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シンジ達の評価が上がると言う事は、間接的に日本の評価が上がることに繋がっていた。新サンディエゴ基地司令から多大なる感謝された後藤は、ご褒美と言う事で高校生達を少し贅沢な夕食に招待することにした。ただ「着ていく服がない」と言うマドカの主張で、全員が高校の制服となってしまった。このあたり、「ジャージよりはマシ」と素直に割り切るべきなのだろう。
後藤からディナーを任された葵は、機嫌良くその場を取り仕切っていた。全員が高校の制服という問題も、何を今更と頭の片隅に片付けていた。彼女にしても、サンディエゴ基地との関係修復は、抱えた荷物を下ろした気分になれるものだったのだ。二日目の問題で摩擦が目立った日米関係も、逆転満塁ホームランのお陰で、極めて良好なものになってくれた。「大統領にも報告する」と言う新司令の言葉に、誇らしい気持ちになったも確かだったのだ。
「残りの二日ですが、最終日はお役ご免と言う事になりました。
明日は、碇君だけが対応してくれれば良いらしいんですけど……
と言うことで、ここを引き払っても良いんですが……」
どうします? と聞かれた女子高生達は、一人の例外もなく「残る」と答えてくれた。その答えに、いち早く反応したのはアサミだった。
「えー、先輩達は先にニューヨークに行ってくれても良いんですよ。
世界一の大都会だから、色々と見るところも沢山ありますよ」
先輩達とアサミは主張したが、その中には当然キョウカも含まれていた。つまり自分とシンジがサンディエゴに残ると主張したのである。その目的など、今更説明するまでもないことだろう。
それをあからさまだと苦笑したマドカは、部長としての立場を前面に出すことにした。
「今回の海外旅行は、あくまでボランティア部の公式行事なのよ。
公式行事である以上、全員で行動するのが当たり前でしょう?」
「マドカ、焼き餅を焼いたって言った方が分かりやすいんじゃないの?」
「な、ナルちゃん、どうして焼き餅を焼かなくちゃいけないのよ!
わ、私は、部長として不純異性交遊を阻止する役目があるって言っているのよ」
「私たちは、純粋な気持ちで付き合っていますよ。
ねえ、そうですよね先輩!」
「不純と言われるのは心外です!」
「だがな先輩、校則で言う節度からは離れていないか?
野暮なことを言うつもりは無いが、ほどほどにしておいた方が良いと思うぞ」
「そうよねぇ、「S高生として節度有る行動」の範囲には絶対に入らないわよね」
「そうそう、部長として校則を守らせるようにする義務があるのよ!」
「海外に来てまで、そんなことを言わないでください!」
「だからボランティア部としての公式行事と言ったでしょう?」
二人が高一と高二だと考えると、アサミの分が悪くなる。それに、あまり声高に文句を言うのは逆効果にも思えてきた。とっさに計算を働かせたアサミは、マドカ達ジャージ部員が残ることに同意した。みんなの目を盗む方法なら、いくらでもあると考えたのである。
「つまり、明日は全員ここに残ると考えて良いんですね」
「明後日、先輩と一緒にニューヨークに移動します。
葵さん、何処か面白いところに連れて行ってくれるんですよね?」
どうしてリア充の面倒を見なくちゃいけないのか。そのあたりを強く主張したい葵だったが、ツアコンというのも彼女の重要な任務の一つだった。それを盾に取られると、嫌だという答えは許されなかった。
「……ブロードウェーのミュージカルを予約します」
「お昼は?」
すかさず入ったアサミの突っ込みに、そこまで要求するかと、葵は恨めしい気持ちになっていた。だがここで期待に応えてこそ立派なツアコン、その思いを胸に、昼間のプランを提案した。
「自由の女神像の見学とか……
後は国連本部見学とかがありますけど、顔を出してきます?
たぶん、事務総長以下総出でお出迎えがあると思いますよ」
「そんな面倒なことを、僕達がしたいと思いますか?」
そうですよねと内心で認めながら、きっと行くことになるだろうと葵は考えていた。何しろ対象Iとそのご一行様なのである。サンディエゴ基地での成果が伝わっていれば、行かせろとの指示が、間違いなく上から飛んでくることだろう。下手にシカトをすると、それだけで国際問題になりかねない。
「はいはい、皆さんの希望は考慮しますが、スポンサーの意向も考えてくださいね」
だから葵は、釘を刺すことで我慢することにした。それに安請け合いすると、後で自分の首を絞めることになりかねなかったのだ。
夕食が終われば、恒例の夏休みお勉強会が開かれることになる。「家に居るよりはかどる」と喜んだのはマドカとナルで、「家庭教師より役に立つ」と感心したのはキョウカだった。そして「家庭教師より役に立つ」の言葉通り、キョウカの復習……すなわち中学のやり直しはかなり順調に進んでいた。
「それでキョウカちゃん、家庭教師って……男の人?」
まともな親なら、女性限定で家庭教師を捜しているだろう。だが篠山に一般常識を当てはめるのはおかしいと……そこまで考えたとは思えないが……マドカは家庭教師の性別を確認することにした。そしてキョウカの答えは、篠山に常識が通用しない、さもなければ別の意図があると思わせるものだった。
「男の大学生二人だが、それがどうかしたのか?
本人が言うには、T大の文1と理3らしいな」
「すっごい、バリバリのエリート候補じゃない」
少しT大から離れていることもあり、S市ではなかなかT大生にお目に掛かることはなかった。当然S高の出身者には何人か居るのだが、全員通学のためS市を出ていた事情があった。
有名大学進学を目的とした家庭教師でないのだから、エリート大学生を連れてきたのには理由があるはずだ。そしてそこに居た全員が、その理由を正しく推測することが出来た。
シンジに目を付けていても、それだけでは駄目だと考えたのだろう。将来のことを考えれば、候補は一人でも多い方がいいに違いない。裏を返せば、それだけ後継者問題は篠山にとって切実だと言う事だった。従って、マドカは後継者候補という観点で、家庭教師の感想を聞くことにした。
「それで、その人達って格好良い?」
「見た目かぁ、確かに見た目はそこそこ良いんだがなぁ……
でも俺は、ああ言った媚びを売る男は好かんのだ。
しかも媚びを売っているくせに、俺のことを馬鹿にした目で見ている。
父様達が何を考えているのは分かるが、俺はやっぱりああ言うのは嫌だ」
誰を基準にしているのが分かるだけに、マドカとナルは心から「大変ね」と言う言葉を贈った。そしてお嬢様も楽ではないと、現実の厳しさを思い知ったのだ。
そしてキョウカも、マドカたちの「大変ね」と言う言葉を認めた。
「そう、大変なんだ。
だから先輩、とても重要なお願いがあるのだ」
「一応、聞くだけは聞いてやるが……出来ないことは出来ないと言うからな」
いささか悪い予感はしたが、後輩の頼みを聞かずに断るわけにはいかない。それでと先を促したシンジに、「勉強のことだ」とキョウカは切り出した。
「今雇っている二人を首にしたい。
教え方は自己中だし、何より俺を見る目が気に入らない。
だから先輩、先輩が俺に勉強を教えてくれないか」
「お前の家に、家庭教師をしに来いと言うのか……」
「私が、それを認めると思っています?」
すかさず口を挟んできたアサミに、「だからお願いなのだ」とキョウカは答えた。
「俺は先輩のことを気に入っているが、だからと言ってアサミの邪魔をするつもりもない。
それに、アサミが真剣なのも分かっているからな」
「でも、キョウカさんの両親は別でしょう?」
キョウカの言葉に少し驚きながら、アサミはキョウカではなくその両親を問題とした。篠山家に通わせようものなら、手を変え品を変えシンジを取り込むことを考えるに違いない。キョウカは信じられても、篠山家をアサミは信じることは出来なかった。そして信じることの出来ない、過去の事情というのも知っていた。
「確かに、家に通って貰うと先輩に迷惑を掛けるかも知れないな」
ううむと考えたキョウカに、マドカが救いの手を差し伸べた。
「それだったら、良い方法があると思うわよ。
家庭教師じゃなくて、お勉強会を開けば良いんじゃないの?」
一見良さそうな提案に聞こえるが、そこにある落とし穴にシンジは気付いていた。
「ちなみに聞きますが、出席者に先輩二人は含まれていませんよね?」
「お目付役は必要だと思うわよ」
つまり、今している勉強の延長線上にあると言う事になる。どうして1学年上まで教えなくてはいけないのか、シンジはとても理不尽な気持ちに襲われていた。
「バイト代を要求しても良いですか?」
「困っている人を助けるのがボランティア部だったわよね?」
いつかシンジの言ったことを持ち出したマドカに、「分かりました」とシンジは抵抗を諦めた。確かに、先輩二人は勉強に困っている。それにお目付役が居た方が、何かと好ましいのも事実だったのだ。そうなると解決すべきは、「お勉強会」をどこで開くのかと言う事だ。篠山家で開こうものなら、いつかなし崩しになってしまう可能性もある。
「お勉強会はいいですけど、どこで開きますか?
あと、妹が心配ですから妹も参加させることにします」
そこでレイを持ち出したのは、不吉な予感に囚われたからに他ならなかった。正確に言うなら、昨年の繰り返しを恐れたという所か。何しろ中学3年の夏休みは、宿題が終わらなかったレイは、兄を巻き込んで夏休み最終日に盛大な悪あがきをしてくれたのだ。それもあって、シンジは今年こそしっかり監視すると心に決め居ていた。だがその決意にも関わらず、夏休みの半分を野放しにしてしまうことになってしまった。
「一箇所だと負担が重いから、持ち回りにしたら良いんじゃないの?
うちだったら、BWHの隅を使えば勉強できるでしょう?」
「飲んだくれの中で勉強か……」
教育的と言う事を考えると、あまり良い環境でないのは確かだった。だがマドカの言う、負担というのもよく分かる話だった。だがアサミは、個人の願望バリバリの提案をしてきた。
「先輩の家じゃいけませんか?
お料理とかだったら、私が出来ますよ」
「アサミちゃん、そのまま泊まっていくことを考えていない?」
「一応、うちの両親は厳しいんですけど」
だから大丈夫とアサミは保証したが、そこに一部嘘があるのをシンジは十分に理解していた。何しろロサンゼルスで食事した時、アサミの母親からは色々なお墨付きも貰っていたのだ。その代わり、日本に帰ったらすぐに遊びに来い、しかも泊まりでと言われていた。
後から聞かされた理由では、父親のお墨付きをもらうためらしい。親子の杯を交わすと言う言葉に、さすがのシンジも顔をひきつらせてしまった。
「とりあえず、僕の家から始めますか……
その後、適当にみんなの家を回りましょう」
「たぶん、それが一番無難なところなんでしょうね」
マドカの言葉で、結論が出たと言ってもいい。何かジャージ部の女性陣に絡め取られている、シンジはそんな気がしてならなかった。ただそれを口にするのは、贅沢者と誹られることに違いないだろう。
そしてもう一つの問題は、キョウカの問題の本質が「勉強」に無いことだった。家庭教師が「男」の品定めである以上、眼鏡に適わなければ首にする事自体問題の無いことだった。むしろ、篠山としても不適格な男を何時までも引っ張るつもりなど無かったのだ。。
だが、それに荷担すれば、その責任がシンジにも降ってくる事になる。勉強の場所をどこにするのかなど、その責任に比べれば枝葉のことでしかなかったのである。その意味では、今の家庭教師を首にする代わりに、新しい家庭教師を入れるべきだったのだ。シンジ自身そのことに気づいていたのだが、それを口にできる雰囲気ではないのが問題だった。
勉強会が終わって、アサミの部屋に行くまでの間、シンジは後藤のところへ訪れていた。無事サンディエゴとのシミュレーションが終わったのだから、その後の動きというのを確認しておこうと考えたのである。失う物のない強みから、結構好き勝手やった記憶があるのだ。結果オーライとなったが、その影響がどんなところに出るのか気になっていた。
そんな理由で質問に来たシンジに、「律儀だねぇ」と後藤は苦笑で迎えた。ちなみにすっかりとくつろいだ後藤は、寝間着にガウンという格好だった。一方のシンジは、これからのこともありカジュアルなポロシャツとチノパンだった。
「さもなければ、余程の臆病というところかな。
ああ、臆病というのは貶しているわけではないからな。
褒め言葉で言うなら、そうだな、“慎重”と言うところになるだろう」
まあ座れと椅子を進めた後藤は、飲んでみるかと冷蔵庫からビールを取り出した。大人の味に興味はあったが、この後を考えて遠慮することにした。
「この後アサミちゃんの部屋に行くんです。
お酒の匂いをさせていったら、嫌われてしまいますよ」
「そうか、この程度で役に立たなくなるとは思えないが……まあ、君は未成年だからな。
実のところ、アメリカのほうが未成年者の飲酒に対して厳しい態度をとっている」
「それが分かっているのなら、お酒を進めないでください」
代わりに差し出されたミネラルウォーターの栓を開け、ぐびりと一口中身を飲み込んだ。
「日本から連絡が入ったが、総理大臣は大層ご機嫌が良かったとのことだ。
聞くところによると、大統領から感謝の電話が入ったらしいな」
「なにか、感謝されるようなことがありましたっけ?」
日米の関係は分からないが、話のつながりから考えれば、今日のシミュレーションが理由になっていることは推測できる。だがシンジには、大統領にまで感謝される理由が思い当たらなかった。
だが後藤にしてみれば、感謝程度では生ぬるいと言うところだった。サンディエゴ基地の迎撃に関して、素人が的確な改善の指摘を行い、それが効果的であることが確認されたのである。絶対的な金看板を持っているが、その金看板が欠けても、迎撃を続行できる体制は必須なのである。その意味で、今日のシミュレーションは、その第一歩を記すことになったのだ。功績という面で見れば、巨大としか言いようの無いものだった。
「君の彼女の、人を見る目が確かだったと言うことだ。
当たり前の結果に見えるが、今を変えるにはきっかけが必要なんだよ。
特にうまく行っている物を変えるのは、非常に大きな労力が必要となる」
「シミュレーションなんだから、もっと色々と試せばいいと思いますよ」
シンジの言っていることは、確かに正論に違いなかった。だが、世の中正論だけでは回っていかないものである。特に時間が有限である以上、その時間を使うことには理由が求められるのである。
「何かを試すためには、理由というものが必要となるんだ。
そして休息時間を含め、パイロット達の時間は厳しく管理されている。
そこには、なかなか思いつきを押し込むわけにはいかないと言う事情があるんだよ。
そしてサンディエゴを含め、現在の課題は体制を厚くすることだと考えられていた。
5人に関して言えば、特に問題が無いと考えられていたんだよ」
「そりゃあ、実績がありますからね……
だとしたら、あんなことをしても良かったんですか?」
そうすると、気楽な乗りで今までやってきた事を否定したことになる。もしも実戦で悪い方に転びでもしたら、きっと責任を感じてしまうことになるだろう。
だから「いいのか」と心配したシンジに、それはこちらの責任ではないと後藤は笑い飛ばした。
「この結果を受けて、次からどうするのかを考えるのは彼らの仕事だ。
そしてこの結果を、彼らは好ましいことだと受け取っている。
だから大統領が、わざわざ感謝の電話をしてきたのだろう」
「だったら良いんですけど……」
ほっとした様子を見せるシンジに、後藤はふっと口元を緩めた。素人と公言して憚らない少年が、今や関係者の間では天才とまで言われているのだ。その天才が、自分の目の前で叱られないかと心配してくれている。そのアンバランスさが、後藤にはとても面白く映っていた。
「葵から聞いたが、明後日の予定だが……」
「国連本部見学って奴ですか?」
嫌だなぁと言う顔をしたシンジに、後藤は「高校生だろう?」と口元を歪めた。
「今度の海外合宿は、確か学校に対してレポートを提出することになっていたよな?
