−05







 信じて貰えないと後藤は言ったのだが、彼の作った報告書は意外にも各国で受け入れられていた。にわかに信じられない内容の報告書を、彼らはそれを“事実”として受け止めることから始めてくれたのだ。その背景には、どんな説明を用意しても、納得のいく説明は付かないという分析を行っていたからである。その代わりと言えばいいのか、予想もしない問題を引き起こしてくれた。
 世界中どこを探しても、西海岸のアテナと砂漠のアポロは特別だったのだ。唯一比肩しうるのは対象Iなのだが、その対象Iの能力も予想と違うのが確認されていた。そして二人の女子高生など、全くの素人であるのが分かっていたのだ。それを認めた以上、彼らは報告書を信用するしかなかったのである。

 日本で起きたことを事実として認めた各国は、独自のギガンテス迎撃の可能性をそこに見い出した。それは、ギガンテスの被害に苦しむ国々にとって、希望の光となるものだったのだ。日本での例が特殊でないのなら、同調率の低いパイロットでもギガンテスを迎撃できることになる。日本の成功は、既存基地での訓練に対して疑問符を突きつけることになった。
 そして母国の雰囲気は、確実に訓練中のパイロットにも伝わっていた。そのせいで、連携を基本とした訓練に対して、撃退を中心とした訓練に切り替えるべしという声が上がるようになった。日本の結果は、それが不可能ではないと示していると言うのである。
 あそこまで見事な真似はできなくても、少数のギガンテスなら対処が可能なはずだと彼らは主張した。そうすることで、既存基地にとってもメリットがあるはずだと言うのである。

 なぜかその矢面に立たされたアスカは、部屋に戻ってクラリッサに愚痴をこぼすことになった。撃退したいと言うのであれば、それに応えることは吝かではない。だがそれが現実的かと言われれば、悩むまでもなく否定することができた。連携すらまともに出来ない彼らが、それ以上に高度なことが出来るはずがなかったのだ。ここで訓練をしている者たちは、日本で起きたことの入り口にも立っていなかった。

「まぁったく、アタシにもできないことを、本気でできると思っているのかしら?」

 ベージュの制服を脱ぎ捨てたアスカは、クローゼットを漁りながら文句を言った。

「今の訓練だって、まともにこなせないくせに……
 あいつら、絶対にギガンテスを甘く見ているわよ!」

 珍しく切れ気味に喚き立てたアスカは、訓練生達の態度に我慢がならないようだった。言いたいことがあるのなら、今やっていることをまともに出来るようになってから言え。アスカとしては、そのあたりを大声で主張したかった。
 だが愚痴を聞かされたルームメイトは、アスカにとって痛いところを突いてくれた。

「でも、日本はそれをやって見せたわ。
 3人のパイロットの示した同調率が低いのも現実よ。
 そして彼らは、ここでやっているような訓練を受けていない。
 それなのに、ここ以上のことを成し遂げてくれた。
 その理由が分からない限り、出来ないと言い切ることも出来ないのよ」

 ふうっとため息を吐いたクラリッサに、「どうかしたの?」とアスカはその理由を聞いた。一見正論に聞こえるクラリッサの意見など、いくらでも反論することができたのだ。だが先にため息を疲れてしまうと、その方が気になってしまった。
 アスカに聞かれたクラリッサは、「そのパイロットのこと」と話を続けた。

「日本が、徹底的に隠して来ているのよ。
 国連上層部には説明されているようだけど、基地レベルには何も落ちてきていないのよね。
 課題と分析とかの詳細な資料は送ってくるけど、こちらのリクエストには答えてくれないのよ」
「リクエストって、ヒアリングをさせろって奴?
 で、なんと言って断ってきたの?」

 これからのことを考えると、断る方にも勇気が必要となってくる。よほど説得力のある理由でもなければ、断ろうとは誰も思わないだろう。何しろ単独迎撃に成功したと言っても、それを続けていくためには他の基地の協力が必要となってくる。そうしなければ、早々に基地運営は行き詰まってしまうのだ。よそと関係を悪くして、得るものなど何一つなかったのだ。
 アスカの問いかけに、クラリッサは小さくため息を吐いて椅子に座った。そして椅子をグルグル回しながら、「やってられないわよ」と文句を言った。椅子の回転に合わせて、グレーのスウェットの上では短めの金髪が揺れていた。

「民間協力者の同意を得られていないからだって。
 ここで無理を通した場合、次回以降の協力を得られない可能性がある……それって理由になってる?
 そもそも、民間協力者って何よ?
 どうしてそんな都合が良く、民間協力者ってのが現れてくれるの?」
「たまたま基地見学をしていて、たまたまシミュレーターで良好な成績を示した。
 ギガンテス襲撃情報があった時、たまたまそこに居あわせて、
 本人達の協力申し出により、3時間の搭乗訓練後出撃させた……ねぇ」

 全く信用していない顔をしたアスカは、「都合が良すぎ」と報告の内容を断じてくれた。そして報告の内容を疑った上で、一つだけ説明を付ける方法があると続けた。

「この説明に説得力を持たせる方法があるの?」
「ええ、そうね。
 もちろん、ギガンテスの襲撃を予想することは出来ないわ。
 だから、当日基地見学が行われたこと自体は偶然だと思うわよ。
 でも、そこに集められた集められたメンバーは偶然じゃないでしょうね」

 アスカの言葉にピンと来たのか、クラリッサは少し声を潜めて「例のパイロット?」と正解を口にした。

「日本としても、そのパイロットを取り込みたかった。
 だけど大事にするわけにも行かず、基地見学という名目で周辺ごと基地に連れ込んだ」
「だとしたら、例のパイロット以外の適性は“本当に”偶然ってこと?」

 クラリッサは、それもあり得ないと主張した。初めてシミュレーターに乗り、3時間の搭乗訓練で出撃した上、6体のギガンテスを迎撃してくれたのだ。どの付く素人にそんな真似ができるのなら、ここでしている訓練は何なのだと言いたくなる。

「それが本当だとしたら、今騒いでいる奴らの言い分が正当化されるわよ。
 たまたまそれなりの適性を示した候補者が、3時間の訓練でギガンテスを倒すことが出来た。
 だったら自分達も出来ると考えてもおかしくはないでしょう?」
「そうね、後衛二人だったらその考えを否定しないわよ。
 でも、あれだけ手厚い配慮の出来る前衛を用意できるかしら?
 先に言わせて貰うけど、あたしはやりたくないわ」
「それは、できないって意味?」

 やりたくないのとできないのでは、大きく意味が違ってくる。そんなクラリッサの問いかけに、「できない……と言うのが正確ね」と少し悔しそうにアスカは言った。

「あれは、間違いなく特別な才能よ」
「アスカがそう言うのなら、たぶん砂漠のアポロンもそう言うでしょうね」

 ふっと息を吐き出したクラリッサは、非常に重要な意味があると真面目な顔をして言った。

「アスカの説では、前衛を務めたパイロットが例のパイロットと言う事ね」
「今回の“奇跡”は、それぐらいしか説明が付かないもの。
 もちろん、例のパイロットだとしたら、どうしてあの程度の同調率かという疑問はあるわよ」

 分かる所まで話が落ちたことで、クラリッサに油断があったのは間違いない。アスカの疑問に、クラリッサは迂闊な答えを返してしまった。

「ああ、それだったら説明を付ける方法があるわね」
「へぇ、どんな?」

 アスカが聞き返したことで、クラリッサは自分が言い過ぎたことに気がついた。だがひとたび口にしたことは、今更取り消すことは出来ないし、それをした時にはむしろアスカに疑問を抱かせることになってしまうだろう。それを瞬時に判断し、「そうねぇ」と間を置いて理由を話し出した。

「ヘラクレスのパイロットが、例外なくティーンエイジャーと言うのは理解しているわよね。
 だとしたら、例のパイロットもまたティーンエイジャーと言う推測を立てることが出来るわ。
 そしてそのパイロットは、TICの実行犯でないことは分かっている。
 単に利用されただけだと考えると、未成年者の更正措置が執られることになるのでしょうね。
 そのため、何らかの精神操作に関わる事がされたとしても不思議ではないでしょう?
 それに大事件の記憶は、本人にとってもろくなことじゃないしね。
 そしてその精神操作が、ヘラクレスの同調率に対して悪影響を与えたと考えることができるわ」

 酷い話だと思ったが、それがあり得る可能性であることをアスカは認めた。あれだけの大事件ともなれば、まともな精神では罪の意識に押しつぶされてしまうに違いない。それを避けるためには、記憶をなくすことも方法の一つだと思ったのだ。そして精神操作の正当性を認めた上で、問題が更に複雑になったとクラリッサに指摘した。

「どうして、ちゃんと説明になっていると思うけど?」

 納得がいかないというクラリッサに、アスカは何が問題かを考えさせることにした。

「あんたの説明には、もの凄く酷い自己矛盾があるのよ。
 いいこと、精神操作をしたとしたら、どう言う方向で操作をすると思う?」
「どう言うって……」

 アスカの問いかけに、その内容をクラリッサは考えた。そして考えて考えたところで、アスカの言いたいことを理解した。確かに自分の口にした理由は、都合が良すぎたのだ。

「……TICに関わる全てを忘れさせるわね」
「つまり、その時に使用していた兵器のことも忘れさせる訳よね?」
「だとしたら、記憶を取り戻さない限り素人に変わりがないと……」

 う〜むと悩んだクラリッサに、そう言うことだとアスカは苦笑した。対象Iと言うことを理由にしたが、求めるスキルが忘却の彼方にあることが分かってしまったのだ。

「記憶操作を否定すれば、奇跡に説明を付けることは出来る。
 その代わり、例のパイロットだからと言って、同調率が高い訳じゃ無いことになる。
 だけど、クラリッサの言う記憶操作を否定することも出来ないわ。
 それは安全保障の意味ではなく、未成年者に対する配慮という意味でよ。
 TICに利用されたという記憶なんて、残っていたら気が狂っているでしょうね」
「かくして、話は振り出しに戻ってしまうと言うことね」

 はあっと大きくため息を吐いたクラリッサは、追加の情報を持ち出した。ただ、こちらについては、謎解きにはあまり貢献してくれない情報だった。

「搭乗したパイロットは、日本国内でも正体が明かされていないわ。
 そのお陰で、日本国内でもパイロット探しが行われているわね。
 だから民間協力というのは、まんざら嘘ではないと言う事になるわ」
「正体がばれた途端、普通の生活が送れなくなるものねぇ〜」

 どこの国でも、マスコミの傍若無人さは変わりがない。現にアスカも、大勢のパパラッチに追いかけられているのだ。それを考えると、徹底した秘密主義を取るのも理に適っている。何十万人もの生命を救ったという偉業が、本人の人生を狂わせてしまうことにもなりかねなかったのだ。少なくとも、今までの生活は送れないことになる。協力の代償が破滅では、二度と協力者は出てこないだろう。

「どう考えても、あり得ないことが起きてしまったと言う事か。
 そうやって考えると、世界って本当に広いのね」
「アスカの考えに同意するわ。
 素人3人が、二つの基地以上の成果を上げてくれたんだもの。
 それを考えると、自分の仕事に対して疑問を感じるわよ。
 いっそのこと、新しい基地には自由にやらせて見たくなったわ」

 少し投げやりなクラリッサの言葉に、「切れるな」とアスカは文句を言った。気持ちは分からないでもないが、適切な訓練を行うのが自分達の役目なのである。そして柳の下には、二匹目のドジョウは居ないのだ。

「奇跡なんて物は、そうそう起きないから奇跡って言われるのよ。
 そこら中で同じことが出来るんだったら、うちの被害はもっと押さえられているわよ」
「それが、現実って奴よね〜」
「そう、だから現実を見据えた対応を取っていくしかないのよ」

 不満については、上の方で対処して貰う。責任の丸投げを、アスカは考えたのだった。



 後藤がマドカの実家、カフェBWHを訪れたのは、ギガンテス迎撃翌週の木曜日の夜だった。巷で「スリーサイズ」と呼ばれているBWHは、「Blues with Hirosi」の略称だったりする。その名前通り、店内のBGMは年代物のブルースが流されていた。
 普段通り特殊公務員とは思えない格好でドアを開けた後藤は、目尻を釣り上げたマドカ相手に「よっ!」と右手を上げた。そこで何か言われるかと思った後藤だったが、予想に反しマドカは何も言わず奥へと走って消えていった。

 その態度に苦笑を浮かべた後藤は、マスターのヒロシに向き直った。こちらも後藤と同じように、口元をしっかり歪めていた。

「嫌われたかな?」
「よくも顔を出せたものだ……と言うところだな。
 それで、今日は何をしにきたんだ?」

 カウンターに座った後藤に、マドカの父、遠野ヒロシは、そう言って瓶のバドワイザーとグラスを前に置いた。すっかりお得意さんとなっていたので、何から始めるのかは注文されなくても分かっていた。

「なんにする?」
「ああっ、ピクルスの盛り合わせを」

 キッチンに戻ったヒロシは、戸棚の中から色とりどりの野菜が漬かったピクルスの瓶を取り出した。そしてその中から赤、緑、黄のパプリカと、真っ白なホワイトアスパラガスを取り出した。
 それを横目で見ながら、少し言い訳がましく「色々とあったんだよ」と後藤はつぶやいた。後藤の言う色々と言うのは、ヒロシも分かっていることだった。何しろテレビをつければ、大抵の時間、吊るし上げられる後藤の姿を見ることができたのだ。

「それで?」

 そう聞き返してきたヒロシに、目の前の綺麗に切られたピクルスを見て、「だから色々」と後藤は繰り返した。

「テレビで見ただろう?
 もうマスコミに虐められまくっているんだよ。
 だから、マスターのところに息抜きに来たんだよ」

 瓶から直接ビールを呷り、はぁっと大きく後藤はため息を吐いた。そんな後藤の態度に、ヒロシは微苦笑を漏らしていた。息抜きが必要と後藤が言うのは理解できるが、その場所として自分の店を選ぶ感覚が理解できなかったのだ。ここに来れば、間違いなく娘に噛み付かれることになる。それぐらいのことが分からない男とは思えなかったのだ。

「よくもまあ、うちに来て息抜きができるもんだな」
「可愛い女子高生ってのは、見ているだけで幸せな気分になれるもんなんだよ」

 そう嘯いた後藤は、もう一度大きくため息を吐いた。せっかくの「可愛い女子高生」が、鑑賞する前に消えてしまったのだ。そうなると、せっかくの息抜きも意味のないものになってしまう。

