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 これだけの功績があったのだから、日本から来た4人は有名になってもおかしくないはずだった。だが作戦から一夜明けても、シンジ達の身辺に何ら変化は起きていなかった。
 その理由として、アメリカ合衆国が日本と同じ方針を示したことがある。すなわち民間協力者の身分は明かさないということである。その辺り、民間協力者から身分を明かすことへの承諾が無いことを理由とした。身元を隠すことが協力の条件とされたため、何があっても名前を明かすことはできないと正式に発表したのだ。

 そんな発表をすれば、報道機関だけでなく、国民からも不満の声が上がるのはおかしくなかった。大統領支持の団体からも、ワットソンは様々な突き上げを食らったのである。そして当然のように、サンディエゴ基地司令ルーカス・ゲイツも様々なプレッシャーを受け続けた。だがいずれの突き上げに対して、協力者の生活が脅かされることを理由に公開を拒絶した。
 そこでアメリカ側がずるかったのは、すべての責任を日本に丸投げしたことだった。民間協力者の国籍が日本に有ることを理由にし、公開については日本に聞けと放り投げたのである。

 それだけが理由ではないが、海を超えた日本でもパイロット探しが再燃することになった。何しろ今回の戦いでは、「西海岸のアテナ」と「高知の英雄」がそろい踏みすると宣伝されたのだ。そして時間的経緯、すなわちギガンテス発見から襲撃までの時間を考えれば、「高知の英雄」はすでにアメリカに居なければならなかったのだ。そのためマスコミ達は、この時期に海外渡航した者を虱潰しに当たったのである。特に、カサブランカが機能不全になる直前に渡った渡航者がチェックされた。

 だが海外渡航者調査は、ダメ元と思われていた方法だった。「高知の英雄」と言うのは、間違いなく日本の切り札となる存在である。いくら民間協力者とは言え、ふらふらと海外旅行をしているとは思えなかったのだ。一方政府から派遣したとなれば、普通に渡航者を調査しても見つかるはずがないと考えられた。そしてその予測通り、疑わしい渡航者は見つからなかった。

 ちなみにマスコミには、シンジ達の存在は把握されていた。ただ把握されていたと言っても、偶然基地見学をしていた高校生という程度である。もちろん念には念を入れて調べられたのだが、どう叩いても埃すら出てきてくれなかった。偶然基地見学の日にギガンテスが襲撃したのだが、それ以前にヘラクレスとの関わりが一切見つけられなかったのだ。
 従って彼らは、シンジ達に対して「シロ」と判断してくれた。高校での評判を聞く限り、どう間違っても「熟練した」パイロットで有るはずがないと言うのがその理由だった。元アイドルや資産家令嬢まで加わっているため、絶対にあり得ないこととして結論づけてくれたのだ。

 そしてその代わりに話題となったのは、民間協力者を表に出せない理由である。頑なに顔を出さないこと、そしてあまりにも見事な能力から、「民間協力者」と言う線を彼らは疑ったのだ。その代わりに持ちだしたのは、ある種の陰謀論に近いものだった。すなわち、「人道的に許されないことをしている」のを表沙汰にしないため、人前への露出を避けているのだと。
 ただ陰謀論は、全ての思考を停止させるものとなる。当然のように、陰謀論からは新しい発見は為されなかった。そのため一度は燃え上がった議論も、あっという間に鎮火することになったのだった。

 全世界が謎のパイロットの話題一色となっていた時、すでにシンジ達一行は雲の上に居た。カサブランカ空港の準備ができたため、ようやくフライトが確保できたのである。当然のことながら、彼らの席は一番後ろのエコノミー席だった。

 行きとは違い、アサミはちゃっかりシンジの隣の席を確保していた。そして空港で入手した幾つかの新聞を広げ、昨夜の出来事をそこから追いかけた。

「この新聞がMiracle Japanで、こっちの新聞はJapan Amazingで、
 こっちは「高知の英雄が世界の英雄に」ですか」

 新聞を見れば、1面どころかかなりのページをニューヨークの出来事に割いていた。だがどのページを見ても、日本から来たパイロットのことは「謎」として扱われていた。合衆国政府の公式見解も書かれているのだが、個人の人権を理由に公開を拒否したとしか書かれていなかった。

「みんな、ちゃんと秘密を守ってくれているようだね」
「そうみたいですけど……
 でも、よくばれないものですね」

 今回の作戦で、格段に秘密を知るものが増えてしまったのだ。それを思うと、情報が漏洩する危険も高まったはずなのだ。それなのに、ネットのリークサイトにも、パイロットの情報は出ていなかった。ここまで完璧に情報が守られると、逆に薄気味悪くなってしまう。

「そんなに、あの脅しって強烈なんですか?」
「僕に聞かれても、なんとも言いがたいというか……
 まあ、みんなが秘密を守ってくれることに感謝しないとね」

 ふっと口元を緩めたシンジは、アサミの向こうに座っている葵に声を掛けた。

「新婚さんに関わりたくないんだけど?」
「ツアコンなんですから、そんなことを言っていたら仕事になりませんよ。
 と言う馬鹿な話はおいておきますが、言葉ってどうなっていましたっけ?」

 それを今頃確認するのは、間違いなく迂闊なことに違いない。しかも葵に言わせれば、すべて栞に書いてあることでもあったのだ。だから葵は、答える代わりに「旅の栞」をシンジに差し出した。

「なにか、凄くサービスが悪いですね」
「新婚さんに当てられたくないのよ」

 ことここにいたって、「リア充」から「新婚さん」に呼び方が変わってしまった。あまりにも投げやりな葵の態度に苦笑を浮かべ、「言いつけますよ」とチクリと言い返した。

「葵さんに、とても不愉快な思いをさせられたって」
「はいはい、それで独り者の私めに何をお聞きになりたいんですか?」

 お座なりな態度をとった葵に、シンジは後藤にちくることを決定した。ぐだぐだと文句を言えば、それなりのお叱りか、さもなければ減給処分ぐらい行われるかもしれない。ロサンゼルスで散財したことを考えると、ここに来ての減給は死活問題に違いないだろう。

「いえ、葵さんがそう言う態度をとるのならもういいです」

 徹底的に葵を無視することにしたシンジは、ボタンを押して客室乗務員を呼んだ。そこで男の客室乗務員が現れたのは、間違いなくお国柄の影響だろうか。すっかり巧みになった英語で、シンジは客室乗務員としばらく話を交わしていた。

「何を話したんですか?」
「飲み物を持ってきてもらうのと、到着地の状況を教えてもらったんだよ。
 カサブランカ・モハメド空港は、低気圧でかなり酷いことになったようだね。
 市内にしても、一部のエリアはまだ冠水の影響が抜けてないってさ。
 ただしばらく晴れるから、きっと空は綺麗だろうって」

 シンジの言葉に、アサミはへえっと感心した。この海外旅行を経て、恋人がどんどん逞しくなってくるのが実感できたのだ。実績をばらせないのは残念だが、本人を見て貰えば自分に相応しいのは分かって貰えると思っていた。

 その後すぐに会話が途絶えたので、アサミは確保した日本語の新聞に視線を落とした。色々と機内サービスは有るのだが、全部英語かフランス語、さもなければアラビア語で提供されていた。そのおかげで、とてもではないが暇つぶしになりそうもなかった。
 そんなアサミを横目に、シンジは手元のバッグからメモ帳を取り出した。そして少し渋い顔をして、スケジュール欄に色々と書き込んでいった。

「先輩、難しい顔をしてどうかしたんですか?」
「なんか、帰ってものんびりできないなって思ったんだよ。
 映画研究会や、弦楽部に協力する予定が入っているんだよ。
 あとは、サッカー部や剣道部に顔を出さないといけないし……
 多分学校に顔を出すと、ほかからも声が掛かりそうな気がするんだ。
 分かっている分だけ埋めても、結構埋まっちゃっているんだよね」
「これじゃあ、デートをしている暇がありませんね」

 同じように渋い顔をしたアサミは、ペンの色を変えてシンジの手帳に予定を書き込んだ。

「花火大会とお祭りがありますから、この日の夕方は空けておいてくださいね……」

 そこで少し考えたアサミは、前の席に座っているナルの背中を突っついた。なぜナルなのかと言うのは、たまたまアサミの前に座っていたのがナルたったからだ。
 ぼうっとしていたナルは、アサミに突かれてびくりと反応した。そしてすぐに振り返って、シートから身を乗り出してきた。

「どうかしたの?」
「鳴沢先輩、去年は花火大会と浅間神社のお祭りはどうしました?」
「去年かぁ〜」

 ん〜とナルが考えていたら、横からマドカが口を出してきた。同じように身を乗り出して、「さっぱり」と期待はずれの答えを返してきた。

「去年は、バラバラだったわよ。
 私とナルちゃんは一緒に行ったけど、碇君は参加しなかったわね。
 確かその頃の碇君は、水泳部で特訓を受けていたんだよね」
「でも、特訓って昼ですよね?」

 それがどうして夕方以降のイベントに関係してくるのか。マドカ達だったら、無理矢理にでも参加させたはずなのだ。だからアサミは、一緒じゃないというマドカの説明に納得がいかなかった。そしてその疑問への答えは、隣に座っていたシンジから返ってきた。

「へろへろになって帰ったから、外に出るどころじゃなかったんだよ」
「へぇ〜っ、先輩でもそんなことがあったんですね」

 成績優秀、スポーツ万能というのが今のシンジのポジションだった。それを考えると、水泳の特訓を受けていたというのが想像できなかったのだ。しかも動けなくなるほど疲れ果てて帰ると言うのは、とても今の姿からは想像が付かなかった。泳ぐという意味では、サンディエゴでは毎朝プールで泳ぎまくっているのを目の当たりにしていたのである。

「その頃の碇君って、まだまだへなちょこだったからね。
 そうねぇ、今みたいになったのは、秋口を過ぎたぐらいからかな。
 そういえば碇君、高校に入ってから背が伸びた?」
「春に測ったときは、13センチ伸びていましたね。
 その時で、182だったかな?」
「入学した時の先輩って、今とぜんぜん違っていたんですね」

 知らないシンジの姿を教えられ、アサミは目をキラキラとさせていた。そしてマドカとナルに、どんな男の子でした? とその時のシンジのことを聞いた。

「そうねぇ、入学してきた時の碇君って、一言で言えば暗かったわね。
 結構可愛い顔をしていたのに、いじけていたし、暗い顔をしていたから台無しにしていたのよ。
 暗いオーラを放っていたから逆に目立ったってところかしら?」
「それで、マドカちゃんと私がジャージ部に引っ張りこんだのよ。
 なにせ、だぁれも入部希望者が居なかったからねぇ」
「そうそう、押しに弱そうだったから、言葉巧みに騙して引っ張りこんだのよ」

 しししと笑った二人に、シンジは「事実と異なることを言わないように」と文句を言った。

「言葉巧みって……力づくだった記憶がありますよ。
 いきなりクラスにやってきて、両脇を抱えられて部室に連れ込まれたんだよ。
 二人がかりで、入部届にサインしないと帰さないって脅されたんだ。
 二人して、竹刀を振り回しながらサインするように強要しましたよね?」
「ええっ、優しくお願いしたはずなんだけどなぁ〜」

 心あたりがないと白を切る二人に、「こういう人達だから」とシンジはアサミにぼやいた。

「入部させられてからがまた大変でしたよ。
 ジャージ部は困っている人の味方だっ、とか言って、いろんな部に送り込まれました。
 二人の手前断れなかったんでしょうけど、結構迷惑がられていたのを覚えていますよ」
「でも、今は戦力になっているんでしょう?」
「邪魔にならないようになるまで、半年かかりましたよ……」

 苦笑を浮かべたシンジに、「感謝しなさい」とマドカは偉そうに言った。

「私達のおかげで、こんな可愛いガールフレンドを捕まえられたのよ。
 1年前の碇君だったら、絶対にアサミちゃんに相手にされていないわね」
「間違いなく、そうなんでしょうね……
 だから、二人には感謝したいんですけどね……」
「なによ、何か含むところでもあるの?」

 言葉を濁したシンジに、マドカは「言ってみなさい」と少し凄んだ。

「今思い出すと、いじめと紙一重だなと思ったんですよ。
 我ながら、良く逃げ出さなかったと思っているんです。
 色々とさせられたけど、二人からご褒美をもらった覚えがないんですよね」
「ご褒美って、バレンタインに手作りのチョコをあげたでしょう?」

 十分なご褒美だろうと主張したマドカに、「なにがご褒美ですか」とすかさずシンジは言い返した。

「そのあと、ホワイトデーで10倍返しをさせられましたよね。
 しかも手作りって……しばらく胃がおかしくなって苦しんだんですよ。
 普通に板チョコを溶かしてくれるだけでいいのに、おかしなものを混ぜてくれるから……」

 ふっと口元を歪めたシンジは、「いじめですよね」と繰り返した。そんなシンジの言葉に、アサミがすかさず反応した。

「でも先輩、ジャージ部をやめなかったんですよね?
 いじめだと思っていたんなら、どうしてやめなかったんですか?」

 おかしいですよねと質問したアサミに、シンジは微苦笑を浮かべてそれを認めた。

「今思えばって事だよ。
 その時は、そんなことを考える余裕もなかったんだよ。
 でも、悪いことばかりじゃなかったんだよ。
 僕は中学の時、あまり自分の事を好きじゃなかったんだ。
 半分引きこもっていたから、勉強だけはできたんだけどね。
 だからあまり人と関わろうと思っていなかったし、誰からも見向きもされていなかったね。
 でもさ、ジャージ部に入ってから、いろんな人と関わり合いができたんだよ。
 先輩二人にいろんなクラブに連れて行かれて、「鍛えてやってくれ」なんてお願いされたんだ。
 向こうも迷惑そうにしていたし、僕だって正直嫌々やっていたよ。
 でも、少しずつ上達していって、周りに受け入れてもらえるようになったら……
 なにかさぁ、毎日が凄く楽しくなったんだ。
 遠野先輩に、「ねっ、面白いでしょ」と言われた時、目の前がぱぁっと開けた気がしたんだよ」
「あれっ、私そんなことを言ったっけ?」

 真面目に首を傾げたマドカに、「言いましたよ」とシンジは微苦笑を浮かべた。

「あれは、確かサッカー部の紅白戦に出た時ですよ。
 センターバックから上がっていって、最後にシュートを決めたんです。
 はじめての経験で興奮した僕は、ジャージ部に戻って二人に報告したんですよ。
 くどくど同じ事を話しているのに、二人はニコニコと微笑みながら聞いてくれました。
 そして話し終わった僕に、遠野先輩がそう言ってくれたんですよ。
 その後ぐらいからかなぁ、他の部活でもいろんな人が声を掛けてくれるようになったんです」