だったら、国連本部見学ぐらいしておいた方が良いんじゃないのか?」
そこまで言って、後藤はわざとらしく「そうそう」と手を叩いた。
「カサブランカ行きが、JFKからナショナルに変更されそうだ」
「JFKはニューヨークだと分かりますけど、ナショナルはどこにあるんです?
まさか……ワシントンDCとか言わないですよね?」
「そこでDCを思い浮かべたのが変更の理由になっている。
ホワイトハウスやペンタゴンも見学できるぞ。
学校に対しては、合宿の成果を大いにレポートできるな」
ははと笑った後藤に、なんでとシンジは文句を言った。
「目立つのは駄目だって言いましたよね?」
「だから、全部見学なんだよ。
見学者として専用のガイドが付いて、内部を案内してくれる。
適当に記念写真を撮って、偉い人のお話を聞かせて貰う。
立派な見学だろう?」
「二度も大統領に会ったら、それこそ不自然ですよ……」
はあっとため息を吐いたシンジだったが、妥協せざるを得ないのは理解していた。自分達を守るためなら、どこまでも“我が儘”を言う事も出来るが、配慮していると言われれば、その我が儘も言う事は出来ない。
「立派に、政治的に利用されていると言うことですね」
「まあ、これも社会勉強だと思ってくれればいい。
何でも出来る、きちんと目配りできるというのは錯覚だと言う事だ。
色々と保険を掛けたつもりでも、外堀を埋められたらどうにもならないんだなぁ」
楽しそうに語る後藤に、シンジはがっくりと肩を落とした。
「何でも出来るだなんて思い上がったことは考えていませんよ……」
「軍人や政治家って奴は、科学者ほど扱いやすくないってことだ。
政治家や俺たちの敵は、これまでずっと人だったからな。
だから人を動かすことについては、ずっと研究されているんだよ。
気持ちよく踊れるよう、ちゃんと環境を整えてやるさ」
「つまり、これから“も”踊らされると言うことですね……
なんで、そんな気が滅入ることを教えてくれるんですか」
そう言って文句を言ったシンジに、これも研究成果の一つだと後藤は笑った。
「君なら、すぐに俺たちの意図を気付くことだろう
だとしたら、先にばらしておいた方が問題が小さくなる」
「知恵比べをしているつもりに出来るから……ですか」
まんまと手のひらの上で踊らされている。もう一度文句を言ったシンジに、「自分が呼んだわけじゃない」と後藤は言い返した。
「彼女の部屋に行く前の時間潰しにする方が悪いんだよ。
葵なんざ、「リア充に死を」とか息巻いているぐらいだぞ。
君の行動は、結構回りに敵を作っていると言う事だ。
まあ、9月になれば嫌ってほどそれを知ることになるだろうな」
「9月って……学校があったぁ……」
アサミがジャージ部に入っただけでも、大勢の男子から目の敵にされたのだ。これで本当に付き合っていると言うことがばれたら、一体どう言うことになるのだろうか。後藤の指摘でそれを思い出したシンジは、真剣に対策を考えなければならないと頭を悩ませた。
「危ないのは学校だけじゃないからな。
なんだったら、俺の所で身辺警護を付けてやろうか?」
「暗い夜道や人通りの少ないところに行かないように気をつけますよ」
日本に帰るのが怖くなった。全ては自業自得と言うのが、特に手に負えないことだった。
サンディエゴ基地での6日目は、シンジにとって一番ハードな一日となる予定だった。今更新たなヒアリングは不要と、ほぼ1日ディスカッションに充てられたのである。その中身を考えれば、マドカ達が不要とされたのも理解できるものだった。
そこでシンジが思い知らされたのは、自分の能力の限界と、相手の真剣さだった。子供の思いつきから行われた前日のシミュレーションなのだが、その結果が詳細に分析され、分かりやすい資料として提示されたのである。そしてこれまでサンディエゴ基地のとってきた作戦との比較が、ここまでするかと言うほど詳細に行われていた。その点で、「実戦で悪い方向に転んだら」と言うシンジの心配は、全くの杞憂と言う事だった。
「ところでミスター碇、何かコメントはありますか?」
回りに居るのは、しっかりと軍服を着込んだ大人達だった。その中に独り、前夜とは色違いの茶色のポロシャツと、紺のチノパンを穿いたシンジが座っていた。とても居心地の悪い環境の中、シンジは大人達から意見を求められたのである。
分析した方からは、第一人者を見るような目で見られてしまった。それもまた、シンジにはどうしようもないプレッシャーとなっていた。回りを見渡すと、アスカ以外は全員10歳以上年上ばかりである。通訳に堀井と葵、そして後藤も加わってはいたが、「なぜ自分がこんなところにいる」と不安な気持ちになっても仕方の無い状況だったのだ。
「ええっと、コメントと言うより驚いたという方が正しいのですけど……
こんなに詳細な分析が、たった一晩で出来てしまうんですね」
「我々は、時間とも戦っています!」
だから、一秒たりとも無駄には出来ない。それを受け取ったシンジは、もう一度凄いと感心してしまった。そして感心しながら、どうして自分がこんな所にいるのかと疑問を感じてしまった。
「でしたらコメントと言うより提案なんですけど……
昨日とったフォーメーションを、こう言った感じで変形させてみてはどうでしょう?」
テーブルの中央に置かれた駒を動かしたシンジに、それだったらと男……説明に立ったリアム・サザーランドは新しいデータを示した。ちなみに年齢は40ほどの、いかにも頭の良さそうな白人だった。
そこには、シンジが示した提案を評価したデータが示されていた。
「すでに我々が評価しています。
ミスター碇が昨日示されたものには劣りますが、なかなかの好結果を示しています」
リアムの言葉に、集まった軍人達からは「おおうっ」と言う様なざわめきが起きた。それを好意的に解釈するなら、的確な指摘に対して驚きを示したという所だろうか。もっともシンジにしてみれば、居心地の悪すぎる反応としか言いようが無かった。
「ええと、つまり他にも色々と検討されたと言うことですよね?」
「ミスター碇のサジェスチョンに従い、考え得るパターンを検証してみました。
ですが、昨日の結果を上回る物は存在していません。
現時点でと言うエクスキューズが付きますが、昨日示していただいた作戦がベストと言えるでしょう。
付け加えるなら、合同で行ったシミュレーションは、凄まじいの一言でした。
過去カサブランカ基地と行った作戦では、あそこまでのスコアは叩き出せなかった。
これでギガンテスの多数襲撃への対処に、確かな目途が立ったと言えるでしょう」
そこでとリアムが持ち出したのは、カサブランカを含めた合同作戦の可能性だった。これまでも、大規模進攻ではしばしば共同作戦が行われてきていた。それを考えれば、リアムが3者合同作戦を持ち出すのもごく自然なことだった。
「今回の結果を基に、いくつかの作戦を想定してみました。
是非ともミスター碇の意見を頂きたい」
そうやって期待した目で見るのは止めて欲しい。しかも唯一同年代のアスカも、期待のこもったきらきらとした眼で自分のことを見てくれているのだ。もう一度勘弁して欲しいと嘆いたシンジは、この場において妥当な、そしてある意味墓穴を掘った答えを返した。
「すみません、僕はカサブランカ基地のことを良く知らないんですが……」
「でしたら、1時間ほど休憩を入れれば宜しいでしょうか?
ミスター碇は、僅か1時間で我々サンディエゴ基地の分析を終えられたと聞いていますので」
僅か1時間というリアムの言葉に、居合わせた全員から小さなどよめきが上がった。その短い時間で出された結論が、自分達に大きなブレークスルーを与えてくれたのだ。ただ聞こえてきた「ジーニアス」と言う囁きに、シンジの気持ちは大きく落ち込むことになった。
絶対に後藤が一枚噛んでいる。証拠はないが、そう確信するに値するリアムの言葉だった。だが今一番の問題は、この場をどう乗り切るのかと言う事だった。サンディエゴの時に手伝ってくれたアサミは、綾部の手配でサンフランシスコ観光をしていたのである。
「手伝ってくれたアサミちゃんが居ないんですけど?」
隣に居る後藤に、シンジは「だから無理」と囁いた。だがそれを受け取った後藤は、とても問題の多い断り方をしてくれた。
「カサブランカの分析は、まずカサブランカに対して公開するのが筋でしょう。
おそらくあちらさんも、彼の訪問を手ぐすね引いて待っていると思います」
「サービスはここまでと受け取ればいいのかな?」
それまで黙っていた、新基地司令ルーカス・ゲイツが、不機嫌そうに聞いてきた。ゲイツは、口元の白い髭の目立つ目つきの鋭い壮年の男だった。その威圧感は並ではなく、シンジの背中に嫌な汗が大量に流れたほどだった。
だがそれを受け取った後藤は、更に相手を刺激するような言葉を口にしてくれた。
「彼は、十分以上こちらに貢献したと思っていますがいかがでしょうか?
それから将軍、彼が民間人であることをお忘れ無く。
遊びたい盛りの高校生に、義務だけを説いても動いてくれませんよ」
「いやっ、後藤さん、それは言いすぎです」
すかさず文句を言ったシンジを手で制し、気を遣って欲しいと更に過激なことを口にしてくれた。
「このような場は、彼のような子供には可哀相です。
しかも将軍、あなたの威厳の前に彼は冷静では居られなくなる」
「威嚇するつもりなど無かったのだがな……」
フンと鼻を鳴らしたゲイツは、「失礼した」とシンジに謝った。ただ謝られた方としては、とても謝られた気分になれない状況だった。
「確かに、3者合同作戦はまだ合意されたものではなかったな。
スキームも決まらないうちに、先走りするのは宜しくないだろう。
我々としては、米日合同作戦の体制確認ができたことで満足しておくべきだな」
「ご理解いただけて幸いです。将軍」
遜った言い方をした後藤に、ゲイツはもう一度鼻を鳴らした。今回の騒動の黒幕が誰なのかなど、ゲイツには初めから分かっていたのだ。「英雄」の不満を煽り立て、合衆国大統領まで動かしてくれた。それが軍の利益にも繋がっているのだから、仕掛けとしては心憎いとしか言いようの無い物だったのだ。
これでギガンテス迎撃に関する日本のプレゼンスは、高知の奇跡以上に高まったのは確かだった。奇跡はあくまで奇跡でしか無く、将来の展望とは結びつかない物だったのだ。そこにパイロットの優秀さに加え、サポート体制も万全なのだと、後藤はアメリカに対して証明して見せたのだ。
「いささか時間は早いが、彼を拘束するのはここまでと言うことにしよう。
ところでミスター碇、君達を夕食に招待したいのだが受けてくれるだろうか?」
「夕食……ですか?」
「君達の貢献に対して、感謝の気持ちを示したいのだよ。
なに、あまり堅苦しくとってくれなくてもいい、ごく少人数での会食にしようと思っている」
にこりともしないで言われると、なぜか脅迫を受けている気持ちになってしまう。もっともそれが無くても、ここで断るのは礼儀に反することになるだろう。だからシンジは、「喜んで」とゲイツの招待に応じることにした。
そこで初めて表情を崩したゲイツは、もう一つと言って、とても微妙な提案をしてきた。
「夕食までの接待を、西海岸のアテナに任せようと思うのだがどうかね?」
「どうかねって言われても……」
ガールフレンドを理由にすれば、角を立てずに断ることは出来るだろう。だが期待のこもった眼差しで見られると、断るのもなぜか申し訳のない気持ちになってしまう。
「ガールフレンドの居る君なら安全そうだからな。
彼女の息抜きに付き合ってはくれないか?
