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 マドカから出された海外合宿申請は、本来なら学校の許可が下りるものではなかった。男子1名、女子4名という構成も問題だし、期間的に長すぎるのも問題とされた。しかも目的地がサンディエゴを含むアメリカ合衆国と、カサブランカを含むモロッコなのだ。S市と言う特殊性を考えても、常識的にあり得ない移動距離だった。
 だが最終的に、降りるはずのない許可が学校から降りてきた。その背景には、いくつかの圧力が掛かったという噂がある。そしてその中でも、篠山家からの圧力が一番強かったと噂されていた。もう一つ、自衛隊の口利きというのも意味として大きかったとされている。
 その証拠に、合宿中の見学コースに、サンディエゴとカサブランカ両基地の見学が組み込まれたのだ。S市に学校があることが、ここで大きな意味を持ったのである。その貴重なコースに、学校側が心動かされたとも言われていた。

 本来高校の部活の合宿であれば、顧問の教諭が同伴するのが常識だろう。だが居るか居ないのか分からない顧問は、しっかり海外合宿に尻込みをしてくれた。全ての経費が個人負担と言われれば、尻込みするのはむしろ当然のことだった。費用がかかることを強調したのは、部外者を排除するための方便でも有ったのだ。
 そこで間に立った篠山家が、お目付役を出すことを提案した。それを渡りに船と、職員会議は篠山家関係者の同行を条件に、「ジャージ部」に対して海外合宿の許可を出したのである。各種圧力に対して、落としどころが提示されたお陰である。
 掲示板に張り出された許可に、級友達は当然のように「裏切り者」とシンジを責めたのだった。

 そして夏休みに入って二日目、ジャージ部一行は合宿に向かうため碇家の前に集合していた。なぜシンジの家の前と言う疑問はあるが、栄えある海外合宿の第一歩をそこから記すことにしたのである。ちなみに公式行事と言う事で、全員S高の制服を着用していた。
 シンジの家からは、篠山家差し向けの車で駅まで移動し、そこからは電車を乗り継ぎ空港にたどり着くことになっていた。ロサンゼルスには、日本を午後出発する便を利用し、現地には朝到着する予定である。

 旅行の添乗員には、自衛隊から隊員二人が派遣されていた。その二人とは、空港で落ち合う予定になっていた。そのためシンジの家の前には、ジャージ部メンバーと、お目付役として同行する篠山家関係者が集合していた。そこで初めて、シンジはお目付け役である綾部サユリに引き合わされた。
 年の頃なら、20代半ばというところだろうか。綾部は鼻筋の通った、いかにも頭がよさそうな女性だった。見た目に関しても、女優で通りそうなほど綺麗な顔をしていた。一分の隙もない紺のスーツ姿は、優秀さを示しているようだった。

「はじめまして、綾部と申します。
 日頃お嬢さまがお世話になっていると伺っております。
 色々と行き届かないところがあるかもしれませんが、よろしくお願い致します」

 高校生に頭を下げた綾部に対して、こちらこそとシンジ以下全員が頭を下げた。ジャージ部合宿は、彼女の同行がなければ許可されなかったのである。それを考えると、お礼をいうのは自分たちでなければならなかったのだ。

「綾部さんに同行していただけるおかげで、無事合宿に行けるんです。
 色々とご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願いします」

 本来この手のお礼は、ジャージ部部長の仕事のはずだった。だが対外的なことということで、すべてがシンジが取り仕切ることとなっていた。任せられたシンジを含め、誰もが当然のことと受け取っていた。

「サユリさんは、父様についている秘書の一人なんだぞ。
 ものすごく優秀な人だと、父様が言っていた!」

 自分の事ではないのに、キョウカはえへんと胸を張って自慢してくれた。普段ならシンジからツッコミが入るところなのだが、相手が篠山家関係者と言うことで遠慮していた。
 キョウカの賛辞を顔色一つ変えずに受け取った綾部は、こちらにと言って大型のワゴンへ案内した。ここから歩いても、駅までは10分ほどの距離である。荷物は予め空港に送ってあるので、全員小さな手荷物しか持っていなかった。
 それぐらいなら歩けばいいところなのだが、そこを歩かせないのが篠山の篠山たるところだった。ある意味、田舎ほど歩かないと言うのを実践していることになる。綾部の指示に従って、全員がワゴンへと乗り込んだ。

「少し窮屈ですが、短い時間ですのでご容赦願います」

 助手席から後ろを見た綾部は、狭いことを5人に詫びた。ただ狭いと言っても、十分ゆったり座れるだけの広さが確保されていた。しかも5分とかからないのだから、我慢もなにもないところだろう。
 そして全員が座ったところで、マドカは大きな声で「しゅっぱぁつ!」と号令をかけた。シンジからは恥ずかしいからやめようと言われていたのだが、部長権限で押し切った合図だった。

 マドカの合図に従った形で、全員を乗せたワゴンはゆっくりと駅に向かって走りだした。これから、日程にしておよそ20日間弱、S高ジャージ部初の海外遠征が始まるのである。

 最寄り駅まで5分、そして最寄り駅からターミナル駅まで10分、更にそこから空港までは40分の道のりだった。よほど直接空港までワゴンで乗り付けたほうが早かったのだが、「旅には風情が必要!」と言うマドカの言葉で、不便な電車を乗り継ぐことになった。そのお陰で、乗り継ぎの度に駅の中を走り回ることになってしまった。
 途中の電車では吊革につかまっていたが、最後の40分は、ボックス席を2つ確保することに成功した。そのおかげで、場は完全に修学旅行の乗りとなってくれた。高3、高1女子が同じボックスに座り、唯一男のシンジが、綾部と同じボックスに入った。そして女子高生4人組は、席についたとたんにお菓子を広げ始めた。

「さすがは女子高生と言えばいいのでしょうか?
 みなさん、とても元気なのですね」

 向かいが空いているのに、なぜか綾部はシンジの隣に座っていた。どうしてと言うシンジに、「反対向きだと酔う」と言うのがその理由らしい。ほんとうですかと言うシンジに、「そう言うことにしておいてください」とニコリともせずに言い返してくれた。
 顔色一つ変えていないのだが、マドカ達に対して呆れているのは想像することができた。ただシンジにしても、マドカ達が騒ぐ気持ちも理解できていた。シンジにしても、自分が騒げないのが残念に思っていたぐらいだ。なんだかんだ言って、初めての海外に浮かれているのはシンジも同じだった。

「そりゃあ、初めての海外旅行ですからね。
 先輩たちがはしゃぐ気持ちも理解できますよ」
「では、堀北さんがはしゃがれていないのは、初めてではないからなのですね?」
「撮影で何度も海外には行っていると聞いていますから……」

 悪友の置いていった写真集の中には、現役時代のアサミの写真集も混じっていた。水着姿が大半の写真集は、オール海外ロケと帯に書かれていた。ちなみにその写真集はマドカ達に発見され、散々からかわれたといういわくつきのものである。しかもアサミからは、「個人的にお見せしますよ」とからかわれてもいた。

「そうだと思いますけど……」

 同意しながら、さすがに鋭いなとシンジは綾部に感心していた。朝一顔を合わせた時から、アサミは普段とは違って憂鬱な雰囲気を漂わせていたのだ。ただ何かあったのかと聞こうとしたのだが、微妙に避けられ話をすることができなかった。
 マドカ達の話は、シンジとの会話の取りかかりだったのだろう。綾部は篠山関係者として、シンジの能力調査に取りかかった。その第一が、シンジの語学能力だった。

「ところで碇さんは、語学の方は自信がありますか?」

 これから行く先を考えれば、語学能力を聞かれるのも自然なことだろう。綾部の質問に、どうだろうとシンジは少しだけ考えた。

「付け焼刃かもしれませんが、英会話の勉強はしてきましたよ。
 流し聴きの教材は、1週間ぶっ通しで聞いたかな?
 まあ、多少はお話ができたらと思っていますからね」
「でしたら……」

 綾部はシンジの耳元で、少し早口に英語で何かを話しかけた。綺麗な発音のため聞き取りやすかったのだが、その中身についてはいささか問題が多いと思えるものだった。

「テストしてくれるのはありがたいんですけど、どうしてそっちの方向になってくれるんですか?」
「碇さんにとって、一番実用的な方面を選んでみただけですよ。
 ちゃんと受け答えできれば、金髪の美少女を部屋に連れ込むことができます」

 つまり、綾部が囁いたのは色事方面と言う事だ。自分をなんだと思っている。シンジとしては、強く主張したいところだった。

「表向きは部活の合宿なんですから、絶対にそんなマネはしませんよ。
 もしもそんなことをしたら、間違いなく日本に返ってきた時チクられます」

 そう言って文句を言ったシンジに、そうですかと綾部はもう一度英語で話しかけた。それも何とか聞き取れたのだが、相変わらず話の方向が色事に偏っていた。

「秘密は守るって……子供をからかわないでください」
「からかっているのかどうかは、ホテルについてから確かめてみますか?」

 きわどい言葉を、顔色を一切変えずに口にしてくれるのだ。全部冗談だとは思っても、どこか本気の部分がないか疑ってしまう。

「とりあえず、碇さんの語学能力がどの程度かはつかめました。
 少しお手伝いすれば、現地で苦労することはないと思いますよ。
 どうです、西海岸のアテナに挑戦されてみては?」
「壁がものすごく高いのと、どっちに転んでもただじゃ済みそうもないことを言ってくれますね。
 繰り返しますけど……って言ってないか……僕にはちゃんと彼女が居るんですからね」

 だからと言いかけたところで、隣の席からマドカの注意が飛んできた。ただその注意というか主張は、人前で言ってほしいことではなかった。

「碇君、年上だったらここにもいることを忘れないでね。
 それから、おかしなことをしたらアイリちゃんに言いつけるからね」
「そういう事を、大声で言わないでください!」

 少し声をひそめ、マドカ達の方に身を乗り出してシンジは文句を言った。

「でもぉ、さっきから年上の美女とひそひそ話をしているじゃない。
 アイリちゃんから借りてきている身としては、綺麗な体で返さないといけないんだけどなぁ」
「ひそひそ話って……英語のヒアリングテストをされていたんです!」
「そんなことを言われてもねぇ、金髪美少女とか、部屋に連れ込むとか聞こえてくるのよ。
 一体どんな英会話のレッスンを受けているのかしら?」

 ねえっと話を振ったマドカに、ナルは「不潔」と冷たい視線をシンジに向けた。そしてキョウカも、「浮気は良くないな」といつかとは正反対のことを言ってくれた。ただ一人アサミだけは、黙ったまま話に乗って来なかった。

「綾部さんのお陰で、先輩達にからかわれたじゃないですか」

 そこで文句を綾部に言ったのだが、さすがは年の功とでも言うのか、必要なことを教えたまでだと言い返されてしまった。

「ご当主からは、日本男児として恥ずかしくないようサポートしろと言われています」
「それが、どうしてあっちの方面なんですか……」

 困ったものだと、ニヤニヤしているマドカ達の方を見るふりをして、一人沈んでいるアサミの様子を窺った。シンジに見られているのに気付かないのか、アサミは窓の外の景色を眺めていた。

「アサミちゃん、絵にはなっているけど、旅は楽しく行こうよ」

 一人仲間に加わってこないアサミを、早速マドカが目を付けてくれた。それを気配りというのかどうかは別にして、部長として必要な配慮に違いなかった。
 シンジが心の中で「ナイス」とマドカを褒めていたら、「ばれました?」と小さく舌を出してお菓子に手を伸ばした。

「アサミちゃん、失恋でもしたの?」

 だが続いたマドカの言葉は、配慮も何もあった物ではなかった。あまりにもあけすけな質問に、それで良いのかと突っ込みたくなったほどだった。ちなみに「失恋」発言の理由は、アサミが髪型を変えてきたことだった。それが大人っぽく見えることも、失恋を持ち出した理由だった。ただ問題は、これまでアサミの相手が一度も話題に登ったことがないことだった。
 ただそれがマドカだと考えれば、別に不思議なことではなかったのだろう。聞かれた方も、あまり気にしていない様子だった。

「逆です!
 素敵な恋を掴むために、少し大人っぽく纏めてみたんです。
 服はママが選んでくれたし、髪型はパパの美容院で綺麗にしてきました!」
「やっぱりカヲル様?」
「素敵だと思いませんか?」
「そりゃね!」

 しししと笑うマドカはシンジのことを意識していたのだが、なぜかアサミはシンジの方を全く見ようとしなかった。十分何かあったと思わせる反応なのだが、その何かにシンジは心当たりがなかった。だがその何かを考えようとした時、隣から少し低い声で「気になりますか?」と綾部に聞かれた。

「でも、碇さんが気にすべきは“彼女”さんの方ではありませんか?
 朝のお見送りにいらしてないようでしたけど大丈夫ですか?」

 かなりシビアなことをずばりと聞いた綾部だったが、シンジが答える前に「ああ」と一人早合点をしてくれた。ただその中身は、高校生に言うべき事ではない物だった。

「朝起きられないほど、昨夜はご奉仕されたと言うことですね?
 でしたら、今朝お見かけしなかったのはよく分かります」
「高校生相手に何をいっているのですか……」

 はあっとため息を吐いたシンジに、「そうですか?」と綾部はすました顔で答えた。そしてある意味爆弾……をジャージ部全体に落としてくれた。

「女子高生の非処女率は2〜3割と聞いていますよ。
 それを考えたら、前夜別れを惜しんで励まれてもおかしなことではないと思いますが」
「だから、健全な男子高校生に向かって何をいってくれるんですか……」
「年頃からして、性欲に満ちあふれている方が健全だと思いますよ。
 まさか禁欲的に生活することが、“健全”だと仰るのですか?」

 綾部の言っていることはかなり極端なのだが、なぜか否定しにくい意見でもあった。しかもマドカ達が聞き耳立てているのが分かるから、迂闊な答えを返すわけにはいかない。かなり困ったと悩むシンジに、綾部はもう一つ数字を持ち出した。

「ちなみに男子高校生の場合は、女子高校生の半分程度の割合になっていますね。
 そう言う意味では、碇さんが悶々と妄想に狂うのも平均的姿と言う事が出来ますね」
「綾部さん、子供をからかって面白いですか?」
「空港までの暇つぶしにお付き合いしただけのことですよ。
 そう言えば、皆さんあまり携帯メールを送られていないのですね?
 高校生と言えば、ケータイが手放せない物だと思っていました」

 話をコロコロと変えるのは、篠山家関係者の特徴なのだろうか。がらりと話を変えた綾部に、「使いますよ」とシンジは言い返した。

「ただ、ここで顔を合わせているのに、メールを使う必要もありませんよね?」
「つまり、ここにいる皆さんは、他にお友達が居ない寂しいお方と言う事ですね」

 なるほどと綾部に納得され、聞き耳を立てていた全員が慌てて携帯電話を取りだした。そして一斉に、メールやらSNS……FBやツイッターへの書き込みを始めた。「寂しい」と言われたのが、やはり気になったのだろう。