「せっかく来たのに、嫌われてしまったかな?」
「いや、案外人気者なのかもしれないな」

 ヒロシがそう答えた時、奥にこもっていたマドカが飛び出てきた。そして何事かと大人達が見守る前で、入り口に掛かっていた札を「閉店」にしてくれた。

「おいおい、これからが第二のかき入れ時なんだぞ」
「ごめん、でも、今日は閉店にして!
 このおっさんに、色々と聞いておきたいことがあるのよ!」
「俺!? おっさんは無いだろう」

 文句を言った後藤に、「ふん」と鼻息あらくマドカは壁に掛かっていた鏡を指さした。自覚が無いのなら、じっくり鏡で確認しろというのだ。

「そんなもん、毎朝イヤってほど見ているさ。
 せっかく現実を忘れようと、マドカちゃんの顔を見に来たのにな」

 そうぼやいた後藤は、ポケットの中からくしゃくしゃになった封筒を取り出した。

「なに?」

 目の前に差し出された封筒に、マドカは目を細めて後藤を睨みつけた。色々と騙されたこともあり、何を出されても警戒しなくてはいけない。たとえ封筒一つと言え、用心して掛からなければならなかったのだ。
 だが警戒するマドカに、後藤は予想もしない報酬を持ち出してきた。

「些少だが、バイト代の一部だ。
 拘束時間に対する、保証金と言い換えたほうがいいかな?
 正式な報酬については、上と掛け合っているところだ」
「そんなものを、私達が受け取ると思っているの?
 ジャージ部はね、困っている人を助けるのが目標の部なのよ。
 お金目当てで助けようだなんて一度も思ったことがないんだからね!」

 見損なうなと鼻息を荒くしたマドカに、話が違うと後藤は言いかけた。

「いやっ、しかしっ」

 言っていただろうと言いかけたところで、その言葉を後藤は飲み込んだ。さすがに、プライベートコールを聞いていたとは口にするわけにはいけない。そんなことがバレたら、本当に相手にしてもらえなくなる。
 だがそんな後藤の配慮は、マドカの前では意味がなかった。

「確かに、ナルちゃんとはバイト代ぐらい欲しいなぁって言ったわよ。
 でもね、碇君にそれはだめだろうって叱られたのよ。
 私たちが戦ったのは、お金のためでも、ヒーローになるためでも無いんだって。
 困って困って、どうしようもなくて、誰かに助けてもらいたい人に手を貸すためだろうってね。
 それが私達ジャージ部の活動方針だろうって」
「そういう意味なら、俺も非常に困っているところなんだが……」
「却下、それは自業自得でしょう!」

 両手で大きくバツを作り、マドカはいーっと顔をつきだした。

 ドアに付けられたカウベルがなったのは、ちょうどその時のことだった。反射的に閉店ですとヒロシが言いかけたのだが、顔を出した相手にこれが理由かと納得した。そこには、娘の愛するジャージ部部員が勢ぞろいしていたのだ。そして部員を代表するように、シンジが最初に入って来た。

「後藤さん、お久しぶりです」
「ああ、久しぶり……」

 好戦的なマドカとは対照的に、シンジの方は至って「普通」だった。何かあるかと思っていただけに、むしろ後藤が面食らったほどだった。そしてシンジに遅れて、ジャージ部全員が店の中に入ってきた。

「それで、僕達にどんな話があるんですか?」

 だが本当に驚かされたのは、シンジに自分の行動が見透かされていたことだろう。事実後藤は、ここに来ればジャージ部部員と話ができると期待していた。だからマドカが部員を呼び出すのは、後藤としては期待通りの行動だった。ただ、それを見透かされる所までは予想していなかった。

「まいったな、なんでもお見通しか?」
「なんでも分かるわけじゃありませんよ。
 ふらふら出歩けるほど、後藤さんは自由な身じゃないんでしょう?
 それに、ビールだって少しも減っていない」

 ビールを呷るところを見ていたヒロシは、シンジの指摘にえっと驚いた。そして指摘されたとおりの瓶を見て、もう一度「えっ」と驚いた。

「本当に、なんでもお見通しなんだな」
「だから、僕に分かる範囲の事しか分からないって言っているでしょう。
 後藤さんが、テレビで責められているのを毎日見ていますからね。
 だから、こんなところで暇をつぶしていられるはずがないじゃないですか。
 でも、本当に困っているのはそんなことじゃないんですよね?」

 ずばりと言い当てられて、「降参」と後藤は白旗をあげた。

「大した洞察力だな」
「テレビ程度だったら、後藤さんなら逃げ切ることができるでしょう?」

 違いますかと聞かれ、いやいやと後藤は頭を振った。

「それは、俺に対する過大評価というものだよ。
 自衛隊にとって、マスコミ対策ってのは重要課題なんだぞ。
 そしてある意味、一番の難問となっている。
 マスター、お嬢さんたちにジュースでも出してくれないか」

 ヒロシに注文を言った後藤は、自分の瓶を持って広いテーブルへと移動した。全員と話すには、その方が都合がよかったのだ。後藤に促され、ジャージ部部員達はシンジの後をぞろぞろと着いて歩いた。こういった事は、シンジに任せておくのが一番だったのだ。
 そして全員が椅子に座ったところで、後藤は立ち上がって深々と頭を下げた。

「あの後、お礼を言っていなかったことを謝罪する。
 君たちのお陰で、とても大勢の人たちの命を救うことができた。
 それだけじゃない、日本という国の存在自体を守ってくれたんだ。
 君たちの勇気に深く感謝をさせてもらう」
「お礼は素直に受け取りますけど、所詮は僕達の自己満足の結果ですよ。
 たぶん、後藤さんは堀北さんにお礼を言ったほうがいいのかもしれませんね」
「彼女にかい?」

 出撃もしていないのに、どうしてそういう事になるのか。後藤は、不思議そうな顔をアサミに向けた。
 シンジの言葉に驚いたアサミは、次の瞬間頬を膨らませて文句を言った。ピンクのタンクトップに、白いショールのようなものを着たアサミは、後藤の目から見てもとてもかわいらしかった。

「先輩って、根に持つタイプなんですね。
 だからお詫びに、キスをしてあげたじゃないですか」
「僕のファーストキスを堀北さんに奪われたんだよ」
「元トップアイドル様のくちづけで祝福されたってことか。
 そりゃあ、おっさんのお礼なんかよりずっといいな」

 ふっと笑った後藤は、真面目な顔をして「今の状況を教えよう」と切り出した。これこそが、今日BWHに来た目的だった。

「マスコミに対しては、完璧に情報は守られている。
 当日基地見学に来ていた高校生のグループは把握されているが、把握されているだけというのが現状だ。
 さすがの彼らも、君たちがパイロットだと思うほど非常識ではなかったようだ。
 それから君たちのことは、総理大臣には伝えられている。
 ただ、様々な事情から、公表は行わないことになっている。
 当然、口の軽い国会議員どもにも事実は知らされていない」
「そんな悪口を言っていいんですか?」

 公務員が日本の最高府を馬鹿にしたのだから、いいのかとシンジが言うのもおかしくないだろう。だが後藤は、別に構わないとあっさり言ってのけた。

「彼らに、高いモラルなど望めないよ。
 全部がそうとは言わないが、田舎のおっさんやおばさんに毛の生えただけの奴らがいっぱいいる。
 重要な秘密なんて教えると、すぐに自慢話で広げてくれるんだ。
 それどころか、本当に日本の為を思っているのか不思議になる奴も居るぐらいだ。
 だから広まっても困らないことしか、あんな奴らに教えられるはずがないだろう」

 少し熱くなって国会批判をした後藤は、気まずくなったのか「まあいい」と話を戻した。

「そういう事で、日本国内の問題は大したことがないと言えるだろう。
 だが国際問題となると、さすがに手に余るところがあるんだな。
 当てずっぽうでもいいが、どう言うことか想像がつくかな?」
「心当たりが多すぎて困るんですけど?」

 そう前置きをしてシンジがあげたのは、自分たち3人の存在だった。

「どこまで正直に報告書に書かれたのか知りませんが、普通に考えたら誰も信用しませんよね?
 それを考えると、真偽を確かめるため僕達の尋問をしたいというところでしょうか?」
「尋問ではなく、ヒアリングと言ってくれないかな?」

 つまりシンジの考えが正しいと認めたということである。二人の会話を聞いていた女性陣は、改めて「凄いな」とシンジを見なおしていた。

「確かに、サンディエゴとカサブランカからそう言ってきている。
 アスカ・ラングレー、カヲル渚の両名も、多大なる興味を持っていると聞かされているよ」
「良かったわね碇君、アスカさんに会えるわよ」

 すかさず茶々を入れたナルに、「どうでもいいです」と少し投げやりにシンジは返した。

「それが、後藤さんの困ったことなんですか?」
「あまり邪険にすると、困っている時助けてもらえなくなる。
 そういう意味では、とても困っては居るんだが……」
「もっと深刻な問題があるってことですか?」

 ヒアリングを受けるのは嫌だが、解決できない問題ではない。だが後藤は、それ以上の問題があると匂わせてくれた。

「普通に考えたら、誰も信用しないと君は言ったな?
 だが、それを信用する者がいたらどうなると思う?
 正確に言うなら、信用する国があったらどうなるかなのだが……」

 思わせぶりな、そして自分を試すような問いかけに、シンジはキッチリと反応を返した。

「確かに、それは困ったことになりますよね……」
「碇君、どういう事?」

 すっかり解説役になったシンジに、少女たちは「解説」を求めた。正しく報告書を書いたのなら、信用されても困らないと彼女たちは考えたのである。それが困ったことになると言われても、さっぱり理解できなかったのだ。
 そしてシンジは、なぜ困ったことになるのかを丁寧に説明することにした。

「僕が遠野先輩を止めるときに言った言葉を覚えていますか?
 多少適性があるからと言って、
 シミュレーションしか経験していない僕達が戦えるはずがないと言いましたよね。
 適性のあるパイロットが、常日頃の訓練を積み重ねることで敵と戦える。
 それが、今まで戦ってきた人たち、パイロット候補を訓練に出している人たちの常識だったんです。
 僕の友人も、それが常識だと自慢げに開帳してくれましたよ。
 しかし後藤さんの書いた報告書は、それを完全に否定するものだったんですよ。
 初めてのシミュレーションで、そこそこいい成績をとった高校生が、
 わずか3時間の訓練で出撃して、今までのパイロット以上の戦果をあげた。
 そんな事実を突きつけられたら、今行われている訓練に疑問を感じませんか?」

 分かりやすいシンジの説明に、女子高生達はなるほどと頷いた。

「まさしく、完璧な考察としか言いようが無いな。
 君は、このまま高校生にしておくのが惜しいとしか言いようが無い」
「お世辞を言っても何も出ませんよ。
 それに後藤さんは、僕に隠していることがありますからね」

 隠していると言われて、はてと後藤は首を傾げた。そんな後藤に苦笑を返し、「多くは言いませんが」とシンジは自分たちが出撃できた理由を持ちだした。

「僕のハッタリが後藤さんに通用した理由ですよ」
「碇君を基地に連れ込むために、私達の見学を利用したってこと?」

 少し考えるようにして答えを出したマドカに、そのことですとシンジは認めた。

「多分そのことが、色々と扱いを微妙にしていると思うんですよ。
 でも、僕は僕で、他の誰でもないんです。
 だから、そのことは考えないようにしました。
 だから話を戻しますけど、あれは一か八かの賭けに勝っただけですよ。
 アスカさんやナギサさんなら、もっとうまくできたと思います」
「一か八かだろうが、目に見える結果が重要だということだ。
 だから研修に出している各国は、侵攻を遅延させることではなく、倒すことに主眼を移した。
 しかし両基地には、そんなカリキュラムは存在していない。
 もちろん、この日本にだってそんなものはどこにもない……んだがなぁ」

 頭を掻いた後藤に、なるほどと困っている理由をシンジは理解した。

「つまり、そちらは信用してもらえなかったということですね」
「あの作戦を考えた作戦担当、そして実行したパイロットの話を聞かせろと言う要求を受けている。
 どのような経緯であの作戦が立案されたのか、それが分かることで彼らも参考になると考えたのだろう」
「結局、元のところに戻って来ましたね。
 どっちの話にしても、僕達からヒアリングをしたいということでしょう?」
「興味から来ているヒアリングなら拒否できるが、切実な理由から出ているヒアリングは拒否できない。
 正当な理由のない拒否は、簡単に国際問題に発展してくれる」

 その火種の処理は、一自衛官には難易度が高すぎた。結局上から押し付けられ、後藤はその愚痴を言いに来たのである。そしてあわよくば、シンジ達の譲歩を期待したと言う所だろう。

「つまり、僕達がヒアリングに応じれば問題は解決すると言うんですね?」
「たぶん、それだけだと納得しないだろうな。
 実際にヘラクレスに乗ったところも見せろと言われるだろう」
「どちらで、ですか?」
「間違いなく、両方でだ」

 予想通りの答えに、シンジは大きくため息を吐いた。サンディエゴとカサブランカ、両方に顔を出していたらどれだけの時間が掛かることだろう。
 後藤の口ぶりからして、泣き付かれるのは目に見えていた。逃げ切れないと割り切ったシンジは、マドカに向かって良かったですねと切り出した。

「部長、今年の夏休みは海外合宿ですよ。
 しかも費用は、一切向こうが持ってくれます」
「そんな、のんびりしていても良いのかなぁ」

 話の経緯からすれば、サンディエゴとカサブランカに行かなければならないのは理解できた。だがその時期が夏休みと言われると、まだ1ヶ月近く先のことになる。後藤の話しぶりから考えると、「のんびり」としていられるとは思えなかったのだ。
 そんな常識的な考えをしたマドカに、「立場はこちらが強い」とシンジは後藤の顔を見ていった。

「夏休み、そしてここにいるメンバー全員と言うのが条件だと考えて良いんだな?」
「“民間協力者”ですからね、それぐらいの我が儘は言って良いと思いますけど?
 これは今更念を押す必要は無いと思いますが、秘密は絶対厳守ですよ」

