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 有益な情報を提示したにも関わらず、文句を言われるというのはどう考えたらいいのだろう。カサブランカ基地司令のオットーから緊急の面会依頼を受けた後藤は、「困ったことをしてくれた」と真面目に言われ理不尽さを感じていた。
 もっとも、理不尽さを感じてはいても、そのまま文句を素直に受け取るような玉ではなかった。そして文句を言った方も、額面通りに文句を言うような玉ではない。お互いが自分の利益のため、硬軟取り混ぜて誘導しようとしているのである。だから後藤は、当たり前のように苦情の裏にある下心を推測できていた。そしてこちらが引く理由がないのも分かっているので、強硬に出ると言う選択をすることにした。

「困ったこと……ですか。
 私はむしろ、感謝されることをしたと思っているんですが?
 何しろうちの民間協力者は、期待された以上の成果を残したと思っているのですがね。
 まさか、困ったことと言うのはそのことを言っているのではないでしょうな。
 だとしたら、こちらもカサブランカ基地への対応を再考する必要があります」

 有意義な情報を提供した以上、苦情を言われる筋合いなど無いと主張したのである。無理をして遠征した日本側として、それはとても真っ当な主張となっていた。しかも、やれと頼まれたことをやって、期待以上の成果を見せただけなのだ。それを考えれば、感謝されて然るべきというのが後藤の立場だった。
 そして期待された以上の成果の部分を、オットーは否定しなかった。その上で、予期せぬ問題が起きたと付け加えた。

「貴官の言う事は十分理解している。
 確かに、訓練の方法論に関して、革新的な提案を受けたと思っている。
 だが、私もカサブランカ基地を預かる身なのだよ。
 結果で判断する責任も持っている。
 事実、迎撃の主力となるパイロットに対して、深刻な影響が発生している。
 その理由がそちらにある以上、苦情を言わないわけにはいかないのだ」
「ほほう、深刻な影響が発生していると。
 具体的には、何のことを仰っているのですか?」

 この時点で、後藤もカサブランカ側の問題を把握していなかった。シミュレーションの結果を見る限り、今日の合同訓練は間違いなく成功と言えたのだ。これまで数に入っていないパイロットにしても、育成の目途が付いたという効果もある。それが展開できれば、他国から派遣された訓練生にも大きな成果が見込まれるのだ。冗談抜きで、一日の進歩として画期的なものがあったのである。
 この状況で、普通なら問題が出るとは考えられない。有ったとしても、今日の成果をどう評価するのか、それに頭を悩ませる程度だと思っていたのだ。そしてそれは、カサブランカ基地側の問題であって、自分が呼び出される理由にはならないと思っていた。

 そんな後藤に対して、オットーは「深刻だ」と繰り返した。

「一番大きな問題は、リーダーのアポロンが完全に自信喪失をした。
 同調率で劣るパイロットに対して、全てに劣ることを見せつけられたのだ。
 これまで世界を守ってきたプライドが、音を立てて崩れることになったのだよ。
 そのため、いささかと言うには問題のある、精神失調を起こしている」
「なるほど、それならば苦情の一つも言いたくなる気持ちは分かりますな。
 ただ司令は、それが言いがかりに類するものだと理解されているのでしょうな」

 たとえエースに変調が現れたとしても、その責任は日本には無いと言うのだ。事前に双方合意した形でシミュレーションを行い、有益な情報をその場で提供しただけなのである。最初に丸投げしてきたのは、むしろカサブランカの方だったのだ。従って、日本には取らなければならない責任はなかった。
 それぐらいのことは、オットーも承知していることだった。だから少しだけ言葉を変えて、後藤に苦情を言い直した。

「今となっては、もう少し配慮が欲しかったと言うことだ」
「配慮と仰りますがねぇ」

 少し言葉を言い換えたオットーに、後藤はそう来ますかと口元を歪めた。結局言葉を変えても、責任をこちらに持ってきてくれたのだ。「配慮不足」、それを素人に求めるのかと言いたい所だ。

「初めのシミュレーションの後、継続の可否をそちらに打診しています。
 そこから継続した事への責任は、そちらにあるのでは無いでしょうか。
 その後も、都度中止する権限はそちらに有ったと思います。
 それでも、こちらの配慮不足を主張されるのでしょうか?」

 後藤の主張通り、最初の問題が持ち上がった時、シンジはカヲルに対して訓練の継続を確認したのだ。「とりあえず続ける」と言うのは、そこでカヲルが伝えた結論だった。だから配慮と言われても、そこにも責任は無いと主張したのである。そしてその後も、後藤の言う通りいつでも中断できたのだ。それをしなかったのは、結局カサブランカ側の問題だった。
 具体的に主張されれば、オットーでも否定できない。それを否定すれば、基地が機能していないと白状することになる。

「確かに、こちらも興味が勝ってしまったことが問題だった。
 それを認めることは、吝かではないのだよ」

 ここで引いてきたオットーに、そろそろ本題かと後藤は話の展開を予想した。ここまで口にした以上、問題が起きたこと自体は嘘ではないのだろう。そしてその問題が、カサブランカのエースに発生したのも確かだろう。そうなると、その対処をこちらに求めるというのが一番考えられることだった。
 もっとも、言いたいことは理解できても、それを納得できるかというのは別だった。日本が連れて来たのは、あくまで民間協力者なのである。そして基地所属パイロットの問題は、所属する基地で解決するのが筋というものだった。

「パイロットのケアは、各基地の責任だと思っています。
 従って、そちらのエースの件はそちらで対処するのが筋というものでしょう」

 そう主張した後藤は、うっすらと浮かんでいた笑みを消し、厳しい姿勢でオットーへと向き合った。

「ところで司令、私は苦情を言われるためだけに呼び出されたのですか?
 もしもそうであれば、逆に私は日本政府を通して抗議をしなくてはいけなくなる。
 そちらの求めに応じて出向いた相手に対して、いかにも失礼な態度ではありませんか?
 しかも民間協力者は、手の内を隠さず持っている情報を全てさらけ出しただけです。
 そのコントロールを含め、責任は招いた方にあると思っているのですが?
 必要なら、本日の成果をサンディエゴ基地に評価して貰いましょうか?」

 いかがですかと水を向けられ、オットーは少し歯がみをしてから、「協力には感謝している」と答えた。第三者の介入を許した時点で、カサブランカ側に一方的な非があることになってしまう。そこで情報を小出しにし、後藤の出方を伺った。

「ただ、今の状況を打開しないと、ただ感謝するとは言っていられないのだ。
 そして、エースの変調のため、基地スタッフの手に余ると言うのが実体だ」
「それは、大変ですなぁ」

 何を言いたいのか分かっているだけに、後藤は白々しくとぼけて見せた。サンディエゴでは貸しを作る行動には出たが、今のところカサブランカに恩を売る予定はない。そしてこの問題は、そこまでの緊急性があるとは思っていなかった。むしろこちらから手を差し伸べると、民間協力者の協力の範囲を超える可能性が出てくる。
 お互いやることは分かっているが、それをどこまでに押さえるのか、その綱引きが始まっていたのだ。

 もっとも、この綱引きがオットーの勝利で終わる道理はなかった。だからオットーは、どれだけ負けを少なくするのか、言い換えれば、どこまで譲歩を引き出せるのかが勝負の鍵となっていた。それぐらいのことは、双方が理解していることだった。

「カサブランカ基地の責任を考えた場合、早急に手を打つことが必要となる。
 そしてそれこそが、全人類に対する責任を果たすことにもなってくる」

 そこでオットーは、基地に掛けられた「全人類」からの責任を持ち出した。そして後藤に「責任」を認めさせることで、同じ立場に引きずり降ろそうというのである。
 もっとも、その程度の言葉遊びに引っかかっているわけにもいかない。「なるほど」とオットーの言葉に理解を示した後藤は、「責任重大ですな」と他人ごとのように言い返した。

「その点、日本はまだ気が楽ということですか。
 何しろ我々は、出撃エリアの限定された、カテゴリー2の基地ですからな。
 司令の仰る責任に関しても、比べ物にならないほど軽くなっている」
「日本のカテゴライズが2と言うのは、今の状況を考えればいささか疑問の残るところだが……」

 だがその決定は、国連によってなされたものである。いざとなれば関係の無い分類だが、基地司令の立場では否定出来ないものでもあった。そのあたり、日本基地が外交手段となっていることに理由があった。

「残念ながら、カテゴライズの変更は知らされておりません。
 それから司令、司令の苦情は確かに承りました。
 日本の内閣にも、司令の苦情は正確にお伝えしておきます。
 それから、民間協力者に対して厳しく叱責することに致します。
 今後一切、余計な手出しをすることはまかりならぬ。
 いささか不本意ですが、カサブランカ基地司令の意向として伝えておきます」

 それでいいかと聞かれたオットーは、間髪おかずに「待て」と言った。自分の一言で外交問題になろうものなら、サンディエゴ基地司令の二の舞になるのは火を見るより明らかなのだ。そして後藤の言葉通り対象Iに伝えられたなら、期待する協力も得られなくなってしまう。

「待て……ですか?
 私は、あなたに命令される理由はありませんよ。
 カテゴリー2の基地ではありますが、これでも基地司令の責任があります。
 では、これで呼び出された用は終わりましたので、帰らせてもらいましょう」

 そこで厭味ったらしく、後藤はオットーに対して敬礼をした。この場は相手をへこませ、日本を優位な立場に持っていくのに成功したのだ。後は、カサブランカ側の対応を待てばいい。
 もっとも、相手がどんな外交手段を取ってくるのか分からない。その点の嫌らしさは、アメリカの比ではないのも分かっていた。それもあって、必要な情報を、鏑木の耳に入れておく必要があると後藤は考えていた。

 オットーの制止がなかったので、後藤はそのまま司令室を出ていった。そしてその足で自室に戻り、携帯していた専用電話を取り出した。相手の嫌らしさが分かっているだけに、先手を打つことが重要だと考えたのだ。
 ただこの試みは、僅かなタイミングで遅れを取ってしまった。後藤の電話に出た鏑木から、EUから厳重な抗議を受けたといきなり言われたのだ。「なるほど抜け目ない」と相手の動きに感心した後藤は、「ご迷惑をお掛けします」と謝り日本側の対応を確認した。

「ああ、迷惑と言えば確かに非常に迷惑なことだが……
 それで後藤、いったい何が起きた?
 事情によっては、お前をクビにする必要があるからな」

 それでと説明を求めた鏑木に、「対象Iです」と騒動の中心を説明した。それだけで「ああ」と相槌を打った鏑木は、今度は何をしでかしたのかを確認した。

「また、あの男か……今度は一体何をされてヘソを曲げた?」
「今回の件に関して、彼はとても協力的でしたよ。
 そして金に換えがたい成果を提供したと思っています。
 ただ、ちょっとばかり砂漠のアポロンがひ弱だったというところでしょうか」
「ひ弱……、これまで世界を支えてきた二人のうちの一人が、か?」

 言うに事欠いて、英雄の一人を「ひ弱」と称してくれたのだ。後藤は、鏑木が電話の向こうで苦笑しているのが見えたような気がした。だが後藤にしてみれば、ひ弱としか言いようの無い物を見せてくれたのだ。

「今回の件では、ひ弱としか言いようがありませんな。
 まあ、いくつか同情すべきところはあると思いますが、やはりひ弱と言うのが適切でしょう。
 経験でも同調率で劣る相手に、徹底的に能力差を見せつけられてしまった。
 いくら初めての挫折とは言え、その程度で自分を見失うと言うのは問題です」
「絶対的エースの変調か……
 なるほど、カサブランカ基地司令が慌てるのも無理もないと言うことか」

 「分かった」と答えた鏑木は、すべての対応を後藤に一任することを告げた。今回の件で、日本には一切の否がないことが分かったのだ。ならば付け入られないように気をつけておけば、いくらでも強硬な姿勢を取ることができる。
 そして鏑木は、ある意味相手をおちょくるようなことを口にした。

「調査し、然るべき処置を取ると答えておいたが、答えろとは言われていない。
 然るべき対応として、現場の責任者に一任するというのは間違っていないだろう。
 それから、本件はあちらがなにか言ってくるまで放置しておくことにする。
 それから、このことはワットソンにも伝えておく。
 手が空いた時にでも、詳細な情報をこちらに送れ」

 手が空いた時とは言ったが、それは可及的速やかに詳細情報を送れと言う意味である。予想された事態に、後藤は用意されていた日報を専用回線で送付した。通信妨害までしてくるとは思えないが、念には念を入れておく必要があった。
 そして後藤は、鏑木に情報を伝えるのと同時に、次の手を打つことも説明した。この手のことは、正論だけで話が通れば苦労はしないのだ。できるだけ味方を作って、孤立をしないことが重要だった。その意味で、サンディエゴに貸しを作ったのは大きな意味があった。少なくとも、アメリカは日本を明確な敵とはしてこないはずだ。

「こちらから、サンディエゴ基地にも連絡を入れておきます。
 ゲイツ司令なら、何が起きたのかすぐに理解されるでしょう」
「やつら、自分で自分の首を絞めたな」
「こちらのことを、甘く見ていたのでしょう。
 まあ、他にも隠し玉があるかもしれないので注意が必要ですが……」

 悪あがきと言うか、他にも言いがかりが付けられないか。それを確認するのと同時に、民間人を保護する必要がある。「失礼しました」と電話を切った後藤は、シンジに会いにレストランへ行く事にした。そしていざと言う時の備えに、ラバトに有る日本大使館へも連絡を入れることを考えた。邦人保護は、大使館の負った重要な役目の一つとなっていた。



 レストランで後藤の顔を見かけ、シンジは「食事がまずくなるんですよね」と文句を口にした。

「おいおい、人の顔を見ていきなりそれはないだろう」

 少なくとも正当な抗議だと考えた後藤に、「だって」とシンジは正解にとても近いことを言い返した。

「今まで後藤さんは、一度も食事の時に顔を出したことがないんですよ。
 それが予告もなくわざわざ顔を出したんですから、それなりの理由があるってことでしょう?
 そんな話をされたら、食べるものがまずくなるって思いませんか?」
「あーっ、そういう意味なら確かにそうかもしれないな……」

 顔のことを言われたのではないと、後藤はひとまず引き下がることにした。確かにこれからしようとしているのは、食事時にはあまりふさわしくない話に違いなかった。そして同時に、それだけの緊急性があるのも確かだった。
 近づいてきたボーイに、皆と同じ物を注文した後藤は、「比較的緊急だ」と話を切り出した。

「君が、サンディエゴでしたのと似たような抗議を日本が受けている。
 間違いなく言いがかりなのだが、だからと言って安閑としていられないのも事実なんだよ」
「言われたとおりに協力して、それで文句を言われているってことですか?
 後藤さん、僕は腹を立ててもいいんですか?」

 今まで計算外だったパイロットを使えるようにし、しかも持っているノウハウを開示してあげたのだ。出し惜しみすること無く訓練に臨み、共同作戦への道筋を作るのにも成功している。そこまでしたのだから、文句を言われる理由が思い当たらなかったのだ。
 それでも考えられるのは、シミュレーションデータの整合性に疑義を生じさせたことだろう。だがそれにしても、データを用意したのはカサブランカ側なのである。自分で用意したデータなのだから、検証するのも自分の責任のはずだ。そしてより正しいデータにすることが、迎撃にも役に立つことになる。その点でも、感謝こそされても、文句を言われるようなことではないと思っていた。もしも面と向かって文句を言われたなら、間違いなくシンジは切れていただろう。

「まあ、君が腹を立てるにはまだ早いのだがな。
 まず初めに何が起きたのかを説明するなら、砂漠のアポロンが変調をきたした。
 簡単に言うなら、自信の喪失による精神失調状態と言うところだな」

 後藤の言葉に、シンジははあっと大きなため息を吐いた。今の話だけで理由には想像が付いたが、なんでと思えてしまったのだ。
 そしてシンジではなく、隣に座っていたアサミが、「がっかりです」と、とても可哀想なことを口にした。

「人の彼氏に色目を使ったと思ったら、今度は自爆して自信喪失ですか?
 あの人って、見た目だけの人だったんですね」
「アサミちゃん、それはさすがに言いすぎだと思うよ」

 注意をしてきたマドカに、「これでも優しい方です」とアサミは言い返した。誰も指摘しないのだが、呼び方も「カヲル様」から「あの人」とぞんざいなものに変わっていた。

「あの人って、アスカさんに並び称される人なんですよね。
 でも、悪いんですけどアスカさんほどの凄さを感じないんです。
 確かに今日の先輩は凄かったですけど、ブルックリンのアスカさんはもっと凄かったんですよ。
 アスカさんには先輩がサポートについて、先輩にはあの人がサポートに付いたんです。
 条件は同じなのに、結局何もできないで棒立ちになっていたんですからね」
「アサミちゃん、よく見ているわね……」

 自分もシミュレーションに臨んでいたこともあり、マドカはカヲルの動きを見ていなかった。だがカヲルが棒立ちになっていたと言うのは、誰の口からも出ていない話だった。それを指摘出来るだけ、「凄い」と感じてしまったのだ。
 そしてマドカと同じ感想を、後藤もアサミに対して感じていた。「人間観察に優れている」とシンジが言ったのだが、それがここでも証明されたことになるのだ。

「映画とか演劇とかしていましたから、浮いている人を見つけるのも得意なんです。
 後はそうですね、とってもアドリブに弱いっていうのか……
 あの人達って、予想もしないことに出くわしたらパニックになるんじゃありません?」
「そのあたりは、ずっと堅実な戦い方をしてきた弊害だろうね。
 戦力が限られていたこともあって、リスクを取ることができなかったんだよ。
 だからそれを続けていくうちに、考えること自体をしなくなったんだと思うよ。
 それで今までうまくいっていたんだから、そのことで責めるのも可哀想なんだよ」

 冷静に分析したシンジに、「でも」とアサミは言い返した。

「私だって、それぐらいのことは分かっているつもりです。
 でも、今まで通りで行かないことが二度も起きたんですよ。
 本当に偶然先輩が居てくれたから、悲劇も起きずに乗りきれただけです。
 それに先輩の助けはありましたが、サンディエゴ基地は変わりましたよね?
 でも、あの人達はショックを受けて何もできなくなっているんです。
 しかも、先輩のしたことに対して文句を言ってきているんですよね?
 それが交渉のテクニックだと思っているのなら、人を馬鹿にしていると思いません?」
「あ、アサミちゃん、き、今日は熱くなっているわね……」

 ふだんと違って力説するアサミに、何があったのかとマドカ達は驚いていた。だがアサミは、「必要なことです」と自分の言葉を正当化した。

「せっかく先輩が骨を折ったのに、そのことに文句をつけられているんですよ。
 本当はこっちが何も悪くないのを知っているのに、難癖をつけて面倒を押し付けようとしているんです。
 それって、人のことを馬鹿にしていると思いませんか?
 そんなこと、恋人として私が許せるはずがないですよ!」
「あー、すまんが話を進めてもいいだろうか?」

 止めてくれとシンジに目で催促した後藤は、その一方でアサミのことを凄いと感心していた。サンディエゴ基地では、そのフォーメーションの問題点を指摘したこと。そしてニューヨークでは、シンジの救出作戦を提案し実行したこと、そして今は、的確にシミュレーションの問題点を指摘してくれたのだ。そしてこちらが受けた抗議にしても、交渉のテクニックだと看破してくれている。とても高1になったばかりの少女のできることではないと思っていた。
 そのあたり、天才子役として芸能界で揉まれたことが役に立っているのかもしれない。そしてすでに、堀北アサミはギガンテス迎撃でもマスコット以上の意味を持っていた。ある意味、日本には二人の天才が揃ったことになるのだろう。それを内心喜んだのだが、表に出した顔は困惑の表情だった。

