−12







 合意は早めにとっておいた方が良い。その考えのもと、後藤は高校生たちの勉強会に乱入することにした。ただ乱入と言っても、過去の経験があるので極めて紳士的に、しかも下手に出て部屋に入れてもらうことにした。もっとも、邪魔にされるかどうかは、おとなしくしているかどうかには全く関係ないことだった。
 おもいっきり下手というか、卑屈ささえ感じさせる後藤に、シンジは開口一番「気持ち悪い」と口にした。

「どうしたんです、やけに今日は卑屈ですね」
「話というのは、ああ、すまないね」

 誰のせいだと言い返したい気もしたが、それをしていたら短い時間が更に無駄になってしまう。言い返したい気持ちを抑え、後藤は用件を切り出すことにした。だが、丁度そのタイミングで、アサミが後藤の前にお茶を置いてくれた。
 話の腰を折るのはやめてもらいたい。そう主張したいところだが、可愛い女子高生にお茶を出されれば目尻も下がってしまう。さんざん高校生たちに虐げられてきただけに、優しくされるとつい感激してしまうのだ。しかも自分が持ってきたものとはいえ、お菓子まで出してくれたのだから、今までにない厚遇に違いなかった。
 そしてお茶を出してくれたのが、元トップアイドルというのもポイントが高かった。

 ずずっと紅茶をすすった後藤は、「話というのは」と同じ所から繰り返した。

「日本に帰ってからなんだが、お願いしたいことがあるんだよ」
「日本に帰ってからって……」

 お願いされることは覚悟していたが、「日本に帰ってから」と言うのはなかなか問題が多かった。ふっと遠い目をしたシンジは、どう受け取っても間違いようのない「お断りします」と答えた。

「おいおい、中身を聞かないうちからそれは無いだろう?」

 中身を聞いてからと言う後藤の主張は、それだけなら真っ当に聞こえるものだろう。だが、それを受け取る方は全く違った考えをしていた。なにしろ海外旅行という恩恵はあるが、夏休みの半分を丸々と協力したと言う意識を持っている。その意識があるから、これ以上時間を提供するのは嫌だと考えたのだ。

「こう言ったことは、中身を聞く前に断るものだと思っています。
 日程が延びたおかげで、夏休みの半分が潰れてしまうんですよ。
 この上僕達に何かをさせようだなんて、はっきり言って民間協力の限度を超えています」
「まあ、そう言って断られるのは覚悟していたのだが……」

 もっとも、このあたりの反応はすでに織り込み済みだった。だから後藤は、有無をいわさず話を続けることにした。

「実のところお願いというのは、日本でもシミュレーターに乗って貰いたいんだよ。
 当然ただ乗るだけではなく、こちらの広報に協力して貰いたい」

 もう一度紅茶をすすった後藤は、お願いをすることに対して交換条件を持ちだした。

「そこで協力して貰う事への交換条件なのだが。
 なにやら、君たちが映画を撮ろうと言う情報が伝わってきている。
 自衛隊として、その活動に全面協力をすることを約束すると言うのはどうだろう?
 高知の映像、今回の映像、なんだったらカサブランカ基地での映像も提供しよう。
 必要なら、基地でのロケを許可することも吝かではない」
「そう言う気前のいい事を言われると、余計断りたくなるって知っています?」

 少し口元を歪めたシンジは、「こちらにも情報がある」と切り返した。

「僕達が何の情報も持っていないと思わないように。
 花澤君のマネージャーさんからメールが入っているって知っていますか?」

 後藤が何を頼みたいのかぐらい、とっくの昔にお見通しだというのである。それを悔しがった後藤に対して、「わざとらしすぎる」とシンジはすぐさま言い返した。後藤の情報能力なら、知っていて当然の事だったのだ。

「とにかく、シミュレーションのマスコミ公開に、ボランティア部が出て行く理由がありません。
 宣伝したいのだったら、プロを使ってやってくれませんか?」
「そこをなんとか……ならないかな?」

 頼むと両手を合わせた後藤に、「なりません」とシンジは冷たく言い返した。

「花澤君を巻き込んだ時点で、ボランティア部の所帯が大きくなるんですよ。
 そしてその所帯の大きくなったボランティア部が、テレビでの真実になっているんです。
 そんな人数が押しかけて、統率が取れると思っていますか?
 先輩二人とアサミちゃんは、絶対に出たくないって言っていますからね」
「そこを曲げて何とかならないか?」

 両手を合わせたままの後藤に、シンジはもう一度「なりません」と繰り返した。

「パイロットを公募するだけなら、僕達が出る必要なんて無いでしょう?
 それに、放っておいても山のように希望者が集まると思いますよ。
 なんでマスコミのご機嫌取りに僕達が協力しなくちゃいけないんです。
 うまく踊らせて、一石三鳥なんて狙っていたんじゃありませんか?」
「いやっ、せいぜい一石二鳥なんだが……」

 実のところ、一石四鳥なのだが、それを口にしたら更に話がややこしくなる。そう思って少なめに言った後藤だったが、それは意味のない努力でしかなかった。

「パイロット公募の告知。
 どさくさに紛れた先輩達のお披露目。
 マスコミへのご機嫌取り。
 僕達を今後も利用するための土壌づくり。
 そうですね、いっそのこと僕達も候補に取り込んでしまうってところですか」

 シンジが指折り数え上げていくのに、後藤は背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。情報を小出しにして、うまく踊らせようと考えていたのだが、踊らせるどころかこちらの意図を見ぬかれてしまっていた。葵からも報告されていたのだが、格段にやりにくくなってくれたのだ。

「ソフトランディングするために必要だって、僕に先輩二人を説得させるつもりだったんでしょう?
 ここでそこそこの適性を示せば、今後基地に来させる口実が出来ますからね。
 そう言うなし崩しが通用するだなんて考えていると、これから協力しませんからね。
 それから先に言っておきますけど、秘密が人質になるだなんて考えないように。
 いざとなったら、アメリカでも、モロッコでも逃げ込みますからね。
 力づくなんて考えたら、世界を滅ぼしてあげますよ」

 世界を滅ぼすと言ったシンジに、後藤はまさかと目をむいた。どこまで大丈夫かのチキンゲームは、別の方面でも継続中だったのだ。
 だが後藤の反応を放置し、シンジは「正攻法でいきましょうよ」と提案した。

「まず、先輩二人の進路希望を確認してください。
 二人とも高三ですから、学校にも進路希望を出さないといけないんです。
 そこから始めてくれれば、僕だって文句を言わないで協力するのに。
 余計なことを裏で画策するから、つい反発したくなってしまうんです。
 そう言うのを、「策士策に溺れる」って言うんですよ」

 一応言いたいことを言ったので、シンジは「それで?」と後藤の反応を待った。ちゃんと助け船を出したのだから、そこから先は自分で考えろと言うのだ。そして後藤は、すかさずシンジの差し向けた助け舟に乗ってきた。

「二人に対して、進路の希望を確認させて貰おう。
 それにあわせて、こちらの条件も提示させて貰う」

 それで良いのかと言う後藤に、シンジは小さく頷き二人に確認した。

「遠野先輩、鳴沢先輩、それで良いですか?」
「でも、さすがに両親に相談しないとまずいわよね?」
「うちも、あまり相談したことが無かったなぁ」

 将来の進路ともなれば、両親の承諾は絶対に必要だろう。今までの行動に疑問は感じるところはあっても、今回はまともな判断をしたようだ。

「じゃあ、後藤さんの話だけでも聞いておきますか?」
「そうよねぇ、今更乗らないって話は無いと思うから……」

 高知の英雄と言うのは、何もシンジのことだけを指している訳ではない。マドカとナルも、日本を救ったヒロインなのである。そしてブルックリン南の戦いで、二人の名はさらに有名になっていた。マドカが呟いた通り、今更乗らないと言うのは無理な相談となっていたのだ。従って、将来の話もヘラクレスに乗ることを前提にする必要があった。

「じゃあ、場所を変えて……」

 話でもと後藤は口にしたのだが、マドカとナルは座ったまま動こうとしなかった。

「先輩、話を聞くんじゃなかったんですか?」

 こう言ったことは、シンジも個別で聞くものだと思っていた。だから動こうとしない二人に、どうしたのかと聞いてきた。
 不思議そうな顔をする男二人に、マドカとナルはにかっと笑い、「ここで良いでしょう?」と答えた。

「どうせ秘密にするようなことじゃないと思うし。
 私達だけだと、丸め込まれちゃう気がしてならないのよ。
 碇君が居た方が、やっぱり安心できるのよね。
 それに、夜に男の人と二人きりって……やっぱり危ないでしょう?」

 いくら可愛らしく言ってくれても、似合っていないというか、結局シンジに甘えているだけなのだ。後藤と二人きりは危ない……と言うのは一部理解できるが、それはマドカの言う貞操方面でないのは分かっていた。丸め込まれるというのが、一番正しく危険性を示しているのだろう。
 それが分かっていても、ここまで言われるのもどうかと思えてしまう。国家公務員の中でも偉い方に数えることができる立場を考えると、よくもまあ信用を落としたものだと言えるだろう。

「後藤さん、とこっとん、信用がありませんね」
「言ってくれるな、何とか立ち直ろうとしている所なんだ」

 そう言って残っていた紅茶を飲み干した後藤は、小さく深呼吸をして「進路と条件」を話し出した。

「今後、職業としてヘラクレスに乗ってくれるというのなら、提示できる道は三つある。
 一つ目は、あくまで一時的に関わるという身分で期間契約を行う方法だ。
 基本1期2年で、最大3期が目安で雇用される。
 試験を受ければ、公務員対応の曹と言う待遇になる事も出来る。
 一般の仕事がしたいのであれば、就職斡旋を行うことも出来るものだ。
 そして二つ目が、いきなり曹として入隊する方法だ。
 先ほどは契約社員の扱いだが、こちらは職業軍人と言う事になる。
 もっとも、士官に昇進できないから、偉くなるのは難しい。
 そして三つ目は、幹部への道を目指すという物だ。
 そのために、うちの大学に入学して貰うことになる。
 大学とは言うが、少ないながらも一応給与もボーナスも支給される」
「大学って、試験を受けないといけないんですか?」

 受験勉強というのは、学生にとって気の重くなるものに違いない。しかも道として提示してくれたのは良いのだが、受験があるとうまく行くとは限らないと思っていた。
 試験を心配したマドカに、後藤は「まさか」と答えた。

「君達二人を確保するのが最優先である以上、推薦入学と言う事になる。
 私としては、うちの大学に進むことをお奨めするな」

 お金を貰って大学に通えて、しかも推薦で入れてくれると言うのだ。確かに条件を考えれば、一番良いものに違いないのだろう。だがお薦めすると言う後藤に、マドカとナルの食いつきは宜しくなかった。

「ねえナルちゃん、自衛隊員になるのってぴんと来る?
 しかも、幹部候補だってなにか実感がないのよね」
「う〜ん、私たちが偉くなるのって、何か違うわよねぇ。
 マドカちゃんが言う通り、自衛隊員ってのもぴんと来ないしぃ」

 二人揃って腕を組んで難しい顔をしてくれた。そのあたりは、感覚を優先したのだからおかしくはないのだろう。ただ、視線が自分に向けられているのはどう考えたらいいのだろうか。決まらないのは仕方が無いと思いつつ、シンジは自分への視線を問題とした。

「どうして、二人揃って僕のことを見るんですか?」
「なにか、良いアイディアが無いのかなって思ったんだけど……」

 視線の意味は理解できたが、はっきり言ってその期待は過剰と言う物だった。

「たかが高校生に、先輩達に選択肢を出す事なんて出来ませんよ」
「でも、碇君が貰ってくれるんだったら、家事手伝いって手もあると思うのよね」
「あーっ、真面目な話をしているんですけどね」

 百歩譲って可能性を考えたとしても、その対象は一人でしかないのだ。二人揃って面倒を見ると言う事はあり得なかった。

「堅実に考えれば良いって事じゃありませんけど。
 でも、何も考えないまま時間だけが過ぎていくのはもったいないですよ。
 猶予時間が欲しいんだったら、一般の大学に行くと言う手もありますけどね。
 ただし、こっちの場合は“入れるんだったら”と言う条件が付きますけど」
「私たちだって、入れる大学はあると思うわよ!」

 すかさず反発したマドカに、「それぐらい分かっています」とシンジは返した。そしてその上で、問題ならいくらでもあると付け加えた。

「でも、入れる大学と入りたい大学が同じとは限りませんよね?
 結局、大学を卒業してからどうするのかが問題になってくるんですよ」
「私は、家事手伝いをしながら可愛いお嫁さんを目指すって手もあるんだけど?」

 確かに、マドカの家は自営業をしているから、手伝いをすると言うのは一つの方法に違いない。だが、「家事手伝い」とか「永久就職」とか言うのは、何も考えていない時の逃げ道としか言いようが無い。その言葉が出たことで、シンジはこれ以上話しても無駄だと諦めることにした。

「鳴沢先輩も似たような物ですか?」
「マドカほど酷くないって言いたいところだけど……
 今まで、なぁんにも考えてこなかったのは確かだわ」

 あははと短い髪を掻き上げたナルに、「そうでしょうね」とシンジは小さくため息を返した。そんなシンジに対して、ナルはささやかな逆襲をした。

「そうやって人のことを馬鹿にしているけど、碇君はちゃんと考えているの?」
「微妙な質問をしてくれますね……」

 はっきりと分かる苦笑を浮かべ、シンジは視線を後藤の方へと向けた。そしてそれを受け止めた後藤もまた、シンジと同じようにひきつった笑いを浮かべた。

「うちに来てくれるというのなら大歓迎したいところだが……
 様々な方面から、色々と干渉されるのは間違いないだろう」
「たぶん、職業選択の自由を主張したら大変なことになるのでしょうね」

 男同士、顔を見合わせて納得されると癪に障ることこの上ない。しかも中身が理解できないのだから、余計に腹が立ってくるのだ。だからナルは、質問した立場として説明を要求した。

「男同士で頷きあっているってのは、はっきり言ってキモイわよ。
 それで、私たちにも分かるように説明してくれないかしら?」
「あーっと、色々と答えにくいことが沢山あるんですけど」

 もう一度後藤の顔を見たシンジは、次にアサミの顔を見てから小さくため息を吐いた。

「いろんな人の思惑で、僕の希望通りになるのか分からないって問題があるんですよ。
 例えば、僕達の正体がばれたとするじゃないですか。
 そうしたら、明日から普通の生活が送れなくなるんですよ。
 身分はどうあれ、パイロットになるしか無くなるでしょうね。
 その逆に、僕からカサブランカやサンディエゴに売り込みをしても良いんです。
 きっと、もの凄く良い条件で迎え入れてくれると思いますよ。
 そうなると、日本も余所に負けない条件を出さないといけなくなるでしょうね」

 そこでシンジに見られた後藤は、これ以上ないほどしっかり顔を引きつらせてくれた。本来思いっきり否定したいのだが、その結果が怖くて黙るしかなかったのだ。何しろ今彼らが居るのは、日本から遠く離れたカサブランカの地だった。明日からの日程の中、シンジが売り込みを掛けるのを止める方法がなかったのだ。しかも、売り込み先が両基地だけでないのも問題だった。高知の英雄が手に入るのなら、いくらでも出すという国があってもおかしくない。
 だが、ナルの問いかけに対するシンジの答えはこれだけではなかった。

