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7月22日に日本を出てからおよそ3週間、シンジ達が帰ってきたのは8月10日の夜だった。ホノルルを夕方に出た便は、日付変更線を超え翌日の夜10時の到着となった。ほぼ世界を一周したことになり、元気印のマドカとナルも、さすがに疲れを顔に出していた。
「そう言えば、帰りってどうなっていたっけ?」
「希望者は、篠山さんの車でS市に帰ることになっていましたね……」
旅の栞を見たシンジの顔にも、疲労は色濃く現れていた。そしてそれ以上に、旅の栞はぼろぼろになっていた。
「じゃあ、これから入国審査を通るけど……
税関を出たところで、一度全員集合してください。
明日以降の予定について、簡単にオリエンテーションを行います」
最後ぐらいは部長らしくと考えたのか、海外合宿を締めるべきマドカが声を上げた。色々と盛り沢山だった合宿も、家に帰ればとりあえずの区切りとなる。だがジャージ部の夏は、まだ始まったばかりと言うのがマドカの考えだった。
始まったばかりの日本の夏、それを存分に楽しむためには、それなりの手続きが必要となる。その為には、全員が落ち合う場所を決めておく必要があったのだ。
マドカの言葉に対して、誰からも異論は上がらなかった。それに気を良くしたマドカは、「家に帰るまでが合宿です」とどこかで耳にしたようなことを口にした。
「と言うことで、全員入国審査、税関検査をちゃっちゃと済ませてください!」
いけぇと右手を突き出したのは、高校生としては恥ずかしい行為なのだろう。だがジャージ部に居ると、誰もそんなことを気にしなくなる。添乗員として突いてきた堀井と葵も、すでにマドカの行動には慣れっこになっていた。せいぜい思ったとしても、「元気があってよろしい!」と言うぐらいだった。
電子化されたおかげで、入国審査に掛かる時間はおもいっきり短縮されていた。そして税関検査にしても、高校生ともなればたいして申告するものが無いのが実態だった。結局全員が税関をすんなりと通りぬけ、マドカが指示をしてから20分後に到着ロビーの人となった。
「お迎えが有るのは、ナルちゃんとアサミちゃんのところね。
まあキョウカちゃんは、綾部さんが付いているからお迎えがあるのと一緒か」
そうなると、あぶれたのは自分とシンジということになる。ここからの足がない以上、予定通り篠山の差し向けた車で帰ることになるのだろう。
「みんな疲れているから、手短に終わらせるわよ。
明日11日は、完全休養日に設定します。
部活及びお勉強会は、明後日の12日から再開します。
なお、13日の夜は花火大会があるから、みんな浴衣を着て集合のこと!
部活が終了次第、河川敷の場所取りに行きますからね!
はい、アサミちゃん!」
そこで「はいはぁい」と手をあげたアサミを、ノリを合わせてマドカは指名した。
「碇先輩の家で、明日臨時の勉強会をしたいと思います。
まったりとした時間を過ごしながら勉強しますので、希望者は勝手に集まってくださいね」
「いきなり、勉強?」
少し顔をひくつかせたマドカに、「受験生ですよね?」とアサミは痛いところを突いてきた。
「と脅かすのはここまでにして、のんびり、だらだらと過ごそうと思っています。
勉強は、合間合間に少しずつやるぐらいだと思いますよ」
「だったらいいんだけど、おじゃま虫にならない?」
「先輩の家には、レイちゃんもいるから大丈夫ですよ。
それに、一人で家にいてもどうせやることがありませんから」
両親が働いているのだから、アサミの言うことには一理あったのだ。今日まで騒がしかったこともあり、一人の一日は寂しいだろうと分かってしまった。
「じゃあ、希望者は碇君の家に集合すること!
以上で、今日は解散します。
みんな、しっかりと休んで旅の疲れを取ってね!」
そこまで言って、マドカは小さくため息を吐いた。ここまでやって、ひとまず部長としての職責を果たしたことになる。旅行中ほとんどシンジにおんぶにだっこだったのだが、それでも色々とプレッシャーが掛かっていたのである。
「遠野先輩、お疲れ様でした」
「碇君こそ、随分と疲れたんじゃないの?」
「疲れたって実感はあるんですけど……やっぱり、日本に帰ってくると違いますね」
そう言うシンジを見ると、海外にいる時にあった鋭さが影を潜めていたのだ。それだけシンジも緊張していたということなのだろう。
「で、あぶれ者の私達は、キョウカちゃんに送ってもらいましょうか」
「ええっと、そのことなんですけど……」
そこで少し言い難そうにされ、マドカはシンジが何を言いたいのかピンときた。
「さっそく、アサミちゃんのお父さんに送ってもらうの?」
「帰り道で、色々と話したいことがあるそうです……」
少し顔が引きつったのは、なにか言われるのを覚悟しているのだろう。まあ大切な一人娘を傷物にしたのだから、いくら高校生同士と言っても難しい話になるのは違いないはずだ。
「まあ、碇君もちゃんとけじめを付けないといけない立場よね。
了解、私は一人寂しく、キョウカちゃんと一緒に帰ることにするわ」
「一人寂しくって、なにか違っていませんか?」
キョウカが一緒にいるのだから、一人寂しくと言うことはないはずだ。
それを指摘したシンジに、「言葉の綾」とマドカは笑った。ちなみにこの場合の「言葉の綾」は、明らかに誤用である。
「とにかく、旅行中ご苦労様でした。
もしも何か辛いことがあったら、なんでもお姉さんに相談しなさい」
「できるだけ、独り立ちできるよう努力しているんですけどね。
その時は、よろしくお願いします」
「よぉし、宜しくお願いされよう!」
さらばと手を振ったマドカは、こっちを見ている綾部の方へとカートを押していった。その“男っぷり”を頼もしく見送ったシンジは、次なる難関、アサミの父親と対決することにした。
カートを押してアサミの所に行ったシンジは、隣にいる男性に頭を下げた。知らないのかと呆れられたこともあり、雑誌の写真でナオキのことは確認していた。
「初めまして、S高2年の碇シンジと言います。
今日は、わざわざ送ってくださってありがとうございます」
「娘から、どうしてもと言われたからな。
ああ、挨拶が遅れたな、アサミの父親、堀北ナオキだ。
ここで立ち話も何だから、車の中でゆっくりと話をすることにしよう」
こっちだと言って、ナオキはアサミのカートを押して前を歩き出した。その後ろを、シンジもカートを押しながら付いていった。
「先輩、神妙な顔をしていますね」
「さすがに、お父さん相手は緊張するよ」
サンディエゴとカサブランカ、そこでそうそうたる面々を相手にしてきたシンジなのだ。更に言えば、アメリカ大統領と国連事務総長とも面会している。そのシンジが、一般男性相手に緊張していると言うのだ。バランスからすれば、とても不思議なバランスというところだろう。
緊張していたと言う意味では、ナオキもシンジに対して緊張していた。娘を迎えに来た時点で、顔合わせがあることぐらいは覚悟していた。だが家まで送るというのは、全くの想定外のことだった。事前に篠山ユキタカと話をしたことも、話をしにくくした理由になっていた。
双方緊張していたこともあり、車に乗り込んでも静かなままだった。そのあたりは、話をするにしても、共通の話題に欠けたと言うのも影響していた。
だが車を走らせて10分、ナオキの方が沈黙に耐えられなくなった。「妻から話は聞いている」と切り出したナオキは、「どこまで娘から聞いている?」と答えるのにとても難しい問いかけをしてくれた。
「すみません、色々とありすぎて何について質問されているのか分からないんですが?」
「あ、ああ、そうか、そうだったな……
娘が芸能界をやめることになったきっかけ、そのことについてだ」
その質問に、シンジは隣に座っているアサミの顔を見た。失敗した翌朝、部屋を訪ねてきたアサミは、なぜ土壇場で逃げたのかを話してくれた。そんな事情を聞かされれば、殴られたことも、罵られたことも許せてしまう。むしろ、自分の鈍感さが恨めしく思ったほどだ。
「サンディエゴで、アサミちゃんが話してくれました」
「そうか……」
それを話した上で関係したと言う事は、娘がこの少年を頼りにしていると言うことなのだろう。そして二人は助けあって、酷いトラウマを乗り越えてくれた。さもなければ、そのトラウマより少年を失うほうが娘にとって恐怖だったのかもしれない。
「娘が海外合宿行く前……」
まっすぐ前を向いて運転しながら、ナオキは20日ほど前のことを持ちだした。
「家内が帰ってきて、久しぶりに親子3人で夕食を食べたんだ。
その時娘は、君のことばかり話してくれたよ」
「パパっ!」
付き合う前のことを言われるのは、さすがにアサミも恥ずかしかった。だが大声をあげたアサミに構わず、ナオキはその時のことをシンジに教えた。
「娘の口から、碇先輩がどれだけ格好いいのかこんこんと聞かされたよ。
芸能界で会った誰よりも素敵だし、誰よりも尊敬できると聞かされたんだ。
だったら告白したのかと聞いたら、まだできていないと悔しそうに言われたよ。
今は別の人と付き合っているけど、絶対に自分の方を振り向かせてみせると言ったかな」
父親の言葉を止められないと観念したのか、アサミはシンジに顔を見られないように反対の窓の方を見ていた。ただ首筋まで真っ赤なところを見ると、相当恥ずかしいと思っているのは間違い無いだろう。
「こうして娘と付き合っているのを見ると、君はその彼女と別れたということか」
「別れたと言うか、振られたと言うのが正解だと思います。
僕達が海外合宿に行く前、サヨナラもなく転校して行ってしまいましたから。
2日前までデートしていたのに、その時は何も教えてくれなかったんです。
ただ、彼女の事情については、アサミちゃんがアメリカで教えてくれました」
「娘が?」
どうしてと驚いたナオキだったが、シンジの言葉に引っかかりを覚えた。
「どうして娘が……しかも、合宿直前に……まさか」
「パパっ、それは駄目っ!」
「アサミちゃん?」
シンジには、なぜアサミが大声をあげたのか理解できなかった。アイリが引っ越すことを何故知ったのか、それはディズニーランドで教えてもらったはずなのだ。同じ事を父親が口にしたとしても、今更問題になるとは思えなかった。
それぐらいのことは、アサミも覚えているとシンジは思っていた。だとしたら、アイリのことで、自分の知らない事実があると言うことになる。それを父親が口にするのを、アサミが恐れたと言うのだろう。だからシンジは、先手を打って話がおかしな方向に向かないようにした。
「彼女のお母さんが、美容室のお得意さんだったらしいんです。
それで彼女の引越しを聞いて、アサミちゃんが会いに行ったと言うことです。
アサミちゃんは優しいから、そのことを僕に対する引け目だと思ったんでしょうね。
だから合宿に行く時、ずっと塞いでいたんですよ。
僕の知りたいことは、全部アサミちゃんが包み隠さず教えてくれましたよ。
そんな優しいところを、僕は好きになったんだと思います」
「そう言う事情があったということか……」
シンジがなぜ余計な説明までしたのか、ナオキにもその真意を理解することができた。娘が大声をあげたのは、自分に余計なことを言わせないためだというのも理解できた。だからこの少年は、自分の知っていることを教え、これ以上は話さなくてもいいと暗に仄めかしたのだ。
頭がいいだけでなく、とても気が回ってしかも優しいのだとナオキは理解した。こんな少年と比べれば、芸能界で会った男たちなど、やんちゃな子供にしか思えないだろう。なるほどそういう事かと理解し、ナオキは瀬名マナミのことに触れないことにした。
もう一度「そうか」と小さく呟いたナオキは、ユキタカがこの少年に拘る理由が分かった気がした。彼の娘が変わったことも、間違い無くこの少年が関わっているのだろう。世界を救った英雄のくせに、少しも傲慢なところが見られない。その上人の痛みも理解できると言うのだから、一体どんな育ち方をしたのかと聞きたくなるほどだった。
「君は、これからもヘラクレスに乗るのか?」
「急に話が飛びましたね」
「ああ、これから娘を通して付き合っていくのだからな。
とても重要なことだと思っているよ」
命にかかわることなのだから、ナオキの言うとおり重要なことに違いない。「そうですね」と小さく相槌を打ったシンジは、「出来る事なら乗りたくない」と予想とは違う答えを返した。
「出来る事なら……か?」
「ええ、誰かが代わってくれるんだったら、二度と乗りたくないと思っています。
僕と一緒に戦った先輩達、そして僕を助けてくれたアサミちゃん。
そして泣きながら見送ってくれた篠山も含め、二度とヘラクレスに関わらせたくありません」
「でも、誰も代わってくれる人はいない……」
彗星のように現れた日本のパイロットは、すでに西海岸のアテナや砂漠のアポロンに並ぶ名声を得ていた。そんなパイロットの代わりなど、おいそれと見つかるものではないだろう。もしも見つかったとしても、世界的には圧倒的にパイロットは不足している事情に変わりはない。一人や二人見つかったところで、それは焼け石に水でしか無かったのだ。それを考えれば、この少年が解放される時は、未来永劫やってこないのかもしれなかった。代わってくれる人など、どこを捜しても見つかるはずなど無かったのだ。
「それでも、いつか人はこの危機さえも乗り切ってくれると思っていますよ。
これまで綿々と積み上げられてきた人の歴史は、こんな事で終わったりしないと僕は信じています。
僕がしていることは、歴史の積み重ねの中の、とても小さな一つでしか無いと思っているんです」
「君は、随分と大人なんだな」
「いえ、単なる頭でっかちなだけですよ。
現に、この広い世界には、僕の知らないことばかりだと知らされたばかりです。
そんな世界をどうにか出来るだなんて、ひとりよがりな子供の幻想なんですよ」
ナオキには、シンジの言っていることの背景までは理解できなかった。ただこの少年が、自分の言葉を利用して、自分の思いをぶちまけていることだけは理解した。もしも娘がこの言葉の意味を理解できているのなら、もはや口出しのできない絆が二人の間に結ばれていることになる。
「マサキに聞かされていた以上だな……」
ふっと口元を歪めたナオキは、妻が帰って来る日をシンジに教えた。
「3日後に妻が家に帰って来る。
今度の帰国は1週間程度になるから、いつでも遊びに来てくれ。
それからくれぐれも念を押しておくが、その時は泊まっていく用意をしてくれよ」
「本当にいいんですか?」
「いいも悪いも、招待しないと俺が妻に叱られる。
そうそう、確か君には、妹さんがいたという話だな。
だったら、一緒に遊びに来れば問題はないだろう。
それぐらいの部屋なら、うちにも余っているんだよ」
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
バックミラーで頭を下げたのを見たナオキは、シンジの付け焼刃ではない礼儀正しさにも感心した。こんな相手と付き合っているのだから、娘も変わるはずだと納得した。見違えるほど大人になった娘の変貌理由を、ナオキはシンジに求めたのだった。
一夜明けた11日、その日も朝から焼けるような太陽が照りつけていた。アサミを迎えに出ようとした兄を家に残し、レイは待ち合わせ場所の駅前に急いでいた。シンジを家に縛り付けた言葉は、「いきなり周りを刺激しないこと」と言う、身に覚えの有り過ぎる的確な物だった。
だが駅前に着いたところで、レイは自分が失敗を犯したことを思い知らされた。確かに自分が迎えに行けば、余計な敵を作らずにすむのは確かだろう。だが、周りの視線を一身に集めるアサミを見ると、どう頑張っても隣に並ぶ勇気が持てなかったのだ。
見た目については、負けてはいるが、さほど大きな差は無いと思っていた。だが遠く目で見ただけで、レイはあっさりと白旗を上げることにした。きちんと手入れされた黒い髪、そしてしているかしていないか分からないぐらいなのだが、それでも目鼻立ちをはっきりとさせるお化粧。着ているもののコーディネーションにしても、ホットパンツにTシャツの自分とは、天と地ほどの差があったのだ。
さすがにこの状態で隣に並ぶほど、レイは図太い神経を持っていなかった。他に誰もいなければまだしも、待ち合わせの駅前にはそれこそ大勢の人たちがいた。そしてそのほとんどの視線を集めているのだから、そこに出ていくのは自殺行為にしか思えなかったのだ。
「なぜうちに遊びに来るのに、そこまでおめかしをする」そんな恨めしい気持ちを抱きながら、レイは自分の携帯電話を取り出した。
「もしもしアサミちゃん、ごめんちょっと都合が悪くなって遅れるわ。
兄さんを迎えによこすから、もう少しだけ待っていてくれないかな?
うん、大丈夫って、ありがとう、すぐに来させるから」
まるで初めからこうなることが分かっていたように、アサミは迎えが遅れることを承諾してくれた。それに小さくため息を吐き、レイは次に兄の携帯電話に連絡を入れた。
「兄さん、ごめん、私には無理だった……
急いでおめかしして、アサミちゃんを迎えに来て。
……分かってる、それ以上は言わないで」
電話を切ったレイは、もう一度木陰で待っているアサミの方を見た。高校生や大学生の男どもが回りにいるのは分かるが、誰一人として声をかけようとはしていない。綺麗な子が一人で立っていれば、普通はそれなりに面倒な事になっていたはずなのだ。
だがアサミの場合、その面倒さえ寄せ付けない輝きを放っていた。もしかしたら、周りの男達は初めから声を掛けるのを諦めていたのかもしれない。そして声をかける代わりに、誰が迎えに来るのかを確かめようとしているのだろう。
そして電話をしてから10分後、いきなりレイは後ろから肩を叩かれた。すわ、ナンパかと身構えたレイだったが、振り返った先にいたのは愛しいお兄様だった。
「兄さん、早かったのね」
「アサミちゃんを、いつまでも待たせておくわけにはいかないからね」
苦笑したシンジは、「連れてくる」と言って、とても自然にアサミの方へと歩き出した。平気で迎えにいける兄に感心しつつ、あまりおめかしして来なかったことにレイはがっかりもしていた。
だがそこで一番驚かされたのは、兄を見つけた時の親友の変化だった。今まで付き合ってきて、一度も見せられたことのない嬉しそうな顔をしてくれたのだ。しかも駆け出そうとしたところで、一度立ち止まって自分の格好のチェックまでしてくれた。レイにしてみれば、立場が逆だろうと言いたいところだった。
「いや、さすがにそれはまずいでしょう」
それから親友のとった行動に、レイはもっと周りを意識して欲しいと切に感じてしまった。このクソ暑い日差しの下、兄の左腕を嬉しそうに抱えてくれたのだ。「どうして周りを刺激する」明日からと言うか、今日これからが怖いと思ったほどだ。
だがこれからが怖いと思いつつ、悔しいなとも思ってしまった。絶対に釣り合わないと思っていたのに、とても二人がしっくりと行っていたのだ。毎日見ていた……夏休みは少しだけ間が開いたけど……兄が、こんなに格好がいいとは思っていなかった。
「いいなぁ、アサミちゃん……」
レイの口から出た言葉は、今の二人の関係をよく表していたのだろう。少し観察しただけでも、周りの観衆達が安堵しているのが分かるのだ。レイが心配した敵意は、少なくともこの場で感じることはできなかった。
兄についてやってきた親友に、「反則だよ」とレイは文句を言った。
「そんなにめかしこんでくるから、迎えにいけなくなったのよ」
ほらと、レイは自分のしている格好を指さした。ホットパンツとTシャツと言うのは、家でくつろぐのにはおかしな格好ではないだろう。そして親友も、家でのんびりするために遊びに来たはずだった。それなのに、どうして渾身のお洒落をしてくるのだ。これではまるで、初デートに臨む女の子のようではないか。
「でもレイちゃん、私は先輩に綺麗なところを見てもらいたいのよ。
そればっかりじゃ駄目なことは分かっているけど、今は私がこんな女の子なんだって見てもらいたいの。
部活じゃなくて、初めて先輩の家におじゃまするんだから綺麗にして当然でしょう?」
「言っていることは分かる……気がするけど」
どうしてそこまで入れこむ。レイには、残念ながらアサミの気持ちの全てを理解することはできなかった。ただ分かったのは、「どっちの方が惚れているのか」と言う事だ。力の入り方を見る限り、間違い無くアサミのほうが熱を上げているようだ。
「アサミちゃん、そんなことを言われると照れるんだけどね……」
ぽりぽりと頭を掻いたシンジは、近くにあったコンビニを指さした。
「冷たいものとか買って行かないと、多分足りなくなると思うんだ。
お昼は、誰かが来るのかどうかで決めることにしようか?」
「兄さん、多分先輩達は気を使ってくれるんじゃないの?
