の人達がプラカードを持っていたじゃないですか。
 そういう人たちへの対策のために、色々と勉強して理論武装をしているんです」
「そう言われれば、確かに備えは必要なんだろうけど……
 う〜ん、でも、やっぱり碇くんってどこかおかしく思えるんだけどなぁ。
 なんで、あんなに忙しいのにそんな勉強している暇があるの?」

 シンジの忙しさについては、すでに日本中で共有されていたのだ。週刊誌でも、「日本一忙しい高校生」と言うのは、シンジのことを指すようになっていた。それだけ忙しいのに、学校の勉強以外にも勉強をしていると言うのだ。マドカで無くても、どこかおかしいと言いたくなるだろう。

「時間なんて、その気になれば作れるものですよ。
 ただそれを言うと、余計な仕事を入れられるから言わないだけです」
「だから、生徒会長の件も奥の手を使わなかったんだ……」

 本気で逃げようと思えば、陸山が何をしても手が届かないところに行く事ができる。会長の立候補者が出なかったことを「予定調和」と言ったが、それはシンジの側も同じだったということになる。つくづく凄いと感心したマドカは、一度頭の中を覗いてみたいと思っていた。

「そんなことより、今のうちに作戦を確認しますよ。
 香港は、港近くにまで高層ビルが立ち並んでいます。
 だから、加速粒子砲を撃たせたら、それだけで大きな被害が発生します。
 それを避けるために、今回は積極的に接近戦を仕掛けます。
 最初に僕が行って分断しますから、先輩達は1匹になった方をやっつけてください。
 それが終わったら、僕の方に加勢に来てください。
 アサミちゃんは、後方で戦い全体を俯瞰して欲しい。
 なにかおかしなことがあったら、迷わず僕に伝えて欲しいんだ」
「作戦って言うほど難しいことじゃないよね?」
「そうですね、シミュレーション通りにやってくれればいいんです。
 でも、シミュレーション通りにやるのは、本当はとても難しいんですよ」

 シンジがそう言って釘を差したところで、待望の出撃命令が発令された。「直ちに出撃し、ギガンテスを撃破せよ」シンプルそのものの命令だが、それで十分意志が伝わるものだった。

「さて、これからが本番です。
 状況に応じて作戦を変更しますから、あまり夢中にならないように」

 いささか言わずもがなの指示なのだが、マドカ達からは揶揄するような言葉は返って来なかった。これまでの実績もあるが、ギガンテス迎撃におけるシンジの信用は絶大となっていた。

 ヘラクレスを運ぶキャリアの足の遅さと偏西風の影響で、S市から香港までは5時間30分と言う飛行時間が必要となる。意外と早く中国政府が折れたお陰で、シンジ達は余裕を持って香港に到着することができた。日本と香港の時差は1時間、現地はすでに夜の11時となっていた。
 ギガンテス襲撃にも関わらず、香港の街は光に満ち溢れていた。世界的に有名な香港の夜景は、TICを乗り越え今だ健在というところだった。そして中国政府の言う”世界の英雄”出撃のお陰で、香港で起きていた酷いパニックも、潮が引いたように収まっていた。そしてシンジをして「それはないだろう」と言いたくなるほど、沿岸部にまで人が戻っていた。

「すっごく綺麗なのはいいんだけど……
 全然避難しているように見えないのは気のせいなの?」
「なにか、ビルの窓に人影が見えるんですけど……」

 今まで2回の経験では、戦場で民間人の姿を見ることはなかった。それに引き換え、今回の戦いはそこに住んでいる人たちの息遣いまで聞こえてきそうなのだ。それはすなわち、僅かな失敗が大きな犠牲を生むことに繋がる。勝てる勝てないではなく、小さな失敗すら許されない状況に、マドカとナルは怯えに似た感情を抱き始めていた。
 実際小さな失敗どころか、今までどおりの戦い方では犠牲者が出てしまうのだ。

 一方シンジは、玖珂一尉に住民の待避状況を確認していた。ギガンテスとの戦いにおいて、絶対というものは存在せず、僅かな見込み違いが大きな被害を引き起こすことは珍しくなかった。それが世界的コンセンサスとして確立されているのなら、今の香港の状況はありえないと考えたのだ。
 そんなシンジに対して、玖珂は止むに止まれぬ事情というのを説明した。

「香港から脱出するには、陸路を使うしか方法がない。
 だがその陸路が、多重事故のためほとんど機能していないんだ。
 それもあって、君たちの出撃が知らされる前には、かなりパニック状態になっていた。
 半ば暴動状態にも陥っていたと言う話だ。
 君たちのお陰で、パニック自体は潮が引くように収まったのだが、
 脱出経路が塞がれた状況は変わっていない」
「つまり、彼らがビルに残っているのは、開き直りのようなものですか?」

 脱出することもできないのなら、せめて戦いの行方を目に焼き付けておく。考え方は分かるのだが、それでも迷惑なことだとシンジは思ってしまった。僅か3体のギガンテスなら、被害を最小限にして勝つことも難しくない。だが全く被害を出さずに勝つのは、ほぼ不可能だと思っていた。だから少しでも内陸部に逃げていて欲しい、そうシンジは願ったのである。
 だが、もはや状況を変えるだけの時間は残されていない。与えられた状況で、被害を最小限に抑える戦いをしなくてはいけない。ギガンテスの進路をモニタで確認したシンジは、リスクは上がるが、被害を最小限に抑える作戦を選択することにした。

「遠野先輩、鳴沢先輩、アサミちゃん聞いてください。
 作戦を変更し、僕が一人で先行してギガンテスを叩きます。
 その後は臨機応変になるんですが、先輩達3人は、街に被害が出ないよう守ってください」
「3対1になるけど大丈夫なの?」