何しろ彼女は、同年代と遊んだことがないんだよ」
シンジにだけ聞こえるように言ったと言う事は、ちゃんと言葉が分かることがばれていると言う事になる。そうなると、ますます断りにくくなってしまう。だから、アスカにエスコートして貰うと言うのを、条件付きで受け入れることにした。
「夕食の前までで良いんですね?」
「多くは期待しないよ。
ちなみに、偽装工作は我々の得意とするところだ。
彼女は、基地で訓練に勤しんでいることになっている」
そこまで言われれば、断ることは不可能としか言いようが無い。従って、分かりましたと答えることになったシンジに、「良かった」とゲイツは顔をほころばせた。
「パイロットだからと言って、生活の全てを犠牲にするのは間違っていると思っているのだよ」
本来は、そこに「いくら事情があっても」と付け加えられるべきなのだろう。その部分を隠したため、いささかゲイツの言葉も言葉足らずになっていた。ただこの場で口にして良いことではないと、シンジは拘る事はしなかった。少なくとも、組織としてまともだと言う事は理解できたのだ。
従って、シンジに残された問題は、ごく個人的な事に限られることになった。小声で「ちくりますよ」と葵が楽しそうに言っているのを見ても、アサミにばれることは必然なのだろう。後からどう言い訳をするのか、それを用意するのはシンジの仕事に違いなかった。
頻繁に軍用車が出入りする関係で、基地からの脱出はさほど苦労することはなかった。兵員輸送用のトラックで基地を出た二人は、少し離れたショッピングモールで小型のワゴンに乗り換えた。その中で上に着ていた軍の制服から私服に着替えた二人は、そのまままっすぐアナハイムのディズニーランドへと向かった。
アスカが有名人と言うこともあり、特徴的な赤毛は黒のウイッグで隠すことにした。隣に無名のシンジを置けば、その程度で立派な高校生カップルに変身することが出来る。本人は訓練中と言うことで、パパラッチもノーマークであることが確認できていた。
「アサミさんでしたよね、彼女には私からも説明しておきますから」
ディズニーランドのゲートで目を輝かせながら、アスカはシンジの都合という物を気に掛けてくれた。ディズニーに二人で来るというのは、誰の目から見てもデートに違いないだろう。だから言い訳が必要なのだと、アスカは主張したのである。
それを楽しそうに言われると、シンジとしては何も言えなくなってしまう。ゲイツに言われなくても、それまでのサンディエゴ基地が窮屈な場所だというのは分かっていたのだ。パパラッチを気にしていたら、外で羽を伸ばすことも出来ないだろう。「デートするのは初めてなんです」と言われれば、悪い気がしないのも確かだった。
「でも、初めてのデートが僕なんかで良かったんですか?」
「今のままだと、デートもしないで歳を取ってしまいそうでしたから」
それに比べたらずっとマシ。そう言われた気がしたシンジに、「冗談です」とアスカは笑った。
「碇さんは格好良いと思いますよ。
そりゃあ、あと少し背が高ければとか、彫りがもう少し深いほうがとか……
ええっと、見た目のことじゃなくて、持っている雰囲気とか大人っぽさとか」
ええっとと真剣に考えられると、何か良い所を必死で探されている気がしてしまう。確かに外人を基準にしたら、顔はのっぺりしているだろうし、背もあまり高くはないだろう。それぐらい自覚しているから、改めて言ってほしくはなかった。しかも「見た目じゃない」と言い切られると、とどめを刺された気がしてしまう。
出だしからそうきますか。少し落ち込んだ気持ちを抱いて、シンジは夢と希望の国のゲートを再びくぐったのだった。そしてその後の行動は、予想とは全く違うものになったのである。
そしてその夜、パーティー後の勉強会で、シンジは案の定女性陣に責められることになった。間違いなく葵がちくったのだろうが、どうチクったのかがとても気になってしまった。
「碇くぅ〜ん、さすがにアスカさんに手を出すのはどうかと思うわよ」
にやにやと笑うナルに、これではまだ情報が不足しているとシンジは考えた。マドカならいざ知らず、ナルの場合、話は必ずややこしい方に持って行ってくれるのだ。だからシンジは、単刀直入討ち死に覚悟でアサミに突撃した。
「ええっと、これはだね。
ゲイツさんって言う新しいサンディエゴ基地司令の人に依頼されて……」
色々と説明しようとしたシンジだったが、途中でアサミに遮られてしまった。
「別に、言い訳をしなくても大丈夫ですよ。
つまらない相手と浮気をしたわけじゃありませんから。
それに、面倒な相手でもありませんから気にしていませんよ」
「つまらない相手、面倒な相手……」
浮気という言葉以前に、「つまらない」とか「面倒な」と言うキーワードが気になってしまった。と言うのも、さほどアサミが怒っているように見えなかったのが理由だった。
そしてシンジの疑問に、「そうでしょう」と言ってアサミは説明をつけてくれた。
「私がなんでもさせてあげるのに、つまらない相手と浮気されたら癪じゃないですか。
アスカさんだったら、世界的に有名な「西海岸のアテナ」ですから相手に不足はないと思いますよ。
それにアスカさんだったら後腐れがないから、面倒くさくなくていいと思いますからね。
ところで先輩、まさかなにもしないで帰ってきたと言うことはありませんよね?」
「なにもしないでって……ディズニーのアトラクションを回り倒しただけだけど。
園内を走り回ったから、驚異的な数を回ったと思う……よ」
もしかして、手を出さなかったのは失敗なのか。とてもそんな雰囲気ではなかったのだが、男として問題なのかとシンジは真剣に悩んだ。彼女にまで「まさか」と言われるということは、手を出すのが当然と言うことになるのだろうか。
「先輩のことだから、きっとそんなことだと思いました……」
ふっと息を吐きだしたアサミは、マドカ達に向かって「私の勝ちですね」と宣言した。
「ねえ碇君、本当にアスカさんに何もしなかったの?」
「碇先輩、それは日本男子として恥ずかしいことだと俺は思うぞ!」
「そうよ、きっとアスカさんも期待していたと思うのよ!」
「つまり、先輩達は僕をダシに賭けをしていたということですね?」
話のつながりから行けば、アスカに手を出すかどうかが賭けの対象になっていたのだろう。そしてアサミ以外の3人は、手を出す方に賭けていたと言う事になる。人のことをなんだと思っている。シンジとしては、そう強く主張したいところだった。
ただ喜ぶべきことがあるとすれば、アサミが手を出さない方に賭けたということだろう。さすがは恋人、自分のことを信じてくれている。だがそんな喜びも、ナルの一言でぶち壊しになってしまった。
「アサミちゃんの言った通り、碇君はヘタレだったか。
きっとアスカさん相手だったらオオカミになれると思ったのに」
「アサミちゃん、僕がヘタレだって?」
「そんな事は言っていませんよ。
私のことを愛してくれているから、浮気なんて絶対にしませんって言ったんです」
しれっと言い返されると、それ以上の追求もできなくなる。しかも「愛している」と面と向かって言われれば、つい頬も緩んでしまうのだ。そのあたり、うまく操縦されていると言えるのかもしれない。
「でも男の人って、下半身は別人だって言うでしょう?」
「男と女は、そのあたりの本能が違うと母様に聞いたぞ。
女は優秀な遺伝子を残すため、決めた相手としか交わらないと言っていた。
逆に男は、自分の遺伝子をばらまくため、たくさんの相手と交わると言っていたな」
「ただ単に、時間が短くて何も出来なかったとか。
あっ、でも碇君が早ければ問題ないのか。
アサミちゃん、そのあたりはどうなのかしら?」
にやにやと笑って聞くナルに、「おばさんですか?」とシンジは言い返した。
「なんか、真昼間の道端で猥談をするおばさんに見えますよ」
「こ、この、ピチピチの女子高生を捕まえておばさんって言うかっ!」
おばさんに反応したナルに、シンジは更に追い打ちをかけた。自覚があるのか、意外に効果的な攻撃となってくれたようだ。
「ピチピチなんて死語を使うから、おばさんなんですけど……
言ってて恥ずかしくありませんか? おばさん。
もしかしてピチピチって、食べ過ぎて太ったことを言っています?」
「おばさんって言うなっ!
そ、それに、こっちに来て1キロしか増えていないわよ!」
「1キロ?」
いかにも胡散臭そうな顔をして、シンジはマドカの方へと視線を向けた。
「ナルちゃん、3キロ太ったって言っていなかった?」
「随分とサバを読んだんですね」
ふっと口元を緩めたシンジに、ナルは意地になって「胸についたのだ」と言い返した。
「はいはい、そういう事にしておきますか。
ちなみに鳴沢先輩、水3キロってペットボトル6本分の量がありますからね。
それからもうひとつ、人間の体は水よりも軽いですからね。
3キロ分も胸について……それですか」
思いっきり哀れみを込め、シンジはジャージ姿のナルの胸に視線を向けた。ちなみにナルは、ジャージ部女性陣の中で一番男らしい胸をしていた。もう一つおまけを言うのなら、次に男らしいのはマドカだったりした。
「AAでしたっけ?」
「し、失礼ねっAはあるわよ!」
「アサミはCだったっけ?」
「先輩のお陰で、Dになったかもしれませんね」
「なあんだ、俺はFだぞ!」
一番サイズが大きいと勝ち誇ったキョウカに、「お前は間違っている!」とシンジは言い放った。
「清楚なお嬢様というのは、巨乳ではいけないのだ」
「な、なんとぉ!
せっかく努力してきたのに、そんな所に落とし穴があったのかぁっ!」
ああと頭を抱えたキョウカに、「乗りが良いのね」とマドカが馬鹿話を止めに入った。
「そんなことより、日本に帰ったら忙しくなりそうなのよ。
マコトちゃんから、いつ帰ってくるのかって催促のメールがあったわよ」
「マコトちゃんって……梅津先輩でしたっけ? 映画研究会の」
「そう、そのマコトちゃんよ。
早く俳優が帰ってこないと、映画が撮れないってメールに書いてあったわ」
「今年も、人を晒し者にするつもりですか……
お陰様で、去年は散々からかわれたんですよ」
その悪夢が蘇ったのか、シンジはおもいっきり嫌そうな顔をした。
「からかわれたって、どんなシーンがあったんですか?」
「マドカちゃんと碇君の濃厚なラブシーン」
「本当ですかっ!」
少し大げさに驚いたアサミに、「真似事」とシンジはすぐに言い訳をした。
「ただ、編集が想像力をかきたてるようにできていたんだよ。
こうやって顔を近づけて……」
アサミ相手なら、間違ってキスして問題にならない。そういう意味もあって、映画の再現とアサミの頬に手を当て顔を近づけた。そしてあと一歩踏み込めば唇が触れる、そこまで近づいたところでシンジは説明を入れた。
「ここで画像を切り替えて、先輩が背伸びをしているシーンに切り替えたんだよ。
しばらくそのシーンを静止画で続けて、そこから何故か保健室のベッドにシーンが変わって。
さらになぜか、花瓶の花がポトリと落ちたんだよ」
「なにか、とても古臭い表現をしてくれたんですね。
私だったら、そんなイメージシーンを使わなくてもちゃんと応えてあげるのに。
芸術のため、先輩のためならどんな濡れ場だって大丈夫ですよ」
「アサミちゃん、学校でそんな映画をとったら退学になっちゃうからね。
と言う話はおいておいて、今年はSFチックで行きたいらしいのよ」
「SFチックですか?」
また素人に難しいことを。そう言って呆れたシンジに、「すごく微妙なモチーフ」とマドカは苦笑を返した。
「近くにヘラクレスの基地があるでしょう?
だから私達を、ヘラクレスのパイロットにした物語を作るっていうのよ」
「なんです、その微妙過ぎるストーリーと配役はっ!」
本物を使って、偽物の映画を作ろうというのだ。知らないからこそできる、大胆過ぎる企画に違いなかった。
「タイトルが、ジャージ部5高知の奇跡って……何のノリなのこれ?」
「B級……と言うかC級にもなっていませんね。
でも5ってことは、まさか私まで配役に入っていませんか?」
本物という意味なら、アサミもまた本物の俳優だったのだ。その本物を、部活以前の研究会の同人映画に出そうと言うのだ。モチーフの微妙さと合わせ、怖いもの知らずと言えたのかもしれない。
「アサミちゃんも、ジャージ部部員なんだから諦めることね。
ジャージ部のモットーは、頑張っている人を応援するだからね。
映画研究会は、私達が応援しないと俳優が集まらないのよ」
「なにか、とても情けなくなる話ですね……」
「まあ、と言うのが一つ目なんだけどね」
「まだ、有るんですか!?」
入る部活を絶対に間違えた。恋人を捕まえたというポイントはあったが、夏休み後半の過ごし方に、アサミは今更ながら後悔することになったのだった。
学生のニューヨーク観光と言えば、自由の女神見学や国連本部見学というのは定番中の定番に違いない。その定番に従って観光をしたS高ジャージ部一行は、夜の部の前にレストランへとやってきていた。8時からと言ういささか遅い開演時間に合わせるため、少し早めの食事を取っておこうというのである。ちなみに全員、クラブ行事と言う事で制服を着用していた。
「でもさぁ、学校にどう報告しようか……」
その食事も終わり、デザートを突きながらナルはアメリカ滞在の報告を持ち出した。ボランティア部の正式行事として許可を貰った以上、学校への報告義務を忘れる訳にはいかない。生クリームののっていない、とてもシンプルなフルーツセットを突いたナルは、やり過ぎよねと堀井と葵の顔を見た。ちなみに他のメンバーは、シンジを除いて生クリームたっぷりの豪華なデザートセットを食べていた。
そして「やりすぎ」と言うナルの言葉を、マドカとアサミも肯定した。
「正直に報告したら、校長が目を回す可能性があるわね」
「普通なら、信用されない報告になりますけど……」
アサミの言葉に、「そうなのよね」と高3の二人は頷いた。だがアサミの言う“普通”を否定する証拠が、しっかりと残っていたのだ。
「アメリカ大統領や国連事務総長との記念写真があるんだものね……」
「先輩なんて、国連事務総長と並んで座っている写真ですからね」
まるで何処かの首脳会談の様に、国連事務総長グエン・ホーと談笑している写真まであるのだ。証拠としてこれ以上のものは無いが、まともに出して良いものとは思えなかった。
「一応、報告書は当たり障りのない物を考えていますよ。
写真だって、選べば差し障りのない物がありますから」
「アスカさんとデートしている写真は?」
「黒のウィッグを付けていますから、一見ではアスカさんと分かりませんよ。
それに、どんな理由でその写真を付けますか?
たぶん、初日の懇親会だけで十分な威力があると思いますよ」
ここまで散々鍛えられたこともあり、ナルがからかう程度では動揺しないだけの精神力が培われてきた。そんなシンジにつまらないと文句を言い、ナルは少し酸っぱいグレープフルーツを頬張った。
「で、明日がホワイトハウスとスミソニアン博物館でしょ?」
「あと、ペンタゴンもコースに入っています。
学生として、極めて妥当な見学場所になっていますね」
「私たちって、すっかり有名人?」
そう言って戯けたナルに、「間違ってはいませんけど」とシンジは微妙な答えを返した。
「有名になったのは、一部軍関係にだけですからね。
絶対にテレビとかの取材は来ませんから勘違いしないように。
それから鳴沢先輩、テレビに出たかったら花澤君のネタがありますよ」
「あー、あれはパスだわ。
ああ言うやらせって、私のモットーに反するのよ。
碇君に任せるから、適当にやっておいてくれればいいわ」
花澤キラの入部を認めたのは、シンジではなくマドカとナルの二人のはずだった。それなのに、面倒をみんな自分に押しつけてくれるのだ。シンジでなければ、いつか切れてもおかしくない扱いだった。もっとも、それを当然と考えるのも、シンジでなければあり得ない話だった。
「まあ、3年はそろそろ部活引退ですから仕方有りませんけど……
あれって、いつまで続ければ良いんでしょうね?」
「花澤君が卒業するか、ヒ・ダ・マ・リのコーナーが無くなるまでじゃないの?」
「ちなみに、結構評判がいいそうですよ」
アサミの言葉を借りるなら、当分コーナーは終わらないと言う事になる。現状シンジとキョウカの二人しか正規部員が対応していないことを考えると、番組のコーナーより先にジャージ部がつぶれることになるだろう。もっとも、その前に暴風が吹き荒れることは確定していたのだが。
「なるようになるとしか言いようが無いのか……」
そのあたりの諦めは、高校に入ってからしっかり身についた物だった。自分に降ってくるうちは、まだまだ我慢できるとシンジは考えていたのである。
そんな話をしていたら、席を外していた葵が戻ってきた。そこで時計を見た葵は、席に座り直して「新しい情報」と話を切り出した。
「明日ワシントンDCに行く予定は変わらないんだけど。
そこから先の予定が、いまちょっと不明確になっているのよ。
理由はとてもシンプルで、カサブランカの天候悪化。
ちょー大型の低気圧の影響で、しばらく航空機が離着陸できないらしいの。
と言うことで、アメリカで天候の回復を待つか、さもなければヨーロッパまで移動するか。
両基地がただ今相談中って所なのよ」
「いい加減アメリカも飽きたから、ヨーロッパと言うのが魅力的なんですけど。
もともと、ヨーロッパって予定に入っていませんでしたよね?」
シンジの意見に、「贅沢な」と内心葵は憤っていた。ただそう言いたい理由も分かるので、真面目に協議の理由を説明した。
「明日ぐらいから最低二日、カサブランカ基地が機能不全になるのよ。
あれだけ巨大な施設だから、バックアップも簡単じゃないし……」
「つまり、何かあった時に僕達の居場所が問題になるってことですか」
「どう言うこと?」
早速食いついたマドカに、高知を覚えているかとシンジは聞いた。
「あれを忘れるってことはないと思うわよ」
「それを前提に聞きますけど、どうやって高知まで移動しました?」
「どうやってって……もの凄く大きな飛行機ででしょ?」
「凄い台風の中、飛べると思います?」
そうやってかみ砕いてくれると、話がとても分かりやすくなる。なるほど飛べないと納得した所で、マドカの中にもう一つ疑問が生じた。
「それで、どうして私たちの居場所が問題になるの?」
「戦力として、数に入っていると言う事ですよ。
カサブランカ基地が封鎖状態だと、サンディエゴしか動けなくなりますよね。
2箇所同時とか大規模進攻に備えて、使えるところに居てくれた方がありがたいって事ですよ」
なるほどと納得するマドカとナルに、自覚が足りていないと葵は呆れていた。自分達が世界的に有名で、両基地から招かれる立場だというのを理解していない。それを理解していれば、シンジのようになぜ足止めされるのか理解できるはずなのだと。
だがそう考えたところで、本当にそうなのかと疑問を感じてしまった。どちらが高校生として正常なのかを考えると、マドカ達の方が正常に思えてきたのだ。そうすると、目の前の色男は高校生としてどうなのだろう。
「葵さん、僕の顔に何か付いています?」
「いやぁ、どこで年齢を誤魔化したのかなって」
「なんですか、それ」
突拍子もない答えに、なんなんだとシンジは文句を言った。だがその文句に取り合わず、「決定待ち」と葵は繰り返した。
「そろそろ時間になりますから、劇場に移動しましょう!