私も、気を使って遊びに出ようかと思っているぐらいなのに」
「レイちゃん、色々とお話したいことがあるのに、聞いてくれる人がいなくちゃつまらないでしょう?」
「でも、しっかりおじゃま虫って気がしているのよ」
ふぃ〜っと息を吐いたレイは、気を使って遊びに行くのを諦めることにした。どう見てもおじゃま虫にしか思えないのだが、「遊びに行くな」と言われれば従う他はない。よほど副部長を呼び出して引導を渡そうかと思ったのだが、微妙な話がしにくくなるだろうと考えなおした。
「冷たい紅茶と、ポテチとか買っていけばいいかな?」
「後は、何か果物があれば私が剥きますよ?」
その何かを探してみたのだが、コンビニに常備されているものに大したものはなかった。バナナはあったが、わざわざ「剥く」と言う作業が必要とは思えなかったのだ。
「チョコは、おみやげで持って来ましたから……
後は、なにかクッキーみたいなものを買いましょうか」
ふっと小さく息を吐いたアサミは、コンビニの棚から大袋のビスケットを取り上げた。
「本当に、先輩達が遊びに来るの?」
「これっ?
個包装になっているから、余っても困らないわよ。
それに、余っても明日からの勉強会のおやつに出来るでしょう?」
「勉強会?」
なにそれ? と首を傾げたレイに、アサミはもう一度「勉強会」と繰り返した。
「海外合宿中に、勉強会を開くことになったのよ。
一番の目標は、先輩達が無事大学にいけるようにすること。
二番目は、篠山さんが周りに追いつくことね」
「二番目のは分かるけど、どうして先輩達の大学受験と勉強会が関係するの?
普通は、予備校とかに行ったりするんじゃないの?」
「普通は、そうなんだけどね……」
少し口元を歪めたアサミは、かごを持ってレジへと向かった。大学生のバイトなのだろうか、しっかりレジの男性は緊張していたりした。
「え、えっと、950円です」
声こそ震えていたが、ちゃんと計算を間違えなかった……バーコードを読ませるだけだから当たり前なのだが、バイトの学生はなんとかまともに対応をすることができたようだ。
別にそれを不思議に思うこと無く、アサミは財布の中から千円札を取り出した。そして「はい」と言って、レジのお札受けへと置いた。
「5、50円のお返しになります」
本当なら、直接手のひらに置きたかっただろう。だがコンビニの規定では、お釣りはお釣り用の皿に出すことになっていた。だがそれでよかったのではと、緊張するバイト君相手にレイは考えてしまった。もしも手でも触れようものなら、間違い無くこの純情な彼はぶっ倒れていただろう。
それだけ強力な親友様なのだが、愛しのお兄様は全く普通に接している。まあ、普通と言っても恋人相手と言う意味での普通と言うところだ。ちょっと見ない間に、どうしてこんなことになった。そのあたりが、レイにとって不思議でしょうがなかった。
「ところで、さっきの話はどうなったの?」
だが兄と親友の関係は、この際意識の外に置くことにした。そしてその代わり、レイは勉強会のことに話を引き戻した。
「さっきの話って……ああ遠野先輩達の話ね。
あの二人が無事大学にいけるように、先輩が管理するって話になったの。
間違い無く、予備校に行くのよりもその方が伸びると私も思っているのよ」
「兄さんが管理……するの?」
「教えるって言う方が正確なんだけどね。
ちゃんと傾向と対策を分析して、先輩達二人に合った勉強をすることになったの。
たぶん、冷静に考えればおせっかいすぎるって思うことなんだけどね」
アサミの言うとおり、どうしてそこまでするのかと思えてしまうことだった。
「でも、アサミちゃんはそれでいいの?
兄さんとデートしている時間が無くなっちゃうよ?」
「う〜ん、私も参加するからいいと思うし。
遠野先輩、鳴沢先輩の二人には、私もお世話になっているからね。
だから、これぐらいはいいかなって思えたんだ。
なぁんか、夏休み中ずっと一緒にいたせいか、あの二人が居ると落ち着くのよ。
先輩と鳴沢先輩の掛け合いも面白いしね」
「アサミちゃん、兄さんのことは先輩なんだ?」
恋人として付き合っているのなら、名前で呼んでもおかしくないはずだ。自己主張の強いアサミなら、間違い無く名前で呼ぶのだとレイは思っていたところがある。だから未だに「先輩」と呼ぶ親友に驚いていた。
「う〜ん、その辺りはなんとなく。
向こうでもずっとそれだったから、変えるきっかけが無かったというか」
「……よく分からない関係ね」
まあいいやと、レイは親友への追求を切り上げることにした。前料理部長とお似合いだと思っていた兄だったが、こうして見ると親友ともとてもしっくりいっているように思えてきたのだ。それに親友から受ける感じも、夏休み前とは随分と変わったように思えてきた。時折感じる作ったような物が、今は全く感じなくなっていたのだ。
しかも、今まででも綺麗だと思っていたのに、久しぶりに会ったらもっと綺麗になっていた。その変化の理由が兄に有るのだとしたら、親友にとって兄という存在は特別だったということになる。
「やっぱり、私はどこかに遊びに行っていようか?」
「気を使ってくれなくても大丈夫だと思うよ。
多分、キョウカさんが素直に受け取ってやって来ると思うから」
「キョウカさんって、あの篠山さんだよね」
「そっ、一番素直で、一番空気の読めないキョウカさん。
のんびりとするから、暇だったら来ていいよって言ってあるの。
だから、そのまま受け取ってくれて、絶対に顔を出してくれると思うわ」
そこでキョウカを出したのは、間違い無く顔を出すからだろうと言う意味からだった。だからレイが気を利かせていなくなる必要はない。あまり気を使われると、かえって遊びに来にくくなると思っていた。二人きりになりたければ、帰りに送ってもらえばそれで事が足りることだった。父親が何時に帰ってくるのかなど、仕事を考えれば簡単に想像がついたのだ。
そんな風に歩いていれば、家になどあっという間に着いてしまう。そしてレイにしてみれば、次の突っ込みどころがそこで現れた。普通人の家に来るときは、「おじゃまします」が正しい挨拶だろう。だが親友様は、玄関に入る時「ただいま」と言って入ってきたのだ。もうこの家の住人になったつもりなのか、なぜか小姑根性がめらめらと燃えてきたりしていた。
それを気にしないのは、大物なのかはたまた鈍感なのか。大好きなお兄様は、親友の言葉を気にした様子を見せなかった。コンビニ袋を持って先に家の中に入っていき、冷たい紅茶を冷蔵庫へと仕舞いこんだ。
「レイちゃん、家に帰ったらちゃんと手を洗わないといけないわよ」
とても自然に、洗面所で手を洗い、そして自然にタオルを使ってくれた。記憶が確かなら、一度しか家に遊びに来ていないはずなのだ。それなのに、タオルのストックとか、配置が全て頭に入っているように見えた。
だがそんなことを突っ込んでも、あまり意味があるようには思えない。まだ十分に時間があるのだから、事情聴取は存分に行うことが出来るだろう。
だが、そんなレイの思惑は、居間に戻ったところで狂ってしまった。さあと身構えたところで、アサミが立ち上がってキッチンに行ってしまったのだ。何事と見ていたら、冷蔵庫から麦茶を出して持ってきてくれた。
「はい、先輩」
「ありがとうアサミちゃん」
「はい、レイちゃん」
「……ありがとう」
立場からすれば、お茶を出すのは自分の役目のはずだった。だが親友殿は、ごくごく自然に振る舞ってくれた。一体これはなんですか? 未だにレイは、状況を把握することができなかった。
「はいレイちゃん、これはおみやげね」
「ありがとう……なんでマカダミアナッツのチョコレート?
確か、兄さんも同じだったような……」
記憶が正しければ、合宿に行った先は、サンディエゴとカサブランカのはずだ。途中ニューヨークとかワシントンDCに行ったことまでは聞いているが、ハワイがスケジュールに入っていたとは聞いていない。
「ええっと、なにかお土産を買いそびれちゃって。
最後はハワイだったから、そこで買い込んできたのよ」
「どうしてハワイ?」
「その辺りは、色々と複雑な事情があったのよ。
ねっ、そうですよね、先輩」
「話せば長くなるかなぁ、それに面白くないし」
色々とカサブランカを出るまではあったのだが、ドタバタした割には目に見える危険が無かったのだ。だから話をしても、面白いことが有るようには思えなかった。だからシンジも、妹の疑問に対して積極的に答えようとはしなかった。
「まっ、いいけど。
でもさぁ、今日はこれからどうするの?」
「別に、何もするつもりはないんだけど。
さすがに疲れているから、一日なにもしないでのんびりしようと思っているんだけど……」
そこで妹の顔を見たシンジは、「一つだけ確認しておきたいことがある」と真面目な顔をした。
「夏休みの課題はちゃんと進んでいるんだよね?」
「あっ、あれね、まあ、そこそこってところかしら……」
まずいまずすぎる。自分を見る兄の目に、レイは背中に嫌な汗が流れているのに気がついた。
「じゃあ、どこまでできているのか見せてもらおうか?」
「え、えーと、これから本気を出すってところかな?」
あははと笑った妹に、後藤の情報が間違っていないことをシンジは確信した。
「乾さんと遊び回っていたと聞いたけど、やっぱり宿題をやっていなかったんだね。
去年の夏休みで懲りたと思っていたんだけど……ふうっ」
「レイちゃんって、先輩がいないと途端にズボラになるんですね。
普段教室で見るのと、随分と違っているのね」
「アサミちゃん、普段のレイってどんな感じ?」
本当なら口を封じたいところなのだが、この状況でそれをするのは墓穴を掘る事になる。余計なことを言わないでと、レイは目でアサミに訴えた。
「とっても静かで、いかにも優等生って顔をして座っていますよ。
結構男の子たちに人気があるって知ってます?
でも、お兄さんがお兄さんだから、みんな勇気が出ないみたいですね」
「お兄さんがって……僕は何かした覚えは全くないんだけど?」
どうしてそこで自分が理由になるのか。全く理解できないシンジに、「有名人ですから」とアサミは笑ってみせた。
「私の虫除けになってもらった時も、誰も突っかかって来なかったですよね?
1年の男子からすれば、先輩は憧れの存在なんですよ。
レイちゃんはそんな先輩の妹なんですから、きっとみんな気後れしちゃうと思うんです。
しかも物静かで、お勉強ができますってレイちゃんは顔をしていますからね」
「なんか、もの凄く現実から乖離しているというか……」
ふっと遠くを見てため息を吐いたシンジは、妹に向かって「良かったね」と皮肉を言った。
「バレていないんだったら、まだ取り返しが付くじゃないか」
「兄さん、バレていないって何のこと?」
一体何を言ってくれるのか。そう言って兄を睨んだレイだったが、冷ややかな視線を返され、すぐに白旗を上げてしまた。
「……助けてアサミちゃん」
「助けてって言われても……
夏休みの宿題って、自分でやるものだし。
レイちゃんも、私達の勉強会に混じればいいんじゃないの?」
「私も、混じるの……」
そこでニヤリと兄に笑われ、レイは仕方がないと覚悟を決めることにした。どうせ宿題は済まさなければいけないのだから、早めに兄を巻き込んだ方がいいのに決まっている。
「仕方がない、兄さんに手伝わせてあげよう」
「レイ、見捨てて欲しかったらそう言ってくれていいよ。
今年は、遠慮なく見捨ててあげようかと思っているから」
本気で見捨てるはずはないと思っていても、もしかしたらと言う気持ちは捨てきれなかった。しかも兄には、可愛い……綺麗な恋人までできてしまっている。妹の比重が下がる可能性も捨てきれなかったのだ。だからレイは、慌てて兄に謝ることにした。
「兄さんごめんなさい。
お願いですから、勉強を教えて下さい」
「僕には、宿題を手伝ってくださいに聞こえるんだけどね」
そこで口元を歪めたシンジは、「協力ありがとう」とアサミに言った。
「レイは、ずぼらなくせに頑固だからね。
なかなか自分から、助けてって言わないんだ」
「きっとレイちゃん、先輩に甘えているんですよ。
ねっレイちゃん、レイちゃんはお兄さん大好きっ子だったよね?」
「あ、アサミちゃん、そういう事は一切ないから」
慌てて否定したレイに向かって、アサミはニヤリと口元を歪めてみせた。
「ふ〜ん、へぇ〜、そうなんだぁ〜」
「そ、そうよ、こんな口うるさい兄貴の事なんて、ちっとも思っていないんだからね!」
「口うるさい、か。
やっぱり、たまには見捨てた方がいいのかな?」
「あっ、愛しのお兄様、可愛い妹を見捨てないでっ!」
「レイちゃんって、結構面白いのね」
ふふふと笑ったアサミに、「猫をかぶっているから」とシンジも笑った。レイの慌てる様が、二人のツボに嵌ったようだ。
「私、からかわれてる?」
「ちょっと、新しい発見ってところかな?
と言う事で、ちょっとテレビを借りるね」
そう言って、アサミはバッグの中からSDカードを取り出した。
「編集していないけど、レイちゃんだったら見せても大丈夫そうだから」
「まさか、二人のベッドシーンが映っているとか……あのぉ、冗談で言ったつもりなんだけど?」
いくら親しい中でも、そんな物を見せつけられたくない。ビクリと反応した親友に、勘弁して下さいとレイは謝った。
「う〜ん、そんなものを撮った記憶はないんだけどなぁ。
私のヌードぐらいなら混じっているかもしれないわよ」
「あんまりいじめると、コピーして売りさばいてあげるわよ」
笑っているところを見ると、危なすぎる写真は無いのだろう。それに安心したレイは、ありがたく旅の写真を鑑賞させてもらうことにした。
「いきなりだけど、この綺麗な人は誰?」
「篠山家が派遣した、僕達の付き添い。
確か、綾部サユリさんって言ったかな?」
「ふ〜ん……で、こっちの人たちは?」
写真を送ったら、紺のスーツを来た男女の写真が現れた。本当ならツアコンと考えるところなのだが、特に男性の見た目がそれを裏切っていたのだ。
「自衛隊から派遣された堀井さんと葵さん。
一応役目としては、通訳とツアコンをしてくれたよ」
「あっ、ディズニーランドに行ったんだ。
いいなぁ、私もディズニーに行ってみたいのに」
「私達は一回しか行っていないんだけど、先輩だけ二回行ったのよ」
「兄さんだけ?」
なんで? と言う顔をした妹に、「頼まれた」とシンジは事情を打ち明けた。
「サンディエゴの基地司令の人に、アスカさんを連れて行ってあげて欲しいと頼まれたんだよ。
だから僕だけ、同じ場所に二回行ったんだ」
「なんで、兄さんがそんなことを頼まれるの?」
「他に頼める男が居なかったからじゃないかな?
まあ、後から協力させるための関係づくりってところもあったんだろうね。
と言う事で、これが最初に行われた懇親会の写真だよ」
「なにか、アスカさんって格好いいわね」
サンディエゴ基地の制服を来たアスカは、確かにレイの言うとおり「格好」よく見えたのだ。対比するのが、高校の制服を着た自分達だからなおさらなのだろう。
「でも、アサミちゃんが向こうの人達と映っている写真が多いのね?」
「どう言う訳か、アサミちゃんが一番人気だったんだよ」
「でも、私の出たドラマも映画も、アメリカで配給されていないのよ。
多分動画で、誰かが勝手にアップしたんだと思うけど……」
「それで、こういう事になったんだ……」
しばらく、アサミが他の男性と映っている写真が続いたのだ。なるほどすごい人気だと、レイは親友のことを再評価した。そしてそんな親友を恋人にする兄を、凄すぎるのではと見直していた。
「あっ、これがママのお店に言った時の写真」
「これって、遠野先輩なの?」
マドカなら、何度も会ったことがあるはずだった。だが写真に映っているのは、別人と言いたくなるほど綺麗な人だった。
「ママに頼んで磨き上げもらったのよ。
でも、結果から言えば一日しか保たなかったわね」
「確かに、翌日はいつもの先輩だったね」
「ふ〜ん、で、この人がアサミちゃんのお母さん?」
少し面影が有るところや、場所がアメリカだと考えればアサミの母親以外にあり得ないだろう。
「そう、私の大好きなママよ」
「ふ〜ん、やっぱり綺麗なんだ……
兄さん、アサミちゃんのお母さんと食事もしているんだね」
「ママも、すっかり先輩のことを気に入ってくれたの。
パパも、先輩のことを気に入ってくれたみたいだし……」
ふ〜んとアサミの説明に納得したレイは、二人の間にちょっとした爆弾を落とした。
「それで、私はいつアサミちゃんのことを「姉さん」って言えばいいの?」
「れ、レイ!?」
「う〜ん、いつにしましょうね、先輩っ!」
こういう時の開き直りは、間違い無く女性の方が早いのだろう。動揺した兄に比べ、親友様は至って平常だった。
「アサミちゃんって、動揺しないのね」
「これぐらいのことだったら、想定内だからね」
るんと少し楽しそうにしたアサミは、スライドショーの写真を一時停止した。
「先輩、飲み物のお代わりはどうです?」
「あ、ああ、お願いしようかな?」
じゃあと立ち上がったところで、来客を告げるチャイムが鳴った。どうやら、空気を読まない誰かが遊びに来たようだ。
「はぁ〜いっ」
それが当然のように、アサミは玄関の方へとぱたぱた走っていった。それを見送ったレイは、ふと我に戻って慌てて立ち上がった。あまりにもアサミの態度が自然だったので、お客さんだったのを忘れていたのだ。
だが慌てて立ち上がった妹に、「手遅れ」とシンジは引き止めた。
「そう、兄さんはこの状況を受け入れているのね?」
「合宿中、ずっとそうだったからねぇ〜」
う〜んとシンジが状況をかみしめていたら、アサミがキョウカを連れて現れた。確かにアサミが言った通り、とても素直で、空気が読めない性格をしているらしい。
「先輩、お言葉に甘えて遊びに来ることにした。
レイさん、父様がこれを持って行けと渡してくれたぞ。
合宿の土産でなくて申し訳ない」
「ええっと、篠山さん、ううん、むしろこっちの方がいいかな。
兄さんとアサミちゃんに同じチョコレートを貰ったから」
包装を見ると、どこかの和菓子屋さんの詰め合わせのようだった。合宿土産というありがたみには欠けるが、同じ物をもらうのよりはずっといいだろう。
「チョコレート……ああ、俺も同じのを買ったな。
父様にも、どうしてハワイ土産なのだと不思議がられたな。
おおっ、合宿の写真じゃないかっ!」
「ちょうど、遠野先輩がめかしこんだところを見ていたのよ」
「そう言えば篠山さん、前よりも綺麗になった?」
見るたびにと言うのは失礼かもしれないが、出発前に見送った時より、レイにはキョウカが綺麗になったように見えたのだ。
「おおっ、レイさんも認めてくれるのか!
父様も母様も、綺麗になったと褒めて下さったんだ。
後は、先輩に褒めてもらえれば、俺も努力のかいがあったというものだな!」
「でも、言葉遣いは直したほうがいいと思うよ」
黙っていれば、本当にお嬢様に見えるようになっていたのだ。ただ男っぽい言葉遣いが、すべてを台無しにしていた。
「う〜ん、普段は気をつけているのだが、やっぱり先輩の前だと地が出てしまうのだ」
「兄さんって、篠山さんに男に見られていないの?」
「そ、そんなことはないぞ、碇先輩はとても素敵な人だからな」
そこでしっかりと顔を赤くしてくれるのだから、キョウカの思いも想像がつくというものだ。ふうっとため息を吐いたレイは、不公平だと心の中で文句を言っていた。
「はいキョウカさん、冷たい麦茶で良かったのよね?」
「さすがアサミは気がきくな。
こうして見ていると、まるで父様と母様のようだな」
それは、お似合いという意味で言っているのだろう。だが兄を好きなくせに、どうして他の女の子を褒めることが出来るのか。その関係も、レイには不思議でならなかった。
だがそんなレイの疑問は、キョウカにとってどうでもいいことのようだった。いただきますとお茶を口に含み、用意されたクッキーに手を伸ばしていた。
「なにか、アサミの割に碇先輩の写真が少ないな?」
「それだったら、別のカメラで撮ってあるわよ。
みんなに見せられない写真が多いから、今日は持ってきてないの」
「みんなにか……親にも見せられない写真じゃないのか?」
そう言って口元を歪めたキョウカに、「内緒」とアサミは笑った。
「ちなみに、キョウカさんの恥ずかしい格好も入っているわよ」
「な、なんとぉっ!