 すでに2対1の戦いは見ているが、3対1となると勝手が違ってくる。しかもただ勝つだけではなく、周辺への被害も考えるとなれば、更に難易度は上がってくる。シンジのことを信頼していても、さすがに難しいと思えてしまうのだ。

「その辺りは多分としか言えないんですけど。
 それから先輩、とどめを刺すのは先輩達にお願いします。
 ギガンテスに加速粒子砲を打たせないよう、接近戦でかたを付けますから」

 勝負を急ぐということは、それだけ失敗のリスクが増すことに繋がる。それは、S高のスーパーガールと言われる二人も、各運動部の経験で叩きこまれたことだった。「急がば回れ」と言う格言は、身を持って体験したことなのである。それが分かっていても、二人はシンジにすべてを任せることにした。自分達が鍛えた弟ならば、急ぎすぎることのリスクは十分に分かっている。そしてそのリスクを考えた上で、最善策をとろうとしているのだと。
 だから二人は、大人しくシンジの指示に従うのと同時に、「後ろは任せて!」とすべての自由をシンジに与えたのだった。

「何が飛んできても、絶対に街には被害を出さないからね!」
「鉄壁の守備ってやつを見せてあげるわ!」
「そうならないように戦うつもりなんですけどね……」

 少し口元を歪めたシンジは、二人に向かって「お願いします」と伝えた。そして今まで何も言葉を発していないアサミに、「大丈夫だから」と励ましの言葉をかけた。

「絶対に僕は負けないし、アサミちゃんが危ない目に会うこともないよ。
 それから、アサミちゃんはどんなことがあっても僕が守るからね」
「や、約束ですよ……」

 ローワー湾の作戦は無我夢中だった。そしてサンディーフックの戦いでは、シンジが一緒に乗ってくれていた。だから少しも怖いと思わなかったし、怖いと思うだけの余裕もなかった。
 だがこの戦いでは、シンジは隣にいてくれない。膝の上で抱きかかえてもくれないのだ。こうして声を聞くこともできるのだが、それでも恐怖というものを感じてしまう。「絶対に守る」と言うシンジの言葉でも、アサミの感じた恐怖は少ししか軽くなってくれなかった。

 そんなアサミの所に、シンジからプライベートコールが入ってきた。少し震える指で応答を押したアサミに、シンジはもう一度「絶対に守る」と繰り返した。

「たとえ香港を火の海にしてでも、僕は絶対にアサミちゃんを守る」

 そう言い切ったシンジに、「ああ」とアサミは体が震えるほどの感動を抑えることができなかった。シンジの役に立ちたいと志願したパイロットだったが、逆に自分の存在が負担になっている。それでも愛しい人は、不満ではなく自分に誓を立ててくれた。

「先輩……」
「だけど、僕は香港を火の海にするつもりはない。
 アサミちゃんを理由に、犠牲者を出すような真似はしない。
 だからアサミちゃん、僕の戦いを見ていて欲しい」

 そこまで愛する人に言われて、どうして戦いを怖れることが出来るだろうか。どうして足を引っ張ることが出来るだろうか。気がついたら、いつの間にか体の震えは止まっていた。そしてその代わり、心はどうしようもなく愛に震えていた。
 「はい」、アサミがそう答えたところで、シンジは通信をオープンチャネルに変えた。

「これから、戦闘地域に降ります。
 先輩とアサミちゃんは、街に被害が出ないように守ってください。
 各機、キャリアから離脱」

 シンジの号令に遅れて、キャリアに括りつけられていたヘラクレスが空中に舞った。その空中の舞で、シンジはアサミの乗るヘラクレスの手をとった。

「行くよ!」
「はい、先輩」

 この人と一緒にいれば、もう何も怖いことはない。どうしようもない安堵と感情の高まりを、戦いの前にアサミは感じていた。



 シンジ達が香港に到着した時、アスカたちを乗せたキャリアはグァム島の米軍基地に到着していた。接近するギガンテスは3体、そして迎撃のために日本から英雄が出撃している。それを考えれば、もはやサンディエゴ基地の出番は無いはずだった。
 ただ無給油で往復できないのと、いざという時の備えのために中継基地へと降りることになった。アスカとしてはそのまま香港に行きたかったのだが、さすがにそれは事情が許してくれなかった。

「クラリッサ、香港の避難が進んでいない理由は?」

 現地映像を見ると、街にはこうこうと明かりが灯されていた。それを見る限り、住民の避難が進んでいるように見えなかったのだ。
 そんなアスカに向かって、「避難経路の問題」とクラリッサは間違いようのない答えを返した。

「パニック状態で避難が行われたため、至るところで交通事故が発生しているわ。
 そのおかげで、道路網は機能を果たしていない。
 香港島のほとんどの住民は、逃げ道を塞がれた形になったのよ」
「つまり、日本からの出撃がなければ被害者数は甚大なものになったということね」

 エリアこそ狭いが、シャームナガルの再来となる可能性があったのだ。各国に基地を展開した成果といえば聞こえはいいが、結局日本の決断が役に立っただけのことだった。

「でも、この状態での戦いは、いくらシンジ様でも厳しいと思うわよ。
 ギガンテスに加速粒子砲を撃たれただけで、万単位の死傷者が出ることになるのよ。
 被害を出さないためには、加速粒子砲を撃たれる前に、すべてのギガンテスを殲滅しなくちゃいけない。
 ねえアスカ、アスカだったら、そんな作戦を遂行できる?」
「シンジ様と私を一緒にして欲しくないんだけどなぁ。
 私だったら、分断作業から始めて確実にギガンテスを仕留めることしかできないわよ。
 3体の中に飛び込むことはできるけど、街の被害が抑えられるかは別問題だと思ってる」
「じゃあシンジ様は、それを成し遂げるスキルがあるってことになるのね」