 なるほどいい話だと全員が頷いたところで、ナルがとても微妙な、そして疑問に思っていたことを口にした。

「でもさぁ碇君、どうしてマドカちゃんに告白しなかったの?」

 そこまで鮮明に覚えていると言うことは、よほどマドカに言われたことが衝撃的だったと思えるのだ。だったら告白の一つぐらいあってもおかしくないとナルは決めつけてくれたのだ。
 だが告白しなかったことを前提にしたナルに、シンジは真面目な顔で「しましたよ」と言い返した。そのシンジの答えに、だれでもないマドカが一番驚いてくれた。

「ええっ、私告白された記憶なんて無いよ」
「そりゃそうでしょう。
 付き合ってくださいって言ったら、「今日は遅いから明日の午後ね」って言われましたから。
 告白した僕としては、その答えに目が点になりましたからね」
「あはは、マドカちゃんらしいわ、それ」

 付き合うを、練習に付き合うと勘違いしたというオチなのだろう。それを聞いたナルは、お腹を抑えて笑い転げてくれた。そしてナルの横では、マドカがショックを受けて頭を抱えていた。

「人生初の告白を、そんなことで無駄にしていたのね……」
「でも先輩、その程度だったらまた告白し直せばよかっただけですよね?
 どうして、もう一度告白をやり直さなかったんですか?」

 単なる勘違いから来ているのなら、もう一度やり直せばそれで済むことなのだ。それを指摘したアサミに、「冷静になった」とシンジは答えた。

「二人にとって、僕は恋愛の対象じゃないんだなと思ったんだよ。
 お陰で、もうちょっと冷静な目で二人を見ることができるようになったんだ」
「マドカちゃん、逃した魚は大きかったわね」
「まあ、私らしいっちゃ私らしいかっ……な?」

 しくしくと泣き真似をしたマドカに、アサミはとても微妙な慰めの言葉を掛けた。

「碇先輩から外に目を向ければ、きっと遠野先輩にもいい人ができると思いますよ。
 先輩二人がフリーだってわかれば、きっと告白してくる人もいると思います」
「ペンタゴンでも、結構人気がありましたからね」

 アサミ一色に見えたコントロールルームなのだが、シンジの言うとおりマドカ達のファンも大勢いた。それが目につかなかったのは、作戦中はノリを大切にしたからに他ならなかった。二人の言葉に立ち直ったマドカは、右手に力こぶを作って頑張るぞと宣言した。

「そうかぁ、日本に帰ったら素敵な出会いを探すぞ!」
「たぶん、その前に進路指導を切り抜ける必要がありますけどね」
「碇君、どうしてそこで盛り下げてくれるのかな……」

 せっかく楽しくお話をしていたのに、急に現実へと引き戻されてしまったのだ。ナルが空気を読めと文句を言うのもしかたのないことだった。

「どさくさにまぎれて、3日も勉強をサボっていますからね。
 このノリでカサブランカを過ごしたら、本当に後悔することになるんですよ。
 と言うことで、少しだけブレーキを踏んであげたんです。
 進路指導については、後藤さんを交えて対策を練ればいいと思いますよ」
「タカさんとかぁ……エライ人なんだよね、あの人」

 どうしてもお店のイメージが抜けないマドカに、「信じられないことですが」とシンジは肯定した。

「サンディエゴの基地司令と対等にしていましたからね。
 政府の上の方とも、ツーツー何じゃありませんか?」
「どうしても、そんなふうに思えないんだよね……」

 謎だと難しい顔をしたマドカに、「考えても無駄」とシンジは手厳しい論評を加えた。

「あの人は、そんなに簡単に尻尾を掴ませませんよ」

 シンジはそう言うと、耳をそばだてているだろう葵の方を見た。だが葵は、目を閉じて何も反応していなかった。時間を考えると、むしろ不自然な態度だった。

「そのあたりの詳しい話は、カサブランカに着いてからしましょうか。
 それから到着が夜遅くになりますから、今晩は勉強会はなしにします。
 その分、明日からは力を入れていきますからね」
「なんで、せっかくの休みを宿題に追われなくちゃいけないのかしら……」

 現実も現実、切実な現実に引き戻されたマドカは、この世の終わりのように嘆いてみせた。だがマドカの嘆きは、シンジから見れば自業自得にしか過ぎなかった。そもそも3年の課題は、受験生ということもあり他の学年に比べて減らされていたのだ。それが盛り沢山になったのは、すべて休み前までのマドカ達の成績が理由となっていた。
 だからシンジは、「宿題」と言うマドカに、「言葉は正確に」と指摘した。

「夏休みの合宿に行くからって、補習の代わりに課題にしてもらったんですよね。
 学校側としては、かなり甘い措置をしてくれたと僕は思いますよ。
 そのおかげで、夏休みの後半は時間を自由に使えるでしょう?」
「確かに、補習免除はありがたいけど……」

 そこでマドカは、シンジに向かって両手を合わせた。まあ、お願いのポーズというやつである。

「碇君、お願いっ!」
「お願いされなくても、さんざん手伝っていると思いますよ。
 先輩達の課題を見て、進捗の管理をしているのが誰だと思っているんですか?」
「はい、碇君です……」

 すでにおんぶにだっこの状態となっているのだから、これ以上お願いをされても何もできることはない。それを認めたマドカに、「分かればよろしい」と少し偉そうにシンジは言い返した。

「ちゃんと遊べるように、進捗の管理をしてありますからね。
 カサブランカで、休みの時間中勉強するのは嫌ですよね?」
「そりゃあ、もう……お願いしますです!!」

 ははぁとナルと二人で手を合わされ、よしよしとシンジは偉そうな態度をとった。ここまで釘を差しておけば、二人の勉強に悩まされることはなくなるだろう。残る問題は、日本に残してきた妹だけだとシンジは考えたのである。

 そんなシンジ達の会話を聞きながら、葵は置かれた立場との違いに目眩に似たものを感じていた。目の前では、普通の高校生のように恋や学校の勉強の悩みを話してくれている。しっかり者の弟が、姉たち二人に小言を言うのも、別におかしいことではないのだろう。
 だが目の前で普通の高校生を演じてくれている4人は、ニューヨークの恩人とまで言われている4人なのだ。アメリカ大統領と3度めの面会も行い、ニューヨークからは国連事務総長もその場に駆けつけたぐらいのVIPなのである。4人に対して、その気になれば市民権に切り替えられる移民許可証まで発行されている。学校の宿題どころか、今すぐ学校をやめても一生の生活が保証されていたのだ。1年前は並以下と言われた男は、今や西海岸のアテナを凌ぐ名声を得ていた。

 本来普通の高校生たちを見れば、安心していられる物だった。だが彼らについてくる肩書きと実績は、むしろ普通さを否定するものだった。それなのに、目の前の高校生たちからは、少しも特別なものを感じないのだ。葵には、それがどうしても不思議でならなかった。



***



 兄が海の向こうに行って10日も過ぎれば、一人の生活にも慣れてきてしまう。出発の時は色々とあったのだが、それも短い時間で忘却……とまでは行かなくても、気にしないようにすることができるようになっていた。二日後兄から送られてきたメールを見たレイは、縁がなかったのだと割り切ることにしたのだ。
 その後のメールで友だちとのことを知らされたのだが、仕方がないと認めることができた。冷静に考えれば、振られたのは兄の方なのである。だったら、近くで慰めてくれた相手と付き合うのは、とても自然なことだと思えたのだ。ただ慰めてくれた相手が、ちょっとばかり特殊なだけだった。

「でも、兄さん、帰ってきてからが大変そうね」

 朝昼兼用のそうめんをすすりながら、レイは兄から送られてきたメールに目を通した。そしてじっくりと中身を読んでから、もう一通友人から送られてきたメールへ切り替えた。そちらのメールを見れば、兄のメールでぼかされていた部分がよく分かるのだ。「帰ってきてから大変」と言うのは、友人のメールから導き出される答だった。未だファンクラブが健在なことを思うと、どんなつるし上げを食らうことになるのだろうか。

 ただレイの心配は、ごく個人的な人間関係に絞られていた。ほんとうなら、アメリカで大活躍したことが一番に来るはずなのだ。新聞……ちなみに碇家は新聞をとっているのだが、レイ一人の時は折込チラシだけが活用されていた……やテレビでも、民間協力をしたパイロットの話題一色になっていたのだ。
 ただ、家の前にカメラマンがうろついていないのだから、秘密はしっかりと守られているのだろう。

「ごちそうさま」

 そう言って手を合わせたレイは、空いた食器をキッチンへと運んだ。油っけがないため、中身を流せば後は簡単に洗っておけばそれで終りとなる。鍋も手鍋を使ったので、食後の手間も大幅に省けていた。
 簡単に片づけを終えたレイは、居間に掛かっている時計へと目を向けた。アイリの事件以来、なぜか副部長のサナから誘われることが多くなったのだ。一緒に涙を流した仲と言う連帯意識というより、はっきりと下心があるのにレイは気づいていた。

 アイリに比べて、副部長の乾サナは元気のいい女性だった。タイプとしては、どちらかと言えば自分に近いタイプと言えただろう。その分親近感を覚えたのだが、頼りになるという意味ではアイリのほうが頼りになると思っていた。
 茶色の長い髪を頭の高いところでまとめた髪型は、アイリと同じくレイには不思議な髪型だった。豪華に広がっているのは分かるのだが、手間がかかって仕方がないと思えたのだ。少なくとも、惰眠を貪りたいレイには、真似のできない手の掛け方だった。

 その女の子らしい先輩が、急に自分に接近してきたのだ。料理部が再開された時に、事情を知る仲間が居たほうがいいのは分かる。だが、それにしてもくっつきすぎだと思っていた。ただその疑問にしても、三日目にしてその理由らしきものをサナが口にしてくれた。

「クラス委員になろうかなぁ〜」

 アイリが転校したのだから、代わりのクラス委員が必要なのは間違いない。転校したアイリの親友として、責任を引き受けるというのは、とても分かりやすい事情なのだろう。ただ自分と一緒にいる時、さり気なくつぶやくようなことではないはずだった。
 それでピンときたレイは、「兄ですか?」と直球ど真ん中の質問をサナにぶつけた。そこで顔を真赤にしてうろたえられれば、答えなど貰ったも同然だったのだ。

「べ、別に、碇が理由とかそういう事はないんだからね。
 アイリが急に引っ越したから、誰もなり手が居ないんじゃないかと思っただけよ」
「別に、反対はしませんけど。
 でも先輩、兄の周りにはジャージ部の高い壁がありますよ」

 篠山に目をつけられたというのは、すでにS高の中では有名になっていたし、ひところアサミの虫よけになっていたのも有名なことだった。しかもそれ以前には、部長のマドカとの仲が噂されていたほどなのだ。どこまで本当かは分からないが、そうそうたる名前がお相手として上がっていたのである。アイリの場合は、はじめから同列に居たから良かったのだが、これから割り込むには相手が強力すぎるのだ。
 ジャージ部の名前を出したレイに、「でも」とサナは冷静な観察からくる事実というものを持ちだした。

「先輩の二人とは、結局何もなかったのよね?
 そうじゃないと、アイリが付き合うって話はなかったと思うのよ。
 それは堀北さんだって同じ事でしょう?
 アイリが付き合っていた以上、噂は噂でしかないんじゃないの?」

 それは、客観的な観察としては正しいのだろう。ただそれが、いつまでも変わらないと考えるのは甘すぎる考えだと思っていた。クラスでは隣に座っている元アイドル様が、いつでも横取りできるつもりでいたのをレイは知っていたのだ。とにかく高知の奇跡以降、はっきり兄を見る目が変わっていたのだ。
 そして篠山の話は、現在進行形なのを知っていたのだ。だからジャージ部海外合宿に、篠山が人を送り込んできている。しかも、入学してからの一人娘の変貌を考えれば、フリーになった途端動き出すのも目に見えていた。それを考えれば、サナの目はないというのがレイの考えだった。何しろ20日間も、彼女たちは兄と一緒に行動してくれるのだ。むしろ、その間何も無いと考える方がおかしかったのだ。

 そこに来て、兄と友人からのメールである。それを見たレイは、一番固い線に落ち着いたのだと理解した。多少格好良くなっても、もてた経験のない兄なのだ。そんな兄が、元アイドルの攻勢に耐えられるはずがない。それに、持ちこたえなくてはいけない理由も消滅していた。
 先輩にはいつか引導を渡す必要があるのだが、それは自分の仕事ではないとレイは思っていた。それに今回は気をつけないと、兄が帰ってきた時に敵だらけになりかねなかったのだ。それだけ今度のお相手は、うかつに手を出すと周りから刺される相手だったのだ。

 そんなことを考えながら、レイはサナに付き合ってファストフードの店に来ていた。色々と着替えるのが面倒なので、ピンクのポロシャツに白のハーフパンツといういでたちである。一方のサナは、ひらひらの付いた、可愛らしい赤系のワンピース姿だった。

「ところで碇さん、お兄さんから連絡はあったの?
 確か、今頃はニューヨークに行っていたんだよね?
 ニューヨークって、ほら、大騒ぎがあったじゃない」
「兄からは、カサブランカ行きの飛行機に乗るって連絡が来ましたよ。
 確か、予定が変わってその頃はワシントンDCに居たみたいですけど」

 そのあたり、レイは何一つ嘘は言っていない。ただ、欠落した情報の方が多すぎたというだけである。そしてその情報は、迂闊に話すことのできないものだった。

「そうかぁ、ジャージ部のみんなは無事にやっているんだ。
 でもさぁ、部活で海外合宿だなんて、信じられないことをしてくれるわね」

 羨ましいなぁと頬杖をついたサナは、バナナ味のシェイクをズズッとすすった。ちなみにレイのところにあるのは、パイン味のシェイクだった。期間限定で100円と言うのが、二人がシェイクを選んだ理由である。

「でも、公式の部活だから大変みたいですよ。
 出かける前に、学校にレポートを出さないといけないと言っていました」

 そこで「そうそう」と手を叩いたレイは、「見てみますか?」と言って送られてきた写メをサナに見せた。ちなみに送信元は、兄ではなく友人のAだった。その写メでは、兄が知らないオジサンと並んで写真に収まっていた。

「なんで、こんな写真が送られてきたの?」
「さあ、アサミがまじめにやっている証拠として送って来ましたから。
 やっぱり、乾先輩も誰か分からなかったんですね」

 「遊んでいるのではない」と言うことを示すにはちょうどいいのだろうが、誰と写っているのか分からなければありがたみも薄くなるというものだ。

「でも、こういう時はジャージじゃなくて制服なのね?」
「校則を守っているからと言うことらしいですよ」
「それにしても、一体誰と写っているんだろうね?」

 色々と思い出してみたが、それらしい人が思い浮かんでくれなかったのだ。まあどこかの博物館とかで撮ったのだろうから、分からなくても仕方がないと二人は諦めていた。
 まじめにやっているのは確かだろうとと結論づけた時、「ちょっといいかな?」と二人は声をかけられた。

 誰かなと振り返ってみたら、爽やかな笑顔を浮かべた男子高校生が二人立っていた。その内の一人は、少なくとも兄よりイケメンなのは間違いない。そしてもうひとつ確かなのは、同じ学校の生徒ということだろう。締めているネクタイの色を見ると、3年生というのは確かだった。