お、俺には、そんな写真を撮られた覚えはないぞ!」
まずいと言って、キョウカは最初にシンジの顔を見た。まさか、その恥ずかしい格好を見られていないかと心配したのだ。
「大丈夫、先輩に見せるときにはちゃんと整理してからにするわよ。
変なところでムラムラときて、間違いが起きたら困るでしょう?」
「いや、そんなことを心配されてもね……」
「でも、キョウカさんの方が胸、大きいんですよ。
ジャージ部の女の子の中で、一番キョウカさんが大きいんですよね。
ビキニ姿も、並のグラビアアイドルじゃ敵いませんよ」
「う〜ん、兄さんの周りって美少女がよりどりみどりの状態なのね」
よく理性が持つものだ。兄の鈍さを感心したレイは、よいしょと言って立ち上がった。時計を見ると、そろそろお昼のことを考えなくてはいけない時間になっていた。
「みんな、なにか食べたいものは有る?」
「日本らしいものがいいかなぁ。
向こうにいる間、こってりしたものばっかり食べてたから」
「確かに、だしの効いた食べ物を食べた記憶が無いな」
「じゃあ、そうめんでもいいかな?」
腕の見せ所がないとは思ったが、めんつゆがあれば面倒のない献立でもある。後は、適当にあるものを切って出せば、バランスもそれなりにとれるだろう。
「レイちゃん、手伝おうか?」
「さすがに、アサミちゃんばっかりにやらせるのはまずいっしょ。
ここは碇家の台所を預かるものとして、ちゃんとやれるところを見せておかないとね」
任せておいて。そう腕まくりをした……半袖しか着ていなかったのだが……レイは、主導権を取り戻すべく主戦場たるキッチンへと入って行った。
その翌日、ジャージ部は合宿後初の公式活動日に当てられていた。とても久しぶりに学校に出てきたマドカは、至るところで運動部の見知った顔に声をかけられた。その内容を大別すると、主に3つのものに分けることができた。
まず第一は、「ようやく帰ってきてくれた」と言う、帰国を歓迎するものだった。まあ、スポーツ万能で助っ人として活躍していたマドカなのだから、不在中の戦力ダウンが尋常ではなかったのだ。戦力としてマドカとナル、二人を当てにしている運動部にとっては、まさに死活問題になっていたのだ。
「ごめんごめん、ちゃんと合宿中も体を動かしているから心配いらないわよ。
うんうん、碇君もコンディションばっちりって言ってたから、絶対に役に立つわよ」
「じゃあ、来週試合があるからよろしくね。
S高ソフト部の4番バッター様様っ!」
そう言ってソフト部のキャプテンに両手を合わされると、帰ってきたんだなぁと実感してしまう。これが大好きな日常、大好きな高校生活なのだと、焼けるような日差しの下に散らばった仲間たちを見た。
そして二番目は、「綺麗になった?」と言う質問だった。そしてその派生として、「碇君と付き合うことになったの?」と言う質問もされた。その辺りは、一晩で効果が切れたと言われるアサミママの魔法と、人には言えない思いが理由になっていたのかもしれない。「そっかなぁ〜」と照れるマドカに、声を掛けた仲間はうんうんと頷いて同意をした。
「で、合宿中碇君と進展したの?
だって碇君、瀬名さんと別れたんでしょう?」
「いやぁ、だからって合宿中にそれはないっしょ」
「だったら、カヲル様?」
その名前を出されて、そう言えば会ったんだったなとマドカはカサブランカのことを思い出した。色々あって、一緒に世界遺産巡りをしたはずなのだ。それなのに、なぜか印象が薄くなってしまっている。懇親会で会った時には、その美形さに見惚れたはずなのにだ。
「カヲル様って……そう言えば、一緒に世界遺産巡りもしたんだっけ。
なんかバタバタしていて、あんまり印象に残っていないんだよねぇ」
「ええっ、カヲル様と一緒に観光したのっ!」
驚いた友人に、それほどのことかなのとマドカは実感がわかなかった。そしてちゃんと考えないまま、特大の爆弾を落としてくれた。
「碇君なんて、アスカさんと二人でディズニーランドに行ったわよ。
それに比べれば、団体行動なんだから大したことはないと思うんだけど」
「ちちちち、ちょっと、それって本当?」
「こんな事で嘘をついてもしょうがないと思うけど?」
はははとマドカは笑い飛ばしたが、聞かされた方としてはそれどころではなかったのだ。もともと噂で伝わっていたのは、ジャージ部が海外合宿をすること、そしてその中にサンディエゴ、カサブランカ両基地の見学が入っていることだけだった。
一緒に観光するとか、二人きりでデートをすることとかは一切書かれていなかったのだ。それ以上の問題は、人気抜群の西海岸のアテナ、アスカが「デート」をしたと言う事だ。立場上しかたがないのだが、一切浮いた話しのないのがアスカと言う人だった。そのアスカがデートをしたと言うのは、ニュースとしてはとびっきりのものだった。
もっとも、マドカにしてみれば、騒ぐほどのない罪のない出来事でしか無かった。二人ができたという話もないし、やったことといえばアトラクションを周り倒したぐらいだ。これをデートと言ったら、ジャージ部の活動は集団デートになってしまう。もっとも男が一人なのだから、ハーレムと言った方が正しいのかもしれないが。
そんなマドカの考えは、当然相手と共有できるはずがなかった。アスカがデートをしたという事実と、その相手がジャージ部の碇シンジと言うことが、センセーショナルな話題として広まったのである。
今までの二つに比べると、最後の一つはとても罪のない、そして他愛もないものだった。何のことはない、「お土産は?」と言う、極めて真っ当な要求だったのである。色々お世話になっている、お世話をしている相手だったりするから、お土産の要求はある程度は真っ当なものだろう。
だが買ってくる方にしてみれば、あまりにも該当者が多すぎたのだ。その一つ一つにおみやげを買っていたら、お金がいくらあっても足りなくなってしまう。おまけに言うのなら、個人的にお土産を買う相手はマドカには居なかった。
だから「お土産は?」と言う言葉に対して、マドカは両手をあわせて「ごめん」と謝った。
「配る相手が多すぎるから、個別に買ってくるのを諦めたのよ。
ジャージ部に遊びに来てくれれば、マカダミアナッツチョコがあるわよ」
「マカダミアナッツチョコって……なぜハワイ?」
「その辺りは、色々とあったと思ってくれる?」
本当に色々とあったのだが、説明に困ることもたくさんあったのだ。だからマドカは、「色々とあった」ですべてを押し通すことにした。そう言っておけば、相手も多くは聞いてこないだろうと言う見込みからである。
そんな関門を通り抜けて部室にたどり着いたら、すでに部室には全員……シンジを除く……が集まっていた。そしてマドカの顔を見つけたナルは、少し口元を歪めて「色々と聞かれたでしょう?」と聞いてきた。
「そうなのよ。
綺麗になったとか、碇君とどこまで進んだのとか言われたわ」
「それで遠野先輩、どう答えたんですか?
まさか、私と先輩のことをばらしていませんよね?」
前日の行動を考えると、ほんとうに隠している意味があるのかと思えてしまう。だが学校で明言するのは、特別な意味を持ってくることになる。
それを心配したアサミに、「大丈夫だよ」とマドカは胸を張った。
「その辺りは、別の爆弾をばらまいて誤魔化しておいたわ」
「別の爆弾……ですか?」
「そっ、碇君とアスカさんのディズニー・デート」
マドカの説明に、全員が「ああ」と納得した。知らない人にとって、アスカとのデートというのは最大級の爆弾に違いない。ただジャージ部にとって、バレても大したことのない爆弾だったのだ。
「ところで、碇君がまだって珍しいわね?」
自分としては、途中で引っかかった分遅くなったと思っていた。それなのに、普段は早いシンジの顔が見当たらないのだ。マドカが珍しいと言いたくなるのも無理もなかった。
だが珍しいというのは、マドカだけの感想のようだ。「先輩なら」とアサミが、シンジの居場所を説明した。
「先程、柔道部の人たちに連行されて行きましたよ。
確か、そのあとは空手部と剣道部の予約が入っていますね」
「なんで、武道系ばっかり?」
「さあ、どうしてでしょうね」
チョコンと首を傾げてくれるのは、同性ながら可愛いと思えてしまう。だが「連行」と言う物騒な言葉と、連れて行かれた先が「柔道部」と言うのがマドカには引っかかった。しかも後に控えているのが、空手部と剣道部と言うのも気になってしまう。
「なんか、とっても物騒に聞こえるんだけど?」
「多分、遠野先輩の想像は当たっていますよ。
結構、呼びに来た人たちが殺気立っていましたから」
「殺気立っていたって、アサミちゃん、それでいいの?」
連れて行かれた先を考えると、いくらシンジでも無事で済むとは思えない。少し焦ったマドカは、助けに行くため部室を出て行こうとした。
「遠野先輩、そう言うのを過保護っていうんですよ。
それから、私達が行くと、火に油を注ぐことになりかねませんからね」
だから駄目。そう言って引き止めたアサミは、「もう一つ話が来ています」とマドカを座らせた。
「映画研究会の梅津先輩がもうすぐ来ることになっているんです。
どうやら、脚本を変えるらしいですよ」
「脚本を変える?
ジャージ部5、高知の奇跡は撮らないってことね?」
少しホッとした様子を見せたマドカに、全くですとアサミも同意した。
「人の死なないミステリーで学園モノの脚本を作ったってことですよ。
どうも、特撮モノは飛ばしだったみたいですね。
さもなければ、壁の高さに気づいて諦めたってところでしょう」
「さすがに、私達を使うのは微妙すぎるわよね」
はははと笑ったマドカは、頬杖をついて「明日のことだけど」と花火大会のことを切り出した。
「部活は休みにするから、予定を決めておく必要があるわよね。
見どころは7時からだから、1時間前には神社に行っている必要が有るわよ。
とっても混雑するから、ちゃんと待ち合わせ場所とか決めておかないといけないし」
「別に、自由解散でもよくありません?」
そうすれば、こっそりとはぐれて二人きりになることが出来る。そのつもりで言ったアサミに、さすがにそれは駄目とマドカは答えた。
「邪魔をするって意味じゃなくて、みんなの安全を考えてのことよ。
アサミちゃんとか碇くんとか、それからキョウカちゃんの安全を考えないといけないの。
自由解散だと、何かあっても気が付かないでしょう?」
「今回は、はぐれることが目的じゃないからいいですけど……」
「そういう事なので、もしも誰かがはぐれたら8時半に第一鳥居の下に集合すること」
「ええっと、そう言うのは碇先輩にも伝えなくていいんですか?」
「アサミちゃんが離れるとは思えないもの。
それに、事前に二人で示し合わせておけばいいでしょう?」
だからここにいるメンバーだけでいい。そう言い切ったマドカは、少し出てくると言って立ち上がった。
「あれっ、梅津先輩はいいんですか?」
「そっちは、アサミちゃんに任せておくことにするわ。
もともとプロなんだから、この中で一番しっかりしているでしょう?
私は、これからソフト部の助っ人に行ってくるわ。
ナルちゃんはどうするの?」
「私は、バスケ部が呼んでいたわね。
じゃあ、マコトちゃんのことはアサミちゃんに任せておきましょうか」
餅は餅屋。そう言ったナルに、「全権委任ですね」とアサミは口元を歪めた。それならそれで、自分に都合のいい方に話を歪めてみせる。まるでそう言いたげなアサミの態度だった。
「そのへんは、後から碇君と相談して。
どうせ今年の映画の目玉は、アサミちゃんと碇君になるから」
「はぁい、だったらお任せしてくださいね。
例年に無く凄い映画にして見せますからっ!」
自分が出る以上、お粗末な映像を作る訳にはいかない。元が付くとはいえ、トップ女優の意地がそこにあった。しかも自分とシンジが主演するのだから、なおさら手を抜くわけにはいかなかったのだ。
日本の蒸し暑さに、浴衣というのはなかなかマッチした衣装だった。前の日に揃って浴衣を買いに行った二人は、見物客でごった返す駅前で待ち合わせをした。もっともシンジの隣には、一人仲間はずれのレイも立っていた。どうして自分がここにいるのか、あてられるのはかなわないとレイは思っていた。
「やっぱり、先輩って背が高いから浴衣も似合いますね」
「そうかなぁ、何か着慣れないからしっくりと来ないんだけど……」
「そうですか?」
だったらと、アサミはシンジの周りをグルグルとまわり、どこかおかしいところがないかチェックした。
「見た範囲で、ちゃんと着れていると思いますよ」
「一応、説明書通りに着たはずだからね。
ただ、なれないから思いっきり時間がかかってしまったんだよ」
「レイちゃんも、似合っていると思いますよ。
でもレイちゃん、ちゃんと自分一人で着たんですよね?」
「別に、兄妹だから心配されることはないと思う……」
そう言って自分の背中を見たのは、少し帯に不安があったからなのだろうか。
「待ち合わせは、6時前に鳥居下だったっけ?」
「はぐれた時も、同じ場所が待ち合わせ場所になりますからね」
じゃあ行きましょう。アサミがそう答えた時、シンジは誰かに肩を叩かれた。何事かと振り返ってみたら、そこには見慣れた顔が立っていた。
「誰って、どうしたんだ柄澤?」
「どうしたって、これから花火を見に行くんだが?」
おかしいか? と柄澤は、シンジに向かってニヤリと口元を歪めてみせた。ちなみにその時の柄澤は、紺の浴衣を着ていた。そこそこ背が高いので、結構似合っていたりした。
「誰かと一緒に行くのか?」
「ああ、そのつもりで来たんだが?」
「じゃあ、僕たちは待ち合わせがあるから先に行っているよ」
ばいばい。そう手を振ったシンジに、柄澤は「待て」と呼び止めた。
「中学からの友人を置いていくのか?」
「いやっ、誰かと約束があるんじゃないのか?
確か、そう聞いた覚えがあるんだけど?」
アサミとレイも、うんうんと頷いていた。それを見る限り、シンジの聞き間違えとは思えなかった。
だが柄澤は、そんなことは一言も言っていないと言い返した。
「誰かと行くつもりだとは言ったが、約束があるとは一言も言っていないぞ。
さて碇君、ジャージ部は困っている人の味方だと教えてくれたよな」
「つまり、仲間に入れろということか……」
自分達を張っていたとしたら、大した嗅覚だとシンジは悪友に対して感心していた。さもなければ、ナンパの一つでもしようと考えていたのか。
仲間に入れろと言う悪友に、どうしたものかとシンジは少しだけ考えた。だが女性5人に男一人というのは、どう考えてもバランスが悪い。それに祭は、仲間が多い方が楽しいだろうと考えることにした。
「まあ、お前なら安全だから大丈夫だろうな。
アサミちゃん、こいつが中学からの友達で柄澤って言うんだ。
うちにある写真集は、全部こいつが置いていったものなんだよ」
「堀北アサミです。
ここだけの話、碇先輩の彼女をしています」
アサミの言葉は、かなりの爆弾発言のはずだった。だがそれを受け取った柄澤は、「噂は聞いています」と紳士的に答えてきた。
「柄澤、驚かないんだな?」
「驚くも何も、一昨日お前たちは何をしていた?」
「別に、何かをしたつもりはないけど?」
そんな答えをしたシンジに、柄澤は「はあぁ」と溜息を吐いた。
「時々お前は、非常識なほど鈍感になるな。
前にも教えたが、未だ堀北さんにはファンクラブが存在するんだぞ。
一昨日の駅前の出来事、それからデパートの浴衣売り場のことはチェックされているんだ。
いやぁ、ツイッターがさながら地獄図というか、阿鼻叫喚の様相を呈していたんだ。
今回だけは絶対間違いないと、最後は完全に諦めムードになっていたな」
「危ないことはないよな?」
「多分な」
そう答えた柄澤は、ちょっと待てと言ってスマホをいじり始めた。
「ちなみに、これが駅前で撮られた写真だ。
アサミちゃん……堀北さんのこんな顔を見せられてみろ。
さすがに、諦めざるをえないだろう。
もう一つ付け加えると、勝てないと思ったんだろうなぁ、やっぱり」
「いつの間に、こんな写真を撮られていたんだ?」
「柄澤さん、その写真を貰えませんか?」
あれだけ注目を集めていたのだから、写真の一枚や二枚撮られていてもおかしくないだろう。そう割り切ってしまえば、この程度のことで目くじらを立てる必要もない。知らないところで出回っているのは気になるが、写真自体危なくないので大丈夫だろう。それに、思わず欲しくなるほど綺麗に撮れていた。
「ああ、シンジに送っておくよ」
「別に、私のメルアドを教えてもいいんですよ」
にっこりと笑ったアサミに、遠慮しておくと柄澤は口元を歪めた。
「そんなものを教えてもらったら、邪なことを考えてしまいそうになる。
まあ、中学時代のシンジのことを知りたければ、相談に乗らないことはないがな」
「その辺り、ぜひ教えてもらいたいですね」
「人の恥ずかしい秘密をバラすなよ。
それから、そろそろ待ち合わせ場所に行かないとね」
時計を見れば、少し急がないと遅れそうな時間になっていた。それに気づいたシンジは、「続きは歩きながら」とアサミの手を引っ張った。
「じゃあレイちゃん、あぶれ者同士一緒に行こうか」
「柄澤さんと、ですか?」
う〜んと悩んだレイに、たまにはいいだろうと柄澤は文句を言った。
「こう見えても、中学の時はシンジのやつの面倒を見ていたんだがな」
「確かに、兄さん、柄澤さん以外にお友達がいませんでしたね」
仕方ないと諦めたレイは、柄澤の隣に並んで歩き出した。
そして前を歩く二人を見ながら、柄澤は「順当な結果か」と指を刺した。
「レイちゃんは、瀬名を押していたんだよな」
「兄さんには、瀬名先輩見たいなしっかりした人の方がいいと思っていました。
アサミちゃんは友達ですけど、兄さんじゃ無理かなって思っていたんですけどね」
「随分兄貴のことを過小評価していたんだな。
まあ、相手が元トップアイドル様だから仕方がないっちゃ仕方がないか」
いいなぁと羨んだ柄澤は、少し小声で「気をつけておいてやる」とレイだけに聞こえるように言った。
「気をつけるって?」
「ネットとかの反応だよ。
馬鹿なことを言い出す奴が居ないか、チェックしておくということだ。
2年前だが、アサミちゃんが共演した男優と噂になったことがあるんだ。
その時には、結構色々あったって書かれていたからな。
引退したからって安心していると、思わぬ落とし穴に引っかかるかもしれないぞ」
そう言う事だと笑った柄澤は、「写真集を引き上げるか」と付け加えた。
「もう、シンジに教育する必要はないだろう」
「いいんですか、持って帰ったりして?
ヒデミちゃんに嫌われるとか言っていませんでした?」
写真集を置いていった口実は、「家に置いておけない」と言われていた。それを考えると、持って帰るというのは話がおかしくなる。
「普通の写真集もいっぱいあるんだよ。
そんなもの、持って帰っても問題なるはずがないだろう?
あの写真集は、シンジのやつに女の子の良さを教えるためのものなんだよ」
「だとしたら、ほとんど役に立っていませんね。
兄さん、柄澤さんがおいて行ったら、すぐに本棚にしまってしまいましたから。
役に立ったといえば、アサミちゃんの写真集と、アスカさんの写真集ぐらいです。
それも、遠野先輩達にからかわれるネタになったぐらいですけど」
「そっか、あの二人に目をつけられたのが転機だったんだな。
しかし、かなりいい雰囲気を作っているな」
少し前を見ると、アサミがシンジの腕を抱えているのが見えた。
「アサミちゃん、かなり雰囲気が変わったんじゃないのか?」
「まるで別人。
合宿から帰ってきたら、兄にべたべたになっていました」
「レイちゃんとしては、盗られて悔しいってところかな?」
にやっと笑った柄澤に、レイは「何のことですか?」としらを切った。だが碇家のことをよく知る柄澤に、レイの嘘は通じなかった。
「ヒデミに色々と教えてもらっているんだよ。
レイちゃん、シンジのやつは遠野先輩と付き合っていると吹聴していたんだろう?