「とは言え、せっかく皆さん顔を合わせているのに、盛り上がらないのはもっと寂しいですね」
「綾部さん、高校生をからかって楽しんでいます?」

 乗せられたマドカとナルを横目に、「そこまでにしておいてください」とシンジは苦情を言った。表情も変えずに淡々と攻撃されたら、楽しい旅が沈んだ物になってしまう。
 シンジの苦情に、綾部は申し訳ありませんと謝った。そしてシンジにしてみれば、勘弁して欲しい理由を口にしてくれた。

「御当主様より、碇様がどのようなお方か観察するようにと申しつかっております」
「そうやって、高校生にプレッシャーを掛けて楽しいですか?」
「仕事ですから、楽しいかどうかは関係有りませんね」

 しれっと言い返されれば、「そうですか」としか答えようがない。シンジの携帯が鳴ったのは、ちょうどその時のことだった。

「他にも、お友達がいらしたのですね」
「どう言う意味ですか……」

 少し不機嫌そうな顔をしたシンジだったが、メールを開いたらそれどころではなくなった。少し前にアイリに送ったメールが、宛先不明で返ってきたのだ。

「あれ、先輩、メールシステムおかしくなっていませんよね?」

 いつも使っているアドレスに送っているのだから、宛先不明と言うのは考えにくかった。だからメールの障害かと、同じ会社の携帯を使っているマドカに確認した。だがマドカから返ってきたのは、「どこもおかしくないけど?」と言う答えだった。それは、すぐにマドカからメールが届いたことで証明された。
 おかしいなぁと呟きながら、シンジはアドレスを確認してメールを送り直した。だが確認したはずのアドレスだったのだが、すぐに宛先不明でメールが返ってきた。

「篠山、瀬名さんにメールを送ってみてくれないか?」
「部長にだな。
 よしよし、碇先輩が寂しがっていると送ってやろう!」

 自分のスマホを取り出し、慣れた手つきでキョウカはメールを送信した。だがキョウカから送っても、結果はシンジと変わらなかった。すぐに返ってきたメールには、宛先不明としっかり書かれていた。

「メルアド変えたんじゃないの?
 もしかして碇君、アイリちゃんと喧嘩した?」
「一昨日の終業式の後、デートして帰ったんですけど……
 その時、どんなお土産がいいかまで話をしたんですよ」

 形が残る物と言われたのを覚えているのだから、喧嘩と言われても困ってしまう。おかしいなと首を傾げたシンジは、メールをSMSに切り換えた。これならば、電話を解約していない限り相手に届くはずだった。だがすぐに帰ってきたメールは、宛先不明と言う物だった。

「篠山、夏休み中、料理部は部活するのか?」
「夏休み明けまでお休みという話だったぞ……」

 ふ〜むと唸ったキョウカは、別の宛先にメールを送った。部活の先輩なら、何か知っているのかと考えたのだろう。それを見たシンジは、ほとんど同じ目的で妹にメールを送った。

「アイリちゃん、連絡が取れないの?」
「なにか、電話が解約されているみたいなんです……
 料金の支払いを忘れても、この時期切られることはないですよね?」
「そんなことを言われてもねぇ……」

 止められた経験が無ければ、そんなことを聞かれても分かるはずがない。マドカの答えに少しシンジが焦りだしたところで、キョウカとシンジの携帯に同時に着信が入った。

「サナ先輩は何も聞いていないって言っているぞ」
「妹も、何も知らないらしいね……」

 ふっとため息を吐いたシンジは、「仕方が無い」と連絡を諦めることにした。

「妹をアパートまで様子を見に行かせるから、その連絡待ちだね」
「碇君、海外合宿をリタイアする?」
「今更、そんなことが出来るはずがないでしょう。
 僕がそんな真似をしたら、後藤さんが倒れますよ。
 事故とかじゃなければ、帰ってからでも連絡は取れるんですからね」

 電波が届かないではなく、「使われていない」なのだ。だとしたら、何らかの事情で電話を解約したと考える方が自然だった。だからシンジも、帰ってからと言う事が出来た。だがシンジの答えは、マドカには不評だったようだ。

「こう言う時は、世界よりも恋人を取るべきじゃないの?」
「勝手に、大げさな話にしないでください……」

 なぜ、電話が通じないだけでその二択が迫られなければいけないのか。それをシンジは文句を言ったのだが、あいにくマドカとナルは受け付けてくれなかった。隣どうしに座っているのを良いことに、はしっと抱き合って愁嘆場を演じてくれた。

「アイリっ、僕は君のためなら世界でも敵に回してみせる!」
「愛してる、シンジっ! ……残念、駅に着いたわね」

 結局長いようで短い40分は、二人の馬鹿話で締めくくられてしまった。なんだかなぁと思いつつ、無駄を承知でアイリの携帯に電話をしてみた。当然聞こえてくるのは、電話番号が使われていないと言うアナウンスだった。

「やっぱり駄目か……」

 ふうっとため息を吐いたシンジは、遅れないようにマドカ達の後を追いかけた。出発までは時間があるので、妹から連絡があるだろうと割り切ることにした。

 待ち合わせ場所に通訳として現れた二人は、ある意味自衛隊員らしい男と、どう見ても女子大生に見える女性だった。紺系のスーツを着た、四角い顔に四角い体、堀井ゴウトと名乗った男に、シンジ達はなるほどと納得した。逞しさが条件ではないのだろうが、いかにも自衛隊員と言う逞しさを持っていたのだ。その厳つい男が、にぃと精一杯の笑みを浮かべて「堀井です」とシンジ達に頭を下げた。
 そしてもう一人が、白いブラウスにピンクのスカートを穿いた葵ユキナと名乗る女性だった。見た目だけなら20歳以下と言う幼さと元気さを発散し、「ユキナでぇす」とシンジにピンポイントですり寄ってくれた。綾部と並べると、年齢的には同じ位のはずなのに、少し小柄なこともあり、大人と子供と言いたくなるほどの違いがあった。

「ではS高ボランティア部の皆さん、これから出国の手続をして貰います。
 事前にお渡ししてある出国カードと航空券、パスポートの用意をお願いします。
 では団体口を利用しますので、私の後を離れないように着いてきてください」

 とにかくでかいこともあり、人混みの中でも堀井は目立ちまくってくれた。しかも「S高ボランティア部ご一行様」と書かれた赤の三角旗まで持ってくれたのだから、見失いようのない見事なツアコンだった。その巨体の後ろを、初海外旅行となるボランティア部面々が、少し緊張気味に着いていった。
 堀井が言うには、関係各省へは事前の通達はしていないと言う事だ。その割に何のトラブルもなく、ボランティア部一行は無事出国審査を通過できた。エコノミーのためラウンジも使えないので、出発までの時間は、篠山家が特別に手配したラウンジを利用することにした。ちなみに入口に書かれていたのは、「篠山家関係者様」である。そのあたりは、高校名だと目立つと言う配慮からだった。

 そのラウンジで待ちながら、堀井は必要な事項を伝達した。

「繰り返すが、今回の出国に関して外務省に依頼は行っていない。
 特別なことをすると、それだけ回りの注目を集めることになるからだ」

 事前通告しないのは、極力目立たないためと言う堀井の説明に、なるほどと高校生一同はジュースを飲みながら頷いた。あくまで一般高校生で通すためには、おかしな配慮などない方が好ましいだろう。
 高校生達が納得した所で、説明役が堀井から葵にバトンタッチされた。

「ではでは、ここからユキナが説明します。
 皆さんが利用するフライトは、明日の朝ロサンゼルス空港に到着します。
 そこから車で南下して、サンディエゴに向かいます。
 ハイウエイを飛ばすと2時間ちょっとで着いてしまいますので、
 途中、観光しながらサンディエゴには向かうことにします。
 と言うことで、皆さん可愛らしい水着は持ってきましたか?」

 間違いなく女性陣向けの質問に、マドカ達は元気よく「はい」と答えた。

「なぁお、ビーチは基地滞在中でも利用することが出来ます。
 ですから、希望があれば経由地をディズニーランドにすることも可能ですよ」

 ディズニーランドという名前に、一番反応したのは何故か綾部だった。これまでの様子からは想像できない勢いで立ち上がったかと思うと、「賛成」と一人大声を上げてくれた。だが思ったよりマドカ達の食いつきが悪く、完全に一人浮いた状態となってしまった。
 キョロキョロと周りを見たサユリに、「そう言うことです」と葵が話を引きとった。

「はい、これがSIC年齢チェックの一つです。
 SICの前に子供時代を過ごした人は、東京ディズニーランドに強い憧れがありました。
 でも今は水没してしまって、新しい施設は作られていません。
 ですから今の女子高生は、あまりディズニーランドに反応しないんですよ」
「年寄りチェッカーってことですか?」

 あまりにも失礼なマドカの言葉に、軽さを振りまいていたユキナの顔に苦笑が浮かんだ。

「20台半ばを年寄りと言うと、この旅行の無事は保証できませんよ」
「でも、私たちから見たらおば……お姉さんですし……はい」

 さすがに危険な物を感じたのか、マドカはそれ以上年齢ネタに触れないことにした。そして少しわざとらしく、「ディズニーに行ってみたいなぁ」などと口にしてくれた。

「予定については、現地に着いてから再度確認しますね。
 夕方には、歓迎パーティーが開かれますから、皆さんおめかししてくださいね!
 はい遠野マドカさん」
「ジャージでも良いですか?」

 あまりにも予想外の質問に、ユキナは間抜けな顔をして「はぁ?」と聞き返した。

「ごめんなさい、私ちょっと聞き損なっちゃったみたいね。
 遠野マドカさん、なにで良いのかと聞いたのかしら?」

 最後の方で言葉にドスがこもっていたのは、おそらくちゃんと聞こえていたからに違いない。だがその意味も綺麗に無視して、マドカは「ジャージ」と繰り返してくれた。

「うちの部活の制服なんですよ」
「はい分かりました、却下させていただきます。
 いいですかぁ、パーティーの意味を取り違えないようにしてくださいね。
 アメリカにまで来て日本の恥をさらしてくれたら、遠慮無く海に沈めてあげますからねぇ」

 軽い調子で答えているのだが、細かく痙攣するこめかみが真実を語っていた。だが次に発言したナルは、葵に対して追い打ちを掛けてきた。

「じゃあ、高校の制服で良いんですね。
 高校生の場合、公式の場は制服って決まっていますよね?
 だから、今だって高校の制服を着ているんですよ」

 華やかなパーティーに、学校の制服を着た一団が参加する。そのミスマッチさを想像して、葵は酷い目眩に襲われた。それは絶対に恥ずかしいと声を大にして主張しようとした葵だったが、「問題ない」と堀井が答えを横取りしてくれた。

「葵は勘違いしているようだが、あちらも制服で参加してくるだろう。
 従って、諸君が制服で参加しても何ら問題は無い。
 どうした葵、お前こそパーティーの意味を取り違えていないか?」

 驚いた眼差しを向ける葵に、堀井は顔色一つ変えずに言い返した。基地で開かれる歓迎パーティーなのだから、制服こそ礼儀だと堀井は断言した。

「現にパイロット候補達の歓迎パーティーも、制服で行われたと聞いている」
「なんて夢のない……」

 はあっと大きくため息を吐いた葵は、「ここまでが本日の予定です」と説明を切り上げた。どう見ても落胆した様子は、パーティーを楽しみにしていたからだろう。

「間もなく搭乗時間になりますので、碇さん携帯電話は電源を切っておいてくださいね」

 説明の場が混乱した原因は、ジャージ部のブレーキ役が機能していないのが大きかった。葵が説明している間。シンジはずっと自分の携帯電話とにらめっこをしていたのだ。だが待てど暮らせど、妹からは何の連絡も入ってこなかった。

「もう、切らないといけないんですか?」
「せいぜい、搭乗ゲートをくぐる前までね。
 なになに、彼女からの電話を待っているのかな?
 って、なに、どうかしたの?」

 軽くからかったつもりなのだが、ほぼ全員から冷たい眼差しを向けられてしまった。そのプレッシャーに一歩下がった葵は、もう一度「なに?」と繰り返した。何と聞きながら、その顔はしっかりと引きつっていた。

「碇君、レイちゃんからまだ連絡がないの?」
「うちから瀬名さんの家まで、妹だと30分ぐらいかかりますから。
 すぐに家を出たとしたら、連絡があっても良さそうなんですが……」
「でも、女の子がお出かけするのは時間が掛かるのよ。
 電話があったからって、すぐに出かけるのは難しいと思うわ」

 冷静にと諭すナルに、「ああ」とシンジは生返事をした。言われていることは理解できるのだが、なぜか頭に実態として入って来なかった。シンジには珍しく、著しく思考能力が落ちていた。

「とにかく、今さら行かないって選択肢はないのよ。
 さあさあ、電話を切って飛行機に乗り込みましょう!
 向こうについたら、きっとレイちゃんからメールが入っているからね!」

 お姉さんらしく、マドカはシンジのお尻を叩いて先を急がせた。確かにマドカの言うとおり、今更後戻りできないところに来ていたのだ。だったらこのまま進んでいくしか無いのである。回転の落ちた頭でも、それぐらいのことは理解することができた。だからシンジは、「分かりましたよ」と答えて携帯の電源を落として立ち上がったのだった。



 夏休みに入った朝は、惰眠をむさぼる時だとレイは信じていた。だから海外合宿などという羨ましくも面倒くさい行事に出かけた兄を見送り、レイはすぐに自分のベッドへと急行した。昨夜は夜更かししたおかげで、頭の中には程よい眠気が残っていたのだ。エアコンから吹き出される涼しい風も、二度寝に誘うそよ風のようだった。

「ふにゃぁ……気持ちいい……」

 もう一度レモンイエローのパジャマに着替え、レイは少し冷えたベッドの上をゴロゴロと転がった。窓から差し込む明るい日差しは、お休みの醍醐味を伝えてくれるようだった。ベッドの上をごろごろ転がって、レイは干渉されない一人の時間を堪能した。今日一日は、なんの予定も入れていない。だからお腹が空いたら起きればいいと思っていた。
 しばらくゴロゴロと転がっていたレイだったが、涼やかな風が彼女を眠りの世界に連れて行こうとした。だがいよいよ意識が薄れたところで、枕元に置いてあった携帯がうるさく自己主張をした。ただ、そこで目が覚めたのかというと、どうもそうではなかったらしい。半分眠った状態で携帯を見たレイは、ほとんど意識もしないで返信のメールを打ってくれた。「知らない」と言うのは、中身を理解してのことではなかったのだ。