それから言葉が分からないからって眠らないように。
本場ブロードウェイのミュージカルなんですからねっ!」
ららと歌うように立ち上がった葵を、高校生達はとても醒めた視線で迎えた。その心を覗くと、世代の違いの大きさに呆れたと言う所だろう。
眠らないようにと葵に言われたが、初めて見るミュージカルはとても眠くなるどころのものではなかった。美しい舞台、そして躍動する俳優たち。芸能界に居たアサミですら、感動で涙を流すほどの素晴らしさだった。
「こんな素晴らしい世界があるんだったら、芸能界を引退するんじゃなかったと思います!」
「そうよね、私も舞台に上がってみたいと思ったわ」
感動が冷めやらないのか、女子高生たちのおしゃべりはホテルについても続いていた。あまりの興奮状態に、シンジは“塾講師”を諦めたほどである。彼女たちが興奮する理由に理解できただけに、好きにさせてあげようと考えた。そこには、毎日勉強会を続けたおかげで、無理して課題を進めなくても良いという事情もあった。
一番課題に関係のない勉強をしているキョウカも、順調に中学の復習を進めていた。こちらも、一日ぐらいで問題になるとは思えなかった。
「とても勉強をする雰囲気じゃありませんから、今日は一日お休みにしましょう」
「さっすが碇君、とても気が利いているわね」
偉いと頭を撫でて褒めたマドカに、子供じゃありませんよとシンジは苦笑を浮かべて言い返した。
「多分、話し足りないでしょうから、この部屋を使ってもいいですよ」
「あれっ、碇君はどうするの?」
シンジが、部屋を使っていいと言って立ち上がったので、すかさずマドカがどうかしたのかと聞いてきた。アサミもいるし、シンジも話に加わると思っていたのだ。
「どうもしませんよ。
お菓子とか飲み物がいるでしょうから、買い出しに行ってくるんです。
ホテルのすぐ外に、コンビニがあるのを確認してありますから」
「あっ、じゃあ私がついていきますっ!」
すぐに立ち上がったアサミに、マドカとナルは、すかさず「却下」と声をあげた。
「二人で出て言ったら、絶対に帰ってこないじゃない」
「てへっ、バレました?」
舌を出して、アサミはコツンと自分の頭を軽く叩いた。その仕草の可愛さに、シンジは結構やばいものを感じていた。付いてこられたら、本当に違う部屋に帰ってしまいそうだった。
「見え見えよ。
と言うことで、キョウカちゃんも却下だからね」
「なぜだ、俺は疚しい気持ちなどこれっぽっちもないぞ」
「とにかく却下。
と言うことなので、碇君一人で行ってこられるかしら?」
「もともと、一人で行くつもりでしたよ」
いつの間にか、アサミを釣れ出す口実にされていた。その決めつけに苦笑したシンジは、なにかリクエストがあるかと全員に聞いた。もっともただ質問をするだけでなく、余計な一言を付け加えるのを忘れなかった。
「あっ、鳴沢先輩は分かっているからいいですよ」
「ほほう、気が利くと言ってあげたいところだけど……
参考までに、何を買ってくるのか聞いていいかな?」
「アメリカは、ダイエット食品の本場ですからね!
デザートだって、それ向けのがたくさんあるんですよ」
予想通りの答えに、ナルはシンジの懐に飛び込み、ショートフックをみぞおちにお見舞いしようとした。だがその攻撃は、ほんの少しシンジが前に出ることで防がれてしまった。そのせいと言うのか、ナルはシンジの胸に飛び込む形になってしまった。しかもシンジがナルの体に腕を回したので、傍から見れば立派なラブシーンに見えただろう。
「ひ、い、碇君っ!」
「鳴沢先輩……体のキレが落ちていますね。
こうして抱きしめてみても、ハッキリ前より肉付きが良くなっています……ヒデブッ」
人のものとはいえ男の子に抱きしめられれば、胸がときめいてしまうのだ。だが抱きしめられた上で言われたのが、「太った」では、ときめいた分だけ傷ついてしまった。おかげで頭に上った血もすぐに別のものに置き換わり、すぐに戦闘態勢へと移行することができた。そして懐に入ったのをいいことに、少し背伸びをしてシンジの顎に頭突きをかました。
「アサミちゃん、ちょっと〆ていいかしら?」
「この後に影響が出ない程度にしてくれれば……」
顎を押さえてうずくまっているシンジの横で、どこまでやっていいのかナルは飼い主に確認した。この後に影響と言うこの後とは、一体どういう事を言っているのだろうか。
もっとも、シンジも黙って制裁を受けるつもりはない。うずくまったまま、こっそりとナルの後ろ側に逃げ込んだ。だがその程度で逃げ切れたら、S高最強のペアとは言われない。構える素振りもなく、ナルはまっすぐ後ろにいるシンジへと蹴りを入れた。まるで後ろに目がついているような、見事なタイミングの蹴りだった。背中を蹴られたシンジは、無様にもホテルの床にヘッドスライディングをした。
「アサミちゃんの手前、この程度にしておいてあげるわ。
碇君、次はないから言葉には気をつけることね」
「はひっ、鳴沢先輩には生クリームたっぷりのケーキを買ってきます。
あとは、油ぎったポテトチップスもお勧めですね。
なんだったら、ダブルワッパーも買ってきましょうか?」
「お前はっ、私を豚にするつもりかぁ!
とっとと買い出しに行ってこいっ!」
そう言ってシンジのお尻を蹴飛ばし、ナルはふんと鼻息を荒くした。そんなナルに、「妬けちゃいます」とアサミは話しかけた。
「鳴沢先輩と碇先輩って、とっても仲がいいんですね。
碇先輩の恋人として、少し妬けちゃうなぁって」
「私が、一方的に酷いことを言われているんだけど?」
「でも、先輩が一方的に暴力を振るっていますよね?
本気になったら、絶対に碇先輩のほうが強いですよね?
しかも碇先輩、避けようと思えば避けられますよね」
黙って……と言うには色々と語弊はあるが、少なくともシンジがナルに手を出したことはない。それを考えると、今の暴力にしてもじゃれあいとしか見えなかった。それに、その前にはさりげなく抱きしめられていたりした。前と比較できると言う事は、前にも抱きしめられた経験があると言う事になる。
「お互い言いたいことを言い合える関係って、素敵だと思いませんか?」
「好き勝手言われている関係にしか思えないんだけど……」
「その代わり、先輩は手が出ていますよね?」
だから素敵だと、アサミは二人の関係をそう決めつけた。「遠野先輩と鳴沢先輩、そして碇先輩の3人って、特別な関係なんですね」と。
「碇君は、弟みたいなものだよ。
あれで、高校に入ってきた時は、随分と頼りなかったんだからね。
鍛え甲斐がありそうだから、有無を言わさず引っ張り込んだのよ」
「まあ、私達が叱咤して鍛え上げたといってもいいのかもしれないわね」
マドカの言葉を認めたナルに、「羨ましい」とアサミは言葉を変えた。
「別に、先輩と兄妹になりたいって思っているわけじゃないんですよ。
ただ、私には兄弟が居ないから、そう言う関係って羨ましいなって思うんです」
「俺もアサミに同感だな。
なにか先輩達の関係は、本当の姉弟のように見えるぞ」
「姉弟か……そうなんだよね。
男の子だって意識した時には、人のものになっちゃったんだよね」
「遠野……先輩?」
その時のマドカは、ふだんと違ってメランコリックな空気をまとっていた。それを気にしたアサミに、「大丈夫よ」とマドカはにぱっと笑ってみせた。
「ナルちゃんと私は、碇君を弟にするしかなかったんだからね。
自慢の弟に可愛い恋人ができたんだから、姉としては鼻が高々なのよ!」
弟にするしか無いという言葉に、アサミはマドカだけではなく、ナルの気持ちも理解できた気がした。二人の関係は、間違いなく親友といっていいのだろう。その親友の二人が、同時に一人の男性を好きになってしまったのだ。関係を壊さないため、二人は今までの関係を続けることを選択したのだろう。
「なんか、ミュージカルからおかしな方向に話が向いてしまったわね。
せっかくだから、碇君が居ない時にしかできない話をしましょうか」
「それはいいですけど、何か他にありましたっけ?」
それぞれの好きな人については、マドカがばらしたおかげで、今更確認する必要もなくなってしまった。そうなると、あまり女の子だけの内緒話も話題に欠けてしまう。それを指摘したアサミに、立派なのがあるとナルが口元を歪めた。
「アサミちゃんの初体験の話が聞きたいんだけど?」
「却下です!」
間髪おかずに却下したアサミに、「だよね」とナルは笑った。
「私達より先に大人になられたのは悔しいけど……
まあ、こんなものは人それぞれだからしかたがないんでしょうね。
でもアサミちゃん、今はいいけど日本に帰ったら気をつけてね。
先生の目もあるけど、アサミちゃんの隠れファンクラブは健在なのよ。
人前でベタベタすると、冗談抜きで碇君が誰かに襲われることになるわ。
しちゃったことがバレたら、本気で誰かに刺されるかもしれないわよ」
「それって、気をつけるしか無いんですよね……」
ナルの言うことが分かるだけに、少しアサミは憂鬱な気持ちになってしまった。芸能人時代でも、アサミは似たようなことの経験をしたことがあった。その時は、別の男性アイドルと噂になったのだが、アサミのところには剃刀入りの手紙が送られてきたのだ。切り裂かれた写真など、ダンボールいっぱいになるぐらい送りつけられて来た。ブログはやっていなかったので良かったが、噂になった男性アイドルのブログは、アサミのファンに荒らされ閉鎖の憂き目に遭っていた。
それと同じことが起きるかもしれないと考えると、憂鬱としか言い様がないのだ。それから逃れるには、シンジと別れるしか無いのだろう。ただアサミは、そんな選択をするつもりは全くなかった。
「とりあえず、私たちは二人の味方だから安心して。
まあ、私達程度じゃ役に立たないかもしれないけどね」
「そういう意味なら、俺も二人の味方だぞ。
不埒な輩には、篠山の権力を使ってでも制裁を加えてやる!」
沈み込んでしまった気持ちに、仲間の激励ほど心強いものはない。3人に励まされたアサミは、目元に涙を光らせながら、「ありがとう」と微笑んでみせたのだった。役にたたないという言葉通り、嫌がらせに対してはきっと無力なのだろう。それでも味方がいると言う思いは、アサミの心に暖かい光となって差し込んでくれたのだ。
その翌朝、高校生たち全員が眠そうな顔をしてレストランに集まっていた。だんだん格好がお座なりになるのは、それだけアメリカに慣れたという意味だろうか。結局シンジの部屋で行われた“緊急ジャージ部ミーティング”ことパジャマパーティーみたいなものは、深夜にまで及んだのである。
朝からのスケジュールが決まっていたため、朝寝坊は許されていなかった。そのおかげで、全員がしっかり寝不足になったということだ。
その中で特に眠そうなのが、シンジとアサミの二人だった。全員が寝ぼけ眼という判断力の鈍った状態を利用して、アサミ一人シンジの部屋に残ったのである。そしてアサミが自分の部屋に戻ったのは、朝食前に着替えをしに行く時だった。
ちなみに女子高生たちの行動は、しっかり堀井と葵が警備のため監視していた。従って、当然アサミの“朝帰り”も、葵の知るところになっていた。
このリア充め、眠そうなのを隠しもしない二人に向かって、葵は心のなかでおもいっきり毒づいていた。あまりにも毒づき過ぎたため、作り笑いもひきつっていたほどだ。ただ他の3人も睡眠不足だったのと、もともと葵に気を使ってなかったため、その不機嫌さを誰も気が付きはしなかった。
それもまた気に入らないのだが、必要な仕事はさっさと終わらせておく必要が有る。ツアコンの顔と自衛隊員の両方の顔をした葵は、手元のメモを説明した。こちらの方は、気が抜けないためしっかりいつものスーツを纏っていた。
「昨晩遅く、後藤特務一佐から指示が入りました。
皆さんには、予定通り朝食後ワシントンDCに移動してもらいます。
そこからホワイトハウス、ペンタゴン訪問をして、残りの時間はスミソニアンの見学をします。
その後、指示があるまでワシントンDCで待機ということになります。
はい、そこ、聞いていますか!」
眠そうにしているだけでなく、アサミなどはシンジにもたれかかって船を漕いでいた。しかも朝っぱらから肩など抱いてくれるのだから、独り者の葵には目の毒としか言いようがない。だがここで注意したのは、必要なことを伝えるためだ。そう心の中で言い訳をして、淫行が目に余る高校生カップルに注意をした。まどろむアサミが可愛いとか言うのは、この際綺麗に棚上げされていた。
だがアサミが落ちていても、シンジも同じとは限らなかった。眠いと言っても、勉強で夜更かしは慣れていた。そのお陰で、少し攻撃的な言葉に対して、しっかりと反撃をしてくれた。
「ちゃんと聞いてますよ。
それで、待機といいますが、その間何をしていればいいんですか?