そうやって、虫がつかないようにしていたんじゃないのか?」
「私には、付き合っているように見えていたの……」
「俺からすれば、憧れていたというのが一番正確かなぁ。
確かにシンジが惚れていた時期はあったが、割とすぐに現実を理解したようだぞ」
「現実って?」
二人が付き合うのに、なにか障害があったようには思えない。男女3人の部活は、とても仲良くやっているように見えていたのだ。
「ああ、レイちゃんとシンジの間で恋愛が成立しないのと同じ事だよ。
遠野先輩は、シンジのやつを弟としか見ていなかったんだよ」
「でも、今は違うと思う……」
「世の中、タイミングってやつが大切なんだよ。
おっと、あまり余計なことを教えちゃいけないな。
それに、ジャージ部綺麗どころが勢ぞろいしたようだ」
地元の神社、越掛神社は、少し小高い所に本殿があった。その本殿に登っていく階段の所に、第一の鳥居が作られている。比較的小さな朱塗りの鳥居の横に、ジャージ部の3人が待っていた。マドカがピンクの模様が入った浴衣を着、ナルが紺地に赤や黄の模様の入った浴衣を着ていた。そしてその横にいたキョウカは、紺地に白の模様が入った浴衣を着ていた。
一方シンジは、濃淡のついた薄墨色の浴衣を着ていた。対になるアサミは、白地に紫色の朝顔があしらわれた浴衣を着ていた。
「あっれぇ、柄澤君もおじゃま虫?」
「レイちゃんがおじゃま虫にならないように、救出したと言ってください。
しかしシンジ、なにげにジャージ部はレベルが高いな」
「ええっと、から……なんとか先輩。
褒めてもらえて光栄だぞ!」
「柄澤だよ、篠山さん。
しっかし、入学した時から比べて、随分と綺麗になったものだね」
ひときわ華やかなアサミと比べ、逆にキョウカはしっとりとした雰囲気を作り出していた。言葉遣いがすべてを無にしている気もするが、黙っていれば「清楚なお嬢様」で十分通用する。なるほどシンジの趣味かと納得した柄澤は、「急ぎましょう」と提案した。
「田舎の花火大会だが、それでも結構な人だかりになるからな。
いい場所は、早めに抑えておくのに越したことがないんだよ。
ちなみに俺は、結構な穴場ってやつを知っているんだ」
「お前、そう言う無駄な知識が溢れているな」
感心したシンジに、柄澤は分かっていないとばかりに人差し指を立てて振った。
「こういう時に役立つんだから、それを無駄とは言わないんだよ。
と言う話は後に回して、みんなで特等席を取りに行きましょう。
河川敷もいいが、高いところから観る花火も風情があっていいんですよ」
こっちです。そう言って、柄澤は先頭を切って歩き出した。
「柄澤くんって、こういうのに詳しいの?」
凄いのねと褒めたマドカに、「頭でっかちですから」と柄澤は苦笑した。
「シチュエーションだけ調べるんですけど、一緒に行ってくれる相手が居なくてね。
だから今年は、シンジのご相伴に与ろうかなと思ったんですよ。
何しろ今年のジャージ部は、S高内の綺麗どころが集まっていますからね。
しかもアサミちゃん以外はフリーだから、色々と下心が抱けるじゃないですか」
「だったら、キョウカちゃんに挑戦してみる?
うまくいったら、極上の逆玉の輿に乗れるわよ」
「それを勧めるってことは、遠野先輩の目はないって言ってくれているんですよね」
残念だと悔しがる柄澤に、「冗談ばっか」とマドカは笑い飛ばした。
「そんな風におだてても、何も出ないからね」
「結構まじめに言ってるつもりなんですけどね。
シンジが売約済みになったから、夏休み明けにでも告白されるんじゃありませんか?
まあ、シンジと勝負しようと思わない時点で、雑魚キャラなのは仕方がないでしょうけど」
「結構、辛辣なことを言うのね」
驚いた顔をしたマドカに、「そうですか?」と柄澤はとぼけてみせた。
「でも、先輩とシンジって、噂が先行していただけですよ。
本当に先輩のことが気になったんだったら、噂に構わず告白するのが筋でしょう?
それができないってことは、先輩に対する思いもその程度だということです」
「つまり、柄澤くんもその程度しか思ってくれていないってことね」
あげた足をとったマドカに、「そういう事になりますね」と柄澤は頭を掻いた。
「まあ、人には分相応ってやつがありますからね。
俺は脇役だから、先輩達のようなヒロインには相応しくありませんよ」
「そう、柄澤くんも結構格好いいと思うけど?」
「結構程度じゃ、やっぱり脇役なんです。
その証拠に、堀北さんや篠山さんは、俺のことを知りませんでしたからね」
「まあそんなものです」そう笑い飛ばした柄澤は、「こっちです」と参道の脇道を指さした。
「こっちに行くと、川に面した斜面に出るんですよ。
割と知られていない場所なんで、人が少ないって言う穴場です」
「いつか、彼女としっぽりとか考えていたわけね」
「ご明察、彼女じゃありませんが、一応目的は達せられそうですね。
あっ、足元があまり良くありませんから気をつけてください」
そう言ってリードしていく柄澤に、これでどうしてもてないのかとマドカは不思議に思っていた。見た目にしても、間違い無く格好良い方に入っている。その上話しやすくて気も効いている。客観的に言えば、モテる要素が色々とあったのだ。
「さて、ここには少し古いがベンチもあります。
シンジのやつは放っておいて、俺達はベンチに座りましょうか?」
二人だけの世界を作る悪友は無視して、柄澤はマドカ達4人に声を掛けた。確かに柄澤の言うとおり、5人ぐらい座れそうなベンチがそこにあった。
「柄澤、僕達の場所がないんだけど?」
「堀北さんだけなら考えないでもないが、お前の面倒を見るつもりはないぞ。
リア充は、どこか目につかないところに行ってくれないか?
ああ、それからあまり先に行くと、蛇が出るから気をつけろよ。
あと、これは虫除けスプレーだから持っていけ」
「まったく、後から来て人を仲間はずれにするなよ!
お前が立って、アサミちゃんを座らせれば丸く収まるだろう!」
そう言い返したシンジに、「駄目だねぇ」と柄澤は呆れたように言い返した。
「堀北さん、もう少しシンジのやつを教育してくれませんか?」
「そうですよ先輩、花火の時間ぐらいだったら立っていても大丈夫です。
それよりも、こうしている方が私は幸せなんですから」
ぐっと左腕を抱え、アサミは更に体重を預けてきた。しっかりとくっついたことで、左腕にはしっかりアサミの体温を感じるようになっていた。
「つうことで、俺達の前にくるんじゃ無いぞ。
俺たちは、これから花火を見るのであって、リア充に当てられに来たんじゃないからな。
おおっ、そう言っている間に始まったじゃないか!」
「と言うことですから先輩、ありがたく二人だけの世界を作りましょうね」
ドンと言う音とともに、光の筋が空に上がっていくのを見ることができた。そしてそれが消えたと思った瞬間、大輪の花が夜空に大きく広がった。それから少しだけ遅れて、大きな音が空を震わせた。
「綺麗ですね」
「ああ、とっても……」
相槌を打ちながら、シンジは感じた乾きに喉をゴクリと鳴らした。薄暗い中、花火に照らされたアサミが、今まで以上に綺麗に見えたのだ。花火の光が瞳で輝くのは、幻想的で吸い込まれそうな気がしていた。前で柄澤とマドカ、そしてナルが騒いでいるのだが、とても遠い所のことのように思えてしまった。
アサミに対して感じた高ぶりは、今までで一番だったのかもしれない。それは、もう抑えられるようなものではなかった。
「アサミちゃん、キスしてもいいかい?」
みんなに聞こえないように、アサミの耳元でシンジは小さな声で囁いた。そしてアサミも、それに答えるように小さな声で「いいですよ」と返した。
「でも、先輩も大胆ですね」
「アサミちゃんを見ていたら、なにか自分を抑えきれなくなって……」
だからと、シンジはみんなにバレないようにアサミに顔を近づけた。そして大輪の華が夜空に開いた瞬間を狙って、アサミと軽く唇を合わせた。
「私だって、本当はキスして欲しかったんですよ」
恥ずかしそうに言われ、シンジはどうしようもない思いに身を焦がした。抱きしめたくて、触れていたくて、大きな声でわめきたくて、大暴れをしたくなる。どれ一つとして、本当に意味のある行為かすらわからない。ただ一つだけ分かっているのは、そうでもしなければ体の中に湧き上がる情動を抑えきれないということだ。愛しくて切なくて胸が熱くなって、どうしてこんなに好きになってしまったのか。
普段は冷静なシンジも、今は周りのことも見えなくなっていた。そして今日に限っては、不自然に冷静になる現象も起きなかった。ただそのことを気づく余裕は、今のシンジには欠片も残っていなかった。ただ今は、隣に居る愛しい人と、どうしたら一秒でも長く居られるか。ただそれだけを、心のなかで考えていたのだ。
花火大会の翌日も、今までの遅れを取り戻すかのように、ジャージ部のメンバーは学校に集まっていた。この日の課題は、映画研究会を交えた新作映画の企画検討だった。「ジャージ部5、高知の奇跡」は企画段階で没になっていた。その代わり、映画研究会は学園モノという真っ当な企画を用意してくれた。
簡単な企画書を広げた映画研究会会長は、傑作にしてみせると力説した。小さな体を精一杯大きくして、梅津マコトは、配役から説明した。
「碇君に主役をしてもらうわ。
それから堀北さんには、ヒロインをしてもらう。
まあ、その辺りは既定路線だから異論は無いと思うけど……
あと、脇役は色々と考えているんだけど、一人男優に適当な人が居ないのよ。
脚本をあとから見てもらえば分かるけど、悪友役が一人必要なのよ。
碇君と掛け合いの出来る人を知らないかなぁ?」
「だったら、柄澤くんがいいんじゃないの?」
「柄澤くんって?」
誰? と首を傾げたマコトに、シンジは「中学からの悪友」と答えた。そしてマドカが、柄澤の人となりを簡単に説明した。
「結構格好良くて、明るくていい子よ。
役柄があっているか分からないけど、彼だったら碇君との掛け合いが似合っているわよ」
「そっかぁ、じゃあ柄澤くんに会ってみて、キャラクターイメージを固めようかしら」
うんうんと納得したマコトは、「これ」と言って分厚い紙の束を机の上に取り出した。
「なに、これ?」
「とりあえず、脚本に起こす前に小説を書いてみたのよ。
ちょっとした自信作って感じかな?」
さあとマコトは、無い胸を張ってみせた。
「さあって言われても、一部しかないと読みにくいんですけど?」
「さすがにさぁ、紙を節約しようかなって。
データで良ければ、アーカイブにアップしてあるからそっちを見てくれるかな?」
「映画研究会のアーカイブですよね……」
そっちの方がいいかと、アサミとシンジは揃ってスマホを取り出した。そしてS高のHPから、映画研究会のページヘとたどっていった。
「不如帰って言うんですね」
「そっ、色々と含みを保たせるために選んだタイトルよ。
結構長いから、家に帰って読んでくれればいいわ」
「そうですね、じっくり読まないとイメージも掴めませんから」
目の前の紙の束を見れば、そのボリュームも想像がつくというものだ。良くもこれだけ書いたと感心したアサミは、それだけ興が乗ったのだと理解した。自己満足を求める仕上がりでなければ、面白い映画が作れるかもしれないと予想した。
「じゃあ、帰ってから読んで、明日感想を言うということでいいですか?」
お出かけモードのシンジに、「これからどこへ?」とマコトは聞いた。力作なのだから、宣伝方法から相談したいことが色々とある。その為には、シンジがいてくれたほうがいいと思っていた。
「これからですか?
空手部から、リターンマッチがしたいって依頼が来ているんです。
その後は、新体操部で代役をして欲しいらしいですよ」
「相変わらず、そこら中に呼ばれているのね」
1年経ったのだから、もう少し落ち着いていると思っていた。だが現実は、去年と変わらずと言うか、しっかり各部の主力となっていたのだ。
「ねえ、それで映画を撮っている時間はあるの?」
「たぶん、それぐらいの時間は取れると思いますよ。
あとは、その為にも今のうち手伝っておく必要があるかなって。
それから、なにか話があるときはメールをしてくれてもいいですよ」
「ちょうど良かった。
宣伝方法とか、相談したいことがあったの」
両手を合わせたマコトに、了解と答えてシンジは部室を出ていった。いいなあとその後ろ姿を見送ったマコトは、全員の視線に大きく一つ咳払いをした。
「明明後日から、撮影を始めたいと思うけどいいかしら?」
「いいですけど、ちゃんと脚本は間に合うんですよね?」
つまらないものを作ってきたら承知しない。元プロの矜持にかけて、とびきりの映画を作ってみせる。アサミは今までに無く張り切っていた。
***
私が紅山高校を選んだのには、いくつか大切な理由が存在していた。両親や中学の先生からは、歩いて行ける下沢高校を薦められた。紅山と下沢では偏差値的には差が無いのだから、より近い方を薦めるのは理に適っていると言えただろう。それでも私は、生まれて初めて我が儘を通すことにした。その時両親に挙げた理由が、次の5つだった。
・遠いと言っても、自転車で20分程度の距離でしかない。
・紅山高校の方が歴史がある。
・クラブ活動も紅山の方が活発である。
・中学の友達は、紅山にも沢山いる。
・両方比べてみて、紅山の環境が気に入った。
きっと両親からしてみれば、いずれの理由も取るに足らない物だっただろう。ただ下沢を選ぶ理由にしても、ただ“家から近い”と言う距離的な物でしかなかったのだ。それを最初の理由で否定すれば、積極的に下沢を選ぶ理由は消滅することになる。徒歩10分と自転車で20分、距離的にはかなり違うのは確かだが、時間にしてたかだか10分の違いなのだと。
そうやって両親を説得した私は、この春晴れて紅山高校に入学することが出来た。ただそれは、私が目指した物の取りかかりでしかなかったのだ。
入学式の日、行ってきますと家を出たのは7時30分だった。集合時間が8時30分だから、余裕綽々の通学と言う事になる。
川沿いの道を自転車で走るのは、天気さえ良ければとても気持ちの良いものだ。千反田さんの植えた菜の花の黄や、レンゲの赤を横目に、最初に狂い咲きの桜の木を目指して走る。そのすぐ先の長生橋を渡って町中に入れば、紅山高校まであと少しになる。最後に軽い上りになるのだが、ここは無理して自転車をこぐことはない。押して歩けば、友達の誰かとお話しも出来るだろう。
そして私の期待通り、中三で同じクラスだった女の子を発見した。
「おはよう、サヤカ!」
「おはようルイ……」
小柄なのと、少し裾の広がった髪型は、目印としてちょうど良かった。新入学初日に、知った顔を見つけるのはとても安心できる物なのだ。ただその時サヤカ、元私のクラスメイトである神沢サヤカは、少し呆れたという顔をして私の事を見ていたのが気になった。
「私の顔に何か付いてる?」
「いや、本当に紅山に来たんだなって思っただけよ。
ところでルイ、どうして電動アシスト付きの自転車にしなかったの?
途中、結構坂があるからそっちの方が良かったんじゃないの?」
なるほど、私ではなく、私の自転車を見て呆れたと言う事か。確かに私たちの住んでいる高岳市は、回りを山に囲まれた小さな街だ。小さなとは言ったが、市としての面積は日本一らしい。ただそのほとんどが山なので、人の住むスペースは小さかった。従って正確に表現するのなら、山間の街と言うのだろう。だから町中にも坂道は多いし、ここまで来る途中にも、いくつか坂があるのも確かだ。
だけどサヤカ、君は農家の娘を甘く見ているのだよ。全ての農地に機械が入れるというのは、現場を知らない人の幻想なのだ。米作りは土作りと言う様に、一年を通してしっかりとアウトドアで鍛えられているのだ。
「これでも、農家の跡取り娘なのよ。
一年中田畑で鍛えられた足腰を甘く見ないで!」
「ルイを見ていると、鍛えられたように見えないんだけど……」
確かに、下半身どっしり型でないのは認めよう。ただそれは、私の望むところでもあったのだ。今日日の農家は、婿不足が深刻なのだよ。この際見た目で引っかかるおっちょこちょいでも……なにか、考えていたら悲しくなってきた気がする。
「ええっとルイ、私何か悪いことを言った?」
きっと、現実を突きつけられた気持ちが顔に出たのだろう。サヤカは少し心配そうな顔をしてくれた。
別に悪いことを言われたわけでもないし、少し落ち込んだのは私の勝手な事情でしかない。それに私が農家の娘なのは、生まれた時からついて回ってきたことだ。でも、最近若者の就職難が叫ばれているのだから、きっと志のあるイケメンが……やめよう、こんなことを考えると現実が辛くなるだけだ。志のあるイケメンが、どうして田舎で百姓をしたいと思うだろうか。
ただ、何時までも友達に心配を掛けるわけにはいかない。常々自分では魅力的だと思っている笑顔を作り、とりあえずサヤカを安心させることにした。
「サヤカにスタイルを褒められて、喜ぶべきかどうかを考えただけよ。
ほら私って、やっぱり農家の跡継ぎ娘でしょう?
床の間のお飾りって訳にはいかないのよ」
「最近、跡継ぎ不足が深刻だってテレビでも出てたわね。
やっぱり、ルイの所にもあてがないんだ?
ほら、良く言う豪農って、地元の名家って奴でしょう。
だったら、親の決めた許婚とか居るのかなぁって思ってたんだけど」
確かに、後継者不足がテレビの言う通りなのは認めよう。だがその前の私の話で、なぜ後継者不足に話が飛ぶのか理解できなかった。それに加えて、許婚の話が出るのは飛躍しすぎだろうと言いたかった。よりにもよって、「あてがない」と言われるのは心外だ。
ただ、心外ではあるが、事実であるのも間違いはなかった。町内をぐるっと見回しても、適当な男が見あたらないのだ。そこで希望を言うのなら、適当で済ませたくないとも思っていた。
「許婚、そんな物は居ないわよ。
もしも居たんだったら、サヤカの耳にも届いているはずよ。
うちの父さんなんて、
「贅沢は言わない。優柔不断そうな奴でも良いから捕まえてこい」
なんて言ってるぐらいだもの」
「ルイは見た目が良いから、それを餌にするのも良さそうね」
ああ、この元クラスメート様は、言いにくいことをずばりと言い切ってくれたわ。でも、それに文句を言うのは、うちの親に文句を言うのと同じになる。「せめて見た目は磨いておけ」と言うのは、元クラスメート様と同じ発想から来ているのは間違いないのだ。だが気になるのは、「せめて」と言う所だ。何かそう言われると、他には良いところがないように思えてしまう。いくら何でも、実の娘に向かってそれは無いと思う。
そうやってゆっくりと歩いていたら、時間も8時少し前になってくれた。これからクラス分けを確認して教室に行けば、多少はゆっくりとすることも出来るだろう。途中では、新入生向けに、色々なクラブが新入部員の勧誘もしてくれていた。そのお陰で、とても賑やかで華やかな雰囲気が作られていた。
そろそろ私の話も潮時だと思っていたのだが、元クラスメート様はまだ解放してくれないようだ。自転車を引いていないくせに、私に付いて自転車置き場の方へと行き先を向けてくれた。そして今まさに通り抜けた場所をネタに話を振ってくれた。
「で、ルイ、クラブ活動はどうするの?