 知らないイケメンに、レイは少し緊張して「はい」と答えた。だが一緒に居たサナは、その二人のことを知っているようだ。レイとは違う方向で緊張して、「どうして生徒会長が?」と驚いていた。サナの言葉に、「生徒会長?」とレイも驚いた。

「ちょっと、生徒会の打ち合わせで学校に行っていたんだよ。
 その帰り道にジロウが、マックに寄って行こうって言ったんだよ。
 そうしたら、君たち二人を見かけたというわけさ。
 と言うことで、碇レイさん、生徒会長の陸山(くがやま)ムネヨシです。
 それでこいつが、総務委員長の田辺ジロウだ」
「碇レイです……って、どうして私のことをご存知なのですか?」

 少なくとも、相手はS校生なら知らなければおかしい相手だった。だが一方のレイは、あくまでS高に入ったばかりで無名の少女なのだ。生徒会長様に覚えられるような、功績も悪事も働いていないはずだった。
 そしてどうしてと言うレイに、「ああ」と陸山は頭を掻いた。

「君のお兄さんは、S高ではとても有名だからね」
「やっぱり、兄絡みと言うことですか……」

 予感はしていただけに、やはりそうなのかとレイはため息を吐いた。生徒会長にまで覚えられているということは、S高に居る限り、「碇シンジの妹」と言う立場がついてくることになるのだろう。
 そう言うことだと笑った陸山は、「いいかな」と言ってトレーをレイ達と同じテーブルに置いた。その上に乗っていたのは、レイ達と同じシェイクだった。ちなみに陸山はいちごで、田辺はメロンだった。

 たとえ兄絡みであっても、年上相手だと緊張してしまう。しかも相手は、自分好みのイケメンと来ればなおさらである。目の前でじっくり見ると、どう見ても兄より格好が良かった。これをきっかけにお近づきになどと、レイは考えていたりした。

「それで会長、どうして私達に声を掛けたんですか?」
「君は、確か乾さんだったね。
 まあ、ちょっとお話がしたかったからと思ってくれないかな?」
「ムネ、誤解を招くような言い方は良くないよ」

 まるでナンパのような相方の言い方に、隣に居た田辺が小言を言った。そしてサナに向かって、田辺は「料理部のことは聞いている」と言った。

「新部長の届けは、夏休み明けに出してくれればいいからね。
 でも、夏休み早々部長が転校して大変だったね」

 イケメン度では少し落ちるが、爽やかさという意味では田辺も相当なものだった。そして陸山とのやり取りを見れば、「真面目で面倒見が良い」と評判が立つのも無理もないとレイは思った。そう言う意味では、こちらもなかなかの優良物件だった。

「ところで二人共、何を見て悩んでいたんだい?」

 ナンパではなくても、女の子といるのに学校の話はないと陸山は考えた。だからレイとサナ、二人が首を傾げていたことに触れてきた。

「ええっと、ジャージ部が海外合宿をしているのはご存知なんですよね?」
「一応、生徒会にも連絡は来ているからね。
 しかし、よく海外合宿なんて企画できたね。
 しかも行き先がサンディエゴとカサブランカなんて、よく相手の許可が出たものだと思うよ」

 何しろ行程表に書かれていた中には、世界的に有名な基地の見学が含まれていた。それを考えれば、「よく」と陸山が呆れるのも当然だった。
 そこまで共通の認識ができていることを示し、陸山は「それで」と先を促した。

「アサミちゃんが、まじめにやっている証拠だって写メを送ってきたんです。
 ただ、兄と一緒に写っている人が誰だかわからなくて……」
「写真の説明もなく送られてきたのかい?」

 どれどれとレイの携帯を覗きこんだ陸山は、知らないと言われた男性を見て目をむいて驚いた。そしてレイの手にある携帯電話を、「見て欲しい」と相方の田辺の方へと押しやった。

「ジロウ、俺にはアメリカ大統領に見えるんだが……」
「大丈夫だムネ、僕にもアメリカ大統領に見えるよ。
 しかし、どこに見学に行ったら、大統領と記念写真を取れるんだろうね」

 二人が度肝を抜かれるのも、訪問したのが一般人だと思えば無理もないことだった。だが話はこれで終わらないと、レイは同じく知らない顔の写った別の写真を持ちだした。

「だとしたら、こちらのおじさんも有名な人なんですか?」
「どれどれって……はあっ」

 その写真を見て、陸山は少し大きめなため息を吐いてみせた。知名度では多少アメリカ大統領には劣るが、こちらも世界的な有名人に違いなかった。だからこそ、アメリカ行きの目的に疑問を感じてしまった。

「いったい、ジャージ部はアメリカまで何をしに行ったのかな?
 校長に知れたら、大喜びで写真を校長室に飾るだろうね」
「……ちなみに、この人は誰なんですか?」
「今の、国連事務総長だよ。
 ムネの言うとおり、ジャージ部は何をしにアメリカに行ったんだろうね」

 やれやれと言うように、田辺はメガネを右手で少し押し上げた。そして何かを話せというように、陸山に向かって目で催促をした。意表は突かれたのは確かだが、ジャージ部がまじめに海外合宿をしているのは理解できた。ただ二人にとって、ジャージ部の海外合宿は本題ではなかったのだ。

「ところで碇レイさんに聞きたいんだが?
 君のお兄さんは、予定通り日本に帰ってくるのかな?」
「兄……ですか?」

 可愛い女の子を前にして、さっきから兄のことしか聞いてくれないのだ。レイは、少し女性としてのプライドを傷つけられた気がしていたりした。だが話題性は間違い無くあっちが上と、すぐに諦めの境地に達した。

「10日までには帰って来るって連絡がありました。
 天候とギガンテスの関係で、少し日程が後ろにずれたみたいですね」

 その答えに、陸山はそうかと頷いた。そしてレイに向かって、シンジと連絡をとりたいと切り出した。

「少し相談したいことがあってね、碇君と連絡をとりたいんだよ」
「急ぎますか?
 急ぐようでしたら、メールで連絡すれば通じますけど……」
「それはいいが、俺がいきなりメールしたら驚かれそうだな。
 だがそれも面白いから、メールアドレスを教えてもらえるかな?」

 こうしてみると、生徒会長の陸山はかなり軽い性格のようだ。だったらと、レイは陸山とのメルアド交換を申し出た。そうすれば、兄のメルアドをメールで送ることが出来る。

「おおっ、可愛い子のメルアドゲットかな?」

 そう言って少しおどけた陸山に、「何も出ませんよ」とレイは照れてみせた。こうして見ると、やっぱり陸山は格好がいいのだ。それに同学年の男と違って、しっかり大人の雰囲気も持っていた。
 じゃあと赤外でメルアド交換をしてから、レイは兄のメルアドをメールで送信した。これで生徒会長のメルアドをゲットしたことになる。ごく一人の例外を除けば、友人にも羨ましがられるのは間違いない。

「それで会長、兄に何を連絡するんですか?
 先ほど、相談したいことがあるっておっしゃいましたよね?
 もしかして、女性関係ですか?」

 兄の横には、学校一有名な女子生徒が付いているのだ。その女子生徒を目当てにした時、兄を頼ると言うのは有り得る話だったのだ。
 だが「女性関係」を持ちだしたレイに、陸山は少し口元を歪めてそれを否定した。

「堀北さんに紹介して欲しい、かい?
 さもなければ、最近めっきり綺麗になったと評判の篠山さんかな?
 もしも彼女たちを目当てにするんだったら、碇君に頼んじゃだめだろう」
「……違うんですか。
 それから、私だったらフリーですよ」

 どうです? と自分を売り込んだレイに、「残念ながら」と陸山は受験を持ちだした。

「3年の夏から1年間は、受験生にとって天王山だからね。
 そろそろ脇目もふらずに勉強に打ち込まないといけないんだよ。
 そうじゃなくても、生徒会をしていると雑事が多くなってね」
「つまり、受験を口実に断られたってことですか……」

 はあっとため息を吐いたレイに、「ごめん」と陸山は謝った。そしてお詫びとばかりに、相方を人身御供として差し出した。

「ジロウは、フリーだからどうかな?」
「そこで「はい」って言ったら、どうしようもない尻軽に見えるじゃないですか」

 かなり惜しいかなと思ったが、そこはプライドを盾に我慢した。そしてこれ以上は自分が傷つくと、レイは話を元に戻すことにした。

「女性関係でなければ、一体どういう話なんですか?」
「まあ、関係者なら話しても問題ないかな?」

 そう言って田辺の方を見た陸山は、「実は」と言って少し身を乗り出した。

「うちの生徒会は、S高祭までが任期なんだよ。
 11月からは、新しい役員が生徒会を運営することになるんだよ」
「それが兄に関係するということは、生徒会役員になれと言うことですか?」

 なるほどと納得したレイに、「話が早すぎる」と陸山は苦笑した。

「一応選挙があるから、なれと言ってなれるものじゃないんだけどね。
 生徒会執行部なんて、ある意味ババ抜きのババだから立候補すれば当選の可能性は高い。
 だからと言って、誰でもいいってものでもないんだ。
 そこで人望のある、君のお兄さんに目を付けたと言う事だよ。
 ジャージ部が、頼まれたら断らないと言うのを利用しようかと思ったんだ」
「間違いなく、遠野先輩達が面白がるでしょうね」

 そういう意味では、マドカ達を巻き込んだ時点で「お願い」が「確定」した事実となるのだろう。ただ、ジャージ部に合わせて生徒会までするとなると、ますます兄は忙しくなるのは間違いなかった。まあ念願の彼女ができたのだから、多少デートの時間が減るぐらいが弊害なのだろう。さもなければ、支援の無くなる部活から文句が来るぐらいだろうか。
 なるほど目の付け所が良いと感心したレイだったが、ふと本当に良かったのかと考えてしまった。陸山達は、兄ならば当選すると考えているのだろう。だが事と次第によっては、兄は全校男子を敵に回す可能性があるのだ。もしもそうなった時、陸山達が考えるほど票を集めることができるのだろうか。

 それを考えたたら、ばらした方が良いのかもしれない。陸山を前に、レイはううむと悩んだのだった。



***



 天候の悪化やギガンテスの襲撃の影響で、シンジ達のカサブランカ入りは予定の2日遅れの夜となってしまった。その分日本への帰国予定が延びることになり、ますます普通の夏休みが削られることになったのである。これ以上延びたら、楽しみにしている花火大会やお祭りまでに帰れないことになりそうだった。

 フライトの関係で、一行がカサブランカ空港に着いたのは夜のことだった。その後一行は、低気圧の被害の残る町中をモロッコ政府差し向けのリムジンで移動した。そして市内一番のホテルに案内され、予定とは違う一番良い部屋に通された。
 このあたり、すでにワシントンで通った道である。それもあって、葵はホテルに文句を言うのを諦めていた。明日に無理矢理入れられた予定を考えれば、この程度は可愛いと思えてしまうのだ。

 名目上社会見学をしている高校生が、なぜモロッコ国王とまで会わなくてはいけないのか。目立つ事は駄目と言うのが、当初付けた条件だったはずなのだ。それなのに、アメリカ大統領との面会から、そのあたりの条件がなし崩しになっていた。ちなみに国王との接見は、王宮見学でたまたま出くわしたと言う口実が用意されていた。これも、どこかで聞いたような口実だった。

「彗星のように現れたヒーローって所じゃないの?」

 さすがに国王接見はやり過ぎと文句を言ったシンジに、葵は疲れたようにそう答えた。葵自身やり過ぎは認めていても、受入側の意向には逆らえないと言う事情があった。「ばらしても良いのか?」と逆に脅されれば、大人しく言う事を聞く他は無かったのだ。

「何か、秘密を盾に遊ばれている気がしてきましたよ」
「秘密さえ守れば、何をやっても良いって乗りになっているのは確かね。
 なんか、どこまでやって良いのかのチキンレースをしている気分よ」

 やだやだと零した葵は、思い出したようにちょっととシンジの耳を引っ張った。そして女子高生達の死角に連れ込み、本人曰く「お節介」な事を口にした。

「新婚さんに言う事じゃないとは思うけど、篠山さんはどうするの?」
「いい加減、その新婚さんって言い方は止めて欲しいんですけどね。
 苦痛だって、本当に後藤さんに文句を言いますからね」

 とりあえず文句を口にしてから、シンジは葵に向かって「どうしましょうね」と聞き返した。

「理由が理由だから、なかなか手を差し伸べにくいんですよ。
 下手なことをしたら、墓穴を掘りかねませんからね。
 だから、普段通りに接しようと思っているんですが……」
「確かに、どうしたら良いのか私にも分からないんだけど……」

 原因が何かははっきり分かっているが、だからと言ってどうしたら良いのかは皆目分からなかったのだ。何しろ「酷い奴」と糾弾しようとした相手が、実は命を掛けて愛する人を守ったのだ。振り上げた拳の下ろす場所が見当たらないどころか、全ての面で敵わないと突きつけられてしまった。簡単に立ち直れるとは思えない挫折に違いなかったのだ。
 だから葵にも、シンジの言う「手を差し伸べにくい」と言うのは理解できたのだ。優しくすれば同情だし、下手を打てば本当に墓穴を掘ることになる。れっきとしたガールフレンドがいるのだから、色恋で他の女の子の機嫌を取るのも間違っているだろう。

 こう言った時は、本来篠山内部で片付けるのが筋なのだろう。そのためだけと言うことは無いのだが、篠山から独り送り込まれているのだ。だから身内でフォローしろと、葵としては主張したかった。だが時々姿をくらます綾部もまた、葵には理解できない存在だった。

「根が良い奴というのは分かっています。
 先輩達と協力して、なんとか元気づけてみますよ」

 あまり話し込むのも、要らぬ疑いを招くことになりかねない。「考えておきます」と葵との話を打ち切り、シンジは退屈そうにしているアサミに近づいていった。だがその様子を見た葵は、どうにもならない世界があるのを見せつけられた。

「だぁっ、あれには勝てないわぁ」

 シンジが近づいただけで、アサミはとても綺麗な笑顔を浮かべてくれるのだ。その笑顔を見せられれば、葵でなくとも敵わないと思ってしまうだろう。しかも最近慣れたせいもあるのか、アサミに対して以前感じていた演技も感じなくなっていた。

「ほんとあの二人、どれだけお相手に良い笑顔を見せているのか理解しているのかしら?」

 それを見せつけられれば、割り込もうという気も失せてしまう。キョウカのことをシンジに言ったのだが、これを見る限り、どうにもならないのが分かってしまう。ただ、それでも言っておくべき事は言っておかなければならなかった。

「あ〜っそこっ、二人とも同じ部屋に入っていかないように。
 せめて、荷物ぐらいは別の部屋に置いておきなさい!」

 注意こそしたが、葵はそこから先は諦めていた。もしも注意することがあるとしたら、「避妊だけは確実に」と言う所だろうか。それにしても、ローワーの激闘を経て、二人の関係は国際的にも認められたものとなっていたのだ。それを考えると、今更邪魔立てをしても意味が無いと思えたのだ。