ちゃんと、ツアコンとして時間つぶしをアレンジしてくれるんですよね?」
「つ、ツアコンって言うなぁ!」
「でも、ツアコンですよね」
違います? とシンジに突っ込まれ、葵はぐぬぬと葵は歯を食いしばった。確かにこの場では、葵の立場はツアコンだったのだ。
「博物館見学、アーリントン墓地の見学とか、観光コースは色々とあります」
「見学ばっかりなんですね。
もうちょっと、高校生向けに面白いところはないんですか?」
待機などと、自分達に関係のない都合で足止めを食らうのだから、シンジの要求はある意味正当なものなのだろう。だが葵にしてみれば、立場を考えろと言いたくもなる。そもそもなぜ待機をしなければいけないのかを考えれば、多少おとなしくしていてもバチは当たらないはずなのだ。
そしてその意味は、文句を言った当人が一番理解しているはずだった。それが分かっているから、余計に腹が立ってきた。
「DCなんて、あまり観光スポットはありません。
ぶっちゃけ、メジャーリーグだって、あまり強いチームはいませんし。
アメフトも、今はシーズンオフだから試合をやっていません」
「別に、DCに居なくたっていいんじゃありません?」
「否定はしませんけど、移動時間ですらリスクになるのを考えてください。
それに、足止めと言ってもせいぜい2日ですから、我慢してください」
最初は建前を話していた葵だったが、それに疲れたのかついに本音を口にするようになっていた。周りのことを考えれば、なかなか危ない話でもある。だがそんな葵に、そろそろ潮時かとシンジは引き下がることにした。たまに物わかりの悪い子にならないと、面倒を際限なく押しつけられる可能性があったのだ。
「分かりましたよ。
だったら、適当に散策でもして時間を潰すことにします」
「初めっから、そう言って欲しかったわ」
ふんと鼻息を一つ荒くして、葵は分かればいいとふんぞり返った。そんな葵を無視して、シンジはもたれかかって寝ているアサミを起こした。
「ふえっ?」
「そろそろ部屋に戻って、出発の準備をしようか。
先輩達も、ホテルを引き払う準備をしてくださいね」
「あー、もうそんな時間なのね……」
少し欠伸をして、マドカは口元を抑えながら立ち上がった。そしてそれに習うように、ナルとキョウカも遅れて立ち上がった。結局、葵の話をシンジ以外は聞いていなかった。
「1時間後にロビー前に集合すればいいんですね?」
「8時25分までに来てくれるかしら?
空港までのリムジンが30分にでるから」
時計を見たら、準備の時間は50分も残っていなかった。ほとんど準備の終わっているシンジはいいが、夜更かしの女性組は荷物詰めに時間がかかりそうだった。
「はいはい、先輩達急いでくだださいね。
遅刻したら置いていきますからね!」
はいはいと言って、シンジは全員を部屋に急がせた。置いていくのは冗談としても、葵の精神衛生を考えたら、時間通りに集合するほうが賢かったのだ。もっとも、抱きつくように立ち上がったアサミの前に、そんな配慮は全く意味をなさなかったのだが。少しは人目を憚れ、葵はそこの所を強く主張したかった。
だが葵の思いなどどうでもいいと、アサミは更に感情を逆なでする言葉を発してくれた。
「先輩、荷造りを手伝ってくれます?」
「いいけど、僕が手伝っていいのかな?」
女性の荷造りとなると、色々と隠しておきたいものが多くなるはずだ。それを考えると、手伝うと言ってもなかなか難しい事情が有る。だから遠慮したシンジに、アサミは大丈夫ですよと微笑した。
「だって、私たちはそんなことを遠慮する関係じゃないでしょ。
それに、洗濯だって一緒にしているんですよ。
見られてって言っても、全部先輩が見たものばっかりです」
「う〜ん、それでも良いのかなぁって気がするけど……」
全部見たの件は否定して欲しかった。一緒にエレベーターに入っていく二人に、葵はどうしようもない理不尽さを感じてしまった。高校生二人が、まるで夫婦のようにくっついているのに、なぜ年頃の自分にはそのお相手が居ないのか。自衛隊に居るのが理由にならないのは、周りの結婚率を見れば分かることだったのだ。
とても重要な任務で来ているのは分かっているが、なぜ自分がここにいるのか分からない。後藤の人選に、文句の一つも言いたい気持ちになっていた。
JFKからワシントンナショナルまでは、およそ1時間半のフライトとなる。11時に空港についた一行は、やけに立派な白いリムジンでのお出迎えを受けることになった。日本ではちょっと見ないというか、狭い道をどう走ったらいいのかと思うほど細長い車が、「S高ジャージ部御一行様」と言う、どう見ても不似合いな幟を立てて空港前に鎮座していたのだ。目立たないと言う当初の目的はどうしたのか、シンジとしては担当者を小一時間問いただしたくなる対応だった。
「これがアメリカ標準だと思えばいいんですね……と本気で思うと思います?」
「あちらも、失礼のないようにと知恵を絞ったんじゃありません?
せっかくだから、アメリカンドリームを味わってみるのもいいんじゃないの。
それに、急ごしらえの幟が泣かせるじゃありませんか……
あっ、それからホワイトハウスまで20分ちょっとの我慢ですから。
それに、先輩さんたちはあまり気にしていないようですよ」
「まあ、そう言う人達ですから……」
きゃあきゃあ喜ぶマドカ達を見ると、いちいち気にしているのが馬鹿らしくなった。そう考えはしたが、だからと言って開き直れるほど太い神経はしていない。損な性格だと嘆きながら、シンジは豪華な室内へと入っていった。
空港を出てすぐ、ポトマック川を超え、ワシントンモニュメントを左手に見て通り過ぎれば、すぐにホワイトハウスに到着する。世界最強と言われる国の、最高責任者である大統領の住居兼執務場所である。最近公開を再開したのだが、審査がとても厳しいことでも有名な場所だった。
「VIPですよ」と葵が小声で言ったのだが、それが冗談でないことはすぐに思い知らされた。観光客の屯する前をリムジンはゆっくりと通りぬけ、重装備の警備兵が守るゲートを白いリムジンは通り抜けていった。その時何のチェックも受けなかったのだから、本当に大丈夫なのかと思ったほどだった。
「いくらあちらが差し向けた車でも、こんなんで大丈夫なんですか?」
「それだけ気を使ってくれたってことでしょう」
何が起きても驚かない。白いリムジンを見てから、葵はそう心に言い聞かせていた。だが大統領が婦人を同伴して出迎えてくれたのには、さすがに度肝を抜かれてしまった。一体これは何なのですか? と。
S高の制服を着たシンジ達と合衆国大統領夫妻。なにをどう間違えればこんなミスマッチな組み合わせができるのだろう。あまりの現実感の無さに、通訳をしながら葵は何度も太ももを抓ったほどだ。しかも、“たかが”高校生を出迎えるのに、大統領は極めて機嫌が良かったのだ。
「ハイスクールに提出するレポートにはこれで十分かな?」
それどころでない重要なことを、茶目っ気たっぷりにエイブラハム・ワットソンはシンジに語りかけた。
「でも、これは、さすがに大げさすぎだと思いますよ。
まさか大統領が、こんな茶目っ気がある人だと思いませんでした」
「私も、ハイスクール時代にレポートでは苦しんだのだよ」
はははと笑ったワットソンは、婦人の背中に手を当て「妻のエマ」だと紹介した。
「エマはね、サンフランシスコではなくコーチの映像をライブで見ていたんだよ。
そして君たちの献身的な戦いに、甚く感動したと常々言っているんだよ。
だから君たちが我が国に来たと聞いて、ぜひとも会ってみたいと我儘を言われてね」
「あなたが、あの時のパイロットなのね。
予想以上にキュートなボウイなのね」
感激して手を握られれば、立場が逆と言いたくなる。しかもキュートというのは、どう受け取ったらいいのだろうか。何しろ相手は、シンジの母親のような年齢の女性なのである。
感激してシンジの手を握ったエマは、次の標的としてマドカ達に狙いを定めた。何しろ彼女は、ファーストレディーでありながら、夫の引退後は上院議員になると言われている女性なのである。すでに女性の強いアメリカなのだが、その中でも強い女性の代表格だったのだ。
「あなたたち二人が、あの化け物をやっつけてくれたのね。
こんな可愛らしい女性が素晴らしい働きをするだなんて……
まったく、日本という国は侮れないわね」
「え、ええっと、サンキュー……」
横で葵が通訳してくれたおかげで、意味だけは理解することができた。世界で一番権力があると言われている人の奥さんに、そこまで言われるのは光栄としか言いようが無いのだろう。だがそれを言葉にするには、マドカとナルの英語力は不足しすぎていた。
「エマ、彼女たちが驚いているよ。
それから、彼が特別だということを忘れないように」
「そうだったわね。
興奮しすぎて、肝心なことを忘れていたわ。
それからミスター碇、あなたの恋人を紹介してくれないかしら?」
そんな事まで知られているのか。隠していたつもりはないが、口にした相手を考えれば驚くべきことなのだろう。だがいつまでも驚いていられないと、シンジはアサミを手招きした。
「アサミ堀北です。
僕の1年年下で、日本では有名なアクトレスでした」
「初めまして、アサミです」
それぐらいはついていけるので、アサミは少したどたどしく挨拶をした。それを笑顔で受け取ったエマは、良いわねと二人の若さを羨んだ。
「わたしがエイブと出会ったのも、ちょうどあなた達ぐらいの時だったわ。
それから、もう30年も経ったと思うと感慨が深いものがあるわね。
それからアサミ、あなたのお母様は有名なデザイナーでしたね」
「ママを御存知なのですか?」
少し驚いた顔をしたアサミに、エマは少しいたずらっぽく微笑んだ。
「いま着ている服が、あなたのお母様のデザインですよ」
「お気遣いいただいてありがとうございます」
もてなしとして、これ以上ない気遣いなのは言うまでもないのだろう。さすがに凄いと感心したシンジを、エイブラハムは軽く肘でつついた。
「もう一人、素敵な大和撫子が居るのではないのかな?」
「大和撫子……」
その単語にピンとこなかったが、キョウカを紹介するのを忘れていたのを思い出した。だからシンジは、少し緊張したキョウカを手招きした。
「1年下のキョウカ篠山です。
彼女の家は、日本の基地建設に大きな貢献をしています」
「キョウカです」
中学からの復習中では、まともに英語で挨拶できるはずがない。シンジに耳元で「名前を言えばいい」とアドバイスされ、素直にキョウカはその言葉に従った。だがエイブラハムにとって、キョウカの存在は別の意味で特別だった。
「君の父上、ユキタカ氏のことは知っているよ。
そうか、彼にこんな可愛らしい娘さんがいたとは知らなかったな。
彼は、なかなか家族のことを話さなくてね」
はははと笑ったエイブラハムは、シンジの背に手を当て、こちらだと中へと案内をした。その扱いは、まるで同盟国の首脳を相手にするようだった。しかもその光景を、黙って堀井が写真に収めているのだ。光景としては、いささかシュールなものだっただろう。そもそもこんな写真を残したところで、他人に見せることができないものだった。
それから小一時間ホワイトハウスの中を案内され、1stフロアにあるダイニングルームで大統領夫妻と会食をしたのである。あまりの厚遇ぶりに、シンジは目眩がしたほどだった。そして同時に、ここまでされることに、恐ろしいと思ってしまった。
これだけフレンドリーに対応されては、これから色々と断りにくくなってしまうのだ。そろそろ有ると言われているギガンテスの襲撃も、この厚遇の下心の理由かと疑ってしまったほどだ。しかも歓迎されただけに、文句を言えないのが厄介だった。
会食が終わったところで、エイブラハムは残念だといってシンジに右手を差し出した。いかに重要な来客とはいえ、無理やりスケジュールを開けるのには限界があったのだ。そしてシンジ達の滞在期間が終わりを迎えているのを、彼は十分に理解していたのである。もう少しタイミングがずれていたら、彼のヴァケーションに招待していたのだろう。
歓迎に感謝の言葉を繰り返し、シンジ達のホワイトハウス訪問は3時間で終了した。だがこれで、望まない“公式”行事が終わったわけではない。もう一度同じリムジンに乗り込んだ一行は、車で10分ほど離れたペンタゴンへと連れ込まれた。
勘弁して欲しいと言うのが、シンジの正直な気持ちだった。格という意味では、大統領の方が遙かに上なのは疑いようもない。だが厳つい男が大勢で出迎えてくれたため、威圧感と言う意味ではこちらの方が上だった。その証拠に、ホワイトハウスの時以上にマドカ達が萎縮してくれたのだ。そして当たり前なのだが、シンジも十分以上に萎縮していた。
「これは、なんの嫌がらせですか?」
「そんなこと、私に聞いても分かるわけ無いでしょう」
同行した葵ですら顔色がよろしくなかった。それを考えると、顔色一つ変えない堀井というのは、大したものなのだろう。
国防総省長官から始まり、次々と偉い人と握手をしていった。一応にこやかな笑みを浮かべてくれるのだが、場違いさのお陰で、そんな笑みは少しも気持ちを楽にしてくれなかった。「なんの罰ゲームですか」と叫びたくなる気持ちを抑え、シンジ達は30分ほどの“握手会”を乗り切った。
だが苦行とも言える見学は、これで終わりというわけではなかった。国防総省長官自らの案内で世界一巨大と言われるオフィスビルの中を歩き回ったのである。所々で歓声が上がったのは、高知の英雄に向けられた物だと思いたかった。
「アサミちゃんの名前が聞こえるのは気のせい?」
「気のせいと言うことにしておいてください。
私の出たテレビドラマや映画は、アメリカに配給されていませんでしたから」
マドカの質問に、アサミは少し素っ気なく答えた。そのあたりの素っ気なさというのは、疲労が原因のものだった。肉体的疲労と、精神的疲労という奴である。
ちなみにアサミの出た作品は、動画の形でネットに投稿されていた。それが不正規なものであるのは、いまさら言うまでもないだろう。
結局、ペンタゴンの見学は3時間ほど掛かることになった。途中で休憩が何度も入ったのだが、短時間で回るには相当ハードだったことには違いなかった。そのお陰で、さすがの高校生達も終わった頃には疲れ切っていた。若さを持ってしても、ハードな一日は相当堪えたと言う事だ。
「これからホテルにチェックインするんだけど……
夕食はどうする?」
「お腹が空いたって気はするんですけど、それ以上に疲れたんです……
今はベッドでぐっすりと眠りたいと言うのが一番です」
とても豪華なホテルのフロントで、葵はこれからの行動を確認することにした。そして休みたいシンジの答えに、全員から同感という言葉が返ってきた。ワシントンに着いてから、ずっと緊張を続けてきたのである。その上広いペンタゴンの中を歩き回らされたお陰で、元気ガールの二人もすっかりへばっていた。
そして疲れているという事情は、葵の側も同じだった。ただ一人堀井という例外は居たが、休息を取るという考えには強く同意していた。
「じゃあお腹が空いた人は、9時に出てきてください。
一人でも大丈夫と言う人は、12時までレストランは開いています。
近場にコンビニは無いので、それ以降になる場合は連絡をください」
そう言ってチェックインのためフロントに行った葵は、そこで頭の痛くなる事実を告げられた。なぜか高校生一行にあてがわれた部屋が、最上階の特上スイートなのだ。広いリビングにベッドルームが6つと、入れ物的には問題が無いのは理解できた。だからと言って、高校生に最高級の部屋はないだろうと言いたかった。
他に部屋がないか交渉したのだが、フロントからは「最上級の部屋だ」と言い返されてしまった。指定通りに最上級の部屋を確保したのに、何が問題なのかと言いたい様だった。しかも、支払いはすでに済まされているとまで言われてしまった。
「だから女性4人に男性1人のグループなんですけど」
「ベッドルームは、プライバシーを守れるように鍵が付いています。
各ベッドルームには、シャワールームも併設されています。
ラウンジ付きの独立した6室と理解いただければ結構ですが?」
それでと開き直られると、苦情も言いにくくなる。しかも独立した6室と言われれば、確かに問題が無いようにも思えてしまった。
結局ありがとうと言って、葵は鍵を受け取った引き下がったのだった。
「では、これから皆さんをお部屋に案内します。
最上階の特別室ですから、心して掛かるように」
すでに荷物は、交渉の間にポーターが運んでくれたようだ。だとしたら交渉は何だったのかと言う気もしたが、敢えてそれを葵は気にしないことにした。一般旅行の常識を当て嵌めてはいけない。今日一日で、それを散々経験していたのだ。
それでも部屋に付いたところで、「やっぱりそうか」と言う気持ちを隠すことは出来なかった。アメリカ的とでも言えばいいのか、やけに部屋の中がまぶしかったのだ。そのあたりは、中が金色で纏められた、専用エレベーターに乗った時から気付くべきことだったのだろう。
「成金趣味ってやつ?」
「アメリカ的で良いでしょう?」
こうなればやけとばかりに、葵の言葉は投げやりな物になっていた。しかもリビングに置かれたテーブルには、なんのサービスか大量のスナック……袋のお菓子ではない……が置かれていた。
「レストランに行く必要がなさそうね?」
「この先の展開が見えたような気がします……」
これだけつまむ物があって、しかも全員が集まれる広い部屋が用意されたのだ。ならば前夜の続きが行われるというのも、極めて自然な発想だった。だから「先の展開が見えた」と言うアサミの言葉に、マドカ達も強く同意したのである。
「少し休んだら、みんなでここに集まればいいのよね?」
「昨日の続きか……なかなか胸躍るものがあるな!」
うんうんとキョウカも頷いたのだが、そこにシンジが待ったを掛けた。
「篠山、お前は昨日復習を休んだだろう?