「ふぁぁぁぁ〜っ、お休み」

 これも無意識のうちなのだろうが、携帯もスーパーサイレントモードに切り替えていた。このあたりは、惰眠を貪ろうとする本能からに違いなかった。



 十分な睡眠をとったからか、はたまたお腹がすいたかトイレに行きたくなったのか、レイが目を覚ましたのは世間ではそろそろ夕方と言われる時間だった。もぞもぞと動いてからベッドを飛び出し、そのままトイレに向かったのは、やはり相当溜まっていたのだろう。ショートカットの髪をあちこち跳ねさせ、少し危なっかしい足取りで部屋に戻ってきた。

「もうすぐ5時か……思いっきり無駄に一日を過ごしたわね」

 それこそ自分の狙ったところ、無駄と言いつつも有意義な一日だと思っていた。
 ふぁ〜と大きく欠伸をして、レイは携帯電話を取り上げた。画面に表示された不在着信の表示に、いつの間にと首を傾げた。

「あれっ、いつスーパーサイレントにしたんだろう……
 それに、公衆電話から着信の嵐だわ……」

 数えてみると、お昼頃を中心に10回着信が入っていた。5分間隔で着信しているところを見ると、よほど急いで連絡しようとしていたに違いない。

「でも、公衆電話じゃ返信のしようもない……乾先輩からも電話が入っているわね。
 あれっ、兄さんからメールが入っているわ……しかもいつの間にか返信している。
 ちゃんと返信になっているところが私って凄いわね……」

 そう自画自賛したレイは、携帯のサイレントモードを解除して、ベッドの上に放り投げた。

「さすがに寝過ぎたかなぁ……頭がくらくらする。
 それに、なんかお腹が空いてきたわ……コンビニに行かないと」

 だったらお出かけしないといけないのだが、鏡を見たらボサボサの頭をした女の子がそこに居た。

「カップラーメンがあったわよね。
 決めたっ! 今日は家から一歩も出ないっ!」

 よしと力こぶを作ったところで、ベッドの上で携帯電話が鳴り出した。なんでこんな時にと文句を言いながら携帯を見ると、料理部副部長の乾サナからの電話だった。お昼にもあったなと思い出しながら着信ボタンを押した途端、スピーカーからサナの大きな声が聞こえてきた。

「ち、ちょっと乾先輩、そんなに大声を出さなくても聞こえますよ」
「何をのんびりとしたことを言っているのっ!
 碇さん、あなたアイリの家を知らない?」
「瀬名先輩のですか?
 乾先輩、瀬名先輩の家を知らなかったんですか……」

 普段仲がよさそうなくせに、そんなことも知らないのかとぼんやり考えていたら、「それどころじゃない!」と大きな声がスピーカーから聞こえてきた。その声の大きさに思わず携帯を耳から離したレイは、「どうしたんですか」と電話の向こうにいるサナに聞いた。

「どうしたって……今朝からアイリと連絡がつかなくなったのよ。
 私は篠山さんに聞いたんだけど、碇君も連絡をつけようと手を尽くしていたみたいよ!」
「お兄ちゃんが……そういえばメールが入っていたような……」

 電話をスピーカーモードに切り替え、レイは兄から送られてきた携帯メールを呼び出した。そしてそこに書かれている中身に、「ええっ!」と大きな声を出して驚いた。

「電話も解約されているんですかぁ!」
「だから連絡が取れないって言ったでしょう!
 こうなったら直接家に乗り込もうと思っているんだけど、誰もアイリの家を知らないのよ。
 唯一知っていそうな碇さんは電話に出てくれないし……」

 少し泣きそうな声が電話の向こうから聞こえてきた。それだけアイリのことを心配しているのだろう。そうやって言われると、惰眠を貪っていた自分が恥ずかしくなる。「分かりました!」と大きな声で答え、どうしたら良いのか少しだけ考えた。

「瀬名先輩の家なら知っていますから、そうですね10分後に駅前に来てもらえますか!
 ええっと、ごめんなさい、20分後にしてもらえますか」

 これは一大事といえを飛び出そうとしたのだが、自分がパジャマ姿なのをすぐに思い出した。ボサボサの髪は、寝ぐせどりで押さえつければいいが、パジャマのままで家から飛び出す訳にはいかない。電話を切ったレイは、慌てて洗面所に駆け込んだのだった。

 電話を切ってから19分と20秒で駅にたどり着いたレイは、そこで泣きそうな顔をしたサナを見つけた。その顔を見る限り、午前中から一人奮戦したのだろう。

「乾先輩、お待たせしましたっ!」
「良かった、碇さんが来なかったらどうしようかと思ってた……」

 ハンカチを目に当てたサナに、ごめんなさいとレイは謝った。そしてすぐに「行きましょう」とその手を引っ張った。兄の連絡を受けてから時間は経っているが、暗くなる前に決着をつけようと決心していた。
 そして駅から急いで20分、レイ達はアイリの住んでいたアパートの前にたどり着いた。かなり日は西に傾いていたが、まだ暗くなるまでには十分な時間が残っていた。

「こんなところに、アイリは住んでいたの?」
「無理を言って、一人住まいをしていたと教えてもらいました。
 恥ずかしいから、みんなには内緒にして欲しいって口止めされていたんです」

 さあとサナを促し、レイは階段を上がってアイリの部屋を目指した。だがドアの呼び鈴を押しても、中から何の反応も帰って来なかった。それどころか、人が住んでいる気配も感じられなかった。

「ねえ、本当にこの部屋なの?」
「兄と一緒に送ってきたこともあるから間違いありません!」

 そう断言し、レイは固く閉じられた扉を叩いた。だがいくら叩いても、中からは何の返事もなかった。それならばと、レイは隣の部屋の呼び鈴を押した。隣に住んでいるのなら、なにか知っているだろうと一縷の望みをかけたのである。
 呼び鈴を押してしばらくして、中からとても不機嫌そうな顔をしたおばさんが顔だけ出した。髪の毛が飛び跳ねしているのは、おそらくレイと同じ理由なのだろう。

「せっかく、気持よく夕寝をしていたのに……なによあんた達?」

 関わりたくないというのが、彼女の顔にありありと浮かんでいた。その分言葉も、とてもぞんざいな物だった。それでもようやく捕まえた手がかりと、レイは隣の部屋のことを聞いた。

「すみません、隣に住んでいた女子高生のことを知りませんか?
 おととい学校で会ったのに、いきなり今日になって連絡が取れなくなったんです!」
「隣の……ああ、アイリちゃんのこと?」

 ふぁぁ〜と大きなあくびを一つしたおばさんは、開いた口を手で隠しながら「引越したわよ」とあっさりと言ってくれた。

「引っ越した……本当ですか!?」
「本当かって言われてもねぇ、お昼ごろお母様と挨拶に見えられたわよ。
 アイリちゃん、泣きそうな顔をしていたからハッキリと覚えているわ」
「先輩、泣きそうな顔をしていたんですか?」
「あの子、恋人が居たんでしょう?
 きっとお別れになるから、寂しくて泣いたんじゃないの?」

 その恋人の妹が、目の前にいる自分なのだ。だがレイにとって一番の問題は、お昼ごろまでアイリが家にいた事だった。兄からのメールですぐに訪ねて来ていれば、引越し前のアイリを捕まえることができたはずなのだ。惰眠を貪っていたため、大切な人とお別れすることも出来なかった。

「どうしよう、お兄ちゃんになんて言えばいいんだろう」
「どうって言われても、今更どうにもならないし……」

 サナとレイの会話を聞いたおばさんは、「ちょっと」と二人の会話に割りこんできた。

「あら、あなたあの格好いい子の妹さんなの?
 すごく礼儀正しくて、可愛くて、とてもいい子だったわよね。
 ご近所で、お似合いのカップルねって噂になっていたぐらいなのよ」

 初めに比べて、おばさんの不機嫌さはかなり緩和されていた。そして呆然とするレイに、同情のようなものをしてくれた。

「それで、どこに引っ越したのか聞いていませんか?」

 レイが呆然としてしまったので、その後をサナが引き取った。挨拶に来たのなら、引越し先ぐらい話していてもおかしくないと思ったのだ。

「引越し先ね……ここは基地があるから出ていくってお母さんが言っていたわね。
 あのお母さん、どこかで見た覚えがあるのよねぇ〜」
「それで、どこに行くって言っていませんでしたか?」
「どこって言われても……ところで、あなたは碇レイさん?」
「碇レイは、私ですけど……」

 なにがと答えたレイに、預かり物があったとおばさんは部屋の中に消えていった。そしてすぐに、白い封筒を持って戻ってきた。

「もしも碇レイって女の子が来たら渡して欲しいって頼まれていたのよ」
「私にですか……?」
「送らなくてもいいの? って聞いたら、それは必要ないって。
 ここに来た時だけ渡して欲しいって言ってたのよ。
 じゃあ、渡したからね、私はそれ以上知らないからね」

 そう言っておばさんは、さっさとドアを閉めてしまった。残されたレイとサナの二人は、渡された一通の手紙をどうしようかと途方に暮れてしまった。あまりにも突然の出来事に、まだ頭の中が付いてきてくれなかったのだ。

「と、とりあえず、ば、場所を変えましょうか?」
「そ、そうですよね、ここじゃご近所迷惑になりますから……」

 飽和しそうな頭を働かせ、二人は場所を変えることだけ思いついた。だがそれ以上の事は、どうして良いのか全く分からなかった。とにかく手紙を見なければ、その思いだけで二人は場所を駅前の喫茶店に移すことにした。今はそれぐらいしか、何も考えられなかったのだ。

 急いで喫茶店に駆け込んだ二人は、早速アイリの手紙を開いた。だが手紙を読み始めてすぐ、どうしようもない不条理を突きつけられた気分になってしまった。アイリの気持ちを綴った手紙は、綺麗で几帳面な文字で書かれていた。それがシンジのことに触れたとたん、手が震えて文字が乱れてしまっていた。その文字の乱れ方を見ると、アイリの気持ちが手に取るように分かるのだ。
 なぜ急に転校することになったのか、そしてシンジに伝えず居なくなることを選択した理由。本当にそれが全ての理由なのか分からないが、アイリの辛さがひしひしと伝わってくる。最初は腹を立てて居たサナも、歯を食いしばって涙をこらえていた。

「どうして、一言も相談してくれなかったのよ……」

 それだけアイリも苦しんだと言うことだろう。結局アイリも自分も、何も出来ない無力な子供でしかなかったのだ。それが分かってしまうだけに、サナとレイは、自分達の無力さに涙を流すことしかできなかった。



 日本からロサンゼルスまでは、およそ10時間のフライトとなる。そして午後発の便のため、外はすぐに夜となってしまった。到着すれば朝ということは、このまま起き続けていれば40時間以上昼を続けることにもなりかねなかった。
 明日の観光予定を決めなければいけないし、適当なところで休まないと着いてから辛くなるのも分かっていた。だから後ろの方のツアー用エコノミー席を陣取ったマドカ達は、時計とにらめっこをして翌日の予定を考えた。

「ビーチは、基地に着いてからもいけるのよね?」
「カサブランカでにもビーチはあるって話よ。
 だからロサンゼルスでは、積極的に遊ぶべきよね」

 つまり、どこでも出来る海遊びより、ロスでしかできないことを優先することで第一の合意は形成された。

「綾部さんも楽しみにしていたようだから、ディズニーランドに行くことにしようか?」
「凄く立派な遊園地なんでしょう?
 だったら、行かない手は無いわよね」

 往々にして、行動予定にシンジの意見は採用されない。その上アサミが黙っているので、目的地決定は3年生二人の独擅場となってくれた。ただ候補地は最初から出されていたので、選ぶだけなら大きな問題も無いはずだった。ちなみに他の候補には、豪邸が並ぶビバリーヒルズと言う物もあった。
 とりあえず目的地が決定したので、マドカは翌日の準備を全員に命令した。日本との時差が8時間有るのだから、現地到着は日本時間で言えば午前0時と言う事になる。そこから遊び倒すには、退屈な飛行機の中で休息を取っておく必要があったのだ。

「明日楽しむためには、ここは心して眠るように!」

 良いですねと注意したマドカに、一応全員から「はい」と言う返事が返ってきた。明日の行動予定を否定する必要もないし、飛行機の中が退屈なのも確かだった。「機内エンターテイメント」とたいそうなことが書かれているが、結局映画と簡単なゲームぐらいしか選ぶ物が無かったのだ。食事にしても、今が深夜だと思えば取らなくても我慢できるだろう。
 従って、マドカの号令に従って全員確保してたブランケットを纏った。そして騒音低減用の耳栓とアイマスクを装着して、お休み準備は完了である。本当に眠れるのかどうかは別として、ここから先は「眠る」と言うのがジャージ部の活動と言う事になった。

 ジャージ部一行は、真ん中の4列シート2列を確保していた。狭いのはイヤという女子高生達の強い主張により、初めの4列はマドカ達女子高生4人が確保することになった。そしてその後ろの4列に、シンジと大人達が座ることになったのである。その中に巨体の堀井が居るのだから、当然のようにシンジ達の列は、見た目からして窮屈な物になっていた。

「いや、だから、いくら狭いからってそんなことをしますか?」

 いざ寝ようと毛布を掛けたら、何故か隣の綾部が潜り込んできた。しかも間の肘掛けまで持ち上げているから、結構体が密着していたりした。更に言うなら、しっかりとシンジにもたれかかってくれるのだから、年齢差さえ考えなければ、恋人同士の振る舞いだった。
 ただ大きな声で文句を言うと、またマドカ達の餌食になってしまうだろう。だから声を潜めたシンジに、綾部も調子を合わせ、耳元で小さな声で囁いてきた。

「こうしないと、葵さんが狭くて可哀相だと思います。
 それから碇さん、遠慮なさらなくても結構ですよ」
「遠慮って、何をですか……」

 匂ってくるのは、綾部の付けている香水だろうか。こうして密着することで、彼女の体温と匂いを強く感じられるようになってしまった。しかもやけにはっきり感じる柔らかさは、高校生男子にとって刺激が強すぎたと言えるだろう。

「ただ、場所が場所ですから、触るだけにしておいてくださいね。
 それ以上の事は、ホテルに着いてからのお楽しみにしてください。
 後は、激しくされると声が出てしまいますので、ほどほどにお願いしますね」
「だから僕には、彼女が……」

 居ると断言したかったのだが、何故かその先を言えなくなってしまった。朝から連絡も付かず、そのことを何も教えて貰っていなかった。結局連絡が付かないと言うことしか分からず、こうしてロサンゼルス行きの飛行機に乗ってしまった。
 彼女のことで口ごもったシンジに、綾部はその気持を慮る言葉を口にした。

「連絡が取れないことは心配ですね」
「アメリカでも、携帯は使えるんですよね?」
「国際ローミングの手続がしてあれば大丈夫ですよ。
 もしされてなくても、到着してからでも手続は出来ますしね。
 宜しければ、私が手配致しますよ」
「あ、ありがとうございます……」