紅山を選んだって事は、積極的にクラブ活動に勤しむつもりなんでしょう。
やっぱりそれって、出会いの機会を増やすためよね?」
「どうして、婿捜しの発想から離れてくれないの?」
確かに切実な問題なのは認めるが、私はまだ15の乙女なのだ。23、4で結婚することを考えたら、まだ7、8年は猶予があるはずだ。アンテナを高くすることは認めるが、そこまでがっついていないと主張したかった。
それでも分かっているのは、元クラスメート様は、私に対する興味半分、退屈しのぎが半分であることだ。だからどう答えたところで、絶対に面白い方向へと話を向けてくれるだろう。だから私は、元クラスメート様の期待からは、一番遠いだろう答えを返すことにした。
「私は、古典部に入ろうって思っているのよ」
「古典部……渋いところを選ぶって言ってあげたいんだけど……
そんな部、あったの?」
「あったのって……」
その指摘は、結構痛いところを突いていたりする。かつて存在していたのは知っているのだが、それが今現在も存続していると考えるのは甘いのかも知れない。去年は紅山高校文化祭、通称「クレナイ祭」に来てみたのだが、それらしい展示を見つけることができなかったのだ。
だから私は、無ければ作ればいいの思いで紅山高校に来ることにしたのだ。
「以前あったのだけは確かよ。
もしもなかったら、この私が再建してみせるわ」
「そりゃ、また、ご苦労様で……
つまりルイは、部活を通した婿捜しは諦めるのね」
だからどうして、すぐに婿捜しに戻ってくれるのだ。そこの所の考え方を、元クラスメート様にこんこんと説いてみたい気持ちになっていた。だがいくら説いたところで、「切実なんでしょう?」と言い返されるのが目に見えていた。ただ間違えないで欲しいのは、「切実」であっても、「切迫」はしていないと言うことなのだ。
ただ切迫してないと考えているのは、私だけなのかも知れない。現に家の両親などは、大学を出るまでが勝負だと言ってくれたのだ。大学を出てしまうと、めっきり出会いが減るというのがその理由らしい。それを考えると、7年と言うのは、「僅か」と考えても良いのかも知れない。
自転車置き場に自転車を置き、しっかりと鍵を掛けてから講堂へと向かうことにした。まず最初に講堂を目的地としたのは、その中に新入生のクラス分けが表示されているからだ。半分以上知らない顔なのだが、やはりクラスメートというのは一番最初に確認しておく相手に違いない。
自転車置き場から講堂に向かう途中にも、いくつかクラブ紹介の机が置かれていた。「文芸部」とか「料理部」とか、定番の文化系クラブの名前を見つけることができたのだが、残念ながら「古典部」のテーブルを見つけることはできなかった。「漫画研究会」とか「アニメ研究会」」とかが独立して存在できるのに、古典部が無いのは時代の流れなのだろうか。さもなければ、発展して文芸部に昇格したのだろうか。
そんなことを考えながら…ちなみに元クラスメート様は、部活紹介で引っかかりまくってくれたのだが…歩いて行けば、講堂にたどり着くのにはあまり時間は掛からなかった。私たちが着いたのが頃合いなのか、クラス分けの掲示には大勢の新入生が集っていた。全6クラス240名、その中から自分の名前を捜すのは結構大変だったりする。
240名も居れば、同姓同名があってもおかしくない。だから名前の横には、出身中学も書かれていた。後は捜しやすくするためだろうけど、五十音順でクラスごとに書かれているのも助かった。ただ私の名前自身珍しいので、捜すのには苦労しないと言う特典はあった。
「ええっと後藤田、後藤田っと……」
全部見るのは大変だなと思っていたら、なんと最初のクラスに私の名前があった。こう言う時だけは、変わった苗字でしかも比較的名簿の前にあるのは有り難かった。
自分の名前が見つかったので、後はクラスメートの確認をすればいい。他の中学に知り合いは居ないので、中学名を見て誰か居ないのを確認した。
「やっほールイ、同じクラスだったね」
その確認より早く、元クラスメート様……否、新クラスメート様が声を掛けてくれた。知っている顔が居るのは心強いが、また同じネタを引っ張られるのかと思うと気が重くなる。
それでも何とか気を取り直し、他に誰が居るのかを確認した。その結果、中学で同じクラスの経験があるのは、サヤカだけと言うことを理解した。人数的に綺麗にばらけているのは、高校側としての配慮なのだろうか。
クラス分けを見た後は、一度荷物を置きに新しい自分のクラスに行くことにした。個人用のロッカーがあると言う事なので、持ってきたサブバッグをそこに押し込むことにしたのだ。
クラスに行くと、人の集まりはこぢんまりとしたものになる。そこかしこで集団が出来ているのは、きっと同じ中学の出身者だろう。だとしたら、うちの中学の集まりはどこにあるのか。教室をぐるっと見て探そうとしたのだが、それよりも早く肩を叩かれてしまった。
「ルイ、あっち」
サヤカの指さす方を見たら、確かに何処かで見覚えのある顔が集まっていた。ただ問題は、「良かったねぇ」と手を取り合って喜べる相手が一人もいなかったことだ。だったら他のクラスに居るのかと聞かれれば、居ないとしか答えようのない寂しい女である。
サヤカに引っ張られて話の輪に加わった私は、その場の話題がクラブ活動であることに感謝した。そのあたり、クラブ活動が活発な紅山たる所以だろう。そこで私を含めて6人の女の子が、何をするのかお披露目することになった。
「私は、チアリーダー部」
これは、一度も同じクラスになった事がない、森山リョウカさんの希望だった。彼女がチアリーダーに適しているかどうかの論評は、この場では行わない事にしておこう。
「私は、軽音楽部」
これは梓川リツさんの希望、彼女とも一度も同じクラスになった事がなかった。強めに脱色した髪と、スレンダーな体型が、ステージ映えするのかなと考えた。
「私は、ソフトボール部」
これは畠山カヤさんの希望。うん、あなたはピッチャーかキャッチャーが似合っていると思う。
「私は、バレー部」
この集まりの中で、一番背の高い横山ミチさんの希望。確か彼女は、中学の時もバレー部だったっけ。
「私は、漫画研究会!」
そして元クラスメート様改め新クラスメート様である神沢サヤカさんの希望。確か彼女は、同人活動をしていたのだったっけ。
そして最後に私の番が回ってきた。有るかどうか分からない部だが、ここで怯んでいては相手につけ込まれる。一体私は、誰と勝負しているのだろうか……
「私は古典部に入るわ。もしもなければ私が作る!」
気合いは十分、後は野となれ山となれ。そこまで捨て鉢になるものではないのだが、それはこの場の勢いというものだ。だがこの私の決意は、どうやら上滑りをしてしまったらしい。チアリーダー部に入ると言った森山さんが、いともあっさり「有るわよ」と答えてくれたのだ。
「ええっ、まだ有ったんだっ!」
そう驚いた私に、全員が冷たい視線を向けてくれた。だけど、どうしてそこで「見た目だけじゃねぇ」と言う言葉に繋がるのか。新クラスメート様に、そのあたりを確認したかった。
だが話は、私の傷つく方向からは離れて進んでくれた。私の疑問に対して、森山さんがコピーで出来た小冊子を見せてくれた。あいうえお順で並べられた部活の中に、確かに古典部という名前が書かれていた。
「校門の所で、部活一覧が配られていたのよ。
ほら、旧校舎3階の地学準備室が部室として使われているわよ。
部長は……2年の四分儀シンイチさんだって……知ってる?」
「ううん、知らない!」
少なくとも、私の交友関係に四分儀さんなんて難しい名前の記憶はない。他の人も知らないと言っているのだから、きっと中学の先輩ではないのだろう。
その人への不安はあったが、ひとまず新しく古典部を再開する必要は無くなったのだ。この場は、それで良しとすることにしよう。そう自分に言い聞かせて、別の話に誘導することにした。ちなみに言わせて貰えば、私だって場の空気を読むことぐらいは出来る。だから今年の稲の生育状況はとか、葉物野菜の相場がどうかなんて口にしない。何しろ4月頭というのは、稲の生育状況を語るには早すぎたのだ。
求める古典部の存続が確認出来たのだから、次なる行動は古典部への入部である。特段募集期間は定められていないのだが、鉄は熱いうちに打ての言葉通り、私はすぐに行動を開始することにした。右手には入部届の入った白い封筒、そして左手にはぺっしゃんこのサブバッグがお供だった。
「ええっと、旧校舎の3階……地学準備室って……ずいぶんと奥地にあるんですね」
1年の校舎から見ると、真反対に旧校舎は位置していた。外から回ればそうではないのだろうけど、校舎内とたどっていくとまるで迷路のように思えてしまう。しかも“旧校舎”と言う名前に相応しく、とてもアンティークな建物と言うのが分かるのだ。薄暗い蛍光灯と合わせて、怪談の舞台と言ってもおかしくない趣だった。こんな所に、可憐な乙女が出入りして良いのだろうか。
そんなことを考えながら、地学教室の前を通り抜けた。その時に、人気(ひとけ)はあるのだなと少しほっとした気持ちになった。少し騒がしいのではと思ったが、中から楽しげな声が聞こえてきたのだ。そしてその声の中には、何人か女性も混じっているようだった。
「ここが地学教室ですから、地学準備室は隣と言う事ですね……」
扉の前に立ってみたが、中からは何も物音は聞こえてこなかった。静かに古典を楽しむ場だと勝手に解釈し、私は控えめに入口をノックした。誰が中で何をしているのか分からないのだから、入る時にノックをするのが礼儀という物なのだ。
礼儀正しく、そして控えめにノックをしたのだが、中からは何も答えは返ってこなかった。聞こえなかったのかと今度は少し強めにノックをしたのだが、やっぱり中からは何も答えは返ってこなかった。
「今日は、お休みなのでしょうか?」
文化系のクラブともなれば、毎日活発に活動ししている物ではないのだろう。しかも「古典研究」だったら、部室にいるより図書室に行った方が目的が達成できそうだ。そう勝手に解釈した私は、とりあえず部室を見ておこうと扉に手を掛けた。
古い見かけに関わらず、意外にスムーズに扉は開いてくれた。それでも中から反応がなかったので、「お邪魔します」と断って入ることにした。そこで初めて、中に人が居るのに気がついた。
「なぜジャージ」と言う疑問は、ここが古典部部室だと考えればおかしくないだろう。その人は、学校指定のジャージ、ちなみに臙脂色の服を着て机に突っ伏していた。昼下がりの時間帯、そして窓から入ってくる心地よい風、なるほどお昼寝をするには絶好の環境に違いない。外から聞こえてくる運動部の掛け声も、適度なBGMとなってくれるだろう。
私が入ってもぴくりとも動かないところを見ると、白河夜船のお休みモードなのだろう。それを考えると、私の都合で起こすのが憚られてしまう。かと言って、他で時間を潰すのもどうかと考えてしまった。後から来てみて、帰られてしまっては間抜けに思えたのだ。だから少し悪いとは思ったが、ここで先輩が目を覚ますのを待たせて貰うことにした。
待たせて貰うに当たって、まず最初にしたのが部室の探検だった。寝ている先輩を起こさないように注意をして、あまり広くない部室を見て回ることにした。それは、何かいけないことをしているようで、胸がどきどきする体験だった。
ただこの探検と言うには小さな冒険は、あまり大した成果は得られなかった。部室の中を捜してみたのだが、古典部の活動に関わる痕跡を発見できなかったのだ。ただ窓から見える山に抱かれた校庭の景色、そして吹き込んでくる風の心地よさ。本を読む環境としては、図書館よりずっと良さそうな場所だと言うのは理解できた。
「よほど疲れているんですね?」
なにをしてと言うのは分からないけれど、とても気持ちよさそうにしているのだけは理解できた。入口からは後頭部しか見えなかったが、窓側からは半分だけど寝顔を見ることが出来た。
「格好良いの……かなぁ」
見た目で人を判断してはいけないのだが、「古典部」と言うより、何処かの運動部の方が相応しく思えてしまった。もしもそうなら、私は盛大な勘違いをしていることにならないのだろうか。部長、もしくは古典部員だと思っていた相手が、全く縁もゆかりもない人だとしたらどうしよう。せっかく目を覚ましてくれても、ただ迷惑を掛けるだけになってしまわないか。
それを考えたら、日を改めた方が良いのではと思えてしまった。
「でも、まだ日は高いし……あと、少しぐらいなら」
持ってきた文庫の半分ぐらいなら、ここで読んで待っていても良いだろうと思った。少し大胆な気もするけれど、高校に入ったら少し冒険も必要なのだと自分を納得させた。ただこれが、大失敗の原因だった。
先に言い訳をさせて貰うと、興奮して前の日になかなか寝付けなかったのがいけなかったのだ。そこに来て眠気を誘う文庫本に、窓から入ってくる風がとても気持ちいいと言う条件が重なったのが更にいけない。そのうえ、聞こえてくる運動部の掛け声が、まるで子守歌のように聞こえていたのだ。
はい、言い訳はここまでで、正直に何が起きたのかを白状します。起きて待っているつもりが、いつの間にか眠りの国に誘われてしまったのです。眠りの国からの帰国理由は、王子様の口づけなどであるはずが無く、当然誰かにいたずらされたのでもありません。小さな物音に気がついた、そんな些細な物だったのです。
ただ、目が覚めたと言っても、頭の中はとてもぼんやりとした物でした。でも、その時掛けられた声に、頭の中は野焼き状態になってしまいました。
「やあ、目が覚めたようだね」
知らない男の人が、少し離れたところで私を見て笑っていました。そしてその隣で、少しだけ見覚えのある男の人がぶすっと不機嫌そうにしていました。見覚えの無い方の男の人は、とても楽しそうにしているのが印象的でした。
「しかし後藤田ルイさん、君はとても大胆な人だねぇ。
よりにもよって、シンイチと一緒にお昼寝をするだなんて」
「ええっと、別に、お昼寝をするつもりでここに来たわけでは……
ただ、文庫本を読んでお待ちするつもりでしたのが……つい、気持ちよくて……っ!
どうして、私の名前が分かったのですか!?」
すぐに気付くべきだったのだが、私は一度も名乗っていないのだ。それなのに、私の名前がしっかりと知られている。それだけ私が注目を集めた新入生……と言うことは考えられないので、もしかしたら持ち物調査をされたのかも知れない。
そんな不安が顔に出たのだろうか、見覚えの無い方の先輩は、笑いながら四角いテーブルの上を指さした。なんとそこには、私が持ってきた入部届が置かれていた。なるほど、その届の裏には私のクラスや名前がしっかりと書かれていたのだ。
「さて後藤田さん、これで君の疑問が解けたかな?
ああ、そう言えば自己紹介がまだだったね。
僕は2年C組の福島タカシ、それでこいつが2年B組の四分儀シンイチだ。
一応シンイチは、古典部部長などと言う物をしているよ」
「初めまして、1年A組の後藤田ルイです」
ちょっとした失敗はあったが、ここで取り戻しておくことが大切なのは間違いない。ただ気になったのは、先ほどから四分儀さんのご機嫌が優れないことだ。福島さんがとてもフレンドリーなのと比べると、その落差が大きすぎるのだ。もしかして、私は何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
とりあえずの問題として、入部が認められるかを確認しなくてはいけない。そしてもう一つ解決すべきは、四分儀がご機嫌麗しくない理由の確認だ。
「それで、私の入部届は受理されるのでしょうか?」
「そう言う事は、部長の仕事だね。
さあシンイチ、可愛い新一年生の入部希望だよ。
まさかとは思うけど、受け取りを拒否したりしないよね?」
可愛いって、もっと言って欲しいなと喜んでいたりした。ただこの場合の「可愛い」と言うのは、小さな物を褒めるときの「可愛い」なのだろう。一年生に掛かる修飾語だと思った方が無難に違いない。まあ、そのあたりを詮索するのは、自分が傷つくのでやめておくことにした。
ただ問題は、やっぱり四分儀さんのご機嫌が麗しくないことだ。やっぱり、何か怒らせるようなことをしてしまったのかな。
そんな私の不安を余所に、四分儀さんは福島さんををじろりと睨んでいた。だけど睨まれた福島さんは、我知らずと明後日の方向を向いてくれた。そのあたりの関係を見ると、この二人は仲が良いのだなと思えてしまう。そしてその不毛なやりとりの結果、四分儀さんは大きなため息を吐いてくれた。そして私が予想もしない言葉を掛けてくれた。
「いいのか?」
それで出た言葉がこれなのだ。でも「いいのか」なんて、いきなり言われても分かるはずがないと思う。
「ええっと、良いのかと申しましても……」
そのあたりが分からないと言うつもりで聞いたら、横から福田さんが割り込んできた。その顔を見ると、仕方なさそうな気持ちがありありとにじみ出ていた。
「シンイチが言いたいのは、本当に入部するのかって事だよ。
何しろ古典部は、今まで僕とシンイチの二人だけだったからね。
しかもこの僕は、文芸部と掛け持ち部員なんだよ。
と言う事で、君の入部自体はありがたいんだけど、
普段の部活が、シンイチと君の二人だけになる事が多いんだよ。
だから、それでも良いのかとシンイチは確認したんだ。
こんな事、ちゃんと口にしないと分からないよね、普通は。
まったく、相変わらず口べたって言うか、女の子が苦手なんだよね、シンイチは」
「ほっとけ!」
なるほど、不機嫌そうに見えたのは、女の子が苦手というのも理由にあるのか。それを納得していたら、福島さんから「それで?」と聞き返されてしまった。この「それで」も、「いいのか」に負けず劣らず分かりにくいと思う。
「ええっと、それでと言うのは古典部に入部するのかと言う事ですよね。
もともとそのつもり出来ましたし、無ければ作るつもりで入学しましたから……
宜しくお願いしますとしか言いようが無いのですけど」
「オッケー、これで入部は決まりだね。
ところで後藤田さん、少し立ち入ったことを聞かせて貰っても良いかな?」
「立ち入ったこと……ですか?」
入部理由だったら立ち入ったことではないと思うから、もっと個人的な事なのだろうか。例えば誰かと付き合っているのかとか、どっちが気に入ったのかとか、でも、そんなことを聞かれたら困ってしまう。
「ああ、君は無ければ古典部を作る覚悟で入学したと言っていたよね。
もしも良ければだけど、その理由を教えて貰えないかなって思ったんだけど?」
常識的に考えれば、いきなり恋人とかそんな話を聞いてくるはずがない。そう思うと、私はずいぶん恥ずかしい想像をしていたようだ。
なるほど、確かに私は「無ければ作るつもり」と言っている。だとしたら、福島さんの疑問も当然のことだろう。ただ当然だと思えても、今ここで口にして良いのかが分からない。「良ければ」と逃げ道を作ってくれたのだが、やっぱり答えに困ってしまう。
ただそこで困っていたら、どう言う訳か四分儀さんが助け船を出してくれた。それまでも怖いなと思っていたのだけど、それ以上の怖さで「タカシ」と声を上げてくれたのだ。たったそれだけのことで、福島さんはあっさりと質問を取り下げてくれた。
「分かったよシンイチ、個人的事情に踏み込まないのがルールだったね。
と言う事なので後藤田さん、ようこそ古典部へ、僕達は君の入部を歓迎するよ」
「ありがとうございます……でも……」
事ここに至っても、四分儀さんの顔には全く笑みらしき物も浮かんでいないのだ。新入部員、そしていきなりの昼寝の友としては、どうしてもそのあたりが気になってしまう。
私の視線で理由を察した福島さんは、「ああ」と言って頭を掻いてくれた。
「君が目を覚ます前にちょっとね……」
そう言って苦笑を浮かべた福島さんは、「シンイチは女の子が苦手なんだよ」と繰り返してくれた。
「そのシンイチが、女の子と仲良くお昼寝をしていたんだ。
しかもね、結構良い雰囲気に見えたりしたんだよ、これが。
からかうネタとして、これ以上のことはないと思わないかい」
「俺は、グランドを50周して疲れていただけだ。
こいつ……彼女が昼寝をしていたことには全く関与していない!」
「グラウンド50周って……宿題でも忘れたんですか?」
一周400mぐらい有るのだから、50周と言えば20km近く走ったことになる。それだったら疲れても仕方ないと思うけれど、運動部でもなければそこまで走らなくてはいけない理由が思い当たらなかった。だから何かのペナルティーだと思ったのだけど、なぜか福島さんのツボを突いてしまったようだ。福島さんは、笑いながら四分儀さんの肩を叩いて説明を続けてくれた。
「宿題を忘れたか……なるほど、確かにそう言う可能性もあったんだね。
後藤田さん、君はなかなか面白い着眼点をしているよ。
今回に限って言えば、当たらずとも遠からずってところかな?」
「タァカァシッ!」
黙っていろという意味なのだろう。四分儀さんは大声で福島さんの名前を呼んだ。それで喋りすぎたのを気付いたのだろう、福島さんは「いけない」と言って頭を掻いた。
「そう言うことだから、シンイチは君に怒っている訳じゃ無いよ。
それからもう一つ教えておくと、シンイチは女の子にも苦手にされているんだよ。
だから本当にごく一部の例外を除いて、彼の回りに女の子は居ないんだ。
と言う事で、男として極めて安全な存在だから安心して良いんだよ」
「悪かったな、嫌われていて……」
そうやってむくれているのを見ると、意外に可愛いいのかもと思ってしまった。ただ女の子に苦手にされているというのは、なぜか納得できてしまった。不機嫌そうなおじいさん達を見慣れた私でも、怖いなぁっと思ってしまったぐらいなのだ。
そしてその印象そのままのぶっきらぼうさで、四分儀さんは部活の説明をしてくれた。
「一応部活の説明をする。
特に決まった活動日・時間というものは無い。
放課後時間があれば、ここに来てやりたいことをやればいいだけだ。
鍵が開いていなければ、職員室に行って鍵を借りてくること。
部室と職員室の位置関係からいけば、職員室経由というのをお奨めする。
紅高祭には何も出していないので、特にこれと言った活動はない」
去年のクレナイ祭のパンフレットに、古典部の名前は出ていなかった。四分儀さんの説明は、その謎への回答ということだった。
「あのぉ、古典部には「不如帰(ホトトギス)」と言う文集があったと思うんですけど?」
福島さんは、「そうなの?」と驚いた顔をしてくれた。その反応をみる限り、福島さんは「不如帰」を知らないのだろう。ただ四分儀さんは、その存在を知っていたようだ。そして少し表情を険しくして、「3年前から休刊になっている」と答えてくれた。
「へぇ〜シンイチ、古典部ってそんな文集を作っていたんだね」
「別に、おかしな事じゃないだろう。
古典部の成果発表として、文集ぐらい作っても不思議じゃない」
「でも、シンイチは作らなかっただろう?」
どうしてと言う顔をした福島さんに、意味が無いからだと四分儀さんはぶっきらぼうに答えた。
「実質、俺一人の部活なんだぞ。
なにが嬉しくて、同人誌なんぞ出さなくちゃいけないんだ」
「じゃあ、今年は後藤田さんが増えたから作るんだね、不如帰」
「万が一、作る気になったらだな」
そう答えた四分儀さんは、「帰る」と行って立ち上がった。今頃気付くのも何だと思うけど、四分儀さんはジャージから制服に着替えていた。外で着替えたのでなければ、私が寝ている横で裸になったと言う事になる。その光景を想像すると、結構シュールで、それ以上に危ないような気がした。
「じゃあ、今日の古典部はお開きと言う事だね。
悪いけど後藤田さん、君も帰ってくれるかな?