 シンジのお陰で話を取り戻した後藤は、状況説明を続けることにした。

「その件について、EU代表から総理に抗議が来ている。
 そして日本に対して抗議を行うにあたって、アメリカに対しても根回しを行なっていた。
 ただアメリカは、君たちに対して大きすぎる恩があるんだ。
 従って、表面上は中立の立場を取ることになった」
「どうして、私達の味方じゃないんですかっ!」

 それもおかしいと主張したアサミに、「腹の探り合い」とシンジは口を挟んだ。そして、自分の方へと話を取り戻した。

「こちらがヘマをしない限り、アメリカは味方ということですね」
「余程のヘマをしない限りだな。
 ちなみに総理からは、本件に関する扱いを一任されている」

 そう言う事だと説明を終えた後藤に、「よく分かりました」とシンジはため息混じりに答えた。

「じゃあ、後藤さんに援護射撃をしますよ。
 オットーさんでしたっけ、カサブランカ基地司令の人に忠告してください。
 記憶を取り戻して困るのはそっちだろうと」
「記憶を取り戻して困るのは……?」

 はてと首を傾げた後藤に、「ここで言えるのはここまで」とシンジは答えた。
 シンジの記憶のことは、ここにいる全員が知っているはずのことだった。それを考えれば、多少踏み込んだ話をしても大丈夫のはずだと思っていた。それなのに、シンジはこれ以上話せないと口にした。

 なんだろうとその理由を考えた後藤は、訝しげにもう一度シンジの顔を見た。どう考えても、シンジの記憶が脅し文句になるとは思えなかったのだ。
 だがシンジからは、それ以上の説明は返って来なかった。そしてその代わり、「日程を延ばすのは拒否します」と言う答えが返ってきた。

「アサミちゃんと、夏祭りや花火大会に行く予定が有るんです。
 これ以上予定が伸びたら、花火大会に間に合わなくなります。
 そんなことになったら、日本にも協力しませんよ」

 世界平和と花火大会、どちらが重要かと聞かれれば、誰もが世界平和と答えるだろう。だがシンジは、花火大会を優先すると口にしてくれたのだ。そのふっとんだ価値観に、後藤は目眩を感じていた。

「別の地区でも花火大会があるのだが、それで手を打っては貰えないかな?」
「彼女ができた最初の年に、一緒に地元の花火を見に行かないのを許せると思いますか?
 そんな真似をしたら、僕が自分の記憶を取り戻すように努力しますよ。
 幾つかキーワードは分かっていますから、その気になれば可能だと思いますから」

 花火大会を諦めさせることが、世界の破滅と同列に語られている。そのミスマッチにクラクラと来た後藤だったが、シンジの言葉に引っかかるものを感じていた。だから、「ちょっと待ってくれ」と話を遮った。

「記憶を取り戻して困るのはカサブランカ基地だと言ったな……」

 そこでは、ただ単に「記憶を取り戻す」とだけ言ったのだ。だが今の話で、シンジは「自分の記憶を取り戻す」と口にした。前の話では、敢えて「だれ」と言うのを口にせず、次の話では「自分の」と口にした。その使い分けに意味があるのなら、先ほどの取り戻して困る記憶は「自分のもの」では無いということになる。
 そこでようやく、後藤は先ほどの言葉を理解した。そして、信じられないものを見る目でシンジのことを見た。もともと子供っぽくないところがあると思っていたが、まさかこれほどとは思っても見なかったのだ。

「そんな変なものを見る目をするのは止めてくださいよ。
 昔から、子供は我儘なものって決まっているでしょう?
 それから、日程を延ばすって話にはならないと思いますよ」
「ああ、確かにそうだろうな……」

 アサミは「自爆」と言ったのだが、何れにしても対象Kの精神状態が不安定になったことには間違いない。そうなると、シンジの言う「記憶を取り戻す」と言う恐れが出てくるのだ。その対策を考えると、カサブランカ基地はシンジ達にかまけている暇はなくなるはずだ。いろいろな手間を考えれば、多少の滞在延長では済まなくなってくる。

「まあ、そういう意味なら、「なんてことをしてくれる」と文句を言われても仕方ありませんけどね。
 でも、僕は何も知らないし、事前に何も注意を受けていませんからね」
「ああ、そう言う意味での落ち度はこちらにないな」

 なるほどと後藤が納得したところで、「あのぉ」とマドカが遠慮がちに割り込んできた。最初はアサミが熱くなっていたのだが、話としてはまだ分かりやすかったのだ。だがシンジが話を取り戻してから、服の上から背中を掻くようなもどかしさを感じた。とにかく、何のことを言っているのか全く分からないのだ。
 しかも癪に障るのは、アサミが大きく目を見開いて驚いていることだ。その様子を見ると、アサミもシンジが何を言っているのか分かったと言うことになる。「寝た相手だけ特別ですか?」と、とても口に出して言えないようなことも考えていた。

「悪いね、極秘事項に関わることなんだ。
 迂闊に口にしたら、間違い無く俺のクビが飛ぶことになる」

 すかさず逃げを打った後藤に、マドカはお願いする相手をシンジへと変更した。シンジの場合、何も教えられていないのだから、極秘事項も何もないと思っていたのだ。

「碇君、部長命令を出していい?」
「ごくプライベートなことですから。
 アサミちゃんにも言ったんですけど、恋人にしか教えられないんです」
「じゃあ、私が碇君の彼女になってあげるわ」

 「だから教えて」と迫るマドカに、シンジは「ははは」と乾いた笑いを返した。

「先輩、アサミちゃんと勝負します?」
「浮気相手ぐらいなら、認めてあげてもいいかもしれませんね。
 でも、それって恋人って言いませんよね?」

 すかさず口を挟んだアサミに、「ケチ」とマドカは唇を尖らせた。ただ教えてくれないのは分かったので、ここはひとまず我慢することにした。それに色々とヒントはあったのだから、後からナルと二人で考えてみようと思ったのだ。

「ところで後藤さん、まだ僕達に用はありますか?」
「いやっ、説明したいことは終わったし、貴重なヒントを貰うこともできた。
 あまり放置しておくのも良くないだろうから、これからオットー司令に面会することにしよう」
「じゃあ、何かあったら教えて下さい。
 この後、部屋に戻って勉強会をしています」
「随分と勉強熱心になったんだな……」

 この前にも勉強しているのを聞いていたので、マドカ達の変化を後藤は驚いた。そんな後藤に、「ああ」とシンジは頭を掻いた。

「そう言えば、説明していませんでしたよね」

 そう言ってシンジは、神妙な顔をしているマドカとナルの二人を見た。自分の進路のことなのだから、他人が説明するのはおかしいだろうと言うのだ。
 シンジに促されたマドカは、「実は」と言って進路の話を持ちだした。

「タカさんに色々と提案してもらったんだけど、やっぱり自衛隊に入るのはピンと来ないんです。
 だから碇君にも相談して、地元のS大を目指そうということになりました。
 頑張って教育学部に入って、先生になろうと思っているんです」
「それは、鳴沢君も同じ考えと思っていいのかな?」

 それまで黙っていたナルは、後藤に聞かれて「うん」と小さく頷いた。

「それを碇君に相談したら、とにかく成績をあげようという話になったの。
 パイロットをしないというのはないけど、大学の話は断らせてもらいます」

 そこでマドカとナルの二人は、揃って「ごめんなさい」と頭を下げた。どんな思惑があったとしても、二人に対して好条件を提示してくれていたのだ。それを袖にするのだから、二人には謝る理由が十分にあった。
 そんな二人に、「謝られるようなことじゃない」と後藤は笑った。

「こっちはこっちの都合を持ち出しただけのことだ。
 それが気にいられなければ、出した条件が不足だったということだよ。
 そうか、S大の教育学部を目指すのか、なるほど猛勉強をしないといけないな。
 しかし、君はそれでいいのか?」

 いいのかという質問は、シンジに向けられたものだった。

「僕も、ジャージ部の一員なんですよ。
 だから、頑張っている人の応援をするしお手伝いもします。
 お世話になった先輩二人が、僕達に夢を教えてくれたんです。
 だったら、気持よく協力したいと思いませんか?」
「なるほど、それがジャージ部魂と言うことか」

 そんな恥ずかしいことを臆面もなく口に出せるのだ。それが若さだと考えると、羨ましいなと後藤は思ってしまった。堀井が予想した結果なのだが、それが現実となると話はまた別物だったのだ。男女の関係を離れたところで、これだけ相手のことを思いやることができる。5人の関係を見ていると、自分が汚れて見えて仕方がなかった。
 もっとも、そんな感傷を引きずるような後藤ではない。幾つか想定した結果のうち、そのひとつに落ち着くことが分かったのだ。だったら、その選択肢が確実なものとなるよう支援すればいい。その手始めは、今からの勉強会の邪魔をしないことだろう。

「うちとしては、パイロットを続けてくれれば文句は言わない。
 まあ、それ以外のところでも少しぐらい手伝って欲しいという気はあるがな」
「パイロットとして必要なことはしますよ。
 衛宮さん達や、新しいパイロット達との連携訓練にも出席します。
 ただ、そっちの都合だけで利用しようと思わないようにしてください。
 それから、僕達が結構忙しいのを忘れないでくださいね」

 ギガンテス迎撃よりも優先することがある。それを堂々と口にしたシンジに、若いというのは素敵だと後藤は感動した。まあ現実的な考えをするなら、正体を明かさない以上、不自然にいなくなることができないというところなのだろう。
 それを理解した後藤は、「考慮する」と言い残して高校生たちと離れることにした。余計なことをしてくれた司令に対して、必要な脅しと忠告を行わなければいならない。場合によっては、帰国日程の前倒しも考える必要があるだろう。これ以上ここに残っても、高校生たちの出番はないと思えてきたのだ。



 カヲルの変調は、噂という形でサンディエゴにも伝わっていた。当然ゲイツにも話は伝わっているのだが、極めて政治的な話のため内部には展開されていなかった。それもあって、「噂」と言う形で広まったのである。
 そして噂以外の情報として、カサブランカで行われたヒアリング、そしてシミュレーションの結果も伝えられていた。ただそのデータを見た者は、カヲルの変調との関係に首を傾げることになった。

 ヒアリングはとても協力的に行われ、シミュレーションも期待以上の成果を上げていた。それを考えると、エースが変調を来す理由に思い当たらなかったのだ。

 その情報は、アスカは翌朝受け取ることとなった。そのあたり、8時間の時差が影響していた。
 普段は目覚ましで目を覚ましていたのだが、この日に限っては同室のクラリッサに揺り起こされることになった。それでぱっちりと目を覚ましたアスカは、慌ててベッドの端に逃げ、自分がいたずらされていないのかを確認した。

「く、クラリッサ、私に何をしたのっ!」

 いささかパニックに陥ったアスカに、「何もしていないわよ」と少し憮然としてクラリッサは言い返した。

「アスカ、私をなんだと思っているの?」
「で、でも、あんた、一度私を襲おうとしたじゃない!」

 その時はしっかり返り討ちをしたのだが、無防備に寝ている時だとどうなるか分からない。疑念の籠もりまくった眼差しを向けられ、クラリッサはとりあえず言い訳から始めることにした。

「ええっと、一応あの時で懲りたから。
 それに、薬とか拘束具とか使わないと、私の身の安全に関わるし……
 そんなものを使ったら、迎撃態勢に深刻な問題が発生するでしょう?」

 だから大丈夫と保証したのだが、「その気はない」と否定していないため、アスカからとても冷たい眼差しを向けられることになった。
 その視線に怯みながら、クラリッサは安眠を邪魔した理由を説明することにした。レズとか襲うとかに比べ、こちらの方が遙かに重要な問題だったのだ。

「とりあえず、アスカはカサブランカでのヒアリング結果に目を通しているわよね。
 だったら、昨日行われたシミュレーション結果を見て欲しいのよ」

 話の取りかかりとして、必要な情報取得をアスカに求めることにした。
 そんなクラリッサに、「そんなものはとっくに終わっている」とアスカは言い返した。

「私が、シンジ様のことを後回しにすると思っているの?」
「あー、確かに今のアスカにはそうだったわね」

 ニューヨーク以前は、ぴんとこないと言っていたアスカだったが、その戦いが終わってがらりと態度を変えたのだ。ファンと言えばいいのか信者と言えばいいのか、呼び方まで「シンジ様」に変わっていたのだ。「すぐに次の共同作戦が来ないかなぁ」と聞かされた時には、クラリッサも耳を疑ったほどなのだ。
 もっとも、アスカの口から恋人になりたいと言う言葉は聞かされていなかった。そこまで惚れたのなら、すぐにでも色っぽい方向に持っていくべきと考えたのだが、アスカからは「無理」と言う答えが返ってきた。アスカ曰く、「相手が悪すぎる」と言う事らしい。確かに今付き合っている相手は、強力無比に違いなかった。健気で綺麗で、命の恩人でもあるのだ。常に近くに居られることも、競争する気を失わせるのに十分なものだった。

 それを考えれば、見ていないというのはあり得ないことだった。それならば話が早いと、クラリッサはまずシミュレーションの感想を聞くことにした。

「それで、昨日のシミュレーションを見てどう思う?」
「どうって……
 期待通りだったって所かなぁ」
「期待通り、なの?」

 科学班全員が度肝を抜かれたこともあり、アスカの言う「期待通り」と言うのをクラリッサは信じられなかった。だが驚いたクラリッサに、「だってぇ」とアスカはとても可愛らしく、そして思考停止をした答えを返してくれた。

「シンジ様なんだもの」
「あーっ、そう言う乙女チックな答えは求めていないから」

 散々色恋沙汰のことを煽ってきたが、いざ現実を目の当たりにさせられると、やっていられないという気になってしまう。もともと精神操作の効果を確認するためのものだったのだが、これでは何も分からないと愚痴の一つも零したくなる。

「でも、お一人でも強いのはサンディブリッジで見せていただいたでしょう?
 あの時だって、リスクを最小限に抑え、確実にギガンテスを倒す方法を選択されたのよ。
 今回は、それをシミュレーションでも見せていただいただけのことでしょう?
 指導方法にしても、高知の前はもっと大変だったと思うわよ。
 それを乗り越えられて経験も積まれたのだから、シンジ様なら出来ても不思議がないと思うもの」
「カサブランカでは、シミュレーターのデータに問題が無いか確認しているわ」

 そのまま受け取れないという意味で口にしたクラリッサに、「馬鹿ばっか」とアスカはカサブランカ側の対応を批判した。

「シンジ様って、シミュレーターより、実戦の経験の方が長いのよ。
 しかも高知では、真剣にお一人でギガンテスと向き合われたの。
 相手の特徴を掴めなければ、あんな動きが出来るわけ無いでしょう?
 検証するのは勝手だけど、まず事実関係に頭を使うべきなのよ!」
「つまり、アスカはこの結果におかしなところはないと言う訳ね?」
「当然でしょう、あたしならいざ知らず、シンジ様の出された結果なのよ!」

 どうしてそこまで盲信できる。大いなる不条理を感じたクラリッサだったが、それを追求する代わりに本題に移ることにした。それこそが、噂として伝わってきていたカヲルの変調だった。

「これは噂の段階なんだけど、あちらのエースが精神に変調を来したみたいよ?
 言われている原因が、自信の喪失かららしいんだけど、どう思う?」
「カヲルが、狂ったの?」
「いや、そこまでは言っていないけどね。
 落ち込みのちょっと酷いのって意味で言ったんだけど」

 ふ〜んと納得したアスカは、「たぶん」と言って自分の推測を口にした。

「自信の喪失ってのは、少し違うんじゃないのかな?
 予想もしない出来事が、あまりにも一度に起きたからじゃないの?
 そこにはシンジ様の方が経験も少なくて、同調率も低いというのもあるんじゃないの。
 だから目の前に示された出来事を、頭で論理的に分析、理解することが出来なくなった。
 どうしても受け入れられない事実に、打ちのめされたって所かしら?
 カヲルの奴、サポートに入れずシンジ様の後ろで棒立ちになっていたものね」
「アスカだったら、サポートに入れた?」

 それを確認することは、今後の共同作戦にも関わってくる。そのつもりで聞いたクラリッサに、アスカは「絶対に無理」と即答した。

「サポートなんて必要ない戦い方をされているわ。
 たぶんカヲルの奴、それが理解できなかったんじゃないの?」
「なんで、シンジ碇はそんな戦い方をしたのかしら?
 こっちに来た時は、アスカをアタッカーに据えたでしょう?」
「なんでって」

 それぐらい分からないのかと言う目をしたアスカは、自分とカヲルの違いを説明した。

「カヲルのタイプって、どちらかと言うと後ろでバランスを取るタイプでしょう。
 それって、シンジ様のやり方と思い切り被っているのよ。
 だからどちらがアタッカーになった方が良いのか、シンジ様が判断されたのだと思うわよ。
 でも、私との時には、私がアタッカーをするのが良いと考えられたのよ。
 だから、私が自由になるように、シンジ様がサポートしてくださったんでしょう?」
「アスカが窮屈そうと言ったのは、ガールフレンドの方なんだけどね……」

 少し釘を刺したクラリッサは、「それで」とシミュレーション結果への分析をもう一度聞くことにした。

「アスカが言った通り、シンジ碇の方が同調率は低いわ。
 そして経験にしたところで、コーチからしか経験していない。
 僅か2度のシミュレーションと2度の実戦だけの経験よ。
 それが、砂漠のアポロンより強いって、どう考えても説明が付かないわ。
 そのあたりのアスカの分析を教えて貰いたいのよ」
「分析って言われてもねぇ。
 シンジ様なんだから、当たり前だって言えると思うけど……」

 そうねぇと考えたアスカは、とりあえず思いついた説明をすることにした。

「同調率って、ある意味身体能力を表していると思うの。
 それから意外に思うかも知れないけど、反応速度には関係ないからね。
 ただ力強さとか、動き出してからの早さに関係するから、勘違いしてしまうことが有るのよ。
 だから、ただ早く走れて、ただ力が強いだけじゃ駄目って事だと思うわよ。
 もともとその人が持っているもの、それが大きく影響してくるわね。
 クラリッサも、コーチの戦いはしっかり分析しているんでしょう?」
「ええ、タイムスタンプまで思い出せるぐらいにね。
 ちなみに、ブルックリン南での戦いもしっかり分析したわよ」

 その答えに「宜しい」と満足したアスカは、高知の戦いを例に説明を続けた。

「シンジ様は、かなり上からの攻撃をされているわよね。
 それもただ飛び上がるだけじゃなくて、そうねぇ、体操選手みたいって言えばいいのかな?
 ギガンテスの攻撃を受けて飛ばされた時もそうだけど、空中での方向感覚を持っているのよ。
 ああ言った動きは、全く同調率とは関係のないものだと思うわよ。
 後はそうねぇ、ギガンテスが加速粒子砲を撃つタイミングも把握しているわ。
 だから加速粒子砲を撃たれても、危なげなく対処できている。
 これも、同調率には全く関係のないことなのよ。
 他には、ギガンテスの細かな動きの癖、特徴を把握することもそう。
 これが出来ているから、敵の動きに慌てて対処する必要もない。
 これも、同調率とは全く関係のないことでしょう?
 ここまでのことは、理解して貰えたかしら?」
「ええ、改めて言われれば確かにその通りね。
 素のスペックがシンジ碇とカヲル・ナギサとでは違いすぎると言いたいのね」
「そのスペックを、どう取るかにもよるけど……
 おおむね、ギガンテスとの戦いに限ればそう言う事になるわ」