「この先いつまで協力できるのかは分かりませんけど。
 ギガンテスの襲撃が続く限り、僕の時間が制限されるんですよね。
 そうなると、一般企業に勤めるのは難しくなるから職業選択の範囲が狭まってくるんです。
 自分で起業するにしても、大切な時に呼び出されてたら会社を潰しかねないでしょう?
 ある程度の組織に所属して、僕が不在になってもバックアップしてくれる体制が必要なんです。
 さもなければ、趣味の自営業でもするしかないですね。
 お金の方は、自衛隊からしっかり貰えば大丈夫だと思いますけど」
「事情は分かったけど、それで結局どうするつもりなの?」

 複雑で面倒というのは、今の説明を聞けば理解できた。そして後藤から提示された選択肢は、あくまで日本の都合だというのもよく分かった。色々と後藤にとって都合の悪いことを言ったのは、思いっきり渋い顔をしているのを見れば一目瞭然なのだろう。
 どうすると言うナルの問いかけに、シンジは「さあ」と言う答えにならない答えを返した。

「碇君、私の事を舐めてない?」

 その答えにむっとしたナルに、「舐めてませんよ」とシンジは口元を歪めた。

「ただ、高校2年という立場は、進路決定に時間的猶予があるんです。
 だからもう少し回りが落ち着いてから、身の振り方を考えようと思っているんですよ。
 幸い、大学だったら今のところどこでも行けそうですからね」

 そのあたり、成績に不自由しているナルに当てこすったことになるのだろう。どこでも行けると言うのは、今の成績を考えれば納得のいく物だった。

「悪かったわね落ちこぼれで」
「そこまでは言いませんけど、男の場合なかなか専業主夫にはなれませんからね」

 そこで顔を見られたアサミは、「そうですね」と話に乗ってきた。

「先輩を家庭に閉じ込めたら、社会の損失だと思いますよ。
 経済的なことはどうでも良いですけど、やっぱり先輩には活躍して貰いたいです」
「と言う事で、参考になりましたか?」
「つまり、碇君と同じ選択肢が私たちにもあるって事ね?」

 「惚気か?」と言いたい気持ちを我慢して、ナルはシンジの言葉に含まれていたヒントを口にした。そしてシンジも、それを肯定した。

「後藤さんには叱られますけど。
 パイロットさえ続ければ責任は果たせますからね。
 正当な対価さえ貰えれば、金銭的に不自由することはないと思いますよ」

 そこでアサミの顔を見たのは、もう一つの世界があることを言わせるためだった。そしてシンジの意を受け、アサミは「必殺技」である芸能界を持ち出した。

「先輩達二人なら、引退しても芸能界から引っ張りだこだと思いますよ。
 何しろ高知の奇跡ってネームバリューがありますからね。
 今でも、先輩達二人を欲しいって所は沢山出てくると思います」
「芸能界ねぇ……」

 言われてみれば、自分達の商品価値はとてつもなく高いのだろう。だが芸能界と言われても、どうしてもナルにはぴんと来なかった。

「アサミちゃんには悪いけど、どうも好きじゃないのよね」
「別に、何も悪くはありませんよ。
 私だって、嫌なことがあったので引退したんですから」
「まあ、真剣に考えれば、色々と選択肢があるって事です。
 ただ、どんな選択をしても、避けられないのはヘラクレスに乗ることですけどね」

 世界的に見ても、適性の高いパイロットは大幅に不足している。その状況が変わらない限り、マドカとナルの二人はパイロットとして期待され続ける事になるのである。それを繰り返したシンジは、ゆっくり考えるようにと二人に言った。

「ご両親と、どうしたいのか話をしてくださいね。
 こればっかりは、家族の問題だと思いますから」
「そうね、うちの親を仲間はずれにしたら叱られるわね」

 じっくり話したことで、ナルも色々と気付くことがあったようだ。それはマドカも同じで、二人の話にうんうんと頷いていた。
 とりあえず、進路のことは足がかりは出来たことになる。シンジがそう考えたところで、半ば仲間はずれにされた後藤が「申し訳ないのだが」と割り込んできた。

「帰ってからの協力について、考え直して貰えないか……な?」

 もの凄く下手に出た後藤に対して、シンジは最初の答えを変えなかった。

「譲歩できたとしても、搭乗訓練や連携訓練ぐらいですね。
 言っておきますが、テレビ番組の一コーナーなんて絶対に拒否します。
 そんな真似をしたら、本当に後藤さんの首が飛ぶ……ぐらいじゃ済みませんよ」

 アメリカで起きた事件を考えれば、シンジの脅し文句は言い過ぎではないのだろう。実績をあげていた基地司令の首をすげ替えることを考えれば、自分の首など簡単に飛ばすことができるだろう。騒ぎの広がり方によっては、更に上まで被害が出るのも考えられた。
 予想外に強硬に反発したシンジに、後藤はテレビの利用を断念することにした。「あわよくば」等という甘い考えが、取り返しの付かない事態を引き起こす可能性があると分かったのだ。だったらリスクを避けるのが、指揮官として必要な判断だということだった。訓練には付き合ってくれるのだから、引き出した譲歩としては十分だといえるだろう。だから後藤は、「協力に感謝する」と言い残して、シンジ達の部屋を出たのだった。



 シンジ達と別れた後藤は、考えを整理するため自分の部屋に戻ることにした。そこで普段と違ったのは、葵ではなく堀井に声を掛けたことだろう。それが珍しいことなのは、少し驚いた堀井の顔からも想像することができた。

「葵ではなく、私ですか?」
「たまには、違った視点というのを期待したいところもあるんだ」

 一緒に行動しているが、堀井と葵はラインが違うという事情があった。経歴として外様な堀井に対して、葵は入隊時から後藤の下についていた。見た目に騙されがちなのだが、汚れ仕事を数多くこなしてきたと言う噂があるのを堀井は知っていた。
 その意味で、葵と言うのは碇シンジを観察するための人選だと堀井は理解していたのだ。それもあって、この局面で自分が呼ばれることは堀井の想定外となっていた。だから「違った視点」を持ちだされても、はいそうですかと納得はしていなかった。

 それでも上官からの命令でもあり、付いて来いと言われればおとなしく従う必要があった。目と目で何かを確認した二人に気づいたが、何事もなかったように堀井は従った。

「それで、特務一佐が私に声をかけられた理由は何でしょうか?」

 そこで連れ込まれた先が、後藤の部屋と言うのは驚くことではないのだろう。機密の保持という意味なら、掃除の済んでいる場所を使うべきなのだ。
 入り口で直立不動の姿勢をとった堀井に、後藤は真面目な顔で「楽にしろ」と命令した。

「とりあえず、俺に付き合え」

 そう言って後藤は、冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出した。
 本来堀井は、この後警戒に当たる仕事が残っていた。だが酒を誘ったのが後藤である以上、それを持ち出すべきではないのである。おとなしく緑色をした缶を受け取り、迷うことなくプルタブを引いた。少し時間差はあったが、部屋の中に缶を開いた音が響いた。

「ここは、サウスブルックリンの奇跡にと言うところか?」

 そう言って缶を差し出した後藤に、「あれは奇跡ではありません」と堀井は答えた。それでも差し出された缶に、自分の缶を軽くぶつけた。

「奇跡と言えるのは、唯一高知だけでしょう。
 Fifth Apostleと言う不確定要素を除けば、アメリカでの戦いは実力通りのものでした。
 そのFifth Apostle迎撃にしても、彼の実力が正しく発揮されたものだと思っています」
「ならば乾杯は、“奇跡のチルドレンに”に対して行うのが適切ということか」

 ぐいっと缶ビールを呷った後藤は、「対象Iのことだが」と気になっていたことを切り出した。

「お前も、葵の報告には目を通しているな?」
「それが任務ですから」

 自分に答えながら、堀井は缶ビールに口をつけようとしなかった。それを見咎めた後藤は、「命令」を持ちだした。

「すでに、不寝番の意味が薄いことは理解しているだろう。
 それに、ホテルの警備にはカサブランカからかなりの人員が差し向けられている」

 だからビールを飲めというのである。そこまで明確に言われれば、命令に従わない訳にはいかない。「分かりました」と答え、堀井は缶ビールをぐいっと呷った。それを見た後藤は、堀井に対する態度を変えた。

「ところで堀井先輩、あなたの目から見て碇シンジはどうですか?」
「いい少年だと俺は思っている。
 とても礼儀正しく、そしてとても聡明だ。
 そして適度な責任感を持っている」

 もう一度ビールを呷った後、堀井は缶をぐしゃっと握りつぶした。

「そんな話をするため、俺を呼んだわけではないのだろう?」

 立ち上がった堀井は、握りつぶした缶をゴミ箱へと放り込んだ。そして冷蔵庫から、新しい缶ビールを二つ取り出し、その一方を後藤へと差し出した。

「すみませんね、先輩を使い立てしまして」
「今は、階級はお前の方が上だろう」

 それでと、堀井は本題に移ることを促した。

「まあ、大した話ではないんですけどね。
 ちょっとばかし碇シンジにやり込められましたから、愚痴でも聞いてもらおうと思っただけです」
「やり込められた?」

 後藤の言葉に、堀井は「ふん」と鼻から息を吐きだした。

「やり込めさせたのだろう?」
「まあ、そう言う意図があったのは確かですが、やりにくくなったのも確かですよ。
 うまく乗せて利用しようと思ったんですが、残念ながら踊ってくれませんでした。
 しかも、日本に協力しないこともあり得ると脅しをかけてくれましたよ」
「できるはずのない脅し……か」
「なにもしないで見殺しにする……というのであれば、確かにできるはずのない脅しですね」

 ふっと吐き出した堀井に、確かにそうだと後藤は認めた。それを聞いた堀井は、もう一度「出来るはずのない脅し」と繰り返した。

「いや、サンディエゴやカサブランカに所属すると言う方法があるんですよ。
 そうすれば、世間的に責任を問われることから回避することができます。
 ギガンテスに襲われた人たちを見殺しにする罪悪感にもとらわれなくて済むでしょう」

 つまり、後藤にしてみれば「日本に協力しない」と言う選択肢はあり得ると言うのである。だがそれを聞いても、堀井は「出来っこない」と繰り返した。

「遠野マドカ、鳴沢ナルが日本を出ないからですか?」
「姉離れができていない男だ。
 最初は良くても、あの二人が居ない状況に我慢できなくなる。
 恋人ができたとは言っても、すぐに乗り切ることは出来ないだろう」

 堀井の答えに、「なるほど」と後藤は答えた。

「西海岸のアテナ、砂漠のアポロンに対して碇シンジは精神的優位に立った。
 そして西海岸のアテナは、碇シンジに対して依存しつつある。
 砂漠のアポロンにしても、それは時間の問題に違いない。
 あの二人にとって、碇シンジと言うのは重圧から解放してくれる存在なのだろう。
 いささか不自然なところはあるが、状況は碇シンジを中心に動こうとしている」
「そして碇シンジは、あの二人に依存していると言う事ですか?」

 堀井は小さく頷き、ぐいっとビールを呷った。

「まだ17の少年と言う事を考えれば、別に不思議なことではないだろう。
 今後堀北アサミの比重は増えていくのだろうが、あの二人が特別であることには変わりない。
 そしてお前が言った通り、あの二人は日本を出ることはない。
 碇シンジと違って、日本には関わりのある人達が大勢いるからな」

 そしてもう一つと、堀井はマドカとナルについての分析を付け加えた。

「おそらくあの二人は、自衛官になる事は考えていないだろう。
 理由はとても簡単、あの二人にとってヘラクレスに乗ることは人生のごく一部でしかないからだ。
 特に遠野マドカは、ヘラクレスだけに縛られたいとは思っていない。
 やりたいことが多すぎることが、進路の決まらない理由だろうな」
「うちの大学に入ってしまうと、パイロット以外何も出来なくなる……と言うことか」

 ふんと人差し指を鼻の下に充てた後藤は、二人を活用する策を考えることにした。

「外向けの事を忘れれば、二人の身分は大きな問題ではない。
 ただ、うちに所属しないとなると、氏名の公開方法が問題になるか。
 訓練に参加して貰う際の、立場も考えなくてはならなくなる……」

 もしも民間協力を継続するとなると、報酬を含め解決しなくてはいけない問題が目白押しとなる。契約隊員という物があるのだが、今の制度は二人に当て嵌めるのには不適当すぎた。
 そしてもう一つ、後藤は堀井の言う「やりたいことが多すぎる」に引っかかった。調書を見た時にも思ったのだが、正式名称ボランティア部こと「ジャージ部」は、本当に活動内容が多岐にわたっていたのだ。そこまで活動範囲を広げた背景には、間違いなくマドカ達二人の考え方が有ったのだろう。町内会の行事と比べられるのは不本意だが、二人にとってはどちらも大切にしたいことに違いない。

「うちに引っ張るのは諦めた方が良いのか」
「おそらく彼女たちは、S大に行く選択をするだろうな。
 そうすれば、この地を離れなくても済むことになる」

 堀井の出した推測は、後藤にとって好ましい方向には違いなかった。S大なら基地から30分程度しか離れていないし、高校生よりよほど時間を自由にすることが出来る。
 ただそれだけを見れば好ましいことなのだが、そうなると、問題は別の所に移ってくる。果たしてあの二人が、無事入学試験を乗り越えられるのだろうか。

「あの二人、S大に受かるのか?」

 学業で苦労しているのを見せつけられているため、後藤はすぐにその問題に行き当たった。難関大学とは言わないが、S大は中程度の難易度を持った大学だったのだ。
 そんな後藤の心配に、多分と断りを入れて「大丈夫だろう」と堀井は答えた。

「目標さえ決まれば、あの二人の集中力が生かされるだろう。
 そしてあの二人が努力をするのなら、間違いなく碇シンジが手助けをする。
 成績さえ上がれば、学校も推薦状を出してくれるだろう」

 それがうまく行けば、最善でなくとも次善であることには違いない。国民へのばらしかた……紹介の仕方という課題は残るが、うまくやれば新しい協力の形として受け入れも難しくない。

「それが、落としどころと言うところか……」

 無理に形を作れば、必ずどこかで歪が出てしまう。二人が理詰めで動いていないのが分かるだけに、感情の問題を無視することはできなかったのだ。
 堀井の助言で少しすっきりとした後藤は、日本に帰ってからの動き方を考えることにした。



 堀井の「集中力がある」と言う評価は、シンジの二人に対する評価と同じ物だった。じっくり教えていることもあり、学校から出された課題も問題なくこなしてくれている。むしろ、予想していたより理解が早いと思ったほどだ。そうしてみると、普段の授業態度に問題があるのではないかと思えてしまった。
 それでも二人に実感が無いのは、教えているのがシンジだからだろう。下級生に教えられているという事実が、自分の進捗を見誤らせていた。

「それで、真面目な話をして良い?」
「別に、構いませんけど?」

 今日の課題が終わったところで、ナルが進路の話を蒸し返すことにした。後藤が居ると出来ない話、しにくい話をしようというのだ。
 そこでお互い顔を見合わせ、「私が」と言ってナルが進路のことを切り出した。