 シンジの出した条件がまともな事もあり、後藤は出された条件内で交渉することを考えた。それに色々な手続を考えたら、1ヶ月ぐらいなら十分許容範囲だったのだ。ほいほいと出て行かないことは、こちらが譲歩したと思わせることにも利用できるだろう。

「秘密厳守については今まで通りだと思うが……
 もしも漏れるようなことがあったら……いや、守るように努力をするんだがな」
「恐喝の手段があるかってことですよね?」

 秘密というのは、知っている人間が多くなればなるほど、漏れやすくなってくる。そして当事者から離れるほど、秘密を守ることの意識が薄くなってくるのだ。だから後藤は、秘密を守らせるための方策、すなわち恐喝の手段があるのかと問うたのである。
 だが真っ当に考えれば、一般人に恐喝する手段があるはずなどない。ヘラクレスに乗る乗らないにしても、その時人質となるのは身の周りの人達となってくる。それを考えると、秘密を守らせるだけの有効な恐喝の手段がないことになる。もしも秘密が漏れたら、今の心地よい生活ともおさらばすることになるのだろう。
 それは嫌だと考えたシンジは、真剣に世界を脅す方法を考える事にした。一番効果的で、かつ今の生活を壊さなくて済む方法は無いか、それを真剣に悩んだのである。そしてシンジが悩むのを見て、他の少女達も策がないか真剣に考え始めた。彼女たちも、今のぬるま湯が無くなって欲しくないと願っていた。

 もっとも、一般人が世界を相手にする方法など見つかるはずがない。切り札とも言えるヘラクレスにしても、乗らないと言った時点で他の一般人が敵に回ってくれるのだ。ヘラクレスへの搭乗は、交渉材料には使えないと言うことだ。
 早速行き詰まった少女達は、全員一斉にシンジの顔を見た。ジャージ部の大黒柱として、適切な対策を考えろと言うプレッシャーである。ちなみにシンジは、大黒柱になったつもりなど無かったのだが。

「こう言うところで、僕に押しつけるんですね……」

 はあっとため息を吐いたシンジは、お手上げとばかりに両手を広げた。

「色々考えたんですけど、全部自分に跳ね返ってくるんですよ。
 下手なことをしたら、周りからぼっこぼっこにされそうだし……」
「普通はそうよねぇ〜
 一般人が、世界を相手に恐喝なんて出来無いし」
「先輩、本当に何も無いんですか?
 私、先輩だったら絶対に何とかできると思っているですよ」
「堀北さん、いくらおだてたって出来ないことは出来ないんだよ……」

 勘弁してと謝ったシンジに、そうですかとアサミは残念そうな顔をした。このまま行くと、楽しい高校生活が終わりを迎えてしまう可能性がある。ジャージ部というのは、アサミにとっても居心地のいい場所だった。

「でも、先輩は後藤さんを脅してヘラクレスに乗ったんですよね?
 そんな先輩だから、私も期待したんですけど……やっぱり無理ですか??
 えっ、どうかしましたか?」

 駄目ですよねと諦めかけたアサミだったが、シンジと後藤の二人に見られ、何事かと驚いてしまった。どう言う訳か、二人の目がキラキラと輝いているように見えたのだ。
 そしてアサミを驚かせた二人は、次にお互い顔を見合わせ「それだ」とお互いを指さした。

「なるほど、それは利用できるかも知れないな」
「僕としては、実行したくないことなんですけどね……」

 男同士で勝手に合意をされ、女性陣は完全において行かれてしまった。それを不服に思ったアサミは、ヒントを出した人間として、説明を受ける権利があるはずだと主張した。

「堀北さんの言葉がヒントになったんだけどね。
 僕が後藤さんにしたはったりのバリエーションを使えば良いんだよ。
 おかしな事になったら、隠していることを真剣に思い出す努力をするとね」
「そんなことが役に立つんですか?
 と言うか、先輩っていったい何者なんですか?」

 過去の記憶を取り戻すことが、世界に対する脅し文句になると言うのだ。アサミでなくとも、何者と疑問に持つのも不思議ではないだろう。ただ女子高生から「何者?」と聞かれても、おいそれと答えるわけにはいかなかった。

「残念だが、君にも教えてあげるわけにはいかないんだよ」
「せっかく役に立ったんだから、ご褒美代わりでも良いじゃないですか。
 こう見えても、私は口が堅いと思っているんですよ!」
「アサミちゃん、後からこっそりと教えてね」
「こらこら、教えられないと言っただろう……」

 だめと繰り返した後藤に、「けち」とアサミは唇をとがらせ文句を言った。その仕草が可愛くて、密かに後藤は感動したりしていた。
 だが「駄目な物は駄目」と言う後藤に、アサミは攻撃相手をシンジに切り換えた。もっとも、シンジが自分のことを知らないのは分かっているので、攻撃は別の方面からすることにした。

「だったら先輩、ご褒美に私と浮気してくれますか?」
「つきあい始めた……ばかりなのに、そんな誘惑をしないように!」
「なんだ碇君、まだ清い交際を続けているのかな?」

 マドカはからかうように言ったのだが、シンジには何か思い当たる節があったようだ。ううむと考えて、もしかして問題? とアイリとの関係を考えた。

「清い交際って……
 この前の土日は温泉でつぶれたから、デートにも行っていないし。
 なんか、以前と何も関係が変わっていない気が……
 キスどころか、最近手も触れていない気がしてきた……いや、実際に触れていない。
 夢にまで見た彼女が出来たのに、これって何処か間違っているのかなぁ?」

 ねえ後藤さんと頼られたのだが、そんなことを聞かれても分かるはずがない。さすがにSIC前に高校生活を送っていたが、その頃でも男女交際は十人十色だったのだ。

「そう言うのは、本人同士の問題だからなぁ。
 自分達がそれで良いと思っているのなら、他人がとやかく言う事じゃないだろう」
「先輩、適度なスキンシップは必要ですよ。
 そうじゃないと、瀬名先輩の心が離れていっちゃいますから」
「それは嫌だな……」

 う〜んと真剣に悩んだシンジだったが、にやにやする女性陣に、自分がからかわれていることにようやく気がついた。だから話を、思いっきり元の方向へと引き戻した。

「確か、後藤さんと話をするためにここに来たんですよね?」
「ああそれ?
 解決策が見つかったから、碇君の悩み相談に移ったんでしょう?」
「先輩、浮気をしたくなったら相談してくださいね」
「そうだな、浮気するのも男の甲斐性だという話だからな。
 父様も、浮気も出来ないつまらない相手と結婚はさせないと言っていたぞ」
「篠山、それは絶対に女の側から言う事じゃないからな!」
「でも先輩、篠山さんのところに婿入りしたら、浮気はオッケーってことですよ」
「堀北さん、君は僕に何を言わせたいんだ?」

 わいわいと収拾が付かなくなった場に、後藤は「年を取ったな」と我が身を振り返った。そして楽しそうに話す5人に、対象Iが過去に拘らない理由を見つけた気がした。今が楽しく充実していたら、昔を振り返っている暇など無いのが当たり前なのだ。

「なるほど、それが青春ってことか……」
「タカさん、もの凄く年寄りじみたことを言っているわよ」

 後藤の独り言に反応したマドカは、ノリが悪いと冷蔵庫から冷えたバドワイザーを持ってきた。

「もう相談は終わったんでしょう?
 だったら、ぱぁっと飲んで今だけは楽しく過ごしましょう!」
「いや、戻ったら仕事が……まあいいか」

 懸案事項については、高校生達の協力を得る目途が無事ついた。各国との調整は、一秒を争うほど急いでいない。だったらマドカの言うとおり、ぱぁっとやるのもいいのかもしれない。

「よぉっし、今日は俺の奢りだ。
 みんな、好きな物をじゃんじゃん頼んでくれって……どうした?」

 パーティーだと盛り上がろうとしたら、なぜか高校生達は帰り支度を始めてくれた。

「どうしたって……用が済んだから帰るんですけど?
 晩ご飯も済んでいるし、明日も学校なんですよ。
 予習もしなくちゃいけないんですから、暇な公務員と一緒にしないでください」
「ひ、暇っ!!」

 何か特大の刃物がぐさりと刺さった気がした。シンジの的確すぎる、そして当の本人としては誤解としか言いようの無い決めつけに、後藤は胸を押さえてがっくりとうなだれた。しかもなぜか全員が、後藤に対して右手を差し出していた。握手の催促とは違い、全員の手のひらは何かを受けるように上を向いていた。

「えっ、なんだ?」
「なんだじゃないと思いますよ。
 遅くなってきたから、みんなタクシーで帰ろうと思っているんです。
 だから、タクシー代を要求しているんですけど?
 拒否できる立場じゃないのは分かっていますよね?」

 にやりと笑うシンジに、後藤はふつふつと胸の内に沸き上がってくる純粋な怒りというか敵意を感じた。「綺麗な女子高生に囲まれ、自分一人だけ良い思いをしやがって」と言う嫉妬が、その怒りの源泉だろうか。大人にあるまじき暗い思いを、後藤はシンジに対して抱いたのである。そのあたりの感情は、神前に言わせれば見苦しい「嫉妬」で片付けられるだろう。
 だがヒアリングを盾にされれば、後藤が抵抗できるはずがない。要求されるまま、泣く泣く大枚をタクシー代として巻き上げられたのである。



***



 短期的に見れば、「高知の奇跡」は世界の迎撃態勢に大きな影響を与えなかった。単独で6体のギガンテスを倒したのにも関わらず、日本基地は迎撃を目的とする第一優先基地(カテゴリ1)に指定されなかったのだ。当初の設定通り、遅延作戦を主体とする第二優先基地(カテゴリ2)の指定とされたのである。
 その結果、他国への出撃は原則免除とされたのである。本来極東北部地域の遅延作戦を担当すべきところなのだが、その役目すら免除された。それは、示した実績を考えれば、間違いなく異例の措置と言えただろう。

 この異例な措置を正当化するのに、国連の発表した理由は、「民間協力につき強制できない」と言うものだった。能力の高いパイロットを民間に置いておいていいのか、何らかの強制を行うことができないか。一部で議論が盛り上がったのだが、結局生存権の侵害という指摘を乗り越えることはできなかった。自身の生死に関わる決定は、自分で行う権利があるというものである。現在登録されているパイロットのすべてが志願兵であることも、強制徴用できない根拠として用いられた。

 建前では強制できないとされたが、世の中には当然のようにいくらでも抜け道は用意されていた。権利の問題にしても、本人をその気にさせれば全てが丸く収まってくれる。そして本人がその気になるようにする手立ては、それこそ星の数ほど用意されていたのだ。
 だが国連及び日本政府は、その奥の手を使用することはなかった。何らかの密約があるとされた日本は別にして、国連がおとなしく認めたことは様々な憶測を呼ぶことになった。だが真実に触れられない者たちの憶測は、どれひとつとして正解からは程遠いものだった。

 もっとも、国連の決定によって、正しい答えにたどり着いた者も大勢いる。彼らが答えに辿りつけた理由は、TICと呼ばれる大災害、少しなりともその理由を知っていたからに他ならなかった。

 国連の通達書を手に、アスカはルームメイトのクラリッサと意見交換の場を持った。各国に基地が作られる決定がなされて以来、何かがあればこうしてお互いの意見を確認することが習慣となっていた。そう言う意味では、クラリッサはアスカの知的好奇心を満たすために役立っていると言えただろう。
 二人ともオフタイムと言う事で、アスカはグリーンのスウェットのような部屋着を着て、クラリッサは白のスウェットを着ていた。気を使う相手じゃないということで、見た目も何もない格好だった。

 意見交換でアスカが問題としたのは、やけに国連がおとなしく引き下がったことだった。それは国連だけではなく、東アジア北部の国々にも言うことができた。日本から出撃してくれれば、彼らにしても被害を最小限に抑えることが可能となる。高知の奇跡を見れば、正体不明のパイロットが持つ実力も評価することができたはずだ。
 それなのに、国連の決定に異を唱えないのだから、なにか事情があると考えてもおかしくなかったのだ。

「やっぱり、黒だったわね」

 やけに各方面があっさり折れたという事実は、それだけ重大な理由があることになる。表向き言われているような人権問題では、物分りの良すぎる理由にはならないのだ。だからこそ、アスカの「黒」と言う答えに繋がることになる。
 自分の「黒」と言う決めつけに頷いたクラリッサに、他にも問題がありそうだとアスカは続けた。

「ただ黒なんだろうけど、事情はそれだけじゃないみたいね」
「そのあたりは、アスカの意見に賛成ね。
 ちなみに、ナイショの話だけど日本政府がかなり譲歩してきたわ。
 極秘行動になるけど、うちとカサブランカに来ることになったの。
 7月の末から2週間強の日程で両基地を例のパイロットが来ることになったわ」

 そのニュースは、アスカにとって初耳のものだった。それは凄いと驚いたアスカに、クラリッサは追加情報と言って「Top secret」とデカデカと赤字で書かれた電子書類を手渡した。

「日本政府が譲歩した結果公表された、パイロット3人のプロフィールよ。
 アスカには見せてもいいけど、それ以外に見せると私の身が危なくなるシロモノなの。
 タグがついていて、私の体から一定距離が離れると……ボン!
 解除しないで開いても、やっぱりボン!
 コピー機、カメラ撮影を検出してもボン!
 基地から持ちだしてもボン!」
「かなり物騒なシロモノね……
 当然、誰が閲覧したのかもトレースされるってことね?」

 書類に付いているセキュリティタグに、アスカは自分の右手人差し指を押し当てた。単純な指紋照合なのだが、それだけに排除率も格段に高くなっていた。しかもクラリッサが近くにいない限り解除されないセキュリティとなれば、情報漏洩の恐れはかなり減ることだろう。
 すぐに書類を開いたアスカは、示された情報に目を走らせた。

「ジャパンのS県S市にある総合高校の3年と2年の3人ね。
 フロントが2年のShinji Ikariで、後衛が3年のMadoka TonoとNaru Narusawa。
 つまり、このShinji Ikariと言うのが、例のパイロットってことよね」

 ここまで来て、情報を隠蔽することに意味があるとは思えない。それを考えると、この情報の信憑性を疑うまでもないだろう。なぜジャージと言う疑問はあるが、ヘラクレスに搭乗している写真も合成には見えなかった。だからこそ、民間協力という説明にも説得力が増していた。