今日の所は、僕達が戸締まりをしていくからね」
「済みません、お手数をお掛けします」
ごめんなさいと勢いよく頭を下げたせいだろう、後ろ髪が少しだけ元気よく跳ねてくれた。私としては、恥ずかしいことこの上ないのだが、それがおかしかったのか、ようやく四分儀さんの顔に笑みが浮かんでくれた。もっともその笑みにしても、よほど注意深くしていないと分からない物だった。
「いいよ、むしろ追い出してしまって悪かったね。
ところでシンイチ、明日からしばらく僕は忙しくなるからね。
何しろ掛け持ち先に総務委員会も増えてしまったんだよ。
そう言うことなので、後藤田さんを怖がらせないようにお願いするよ。
せっかく入ってくれた、古典部の新入部員なんだからね」
「別に、俺はいつもの通りにしているだけだ」
少し大きめのサブバッグを担いだ四分儀先輩は、鍵を持ってドアの所で待っていてくれた。「慌てなくても良いぞ」と声を掛けてくれるのだから、見た目ほどは怖くはないのだろう。
とりあえず、紅山高校に入学した目的の一つは達成できた。後は、誰にも教えていないもう一つの理由、その手がかりを捜せばいい。とても陽気な先輩と、ぶっきらぼうな先輩の二人は、その時私の事を助けてくれるのだろうか。きっと大丈夫と自分に言い聞かせ、並んで歩く先輩二人の後を私は付いていった。
***
翌日部室で、アサミは開口一番「何処かで読んだことがある内容です」と指摘した。そして返す刀で、自分の役が気に入らないと言ってのけた。ちなみにジャージ部の部員たちは、すでに助っ人として他の部活に出張していた。
そんなアサミの指摘に、有名どころのオマージュと映画研究会の梅津マコトは胸を張って答えた。
「あの名作、「古典部シリーズ」のオマージュよ。
その主役が出来るのって、やっぱり堀北さんぐらいしか居ないと思うのよ。
それに、相手役のシンイチ君は碇君がやってくれるんだから良いでしょう?」
「先輩が相手役じゃなければ、はっきり断っていますよ。
それでも、エルちゃんのオマージュなら、もう少しやり方があると思いますよ。
少なくとも彼女は、婿捜しのために神山高校に入っていません」
「そうは言うけど、最初の個人的事情を解決した後は違うでしょう。
しっかり奉太郎君の能力評定をして、せっせと外堀を埋めて行っているじゃない。
今の状況って、家族に紹介したらチェックメイトって所でしょう?」
的確なマコトの分析に、アサミは反論の言葉を失ってしまった。小説はまだしも、アニメの方はしっかりエルが盛っているように描かれていたのだ。その描写があるだけに、小説の方もバイアスの掛かった見方をしてしまう。しかも原作者が遅筆で有名な作家と言うのも都合が悪かった。連載開始から10年以上経つのに、ようやく1年生を終えたというのはどう考えたらいいのか。このまま二人の行方を見守っていたら、20年あっても足りないのかも知れなかった。そのせいで、二人の将来はいかようにも妄想できてしまうのだ。
ただアサミの感想は、マコトと全く別なものだった。今のままでは、絶対に二人は結ばれないだろうと思っていたのだ。
そしてもう一つアサミが気になったのは、最後に書かれていた配役だった。なぜか映画研究会に関係のない、鷹栖フユミの名前がそこにあったのだ。
「それで、どうして鷹栖さんが出演するんですか?」
「シンイチ君が苦手としている女性の一人として登場して貰うのよ。
篠山さん経由でお願いしたら、快く承諾してくれたわよ」
きっと笑顔が引きつっていたのだろうな。快くの状況が見えるだけに、策士だなとアサミはマコトのことを見た。シンジを味方にすれば、自分が断らないことも見透かされていたのだ。それを考えれば、「ジャージ部5、高知の奇跡」などとぶち上げたのも巧妙な作戦なのかもしれない。中身だけ考えれば、こっちの方が遙かにまともな物語に見えてしまうのだ。
色々なところでオマージュが目に付くが、現実的には確かにまともなお話には違いない。自分の役回りが気に入らないところはあるけれど、かと言ってこの役をキョウカに譲るわけにもいかなかった。たとえお話の中だとしても、シンジと恋を育むのは自分で無ければとアサミは強く思っていたのだ。
「古典部という場で活動で、少しずつお互いのことを理解していく。
そして少しずつ距離が近づいていき、いつかお互いのことを意識し始める。
ただの先輩後輩の関係から恋人と言う関係の一歩手前のもどかしい状況を描き出すのよ。
もどかしくて、それで居て背中を掻きたくなるような映像美を作り出そうと思っているの。
そのためには、堀北さんと碇君が主演でなければならないのよ!」
「すごぉ〜く難しい事を言っていますけど。
大丈夫ですか?
去年みたいに、滑ったりしませんよね?」
「そう、去年のはとっても評判が良かったわよ」
あれが評判を呼んだのは、配役とインパクトがほとんど全てだとアサミは思っていた。それを自慢げに言われたので、今年も似たレベルだとアサミは諦めた。まあ高校のクラブ活動だと思えば、あまり要求するのも良くないのだろう。割り切ることも必要だと、アサミは諦めることにした。
「でも、これっていつまで続けるんですか?
1年分を描くだけでも、結構な時間が必要になりますよね?」
「ほら、そのあたりは責任の無い素人って事で」
つまり、最後まで作るつもりは全く無いというのだ。この面子で映画を作る事の影響度を全く理解していない発言に違いなかった。ただ、それを指摘しても無駄だと割り切った。
「あと不如帰なんですけど、良いんですか、ここまでどろどろとした設定を作っちゃって」
「う〜ん、原作のだじゃれよりも良いんじゃないのかなぁ。
それにあっちだって、結構きついお話しになっているでしょう?」
「まあ、クレナイ祭に「鳴いて血を吐くホトトギス」を掛けるのと。
ルイの出生の秘密に、「託卵」を掛けるのは感心しましたけどね」
「そのあたりは、映画研究会の知恵を絞ったところと理解してちょうだい!」
えっへんと胸を張ったマコトは、もう一つ新しい試みがあるのを説明した。
「ダイジェスト版を、動画サイトに上げようと思っているのよ。
それで宣伝すれば、きっとお客さんも増えるだろうって」
「まあ、ここまで協力したんだから、それぐらいは許しますけどね。
でも、本気で英語のキャプションを入れるんですか?」
「碇君が、その方が良いって言ってくれたのよ。
それに、キャプションのデータは作ってくれるって言ってくれたし……
これって、ジャージ部の海外合宿が理由になっているの?」
あちらでの歓迎ぶりを見れば、新作映像を見せてあげたいという気持ちも理解は出来る。まあ商業映画ではないのだから、目くじらを立てることもないのだろう。それを割り切ったアサミは、自分に求められるもう一つの役割のことを問題とした。何本も映画に出たプロなのだから、そのプロの目線でアドバイスが欲しいと頼まれたのだ。
「カメラワークとかは、相談しながら決めればいいと思います。
それから、必要な風景の映像データは揃っているんですよね?」
「そのあたりは、映画研究会が蓄積したデータを使うわ。
人口が少ないお陰で、背景映像を撮るのって結構簡単なのよ」
うんと小さく頷いたアサミは、次にSEの事を問題とした。
「出来るだけ邪魔にならない音楽を選んだ方が良いですね。
アニメに倣って、バッハのアリアでも良いと思いますよ。
そのあたりは、碇先輩に相談してみたらどうですか?」
「個人的に碇君に相談しても良いのかしら?」
「私と勝負するつもりがあるのだったらどうぞ」
はなから勝負にならないと決めつけてくれたのだが、それが悲しくなるほど現実を表しているのだからしょうがない。羨ましいなぁと口にしたマコトは、大人しくSEの相談だけすることにした。
「堀北さんと勝負なんて、無謀な真似はしないわ……」
「私だって、先輩のことは勝ち取ったんですからね!」
えっへんと胸を張ったアサミに、普通とは逆の主張だとマコトは苦笑した。元トップアイドル様と一般の学生、競争を勝ち抜くのは一般学生の方でなければおかしかった。
「でも、今の碇君を見てたらそう言うのも分かるわ。
去年のうちに唾をつけておけばって、きっと大勢悔しがっていると思うわよ」
「でも、結果は変わっていないと思いますよ」
たとえ相手が居ても奪い取ると宣言してくれたのだ。それだけの自信があるというのも凄いし、取っちゃうんだろうなと思わせるところがまた凄かった。
「まっ、そのことは私には関係ないからいいや。
で、シーンの確認をしてきたいけど良いかしら?」
「私が出る以上、納得のいく物を作りたいですからね。
先輩が音を上げても、私は許しませんからね」
「ははは、お手柔らかに」
そう言いながら、お手柔らかには行かないだろうとマコトは思っていた。そして今回に関して言えば、絶対に凄いのを撮らないといけないと思っていた。それだけの俳優が集まったのだし、準備の方も昨年以上に手を掛けている。これで良い映画が撮れなければ、監督失格だと思っていたのだ。
ただそこで残念なことがあるとすれば、発表の場が学園祭だけと言う事だろうか。学生のイベントだと考えれば、それは贅沢な悩みだと言えたのかも知れないが。
S高映画研究会自主製作映画「不如帰」の撮影は、残った夏休みを使って集中的に行われた。シリーズ化出来ないくせにシリーズと銘打ち、30分と言う、自主にしては十分長い映画を作ることにした。
主役をアサミにしたことで、映画の成功は約束されていたのかも知れない。監督梅津マコトと主演女優兼演出家堀北アサミの二人三脚で、撮影は順調に進められた。二人が大いにのめり込んだことで、総撮影時間が30時間を超える力作となったのである。
「あ、アサミちゃん、燃えているわね」
「梅津さんが火を付けてしまったようですね。
僕なんか、俳優以外にも背景音楽も作らされましたよ。
まあ、弦楽部が協力的でしたから、なかなか良いものができたと思いますけどね」
「う〜ん、そう言う意味では、美術部もとても協力的だったわね……
まあ、どっちも碇君に頼まれたら嫌って言わないって言うか、喜んで協力してくれるわね。
でもさぁ、こんなに沢山撮っちゃって、編集が大変じゃないのかなぁ?」
昨年比で、3倍以上撮影時間を掛けている。それを30分の映像に纏めるのだから、編集作業も大変なものになる。それを心配したマドカに、「巻き込まれました」とシンジは苦笑を返した。
「キャプションを入れるためにも必要だろうって言われましたよ。
なにか、動画サイト用に15秒と30秒バージョンの宣伝動画も作るみたいです」
「そんなもの、動画サイトに上げて大丈夫?
ヘタしたら、今年のS高祭が収拾のつかないものになるわよ。
アサミちゃんの出演映画が見られるってことになったら、ファンが殺到するんじゃないかしら?」
はあっと息を吐きだし、「面白いのはいいけど」とマドカらしからぬ言葉を口にしてくれた。ちなみにこの会話は、碇家リビングで交わされたものである。マドカが少しだけ早く家を出たため、他のメンバーが集まるまでの時間つぶしで行われたものだった。
「ところで、マコトちゃんも来るって聞いたけど?」
「編集会議は勉強会の後でやろうってことにしたみたいですよ。
しかし、どうして3年が集まってくるんですかね……
2年生に、3年生が勉強で頼らないで欲しいんですが」
「ははは、なんでだろうねぇ」
頼っている最右翼が、目の前に居るマドカなのである。だから「どうして」と聞かれても、正直に答えにくい事情があったのだ。
そんなことを話していたら、妹のレイとアサミが連れ立って帰ってきた。勉強会用のお菓子が切れていたので、二人で買い出しに出ていたのである。
「そろそろ、篠山と鳴沢先輩が着く頃だな……」
時計を見れば、集合時間まで10分残っていた。ただこれまでの実績で、二人とも十分に余裕を持ってくるのが分かっていた。
そしてシンジがそろそろと思った丁度その時、碇家のチャイムが鳴った。普通ならレイが出るところなのだが、なぜかアサミが立ち上がってインターフォンの受話器を取り上げた。
「これって、レイちゃん公認ってこと?」
「いえ、妹の場合単なるずぼらなだけです」
どうも、今の呼び出しはナル達ではなかったようだ。受話器を置いたアサミは、ごく自然な態度で引き出しからはんこを持って、玄関に出ていった。どうやら、何かのお届け物が配達されてきたらしい。
「アサミちゃん、しっかり居場所を作っちゃったみたいね」
「いつ、姉さんって呼ぼうか考えています」
「僕たちは、まだ高校生なんだけどなぁ……」
かと言って、今の状況を見ればそう言われるのも理解できる。そうは言っても、アサミから仕事を取り上げるのもどこか違うと思えるのだ。結局、妹がなにもしないのが一番の問題だと気がついた。
ただ、この問題は下手な口出しができないことだった。なぜしないのだと文句を言おうものなら、きっとアサミのことで色々と言われることだろう。
そんなことを考えていたら、アサミがお届け物を持って戻ってきた。最初にシンジの顔を見たアサミは、「後藤さんからですよ」と小さな小包を差し出した。
「荷札には、お菓子って書いてありますね?」
「今頃、お菓子を送ってくる理由なんて有ったっけ?」
それでも差出人が確かなら、危ない物は入っていないだろう。ばりばりと外側の包装を破ったら、中から「残暑見舞い」とのしの付いた箱が現れた。
「理由って、残暑見舞いなんじゃないの?」
「たとえそうだとしても、どうして後藤さんが送ってくるんでしょう?」
「アメリカとモロッコで、散々先輩のことを利用したからじゃないですか?」
お菓子を送ってくる理由とすれば、アサミの意見が一番正解に近いのかも知れない。まあ、これぐらい貰っても罰が当たらないぐらいの仕事をしているのだから、遠慮無く貰っておくことにした。
「これで、勉強会のお菓子に不自由しなくなりましたね」
「キョウカちゃんに、おいしいお菓子が食べたいって囁いてみたら?
きっと、篠山さんのご両親が、四方に手を尽くしてお菓子を探してくれるわよ。
そうしたら、これからお菓子を買う必要も無くなりそうね」
何しろ行列で有名なお店のお菓子がお持たせになったこともあるぐらいだ。それを考えれば、その程度の努力があってもおかしくはない。そもそも家庭教師を首にし、ロハで勉強を教えて貰っているのだ。むしろ感謝の気持ちが示されるのが当然とも言えただろう。
もっともキョウカの場合、家庭教師の持つ意味は勉強だけは無かった。首にすることに異存は無いが、だったら最後まで責任を取れと篠山家当主は主張したいところだろう。
「でもさぁ、キョウカちゃんも相手が悪かったわよね。
もしも競争相手がアサミちゃんで無ければ、思いが叶う可能性も高かったのにね」
「それは、否定しませんよ。
ただ、たら、れば、を言えばきりがありませんよね?
それを言ったら、遠野先輩が、先輩の告白を勘違いしなければと言う話も出てきますよね?」
キッチンから冷えた麦茶と買ってきたお菓子を持って現れたアサミは、そう言ってシンジの隣に腰を下ろした。結局荷物の受け取りからお菓子の準備、すべてをアサミがやっていた。シンジは良いとして、碇家を支えるレイが任せっきりにするのはどうかと言う所だろう。
仮定の話を持ち出したマドカに、アサミはこれ以上ないちょっかいの言葉を掛けた。それだどれだけ効果的かと言うと、瞬時にマドカの顔が真っ赤になったのを見れば分かるだろう。
「へぇ、お兄ちゃん遠野先輩に告白したんだぁ」
「ああ、見事討ち死にしたけどね。
だから、先輩と付き合ってるって言われるとぐさぐさと来る物があったんだよ」
顔を真っ赤にして、「あわわ」と意味不明なことをマドカは口にしていた。そんなマドカを前に、「振られて良かった」とアサミは言った。
「さすがに、遠野先輩相手では私も厳しいかなって。
だから遠野先輩が真に受けなくて、私としては良かったと言うところですね」
「まあ、それも、たら、ればの世界に違いなんだけどね……」
そう言って笑ったシンジは、オーディオボードの時計へと視線を向けた。遅刻をしない限り、そろそろ三人が顔を出してもおかしくない時間になっていたのだ。
「遅刻したら、しっかり嫌みを言ってやろうか?」
「鳴沢先輩はまだしも、キョウカさんは遅刻しないと思いますよ。
ほら、呼ぶより何とかって、やっぱり確かですね」
その言葉通り、碇家玄関のチャイムが鳴らされた。「はあい」と言っても聞こえないはずなのだが、そう言ってアサミは玄関へと小走りに駆けていった。
「先輩、そろそろ落ち着いた方が良いですよ」
マドカはと言うと、相変わらず顔を赤くしてあうあうと喘いでくれていた。さすがにそれを見られると、一体何があったのかと思われるだろう。ナルあたりに、格好のネタを与えることになるのかも知れなかった。
「だ、だったら、あの話を蒸し返さないでよ!」
「そんなこと僕に言われても……
蒸し返したのは、アサミちゃんですからね」
「だ、だったら、碇君にも責任があるでしょう!」
一体それはどんな理論なのか。論理の飛躍は、それだけマドカが冷静ではない証拠だろう。
ただ、その話はそれ以上の発展に及ぶことはなかった。「ごめんごめん」と言いながら、ナルが居間に現れてくれたのだ。そしてその後ろから、映画研究会会長の梅津マコトとキョウカが現れた。これでジャージ部プラス1の勉強会メンバーが揃ったことになる。
「じゃあ、まず全員の課題の進捗を確認するところから始めましょうか」
自宅学習を含め、どこまで課題が進捗しているのか。それを確認することで、今日一日の予定を決める。それがこの勉強会を始める儀式のような物、別名「サボり糾弾会」となっていたのだ。
「じゃあ遠野先輩、努力の跡を見せて貰いましょうか?」
「お店の手伝いをしていたから、あまり進んでいないんだけど……」
なぜいつも一番最初なのか。内心文句を言いながら、マドカはお勉強ノートをシンジに差し出した。それを口に出さないところは、問題児と言う自覚があるからだろうか。
その言い訳を綺麗さっぱり無視し、シンジは鋭い眼差しでマドカの自宅学習の結果をチェックした。心の中では、「言い訳なんて必要ないのに」と思っていたりした。
「じゃあ次に鳴沢先輩」
「ち、ちょっと、昨日は疲れていたって言うか……」
はははと頭を掻いたナルに、シンジは一瞬厳しい視線を向けた。その視線に慌てて座り直したナルは、「ごめんなさい」とシンジに謝った。
「別に、僕には謝られる理由なんて有りませんよ。
もしも謝るんだったら、未来の自分に謝ってくださいね。
結局、全部自分に返ってくるんですからね。
と言うことで、篠山、ちゃんと進んでいるか?」
キョウカに対しては、実はシンジはあまり心配していなかった。ちょうど勉強が面白くなってきたこともあり、本当に真面目に勉強しているのが分かるのだ。
そしてシンジが考えたとおり、「見てくれ」と言ってキョウカは自信ありげにノートを差し出した。相変わらず字は汚いのだが、努力の跡がそこからは見て取ることが出来た。
「篠山は、ちゃんと勉強しているようだな」
「ああ、父様、母様も褒めてくださった。
母様など、お礼に先輩をお食事に誘ったらと言っていたぞ」
お礼を言われるだけのことをしている自覚はあるが、だからと言ってそのお礼を受け取るのかは全く別物だった。君子危うきに近寄らず、篠山家に足を踏み入れるのは、よほどの事情がない限り遠慮する。それがシンジの取っている基本スタンスだった。
「ところで碇君、アサミちゃんは確認しないの?」
控えめに聞いてきたマドカに、「どうしてですか?」とシンジは聞き返した。
「だって、アサミちゃんも勉強会のメンバーでしょう?」
「アサミちゃんと先輩達じゃ立場が違うでしょう?