「後藤さんにも言ったけど、やっぱり自衛隊に入るのはぴんと来ないのよ。
 碇君がここ……S市を離れることを言ったけど、それもぴんと来ない。
 これからヘラクレスだけって言うのは、碇君の言う通り嫌だと思っているわ。
 後は、一時的に離れることがあっても、やっぱり生まれ育ったS市に居たいと思ってる」

 それは、将来に対する漠然としたナルの思いだった。進路志望という意味では不足だが、どうしたいのかが第一になる以上、思いを確かめることはとても重要なことだった。
 その思いを聞かされた以上、シンジもまじめに答えなければならない。

「その気持ちが分かる……とまでは言えませんけどね。
 ただ、先輩達二人が言いたいことは理解できました。
 それで、僕に話したい事って何ですか?」

 二人が真面目な顔をしていることもあり、シンジも真面目に答えた。そんなシンジに、進路のことだとナルは打ち明けた。

「笑わないで欲しいんだけど、一応夢みたいなものは有るのよ。
 ただ、ちょっと成績が厳しいから、なかなか口に出せなかったのよね」
「それで?」

 夢の中身を聞かない限り、何とも答えようがないのが事実だった。だからシンジは、ナルに話の続きを促した。

「笑わない?」
「真面目な話をしているんですから、何を言われても笑いませんよ」

 もう一度「それで」と先を促したシンジに、ナルは覚悟を決めたのか「先生になりたい」と答えた。

「先生ですか……」

 その答えは、シンジが予想したものとは違っていた。ただそう言われてみると、なかなかぴったりとしているようにも思えてきた。何しろ今の自分があるのは、目の前に居る二人のおかげだったのだ。
 だったら、その夢を叶えるためにはどうしたらいいのか。うーんと少し考えたシンジは、持っていたノートPCを開いた。そして検索画面から、S大の該当学部を調べた。

「S市から離れたくない。
 そして先生になりたい……ですか。
 先輩達の希望に添う事を考えると、S大に入るのが一番良いですよね。
 教育学部がありますから、そこに入るのがベストと言えばベストなんですけど……」

 そう答えたシンジは、更にS大の募集要項のページを開いた。それを上から斜め読みをして、目標の学部に入る方法を確認した。

「一応指定校推薦と言うのがありますね。
 ただ問題は、二人を押し込む枠があるのかと言う事かな。
 まあ、そこから漏れても、真っ当に受験して受かれば良いだけのことなんですけど」
「推薦ってのがあるんだ……」

 受験生として、指定校推薦を知らないというのはどう考えたらいいのだろうか。ある意味突っ込みどころ満載の答えなのだが、敢えてシンジはそれに拘らないことにした。

「ただ、あんまり枠が無いと思うんですよ。
 それにうちからだと、S大に行きたい人が多いでしょう。
 指定校推薦枠って結構な激戦になっているはずです。
 先輩達二人の場合、成績以外は十分のはずなんですが……」

 こういう時に、ボランティア部というのはつぶしがきいてくれる。しかも今年に限って言えば、かなり学校の無理も聞いているのだ。だったら、何らかの見返りがあってもおかしくないと思っていた。ただそれにしても、二人分の枠があるかと言うのは別問題だった。
 次に予備校のデータを調べたシンジは、かなりハードルの高いことを確認した。

「S大の中では高くないんですけど、それなりに難しいというのが正直なところですね。
 二人とも、模試の偏差値は55を超えていますか?」
「ちょっと、足りないって所かな?」

 はははと笑った誤魔化したナルとマドカに、「真面目な話です」とすぐさまシンジは言い返した。

「行きたいところが決まれば、対策を練るのも難しくないんです。
 そのためには、今がどうなっているのか正しく知る必要があるんですよ。
 笑って誤魔化したい気持ちは分かりますけど、正直に答えてくれないとどうしようもありません。
 どうしても無理そうだったら、他の方法を考えないといけないでしょう?」

 真剣な顔をしたシンジに、二人は諦めたように自分の偏差値を口にした。

「46です」「右に同じ」

 なるほどと二人のレベルを確認したシンジは、次にS大教育学部の入試要項を確認した。一応国立と言う事もあり、センター試験の対策も必要となってくる。

「先輩達、マークシート模試って受けてます?」
「い、一応受験生だから……」

 二人揃って顔を引きつらせたところをみる限り、そちらの方も芳しくないのだろう。二人のレベルを正しく認識したシンジは、「覚悟はありますか?」と二人に聞き返した。

「か、覚悟って?」

 ゴクリと唾を飲み込んだ二人に、「毎日勉強会をする覚悟」だとシンジは答えた。

「篠山のために、勉強会を開くって話になっていたでしょう?
 それを、よほどの事情がない限り毎日開くと言うことです。
 第一目標は、二人の成績を上げて指定校推薦をとること。
 第二目標は、S大教育学部に入れるぐらいまで成績を上げることです。
 第一目標がうまく行かなかった場合、来年の8月まで勉強会は続きますよ。
 その勉強会に音を上げず、最後までやり通す覚悟はあるかって事です」
「それって、結構きついわね……」

 本来受験生なら珍しくない努力なのだが、改めて言われればとてもきついことに思えてしまう。それを思わず口にしたナルだったが、すぐにそれ以上の問題があることに気がついた。

「それって、私達以上に碇君の方がきつくない?
 ずっと、私達のために時間が取られることになるんでしょう?」
「さすがに、そこまで碇君に甘えられないと思うし……」

 そこで二人に見られたアサミは、「遠慮なんて要りません!」とすかさず答えた。もっとも、遠慮という意味でアサミを見たわけではなかったのだが。

「他の人達のためだと嫌ですけど、遠野先輩と鳴沢先輩のためなら構いませんよ。
 私は、先輩達のことを生死を共にした仲間だと思っているんです。
 それに、今の碇先輩があるのは先輩達二人のお陰なんですよね。
 だったら、恩返しの意味でもお手伝いするべきだと思いますよ」
「……本当にいいのかなぁ」

 期待した方向とは違う答えなのだが、アサミからお墨付きをもらったのは確かだろう。それでも遠慮してしまうのは、それが本当にシンジのためになるのか分からないということだった。
 だが二人の心配は、シンジにとってどうでもいいことだった。

「高校に入学してから、二人には随分とお世話になりましたからね。
 だったら、恩返しの意味でも二人の入試を手伝ってもいいと思いませんか?」
「あれは、自分達のためにやったことでもあるんだけど……」

 だから恩返しされるようなことではない。そう答えたナルに、「それでもです」とシンジは答えた。

「それから、僕の負担はあまり心配しなくてもいいですよ。
 二人に教えながらでも、自分の勉強は出来ますからね。
 家で夜やる分、勉強会でやると思えば大したことはありませんよ」
 それから篠山、お前も数に入っているのを忘れるなよ」
「お、俺も良いのかっ!?」

 蚊帳の外というか、仲間に入れないとキョウカは初めから諦めていた。アサミの言う「生死を共にした仲間」からは外れているし、シンジに対して迷惑をかけっぱなしだと思っていたのだ。だから「お前もだ」と言うシンジの言葉に驚いてしまった。
 だが驚くキョウカに対して、「考えが甘い」とシンジは文句を言った。

「僕が、お前だけを楽にさせるとでも思っているのか?
 そもそも家庭教師を首にしたいんだったら、率先して勉強会に参加しないとだめだろう。
 頼まれた以上、僕は全力でやるから覚悟しておくんだな。
 それから篠山、ここにいる5人は全員仲間だってことを忘れるな」

 自分も仲間に入れてもらえると言われ、キョウカはうるっときてしまった。

「先ぱぁい……」

 少し涙目になって抱きつこうとしたのだが、残念ながらキョウカの前には高い壁がそびえ立っていた。

「キョウカさん、どさくさに紛れてと言うのは感心しませんね。
 それに、先輩に近づく女性を私が見逃すと思っているんですか?」
「少しぐらい分けてくれてもいいじゃないか」

 いいところだったのにと文句を言ったキョウカに、「あなただけは絶対にだめ」とアサミは厳しかった。

「勉強会自体、かなり譲歩しているのを忘れてもらっては困ります!
 それから先輩、誰彼かまわず優しくするのはやめてくださいね」

 勉強会の話の間、ずっとアサミは部外者の位置に置かれていたのだ。それだけでも不満なのに、他の女性に優しくするのは恋人に対する裏切り……と言うのは言いすぎだとしても、不誠実だとアサミは主張したかった。
 それを可愛く頬を膨らませて言うのだから、可愛すぎる嫉妬としか言いようがなかった。怒っているのにそれ以上に可愛く感じることに、シンジは軽いめまいすら感じていた。

 それを察知したのか、マドカとナルはそそくさと荷物を片付け始めた。そしてそれに倣うように、キョウカも持ってきたテキストをカバンに詰め込んだ。

「明日は、9時ロビー集合でよかったのよね?」
「そうそう、葵さんがそう言っていたわね」
「お、俺も、そう聞いた記憶があるなぁ」

 なぜか急に余所余所しくなった3人に、シンジはどうしたのかと聞き返した。だがシンジに構わず、アサミが3人に「そのとおりです」と答えていた。

「ええ、堀井さんもそう言っていました。
 遠野先輩、鳴沢先輩、キョウカさんおやすみなさい」

 ここから先は、恋人同士の時間となる。マドカ達にかなりの時間を譲ったという思いもあるが、アサミにとってそれ以上に重要なのは、葵に知らされたヒアリングの様子だった。
 男なんかに負けてなるものか。砂漠のアポロンに対して、メラメラと闘志を燃やすアサミだったのだ。



 ゆったりと日程が組まれていたお陰で、ヒアリングの翌日は完全オフ日となっていた。すなわち初日にさわりだけ行った、世界遺産観光の本番と言う事になる。各自が「旅の栞」を持ってレストランに来たのは、それだけ期待の高さの現れなのだろう。ワシントンでこそ歴史を見ることはできたが、アメリカでは“今”を見てきたのだ。
 だがモロッコに来て、“過去”を目の当たりにしたのである。今につながる過去、人々が積み上げてきた歴史を、実感することができた。日本にいては感じられない外国、モロッコではそれを強く感じることができたのだ。

 アメリカが悪いという事ではないが、人以外では新鮮味に欠けたところがあったのは確かだ。だがモロッコ、特にカサブランカに来て、これぞ外国とジャージ部一行は海外の醍醐味を味わったのである。それを思えば、多少の不便も旅の彩りだった。
 今日一日の予定に盛り上がる高校生達を前に、ツアコン葵はいきなり予定の変更を持ち出した。それだけでもツアコンとしてどうかと思うのだが、何かに諦めたような表情に、高校生たちは荒れる休日を予感した。

「世界遺産観光というのは変わりませんが……」

 そう言って話を切り出した葵は、色々と事情が変わったことを説明した。

「当初の予定では、ここからマイクロバスでの移動となっていました。
 その移動方法ですが、まだ低気圧の爪痕が酷いと言う事で、
 カサブランカ基地からオスプレイを提供してもらえることになりました。
 つまり、皆さんは豪華な空中散歩を楽しむことが出来ます。
 移動時間も短縮できますから、観光に充てる時間も増えることになります」

 軍用機とは言え、空を散歩するのは贅沢なことに違いない。しかも移動時間が短縮されるのであれば、本当なら高校生達からも文句は出ないはずの提案だった。そしてその話をする方にしても、それだけならもっと自慢げでもおかしくないはずだ。
 だがシンジに言わせてみれば、軍用機の使用は目立つ事この上ない行動なのだ。それにカサブランカ基地の輸送機は、間違っても観光に使う物ではないはずだ。それを堂々と高校生の観光に使うのだから、それだけで済むとはとても思えなかった。当然周りを納得させる、理由というのがついてくることになる。

 だからシンジは、疑惑の籠もった眼差しで葵を見た。白状することがあるのなら、さっさと吐けと言う所だろうか。
 そんなシンジの視線にたじろいだ葵は、しなくても良い言い訳を口にした。

「わ、私は何も仕組んでいないわよ」
「つまり、仕組んだ人が他に居るって事ですよね」

 語るに落ちた葵の言い訳に、今日の予定がただの観光で終わらないのをシンジは確信した。だからマドカ達全員を動員して、「吐け」と葵を睨み付けた。この期に及んで、逃げきれると思うのが間違っているのだと。
 その視線に負けた葵は、「実は」と言ってカサブランカ側の事情を持ちだした。

「え、ええっとね、ちょっと大きな団体様になってしまったのよね。
 せっかくだから親睦旅行にしたいって、カサブランカ側から申し入れがあったってことよ」
「だから、カサブランカ基地の機体が使えると言うことですか……
 空からなら、いざというときもすぐに戻ってくることが出来ますからね。
 つまり、オスプレイは緊急時の対応を口実にしたと言う事ですか……」

 全員顔を突き合わせて、本当に親睦になるのかという疑問はあった。だが初日の懇親会を思い出し、さほど緊張状態にならないのかとすぐに考え直した。ただその時の問題は、自分の恋人の負担が大きくなることだろうか。
 それでも選択権は、自分達にあるとシンジは知っていた。だがここで拒否権を発動することは、お互いのためにならないのも分かっていた。それに、サンディエゴに比べて、カサブランカだけパイロットの待遇がいいとは思えない。それを考えると、親睦という理由がついても、息抜きする時間があってもいいと思ったのだ。
 仕方がないかとシンジが諦めていたら、葵が更に言い訳を続けてくれた。ただ問題は、その言い訳の中にいささか不穏な中身が含まれていたことだろう。

「ええっと、今更断れないって言うか……
 向こうも、しっかりその気になってくれているのよね。
 聞いたところによると、渚さんが大乗り気らしんだけど……」

 昨日までなら、何もおかしなことのない説明だろう。だがヒアリングと言うイベントを終えた今、「カヲルが乗り気」と言う言葉に、別の意味がついてくるようになっていた。
 何か感じるところがあったのか、シンジはぶるっと体を震わせた。そして隣に座っていたアサミは、少し大きな声で「先輩!」と呼びかけてきた。

「大丈夫です。
 絶対に私が守りますから!」

 決意を秘めた瞳をしたアサミは、さすがと言わせる美しさをしていた。だがアサミが力説する、「守る」と言うのは、一体何からなのだろうか。初日の観光後のノリとは、明らかに女性陣の雰囲気が変わっていた。
 何からという言及がなくても、居合わせた女子高生達からは疑問の声は上がらなかった。何しろ前日の夜に、全員葵の報告に驚いた口なのである。冗談で男同士を口にしたナルも、その危険性が現実となったと聞かされた途端に態度を変えたのだ。そのあたり、アサミに盗られるのは許せても、男に盗られるのは許せないという強い思いがあったのだろう。

「アサミちゃん、今日はずっと碇君にくっついていなさい」

 普段とどこが違うのかと言う気もするが、ナルはアサミにシンジの護衛を命じた。入学した時と立場が逆なのだが、女性陣一同誰も不思議に思っていないようだった。おかしな事で、ジャージ部の結束が更に強化されたのである。なんでこうなった。とても理不尽なものを、シンジは強く感じていたのだった。