だから今日は、遅れた分を取り戻す必要があるからな」
「し、しかし先輩。
こんな状況で、俺だけ勉強というのは酷いと思うぞ!」
「心配するな、勉強だったら先輩達にもさせる。
人に家庭教師を頼むんだったら、それぐらいのやる気を出して見せろ!」
ふっと口元を歪めたシンジは、「お手本を見せてくださいね」とマドカ達にも勉強を迫った。
「き、今日ぐらいは良いんじゃないのかなぁ……」
「今日ぐらいはと言うのは、昨日しっかり済ませました。
サボり癖を付けると、アドバンテージは簡単に無くなってしまいますからね」
だから駄目と言い切ったシンジに、マドカとナルは渋々従うことにした。ここでシンジのご機嫌を損ねては、沢山残った課題が消化できなくなってしまうのだ。そのやりとりを見ていた葵は、必要な連絡事項を伝えることにした。
「話がまとまったようなので、皆さん適当に部屋を選んで休んでくださいね。
9時頃ロビーに来てくれれば、何処かのレストランに案内します。
それから明日の予定ですけど、7時半に迎えに来ますからお出かけの準備をしておいてください」
宜しいですねと言う葵の言葉に、いつも通り「はい」と言う答えが返ってきた。ただその答えに切れがなかったのは、蓄積した疲労のせいだろうか。それも仕方が無いと暖かく見守ろうとした葵だったが、アサミがシンジと同じ部屋に入っていこうとするのに気がついてしまった。
「堀北さん、高校生として節度有る行動を求めます」
「でも、こうすれば部屋が二つ空きますよ。
堀井さんと葵さんも、ここで休んだ方が警備にも都合が良くありませんか?」
警備の都合を考えれば、確かに同じフロアに居た方が都合が良い。その点では、なるほどと思えるアサミの提案だった。そのため思わず「確かに」と答えかけた葵だったが、堀井の咳払いで自分が何を口にし掛けたのか気がついた。
「ええっと、この部屋への入口は専用エレベータしかありません。
ですから、同じ部屋にいなくても警備上の問題は生じません!」
だから却下と答えた葵に、アサミは小さく舌打ちを返したのだった。
前世紀、カサブランカのあるモロッコは、地中海性気候のため発達した低気圧の影響を受けにくい地域だった。だがSICと言われる大災害による自転軸移動は、カサブランカの気候に劇的な変化を与えることになった。北東貿易風と寒流の関係で緯度の割に涼しいのは変わっていないが、忘れた頃に発達する低気圧の被害を受けるようになってしまったのだ。
そして7月の終わり、いよいよ日本の高校生の訪問を受ける直前、5年ぶりという発達した低気圧に襲われてしまった。ゆっくりとした動きの低気圧は、抜けるまでに3日程度掛かると予測されていた。
制服姿で食堂の窓際に立ったカヲルは、荒れ狂う外の天候に諦めたように呟いた。
「幸先が悪いとしか言いようが無いね」
視線の先では、今まで経験したことのない暴風雨が吹き荒れていた。経験がないと言うのは、街の植物も例外ではなかったようだ。窓の外を見ていると、時折名物のコルク樫の木が折れて飛ばされて来るのが見えたのだ。少なくとも、外で活動できる天候とは思えなかった。
そして幸先が悪いと愚痴を言ったカヲルに、「まったくだ」と同意してエリックがその隣に立った。身長はカヲルの方が少し高いのだが、横幅はエリックの方が広かった。そのせいもあって、カヲルよりエリックの方が大きく見えていた。
「これじゃあ、滑走路が使えるようになるまで時間が掛かるな」
「だが僕達の義務を考えた場合、そんなことは言っていられないのだよ。
従って、風が治まり次第ヘラクレスでがれきの撤去と言う事になるね」
どんな重機よりもパワフルなのだから、カヲルの言っていることに間違いはない。だがいくら間違いが無くても、素直に受け取れるかどうかは別だった。ただ文句を言っても、「だから?」と返されて終わるのは、エリックもよく理解していることだった。
「風が治まったら……か?
だがその前に、ギガンテスが襲ってきたらどうするんだ?」
「キャリアが飛べる状況なら、雨風が治まらなくても滑走路整備をするんだよ」
そんな言葉を、コルク樫の木や、大きな石ころが転がっていくのを見ながら話すのである。勘弁して欲しいと言うのが、エリックの正直な気持ちだった。そんなエリックの心を読んだのか、「僕だって嫌だよ」とカヲルは付け加えた。
「でもエリック、国際線の滑走路が使えないと、愛しのアサミちゃんに良いところを見せられないよ」
「それが由々しき事態であることは認めるのだが……」
「なんだい、他にも気がかりがあるのかな?」
思いの外エリックの食いつきが悪かったので、カヲルはその理由を聞くことにした。
「いや、ネットで嫌な噂を見つけたのだが……
Shinji Ikariだっけか、そいつと出来ていると言う噂が飛び交っているんだ。
しかも書き込みを見ると、タイムスタンプが最近なんだ」
「同じ活動をしている先輩と後輩だったね。
しかも高知の英雄と美少女俳優……組み合わせとして悪くないと思うけどね」
冷酷な事実を突きつけられれば、エリックも否定をすることは出来ない。それに、身近に居る方が強いのは分かりきっていたことなのだ。しかも相手は、カヲルの言う通り高知の英雄なのである。しかも少女の方は、英雄的行動を直接目撃しているのだ。惚れる要素など、それこそ山のように転がっていた。
「なんだよなぁ……明らかに、ネームバリューでも負けているんだよなぁ。
しかも、アメリカは随分なことをしてくれたって噂じゃないか」
エリックの言う随分なことと言うのは、二日目の失態のことを言っているわけではなかった。その失態の尻拭いをするため、大統領まで担ぎだしたと言うことを問題にしたのである。つまりエリックの憧れる女性のステディは、それだけの力があることを示してしまったのだ。そういう意味でも、随分と差をつけられてしまった。
そしてカヲルは、更にエリックを落ち込ませる事実を持ちだした。
「サンディエゴ基地が、彼のことを絶賛したらしいよ。
彼は怖いもの知らずで、当たり前のことをしただけと言っているようだけどね。
だけどアテナから指揮権を取り上げるだけでも英断なのに、
取り上げた指揮権を任せる相手が、また適切だったのだよ」
「まあ、アタッカーが全体指揮を取ること自体問題が多いのだがな……」
それを、圧倒的実力者に頼り任せっきりにしたのがサンディエゴ基地なのである。ただカサブランカにしても、あまり人のことを言える状況ではなかったのだ。砂漠のアポロンもまた、アタッカーと全体指揮を兼ねていた。サンディエゴに学ぶのなら、エースから指揮権を剥奪したほうがうまくいく事になる。
「従って、こちらでも誰に指揮を任せるのか絶賛検討中ということだよ。
ちなみに君たち3人は、甲乙つけがたいという評価が出ているよ」
「どんぐりの背比べと言うのが正解じゃないのか?
先に自己申告をしておくが、俺は全体に目を配るなんて真似はまっぴらだからな」
「ライラやマリアーナも、同じ事を言いそうだよ。
やれやれ、どうして君たちは揃って好戦的なんだろうねぇ」
ふっと笑ったカヲルは、「だから」と言ってもう一つのプランを持ちだした。
「日本の真似をして、僕に全体指揮だけを任せると案も出ているよ。
一歩下がって、全体のバランスを取ると言う仕事らしいね。
素人の女子高生二人が、高知では6体のギガンテスを倒したんだ。
それを考えれば、僕が下がるというのも悪い考えじゃない」
「カヲルが、一人で敵の分断をしてくれるのか?」
それはいいと笑ったエリックに、「ぞっとしない」とカヲルは肩をすくめた。
「前にも言ったと思うけど、僕にはあんな献身的な真似はできないよ。
従って、残りのパイロットを利用して敵の分断を行うことになるんだけどね……
これがまた、なかなかいい手が浮かばないんだよ」
「カヲルに浮かばないのなら、俺達には絶対に無理だな」
そう言ってカラカラと笑うエリックに、気楽でいいなとカヲルは皮肉を言った。だがエリックからは、気楽でどこが悪いと言い返されてしまった。
「そう言うことを悩むのは、少なくとも俺の仕事ではないんだ。
しかめっ面をして結果が良くなるのなら、いくらでもしかめっ面をしてやるんだがな。
だいたいこんな仕事、鬱っていたら飛び降りをしたくなるぞ」
「その意見には大いに同意するよ。
ただ、そうさせて貰えないと言うのが不公平だと思っているだけだよ。
どうして、僕にだけ仕事が降ってくるのだろうね」
「民間協力者が引っ張り回されるのに比べればマシなんじゃないのか?」
上を見ても下を見てもきりがない。あまりにも真っ当な指摘に、カヲルは言い返す言葉を失った。それもあって、外の天気に不満をぶつけることにした。
「早く晴れてくれることを願っているよ」
「同感だ。
ここの作りは、こんな大雨を想定していないからな」
何処かで雨漏りでもしてそうだ。エリックの呟きに、漏れるのは雨だけじゃなさそうだとカヲルは考えた。
もの凄くよく寝た。それが一夜明けたS高ジャージ部一行の感想だった。3時間の仮眠を取った後にスナックを摘んだのだが、結局最後まで勉強会が開かれることはなかった。やはり眠いと、腹ごなしもそこそこで、全員自分の部屋に戻っていったのだ。さすがのシンジも、蓄積した疲労には勝てなかった。
ただ、翌朝シンジの部屋からアサミが出てきたのは、さすがと言うべきなのだろうか。マドカ達の記憶が正しければ、アサミは自分の部屋に入っていったはずなのだ。
「駆け引きが終わったら、もう熱々なのね?」
そう言ってからかうナルに、今だけだとアサミは言い返した。
「日本に帰ると、ほら、人目があるじゃないですか。
だから、今のうちに先輩分を補給しているんです。
後は、私が居るのが自然になるように刷り込むという意味もありますね」
「夏休みぐらいは大丈夫じゃないの?