 自分の言葉を認めたアスカに、「そう言うことか」とクラリッサは納得した。同調率の差を逆転する理由さえ分かれば、もう一つの問題の方は比較的易しかったのだ。

「経験というのは、どれだけ吸収するかで変わってくると言う訳ね。
 カヲル・ナギサの場合、ただプログラムに従って積んだ経験でしかない。
 でもシンジ碇は、命がけの体験の中、必死になってつかみ取ったものだと言う事ね」
「当然、感受性の違いも影響してくるわよ。
 あとはそうね、注意力とか集中力とかの問題も大きいと思うわ。
 それから、ブドーだっけ、そっちの経験も無視できないと思うわよ。
 そっちは、カヲルよりシンジ様の方があるんじゃないの?」

 そう言われてクラリッサは、シンジの調査書を呼び出した。そしてそこでの経歴を確認し、「なによこれ」と思わず呟いてしまった。

「本当に、何にでも手を出しているわね……」
「そのことなんだけど、ディズニーランドに行った時教えて貰ったわ。
 クラブ活動、確かジャージ部って言ったっけ、その活動方針がそうらしいわよ。
 学校内のクラブ活動への助っ人も、ジャージ部の主要活動らしいわ」
「これを見せられると、スペックが違うって言うのも頷けるわ。
 これだけのブドーやスポーツをこなしているって、ある意味脅威だわ。
 アスカが惚れるのも当然って所かしら?」
「そうなんだけど、手が届かないって言うか、割り込めないのよね」

 今までは否定の言葉が返ってきたのだが、今では恥ずかしがりもせず肯定してくれるようになっていた。その変化もまた、クラリッサには興味深いことだった。記憶操作以前のアスカなら、今のカヲル同様精神に変調を来していたはずなのだ。
 この変化には、シンジ碇の側に理由がないのは分かっていた。シンジ碇に負けたという事実を受け止める、アスカの側が変わったと言うことだ。ただ精神操作が理由というのでは、あまり喜んでいいもので無いのは確かだった。

 なるほどと納得したクラリッサは、同時にもう一つ重要なことの確認をすることが出来た。これまでのアスカが行った分析、そしてシンジ碇に対する態度から、精神操作は強固なまま揺るいでいないのである。それが分かったことは、サンディエゴにとってとても意味のあることだった。
 そしてもう一つ、カサブランカ基地は自分の心配することではないと思っていた。起きた出来事への説明も付くのなら、自分達への影響を評価することも出来る。そして影響がないと分かれば、後は相手のお手並みを拝見していればいいだけのことだ。

 一人シンジ碇という不思議な存在こそ居るが、開き直ってしまえば特に気にする必要もなかったのである。たとえカヲルの精神操作に問題が出たとしても、それでは世界が滅びることにはなりはしない。その点でも、クラリッサの気持ちはずいぶんと楽になったのだった。



 「自分達どころではなくなる」それが、後藤に対して予告したシンジの言葉だった。その言葉を受けてオットーと面会した後藤は、それがハッタリで無いのを思い知らされた。
 後藤に忠告という形で脅されたオットーの顔色が、まるで信号機のように目の前で変化してくれたのだ。後藤の言葉に驚愕したオットーは、顔を真っ青にして司令室を出ていった。関係者とは言え、部外者を残していったのは普通ならあり得ないことだった。裏を返せば、そんなことが問題にならないほどの重大事だということになる。

 その後ろ姿を見送り、後藤は「恐ろしいな」と明日の自分を見た気がした。3人いる要注意対象のうち、対象Kは、一番危険度のランクが低い所に位置していた。その対象Kの記憶復元ですら、カサブランカ基地司令が真っ青になってしまう出来事なのだ。ならば対象Iと言われる碇シンジの場合、その混乱は世界規模となるのだろうか。その状態を想像し、思わず後藤の背筋に冷たいものが走ったほどだ。

 対象Kことカヲル・ナギサの危険度ランクが低いのは、事件の中心から遠い所にいたことが理由になっていた。ドイツでネルフに関わっていたのだが、TICの時もドイツに在籍していたのだ。そしてその後の調査でも、彼自身がTICに関わった形跡は見つからなかった。それでも要注意対象として記憶操作までされたのは、今となっては真偽の確認もできない噂が理由となっていた。
 その噂というのは、彼の遺伝子が使徒に埋め込まれたというものである。事実彼そっくりのチルドレンが日本に派遣され、最後のシシャとして3rd.チルドレンに始末されたとも報告されている。そのシシャとの関係が確認できないため、危険人物として記憶操作を施されたのである。

 もう一つ問題とされたのは、日本に送り込まれた量産機のパイロットだった。記録のかなりが破損していたが、幾つかの手がかりからダミープラグが使用されたのが判明した。そのダミープラグの原料となったのが、日本に送り込まれたチルドレンのクローンだと言うのである。そしてクローンの存在が、カヲルと言う存在に疑念を抱かせることとなった。すなわち、自分達が目にしているのは、オリジナルではなくクローンの一体ではないのかと。
 だがいくら調べても、その疑念を証明する証拠は見つからなかった。どんな調査をしても、カヲル・ナギサが人間であることを否定する証拠は見つからなかったのだ。それもあって、リスクを避ける意味でもカヲルの記憶操作は肯定された。すなわち、彼に対する処置は、漠然とした不安からなされたものだったのだ。

 それが対象Aとなると、かなり事情が異なっていた。彼女の場合、明確にTICに関わったのが確認されていたのだ。映像記録で、TICの直前に弐号機で出撃したのが確認されている。対象Aと対象Iの二人が、最もTICの中心に近いところにいて、そして二人だけ生き残ったのである。その内の一人となれば、カヲルなど問題にならないほど危険だとされたのだ。
 ただTIC後保護された時、対象Aの記憶は混沌としたものだった。TICの中心に居たにも関わらず、何が起きたのかほとんど理解していなかった。幾つか心に残った景色を口にしてくれたのだが、あまりにも取り留めがなく、事実かどうか検証すらできないものだった。その為ヒアリング実施者は、彼女の記憶にあるものを幻覚と結論付けることにした。

 そして対象Aは、ヒアリング後に実施された希望調査で、記憶の封印及び改竄処置を肯定した。その時の本人の言葉によると、「今のままでは狂ってしまう」と言う事だった。

 その対象A以上に危険とされたのが、対象Iこと碇シンジである。3rd.チルドレンとして、最後まで使徒との戦いに臨み、TIC直前の出撃も確認されている。そして数少ない目撃証言とドイツに残された資料から、対象IこそTICの核として利用されたのが確認されたのだ。
 保護された後のヒアリングでも、TICの核として利用されたことを本人も肯定した。正確に言えば、本人はTICが何だったのかは理解していなかった。ただ人の心が融け合い、何か混沌としたものを形成した。その混沌の中、対象Rこと綾波レイと会ったと言うのである。

 対象Aの証言と同様に、彼の証言も検証できないものだった。だが対象Aに比べて具体的で、しかも自分達の経験にも合致した部分が多かった。そしてTICに巻き込まれた者としてただ一人、現実への復帰を意識したと言うのだ。その証言を理由に、科学者たちは対象Iの証言に虚言はなく、TICの真実の多くを説明していると結論づけた。
 同時に行われた生体検査で、対象Iが人間であることは確認されていた。それでも、TICからの回復に関係したことを理由に、危険人物としてカテゴライズされた。そして対象Aと同様の理由で、対象Iも自分の記憶操作を肯定した。

「今のままでは狂ってしまいます」

 日に日にやつれていく対象Iに、世界は彼に対する記憶操作を決定した。そして対象Kや対象Aなどとは比較にならないほど病的に記憶操作を施し、最初の1年は常に監視が行われたのである。そして今でも、継続して観察は行われていた。
 その意味で、対象Iの記憶は、背に腹は代えられない事情で復元することはあっても、勝手に回復されては困るものだったのだ。

 オットーがいなくなれば、後藤は司令室にいる理由も喪失する。そして長く滞在することは、余計な詮索を招く理由となるものだった。だから後藤は、オットーが飛び出してすぐに司令室を出ていった。

 自分の部屋に戻る途中も、後藤を捉えた恐怖は消えてくれなかった。ただ問題は、その恐怖が「明日は我が身」と言うものではないことだった。後藤の感じた恐怖は、これだけの事件を起こした一高校生に向けられたものだった。そしてその恐怖は、対象Iに向けられるものとは違うものだった。

 それなりのヒントは出していたし、自分の状態を考えればある程度推測できるのも理解はできた。だがあの場面で冷静にそれを指摘するというのは、自分を分析することとは全く別物だと思っていた。
 だが日本の切り札は、「怒ってもいいですか?」と冷静に対応しただけでなく、対象Kの危険性まで指摘してくれたのだ。後藤が指摘するまでオットーが政治闘争にかまけていたところを見ると、カサブランカ側でもその危険性に気づいていなかったのだろう。それを考えると、とても高校生とは思えない、落ち着きと思慮深さと言うことができた。そして問題は、過去にこのような才能を示したことがないことだった。

 世界的要注意人物なのだから、シンジに対する観察報告は小さな頃の物から収集されていた。特にパイロットとしてネルフに呼び出されてからの行動については、MAGIからTIC関連の情報に負けないぐらいサルベージされていた。
 その情報を信じる限り、その頃の碇シンジと言うのは全てにおいて並以下の少年のはずだった。学校成績についても中庸だし、運動という面でも目立つところは全くなかった。唯一エヴァンゲリオンとの高い適性を除けば、注目すべきところの無い凡庸な少年だったのだ。その評価は、TIC後もさほど変わってはいなかった。

 そうなると問題なのは、一体どういう過程を経てそのパーソナリティが形成されたのかということだ。少なくとも、記憶操作後の碇シンジとは性格を含めて異なっている。後藤は記録を読み返したのだが、記憶こそ厳重に封印したが、パーソナリティには特に変化は無いと記載されていた。そして高校に入るまで、確かに記録通りのパーソナリティが観察されていたのだ。

 卒業した中学の内申書を見ると、一般教科はそこそこ優秀とされる成績を収めていた。ただ抜群に優秀とまでは言えず、「そこそこ」と言うのが一番適切な表現となっていた。そして運動面に関して言えば、ネルフ時代の評価と何も変わっていなかった。運動能力的には平均的水準に達していない、それが彼の内申点だったのである。そしてその評価は、高校入学直後も変わっていない。

 それが変わり始めたのは、遠野マドカ、鳴沢ナルに目をつけられ、ジャージ部に入部してからのことだった。まるで蝶が蛹を脱ぎ捨てるように、見事な変身を遂げてくれたのである。
 そこそこ良かった成績も格段に伸び、並以下だった運動能力も今ではトップレベルになっている。各部活で転部を望まれているといえば、優秀さのレベルも想像できるだろう。そこで脅威なのは、そこまでの変化が僅か半年から1年でなされたことだ。まともに考えれば、とても信じられるものではなかった。

 だが自分が毎日顔を見ているのは、碇シンジに間違いはない。そして彼が碇シンジであることは、変化をつぶさに見てきた遠野マドカ、鳴沢ナルの二人も証明してくれている。そしてヘラクレスへの適性からも、彼が碇シンジであることは疑いようがないだろう。1年前と比べれば急激でも、日々の変化はゆっくりと行われていた。だから観察記録を見ても、特におかしな所は見つけられなかった。

 「ならばなぜ」そこまで考えたところで、後藤はそれ以上の考察を諦めることにした。考察したところで解明できるとも思えず、そして解明することが自分の役目ではないことに気づいたのだ。
 自分はあくまで軍人であり、精神分析をする科学者ではない。人間観察にしても、その相手が安全か、そして役に立つかを見極めるために行なっているものでしか無い。その観察からは、碇シンジと言うのは極めて有用、むしろ有用過ぎる駒だと言うことだ。そして安全という意味では、今のところと言う断りを付ければ安全な存在のはずだった。
 使い方さえ間違えなければ、特に危険なことはないと判断できる。その程度の危険度であれば、他の兵器と大差はなかったのだ。ならば、細心の注意を払って利用すればいい。そう、後藤は割り切ることにした。



 そして部屋に戻った後藤は、シンジが訪ねてくるのを待っていた。別に約束をしているわけではないが、来るだろうという予感がしていたのだ。まあ、その前の出来事がある以上、結果を確認に来ると考えるのはおかしくはない。神経質とまでは言わないが、そこまで神経が太くはないと言うのがシンジに対する評価だった。
 そして後藤が予想した通り、誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。ようやく来たかと時計を見ると、すでに11時を回っていた。いつもに比べれば、1時間ほど遅い時間だった。

 覗き窓でシンジを確認した後藤は、「今日は遅いな」とドアを開けて声を掛けた。

「先輩達もヤル気を出していますからね。
 お陰で、1時間も普段より遅くなってしまいました」

 少し疲れた顔をしたシンジに、「いいのか?」と後藤は冷蔵庫から出したオレンジジュースを渡した。そのプルタブを開きながら、シンジは少しだけ口元を歪めてみせた。

「遊んでいるのならいざ知らず、真剣に勉強しているのに文句を言えないでしょう。
 まあ、こんなハイペースは今だけのことだと思いますけどね」
「まあ、今は一番熱くなっているからそうなのだろうな」

 決意を固めたばかりなので、勉強することにも真剣になっている。だがその決意も、時間とともに薄れてくるものだ。シンジの言葉にそれを理解した後藤は、「コントロールが大変だな」とこの先の苦労を労った。

「とりあえず、目的がはっきりしていますから大丈夫だと思いますよ。
 後は、具体的に成果が出れば、勉強も面白くなってくるんじゃありませんか?
 今の篠山も、丁度勉強が分かる所に入って来たから熱心ですよ」
「ああ、彼女か……
 いいのか、ますます篠山家に目をつけられることになるぞ」

 そうやって成果を示すことで、余計に自分の評価を高めてしまう。そして評価を高めることで、更に篠山がシンジに執着することになるだろう。
 それを指摘した後藤に、シンジは「一応理解している」と答えた。

「だからと言って、後輩を見捨てるわけにはいきませんよ。
 あれでも、結構素直で可愛いやつだと思っていますからね」
「確かに、君の性格ならそう言う答えになるんだろうな……」

 そうかと一人納得した後藤は、自分のビールを冷蔵庫から取り出した。

「お酒を飲めるってことは、とりあえず落ち着いたということですか?」
「まあ、お察しのとおりというところだな。
 オットー司令が、顔色を変えて飛び出していったよ。
 従って、しばらく彼らは自分の都合と言うやつで忙しくなっている。
 日本に対しても、あれ以来何も言ってきていないようだ」

 そう説明して、後藤はぐいっとビールを開けた。その態度を見る限り、今は本当に何も言われていないのだろう。それを理解したシンジは、「嫌だな」とつぶやき少し小さなため息を吐いた。

「嫌ってのは、今の君達の置かれた立場ということか?」
「そうやって慌てられると、自分が何か化物になった気がしてならないんですよ。
 もうちょっと、冷静な目で僕達のことを見てもらいたいんですけどね……
 普通の人間に、世界を破滅させる真似なんて出来るはずがないのに」

 もう一度嫌だと零したシンジに、「仕方のない事だ」と後藤は慰めの言葉を掛けた。世界が一度滅びかけたと言うはっきりとした事実があり、その詳しい仕組が解明されていないのだ。もう一度同じことが起きないと言う保証がどこにもなければ、誰もが過剰に恐れることになってもおかしくはない。
 しかも、使徒と呼ばれる存在との出来レースが終わったにも関わらず、ギガンテスなる巨大生物が襲ってくるのだ。その仕組もまた、何一つとして解明されていない。世界はまだ、訳の分からない恐怖に囚われたままなのだ。

「今の君が、世界を壊そうと考えないのは理解しているつもりだ。
 記憶操作の前でも、君からはどうやって世界を壊したのかは聞き取れなかった。
 そして厳重に記憶操作をされているのだから、そのことを思い出せないはずなのだ。
 そういう意味では、アサミちゃんと仲良くやってくれとしか言いようがない。
 そうすれば、世界を壊そうと言う気も起きないだろう」
「もう一度壊すことができるんだったら、今の世界が続いているとは思えないんですけどね」

 ふうっと缶のジュースを飲み干したシンジは、明日のことを確認することにした。当初の予定はオフ日となっているのだが、今の情勢ではどう転ぶか分かったものではないのだ。そしてもうひとつの問題は、あまり基地から遠くに離れる訳にもいかないことだろう。

「明日かぁ……確かに、遠くに行っているのはマズイだろうな。
 近場の海と言っても、車で1時間ぶっ飛ばす必要があるしな……」
「だとしたら、ホテルのプールででも遊んでいますか。
 後は、ちょっと街に出て時間でも潰すことにしますよ」
「勉強はしなくてもいいのか?」

 受験勉強を始めたのなら、遊ぶ間もなく勉強しなくてはいけない。自分の経験を持ちだした後藤に、シンジは口元を歪めて「管理していますから」と答えた。

「あんまり詰め込むと、すぐに息切れしてしまいますからね。
 適度な気分転換をすることで、より後からの勉強に集中できるんです。
 そのあたりをコントロールしないと、すぐに行き詰ってしまいますよ。
 それで後藤さん、この後カサブランカ基地はどう出てくるんでしょうね?」
「君が沢山爆弾を落としたから、その後始末がどうなるかと言うところだろう。
 シミュレーターのデータチェックだって、一朝一夕で終わるものではないからな
 後は、あちらのエースパイロットさんの問題も解決しなくちゃいけない。
 そして解決したからと言って、もう一度君とぶつける勇気があるかと言う問題もある。
 カサブランカ基地として、迂闊に動く訳にはいかない状況に落ち込んでいるんだよ」

 そう状況を整理した後藤は、考えられるシナリオとして「打ち切り」を持ちだした。

「必要な情報と言う意味であれば、すでに多くの情報を得ていると考えられる。
 そしてこれ以上の混乱を望むはずが無いのだから、カサブランカ基地訪問は終了ということだ。
 アメリカでは日程が延びたが、結果的に当初予定通りで帰国することができるだろう」
「ギガンテスの襲撃はありませんか?」

 現時点では、カサブランカ基地の迎撃能力に深刻な影響が出ている。それを考えると、また自分達の居場所が問題となるのだ。
 そんなシンジの疑問に対して、後藤はとても不確かな保証をした。

「これまでの経験上、立て続けにギガンテスが襲ってきたことはない。
 その経験を踏まえるのなら、次の襲撃までには2、3週間の猶予があるだろうな」
「カサブランカ側に、十分な時間が与えられると言うことですね」

 それならば、自分達が日本に帰っても問題とされることはないだろう。それを理解したシンジは、ホッとしたように息を吐きだした。

「なんだ、やっぱり疲れたか?」
「そりゃあ、日本を出る時から色々とありましたからね。
 非日常を2週間以上も続ければ、やっぱり精神的に疲れますよ。
 遊びだけならいざ知らず、けっこうハードなことが沢山あったんですよ」

 ブルックリン南の戦いは、その最右翼に考えられるものだろう。確かにハードだと認めた後藤は、「ご褒美」を持ちだした。少なくとも、彼らジャージ部はご褒美を受け取る資格が十分すぎるほど有ると思っていた。