アサミちゃんは、別に勉強会をしなくても勉強できるんですよ。
進捗管理を受けているのは、先輩二人と篠山だけなんです……ええと、妹も居ましたね」
「どうして、そこで私まで仲間に入れるの?」
心外だと憤ったレイだったが、示された事実の前にあっさりと降参した。
「僕が帰ってきたとき、全く宿題に手が付けられていなかったよね?
毎日、乾さんと遊び回っていたと聞いているんだけど?」
「こ、後半に頑張ろうと思ったのよ……」
「後半って、最終日のこと?
その程度で片付く量じゃないと思うよ。
教えて欲しいといったのは、レイの方じゃなかったかな?」
そう言って妹を黙らせたシンジは、無駄話はここまでと言って勉強に入ることを全員に告げた。これからお昼ご飯を挟んで、夕方4時まで勉強をすることになる。夏休みの宿題、そして学校から出された課題。その程度で手こずっていては、S大合格など期待できない。先輩二人の弱点を分析したシンジは、その克服に夏休みを充てる計画を立てていた。
***
私の前には、四分儀先輩と福島先輩が座っている。二人共、普段にない真面目な顔なのは、これからする話が理由になっているのだろう。もっとも、四分儀先輩に限って言えば、普段とあまり変わっていないという気もしていたのだが。
「本人から確認が取れない以上、これから俺が口にするのはあくまで仮説でしか無い。
だが、さほど的はずれなことを言っていないと思っている」
いいかと、四分儀先輩は私の目を見て同意を求めてきた。たぶん、私にとって辛い話がいくつか含まれているからだろう。
だがそれは、私がお願いした結果に過ぎない。それが分からなければ、あの日私が泣いた理由がわからないのだ。行方不明になったおじさんのためにも、私は四分儀先輩の話を聞かなければならないと思っていた。
「はい、お願いします……」
「そうか……」
短く答えた四分儀先輩は、少し目を閉じて黙ってしまった。それが何を意味しているのか、まだ私には理解することができなかった。
だが、そんな沈黙は長く続かなかった。ふっと小さく息を吐きだした四分儀先輩は、「不如帰と言う名前だが」と言って説明を始めてくれた。
「この名前自体は、後藤田のおじさんが紅高に入る前からあった名前だ。
もともとは、正岡子規の「ホトトギス」を真似て作られたものというのが正しいだろう。
ちょっと粋がった高校生が、本家を超えてやると言う意気込みで作ったのだろうな。
ただ、不如帰と言う古典部の文集自体は1970年に休刊になっていた」
「なぜ、ですか?」
古典部という部活自体は、多少の紆余曲折があったとしても、現在まで生き残っている。その部活の集大成が文集発行だと考えれば、休刊になるのにはそれなりの理由が必要なはずだ。やっぱり、今のように部員が少なくなってしまった。そう考えるべきなのだろうか。
「やっぱり、部員が居なくなったからですか?」
「いや、当時の古典部部員は10名程度居たという記録が残っている。
おそらく理由は、当時の部長が村上クレナイだったことだろう。
この名前に、何か心当たりはないか?」
「村上クレナイ……さんですか?」
歴代の部長さんの名前を出されても、心当たりと言われても困ってしまう。ただ福島先輩には、何か思い当たるフシがあったようだ。ぽんと手を叩かれ、「そういう事か」と小さく呟いた。
「1970年と言うのは、紅高の歴史上一番多くの退学者を出した年だね。
村上クレナイと言う人は、その退学者の一人だったということか?」
「なぜ、その年に多くの退学者が出たのか分かるか?」
記録に残るぐらい大勢の退学者を出した以上、そこに何らかの理由が必要となる。だが、その理由となると、おいそれと考えつくものではないだろう。
それでも、答えらしきものを出したというのは、それだけ福島先輩も賢いということだろうか。
「確か、1960年代は学生運動が華やかな頃だったね。
それと結びつけるのが、一番もっともらしい説明になるのかな?」
「ああ、着眼点として間違っていないと思う。
ただ着目すべき点は、1970年だけ退学者数が突出しているということだ。
つまり、この年に紅高の生徒たちが先鋭化する理由があったことになる。
そこでもう一度質問をする、村上クレナイ、その名前で思いつくことはないか?」
そうやって聞き直されると言う事は、退学と言うのは一要素であって、四分儀さんが一番聞きたい答えではないということになる。だが再度の質問に、福島先輩も答えを見つけることができないようだ。その証拠に、少し困ったような顔をして私のことを見てくれた。
私達二人が答えに詰まったのを確認して、四分儀先輩は「不如帰」のバックナンバーを開いてくれた。それは、文集「不如帰」の巻頭の言葉。私のおじ、山守キヨシの書いたページだった。
「ほら、ここに「英雄と言うのは、本人の望むものではない。そして村上クレナイは英雄ではない」
と書かれているだろう。
そしてもう一箇所、「15年前の部長、村上クレナイに捧げる」とも書かれている。
そこでもう一つ、紅高祭がクレナイ祭と呼ばれるようになったのは1970年からという事実がある」
「それまで、クレナイ祭と言われていなかったんですかっ!」
驚いた私に、四分儀先輩は小さく頷いてくれた。
「一部では、クレナイ祭と言っていた人たちも居たそうだ。
ただ、一般的には紅高祭で通っていたと言う話を聞いている」
「つまり、紅高祭をクレナイ祭と呼ぶのは、村上クレナイさんを称えるためということなんだね。
ただおおっぴらにそれを言うわけにもいかず、以前から一部で使われていた名前を広めることにした。
その時の生徒たちは、村上先輩の英雄的行為に感謝していたと言うことか」
「タカシ、残念ながらそれは表層的な見方でしか無い。
もう一度、俺が示したページに書いてあることを見てみろ」
四分儀先輩の言葉で、私と福島先輩はもう一度不如帰の巻頭言を読んだ。だが、ここを読んでも「英雄」としか書かれていない。それを本人が望まなかったとしても、英雄的行動をとったのは間違い無いだろう。
だから私も福島先輩も、四分儀先輩の言うことが理解できなかった。
「すみません、やっぱり私には分かりません」
「そもそも古典部なんて部活の部長が、民衆の扇動なんかすると思うか?
「村上クレナイは英雄ではない」と言うのが、その答えに繋がるってことだ。
村上クレナイは、単に周りから祭り上げられただけなんだよ」
「だとしたら、その年に何があったのでしょうか?
どうして、古典部部長の名前が紅高祭に付けられたのでしょう?」
何か生徒たちが蜂起する理由、それがなければ今の話の説明とならない。その疑問を口にした私には、四分儀先輩は別の証拠を持ちだしてくれた。
「みんなで、紅高史を確認したと思う。
その中で、1970年だけにあったイベントを覚えているか?」
「確かシンイチが指摘した、学園祭に関する全校会議と言うのがあったね?」
「当時の紅高祭は、月曜に始まり日曜で終わる長い学園祭だった。
その10年後、1980年に紅高祭は水から始まる5日間のお祭りとなった。
そして1985年には、金から始まる3日間の祭りとなったんだよ。
つまり学校側として、1週間も学園祭で潰すのは宜しくないという考えがあったということだ」
「その年に、学園祭の短縮が学校側から打ち出されたと言うことですね……」
「確かに、中途半端な自治思想に染まっていれば、騒ぎの一つも起きて不思議はないね」
「その犠牲が、村上クレナイと言う部長さんだったんですね?」
私たちの居る紅高にとって、それは闇に葬られるべき歴史の一つに違いないだろう。ただ、どうして私のおじは再開した文集に「不如帰」と言う名前をつけたのだろうか。
「四分儀先輩、紅高祭がクレナイ祭りと言われる理由はわかりました。
でも、なぜおじは不如帰の名前を復活させたのでしょう。
そして小さな私は、なぜ泣いたのでしょうか?」
「後藤田、「鳴いて血を吐くホトトギス」と言う言葉を知っているか?」
「鳴いて血を吐くホトトギス……ですか?
確か、中国の故事が由来だったような……」
「ああ、蜀の望帝杜宇にちなんだ話だ。
望帝杜宇は死後魂はホトトギスになり、春を告げるために鳴くと言われたんだ。
だが彼の国蜀が滅んだことで、「帰る国がなくなった」と口から血を吐いて泣いたと言われている。
ホトトギスのくちばしが赤いことから、こんな話が作られたのだろうな。
お前のおじさんは、村上クレナイが犠牲になったにもかかわらず、
結果的に彼らの求めた紅高祭は無くなってしまった。
それを主張するため、復活させた文集に「不如帰」と付けたのだろう」
この「不如帰」と言う名前の文集には、そんな思いが込められていたのか。それでも、私が泣いた理由にはたどり着いていない。
「だとしても、どうして私は泣いたのでしょうか?」
その質問をした時、普段から難しい顔をしている四分儀先輩の顔が、更に難しくなった気がした。ただ私には、それが答えがわからないのが理由だとは思えなかった。
だが四分儀先輩は、何かを迷っているのか、それ以上説明を続けてくれなかった。
「四分儀先輩?」
「シンイチ、僕は席を外したほうがいいかい?」
何かに気づいたのか、福島先輩はいなくなることを提案した。きっと、私の個人的問題に関わると考えたのだろう。
「ここまでは、罪のない学生の謎解きの範疇だと思っている。
だけど、これ以上は他人のプライバシーを暴くことになる。
それを、俺が口にしていいのか分からないんだ」
おじさんのことを聞いたのだから、そのプライバシーはおじさん、もしくは私のと言うことになる。直接の当事者である私はいざ知らず、全く関係のない福島先輩が気を利かすのも無理もないのだろう。
ただ私が分からなかったことは、なぜ四分儀先輩が福島先輩に言わなかったのかということだ。二人の関係なら、それぐらいのことを言ってもおかしくないはずだ。それを考えると、四分儀先輩が説明を躊躇うのは、私も理由になると言うことだろうか。
「私にも聞かせられないということですか?」
「ああ、事実と言うのはむしろ残酷なものだからな。
覚えていないのなら、そのまま思い出さないほうが幸せなことがある。
それを暴き出す権利が、俺にあるとはとても思えないんだ」
「でも、このままでは、私はっ、おじのことでずっと悩み続けることになります。
あの時おじは、一体何を私に伝えてくれたのか、何を伝えようとしてくれたのか知りたいんです!
聞かない方が幸せだなんて、他人の先輩に決めて欲しくはありません!」
随分酷いことを言ったと言う自覚はある。そもそも四分儀先輩には、私の我儘に答える必要はなかったのだ。それなのに、わざわざ時間を割いてまでおじのことを調べてくれた。私がぶつけた言葉は、そんな恩人に向けていいものではないはずだ。
ただその時の私は、そんなことも冷静に考えられる余裕はなかった。なぜ分かっているのなら教えてくれないのか、その理不尽さへの怒りだけに心が染め上げられていた。
そんな失礼な私の言葉に、四分儀先輩は何も言い返して来なかった。そして私を宥めようとした福島先輩に対して、「いいんだ」と止めてくれた。
「俺自身、本当に説明していいのかどうか分からなかった。
後藤田、これから俺は確認した事実しか口にしない。
そしてなぜお前のおじさんが強い言葉をぶつけてきたのか。
そのことに対する決めつけもしないつもりだ。
俺が今言えるのはそれだけだが、それで許してもらえるか?」
「ええ、それでも結構ですっ!」
きっと、その時の私は可愛くない顔をしていただろう。だが四分儀先輩は、それを気にした素振りも見せなかった。
「色々と調べさせてもらったが、まず、お前のおじさん、山守キヨシ氏は離婚をしている。
離婚条件として、子供の親権は奥さんの江坂フミコさんに帰属している。
まあ、その事自体は、ごく一般的な条件だと言うことができるだろう。
ただ世間一般と違っていたのは、慰謝料、養育費が支払われていないことだ。
山守氏に一定の収入があったことを考えれば、これは普通とは違った条件となる」
四分儀先輩は、いきなりおじの家族関係の話をしてくれた。おじが離婚したのは知っていたが、それが何の関係があるのか私には理解できなかった。
だけど福島先輩は、四分儀先輩の説明にピンとくるものが有ったのだろう。もしかしてと言って、自分の考えを口にしてくれた。
「シンイチ、その事実から、ひとつの仮説が浮かび上がってくるね。
山守氏と江坂さんの離婚の理由は、江坂さんの方に責任があったということだね。
だから、慰謝料や養育費が支払われていない。
そして考えられる責任として、不倫と言うものが考えられる。
でも、どうしてそんな話がいきなり浮かび上がってくるのかな?
そしてもう一つ、後藤田さんの話との結びつきが説明できないと思わないか?
子供の後藤田さんは、不如帰のことを質問したんだよね?」
「タカシ、不如帰の習性に「托卵」と言うものがあるのを知っているか?」
「ああ、知っているとも……」
そう答えた福島先輩は、すぐに「そう言うことか」と口元に手を当てました。
「不倫の時点が問題だと言うことか。
つまり、二人の子供だと信じていた子供が、実は自分の血を引いていなかった事に気づいてしまった。
だけど、例えそうだとしても後藤田さんに関係することは……」
「それが、関係していたと言うことだ」
そこまで説明されれば、先輩が何を言いたかったのか理解することが出来る。そして強い言葉をぶつけられたのが私だとすれば、その理由も想像がつこうというものだ。
「お父様が不倫相手だった……と言うことですか?」
「こちらについては、確かな証拠と言うものは存在しない。
ただ聞き取りをした範囲で、そう言った噂が飛び交っていたのは確かだ。
自分の子供だと思って育ててきた子が、実は自分の子供ではなかった。
それに気づいた時、山守氏は一体どんな気持ちだったのだろうな」
「だから……」
その時突然、フラッシュバックのようにその時のことが頭の中に浮かんできた。確かに私は、おじさんに言われていたのだ。「親というのは、自分の子供だから愛せるのだ」と。「だから俺は、マスミのことを愛せなくなった。それどころか、今は殺したいほど憎んでいる。いや、俺自身を殺してしまいたい」と。その時の私は、「殺す」と言う強い言葉に泣いてしまったのだ。
「思い出しました、思い出しました。
おじさんは、マスミさん、おじさんのお子さんのことを愛せなくなったと言っていました。
それどころか、殺したいほど憎んでいると……
自分自身も殺してしまいたいと仰ってました。
殺したいという強い言葉に、私は怖くなって、それで泣いてしまったんです」
おじさんは被害者だったのだ。全ては、私の父が起こした問題。だから子供の私に対して、おじさんはひどい言葉をぶつけたのだろう。
「それから後藤田、言っておくがお前の父親を責めては駄目だぞ。
少なくとも、このことはお前の父親がお前の母親と結婚する前の出来事だからな。
他にも複雑な事情があったようだが、さすがに全てを調べ尽くすことはできなかった。
だから、断片的な事実だけで親を責めるのはやめてくれ。
そうでないと、俺はお前に話したことを一生後悔しなくてはいけなくなる」
泣いている私に、四分儀先輩はそう言い残して部室を出ていってしまいました。きっと、私に一人で考える時間をくれたのでしょう。そんな先輩に「ありがとうございます」とお礼を言って、私はもう一度泣くことにしました。これで、居なくなってしまったおじに対して、ちゃんと向かい合うことが出来る。一つの区切りがついたのだと思いました。
◆
俺が部室を出たら、タカシが少し遅れて追いかけてきた。どうやら、殴って連れ出す事態は避けられたと言うことだ。俺に駆け寄ってきたタカシは、「さすがだね」と声を掛けてきた。
「でも、随分と手間を掛けたんじゃないのかな?」
「別に、暇をしていたから大したことじゃないさ」
「暇というけど、宇野さんから散々文句を聞かされているんだけどね。
シンイチ、ちゃんと恋人の相手をしないと捨てられるよ?」
「いつから、宇野が俺の恋人になったんだっ!」
そこの所、タカシには完璧な誤解を……いや、こいつのことだからきっと面白がって言っているに違いない。
「だけどシンイチ、彼女はお前が婿入りして病院を継いでくれると思っているよ。
たしか、そう言う約束があると言っていたね」
「そんなもの、幼稚園の時の話だろう。
一体、それから何年経っていると思っているんだっ!」
単純に考えても、10年以上前の話でしかない。その話を盾に取るのは、はっきり言って反則だろう。
「まあ、そのせいでシンイチはテストで手を抜いているんだよね?
理系クラスで落ちこぼれているのも、しっかりポーズと言うことだね」
隠していることを指摘し、タカシは「残念だね」と言ってのけてくれた。いったい何が残念だというのか、そのことを聞きたい誘惑には駆られたが、どうせろくなことではないと考えなおすことにした。
「だけどシンイチ、ルイちゃんに逃げるのは賛成しないよ。
彼女の場合、農家の跡取りと言う立場があるからね。
その気もないのに優しくすると、婿取りが手遅れになる可能性もあるからね」
「なぜ、お前はそっちの方向に持って行こうとする?」
「なぜって、シンイチはかなりの優良物件だからね。
何しろ次男坊というのは、家を継ぐ責任から解放されているんだよ。
今は宇野さんが所有権を主張しているけど、他にも虎視眈々と狙っている子が居るんだなぁ」
「俺は、女は苦手だと言っただろう!」
まったくと、どうしてこの悪友はすぐに男女関係に持って行ってくれるのか。もしかしたら、今付き合っている彼女のことが理由になっているのか。だが俺のしたことは、少しだけ時計を早回ししただけじゃないか。
「俺は、静かな時間がほしいだけだ。
後藤田のやつも、これで古典部にこだわる理由がなくなったはずだ。
もしもこのまま部活に残ったとしても、解決すべき問題はどこにも残っていない」
「だから、静かな時間を取り戻せると?」
少し目を見開いたタカシは、「甘いね」と俺に指を突きつけてくれた。
「今回の件で、宇野さんが危機感を覚えているんだよ。
今まで以上に、積極的に迫ってくれるんじゃないのかな?