 どう致しましてと言って、綾部は更にシンジへと体を預けてきた。お陰で、ますます彼女の柔らかな部分がはっきりと感じられるようになってしまった。そのあたりは悲しい男の性で、気分が沈んでいても反応する部分ははっきりと反応してしまっていた。しかも反応した部分に、綾部が手を伸ばしているのも問題だった。

「どっ……どこを触っているんですか!」

 大きな声を出しかけたシンジだったが、慌てて声を潜め綾部に文句を言った。

「女として、必要な確認をしたんですよ。
 これだけ誘惑しているのに、全く感じてくれなかったら腹立たしいでしょう?
 でも、これなら男としても大丈夫そうですね」

 そう言いながら綾部は手を引っ込め、少しお尻をずらして密着の仕方を調整した。お陰で感じる柔らかさこそ減ったが、くっつき方としては更に増したという感じになった。

「寝にくかったら、遠慮無く仰ってくださいね」
「……こんな状態で眠れるほど、神経が太くはありませんよ」
「そうですか、残念ですね……」

 そう言って、綾部は少しだけシンジから離れた。相変わらず同じ毛布に入っているのだが、僅かに出来た空白が、彼女の体温を遮ってくれた。一瞬寒さを感じたシンジだったが、これが普通だと考えることにした。その時綾部がどんな顔をしていたのか、顔が見えないのでシンジは知ることは出来なかった。だが聞こえてきた声には、僅かながら感情がこもっていたような気がした。

「それから先に言っておきますが、もたれ掛かって頂いても構いませんよ」
「そうならないように、気をつけます」

 綾部にも掛かっているので、毛布をたぐり寄せるわけにはいかなかった。だからシンジは、そのままの格好で静かに目を閉じた。回りはまだ起きているのか、シンジの耳には知らない人達の話し声も聞こえてきた。だがその話し声も、ジェットエンジンの低い音に混ざり合い、いつか気にならなくなってしまった。

(何が起きたのだろう……)

 回りが静かになったので、シンジはようやく考える時間を作ることが出来た。一番最近アイリと逢ったのは、一昨日の終業式の後だった。その時には、二人で海外合宿の買い物をしに街まで行ったぐらいだ。散々海外に行けることを羨ましがられ、絶対にお土産を買ってくるようにと命令された。

(その後、いつものように家まで送っていって……)

 普段と違ったのは、そこで上がっていかないかと誘われなかったことだろうか。ただその理由にしても、「お母さんが来るから」と言う、疑いようのない理由だった。

(お母さんは、僕達のことを知っているって話だし……)

 付き合っていることを反対されていないかと聞いたら、「理解があるから」と否定された。その時の理由に出されたのが、ボランティア活動をテレビで紹介されたことだというのだ。あれが評価されるのかと疑問に感じたが、何が幸いになるのか分からないなと感心したのを覚えている。
 「紹介しろとうるさいの」と文句を言うぐらいだから、別に悪い印象を持たれていないのだろう。ただ一昨日だけは、都合が悪いと言われてしまった。それからの時間を考えると、アイリが母親と会ったぐらいしか原因が考えられなかった。

(そうでもないと、携帯の契約なんか解約しないよな……)

 どうしてこんな時に、冷静に分析することが出来るのか。シンジ自身、そんな自分に嫌気が差しはじめていた。ガールフレンドの異変に対して、取り乱してもおかしくない状況なのだ。さもなければ、からかうように誘惑してくる美女に対して、気もそぞろになっていてもおかしくないはずだ。現に綾部の腕が、抱きつくようにシンジに回されていた。意識しての行動かどうかなど、回された方としてはどうでも良いはずのことだった。ただ妙齢の美女に抱きつかれている。それが事実として残っただけなのである。
 そんな状況にあるにも関わらず、どんどん頭の中が冴え渡ってくるのを感じていたのだ。そしてその冴えた頭で考えると、恋人との関係は絶望的にしか思えなかった。もしも何らかの事情で携帯を解約することになっても、別の方法で連絡が入らなければおかしいのだ。それがないと言うことは、シンジには知らせたくないというアイリの意志が働いたことになる。

(僕の、何が悪かったんだろう……)

 いきなりアイリに嫌われると言うのは、いくら後ろ向きになっても考えれなかった。だがそうなると、一昨日彼女の母親が何を話したのかが問題となる。自分が嫌われていないと言うのを信用すれば、それ以外の理由で別れさせられることになったことになる。その方がアイリから連絡が来ない理由に納得がいくし、まだ諦めが付く理由でもあったのだ。ただそうなると、いったい彼女の母親に何があったのか。さすがに顔も見たことがなければ、それを想像することも出来なかった。

(なんだよ、諦めがつくって……)

 感情の問題まで理詰めで解決しようとしている。そんな自分に、シンジは強い嫌悪を感じた。そして同時に、仕方が無いことだと諦めてもいた。それがギガンテスより恐れられる、自分の過去に関わるのが分かっていたのだ。そして何を恐れられているのか、およその想像も付いていた。だからこそ、触れないでおくと言う考え方にも理解してしまったのだ。
 感情的になれないばかりに、心に付いた傷は癒えることなく残っていくものになってしまった。そしてその傷が悪質なのは、アイリのことが単なる行き違いであっても、もはや修復できないことだった。何しろ心に傷をつけたのは、アイリではなく自分自身だったのだ。



 いつの間に眠ってしまったのか、シンジが目を覚ましたのは着陸まで1時間と言う所だった。すでに綾部はシンジから離れ、いつ外に出ても大丈夫なぐらいにパリっとした格好をしていた。そして前の列の女性陣も、盛んに荷物の中から化粧道具を探していた。

「よく、お休みになれましたか?」
「ええ、お陰様で……綾部さんはどうでした?」
「そうですね、久しぶりに熟睡したという気持ちです」

 ふっと笑った綾部は、小さな声で「今晩もお願いします」と非常に微妙な誘いの言葉をぶつけてきた。

「今晩ですか……それもいいかもしれませんね」
「本気にしますよ……」

 睡眠を取る前後で、シンジの持つ雰囲気が変わったのを綾部は感じていた。それはとても僅かで、そして決定的な違いのように思えるものだった。表面的には明るくなったように見えるのだが、どこか捨鉢な空気をまとっているように思えたのだ。
 本気にすると言う綾部に、「犯罪ですよ」とシンジは軽口を叩いた。

「僕はまだ17ですからね。
 成人している綾部さんだと、合意だけでは犯罪になりますからね」

 ふっと笑ったシンジは、荷物の中からタオルを探しだした。そして立ち上がると、空いているトイレに入っていった。顔を洗うのは、ごく普通の行為なのだが、綾部にはシンジの行動の一つ一つに変化が出たように思われた。ただ変わったとしても、何が理由なのかは全く分からなかった。だからその理由を前席の少女たちに求めたのだが、返ってきたのは「熟睡していた」と言う答だった。
 そして反対側の葵を見たのだが、全く要領を得ない顔をしていたので聞くのをやめた。寝て頭を冷やしたからとも考えられるのだが、それにしても何か本質的に変わってしまった気がしてならないのだ。だがその理由も分からなければ、質問のしようもなかったのである。

 そんなシンジの変化がはっきりしたのは、ロサンゼルス空港に降りてからのことだった。入国審査と税関検査を終えたところで、シンジはようやく携帯に電源を入れた。そしてすぐにメールを受信したのだが、タイトルだけを見て中身を見ようとはしなかった。それは同じようにメールを受信し、中身を熟読したキョウカとは対照的な行動だった。

「碇先輩、瀬名先輩は一体どうしたんだ?
 どうして、いきなり引越しなんかすることになったんだ?」

 あまりにも予想外の中身に、珍しくキョウカが取り乱していた。そしてそれに釣られるように、マドカとナルもシンジに詰め寄った。
 シンジにとっても意外なことのはずなのに、アイリの引越しに対して全く動じた様子を見せなかった。それどころか、冷静過ぎる態度で「分かりませんよ」とあっさり答えた。

「お母さんの事情で引越しするのだったら、僕に理由がわかるわけがないじゃないですか。
 それに、どんな理由があったにせよ、瀬名さんは僕に引っ越すことを教えてくれなかった。
 それが、今回の出来事の全てなんですよ。
 振られた僕に、理由を聞いても意味が無いんです」
「碇君、そんな言い方をしなくてもいいじゃない!
 振られたって、アイリちゃんにだって事情があったはずよ!」

 すかさず言い返したマドカに、「同じ事です」とシンジは冷静に言い返した。

「僕が、瀬名さんにさようならをされたんですよ。
 どこに引っ越したとしても、今ならメールのやりとりをすることができます。
 それさえしようとしないのは、瀬名さんの中の僕が切り捨てられたということでしょう?
 それとも先輩は、いつ来るのかわからない連絡を待っていろと言うんですか?
 それまで僕は、ずっと瀬名さんのことを思い続けていないといけないんですか?
 先輩は、そんな残酷なことを僕に要求するんですか?」

 冷静に反論されると、感情から出たマドカには言い返すことができなくなってしまう。それでも感じてしまうのは、どこかおかしいという感情だった。ただ「おかしい」と言うのは、急に変わってしまったシンジの態度に対してだった。しかもメールを読んだ様子もないのに、やけに理路整然とアイリの事情を口にしてくれた。

「碇君の言うとおりなのかもしれないけど、どこかおかしいとは思わないの?」
「そんな矛盾した聞き方をしないでください。
 別に、先輩が何を言いたいのか分からないわけじゃないんですよ。
 でも、今さらどうにもならないのが分かってしまっただけです。
 どう頑張ったって、僕は当分日本に帰れないんです。
 それに、連絡先さえわからないんですよ。
 こんな遠いところに来てしまって、今さら何ができるんですか?」

 そういう事だと勝手に話を打ち切り、堀井に向かって「行きましょう」とシンジは声をかけた。

「その前に、どこかで朝食を取りませんか?
 ずっと寝ていて機内食を食べていないので、結構お腹が空いてきたんです」
「だったら、空港内のフードコートが適当だろう。
 日本でもお馴染みのファーストフードが揃っているので失敗がない」

 シンジの反応に対して、堀井は驚きも責めもしなかった。ただ淡々と、添乗員としての役割を実行した。
 こっちだと先導されれば、全員おとなしく後をついていくしか無い。不完全燃焼の気持ちのまま、マドカ達は空腹を満たしにフードコートへ歩いていった。そのストレスのせいなのか、フードコートではやけ食いする女子高生の姿が目撃されることになった。

 ロサンゼルス空港から外に出た時、「空の色が違う」とシンジは歓声をあげた。確かに言われた通り、S市にいる時より、空が青く澄んでいるのだ。冬の濃い青空とは違う、さわやかな青がそこに広がっていた。
 空港からの移動は、大きめのミニバンが使用された。日本に比べて一回り大きなクルマに、さすがはアメリカと全員が納得した。やけ食いで発散したのが理由かどうか分からないが、誰も日本のことに拘らないようになっていた。当たり前のことなのだが、解決できない問題で悩むのは、せっかくの海外合宿をふいにしてしまうと気付いたのだ。さもなければ、締め上げるのは別の場所と考えたのかも知れない。

「なにか、白いんですね」

 フリーウェイを走っている時、マドカは道路の印象が違うと堀井に話しかけた。何か色が薄いというのは違うのかもしれないが、すべての色が明るい方向に偏っている気がしたのだ。

「ああ、こちらは道路の舗装が違うからな。
 日本だとアスファルトを使っているから、道路が全体に黒っぽい。
 こちらのフリーウェイは、コンクリート舗装になっているから白っぽいんだ。
 あとは、このあたりは雨が少ないから、全体に低い木が多くなっているのも理由の一つだろう」
「そういえば、空気がしっかり乾いていますね?」
「それが、西海岸の醍醐味というやつだ!」

 良いだろうと力強く口にした堀井に、「そうですね」とシンジは笑いながら答えた。

「でも、先輩達は気をつけたほうがいいですよ。
 こっちの食べ物は、ただでさえ量が多いし、しかもカロリーが高そうです」

 間接的でもないが、フードコートでやけ食いしたことをシンジは当てこすった。移動中体を動かしていないので、カロリーの過剰摂取だと言うのである。
 だがシンジの指摘に対して、マドカは大したことが無いと言い切った。

「そんなものは……食べる量を調整すればいいのよ。
 後は、しっかり遊べばカロリーも消費できるわ。
 その心配は、むしろ綾部さん達にしたほうがいいんじゃないの?」

 大人になると、子供と違って遊びまわることができない。綾部に当てこすりながら、マドカはダイエット系の商品のほとんどが、ハリウッドとか西海岸のイメージで売っている理由を思い知らされた。
 太ることを心配された綾部は、少し口元を歪めて「大丈夫ですよ」と答えた。ただそこに付け加えた理由は、シンジとしてはかんべんして欲しい……と思われるものだった。

「カロリー消費については、碇さんに協力してもらおうと思っていますから」
「良かったわね碇君、素敵なお姉さまにオトナにしてもらえるわよ」
「そんなぁ、先輩より先に大人になったら申し訳ないじゃないですか!」

 ふっと口元を歪め、シンジはマドカの痛いところを突いてきた。だが言われっぱなしで収まるようなマドカではない。なにおうと腹を立てたのはひた隠し、だったらと爆弾をシンジに投げ返した。

「じゃあ、碇くんが大人にしてくれる?」
「すみません、先ほどの発言を訂正します。
 先輩は、すでにおばさんでしたね……いたたたた」

 断るにしても、言い方があまりにも失礼すぎた。さすがに切れたマドカは、手を伸ばして思いっきりシンジの頬を抓った。

「失礼なことを言うのは、この口か、この口か!」
「仕方がないじゃないですか。
 僕は、根が正直にできているんですから!」
「ほほう、片手じゃ足りなかったようね」

 ぐっと身を乗り出したマドカは、両手でシンジの頬を抓ろうとした。だがシンジとしても、いつまでも抓られている訳には行かなかった。冗談抜きに痛いのだから、それを喜ぶ気など毛頭なかったのだ。だから伸ばされた両手を捕まえ、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
 急に引っ張られたら、体を乗り出していたマドカにこらえようがない。そのまますっぽりと抱き寄せられたマドカは、「いいですよ」と耳元で囁かれ、信号のように顔を真赤にした。

「な、なんば言うっとね!」

 なぜそこで博多弁? 全員がマドカの出身に疑問を抱く中、マドカはシンジを殴り倒していた。今彼女たちがいる場所を考えると、大したはしゃぎようとも言えるだろう。事故を起こす恐れはないが、あまり車の中で暴れられるのはよろしくない。いい加減注意しようと、堀井がどすのこもった声で「暴れるな!」と脅しをかけた。
 さすがは自衛隊員と言うのか、はたまたプロレスラーと見まごう体格のせいか、堀井の恫喝は効果が満点だった。それまで騒いでいた少女たちの顔がさっと青ざめ、おとなしく席に座り直したのである。