 同じ頃、場所を変えたカサブランカ側でも話し合いが行われていた。普段ならリーダーと言う事で、カヲルが全体を指導するのだが、今日に限っては、カヲルの居ないところで緊急ミーティングが開かれていた。出席者は、カヲルを除くパイロット全員。カヲルが調整で出て行ったのを利用し、急遽極秘裏に開催されたものだった。その会議の場で、主力組を代表してエリックが力強く宣言した。

「国際問題となるような真似は絶対に阻止する!」

 前日が前日だっただけに、エリック達主力組の危機感は相当高まっていた。国際問題を避けるためには、多少の我慢は許容する。だからエリック達男性陣は、涙を飲んで今日一日の特別行動を自粛することにした。つまり、憧れのアイドルの追っかけはしないと言うことだ。それぐらいしないと、今日一日乗り切れないと思っていたのだ。

「それで、具体的にどうするの?」

 意気込みは分かっても、実行策がなければ何もしていないのと同じになる。具体策を聞いてきたライラに、エリックはいくつかの要件を確認した。

「まず、シンジ碇にその気がないと言うのは確認出来ている。
 また、日本側にも危険性が伝わっていると考えて良いだろう。
 従って我々は、カヲルの行動だけを監視すればいいことになる。
 具体的には、シンジ碇とカヲルの接触時間を限りなく短くすることに主眼を置く。
 カヲルはカサブランカのリーダーなのだから、リーダーとして全体統率を行って貰う。
 そうすることで、カヲルの自由時間を限りなく削減する。
 それに加えて、人目に付かないところでは絶対に二人きりにしないと言うのも重要だ。
 特に女性の付いていけない場所、例えばトイレには必ず複数人でカヲルに付いていく。
 口実はそうだな、エースに対するボディガードというので良いだろう」
「あなたたちは、アサミ堀北にまとわりつかないと言う事ね。
 抑止力という意味では、彼女の力が一番大きいでしょうからね」

 マリアーナの指摘に、その通りだとエリックは力強く答えた。

「本件に関して、誰も抜け駆けをしないことを保証する。
 俺たちが優先すべきは、国際問題化の絶対阻止だ」

 いいなと確認したエリックに、他のパイロット達からも力強い答えが返ってきた。主力組以外の活気は、これまでギガンテス迎撃でも見たことのないものだった。「ようやく活躍の機会が来た」と考える者が居るのは、さすがに行きすぎなのかも知れないが。
 いずれにしても、カサブランカ基地の結束が高まったことだけは確かだった。後はこの結束を、ギガンテス迎撃に生かすべきと言うのは、今更言うまでもないことだろう。



 親睦旅行というものは、最初のよそよそしさはあっても、次第に打ち解け仲良くなるのが相場と決まっていた。だがこの日の親睦旅行は、集まった時から一部によそよそしさとは違う異様な緊張感が漂っていた。
 それとは別に、一番楽しみにしていたはずのカヲルは、そこはかとない不満を顔に出していた。そのあたりは、出発前にカサブランカ基地所属パイロット一同から、個人行動は慎むように申し入れがあったことが理由なになっていた。カサブランカ基地所属パイロットのリーダーなのだから、観光中も全体統括を心がけ、個人行動に走らないようと釘を刺されたのである。

「ちなみに、同じことは日本側にも申し入れてある。
 確かに親睦を目的としているが、それが円滑に行くよう取りはからう義務がお前にはある」

 個人的事情で行動するな。全員の申し入れ以外にも、エリックからも釘を刺されてしまった。相当不満のある申し入れなのだが、基地として団体行動を取る以上、自分に降りかかる責任であるのは確かだった。

「つまり君達は、アサミ堀北にまとわりつかないと考えて良いのかな?」

 初日の懇親会の実績から、エリック達は日本のアイドルの所に行く物だとカヲルは考えていた。だから意趣返しとばかりにアサミの事を持ち出したのだが、その切り返しはすでにエリック達の想定の範囲だった。

「何を当たり前のことを言っているんだ。
 俺たちも、初日のあれはやり過ぎたと反省しているんだ。
 あちらの予定に割り込んだ以上、迷惑を掛けないのは当たり前というものだ」
「それを自覚してくれれば良いんだよ……」

 そう答えながら、カヲルは見えないところで舌打ちをしていた。エリック達がアサミの所に行けば、自動的にシンジが取り残されることになる。それをうまく利用すれば、二人きりになるのも難しくないと思っていた。それに目的地が入り組んだ場所だと考えれば、はぐれるのも難しくないと目論んでいたのだ。だがエリック達が自制することで、その作戦は使えなくなってしまった。
 それでも、二人きりになる機会などいくらでもあると高をくくっていたところはあった。いくら恋人同士でも、一緒に行けない場所は存在している。特に生理現象を止める事は、誰にもできないと思っていたのだ。後は、どのタイミングでそれを利用すればいいのか。そのタイミングを考えるため、灰色の脳細胞がフル活動したのは言うまでもないことだった。

 エリックの言う日本側への申し入れは、葵経由でマドカ達が受け取っていた。葵の報告した危機について、カサブランカ側も認識しているということである。つまり、葵の勘違いなどではないということになる。
 相手の協力があるのならと、マドカは葵を巻き込み追加の対策を考えることにした。双方の親睦を図ることを邪魔せず、しかもシンジの安全をどうしたら図れるか。およそ親睦とはほど遠いことに、マドカとナル、そして葵は頭を悩ませた。

 そしてそこから導き出された答えが、逆にシンジを相手側に溶け込ませようというものだった。アサミを同伴させると言う条件は変えないが、日本側だけで固まるのをやめようと言うのだ。そうすることで不自然さをカモフラージュするのと、双方の親睦を深めつつ、問題人物からシンジを引き離そうと考えたのだ。
 そして溶けこませる相手として、主力組ではないパイロットを選ぶことにした。指導力が認められたシンジだからこそ、経験不足のパイロット達と行動を共にすることに意味がある。そんな屁理屈を用意したのだ。

 そしてその提案に対して、どう言う訳かシンジが積極的に乗ってきた。アサミが隣に居るからと言う事情はあっても、日本側での団体行動を希望すると思っていたのだ。だからマドカは、本当に良いのかと聞き返してしまった。

「本当に良いのかって……それは僕の台詞だと思いますけどね。
 だって先輩達は、僕抜きであちらの主力組と交流するんですよ。
 それを考えれば、大丈夫ですかと言うのは僕の台詞だと思いますけど?」

 本当に良いんですかと聞き返され、マドカは勢いだけで「大丈夫!」と答えた。そこで心配されるのも癪だし、作戦が振り出しに戻ることも心配したのだ。それにいざとなれば、面倒は葵達に押し付ければいいと考えたていた。そもそも今日行うのは観光なのだから、難しい話は無いと高をくくっていた。
 そしてシンジに対する切り返しとして、マドカはシンジの初対面への対応力を持ちだした。

「そう言う碇君こそ、知らない人の中に入っていけるの?
 特に今日は、仕事じゃなくてお遊びの話なのよ」
「まあ、アサミちゃんが居るから大丈夫だと思いますけど……」

 仕事のヒアリングなら怖くないが、遊びとなると別だというのをシンジは思い出した。そうなると、俄然マドカ達の方が有利だと思い出してしまったのだ。だからシンジは、アサミの社交性に頼るという、何とも情けない対策を考えたのだった。

 ちなみにシンジが積極的に賛成した裏には、明日行う合同シミュレーションが理由となっていた。事前にアサミと検討した結果、今のままでは手を加える部分がないと結論づけたのだ。カヲルの場合、アスカほど攻撃方面の能力が突出しているわけでなく、全体のバランスを取る今の役目が適していると言う結論である。
 だから日本との合同シミュレーションでも、サンディエゴほど目立った効果が出ないと考えたのだ。それは同時に、思ったほどの戦力増強にならないということでもあった。

「たぶんですけど……」

 少し言いにくそうに前置きをしたアサミは、全体の能力のことを口にした。

「前の戦いを見た限り、先輩が一番強いと思いますよ。
 アスカさんの位置に先輩が入って、バランスをカヲルさんにとって貰うというのはどうでしょう?
 カサブランカの人達には、敵の分断とバランスをとることに専念して貰えば良いと思います」
「なかなか微妙な役割変更だね……」

 せっかく合同でシミュレーションをするのだから、それぐらいの冒険があっても良いとシンジも思っていた。ただシンジとしては、それでは何も残せないという所に不満があった。自分達が去った途端、元のカサブランカ基地に後戻りとなる。

「アサミちゃんの言う事を否定はしないし、それも面白いと思っているんだよ。
 ただせっかく好きにさせてくれるって言うんだから、ちょっと冒険もしてみようと思う。
 僕が前に出て暴れるのは、実はうまく行って当たり前だと思っているんだ」
「だとしたら、冒険って何ですか?」

 シンジが暴れることが冒険だと思っていただけに、もっと冒険と言われても想像が付かなかった。だから素直に降参して、アサミはシンジに説明をねだった。
 恋人からの可愛いおねだりに、シンジは少し顔を赤らめ「実は」と言って話を続けた。

「主力の4人を外してシミュレーションをしてみようと思うんだ。
 ハリド君、エンゾ君、マノンさん、ミアさんと、僕達3人の7人のチームを作る。
 カサブランカの4人には、僕と一緒に戦場のバランスと敵の分断をやって貰おうと思うんだ」
「確かに、もの凄い冒険ですね……」

 なるほど冒険だと納得したアサミは、少し考えてから「もしかして」と浮かんだ疑問を口にした。

「それって、日本に帰ってからのことを考えていませんか?」
「さすがはアサミちゃんだね。
 今後衛宮君達と連携を取ったり、新しいパイロットが選出されたりするだろう?
 その時の練習を、ここでやらせて貰おうかなと思ったんだよ。
 うまく行けば、カサブランカ基地にも貸しを作ることが出来るだろう?」
「そうやって、先輩が両エースの上に君臨するんですね!」

 良い考えだと喜んだアサミに、「そこまでは」とシンジは顔をひきつらせた。貸しを作ろうとは思ったが、君臨することなど少しも考えていなかったのだ。

「ただ、色々と手を打っておいた方が良いかなと思っただけだよ」
「でも、私としては、その方が安心できると思っているんですよ。
 ニューヨークでは頑張ったから、私が恋人だって世界的に認知されましたからね。
 先輩が世界規模で活躍すれば、私もキョウカさんに厳しい事を言わなくても済みます」

 篠山本家が手を出しにくい状況を作ることが、結果的に自分のためになるのだとアサミは主張した。それでも諦めるとは思えないが、世界に打って出た方が戦いやすいと考えていたのだ。
 ちなみにこの手の話は、勉強会が終わって二人きりになった時にしていた。キョウカだけでなく、先輩二人にも聞かせない方が良いという考えからである。当然ここでの話は、後藤達にも伝わらないと思っていた。xxxを覚えたての高校生という想像を利用して、シンジとアサミの二人は、誰にも見られない状況を有効に活用したのである。

 そんな思惑があったため、マドカの提案はむしろ渡りに船のものだった。今まで表に出なかったメンバーと一緒に行動することで、彼らの特徴を探ろうと考えたのだ。ここで馴染んでおけば、明日のシミュレーションもやりやすくなるはずだ。

 一方非主力組にとって、シンジと言うのは雲の上の存在だった。高知の奇跡で彗星のように現れ、ニューヨークでは世界のヒーローとなった人物なのだ。自分達より経験が浅いと言うのは、あげた実績の前では何の意味も持っていなかったのだ。
 そして民間協力者と言う立場は、むしろその神格性を増す意味しか持っていなかった。横に恋人としてアイドルを連れているのも、その立場からすれば当然だと思えたのだ。しかもその恋人も、救出作戦を提案し、実際見事に成功させたヒロインなのだ。彼らが立場の違いを感じたとしても、それは無理のないことだった。

 そのシンジに、「気楽にやりましょう」と言われて、どうして気楽にできるだろうか。雲の上の相手を前に、4人の男女はますます緊張したのだった。



***



 経営者の義務として、ニック堀北こと堀北ナオキは、折を見て第二東京の支店にも顔を出していた。目的は、支店の経営状況の確認と技術指導。堀北美容室の名前を冠する以上、納得のいく水準をキープする義務があったのだ。
 ただ今回の第二東京支店出張に関しては、普段とは違い1週間と言う長い日程を確保していた。娘の海外合宿と言う事情もあったが、懸案となっていた店のあり方についても決着を付けようと考えていたのである。

 S市中心の支店展開は、ナオキの考える地元主義が理由となっていた。そんなナオキが、遠く第二東京に支店を作ったのには当然のように個人的事情があった。
 その事情というのが、愛娘の子役デビューと言う物だった。第二東京に生活の拠点がないため、支店をつくり、そこを娘のための活動拠点としたのだ。そしてデザイナーをしている妻のマサキと分担して、中学に入るまで娘の芸能界活動をサポートしたのである。従って、マサキの経営するブティックも第二東京に作られていた。

 そんなナオキにとって、娘の芸能界引退が一つの転機になったのは間違いなかった。維持に負担の掛かる第二東京支店を、続けていく理由が無くなったのだ。だから経営権の譲渡を含め、支店をどうするかを真剣に検討しなければと思っていた。
 その方針について、技術指導の合間に一番弟子の片瀬と真剣に話し合ったのである。手放した後のことまで考えると、堀北美容室の名前の使い方まで合意しておく必要があったのだ。

 そのナオキの元に篠山ユキタカの秘書が訪れたのは、片瀬との間で譲渡に関する話し合いがまとまった日のことだった。下川辺と名乗るいかにも秘書然とした男は、ナオキに向かって「今晩お時間を頂きたい」と丁寧に頭を下げた。

「S市から離れたところで、旧友と酒を酌み交わしたいとの事です」

 娘の近況から、篠山からの接触はいつかはあることだと思っていた。覚悟していたこともあり、ナオキは残っていた今日の予定を全てキャンセルすることにした。お互いの忙しさを考えれば、会える時に会っておいた方が好ましかったのだ。そしてナオキ自身、篠山と話をしておく必要があると思っていた。

「悪いな片瀬、細かな話は明日の夜に変更だ」
「別に、急いでいませんから大丈夫ですよ」

 気軽に答えた弟子に、もう一度「悪い」と謝り、ナオキは篠山のお誘いを受けることにした。

 こちらですと案内されたのは、それなりに大きな構えをした「大衆」居酒屋だった。トタン葺きの外観はこれでもかと言うほど古ぼけ、換気扇は油で真っ黒になっていた。外にいても、中からは酔っぱらいの大声が聞こえてくる、上品さからはほど遠い場所である。少なくとも、日本有数の資産家とカリスマ美容師、二人が密会するような場所でないのは確かだった。
 だが小早川に案内された時、ナオキは少しも驚いたそぶりを見せなかった。ただ、「あの野郎」とだけ言い残し、喧噪に溢れる店の中へと入っていった。

 ナオキが入ってくるのを見つけ、髪の一部に黄色と紫色のメッシュを入れたおばちゃんが近寄ってきた。そして「悪いねぇ、満席なのよ」と、あまり申し訳なさそうに応対してきた。そんなおばちゃんに、「約束がある」とナオキは言い返した。

