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 殲滅作戦のため休息を取ったアスカは、ギガンテス侵攻の3時間前に目を覚ました。時刻は午前5時、普段ならばかなり早起きという時間だった。ちなみにルームメイトは、どんな夢かは分からないが、まだ夢の国から帰ってきていなかった。
 ぱちりと目を覚ましたアスカは、まず最初に手元の端末でギガンテスの状況を確認した。緊急呼び出しがないのだから、休息前と状況は変わっていないはずだ。それが分かっていても、どうしても敵の状況は気になってしまう。

「3箇所とも、状況に変化無し……か」

 もしかしたら、夢から覚めたら何かが変わってるかもしれない。いつも出撃前の仮眠では、そんなことを考えていた。だがその願いは、これまで一度も叶ったことはないものだった。当たり前だが、この1時間後に、日本に6体のギガンテスが上陸する事実は変わらない。サンディエゴで訓練をしていたパイロットは帰還させたが、彼らの力では焼け石に水の状態でしかなかった。

「高い志と覚悟、そしてどうしても克服できない低い能力か……」

 それが日本だけの問題でないのは、アスカ自身骨身に染みていることだった。度重なるギガンテスの侵攻、そしてその度に欠けていくパイロット達。主力が健在とは言え、サンディエゴ基地も限界に近づいていたのだ。そしてその事実は、カサブランカに目を転じても変わりはなかった。世界の破綻は、もはや目の前に迫っていたのだ。

「日本は、もう駄目か……」

 本来なら、訓練途中のパイロットは温存しておくべきなのだ。だが基地を作った以上、使わないと言う選択が許されるはずがない。使わなければ、何のためのパイロットだと批判されることになる。
 だがパイロットを呼び寄せたところで、何か状況が変わるはずがない。そもそも今回のような事態を想定した、基地展開ではないはずだったのだ。それに、この程度のパイロットでなんとかなるのなら、今まで自分達も苦労などしてないはずだ。

 アスカには、いつまでも遠く日本のことに思いを馳せている時間は残されていなかった。作戦以外で行ったことのないと言うのは、今回は頭を切り換えるのに役立ってくれた。それでも一つ気になるのは、日本に居るというTICを引き起こしたパイロットだった。

「ここで大きな被害が出てしまうと、パイロットとして使うのも難しいか。
 使うとしたら、ここしか無いのだけど……」

 切り札が手の内にあるのに、それを使わない、さらには遅れての登用は、その不作為を知らしめることになる。その問題は、政権の一つや二つ吹き飛ばすほどの威力を持っているだろう。世界中のどこを捜しても、そんなリスクを取れる政治家が居るとは思えなかった。
 だがいざ使うとしても、とても手続きが間に合うとは思えなかった。手の届く所に確保されていたとしても、すぐに使い物になると言うのは素人考えでしか無い。TIC後テストされたと言う事実がない以上、例のパイロットを使うことも、分の悪い賭でしか無かったのだ。

 思考の海に沈みながらも、アスカの準備は着々と進んでいた。今は頭を切り換えて、目の前の脅威を排除することを考えなければいけない。それが成功すれば、結果的に日本の被害も小さくすることができる。
 最後に赤いカチューシャで髪をまとめて、アスカの身支度は終了した。5分で身支度を調えたアスカは、出撃準備のため早足で部屋を出て行った。



 アスカが行動を開始したのとほぼ同時刻に、カサブランカ基地も動き始めていた。時間的にはかなり早めなのだが、迎撃地点が目の前と言うこともあり、慎重な対応を求められたのである。

「廃タンカーの移動も完了したから、ギガンテスの分断はうまく行くと考えていいね」
「被害の範囲を限定する……か、良く準備が間に合ったな」

 驚くエリックに、当たり前だとカヲルは笑い飛ばした。

「ここが海に近い以上、ギガンテス襲撃は想定された事態だからね。
 だから、いざという時のために、前々から準備されていたんだよ。
 本当なら他の場所でも同じことが出来れば良いんだけど、どこに来るのか分からないからね」
「日本には教えてやらないのか?」

 ギガンテスの分断、そして侵攻速度の遅延。それが出来れば、受ける被害も大幅に押さえることが出来るはずだ。そのエリックの指摘に、カヲルは言った通りだと答えた。

「どこに来るのか分からない以上、準備というのは万端とは行かないのだよ。
 残念ながら、僅か6時間では港を廃船で埋めるのは不可能なのだよ」
「つまり、コーチだかが、シャームナガルの再現になる可能性が高まったと言うことね……」

 顔をしかめたライラに、最悪の選択をしそうだとカヲルは答えた。

「心情的には理解できるが、N2の使用は否定されたようだね。
 その結果、日本の保有する10機のヘラクレスの投入を選択したようだ」
「時間稼ぎにもならないパイロットに期待するの?」