「はしゃぐなとは言わないし、それが若さの特権であるのは理解している。
 だが君たちが今いるのは、移動中の車だということを忘れないでくれ。
 だから今の続きは、ホテルについてから始めて欲しい。
 そこでなら、多少青少年にあるまじき行動をしても、見ないふりをしておこう」
「一応保護者としてついてきましたから、青少年としてあるまじき行為を見逃すわけには行きませんね。
 碇さんを隔離すれば大丈夫そうですから、私が責任をもって隔離しておきましょう」
「綾部さん、結局元の話に戻っていませんか?」
「私は、はじめからポリシーを変えていませんよ」

 マドカのツッコミに、綾部はしれっと言い返した。これで話は元に戻り、またドタバタを繰り返すのかと思われた。ただ堀井が恫喝した効果が継続しているのか、マドカの不満の矛先は添乗員へと向けられた。

「どうして、若い格好の良い人が添乗員じゃなかったんですか?」
「今、君が心の中で少しだけ期待したことが理由になっている。
 後藤特務一佐が仰るには、親御さんを安心させるためだそうだな」

 そう言う意味では、堀井はこれ以上なく安心できる添乗員に違いない。それを全員が納得したところで、シンジがマドカにちょっかいをかけ直した。

「大丈夫ですよ先輩、先輩には僕がいるじゃないですか」
「黙れ、このエロガッパ!」
「え、エロガッパ……なんですかそれ?」

 断り方にしても、他に言いようがあるだろうと言いたかった。そもそも「エロガッパ」などという言葉は、一体どこで流行ったものなのか。時折出る博多弁と合わせて、全員がマドカの生まれに疑問を感じたのだった。
 ただこの騒ぎの中でも、アサミ一人が乗ってきていなかった。しかも日本を出る時から、一度もシンジに絡んできていない。だからバカ騒ぎをしながらも、シンジはアサミの様子に注意を払ったのである。



 夢と希望の国と言う謳い文句通り、高校生達の前には華やかな世界が広がっていた。そして「ん年」前に高校生だった女性達の前にも、憧れの世界が展開された。冷静沈着、感情を顔に出さない綾部ですら、入場ゲート前でそわそわしているのが分かるのだ。
 綾部ですら興奮しているのだから、女子高生達がそわそわしているのは今更言うまでもない。それは、これまで会話に加わってこなかったアサミも例外ではなかった。とても楽しそうにしてくれるのだが、それでもシンジには一切絡んでこなかった。だからシンジは、アサミの変化の理由が予想した物なのか確認することにした。

「綾部さんにお願いがあるんですが」
「一緒に回って欲しいと言う事なら喜んで!」

 ここに来て人が変わったなと、どちらがこの女性の本質なのかシンジは考えた。だがどちらでも関係ないと頭を切り換え、シンジはもう一度お願いしたいことがあると繰り返した。

「堀北さんと二人きりになれるようにしてくれませんか?」
「男の子として、女の子のお尻を追いかけるのは正しい行動だと思います。
 ですが、失恋されていきなりそれですか?
 お嬢様と二人きりと言う話なら協力も出来ますけど、他の女性の話だとちょっと……
 ばれたら、御当主様から叱られてしまいます」

 多少曲解されている気はするが、彼女の立場からすればおかしな事を言っていないのだろう。確かに篠山家の人間に対して、利益と反する行動を行えと言うのは無理な相談に違いない。ただうまくアサミを引き離さないと、本当のことを聞き出すことは出来ないのも確かだ。ホテルの部屋に尋ねていくと言う手も有るが、さすがにそれは問題が多すぎた。
 だからシンジは、篠山家関係者として妥協できる範囲を考える事にした。

「だったら、僕が堀北さんを連れ出す時、邪魔をしないで貰えますか?」
「それぐらい協力しないと、碇さんの不興を買うことになるわけですね」

 単独行動を邪魔する気満々だったのだが、改めて頼まれればそれをすることは出来ない。確かに妥協点だと綾部は納得し、シンジの提案を受け入れることにした。

「その代わり、あまり長時間はいけませんよ。
 付き添いで来た者として、監視の目を行き届かせないといけませんので」
「だとしたら、はぐれた後落ち合う場所を決めておきましょう。
 場所はお城の入口あたりというのはどうです?
 時間はそうですね、アトラクション一つ終わってからで」
「それぐらいの時間なら、間違いは起きないでしょうね。
 それからあのお城ね、「眠れる森の美女の城」って言うのよ。
 王子様のキスが、お姫様に魔法を解いてくれるお話なの」

 間違いの意味は気になったが、敢えて藪を突くことはないと触れないことにした。お城の意味は、もっと触れてはいけない気がした。だからシンジは、「お願いします」と綾部に対して念押しだけをした。



 何をするのにも、行動に移すタイミングというのは必要である。そして、都合が良い状況というのも待つ必要がある。全員でアトラクションを楽しみながら、シンジははぐれやすい状況が出来ないかを辛抱強く待つことにした。マドカ達も協力してくれる気もしないではないが、確実に目的を達するためには、不確定要素に頼ってはいけないだろう。
 だがシンジが隙を突く前に、事態は動き出すことになった。昼食を終えたところで、マドカが自由行動を提案してくれたのだ。

「これから、出発までの時間は自由行動にします。
 各自ペアで行動して、3時にお城の所に集合すること!
 制限は一つ、勝手に退場しないこと!
 じゃあ、行動を共にするペアを作ってください!」
「先輩、強引ですね……」
「だって、大人数だとなかなか回れないでしょう?
 それに、みんな好みが違うと思うのよ」

 だから個別行動と主張したマドカは、「新しい恋を見つけなさい」ととても意味深なことを言ってくれた。

「と言う事で、私はナルちゃんと一緒に行くわ」
「ではお嬢様、私がご案内差し上げます」
「俺は、先輩と……そうだな、サユリさんの方が詳しそうだな」

 予定調和の様に、アサミをシンジに押しつけ、「分かっているわね」とマドカは念押しをしてくれた。

「と言う事で、碇君はアサミちゃんとね。
 良いこと、ジャージ部のお姫様なんだから、命を賭けて守りなさいね!」
「ここのファンタジーは、全部人が作ったものなんですけど……」

 一体何に命を賭ければいいのか。そこのところに疑問は残ったが、マドカが仕切ったことには感謝していた。そのお陰で、アサミを連れてはぐれる必要がなくなった。

「そういう事なので、あぶれ者どうしでいいかな?
 僕じゃ嫌だというのだったら、篠山さんに代わってもらうけど」
「先輩と一緒に回るのが嫌だとは言っていません……ただ」

 最後の言葉は、アサミにしては随分小さなものだった。当然シンジの耳には聞こえていたが、敢えて聞こえないふりをした。

「先輩、堀北さんのお許しが出ました。
 だから、先輩の配慮に感謝して二人で回ってきます」
「あとから、どこを回ったのか報告しなさいよ!」

 じゃあと手を振り、マドカはナルを連れてレストランを出ていった。そして綾部は、「お嬢様」と立場を前面に出して、キョウカをエスコートした。残ったのは、シンジ達二人と、自衛隊から派遣されたツアコンの二人だった。

「堀井さんたちはどうされるのですか?」
「我々は、本来碇さんをガードする必要があるのですが……
 まあ、ここは男子のメンツを立てることにいたしましょうか」

 どう言うメンツを立てるのかは分からないが、とりあえず自由にさせてくれるということだ。その配慮に感謝して、シンジはアサミに向かって左手を差し出した。

「なんですか?」
「はぐれるといけないから、手をつなごうと思ったんだけど?
 それとも、逃げられないように捕まえようとしたって言ったほうがいいかな?」

 少し挑発的なシンジの言葉に、「逃げたりしません」と差し出された手を掴んだ。

「それで、私を連れてどこに行こうというのですか?」
「そうだなぁ……」

 ゆっくり話せる方がいいと思ったのだが、定番の観覧車はアドベンチャー側にしかなかった。勝手に退園するのは禁止なので、他の場所を探す必要がある。それで悩んだシンジは、次なる定番ティーカップを選んだ。

「マッド・ティーパーティーと言うのがあるから、とりあえずそれにしようか」
「ジェットコースターじゃなくて、そんなのにするですか」

 少し冷たい視線を向けられたが、その方が都合がいいとシンジは言い返した。

「最初だけは、僕の顔を立ててくれないかな?
 あとは、堀北さんの好きなところを回るからね」
「分かりました。
 でも、最初だけですよ……」

 少し勝気なことを言ってはいたが、アサミの視線はシンジから逸らされがちだった。それが今の心理状態を表しているのかもしれない。そしてアサミの反応こそ、シンジの推測を裏付けるものになっていた。

 全体的に空いていたおかげか、ティーカップには待たずに乗り込むことができた。色とりどりのティーカップに、一瞬子供向けのアトラクションかとたじろいた。だが意外に大人が多いことに安心し、シンジはアサミを連れて乗り込んだ。そして周りのカップルがしているように、隣同士にくっついて座った。

「結構積極的なんですね?」
「話をするには、この方が都合がいいからね」

 話をするというシンジの言葉に、アサミは少し唇を噛み締めた。ちょどその時、軽やかな音楽とともにティーカップが動き始めた。

「これを回すと、カップがグルグル回るのか……」

 周りの様子を眺め、シンジは真似をするようにゆっくり中央のハンドルを回した。そうすると、ハンドルを回すの合わせてカップも同じ方向に回りだした。

「あまり強く回さないでくださいね……」
「目的が違うから、お楽しみは後にとっておくよ……」

 さてと前置きをして、シンジは単刀直入「瀬名さんに会ったね」と切り出した。

「私には、先輩が何を言っているのかわからないのですけど?」
「そう言う時は、会っていませんって否定すればいいんだよ。
 でも、どうして瀬名さんに会うつもりになったのかな?
 僕が居ない時、堀北さんは瀬名さんと会ったことはなかったよね?」
「いきなりそんなことを聞かれても、何のことを言っているのかわかりません」

 アサミはそう言ってしらを切ったのだが、シンジはお構いなしに言葉を続けた。

「偶然会ったとは思えないから、堀北さんから連絡をしたとしか思えないんだよね。
 そうすると、どうして堀北さんがわざわざそんなことをする気になったのか?
 誰も知らなかった瀬名さんの引越しを、どうして堀北さんが知っていたのかという事だね」
「だから、そんなことを聞かれてもわかりませんっ!」

 しつこく聞かれて、アサミはつい大声を上げてしまった。大きな音楽に紛れたお陰で注目は集めなかったが、それでも近くの客からは注目されてしまった。

「じゃあ、僕は堀北さんに嫌われるようなことをしたのかな?
 だとしたら、無理して二人きりにしてもらったのは迷惑だったね」
「そうですね、こんな話をするのが理由だったら迷惑です」

 少し含みをもたせたアサミの答えに、「そうか」とシンジは頭を掻いた。

「僕としては、さっさとこの話は終わらせたかったんだよ。
 そうすれば、堀北さんも気が楽になるのかなと思ったんだ。
 実は、妹のメールに堀北さんの名前が出てきたんだ。
 瀬名さんの手紙の中に、堀北さんと話したことが書いてあったって」
「そんなはずはありません。
 先輩は、もう手紙を持っていましたから!」
「つまり、堀北さんは手紙を持っている瀬名さんに会ったんだね」

 怒るわけでも、笑うわけでもなく、シンジは全く表情を変えていなかった。ただじっと、アサミのことを見つめていた。だがその視線に、アサミは抵抗しても無駄だと理解させられた。
 ふっと小さく息を吐きだしたアサミは、出発前日アイリに会ったことを認めた。

「瀬名先輩のお母様が、パパの美容院のお得意様の一人なんです。
 瀬名先輩が引っ越すことは、パパから教えてもらいました。
 正確に言うと、瀬名さんと言うお得意さんが引っ越すことを教えてもらったんです。
 そのお得意さんに、私より一つ上のお嬢さんが居るのも教えてもらいました。
 だから、もしかしてと思って先輩に電話したんです」
「それで、瀬名さんと会ったんだね。
 そして引越しをすることを聞いたんだ。
 それを口にできなかったから、ずっと僕のことを避けていたということか……
 どうも、余計な心配をかけてしまったようだね」

 ごめんと謝るシンジに、どうしてですかとアサミは言い返した。

「私が先輩に連絡していれば、先輩は瀬名先輩と話ができたんですよ。
 出発前だって、私が話せば先輩も何かできたのかもしれないし……」
「でも、それは堀北さんの責任じゃない。
 ガールフレンドに連絡も貰えない、情けない男の責任なんだよ。
 だから堀北さんが抱え込むことは何もないんだ」

 それだけだと笑うシンジに、アサミはもう一度「どうして」と大きな声を出した。

「どうして、なんでもないことのように言えるんです?
 瀬名先輩は、先輩とお別れしたくないって泣いていたんです。
 でも、お母様と離れるわけにもいかないから、引越ししなくちゃいけないって。
 なのに、どうして先輩はそんなに冷静で居られるんですか!」

 少し興奮したアサミに、落ち着いてとシンジは冷静に声をかけた。

「どうして……か?
 一つ聞きたいんだけど、それが堀北さんが聞いた話の全部かな?
 どうして瀬名さんが僕に連絡をしなかったのかとは聞いていないの?」
「先輩に連絡をしたら辛くなるって……」
「つまり、瀬名さんは二度と僕に会わない覚悟を決めていたということだね。
 一つだけ僕に分からないのは、瀬名さんがなぜそんな決心をしたのかということだよ。
 遠野先輩達にも話したけど、今時日本のどこにいてもメールぐらいはできるんだ。
 携帯で話すこともできるし、テレビ電話だって使うことができる。
 すべての連絡手段を否定するのだから、それなりの理由があるはずなんだ。
 その気になれば、遠距離恋愛だって難しくないだろ?」

 会った時にはアイリに同情してしまったため、連絡できない理由にまでは想像がついていなかった。だがそれをシンジに指摘されると、確かに不思議だと思えてしまう。そんなに好きなら、声を聞くだけでも嬉しいはずだし、大学から出てくることだって難しくないはずだ。シンジが指摘した通り、アイリはそのすべてを否定していたのである。

「確かに、そう言われれば、でも、どうして……」
「どうしてというのは、それこそ僕の疑問なんだけどね?」
「い、いえ、そのちょっと違って……
 どうして、先輩はそんなに冷静に考えることができるんですか?
 それに、私が瀬名先輩と会ったのを知っていたみたいですし……」

 それが不思議と言ったアサミに、シンジは少し自嘲気味に口元を歪めた。だがその理由を話そうとしたところで、アトラクションが終わるアナウンスが聞こえてきた。

「それは、歩きながら話そうか。
 堀北さんは、次は何に乗りたいのかな?」
「スペースマウンテンと言うのがいいんですけど……
 でも、その前にベンチに座って話しませんか?」