まあ、レイちゃんが嫌がるかも知れないけど……
しかし、刷り込むって……怖いわね」
シンジの妹が、誰かと付き合っているという話は聞いていなかった。そうなると、兄が恋人を連れ込むのは、毎日だと迷惑がられてもおかしくない。良く知っている相手だと、余計に複雑な気持ちになるだろう。
それはそうとして、アサミの言う「刷り込む」のは結構怖いと思ってしまった。一緒にいるのが当然という感覚を刷り込むことで、圧倒的に有利な立場に置くということになる。もっとも二人の関係で、どちらが刷り込まれているのかは分からなかった。
「でも、日本に帰ると大変なんですよね……」
「アサミちゃん、未だにファンが多いからね」
ニューヨークで話したことでもあり、ナルはアサミのぼやきに理解を示した。だが同意したナルに、「違いますよぉ」とアサミは神経を逆撫でするようなことを言ってくれた。
「くっついて寝るのに慣れちゃったんです。
だから日本に帰って、ぐっすり眠れるのかが不安で……」
「とても、元清純派アイドル女優の言う事とは思えないわね」
目元を痙攣させたナルに、「卒業しましたから」とアサミは言い切った。
「でも、本当に気持ちいいんですよ。
先輩達も、絶対にそう思いますから試してみると良いですよ。
ただ、その時は碇先輩以外の人でお願いしますね」
「ええっ、少なくとも私とマドカちゃんは面倒な女じゃないわよ」
「先輩達はそうでも……」
少し口ごもったアサミは、意味の理解できていないキョウカの顔を見た。だが見られた方にしても、どうして自分が見られたのか理解していない。だからキョウカは、アサミに対して文句を言った。
「アサミ、俺は猥談はよく分からないんだが?」
「大きくなったらよく考えてみてください」
同い年相手に「大きくなったら」は無いと思うのだが、幸いキョウカの突っ込みは返ってこなかった。それに感謝しながら、「いかがなものか」とアサミは文句を言った。
「真面目な話、ジャージ部を先輩のハーレムにするのは問題ですよ。
学校にばれたら、間違いなくお取りつぶしになってしまいます!」
「確かに、それは困るわねぇ」
まあいいかと話を切り上げたナルは、扉の向こうに向かって「もう良いわよ」と声を掛けた。起き抜けの顔を見せたくないから、許可があるまで出てくるなとシンジに申しつけていたのである。
そしてナルが声を掛けてしばらくして、「どれだけ待たせるんですか」と文句を言いながらシンジが出てきた。十分待たされたお陰か、しっかり準備が調っていた。
「先輩、そこを黙って待つのが男の人の務めですよ」
「きっと、そうなんだろうね……
布団巻きにされなかったことを感謝するよ」
はっと息を吐き出したシンジは、部屋に掛けられた時計へと視線を向けた。堀井達が迎えに来るまで、まだ少し時間が残っていた。その絶妙な時間を考えると、マドカとナルは、ちゃんと時間を考えていたと言う事になる。見た目ほど、時間にずぼらと言うことは無かったのだ。
葵達の先導で、ナショナルモールに行った時、シンジはアメリカを舐めていたのを思い知らされた。広大なエリアに多くの博物館があるのだが、その一つ一つの所蔵物が、想像を遙かに超えていたのである。見学ばかりと文句を言ったのだが、見学しているうちに「是非見ておくべきだ」と考えが変わっていた。
航空宇宙博物館の展示を見ながら、シンジは人の偉大さを見せつけられた気がしていた。
「こうして見ていると、人って本当に凄いんですね」
「見学ばかりじゃつまらないんじゃなかったの?」
ささやかな葵の反撃に、シンジは「ごめんなさい」と素直に謝った。ここに来て、世界の広さ、人の積み重ねてきた歴史を改めて思い知らされたのだ。その積み重ねの上に今の自分があるのだと実感させられた。
「これを見ていると、本当に凄いと思えてしまうんです。
人の営みって、本当に素晴らしいんだなって……」
「確かに、歴史の重みを感じるわね……」
改めて言われれば、葵もシンジの言葉を認めざるを得ない。自分達が何気なく使っている技術、交通手段が、こうして過去からの積み上げの末出来たというのがよく分かるのだ。
だが続いて出たシンジの言葉は、とても微妙な問題を含んでいた。
「ヘラクレスだって、実はもの凄い技術なんですよね。
今回見た展示の中には出てきませんけど、いずれこうして博物館に入るんでしょうね」
「確かに、あんな巨大な化け物を作ったんだものね。
アニメの世界が、現実になったのって本当に凄いわ……」
現役自衛隊員にとって、ヘラクレスやギガンテスは恐怖の対象でしかない。だが技術と言う意味で言えば、シンジの言う通り画期的な物であるのは間違いなかった。人類が今の危機を乗り切れば、シンジの言う通り歴史として博物館に収められるのは間違いないだろう。
「でも、そうして考えてみるとヘラクレスって不思議ですよね。
ネットで見てみたんですけど、誰が発明したのか全く出ていないんです。
それに、どうして僕達みたいな子供しか乗れないのかも出ていない。
きっと、まだまだ生々しくて情報が管理されているんでしょうね」
その“生々しさ”の指す物を理解した葵は、言葉に気をつけて「そうね」とだけ相づちを打った。ヘラクレスの基礎を構築したのが、まさか「あなたの両親よ」などと言えるはずがなかったのだ。そしてシンジも、敢えてそれ以上ヘラクレスのことには触れなかった。
その代わりに持ち出したのは、これからの予定だった。
「とても一日では見て回れないと思うんですけど……
これからの予定って、どうなっているんですか?」
「カサブランカはまだ低気圧のまっただ中らしいだけど……
低気圧が去っても、空港再開には時間が掛かるみたいね。
早くて明日の夜、さもなければ明後日出発って事になるかも知れないわ」
「その間、ギガンテスへの守りが薄くなるってことですか……」
そのリスクについては、すでに後藤から知らされていた。ギガンテスの襲撃予測を含めて、シンジには不思議な予感があった。それは襲撃地点の嫌らしさから推測される、ギガンテスに知性に類する物があるのではないかと言う事に関係していた。もしもそれが正しいのなら、この機会に襲撃が有ってもおかしくなかった。
「葵さん、ギガンテスって……」
何なのか。それを聞こうとした時、葵の持っていた携帯電話の音がけたたましく鳴り響いた。一斉に回りの視線を浴びることになったのだが、事態はそれどころではなかった。葵は、マナーモードにするのを忘れていたわけではない。サイレントモードを飛び越えて、呼び出し音が鳴り響いたのだ。
回りの視線をはね除けた葵は、高校生達に見学の終わりを告げた。それは、静かなはずの博物館に、警報のサイレンが鳴り響くのと同期していた。
「ギガンテス発見の一報が入ったわ。
大西洋を、まっすぐアメリカ東海岸に向かっているのよ」
「規模はまだ分からないんですね?」
その規模によって、自分達の関わり方が決まってくる。そんなシンジの質問に、ここでは情報が無いと葵は答えた。
「だから、すぐにペンタゴンに移動するわよ。
カサブランカが動けない以上、サンディエゴと私たちが対応するしかないの」
「葵さん、僕達が民間協力者と言うのを忘れないでくださいね」
人の英知を見せられた後と言う事もあり、シンジも要請があれば断るつもりは無かった。だがマドカ達のことを考えれば、なし崩しというのを認めるわけにもいかない。
間髪おかずに釘を刺してきたシンジに、葵は一瞬渋い顔をした。だがその表情をすぐに消し去り、「移動するわ」と事務的に繰り返したのだった。
誰かの悪意を感じる。ギガンテス発生の知らせに、前任者と同じ感想をゲイツは抱いていた。よりにもよって、カサブランカ基地が行動不能な時に、ギガンテスが襲ってくるのだ。アメリカ東海岸と近場なのは、被害を考えると何の慰めにもなってくれなかった。
「それで、襲撃予測時間と規模、予測地点はどうなっている?」
「現状だと、9時間後と言う事になります。
規模は不明、推定で6以上となっています。
場所はこのまま進むと、ローワー湾の何処かと言う事になります」
「ニューヨークに来るのかっ!」
その襲撃地は、アメリカとして最悪の事態となりかねない場所だった。少しでも被害を軽減するため、ゲイツは海上封鎖の可能性を確認した。だが帰ってきたのは、時間的に間に合わないという答えだった。
「間に合う場所に、大型艦艇は待機していません」
「上陸させただけで、甚大な被害が出るのだぞ!」
あまりの被害の大きさ、そしてそれが心臓部であることで、ゲイツは思わず大きな声を上げてしまった。だがすぐにそれを恥じ、被害を押さえるための方策の検討を命じた。
「ギガンテスの誘導、住民の避難を至急作戦立案しろ」
ニューヨークに比べれば、周辺地区の方がまだ被害を押さえることが出来る。また国民への心理的影響にしても、遙かに周辺地区の方が好ましかった。
それからと部下を呼び止めたゲイツは、後藤と連絡を取るようにと命じた。それを命じた後、別の部下に「報道発表」の指示を出した。
「西海岸のアテナと、コーチの英雄が共同作戦を行うと発表しろ」
国民への心理的効果を考えた時、高知の英雄が参戦するのは、これ以上無い朗報となる。そして日本が出撃を断るはずがないことを、ゲイツは分かっていたのだ。むしろ、自分から出撃を打診してくると思っていた。そこまですることで、日本はアメリカに対して貸しを作ることが出来る。ここまでの動きを考えれば、そうしてこない方が不思議だったのだ。
そしてもう一つ、基地で会った少年の印象がゲイツにはあった。その印象が間違いでなければ、彼は絶対に逃げないと思っていたのだ。
そして同じ頃、カサブランカ基地もギガンテス進攻の報せを受け取っていた。だが大型低気圧のまっただ中、航空機の離着陸もままならなければ、出撃など出来るはずがない。ヘラクレスを使って滑走路を整備しようにも、暴風雨が収まらなければどうにもならなかった。
「それで、俺たちはどうすれば良いんだ?」
「少なくとも、風が治まるまで待機だよ。
見通しが付いた時点で、ヘラクレスを使って滑走路状の障害物撤去を行う。
この際、多少の遅刻は大目に見て貰うしかないね」
なるほどと納得したエリックは、それでと言って肝心の見通しを聞くことにした。
「それで、見込みはどうなんだ?」
「それは、天気に聞いて欲しいとしか言いようが無いね。
ただ運が良いのは、彼らがアメリカに居たことだろう。
もしも日本に居たら、とても間に合わなかったと思うよ」
「運が良かった……か?」
微妙な言い回しをしたエリックに、カヲルはもう一度「運が良かった」と繰り返した。
「もともと襲撃自体、そろそろ有ると予想されていたんだよ。
だから、彼らが呼び込んだと考えるのは穿った見方と言うものだね。
コーチ以降、2度襲撃が有ったと言うのも忘れてはいけないよ」
「確かに、そう言われればそうなんだが……
都合良く活躍の機会があると言う事に疑問を感じたんだ」
そう答えたエリックだったが、すぐに「忘れてくれ」と自分の言葉を否定した。
「きっと、見ていることしかできない自分に苛立っているんだ」
そう口にして、エリックはもう一度「忘れてくれ」と繰り返した。
シンジ達に同行しなかったため、後藤はまだサンディエゴに滞在していた。朝の本省への定時連絡中に、後藤はギガンテス進攻の報せを受け取った。
「日本として、最大限の支援を行うと言うことで宜しいですね?」
ここで出撃をごねることは、せっかく構築した関係を壊すことになりかねない。そんなことをしたら、これまで打ってきた布石が意味のない物になってしまうのだ。むしろ布石を有効に活用するためには、こちらから協力を申し出る必要があった。そうすることで、アメリカに恩を売ることに繋がってくる。そのためにも、必要な手続は済ませておく必要があった。
「遠野、鳴沢両家の同意を取り付けてください」
本人達が拒まないというのは承知していても、必要な手続は消化しておく必要がある。すべきことは一つもおそろかにしない、それが戦いに臨むということだったのだ。
そこまで確認したところで、後藤はサンディエゴ基地に連絡を付けることにした。先手を取ることが、自分達に有利となるのは何時の時代も変わらぬ真理なのである。
ペンタゴンに入ったところで、シンジは学校の制服のまま、ミッションコントロールルームへと連れ込まれた。極めて場違いな格好なのだが、誰もそのことを気にする余裕はなかった。判明した襲撃場所と規模が、最悪とされたのだ。
「現時点で10から12って……」
襲撃規模を聞いて、シンジが絶句したのも無理もなかった。最大で高知の2倍と言うのだから、あの悪夢がよみがえってくるのだ。しかも襲撃箇所が分散する可能性があると言われれば、再び単独迎撃の可能性もあったのである。危険性という意味では、慣れていても高知以上と言って良かっただろう。
そして襲撃予想地点についても、最悪の場所としか言いようが無かった。人口が多いと言っても、高知は日本の中では地方都市に過ぎない。だが今回は、ニューヨークが襲われる可能性も指摘されている。格段の人口を誇る大都市なのだから、水際で迎撃できたとしても、被害の大きさは高知の比ではないだろう。
だがいくら頑張っても、ヘラクレスに出来るのは上陸後の迎撃だけなのだ。それ以前の作戦は、全て米軍に任されることになる。だからシンジ達に関係のないところでは、しきりに誘導方法の議論が飛び交っていた。漏れ聞こえてくる話を総合すると、誘導に関して二つの問題があるようだった。
誘導に関しての問題の一つとして、有効な誘導方法が確立されていないことだった。接近すれば、ヘラクレスに引き寄せられると言うギガンテスの特性は確認されている。だが海上で、どうやってヘラクレスを接近させるのかが解決されていない。しかもヘラクレスで、水上及び水中戦闘を行うのは、著しく危険としか言いようが無かった。
そしてもう一つの問題は、誘導が失敗した時の影響だった。どう失敗するのかによって、また評価が変わってくるのだ。一部がまっすぐ向かってくるのであれば、分断としては成功と言えるだろう。だが複数箇所に分断されたとしたら、迎撃が追いつかないことになる。そうなった時、戦力を振り向けられないところで、無視し得ない被害が発生することになる。
「それで、僕達はどうすれば良いんですか?」
作戦の議論が行われているのは分かるが、一パイロットがここに居て良いとは思えなかった。最終的な上陸場所が特定されていなくても、出撃準備が必要となってくるはずだった。そして迎撃のため移動するにも、それなりの時間が必要となってくるはずだった。
その時間を気にしたシンジに、間に立った堀井は手短に状況確認を行った。後藤が議論のまっただ中にいるため、シンジの面倒は堀井が見ることになっていた。そしてマドカ達には、葵が付き添っていた。
「現時点で、ナショナル、ダレスの両空港が閉鎖されている。
サンディエゴ基地からは、すでに9機が発進しているとの連絡を受けている。
またマイアミから、君達用の機体も運搬されているとのことだ。
ダレスからなら、2時間もあれば現地に到着できるだろう」
「サンディエゴから9機……
つまり、一緒に訓練をしていないパイロットも含まれていると言うことですね」
連携を心配したシンジに、「そうなる」と堀井は肯定した。だが現実の作戦となると、シンジの意見以上に優先されることもあるだろう。そしてサンディエゴで見せられた作戦検討では、シンジの想像以上に様々な条件が検討されていたのだ。それを考えれば、能力に劣るパイロットが入っているのも、必要なことだと考える事が出来た。統制さえ取れれば、数は戦力となってくれる。一見意味のなさそうな会議が、実はシンジに対して米軍への信頼を植え付けていた。
シンジが堀井に状況を確認していた時、ミッションコントロールルームのモニタに、ギガンテスの姿が映し出された。そこで、大西洋上をまっすぐ東に移動する12の個体を確認することが出来た。やはり12かとシンジが覚悟を決めた時、室内に小さなざわめきが起こった。
そのざわめきに気付いたシンジは、堀井に対してどうしたのかと確認した。少し待てと言った堀井は、手近な情報端末からギガンテスの情報を引き出した。だがそれよりも早く、シンジはざわめきが起きた理由にたどり着いた。
「堀井さん、事情は分かりました。
画像で、はっきりと確認することが出来ます」
「新種……か?」
今までのギガンテスは、そのほとんどが前後を切り落として、幅を広げたワニのような格好をしていた。だが今回の襲撃には、明らかに形状の異なるギガンテスが紛れ込んでいたのだ。
「いえ、新種じゃないようですね。
ただ、もっと状況が悪いようです……」
正面のモニタを見ていたら、新種と言われたギガンテスの拡大映像が映し出された。そしてその横に、「Fifth Apostle」と言う表示が出ていた。つまりこのギガンテスに対しては、過去の戦闘データが存在していると言う事になる。
「近接格闘能力は無し。
ただし、遠距離からの強力な攻撃能力を有す……ですか?