 モロッコ王国と言うと、王政を敷いているように思われるだろう。だがその実態は、国王を元首とした立憲君主制をとっていた。立憲君主制という意味では、日本と同じ政治体制ということになる。ただ天皇を象徴とした日本に対し、モロッコでは軍の最高司令官を国王が務めていた。
 そのモロッコ国王と謁見するのに、モロッコ政府が用意した理由が「王宮見学」である。新たに基地が設けられる日本から来た学生に、モロッコと言う国を知ってもらうというのがその口実である。そこに「偶然」国王が居合わせ、「気まぐれ」から日本から来た高校生の相手をしてくれる。いかにも取ってつけたような理由を建前に、国王ハサンは王宮内を案内してくれた。さすがにランチこそ同席しなかったが、その代わりと言って、とても豪勢なランチを用意してくれた。ちなみにランチには、モロッコ首相が同席するという特別待遇である。

「ここまですると、さすがにあからさまじゃないですか?」

 これで隠し通せる方がどうかしている。王宮見学が終わったところで、シンジは葵に対して愚痴をこぼした。だが現実は、これだけのことをしたにもかかわらず、シンジ達の周りで何の騒ぎも起こっていなかった。

「あからさまだろうが何だろうが、行かないほうが騒ぎになるんです。
 でも、他所でここまでされたら、日本に帰ってからが怖いわね。
 内閣総理大臣どころか、皇居に招かれることになりかねないわよ。
 そう言えば、碇君と同い年の内親王さまがいらしたわね」
「もしもそんなことになったら、アメリカに逃げますからね」

 どちらがマシかといえば、まだアメリカのほうがマシに思えたのだ。葵にしてみれば、なぜそこでアメリカと言う思いはあったが、とりあえず気持ちだけは理解することができた。

「そのあたりは、後藤特務一佐が考えているでしょうね。
 でも碇君の場合、学校の方を気をつけた方がいいんじゃないのかな」
「そのあたりは、なるようにしかならないと思いますよ」
「そのことなんですけど、先手を打っちゃおうかなって思っているんです。
 さっさと交際宣言をしてしまえば、すぐに騒ぎも収まると思いますよ」

 自分の事になったため、少し離れていたアサミが話に加わってきた。そこで初めて、葵は前ほど二人がベタベタしていないのに気がついた。

「その方が潔いって言えばそうなのよね。
 そう言えば碇君は、堀北さんの虫よけにも使われていたんでしょう。
 その時にも何もなかったんだから、今度も大丈夫っちゃ大丈夫か」

 こうやって隣に並べてみると、見た目の面でも意外なほどお似合いなのだ。これを見せられたら、誰も碇シンジに張り合おうとは考えないだろう。意外にすんなりと収まるかも知れないなどと、葵は楽観的なことを考えていた。

「それで、この後は世界遺産の見学ですか?」
「紀元前からの遺産があるから、アメリカとは一風違ったものが見られるわよぉ。
 後はカサブランカに戻れば、西欧のショップも沢山あるから退屈しないですむと思うけど。
 ただラバトまで来ちゃったから、あんまり夜の懇親会まで時間が残っていないわね」

 近場の世界遺産まで車で1時間30分、そこからカサブランカのホテルまで車で2時間というになる。今が午後1時だから、よく行けても1箇所というところだろう。時間から言って、駆け足になるのは間違いなかった。

「とりあえず、今日はさわりだけでも見てきますか。
 地中海性気候の街だから、赤っぽい灰色の街がなかなか見ものだという話しよ。
 後の見所は、17世紀から18世紀のイスラム寺院ね」

 即席のツアコンなので、このあたりの情報はネット頼りだった。実のところ、モロッコでの世界遺産巡りは葵も楽しみにしていたイベントでもあった。

「じゃあ、早速出発しましょうか?」

 その場を仕切ったシンジは、なぜかおとなしくしていたマドカ達に声を掛けた。どうやら、静かなのは時差ボケが取れてないのが理由らしかった。ここのところのハードスケジュールを考えると、無理もないと言う所だろう。それに彼女たちが元気になるには、必要な燃料が未だ投下されていなかった。

 日本では絶対に見られない土を干して作られたレンガ造りの建物や、かつての壮大なイスラム建築は、疲れていても凄いと思えるものだった。シンジをして、「これだけは見ないと分からない」と言わしめるほど、世界の広さ、そして歴史をしっかりと伝えてくれたのだ。アメリカの博物館で感じた、綿々と続けられた人の営みを強く感じさせられたのである。
 そこでイスラム建築の傑作をいくつか見て、迷路のような街並みを散策し、しっかり記念写真を残せば初日の見学は終わりとなる。見聞を広めると言う意味では、得難い体験をしたことになるのだろう。他にも色々とあると言われれば、滞在中の休暇も楽しみになると言うものだ。

 そして一通りの見学が終われば、残る行事はホテルでの懇親会だけになる。堀井の運転するマイクロバスに乗り込み、後はひたすらカサブランカを目指せばいい。

「それで、今日は7時からの懇親会で予定は終わりですよね?
 サンディエゴと同じで制服でいいと思うのですが……」

 自由時間以外は制服で通したこともあり、いささかくたびれてきたというのが正直な気持ちだった。かなりほこりっぽくなっているので、懇親会はこれで良いのかと言う疑問もわいていた。だからと言って、ジャージ姿というのは出来ない相談なのだ。ジャージ部一行は、そこで初めて格好が問題となったのである。

「ほら、制服って普段そんなに用意していないでしょう?」
「そうよね、まさかこんなに着倒すとは思っていなかったわ」

 マドカとナルの言葉に、女性陣は全員真剣に頷いた。入学したてで制服の新しいアサミやキョウカにしても、結構煤けて見えるようになっていた。男のシンジにしても、まだマシというレベルでしかなかった。そろそろ真剣に着る物を考えなくてはいけない状況になっていたのだ。

「今日は、クリーニングした奴を着ればいいとして。
 そんなに毎日クリーニングしていたら、すぐにぼろぼろになってしまいますよ」
「3年になると、新しいのを買うのは憚られるのよねぇ。
 うちでは、あと半年乗り切れって言われているのよ」
「だから先輩達は、積極的にジャージを着ているんですか?」

 アサミの突っ込みに、すぐに3年二人から「違うわよ」と言う答えが返ってきた。観光をしたお陰で、多少元気は復活したようだ。

「格好の方は、実質一週間だからそのまま乗り切るしかないでしょう。
 シミュレーションとかは、いつものジャージを着ればいいと思うわよ。
 今更ヒアリングもないと思うけど、制服を着るのはその程度でしょう」
「オフタイムは、私服で行動すればいいですからね」

 残りの日数を考えれば、何とかなりそうな気がしてきた。ギガンテスの襲撃に関しても、経験則ではしばらく無いと楽観することが出来た。

「でも、今更カサブランカでやる事って有るんですか?
 今回の戦いで、いろんなデータも取れたし、サンディエゴでやり尽くしていますよね」
「同じくらいに親密になっておく必要はあるでしょうね。
 まあ、サンディエゴのヒアリング内容は伝わっているから、これ以上聞くことがあるとは思えないわね。
 まあ、碇君とナギサ君がしっかり話をすることが一番意味があるんでしょう」
「先輩が、カヲル様とですか?」
「あらっアサミちゃん、この期に及んでナギサ君が気になるの?」

 葵は口元を歪めて顔を見てきたのだが、さすがにシンジもこの程度では動じなくなっていた。そしてアサミも、今までと違ってシンジのことを見ていなかった。

「美形を愛でるのは、恋人にするのとは別物ですからね」
「だったら、今日の懇親会で一緒に話そうか?
 どうせ、あちらの目当ても僕だろうから。
 あっ、それから言っておきますけど、今日は葵さんの通訳は要りませんからね」
「あらっ、ずいぶんと自信があるのね?」

 ほほうと感心した顔をした葵に、「日常会話なら」とシンジは言い訳をした。

「その方が、突っ込んだ話になりにくいでしょう?
 ヒアリングの時は、葵さんに同席して貰いますよ。
 その方が、何を聞かれたかの報告も面倒じゃありませんからね」
「そうやって、人を利用する?」

 笑いながら言うところを見ると、言ってみたい程度なのだろう。実際微妙な問題を避けるためには、葵が同席した方がいいと後藤も判断していたのだ。
 そして葵の突っ込みに、シンジも笑いながら「民間人ですから」と言い返した。

「自衛隊内の確認は、自衛隊の人の責任だと思うんですよ。
 それに、僕が好き勝手に話していないか監視が必要ですよね?」
「アスカさん相手なら監視は必要だと思うけど……」

 う〜んと考えた葵は、「両刀?」とある意味爆弾を投げつけた。見た目は十分魅力的な少年と、そして方や世界的に有名な美少年なのだ。そこから飛躍した、単なる馬鹿話のはずなのだが……なぜか女性陣が反応してくれた。

「それって、ものすごく盲点でした」
「確かに、男相手って言うのは警戒していなかったわね」

 アサミはかなり真面目に、そしてマドカとナルはにやにやしながら、シンジが男に走る危険性に驚いてくれた。ただそんなことを言われても、シンジは男同士など今まで考えたこともなかった。そして考えたいとも思っていなかった。
 ただ、それを慌てて言い返すのも面白くない。そこで一番面白そうな相手に、いきなりシンジは話を振ることにした。

「堀井さん、男同士って良いものなんですか?
 うわっと、危ないですねっ」

 シンジの質問に驚いたのか、急にマイクロバスがふらついた。そこで振られるのは、さすがに堀井も予想外だったようだ。それ以外に動揺する理由があるとしても、あまり想像したくないことだった。

「なぜ、俺に質問する?」
「いえ、なんとなく。
 それに、この中には他に男性は居ませんから」

 他に居るのは、女子高生4人を含め女性ばかりである。そう言う意味では、意見を求める相手は堀井以外に居ないのも確かだった。
 「そうか」と少し籠もった声で答えた堀井は、「聞いた話だ」と断って“真面目”にシンジの質問への答えを返した。

「昔から軍隊というのは男の世界だからな、その手の趣味を持つ者はそこそこ居た。
 遙か戦国時代に目を向けても、男色というのは特に珍しくなかった。
 その趣向は、江戸時代にもなくなることはなかったそうだ。
 明治初期には「鶏姦罪」などと罪を規定しなければいけないほどだったらしい。
 ちなみに「鶏姦」と言うのは、肛門性交を示す言葉らしいな。
 歴史を紐解けば、仏教の女犯から始まっているらしい。
 それだけ広くしかも歴史があると言う事は、それなりに“良いもの”なのだろう」
「く、詳しいですね……」

 まさかここまで詳しく説明されるとは思わず、シンジ達は堀井の説明に引いてしまっていた。しかもマドカ達の期待した「耽美」な世界と言うより、より生々しい方へと話を振ってくれたのだ。「鶏姦」などと言われると、何処か汚く感じてしまうから不思議だ。もともと堀井に対して、「嘆美」を期待するのが間違っていた。

「ん、ああ、俺は戦国時代に興味があるからな」

 「ああそうですか」、堀井の答えに、高校生達はしっかり盛下がってしまった。
 「なんで堀井に話を振るのだ」と、シンジは回りから責めるような視線を向けられていた。だったら男同士の話を振るなと言いたいところを我慢し、シンジは話を逸らす作戦に出ることにした。そしてこの話題は、ただ話を逸らす以上の意味も持っていた。

「ところでアサミちゃんの映画は、当然ヨーロッパでも公開されていないんだよね?」
「ええ、何かの映画祭に出したという話も聞いていませんよ。
 ちなみに、アメリカに配給されたという話もありませんからね」

 多少先回りしたアサミの答えに、こちらでも同じことになるのかとシンジは警戒することにした。あのばかばかしい乗りに付き合わされるのは、結構な迷惑だと思っていた。ただ気になったのは、これだけ人気があるのにどうして世界に配信しなかったのかということだ。サンディエゴやペンタゴンの熱狂を見たら、かなり当たったのではと思えてしまった。

「ちゃんとメディア展開すれば、世界デビューできていたのかな?」
「きっとそうなんでしょうけど……だぁれも需要があるとは思っていなかったんでしょうね。
 今更世界はどうでも良いですし、相手にするのが結構面倒なんですよね」
「あれっ、アサミちゃんは世界デビューに未練はないの?」

 ブロードウェイの時は、世界に憧れているようなことを言っていたのを覚えていたのだ。だからマドカは、アサミに対して世界を持ちだした。だがその質問は、はっきり言って藪をつついただけの物だった。

「芸能界より大切なことが出来ましたからぁ!」

 ねっと言ってシンジの手を握るアサミに、マドカとナル、そして葵はやってられないとばかりに両手を挙げた。話の振り方が悪かったのだが、そうやって惚気られるとやっていられない気になるのだ。しかもシンジまでアサミに微笑むものだから、独り者一同当てられて仕方がなかった。

「堀井さん、もう少し冷房の温度を下げてくれないかなぁ。
 なんか、車の中が暑くなってきたのよ」
「同感だな。
 今設定温度を下げたから、もう少し待ってくれないか」

 誰のと言うのは難しいのだが、間違いなく悪乗りに違いないのだろう。しかも堀井まで反応するのだから、相当なものに違いない。そんな完全な当てこすりに対して、シンジはとても的確な対抗策を取ることにした。これは、冷房の温度を下げてくれたからこそ出来る方法だった。

「アサミちゃん、少し寒くない?」
「そうですね先輩、温めてくれますか?」

 以心伝心、やられたらやり返すのは、ジャージ部のノリの良さだろうか。アサミが寒いと言ってくっついたところで、すかさずマドカが「温度を戻して」と声を上げた。

「なんか、やりにくいったら仕方がないわね」
「もともと、話を振ったのは遠野先輩ですから」

 アサミにはそう言い返されたのだが、マドカとしては「ベタつけ」と言うつもりで質問した気はなかったのだ。ただ芸能界に未練がないような口ぶりだったので、それを聞こうとしただけのことだった。それなのに、いつの間にか二人に当てられてしまっていた。ただ芸能界と比較できるものを聞くことが、そもそも墓穴を掘る行為だったのだ。



***



 後藤がカサブランカに入ったのは、丁度シンジ達が観光旅行をしている頃のことだった。一緒に移動しないのは、まず第一に目立たないと言うのを優先した結果である。そしてもうひとつ、基地運営に対して責任をもっていたからでもあった。シンジ達と合流する前に、色々と済ませておくことがあったのだ。

 後藤にとって、優先すべきは日本における迎撃体制の確立である。ジャージ部員達の外遊は、各基地の不満軽減と言う目的の他に、各国との連携を強化するという目的があった。そしてもう一つの目的は、日本の地位を確固たるものとすることである。功績としては巨大ではあっても、自国に閉じた奇跡では世界への貢献という意味では弱かったのだ。
 だから地位の強化を行うため、ちょっとしたアクシデントを利用させてもらった。学者を中心とした基地構成に対して、米軍内の不満が高いことは分かっていた。だからその不満に付け込み、そこで起きた混乱を利用して日本の立場を強くしようと考えたのだ。その意味では、サウスブルックリンの奇跡は、予定外の成果といえただろう。