「おっさんが一人で先に来ているはずだが」
「うちは、そう言うお客さんばっかりなのよ」

 そう言い返されたナオキは、ごった返した店内を見回し、確かにそうかと納得していた。カウンターを含め、一人飲みの中高年が大勢いたのだ。そしてテーブル席を見ても、該当しそうな男は見あたらなかった。

「この店で待っていると聞いているんだが……」
「じゃあ、自分で捜しててくれない?
 2階に座敷があるから、そっちに居るかも知れないわね」

 「2階の座敷か……」なるほどと納得したナオキは、それ以上1階を捜さず2階に行くことにした。ユキタカが待っているのなら、2階の座敷、しかも一番隅だと当たりをつけたのだ。
 そう当たりをつけて捜そうとしたのだが、階段を上がった所で目指す相手と出くわしてしまった。開襟のシャツと紺のズボンを穿いたユキタカが、「よう」と手を挙げ自分を待っていたのだ。そして店員に向かって「生中2つとモツ煮、焼き鳥盛り合わせをそれぞれ2人前、あとお新香」と注文し、こっちだとナオキを座敷の一番隅の席へと案内した。

「綺麗な格好はしてくるなと言われた時から予想はしていたが……」

 そう言って店内を見渡したナオキは、微苦笑を浮かべて「久しぶり」とユキタカに言った。

「そうだな、顔を見るのは1年と2ヶ月ぶりか?」
「あの時は、娘のことで世話になったな。
 今更だが、改めて礼を言わせて貰うよ」

 古ぼけた畳の上には、天板がうす緑色をした小振りのテーブルが置かれていた。そして有るだけマシという座布団が両側に二つずつ置かれていた。その座布団にあぐらを掻いて座り、ナオキは「感謝する」と頭を下げた。

「そんな他人行儀な真似はやめてくれ。
 誰でも無い、お前とマサキさんの娘のことなんだぞ。
 幼なじみとして、骨を折るのも当然のことなんだよ。
 それに、俺もあの事件は利用させて貰ったんだ。
 だから、それでちゃらと言う事にしてくれ」

 ナオキの態度に苦笑を返したユキタカは、「久しぶりだな」と再会の挨拶をした。丁度そのタイミングで、まだ若い女の店員が生中2つと、お通し2つを二人の前に置いた。この店に相応しいと言えばいいのか、お通しはただ豆腐を切っただけのものだった。

「とりあえず乾杯だが……何に乾杯する?」
「ユキタカの成功で良いんじゃないのか?
 何しろお前は、日本有数の資産家様となったんだからな。
 しかも政治家にまで顔が利くようになったんだろう?」

 少し皮肉の混じったナオキの言葉に、少し情けなさそうな顔をして「やめてくれ」とユキタカは懇願した。

「それに成功という意味なら、お前も十分に成功しているだろう?
 堀北美容室は有名だし、マサキさんもデザイナーとしてとても有名だ。
 特にマサキさんは、海外にも支店を出すほどのセレブだろう。
 俺は用意されたものを頂いただけだが、お前達二人は、一から今の地位を築いたんだぞ」
「用意されたものね……
 色々と言いたいことはあるが、とりあえず喉が渇いた。
 何でも良い、とりあえず乾杯しよう」

 ナオキの言葉に、「同感」と言ってユキタカはジョッキを手に持った。

「こう言うところで、飲まずに待っているのは間抜けに見えたからな。
 じゃあ、臭い言い方だが、俺たちの友情に乾杯!」
「友情にっ」

 がつんとジョッキをぶつけ合い、二人は少し大ぶりの中ジョッキに口を付けた。よほど喉が渇いていたのか、二人とも一息に半分ほど飲み干した。

「う〜ん、喉に染みるなぁ」
「お前、ジョッキでビールを飲むのなんて久しぶりだろう?」

 篠山家の当主ともなれば、出入りする店も限定されてしまう。それを当てこすったナオキに、「だからだ」とユキタカは言い返した。

「本当は、こう言った店の方が好きなんだよ。
 ただ、篠山って言う体面が、お上品な店しか使えなくさせているんだよ」
「それこそ、お前が選んだ道じゃないか。
 仕方が無いこととは言え、マナミさんではなく篠山をお前は選んだのだからな」

 古い傷をちくりではなくぐさりと刺したナオキは、「それで」と言って先を促した。多忙きわまりない篠山家当主が、旧交を温めるだけに時間を作ったとは考えていなかったのだ。瀬名マナミの事を持ち出したのも、予想した用件への牽制の意味も込めていた。
 もっとも、百戦錬磨という意味ではユキタカは負けていない。地方の有力者を全国区にしたのは、ユキタカ自身の力なのだ。綺麗ごとで生きていては、あっという間に潰されてしまった事だろう。だからユキタカは、「慌てるな」と言って突き出しの豆腐に醤油を掛けた。

「腹が減っていると、話がぎすぎすしてしかたが無い。
 もうちょっと何かを腹に入れてから話をしないか?」

 そう答えたユキタカは、料理を持ってきた店員に「揚げ出し豆腐とたこぶつ」と注文を追加した。そして本題は後と言いながら、ナオキが支店を手放す話を持ち出した。

「第二の店、片瀬に譲るのか?」
「本当に耳が早い奴だな。
 まあ、維持するのも負担だったし、アサミも家に帰ってきたからな。
 あまり手を広げると、だんだん目が届かなくなるのも問題だ。
 俺は名前を売っているんじゃなく、サービスと満足を売っているんだ。
 片瀬の奴も頑張ってくれたから、ちょうど潮時だと思ったんだよ」
「立派な心がけだな……何か痛いところを突かれた気がするよ」

 苦笑したユキタカは、空になったジョッキを持ち上げ「お代わり2つ」と大声を上げた。

「まだ、ビールで良いよな」
「注文してから聞くなっ!」

 まったくと文句を言いながら、ナオキは焼き鳥にかじりついた。だがユキタカの奇行に気づき、「やめておけ」と注意をした。

「お前、仮にも篠山の当主なんだろう?
 煮込みに七味は定番だが、そんな山盛りに掛けるものじゃないだろう」
「当主なんてものをしていると、こう言った食い方が出来ないんだよ。
 お前、大学の時の俺を知っているんだろう、だったらそれぐらい察しろよな。
 そう言うことだから、この後ラーメン屋にも付き合ってくれよ。
 あ〜っ、うまっ」

 目の前でどろどろのモツ煮に、山のような七味唐辛子を掛けて喜んでいるのは、日本を代表する資産家の当主なのだ。それを考えると、これ以上のミスマッチはないのかも知れない。
 だが安っぽいモツ煮に舌鼓を打ち、貧弱な焼き鳥に目を輝かせる。それがナオキの記憶に残る、丹波ユキタカと言う男だった。

 騒がしい店内、そして目の前には安っぽいつまみの数々。これで二人の女性が加われば、ナオキが大学を中退するときの送別会の再現となる。だがナオキの妻はアメリカに滞在しているし、ユキタカの相手は今は遠く離れたところに行ってしまった。そしてユキタカは、別の女と一緒になっていた。
 少し感傷的な気分になったナオキは、「なあ」と揚げ出し豆腐を口に含んだユキタカに声を掛けた。

「はふっ、なんだ」
「お前、マナミさんのこと、どこまで知っているんだ?」

 本当なら、酒の場で聞くような話では無いのかも知れない。そして酒の場でもなければ、聞くことの出来ない話だったのかも知れない。瀬名マナミのことを持ち出したナオキに、ユキタカは「ああ」と少しだけ言葉に詰まった。

「たぶん、お前の知っていることは全部だな」
「つまり、娘のことも知っていると言うことか」

 そう呟き、ナオキはジョッキからビールを飲み干した。篠山本家が隠していると思っていることは、すでにユキタカの知るところとなっていたのだ。だが知っていても、ユキタカはマナミ母娘に対して、何の働きかけもしなかった。
 だがナオキは、それ以上マナミのことに触れなかった。そして空になった自分のジョッキを持ち上げ、大声で店員に声を掛けた。

「おねえさん、お代わり二つ!」
「お前こそ、注文する前に俺に聞けよ!」

 すかさず文句を言ったユキタカに、「おあいこだ」とナオキは言い返した。そして回りの喧噪に負けそうな小さな声で、「娘のことだろう?」と呼び出された本題に切り込んだ。

「もう少し正確に言うのなら、娘が付き合っている相手のことか」

 気の早いことだと口元を歪めたナオキに、「そうでもないだろう」とユキタカは言い返した。

「お前、マサキさんとは、中学からの付き合いだろう。
 だったら、今付き合っている相手が将来の旦那になっても不思議じゃない。
 それで、お前は相手のことをどこまで聞かされている?」

 歯に絹を着せたような質問に、少しナオキは顔を引きつらせた。そのあたりは、父親としてまだ割り切れないところがあったのだ。

「アメリカに行く前に、さんざん娘には凄いところを教えられたさ。
 確か、その頃はマナミさんの娘の彼のはずだったんだがなぁ。
 まるで自分の恋人の事のように自慢してくれたよ。
 そしてマサキからだが、父親としてはあまり聞きたくない話も聞かされている。
 日本に帰ってきたら、うちに泊まりに来るという話にもなっているな。
 色々ととっちめてやろうかと思ったんだが……、お前に目を付けられるような男だったと言う事か」
「目をつけたと言っても、あくまで候補の一人でしかないがな。
 残念ながら、まだ高校生というのは不確定要素が多すぎる。
 ただ、ジャージ部という環境のお陰で、娘は劇的に変わることができた。
 そして娘に一番影響を与えたのは、間違いなくお前の娘の恋人なんだよ。
 もしも娘の意志を第一と考えるのなら、今のところ第一候補という所か」

 ナオキも、客としてキョウカが来たのを覚えている。目を疑ったと言うのが言いすぎでないぐらい、自分の知っているキョウカからイメージチェンジしていた。それを短い間で成し遂げたというのだから、ユキタカが評価するのも当然だと思えた。
 もっとも、篠山が娘の色恋だけで相手を判断するわけがない。世事に通じていることもあり、ナオキは真の理由にも気づいていた。

「能力的にも優れている。
 篠山はそう考えたと言う事か」

 ふっと口元を緩めたナオキは、「それで」と先を促した。

「それで、か……
 それがお前を呼び出した理由ではあるが、あまり話すことがないのも確かなんだよなぁ。
 ちなみに、お前が知っていることは、主に男と女の関係だけか?」
「父親としては、一番大切なことだと思っているがな。
 ただ同時に、どこか安心している所もあるんだ。
 多少早い気もするが、娘が乗り越えてくれたんだなと思えたんだよ」

 乗り越えたと言うのは、ユキタカも関わった、アサミに関する事件のことだった。芸能界を引退する一番の理由となった事件は、同時に闇の中に葬られた事件でもあった。政治家まで巻き込んだ事件は、ユキタカの関与によって穏便な解決を迎えることが出来たのだ。
 戦ってもナオキは負けるとは思っていなかったが、たとえ勝利したとしても、結果的に傷つくのは自分の娘だと分かっていたのだ。だからユキタカが解決に乗り出したのは、感謝すべきことだった。
 だがナオキの答えは、ユキタカの求めたものとは違っていた。だから「他には?」と、ユキタカは聞き直した。

 ユキタカの表情に、ナオキは「あの」ことを言っているのだと気がついた。非常に扱いが微妙で、他人に知られれば娘の引退など比べ物にならない騒ぎとなる事件のことである。なるほどと納得したナオキは、二人だけに分かる核心を隠した答えを返した。

「一応、この場で口にしにくいことも教えられたよ。
 お陰で、あの日帰ってこられなくなった本当の理由も分かったし、
 どうして高校生が海外合宿など出来たのかも分かった。
 そして、お前が愛人を保護者として送り出した理由も分かったよ」
「彼女は、秘書と言って欲しいのだがな?」

 口元を歪め、ユキタカはとりあえず綾部のことを否定した。それに構わず、どうするつもりだとナオキはユキタカの真意を質した。

「どうするつもり……か。
 馬鹿共は、良い男が見つかったと喜んでいるさ。
 高校生と言うことは、これから教育をすればいいと考えている。
 なんとしてでも婿に迎え入れ、篠山を更に発展させるのだと息巻いているな」
「馬鹿共……か?」

 軽蔑したようなユキタカの言葉に、ナオキはその意味を確認した。

「ああ、世間が見えない大馬鹿共だ。
 そしてそいつらが、俺の敵だ」

 そう吐き捨てたユキタカは、大きな声で「お代わり二つ」と店員に向けて叫んだ。

「おいおい、飲み過ぎるなよ」
「こんな話をしていたら、この程度の酒じゃ酔えないさ」

 そう吐き出したユキタカは、残っていたビールをぐいっと呷った。

「俺が篠山を大きくしたことで、あいつら勘違いをしてやがる。
 篠山なんか、本質は小さな地方都市の有力者でしかないんだ。
 小さな町で、威張り腐っているぐらいしか能のない一族なんだよ。
 これから世界を相手にするには、篠山という古い服はむしろ邪魔になってくる。
 それを分かっていない馬鹿が多すぎる」
「それを、お前が言うのか?」
「俺だから言えるんだ」

 そう言い切ったユキタカは、自分の分を飲み干しナオキのビールを強奪した。

「おい、間違いなく飲みすぎだ」
「分かっているさ、分かっているんだ……
 だがなナオキ、やっぱり俺も篠山なんだよ。
 4人で夢を語り合った、あの頃の俺はどこにも居ないんだよ。
 身の丈に合わないと分かっていても、欲しい物は欲しくなってしまう。
 そんな無理を通せば、結局誰も幸せになんかなれないんだ。
 それが分かっていても、無理を通そうとしてしまう自分がここにいる」

 ユキタカが通そうとしている無理、それが何かはナオキにも見当は付いていた。

「そんなことをしたら、一番不幸になるのはお前の娘だろう」
「お前の娘は良いのか?」

 すかさず聞き返してきたユキタカに、「知らん」とナオキははねつけた。

「うちの娘は、まだ15になったばかりなんだぞ。
 結婚を真剣に考えるまでには、まだまだ十分な時間があるんだ。
 最低でも大学を卒業してからと考えたら、まだ7年も先のことだ。
 そんな先の話、今考えたとしてもしょうがないだろう」
「確かに、俺たちの時代でもそのまま結婚した奴らは少数派だな」

 その通りだと認めたナオキは、まだ子供だと自分の娘を評した。

「今はまだ、子供の火遊びって言う所だろう。
 うちの客なんか見てみろ。
 男をとっかえひっかえしている奴もいるんだぞ」

 将来を語るには気が早すぎる。ただ、それが一般論であることも、ナオキは当然承知していた。

「娘が相手に飽きるか、それとも娘が飽きられるのか。
 情熱的に燃え上がった恋は、醒めるのもまた速いと言うことだ」
「相手に飽きる……か?
 まだまだ、波瀾万丈の生き方をしてくれそうな相手だぞ。
 今はまだ名前は出ていないが、公開された時にはお前の娘共々世界一の有名人になる」