「ここまでの協力に感謝する意味で、温泉旅行にでも招待しようか?」
「そうやって、外を出歩くのも結構疲れるんです。
 ここに来る前に手帳でスケジュールを確認したんですけど、すでに結構埋まっているんです。
 お誘いには感謝しますが、少しは家でのんびりさせてください。
 後は、妹を野放しにしているのも心配ですから……」

 きっと鬼のいぬ間にと、宿題もせずに怠けまくってくれているだろう。それが分かるだけに、結構憂鬱な気持ちになってしまう。また夏休み最終日に大慌てすることになるのだろうか。それだけは絶対阻止すると、シンジは心の中で誓っていた。

「妹さんか……」

 ちょっと待てと言って、後藤は報告書を端末から呼び出した。本来監視対象には秘密にすべきものなのだが、隠しても意味が無いと存在を開帳することにした。自分の立場を理解していれば、観察されていることぐらい気づいてしかるべきなのだ。

「ここの所、部活の副部長と一緒に居ることが多いと言う報告が来ているな。
 乾サナと言う子は、確か君と同じクラスだったはずだな」
「ええ、結構きついことを言われていますよ……
 でも、夏休み中は料理部の活動は無いはずなんだけどな……」

 サンディエゴに出発する時、クラブ活動がないことはキョウカから聞いていたのだ。それを考えると、料理部の副部長と行動する理由に心当たりがなかった。

「それに、レイと乾さんってあんまり付き合いがなかったような……」
「多分、前の彼女絡みで色々とあったからじゃないのか?」
「ああ、篠山が乾さんに連絡を入れていましたね……」

 同じ部活に居るのだし、アイリの事件では一緒に走り回った関係でもある。それを考えれば、後藤の言うとおり付き合いが深まってもおかしくはないのだろう。チクリと胸に痛みは感じたが、シンジは敢えてそれを無視することにした。

「まあ、日本に帰れば分かることですね」
「確かに、日本にさえ帰れば細かなことも分かるだろう。
 今のままなら、滞在期間が伸びることはないから大丈夫だろう。
 何しろ、カサブランカ基地が大騒ぎとなっているのは確かだからな。
 新しい動きが出たら、すぐに教えることにしよう」
「途中で寄り道って無いですよね?」

 日本に帰ることが見えてきただけに、シンジは予定が引き延ばされることを心配した。事実アメリカでは、予定になかったワシントン訪問が組み入れられていた。同じことがヨーロッパでは起きないと、誰が保証してくれるだろうか。
 そんなシンジの言葉に、「それはないだろう」と後藤は予想を口にした。

「そもそもそんな話が有るのなら、最初から予定に組み入れられていたはずだ。
 それから、ヨーロッパの場合、どこに行くのかと言うのも問題になる。
 特定の一カ国だけ訪問すると言うのは、乗り継ぎ以外では考えられないな」
「だったら、いいんですけどね……」

 少し安堵の表情を浮かべたシンジは、「ありがとうございます」と後藤に対して頭を下げた。その予想外の行動に、後藤は少しだけ慌てされられた。

「おいおい、お礼を言うのはむしろこちらだろう?」
「それでも、お世話になっているのは間違いありませんよ。
 後藤さんのお陰で、色々と得がたい経験をさせてもらったと思っています」

 だから感謝するのだと言ったシンジに、そういう事ならと後藤は表情を緩めた。

「まあ、素直に礼を受け取っておくか。
 ところで、その代わりと言っては何だが……
 日本に帰ってから、もうちょっと協力してくれないか?」
「……これ以上僕を忙しくしないでください」

 だから却下と、シンジは後藤の頼みを即座に断ったのだった。



 その翌日は、世界遺産観光も予定から外されることになった。そのあたりは、もともと予定していた場所を、すでに訪問してしまったという事情も大きい。近場でいけるところを回ってしまったので、これ以上は宿泊が前提となってしまうのだ。帰国が見えて元気が回復した少女たちも、その説明で仕方がないと妥協してくれた。
 それもあってか、朝食時間は9時とかなり遅めに設定された。その遅い朝食に集まったジャージ部員たちに、ツアコン葵は「本日の予定」と真面目に切り出した。

「と言っても、今日は特に予定は入っていませんけどね。
 ホテルのプール等で遊んでもいいし、近場でお土産を買いに行くのもいいですよ。
 映画館とかもありますけど、こっちの言葉はわからないと思いますから……」
「……引っかき傷に見えますから、あれは」

 さすがのシンジも、アラビア語にまでは知識が及んでいなかった。何しろ、ここに来る時の機内で挑戦したのだが、気がついたら眠りに落ちていたと言うシロモノである。眠り薬に良さそうなのだが、今まで不眠で悩んだこともないので必要性も薄かった。そういった事情で、アラビア語習得は後回しにされた。
 シンジの言葉を認めた葵は、一日の過ごし方として「まったり」とした物の希望を取ることにした。

「そう言う事で、みなさんの希望を確認したいと思います。
 ホテルでのんびりしたい人は手を上げてください」

 葵の問いかけに、シンジとアサミの二人が揃って手を挙げた。その答えに、当然のように葵からちゃちゃが入れられた。

「はい、そこの新婚さん、朝っぱらからですかぁ?」
「葵さん、路頭に迷わせてあげましょうか?
 と言う馬鹿なノリは置いておいて、フィットネスセンターに行こうと思っているんです。
 こっちに来て、ちょっと体を動かしていないなぁって気がするんです。
 トレーニングしておかないと、日本に帰ってからキツそうですから」

 きっと色々な部活から、助っ人要請が飛び込んでくることだろう。それを思うと、体をなまらせるわけにはいかなかったのだ。

「堀北さんもそうなの?」
「日本に帰ったら、周りの目を気にしないといけないですからね。
 だから、こっちにいる間はできるだけ一緒にいたいなぁって」

 言っていることは間違っていないが、やっていられない気になるのはどうしてだろう。「暑いなあ」と首筋の汗を拭った葵は、マドカ達にも希望を聞くことにした。
 葵に話を振られたマドカは、少し考えてからホテルに残ると答えた。

「外のプールも綺麗になったみたいだし、泳ぎながらのんびりしようかなって。
 ここの所勉強ばかりしていたから、少し気分転換したほうがいいと思うし……」
「鳴沢さんも同じですか?」
「そうね、マドカちゃんを一人にしておくと何が起こるか分からないから」

 予想通りの答えに、「仲がいいんだな」と葵は微笑ましい目で二人を見た。高1からジャージ部を二人で切り盛りし、大学も同じ所を目指している。こうして旅行に来ても、いつも一緒に行動している。「女同士の友情」と言うキーワードに、素敵だなと心のなかで羨ましがっていた。

「じゃあ、篠山さんはどうします?」
「俺か……」

 そこでシンジの方を見たのは、個人的願望がそちらにあったからなのだろう。だが恋人同士が一緒にいるのに、どうしてそれを邪魔することができるだろうか。遠慮を身につけたキョウカは、マドカ達と合流することを選択した。

「迷惑でなければ、遠野先輩達と一緒に遊ぼうと思う」
「迷惑なんかじゃないよぉ。
 ねえナルちゃん」
「そうね、マドカちゃん。
 あぶれ者同士で、仲良くしましょう」

 ナルが同意したことで、話はまとまったことになる。「分かりました」と手帳にメモを書き込んだ葵は、自分はプールに付いて行くと宣言した。

「トレーニングは、堀井さんの方が得意ですからね」
「当てられたくないって正直に言えばいいのに……」

 ナルの突っ込みに、ちっちと葵は人差し指を振った。

「みなさんにも、私の美しい水着姿を見せておこうかなって。
 と言うことで碇君、プールに覗きに来てもいいわよ」
「別に覗きに行ってもいいですけど……
 綾部さんが参戦しても知りませんからね」

 比較になるのかと胸元を見られ、葵は両手で隠しながら「着痩せするのだ」と言い返した。

「じゃあ、適当にトレーニングをしてから行きますけど……」

 ジャージ部の女性プラス綾部と言うのは、見た目については極上に近づいている。それと勝負しようとする葵に、「チャレンジャーだな」と呆れたのだ。もっとも見て損をするものでもないので、有り難く鑑賞させて貰うことにした。その辺りは、どこまで行っても健全な高2の男だったのだ。



 その頃カサブランカ基地は、後藤の言葉通り上を下への大騒ぎとなっていた。シミュレーションデータに疑義が生じたことから始まり、エースパイロットに非常事態が生じたのである。大騒ぎとなるのも、至って当然のことだった。
 もっとも慌てているのは、主に技術畑の人間達となっていた。

 一方のパイロット達は、意外に慌てていないというのが実体だった。そのあたり、パイロットには伝えられない事情と言うのがあったし、前日のおかしさを彼らも目撃していたという事情もあった。

 本来エースの不在に関わらず、パイロット達は訓練に勤しむべき所である。だがもう一つの理由で、その訓練も休業状態となっていた。その理由というのが、シミュレーターの正当性確認が終わっていないというものだった。
 つまりカサブランカ基地は、事実上開店休業状態に追い込まれたのである。それが一人の民間パイロットのせいだと言うのだから、文句の一つも言いたくなるのも当然だろう。もちろん、文句を付ければ「言いがかり」と切り返されるものなのだが。

「あーっ、カヲルが居ないので俺が代理なんだが……
 指示があるまで、特別休暇が全員に与えられることになった」

 カヲルの代理と言う事で、エリックは頭を掻きながら全員に休暇を伝達した。リーダーが不在なのに加えて、シミュレーターが使えなければ休むほかはなかったのだ。

「制限事項は、全員連絡の付くところにいること。
 カサブランカ市内から出ないことぐらいだ」

 いいなと確認したエリックに、「質問」と言ってライラが手を挙げた。

「本当に、それ以外の制限はないの?」
「それ以外は、法令を守れと言うぐらいだろう。
 当然未成年の俺たちは……宗教的にも駄目な奴は居るが……飲酒等は許可されていない。
 あと、らりって使い物にならないような薬も不許可だ。
 緊急時にいつでも出撃できるようにすると言う、今更持ち出すまでもない制限ぐらいしか付いていない。
 当然、日本側との接触も禁じられていない」

 自分の期待を理解した答えに、「だったら」とライラは更なる情報を求めることにした。

「当然、シンジ様達の行動計画も掴んでいるのよね?」
「一応、いざという時のために申告は来ているな……」

 いくら当分襲撃はないと言われても、備えだけは必要となってくる。ちょっと待てと、エリックは手元の端末を操作した。

「今日は、ほとんどホテルから出ないことになっているな。
 だいたい、フィットネスルームとプールに居ることになっている。
 外に出ても、せいぜいショッピングぐらいと申告されているな」

 そこまで説明したエリックは、「ところで」とライラに質問することにした。

「いつから、「シンジ様」に変わったんだ?」
「だってぇ、うちのへたれと格が違うのを見せつけられたでしょう?
 エリックだって「アサミ様」なんだから、別に問題は無いと思うわよ」

 別にそのことで非難するつもりも問題視するつもりもなかったのだが、エースのことを「へたれ」と言うのは可哀相だと思えてしまった。だが冷静に見つめ直してみると、「へたれ」と言われても仕方の無い状態だった。それに相手が「颯爽」と現れたヒーローだと考えれば、崇拝に似た気持ちが起きても仕方の無いことだろう。それだけ自分達も、ギガンテスとの戦いに疲れていたのだ。
 この先の行動が見えたこともあり、エリックは必要な注意を全員に出すことにした。このあたりについては、チキンレースが継続していると言う事だ。

「くれぐれも注意しておくが、基地の外では彼らが民間人だと言う事を忘れないように。
 気が緩んで迂闊なことを口にした場合、冗談では済まないペナルティが発生する。
 口を酸っぱくして繰り返すが、彼らは単なる観光客だと言うことを忘れるな!
 従って、基地の外ではヘラクレスやギガンテスのことを口にすることを禁じる」
「シンジ様達が「パイロット」だと分からなければいいのよね?」

 自分達がパイロットであることは知られているのだから、逆に話を避けるのも不自然だというのだ。特に相手の口実が基地見学なのだから、それに沿った話であれば問題が無いとライラは主張した。

「確かに、基地見学が口実なのは確かだからな。
 その程度の話題なら、特に禁じられることはないだろう。
 こっちの方が偉いんだという立場を演じれば大丈夫だろう」
「で、エリックはどっちに行くの?
 私たちは、シンジ様に会いに行くわよ」

 女性にとって、異性として目標となるのはシンジ一人なのである。だからライラが言う通り、彼女たちはシンジの現れるところに行くことになる。
 だが男の方となると、結構目移りする状況となっていたのだ。当然堀北アサミという綺羅星は居たのだが、相手が強力すぎて見ていることしかできない状況だった。それに比べれば、他の3人も十分以上に魅力的だった。シンジと行動を共にしていないと言うのも、ポイントとしてはかなり高かった。

「他の3人はプールと言うことだな……」

 しかも3人揃って水着姿だというのだ。しっかり下心を抱いたエリックは、「プールに行く」と主張を曲げた。そしてハリドとエンゾの二人も、「プール」に行くと主張した。そのあたりシンジが不人気と言うより、邪魔をしたらあとが怖いと思っていたのかもしれない。

「じゃあ、最初は別行動ってことね?」
「たぶん、後で合流することになるだろうがな」
「どっちが?」

 少し意味をつかみそこねたライラに、「そっちが」とエリックは確定した未来のように断言した。

「シンジ碇が、トレーニング“だけ”しているとは思えないからな。
 そして合流するのなら、間違い無くプールの方に来ることだろう」
「うんうん、ベッドで見るのとプールで見るのは違うからね」

 そうやって納得されると、シンジと言うのはよほどスケベだと思われているのだろう。ただ多少のヤッカミはあったにしても、事実を言い当てているからたちが悪かった。

「と言う事で野郎ども。
 麗しき日本の美少女様を鑑賞に行くぞ!
 しかも相手は、裸同然の水着姿だっ!」
「も、もしかしてスク水ですか!?」

 期待を込めたエンゾの言葉に、「可能性はある!」とエリックは断言した。

「相手はずっとジャージで通してくれたんだ。
 ならばプールでスク水にならなくては手落ちというものだろう!」

 全く保証にならない保証なのだが、なぜかエンゾとハリドはよしとばかりに拳を握りしめた。どうもこのあたり、日本人女子に対する間違った認識が伝わっているのかもしれない。もしかしたら、ネットという狭い窓から見ている弊害なのだろうか。世界が小さくなったといっても、やはり極東の地は物理距離的に十分に遠かったのだ。



 パイロットたちが下心を表に出していた頃、一人の女性が難しい問題に直面していた。彼女のエメラルドグリーンの視線の先には、頭に電極を沢山つけたカヲルが眠っている。そして手元のモニタには、カヲルの脳内電流のマップが表示されていた。
 年齢的には、カヲルよりはずっと歳上なのだろう。濁りの無い金色の髪に、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳。抜けるように白い肌と、綺麗に通った鼻筋と言う特徴は、造形さえ間違わなければ「美女」と言われる条件を満足していた。そしてその女性マディソン・ブリッジは、いささか野暮ったい白衣をまとっていても、周りの目を引き付ける美貌を誇っていた。

「カヲルの場合、記憶が戻っても危険度は低いのだけど……」

 昨夜から行った処置を記録しながら、「怖いな」とマディソンはもう一人の少年のことを思い出した。懇親会で遠目から見ただけでは、特に光るものは感じさせられなかった。ただ他人の行ったヒアリングでは、平凡ならざるものをそこから見つけることができた。それを考えると、マディソンはサンディエゴ基地の失態が恨めしくなる。彼らの失態がなければ、自分が直接ヒアリングを行うことができたのだ。
 だから「怖い」と思いつつも、興味がどうしてもシンジの方に行ってしまうのだ。

「サードインパクトの依代として、病的なまでに記憶の封印措置が行われている。
 それにもかかわらず、パイロットとして非凡な才能を示してくれている。
 しかも、基礎能力で劣っているのに、二人に対して優位な立場を構築した……か」

 マディソンも、シンジに施された記憶操作ログを熟読した口なのだ。「病的」と言うのは、そのログを読んでの素直な感想だった。何重にも施された記憶の改竄のせいで、きっと元の姿を思い出すことはできないだろう。思い出したつもりでも、どこかに嘘が混じってしまうのだ。
 ただ記憶操作はできても、才能を埋め込むことは不可能なのだ。もしも出来る事があるとすれば、阻害要因を抑圧することだろう。だが記憶操作のログには、そのような試行が行われた形跡はない。そしてそれは、操作後の観察記録からも明白なことだった。だとしたら、今示している才能は、もともとシンジが持っていたものと言うことになる。

「両親を考えれば、かなりの才能を期待できるのは分かる。
 頭の回転が早いところは、間違い無く両親から受け継いだものだろう」

 ただ人の成長に関しては、遺伝と同様に後天的な物が大きく影響してくる。チルドレン時代にも芽が出なかったのは、間違い無く劣悪な環境が理由となっているのだろう。そうだとしたら、今の環境は彼にとって見事にマッチしていたことになる。

「何が彼の才能を花開かせたのか……
 ジャージ部なる集団が大きな意味を持ってくるというのか?」

 それがどんな作用を与えたのか、マディソンがそれを考えようとした時、手元のモニタに緑色のサインが点灯した。個人的な考察に比べ、遙かに重要な仕事が次の段階へと移行した合図だった。

「今回カヲルに手を加える必要はない。
 不安定になりはしたが、幸い処置が早かったので大事には至らない」

 その危険性にしても、何も知らないはずのシンジ碇から指摘されたと聞かされている。それを指摘できたと言うことは、シンジ碇は自分に施された精神操作を自覚していることになる。

「精神操作が、逆に疑念を抱かせる結果となった。
 そしてゴトーが、その事実を認めたことがきっかけとなっている。
 それにしても、よくそれだけのことでここまで真実に迫れたものね」

 シンジが後藤に話したことも、報告書としてまとめられていた。その報告書では、シンジが自力で自分がサードチルドレンであったことにたどり着いたと記載されていた。幾つか残された手がかりを集め、広大なネットの中から必要な情報を取捨選択したのだろう。そして自分の置かれた状況を背景に、ほとんど真実にたどり着いてくれたのだ。それは、マディソンをして、「よくもここまで」と思わせる推理の切れだった。
 少し間が開いてしまったが、マディソンは次のプロセスに移ることにした。もともと施した精神操作には手を加えず、ほんの少しだけ自信を取り戻させればいい。相手が年頃の男だと考えれば、その方法は意外に簡単なものがあったのだ。

「本当なら、シンジ碇と寝てみたいのだけど……」

 そうすれば、今まで以上の観察が可能となる。うまくいけば、どの程度まで記憶操作が綻んでいるのか測定することもできるだろう。それが危険な火遊びであるのは理解しているが、追求してみたくなるのが科学者としての性だった。
 ただ、周りを固めている女性を見れば、それがどれだけ難しいことか分かってしまう。恋人に夢中だと言うのもそうだが、付き添いの女性を含め固いガードがなされているのが分かってしまう。たとえ自分の美貌を持ってしても、それを乗り越えるのは不可能としか思えなかったのだ。

 ふっと小さく息を吐いたマディソンは、レポートに行った処置と結果を記入した。この結果を見れば、小心者の基地司令も大人しくなることだろう。もっとも彼の身分が、これからも保証されるとは限らないのだが。
 対象Kのことに全てが優先されると言うのは、あくまでカサブランカ基地の都合でしかない。交渉のテクニックとは言え、日本に対して言いがかりをつけてしまったのだ。それが基地内で収まっていれば傷は浅かったが、EUまで巻き込んだのは失敗だった。このまま放置すれば、日本との関係は決定的に悪化する。どちらに付くのが有益かを考えれば、サンディエゴ基地は日本につくことだろう。