 シンジの手を借りてカップから降りたアサミは、あそこと言ってベンチを指さした。

「喉とか乾いていない?」
「ジュースはいいんですけど、甘い物が少し食べたいですね」

 こっちですと、シンジの手を引き、ソフトクリームを売っている屋台のところに連れて行った。そこで少し迷った末、ラージサイズのソフトクリームを注文した。日本のラージサイズと違い、少しと言う言葉を裏切った大きさをしていた。

「そんなに一人で食べるの?」
「まさか、先輩と一緒に食べるんです。
 私と一緒に食べるの、嫌ですか?」

 そこで可愛く聞かれると、間違っても嫌だと言うはずがない。制服というのも、この場合ポイントが高いのかもしれない。アイリともしたことのない恋人同士らしい行動に、「よろこんで」と割とまじめにシンジは答えたのだった。

「じゃあ先輩!」
「じゃあって……」

 そこで口を開いて待たれたということは、ソフトを食べさせて欲しいと考えていいのだろう。スプーンが突き刺されているのだから、食べさせること事態は難しくはない。だが人前で、そんなこっ恥ずかしい真似をしていいのか、シンジにはその度胸を持てなかった。
 そう言った方面では、女性のほうが間違い無く強いのだろう。「恥をかかせないでください」と文句を言って、アサミはもう一度口を開いた。

「ええと、じゃあ……」

 たかがソフトクリームをスプーンで掬い、それを目の前の女の子の口に運ぶだけだ。ただそれだけの行為のはずなのに、どうしてここまで恥ずかしい気持ちになるのだろう。いつもの通り頭に登った血は引いてくれたのだが、それでも恥ずかしいという思いに変わりはなかった。

「じゃあ先輩、お返しです!」
「ぼ、僕もするの?」
「私だけって言うのは不公平でしょう?」

 どういう意味で不公平なのか理解できないが、仕方がないとシンジは口を開いた。そこにめがけて、アサミは大盛りのソフトクリームを突っ込んでくれた。そしてシンジが舐めたスプーンで、今度は自分の口へソフトクリームを運んだ。

「これも、間接キスなんですけどね。
 先輩とだったら、いまさらなんですよね」

 はいとソフトクリームを差し出し、アサミはせっせとスプーンで山を崩した。食べさせあうのは、どうやら最初だけの儀式のようだった。少し安心したシンジだったが、手元にあるスプーンがまた問題だった。自分が食べたスプーンは、すでにアサミが使ってくれている。つまり手元にあるのは、アサミが舐めたスプーンだった。

「先輩、早く食べないと溶けちゃいますよ」

 アサミの言う通り、すでに外側が溶けかけていた。さほど暑くは感じないのだが、たしかにカリフォルニアの太陽が強力と言う事だ。このままのんびりしていたら、悲惨なことになるのは目に見えていた。
 それで急かされたシンジは、アサミの舐めたスプーンでソフトクリームをすくい取った。そしてままよと、それを口の中に運んだ。

 間接的接触なのだから、特に何か変わることがあるわけではない。それでも、意識というのは人の体を支配してくれるようだ。今までは一方的にアサミの側から接触してきたのだが、今回は初めて自分からの接触になる。その意識のお陰で、シンジは体温が上がる気がした。

「本当は食べながらお話しでもと思ったんですけど、急いで食べないと垂れて来ちゃいますね」
「あ、ああ、そうだね……」

 一つの物を二人で突くのは、アイリとは一度もしたことのないことだった。それを意識すると、更に体が熱くなってくるのを感じてしまった。せっかく冷たい物を食べているのに、これでは逆効果でしかなかった。そしてコーンまで二人で食べたのだから、傍から見れば立派に恋人同士だった。

「先輩、少し汚れていますね……」

 しかもそう言って、頬に着いたソフトとコーンを舐め取ってくれたのだ。ここまで来ると、本当なら頭が沸騰してしまうところだった。ただそれも、沸騰直前で不自然なまでに冷静さを取り戻してしまった。その見事さは、これからの女性関係に不安を感じるほどだった。

「甘くてしょっぱくて、少し不思議な感じですね。
 でもこれで、フリーになった先輩に唾をつけたことになりますね」
「優先権の主張ってこと?」
「私がその気になったら、主張しようかなってね」

 えへっと可愛く笑ったアサミは、「何の話でしたっけ?」と思いっきり話を巻き戻した。シンジの頭の中からは、それまでの話はすっかり抜け落ちていてた。

「なんのって……」

 少し考えたシンジは、「ああ」と手を叩いた。

「どうして僕が冷静で、堀北さんが瀬名さんと会ったことを知っていたかと言うことだね」
「なにか、どうでもいい気がしてきましたけど……将来の参考に教えて貰えますか?」
「将来の参考って……」

 言われように苦笑を返したシンジは、アサミの予想とは違う答えを返した。

「瀬名さんのことは、別に知っていた訳じゃ無いよ。
 ただ日本を出る時からの堀北さんの反応と、これまで起きたことを分析して思いついたんだ。
 そしてどうして冷静かと言われると……それは僕も教えて貰いたいぐらいだね。
 頭に血が上ってくると、あるとき急に冷静になってしまうんだ。
 たぶん、僕の過去が理由になっていると思うんだけどね」
「つくづく疑問なんですけど、先輩って何者なんですか?」
「それは、僕が一番教えて貰いたいことなんだけどね。
 ただ、色々と考える時間があったお陰で想像は付いたよ。
 それから、秘密になっていることだから聞かないように。
 僕の恋人だけに教えてあげるつもりでいるからね」

 シンジの軽口に、だったらとアサミは「教えてもらえますね」と言い返した。

「ここまでしたんだから、教えてくれてもいいですよね?」
「この情報は、購入特典なんだよ。
 だから予約の段階じゃ、教えてはあげられないね」

 つばをつけた程度では、教えられるのはそこまで。シンジに逃げられたアサミは、ケチと言って唇を尖らせたのだった。



 アナハイムを出れば、目的地のサンディエゴまではルート5をひたすら走れば到着する。ロサンゼルスに着いたときは、色々とシンジを追求しようと考えていたマドカも、ディズニーランドで遊んだおかげで、そんなことはどうでも良くなっていた。塞いでいた後輩が、笑顔を取り戻したのも追求をやめた理由である。ただ「食べられちゃいました」と笑われた時には、もう一人の後輩の頭をグーで殴ってあげた。
 それよりも気になったのは、これからの予定だった。そのあたり、ディズニーランドで遊びすぎたという反省があった。

「でも、こんなに遅く入っていいんですか?」

 フリーウエイを走っているうちに、周りはすっかり暗くなっていた。これから歓迎パーティーがあることを思うと、こんなに遅くなっていいのかと疑問を感じてしまう。何しろ午後3時に集合して出発する予定が、それから2時間も遅くなってしまったのだ。
 だがいいのかと言うシンジに、堀井は簡潔そのもの「別に」と答えた。そして堀井に代わって、葵が遅くても構わない理由の説明を始めてくれた。

「そのですね、サンディエゴとカサブランカで協定を結んでいるんですよ。
 その協定に従うと、今日は懇親会ぐらいしかできないんですよね。
 だからその懇親会に間に合えば、私達としては何も問題がないんです。
 もうすぐホテルに着きますから、そこで休憩して懇親会場……と言っても同じホテルなんですけどね。
 そこに7時までに着けば、何も問題ないのですよ」

 なるほどと納得した一同を代表し、シンジが「質問」と手をあげた。ノリが戻ったことに感心し、葵は皮肉を込めてシンジを指名した。

「はい、幸せいっぱいの碇シンジくん!」
「独り者の葵さんに質問ですが、懇親会で僕たちは何をさせられるんですか?」

 シンジの切り返しに、やるなと感心すると同時に、葵は何かがぐさりと胸に刺さった気がしていた。あうあうと喘ぎながら、懇親会で求められる役割を説明した。

「正確なところは、全く分かっていません。
 サンディエゴ基地からは、懇親会をやるとしか連絡を受けていないんです。
 一説によると、アスカさんによる、碇君の品定めが行われるという噂はあるんですが?」
「品定めって?」

 一言に品定めといっても、いろいろな目的が考えられる。それを質問したシンジに、「さあ」と葵はしらを切った。

「アスカさんは、16の体を持て余していると噂されていますからね。
 だから品定めは、当然その方面だと言う噂が飛んでいます。
 でも、碇君はそっちの方面は間に合っていますよね?」
「そんなことはありませんよ。
 一応ふられたばかりで、独り身というのは変わっていませんからね」

 独り身を強調したシンジに、すかさずアサミが自己主張を始めた。ディズニーランドに行く前とは、別人のように明るくなっていた。

「はいはぁ〜い、とりあえず私が唾を付けておきました!」
「どう唾を付けたのかは、ひとまず棚上げしておきますが……」

 くそ、このガキどもが色気づきやがって。とても口に出しては言えない言葉で毒づきながら……と言っても心の中でなのだが、葵は真面目な方向に話を引き戻した。もともと話をおかしくしたのが葵なのだから、シンジ達に罪はないはずだ。

「S高ジャージ部は、世界的注目を集めています。
 そしてその注目は、高知の奇跡を演出した3人に向けられています。
 その中でもフロントを務めた碇君には、皆さん聞きたいことが沢山あるようなのですよ。
 なので、色々な場所で話しかけられると思います。
 懇親会とかビーチに出ている時とかなら、公式の場で聞きにくいことでも聞けるでしょう?」

 あり得る葵の説明なのだが、シンジはそこに一つ問題点を見つけた。

「ええっと、アスカさんを含め、皆さん日本語が出来るんですか?」
「出来ないから、私たちが通訳で着いてきたのだけど?」

 何かと葵に首を傾げられたが、別にとシンジはそれ以上質問はしなかった。ただ心の中では、「通訳を振り切れば誰も寄ってこないだろう」と考えていたりした。面倒を避ける方法としては適切なのかも知れないが、招待した方からすれば勘弁して欲しい考え方だった。

「では、そろそろホテルに到着します。
 チェックインは私たちが行いますから、皆さんロビーで待っていてください。
 一応個室になっていますが、奇数号室と偶数号室は中で行き来することも出来ます。
 それから先に言っておきますが、皆さんの安全のため碇君の部屋は隔離の上監視してあります」
「碇君なら、縛って転がしておけばいいと思いますよ。
 篠山さんの別荘に行った時も、安全の為そうしておきましたから」

 「こいつらそんなこともしていたのか。しかも別荘とか言って、このリア充たちめ。」と言う呪詛の言葉を飲み込み、賛成しかねると葵は答えた。

「海外に来て、日本の恥を晒さないようにしましょうね。
 それから、日本人に対する間違った認識を広めないようにしましょう。
 と言うことで、簀巻きにして転がしておくのは許可しません。
 それから碇君、簀巻きにされたくなかったら大人しくしていてくださいね」
「ええっと、いつも僕は襲われる方なんですけど?」

 そう言って抗議したシンジに、葵は間髪おかずに「却下!」と返した。どちらが肉食系かと考えると、女性陣の方が間違いなく肉食系なのだ。ただ、そこはそれ、話のノリというものが必要だった。心なしか、シンジを見ているとライオンのオスを思い出してしまった。
 そしてライオンのメス共を見ると、なかなかレベルが高いことに気づいてしまった。元トップアイドル堀北アサミは、見た目という意味なら間違い無く標準を遠くに置き去りにしているだろう。そして篠山キョウカも、今や立派なお嬢様面をしてくれている。黙っていれば、立派に清楚なお嬢様に見えるのが恐ろしい。ただ、多少背が高いのと、出るところが出る体型が清楚さから外れているのが残念だった。そして3年生二人は、シンジとともに高知の奇跡を演じたた立役者なのである。なかなかの美少女のため、自衛隊関係者の中に隠れファンが居たりした。

 こりゃあ目移りしてもしょうがない。なぜか男目線になった葵は、簀巻きの可能性を真剣に考え始めた。ただ少女たちの保護というより、碇シンジ保護という目的からだ。しかも似たような年のくせに、遙かに女っぽい綾部サユリと言う曲者まで居たのだ。

「はいはい、そろそろホテルが見えてきましたね。
 高校生の合宿なので、豪華スィートと言うことはけして有りません。
 ただ日本のビジネスホテルとは違いますので、広さだけはしっかりとあります。
 ベッドもクイーンサイズなので、縦でも横でも寝ることができますよ!
 はい、堀北さん、なにか質問でも?」
「抱き枕がほしいんですけど、回収に行ってもいいですか?」
「当然却下ですねっ!」

 何をさり気なく不純異性交遊をしようとしているのか。お前たちは部活の合宿を何だと心得ている。そのあたり強く主張したい葵だったが、年寄りの僻みと言われたくないため、その言葉は飲み込んだ。そのかわり、高校生たちには厳しい現実というのを突きつけてやることにした。

「この合宿で、夏休みの約半分が潰れるのを忘れないでくださいね。
 各学年ともしっかりと課題が出ているのは確認しています。
 ですから、海外に来たからといって浮かれていないで、こつこつと毎晩進めてくださいね」

 課題という言葉に、シンジを除く全員がゲンナリとした顔を葵に向けた。せっかく西海岸に来たのに、どうして現実に引き戻してくれるのか。この落とし前をどうつけてくれるのか、内心が覗けたらきっとそんなことだろう。
 もっとも、その程度で挫けるほどメスライオン達はおとなしくない。しかもとびっきりの肉食系女子、堀北アサミは、葵を無視するようにシンジに声をかけた。勉強を持ちだされたなら、それなりに方法はあったのだ。

「先輩って、確か成績はトップクラスでしたよね。
 色々と分からないところがありますから、教えて下さいね」
「1年の勉強なら教えられるだろうね」
「夏休みの課題には、保健体育は無いわよ!」

 すかさず口を挟んできた葵に、アサミは「おばさん」と負けずに言い返した。

「お、おばさん……」
「だって、こんなところでオヤジギャグを言うんですから」

 ふっと口元を歪めたアサミに、なにおうと葵は言い返そうとした。だがいきなり踏まれたブレーキに、思わず後頭部をフロントガラスにぶつけてしまった。

「ホテルに到着したぞ。
 それから葵、走行中に立っていると危ないぞ」
「ブレーキを踏む前に言ってくださいよ……」

 後ろ頭を撫でながら復帰した葵は、ボーイの案内で助手席側のドアを開けて外に出た。同じように後ろのスライドドアから高校生たちがエスコートされて車から出てきた。

「では荷物はボーイさんに任せてホテルの中に入ってください!」

 再び「S高様ご一行」の小旗を出した葵は、こっちですと高校生たちを先導した。車の後ろに積まれていた特大スーツケース8つは、ボーイたちによってホテルの中に運び込まれていた。