 それを考えれば、飽きると言う事は考えにくい。そう指摘したユキタカに、自分の求めたものとは違っているとナオキは言い返した。

「俺は、もっと平凡な幸せを娘には望んでいるんだよ。
 それが贅沢な望みというのは分かっているんだがな。
 同時に、平凡さが娘の望むものかと言うのも分かっていない。
 ただ、強い刺激というのは慣れてしまうと危ないと言うことだ。
 更に強い刺激を求め続けると、いつかは身の破滅を招くことになる。
 アサミには、そんな世界に身を置いて欲しくないと思っているんだよ。
 それもまあ、親の勝手な言い分には違いないんだがな。
 俺たちが若い時には、今と全く反対のことを言っていたぐらいだからな」
「まあ、それが若さというものだ……」

 ふうっと息を吐き出したユキタカは、右手を挙げて「お勘定」と勝手に一次会を締めてくれた。

「次行くぞ、次っ!」
「俺は構わないが……お前飲み過ぎじゃないか?」
「酒は、飲むためにあるんだぞぉっ!」

 伝票を受け取ったユキタカは、「なあ、おねえちゃん」と店員に同意を求めた。
 だが相手も酔っぱらいに慣れているのか、「そうですね」と愛想だけで答えて離れていった。その場に残されたのは、〆て7,000円という伝票だった。

「あの頃の俺達だったら、いささか高級な店だったな」
「今のお前にとって、ミネラルウォーター1本の値段ということか」

 篠山に婿入りして17年。その短い時間で、ユキタカにとっての貨幣価値は変わってしまった。それを指摘したナオキに、「確かにそうだ」とユキタカは時の流れを認めた。

「ちょっと待ってくれ、下川辺に金を持ってこさせる」

 そう言って、ユキタカは携帯電話を取り出した。ユキタカほどになれば、小金を持ち歩くことはないのだろう。
 それを「ここは俺が払う」と言って、携帯電話を伝票と一緒にナオキは取り上げた。この程度の金は、ナオキにとっても子供の小遣いでしかなかった。

「ここと次のラーメン屋は俺が払ってやるよ。
 その代わり、二次会のバーはお前が払えよ」
「バーか?
 場末のスナックって奴に行こうと思ったんだがな」

 苦笑を浮かべたユキタカは、まあいいかとナオキの提案に乗ることにした。

「今更、若い時の真似をしても意味が無いんだよなぁ。
 この後ラーメンに行ったら、相当なカロリーオーバーになるのも間違いないか。
 行き慣れないスナックに行っても、楽しむことも出来ないしな……」
「ああ、ここにはサトミママの店は無いからな」

 いくら昔を懐かしんだところで、無くなった物を取り返すことは出来ない。もしも取り返したと思っても、それは新たに作り上げたものでしかない。記憶の中で美化され輝く、それが二人の中での思い出というものだ。それぐらいのことは、二人とも分かっていたはずのことだった。
 仕方が無いと頭を切り換えたユキタカは、ならばととっておきの場所にナオキを連れて行くことにした。そこならば、“今”の自分を見せることが出来る場所だった。

「じゃあ、とっておきの所に連れて行ってやる。
 ママは美人だし、しかも女の子達も粒ぞろいと来ているんだぞ。
 何より一番良いのは、政治家という奴らがそこには来ないんだ。
 お前を連れて行けば、きっとママも喜んでくれるだろうな。
 何しろお前は、有名なカリスマ美容師様だからな。
 マサキさんのこともあるし、アサミちゃんの父親でもあるんだ。
 田舎の金持ちの俺なんかより、ずっと女の子達の受けも良いだろう」
「だったら、しっかり市場調査をさせて貰うか」

 第一線で活躍するためには、絶え間ない研鑽の積み重ねと知見を広めておく必要がある。特に重要顧客層の意見は、何が無くとも聞いておかなくてはいけなかった。だからナオキは、「ごちそうさま」と言ってユキタカの誘いに乗ったのだった。



***



 世界遺産観光の翌日は、カサブランカ基地との合同のシミュレーションが行われることになっていた。その事前打ち合わせの場で、シンジは「試してみたいことがある」と用意していた提案を持ちだした。

「昨日一緒に観光をしたんだけど、その時ハリド君達と組んでみようと言う話になったんだ。
 日本からは僕達3人、そしてカサブランカからはハリド君達4人でと言う組み合わせ。
 当然、その後には僕達3人とカヲル君達4人との組み合わせもやろうとは思っているよ」
「つまりシンジ君は、僕達4人と組むのよりも先にハリド達と組んでみたいというのだね。
 時間的余裕はあるから、特に反対しなくてはいけない理由はないと思っているよ。
 ただ、できるのなら、なぜそうするのか理由を教えて貰えないかな?」

 理由を正したカヲルだったが、薄々シンジの意図は気がついていた。そしてこのシミュレーションを通して、その課題解決への目処をつけようというのだろうと。
 カヲルの考える課題、すなわちギガンテス迎撃に対しての課題は、実の所二つ有ると思っていた。そのひとつは、より効率的、より効果的にギガンテスを倒すということだ。全体のかさ上げとは別に、最大戦力の増強を考える必要があった。
 そしてその課題に対して、シンジはすでにサンディエゴで実績をあげていた。全体統率という軛から解き放されたアテナは、これまでとはケタ違いの破壊力を示してくれたのだ。共同作戦でしか発揮できないと言う問題はあるが、今までの常識を変えたという意味では、極めて大きな意味を持っていた。

 そしてもうひとつの課題が、絶対的な戦力不足だった。もう少し正確に言うのなら、戦える戦力が不足していることだ。サンディエゴで5人、そしてカサブランカで4人と言うのが、現実の戦力とされていたのだ。そこにシンジ達3人が加わったところで、世界的に見れば不足としか言いようがなかった。このまま数が増えなければ、いつか破綻するのは目に見えていたのだ。

 カヲルに対して、シンジの答えは期待通りのものと言えただろう。シンジははっきりと、戦力増強の試みだと口にした。

「カサブランカ基地で試すのは悪いけど、戦力増強の実験をしてみようと思うんだ。
 何しろ、日本は僕達民間人の3人しか戦力がないからね。
 サンディエゴ基地で訓練している人たちにも、戦力になってもらわないとやっていけないんだよ。
 だから僕達に比べて余裕のある、カサブランカ基地で試させてもらうことにしたんだ」
「だから、ハリド、エンゾ、マノン、ミアの4人と言うことなんだね。
 それが、昨日の行動の理由にもなっているということだね」

 なるほどと、予想通りの答えに、カヲルはもう一度反対する理由はないと繰り返した。カサブランカ基地においても、戦力の増強はずっと課題としてきたことだった。そして、これまでにも様々な試みを続けてきたのである。だがその試みも、効果が出ていないというのが現実だった。
 すでに手詰まりとなっている所に、新しい手法を試すと言ってくれたのだ。「反対する理由はない」ではなく、本来は「ぜひとも」とお願いするところだった。

「それで、どうやってと言うのを教えてくれるかな?」

 なにか新しいことを試すのであれば、それがなにか知りたいと思うのは人情だろう。興味が勝ったカヲルも、その例に漏れずどうするのかをシンジに聞いてきた。
 だがシンジは、少し考えてから説明は難しいという答えを返した。

「たぶん、言葉にすると普段とあまり変わらないと思うからね。
 だから言えることは、結果を含めてみていて欲しいというところかな」
「自分で考えてみろということだね。
 なるほど、言葉で伝えにくいことがあるのも確かなんだろう。
 それでは、シンジ君のお手並みを拝見させてもらおうか」
「あまり、素人相手に過大な期待を抱かないようにお願いするよ」

 そう言う事だと、シンジは「よろしく」とハリド達に声を掛けた。その時のハリド達4人は、カヲル達の目から見て、前日とは少し違う……シンジ達に対する恐れのようなものが無くなっているように見えた。それはとても僅かな変化なのだが、確実に違うとカヲルは感じていた。
 一日一緒に行動したことが理由だと考えられるのだが、もしも意図的というのなら、どんな意味があるのかとカヲルは興味を持った。

 モロッコ側から4人と言ったが、シンジは一人ずつ順番に加えるという方針を立てた。そして最初の一人として、女性パイロットミアを選ぶ事にした。

「じゃあ、ミアさんを加えた4人で始めることにしようか?」
「わ、私っ、ですかっ!!」

 てっきり4人全員でと思っていたミアは、自分だけ指名されたことに大声をあげた。その反応自体、前日までの関係では考えられないものだった。一緒にやってきたカサブランカ基地内でも、彼女たちがこんな反応を見せたことは一度もなかったのだ。
 そのあたり、軍だと思えば別に不思議なことではないのかもしれない。立場という意味では、カヲルはパイロットの中で一番高い所に居る。従って、軍務においてカヲルの言葉は命令につながってくるのだ。彼女たちの立場なら、黙って受け入れるのが組織というものだった。
 だが外から来たシンジにとって、カサブランカ基地内の統制など知ったものではなかった。だからミアの反応にしても、別に不思議なものだとは思っていなかった。むしろその反応こそ望むところだとばかり、シンジは当たり前だろうと言い返した。

「いくらなんでも、4人いっぺんには面倒を見られないよ。
 だから、ミアさんを最初に面倒を見ようと考えたんだけど?」
「で、でも、どうして私なんですか?
 最初にやるんだったら、ハリドの方がいいと思いますけど」

 褐色の肌を少し赤くして、ミアは自分ではない方がいいと力説した。ミアの考えでは、ハリドの方が経験が長くて、少しだけ同調率が高いから良いと言うのである。そんなミアに対して、シンジは「ごめん」と謝ってから、とても失礼なことを口にした。

「ミアさんが主張するほど、君たち4人に差がないんだよ。
 日本のことわざで、「どんぐりの背比べ」ってのが有るんだけどね。
 主力組と比較すれば、君たちの実力ってとっても低い所で並んでいるんだよ」
「そう言われてもしかたがないことは理解していますが……」

 シンジは失礼なことと言ったが、改めて言われれば、全くシンジの言うとおりなのだ。差があるとミアは口にしたが、その差にしても低いレベルでの違いでしか無い。英雄様の目から見れば、意識するほどの差など無いのだろう。
 それを理解したため、ミアには言い返す言葉がなくなってしまった。そしてそれを了解の意思と受け取ったシンジは、早速シミュレーションにとりかかることにした。この後3人が控えているのだから、一人にあまり時間を掛けている余裕はなかったのだ。

「ミアさんが理解してくれたところで、シミュレーションを始めることにしようか。
 じゃあ、定番となったギガンテス3体が襲ってきたやつで行こう。
 アタッカーは、遠野先輩と鳴沢先輩の二人、分断とバランス取りは僕とミアさんと言う事で。
 いいかな?」
「は、はいっ!」

 三つ編みにした黒い髪を揺らし、ミアは背筋をピンと伸ばした。一緒にシミュレーションをするのは、高知で奇跡を演じた3人なのだ。そしてその3人が加わったサウスブルックリンでの戦いは、世界に希望をもたらす見事な物だった。
 その3人に自分が混じる。しかも組むのが高知の英雄様ともなれば、感激してもおかしくはない。緊張しながらも、ミアは最初に選ばれたことに感激していた。

「じゃあミアさん、まずは君が一人で分断作業をしてくれるかな?」
「は、はい……ええっ!!」

 予想とは違う言葉に、ミアは素っ頓狂な声を上げてしまった。この組み合わせの中に入るのだから、見ていてくれと言われると思っていたのだ。そんなミアに、シンジは冷静に突っ込みを入れた。

「このシミュレーションは、戦力増強が目的と話してあるだろう?
 だからミアさんに、とりあえず体を動かしてもらおうと思ったんだよ
 まあ、それなりにサポートするし、失敗してもシミュレーションだから大丈夫だと思うよ。
 ゲームのつもりで、気楽にやってくれないかな?」
「ゲームのつもりって……」

 そんなと情けない顔をしたミアに、「リプレイ可」と言ってシンジは笑った。

「ここでの失敗は命に関わらないからね。
 だから、どんどん色々なことを試してみるべきなんだよ。
 それに、僕はまだミアさんのことを知らないからね。
 だから、サポートしようにも、どうしたら良いのか分からないんだ」
「失敗してもいいとおっしゃいますが……」

 それでもどうして良いのか分からない。そう言って尻込みしたミアに、「だったら」とシンジは妥協策を持ちだした。

「じゃあ、僕がとても簡単な指示を出すことにしよう。
 その指示通り動いてくれれば、後のサポートは僕が責任をもって行うよ」
「指示を、出してくれるんですよね?」

 すがるような目をしたミアに、「多分大丈夫」と期待とは少し違う答えをシンジは返した。

「真っ直ぐ下がれとか、思いっきり前に走れ……程度だけどね」
「それ、だけですが……」

 凄い指示を貰えると思っていただけに、ミアははっきり期待はずれだと顔に出していた。

「それだけって言うけど、難しい指示を出したら応えてくれるのかな?
 例えば、全力で距離を半分に詰め、ギガンテスの反応を見て左右どちらかに回避。
 ギガンテスの反応が遅れた場合は、そのまま真っすぐ突入する……とか?
 必ず判断が入ってくるんだけど、できる?」

 そう言われて、できると言えるほど自信を持っていない。それを自覚したミアは、「簡単なのでいいです」と最初にシンジが言ったことを認めた。

「じゃあシミュレーションを始めることにします。
 とりあえず遠野先輩、鳴沢先輩、しばらく暇だと思いますから待っててください」
「出番、残しておいてねぇ!」

 こちらも、シンジと負けない気楽な答えを返してきてくれた。普通なら不真面目と受け取るところなのだが、もともとの実績が物を言い、見ていた誰もが「余裕」だと受け取った。

「最初は、少し距離をとったところから始めるからね」
「そ、それでも、いつもよりも近いんですが……」

 距離を取るとシンジは言ったが、ミアにとっては未経験の近さだった。それを怖いと言ったミアに、離れたほうが危ないとシンジは答えた。

「これぐらいの距離だと、ギガンテスは飛びかかってこないんだ。
 その代わり、食らったら最後の加速粒子砲を撃ってくるけどね」
「も、もっと悪いと思います……」

 これまでの戦いで、バックアップ部隊の被害は加速粒子砲に依るものが多かったのだ。だから「もっと悪い」とミアは口にしたのだが、「大丈夫」とシンジは譲らなかった。そして怖がったミアの視線の先では、ギガンテスの口の中から白い光が漏れ出していた。

「はい、全力でまっすぐギガンテスの後ろまで駆け抜けてっ!」
「ど、どうなっても知りませんからねぇっ!」

 ここまで来たら開き直る他はない。ほとんど目をつぶり、ミアは自分のヘラクレスを“まっすぐ”疾走させた。攻撃する気満々のギガンテスに向かっていくのだから、これでゲームオーバーになると思っていた。

「はい、そこで右方向に直角でターン。
 そのまま真っすぐ全速で走ってっ!」

 自分がどこに居るのかも分からず、ミアは言われた通り足を踏ん張って右に曲がった。
 自分が何をやっているのか理解できていないのだが、なぜか通信機から「おおっ」と言うどよめきが聞こえてきた。何ですかと初めて周りを見たら、いつの間にかギガンテスが1体黒焦げになっていた。

 そしてすぐに、残った2体をシンジとマドカ達が個別に制圧するのが視線に飛び込んできた。さすがに手馴れているのか、あっという間に2体は撃破されていた。その結果、ミアのモニタには、ミッションクリアの表示された。ただクリアと表示さてはいるのだが、それが何を意味しているのかすぐには理解できなかった。