 地上に降りたフォーメーションは、高知の時ととても似通っていた。シンジの乗ったヘラクレスが最前列で、残りの3人が街を守るように後ろに控えていたのだ。それを見る限り、高知と同様に、シンジがギガンテスの分断作業を行うように思われた。

「私は有ると思っているわよ。
 ただ、シンジ様がどんな作戦を取るのかは分からないわ。
 作戦概要とか連絡が来ていないの?」
「その辺り、当初の作戦が修正されたみたいね。
 今とっているフォーメーションは、送られてきた作戦概要とは違っているもの」
「つまり、現場の状況で作戦を変更したってことか……
 やっぱり、シンジ様は、街を守り切る作戦をとるつもりってことね」

 何をどうすればいいのか分からないが、分かっているのは香港に被害を全く出さない戦いをしようとしていることだ。今度も何か凄いことを見せてくれるのか、現場に立ち会えないことをアスカは悔しがったのだ。



 シンジ達が地上に降りた時、すでにギガンテスは岸から30分の所に到達していた。到着時間の短縮は、ヘラクレスの存在を察知したからだろうか。

「水深は浅いが、水があると攻撃の威力が相殺される……」

 浅いといっても、海があるだけでヘラクレスの機動性は大きく阻害される。一方ギガンテスは、その動きに制限を受けることはない。その結果、地上で戦うのに比べ、ヘラクレスは不利な戦いを強いられることになる。これまでのセオリーでは、海での戦いはタブーとなっていた。
 だがシンジは、今回は敢えて海での戦いを挑むことにしていた。確かに水によって機動性は落ちることになるが、逆にギガンテスの虚を突くことも可能となる。そして威力が緩和されることに対しても、攻撃方法次第でそれを避けられると考えていたのだ。

「やっぱり、撃ってくるか……」

 高知の時も、ギガンテスの先制攻撃で戦いは幕を開けた。そしてこの戦いも、同じようにギガンテスの加速粒子砲の攻撃で幕を開けようとしていた。

「全員、ビーム防御体制をとってください!」

 敵は、海面から少し浮いたところを浮遊していた。そして岸から少し離れたところで、口の中に攻撃を示す光がチロチロと漏れだしていた。
 それを確認したシンジは、迷わずヘラクレスを海へと侵入させた。入江となっているため水深が浅く、腰の所まで水に浸かることになった。

 そこですぅっと息を一つ吸い込んで、シンジは海底を力強く蹴飛ばした。目指すのは、攻撃をする前のギガンテスの下に回り込むこと。それがうまくいけば、加速粒子砲の攻撃も無効化が可能だった。

「間に合えっ!」

 ヘラクレスの筋力を最大限に生かし、シンジは通常ではあり得ない速度で海面を移動した。そしてギガンテスが今まさに加速粒子砲を放つという瞬間に、その下に潜り込み3匹のお尻を蹴りあげた。
 空中に浮いているギガンテスに、どこにも姿勢を保つ力は存在していなかった。蹴りあげられたタイミングで放たれた加速粒子砲の光は、自分の前の海面に突き刺さり、盛大な水蒸気と水しぶきを立ち上らせた。

 これで、ギガンテスの先制攻撃を封じることはできたが、戦いの場はヘラクレスに不利となる海上だった。しかも戦いは、1対3と数的にも不利な状況となっていた。だがその状況でも、シンジは焦りも恐怖も感じていなかった。そしてその不利な状況の中、水蒸気爆発の反動で反り返ったギガンテスの体を捕まえた。

「まず1体……」

 プロレスで言うバックブリーカーの姿勢でギガンテスを抱えたシンジは、そのまま力任せにその背をへし折った。「ぐぎっ」と言う手応えを感じたところで、シンジはその1体をマドカ達の方へと放り投げた。

「先輩、止めをお願いします」

 圧倒的に不利な状況にある以上、いつまでも1体に関わっているわけにはいかなかった。だから適度に傷めつけたところで、その始末をマドカ達に任せたのである。そうすることで、戦いは1対2へと移行する。

 戦いが海になったところで、残りの2体は水中へと戦いの場を求めた。ローワー湾では手も足も出なかった、海での戦いに突入したのである。
 だが今度の戦いは、ヘラクレスの足が海底に届いていることが違っていた。そして水深が浅いため、ギガンテスはその姿を隠しきる事はできなかった。それこそが、シンジが海を戦いの場にした理由でもあった。並んで迫り来るギガンテスを、シンジは飛び上がることで躱すことができた。

 この戦いで封じなければならないのは、ギガンテスの加速粒子砲による攻撃だった。そしてその攻撃を防ぐためには、接近戦を挑む必要があった。だが本当に必要なのは、ギガンテスと距離を取らないことで、効果的な攻撃を加えることではない。ただ単に、ギガンテスが食いつける距離にいればいいだけのことだった。
 そしてシンジは、ギガンテスの水中での動きを逆に利用した。確かにヘラクレスに比べて動きは素早いのだが、地上での動きに比べれば、まだまだ鈍重なものでしか無かったのだ。特に巨大な体が災いして、方向転換は簡単に行うことができなかった。

 2体並んでの突進に対して、シンジは宙に飛び上がり、ギガンテスの少し後ろに着水した。目標を見失ったギガンテスは、大きな弧を描いて方向転換しなくてはならなくなる。その隙を利用し、シンジはヘラクレスを岸へと進めた。そして再び攻撃してくるギガンテスに対して、同じように飛び上がって避けると、再び方向転換を利用して岸との距離を縮めた。
 その回避を5回繰り返したところで、シンジは飛び上がって岸へと上がった。これで陸に誘いだせば、たかが2体のギガンテスなど敵ではない。しかも岸には、1体目のギガンテスを始末した二人が待機している。すでに3対2となったことで、この戦いの帰趨は決していたのだ。