ほら、噂をすればなんとやら……」
そう言ってタカシが指さした先を見ると、確かに見慣れた、そしてあまり見たくない顔がそこにいるのを見つけてしまった。しかも癪に障るのは、さも偶然出くわしたような顔をしてくれていることだ。
「あら、偶然ね……」
何が偶然なものか。部室のある旧校舎の3階は、よほどの事情がない限り、一般生徒の立ち入らない場所なのだ。それを考えると、一体ユカナ……宇野ユカナはいつからここで待っていたのだろう。それを考えると、少し申し訳のない気がしてしまう。だがそれ以上にあったのは、「怖い」と言う思いだった。
「偶然ついでで悪いけど、ちょっとこの後付き合ってくれないかしら。
本町の方に、ちょっと気になるお店を見つけたのよ」
「そんなもの、一人で行ってくればいいだろう」
「婚約者を放置して、他の女のために働いていたんでしょう?
だったら、少しぐらい私のために奉仕してくれてもいいんじゃないの?」
「俺達が婚約した?
いつ、どこで、何時何分に婚約したんだっ!」
「シンイチ、それは子供の言い合いだよ」
だからどうした。俺としては、婚約というのは絶対に否定しなくてはいけない。幼稚園児の約束など、高校になって持ちだして欲しくはない。
「それで付き合ってくれるの?
付き合ってくれないと、シンイチが一年の女の子を泣かせたって言いふらしてあげるわよ」
「お前は、俺のことをストーキングしているのか!?」
それを想像すると、怖いとしか思えない。どうして幼稚園の俺は、こんな女と結婚の約束をしたのだろう。誰かその時の俺のことを、調べて教えてくれないだろうか。いや、それ以前に、早まるなと忠告して欲しい。
ただいつまでも、ここで押し問答をしているわけにはいかないだろう。仕方がないと諦め、俺はユカナに付き合うことにした。少なくとも、こいつと歩いている限り、おかしな噂が立つことはないはずだ。あくまで、今更という意味でしか無いのだが。
だから俺は、おとなしくユカナに連行されることにした。その辺り、俺にしては大盤振る舞いと言っていいのかもしれない。その辺り、隠し通せたことへの安堵が間違い無く有った。親子関係の複雑さなど、知らなければ知らないほうが幸せなのだと。
「じゃあ宇野さん、お幸せにね」
「ありがとう福島君、きっとしあわせになるからね」
「ま、まて、タカシ、どうしてそんな話になるっ!」
これでタカシの追求も躱すこともできる。ユカナの胸を感触を味わいながら、うまく言ったと俺は前向きに考えることにした。
***
視聴覚室を借りたバージョン0.2の試写会に、関係者としてジャージ部からマドカとナル、そしてキョウカが参加していた。その他の参加者として、撮影協力をした鷹栖フユミとか、柄澤ショウも加わっていた。そして試作第二号の出来上がりに、全員が「凄い」と感心したのだ。
「まるで、テレビでドラマを見ている気分になったわ。
でも、全体を通してのカメラアングルは、映画といったほうがやっぱりいいかしら?」
凄いのねと感心したフユミに、マコトは自慢げに薄めの胸を逸らした。
「その辺りは、監督と演出の腕といって欲しいところね。
まだまだ不完全なところがあるから、最後はもっと良い物になっているわよ」
「私の出番は増えるのかしら?
そうねぇ、もっとシンイチ君との絡みのシーンがあってもいいんじゃないの?
この際、プールとか温泉とかでも我慢するわよ」
結構積極的なフユミの提案なのだが、難しいとマコトは文句を言った。
「プールに撮影機材って持ち込めないのよ。
学校のプールならなんとかなるけど、それだと興ざめするでしょう?」
「だったら温泉は?」
「フユミさん一人で入っているわけじゃないんでしょう?」
シンイチとユカナ、二人の関係を考えれば、独立で撮っても面白く無いだろう。それならそれでと利用もあるのだろうが、フユミの意図が別にあるのは間違いない。
ただ問題は、その撮影のためには温泉を貸切にする必要がある。篠山家の別荘という手もあるが、さすがに高校の映画で温泉シーンはいただけない。
「それで、動画サイトの反響はどうなの?」
「鷹栖先輩、それが凄いことになっているんです」
シンイチの悪友として出演した柄澤は、もう一つ動画サイト担当の役目も負っていた。
「凄いこと?」
「ええ、なんと投稿動画の第1位になっているんです。
コメント数も、100万を超えているというか……日々増加していますね。
視聴数も、先日100万を超えた所です。
アクセス先を見ると、日本だけじゃなくてアメリカやヨーロッパからも大量のアクセスがあるんです。
コメントで一番多いのは、どこにいけば本編が見られるのかと言うのですね。
その辺り、S高と言っても全国的には知名度が足りないみたいです」
「やっぱり、堀北さんが出たのが大きいってことかしら」
元が付くとはいえ、1年前まではトップアイドルだったのだ。引退にしても、人気絶頂の時に突然行われたのだ。未だ根強いファンが残っていたとしても不思議ではないのだろう。そして話題性と言う意味では、テレビドラマの比ではなかったのだ。
「まあ、冷静に分析すればそうですね。
でも、俺や鷹栖先輩に対するコメントも結構あるんですよ。
ただ鷹栖先輩の場合、シンイチを勝ち取れと言うのが多いんですけど」
「それって、後藤田さんと四分儀君がくっつかないようにって意味かしら?」
なんだかとため息を吐いたフユミに、「そればっかりじゃありませんけどね」と柄澤はフォローした。
「ただ、あんまり反響が凄いんで、S高祭の公式ページにはリンクを貼らないことにしました。
世界中からアクセスを食らったら、学校のサーバーじゃひとたまりもありませんよ」
「売ったらかなりのお金になりそうね……もっとも、制作費の回収以上のことはできないんだけど」
「S高祭がどうなるのか、楽しみって言う気持ちと怖いって気持ちがありますよ」
もしかしたら、大勢の見物客が殺到してくるのか。それを考えると、確かに怖いと思えてしまう。そしてつくづく規格外だと、フユミはとあるカップルのことを考えたのだった。
そしてその頃、シンジとアサミの二人は、なぜか校長室に呼び出されていた。不純異性交遊がバレたと言うわけではなく、純粋に相談を舞鶴から持ちかけられたのだ。
校長室に二人で入ったシンジとアサミは、舞鶴が何か言い出す前に「ついでで申し訳ありません」と断り、合宿のレポートを提出した。
「これは?」
「見ての通り、ボランティア部海外合宿のレポートです。
確か出発前に、必ずレポートを出すこととおっしゃいましたよね?
そのレポートですけど?」
「ああ、あれか……」
どれと手に取った舞鶴は、しっかりと書かれたレポートに感心していた。だがじっくりと中身を見て、感心どころで済まない事が書かれているのに気がついた。
「サンディエゴ基地見学中に、アメリカ大統領に会ったのかね?」
「ええ、偶然目に止まったらしくて、記念写真も撮らせてもらいました」
こちらにとシンジが開いた先には、確かにアメリカ大統領との記念写真が添付されていた。
「ちなみに、後からホワイトハウスにも見学に行ったんです。
どうも覚えてもらっていたようで、そちらでも記念写真を撮っていますよ」
それがこっちとシンジは別の写真を指差した。その写真を見た舞鶴は、思わず目をむいて驚いてしまった。何しろそこにあったのは、単なる記念写真ではなく、談笑しながら握手をしている写真だったのだ。
「何をすれば、こんな記念写真が撮れるのだ?」
「何をって……単なるあちらの気まぐれじゃありませんか?
あとですね、サンディエゴ基地で歓迎会を開いてくれたんです。
その時西海岸のアテナ、アスカさんとも記念写真を撮らせてもらいました。
アスカさんには、色紙にサインもしてもらいましたよ」
それがこっちと、証拠の写真を見せつけられ、「一体何をしに行ったんだ」と舞鶴は真剣に悩んでしまった。学校に提出された計画書では、知り合いの伝手でサンディエゴ基地とカサブランカ基地に見学に行くとしか書かれていなかったのだ。それなのに、世界的VIPと一緒に写真に写ってくれている。「何を」と舞鶴が悩むのも当然といえば当然と言えたのだ。
「ちなみに、国連見学に行ったら偶然事務総長にも会うことができました。
その証拠が、こっちの記念写真になります」
「そうすると、モロッコでは国王に謁見したり、砂漠のアポロンとも記念写真を撮ったと言うんだな?」
半分投げやりの舞鶴の言葉に、「よく分かりましたね」とシンジは別のページを開いてみせた。
「こちらが、現モロッコ国王です。
そして、こちらがモロッコ首相の方ですよ。
そしてこっちが、砂漠のアポロンことカヲルさんです」
いずれの写真も、とても親しげに写っていてくれる。とても、一介の見学者に対する態度には見えなかった。最近の篠山の態度と言い、舞鶴はシンジに対する恐怖を感じ始めていた。
だがここでは、校長としての威厳を示しておく必要が有る。記念写真が凄いのは分かるが、学生の本分を忘れていないか確認する必要があったのだ。
「それで、課題の方は疎かになっていないだろうな?」
「遠野先輩、鳴沢先輩の課題は合宿中に終わらせてあります。
宿題についても、帰ってからの勉強会でほとんど終わっています。
二人については、希望する進路に向けた勉強も開始しています。
まあこっちについては、ようやく始めたのかと言うところですけどね」
「希望する進路?」
高校3年だから、進路希望をはっきりさせる必要がある。そういう意味では、マドカ達も例外ではありえなかった。だから舞鶴が疑問に思うのは、ある意味失礼なことに違いなかった。ただ日頃の行いもあり、仕方がないかとシンジも理解を示していた。
「大学に進学するそうですから、指定校推薦を目指して勉強していますよ。
一人だと難しそうなので、ボランティア部で勉強会を開いています。
ちなみに篠山も、その勉強会に参加していますよ」
「ちなみに、碇先輩が先生役をしています」
「堀北君も参加しているのかね?」
シンジとは違った意味で注目を集めている生徒、それが堀北アサミと言う存在だった。そして世間的には、堀北アサミは圧倒的な知名度を誇っていた。
「クラブ活動の延長ですからね。
それに、先輩に勉強を教えてもらえるんですから私も参加していますよ。
凄く分かりやすいって、みんな喜んでいるんです」
アサミの言葉は、別のルートからも確認できていた。合宿から帰って以来、キョウカが自発的に勉強するようになったと篠山から聞かされていたのだ。ただその時に、「家庭教師を首にしなくてはいけなくなった」と苦笑された理由には想像がつかなかった。
「分かった。
そこで一つお願いがあるのだが、アメリカ大統領と写った写真を校長室に贈呈して欲しい。
わが校生徒の実績として、額に入れて飾っておこうと思うのだ」
「でしたら、レポートを紙以外にもデータで提出します。
そちらから、お好きな写真を選んでもらえませんか?」
「ああ、そうしてくれればありがたい」
海外合宿中のシンジを考えれば、舞鶴の態度は自分の首を絞めるものだろう。だが日本に帰れば、シンジはあくまで一高校生に違いない。一高校生なのだから、校長の指示にはおとなしく従う必要があった。
「ところで校長先生、僕達二人が呼び出された理由は何でしょうか?
ボランティア部のことなら、堀北さんが一緒に来る理由はありませんよね」
「ああ、その話だが……少し困ったことになっている。
そのなんだ、君たちが困ったことをしたという意味ではないのだが……
実のところ、学校に取材依頼が殺到しているのだよ」
「取材依頼……ですか?
また、どうしてそんなものが??
まさか、ヒ・ダ・マ・リ関係ってことはありませんよね?」
あくまでボランティア部として、学校の依頼に従って協力しているだけなのだ。しかもそこには、一度もアサミは参加したことがない。それに業を煮やしてと考えるのは、少しだけ無理があるとシンジは考えていた。
「いや、そちらについては先方から感謝されている。
それに、わが校のボランティア活動に対して評価も上がっている。
それで取材依頼だが、動画サイトに上げられた画像が問題になっているのだ」
「でも、それは映画研究会の作品ですよ。
僕や堀北さんが呼び出される理由にはなっていないと思います」
映画研究会にボランティア部として協力しただけなのだから、相談にしても映画研究会が受けるのが筋だとシンジは主張した。間違い無く、シンジの立場としては正論に違いなかった。
そしてシンジの正論を認めた舞鶴は、それでも二人なのだと少しだけ申し訳なさそうに言った。
「うちの文化祭を取り上げたいから、主演の二人のインタビューをしたいのだそうだ。
それが地元のタウン誌なら、確かに君たちを呼び出すまでもなかったのだがな……」
「一体、どこから来たんですか?」
「おおよそ想像が着いていると思うが、有名無名を含めた週刊誌全般と、
夕刊紙とかの新聞社から問い合わせが来ている。
まあそれは、堀北君の知名度を考えれば理解することはできる。
だが、海外のメディアからも取材依頼が来ているのだよ。
それに加えて、幾つかの映画会社からも面会の依頼が来ている」
少し疲れた顔をした舞鶴に、「可哀想に」とシンジは同情していた。ある程度予想はしていたのだが、事態は予想を超えた広がりを見せたと言うことだろう。合宿に行って分かったアサミの人気、それが現実のものとして突きつけられたということになる。
「確かに、堀北さんは向こうのパイロットにも人気がありましたからね。
ペンタゴンを見学した時も、堀北さんを見て向こうの人が盛り上がっていましたよ。
それにしても、海外から取材依頼が来るとは思ってもいませんでしたよ。
だって、向こうでは堀北さんの出演映画は公開されていないんですよ」
「その辺りの事情は分からんが、依頼があるのは確かなのだよ。
だがこれだけの数となると、間違い無く学業に影響することになる。
だから学校としては、教育観点から取材を受けないことにした。
そして君たちには、どういう状況に有るのか説明することにした」
「普段の行動に気をつけるように注意をしたということですか?」
先手を取ったシンジに、舞鶴は「そう言う事だ」と認めた。
「碇君は言うまでもなく、堀北君も今は一般の生徒だと言うことを忘れないように。
君たちの行動は、本学の生徒を代表することになるのを忘れてはいけない」
「常々、高校生としてふさわしい行動をするように心がけています」
海外での素行を考えれば、どの口がそれを言うと言うところだろう。だが日本に帰ってからは、シンジの言うとおり二人は「高校生らしい」付き合いを続けていた。人前でキスをしたりしないし、花火大会で暗がりに消えたと言うことは一度もない。
ただ今まではタクシーに乗せてさよならだったのが、一緒にアサミの家まで乗り付けるようになったのが変化だろう。そのまま家にお呼ばれするのも、付き合っているのだからおかしなことではないはずだ。
それでいいと口にした舞鶴は、「ところで」と話を変え、キョウカのことを聞いてきた。
「篠山キョウカと言う生徒を君はどう見ている?」
「また、難しい質問をしてくれますね……
ちょっと言い方はおかしいかもしれませんが、更生したというのがぴったりでしょうね。
今は、クラスの中でも浮いていないと聞いていますよ。
勉強のほうは、そうですね、1年の終わりまでにはS高の平均に到達できると思います」
「あと、7ヶ月でか?」
さすがに驚いた舞鶴に、「普通は驚きますね」とシンジは苦笑した。
「でも、篠山は別に頭が悪いと言うことはないんですよ。
今までちゃんと勉強をしなかった、出来る環境じゃなかったのが一番の理由だと思います。
その障害を取り除いた今なら、ちゃんと勉強をすることができるようになりました。
後は、遅れている部分を、目標を決めて教えてやれば追いつくことができますよ。
もっとも、いきなり優等生って言うのは無理ですけどね」
「なぜ、彼女は変われたと思う?」
「ボランティア部と言う環境が良かったのだと思いますよ。
そこで、普通の人付き合いを覚えたお陰で、クラスでも浮かなくなったのだと思います。
その辺りは、遠野先輩、鳴沢先輩の人徳じゃありませんか?
僕も、あの二人にはさんざんお世話になっていますからね」
そこで二人の名前を出したのは、本当にそう思っている部分と、二人に対する校長の心象を良くしておくという意味があった。指定校推薦の枠に入るかどうか、ギリギリならば間違い無く校長の心象が重要となるのだ。
「なるほど、確かにあの二人は包容力があると言うな話だったな……」
これで必要なことは聞けた。シンジに対しては、篠山絡みで他にもあったのだが、堀北アサミのいる前で話せる話ではない事情がある。だから舞鶴は、ご苦労だったと二人を解放することにした。
「取材については、くれぐれも軽はずみな行動を取らないように」
「僕達としても、面倒には関わりたいとは思っていません。
校長先生の指導を忘れず、日常の行動に注意するようにします」
ありがとうございます。そう頭を下げて、シンジとアサミの二人は校長室を後にした。そこでようやく二人の顔に、普段の笑みが戻ってきた。
「先輩と腕を組みたいんですけど、しばらく遠慮した方が良さそうですね」
「でも、手をつなぐぐらいだったら高校生らしくていいんじゃないのかな?」
つまり、手をつないで欲しいというシンジからの意思表示ということである。それに喜んだアサミは、指と指を絡めるように、シンジと手をつないだ。
「協力しておいてなんだけど、少しやりすぎたみたいだね」
「どうです、これで私が花澤なんて小物と言った理由に納得がいきましたか?」
「ああ、確かにアサミちゃんは凄いと思ったよ……」
一緒にいると、本当に色々と驚かされてしまうことに遭遇するのだ。自分はすごい女の子と付き合っているのだと、シンジはつくづく思い知らされていた。
「でも、本当は先輩の方がもっと凄いんですよ。
校長先生は気づいていませんけど、あの写真は単なる記念写真じゃありませんからね。
大統領さんは、先輩のためにわざわざ専用機まで貸して下さったんですからね」
「その辺りは、絶対にばらせないことなんだよ。
だから、世間的にはアサミちゃんの方が遙かに凄いんだ」
そこで「大変だ」と口にしたシンジに、「どういう事ですか?」とアサミはすかさず聞き返した。
「アサミちゃんと釣り合うためには、僕は何をすればいいのかなと考えたんだよ。
T大に入るぐらいじゃたかが知れいているだろう?」
「でも、その為にあまり無理をして欲しくはありません。
先輩の凄さは、私が分かっていればいいだけだと思っていますから。
あんまり先輩が頑張ると、むしろ私から離れていってしまう気がしてしまうんです。
それに、一緒にいる時間が減るのも嫌じゃないですか。
だから私は、今のままでいいと思っているんです」
夏休みのお陰で、校舎内を歩いても他の生徒と出会うことはなかった。そのままゆっくりと歩いた二人は、試写会が行われている視聴覚室へと向かった。アサミは編集に立ち会っているのだが、シンジはまだ一通りを通して見たことがなかった。せっかくだから、一度全部を見せてもらいたいと思っていたのだ。
「でも私思ったんですけど、先輩は役者の才能もあると思いますよ。
四分儀シンイチの役柄を、とてもうまく演じていたと思います」
「その辺りは、アサミちゃんの指導のおかげだと思うよ。
演技が始まった途端、アサミちゃんが後藤田ルイちゃんに見えたんだよ。
演じていると言うより、本当にその人になりきっているんだなかと感心したんだ」
「これでも、俳優歴は結構長いですからね。
どうです、私と一緒に本当の映画に出て見ませんか?」
顔が笑っているので、ほとんど冗談で言っているのだろう。だからシンジも、同じように軽いノリで「無理」と答えた。
「今でも、毎日がとても忙しいんだよ。
この上映画だなんて、絶対にできるはずがないよ」
「一緒に映画に出れば、先輩を独り占めできると思ったんですけどね。
でも、そんなことをしたら、遠野先輩達が大学に入れませんね」
さすがにそれは一大事と、アサミは「困った人たち」と笑ってみせた。
「でも、私は遠野先輩と鳴沢先輩の事は大好きですよ。
サンディエゴで喧嘩した時も、二人がいなければ素直になれなかったと思います。
そうやって見ると、あの二人って本当に凄いんですね。
勉強だって、見違えるほど理解が進んでいますよね」
「その辺り、本人は自覚していないと思うけどね」
「まあ、後輩に教えてもらっているうちは無理でしょうね」
でもと、アサミはシンジの手を放して少し先に走っていった。
「たとえ遠野先輩相手でも、絶対に私は負けませんから」
自信に満ちた顔を見せられ、ほんとうに綺麗だなとシンジは感動していた。そして負けないと言われた相手、マドカやナル、そしてキョウカを含め、本当にいい人たちと巡り会えたのだと感謝していた。叶うならば、この心地よい日がいつまでも続きますように。それが贅沢な望みとは知ってはいたが、それでも今の継続をシンジは願ってしまったのだ。
続く