「ええっと、クリア……なんですか?」

 気のせいでなければ、「New Record」が点滅しているようにも見える。一体何ごとと状況から置いていかれたミアに、「おめでとう」とシンジから祝福の言葉が返ってきた。

「これまでのスコアを、大幅に書き換えたみたいだよ。
 あくまで偶然だけど、1体を撃破したのはミアさんだからね」
「わ、私が……ですか!?」

 あり得ない出来事に目をこれ以上無く見開いたミアに、シンジはもう一度「ミアさんが」と繰り返した。そしてシステムコントロールに、シミュレーションのリプレイモニタを要求した。

「僕の指示に従って動いた結果がどうなったのか。
 自分の目で確認してくれるかな?」

 シンジの指示を待つまでもなく、ミアは黒い瞳を大きく見開き、一瞬足りとも見逃すかとモニタの表示を凝視した。一体全体何が起きたのか、それを確認しないと夜も寝られそうになかったのだ。
 シンジの合図から少し遅れて、自分の乗ったヘラクレスが走りだすのが表示された。素早くと言うほどではないが、そこそこ速いスピードを出したヘラクレスは、加速粒子砲を撃とうとしたギガンテスの間を何もしないで駆け抜けてくれた。そこで一度、再生映像が停止された。

「ここで、指示通りミアさんが右にターンしたんだよ。
 見える所にヘラクレスがいると、どうしても加速粒子砲を撃ちたくなるんだよね」

 少しシンジが楽しそうに言った後、再生映像が動き出した。そしてシンジが言った通り、ミアの乗ったヘラクレスの方を向いたギガンテスの口から、白い光の帯が吐き出された。
 だがその光の前には、仲間のギガンテスが横たわっていた。そのおかげで、加速粒子砲がミアには届かず、仲間の体を黒焦げにしてくれた。

「これで、とりあえず1体が行動不能になったと言うことだよ。
 だから、僕達が数的優位を生かして残りの2体を撃退した。
 黒焦げのやつは、踏みつぶしてやれば終わりだからこれでミッションクリアになるんだ」
「わ、私が、分断に成功したんですか?」
「同士討ちはまぐれだけど、ギガンテスの注意を引くのには成功したね」

 ミアのしたことは、正確に言うのなら「分断」では無く、「囮」と言うべきところだろう。だが何れにしても、今まで一度も経験をしたこともない成果には違いなかった。「本当ですか」と確認するミアに、「本当だよ」とシンジは笑いながら答えた。

「一応釘を差しておくけど、本物のギガンテスが同じ事をするとは限らないからね。
 今みたいに目をつぶって走られると、いざと言う時に対応できないから注意するように」
「どうしてっ!」

 なぜ目をつぶっていたのがバレたのか。それを大きな声で言いかけたところで、一筋縄でいかない相手だと言うことをミアは思い出した。こちらの映像が行っているとは思えないので、間違いなく引っ掛けなのだろう。

「まあ、想像したとおりだよ。
 そういう事で、これからの練習方法を一応教えておくかな」

 そう言って笑ったシンジは、「1対1をやります」とオペレーターに指示を出した。

「とりあえず、逃げるお手本を見せておくよ」
「逃げるお手本……ですか?」
「高知で、さんざん逃げる経験をしたからね。
 だから僕は、ギガンテスの攻撃から逃げる専門家なんだよ。
 まあ、その程度のものだと思って見ていてくれるかな」

 シンジはそう軽く言うと、オペレーターに向かってシミュレーションの開始を指示した。そして出現した1体のギガンテスに向かって、大丈夫かと言いたくなるほど無造作に近づいていった。

「これまでの傾向では、接近するとギガンテスは腰の下めがけて飛びかかってくる。
 その前に、一瞬だけ反動をつけてくるからそれを見逃さないように」

 シンジの言葉通り、ギガンテスが腰の下めがけて飛びかかってきた。それを何事もないように横に避けたシンジは、すり抜け間際に行われた攻撃を、しっかり手でガードしてみせた。

「避けたと思って安心すると、短い尾で殴られることもあるからね。
 だから、完全にすり抜けるまでギガンテスの動きから注意を逸らさないこと」

 手でガードしたシンジは、ギガンテスが着地した瞬間を狙い、短い尾を掴んで持ち上げた。

「こうすると力が入らないんだけど、いつまでも捕まえていると食いつかれる」

 その言葉通り、ギガンテスは体を丸めてシンジに食いつこうとした。だがそれよりも早く、掴んでいた尾を放してシンジはヘラクレスを一歩下がらせた。

「同じ距離を取れば、ほとんど同じ事の繰り返しになるんだ。
 こちらの隙を伺うために左右に動いたりするけど、距離さえ間違わなければ食いつかれることはない。
 ただ、近づきすぎるといきなり噛まれるから、距離だけは間違えないように」

 わざとシンジが距離を詰めると、説明通りにギガンテスは飛びつかずに噛み付いてきた。動作としては数段素早いのだが、シンジは難なくそれを躱してみせた。

「このタイプのギガンテスは、噛み付くか尾で打つ、後は加速粒子砲ぐらいが攻撃のパターンなんだ。
 だからその攻撃がどのように出されるのか、それを想定して行動すればやられることはない」

 そう言ってから、シンジは少しギガンテスから距離をとった。

「そして離れると、遠慮なく加速粒子砲をぶっぱなしてくる。
 ただ、その為には溜めがあるから、慌てずに対処すること。
 急に横に動けば付いてこられないし、この時に近づいても食いついても来ない。
 しかも、上方向は隙だらけになってくれるんだよ」

 少し加速を付けて近づいたシンジは、まさに加速粒子砲が放たれる瞬間に飛び上がった。そして攻撃を続けているギガンテスを飛び越え、後ろの方へと着地した。

「今回は敢えて離れた所に降りたけど、上から踏み潰すのは有効な攻撃なんだ。
 加速粒子砲を撃つ時に動きを止めるから、周りの被害さえ考えなければ攻撃のチャンスとなる」

 もう一度前に回りこんだシンジは、敢えてギガンテスに加速粒子砲を撃たせた。そして説明通り、上に飛び上がってギガンテスの上から踏みつぶした。

「とまあ、ちゃんと上をとれれば比較的無効化しやすいんだ。
 西海岸のアテナほどになれば、こんなことを考えなくてもいいんだけどね。
 まあ、このあたりを覚えておけば自分の身を守ることになると思うよ。
 間を駆け抜けるってやつも、ギガンテスの特徴の一つを利用したものだよ」

 分かったかなと確認したのだが、当たり前のように「分かりません」と言う答えが返ってきた。

「いや、すぐに分かるとは思っていないけど……
 そんなに、あっさり言わなくてもいいと思うんだけどなぁ」

 そう言って苦笑をしたシンジに、「無理を言わないでください」とミアは言い返した。

「駆け抜けるだけで精一杯の私相手に、色々と詰め込もうと言うのが間違っているんです」
「言っていることは間違っていないと思うけどね……
 そういう事なのでカヲル君、復習はカサブランカ基地への課題でいいかな?」

 こればかりを繰り返しているわけにもいかず、学習と習熟をシンジはカサブランカ基地へと丸投げした。そのあたり、基地運営に責任がないというのも事情の一つである。
 だが、シンジの期待に反して、カヲルからはすぐに答えが帰って来なかった。

「カヲル君、聞こえているのなら返事ぐらいは欲しいんだけどね」

 答えの催促から少し遅れて、「すまない」と言うカヲルの声が聞こえてきた。そう言って謝ったカヲルは、いささか想定外のことがありすぎたと言い訳をした。

「想定外のこと?」

 なにそれ? と言う顔をしたシンジに、「ギガンテスの振る舞い」だとカヲルは答えた。

「あまりにもシンジ君の注文通り動くものだから、データが正しいのか確認していたんだよ。
 そして結論から言わせてもらえば、確認にはかなり時間がかかりそうだよ」
「データって、シミュレーターのデータのことを言っているのかな?」
「ああ、入力したデーターの癖がたまたまシンジ君の言うとおりになっている可能性を検証しているんだ。
 シンジ君の経験を疑うわけじゃないが、あまりにも僕達の常識から外れていたんだよ」

 それを確認するためにも、データの検証が必要になる。カヲルの説明に、なるほどとシンジは納得した。確かに、ゲームでも難易度とは別に、作者の癖と言うものが存在する。同じことがシミュレーターで起きれば、現実との乖離が決定的になってしまうのだ。
 もっとも、シンジに言わせてみれば、説明した特徴はすべて実戦での観察によるものだった。その観察と一致したと言うことは、むしろシミュレーターがよくできていると思っていたのだ。ただカヲルの言うことも分かるため、説明に不満を言うのは遠慮することにした。

「カヲル君の言いたいことは理解したけど、だとしたらこの後のシミュレーションはどうする?
 間違ったことを教えると困るから、検証が終わるまで延期をするかい?」

 攻撃の仕方、回避の仕方にギガンテスの行動が関わってくる。それを考えると、データに疑義があっては意味が無いとシンジは主張したのだ。
 そんなシンジに対して、しばらくカヲルから答えは返って来なかった。シンジの言うことは理解できても、かと言って検証がいつ終わるともしれないのだ。滞在期間の制限がなければ問題はないのだが、残り少ないとなると時間をムダにするわけにもいかなかった。

 そして十分に時間が経過してから、「続けて欲しい」と言う答えが返ってきた。

「お許しが出たから、練習を続けようか。
 じゃあミアさん、今度は飛び上がる練習をするからね」
「飛び上がる……ですか?」

 言うは易し行うは難し。とても気楽に言ってくれるシンジに、ミアの答えはとても心もとないものとなっていた。



 一日のシミュレーションが終わり、民間人を開放した後、カサブランカ基地の主力メンバーは緊急ミーティングを開くことにした。目的は、前々日に行ったヒアリングと、今回のシミュレーションで得られた結果を突き合わせるためである。そのミーティングの場で、マリアーナは「降参」と両手を上げてみせた。

「今日の結果だけを見ると、私達の2年間って何って言いたくなるわ。
 ずっと時間を掛けてきた戦力増強の検討だって、今日一日の成果には遠く及ばないのよ。
 データ検証を待つ必要はあるけど、多分おかしな所は見つからないと思う……
 ヒアリングではわざと噛み付いたんだけど、それですら道化に思えてしまったわ。
 知恵を総動員しろって言われたけど、ほんとうにその通りだと思ったわよ。
 最善を尽くしていないのって、実は私達の方だったってことね」
「今日の結果を見る限り、マリアーナの言うとおりだな。
 訓練という場においても、俺達が知らないことを教えられた。
 これまでの経験を考えると、俺達は何をしていたのかという気になる」

 マリアーナの言葉を認めたエリックに、「同感」とライラは頭を掻きながら言った。

「指導にしても、人任せにしているのが証明されたのよね。
 今までの指導って、作戦の中にいかにして当てはめるかが主眼になっていたわ。
 技量の不足に対しては、運を天に任せていたところがあるのは間違いないしね。
 シミュレーションだって、作戦に当てはめることだけを考えて行なっていた」
「かと言って、俺達の誰も今日のような指導はできないぞ。
 むしろ、俺達が指導を受ける立場だっただろう」

 能力の限界を口にしたエリックに、確かにそうだとライラは認めた。やり方のまずさ、そして不適切さを認めることはできるが、だからと言って是正できるかというのは別物なのだ。少なくとも、自分達3人の能力が不足していることを見せつけられてしまったのだ。

「そういう事なので、リーダーとして何か一言が欲しいんだけど?」

 黙って話を聞いていたカヲルに、ライラは残酷な一言をぶつけた。シンジに比べて、カヲルの方が同調率でも経験でも優っていた。そして頭脳という意味でも、単純な比較では差がないはずだった。だがこれまでのカヲルの実績は、今日一日のシンジに見劣りしていたのだ。ライラの質問は、その差がどこから生まれたのか、それを説明しろと言っているように聞こえていた。

「僕も、降参したいんだけど……許してもらえるかな?」
「あんなのを見せつけられれば、その気持は理解できるけどね。
 でも、カヲルまで降参したら先に進まないと私は思うわよ」

 逃げるなと追いかけてきたライラに、カヲルはもう一度「降参したい」と繰り返した。

「僕としては、少し頭を冷やしたいと言うところなんだよ。
 僕はシンジ君に対して、「視点」と言う問題を投げかけたんだ。
 だけど今日の結果は、視点の問題なんて関係なかった。
 訓練方法が不適切であるのを指摘されただけじゃないんだ。
 基地全体として行なってきた、ギガンテス対策が不足だと見せつけられたんだよ。
 しかも同調率で劣っている相手に、単純な戦闘力でも劣っているのを見せつけられたんだ。
 だから申し訳ないんだけど、立ち直るのに少し時間を貰えないかな?」
「確かに、西海岸のアテナとは違った凄さを見せてくれたな」

 最後に行った合同シミュレーションでは、シンジがフロントに立ってギガンテス殲滅を受け持った。サンディフックの戦いで披露した能力が、まぐれでもなんでもないことを見せつけてくれたのだ。
 迫力という意味では、西海岸のアテナの方が優っているのだろう。動きの速さ、攻撃の力強さ、そう言ったひとつひとつの点では、明らかにアテナの方が上回っているのは間違いない。ただギガンテスを倒すと言う点において、シンジの方がはるかに効率が良かったのだ。サンディフックの時とは違い、攻撃に派手さは全くなかった。だが、極限まで無駄を削ぎ落した動きは、見惚れるほどの美しさを持っていた。

「正直な所、僕はシンジ君のサポートに入るつもりでいたんだ。
 だけど、僕は一度も手を出すことができず、ただ見ていることしかできなかった。
 もう少し正確に言うのなら、戦いに見とれていたというのが正しいのだろうね」
「確かに、棒立ちになるカヲルって初めて見たわ。
 アメリカで見せたあれ、確かにアテナが凄かったのは認めるわ。
 でも、アテナの戦いってかなり乱暴で隙が多いのよね。
 あの時シンジ碇は、その隙をうまく埋めて、しかも効果的な支援を行なっていたわ。
 でも、今日のシンジ碇からは、隙らしきものは見当たらなかった」
「そのあたりは、マリアーナの意見に同感だな。
 シンジ碇の動きには、完成された美しさがあった。
 大胆にして緻密、あんな真似をされたらサポートなんてできるものじゃない」

 はあっと大きくため息を吐いたエリックは、「どうするんだ」とリーダーに考えを質した。

「ハリド達が自信をつけたのはいいが、今のままだと活かすこともできないぞ。
 それどころか、俺達だけでも大きな課題を突きつけられた気がしてならない。
 解決すれば、それこそ今まで抱えていた問題すべてが解消するのは分かっているんだが……
 本当に解決できるのか、残念ながら「できる」と言う自信が全くわかないんだが?」
「それについては、案がないこともないんだが……
 そしてこの後、オットー司令に上申しようと思っているんだ」

 ふううっと深すぎるため息を吐いたカヲルは、自分の考える「案」を説明した。

「すごく簡単なことだよ。
 残された時間で、シンジ君に指導してもらうんだ。
 リーダーとしての責任を、全て丸投げするというものだよ」
「そう上申したくなる気持ちは理解するが……」