 シンジが陸に上がったのに少し遅れ、2体のギガンテスが水の中から飛び出てきた。3体のヘラクレスは、飛び出てきたギガンテスの口を捕まえ、そのままの勢いで背中から大地へと叩きつけた。そして腹を見せたギガンテスに対して、3体は大地を蹴って飛び上がり、飛び蹴りをする要領でその腹を蹴り抜いた。

「アサミちゃん、手伝ってっ!」

 今の攻撃で、すでに2体のギガンテスは瀕死の状態になっていた。だがここで止めを怠ると、高知の二の舞になってしまう。敢えてアサミを呼び寄せたシンジは、止めをさすのにその力を借りることにした。

「ギガンテスを引き裂く。
 僕に合わせて、開いた口に手を掛けて!」

 そのやり方自体は、一度高知でマドカ達が実践したものだった。それを思い出したアサミは、シンジに言われた通りギガンテスの口に手を掛けた。そして「引き裂け!」の言葉に合わせ、渾身の力を込めてギガンテスの口を引っ張った。
 3人に比べて、アサミの同調率はけして高くはない。だがシンジの助けを得たことで、アサミの力でも十分な威力を発揮した。ほんの僅かな抵抗の後、二人によってギガンテスの体は二つに引き裂かれたのだ。そしてその横では、もっと手慣れたマドカ達によって、もう1体のギガンテスも開きにされていた。

「なになに、人生初の共同作業ってやつ?」
「まっ、その予行演習だと思ってください!」

 初めての経験に放心したアサミの手を取り、シンジはマドカ達とハイタッチを交わした。ちょうどのそのハイタッチに合わせるように、香港の夜空に幾つもの花火が花開いた。

「しかし、派手な演出だね……」

 ほらとシンジが指さした先のビルには、「大感謝」の文字が浮かび上がっていた。そして空を見あげれば、連続して花火が打ち上げられていた。そして集音マイクには、花火の音に混じって大勢の歓声が聞こえていた。

「でも、とっても派手な選挙演説になったわね」
「先輩の場合、演説なんかしなくても当選しますけどね」

 アサミの答えに、「そりゃそうか」とマドカは笑った。陸山達が知恵を巡らせなくても、次の生徒会長はシンジ以外に適任者がいなかったのだ。その認識がS高生全員に有ったからこそ、誰も生徒会長へ立候補して来なかったのだろう。

「ここからの撤退は、中国基地のヘリが派遣されるそうです。
 一度香港空港に移動して、そこからキャリアで日本に帰れますよ。
 ただ、日本に着いた時には、しっかり朝になっていますけどね」
「明日って、公休にできないのかしら……」

 戦闘時間の関係で、ここまで一睡もしていなかった。そして帰りのフライトにしても、まともに睡眠が取れるとは思えなかったのだ。それを考えると、そのままの状態で学校に行くのは苦痛でしか無い。ただ午前中の授業を爆睡するのは、たとえ周りが温かい目で見てくれても、真面目な生徒としては差し控えるべきだろう。

「まあ、普通に考えれば午前中は寝ていられると思いますよ」

 そこまで周りも鬼ではないだろう。そうだといいなと、シンジは明日のことを考えたのだった。



 本当に予想もしない作戦をしてくれる。しかもその作戦が、いちいち理にかなっているから恐ろしい。香港の戦いを見学したアスカは、凄すぎるとシンジのことを再評価していた。

「どうして、ためらいもなく海に入っていけるのかしら。
 度胸があるというのか、自信があるというのか、私には信じられないわ」
「そうね、ローワー湾では、シンジ様の乗ったヘラクレスは海に引きずり込まれているんだものね。
 それを考えると、戦いの場を海にするなんて想像もしていなかったわ。
 でも、結果を見れば一番被害が少なくなる方法なのよね……」

 接近戦をすれば、ギガンテスは加速粒子砲を撃ってこない。それは、シンジによって指摘され、これまでの戦いで立証されたことだった。街に被害を出さないためには、ギガンテスに加速粒子砲を撃たせてはいけない。その為には、場所がどこであろうと接近戦を挑まなくてはならない。
 その前提を考えれば、シンジのとった作戦は、有利不利さえ考えなければ理に適ったものだろう。だが海での戦いがギガンテスにとって有利に働くことを考えると、本来有り得ない作戦であるのは確かだった。だが現実は、何の危なげもなく作戦が遂行されたのである。

「1体目を始末した方法、そしてそれ以降は欲を出さなかったこと。
 後から冷静な目で見てみれば、なるほどと思わせるものに違いないわよ。
 でも、それをあの場でやれるってのが、物凄すぎるとしか言いようが無いのよ。
 戦いだけを見れば、完勝だし楽勝に見えると思うけど、
 でもその戦いを分析すると、もの凄く考えぬかれた戦いだって分かるわね」
「その辺りは同感。
 たださ、あんまりシンジ様が強すぎるのも良し悪しだと思うのよ」

 ギガンテスを圧倒できるパイロットの存在は、間違い無く人類にとって良いことに違いない。だがクラリッサは、シンジが強すぎることに問題もあると口にした。

「私には、良いことに思えるけど?」
「ギガンテスを叩くことだけなら、間違い無く良いことに違いないわよ。
 でもさ、仕方が無い理由があったにしても、今回も避難が進んでないでしょう?
 ニューヨークの時も、侵攻が予想された内陸部の避難が進まなかったって分析があるのよ。
 パニックが起きないのはありがたいけど、危機感が薄れるのも問題だと思う」