「……標準的な日本の高校生なの?」
「そう聞かれても、サンプルはこっちに来てるパイロット候補しかいないわね。
 少し線が細く感じるのは、民間人だと考えれば妥当なところね。
 それでアスカ、念願のご対面だけど感想はどう?」

 にやりと口元を歪めたクラリッサだったが、アスカから返ってきたのはいささか期待はずれの答だった。

「どうって言われても、写真を見ただけじゃ何とも言えないし……
 それに、日本人の顔ってよくわからないのよね。
 訓練で来ている候補生と、あまり違いがないように思えるわ」
「そっかぁ、例のパイロットでもアスカの琴線に触れなかったか」

 残念と悔しがるクラリッサに、優先事項が違うとアスカは強く主張した。

「重要なのは、精神操作が解かれているかどうかでしょう?」
「それだったら、精神操作は解かれていないようよ。
 中に映像データがあるけど、10分間はヘラクレスをまともに動かせなかったもの」
「10分間って、あんたねっ!」

 それが大したことでないように言うクラリッサに、常識がおかしいとアスカは噛み付いた。

「このアタシだって、まともに動かせるようになるまで半日かかったのよ。
 戦力になっているパイロット……チャーリー達でも1日以上かかっているわ。
 10分でまともに動かしたって、それだけでも十分に異常なことよ」
「でも、絶対に無関係な二人の女性も、20分もしないでまともに動かしているわよ」

 ほらと示された映像データでは、3機のヘラクレスが連携動作のようなものを行おうとしていた。右上に表示された経過時間を信じるなら、訓練開始から20分も経過していなかった。アスカの考えが確かなら、これもまたあり得ないことのはずだった。

「この前に、シミュレーションをしていたんだっけ?」
「二人のジョシコーセーを加えた5人でシミュレーションを行なっているわね。
 その結果は、1時間もしないで6体のギガンテスを撃退しているわ。
 しかも遠方からの不意打ちも、正しく対処して被害0で殲滅していると言うおまけ付き。
 シミュレーションだけなら、うちの成績よりもいいかもしれないわね」
「恐るべき民間人ってこと?」
「多分ね」

 ぶるっと身を震わせたアスカは、例のパイロットの音声記録を確認することにした。さすがに日本語はわからないので、テキスト化された情報から謎を読み解こうとしたのだ。

「彼って、精神操作されているはずよね?」
「さもなければ、例のパイロットと無関係と言う事になるわ。
 で、なにか気になることがあるの?」
「気になるって言うか……負けたわ」
「負けたって……なにが?」

 現時点で、世界一のパイロットと言われているのが西海岸のアテナなのである。そのアテナをして、「負けた」と言わしめたのだから、その理由を聞いてみたいのは当然のことだろう。
 そしてクラリッサの質問に、ほとんど全部とアスカは答えた。

「このパイロット、シミュレーションを開始してしばらく、とても事細かく全員に指示を出しているのよ。
 しかもその指示が、極めて明瞭で的確だから、他の4人はうまく戦闘に入って行ってる。
 その上、開始してしばらくしてから、明確に役割分担を指示しているわ。
 そこから快進撃が始まって、合計6体のギガンテスを殲滅したということ。
 不意打ちについても、戦闘地域の地形から伏兵を予測し、ちゃんと二人にチェックさせていた。
 指導能力と指揮能力に関しては、アタシじゃ完全に負けているのよ。
 このシミュレーション映像を見せるだけでも、文句を言っている奴らが黙るんじゃないの?」
「そんなに凄いの?」
「うちの戦術分析班の意見を聞いてみたら?」

 そこまでアスカが言うのだから、凄いというのは本当なのだろう。Shinji Ikariの実力を認めたクラリッサは、残りの二人に話題を変えた。Madoka TonoとNaru Narusawaを分析したほうが、今後の強化策に役立つと考えたのである。

「今の訓練生も、うまく指導すればこの二人ぐらいには出来るってことかしら?」
「適性的には、2、3人該当しそうね。
 可能性としては否定出来ないけど、うまく指導できるかは全く不明。
 そして指導できる可能性を持ったパイロットは、今の体制の中には存在していない」
「砂漠のアポロンも?」

 同調率という指標では、アスカに敵うパイロットは存在していない。だが砂漠のアポロンこと渚カヲルは、アスカと並び称される絶対的なエースだった。その理由の一つが、冷静な判断力と的確な戦闘指示と言われていた。
 砂漠のアポロンを持ちだしたクラリッサに、アスカの答えは「分からない」と言うものだった。

「アスカでも?」
「アタシでもって言われるほど、渚のやつを知っている訳じゃないのよ。
 しかも比較対象がシミュレーションしか無いんだから、厳密な比較は不可能よ。
 そしてこの前の戦闘データは、比較すること自体意味が無いものになっているわ。
 それでも一つだけ言えることがあるとしたら、コーチでの作戦を考えた奴は天才よ」
「参考までに聞かせてもらうけど、どのあたりをアスカは評価したのかしら?」

 そこまで賞賛するアスカに、クラリッサは日本での戦いを再評価することにした。「高知の奇跡」は、今や世界で知らない者がいないほど有名になっている。その奇跡がどのようにして起こされたのか、作戦立案者を天才とまで言ったのだから、そこに理由があるだろうと考えたのだ。

「シミュレーション結果を見たら、クラリッサだったらどんな戦闘フォーメーションをとる?」
「どんなって、ほとんど選択の余地はないと思ったけど……」
「じゃあ質問を変えるけど、出撃させるのは1機、3機、5機?」

 具体的数字を挙げられたことで、クラリッサはアスカの言いたいことを理解した。直前にあれだけ見事なシミュレーション結果を見せられていれば、まともな指揮官なら5機まとめて出撃させることを考えるだろう。それを3機に絞ったことが、正しい選択だとアスカは考えたのだ。
 だがクラリッサの意見は、アスカとは違っていた。戦場なのだから、投入できる戦力は多い方が良いと考えたのだ。

「でも、シミュレーション結果から行けば、5機出したほうがいいんじゃないの?」
「同じ状況に置かれたら、アタシも5機投入することを考えるでしょうね。
 でも、この作戦を考えた奴は、実績のある5機ではなく、3機という決断を下した。
 そしてその正しさは、コーチでの戦闘が示してくれたわ」
「味方の犠牲を出さずに勝ったから?」

 結果の有効性は、全ての論理を超越する。そのつもりで口にしたクラリッサに、それも一つとアスカは答えた。そしてもっと重要な問題と言って、戦闘地域の平面図を出した。

「シミュレーションでは明確な役割分担を行っているわ。
 フロントが敵の分断と孤立化、そして第二列が敵の殲滅。
 そして第三列が伏兵に対する警戒ってね。
 その第三列が生きて不意打ちにも適切に対処できた。
 コーチもその作戦を基本的に踏襲しているのだけど、いくつか条件が違っているのよ。
 その第一が、伏兵の存在を想定するかどうか。
 コーチの場合、襲撃数は明確に6と出されている。
 これまでの経験上、確認されていない伏兵の攻撃はない。
 伏兵の存在は、あくまでシミュレーションだけのことなのよ。
 そうなると、第三列の必要性が薄くなる」
「それだけ聞いていると、天才って感じでもないんだけど?」

 ただ単に、単純な引き算を行っただけなのだ。それを考えれば、天才というのも言い過ぎに聞こえる。
 そしてアスカも、クラリッサの意見を認めた。そしてその上で、素晴らしい判断が加わっていると補足した。それが、天才と言った理由なのだと。単純な引き算で片付けるのは、思考を停止したことになる。

「第三列の必要性は薄くなった。
 だったらクラリッサ、あんただったら貴重な戦力をどうする?
 少しでも戦力が欲しい絶望的な戦いに、単純な引き算で対応する?」
「そうね、全体をいじってフォーメーションを厚くするわね。
 事実、戦闘途中でフロントが支えきれなくなる状況が生まれているわ。
 結果論で行けば、3機で出撃したことには問題があると思う。
 アスカが言うほど、素晴らしい作戦ではないと思うわよ」

 逆に作戦を否定したクラリッサだったが、アスカはそれを気にしていなかった。そしてクラリッサの言葉に含まれた、曖昧さを突いてきた。

「フォーメーションを厚くすると言うのは、とても便利だけど曖昧な表現だと思うわ。
 じゃあクラリッサ、5機でどう言うフォーメーションをとる?
 そしてそのフォーメーションは、3機で出撃した時の問題を解決できる?」
「どう言うフォーメーションって、まずフロントを厚く……は、無理か。
 誰を持っていっても見劣りするし、下手に戦力を割くと第二列の破壊力が不足する……
 だったら、第二列を厚くして……あまり意味が無いか」

 ううんと考え、クラリッサは色々なパターンを考えてみた。だがどのパターンを試してみても、フロントの問題を解決することは出来なかった。それどころか、フロントの負担を増しかねないことに気がついた。

「残りの二人の能力を考えると、戦場に投入しても不確かな戦力にしかならない。
 可能な限りリスクを減らすことと、リスクの種類を明確にすることが作戦上必要になるでしょう?
 そして素人に訓練することを考えると、あまり人数は多くないほうがいい。
 だって、追加の二人は、更に同調律が低くなっているのよ。
 つまり、戦力を増やすための訓練もリスク要因になるってことなのよ。
 この作戦を立案した奴は、リスクをフロントの能力だけに限定することを考えたんでしょうね」
「でも、そのリスクって他よりもずっと高くない?」

 成功した作戦ではあるが、だからと言って無条件に肯定する事は出来ない。クラリッサの主張は、当然アスカも理解していることだった。

「それだけ自信があった。
 さもなければ、それ以外の方法は取り得なかった。
 そう考えるべきじゃないのかな?」
「そのあたりも、ヒアリング項目になるわね……
 ところで、作戦担当者もヒアリング対象に入っていたっけ?」
「そっちも要求してみたら?
 たぶん、パイロットに比べればハードルが低いから」

 言われてみれば、作戦担当は職業軍人のはずだった。それならば、アスカの言う通りヒアリングを行うことへのハードルは低くなる。なるほどと納得したクラリッサは、基地司令への上申を考えたのだった。



 日本からデータが提供されたことで、砂漠のアポロンこと渚カヲルは、カサブランカ基地司令オットー・モルダウに呼び出されていた。カサブランカ基地所属パイロットのリーダーとして、日本で起きたことへの意見が聞きたいという理由からである。

「君ならば感づいていると思うが、Shinji Ikariこそ、TICの中心となったパイロットだ。
 あれだけの現象の中心となったことから、特殊な素質を持つことは予想されていた。
 だがそれを考慮に入れても、うちのスタッフはどうにも説明が付かないとギブアップした」
「だから、総司令自らパイロットにヒアリングをされると言うことですね?」

 話のとりかかりとして、別におかしなことではない。直々にヒアリングかと言う気もしたが、日本での事態を考えればこれぐらいは異例ではないのだろう。

「ああ、砂漠のアポロンと称される君なら、きっと違った意見を聞けるのではないかと思ったのだよ」
「その砂漠のアポロンというのはやめて貰えませんかね?
 バカっぽくてと言うか、はっきり言ってバカにされている気がするんですよ」

 珍しく嫌そうな顔をしたカヲルに、オットーは「そうか」と頷いた。

「ではカサブランカのエースとしての意見を聞かせて貰いたい」
「そうやって構えられると、とてもやりにくいのですけどね」

 緊張からなのか、少し口元を歪めたカヲルは、「お手上げです」と予想外の答えを返した。

「お手上げというのは?」

 少し驚いたオットーに、「お手上げはお手上げ」とカヲルは繰り返した。

「こんなもの、説明の付けようがないんですよ。
 たとえShinji Ikariが、TICの中心となったパイロットだとしても説明が付かない。
 もしも彼が、一人でギガンテスを撃退してくれれば、それで説明が付いたんですけどね。
 しかし3人がチームとして働き、その結果6体のギガンテスを倒している。
 フロントに立った彼の事は説明できても、殲滅担当の二人は説明できないんです。
 しかも、フロントに立った彼にしても、難しい事情があると私は理解しているんですが?」

 有りますよねと褐色の瞳で見られたオットーは、少し間を置いてから「安全措置を執っている」と答えた。

「TICに関わる記憶が、人類にとって非常に危険な物と認識されている。
 従って、彼に対しては厳重な記憶操作が実施されている。
 今の彼は、TICで両親を失い、妹と二人きりなってしまった一般人だと自分を思っている。
 そして今回の出撃に際して、日本は記憶回復の措置を執っていない」
「つまり、フロントに立った彼も、一般人だと考える必要があると……
 そうなると、ますます説明の付けようがありませんね。
 女性二人にも、確かに素晴らしい素質があるのは肯定できます。
 しかし、その素質にしたところで、エリック達と大差があるとは思えません。
 彼女たちを戦えるところまで引き上げたのは、間違いなく彼の功績なんです。
 しかし最大の功労者である彼は、まったくの素人なんですよ。
 それを分析し説明しろと言われても、出来ない相談だというのは分かって貰えますね?」

 カヲルの答えは、オットーのスタッフの物とほとんど同じ物だった。唯一の拠り所であるTICのパイロットという事実は、示した事象の前に否定されてしまうのだ。そうなると、カヲルの言う通り説明のしようがなかったのである。更に付け加えるなら、TIC以前の観察報告からでは、今の能力を説明することは出来なかった。カヲルの言う通り、TIC前の能力ならば、一人で殲滅する方向に働いているはずだった。
 だからカヲルからのヒアリングを早々に諦め、オットーは新しい情報を確認した。

「7月の末に、彼らがうちに来るのは聞いているな?」
「ええ、パイロット全員楽しみにしているんですよ。
 彼らの経験談を、ぜひとも聞かせてもらいたいと思っています。
 特にフロントに立った彼には、色々と聞いてみたいことがありますね」

 嬉しそうに語るカヲルに、重要なミッションがあるとオットーは切り出した。

「せっかくの機会、単純なヒアリングで終わらせてほしくはない。
 可能ならば、初心者をいかにトレーニングをしたのか、そのコツを学び取って欲しいのだ」
「確かに、全くの初心者を僅かな時間で使い物になる所まで引き上げていますね。
 搭乗訓練をして20分と言うのは、僕にもマネの出来ない早業です。
 指導者の有無がありますが、まともに動くようになるまで半日かかりましたよ」
「それを10分で済ませたということは、彼には特殊な才能が有るということか?」