 ただ世界の中で発言力を増した一方で、日本の体制は不十分なままだった。その一番の課題は、パイロットの不足が理由になっていた。
 金看板の対象Iこそ抱えているが、そのサポートとなるパイロットが二人しか居ないのだ。サンディエゴに送り込まれたパイロットでは力不足だし、米軍のヒロインとなった堀北アサミは戦力として考えられるものではなかった。対象Iにまつわる問題を考えると、パイロットの強化は焦眉の急となっていたのだ。そのための方策として、後藤は対象Iを取り込むための作戦を逆に利用することにした。

 パイロットの適性として、対象Iは例外として扱うべきものだった。もともと禁断の兵器に乗っていたこともあり、適性があって当然と考えられていたのだ。だが、ジャージ部員の二人となると話は変わってくる。偶然というには出来すぎのところはあるが、ノーマークのところから高い適性を持ったパイロットが現れたのである。ならば柳の下に二匹目のどじょうを求めてもおかしくないだろう。だから後藤は、本気でパイロットを公募するつもりになっていた。

 シンジ達とは別のホテルにチェックインした後藤は、そこですぐに店開きをした。荷物の整理もそこそこに、施錠されたバッグからタブレットPCを取り出した。そしてホテルのネットを利用し、日本のリモートアクセスポイントにログインした。そこから専用機能を利用し、防衛省のネットへと接続を行うのである。そうすれば、安全に情報を取り出すことが出来るのだ。
 そして自分宛のメールの中から、期待する応答を見つけることができた。

「ジャミング事務所が食いついてきたか。
 残る問題は、あの二人を担ぎ出す方法か……」

 ヘラクレスパイロットの一般公募には、新しいパイロットを確保する以外の目的も込められていた。すなわち、高知の奇跡を演じたパイロットの公開である。ただいきなり公開するのは時期尚早のため、公募を利用して公開の前振りを行おうと考えたのだ。
 ただ、このあたりは非常に微妙な問題を含んでいた。本人達の希望を無視すれば、すぐさま手痛いしっぺ返しを受けるのは分かっていたのだ。まかり間違って碇シンジのご機嫌を損ねることになったら、奇跡で作り上げられた迎撃態勢がご破算になる可能性すらあった。そのリスクを抱えている以上、性急に事を運ばず、慎重には慎重に構えておく必要があったのだ。

「清掃のボランティアでは、参加するのは碇シンジと篠山のお嬢様だけか……」

 だが部活を利用した時、問題となるのはこれまでの実績だった。テレビの番組を利用すれば、大勢のテスト希望者を集めるのに効果的だと考えられるのだ。アメリカでの戦いの後と考えると、むしろ応募が殺到して事務処理が間に合わなくなる可能性もあった。
 だが、テレビに絡めた途端、二人が参加を渋る可能性が生まれてくるのだ。段階的な公開を考えた時、なんとしても二人を参加させる必要があったのだ。

「そうなると、後は彼をどう踊らせるかということか」

 その二人に対して、彼こと碇シンジは絶大な影響力を持っている。「テレビに出るのはイヤ」と言っている二人でも、シンジに必要性を説明させれば担ぎ出すのも可能のはずだった。その為には、碇シンジを誘導する必要があったのである。
 だが、いざ踊らせようとしても、なかなかうまい方法が浮かんで来なかった。正直に打ち明けると言う方法は、将来のことを考えると、まだ使用する段階ではないと思っていた。

「何か、うまい口実になるネタは無いのかなっと……」

 彼女たちの行動を原理を分析すれば、誰かの為になると言うのが一番ありがたい口実である。その為に利用できるイベントがないかと後藤はデータを漁った。日本に帰ってから、夏休み中になにかないかと探したのである。そして日本から送られてきたメールの中に、後藤はその何かを見つけ出した。

「映画研究会……か。
 「ジャージ部5、高知の奇跡」……ね。
 うまく利用すると、広報用の映像も撮れるかもしれないな」

 人気番組が利用できても、広報用には別の映像が必要となる。S高の部活を利用し、ついでにそちらも作ってしまおうと考えたのだ。素人映画なら、話題作りの面でも好都合だと考えたのだ。

「となると、映画研究会に話を持っていく方法だが……」

 ジャージ部ならいざ知らず、映画研究会には全くコネがなかった。その状況で話を持っていくのは、不自然すぎるとしか言いようが無い。そこを不自然とならない方策を考える必要があった。
 どうするかと考えた後藤は、そこでシンジを利用することにした。シンジに対して、パイロットを公募すること、必要な映像を撮る必要があることを説明し、その効果的な方法を相談することにしたのだ。そのあたりを相談すれば、うまく深読みしてこちらの意図通りに動かすことが出来るだろう。基地内の撮影許可というのは、高校生にとっておいしい餌になってくれるはずだった。



***



 カサブランカでの懇親会は、かなりサンディエゴとは違うものになっていた。当初の計画では、新しく基地の設置された日本からの見学者と言う扱いのはずだった。そのはずだったのに、なぜか懇親会には、カサブランカ基地司令が出席してくれた。しかも日本からは、同じく基地司令の後藤まで出席することになった。どうやら、ニューヨークの戦いで、扱いを変えることにしたらしい。
 その代わりと言うのか、懇親パーティの挨拶で、オットーは全員に対して守秘義務の遵守を徹底した。

「ここに出席した皆は、厳格な守秘義務の責任を負うことになる。
 もしも破った場合には、ギガンテス襲撃時に大いなる不利益を負うことになるだろう」

 平たく言えば、ギガンテスが来た時サボタージュの可能性もあると言う事である。基地司令が口にするには、さすがに影響度の大きな話だったし、懇親会での言葉と考えると、異例中の異例な事に違いなかった。だが脅しとしては、必要にして十分なものだった。

 それを除けば、パーティー自体はあまりサンディエゴと変わったことはなかった。ただ歓迎の言葉が踏み込んだものとなり、シンジの行ったメンバー紹介も、より現実に即したものとなっただけの事だった。
 そして順番上最後に紹介したアサミに対しても、いつも以上に踏み込んだものになっていた。

「堀北アサミさんです。
 彼女は、僕の救出作戦でピックアッパーを務めてくれました。
 一応断っておきますが、僕の恋人です」

 マドカ達とは違い、シンジはアサミの肩を抱くような真似をした。そのお陰というのか、親睦にあるまじきブーイングがわき起こった。ブーイングをした相手は、見た範囲では男性パイロット以外にも居たようだ。まあ親睦にあるまじきとは言ったが、それだけ砕けていると考えれば悪いとばかりは言えないだろう。

 お互いの紹介が終わったところで、食事をしながらの懇談という事になる。サンディエゴでは、シンジはマドカとナルを連れて行動したのだが、カサブランカではアサミを連れての行動となった。そしてフリーになった二人に、キョウカのフォローを任せることにした。今夜の勉強会を前に、軽いフォローを期待したのである。

 「初めまして」とにこやかな顔で挨拶され、シンジは世の中の不条理というものを体験することとなった。もともと美形で有名なカヲルだったのだが、こうして現物を前にすると、知っていることと体験することは別物だと理解したのだ。この笑顔を前にすれば、アサミがぼうっとしても責めることはできないのだろう。シンジ自身、絶対に比較されたくない相手としてカヲルを認識した。

「シンジ君、君の武勇伝はカサブランカにも伝わってきているよ。
 まったく君という人は、とても素人とは思えないことをしてくれるね」

 握手をしながら、カヲルはシンジをそう評価した。その評価に少し口元を歪め、「素人だからですよ」とシンジは言い返した。

「きっと、渚さんならもっとうまくやっていたと思います。
 あれが、素人の限界だと思ってください」

 そしてシンジの答えに、今度はカヲルが口元を少し歪めた。シンジは「素人の限界」と言ったのだが、それですらカヲル達には思いも付かない方法だったのだ。「もっとうまくやっていた」と言われても、硬直した頭では何も作戦が浮かばなかったのである。

「シンジ君、謙遜されるとかえって僕達が惨めになるから勘弁してくれないかな。
 西海岸のアテナや、米軍の優秀なスタッフが雁首を揃えても駄目だったんだよ。
 もっとうまくやる方法があるのなら、それこそご教授願いたいところだね」

 そう言い返したカヲルは、「そうそう」と思い出したように付け加えた。

「それから、渚さんと言う呼び方はやめてくれないかな。
 そうやってファミリーネームで呼ばれるのに慣れていないんだよ。
 勝手にシンジ君と呼ばせて貰っているけど、出来たら僕のことも名前で呼んでくれないか?」
「カヲルさん、で良いのかな?」
「シンジさんとシンジ君、どちらが君にとって好ましいのだろうか?」

 カヲルにそう言われて、シンジは彼の呼び方を「カヲル君」と言い直すことにした。
 そこで笑顔を立て直したカヲルは、シンジの隣で固くなっているアサミに右手を差し出した。

「初めましてアサミさん」
「は、初めまして、カヲルさん」

 これまでの付き合いの中で、アサミが緊張する顔というのは初めて見るものだった。だが目の前のカヲルを見れば、女性であるアサミが緊張するのも仕方が無いとシンジは諦めていた。並んで横に立ちたくない、そう言えばシンジの気持ちもよく分かるだろう。

「同僚のエリックが君のファンなんだよ。
 だから、予習として君の出ていた映画を見させて貰ったよ。
 お陰で、僕もこうして感激などと言うものをしているよ」

 それをシンジ経由で聞いたアサミは、少し頬を染めて「ありがとうございます」と答えた。

「ところでシンジ君、彼女は秘密を共有しているのかな?」

 何がと言う言葉は無かったが、それだけで十分シンジには伝わっていた。ただシンジにとって、どう答えて良いのか難しい問題であったのも確かだった。カヲルの言う「秘密」は、公式に中身を教えて貰ったことはなかったのだ。

「どこまでと言うのは難しいですが、一応アサミにも話していますよ」

 そう答えてから、シンジはアサミに対して「脅しに使っている秘密のこと」と簡単に説明した。

「そのことを、アサミちゃんが聞いているのかを確認しているんだよ」
「話しにくいことがあるんでしたら、少し席を外していますよ。
 ちょっと、遠野先輩達の加勢に行ってこようかと思っているところだったんです」

 アサミの答えを聞いたシンジは、カヲルに対して「二人きりの方が良いのか?」と確認した。

「いや、込み入った話はヒアリングの時にも出来るからね。
 今は、とても魅力的な彼女も交えてお話しをしたいと思っているよ」

 まともに伝えると、どんな反応をされるのだろうか。その不安はあったが、その時はその時とシンジは割り切ることにした。

「込み入った話は、ヒアリングがあるから良いらしいね。
 今は、気楽に話をしようと言ってくれたよ。
 それから、アサミちゃんのことを魅力的だと褒めてくれたよ」
「そ、そう、ですか……」

 そこで顔が赤くなったのは、カヲルに褒められたことが理由なのだろう。まあ予想された反応でもあり、気になら無いと言えば嘘になるが、受けたダメージとしては比較的軽かった。あとインパクトが軽くてすんだのは、アサミがシンジにくっついてきたことも理由だった。
 そんなアサミの態度に目を細め、カヲルは「仲が良いんだね」とシンジをからかった。だがシンジの打ち返した答えは、かなりカヲルにとって痛いところを突いたものとなっていた。

「民間人のお陰で、こうして可愛い恋人を持つ事が出来ましたよ」

 シンジにしても、当然カヲルの置かれた状況は理解していたのである。
 反射的に口元を引きつらせたカヲルは、「羨ましいよ」と正直な気持ちを打ち明けた。

「シンジ君が揶揄した通り、とても息苦しい境遇に僕は置かれていると思っている。
 そう言う意味では、シンジ君に対して妬ましいと言う気持ちを抱いているよ。
 本来君も、僕や西海岸のアテナのような立場に置かれているはずだったんだからね」
「誰も、僕を乗せる勇気がなかったからでしょう?
 あそこまで切羽詰まったから、僕を乗せたんだと思いますよ。
 通常の襲撃だったら、たぶん僕に対して声は掛からないんじゃありませんか?」

 その答えに、カヲルは「秘密」と自分が口にしたことに対するシンジの理解を知ることが出来た。

「そのお陰で、僕は得難い人達と知り合いになれたと思っていますよ。
 初めからギガンテス迎撃の任務に就いていたら、今の仲間と知り合うことは出来ませんでしたからね。
 それ以前に、僕自身もっと暗い性格をしていましたよ」
「シンジ君が、かい?
 とても想像が付かないね」

 そう言って笑ったカヲルに、散々言われたのだとシンジは苦笑した。

「それも、向こうで料理を食べている先輩達のお陰ですよ。
 先輩達のお陰で、僕は自分のことを好きになる事が出来ましたからね」
「それを考えると、シンジ君の置かれた状況は奇跡とも言う事が出来るのだね。
 高知で活躍した二人は、シンジ君が軍に居たら知り合うことはなかったのだろう?」

 その指摘が正しいのは、シンジが一番実感していることだった。今の選抜メンバーを見れば、いい人達というのは積極的に肯定する事が出来る。だがマドカ達と同じかと言えば、迷わず否定することが出来るだろう。そしてその選抜メンバーとの関係も、今の自分だから良好に保てるのだと思っていた。
 そう答えたシンジは、アサミにお遣いをお願いすることにした。具体的には、料理を山盛りにしている二人を連れてくるのと、壁際で大人しくしている一人プラスαを連れてくることだった。話の流れで言えば、マドカ達二人を連れてくれば十分なのだろう。だがここで仲間はずれにすると、フォローが余計に面倒なことになると思ったのだ。

 シンジの意図を理解したアサミは、まず最初に壁際で大人しくて居るキョウカの所に行った。ニューヨークの一件以来、自分が避けられているのは知っていた。そして「なぜ」と言う理由も、マドカ達の話から想像が付いていた。

 キョウカに近づいたアサミは、普段通りにニッコリと笑って見せた。そして自分から目をそらしたキョウカに、「先輩が呼んでいますよ」と声を掛けた。

「カヲル様に紹介したいんだそうです。
 キョウカさんも、超絶美形を間近で見ておくべきだと思いますよ」
「だ、だが、私は……」

 自分から顔を背け、自信無さげにしてくれるのだ。さすがにこれでは、シンジが心配するのも仕方がないと思えてしまう。
 だからと言って、ここで同情しても意味が無いことをアサミも分かっていた。だから渋るキョウカから、相手を綾部へと切り替えた。綾部ならば、冷静に判断してキョウカを連れてくると予想したのだ。

「私はこれから遠野先輩達を呼びに行ってきますからね。
 綾部さん、先にキョウカさんを先輩のところに連れて行ってください。
 私は、喉が渇いたし、少しお腹が空いたから何かつまんでから戻ります」