 シンジが関わった戦いが、すべて完勝のうちに終わっている。しかもほとんど被害が出ていないのだから、クラリッサの言う「危機感」が薄れるというのも理解できることだった。現にアスカですら、今回の戦いは「絶対に大丈夫」と安心していたのだ。ならば一般の人々が同じ事を考えたとしても、少しもおかしなことではない。
 だが人々に安心感を与えることに問題は無いが、それで避難が進まなくなるのは問題だとアスカも理解していた。本来今回の戦いも、住民の避難さえ進んでいれば、リスクを取った戦いをしなくてもすんだのだ。今後同じ事を繰り返されたら、シンジの戦い方を著しく制限することになるだろう。それは、間違い無く敗北のリスクを高めることになる。

「確かに、被害を最小限に抑えるのと、被害を出さないのはもの凄く違うわね。
 被害を出さないためには、今回みたいに積極的に海に入っていかなくちゃいけない。
 ギガンテスのフィールドで戦い続ければ、いくらシンジ様だって負けることがあるかもしれない……」
「そう言うこと。
 人々の信頼が、シンジ様に無理を強いることになりかねないのよ。
 苦戦をして欲しいわけじゃないけど、いつまでも完勝を続けられるはずがないもの」

 戦っているシンジ達はけして油断していないのだろう。だが、シンジ達に守られている方はどう考えているのだろうか。楽勝に見える戦いは、油断を呼ぶことにならないか。それが結果的にシンジ達の足を引っ張ることになるし、既存基地への不満を高めることになりかねない。それが心配だと、クラリッサは口にしたのだった。

 そして同じ不安は、日本にいた後藤も感じていた。今回の戦いで発生した被害は、公園に100m程の窪地ができたぐらいでしか無い。戦いによる人的損害はゼロ、物的損害にしても、先に上げた公園ぐらいなのだ。よほど避難時に発生した損害のほうが大きいぐらいだ。被害を抑えた完璧な戦いは、中国政府に付け入る隙を与えないものだった。
 政治的な意味では、これ以上無い完璧な勝利と言っていいだろう。だがこれから戦いを続けていく上で、様々な問題を提起したことは間違いない。

「彼らの出撃によって、住民の避難が進まなくなる可能性がある……」

 今回の場合、脱出経路が遮断されたと言う事情はある。だが最悪と言われたブルックリン南の戦いでも、市街地の被害は発生していなかったのだ。それが2回も続けば、被害が出ないのが当たり前だと考えるようにならないか。その過剰とも言える期待が、パイロットたちの足を引っ張る恐れがあったのだ。
 だからと言って、シンジに出さなくてもいい被害を出せと指示することもできない。「被害を考えず、一番確実な方法で戦え」と言う指示は、言い方を変えれば住民を見捨てろという事にもつながってくる。もう少し言い方を変えるなら、救う相手を選別しろという事になる。少なくとも、その判断はパイロットに求めるべきものではなかったのだ。

 その意味で、現在の迎撃体制は重大な欠点を抱えていると言えるだろう。迎撃作戦の立案者と実行者が同一のため、必要以上にパイロットへ負担をかけていたのだ。だがその役割を切り離すためには、効果的な作戦立案者が必要となる。だが現実問題、そんなスキルを持った人間が存在しなかったのだ。

「ならば、少なくとも責任だけは切り離す必要があると言うことか」

 一人で立案し、一人で実行する。その過程に、承認作業を加えることを考えればいい。それで臨機応変さが損なわれたとしても、責任を一人に追わせることに比べれば遙かにマシになると考えられた。

「だが、オペレーションの変更は、それだけで失敗リスクを高めることになる。
 あとは、彼に言うことを聞かせられる伝達者がどこに居るかと言うの問題か」

 その問題に対して、後藤はシンジとアサミに相談することにした。たとえ適切な解決策がなくとも、危機感を共有しておく必要が有る。それが無理な戦いを防ぐ、数少ない方法だと後藤は考えたのだ。次の襲撃がいつ有るのか分からないが、それまでに解決の道筋を作っておくべきだと考えたのである。

「特務一佐、総理からホットラインが入っています」
「もう、指揮事項は無いはずだが……」

 首相命令に従い現地に出撃し、無事任務を果たしたのである。そこからの帰還に関しては、任務の一つとして定義されていたはずだ。それを考えれば、改めて総理大臣から命令を受ける事案は残されていないはずだった。

 だがホットラインが入った以上、すぐさま受けるのが後藤の立場だった。「無事作戦は終了しました」と報告した後藤に、鏑木は「ご苦労」と労いの言葉を掛けた。そしてその言葉の後、予想してしかるべきことが鏑木から告げられた。

「あちらから、パイロット4人に感謝状を送りたいと要請が来た。
 特別便を仕立てるので、帰国を遅らせて欲しいと言う事だ。
 今日の対応は、香港の行政長官が行うそうだ。
 明日の午後には、中央から党幹部が顔を出す話になっている」
「また、面倒な事を要求してきましたな」

 今回の派遣は、双方政府の合意のもと行われている。今までの民間協力と違い、日本国として正式に派遣されたことになっているのだ。従って、移動他すべてが国対国の関係に縛られることになる。
 今回の功績に対して正式に感謝の意を示したいと言う申し出に対し、無下に断ることも出来なかったのだ。しかも国賓としての待遇を持ちだされれば、断るということはあり得なかった。

「今なら、要請が遅れたことを取り繕える考えたのだろう。
 従って、この要請を断ると中国との関係がギクシャクすることになる。
 あちらの協力がなければ、輸送機が飛び立てないのも確かなのだ」
「つまり、要請を受けるしか無いということですか」
「在香港の領事館から人を向かわせる。
 まあ、日本の貢献を示すという意味では、格好の舞台であるのは確かだろう」
「あちらが、そんなに物分かりがいいでしょうかね?」