 まともに動かせるようになるまでの時間に関しては、サンディエゴ基地と同じ見解を持ったということである。特殊な才能に逃げたオットーに、カヲルは否定ではなく積極的な肯定を示した。

「残念ながら、それ以外に説明する言葉を私も持っていません。
 同調率とは違った、別の才能が備わっていたと考えるべきでしょう。
 そういう意味では、そうですね、適当な被験者を連れてきてくれるんですよね?」
「確かに、今回は5人で来るということだったな。
 シミュレーションで示した同調率は低いが、逆に手法を知るにはいいのかもしれん」

 連れてくる二人程度の同調率なら、サンディエゴ基地に来ている候補生にも同じレベルが大勢いた。その比較を行えば、指導方法の特殊性を確認することもできるだろう。

「あとは、バージョンアップしたシミュレーターもありましたね」
「彼に、カサブランカ基地の精鋭を指揮させてみたらどうだ?」

 経験からすれば、立場は逆でなければおかしかった。そのおかしなことを強行しようと口元を歪めたオットーに、カヲルは「面白い」と同調してきた。

「ぜひとも、僕も彼の指揮のもと戦ってみたいですね。
 そうすれば、より彼の考え方を理解することができる」

 その時が待ち遠しい。司令室にかけられたカレンダーを見て、楽しみだとカヲルは口にしたのだった。



***



 日曜日の朝は、とても清掃日和とは思えない素晴らしい好天だった。容赦なく照りつける太陽は、じりじりと若い肌を焦がしてくれた。その日差しの下、集まったボランティア部20名を前に、部長代行のシンジはハンドマイクを使って指示を出していた。シンジの格好は、ジャージ部のトレードマークとなった臙脂色のジャージである。ちなみに学校指定のため、他の部員達も同じ格好をしていた。
 ちなみにシンジの後ろを見ると、40人ほど芸プロ関係者とマスコミ関係者が勢揃いしていた。こちらの方は、色とりどりの涼しそうな格好をしてくれていた。

「今日は、富士見橋から花見橋にかけての河原のゴミ拾いをします。
 昨日はバーベキュー日和でしたので、沢山のゴミが落ちているようです。
 みなさん分別しながら、ゴミの収集をお願いします!」

 宜しいですか? と言うシンジの声に、ボランティア部にあるまじき、男の声で「はい」と言う元気な答えが返ってきた。その声の主こそが、本日行われるボランティア活動の主役、アイドルグループ薄桜隊のメンバー花澤キラだった。そして集まった20名のうち、19名が花澤目当ての幽霊部員である。
 映像では分からないが、花澤はシンジからかなり離れた所に立っていた。そして後ろからの映像は、かなり離れたところから望遠で撮られていた。そのあたり、シンジと花澤の身長差がありすぎるというのが理由だった。いくら高2と高1と言っても、あまり差があると花澤が見劣りしてしまうのだ。

 ちなみにバーベキューのゴミとシンジは言ったが、そのあたりは過剰演出だったりする。確かにバーベキューで河原は使われているが、管理が行き届いているお陰で、ほとんどゴミは残っていなかったのだ。むしろ誰かが遊んだ花火ぐらいが目立つゴミだった。そういう意味で、設定からヤラセが始まっていた。

 開始してくださいと言う指示で、集まった20名あまりの高校生とカメラを持った人達が河原に散っていった。正確に言うなら、後者は花澤について歩いて行った。

「いやぁ、毎度毎度悪いねぇ」

 シンジがハンドマイクを下ろしたところで、スーツ姿の花澤のマネージャー木村が近づいてきた。ちなみにこの木村のことを、ジャージ部では「枯木村」と呼んでいたりする。そのあたり、折れてしまいそうなほどやせ細った体形が理由になっていた。
 にこにこと作り笑いを浮かべて近寄ってくる木村に、とんでもないとシンジは作り笑いを浮かべた。このあたり、完全に社交辞令なのだが、それが嫌だとマドカがシンジにこの仕事を押しつけた理由でもある。

「どんな理由でも、ボランティア活動に日が当たるのは良いことですよ」
「いやぁ、そう言ってくれるとうちも助かるんだけどね。
 ところで、堀北アサミちゃんはやっぱり参加してくれないのかな?」

 花澤キラと堀北アサミのツーショット映像が取れれば、宣伝的にも効果が絶大な物となる。それを期待しての木村の言葉に、「予定が合わない」と用意してあった言い訳を口にした。

「本人も楽しみにしていたんですけどね。
 結構忙しいらしくて、なかなか予定が合わないんです」

 予定が合わないはずのアサミは、この後BWHで行う反省会に出席の予定だった。その予定にしても、「デート」と渋るシンジを、4人が説得したと言う事情がある。朝のボランティア活動に参加しないのは、「ただでテレビに出るのはイヤ」と言う、至極もっともな理由だったりした。まあ、花澤の宣伝に使われたくないというのが本音なのだろう。
 シンジの答えに少しだけ残念な顔をした木村は、「ところで」と言ってシンジの耳元で別の女子生徒を話題にした。

「あの髪が長くて背の高い子。
 あの子って、今まで参加していなかったよね?」
「髪が長くて背の高い子って……」

 今まで参加していない髪が長くて背の高い子。そのキーワードで誰かを思い出そうとしたが、シンジには該当者が見当たらなかった。だから木村は、具体的にその少女を指さした。

「ほら、あそこでゴミばさみを持っている可愛い子」

 目立たないように指さされた先を見たら、そこに居たのはキョウカだった。ちなみにキョウカは、これまで毎回出席している皆勤賞でもある。部長副部長が出席しないのだから、よほど真面目なボランティア部員と言えるだろう。そしてキョウカだけが、花澤を目当てに集まった部員ではなかった。

「ああ、篠山ですか。
 彼女は、今日を含めて毎回出席していますよ」
「えっ、前回も居た?」

 驚いた顔をした木村に、シンジは気付かなかった理由を説明した。

「その頃は、髪が金色だったり赤かったりしていましたからね。
 髪を黒に戻したのは、わりと最近のことなんですよ」

 シンジの説明に、なるほどと木村は頷いた。集まる女子学生を観察しているので、シンジの言う特徴をした女子学生も記憶に残っていたのだ。そして頷いたついでに、「頼みがあると」切り出してきた。

「花澤君と一緒の絵が欲しいんだよ。
 できれば、笑顔で会話をしてくれると嬉しいんだがなぁ」
「別に構いませんけど……ただ扱いには気をつけてくださいね。
 篠山は、あくまで一般の生徒なんですからね」

 一般の生徒以上に気をつけなければいけない理由はあったのだが、敢えてそのことは口にしなかった。日本で有数の資産家令嬢とでも知れたら、どんな話を作られるのか分かった物ではなかったのだ。

「お〜い、篠山ぁ!」

 シンジが大声で呼んだ時、キョウカは顔を上げて「自分?」と言う様に自分の顔を指さした。そしてシンジが頷いたので、少し嬉しそうに走ってきた。

「なんだ……どうかしましたか、碇先輩!」

 家族の涙ぐましい改造計画のお陰で、キョウカの言葉遣いも多少直ってきていた。ただ慣れないせいで、かえっておかしくなることも多々あったりした。少しつっかえたのも、その改造計画が理由だった。

「木村さんが、お前と花澤君が一緒に映った絵を欲しいらしいんだ。
 細かいことは指示してくれると思うから、ちょっと手伝ってくれないかな?」
「一緒に映ってくれば良いんだな……いいんですね!」
「篠山、あまり無理をしなくても良いんだぞ」
「無理なんかしていませんよ」

 ほほほほとわざとらしく手で口もとを隠したキョウカに、「手遅れ」とシンジは冷静に突っ込みを入れた。今更清楚さを演出しても、ヤンキー姿を忘れるはずがなかったのだ。

「じゃあ木村さん、必要な指示をお願いしますよ」
「そうだね、じゃあ篠山さんだっけ、一緒に花澤君の所に行こうか?」
「はい、宜しくお願いします!」

 シンジに対してより、他の人に対する方が、キョウカの言葉遣いはまともになっていた。そのあたりは、高校に入ってからの習慣が理由になっているのかも知れない。さもなければ、考えにくいことだが緊張しているのかも知れなかった。
 よそ行きの顔をしたキョウカを見送ったら、シンジの所に同じくスーツ姿でエラの張った男が近づいてきた。「草K」と書かれた名刺を差し出した男は、「芸能界に興味はない?」と聞いてきた。

「ほら、ここの映像はヒ・ダ・マ・リで使っているだろう。
 番組あてのメールで、君に対する問い合わせが結構あるんだよ。
 よかったら、一度番組にゲストで出てみないか?」
「そうやって誘っていただけるのは嬉しいんですけど……」

 すでにアサミから注意されていたこともあり、「草K」と言う男の誘いは想定されたことだった。キョウカのことも注意されていたのだから、よほどパターン化されたことなのだろう。
 言葉を濁したシンジは、「すみません」と謝って誘いを断った。

「そう言うのに、あまり興味がないんです。
 ボランティア部として協力するのは良いですけど、それ以上となるとちょっと協力しかねます」
「だめなのかい?
 君だったら、結構人気が出ると思うんだけどね」

 いかにも未練たらたらの態度で、草Kはもう一度だめなのかと繰り返した。

「学校とクラブ活動が楽しくて仕方が無いんですよ。
 だからそれを犠牲にする芸能界はちょっと……」
「だったら、気が変わったら連絡をくれないかな?」

 そう言って、草Kは新しい名刺の裏に、自分の携帯番号を書き込んだ。

「美島ハルナちゃんとか、ガールズパーティーもうちの事務所なんだよ」
「へぇ〜、大ファンなんですよ」

 そう答えて、シンジはさも嬉しそうに名刺をポケットにしまい込んだ。このあたりが演技なのは言うまでもないし、草Kの挙げた名前を実は知らなかったりした。別の機会に聞かれると困るので、後からアサミに教えて貰おうなどと考えていたのだ。

 「よろしくねと」と何度も繰り返して、草Kはシンジから離れていった。それをため息で見送ったシンジは、遠くでキョウカが似たようなことになっているのに気がついた。

「こう言うのを、バイタリティが有るって言うのかな?」

 どちらにしても関係ない、誘われたことは忘れてシンジもゴミ拾いに出撃したのだった。



 分別されたゴミをトラックに積み込んだところで、朝のボランティア活動は完了した。トラックに積み込まれたゴミのうち、スタッフが用意したものは8割を超えていた。全部河原で集めたと宣伝したら、どれだけS市の住人に公徳心が欠けていると思われることだろうか。後から苦情が来ないか、シンジはトラックを見送りながら不安を感じたほどだった。
 そしてボランティア活動と言うステージを終えた花澤は、女性陣の黄色い声に送られて去っていった。黒いワゴン車とそれを追いかけるように走っていく放送局の車と雑誌関係者、その車を見送ったところで、「これで解散します」とシンジは大声を上げた。最初にハンドマイクを使ったのは、その方が映えるというテレビ側の要求だった。たかが20人なら、大声をだすだけで十分だった。

 「ご苦労様ぁ〜」の声が飛び交い、集まった女子生徒たちは三々五々家路に着いた。スマホの画面を見ているのは、今日の戦果を確認するためだろう。“人気”アイドルの親しみやすさを演出するため、ゴミ拾い時間以外は写メも解禁されていた。

「碇君は、これから瀬名さんとデート?」

 帰っていく女子生徒の一人が、後片付けをしているシンジに声をかけてきた。キョウカ以外は幽霊部員なので、当然声をかけたのも幽霊部員の一人だった。

「道具を学校に戻してから、BWHでジャージ部の集まりがあるんだよ。
 正確に言うと、サボった部長にお昼を奢らせるんだけどね」

 デートという言葉を否定というか、シンジはごまかしたのだが、すかさずキョウカがその努力を無駄にしてくれた。

「ランチは1時までだからな。
 そのあとは、瀬名先輩と待ち合わせをしていると聞いている……わよ」
「篠山、あまり無理して言葉遣いを直そうとするな。
 もっと自然に振る舞っていれば、そのうち自然に直ってくるぞ」

 敢えて話を逸らしたシンジだったが、それはあまり意味の有ることでは無いようだった。聞いた方も単なる挨拶がわりなのか、「さようなら」と手を振って帰って行ってくれた。
 その後ろ姿を見送り、キョウカはとても素朴な質問をぶつけてきた。

「しかし碇先輩、どうしてあいつらに手伝わせないんだ?
 ボランティア部は、ファンクラブの集まりではないと思うのだが」
「確かに、ファンクラブの集まりじゃないね。
 まあ、彼女たちが花澤君との時間を楽しみたい、その気持ちを応援しているところかな?
 すくなくとも、始める前よりはゴミが減っているからいいんじゃないか?」

 余ったゴミ袋を束ね、ゴミハサミは持ってきた紐で縛って麻袋をかぶせた。ゴミバサミは数が多いので2つに分けたが、十分に一人で持てる量だった。

「篠山は、家に帰ってシャワーでも浴びて着替えてきたらどうだ?
 BWHは、みんな私服で来るはずだからな」
「なに、まだ十分に時間はあるからな。
 少しぐらい先輩の手伝いをしてもバチは当たらないだろう!」

 シンジの持っている袋の一つを奪い取り、キョウカは一緒に行くと主張した。

「どうした、今日はやけに殊勝な真似をするじゃないか」
「こうでもしないと、美味しいところをアサミに取られるからな」
「堀北さんに?」

 意外な名前に驚いていたら、キョウカがあそこと堤防下を指さした。何事かと指さされた方を見たら、民家の軒先で涼んで居るアサミの姿がそこにあった。
 シンジが自分の事に気づいたことで、アサミが出ていくきっかけになったのだろう。日陰から出たアサミは、少し小走りにシンジのもとに近づいてきた。今日のアサミは、ベージュ色をしたゆったり目のワンピースを着ていた。これだけ暑いと、白っぽい服の方が涼しくて良いのだろう。