 「いいですね」とじっと見てきたアサミに、「いいんですか?」と綾部は目的語を省いた質問をしてきた。その質問に対して、アサミは期待とは違う答えを返した。

「ジュースを飲んで、サンドイッチを摘むぐらいですからね。
 あまり大した時間は掛けませんよ。
 先に行っていてくだされば、その分私にも余裕ができると思いますから」

 「だからよろしくお願いします」そう言ってキョウカの元を離れたアサミは、言った通り料理のところに居たマドカ達に近づいていった。そこで料理を指さしているのは、何が美味しいのか聞こうとしているのだろうか。それを見れば、言った通り何かを摘もうとしているのだろう。もっとも、そのまま受け取るのはキョウカぐらいなのだろうが。
 そんなアサミを見つけて、カサブランカの男たちが近づいていくのに綾部は気がついた。すでにシンジとの関係は知られているはずなのに、それでも男を惹きつけるものを持っているのだろう。二人で居たマドカとナル、そして自分達に誰も近づいて来なかったのを見れば、やはりアサミも特別なのは間違いない。

「ではお嬢様、碇様がお待ちですよ」
「だ、だがサユリさん、本当に私なんかが行っていいのか?」
「碇さんが呼んでいます。
 今は、それが全てなのではありませんか?」

 そう言って綾部に諭され、もっさりとした動きでキョウカはシンジの方へと歩き出した。そんなキョウカの態度に、「なっていませんよ」と綾部は耳元で注意した。

「そんなことだと、本当に碇様に嫌われますよ。
 もっと優雅さを心がけて歩いてください。
 その為には、ちゃんと指先まで神経を行き届かせるのです」

 シンジに嫌われるという言葉が、多少キョウカの体に筋を通してくれた。そして綾部の言うとおり、指先の動きにまで気をつけた歩き方をするようにした。ただぎこちなさが増したのは、身についていないことをしているからなのだろう。
 明らかに付け焼刃のキョウカの行動に、シンジは多少マシかと口元を歪めた。恋愛と言うことを離れれば、キョウカは可愛い後輩なのだ。その後輩が落ち込んでいれば、何とかしようという気持ちも湧いてくる。

「綾部さん、通訳をおねがいしますよ」
「私でよろしければ」

 綾部が優雅に頭を下げたのを見て、シンジはいきなりキョウカに小言を言った。

「篠山、せっかく身近なところにお手本が居るんだ。
 お前のは上品じゃなくて、田舎から行儀作法の見習いに出てきたかっぺだぞ」

 それまでの口調とは打って変わったシンジに、カヲルは目を丸くして驚いた。そして綾部の通訳に、さらにカヲルの驚きは大きくなった。

「シンジ君、彼女は名家のお嬢様ではなかったのかな?」

 たまらずシンジに声を掛けたカヲルに、「そうだけど?」とシンジは疑問を疑問で返した。カヲルの言っていることは正しいが、それがどうかしたのかと言うのだ。

「色々と説明する前に紹介しておくよ。
 彼女が、篠山キョウカ、僕の一年下の後輩だ。
 ちなみに、Fifth Apostleの戦いの時、こいつだけが涙を流して見送ってくれたんだよ。
 先輩二人は気にしてないようだったし、アサミなんかは新しい恋に生きるなんて言ってくれたんだ。
 一番可愛いことを言ってくれた後輩なんだよ」

 ほらと頭をクシャッと撫でて、シンジはキョウカをカヲルの方に押し出した。シンジが何を言ったのかは、綾部が通訳してくれたので理解することができた。だが理解できなかったのは、自分を可愛いといってくれたことと、アサミの言葉から肝心な部分を省いたことだ。
 シンジの少し雑な紹介の仕方に、仲が良いのだなとカヲルは二人の関係を解釈した。そしてニッコリと笑って、右手を差し出しながら自分の名前を口にした。

「初めまして、カヲル・ナギサと言います」

 アサミですら見惚れたという笑みは、キョウカに対してもしっかりと効力を発揮してくれた。シンジに褒められて驚いていた以上に、キョウカはカヲルを前に舞い上がってしまった。

「え、そ、その……」

 そのおかげでもないが、カヲルを前にキョウカは何を言っていいのか分からなくなってしまった。そんなキョウカに助け舟を出したのは、綾部ではなくシンジだった。

「篠山、まず自分の名前を言えと教えたはずだぞ」

 シンジの言葉で、自分が何をすればいいのかキョウカは思い出すことができた。緊張しながらカヲルの右手を握り、少しどもりながら「キョウカです」と名前を口にした。

「それから篠山、カヲル君は恋人を募集中だそうだ。
 ただ、日本語は全くダメだから、挑戦したければ英語をマスターすることだな」
「べ、別に、俺はそんなつもりは……」

 ちょっとしたからかいの言葉に、キョウカは赤くなって俯いてしまった。そのやり取りを綾部から聞いたカヲルは、シンジに対して文句を言った。その文句の中身は、事実は正確にと言うところだろうか。

「シンジ君、間違っているとまでは言わないが、事実はもう少し正確に伝えてくれないかな?
 彼女が英語をマスターしなくても、僕が日本語をマスターすれば目的は達せられるだろう?」
「どっちが速いかと言えば、間違いなくカヲル君の方が早いだろうね」

 そう言って、シンジはキョウカに向かって「良かったな」と言って笑った。

「カヲル君に、お前も認めてもらえたぞ。
 これまで、努力してきた甲斐があったんじゃないのか?」
「先輩は、俺のことを認めてくれるのか?」
「ああ、お前は可愛い“後輩”だよ」

 シンジの言葉に、マシにはなったがまだまだ足りないのだとキョウカは理解した。それでも、今までとは違って、自分の事を“可愛い”と言ってくれたのだ。それが進歩だと、キョウカは理解した。そのお陰で、もやもやとしていた頭が、少し晴れてきた気がしてきた。



 基地同士仲は良くないが、それでも必要な情報は共有されていた。従って、サンディエゴ基地でのヒアリング内容は、全てカサブランカでも入手することが可能だった。当然シミュレーションの結果についても、必要な分析とあわせて手に入れることが可能になっていた。
 それもあって、シンジをして「今更やることがあるのか?」と言う疑問に繋がっていた。一人高校の制服を着て基地に訪れたシンジは、カヲルに向かって直球ストレートにその疑問をぶつけた。

 そしてそんなシンジの疑問に対して、最初のヒアリング実施者となったカヲルは、「そうだね」と笑いながら意義を説明してくれた。こちらも、前夜と同じくカサブランカ基地の制服を着用していた。具体的に言えば、ベージュの上下で、サンディエゴとの違いは胸に付けられた記章だった。
 面談用の小さな部屋で向かい合ったカヲルは、同席した葵が居ないようにシンジに対して振る舞った。使用する単語と早さを間違えなければ、十分会話が成立するのを理解していたのだ。

「シンジ君も気付いているように、両基地が張り合っているところがあるんだよ。
 だから、どちらか一方というのは成り立たないことになるんだ。
 そこに意味があるのかと言われれば、面子を立てる以上の意味を見いだすのは難しいだろうね。
 だからシンジ君の質問にまともに答えるのなら、「あまりない」と言う答えになるんだ。
 ただ、そうは言っても、僕の目の前には日本とアメリカで英雄的活躍をしてくれた君が居るんだよ。
 僕としては、この得難い機会を是非とも意味あるものにしたいと思っているよ」
「それで、具体的なプランはありますか?」

 カヲルの言葉から、実務担当者の意気込みは理解できた。だが意気込みだけで何とかなるのなら、世界中誰も苦労をしないはずだ。従って、シンジはプランを尋ねたのである。そんなシンジの質問に、カヲルは少しだけ口元を歪めた。

「是非とも、シンジ君に協力して貰いたいと思うのだけどね」
「つまり、今のところこれと言ったプランはないと言う事ですか……」

 後になると、これと言ってやることがないのは理解できた。だからそれを一緒に考えて欲しいと言うのも、理解できると言えば理解できる話だった。ただ理解できたとしても、一言文句を言いたい話でもある。

「呼びつけられた方としては、善処を求めたいところですね。
 やることが無いというのは、明確な問題も今は無いって事になりますよね。
 それが本当だったら、日程を切り上げて観光して帰ろうって話になりますよ」

 「普通は」と付け加えて、シンジはカヲルの反応を待った。相談するにしても、いきなり放り投げてくるなと言う意思表示をしたのである。
 そんなシンジに対して、「分かっているだろう?」とカヲルは苦笑を投げ返してきた。テーブルに両肘を付き、カヲルは正面からシンジの瞳を覗き込んできた。まっすぐに見つめる褐色の瞳に、シンジは少し圧倒されるものを感じていた。

「僕としては、できるだけ無駄な時間を省きたいと思っているんだよ。
 やってみたいと言うか、共同フォーメーションのテストはやっておかないといけないと思っているよ。
 それから、どうすれば初心者が20分でヘラクレスに乗れるようになるのか。
 そのコツも教えてもらいたいと思っているんだ。
 何しろ、僕たちの場合半日から1日以上の時間が掛かっているからね。
 そういう意味で、色々とやりたいことや聞きたいことはあるんだよ。
 でも、それだけじゃあまりにもありきたりだとは思わないかい」
「だから、ストレートに僕の意見を聞きたいと?」

 本気ですかと言う目で見たシンジに、カヲルは大まじめに頷いてみせた。その反応に、シンジは勘弁してと音をあげた。

「アメリカもそうだけど、素人相手に何を期待しているんだよ。
 日本での実績と言われても、わずか1時間のシミュレーションと一度だけの出撃だけなんだよ。
 それ以外の時間、ヘラクレスに関わったこともないんだ」
「そうは言うけどね。
 自分の口にしたことが、どれだけ異常なことか分かっているのかい?
 わずか1時間しかシミュレーションの経験がなく、搭乗試験にしても3時間しか経験していない。
 そんなパイロットが、僕達も経験したことがない困難なミッションを成功させたんだよ。
 もしも君が僕の立場に居たら、そんなことが信じられると思うかい?
 僕達が愚鈍でなければ、君になにか特別な意味を求めたくなるとは思わないのかな?」

 カヲルの言いたいことは理解できるが、だからと言って期待に答えられるかと言うのは全く別だと思っていた。確かに高知の戦いは、とても困難なものに違いない。だが発想自体は、とてもシンプルなものだと言うことができたのだ。そこに創造性があるかと言われれば、シンジとしては「無い」と答えるものだった。

「特別な意味を求めたいというカヲル君の気持ちは理解できるよ。
 もしも僕がカヲル君の立場なら、間違いなく同じ事を考えると思うからね。
 でも、それが分かっていても、僕はカヲル君の期待には答えられないと思っている。
 やったことは凄いかもしれないけど、高知の戦いと言うのはとてもシンプルなものだったんだ。
 訓練時間の短さを問題にしたけど、別にそれで十分だと思っていたわけじゃない。
 すべてがぎりぎりの状況の中、幾つかの奇跡を積み重ねて掴んだ勝利なんだ。
 自分の功績を低く見るつもりはないけど、だからと言ってそこに特別な才能を求めてほしくない」
「だけど君は、アメリカでは色々と提案をしているね。
 それが、サンディエゴにとってブレークスルーになったのは確かなんだよ」

 サンディエゴを持ちだした時、シンジはすぐに反論しようと口を開いた。だがカヲルはそれを手で制し、「分かっているよ」と言葉を続けた。

「僕としては、君は優れた才能を持っていると思っている。
 ただそれを持ち出すと、シンジ君が気に入らない方向に進むことになるのだろうね。
 だから少しだけ言い方を変えさせてもらえば、君は違った視点を持っているんだよ。
 僕達とは違った環境に居たおかげで、違った物の見方を育んできた。
 それが、サンディエゴではうまく働いたんじゃないのかな?」
「視点が違うと言うのは否定出来ないね……
 そもそも、置かれた環境が違うのだから、同じ視点というのがおかしいと思うよ」

 シンジの同意を得て、カヲルは少し椅子から身を乗り出した。

「その違いを確認することが、これからの役に立つと思っているんだよ。
 そこで問題となるのは、どうしたらそれを確認することができるのかということだ。
 決まったやり方が有るわけでないから、その方法を一緒に考えて欲しいということだよ」
「何をしたいのかは理解できたけど、それはどんな状況で求められるものかを明確にしないといけないね。
 加えて言わせてもらえば、僕の視点も君たちに近づいてきているんだよ。
 何しろ散々サンディエゴでは話をしているからね」

 期待は薄いと返したシンジに、カヲルは「自分の考えとは違う」とすぐに返した。

「ニューヨークでの戦いを分析すれば、君は僕達の考えに染まっていないと言うのが分かるんだよ。
 Fifth Apostleとの戦いは、なぜあんな作戦を考えついたのかが全くわからないんだ。
 後から説明を受ければ、なるほど合理的だと納得することはできるよ。
 しかも、あれだけ追い詰められた状況で、作戦自体を効果的に修正している。
 それはコーチの戦いでも同じで、とった作戦は極めて理に適ったものだと思っているよ。
 でも、全くの素人が考えついたと言われれば、そこにたどり着いた理由を求めたくなるんだ」
「言いたいことは理解できた……気がするけど。
 でも、それを説明するのはとても難しいと思っているよ。
 僕からしてみれば、他に選択肢がなかったと思っているんだ。
 なぜ思いついたと言う疑問には、どうして思いつかないとしか返せないんだよ。
 何しろ褒められている僕の作戦だって、色々と抜けがあったのは分かっているんだ。
 それを考えると、成功したことだけで評価されてはいけないと思っているよ」

 シンジにしてみれば、高知では連れて行く戦力を失敗したと思っていた。だから候補生達の力を借りる事になったし、土壇場で戦力不足に悩まされたのだ。そしてニューヨークでも、脱出方法にまで考えが至らなかった。結果を見れば、いずれの作戦でも民間人に犠牲者を出していない。だがその結果だけで評価されるのは、シンジにとって不本意だったのだ。
 そんなシンジの答えに、カヲルは大きく頷いて見せた。

「確かに、何故を説明するのは難しいことだと認めるよ。
 だけどシンジ君、今君が口にしたことは、ひらめきに類することなんだよ。
 そしてシンジ君、君が口にした抜けと言うのは、それこそ結果論だと僕は思っている。
 そして僕は、そのひらめきに理由を求めたいと思っているんだ」

 感想を口にしたカヲルは、「個人的には」と話を続けた。

「これまで迎撃に成功してきたことの弊害が出ていると思っているんだ。
 パターン化された戦い方で、多少の被害はあっても乗り切ることが出来るんだ。
 そこに新しい試みや、冒険が入り込む余地なんてどこにも無いんだよ。
 まあ、敢えてリスクを取らなくてはいけない理由が無かったと言うことなんだけどね。
 しかも、これまで何度も迎撃を成功させてきたことが、考えを硬直化させてしまったんだ。
 改善のアプローチが、新しいパイロットの育成だけに向けられるようになったんだよ。
 前線に立つ僕ですら、いや前線に立っているからこそ、冒険が出来なくなっているんだ」