「色々とあると思いますが、すべてはチェックインを済ませてからにしましょう!」

 ツアコンの顔に戻った葵に、高校生たちは「はい」と元気よく答えたのだった。それに気を良くした葵は、こちらですと旗を振り振り日本の恥を晒してくれたのだった。



 各自が部屋で落ちついたのは、午後6時10分を過ぎてのことだった。7時から懇親会が始まることを考えると、なんとかシャワーを浴びる時間がとれたというところだろう。ここから先は、S高生として恥ずかしくない行動を取らなければならない。学校の制服はなにか違う気もするが、それが決まりならば……と言うより、その格好をしておくのが一番楽だったのだ。だから考えずに済むことをメリットとして、全員制服を着直したのである。

「ああっ、先輩二人が女子高生をしている……」

 ここに来る前も見ていたはずなのだが、まるで初めて見るような顔をシンジは二人に向けた。ようやく更生してくれたと口にして、シンジは次に遠くを見るように真っすぐ伸びていく廊下へと視線を向けた。ちなみに女子は、全員夏用の白いセーラー服を着ていた。プリーツの入った紺のスカートは、最近にしては地味な制服だろう。そして同じく紺色のカラーには、学年ごとに違う色のタイが結ばれていた。ちなみに3年が紺色で、1年が臙脂色だった。
 相変わらずの悪口なのだが、今日は暴力による報復は行われなかった。その代わり、見た目に対する手厳しい攻撃が二人から行われた。

「あらっ、こんなところにボーイさんが!」
「ホテルの制服とは違うでしょう!
 そりゃあ、紺のズボンに白のワイシャツなんて地味以外の何物でも無いですけど。
 グレーのネクタイだっておもいっきり地味だし……」

 結構立派なホテルなのだが、景色がいきなり修学旅行になってしまった。シンジが場違いと感じるのも、あながち間違いではなかったのである。しかも紺のスーツを着て綾部が現れたものだから、ますます学校行事に見えてしまった。
 暴力以外で一本取られたシンジは、遅れて現れた綾部を話題にした。見た目と言うか、服装と言うのは、改めて考えればもう少し何か工夫のしようがあったと思えたのだ。もちろん、ジャージがもっての外なのは言うまでもない。

「綾部さん、うちの先生でも十分に通用しますよ……」
「でも、うちにはこんな綺麗な先生は居ないわよ」
「綺麗と仰ってくださってありがとうございます。
 そうですね、先生というより碇さんの秘書と言う方があってますかね」

 公私両面でと口元を歪めた綾部に、お嬢様はいいのかとシンジは言い返した。篠山家として来ているのだから、第一に立てるべきは篠山家の跡取り娘でなければいけないはずだった。
 だがシンジの突っ込みに、綾部より先にアサミが割り込んできた。

「先輩、そんなことを言ったら墓穴を掘りますよ。
 先輩に対する優先権は私にあるんですからね」
「優先権って言われても……
 確かに、綾部さんの答えは聞くまでもない気がするけど……」

 だからいいですと言われ、綾部は恨めしそうにシンジの顔を見た。きっと本人の希望に準じた、そして篠山にとっても好ましい答えを用意していたのだろう。

「皆さぁん、全員揃っていますね。
 では、これから懇親会場にご案内いたします。
 それからくれぐれも言っておきますけど、英語に自信がなければ私達から離れないこと。
 もう一つ言っておきますが、碇君を野放しにしないようにお願いします……
 だからと言って、そこ、高校生にあるまじきことをしないように!」

 すかさず腕を絡めたアサミに、葵は厳しくチェックを入れた。どうもディズニーランドの一件以来、急激に色気づいたとしか思えないのだ。リア充に手を貸すのではなかった、激しく葵は後悔したのである。
 だがアサミの行動は、ジャージ部においては生易しい方だったのかもしれない。何しろマドカ達がロープを取り出したのに気がついてしまったのだ。

「だからと言って、日本の恥を晒さないように」

 はあっと大きくため息を吐いた葵は、「幼稚園かここは」とものすごく酷い疲労を感じていた。ただ重要な役目を負ってきたのだと、気を取り直して高校生たちを先導することにした。ちなみにこの時の葵は、カーキ色の自衛隊の制服を着ていたりした。客観的に言って、似合わないことこの上なかったのである。よほどマドカなどは、高校の制服を貸そうかと思ったほどだった。



 懇親会を開くといっても、なかなか表向きの名目が立てにくいのも確かだった。事前に刺したシンジの釘が効いたこともあり、S高ジャージ部一行はパイロットではなく、遠路日本から訪れた見学者の扱いとなったのである。従って、サンディエゴ基地の出席者も、あくまで見学者を受け入れると言う名目で居たのだ。
 そのおかげで、基地司令が引っぱり出されることもなく、見学担当者として広報の下っ端が駆り出されることになった。マイケル・ジョーダンと名乗った白人の男は、極めてフレンドリーな態度で「綾部」に握手を求めた。ハイスクールの引率と見たのか、さもなければ綾部の見た目が気に入ったのだろう。

 そのマイケルにしてみれば、なぜこの場にパイロットが勢揃いしているのかが不思議だった。相手が一般人なら、ここまでサービスする必要など無いと思えたのだ。その中に日本基地設立に貢献した篠山の関係者がいたとしても、過剰なサービスだと考えていたのである。

「世界の砦サンディエゴ基地へようこそ。
 私が、広報担当のマイケル・ジョーダンと言います。
 これからの8日間、みなさんのお世話をさせて頂きます」

 原稿を棒読みしたマイケルは、ニコニコ笑って後ろにあるスクリーンを指さした。そこには、日本語と英語で8日間の滞在スケジュールが書かれていた。このスケジュールを見る限り、やたらとオフの時間がたくさん取られていた。
 ちなみにこのオフの時間は、個別ヒアリングに当てられていた。そのあたりの事情を知らされていないため、マイケルの作った予定表がオフだらけになったのである。

「皆さんは、日本の基地でシミュレーターを使ったと聞いています。
 サンディエゴにあるシミュレーターは、その原型となったもので、更に高性能なものです。
 しかも日本人の皆さんに馴染みの深い、高知の奇跡のデータも組み込まれています。
 ぜひとも、皆さんにも高知の奇跡を体験していただきましょう!」

 まさかその当事者が目の前に居るとは思わず、マイケルはとっておきのサービスだと胸を張ってみせた。とことんやれと上司から命令された以上、本気でとことんやるつもりで居たのだ。

「ちなみに、シミュレーションの最高難易度は西海岸のアテナでもクリアできないレベルになっています。
 いきなりは無理だと思いますが、見学が終わるまでには一度体験して見ることをおすすめしますよ。
 では、皆さんに西海岸のアテナこと、サンディエゴ基地のエース、アスカ・ラングレーを紹介します!
 彼女は、全世界のパイロットのうち、もっとも高い同調率を誇り、そして殲滅数も最多を誇っています」

 マイケルは、いささか大げさな身振りでアスカを紹介した。その紹介に合わせて登場したアスカは、サンディエゴ基地のベージュ色の制服を着用していた。ズボンでなくスカートを選んだのは、誰かへのサービスなのだろうか。デザイン的には葵とあまり変わらないのだが、中身のお陰でかなり格好良く見えていた。

「ようこそ、サンディエゴ基地へ。
 私が、アスカ・ラングレーです」

 そこまで日本語で挨拶したアスカは、さすがにこれ以上は無理と英語に切り替えた。通じないことは分かっているので、通訳できるようにゆっくりと間を開けていた。

「ギガンテス迎撃に、民間の方々の理解が深まることが重要だと考えています。
 御存知の通り、世界的に迎撃体制の再整備が行われていますが、
 なかなか現実に追いついていないというのが現状です。
 本日いらした皆さんは、私と同年代だと聞いています。
 皆さんの中から、ともに戦うパイロットが誕生したら幸いだと思っています。
 短い時間ですが、サンディエゴは素晴らしいところです。
 ぜひともみなさんの見学が、実り多いものになることを期待しています」

 最後にありがとうと日本語で言って、アスカは演壇を後にした。これで受け入れる側の挨拶が終わったのだから、次は訪問する側の挨拶ということになる。
 部活で来た以上、その役目は部長が行なってしかるべきだった。ただこの手の対外的なことは、すべてシンジに押し付けられていた。なんで僕がとマドカを少しだけ睨んでから、顔を笑顔に作り変えてアスカが先ほどまで居た演壇に登った。

「私は、碇シンジといいます。
 S高ボランティア部を代表して、皆さんに感謝の言葉を述べさせてもらいます」

 英語で始めたシンジは、ここで一度言葉を切った。そして軽く咳払いをして、更に英語で挨拶を続けた。

「お忙しい中、私達のために見学の機会を作って下さったことに感謝します。
 またこのように盛大な懇親会まで開いて頂き、重ねて感謝いたします。
 パイロットの皆さんまで参加して頂き、感激に打ち震えています」

 ここまでは準備してきた英語を、比較的流暢にしゃべってみせた。だがここからは、「日本語」に切り替えて挨拶を続けた。ちなみに通訳は、隣に立った葵が務めることになっていた。

「すでに1ヶ月以上が経過しましたが、私たちは深い絶望と心からの歓喜を経験しました。
 過去最大の惨劇が日本で起きようとしたのですが、みなさんの活躍のお陰でそれが奇跡へと昇華しました。
 あの夜、日本中の人々は、テレビの前で固唾を飲んで皆さんの活躍を見守っていたのです。
 理由があって、パイロットが誰かは公開されていませんが、
 こうしてみなさんが積み上げてきた実績の延長が、あの奇跡を生んだのだと私は信じています。
 私達のような一介の高校生が、世界の最先端に触れる機会を与えていただき、
 重ね重ね、深く感謝の言葉を述べさせて頂きます。
 アスカさんが仰ってくれた通り、この中の誰かが共に戦える日が来たら素敵だと思っています。
 ただ、私達のような一般人には、なかなか高いハードルだと思っていますが……
 これからの8日間、ご迷惑をお掛けすることになりますがよろしくお願いします」

 日本式に深々と頭を下げたシンジは、前に来るようにとジャージ部全員を手招きした。そうなると、さすがに出て行かないわけにはいかず、そして不満を浮かべるわけにも行かず、表向きはにこやかな顔をしてマドカ達は演壇へと上がった。

「最初に、ボランティア部部長を紹介します。
 3年生のマドカ遠野です。
 次に紹介するナル鳴沢と二人で、シミュレーションでは6体のギガンテスを倒しました」

 その意味が通じるのは、ごく一部なのだろう。微笑ましいものを見る顔をした関係者と、彼女がと驚く顔が半々だった。

「遠野マドカで、よろしくお願いします」

 説明はシンジに任せたこともあり、マドカの挨拶はあっさりとしたものだった。ただそれで十分なのか、会場からは温かい拍手が送られた。

「次にボランティア部副部長、ナル鳴沢です。
 先に紹介したマドカ遠野のコンビは、学内でも最強と言われています」
「鳴沢ナルです、よろしくお願いします」

 同じように拍手を受けたナルは、少し顔を赤くしてシンジの後ろに下がった。

「次は私より年下の二人を紹介します。
 最初に紹介するのが、キョウカ篠山です。
 彼女の実家は、日本に建設された基地へ土地を提供しています。
 その他、各種便宜を図っているとも聞いています。
 今回の見学も、彼女の実家が働きかけてくれたお陰です」

 さあとキョウカを手招きしたシンジは、少し小声で「名前だけでいい」とアドバイスした。

「さ、篠山、キョウカです」

 そこでペコリと頭を下げれば、とりあえず挨拶は終わりということになる。かなり緊張していたのだが、シンジのサポートで事なきを得たようだ。ただシンジが気をつけなければいけないのは、こうした一つ一つの積み重ねが、篠山家で評価されているということだった。当然のように、シンジに対するキョウカの依存も強まっていくのだ。

「最後に同じく1年生のアサミ堀北です。
 彼女は10年間以上芸能界に居て、何本も映画にも出演しています。
 今日おじゃました中では、間違いなく日本で一番有名な高校生です」

 さあとアサミを手招きしようとしたら、なぜかパイロットの一部、男性パイロットの方で嬌声が上がっていた。おそらく、ネットでアサミのことを知っていたのだろう。それを見たシンジは、小声で「ごめん」とアサミに謝った。

「堀北アサミです。
 1年前まで、日本でアイドルしていました!」

 よろしくお願いしますと頭を下げたら、ざわめきの中心から「Asami!」の掛け声が上がった。それに笑顔で手を振るのだから、やはり芸能界で揉まれてきただけのことはある。しかもアサミが手を振ったものだから、余計に男たちが盛り上がってしまった。
 懇親を目的としているのだから、別に目くじらを立てることもないのだろう。ただこれで後から文句を言われるなと、ご機嫌取りの方法を考えなくてはいけなくなってしまった。さてさて困ったとは思っていたが、その前に挨拶を終わらせる必要があった。

「最初に挨拶しましたが、2年のシンジ碇です。
 短い間ですが、ボランティア部一同よろしくお願いします」

 シンジの号令に合わせて、全員が揃って頭を下げた。そしてその挨拶に対して、出席者からは温かい拍手が送られたのである。少なくとも、友好を目的とした懇親会の滑り出しとしては上出来だった。



 挨拶が終われば、後は各々食事と懇談の時間となる。立食でパーティーが設定されたのは、この後会話がしやすいようにとの配慮だろう。ただこの場合の会話というのは、対象Iこと碇シンジが中心となるはずだった……のだが。挨拶の時に嫌な予感のとおり、それが現実のものとなってしまったのだ。

「堀井さん、堀北さんをお任せしてもいいですか?」
「ああ、多少予想とは違うことが起きたな」

 会話とか交流とか言っても、それが簡単なものではないと思っていた。結局お互いが遠慮して、仲間内だけで話をするものだと思っていたのだ。だがその予想に反して、男性パイロットたちがアサミのところに集まってくれたのだ。サインペンを出して、制服を指さしているのは、きっとここにサインをしてくれという意味なのだろう。どう考えても、立場が逆と言いたくなる光景だった。
 そして綾部には、キョウカのサポートを任せることにした。男どもがアサミに殺到したので、キョウカのことはあまり心配しなくても大丈夫のはずなのだが、やはりそこはサポートが必要ということだった。

「碇さんが、お嬢様をサポートしてくださるのではないのですか?」
「僕のところには、ほら、手ぐすねを引いて待っている人が居ますから」

 シンジの視線の先には、アスカとクラリッサが揃って立っていた。二人の視線が自分に向いているのだから、間違いなく彼女たちのリクエストは自分に違いなかった。

「じゃあ先輩、リクエストに答えて行く事にしましょうか?」
「あれっ、私達が付いて行ってよかったのぉ?」

 ニヤニヤと笑ったマドカに、「臆病ですから」とシンジは言い返した。

「だから、頼りになるお姉さんに付いてきて欲しいんですよ。
 そうじゃないと、僕は二人がかりで虐められることになってしまいます」
「そういう事なら、仕方がないわねぇ……ねえナルちゃん?」
「そうね、日本の恥を晒さないように監視しましょうね」