「それだけ、ゴトーと言ったかしら。
 あちらの司令が優秀ってことかしら?」

 アメリカでは、トーリ司令の首を飛ばし、大統領まで引っ張りだしてくれた。そしてここカサブランカでは、オットー司令の首を飛ばそうとしている。いずれも基地側の自爆行為があったとしても、それを利用するのは別の才能が必要なはずだ。日本人の政治ベタは有名なのだが、中には例外もいると言うことだろう。

「これでカヲルの処置は終わるけど……しばらく対象Iに合わせない方がいいわね」

 ほとんど操作を加えていないとは言え、また不安定さが顔を出したら目も当てられない。二度も同じ事を繰り返せば、対象Iにも不信感を抱かせることだろう。

「司令には、バカンスは終わりと上申すればいいかしら……」

 そうすれば、日本人高校生たちのカサブランカ基地滞在も終了となる。これ以上の接触が混乱しか招かないことを考えれば、打ち切ることも有効な選択のはずだ。そうすべきと結論をつけたマディソンは、端末から終了コマンドを打ち込むことにした。念のための措置も、やりすぎれば逆に悪影響を出す可能性もある。

「対象Iとカヲルの違いはどこから来たのか。
 研究テーマとしては、面白いのかもしれないわね。
 あらっ、接触不良かしら?」

 終了コマンドを確定しようとした時、モニタのマップが一瞬だけ揺らいだのに気がついた。まるで瞬きをするように揺れた画面は、次の瞬間何事もなかったように元の表示に戻っていた。脳内電流マップだけ動いたのなら異常だが、画面全体となると何かの不具合の可能性が高かった。

「こんなところにまで、低気圧の影響が残っているのかしら?」

 雨は嫌いだ。そう呟いて、マディソンは終了を確定させたのだった。



 カサブランカ基地司令の命運は、対象Iを理由に喧嘩を売ったところで尽きていたのだろう。各国への根回しこそ先手を打つことが出来たのだが、その後の対応で見事にひっくり返されてしまったのだ。そうなると、後手に回ったとは言え日本が断然有利になってくる。特に対象Iが、アメリカに恩を売ったことが大きくモノを言っていた。
 コーチの奇跡を演じただけでなく、アメリカではそれを凌ぐ奇跡を見せつけてくれたのだ。名前の出されていない日本の高校生達は、今や世界の注目を集める存在でもあったのだ。

 その世界の英雄に言いがかりを付けたとなれば、世論がどちらを応援するかなど火を見るよりも明らかだった。そうなると、EUの高官達も保身に走らざるを得なくなる。彼らにしても、たかが基地司令のために自分の首をかけるわけにはいかなかったのだ。
 しかも対象Kに関する失態が、彼の更迭を決定的なものにした。危険性を他者に指摘されるまで気づかなかったことに、高官達は彼の司令としての不適格性を確認したのである。そしてオットー司令解任をもって、騒動の幕引きを図ろうとした。だがその判断すら甘いことを、後から彼らは思い知らされることになるのだった。



 いい気持ちでデッキチェアに寝転がっていたら、突然エリックの脇にあった携帯がうるさく騒ぎ立てた。一瞬居合わせた全員に緊張が走ったのだが、すぐに緊急呼び出しと音が違うことに気づいた。

「何かあったの?」

 それでも公用携帯だと考えると、私的メールが入るとは思えなかった。大きな胸を揺らして近づいたマリアーナは、エリックから少し離れて声を掛けた。その辺り、近づくことに危険を感じた……と言うわけではなく、携帯電話に水をかけないようにと言う配慮からだった。その配慮の理由は、ここのところ水に敏感になっていた所が大きい。いくら防水と言われていても、万が一を考えるようになってしまったのだ。

 緊急呼び出しで無いのだから、エリックの反応はゆっくりしたものだった。ゆっくりとパスコートを入力し、そして送られてきたメールを画面に表示した。だがその中身を見たところで、エリックは少し深過ぎるため息を吐いてしまった。

「なによエリック、大きなため息を吐いて」

 遅れて近づいてきたライラは、エリックのため息の理由を尋ねた。そんな二人に向かって、エリックは真面目な顔で「基地司令の更迭」を伝達した。昨日から上層部がどたばたしていたのを感じていたのだが、これでその正体も判明したと言う事だ。

「これで、両基地とも司令の首が飛んだことになる。
 言い方は悪いが、たかが民間人の基地訪問が有っただけなのにな……」
「シンジ様のことを、“たかが”と言うのは許せないわね」

 二人揃って睨まれたエリックは、「世間的にはそうだろう」と言い返した。自分が「たかが」と言った相手が、そんな生やさしいものでないのはエリックも重々承知していたことだ。
 それが分かっていても、エリックは外面というのを問題とした。内部事情を知らない者に、この騒動がどう見えるのかが問題だと言うのだ。

「両基地とも、特別な客を迎えたわけではないんだぞ。
 日本から、ハイスクールの生徒が見学に来た以外のイベントは起きていない。
 と言うのが、外から見た両基地の状況だったんだ。
 それなのに、なぜか基地司令が更迭されることになった。
 アメリカはいい、司令更迭にかこつけて基地の再編をやったからな。
 だが、うちはそんな動きは全くなかったんだぞ。
 つまり、オットー司令の首が飛ばされたことだけが事実として残ってしまうんだ」
「確かに、理由なんて公表できないわね」

 日本から来たパイロットのことを公開できないのだから、その対応を更迭の理由にすることはできない。そうなると、世間から見て誠に不可解な交代劇となることだろう。それを口にしたマリアーナに、「口実ならいくらでも立つ」とライラは自慢げに口にした。

「一番簡単なのは、健康上の理由ってやつよ。
 医者の診断書なんてでっち上げればそれで済むでしょう?
 多分、それが一番騒ぎとしては小さくなると思うわ。
 叩けば埃は出そうだけど、それでクビにすると騒ぎが大きくなるでしょう」
「まあ、健康上の理由なら確かに妥当なところか。
 と言うか、それぐらいしか理由がないのも確かだろう」

 まったくと、エリックはプールで遊ぶシンジの方へと視線を向けた。美少女に囲まれていると言う極めて羨ましい状況に置かれた男は、両基地の司令系統をぶち壊してくれたのだ。そしてどちらの基地の被害が大きかったかと言うと、エースまで壊れたカサブランカの方だろう。しかも質が悪いのは、カサブランカ側は何もヘマをしていないことだった。その辺り、オットーの動きをエリック達が知らなかったという事でもある。
 ただシンジに言わせれば、もっと自分は何もしていなかったのだ。むしろ積極的に協力し、出し惜しみをすることなく情報も提供した。行われた訓練およびヒアリングに対しても、何一つとして文句を言っていないはずなのだ。だから、司令更迭の責任を持ってこられても困るのである。

「で、新司令は誰になったの?」
「発表は17時からと言う事になっているな……
 今頃、フランスあたりで出発準備をしているんじゃないのか?」
「それで、私達への指示は変更になったの?
 たとえば、今すぐ基地に帰投しろとか?」

 せっかく楽しく遊んでいるのだから、ここで呼び出されてはたまらない。そんな気持ちを込めたライラの言葉に、「連絡はない」とエリックは断言した。基地にとって司令更迭は一大事のはずなのだが、一介のパイロットにはどうでもいい話のようだった。

「ギガンテスの襲撃でもない限り、特別休暇が取り消されることはないだろう。
 従って、俺達は順番に携帯のお守りをしていればいいということだ」

 そこで時計を見たエリックは、ニヤリと笑ってデッキチェアから立ち上がった。散々お預けを食らったのだが、そのお預けも終わりを迎えたのだ。

「おーいエンゾ、次はお前が電話の番だぞぉっ!」
「ええっ、もう順番なんですかっ!」

 「せっかく楽しく遊んでいたのに」、エンゾの気持ちを代弁するならまさしくそう言うところだろう。がっくりと肩を落としたエンゾは、恨めしそうに壁に掛けられた時計を見た。だがいくら睨みつけても、時計の巻き戻されるはずもない。エリックの言うとおり、最初に決めた交代時間になっていた。

「せっかく、スク水を鑑賞することができたのに……」

 もう少し親しくなれば、きっと手触りも確かめることができたに違いない。その機会が遠のいたことに、エンゾはまるで世界が終わりを迎えたように嘆き悲しんだ。だがいくら嘆き悲しもうとも、約束は約束なのである。もちろんエリックも、エンゾが嘆き悲しむ気持ちは大いに理解していた。

「気持ちは分かるが、全員が分担すると約束をしただろう。
 なぁに、プールサイドから見る景色も捨てたものではないぞ」
「ハリドと代わるまで、そう自分を慰めるしか無いんですね……」

 ふうっっとため息を吐いたエンゾは、今までエリックの座っていたデッキチェアに腰を下ろした。そして視線を隠す目的で、少し濃いめのサングラスを掛けた。こうすることで、ごく一箇所を凝視していてもばれることはないと思ったのだ。実のところ、日本から来た4人だけでなく、カサブランカの4人もとても美味しそうな胸元をしていた。

 エンゾと交代してプールに入ったエリックは、一応知らせておくかとシンジの所に近づいた。けして、水着姿のアサミを間近に見られるという下心からではない……はずだ。

 「一応知らせておく」と声を掛けたエリックは、カサブランカ基地司令交代をシンジに告げた。

「これで、サンディエゴ、カサブランカと司令の首が飛んだことになる」
「ぼ、僕のせいじゃないですよ」

 すかさず責任回避をしたシンジに、どうだかとエリックは冷たい視線を向けた。だがアサミに睨まれ、「可愛いな」と感動しつつ、「そういう事だ」と言い残して離れていった。絶対に自分の目がないことは分かっていても、こんなことで株を下げるわけにはいかなかった。

「先輩、一体何があったんですか?」

 さすがに二人の話を聞き取ることはできなかったが、シンジが言い訳をしたのだけは理解することができた。エリックが居なくなったのをきっかけに、アサミはシンジに事情を聞いた。

「カサブランカ基地司令が首になったそうだよ」
「凄いですね、これで先輩が二つの基地の司令さんを首にしたんですね」

 エリックは視線だけだったが、アサミははっきりとシンジのせいだと言い切ってくれた。サンディエゴでは心当たりはあるが、カサブランカは言いがかりだと言いたかった。だが元を正せば、意図的ではないにしろ、カサブランカのエースを潰したことが原因となっているのだ。アサミの言うことは、あながち間違ってはいなかったのだろう。
 ただシンジとしては、何一つとして難癖をつけた記憶が無いのだ。大声で言っていいのなら、自爆だろうと叫びたかった。

 だが現実は、そんなことを大きな声で言えるわけがない。そしてアサミが言った通り、第三者がどう見るかが問題だったのだ。

「アサミちゃんにまで言われるんだから、他の人もそう思っているんだろうなぁ……」
「ええ、お陰でエリックさんの視線の意味も理解できました。
 先輩のことだから、自分のせいじゃないって言ったんですよね?」

 どうしてそこまでお見通しなのか。よほど分かりやすい性格をしているのかと、シンジは自分の事を見直そうと思った。

「そんな顔をしないでください。
 これでヨーロッパに恩を売れば、先輩は世界の英雄になるんですからね」
「そういう大げさなのはゾッとしないんだけど……
 あと、世界を言うんだったらアジアを忘れちゃいけないよ」
「何れにしても、そう遠くはない未来のことだと思いますよ」

 これから先もヘラクレスに関わるのなら、アサミの言うことに間違いはないのだろう。本来英雄になると言うのは、心沸き立つもののはずだった。だが少しも嬉しくないと感じるのは、一体どういう理由だろうか。

「きっと先輩達の待遇が悪すぎるんだ!」

 ここで言う先輩というのは、西海岸のアテナと砂漠のアポロンのことである。著しく自由の制限された彼らを見ると、英雄と呼ばれても何ひとつもいいことがないように思えてしまうのだ。籠の鳥は自分の希望する未来では絶対にない。だから英雄なんかになりたくないと、シンジは心のなかで強く願ったのだった。



 プールでの親睦会は、エリック達がいなくなる16時まで続けられた。さすがに遊び疲れたのと、17時から新司令の発表がお開きの理由である。かなり心残りがある顔をしていたエリック達だったが、任務をおろそかにするわけにはいかなかった。それにシンジ達にも、一日中遊んでいるわけにはいかない理由があった。

「勉強会の前に、後藤特務一佐からお話があるそうだ」

 水着になっても凄かった。とても50近いとは思えない肉体を見せた堀井は、少し申し訳なさそうにシンジ達に時間をくれと申し出た。

「珍しいですね、堀井さんからそう言う話が来るのは?」

 今までは、約束もなく後藤が押しかけてきていた。そのたびに冷たくあしらわれていたのだから、多少は学習効果があったのだろう。だがそんなことを堀井が口にするはずもなく、「状況が変わったのだろう」とだけ説明した。それだけで、今回のことだとシンジにはピンときた。
 もちろん、分かったのは高校生の中でシンジだけだった。勘の鋭いアサミでも、何のことか理解していなかった。葵にしてみれば、分かる方がおかしいと言う例のやつである。

「じゃあ、各自シャワーを浴びてから勉強部屋に集合してください。
 それから堀井さん、後藤さんには1時間後ということにしてくださいね」
「ああ、今からなら妥当な時間だろう」

 プールサイドの時計で時間を確認し、堀井は葵に目線で合図を送った。そこでシンジは、葵がプールに来ていたことを思い出した。だが存在感がなかったと口にするのは、あまりにも葵に可哀想だろう。日本人は珍しいはずなのに、どう言う訳か全く目立ってくれなかったのだ。

「じゃあ、先輩達も17時までに勉強部屋に来てくださいね」
「後藤さんの話だったら、碇君が聞いておけばいいんじゃないの?」

 すかさず返ってきたマドカに言葉に、どうしてそうなるとシンジとしては文句が言いたかった。客観的に見て間違ったことは言っていないのだろうが、自分の事だと思えば話しぐらい聞こうという気になってもおかしくないはずだ。
 だがこのことで議論しても疲れるだけだ。それを理解しているから、シンジは「集まってくださいね」とだけ繰り返した。

「そう言う事なので、プールから撤収します!
 皆さんプールでお腹をすかしたと思いますから、今日はグリル料理ですよ!
 塊のお肉さんをおもいっきり頬張ってくださいね!」

 ツアコンとしての役目を果たした葵に従い、全員が荷物を持って付いていった。ツアコンとして2週間強が過ぎたため、しっかりお仕事が板についた葵だった。



 男の身支度など、さほど時間がかかるものではない。トレーニングとプールの疲労も若さで吹き飛ばし、シンジは勉強室ことリビングルームに一番乗りで現れた。その時の姿は、ホテルで買った薄い水色のパーカーに、紺色のハーフパンツと言うものだった。南国でもないのだが、気分はすっかり南国と言うところだろう。
 シンジの次に現れたのは、予想通りにマドカだった。普段と変わらぬジャージ姿に、なぜか安心してしまうシンジだった。

「やっぱり遠野先輩が二番手でしたか。
 随分と、準備が早かったんですね」
「そっかなぁ、シャワーを浴びるだけだから、あんまり時間は掛からないと思うよ」

 その辺り、全く化粧気のないマドカらしい言葉だった。そこそこ見た目がいいのだから、もう少し身の回りに気を使えばと思っていた。ただ自分が言っても駄目だと思い、その辺りはナルに任せようと諦めていた。
 そして次に、ナルとキョウカがほぼ同時に現れた。さすがにナルは、肌や髪の手入れをしていたのだろう。明らかに、マドカと肌のハリ・ツヤが違っていた。髪の毛にしても、ただ乾かしたのとは違う輝きがあった。

 そんなナルに、シンジは「ちょっと」と言って近づいた。そしてその耳元で、「遠野先輩ですけど」とマドカのことを持ちだした。

「余計なお世話かもしれませんが、肌とか髪の手入れをしたほうがいいって忠告してください。
 年頃の女性が、僕とほとんど変わらない時間で準備が終わるのは問題だと思いますよ」

 シンジの小声に合わせるように、ナルもシンジだけに聞こえるように答えてきた。ただその答えが、「今更手遅れ」と言うのはどういう事だろうか。

「そんなこと、今まで私が何度も注意しているわよ。
 今更私が言ったところで、マドカちゃんが手入れをするようになると思う?
 よっぽど碇君が注意した方が聞くんじゃないのかな?」
「そんなこと、僕が言って聞いたことがありましたか?」

 ないですよねと決めつけたシンジに、「ものには言い方がある」とナルは口元を歪めた。

「碇君が女心をくすぐってあげれば、マドカちゃんも素直な女の子になるわよ」
「あー、そう言う問題の多いことはしませんから」

 きっとナルの言うとおりにするのが効果的なのだろうが、それは問題をややこしくする副作用があった。だからシンジは、マドカのことにこだわるのを止めることにした。こんなものは、大学に入れば変わってくれるだろう、きっとそうだろうと思うことにしたのだ。
 そうやって話をしていたら、後藤が来る5分前にアサミが部屋から出てきた。こちらはマドカと比べるまでもなく、お化粧まで含めて完全装備が完了していた。このあたり、「絶対キレイな姿しか見せない」と言う強い意志の現れに違いない。何の変哲もないタンクトップとキュロットでも、ちゃんとコーディネイトすればここまで違うという証明にもなっていた。

 一番後で出てきたアサミだったが、そのままシンジの横に腰を下ろさなかった。「待っててくださいね」の言葉を残し、備え付けのキッチンへと向かったのである。このあたりの心配りも、がさつなジャージ部女性陣には無いものだった。ただ「慌てて」キョウカが後を追ったのは、直そうという心がけがあるからだろうか。真似をする相手として、アサミを選ぶのは間違っていないとシンジは感心した。

「さて、後藤さんが来る前に教えておくことが一つあります。
 カサブランカ基地司令のオットーさんが解任されたそうですよ」
「また、碇君が何かしたの?」

 どうしてここでも同じ事を言われるのか。何も考えていないマドカにまで言われるのだから、よほど自分は札付きなのだろう。シンジとしては、その辺りの責任は後藤に持って行って欲しかった。
 だが細かなことを説明するのも面倒と、「そう言う事です」と言ってそれ以上は言及しなかった。解任理由には想像が付いているが、不思議な顔をされるのが嫌でそれは止めることにしたのだ。

 とりあえず言うことは言ったとシンジが考えた時、アサミとキョウカが冷たい飲み物を持って現れた。“アイスドティー”と書かれたボトルには、茶色の液体がしっかりと詰まっていた。
 それを注ぎ分けたアサミは、キョウカと二人で全員に配った。入り口のチャイムが鳴ったのは、丁度全員にアイスティーが行き渡ったところだった。

「はぁい!」

 そう言って身軽に立ち上がったアサミは、そのままの身軽さでドアの方へと駆けていった。

「アサミちゃん、しっかり若奥様をしているわね」
「うんうん、なにか微笑ましいわね」

 高1の少女を捕まえ、若奥様は無いだろう。だがここで何かを言うと、余計な攻撃を呼び寄せることになる。突っ込みたいのをシンジがグッとこらえたところで、アサミが後藤を連れて戻ってきた。勉強会に乱入する時と違って、後藤の顔に卑屈な笑みは浮かんでいなかった。
 そうなると、さすがは日本でギガンテス迎撃のトップに立つだけの迫力がある。マドカを始め、女子高生たちはしっかり緊張していた。