つまり、接近させて貰えないと言うことですよね?」
「過去襲撃してきた奴と同じならな……」
過去の戦いについては、堀井は何度もチェックした覚えがある。その中で「Fifth Apostle」と言われるギガンテスは、あらゆる攻撃を打ち落としてくれていたのだ。強力無比の加速粒子砲は、遠距離からでもヘラクレスを破壊してくれるだろう。推測される破壊能力は、ヘラクレスに装備されているシールドでは耐えられなかった。
「過去の戦いでは、遠距離から陽電子砲で破壊している。
だが、そんな物がすぐに用意できるはずがない」
「アメリカでも……ですか?」
ああと頷いた堀井は、一番の問題が他にあることを説明した。
「物は空輸で間に合うとして、供給する電力が間に合わない。
必要な工事を考えたら、最低でも1日以上必要となる」
「完全に、タイムオーバーと言う事ですか」
うむむとシンジが唸った時、唐突にギガンテスを映していた映像が途切れた。
「何があったんですか?」
「映像を送ってきていた哨戒機が落とされたようだ。
つまり敵は、こんな物にまで攻撃できる力を持っていると言うことだな」
その事実は、ますます手詰まりになったことを示していた。先行する11体は対処できても、少し遅れてくる1体への対処方法が全く無いのだ。しかも戦闘中に上陸されれば、一気に逆転される恐れがあった。
「それで、一番後ろの奴はどうするんですか?」
「それが、今議論されているところなのだが……まて、何か決まったようだな」
それまで大声で飛び交っていた言葉が、いきなり統制の取れた物へと変化していた。そこで聞き取れたのは、「総攻撃」と言う言葉だった。
「総攻撃……ですか?
でも、どうやって?」
シンジの質問に、少し待てと堀井は制した。そして届いた指令書に目を通し、シンジの言う「総攻撃」の意味を理解した。
「空海軍戦力を投入し、一番後ろの奴の足止めを行うそうだ。
ボストンから急行した、原潜からもミサイル攻撃を行うらしい」
「だから、総攻撃……ですか」
それだけの危険性を、全員が共有していると言う事だ。だが総攻撃で足止めも出来なければ、その時には敗北が待ち受けていることになる。
そしてそれから1時間後、総攻撃の第一陣が行われる事になった。近傍の基地から出撃したF22が30機に、爆撃機B2が2機の構成だった。そして海中からは、原潜が1隻加わり、巡航ミサイルで攻撃する手はずになっていた。
だがこの総攻撃は、結論から行けば失敗でしかなかった。攻撃に効果があるとかの問題以前に、攻撃すら行わせて貰えなかったのだ。上空に進入しようとしたB2の2機は、いずれも攻撃範囲に達する前に打ち落とされたし、F22から放たれた対地ミサイルは、これもまた到達前に打ち落とされていた。しかも離脱しようとしたF22も、「Fifth Apostle」の攻撃で消滅させられていた。近づかせて貰えないと言うのは、足の速い航空戦力にも当てはまっていたのだ。
そして原潜から放たれた巡航ミサイルも、海上に姿を現したところで消滅させられてしまった。この時点で、米軍には全ての手立てが失われたことを示していた。たとえ核の使用を決断しても、爆発前に消滅させられてしまうだろう。
この状況は、「Fifth Apostle」の足止めに失敗しただけでは済まない問題があった。今後上陸地を誘導するにしても、その誘導が「Fifth Apostle」によって破壊されることが想定されるのだ。それほどまでに、「Fifth Apostle」の遠距離攻撃力は絶大だった。
「堀井さん、これからどうなるのですか?」
あの攻撃力を見せられると、正面から打ち破るのは不可能としか思えなかった。それはシンジ達がヘラクレスを使っても、状況として何ら変わりはなかったのだ。だからシンジは、「どうするのか」と堀井に聞いたのである。
「かつて、日本で取ったのと同じ作戦を行うことになるだろう。
そのための準備が、急ピッチで進められていると言う事だ。
加えて、敵の足が止まったなら、神の杖の使用も視野に入れられている」
「神の杖……って何ですか?」
その方面に疎いこともあり、シンジは「神の杖」なる兵器のことを堀井に聞いた。
「衛星軌道から、タングステンの槍を落とす兵器だ。
マッハ10以上で飛来するため、迎撃は不可能と言われている代物だよ。
その破壊力は、核兵器に匹敵すると言われているのだが……」
「そんな物を、都市部に落とすのですか!?」
それがどの程度の被害を引き起こすのかは想像できないが、核兵器と言われれば問題の大きさに想像が付いてしまう。事実見学したスミソニアン博物館では、核の使用による破壊の跡が展示されていたのだ。
「だがヘラクレスで止められない以上、都市一つ犠牲にしてでも倒さなければならいのは確かだ」
「それが、ニューヨークでも、ですか?」
「放置したら、ただ破壊されるままになってしまうだろう。
Fifth Apostleがいたことで、我々には究極の選択が突きつけられたと言うことだ」
そう言うことだと口にした堀井に、シンジは自分達はどうすればいいのかと確認した。「Fifth Apostle」が居る限り、ヘラクレスでの戦いは成立しないのだ。だとしたら、ヘラクレスのパイロットはどうすればいいのか。それが次の問題となってくる。
「君達には、おそらく待機が命じられることになるだろう。
とにかくFifth Apostleを倒さないことには、ヘラクレスを出しても無駄死にさせることになる」
「他に、方法は無いんですか?
今のままでは、とても大勢の人が亡くなることになるんですよね?」
「あるんだったらっ!」
シンジの言葉に、堀井は少し声を荒げた。だがすぐに平静さを取り戻し、「すまない」とシンジに謝った。何もできないことへの焦りは、堀井もシンジ以上に感じていたのだ。
「いえ、僕の方こそすみませんでした」
そう言って謝ったシンジは、大人しく決定を待つことにした。シンジの能力では、限定された地域での最適化は出来ても、全体を見た戦略など立てようもなかったのである。ただそれでも、他に何か出来ないか、打開の策はないのかと必死に考える事にした。
その為に、シンジは「Fifth Apostle」のデータを、データベースから漁ったのだった。
シンジがミッションコントロールルームに連れ込まれている間、マドカ達には別室があてがわれた。応接と言うには少し調度がみすぼらしく、会議室と言うには立派な部屋に5人は通されていた。そこでぼんやりと、置かれたテレビを眺めて時間を潰していた。
「碇君、戻ってこないわね……」
シンジが連れて行かれてから、すでに1時間が経過していた。状況の確認と指示を受けるだけなら、こんなに長くなるはずはないとマドカは心配した。
「葵さん、何か情報はないんですか?」
その中で、アサミは一番情報に通じているはずの葵に目を付けた。そして葵はと言うと、タブレットにかじりついて情報を確認していた。
「なにか、とんでもないのが混じっているって情報しかないのよ。
そいつを何とかしないと、ヘラクレスが出撃できないらしいんだけど……」
「何とかするって……ヘラクレスがないとギガンテスって倒せないんですよね?」
そうでないと、今まで言われた事がおかしくなる。アサミの疑問に、葵は原則そうだと答えた。
「これまでの兵器では、出来てせいぜい足止めにしかなっていない。
単独でギガンテスを倒せる兵器があるのなら、とっとと採用されているはずなのよ。
でも、採用された実績がない以上、そんな凄い兵器は存在しないことになるわ」
「だったら、どうやって、そのとんでもないのを何とかするんですか?」
「そんなの、私に聞いて分かると思う?」
少し逆ギレした葵に、アサミはごめんなさいと謝った。必死で漁っても情報が無いのだから、色々聞かれても答えられないのは当然だったのだ。そして民間人を守る使命がある自衛官なのだから、何も出来ないことに対して、人一倍焦りがあってもおかしくなかった。
アサミに謝られ、葵は大人げないことをしたと反省した。ここにいる女子高生達には、情報を集めるすべが全く無いのだ。その中で唯一の専門家が自分なのだから、一般人が頼ってくるのはむしろ当然のことだった。それを邪険にしたのでは、愛される自衛隊員として失格だろう。
「ごめん、私も冷静じゃなかったわね。
特に堀北さん、あなたの場合は恋人の命に関わってくるのよね……」
うんと一つ頷いて、葵は備え付けの端末に向き合った。基地内のネットに繋がっているので、うまくやれば何か情報が取れるだろうと考えたのだ。
「えっと、それってさっき試しましたよ。
Webぐらいしか見えないから、ほとんど情報が無かったんですけど……」
マドカが言う様に、備え付けの端末は、部屋に案内された時に何度も試していたのだ。そしてその度、大した情報が無いことに落胆したのである。そこで分かったことと言えば、ニューヨーク一帯に大規模な避難命令が出ていることだった。対象人口が1千万以上と言うのは、高知の時に比べ10倍にも及ぶのだ。
そんなマドカの言葉に、葵は「自衛隊員をなめるな」と不敵に笑った。そもそも葵は、まともにアクセスするつもりは全く無かったのだ。はっきり言えばクラックをしてでも、必要な情報を得ようとしていたのである。
「こんなものの作りは、どこだって似たような物なのよっと。
ここのバグをこう利用して、抜け道を作ったら次の抜け道の探索っと……
あああん、なんでこんなにパッチが当たっていないのよ。
人ごとながら心配になってくるわね……っと、これでお終いっ!」
良しと言って葵がエンターキーを押した途端、画面はいきなりブラックアウトした。本来情報が表示されるはずなのに、それ以降うんともすんとも言わなくなってくれたのだ。
「あれっ、おかしいなぁ……壊れたのかな?」
端末を再起動しても、画面は全く復旧してくれなかった。もう一度おかしいなぁと呟いた葵は、おかしくなるはずのないケーブルの確認を始めてくれた。だがいくら確認しても、触っていない場所がおかしくなるはずがない。部屋の扉がいきなり開いたのは、ううむと葵が腕組みをした時のことだった。
「え、ええっと、ミスター、何かありましたか?」
そこに現れたのは、20代半ばに見える黒人の男性だった。精悍なその顔つきは、まさに軍人と言った所だろうか。ベンジャミン・ジョンソンと名乗った男は、苦笑混じりに「余計なことをしないでください」と葵に苦情を言った。
「内部からシステムにハッキングがあったと騒ぎになっているんです。
しかもそのハッキング元を探索したら、この部屋になっているじゃないですか。
だから私が、こうして説明に上がったと言う事です。
しかしミス葵、こうも易々とトラップに引っかかりますかね」
パッチが当たっていないと人のことを心配したのだが、結局それがトラップだったと言う事だ。それに気付かなかったことだけでも恥ずかしいのに、面と向かって指摘されれば更に恥ずかしいことになってしまう。その中で唯一救いがあるとすれば、英語のお陰でマドカ達には会話の中身が分からなかったと言う事だろう。
まさに「穴があったら入りたい」状態の葵は、聞き耳を立てているマドカ達を無視した。
「それで、何を知りたかったのですか?」
システムをあっさりと再起動したベンジャミンは、簡単な手順で必要な画面を呼び出した。そしてその画面をテレビに拡大し、映像データを呼び出せるようにしてくれた。
「ええっと、今どうなっているのかが知りたいんですけど……」
葵の言葉に、なるほどとベンジャミンは頷いた。そして時計を眺め、「間もなく作戦が実行されます」と答え、新しい画面をテレビに拡大した。
「Fifth Apostleと命名されているギガンテスが、今回の作戦における最大の障害と認定されました。
そのギガンテスを撃滅、最悪でも足止めするため米軍による総攻撃が間もなく実施されます」
「Fifth Apostleって……」
自衛隊に居る葵だからこそ、その意味は嫌と言うほど理解できた。2015年の襲撃時には、日本中の電力を集めて辛勝した相手である。接近を阻む圧倒的な火力の前に、同じ土俵で挑むほかなかった戦いだった。
顔色を悪くした葵に、アサミが「Fifith Apostleって」と声を掛けた。その質問に我を取り戻した葵は、どう説明した物かと頭を悩ませた。ネルフ時代のことを語ることは、シンジの正体に対するヒントを与える事になってしまう。だから葵は、言葉を選んで説明することにした。
「3年前に、一度全国が停電したことがあったでしょう?
そこまでして、何とか倒した相手なのよ。
今まで戦ってきたギガンテスとは、桁違いに強い相手よ」
「そんな相手と戦って、先輩達は大丈夫なんですか?」
シンジに色々知らされていることもあり、アサミは3年前に踏み込むことはしなかった。その気配りに感謝した葵は、だからこそ米軍が動いていると説明した。
「そのままだと、危ないって判断されたみたい。
だから、米軍が総力を挙げてFifth Apostleを仕留めに掛かっているのよ。
それが出来なければ、ニューヨークが廃墟になる可能性があるわ」
「先輩は……どうしようと考えているのでしょうか?」
過去の記憶がない以上、一度戦ったことのある相手だとしても、何の予備知識は無いのだろう。それでもアサミは、シンジだけが打開策を考えられると信じていた。それは、恋人に対するひいき目とは違う、とても漠然とした期待のような物だった。
そしてその感覚は、マドカとナルも共有しているものだった。高知の時もそうだが、シンジには期待を抱かせる何かがあると感じていたのだ。
だがアサミの質問に、葵には分からないとしか答えられなかった。米軍が何をしようとしているのかは、ベンジャミンに聞けば教えてくれるだろう。だがシンジは、隅っこで話を聞いている立場でしかなかったのだ。接近できない状況で、ヘラクレスのパイロットに出来ることは何も無い。槍の投擲を行うにしても、間違いなく相手の方が射程距離が長かったのだ。
そして少女達の見ている前で、米軍の攻撃はFifth Apostleの前に敗れ去った。一矢を報いることすら出来ない圧倒的な力に、マドカとナルも言葉を発することが出来なかった。ギガンテスと戦ったことがあるからこそ、敵の強大さが分かったのかも知れない。何をしても敵わない、そう思わせるだけの強さをFifth Apostleは持っていたのだ。この敵を相手にする方策など、マドカとナルにはとても思いつかなかった。
少女達が恐怖に打ち震えている頃、シンジは長い思考のループから抜け出していた。リスクはとてつもなく大きいのだが、都市に被害を与えずにFifth Apostleを倒す方法を思いついたのだ。その後の被害の大きさを考えたら、一か八かの賭けをする価値のある作戦だと自己評価した。
「堀井さん、出来たら後藤さんと連絡したいんですけど?」
「手詰まりのようだから、連絡するのは問題は無いと思うが……」
何をしようとしているのか。その質問を口にしかけた堀井だったが、すぐにそれが出過ぎた行為だと自制した。少なくとも、ギガンテスに対しては、目の前の少年は、自分とは比べものにならないほどの専門家なのだ。その専門家が必要と言ったのだから、繋ぎ役は自分の役目に徹すればいい。それ以上の干渉は、結局意味のない物になってしまうのだろうと。
それを理解した堀井は、「少し待っててくれ」と言い残して、後藤と連絡をすべく作戦の中心部へと向かったのだった。
続く