 恥を晒すつもりはないが、別にどんな名目でも一緒にいれば構わない。あちらの目的にしても、通訳がつく以上はきわどい話になるとは思えなかったのだ。

「それで、私たちはどんな立場で行けばいいのかしら?」
「そりゃあ、ミーハーな高校生でいいんじゃありませんか?
 何しろ相手は、世界で一番有名なパイロットの一人なんですからね。
 それに引き換え、僕たちは日本の片田舎から来た高校生なんですよ」
「碇君、結構性格が悪いのね」

 肘でナルにつつかれ、違いますよとシンジは苦笑を返した。

「ここにいる人たちのうち、僕達のことを知っているのは少数なんです。
 だから、世間的に正しいと言われる対応をとるだけです」
「確かに、世間的に正しいわね、それ」

 面白いと、マドカもシンジの案に乗ってきた。このあたりは、ノリの良いジャージ部の面目躍如というところだった。しかもシンジは、手の込んだ仕掛けまで用意していた。

「と言う事で、これをお渡ししておきます」
「……いつの間に、こんなものを用意してきたの?」

 なにと手渡されたものを見たら、色紙とサインペンなのである。相手が有名人なのだから、サインを貰ってもおかしくはないだろう。だがここでそれをねだるというのは、さすがに嫌味ったらしいと思えてしまった。
 だが嫌味というナルに、別にいいでしょう? とシンジは言い返した。そして引き合いに出したのは、もう一つの人だかりになっている集団だった。

「堀北さんがサインさせられているんですから、僕達がもらってもおかしくはないでしょう?」
「碇君、後からアサミちゃんに謝っておきなさいよ……
 ああっ、もう、やっちゃっても構わないから」

 確かにあれは可哀想だと認めたシンジだが、「やっちゃっても」は女の子の口から出てほしくはない。目指す相手が来たこともあり、「下品ですよ」とシンジは小声で注意した。

 一方アスカとクラリッサにとって、シンジと話をすることが第一関門だった。ただうまい具合に3人になってくれたので、はぐれ者どうしと言う理由を作って近づくことにした。ただそこでの誤算は、挨拶をしたのはいいが、いきなり色紙を渡されたことだった。

「な、なに?」

 戸惑うアスカに、申し訳なさそうに葵が間に入った。

「ええと日本では、有名人にあった時には、相手にサインをねだることがあるんです。
 その時に使用するのが、この色紙と言う台紙なんですけど……」

 通訳に立った葵は、いきなり恥を晒してくれるなと心のなかで文句を言っていた。だが恥と言うほど、相手はおかしな事だと受け取っていないようだ。葵の説明になるほどと頷いたアスカは、結構なれた手つきで色紙の上に自分のサインを書いた。

「慣れていますね?」
「サインをねだられることは、別にこちらでも珍しくありませんよ。
 ただ、こんな立派な紙に書いたことがなかっただけです」

 そう答えたアスカは、見事な笑みを浮かべてシンジに向かって右手を差し出した。

「コーチの奇跡、とても見事なお手並みでしたね」

 敢えて葵経由でその言葉を聞き、シンジは握手をしながら日本人によくある「謙遜」と言う奴を返した。

「いえ、あれは本当にたまたまうまく言っただけです。
 ですが、西海岸のアテナに褒めていただいてとても光栄です」

 大まじめに答え、そして葵がそれをそのままアスカに伝えてくれた。そのおかげとでも言うのか、アスカの顔がハッキリと歪んでくれた。「西海岸のアテナ」と言うあだ名は、改めて言われるのは気分が良くなかった。
 だがその変化もごく僅かな時間で、すぐに元のにこやかな顔に表情を作り変えてくれた。そしてささやかな逆襲とばかりに、「日本では何といえばいいのでしょう?」と聞き返してきた。

「私が西海岸のアテナなら、あなたは東洋のなんとお呼びすればいいのかしら?」

 それを葵経由で聞いたシンジは、少し大げさな身振りで両手をブンブンと振ってみせた。

「そんな、アスカさんにそんなことを言っていただくほど、僕は大したものじゃありませんよ。
 あれは、あくまで僕達3人が共同したからできたことなんです。
 間違っても、僕一人の手柄ではないんですよ」
「でも、サンディエゴだってそうなんでしょう?
 だったら碇くんも、なにか二つ名をつけてもらったら?
 どう、S高の種馬とか?」

 なにかつけてもらうのはいいとして、なぜ「種馬」なのかと聞きたかった。しかも「東洋」でなく「S高」と更に地域を限定してくれたのだ。少なくとも、アイリ相手に種馬と言われるようなことはしていなかった。

「……日本の恥を晒さないようにと言われていませんでしたっけ?
 それに種馬って、相手が一人だけの時は言われないんですよ。
 少なくとも、僕は瀬名さんとは高校生らしい清いお付き合いをしていたんですからね……
 葵さん、いちいち通訳しなくてもいいですからね!」

 アスカとクラリッサが噴き出しているのを見ると、もはや手遅れなのだろう。なんでと葵に文句を言ったのだが、涼しい顔をして受け流されてしまった。

「じゃあ先程の質問に答えますから、ちゃんと訳してくださいね。
 たぶん僕は、イカロスですよ」
「ヘーパイストスでいいのかしら?」
「なんですか、それ?」

 誰もがギリシャ神話に詳しいわけではない。だからシンジも、その名前を出されても意味は理解できなかった。ちなみに葵があげたヘーパイストスは、アテナを追い回して精液をかけたという物語が伝わっている。それで子供が生まれたというのだから、ある意味夫といっていい立場なのかもしれない。
 もっとも冗談が通じなければ、それを言ってもあまり意味が無い。仕方がないと、葵は言われた通り「イカロス」と言う言葉をアスカへ伝えた。いい気になって空高く飛び、太陽に羽を焼かれて落ちた神話上の人物。それが自分だとアスカに伝えたのである。

「あまり、いいあだ名ではないわね」
「あくまで、一般人ですからね。
 分を弁えないと、痛い目にあうってことですよ」

 アテナやアポロンと並び称される者ではない。アスカに向かって……と言っても通訳を介してだが、シンジはハッキリと言い切ったのである。
 その反応に、やはりアスカは一瞬だけ表情を険しくした。だがシンジは、それに気づかないふりをして、「失礼」と英語で話しかけた。

「そろそろ、ガールフレンドを助けに行ってきます。
 アイドルに目覚めてしまったら、また振られてしまいますからね。
 そうそう、短期間で失恋を繰り返せませんので」

 後半は、葵に通訳を任せてシンジは、男性陣に取り囲まれたアサミの救出に向かった。最初はサインをしていたのだが、今は歌まで歌わされているようだ。それが嫌そうでないのは、さすがはファンを大切にする元アイドルというところだろうか。だがいつまでも放置しておくと、本当に後から大変なことになりかねなかった。

 さっさと主役にいなくなられると、残された者は対応に困ってしまう。通訳を介してほぼ同い年の女性が4人、共通の話題がなければ話など弾むものではない。高知の奇跡にしても、主役が欠けては実のある話になりようがなかった。
 それもあって、儀礼的な話を少しだけしてから、「邪魔して悪かった」とアスカ達は食事をとりに離れていった。そしてマドカ達も、それを幸いに飲み物のおいてあるテーブルへと向かった。やはり西海岸のアテナを前にすると、一般人は緊張してしまうのだ。そう言う意味でも、堂々としていたシンジは凄いのだろう。

 マドカ達から離れたアスカは、「どうだった?」とクラリッサに感想を求めた。交わした会話は少ないが、その中から相手の考え方を分析しようというのである。まだ軽いジャブなのだが、それでも色々と見えてくることがあったのだ。

「そうね、一番気になったのはヘーパイストスを否定したことかしら?
 彼は、全くアスカに言い寄る気はないみたいね」
「あーはいはい、そう言った冗談は今もこれからも求めていないから」

 軽くあしらったアスカは、「イカロスの方が気になる」と先手を打った。

「イカロスにまつわるキーワードが気になる?」
「ええ、牢に囚われ、翼を得て自由になるが、忠告を忘れて翼を失い海に落ちる……
 彼は、自分の置かれた状況を理解していると考えていいのかしら?」
「本人には、詳しい話は伝えていないということだけど……
 でも、十分にそれは考えられるわね。
 自分に何か事情があると推測できれば、そこから想像を膨らますことができるわね。
 そうやって考えてみると、あの冷静さも納得がいくというものね」

 うんうんと頷いたクラリッサは、「残念ね」ともう一度アスカをからかった。

「観察したところ、結構いい線をいっていると思うわよ。
 パイロットとして、アスカと違った意味で一流の素質を持っているでしょう?
 それに、顔だって結構可愛い顔をしていると思うのよ。
 並んだバランスも悪くないと思うわよ。
 しかも頭は、それなりに賢いみたいでしょう?
 ガールフレンドが結構強力みたいだけど、アスカだったら勝負になると思うわよ。
 ただ残念なのは、言葉が通じないというハンデがあることね。
 まあ、言葉の要らない方法もあるけどね」

 シシシと笑ったクラリッサに、「観察がずさん」と言ってアスカは「色ボケ」となじった。

「ちゃんと観察していれば、もっといろいろなことが分かったはずよ。
 まずあんたの言った語学の問題だけど、こっちの言ったことはちゃんと理解していたわよ。
 それを敢えてわからないふりをしたのは、あとから面倒な事にならないようにするためでしょう?」
「通訳が要らないと分かったら、アスカが押しかけていくから?
 やっぱり、アスカの目は無いってことか……」

 あくまで男女関係に持ち込もうとするクラリッサに、アスカは話に乗らないという選択をした。

「アタシの押しかけていく目的を変えれば、言っていることは間違っていないわね。
 色々と聞きたいことがあるけど、通訳が居ては聞きにくいことがたくさんあるのよ」
「それって、私も聞かせて貰えないこと?」
「別に、これまで共有してきた情報だから構わないけど?」

 なんでと聞き返したアスカに、クラリッサはわざとらしくため息を吐いた。

「やっぱアスカって、絶対に色っぽい方に話が向かないのね」
「あんたの期待に応えるつもりはないけど、一応私なりの印象を言っておくわね。
 彼をステディな相手にするってのは、どう考えてもピンと来ないのよ。
 確かにあんたが言うとおり、データだけならなかなかのものを持っていると思うだけど……」

 ふっと笑ったアスカは、他を当たると少し投げやりに答えた。

「これでも、16の乙女なのよ。
 あんたに言われなくても、日々出会いを求めているんだからね。
 でも、フィーリングの合う相手が居ないってだけよ」
「高知の奇跡を演じたパイロットでもだめってことは、相当ハードルが高いわね」

 だったら他を当たるしか無い。漁る方面を変えることを、クラリッサは真剣に考えることにしたのだ。



 シンジが救出と言うだけのこともあり、アサミを囲んだ男たちは周りに目が行かないぐらい興奮していた。場所と目的を考えれば、間違いなくやり過ぎに違いないだろう。もっとも本人たちは、これこそ懇親と信じて疑っていないようだった。
 そのためシンジが救出に入った時、ハッキリ迷惑がられてしまった。せっかく盛り上がっているのに、余計な水を指すなというところだろう。割り込んだ時に起きたブーイングが、その事実を物語っていた。

「迎えにこないほうが良かったかな?」
「むしろ遅すぎです。
 どうして、こんなところに来てアイドル時代と同じ事をしなといけないんですか?
 ニコニコしているのに疲れてしまいました。
 これはもう、後から先輩に埋め合わせをしてもらわないとだめですね」

 その埋め合わせは、一体どういう事をすればいいのか。日本語で話しているおかげで周りには通じていないのだが、やけに親しそうなアサミの態度は、間違いなく状況を正しく周りに伝えているのだろう。男どものシンジを見る目が、間違いなく敵を見る目になっていたのだ。

「でも、堀北さんも結構ノッていたように見えたけど?」
「10年以上続けたことですから、営業が見についているだけです。
 それが嫌で、あの業界から足を洗ったはずなのに……」

 ふうっと息を吐きだしたアサミは、行きましょうとシンジの手を引っ張った。助けが来た以上、いつまでも長居をする必要もないということだ。
 その気持は理解できるが、礼を失しては懇親会の意味が無い。だからシンジは、堀井に間に立つようにお願いした。その時つけた理由は、「お腹がすいたから食べ物を取りに行く」と言うものだった。そこで誰かに捕まれば、戻ってこない口実も立つと考えたのである。そして堀井の迫力があれば、相手も嫌と言えないのは分かっていた。

「それで先輩、アスカさんはどうでした?」
「どうって言われてもなぁ、ただたんに挨拶をしただけだし。
 共通の話題がないんだから、話が弾むはずがないんだよ」
「高知のことは?」

 共通体験をしているわけではないが、パイロットとして同じ土俵に立つという意味があった。しかも「奇跡」と言われるほどの実績をあげたのだから、共通の話題になるだろうと言うのだ。
 だがアサミのあげた高知のことにしても、共通の話題にはならないとシンジは思っていた。そして懇親会で軽く話すにしては、問題が複雑すぎると思っていたのだ。そのため時間を掛けてヒアリングが行われるのだ。

「高知のことはね、多分ヒアリングの場で色々と聞かれることになると思うよ。
 だから、こんなところで細かなことは聞いてこないよ。
 こういう場はね、後から話をしやすくするための関係構築でしか無いんだ」
「先輩、先読みしすぎるのってつまらなくありませんか?」
「確かになぁ、せっかく西海岸のアテナに会ったのに、少しもドキドキしなかったな」

 嫌だ嫌だとぼやいたシンジに、だったらとアサミが耳元で囁いた。一緒に息を吹きかけられたので、シンジは少しくすぐったかった。

「だったら、私がドキドキさせてあげましょうか?」
「実は、結構ドキドキしているんだよ。
 堀北さんだけは、次に何をしてくるのか全く分からないからね」
「でしたら……」

 シンジの耳に顔を寄せ、アサミは雰囲気たっぷりに「シンジ」と呼びかけた。

「どうです?」
「悪くないっていうか、ちょっとした優越感に浸れるかな?」
「でしたら、次は私を名前で呼ぶ練習ですね。
 ああ、二人っきりの時は呼び捨てにしてくれてもいいですよ」
「なんか、ドキドキしてくるね」

 ふっと口元をにやけさせたシンジは、そろそろ仲間のケアに向かうことを考えた。まず第一は、綾部と二人でつまらなさそうにしているキョウカへのフォローだろう。これからの夏休みを有意義なものとするには、良好な人間関係が必要となってくるのだ。







続く

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