 同じことを繰り返すことで、パターンから外れる事への忌避感が生まれてくる。失敗した時の恐怖は、掛かっている責任を考えれば仕方の無いことでもあったのだ。だから「冒険」、言い換えれば「チャレンジ」が出来ないと言うことは、シンジも十分に理解できたのだ。そして同じことは、後藤からも聞かされていた。
 だからシンジは、パターン化した事に対して肯定の意味から答えを返した。

「同じ敵と同じ条件で戦えば、パターン化するのは当然だと思うけどね。
 敢えて成功したパターンを変える理由だなんて、まともに考えれば無いと思うんだ。
 だからパターン化と言うのは、必ずしも否定されるものではないと思っているよ。
 この形にはめ込めば安全と言うのは、むしろ安心できることだと思うんだよ。
 そして僕自身を考えると、定番のパターンなんて持っていないんだ。
 そう言う意味では、常に失敗のリスクを抱えているんだよ。
 それから僕が経験した二つの戦いは、いずれも新しい試みばかりだったからね。
 高知では、戦った経験のない素人3人で迎撃しなくてはいけなかった。
 ニューヨークでは、Fifth Apostleなんて化け物が出てきたし、
 初めて行う日米合同作戦と言う条件もあったんだ。
 そこには、定番なんてものが存在していなかったんだよ。
 それは、僕達だけじゃなく、サンディエゴ基地の人たちにとっても同じはずだったよ。
 だから当初の作戦でも、これまでとは違ったパターンを採っていたんだ。
 シミュレーションでもやったことがないから、かなり不安だったと思うよ」

 シンジの意見を受けて、カヲルは「似たような不安を抱えている」と打ち明けた。

「サンディエゴの成功を見て、自分達のやり方が正しかったのかと考える様になったんだよ。
 もしかしたら、僕達は出さなくても良い犠牲を出していたんじゃないのかなとね。
 成功体験の上で戦っているけど、それが将来の敗北の理由になっていないかが気になるんだよ。
 だからフォーメーションの見直しも行っているのだけど、なかなかうまく行っていないんだ」

 カヲルの訴えた不安は、シンジの言った不安とは別種の物となっていた。それでもシンジは、カヲルの感じる不安を理解することは出来た。そしてその不安は、解消するのがとても難しい物でもあった。

「カヲル君の言いたいことは理解できたけど……
 だけど、僕にはその不安を解消することは出来ないよ。
 正確に言えば、一時的な解消は可能なのかもしれない。
 でも、それはすぐに次の不安を招くことに繋がっていると思うんだ」
「ギガンテスへの恐怖から来ているからと言いたいんだね」

 シンジの答えに、カヲルはその意図をすぐさま読み取った。そして出された問いかけに、シンジはその通りと肯定して見せた。

「自分に掛けられた期待、責任、そして負けるわけにはいかないと言う重圧。
 カヲル君の感じている不安の原因がそこにある以上、絶対に解消できないと思うんだ」

 それからと、シンジは「成功した」とカヲルの言ったサンディエゴの問題を取り上げた。

「サンディエゴの成功と言ったけど、僕は新たな問題の種をまいてしまったと思っているんだ。
 今後単独での迎撃を行う時、アスカさんはどんな精神状態になるのだろうか。
 それを考えると、僕は成功したと喜んでばかりはいられないんだ」

 まともに考えれば、新しい、そして有効なフォーメーションが確立した以上、これまでと違って余裕が出ると考えるところだろう。カヲルもシミュレーション結果を見たのだが、格段の効果をそこに見つけることができたのだ。そのせいで、カサブランカでもフォーメションの見直しが検討されたのである。だからシンジの言う「精神状態」という言葉に含まれる意味を、すぐには気付くことは出来なかった。

「どんなって……今までより遙かに手応えを感じると思うのだけど……」
「比べるのが、今までだったらそうだろうね」

 シンジの否定に、カヲルは引っかかりを感じた。

「単独で……今までとの比較だったら……」

 引っかかる部分を思い浮かべ、ようやくシンジが言いたいことにカヲルはたどり着いた。

「サウスブルックリンの戦いが問題だと言いたいんだね。
 そこで彼女は、最高の条件で戦ってしまった……
 でも、サンディエゴ基地単独では、その条件を満たすことは出来ない。
 つまり、今までより良くなったはずなのに、むしろ悪くなったように感じてしまうと」
「そこまで単純な人とは思わないけど、物足りなさは感じるんじゃないのかな?
 少しでも難しい状況になった時、間違いなく焦りを感じると思うんだ。
 そしてその焦りが、自分の足を引っ張ることになるんだよ」

 シンジの説明に、あり得ることだとカヲルは感じていた。一度高みを知ってしまうと、その感覚を体が覚えてしまうのだ。そしてその感覚と現実が乖離した時、酷いジレンマに襲われ精神的に不安定なものとなる。その不安定さは、シンジの言うとおり自分の足を引っ張ることになるだろう。
 その言葉に納得しながら、カヲルはシンジのことを再評価していた。自分より一つ下の男は、とても色々なことを考えているのが分かったのだ。そしてその一つ一つが、とても的確で、そしてとても重要なものとなっていた。それが分かったからこそ、カヲルは悔しいものを感じてしまった。ただその悔しさは、シンジに対して劣っていることが理由ではなかった。

「シンジ君、僕はカサブランカと日本の距離を恨めしく思っているよ。
 こうして議論させてもらうだけで、僕は色々と新しいことに気づくことができた。
 そしてそれ以上に、シンジ君から色々なものを教えられている。
 僕はどうして、日本で君と机を並べて学ぶことができないのだろうか。
 その機会が永遠に訪れないことが、残念でたまらないのだよ」
「いや、それはあまりにも過剰な評価だと思うよ」

 少し焦り気味に、シンジは持ち上げすぎだと文句を言った。色々と期待を向けられたから、言いたいことを言い返しただけだとシンジは思っていた。そしてその中に、あまり期待するとろくなことはないと言う意見を織り交ぜただけなのだ。別に含蓄のある話をするつもりなど全くなかった。
 だが、目の前ではカヲルが本当に悔しそうな顔をしてくれている。なんでこうなったと葵の顔を見たのだが、こっちはこっちで驚いた顔をしてくれていた。

「葵さん……どうかしたんですか?」
「いえ、その、碇君って凄いなぁって思っていたのよ。
 ほら碇君、私が通訳していないのに気づいている?」

 込み入った話はできないと、葵が通訳に入るはずだったのだ。だが蓋を開けてみれば、自分の助けなしに不自由なく議論を深めていたのだ。しかもその中身は、葵ですら初めて気付かされるものばかりだった。パイロットとしてちょっと能力がある程度に思っていたのだが、それが目の前の少年に対する過小評価だと知らされたのだ。後藤への報告に、今の観察結果を加えなければと思ったほどだ。
 通訳をしていないと言う葵の言葉に、シンジは初めて気づいたように「ああ」と頭を掻いた。

「やっぱり、習うより慣れろということですね。
 まだまだ語彙は不足していますけど、割とスラスラ言葉が出るようになりましたよ」
「そんな単純な話じゃないと思うんだけどなぁ……
 ああ、ナギサさん話を横取りしてすみませんでした」

 カヲルに恨めしそうな視線を向けられ、葵は反射的に謝罪の言葉を口にしていた。だが謝罪しながら、カヲルのシンジに向ける視線が気になってしまった。「机を並べて学ぶ」事ができないと残念がっていたのだが、それ以上のことを願っているように感じられてしまったのだ。
 「男に惚れてない?」シンジを「両刀?」とからかったのだが、それが冗談で済まなさそうな状況になろうとしていた。いくらなんでも極端だと思うのだが、カヲルの視線が熱を帯びているように見えてしまったのだ。「耽美」などと、とてもおもしろがっていられる状況ではないのだろう。

 だがカヲルは、葵の観察などどうでもいいことのようだった。シンジしか目に入らないと言った様子で、熱を込めて話し始めたのだ。「考え方を理解するのに必要」と前置きをして、シンジの学校生活や趣味まで“ヒアリング”を始めてくれた。しかも音楽に趣味があると言われた時、その中身まで踏み込み、自分と同じだと喜んでくれたのだ。

「恋する少年だよ、これじゃ……」

 これが終わったら、真剣にアサミに忠告しなければいけない。熱のこもった眼差しをするカヲルを前に、葵はとてもまじめに今の状況を分析したのである。



 シンジがヒアリングに入ってしまうと、他の4人は何もすることがなくなってしまう。出番の共同シミュレーションも、実施するのは明後日に予定されていた。つまりそれまでは、ジャージ部の4人には何も出番がないのである。
 だったら世界遺産巡りでもすればいいのだが、敢えて4人はそれを遠慮することにした。行きたくないと言うのではなく、シンジが楽しみにしていたと言うのが理由である。自分達だけ行って悔しがらせるというのも有りとは思ったが、同じ所に二度行くのも面倒だとすぐに気付いたのだ。シンジから「勉強でもしていたらどうです?」と言われたのだが、その提案は全員一致で却下した。

「低気圧って、よほど酷かったんですね?」

 結局、堀井の運転で市内観光をしたのだが、行く先々でコルク樫の木が倒れているのが目に付いた。そして道路を見れば、運ばれてきた泥が隅の方に押しやられていた。それを見たマドカの言葉に、運転しながら堀井は小さく頷いた。ちなみにマドカ達は、少し大きめのミニバンに乗っていた。

「でも、本当に日本とは違う街並みですね」
「中心部は似ているところがあったけど、少し郊外に出ると確かに違うわね」
「やっぱり、気候の違いが大きいのかしら?」
「それは……」
「そう言うのは、解説役の碇先輩に聞かないと分からないな」

 知識を仕入れてきたのだが、キョウカの言葉でそれを開帳するタイミングを逸してしまった。そのお陰で堀井は落胆していたのだが、背中からではうかがい知ることは出来ない。そしてマドカを筆頭に、キョウカの言葉に力強く同意を示したのである。

「まったく、男同士部屋に籠もって何をしているのかしら?」
「鳴沢先輩、それってとても危なく聞こえませんか?」

 すかさず注意をしたアサミに、「だって」とナルはすぐさま言い訳をした。

「カヲル様って、写真で見るよりずっと美形だったじゃない。
 あんな美形を前にしたら、男とか女とかって話は小さいことだと思えるんじゃないの?」
「おおっ、碇先輩が攻めと言う事かっ!」

 すかさず乗ってきたキョウカに、なんの影響だとアサミは文句を言った。そしてナルに向かって、結構真面目に文句を言った。

「それって、私よりもカヲル様が魅力的だと言っていることになるんですよ!
 恋人の私を目の前に、それっていくら何でも酷くありませんか?」
「でもぉ、アサミちゃんだって不安があるんでしょう?
 じゃなきゃ、今の話なんて鼻で笑っていれば済むじゃない」

 痛いところを突かれ、アサミは言い返す言葉に詰まってしまった。冗談抜きに、今まで見た中で一番綺麗な人だと思ったのだ。ナルの言う通り、男女の区別は超越していると思っていた。
 もっとも、それで引き下がってはシンジの彼女はやっていられない。すぐに言い返す言葉を見つけ、「その場のノリは必要なんです」と口にした。

「でも、今言葉に詰まったよね?」
「演出って奴ですよ、鳴沢先輩。
 先輩は、アスカさんとのデートで何もしなかった人なんですよ」

 その時は、二人きりでディズニーランドを回っていたはずだった。それだけ時間があったにも関わらず、手も繋いでいないというのだからアサミの言葉は説得力を持っているはずだった。

「“あの時は”、アスカさんにその気がなかったからでしょう?」

 敢えてナルは、“あの時”を強調した。そのあたりの認識は、マドカとナルの二人が共有していた。

「こっちに来る直前のアスカさん、完全に落ちていたよね。
 今頃、碇君のメールにアスカさんからのラブメッセージが届いていると思うわよ」
「アスカさんは、先輩のメルアドを知りませんよ」

 しれっと言い返したアサミに、そんな物はどうとでもなるとマドカは言い返した。

「生徒会長からいきなりメールが飛び込んできたんでしょう。
 だとしたら、アスカさんからメールが飛び込んできてもおかしくないと思うわよ」
「そりゃあ、アメリカ軍には諜報機関もありますから……」

 ただ、こんなしょうがないことに諜報機関が動くのかという疑問はある。だがそこまでしなくても、メルアドゲットぐらいは難しくないのだろう。ちなみに生徒会長の件は、レイがばらしたことはすでに分かっていた。

「でも、カヲル様が男を相手にすると思います?」

 一番の問題、双方の合意がなければ成り立たないのだから、カヲルにその気がなければ男同士は成り立たないのだ。それを口にしたアサミに、ナルとマドカはにやりと口元を歪めた。

「ようやく、そこに気がついたわね。
 カヲル様はノーマルそうだから、心配するようなことはなさそうね」
「だから、先輩もノーマルなんですっ!」

 とは言え、男と取り合うのはいささか勝手が違ってくるのも確かだった。絶対おかしな方向に目を向けさせるものか、密かに今晩のことにアサミは闘志を燃やしたのだった。



 1対1の個別面談の後、シンジは主要パイロット達とのグループ面談に臨んでいた。日本側からはシンジと通訳の葵の二人が出席し、カサブランカ側からはカヲルを筆頭に4人が出席していた。もっとも二人と言っても、葵はあくまで通訳でしかなかった。そういう意味では、1対4の面談という事になる。
 そしてその面談の場では、マドカ達が心配したことが現実になろうとしていた。ただ現実になると言っても、登場人物の役割は綺麗に入れ替わった物になっていた。

 出席者は6人程度なのだから、広さは小さな会議室で十分なのだろう。そこにテーブルが向かい合わせで並べられるのも、出席人数からして不思議なことではなかった。ただ席の並びは、誰の目から見ても不自然な物になっていた。普通に考えれば、日本から来た二人が隣同士で並ぶと考えるだろう。だがその片割れの葵は、どう言う訳か部屋の片隅に追いやられていた。そして葵が居るはずの席に、しっかりとカヲルが腰を下ろしていた。
 それだけなら、多少不自然とは言えリーダー同士が並んだと解釈することも可能だった。だがカヲルが隣に座るシンジへ向ける視線、それに気づいてしまうとこの並びに別の意味があるように思えてしまう。反対側に座ったエリック達は、そんなカヲルの様子に小声で「盲点だった」と言葉を交わしたほどだ。ちなみに盲点とは、カヲルの趣向が“男”に向いていたと言う事を指していた。

「でも、シンジ碇はノーマルなようね」
「国際問題にならないように、カヲルに首輪を付けておこうか?」

 そうひそひそ話をするマリアーナとライラに、エリックは少し青い顔をして「俺はノーマルだ」と二人に対して主張した。カヲルの嗜好が男に向いているということに、きっと身の危険を感じたのだろう。少し怯えたエリックに、二人は揃って「あんたは大丈夫」と決めつけてくれた。