 間違い無く中国全土にテレビ中継されることだろう。だがその中継で、どれだけ日本の貢献が伝えられるのだろうか。一つ間違ったら、なぜかパイロットが中国語をしゃべっている可能性もある。

「たとえそうだとしても、断るのは我々にとって不利益しかもたらさないと言う事だ」
「足止めのためなら、何をしてくるのかわからない相手ですからね。
 了解しました、現地の玖珂一尉に指示を伝達します。
 まあ、あちらさんも世界を敵に回すことはしないでしょう」

 それでなくとも、日本のパイロットは香港の恩人になっている。人一倍礼と面子を重んじる中国政府が、彼らに危害を加えるとは考えられなかった。むしろ、過剰とも思われる接待が行われる可能性があった。

「それで、これから彼らはどこに連れて行かれるのですか?」
「式典は迎賓館で行われるそうだ。
 宿泊自体は、ペニンシュラのスイーツを用意しているそうだ」

 用意されたホテルと部屋に、後藤は思わず苦笑を漏らしてしまった。帰国が延びることは嫌がるだろうが、用意されたホテルは、間違い無く堀北アサミの希望に沿うのだ。日本で窮屈な思いをしていることを考えれば、この配慮を喜ぶことは間違いなかった。その辺り、こちらの事情を十分把握しているという事にもなる。

「間違い無く、若いカップル向けの餌ですな」
「うむ、日本でも対策が必要になってくるだろうな」

 ここで居心地の良さを強調することは、その後の”個人的”関係を良好にするためには大いに役立つことになる。日本で不自由さを感じれば感じるほど、自分達に対する好感度が上がると考えているのだろう。そうでなくとも、彼らに日本を叩く口実を与えかねない問題でもあった。どの口で言うのかと言いたいところだが、「人権の抑圧」を言われるのが目に見えていたのだ。

 その頃香港空港に着いたシンジ達は、玖珂一尉から日本政府の決定を伝達されていた。

「中国政府から、国賓として遇するので帰国を遅らせて欲しいとのことだ。
 両国の関係を鑑み、日本政府はその依頼を受諾するという結論に達した」
「つまり、まだ日本には帰らせてもらえないと言うことですか……」

 はあっと息を吐きだしたシンジに、「すまん」と玖珂が謝った。自分の父親でもおかしくない年齢の男性に、腰を折って頭を下げられては、文句を言う事もできない。「分かりました」と命令を受け入れたシンジは、これからどうすればいいのか玖珂に確認した。

「間もなく、領事館から車が差し向けられる。
 今晩は式典は開かれないので、九龍のペニンシュラで休んで貰う事になっている」
「体のためには、その方が楽そうなのは確かですね……」

 その代わりに待っているのが、歓迎の祝典なのである。豪華ホテルに泊まることを、喜んでばかりは居られなかった。
 だがそれを嘆いたところで、何かの解決になるものでもなかった。

「それで玖珂一尉はどうなさるのですか?」
「私は、キャリアの出発を見送って帰国することになります。
 申し訳ありませんが、ここから先は外務省の管轄となります」

 つまり、仕事が終わったからさっさと帰ると言うのだ。ずるいという気持ちはあったが、それを言ってもしかたがないことも分かっていた。玖珂の立場は、帰って来いと言われれば、大人しく帰る他に無かったのだ。

「では、領事館から迎えの車が来たようですので、私は任務に戻らせて頂きます」

 カーキ色の制服を着た玖珂が、相変わらずジャージ姿のシンジ達に向かって敬礼をした。それが夜の空港だと考えると、いかにも不思議な光景に違いない。しかもシンジ達を迎えに来たのは、スーツをびっしりと着こなした外務官僚なのである。ある意味エリートの彼らが、高校生に向かって「こちらにどうぞ」とへりくだってくれたのだ。

「これから宿泊されるペニンシュラは、日本人スタッフが居ますので日本語で大丈夫です。
 それ以外は、私どものスタッフが対応いたしますので、御用があれば申し付けください。
 この携帯は、その為の連絡用だとご理解ください」

 そう言って、いかにも頭の良さそうな男は、シンジ達に携帯電話を手渡した。

「では、ホテルまでお送りいたしますので、2台に分乗していただけますでしょうか」
「分かりました。
 それで、ホテルまではどれぐらいの時間がかかりますか?」
「およそ、1時間というところでしょうか」

 表示された時間を見ると、零時も30分過ぎたところだった。戦い自体短時間で終わったため、休息を取る時間は十分残されていることになる。
 そこでシンジとアサミをペアで案内したのは、もはや暗黙の了解ということが出来るだろう。まだ若い領事館員に案内された先には、年配の男性が一人待っていた。

「初めまして、在香港領事の多和田と申します。
 これから、碇様、堀北様をホテルまでご案内させて頂きます」

 そう言って頭を下げた多和田に、シンジとアサミは「よろしくお願いします」と揃って頭を下げた。シンジとしてはいろいろと言いたいこと聞きたいことがあったのだが、それは車の中と割り切ることにした。
 「こちらに」と後部座席に案内されたシンジは、車が動き出したところで「教えて欲しいことがあります」と多和田に切り出した。

「私にお答えできることならなんなりと」
「では、遠慮なく」

 そこでシンジが問題としたのは、日本政府の自分達の扱いだった。日本国民保護のため領事館が動くのは仕方がないとして、なぜ領事まで顔を出したのか、その理由が分からなかったのだ。