「堀北さん、BWHで待っているんじゃなかったんだ」
「ジャミングのスタッフに会いたくなかっただけですからね。
 だから時間を見計らって出てきたんですよ!」

 はいと手を出して、アサミはゴミ袋の入った荷物を受け取った。そして居場所を誇示するように、キョウカとシンジの間に割り込んできた。

「くっつくと暑いよ」
「男の人は、そういう事を言わないものですよ」
「あのなぁ」

 文句を言おうとアサミを見たら、ちょっとモラルに厳しい状況にあるのに気がついてしまった。身長差があるため、ゆったりとしたワンピースの胸元からは、大事な部分がほとんど丸見えだったのだ。かろうじて隠れているといえば、どれほど際どいか想像がつくだろう。
 一瞬視線を吸い付けられたが、すぐにシンジはお宝から目をそらした。心なしか体温が上がった気もするが、それは気のせいで片付けることにした。

「アサミ、後から来て特等席を取るなよ」
「キョウカさんは、今まで一緒にいられたからいいじゃありませんか。
 それに、反対側にも特別席はありますよ」

 反対側は、シンジが荷物を持っているのだから、そこを特等席というのは少し無理があるだろう。それに、子供ではないのだから、町中を3列で歩くのも問題があった。
 そうやってキョウカの文句をやり過ごしたアサミは、「どうでした?」と今日のボランティア活動のことを聞いてきた。ただどうと言われても、ただゴミ拾いをしただけだった。だからシンジは、いつも通りとしか答えようがなかった。

「テレビに出てみないかって言われませんでした?」
「草Kさんとかいう人に誘われたよ……
 篠山も、木村さんに誘われていなかったか?」
「なぁんだ碇先輩、先輩は俺のことを心配してみていてくれたんだな。
 それはなにか、イケメンに嫉妬してくれたのか?」

 ほくほくと喜ぶキョウカに、それだけは絶対にないとシンジは断言した。

「お前が、おかしなことを口走っていないか気になっただけだよ」
「背が高いし綺麗だから、テレビに出たら人気が出ると言われただけだ。
 先輩はなかなか認めてくれないが、マネージャーさんは綺麗だといってくれたぞ!」
「先輩、キョウカさんは綺麗になったと思いますよ。
 それを否定するのは、さすがに可哀想じゃありませんか?」
「アサミもたまにはいいことを言うじゃないか!
 どうだ先輩、綺麗になった俺に惚れ直したか?」
「なんで、惚れ直すって話になるんだ?」

 惚れ直すという以上、それ以前に惚れている事実がなければいけなかった。だが客観的に分析しても、自分がキョウカに“惚れていた”時期はないはずだった。もちろん、今のキョウカに惚れたという事実もないと思っていた。
 だがシンジに否定されても、キョウカは別に堪えた様子を見せなかった。「そうか」と笑って、まだまだかと自分の努力の足りなさを笑った。

「先輩に認めてもらえるようじゃないと、いい女になったとは言えないからな。
 うんそうか、まだまだ努力が必要ということだな」

 うんうんと頷くキョウカに、「なんて前向きな奴」と珍しくシンジは感心した。キョウカが引き下がったので、アサミは元の話に戻すことにした。

「それで、先輩はどう答えたんです?」
「特に興味はないって答えたよ。
 こうやって学校に通って、ジャージ部で活動する。
 なんか、毎日が楽しんだよね」
「私も、先輩と一緒に部活をするのは楽しいですよ」
「あっ、俺もそうだな」

 彼女じゃなくても、可愛い後輩に慕われるのは悪い気はしない。常日頃否定はしているが、まともになろうとしているキョウカは、世間標準で十分美人になってきたのだ。そしてアサミは、今更言うまでもなく、元トップアイドルである。洗練され具合は、まだまだキョウカも敵ではなかった。

「なんか、そう言ってもらうのも悪くはないね」

 そう言いながら視線をアサミに向けると、相変わらず危険なものが見えてしまう。しかも動いているせいか、先っぽの可愛い膨らみまで見えそうになっていた。さすがにまずいと視線を逸らしたら、シンジだけに聞こえるように「別に良いですよ」とアサミは言った。

「でも、許してあげるのは見ることだけですよ。
 もしも触ろうとしたら、大声を上げますからね。
 先輩達にも言いつけますし、思いっきり軽蔑してあげますからね」

 更に覗きやすい様に前屈みになったアサミは、「そそるでしょう?」と小さく笑って見せたのだ。つまり、この程度見せることは、最初から計画していたと言う事だ。事実だけ考えると、完全に弄ばれていると言う事になる。
 それってどんな生殺し? 日差しではない理由で、シンジは頭に血が上るのを感じてしまった。



 手の感覚も戻ったし、トイレの辛いのも治ってくれた。そのあたりは、さすが若さ故の回復力というところだろうか。高知の戦いから1ヶ月近くが過ぎ、シンジの体調は絶好調にまで戻っていた。
 ただそれでも、予後の注意が必要なのは間違いなかった。それもあって、日曜の午前には時々病院に顔を出していた。そしてそれが篠山関係者の病院であるのは、今更騒ぎ立てることではないのだろう。

 それでも病院にかかるのに、費用を請求されないのはどう考えたらいいのだろうか。更に付け加えるなら、待ち時間ゼロで診察してもらえるのも、信じられないことだった。そしてその診察も、それぞれの診察室に行くのではなく、各担当医がシンジの待つ特別室まで来てくれるのだ。更に言えば、シンジが来ているのは日曜日なのだ。
 いくら自衛隊の息が掛かっていても、ただの高校生相手に過剰な待遇に違いなかった。

 ただ事情を考えると、シンジの病状全ては極秘扱いにされるものだった。それを考えれば、一般患者の中に混ぜるわけにも行かないのも理解できる。だから別扱いというのも、さほど不思議ではないのかもしれない。しかも、いわゆる“労災”なのだから、本来シンジが費用を持つ必要も無いのだろう。
 それにしても、全てが丁寧で豪華と言うのはどう考えていいのか。医者が来るのを待つ間、お茶やお菓子が運ばれてくるのだから、とても自衛隊関係とは思えない高待遇である。しかも暇つぶしの相手として、1年先輩の鷹栖フユミまで付き添ってくれていたのだ。多少人選に難はあるが、それも破格の厚遇なのは疑いようもない。それに黙ってそこにいてくれれば、そしておかしなプレッシャーを発してくれなければ、鷹栖フユミは鑑賞に値する美人だったのだ。という事で、シンジはありがたくフユミを鑑賞しながら時間を潰すことができた。

「先輩にまで付き合っていただいて申し訳ありません」

 すべて篠山家の差金と想像できるのだが、少なくともフユミは巻き込まれただけのはずだった。だからその意味も込め、優雅にお茶を啜っているフユミに謝った。休日の午前、こんなところに居るのは退屈で仕方ないだろう。しかも年下の男子高生に鑑賞されるのは、本人にとっても望むところではないはずだ。したがって、フユミの事情を考えなければ、シンジの謝罪は正当なもののはずだった。

「別に、貴方に謝られるようなことではない。
 逆に、私が居て窮屈な思いをしているんじゃないのか?」

 だがシンジの謝罪に対して、フユミは表情も変えずとてもありきたりの答えを返してきた。あまりにもありきたりすぎて、何を考えているのか量り取るのが難しい答でもあった。以前脅されていることもあり、単刀直入シンジは事情を聞くことにした。

「やっぱり、篠山家絡みなんですよね……これ?」
「それぐらい、今更言うまでもないことだと思っているのだが?」

 そしてフユミは、シンジの考えた通り篠山家の差金だと認めてくれた。そして認めた上で、逆効果になりかねないと言う意外な言葉を口にした。

「さすがにやりすぎだとは私は思っているぞ。
 でも、キョウカさんのご両親、かなり碇君に感謝しているのも事実だな。
 碇君も知っているように、あの子中学の時、ちょっと友人関係がよろしくなかったのだ。
 それに、今からは分かりにくいかもしれないけど、小さい時はかなり寂しい思いをしていたよ。
 その理由は、何と言っても篠山の一人娘ということにあるのだがな。
 本来子供同士には関係ないはずなのだけど、どうしても周りの大人が気を使ってしまった」
「怪我をさせないようにとか、嫌な思いをさせないようにとか……ですか」

 シンジの言葉に、およそそう言ったこととフユミは認めた。そして、それがいけなかったのだと言葉を続けた。

「そんな腫れ物を扱うようにしたら、子供たちは一緒に遊びたいとは思わないだろう?
 だから小さな時は、お友達が全く出来なかった。
 まともに話せる友だちができたのは、中学に入ってからのことだと聞いている。
 ただ、その友だちの影響というか……友だちになるためああなったというか……」
「金と赤のカーリーヘアに、紫色の唇、青いほっぺですか……
 今時ありえない、丈の短いセーラーと、地面に擦りそうなスカートを履いていましたね」

 そのおかげで、入学式ではとても目立っていたのをシンジは覚えていた。目立っていたというか、正確に言えば周りから避けられていたのだ。だからボランティア部に入部してきた時も、なにしに来たのだと、自分の目を疑ったほどだった。もっともボランティアから程遠いところにいる、シンジにはそう思えてならなかったのだ。
 シンジの言葉を認めたフユミは、ボランティア部に入ったのが良かったのだと言葉を続けた。

「ボランティア部に入ってから、どんどん普通……と言うとおかしいか。
 一般的な常識を身につけるようになってきた。
 聞いた話だが、碇君、君はキョウカさんを見ていきなりお説教をしたんだろう?
 「お嬢様として、その格好は絶対に間違っている!」だったかな?
 結構キョウカちゃんにはインパクトがあったようだ。
 今までそんなことを面と向かっていってくれる人がいなかったのだからな。
 ご両親は、「この格好はおかしいのか?」と聞かれて驚かれたそうだ。
 どうしてそんなことを言うのかと聞いたら、碇という先輩にこってりと絞られたって答えたらしい。
 どうもそれから、毎日家で「碇先輩」に何を言われたのか報告しているそうだぞ」
「そんな話、僕に聞かせてどうしようっていうんです?」

 それを楽しそうに言われると、どんな裏があるのかと言いたくなる。だが顔色一つ変えず、フユミはありのままを話しているだけだと言い返した。

「別に、事実を事実として伝えただけだ。
 そこで一つだけ確かなことがあるとすれば、君はキョウカさんに影響を与えうる男性ということだな。
 それとは別に、私は君が何か特別なものを持っている人だと思っている。
 この前大勢の人の命を助けたのは、君の持っている物が表に出たのだと思う。
 だから君には、もっと人を引っ張っていって欲しいと思っている。
 君にはその力があるし、そして責任があると思っているよ」
「評価していただくのは嬉しいんですが、そう言われるのはかなり照れくさいですね」

 フユミほどの有名人にそこまで言われるのは、どこか面映いところがあったりする。しかもにこりともせずに言ってくれるのだから、どこか追い詰められた気もしてしまう。

「だが、私の評価以上に君は重要な役割を担うことになったのだろう?
 それに君は、マスコミが血眼になって探す、日本を救ったヒーローのはずだ」

 事実として一つも間違いはないが、それを言うのも止めて欲しかった。人を助けたいと言う動機からの行動だが、今は「大変なことをしてしまった」と言う後悔の方が強かった。

「まあ、ヒーローであるかは本質的な話ではない。
 そして、ジャージ部が君のハーレムに見えるのも本質的な話ではないな」
「ハーレム……だったら良いんですけどね」

 普段の部活動において、シンジの意見が通ったことは一度もないのだ。そして芸プロ対応の面倒事も、本当に面倒だとシンジ一人に押しつけられていた。明確に一線を引かれ、その向こう側から際どいちょっかいも掛けられているのがジャージ部の現実である。どんなに羨ましい状況でも、手を出せなければ生殺しでしかない。
 そういった意味で、ジャージ部の関係はハーレムというより、5人兄妹と言うのが一番正しいのかも知れなかった。4人の姉、妹にいいように使われる、唯一の男というのがシンジの立場なのだろう。
 ふっと口元を歪めたシンジは、自分にはガールフレンドが居ることを主張した。その事実を、ハーレムを否定する根拠としたのだ。

「それに、普通のガールフレンドがいるのに、ハーレムなんて作らないでしょう?」
「ガールフレンド……ああ、同じクラスの瀬名さん……だったかな?」
「ええ、そうですよ」

 広めることでもないが、どうせ顔を合わせている相手なのである。今更隠したところで意味も無いだろう。だからシンジは、アイリと付き合っていることをフユミに認めた。
 なるほどと頷いたフユミは、そのアイリを話題にしてくれた。

「たぶん知らないと思うが、キョウカさんの目標は瀬名さんなのだよ。
 綺麗だし勉強もできるし、家庭的なこともできるだろう?
 それ以上に大きいのは、碇君のガールフレンドということだな」
「最近掛け持ちで料理部に入ったのはそう言う理由ですか?」

 その通りと、フユミはシンジの言葉を認めた。

「格好も女の子らしくなり、料理の勉強も始めただろう?
 勉強もするようになったようだから、キョウカさんのご両親がもの凄く喜んでいると言う話だ。
 それに家で話す内容も、今は碇君だけじゃなくなったようだな。
 それも成長だと、とても喜んでらしたな。
 いろんな意味で、ジャージ部に入れて良かったと仰ってたよ」

 鷹栖フユミにそこまで褒められると、お尻がむずがゆくなってしまう。だがジャージ部に入って良かったというのは、シンジ自身も感じていたことだった。今の高校に入っても、ジャージ部に入っていなければ今の自分もなかったはずだ。

「そうですね、僕もジャージ部に入って良かったと思っています」

 明るい表情で答えるシンジに、ちょっと良いかなとフユミは感じていた。もっとも篠山の方針上、つまみ食いをするわけにはいかない。それに、未だガールフレンドと手を繋ぐだけで、後輩にからかわれても切れないお子様だから、ここで誘ってもうまく行かないのも目に見えていた。だからジャージ部も、空中分解しないで維持できているのだろう。

「今日はジャージ部の集まりはあるのかな?」
「さすがに、毎週毎週集まってはいられませんよ。
 ここのところ連続して土日を潰していましたから、今週はお休みと言う事になりました」
「そうか……」

 時計を見上げると、すでに11時になろうとしていた。これから検査結果を聞いていたら、お昼にはちょうどいい時間になりそうだった。だからフユミは、少しだけ自分の願望を口にした。

「もうすぐ検査結果が出るが、その後少しだけ君の時間を貰っても良いかな?」
「僕の時間をですか?」

 少し怪訝な顔をしたシンジに、大したことではないとフユミは答えた。

「時間があるのだったら、ランチに付き合って貰おうかと思ったのだよ」
「だとしたら、先に約束があるんです。
 診察が終わったら、ショッピングに付き合うことになっているんです」
「さすがに、デートの邪魔は出来ないな」