「普通なら傷つく決めつけなのだが……今回だけはありがたく感じてしまうぞ」
「でしょうね。
 あんたの趣味は、可愛らしいアニメの女の子なんでしょう?」

 アニメ顔はしていないが、その候補がカサブランカまで来ていたのだ。懇親パーティーでの出来事を見ているだけに、二人共エリックが男の趣味があるとは思っていなかった。

「さて、せっかくシンジ君が来てくれたんだ。
 身内のひそひそ話はやめて、実りある会話をしたほうがいいと思うよ」

 エリック達の態度を失礼と感じたのか、カヲルの言葉には若干の怒りが含まれていた。表情にも多少の不機嫌さが滲んでいたのだが、それもシンジに顔を向けた途端綺麗に吹き飛んでいた。それどころか、とても嬉しそうに瞳を輝かせてくれていたのだ。そんなものを見せられれば、不安に感じるのも当然のことだった。
 一方シンジはと言えば、エリック達が何をヒソヒソと話しているのか想像はついていた。シンジとしても、どうしてこうなったと強く主張したいところなのだ。だが言葉にして何かを言われたわけでもなく、特に肉体的接触があったわけでもない。ちょっと視線が危ない程度では、文句をいうわけにもいかなかったのだ。だからできることと言えば、カヲルが近づいた分さり気なく離れる程度のことだった。

「カヲル君は“話”をすると言いましたが、構えて話をするのは難しいことだと思っています。
 実のところ、ヘラクレスのことにしても、僕達の共通話題にはならないのではないでしょうか。
 そして身近な話は、昨晩しっかりしたと思っています。
 なにか、さんざんエリックさんには絡まれた記憶がありますけどね」
「あー、まー、あれは男の嫉妬だと思ってくれ。
 確かに、ミスター碇の言うとおり、俺たちは共通話題に欠けているな。
 かと言って、こうやって顔を突き合わせているだけと言うのも意味が無いだろう」
「と言うことで、ちょっとした質問なんだけど……いいかしら?」

 そう言ってライラが小首を傾げたのに合わせ、長い金髪がゆらりと揺れた。

「一応ヒアリングされる側ですから……ただ、お手柔らかに」

 それでと返したシンジに、ライラはとても常識的な質問をした。ある意味、この場の本来の目的に相応しい質問だと言えただろう。

「素人って言うのは本当なの?
 ヘラクレスのことは忘れても、どこかで戦術訓練とか受けたとかいうことはないのかしら?」
「ズブの素人ですよ……と言う答えでは不足していますね?」

 本当かと聞かれたら、本当としか答えようがない。だがシンジも、ライラが質問してきた意図は理解していた。だが理解はしていても、説明する言葉を持っていなかったのだ。しかも秘密に関わる部分で、余計なことを口にするわけにもいかない事情もあった。

「高校に入って1年と少し、やったことと言えば学校での勉強にスポーツ、クラブ活動ぐらいです。
 ヘラクレスと言うのは、テレビや友人が教えてくれる以上の知識はありませんでした。
 シミュレーターに乗ったのは、高知にギガンテスの襲撃があった日が初めてでした」
「その素人が、初めてのシミュレーターで私達以上のスコアを出したというわけね。
 同調率の問題はさておき、どうして作戦から全体統制までできたのかしら?」

 同調率は才能で説明が付くが、作戦を立てたり全体統制をとったりするのは才能以外に訓練の必要がある。ライラの質問は、その部分を突いていた。

「作戦って言われても……シミュレーションでも大したことはしていませんよ。
 能力に勝る相手に対しては、数的優位を保つようにしないといけませんよね。
 サッカーを少し囓っていますけど、それがディフェンスの基本だと思っています。
 それでも1年生二人にはきついから、サポートに回らせました。
 基本的に素直な二人ですから、ちゃんと指示を出せばそのとおりに動いてくれますよ。
 アタッカーの二人は、生身でも結構強いですから適当にやらせても大丈夫だと思っていただけです。
 でも、うまくいった一番の理由は別のところにあると思いますよ」
「ぜひとも、その別の理由を教えてもらいたいわね」

 他人の生かし方については、なぜできたのかと言う疑問はあっても説明自体は納得の行くものだった。だがそれ以外の理由というのがあれば、ぜひとも教えてもらいたいものだと思っていた。

「別に構いませんけど、多分がっかりするんじゃありませんか?
 勿体つけるつもりはありませんから言いますけど、
 僕達にとって、シミュレーションは遊びに過ぎなかったということです。
 失敗したって、リセットしてやり直せば良いゲームでしかなかったんですよ」
「あ、遊びっ……そりゃあ、そうかっ!」

 一瞬何を言われたのか分からなかったライラだったが、すぐにその意味を理解することができた。そして理解したのと同時に、お腹を抱えて笑い出した。

「確かに、パイロットになろうとも思っていなければ、遊びよねあれって」

 遊びであれば、失敗したとしても時間以外に失うものはない。それにずぶの素人を連れてきたのだから、結果に対して一喜一憂することもなかったのだ。全くプレッシャーの無い中で、好き勝手に作戦を立ててそれを遂行した。そこに深い意味を求めても、まともな答えが帰ってくるはずがなかったのだ。それを考えれば、むしろよくぞ作戦を立てたと考えたほうがいいのだろう。ただそのお陰で、高知の奇跡にも繋がってくれた。

「そのお遊びがなければ、コーチの奇跡もなかったってことね?」
「そりゃそうでしょう。
 初めに言った通り、それまでヘラクレスなんてものに関わったことはありませんでしたからね。
 そしてシミュレーションで好スコアを叩きださなければ、自分で戦おうなんて色気は出しませんよ。
 普通なら、アメリカに行っている候補生の人たちに任せますよね?」
「うん、それってとっても分かりやすい理由だわ」

 「ありがとう」とお礼を言って、ライラは自分の質問を終わった。そして次に「私っ!」と言ってマリアーナが手をあげた。そして亜麻色の髪を揺らしながら、少しシンジの方へと身を乗り出した。

「どうして、いつまでも民間協力の立場にいるの?
 結局担ぎ出されるんだったら、正式にパイロットになった方がいいんじゃないの?」
「僕に、自衛隊員になった方がいいと?」

 最初に目をぱちぱちとさせ、そしてシンジは次に軽い苦笑を浮かべた。

「ええっと、マリアーナさんでしたよね?
 世の中、できることとやりたいことって別だと思いませんか?
 将来のことを差し引いても、今の生活を変えたいと思っていないんですよ。
 でも、パイロットになったら毎日がそればっかりになるでしょう?
 世界だって、広そうに見えてかなり狭いと思いますしね」
「世界が狭いかなぁ〜」

 う〜んと少し悩み、マリアーナは助けを求めるように隣に居たエリックを見た。そしてエリックも、同じように反対側に居たライラの顔を見た。

「民間協力……と言うのは理由じゃないと思いますけど、
 この海外……なんて言ったらいいでしょうね。
 アメリカとモロッコに来て、随分と大勢の人に会いましたよ。
 普通にパイロットになっていたら、逆にあまり会わなかったんじゃないでしょうか。
 高校では、パイロットと全く関係のない人達とも会いますしね。
 協力を否定するつもりはありませんけど、そればっかりというのは性に合わないんです」
「協力はするか……でも、それって中途半端だと思わない?
 私たちは、命がけでギガンテスと戦っているのよ。
 その為に、必要な訓練を毎日積んでいるわ。
 そうすることが、自分の命を守ることにつながっていると信じてる。
 天才には努力が不要って言うのならわかるけど。
 日々最善を尽くさないと、出撃した時に不安にならないの?」

 最初の説明で、シンジは一番重要なことを説明から省いていた。そしてその条件で言われれば、マリアーナの言うことは十分な説得力を持っていたのである。ここで掛かっている命には、自分だけでなく先輩達のものも含まれていた。少しでも生き延びる可能性を上げるためには、マリアーナの言う訓練を続けることに意味があったのだ。
 だがシンジを乗せたくないと言う考えは、未だ根強くあると聞かされていた。ローワーの激闘を経た後でも、その傾向は変わっていなかった。

「別に、ギガンテスを舐めているつもりはありませんし、ヘラクレスを甘く見ていませんよ。
 だから必要な訓練をすることは否定しませんが、それだけにしたくないって思っているんです。
 僕達の今後のことは、日本の迎撃機関が考えてくれていると思いますよ。
 ただ、僕としては自衛隊に入るっていうのが想像できないだけです。
 逆に質問しますけど、パイロットと言うものが一生の仕事だと思っていますか?」
「その質問は反則ね」

 マリアーナとしては、あまり考えたくない問題でもあったのだ。だが先の話を聞かれれば、答えないわけにはいかなかった。

「こんなもの、一生続けられるとは思っていないわ。
 いつまで適性が維持されるのか分かっていないし、維持されたとしても勘弁して欲しいわね」
「後は、いつまでギガンテスが襲ってくるのかというのもありますね。
 用済みになったら、それまでの貢献を理由に悠々自適の生活を送りますか?」
「本当に、嫌なことを聞いてくれるわね……」

 本来、生き延びることを第一に考えるのがパイロットだった。そしてそれからどうするのかは、生き延びてからの課題のはずだった。それをこの場で突きつけられるのは、マリアーナとしては「反則」と文句の言いたい物だったのだ。
 それが分かっているから、シンジはマリアーナの答えを待たずに話し出した。

「あくまで僕の場合、将来を考えた時にヘラクレスのパイロットが無かったと言うことですよ。
 別に皆さんの誇りを穢そうとは思っていませんし、これはこれで価値のあることだと認めています。
 2回の戦いで、100万人以上の命を救ったのですから、まともに考えれば凄いことだと思います。
 でも、僕にはそれが一生の仕事だと思えないだけのことなんです」
「そのくせ、この前の戦いではあんな無謀なことをしてくれたわね」

 一生の仕事と思っていないくせに、一つの作戦に命を掛けてくれたのだ。そこに矛盾があるとマリアーナは指摘した。その指摘に苦笑を浮かべたシンジは、「矛盾はないと思いますよ」と言い返した。

「ギガンテスを舐めているつもりはないと言いましたよね。
 だからやる以上は、片手間ではいけないと思っていますよ。
 あそこでFifth Apostleを倒さなければ、それこそ迎撃体制は壊滅していたと思います。
 無謀と言いましたけど、Fifth Apostleを倒す事に関しては、一番可能性の高い作戦だったと思いますよ。
 と、この前の話を出してくれましたから、こちらから逆に質問です。
 あの場面で、皆さんだったらどう対処していましたか?
 しっかり考える時間がありましたから、他に有効な方法を考えているんでしょう?
 ちなみに、日本は台風に襲われているとでも考えてください」
「……たぶん、同じようにカヲルを沈めるでしょうね」

 マリアーナの答えに対して、シンジは渋い顔をして軽い不快感を現した。

「その答えを聞かされると、色々と疑問を感じてしまうんですよ。
 先ほど命がけで戦っていると聞きましたけど、かけ方が間違っていませんか?
 毎日続けている訓練は、何のための訓練なんですか?
 真下に弱点があると分かっているんですから、他の方法だって考えられるでしょう?
 命がけって言うのなら、知恵も総動員すべきだと僕は思っていますよ。
 まさかとは思いますけど、自分の命を人任せにしていませんか?」
「私はっ!」

 身を乗り出し、大声を出そうとしたマリアーナを、両側からエリックとライラが押さえつけた。そんなマリアーナに、シンジは穏やかに言葉を続けた。だが言葉は穏やかなのだが、中身はとどめを刺す物となっていた。

「ローワー湾での作戦は、僕が提案した物です。
 そして状況に応じて修整を行ったのも僕自身です。
 そして僕の考えが足りなかった部分については、アサミちゃんが補ってくれました。
 提案への肉付けは、新生サンディエゴ基地の方々がしてくれました。
 そうやって、難敵Fifth Apostleを犠牲無しで倒す事が出来たんです。
 カヲル君を沈めると言う答えの裏に、皆さんはどれだけ他の方法を模索しましたか?
 それを他人任せにしていないのかと、僕は指摘したんですよ」

 そこで挑発、若しくは侮蔑するのなら、彼らのしている訓練への感想を言えば十分だろう。最善を尽くすために、日々訓練に努めている。その事実だけを取り上げれば、否定をすることは出来ない。だが訓練の中身や目的まで踏み込んだ時、それが本当に効果的な物なのかを考える必要がある。
 「楽な方に逃げていませんか?」と言うコメントは、シンジの口から出かかった言葉だ。それは中途半端を口にしたマリアーナへの、必要以上に効果的な反論となるものだった。ただそれを口にする代わりに、マリアーナの言葉に含まれていた自分に対する挑発的な部分を指摘した。

「私たちは、命がけで戦っていると言いましたよね。
 マリアーナさんから見て、僕達の戦いは命がけに見えませんか?
 片手間で戦っているような手抜きの戦いに見えますか?」

 そこに「あなたたちならもっとうまくできますか?」を加えれば、完膚無きまで相手を打ちのめすことが出来ただろう。ただ、それをしても意味が無いとシンジは最後の言葉は口にしなかった。

「……中途半端と言ったことは謝るわ。
 でも、だからと言って何時までも民間協力でいて良いとは思っていない!」
「でも、それを決めるのは僕達であり、日本の迎撃組織ですよね。
 ばらしてしまうと、先輩二人は高校卒業まで待って欲しいと思っているようですよ。
 その気持ちがよく分かるから、僕もそれに協力しようと思っているんです。
 言わせて貰えば、僕はあまり自己犠牲の精神を持っていませんからね」

 そう言って少し口元を歪めたシンジに対して、どこがだとマリアーナは文句を言った。高知の出撃、そしてローワー湾の戦い、いずれにしても自己犠牲を前提した物にしか見えなかったのだ。それをした張本人に、「自己犠牲の精神が無い」と言われて信用などできるものか。

「でも、普段の生活は犠牲にしていないでしょう?
 戦い方は、あれ以外に思いつかなかったと思ってください」

 ストイックさの欠片もないのが、目の前に居る自分だとシンジは自嘲した。結局「民間協力」に噛みついたマリアーナは、見事シンジに返り討ちにされたことになる。ただ、返り討ちにされた割に、それを引きずっては居ないようだった。意外にすっきりとした顔で、「ありがとう」とマリアーナが答えたところで、この問題は終わりとなった。

 そのやりとりを、葵は自衛隊からの同行者として観察することとなった。当初考えていた通り、もはや碇シンジに通訳は必要は無かったのだ。そしてその観察者の目から見て、パイロットとの会話は格の違いを見せつけたものだった。むしろ、指導者と駒の違いと言う方が正しいのかも知れない。世界的エース二人を心酔させたことも考えると、パイロットに置いておくのはもったいないと言えるだろう。

「だから、篠山が目を付けたと言う事ね……」

 後藤への報告書にどう書くべきか、それを葵は真剣に考えることにしたのだった。







続く

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