 首を振ったライラに、しかたのないことだとカヲルは日本の選択を弁護した。

「さすがに、罪もない人達の上にN2を落とす決定は出来ないのだろうね。
 そんなことをしたら、今の政府は吹っ飛んでしまうことになるよ。
 ただ、そのお陰で、犠牲者数は倍以上に跳ね上がることになるのだろうね」
「こちらを1時間で片付けても、私たちが行くまで20時間以上は掛かるわね……」

 自分達が到着する前に、サンディエゴ基地からの兵力が到着しているのだろう。だがギガンテスの数を考えると、サンディエゴも慎重に立ち回らざるを得ない。その分、日本の被害の拡大は避けられないと言う事になる。だからカヲルは、自分達が到着する時の状況を考えた。

「僕達が行くまでに、ヒロシマ、オカヤマに上陸されないことを願うだけだよ」

 もしもその様なことになったら、被害は更に拡大することになる。間違いなく、世界経済に与える影響も甚大なものになるだろう。だがいくら状況を憂いても、何も出来ない事実に変わりがあるわけではない。現状を注視することしかできないのが、突きつけられた現実だった。
 ただ一つだけ分かっているのは、これで世界の破滅にまた一歩近づいたということだ。



***



 神前が反応してしまったことで、シンジの立てた仮説は証明されたことになる。最近感じるようになった違和感、それが気のせいではなかったと言うことだ。だからシンジは、それを確認するためにも後藤と会う必要があった。だから神前に対して、後藤と会わせろと要求したのである。

 神前から連絡を受けた後藤は、その対処に頭を悩ませた。本当に記憶が戻っているのなら、賭ける価値のある賭となってくれるだろう。ただ問題は、それが世界を滅ぼす引き金にならないのかと言うことだった。そしてこの問題の厄介なことは、記憶について本人に聞くわけにはいかないと言うことだ。
 だが後藤としても、藁にも縋りたい気持ちであるのも確かだった。そして、シンジに会うぐらいの時間も作ることは出来た。作戦行動自体は始まっているが、出来る事が悲しくなるほど少なすぎたのだ。だから後藤は、部下にシンジを連れてくるように命じることにした。

 後藤の前に連れてこられたシンジは、開口一番「カマを掛けました」と悪びれずに白状した。それで後藤は、すべての答えを得たと思った。そして同時に、一発逆転など夢でしか無いのだと改めて思い知らされた。
 対処対象Iと恐れられる存在も、今のままでは、多少同調率に優れるだけの、経験の全くないパイロットにしか過ぎない。そして進行してくる敵は、より能力の高い二人を擁し、持てる戦力の全てをつぎ込んで、ようやく太刀打ちの出来る規模だった。

 ただシンジにとって、後藤の感じた失望はどうでもいいことだった。後藤達が自分を気にしたことで、現状を打開する足がかりを得ることができたのだ。これで、超えなければいけない壁に手をかけることができた。

「でも、僕の想像は当たっていたようですね。
 後藤さんは、僕だけが現状を打開できる可能性があると認めてしまった」

 何もなければ、自衛隊が自分の要求に従う理由はない。内心それを認めた後藤は、どう答えるべきかと考えた。シンジに会ったことで、解決すべき問題がもう一つ増えてしまったのだ。
 ただ問題が増えたと言っても、この状況においてはさほど大きな問題ではないと考えなおした。ここで何も手を打てなければ、日本の破滅は現実のものとなる。それを考えたら、藁に見える目の前の希望を確かめてみても問題はないはずなのだ。

「本来ならば否定すべき所なのだが……
 ここで無駄な時間を使っているわけにはいかないだろう。
 碇シンジ君、君の想像を肯定させて貰おう。
 それで、私にどうしろと言うのかな?」

 その答えは、一部とは言え真実の一部を暴露した事になる。後藤の立場としては、厳しく責任を追求されるものでもあった。だがシンジを見た後藤は、分の悪い賭けに出てみようと腹を決めていた。どんな理由があれ、目の前の少年は、偶然とは言えこの最悪の事態を打開しようと行動に出てくれたのだ。
 「どうしろ」と言う後藤の言葉に、シンジは一番求められる答えを返した。

「本当なら、僕が何をされた、どうしてそんなことになったのかを教えて貰いたいんですけどね。
 でも、今大切なことは、そんなことじゃない。
 6時間もしないうちに、ギガンテスに襲われる人達を助けることの方が先決だと思っています」

 その答えは、後藤に記憶操作が健在であることを確信させた。つまり、ひとつの可能性が完全に否定されたことになるのだ。そうなると、さらにシンジへの対応は難しくなってくれる。おかしなキーワードを与える事が、間違って記憶操作を解くことにならないか。そのリスクを避けるためにも、シンジへの答えは慎重に言葉を選ぶ必要があった。