 ふふと笑って、少しわざとらしく「残念」とフユミは言った。誰とは言っていないのだが、そこの認識は共通していたのだろう。
 フユミとしても、別れさせろとの指示も来ていなかった。それを考えたら、茶々を入れるのは控えた方が良かったのだ。

 残念と考えたフユミは、茶々と言う事で一人の後輩を思い出した。フユミをして得体の知れない、元トップアイドル堀北アサミである。そして彼女の行動については、篠山家跡取り娘から色々と聞かされていた。

「そう言えばキョウカさん、ずいぶんと堀北さんのこと警戒していたな。
 最近悪ふざけに度が過ぎているのではないか、と言っていたぞ。
 碇君と瀬名さんの間を邪魔するのはけしからんと怒っていたな」
「篠山が、そんなことを言っていたんですか?」

 そう言われれば、最近キョウカが何かとアサミのことを意識しているのを思い出した。てっきりキョウカ自身のためだと思ったのだが、それが違っていたことにシンジは驚いた。そう考えてみると、フユミが言った「良い子」と言う評価は間違っていないのだろう。

「キョウカさんの目標は瀬名さんだと言っただろう?
 だから碇君と堀北さんのやりとりにやきもきしているのだよ。
 今のままだと、いつ碇君が狼になるのか分からないと言っていたな」
「篠山の奴、人のことをなんだと思っているんだ……」

 そう言って憤慨はしたが、キョウカの心配も分からないことはなかった。キスされたこともそうだが、どう見ても誘っているような行動が多くなっていたのだ。そして自分に掛けるちょっかいが、ますますエスカレートしているような気がしていた。もしも自分が普通の男子だったら、間違いなくキョウカの言っている通りになっただろう。

「それだけ、キョウカさんは堀北さんの魅力を認めているのだよ。
 私の目から見ても、彼女は周りの女子達と一線を画していると思う。
 顔立ちが綺麗だというのもそうだが、自分を魅力的に見せる方法を知っているな。
 その堀北さんに、折にふれてちょっかいを掛けられているのだろう?
 むしろ、勘違いをして舞い上がっていない方が不思議だと思うがな」

 どこまでキョウカが話しているのかは知らないが、かなりのことはフユミに伝わっているのだろう。それを考えると、フユミというのはキョウカにとって信用のおける相手ということになる。もっとも、キョウカがどこまで正しく相手のことを見ているのかは疑問があるのだが。
 アサミのちょっかいというのは、シンジにとって心当たりの有り過ぎることだった。だから「狼になる」と言うのも、誘惑に負けて誘いに乗ることと理解すれば、それは間違っていないのだろう。

 ただシンジに限って言えば、頭に血が上って周りが見えなくなることはありえなかった。そのおかげで、アサミの考えを推測することもできた。

 これまでの生活は、周りの視線は全て自分に向けられていた。それを当たり前だと思う心が、きっと今の行動を支配しているのだろう。自分に対する好意の有無に関係なく、その他大勢に見られることにきっと我慢が出来ないのに違いない。自分に突っかかってくるのも、身近な男性の興味も引けないという事実に耐えられないからだと思っていた。
 だからシンジの気を引くためには、かなり際どいことも平気でしてくるのだろう。そしてシンジの関心が完全に自分に向いたときは、それに満足して距離を置いてくれるに違いなかった。

 それが分かるから、シンジはアサミに手を出そうとは思っていなかった。その分、シンジが身の程を弁えていたと言う事にもなる。

「そうですね、最近は手段を選ばなくなって気がしますよ。
 しかも、とても絶妙な線でじらしてくれますね」

 シンジの答えに、フユミは小さくほっと息を吐きだした。

「君はとても不思議な人なのだね。
 普通の男なら、間違いなく勘違いをしているところだろう?
 どうして、元トップアイドル相手に冷静でいられるのかな?」
「言うほど冷静ではありませんよ。
 ただ、どんな時でも冷静になってしまう悪い性格をしているんです。
 もっとも、冷静になるだけでスーパーマンになるわけじゃありませんけどね」

 損な性格だと苦笑したシンジに、同じように苦笑を返して、「そうね」とフユミは呟いた。そして「彼女になる人は大変だな」と言ってくれた。

「君相手では、熱烈な恋愛は絶対に望めないということだな。
 それをちゃんと理解してくれる人じゃないと、絶対に長続きしないことだろう。
 まあ、結婚は別だから大丈夫だと思うのだが……」
「そんな先のことは考えていませんよ……」

 考えてみれば、かなり酷い言われようなのである。だがフユミの言うことには、シンジには心当たりも多すぎた。だがそこまで将来を考えていないのも、またシンジにとっての真実だった。
 だがシンジは、なぜか自分が極めて個人的な事を話しているのに気がついた。検査結果を聞くまでの僅かな時間の暇つぶしのはずが、なぜか女性観を含めアサミのことを色々と口にした気がする。うまく乗せられ、言わなくてもいいことまで喋らされた。油断も隙もないと、改めてフユミのことを警戒したのだった。



 日本を救った謎の3人のパイロット。それはテレビの扱う話題として、近年にない好素材に違いなかった。だから正式発表のないことをいいことに、各局勝手な妄想を垂れ流していた。そのために、いつ沸いたと言いたくなる専門家を登場させ、いかにも見てきたような嘘をつかせたのである。
 ただこの手のネタには、鮮度というものが必要になる。高知の奇跡直後ならいざしらず、主役の登場しない推理劇を延々と見せられれば、観客にも飽きが来てしまうというものだ。日本政府がだんまりを決め込んで居ることもあり、いつしかバラエティでは扱わなくなっていた。

 一方報道系のドキュメンタリーでは、四国の奇跡に対して異なるアプローチを取り始めていた。各国で緊急配備の始まったヘラクレスや、サンディエゴ、カサブランカで行われている迎撃の背景を探りだしたのである。そしてそこでの調査から、高知の奇跡が日本の特殊性、更にはTICとの関連にまで言及しようとしていた。つまりTICに関わったネルフ関係者、拘束している彼らを活用したと言い始めたのである。

 だが現実は、日本政府が拘束しているネルフ関係者は存在しなかった。TIC前のネルフ本部襲撃、そしてTICの震源地となったことで、パイロット以外全員消息が不明となっていたのだ。TICの震源地の様子に、むしろパイロットが生き残っていたことが奇跡だと言われたほどだ。したがって、ネルフ関係者という意味では、欧州の方にだけ残っていたのである。そしてその中の一人が、今は砂漠のアポロンの二つ名を持つ、渚カヲルだったのだ。
 だが、たかが報道機関では、そこまでの事実にたどり着くことはなかった。

 連日マスコミに責められていた後藤だったが、それも2週間程度の狂想曲だった。「守秘義務」の厚い壁を誇示することで、ありとあらゆる追求をのらりくらりと躱したのである。そして何かとプレッシャーを掛けてくる政府に対しては、シンジと示し合わせた脅し文句を使用したのである。
 後藤の執務室に現れた神前は、少し余裕の見えるところをからかった。その時の神前は、いつもの通りぱりっと制服を着こなし、一分の隙もなく化粧を決めていた。

「ようやく、静かになったってところ?」
「まあ、誰も寝た子を起こす勇気はなかったということだな」
「さすがに、TICの恐怖は克服できないということか……」

 部屋に備え付けのティーサーバーの所まで行き、神前はプラコップを注ぎ口にセットした。そして少しメニューに迷ってから、カプチーノのボタンをぽちりと押した。基地の整備が順調に進んだおかげで、後藤の執務室でもまともなものが飲めるようになっていた。
 ぽこぽこと音を立て、インスタントではないカプチーノがプラコップへと注がれていった。切れそうで切れない雫が途切れたところで、神前はプラコップを取り出し、泡だったカプチーノを口元へと運んだ。

「俺の分は無いのか?」
「私は、貴方の秘書じゃないのよ。
 それに、サービスしてあげなくちゃいけないほど働いていないでしょう?」

 だから欲しければ自分でやれというのである。まあ当然の態度なのだが、それでももう少し可愛げがあればと文句も言いたくなる。だがそれを口にすると、様々な方面で反撃を食らうのは明らかだった。だから後藤は、無駄な争いを避け、素直に手元のボタンを押すことにした。一応基地における最高責任者という立場なのだから、秘書というアシスタントを持っていたのだ。
 もっとも、軍事的機密事項を扱っているため、民間の社長秘書とは使われている人種が違っていた。一応現れたのは女性なのだが、一般的な洋服ではなく、しっかりと自衛隊の制服を着込んでくれていた。しかも神前と違って、化粧気も全く無かったのだ。

「後藤特務一佐、なにかお呼びでしょうか!」

 したがって、入ってきた女性の受け答えは、色気も何も無いものだった。後藤に敬礼し、直立不動の格好で指示を待っていた。

「ああ、飲み物を用意してくれないか」
「そのために、部屋の中に自動給茶機が設置してあります。
 セルフサービスで行うのが、ルールだったかと思いますが。
 冷たいものなら、サーバーの下に冷蔵庫があります」

 そこまで応えて、秘書役の女性は敬礼一つ返して部屋から出ていった。色々と言ってくれたが、「お茶くみは仕事ではない」と言うことなのだ。

「時々、本当に俺は一番偉いのかと疑問を感じるんだ……」

 結局何かが飲みたければ、自分で解決しろと突き放されてしまった。仕方がないと立ち上がった後藤は、背中にそこはかとない哀愁を漂わせていた。

「お気の毒と言ってあげるわ。
 本省だったら、お茶を入れてくれる女性がいるのにね。
 ああ、だからBWHに入り浸っているのね」

 あそこに行けば、可愛い女子高生が相手をしてくれるのだ。今の環境と比べるまでもなく、天国のように見えても不思議ではなかった。
 だが神前の決めつけに、後藤は珍しく抵抗した。

「べ、別に、女子高生目当てで行っているわけじゃない……
 まあ、当初の目的に、それに類することがあったのは確かだが……
 晩飯を食べるのに、適当な店が他に無かっただけだ」
「基地の食堂で食べていけば?」
「一日のうちで少しぐらいは、仕事と関係のない時間があってもいいだろう?」

 そうしないと、ストレスで禿げてしまう。ふさふさと言うよりボサボサの頭を掻いた後藤に、「周りが?」とすかさず神前が言い返した。

「貴方の毛根の状況はいいとして、サンディエゴとカサブランカはおとなしくなったの?」
「訪問が近づいてきたから、最近はやいのやいのと言われなくなったな。
 先日のギガンテス迎撃が成功したのも意味があったんだろう。
 研修に来ている国の奴らも、今はとても静かにしてくれているよ。
 まあ、嵐の前の静けさというのは確かだろうがな」

 スケジュールがきちんと切られたのだから、今更騒いでも無駄だと諦めたのだろう。その分、3人のパイロットが手元に来たときは、おもいっきり構い倒してくれるのは想像に難くなかった。

「それで、スケジュールは確定したの?」
「ギガンテスの影響がなければという条件付きだがな」

 ほいと机の引き出しから、後藤はA4サイズの冊子を取り出した。なぜかその表紙には、ビーチの写真とパナマ帽を被った男の白黒写真、そこに「ボランティア部海外合宿」と白抜きで書かれていた。

「今時ハンフリー・ボガート?」
「カサブランカと言ったら、やはり映画だからな」

 そう答えた後藤にしても、映画が初演された頃に生まれていたわけではない。そして神前は、どうでも良いことと表紙のデザインを忘れることにした。

「移動日を別に、きっちりと両方に1週間ずつ割り当てているのね?」
「公平にしないと文句が来るからな。
 そして長すぎると、高校生達から苦情が出るのが分かっている。
 高校生の夏休みは、宿題というやつから逃れられないからな」

 海外合宿の最中は、まともに課題をこなす暇はないだろう。日中の時間を潰されることを考えたら、遊びの時間も確保しておく必要もある。その昼の時間にしても、観光がスケジュールの中に組み込まれていた。

「至れり尽くせりと言うところかしら?」
「無理を言って協力してもらったからな。
 これぐらいのことをしても、バチが当たらないと思うぞ。
 後は、意外に両基地とも協力的だったということかな?
 せっかくだからと、パイロットの懇親に利用するという話だ」

 民間協力パイロットの関係強化は、今後のギガンテス迎撃に大きな意味を持つことになる。もちろんそれが、理由の一つであるのは後藤も理解していた。

「公式、非公式の場で色々と探ろうということね?」
「良好な人間関係というのも、固い殻を破るのに有効なのは確かなんだよなぁ〜」
「まあいいんじゃないの?
 ところで、誰が同行することになっているのかしら?」

 高校生5人は、要求があった以上メンバーとして確定している。あっさりと受け入れ側が認めたのは不思議だが、いくら考えてもその理由はわからないだろう。だが随行者が誰かと言うのは、あちらの考えを知る上でも重要なことだった。

「通訳が必要と言うこともあるから、堀井と葵を行かせる。
 後は、せいぜい俺ぐらいと言うところだな」
「随分と少人数なのね?」
「目立つ訳にはいかない事情があるからな。
 それに、サンディエゴにはうちの奴らが先に入っている」
「それなのに、堀井を行かせるの?」

 堀井の体躯を思い出した神前に、添乗員としては申し分ないと後藤は言い返した。

「親御さんにも安心してもらえる人選を行った結果だ」

 後藤の答えに、なるほどと神前はその理由に納得した。だがその理由を挙げるのなら、もう一人の同行者が問題のように思えた。

「葵はいいの?」
「こちらは、心配するような親御さんは居ないからな。
 それに元トップアイドル様相手に落ちないぐらいだ、葵ぐらい大丈夫だろう」

 そう言われれば、確かにそんな気がしてくる人選である。それを認めた神前は、後藤の人選を理解した。

「それで、各方面への根回しも終わっているわけね?」
「これに関しては、日本政府が積極的に動いてくれているよ。
 政府高官というやつが付いて行きたいという話もあったが、先の理由でお断りさせていただいた」
「目立つわけにはいかないってやつ?」
「外交ってやつを展開する訳にはいかないだろう?」