 そこまで自信をなくしたのか。カヲルの態度にショックを受けながら、エリックはどうすべきかを考えた。そしてそれはライラ達も同じだったのか、少し顰めっ面をしてお互いの顔を見合わせていた。事ここに至って、一番の問題は「指導」に無いのが分かってしまったのだ。

「とりあえず、自分で言った通り少し頭を冷やすことを俺は勧めるな」
「そ、そうよね、明日の彼らはオフ日になっているから、上申は明日でも間に合うわよね」

 慌てて取り繕った3人は、日本から来た民間人がやりすぎたことを思い知らされた。彼らにとって急ぐべきことは、自信を喪失したリーダーを立ち直らせることなのである。それが実行されない限り、いくら指導されても無駄としか思えなかったのだ。



 その頃日本から来た高校生たちは、カサブランカ基地の置かれた状況など知る由もなかった。今日一日のノルマが終わった解放感を味わいながら、夕食までの暇つぶしをしていたのだ。ただその暇つぶしが勉強というのは、昨夜の脅しに効果があったのだろう。
 ただいつもは教える側のシンジなのだが、今日は珍しく自分の勉強も進めていた。いくら宿題が簡単でも、量だけはたっぷり出されていたのだ。そろそろ終わらせておかないと、日本に帰ってから後悔することになると思ったのだろう。

「いつも思うんだけど、どうしてそんなに早く課題が進むの?」

 ちらりと覗いてみると、ほとんど考えずに答えが書かれているように見えるのだ。それを不思議に思ったマドカに、「宿題ですから」とシンジはそっけなく答えた。

「全員同じ事をするんですから、あまり難しいのは出せないでしょう。
 しかも、一度学習したことしか出て来ませんからね。
 普段から予習復習をして、しかも授業をしっかり聞けばこの程度はできますよ」
「いやぁ、普通はできないと思うんだけどなぁ〜」
「遠野先輩、それって普通をどこに置くのかの違いだと思いますよ」
「じゃあ、アサミちゃんはどうなの?」

 シンジのフォローに入ったアサミに対して、マドカは自分はどうなのかと聞き返した。そんなマドカに、アサミは少し自慢げに言い返した。

「これでも、頭は良い方なんですよ。
 だから私も、夏休みの宿題では苦労していません!」

 えっへんと胸を張ったアサミに、マドカはがっくりと肩を落とした。見た目が良くて、しかも頭まで良いと来てくれる。しかも元アイドルだったというのだから、世の中どこか間違っていると言いたかった。

「なんか、世の中って不公平にできているわよねぇ。
 アサミちゃんなんて、綺麗だし頭がいいし恋人までいるんだもの」
「最後のって、関係ないと思いますけど?」

 同列に並べるものではないと思ったのだが、相手がマドカだと考えそれ以上の突っ込みを辞めることにした。そしてツッコミ返す代わりに、アサミはマドカとナル、二人の良い所を上げることにした。

「でも先輩達二人って、運動神経は抜群に良いですよね。
 綺麗って意味なら、磨けばもっと綺麗になると思いますし……
 しかも高知の奇跡とニュヨークの恩人と言われるパイロットなんですよ。
 持っているという意味なら、私よりもずっと沢山持っていると思いますけど」
「でも、私達二人って碇君のおまけだから」
「チームだと言って欲しいんですけどね」

 卑下しすぎと言って苦笑したシンジは、方向性が違っているだけだと付け加えた。

「今日説明したことだって、先輩達には今更のことでしょう?
 でも、カサブランカのエリートの皆さんは、今頃頭を悩ませていますよ」
「今日の……?
 ああ、あのコトね」

 自分の分が終わったのか、ナルも無駄話に加わってきた。

「あれって、吉田くんの指導方法だったっけ?」
「ええ、去年はレスリング部でおもいっきりしごかれましたからね。
 その時の経験を、ちょっと持ちだしただけですよ。
 後は、柔道部の古賀先輩に教えてもらったことも生かしていますよ」
「でもさあ、あの程度って常識だと思っていたんだけど……
 私たちだって、ギガンテスの癖ぐらい分かっているのにね。
 なんでカサブランカのみんなが、頭を悩ませることになっているの?」

 そのあたりが分からないと、マドカは盛大に首を傾げた。

「そのあたりが、持っている常識が違うということです。
 後は、そうですね、先輩達が大したことがないと思っていることが、
 実は十分に大したことだったということです。
 ただ、二人共、それを気づいていなかっただけのことなんですよ」
「実は、私達って凄いってこと?」

 へえっと目を丸くしたマドカとナルに、何をいまさらとシンジとアサミは呆れてみせた。

「高知もアメリカでの戦いにしても、僕一人では乗り越えることができないことなんですよ。
 遠野先輩と鳴沢先輩、二人がいて初めてできたことなんです。
 言わせて貰えば、先輩達二人は凄すぎるんですよ」
「そっかぁ、私達って実は凄すぎるんだぁ……
 じゃあ、私達より凄い碇君って、何者になるのかしら?」
「先輩二人の弟分でしょう?」
「そして、私の恋人ですよ」

 二人にしてみれば、はぐらかされたと怒らなければいけないのだろう。ただ、今までのシンジを考えれば、期待した答えが返ってこないのも分かっていたのだ。だから二人は、「まあいいか」と笑ってすませることにした。本人が認めるかどうかに関わらず、自分達が十分凄いことは確認出来たのだ。
 それから二人は、一人話しに参加してこないキョウカの方を見た。まだ予定の所まで進んでいないのか、キョウカはとても真剣な顔で問題集とにらめっこをしていた。

「こうして見ると、うちの部って凄いことになっているのよね。
 キョウカちゃんは日本有数の資産家のお嬢様なんだものね。
 しかも、見た目は碇君の理想に近づいてきているし。
 まあ、胸が大きいのは人それぞれ、好みの部分が大きいと思うしね」
「ユーレー部員ですけど、現役アイドルの花澤君も居ますよ」

 シンジがその名前を出した時、アサミは少し嫌そうな顔をしたのだが、マドカは気にすることもなく、「ああ」と納得してくれた。

「これで、来年もジャージ部は安泰って言いたいところなんだけどね。
 碇君、陸山君のメールって、生徒会役員のことでしょう?
 きっと、生徒会長に立候補して欲しいとか言ってくるんじゃないのかな?」
「この時期にと言うか、陸山先輩に連絡をもらう理由がありませんからね。
 2ヶ月後のS高祭が終われば、今の生徒会の仕事はほとんど終わりますよね。
 S高祭前に、選挙がありますから、今から候補を探してもおかしくないと思います」

 送られてきたメールには、夏休み中に一度話をしたいとしか書かれていなかった。だがその文面から、シンジは陸山が考えたことを推測していた。

「それで碇君、生徒会長に立候補するの?」
「それなんですけどね、さすがに手が回らなくなりそうな気がするんですよ。
 ジャージ部の活動だけなら、生徒会と二叉できると思うんですが……」

 今でも、予定がどんどん埋まっていってしまうのだ。その上生徒会までやっていたら、本当に手が回らなくなる可能性が高かった。

「パイロットの仕事だって、片手間って訳にはいかないのよね。
 しかも碇君、私達のために勉強会をしてくれるんでしょう?」
「売れっ子アイドルより、よっぽど忙しいと思いますよ。
 なにか一つあきらめないと、全部が中途半端になってしまうと思います」

 普段のマドカなら、積極的に生徒会長立候補を薦めてきたことだろう。だがさすがのマドカも、今の状況で生徒会まではやりすぎだと思っていた。そしてアサミも、時間的に無理があると指摘した。能力の問題ではなく、絶対的な時間が不足してくるのだ。その不足した時間の中で関われば、中途半端になるのも当然だと言えただろう。

「パイロットの仕事を放り出すわけにはいかないんだよなぁ」
「今更、逃げられるはずがありません。
 あと、勉強会を辞めるというのもあり得ませんね。
 そうなると、生徒会は他の人に任せるべきだと思いますよ。
 だって、これだけが先輩じゃないと駄目なものじゃありませんからね」

 ジャージ部の活動、マドカ達との勉強会、そしてヘラクレスのパイロット。このいずれも、シンジでなければ成立しないものだった。だが生徒会役員の仕事は、これまでも綿々と引き継がれてきたものなのだ。それを考えれば、シンジでなければという事情は存在しなかった。今の2年の顔を思い浮かべれば、何人か生徒会長向けの人材は存在していた。

「それから、生徒会役員をやると、ジャージ部の活動もしにくくなるわね。
 予算とかの権限があるから、ソッチの方でも好ましくないと思うわ」
「やっぱり、断ったほうがよさそうですね……」

 頼まれたら断らない。それをモットーとして活動してきたが、さすがにそれにも限界があるとシンジも考えてしまった。断らないと言うことの前提に、絶対に中途半端にしないと言う条件も含まれていたのだ。だが今のまま生徒会を引き受けてしまうと、すべてが中途半端になる可能性がある。
 それを考えれば、モットーを取り下げることも必要だと思えてしまった。周りにかける迷惑を考えれば、断ることも責任だと考えた。

「まあ、陸山会長がなにを言ってくるのか分かりませんけどね。
 生徒会役員のことだったら、さすがに無理だと断ることにしますよ」

 そうシンジが決断した時、話に加わっていないキョウカが「よし」と大きな声を出した。両手をグーにして伸びをしているところを見ると、予定していた所まで到達したのだろう。

「篠山、結構順調に進んでいるな」
「ああ、お陰でだいぶコツが掴めてきたと思うぞ。
 そう答えたところで悪いが、一度出来栄えを見てもられないだろうか?」

 どうだと手渡されたノートを見て、シンジは少しだけ顔を顰めてみせた。色々と努力をしてきたキョウカなのだが、まだ肝心の部分に問題が残っていることに気付かされたのだ。具体的に言うなら、ノートに書かれた芸術的な文字がその一つだった。「解読が必要」と言えば、どの程度芸術的か理解することができるだろう。
 その解読が必要なノートに、シンジはざあっと目を通した。これまで何度も解読させられたおかげで、頭の中に対照表が出来上がっていたのだ。そのおかげで、普通とまではいかなくても、多少時間をかければ判読することも難しくなかった。

「いちおう、ちゃんとできているようだ。
 少し時間は掛かったが、中2の半分ぐらいはこれで終わったな。
 この調子でやっていけば、意外に早くみんなに追いつけるんじゃないのか?」
「おおっ、碇先輩のお墨付きが出たかっ!!
 お陰でというか、勉強と言うのは分かれば面白いものだと分かったぞ」

 うんうんと頷いたキョウカは、ありがとうと少し大げさにお礼を言った。
 だが受け取った方にしてみれば、まだ2年は遅れてくれている。「意外に早く」とは言ったが、今年中にそれができるかというのは甚だ疑問だった。そもそも3年分の勉強だと考えれば、1年で片がつくのはありえなかった。もう一つ付け加えるのなら、高校1年の分もやり直す必要があったのだ。

 そうは思っても、せっかく出たヤル気をくじくのはよろしくない。だからシンジは、「よく頑張っているな」と褒める事にした。そして褒めた上で、もう一つ誘導をすることにした。

「ところで篠山、お前はお嬢様として努力すべき事が他にもある」
「お嬢様として……か。
 今まで色々と言われた気もするが、先輩、遠慮無く言ってくれていいのだぞ!」

 「なんだ」と少し偉そうに言ったキョウカに、「字だ」とシンジは冷酷な事実を突きつけた。そしてマドカとナルのノートを取り上げ、「見てみろ」とキョウカに差し出した。
 それを受け取ったキョウカは、「おおっ」と素直に感嘆の声をあげた。

「先輩達は、とても字が綺麗なんだな」
「遠野先輩、鳴沢先輩の二人でもその程度掛けるんだ。
 だが今のお前の字を見てみろ、普通の人なら解読が必要なレベルなんだぞ。
 せめて、先輩達二人ぐらいの字を書けるようになってみせろ」
「なるほど、素敵な女性は字が綺麗だという話も聞いたことがあるな」

 なるほどとキョウカは納得したのだが、引き合いに出されたナルは、シンジの言葉に引っかかるところがあるのに気がついた。

「碇君、せめて私達ぐらいって言わなかった?
 それって、間接的に私達の字が汚いって言ってない?」
「汚いとまでは言っていませんけどね……」

 ただと言って、シンジはアサミのノートをナルに渡した。それを開いてすぐに、ナルは「ごめんなさい」と謝って返した。ひと目で分かるほど、とても綺麗にノートが書かれていたのだ。

「私の場合、サインをする必要がありますからペン習字も習っていたんです。
 後ですね、碇先輩も男のくせに字が綺麗なんですよ」
「男のくせにって言うのは無いと思うけどなぁ。
 もともと、中学の頃は芸術系命の暗い生徒だったんだよ」

 その言葉を信じるなら、二人共字はとても綺麗ということになる。それなのに自分達のを例にしなかったのは、「先輩達でも」とキョウカに言う目的があったとしか思えない。
 だがそれを今口にするのは、自分達で傷口に塩を塗りこむ行為に違いない。現にキョウカが何も分かっていないのだから、騒ぎ立てるのは逆効果に違いなかった。

「ところで先輩達は、何を相談していたんだ?
 何やら忙しすぎるとか何とか聞こえてきたんだが……」
「ああ、碇君のことを言っていたのよ。
 今でも忙しすぎるのに、この上生徒会はできないだろうって話よ」
「先輩は、生徒会長までやるつもりなのかっ!」

 凄いと感心したキョウカに、「話をちゃんと聞け」とシンジは言い返した。

「忙しすぎて、そこまで手を出せないと言う話だ」
「そんなもの、優秀な副会長を置けば済む話じゃないのか?
 父様は、トップに立つものは、部下に仕事を任せるものだと言っていたぞ。
 それでも父様の場合、忙しすぎてなかなか家に帰って来ないがな」

 資産家のトップと一高校生、それが単純な比較になるとは思えなかった。だがキョウカの言うことにも、一理あるとマドカとナルは考えた。事実今の生徒会長も優秀なのだが、実務の殆どは副会長と総務委員長に任せていたのだ。言われてみれば、生徒会長が何から何までする必要はなかった。

「だとしたら、碇君は生徒会長以外はできないわね。
 副会長と総務委員長に働き者を探してくれば、きっと楽をすることができるわ」
「そんな人材がいると思っているんですか?
 それに、まだ生徒会の話だと決まった訳じゃないんですからね」

 急に乗り気になったマドカに、シンジはすかさずブレーキを掛けることにした。このまま突っ走ると、部長命令で生徒会長に立候補させられそうな勢いなのだ。他のことなら我慢もできるが、さすがに生徒会長と言うのは無理すぎるとシンジは思っていた。
 マドカを止めるためには、これ以上キョウカに余計なことを言わせてはいけない。だから黙っていろと目で語りかけたのだが、はっきり言ってそれは無駄な努力でしかないだろう。言葉にしないで、そんな難しいことがキョウカに伝わるはずがなかったのだ。

「いやぁ、そんな熱い眼差しを向けられると困るなぁ」

 少し顔を赤くして照れるキョウカに、シンジは徒労と言う言葉の意味をしっかり理解したのだった。







続く

inserted by FC2 system