 もっとも、シンジにしてみれば後藤に対してビビる理由はない。その辺りの考え方も、高校生らしくないと言われるところだろう。アサミにお茶を出すように指示をしたシンジは、「今後の予定ですか?」と訪問理由に水を向けた。

「ああ、ここのところドタバタがあったから想像は付いているだろう。
 今回のカサブランカ基地司令の件もあり、日本政府から帰国勧告が君たちに対して出されている。
 勧告と言う名目があるのは、君たちの扱いがあくまで民間旅行者と言うところにある。
 命令として出せるのなら、帰国命令の形になっていただろう」
「カサブランカの新司令との顔合わせも無しにですか?」

 帰国指示が出された理由は想像がつくが、そこまで日本が強攻策に出るとは思っていなかった。それに驚いたシンジに、「ペナルティーだ」と後藤は断言した。

「すでに知っていると思うが、オットー司令の退任理由は健康上の理由だ。
 そして退任に際して、日本に対して一言も謝罪に関するものがなかった。
 サンディエゴで腹を立てたのは君だが、今回面子を潰されたのは日本政府なのだ。
 だからサンディエゴでは、君さえ矛先納めればそれで丸く収まった」

 そして今回EUから、日本政府に対する謝罪に類するものがない。それが、日本政府が強硬な態度に出た理由だと言うのだ。「よくやりますね」と苦笑したシンジに、後藤は「引くだけでは駄目なのだ」と説明した。

「今回君たちが訪問したのは、日本側が譲歩した結果だと言うことを忘れさせてはいけない。
 従って、招いた側に落ち度があれば、笑って済ませるという訳にはいかないのだ。
 しかるべき責任者が、それ相応の責任を取る。
 言いがかりをつけた以上、負ければ相応のペナルティが待っているということだ。
 それが、結果的に自分の立場を守ることになる。
 この世界、相手を軽く見るという事がどういう結果を招くのか思い知らせる必要があるんだよ」
「今ギガンテスが来たら、カサブランカ基地は迎撃できますか?」
「だから、ギガンテスが襲撃する前に帰国させる措置を取るんだ」

 発生する被害を含め、EUに対するペナルティにすると言うのだ。かなりの強硬意見に、シンジは小さくため息を吐いた。

「そう言った話に、パイロットを巻き込まないで欲しいんですけど。
 ヘタれたカヲル君を含め、カサブランカ基地のパイロット全員は友人なんですよ。
 そして彼らには、一切落ち度がないんです。
 彼らを見捨てるような寝覚めの悪いことを、僕達ができると思っているんですか?」
「これはもう、個人的な問題では無くなっていると言う事だ」

 後藤のまとった雰囲気以上に、その苛烈な言葉に女子高生たちは完全に萎縮していた。その中で、一人頑張ったシンジはさすがと言うべきなのだろう。
 もっとも、言葉通り受け取った女子高生達とは違い、シンジは後藤の言葉を別の意味で受け取っていた。ただ、今はそれを口にするときではないと黙っていることにした。

「それで、僕たちはどうすればいいんですか?」
「急かすようで悪いが、これからすぐに出発の準備をしてもらう。
 アメリカ大統領の好意で、大統領専用機が貸与された。
 間もなくカサブランカ国際空港に到着するので、準備が整い次第出発する。
 君たちは、恐らくワシントンDC経由で日本に帰ることになる」
「この上、大統領専用機ですか……」

 はあっとため息を吐いたシンジは、「それが全てか」と後藤に確認した。

「君たちに伝えるべきことはこれで全てだ。
 繰り返すが、直ちに荷物をまとめてくれ。
 ラバトから日本大使館の車が差し向けられている。
 それに乗り込みさえすれば、君たちは24時間後には日本に着いている」
「今日の夜には日本に着くということですね……」

 色々と後藤が説明しなかったことをシンジは理解していた。ただそれにしても急ぎ過ぎだと思っていた。一体何を隠しているのか、そして大統領専用機を使用する理由。色いろあるなとシンジは想像した。それでも、帰国を指示された以上、それに従う必要があることは確かだった。

「先輩達、準備はどれぐらいで出来ますか?」
「大急ぎで30分ぐらいかしら?」
「篠山は?」

 そこでキョウカに顔を見られ、サユリは「30分でやります」と答えた。そしてアサミの答えを聞かずに、シンジは50分後に出発すると後藤に告げた。

「それで大丈夫ですか?」
「時間的には、ちょうどいい頃合いだろう」

 そう言う事だと言って、後藤は立ち上がった。一刻を争うのなら、余計な説明をしている暇はないのだろう。それを理解したシンジは、全員に急いでくださいと指示を出した。

「僕は、10分で支度が整います。
 終わったら、ここにいますので何かあったら声を掛けてください。
 それからアサミちゃん、僕のスーツケースの空きを使ってもいいからね」
「多分、大丈夫だと思うけど……」

 間違い無く、一番荷物が多いのはアサミだろう。シンジが50分と時間を指定したのも、自分の事を考えてだとアサミは思っていた。敢えて時間を言わせなかったのは、自分に対する配慮なのだろうか。色々と聞きたいことはあったが、今は急ぐべきだとアサミは自分の部屋へと駆け込んだ。
 そして一人残ったシンジは、「やりすぎです」と一言残して自分の部屋へと戻っていった。

 そして10分と言った通り、シンジは時間通りに勉強部屋となっているリビングに現れた。公式の移動の時には制服を着ていたシンジだったが、現れた時にはなぜかジャージ姿になっていた。それをちらりと見た後藤だったが、シンジの格好に対して一言もコメントはなかった。すでに伝えることは伝えてあるのと、シンジならば事情は理解しているだろうと言う考えからである。
 そしてシンジが現れてから15分後、予想通りマドカが二番手で現れた。打ち合わせがなかったせいか、マドカはS高の制服を着ていた。

 シンジを見て驚いたマドカに、「後は任せます」の言葉を残してアサミの部屋をノックした。一番遅くなりそうなアサミを手伝うことで、準備自体を加速させようというのである。
 マドカとしては、こんなところに一人残すんじゃないと文句を言いたかった。普段店で呑んだくれている後藤とは、全く別人に思えてしまったのだ。ぴりぴりとした空気は、ギガンテス襲撃の時にも感じたことのないものだった。

「ご、後藤さん……」

 それでも静かなのは嫌だと、マドカは勇気を振り絞って後藤に声を掛けた。だが唇を真一文字に結んだ後藤からは、何の答えも返って来なかった。
 そうなると、この空間がますます居づらいものになってしまう。勘弁して欲しいと心の中で文句を言った時、予想に反してアサミを連れてシンジが現れた。アサミの格好は、シンジに合わせるようにジャージ姿だった。

「どうして、二人共ジャージなの?」
「なんでって、ジャージ部だからですよ。
 と言うのは場を和ます冗句なんですけどね。
 少しでも動きやすい格好を選んだら、ジャージになっただけです」
「だったら、私も着替えてくるよ」

 そういう事なら、事前に教えて欲しかった。そう文句を言ったマドカは、スーツケースを引っ張って着替えに行こうとした。だがそんな時間はないと、シンジは出てくる3人を指さした。

「どうして、みんなジャージなの?」
「どうしてって、私達ジャージ部でしょう?」

 そうだとしたら、部長の自分はどうして制服なのか。ナルの答えに、とても重大な失敗をしてしまったとマドカは嘆いた。
 そんなマドカの相手をナルに任せ、シンジは後藤に対して準備が整ったことを告げた。準備前は50分と言ったのだが、結果的に半分の25分で準備は整った。

 それを見た後藤は、ポケットから小型のトーキーを取り出した。そして待機している堀井と葵に、迎えはどうかと確認した。

「そうか、車が2台到着したのだな?
 乗っている奴の顔は確認しているか?
 そうか、予想通り顔を出していないのだな。
 では、当初の計画通り移動方法を変更する」

 そう言って通信を切った後藤は、準備が整ったと全員に告げた。

「チェックアウトは、葵達に任せておけばいい。
 君たちは、これから車に乗って空港まで移動する。
 色々と聞きたいことはあると思うが、今は黙って付いてきてくれ」

 さすがの迫力に、サユリを含め、女性陣は完全に萎縮していた。だがその中で、シンジだけが普段通りの様子を見せていた。

「と言う事で、全員僕に付いてきてください。
 夕食は、少し遅くなるけど飛行機の中で食べられますよ」

 こっちですと先導したシンジに、マドカはスーツケースを引っ張りながら小走りに近づいた。

「碇君、後藤さんから説明を受けているの?」
「いえ、今日に限っては先輩たちと同じことしか聞いていませんよ。
 ただ、何が起きているのかおおよそ掴めているだけです」

 どうしてそんなものが掴めているのか。本来尊敬すべきところなのだろうが、やっぱりおかしいとマドカは思った。だがそれ以上の話は、エレベーターが来たのでできなくなってしまった。

「あれっ、乗らないんですか?」

 だがせっかく来たエレベーターなのに、後藤が行き先階のボタンだけ押して戻ってきた。その行動に首を傾げたマドカに、シンジは「これで良いんです」と後藤の代わりに答えた。
 そして次に来たエレベーターを確認し、後藤は「乗ってくれ」と全員に指示を出した。それに大人しく従ったのだが、前に来たエレベーターと何が違っているのか女子高生達には全く理解できなかった。

「ねえ碇君、前に来たエレベーターと何が違うの?」

 後藤に聞いても教えてもらえそうもないので、マドカは説明役としてシンジに狙いを付けた。前のエレベーターを見逃したのを正しいと言ったのだから、違いをちゃんと理解しているだろうと考えたのだ。
 そんなマドカに、「どこも違っていませんよ」とシンジは答えた。

「だったら、どうして前のエレベーターは見逃したの?」
「う〜ん、なんて説明をしたらいいのかなぁ」

 まさか相手の裏を掻き合っている。そんな説明をマドカ達にするわけにはいかないだろう。不必要に怖がらせても意味はないし、結果的に何も起こらないことをシンジは知っていたのだ。最初のエレベーターを見送ったのは、後藤にとっては時間を調整する以上の意味を持っていなかった。エレベーターに仕掛けられたトリックは、別の作戦の前にはなんの意味も持たなかったのだ。
 そうしてシンジが説明に迷っている内に、彼らを乗せたエレベーターがフロントロビーに到着した。なぜか葵と堀井の姿が見あたらなかったが、後藤はそれを気にしたそぶりも見せなかった。そして自分の仕事を全うしようとするホテルマンを断り、全員に付いてくるようにと指示を出した。

「これから、大使館の車に乗るの?」

 それもまた貴重な経験だと緊張するマドカに、シンジは「そうですね」と答えた。

「ただ、これから乗るのはアメリカ大使館の車ですけどね」
「ええっ、日本大使館の車じゃないのっ!」

 聞いていた話と違うと驚くマドカに、それがトリックだとシンジは苦笑した。そして後藤の後を付いていったら、本当にシンジの言う通りアメリカ大使館の車が2台待っていた。しっかり車の前には、アメリカの国旗がはためいていた。

「碇君、後からちゃんと説明してよね?」
「まあ、何に巻き込まれたのか知る権利ぐらいはありますからね」

 とにかく乗ってと急かされたマドカは、一番初めに車に乗り込んだ。そしてそれに続くように、ナルとキョウカ、サユリと続いた。
 それを確認したシンジは、アサミを連れてもう一台の方へ行った。そしてそれが当然のように、後藤もシンジの方へと付いてきた。

「アメリカの恩人の役に立てて光栄です」

 シンジ達が乗り込んだ車には、先客が一人乗り込んでいた。年の頃なら50歳前と言う所だろうか、ロイ・シリングとその男は名乗った。

「駐モロッコ大使をしています。
 大統領の命令で、皆さんをお迎えに上がりました」
「わざわざご足労いただきましてありがとうございます」

 そう言って感謝の言葉を口にしたシンジは、次に後藤に向かって「日本語」で文句を言った。

「今の言葉は、後藤さんが言うべきではありませんか?」
「先方にとって、君の言葉の方がありがたいんだ」

 そうぶっきらぼうに答えた後藤は、窓の外へと一瞬視線をやった。その視線につられて外を見たシンジは、そこに日本大使館の車を見つけた。予想通りと言えばいいのか、車の外で慌てているのは、どう見ても日本人に見えない男達だった。

「あれって、偽物なんですか?」

 やけに慎重な行動、そしてわざわざアメリカ大使館まで巻き込んだこと。そこから導き出される答えをアサミは口にした。だが正解だと思って口にしたアサミの言葉を、シンジはあっさりと否定して見せた。

「いや、たぶん本物だよ」
「だったら、どうしてあちらに乗らないんですか?」
「あっちに乗ると、空港までたどり着けないから……って所かな。
 どうです後藤さん、そんなに間違ったことは言っていないと思いますけど?」

 そう話を振られた後藤は、はあっと大きく息を吐き出した。そのおかげか、今まで纏っていた空気が少しだけ和らいだ。

「まだ、この車が空港にたどり着く保証はないのだがな」
「誰も、騒ぎを起こすわけにはいかないんでしょう?
 もしもここで騒ぎを起こしたら、カサブランカ基地自体がつぶれますよね?
 だからカサブランカ基地も、騒ぎにならないように僕達を確保する必要があった。
 もっとも、これからのためにもそんな真似をさせるわけにはいかない。
 カサブランカ基地の為にも、僕を基地に連れて行かせるわけにも行かなかった」
「どうして、それがカサブランカ基地の為になるんですか?」

 シンジの身柄を確保しようとしていたのだから、それを阻止することがカサブランカ基地の為になるとは思えなかった。あまりにも当たり前のアサミの疑問に、「確保した後が問題」だとシンジは答えた。そして敢えて英語で、聞き耳を立てているロイにも聞こえるように言った。

「後藤さんは、僕を悪魔にするわけにはいかないんだ。
 オットー氏がクビになった一番の理由は、カヲルくんの問題なんだよ。
 そしてもしもこの車がカサブランカ基地に行くことになったら、
 アメリカの恩人はその瞬間にアメリカの敵になるからね」

 ゆっくり、そして簡単な表現を使ってくれたので、アサミにもシンジが何を言ったのか理解できた。そして人間観察に優れたアサミは、シンジの言葉でロイの顔色が変わったのに気がついた。つまり、ロイと言う大使も事情を承知しているということになる。

「先輩、もしかしてこの車は……」
「アサミちゃん、心配しなくてもカサブランカ国際空港に向かっているよ。
 そうですよね、ミスターロイ?」
「もちろん、それが大統領命令だからね」
「だそうですよ、後藤さん?」
「やっぱり、君は恐ろしいな……」

 作戦を確実なものとするためには、シンジの協力は絶対に必要だった。だがそれをこの場で口にするのは、アメリカとの関係にしこりを残す可能性があった。だから後藤としては、「保証がない」としか口にすることが出来なかった。そしてその言葉がヒントになって、シンジが機転を利かせてくれることを期待したのだ。
 そう言う意味では、シンジの対応は後藤の期待したとおりのものだった。ただ期待以上、そして後藤すら肝を冷やしたのは、「悪魔になる」ことを英語で言ってくれたことだった。Fifth Apostleを単独で倒したことから、彼に対する評価は西海岸のアテナを大きく凌いでいたのだ。そして事情を知っている誰もが、示された力がごく一部でしかないことを理解していた。

「後藤さんに恐ろしいなんて言われたくありませんね。
 今の言葉だって、後藤さんの期待に添ったものを口にしたつもりですよ」

 「それとも」とシンジは、小声で後藤にだけ聞こえるように何かを口にした。シンジが何を言ったのか聞こえなかったが、アサミは初めて後藤の顔色が変わるのを目撃した。薄暗い車の中でも分かるぐらい、それはとてもはっきりとした変化だった。

「冗談でも、その言葉は口にして欲しくないものだな」
「冗談だから、口に出来る言葉と言うこともありますよ。
 だいたい、後藤さんは一体何を僕達に隠しているんです?
 どうして、民間の定期便に乗ってはいけなかったんでしょうね?」

 ねえと顔を見られても、アサミにだってそんな理由を理解することは出来ない。カサブランカ基地の為にも、シンジを拉致させてはいけないとか、大統領専用機に意味があるのだとか、ただの女子高生に解ける謎ではなかったのだ。

「そろそろ、空港に到着する頃ですね。
 僕達が乗るのは、ああ、あの星条旗が尾翼に付いた奴ですね」
「ああ、ジャンボジェットを40人乗りに改造したものだよ。
 大統領が乗られたときには、君らも知っているコールサインが使われる」
「それが、エアフォースワンって奴ですか」

 へえっと感心したシンジは、一人車の中でのんびりとした空気を作っていた。駐モロッコ大使のロイは言うに及ばず、後藤ですらぴりぴりとした空気を纏っていた。アサミにとってとても居づらい空気なのだが、唯一シンジの存在だけが救いになっていた。

「しかし、大統領専用機に乗ったなんてレポートに書けないね」
「そうですね、乗った理由に困りますね。
 もう、どうしてこんなに秘密ばかり増えてしまったんでしょう。
 先輩、いい加減これで打ち止めですよね?」
「僕としては、打ち止めになって欲しいと思っているんだけど……」

 何か隠しているだろう。後藤は、自分に向けた視線にそう問い詰められている気になっていた。

「元気そうに見えるけど、先輩達もかなり疲れていると思うんだ。
 アサミちゃんだって、ずいぶんと疲れているだろう?
 これ以上神経をすり減らすイベントは僕だって勘弁して欲しいんだよ。
 だから、16時間乗りっぱなしで良いから、直行便で帰りたかったんだけどな」
「先輩は、まだ何かあると思っているんですね……」

 人間同士の騙し合いは終わったと考えれば、次にあるのはギガンテス襲撃だろう。だが後藤の説明では、あと2、3週間は襲撃が無いと言っていた気がする。だとしたら、一体シンジは何を考えているのか。それを確認しようと口を開き掛けたところで、車がゆっくりとゲートを通り抜けていった。

「先輩……」
「どうやら、到着したようだよ」

 ふっと口元を緩めたシンジは、「ありがとうございます」とロイに右手を差し出した。

「わざわざ、ここまで送っていただいてありがとうございます」
「いや、私はコーチとニューヨーク、両方ともテレビにかじりついていたからね。
 その英雄と同席する機会を貰ったんだ、感謝するのはむしろ私の方だろう」

 シンジの手をしっかり握り替えしたロイは、「こちらこそありがとう」と答えを返した。その言葉に、どこかほっとしたような空気をアサミは感じていた。「世界を一度壊した」と言う話は聞かされていたが、相手の反応を見る限り、それは話半分のものではないことが分かる。
 誰かがドアを開いてくれたので、一番外側に座っていたシンジが車の外に出ようとした。だがその瞬間、アサミはシンジがとても遠いところに居るように思えてしまった。こんなに近くにいるのにとても遠い、それが怖くてアサミはシンジの手を捕まえてしまった。

「アサミちゃん……?」

 どうしたのかと驚いたシンジに、アサミはとても真剣な顔をしていた。

「こうしないと、先輩を捕まえていられない気がしたんです」
「何か、立場が逆のような気がするんだけどなぁ……」

 ふっと笑ったシンジは、逆にアサミの手をしっかりと捕まえた。そして二人は、手を繋いだまま車の外に出た。握る手の強さは、シンジよりもアサミの方が強かっただろう。

「遠野先輩、鳴沢先輩、さあ日本に帰りましょうか?」
「これで、本当に帰れるのかなぁ……」

 一介の高校生が大統領専用機に乗るというのは、間違いなく非日常の世界に居ることになる。それを考えると、日本に帰るという実感が湧かないのも無理もないことだった。だが、これですべての予定が終わったのも確かだったのだ。飛び入りの予定があったとしても、両基地に戻ることはないはずだ。