「僕達は、すでにパイロットとして登録された身分です。
 半公務員だと考えれば、ここまでしていただく理由はないと思います。
 なぜ多和田さんのような立場の方が、こんな夜分に迎えに来て下さったのでしょうか?
 しかもみなさん、僕達に対する態度が丁寧すぎます」
「半公務員……ですか」
「パイロットに応募した以上、おかしなことではないと思いますよ」

 少し驚いたような反応をした多和田に、それが事実だとシンジは繰り返した。だが多和田は、誰もそう思っていないと「半公務員」と言うシンジの言葉を否定した。

「私達外交を与る者にとって、碇さん達の存在は重要な外交手段です。
 反日的態度をとる国でも、碇さん達は別格で扱われます。
 何かと反日デモが行われる中国ですが、反面日本に対する評価も高いものがあります。
 それは、個人に対して顕著なのですが、その中でも碇さん達は別格だと言うことができます。
 みなさんは、高知で世界の度肝を抜き、ニューヨークでその立場は確固たるものとされました。
 そしてこの香港で、みなさんは本当に世界の英雄となりました。
 中国政府としても、みなさんをそのまま帰すわけにはいかなかったのです。
 何しろ碇さん達は、彼らの失態の尻拭いだけでなく、最善の結果を提供して下さったんです。
 つまり碇さん達は、中国と言う国家の恩人になったと言うことです。
 その恩人に対して義理を果たさなければ、国民からひどく糾弾されることになるでしょう。
 だから明日にも、中央から党幹部が香港入りすることになっています。
 まあ、その辺りはアメリカに対する対抗心と言うのも有るのでしょうね。
 これは余談になりますが、俳優時代の堀北さんのファンも香港には沢山いるんですよ。
 分かりやすく言うのなら、碇さんと堀北さんは世界のヒーロー、ヒロインとなったのですよ」

 アメリカでは、ホワイトハウスで晩餐会まで開かれていた。それを考えれば、中国側も何らかの形で感謝の意を示す必要があると言うのだ。多和田の言葉を信じる限り、自分達の扱いはアテナやアポロンを凌いでいることになる。

「でも、僕達の機能としてはアスカさんやカヲル君と同じですよね」
「もちろん、西海岸のアテナや砂漠のアポロンも世界のヒーロー、ヒロインですよ。
 ですが、みなさんの場合、登場の仕方があまりにも鮮烈でした。
 世界が絶望の淵に立たされた時に颯爽と現れ、アテナやアポロンでもできないことを成し遂げられました。
 もちろん遠野さんや鳴沢さんへの評価も高いのですが、やはり碇さんへの評価は一段と高くなっています。
 そして堀北さんは、ニューヨークの戦いで身を呈して碇さんを救われました。
 まるで映画のような出来事で、一躍堀北さんが世界のヒロインとなったわけです。
 ですから、みなさんは単なる半公務員とは違うと言うことです。
 恐らく中国政府は、みなさんを国賓として遇するかと思われます。
 当然これには、彼らなりの政治的意図が含まれていることになります。
 しかしながら非常識とも言える厚遇も、みなさんのしたことに比べれば安いものだとお考えください。
 ただ日本政府としても、対抗上最大限の配慮をする必要があるということです」

 そう言われると、何かとても大げさなことになってしまった気がしてならない。本当にいいのだろうかと考えると、ついため息も漏れでてしまうのだ。それに気づいた多和田は、しかたがないことだと慰めの言葉を掛けた。

「堀北さんを除けば、今までみなさんは普通の高校生でしたね。
 それを考えると、状況についていけないという気持ちは理解します。
 ただ、偉ぶれと言うつもりはありませんが、ご自分がなされたことを理解していただきたいのです。
 とにかく、みなさんの功績は巨大としか言いようがありません。
 そして今の政府は、皆さんに対して返しきれない借りを作ってしまいました。
 もしも高知が奇跡ではなく悲劇だったら、間違い無く今の政府は潰れているんですよ。
 しかも日本全体が大混乱に陥り、経済的にも破綻を迎えていたでしょう。
 さらに日本経済の破綻は、世界的大恐慌の引き金になりかねない。
 そしてアジア各国にとって、日本の破滅は明日の自分の姿となるんです。
 それはアメリカにおいても、その事情は変わらないでしょう。
 碇さんと堀北さんが、あの日あの場所に居なければ、ニューヨークが廃墟となっていました。
 それがどれだけ悲惨な未来を招き寄せるのか、私達のような年寄りはよく分かっているんです。
 SICそしてTIC、その二つの惨劇によって、世界の関節は外れてしまったのかもしれません。
 今、それを治すことが出来るのは、碇さんを頂点としたパイロットの皆さんだけでなんですよ」

 いささか饒舌になった多和田は、「私は」と自分の話を続けた。

「高知の戦い、そしてニューヨークの戦い。
 そのいずれの戦いでも、テレビの前を動くことはできませんでした。
 それは、戦いの最中だけではなく、戦いが終わってしばらくしても同じでした。
 こうした立場にいるおかげで、情報という意味ではより正確なものを知ることができます。
 世界が救われるさまを目の当たりにするのは、体の芯から震えるほどの感動だったのですよ。
 そして私が赴任したこの地でも、同じように世界が救われました。
 だから、こうして皆さんをお迎えできることに、年甲斐もなく感激しているのですよ。
 初めに碇さんは、「ここまでする理由がない」と仰いましたね?
 ですが、それはどうしようもない過小評価というものです。
 私にしてみれば、「こんなものでは足りなさすぎる」のです。
 それを、碇さんはこれからの戦いの中、きっと理解されることでしょう」
「多和田さんは、僕が何者かを理解された上でそれを言っているのですか?」