 そんなことをしたら、マスコミに目をつけられるのは避けられない。そうなると、せっかくの協力関係がふいになってしまう恐れがある。

「そっちの調整もついたのなら、とりあえず一安心というところね」
「確かに、こちらの方は問題がクリアになったのだがな……」

 含みのある後藤の言葉に、「何?」と神前は聞き返した。相手先との調整、そして政府との調整が付けば、他に後藤の仕事があるとは思えなかった。肝心の高校生たちも、海外合宿ということで合意ができているはずだった。

「彼に関して、極めて個人的な問題が持ち上がろうとしている。
 もちろん、彼自身に家庭的な事情が発生する理由はない。
 家庭的な理由が発生しているのは、ガールフレンドの方なんだよ」
「アパートで一人住まいをしているあの子?」

 品行方正なお付き合いをしているのは、常日頃神前も聞かされていたことだった。それを聞かされるたびに、じれったいと感じていたのは余談に類することだろう。そんな少女のことだから、素行面の問題があるとは思えなかった。そして後藤も、アイリの素行には問題がない事を認めた。

「つまり、彼女の親御さんの関係?」
「同居もしていないし、秘密がばれるとも思っていなかったからノーマークだったんだが。
 実は彼女は、父親が居ない……と言うと語弊があるが、母娘の母子家庭なんだ。
 そしてその父親というのが、ちょっとわけありなんだな」
「わけありね……」

 そう言われても、その訳を神前が知っているはずもない。それでと、先を後藤に促した。

「突然だが、篠山キョウカと瀬名アイリは腹違いの姉妹ということだ。
 当時は丹波姓を名乗っていたのだが、篠山ユキタカ氏は彼女の父親なんだよ。
 彼女の母親、瀬名マナミとは結婚を約束した仲だったらしいが、
 ユキタカ氏の能力を見込んで、篠山が強奪したと言う過去がある。
 その時瀬名マナミには、かなりの手切れ金が篠山から渡されたということだ。
 そして別れてから、マナミ氏は丹波の子供を身ごもっていたことに気がついた。
 したがって、瀬名マナミは篠山に対して良い感情を持っていない。
 と言うのが、状況を説明する前ふりだと思ってくれ」
「人間関係として、複雑なものがそこにあるということね」

 うんと頷いた後藤は、「もう一つの状況」と言って、瀬名マナミのことを話しだした。

「篠山に対して良くない感情を持っているのに合わせ、瀬名マナミはとある市民団体にも所属している。
 娘を持つ母親としては理解できるのだが、環境という事に異常なほどこだわりを持っている」
「そのくせ、娘の一人住まいを認めているの?
 それって、かなりの矛盾じゃないの?」

 矛盾点を突いた神前に、それも遠因となっていると後藤は答えた。

「一人住まい自体は、かなり反対したらしいのだがな。
 結局娘に押し切られたので、住む場所にはかなり気を配ったらしい。
 事実娘の住んでいる近くには、市民団体の住民が多く住んでいる」

 知り合いを通じて、娘の素行を監視していると言うのだ。そこまでするのかと驚いた神前だったが、譲歩する条件としてはおかしくないかと考えなおした。

「つまり、彼との関係が母親に知られたということね?」
「いいところをついているが、そこまで問題は単純じゃない。
 むしろ母親の彼に対する印象は悪くないと言う事だ。
 ボランティア部の活動と、礼儀正しいと言う評判がきいているのだろうな。
 周辺住民の評判も、なかなか良いと言うことだ。
 キスすらしていない奥手な二人だから、親が心配するほどのこともなかったのだろう。
 それにマナミ氏も、ボーイフレンドぐらいで目くじらを立てるつもりはないようだな。
 高2にもなれば、ボーイフレンドぐらい居て当然と考えているのだろう。
 と言うのが、状況を説明する第二段階ということになる」

 いいかと確認され、神前は否定する理由もないためうんと頷いた。

「ただ娘のボーイフレンドについては、マナミ氏は別の理由で不安も感じていた。
 本人に対しては高い評価をしているが、周りの人間関係に不安を感じる要素があった」
「ここで、篠山が出てくる訳ね?」

 ここで最初のキーワードと繋がることになる。なるほどと納得したが、問題というにはまだ弱いと神前は感じていた。だからおとなしく、後藤の説明を待った。

「そう、後輩ににっくき篠山の一人娘が居ることが要素の一つとなってくる。
 周りが認める好青年ということもあり、自分と同じ目に合わないかという不安を感じたのだろう。
 もちろん、それだけなら考え過ぎと言うこともできる。
 それに、関係者はまだ全員高校生だと言うこともある。
 そこに全く関係のないところで、もう一つの要素が絡まってくる。
 彼女の所属している市民団体だが、反基地も重要な活動としているんだよ。
 ジャージ部を連れてきた時に入口近くに居た連中の中に、マナミ氏も混じっていたんだ。
 高知の奇跡に対して世間の評価が高いのだが、逆に彼女たちはそんな世間に反発している。
 基地自体の危険性が変わったわけではないと言うのが反発の理由だ。
 そしてマナミ氏自身の問題として、篠山が基地と大きく絡んでいるというのもある」
「後藤君が話したいことがおぼろげだけど見えてきたわ……
 その瀬名マナミ氏だけど、篠山から完全に手を切ろうと考えたのね?」

 神前の言葉に、「おそらく」と後藤は肯定した。

「篠山キョウカが部活の後輩になったのも要素の一つだろうな。
 いつ、二人が腹違いの姉妹だと知れるかもしれないことを恐れたとも考えられる。
 だからマナミ氏は、娘を連れて北海道に移住するという選択をとろうとしている。
 今は候補地の絞り込みをしているところらしい」
「篠山ユキタカ氏は、マナミ氏の娘のことは知っているの?」

 血の繋がった娘だと考えると、なにか考えるところはあるだろうというのだ。だが神前の問に、後藤は「いや」と言って否定した。

「子供ができるぐらいだから、二人の間に肉体関係はあった。
 だがマナミ氏自身、妊娠を知ったのはユキタカ氏と別れてからだ。
 そんな話が、当然ユキタカ氏に伝えられるはずがない。
 篠山家の方で、ユキタカ氏に知られないよう手を打っている。
 この件でも、かなりの金額がマナミ氏に渡されたという話だ」
「彼女がいなくなることを、彼は知っているの?」

 本人たちに全く関係のないところで、恋人同士が引き離されようとしている。シンジに対して好意を持っていることもあり、酷い話だと神前は憤慨した。

「いや、まだ娘には知らされていないはずだ。
 だが引越しをするには、夏休みというのは都合がいいだろう。
 だから夏休み前には、娘は別れを知らされることになるだろうな」
「可哀想としか言いようが無いわね……
 海外合宿から帰ってきた時には、彼女はもう居ないということね?」

 その時の精神状態を考えると、本当に可哀想としか言いようがない。可哀想だと繰り返した神前に、後藤はそれも早計だと言葉を続けた。

「多少は特殊かもしれないが、転校を機に関係が切れることは珍しくない。
 可哀相だと言うのは認めるが、それだけなら我々が関わり合うようなことではない。
 そこで俺達が忘れてはいけないのは、関係するのが対象Iと言う事だ。
 今回のことは、気をつけないとかなりの精神的打撃を与えることになる。
 そうした時、押さえ込んでいた記憶にどのような影響が出るのかわからないということだ」
「だからと言って、干渉することもできないのでしょう?」

 危惧を口にした後藤に、打てる手は無いと神前は言い返した。ことがデリケートな人間関係だけに、余計な干渉は問題を更にこじらせる可能性もあった。

「干渉したからと言って、問題を先延ばしにする意味しかないのは確かだな。
 だが、お陰様で我々はリスクを抱え込むことになってしまったと言うわけだ。
 そしてこの問題は、海外合宿とは関係のないところで進行する……」

 困ったという後藤に、神前はため息を吐くで同意を示した。高校生の人間関係に、本来なら自分たちが関わるようなことではない。だが関係者の抱えた問題は、たかが子供の恋愛と侮ることを許されなかったのだ。

「それで、どうするつもりなの?」
「言っただろう?
 俺達は、静観するしかないんだ。
 往々にして、この手の問題は第三者が関与した途端に複雑になってしまう」

 高校生の恋愛事で終わらせておかないと、登場人物が多くなりすぎ、新たな問題を引き起こしてしまうだろう。だから、自分達は静観以外にできることがない。自分に言い聞かせるように、後藤は静観という言葉を繰り返したのだった。



 3歳の時に劇団に所属してから中学3年になるまで、堀北アサミの生活は芸能界にどっぷり浸かったものだった。小学校低学年までは、可愛くて演技のうまい名子役として、そして中学に入ってからは垢抜けた美貌を生かしたアイドル俳優として活躍したのである。歌は苦手と言いながら、3枚出したCDはいずれもミリオンを記録した実績がある。

 そんなアサミが引退すると発表したのだから、芸能界は上を下への大騒ぎとなった。ファンからは、引退を思いとどまるようにと山のような手紙が届いたし、所属するプロダクションの社長は、アサミの実家に日参したほどだった。
 だが彼女と両親は、引退を思いとどまるようにとの圧力に対して、間違いようのなノーを突きつけた。その時両親が理由にしたのは、はじめから中学卒業までと決めていたという理由だった。小さな時から芸能界に居るため、身につけなければいけない全てのものが欠落していると言うのである。そして本人と家族の強い意志のため、中3の夏休みを機に、堀北アサミの名は芸能界から消え失せることになった。

「ただいま……今日は珍しいわねママ」

 もうすぐ夏休みという週末、部活を早めに切り上げて返ってきたアサミは、家に珍しい顔を見つけた。それは日頃世界中を飛び回っていて、めったに家に居ないのが彼女の母親だった。その母親が家にいて、キッチンで料理をしていたのだ。アサミの記憶を手繰ってみても、高校に入って初めてということだけは確かだった。
 娘に珍しいと言われた母親、堀北マサキは、でしょといって少し派手なエプロンを広げてみせた。そのわざとらしさを見ると、そのエプロンは自分がデザインしたものなのだろう。そしてエプロンの下は、派手な柄の入った茶系のワンピースになっていた。

「仕事の方はいいの?」
「たまには、愛娘との時間を作ってもバチは当たらないでしょう?
 せっかく芸能界を引退したのに、私が忙しくてお話する時間がなかったじゃない」
「それで、いつまで家に居られるの?」

 普段が父親だけと考えると、母親と一緒に居られるのは嬉しかった。それを顔に出したアサミに、出発は3日後とマサキは答えた。娘が心配で帰っては来たが、仕事の方が放してくれないと言うのだ。

「マンハッタンの支店に顔を出す必要があるのよ。
 そのあとは全米を横断して、最後はロスに出てから一度帰ってくるわ。
 でも第二で仕事があるから、家に戻ってくるのは1か月後かしら?
 そう言えばアサミ、部活で海外合宿をするんだって?
 今頃の高校生は、随分と贅沢なことをするのね。
 でも、日程が合えば、ロスで会うことが出来るかも知れないわね」

 羨ましいわねとこぼしたマサキは、娘に向かって「学校はどう?」と母親らしいことを聞いてきた。メールとかは貰っているが、やはり面と向かって話すのは意味が違ってくる。

「ボーイフレンドとかできた……と言うのは、さすがに難しいか」
「今は、勉強と部活でいっぱいいっぱいよ。
 でも、そうね、ちょっといいかなって先輩ぐらいなら居るわよ。
 同じクラブだから、今度の合宿も一緒に行く事になっているわ」

 学校レベルで「気になる」男子が居ることに、マサキは本気で驚いていた。名前だけ在籍していた中学では、男子生徒のことを馬鹿にした目で見ていたのを覚えていたのだ。

「へぇ〜、アサミの眼鏡にかなう男の子がいたんだぁ。
 あなた、結構年上好みだったじゃない。
 同年代の男の子なんて、相手にしないと思っていたわよ」

 マサキは戸棚から赤ワインを取り出し、どぼどぼと鍋へと注ぎ込んだ。そして少し火を緩めてから、鍋に蓋をしてアサミの方へと振り返った。

「で、その人はなんていう名前、どういう人?」

 目を輝かせて聞いてきた母親に、アサミは少し迷ったような素振りをしてみせた。そんなアサミに、マサキは「話したいんでしょう?」と心を読んだようなことを言ってきた。

「べっつにぃ、でもママだったら教えてあげてもいいかなぁって」

 そうやってじらす真似をしたのだが、アサミの態度はそれを無にしていた。マサキの目から見れば、話したくて仕方が無いというのが丸わかりだったのだ。そこまで相手のことが好きと言う事に、マサキはかなり驚いたぐらいだ。

「その先輩、1年上の碇シンジって言うのよ。
 背が高くて、運動神経もいいし、勉強だって成績上位なのよ。
 それに、とても落ち着いているし、とても格好がいいの」
「へぇ、アサミがそこまで褒めるのって珍しいわね。
 そんないい子だったら、一度紹介してくれない?」
「でも、ママって若い男の子を見る目が危ないのよね」

 だめだめと言い返したアサミに、マサキは「ケチ」と舌を出して文句を言った。

「でも良かったわ。
 アサミのことだから、退屈しているんじゃないかと思っていた」
「芸能界をやめたから?」
「一番辞めるのを迷っていたのはあなたでしょう?
 でも、今の顔を見る限り、うん、いい表情をしているわ!
 恋に勉強に部活に充実しているようね」

 よしよしと頷いたマサキは、鍋の蓋をとって木べらでかき混ぜた。そして小皿にスープを取って味を確認し、がりがりとミルを回して胡椒と塩を追加した。

「今日はパパも早く帰ってくるから、久しぶりに親子水入らずの夕食よ!」
「パパ、ママが帰ってくるときだけは早いのよね……」
「そうでもしないと、親子3人が顔を合わせられないでしょう?」

 僻まない僻まないと笑って、マサキは鍋をコンロから下ろした。

「すね肉の赤ワイン煮だけど、それで良かったかしら?
 まあダメと言っても、今さら他のものを作る気はないけどね」
「だったら、いいかだなんて聞かないでほしいわ」

 はあっと小さく息を継いだアサミは、着替えてくると母親に背を向けた。そして少し小走りに、螺旋になった階段を登っていった。学校の制服は、いくら似合っていてもアサミには地味な格好だった。せっかくデザイナーの母親が返ってきたのだから、新しいコーディネイトにアドバイスが欲しかった。綺麗で垢抜けている、それが自分にとって最大の強みなのだ。







続く

inserted by FC2 system