「ええ、ちょっと寄り道はあるかも知れませんけど、僕達は故郷に帰るんですよ。
 花火大会には間に合いますから、今年は先輩達の浴衣姿も見せてくださいね」
「お邪魔……と言うか、当てられたくないんだけどなぁ」

 そう言ってマドカは笑ったのだが、どうしてもその笑みが引きつってしまった。周りの物々しい空気は、気軽な馬鹿話を許してくれるものではなかったのだ。
 だがシンジにしてみれば、自分には責任の無いことだと思っていた。そしてここから先は、彼らが自分の名誉のため、そして身のためにも自分達を無事送り届けてくれる。それが分かっていたから、心配する必要もなかったのである。

 だから「帰りますよ」と全員に声を掛け、シンジは最初に専用機に乗り込んでいったのだった。



 開き直ることさえ出来れば、大統領専用機はとても豪華な気持ちになれるものだ。ただ残念なのは、誰もそれを楽しむ気持ちになれないことだろう。一人落ち着いているシンジにしても、豪華さを楽しむ気持ちにはなっていなかった。ただその理由は、緊張している女子高生達とは別の理由だった。

「ところで碇君、色々と説明してもらいたいんだけど?」

 それでも夕食をとれば、多少の余裕も生まれてくる。その夕食にしても、今までの飛行機旅行で一番豪華な物に違いない。ひとごこちがついたところで、マドカはこの大脱出劇に対する説明をシンジに求めた。

「先輩、まず初めにそれは後藤さんに言うべきじゃありませんか?
 僕にしても巻き込まれただけで、本当のことは知りませんよ」
「でも、途中で色々と言ってくれたじゃない。
 だったら、その説明をするのは碇君の責任だと思うわよ」

 つまる所は、後藤には聞きにくいというのが真実だろう。それを言いたくないから、屁理屈をつけているだけのことだった。

「まあ、いいですけど……」

 後藤は後藤で、別の仕事が待っているのを知っていた。だからシンジは、後藤を引っ張りだすのをやめ、分かっている範囲を説明することにした。

「さて、どこから説明しましょうか……」

 そうは言っても、説明することが多すぎて困るのだ。サンディエゴの時と違って、問題は単純ではなかったのである。
 どこからと言うシンジの質問に、マドカは「そうねぇ」と自分の中の疑問を整理することにした。

「カサブランカ基地司令の人が解任された理由は何?
 やっぱり、碇君が何かしたのが理由になっているの?」
「やっぱりってなんですか、やっぱりって」

 少し憮然としたシンジに、マドカは少し申し訳なさそうに「でも、事実でしょ?」と言い返した。

「だって、カヲルさんが調子を崩したのが理由になっているんでしょう?
 その原因を作ったのが碇君なんだから、やっぱり碇君が原因と考えていいんじゃないの?」
「でも、僕は本当に何もしていないんですけどね……」

 それを言っても、きっと信じて貰えないだろう。そう諦めたシンジは、カサブランカ基地司令がクビになった理由を説明することにした。

「昨日の夕食で、後藤さんのした話を覚えていますか?」
「確か、なにか苦情を言われているようなことを言っていたわね」

 それでと先を促したマドカに、「それが一番の理由」だとシンジは少し真実をぼかした説明をした。

「自分のところで起こった問題を、好意の第三者になすりつけたんですよ。
 しかもそれを、政府間レベルでの問題にしてくれたんです。
 日本としては、言いがかりを付けられたと言う気持ちが強いんです。
 しかもアメリカまで巻き込んだでしょう?
 その時点で、日本側の大幅な譲歩か、あちらの司令の首ぐらいしか落着点はなかったんです」
「なんで、日本側が譲歩しなかったの?」

 その方が穏便に終わった気がしたマドカだったが、シンジからは「あり得ませんよ」と断じられてしまった。

「例えば、先輩がソフトボール部の応援に呼ばれたとしますよ。
 その時ホームランを含む大活躍をして、試合に勝ったとします。
 応援に呼ばれて、しかも期待されたとおりに活躍したのに、文句を言われたら腹が立ちませんか?
 先輩が活躍したために、チームの4番が自身をなくして調子を落とした。
 全部先輩が余計なことをしたせいだって言われて、納得がいきますか?」
「う〜ん、だったら呼ぶなって言いたくなるわね。
 でも、私だったらその4番が調子を取り戻すように協力するわよ」

 マドカらしい答えに、だったらとシンジは更に条件を付け加えた。

「お前が全部悪いんだ、だから協力するのが当たり前だと言われてもですか?
 しかも直接お願いするんじゃなくて、校長先生から圧力をかけられたらどうです?」
「さすがに、それはないって怒るかしら……」
「それが、アサミちゃんの言った交渉のテクニックと言うことです。
 普通に協力を要請すればいいところを、逆に恫喝してきたんです。
 おかしな策を弄したから、逆に自分の首を絞めてしまったと言うことですよ。
 日本として、舐められたと強く感じたんですよ。
 だから、絶対に譲歩するわけには行かなかったんです」

 本来それだけでは、必要な説明が不足している。その程度のことは、計算に入れて言いがかりをつけてきたのだ。だからシンジが説明した程度では、日本が譲歩しなくてはいけない状況になりかねなかった。それをひっくり返したのは、シンジがカヲルの精神状態を指摘したことなのだ。だが、そのことについてはマドカ達に説明するわけにはいかない事情があったのだ。
 だが色々と不足している説明なのだが、マドカにはそれで十分なようだった。「ふ〜ん」と分かった顔をして、「どうしてこれに乗ることになったの?」と質問を変えた。

「一番簡単な理由は、一般の人達を巻き込まないってことでしょうね。
 それに、国際線だったら僕達を乗せないための手段はいくらでもあるんですよ。
 でも、これを離陸させないのは、モロッコ政府が認めるはずがないんです。
 確実にカサブランカを出るためには、一番いい方法だというのは確かなんですよ。
 アメリカとEUって、必ずしも仲がいいだけということはないんです」

 そこまで説明して、それが理由の一つとシンジは指を立てた。

「次の理由は、あまりいい事じゃないんですけど、ギガンテスに絡んでいます。
 この機体は、その気になれば日本までノンストップで飛んでいくことができるんですよ。
 後は、米軍から様々な情報を受け取る事ができるようになっています。
 ここにいれば、世界中どこにギガンテスが襲撃してきても対応できるんです」
「でも、普通ならあと2、3週間あるって後藤さんが……」

 それでも何かを感じたのだろう、まさかという顔をしてマドカは目を大きく見開いた。

「それは、あくまで今までの経験から来た予測でしか無いんです。
 誰も、次の襲撃タイミングを保証なんてできないんですよ。
 だから、いざという時の備えをしておく必要があったんです。
 そしてもう一つ重要なのは、誰かが日本の備えが無くなっていることに気がついた」
「日本の備えって……高知以前には無かったものでしょう?」

 迎撃できるようになったのは、ほんの数カ月前のことなのだ。それを考えると、備えが無いのが日本にとって普通の事だとマドカは思っていた。

「確かに、高知以前には日本には迎撃能力はありませんでした。
 それが、高知の奇跡を経て日本でも単独迎撃できることが分かったんです。
 でも、僕達がここにいて日本は単独でギガンテスを倒せますか?
 サンディエゴ基地が出撃しなくてはいけない場所にギガンテスが来た時、
 同時に日本にギガンテスが襲ってきたらどうなりますか?」
「カサブランカから……って、絶対に間に合わないのか」

 その通りと、シンジはマドカに向かって頷いた。

「高知以前だったら、その可能性があっても考えないようにしていたんです。
 でも、高知以降、日本は迎撃できる能力を持つことになった。
 一時的とは言え、それが無くなったら不安になりませんか?
 例えは悪いですけど、携帯電話を忘れた時、なんとなく不安になりませんか?」
「確かに、そう言う気持ちを持ったことはあるわ……」

 なるほどと納得したマドカに、シンジは「カサブランカ基地も同じ」と話を続けた。

「同じって?」
「僕達の身柄を確保しようとした理由ですよ。
 どれだけ続くのかわかりませんけど、エースが絶不調に陥ったんですよ。
 復調の目処がつくまで、安心できる何かが欲しいと思いませんか?」
「確かに、あったものが無くなるのは怖いと思うわね……
 でも、碇君ってどうしてそんなことを考えられるの?」
「どうしてって……」

 う〜んと考えたシンジは、「自分を守るため」と言う理由にならない理由を口にした。

「こんな立場になってしまいましたから、自分を守る必要ができてしまったんですよ。
 だから100点じゃないかもしれませんけど、色々と考えることにしたんです。
 残念ながら、後藤さんだっていつも味方と限りませんからね。
 その意味でも、大統領専用機を使うのはアメリカにとっても妥協の産物なんですよ」
「アメリカにも?
 日本の味方をしてくれたんじゃないの?」

 日本の肩を持ったから、脱出劇にも手を貸し、その為の道具立てとして大統領専用機まで貸し出した。それはあくまで日本のためであって、EUのためでは無いと思っていた。

「カサブランカの問題は、この数日を乗り切ることなんです。
 多少自信を喪失したぐらいで、本来迎撃に問題なんて出るはずがないんですよ。
 一応は、カサブランカ基地全体はレベルアップしているんです。
 だから大統領専用機と言うのは、ちゃんとEUに対しても配慮していると言うアメリカの意思表示です。
 これだったら、いざと言う時すぐに戻って来られるでしょう?
 交渉と言うか、この手のことは、正論ばかり言っていては回って行かないんです。
 だから、お互いが譲歩できるぎりぎりの線を提示して、そこに落としこむことが重要なんですよ。
 アメリカは、日本に手を貸しつつ、EUに対してもこれで我慢しろと妥協できる点を提供したんです」
「碇君の話を聞いていると、凄く勉強になるわね……
 でもさぁ、ちょっと頭の中を見てみたい気持ちになるわね。
 碇君、どこかで年齢をごまかしていない?」
「先輩、去年の僕をよく知っていますよね?」

 それを思い出せば、年齢をごまかしていると言う発想にはならないはずだ。シンジの指摘に、「そうなのよね」とマドカは難しい顔をした。

「あの時の碇君の記憶があるから、どうしても今と結びついてくれないのよ。
 だから、どこかで入れ替わっていないかって不安になるのよね」
「どうやったら入れ替われるんですか……」

 鼻から小さく息を吐きだしたシンジは、「ドタバタしましたね」とぐるりと首を巡らせた。全員が、ソファにもたれかかってぐったりとしていた。もしかしたら、起きているのは二人だけなのかもしれなかった。

「ちょっと、刺激が強すぎたってところね。
 さすがに、盛りだくさんに詰め込みすぎたって私も感じるわ。
 課題とか宿題がほとんど終わっているのが救いってところかしら。
 このへんは、全面的に碇君のおかげなんだけど……」
「でも、僕は手伝っただけでやったのは先輩達ですからね。
 その辺り、もっと自信を持ってもいいんですよ。
 でも、帰れると思うとやっぱり疲れが出ますね……」

 大きく伸びをして、シンジは「よいしょ」と立ち上がった。

「トイレ?」
「ちょっと、後藤さんの方に顔を出してきます。
 ええっと、話をするんじゃなくて、寝ますよって言ってくるだけですからね」
「さすがのスーパーマンも、ようやく限界が来たかっ」

 にかっと笑ったマドカに、シンジはすかさず文句を言った。

「誰がスーパーマンですか。
 こう見えても、毎日毎日神経をすり減らす思いでいるんですからね」
「まあ、全部碇君に任せちゃったから、と言うか、碇君にしか任せられなかったから。
 じゃあ、私もそろそろ寝るね……ちなみに、襲ってきても許してあげるわよ」
「合意の上じゃ、襲ったことになりませんよ」

 ふっと笑ったシンジは、「あとが怖い」と言って背中を向けた。

「目的地と、到着予定時間を聞いてきます。
 多分、シカゴあたりから日本への定期便に乗ることになると思いますけどね」

 じゃあと後ろを向いたまま、シンジは手を振って後藤の居る会議室へと歩いて行った。その後ろ姿を見送ったマドカは、小さな声で「安心して」と寝ているはずのアサミに声を掛けた。

「碇君を、とったりしないわよ」

 その声が聞こえたのか、アサミは少しだけもぞりと動いた。だが反応はそこまでで、そのままアサミは一言も発しなかった。

「寝てるか……まぁそうだね」

 さてと言って立ち上がったマドカは、広そうなソファを見つけてごろりと横になった。

「碇君は、まあアサミちゃんのところが空いているからいいでしょう。
 添い寝ぐらいなら、寛大な部長様が許してあげるわよ」

 それ以上はだめ。そう小さくつぶやき、マドカは静かに瞳を閉じた。シンジに付き合って起きていたが、マドカ自身も強い疲労を感じていたのだ。ただこの旅では、一生ものの思い出ができたと思っていた。疲れこそしたが、思い出は宝物になると信じていたのだ。



***



 海外遠征組とは独立して、日本では新たな試みが持ち上がっていた。もともと話には出ていたことなのだが、パイロットの一般公募を行うことになったのである。民間協力者が戦力となったのだから、組織外に新たな才能を求めることへの正当性が増したことためである。
 自衛隊からの発表に対して、すかさずマスコミが歓迎の意を示した。連日S市に作られた基地から中継を行い、テストで使用するシミュレーター等の公開が行われたのである。そこでマスコミサービスとして、秘密とされているパイロットのテストデータも公開された。そしてテストデータ公開に際しては、最新データも合わせて公開された。

 パイロットの公募も一大ニュースだったが、パイロットの秘密に迫るデータの公開はそれ以上のニュースだった。サンディエゴやカサブランカ、その両基地との比較も行われ、日本の秘密兵器の優秀さがそこでも検証されたのだ。
 だがこのデータ公開で、パイロットに対する謎は更に深まった。データの公開で、本来パイロット像が明確になると期待されたのだ。だが両基地と比較して明らかに優秀なデータは、むしろ該当者を見つけるのを困難にした。分析をすればするほど、どんな説明にも説得力がなくなってしまうのだ。結果的に、データ公開はパイロット探しを迷宮入りさせる効果を発揮したのである。

 一方パイロット一般公募に先立ち、テストの安全性と話題作りのため、アイドルを使ったデモンストレーションを行った。それが後藤の言っていた、ジャミングプロの活用である。中高生の女子に人気の高い薄桜隊の5人が、招待されたファンの前でシミュレーターに乗り込んだのだ。
 このことによって、テストの安全性を示す上では大きな成果を示すことができた。ただ一部で期待された成果については、結果だけを見ればとても凡庸なものでしかなかった。残念ながら、柳の下にどじょうは二匹いなかったということである。

 だがこのデモンストレーションによって、パイロット公募は現実のものとして動き始めた。ニューヨークの奇跡が有ったこともあり、公募に対する評判は上々だった。

「パイロット公募に対して、反響は非常に大きいと言えるでしょう。
 申込書の請求は、およそ20万件に上っています。
 国籍、親類縁者、思想信条のフルイを掛け、順次テストを行うことにします。
 8月20日頃から開始できるかと思われます」

 防衛大臣榛名の報告に、鏑木は小さく頷いた。

「マスコミどもには、総じて受けがいいようだな」
「例のパイロット公開に対する待望論が強くあるからでしょう。
 この公募が、公開の下準備とも取られています」

 ふんと小さく息を花から吐き出した鏑木は、もう一つの書類へと目を落とした。そちらの方は、公募対象から外れる層への人気とりの企画だった。

「ヘラクレスの愛称募集と、機体カラーの募集か?」
「もともとは、対象Iから持ちだされたものと聞いています。
 こちらの方も、かなりの評判を呼ぶことでしょう。
 人間相手の兵器でないのですから、大衆受けも重要な要素と思われます。
 そういう意味では、対象Iは極めて有意義な提案をしてくれたことになります」
「その対象Iだが……本当に大丈夫なのか?」

 いくら協力的でも、世界を滅ぼした事実は消しようがない。その意味で、鏑木の不安は正当なものだった。そしてその不安は、ニューヨークの奇跡を経ても一向に解消されないものだった。

「しかし、彼がいなければ今頃どうなっていたか。
 高知、そしてニューヨーク、以前の我々なら最大級の悲劇を覚悟していたものです……
 特にニューヨークは、彼がいなければ絶対に乗り切ることはできませんでした。
 もしもニューヨークが破壊されることがあれば、おそらく人類は保たなかったでしょう。
 対象Iの記憶が戻らなくても、世界が滅びることになっていたかと思います」
「確かに、ニューヨークの戦いは肝が冷えた。
 あればかりは、アテナやアポロンでも乗りきれなかっただろう。
 それもあって、今はこのままの状態で利用すべきという声が強くなっているな」

 危険性と功績、今はその功績の方に評価が傾いていた。ただ危険性については、未だ払拭されたわけではない。だからこそ、日本の舵取りが難しいとされていた。

「後藤は、うまくやっているのか?」
「対象Iとは、一応信頼関係は結べていると言うことです。
 本人からは、指示を出してくれれば従うとの言質を取っています。
 ただ、正体がバレた時には保証の限りではないという脅しも受けていますが」
「恋人ができたのだろう、だったら世界を壊すこともできないと思うが?」
「恋人が理由で、世界を壊すこともあり得るとの分析もあります」

 当然、世界を壊すことができるのならと言う前提がある。ただそれを確認することは、自分で自分の首を絞めることにほかならない。そっとしておけば安全なのなら、そっとしておくのが一番いい事に違いない。

「もっとも、日本の迎撃態勢は対象Iが居て初めて成り立つものです。
 二人の女子高生の能力は高いのですが、二人だけでどうにかなるほどギガンテスは甘くないでしょう。
 Fifth Apostleのような変種が現れた時には、間違い無く対象Iの力が必要となります」
「このままだと、ずっと対象Iに振り回されるということになるのか……」

 それも悩ましいとため息を吐いた鏑木に、同感だと榛名は頷いた。

「その為のパイロット公募でもあるのですが……」
「見込みは薄いということか?」
「かかる手間と効果、それを考えると悩ましいところです。
 これまでサンディエゴ、カサブランカの両基地が同じ方策をとらなかった理由。
 それが、この異常とも言える手間のかかり方だと考えれば納得もいきます」
「それでも、柳の下にどじょうが居てくれればいい……か」

 もしも新しく見つからなければ、日本の命運は3人の高校生に握られることになるのだ。その危険性を考えれば、相応の負担を考えなければならなかった。

「3人の操縦は、当面後藤に任せとくしかないだろう」
「後は、EUに対して牽制が必要ということですか?」
「あまり欲を掻くと、手痛いしっぺ返しを受けることになる。
 やりすぎるなと、後藤には忠告しておけ」

 アメリカでうまく言ったことが、EUでもうまくいくという保証はどこにもないのだ。策士が策に溺れることがないよう、使う側の首にも首輪を掛けておく必要があった。

「後藤に対しては、神前が着いているので大丈夫でしょう」
「くれぐれも注意を怠らないよう気をつけるように指示しておけ」

 世界以上に日本が、そして日本以上に自分の首が大切なのだ。ここまで苦労して作った貯金が、一つの失敗で霧散させるわけにはいかない。それに気をつけるよう、鏑木は榛名に対してくどいほど念を押したのだった。