 TICで一度世界を壊した存在。未だ記憶が戻ることが、世界の恐怖として捉えられているのが自分という存在なのだ。それを知っていれば、これだけの高い評価はありえないとシンジは考えていた。
 そんなシンジの問いかけに、多和田は「存じ上げています」と答えた。

「ですが、重要なことは、今、碇さんが、自分の意志で何をされたかではありませんか?
 少なくとも、SICは碇さんが生まれる前の出来事です。
 私達人類は、いまだSICの呪縛から逃れられていないのではないでしょうか?
 碇さんは利用されただけで、TICの責任は我々大人がとるものだと思っていますよ。
 “記憶にない”過去のことで、碇さんが責任を感じる必要はないんです」
「僕は、まだそこまで割り切ることはできませんよ。
 ですが、多和田さんの仰ることは理解できました。
 色々と教えてくださってありがとうございます」

 そう言って頭を下げたシンジに、「こちらこそ」と言って多和田は笑った。

「ちなみに日本政府の方針は、「碇さんにはもっと世界を見ていただく」と言うものです。
 世界がどれだけ歴史を重ね、そしてどれだけ広がっているのか。
 そこにどのような人々が、どのような生活を送っているのか。
 世界を滅ぼさないためにも、それを知っていただこうと言うことになっています」
「記憶が戻ったからと言って、世界を滅ぼせるとは思わないんですけどね……」

 シンジとしては、TICの依代になった自分の事を言っているのだと思っていた。だがそれを理由にしたシンジの言葉に、「微妙に違うのだ」と多和田は答えた。

「碇さんがその気になれば、今のままでも世界を滅ぼすことは可能ですよ。
 例えば、ニューヨークでFifth Apostleを倒さないことを選択する。
 ただそれだけのことで、今頃世界は破滅に向かっていました。
 世界と言うのはとても大きく、そして複雑なものに違いありません。
 ですが、ほんの小さなほころびから、雪崩のように崩壊に向かうこともありえます。
 ニューヨークの破滅を小さな綻びとは言いませんが、世界の破滅に繋がるものには違いありません。
 碇さん、今の世界はギガンテスの襲撃によって少しずつ破滅に向かっているんです。
 世界と言うものは、お互い手を携えて生きて行かないと成り立たないものなのです。
 沿岸部の破壊は、世界のロジスティクスにダメージを与えています。
 そしてロジスティクスの破壊によって、世界は手を繋ぐことができなくなります。
 食料、燃料、工業製品、その物流が止まってしまえば、簡単に世界は崩壊してしまいます。
 ギガンテスが恐ろしいのは、たとえ撃退できても、ロジスティクスに対して深刻な被害を及ぼすことです。
 これまでのサンディエゴ、カサブランカ両基地の戦いは、
 ロジスティクスの破壊までは防ぐことはできませんでした。
 そしてアジア地区では、それに加えて大小様々な悲劇まで起きていたんです。
 政治体制、過去の様々なしがらみ、そう言った物があっても、碇さん達は救世主なのですよ。
 間もなく九龍地区に入りますが、すぐにそれを目のあたりにすることになるでしょうね」

 そう答えた多和田は、「碇さん達は特別なのだ」と繰り返した。

「確かに、西海岸のアテナも砂漠のアポロンも世界を救って来ました。
 しかし、過去大小問わず悲劇が起きたのはいずれもアジア地区なのです。
 アジアの人たちにしてみれば、基地の配置は西欧を重視したものなのです。
 カサブランカはヨーロッパ全域を、そしてサンディエゴはアメリカを守るために。
 もしも同時侵攻があれば、誰もがアジアは見捨てられると考えていました。
 そしてその通り、日本ですら見捨てられると言う事態が高知で起きました。
 明日は我が身と言うのは、そういう意味で使用しました。
 パイロットの皆さんは、そのようなことは考えておられないのかもしれません。
 しかし基地の設置箇所に関して言えば、明らかに西欧よりの考え方になっています。
 そして香港ですら、サンディエゴから間に合わないのが現実です。
 ならば更に西にある地域は、一体どういう事になるのでしょうか?
 碇さんが現れることで、ようやく世界は3人目の守り神を得ることができました。
 そしてアジアの人たちにとって、碇さんと言う存在は、待ちに待った英雄なのです。
 碇さんが特別という意味、ご理解いただけたでしょうか?」
「でも、僕はそんなに大した存在ではありませんよ」

 本来シンジは、多和田の言葉は否定するほどのことはないと分かっていた。位置的に、アジアは両基地から離れすぎているのは動かしようのない事実だった。それが人類の限界と言われればその通りなのだが、割を食うアジアの人々にしてみれば、西欧諸国に対する不満を増す理由ともなっていたのだ。

「アジアの人たちがどう考えているのか、これからご自分の目で確かめてみてください。
 傲慢になれとか偉ぶれとか言っているわけではありません。
 あなたの記憶に無い事件に、いつまでもこだわって欲しくはないだけなのですよ。
 過去を振り返るのではなく、未来を見て確かに歩んでいっていただきたい。
 それが、私のような年寄りが、碇さんにお願いしたいことなのです」

 宜しくお願いしますと多和田が頭を下げた時、車はまるで真昼のような光りに照らされることになった。
 このまま真っすぐ行けば、今日の宿となるペニンシュラホテルが待っている。その道路の両側に、文字通り人が溢れ、全員が日の丸の小旗を振ってくれている。多少形がいびつなのは、慌てて手作りをしたせいだろう。
 そして沿道に面した建物は、深夜というのに煌々と明かりをともし、沿道を照らし出していたのだ。

 人で作られた通路を、日本国旗を付けた車がゆっくりと進んでいく。沿道を埋め尽くした人々の歓声は、まるで地鳴りのように九龍の街を震わせたのだった。







続く

inserted by FC2 system