 いない相手をどう監視するのか。榛名から落ちてきた指示を見て、神前は文句を言いながら証拠を消した。目を離すなと言われても、監視相手は遠くカサブランカの空の下に居る。そして自分は、あいも変わらぬS市の地面に這いつくばっているのだ。これで監視ができたら、自分は真剣に転職を考えただろう。
 もっとも転職については、その能力がないのだから無理な相談だった。

「応募の方は、順調に集まっているか……
 住基台帳や犯罪履歴との照合はすぐにできるけど……」

 ふっと自分のデスクでため息を吐いた神前は、窓の外の景色へと視線を転じた。突貫工事のお陰で、基地自体はほぼ形になっていた。後はこの基地に魂を入れれば、ギガンテス迎撃基地として動き出すことになる。その魂とも言えるパイロットは、今は遠いアフリカの地に立っていた。

「まさか、ここまで凄いとは誰も思ってもいなかった……ってところかしら。
 同調率のデータが絶対でないことが示せたのは、意味としてはとても大きいってことね」

 ニューヨークの戦い、正確に言うのならブルックリン南の戦いは、日本では午後の出来事だった。学校こそ休みだったが、普通の会社員はまだ働いている時間帯である。その時間に、専門チャネルを除くテレビ局各局は、こぞってその戦いを中継してくれた。
 高知の戦いほど身近なものではないが、戦いの帰趨が世界の命運を決めるとなれば、仕事などしていられなかったのだろう。冗談抜きで、その時間帯には町中から人影が消えていたのだ。通常運行するはずの公共交通機関ですら、Fifth Apostleとの戦いからサンディブリッジの戦いまで、臨時運休になったほどだった。

「ダイカービーチの戦いより、彼の戦いは注目を集めた……」

 それが一般大衆だけのことでないのは、神前自身実感していることだった。何しろ神前も、基地の司令室でシンジの戦いを見守った口だったのだ。誰もが、対象Iこそが戦いの鍵となると感じていたのだ。

「でも、彼の戦いは軍の戦い方じゃない……
 劇場型、そう例えればいいのかしら?」

 恋人に影響されているとは思えないが、一つ一つの行動が、まるで観客を意識しているように思えるのだ。恋人の乗るギガンテスに乗り込み、そこで熱い抱擁を交わす。映画でよくあるシーンなのだが、あの状況でそれができる方が不思議だった。何しろ目の前には、追いかけてきたギガンテスが迫っていたのだ。一刻も早くヘラクレスを起動しなければ、感動の再会が悲劇に塗り変わっていた可能性もあったはずだ。
 だが結果を見れば、すべてが映画のように進行していた。日本に居ても、アメリカの熱狂は伝わってくる。救出劇の熱狂を含め、どこか現実感に乏しい戦いだったと神前は感じていた。それに比べれば、高知の戦いのほうが遙かに現実的に思えてしまう。

「でも、非現実的といえば高知のほうがずっと非現実的なのよね」

 その証拠に、パイロットのデータを公開した途端、謎が深まったとテレビでも言われたぐらいだ。既存基地の示したスコアをあっさりと超えたデータは、高知の戦いを説明するのには説得力はあった。ただ、パイロットの存在証明としてはむしろ説明を難しくするものだった。
 もっとも、説得力があったと言っても、それでも非現実的と言われたのだ。だから自衛隊に対しては、どこで訓練していたのかと言う追求が行われたぐらいだ。

「国政調査権は、内閣が握りつぶしてくれたから行使できない」

 パイロットを秘密にしていることに対して、与党内からも不満の声が漏れていたのだ。それもあって、衆参両院の予算委員会から、国政調査権に基づくパイロットの情報開示請求が行われたのである。その請求に対して、プライバシーを盾に現内閣は請求を退けた。

「厚意、献身に対して裏切りを行うのであれば、日本を出国し二度と協力しないか……
 現時点で海外に居ると思われていることが、余計に脅迫としては有効になったか」

 この薬が効いているうちは、国会も静かにしてくれるだろう。女子高生達の最低限の要求に答えるためには、あと7ヶ月乗り切らなければならない。パイロット公募も、いい目眩ましになってくれるはずだった。

「しかし、すでにこれだけ応募が始まっているのは脅威としか言い様がないわね」

 神前の手元に届いているだけでも、1万件をすでに超えていた。募集を始めて1日と考えると、驚異的な出足と言えるだろう。いつまで募集を続けるのかと言う課題はあるが、このまま続ければ10万を超えるのは間違い無いだろう。

「後藤特務一佐の準備が良かったのか、同時に100人単位でテストできるのはありがたいわね。
 1日あたり1000人テスト……一体何人がシミュレーションまでたどり着いてくれるのかしら?」

 目標として、5人程度基準を超えるパイロットを集めることになっていた。それがとても高い目標なのは、各基地の状況を見れば容易に理解できた。事前に聞いた見立てでは、2人いれば上出来という事だった。

「それで、ようやく5人体制か……あのチームごと引っ張ってきた方が確実なんだけど。
 元アイドル様とお嬢様は、さすがに戦力としては無理がありすぎるわね」

 その元トップアイドル様は、5人の中で一番同調率が低いのにも関わらず、アメリカでは重要な作戦を成功させている。その意味では、なにか持っていると思わせる凄さはあった。そして劇場型と神前が称した通り、関係者の間では西海岸のアテナを凌ぐヒロインとなっていた。
 直接の迎撃という意味では戦力にはならなくても、居る事だけで十分に戦力となってくれるのだろう。

「何れにしても、あの子たちが帰ってきてからが本番ね」

 後藤がうまく手綱を握っているのか。それを確かめることが、まず初めの仕事になるのだろう。あの可愛い少年がどう成長しているのか、そっちの方が興味深いと思っている神前だった。



 日本の動きについては、大統領専用機から降りるときに後藤から知らされた。カサブランカから14時間のフライトで、一行はハワイ諸島にある米軍基地に降り立っていた。

「ここで休憩してから、日本へ向かうんですね?」
「なかなかビーチで遊ぶ事ができなかっただろう。
 ここでのんびりと一泊してから帰っても、十分花火大会と夏祭りに間に合うからな」

 たかが花火大会ごときに、世界の命運をかけるわけにはいかない。それが単なる脅しだと分かっていても、ここでご機嫌を害することには百害あって一利もなかったのだ。だから後藤は、おとなしくシンジの要求に従ったのである。そしてハワイを中継地に選んだのは、ここなら遊ぶのに好適だし、日本にも近いと言うメリットがあったのだ。

「そこで一つお願いだが……」
「帰ってからの協力と言わなければ、善処することもやぶさかではありませんよ」

 それでと説明を促したシンジに、「俺も混ぜろ」と後藤は主張した。

「別に構いませんけど、疎外感を味わっても知りませんよ?」
「わざとハブらなければ文句を言わないさ」

 その程度の覚悟ならすでにできている。さすがの後藤も、そろそろ息抜きがしたいと思っていたのだ。女子高生達にかまってもらうのは難しくても、綾部とならばお話することもできると考えたのだ。どうせ見るなら、葵よりも綾部のほうがいいとすら思っていた。

「こっちは、午前3時ですか……
 お陰で、体内時計がむちゃくちゃになった気がしますよ。
 全然眠くないって、日本に帰ってからが心配です」
「若いほうが時差には強いって言われているんだがな。
 まあ、お前さんがそう言いたくなる気持ちはよく分かる。
 実のところ、俺も帰ってからのことが少し不安になっているんだ。
 何しろ、俺には君たちと違って夏休みなんか存在していないからな」
「例の、パイロット公募の話ですか……」
「まあ、それが一番大きいだろうな……
 と、とりあえずあちらが用意してくれたホテルに向かうことにしよう。
 こんなところで立ち話をするのは、間違い無く時間の無駄だからな」

 あっちだと指さした後藤に、シンジはおとなしく従うことにした。いくら専用機でも、ベッドで寝るのに比べれば窮屈だったのだ。寝室があるとは言われたが、人のベッドを使うことにはさすがに遠慮があった。

「先輩達、これからホテルに向かいますから付いてきてくださいね」
「少しも眠くないんだけど、今から遊ぶのはさすがに無理があるわね」

 空を見あげれば、まだ真っ暗で月が出ていたのだ。夜が明けるまで、まだ3時間ほど待たなければならなかった。

「ホテルについて、一休みをして着替えてから遊ぶことを考えましょう。
 なんだかんだ言って、お風呂にも入ったほうがいいと思いますよ」
「確かに、髪の毛がベタついてきたわ」

 歩きながら話をしていると、行く先にはお決まりのリムジンが待っていた。さすがに二度目ともなると、こういうものだという開き直りもできていた。そこでミスマッチがあるとすれば、マドカを除く全員がジャージ姿というところだろうか。一人例外のマドカにしても、セーラー服なのだからミスマッチには違いなかった。
 もう一つのミスマッチは、一行の荷物を運んでくれる男たちだろう。大統領専用機の運用は、米国空軍が行なっている。従って、乗員はすべて空軍の兵士ということになる。その為一行の後ろから荷物を運んでいるのは、迷彩服に身を包んだ厳つい男たちだった。高校生と米軍のエリート、その組み合わせもまたミスマッチの極みと言うことができた。

 リムジンに乗った一行は、予想通り高級ホテルに案内されることになった。さすが深夜と言うこともあり、ロビーに人影は全くなかった。従って、そこで待機しているスタッフの全ては、シンジ達のために用意されたことになる。
 本当なら、とても恐縮しなくてはいけないところだろう。ただ、このことにしても、ここの所同じ事を繰り返されたため、慣れっこになってしまったところがある。開き直るのが勝ちと言うか、開き直らないとやっていけないと全員が思っていたのだ。

「ではみなさん、明日は8時にここに集まってください。
 全員が揃ったところで、レストランに案内します。
 ちなみに、一人で行動できるのであればビーチに出ることを禁止しません。
 それでも、8時までには一度ここに戻ってきてくださいね」

 6ベッドルームのスイートで無かったため、少し広めの一室を集合用に葵は利用した。お陰で一部屋不足することになったのだが、その辺りはすでに開き直りができてしまっていた。

「ここを集合用に開放するので、一部屋相室にすることになるのだけど……」

 そう言って、葵の視線はまっすぐシンジとアサミに向けた。

「葵さん、どうして僕達を見ます?」
「最後ぐらいは許してあげようかなって思ったのよ。
 どうせ日本に帰ったら、周りを気にしなくちゃいけなくなるでしょう?」
「なにか、そう言うあからさまなのは恥ずかしいんですけど?」

 その恥ずかしいことを、この旅行中臆面もなく続けてくれたのは一体誰なのか。その辺りをこんこんと説教したい気もしたが、時間の無駄だし意味が無いと葵は捨て置くことにした。

「はい、誰からも反対が出ませんでしたので、部屋割りはこれで終了します。
 明日の夕方出発しますので、荷物の開封は最小限にしてくださいね」

 以上解散と、葵はさっさと説明を切り上げてくれた。すでに時間が3時半を過ぎているのだから、賢明な判断と言うこともできるだろう。

「じゃあ先輩、最後の夜を楽しみましょう。
 明日は、朝からワイキキのビーチを散策しましょうね」
「明日はって……もう、今日なんだけどね」

 睡眠時間は……と言っても、今更寝るつもりは全くないのだが。3時間程度しか部屋にいないことになる。確かに部屋分けをする程でもないと、シンジもしっかり開き直ることにした。

「葵さんの言うとおり、日本に帰ったら気をつけないといけないんだよね」
「そうですね、気をつけないと先輩に身の危険が及びます。
 だから、こんなことができるのもこっちにいる間だけなんですよ」

 だから時間を無駄にしたくない。アサミの考えに積極的に賛同したシンジは、葵の配慮をありがたく頂戴することにした。大きな荷物を3つ引っ張ったシンジは、アサミに遅れて一つの部屋へと消えていった。

 そして6時間後、全員揃ってワイキキのビーチまで遊びに出ていた。その中に後藤や堀井達が混じっているのは、少し前に聞かされた通りの話だった。本当に大丈夫なのかと言うシンジに、「米軍が守っている」と後藤は種をばらした。

「少なくとも、彼らを信用しても大丈夫だろう。
 だから俺も、こうやって楽しませてもらうことにしたんだ」

 さすがは自衛隊員と言うべきか、普段のだらしなさとは裏腹に、後藤の体もしっかりと鍛えあげられたものだった。「凄いですね」と感心したシンジに、「仕事だからな」と後藤は苦笑した。

「のんびりしているように見えても、これでも沢山の修羅場をくぐってきたんだよ。
 そして今も、日本を守るため日々の訓練を欠かしていない。
 まあ、そう言う事だと理解してくれればいい。
 ところで、そう言うお前さんもなかなか鍛えられた体をしているじゃないか」
「その辺り、1年間散々鍛えられてきましたから……」

 去年1年だけで、小中合わせたよりも体を動かしている。自発的には絶対できないことを考えると、それもマドカ達に感謝すべきことなのだろう。その経験が、今は血肉となってシンジの財産となっていたのだ。

「俺は、ビーチで寝っ転がっているからみんなで遊んできてくれ。
 まあ、適当な荷物番だとでも思ってくれればいい」
「じゃあ、遠慮なく遊んでこさせてもらいます」

 こっちとアサミを手招きしたシンジは、二人揃って後藤に頭を下げてからビーチへと走っていった。それだけを取り出せば、何かの映画の一シーンのようにも見えた。

「いいねぇ、若いってのは」
「全くそうですな。
 ただ私達が若い時には、あんないい思いはしていませんが……」

 お似合いの高校生カップルが、ワイキキのビーチで戯れている。確かに堀井の言うとおり、インパクト前でもなかなかあり得ないことだった。

「確かにな、ガールフレンドが特上と来れば、妬みたくなる気持ちもよく分かる」
「ですが、ボーイフレンドの方も、そこいらの芸能人では太刀打ち出来ませんよ。
 いずれもトップとまでは言えませんが、見た目、スポーツ、頭と三拍子揃っています。
 そしてなにより、世界で一番のものもお持ちですからね」

 ビーチのパラソルの下には、どう言う訳か綾部も陣取っていた。シンジを評価する言葉は、当然のように女性である綾部から出たものだった。

「それが、篠山の後継者候補に対する評価ですかな?」

 綾部の同行理由が分かっているだけに、後藤は単刀直入に聞いてきた。

「そうですね、私の上司下川辺は将来性がとても豊かと評価しています。
 ここまで観察させていただいた範囲で、その評価は間違ってはいないと思っています」
「それでも、懸念は有ると言うことですか……」

 いくら篠山でも、碇シンジのすべてを知っているわけではない。むしろすべてを知っている者は、この世界を探しても一人もいないだろう。それを前提に綾部の懸念を推測するなら、これまでが順風満帆だったことを気にしているのだろう。
 そして懸念と口にした後藤に対して、「そうですね」と綾部は視線を海に向けたまま話を続けた。

「懸念と言うより、未だ見極めができていないと言うのが正確でしょうね。
 この短いお付き合いの中では、碇様が持っている闇の部分までは推し量ることができません。
 とても聡明で、思慮深いのは観察できたのですが、それが彼の本質かと言うのも分かりません。
 なにか作られた、さもなければ一人の役柄を演じているというのが正しいのでしょうか?
 私が見せられているのは、そう言った上辺でしか無いと言う気がしてしまうのです。
 その奥底に何が隠されているのか、どうしても興味を感じてしまいます」
「それは、篠山から派遣された者として、ですかな?」

 さもなければ。そう前置きをして、後藤はとても微妙な問いかけを綾部にした。

「女としてのあなたがと言うことですか?」
「この場では、篠山としてとお答えさせて頂きます。
 実のところ、後藤様が彼の扱いに悩まれているように、篠山も悩んでおります。
 いえ、篠山というより、ご当主ユキタカ様と申し上げた方が正確でしょう。
 本当に手に入れていいのか、それを望んでいいのか、過ぎた願いは身を滅ぼさないかと悩まれています」
「手に入れて……ですか?
 まっとうな方法では、なかなか難しそうですな」

 綾部ほどは分析していないのだろうが、堀北アサミもシンジに何かを感じているのが分かるのだ。そうでなければ、高知以前からアプローチをしているはずがなかった。ただ単に格好のいい先輩と言うだけなら、S高にも該当者は沢山いた。そして彼女がいた芸能界には、更に大勢対象者がいたのだ。
 難しいと指摘した後藤に、「そうですね」と綾部は淡々と答えた。

「とてもではありませんが、お嬢様の太刀打ち出来る相手ではありません。
 篠山の資産に価値を感じてもらわなければ、到底勝負にはならないでしょう」
「普通に考えれば、篠山の資産、力はとても魅力的だと思いますがね」

 国政にまで影響を与える力、野心があれば、それはとても魅力的な果実に違いない。篠山キョウカを娶るということは、その力を手に入れるという事につながっている。

「後藤様が仰ることは分かりますが、それもまた見極めるための要素の一つかと思います。
 その程度で満足していただけるのであれば、私どもも安心できるのですが……」
「彼は、篠山の資産にはあまり興味が無いようですな」
「これまで上げられた実績だけでも、篠山が長年作り上げてきたものを凌いでいます。
 篠山の知名度など、日本国内のとても狭い範囲でしかありません」

 それが現実と口にした綾部は、「惜しいことをした」と意外なことを口にした。

「マスミ様が、早まりさえしなければと」
「マスミ様と言うのは、瀬名さんのことですか?」

 後藤の指摘に、そうだと綾部は頷いた。

「碇様の性格を考えると、アイリ様と続いていたと思いますからね。
 ユキタカ様としては、別にアイリ様でも構わなかったのですよ。
 うるさく言う年寄りどもなど、排除するのはとても簡単なのです」
「ユキタカ氏も、すでに篠山の家には拘っていないということですか」
「そうですね、ユキタカ様が大切にされているのは、奥様とお嬢様だけですから」

 ふっと口元を緩めた綾部は、「これからどうするのですか?」と逆に後藤に聞き返してきた。

「こちらのことをお話したのですから、後藤様がこれからどうなさるのか教えていただけませんか?
 日本で、パイロットの募集を始めたのは伺っております。
 ですが、碇様を凌ぐパイロットが選出されるとは思えません。
 碇様、遠野様、鳴沢様のことは、いつまでも隠し通すことはできませんよね」
「それについては、結構悩ましい問題になっていますよ。
 これだけ秘密を知る者が多くなれば、いつどこで漏れるのか分かったものではありません。
 遠野鳴沢、二人をどうやって守るのか、それが一番の課題となっているんですよ」
「碇様を敵に回さないためには、とても重要なことですね。
 ただ、普通に公開してしまうと、みなさんが大切にされている生活が壊れてしまいますね」

 そうなると、守ろうとしたものが守れなくなる。そうなったら自分の負けだと後藤は思っていた。だから後藤は、いかにして正体をばらすのか、その戦略に頭を悩ませ続けていたのだ。

「それは、とても難しいことだと思っていますよ。
 ただ、最近はなるようにしかならないとも思い始めています。
 バラすタイミングについては、彼と十分すり合わせをする必要があるでしょう」
「近いうちに、碇様たちは日本で一番……いえ、世界で一番有名な高校生になるのですね」
「それだけは、間違いようの無い事実でしょう」

 その時日本は、そして世界はどんな動きを見せるのか。あまりにも大きすぎて、さすがの後藤も想像がつかなかった。だが絶対にさけて通れないことだけは確かだと分かっていたのだった。







続く

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