「大勢の人を助けると言ったが、素人の君が何をしようというのだ?
 厳しい言い方をするが、もはや経験のない素人にどうにかできる問題ではない。
 今回の襲撃規模は、人類の持てる戦力を全て使って対処する規模になっている。
 もはや君一人の力で、どうにか出来るような問題ではないのだ」

 何を考えてここに来たのか。それを確かめるためにも、後藤は厳しい言葉をシンジにぶつけた。そして後藤が口にしたのは、世界の直面した事実でもあった。
 そしてシンジも、後藤が口にしたことぐらいは十分に承知していた。シンジ自身、本当なら手を出すつもりは無かったのだ。だが一度覚悟を決めた以上、不可能を可能にする努力をするつもりだった。

「それを何とかしないと、何十万人もの人達の命が奪われるんですよね?
 そして対策のために、後藤さんはアメリカに送ったパイロット候補を呼び戻している。
 だけど、後藤さんが今言ったように、その人達じゃどうにもならないのは分かっている。
 だからこそ、なんとか打開するために僕の話を聞こうと思ったんじゃないですか?」

 確実に痛いところを突いてくるシンジに、後藤もまた分の悪い賭に打って出ることにした。シンジに指摘された通り、このままでは何十万人もの命が失われることになる。置かれた状況は、分の悪い賭でも打って出なくてはいけない物だった。

「分かった。
 確かに、我々には打つ手がないのが現実だ。
 それで碇シンジ君、君ならどうすると言うのかな?」

 受け入れてしまえば、後は野となれ山となれ。プランがない以上、有ると言っている本人に披露させるしかなない。そしてそのプランに望みが有るのなら、一か八か試してみる以外に後藤には出来る事はなかった。
 だが後藤の問に、シンジはすぐに答えを返さなかった。その代わり、とりかかりとして今の状況を確認した。

「そうですね、でもその前に一つ確認しておきたいことがあるんです。
 水際で迎撃を開始するためには、あとどれだけ時間的余裕がありますか?」
「予想上陸時間の1時間前には、作戦地点に到着している必要がある。
 現地までは、ここを離陸して1時間掛かるから、それまでの時間が余裕と言う事になる」

 携帯を出して時間を見たシンジは、まだ手を打つだけの時間が残されているのを確認した。そして後藤に対して、自分のプランを説明することにした。後藤が示した3時間と言う猶予、そこで実現可能な方法を提示するのである。

「本人と手続き上の了解が得られたら、遠野先輩と鳴沢先輩も連れて行きます。
 そして、ここを出るまでの時間で、僕達にヘラクレスの搭乗訓練をしてください。
 そこから先は……残念ながら出たところ勝負になります。
 とりあえず、状況が見えるまでは僕一人で対処するつもりでいるんです」

 甘いですねと苦笑したシンジに、確かにそうだと後藤はそれを認めた。上位レベルのパイロット、アテナとアポロンの二人に加え、経験のあるパイロットを配しないといけない作戦を、まず一人で何とかしようというのだ。それが出来ると考えることは、まず間違いなく考えが甘いのだろう。
 そしてこの方法では、後藤としても出撃を許すわけにもいかなかった。これまでのサンディエゴとカサブランカ基地、両基地の実績を考えれば、一人で支えられる可能性はなかったのだ。甘いと言うより、現実を見ない妄想に近い考えだった。だから後藤は、厳しい顔をしてシンジに対してダメ出しをした。

「それがプランと言うのであれば、残念ながら出撃させる訳にはいかない。
 たとえ出撃したとしても、一分と持ちこたえることはできないだろう」
「だったら、後藤さんならどうするんですか?
 僕としては、唯一現状を打開する可能性の有るプランを示したんです。
 まさか、僕に何かをすれば状況を打開できるだなんて考えていませんよね?
 僕には、ギガンテスと戦った記憶などどこにもないんです。
 もしも忘れさせられているのだとしても、そんなに簡単に思いださせることができるんですか?
 そして思い出したからと言って、この戦いに間に合うとでも思っているんですか?」

 ダメ出しをした後藤に対して、シンジは論理的反論を試みた。自分としては、唯一現状を打開しうる方策を提示したのである。その方策に意味が無いというのであれば、これからどうするつもりなのかを示してみせろと要求したのだ。

「まさか、やり直しの機会があると思っているんじゃないでしょうね。
 この基地や後藤さんは、すでに結果が求められて居るんじゃありませんか?
 今の日本に、本当に次があると思っているんですか?
 このまま何も手を打てなければ、間違い無くギガンテスは本州に渡りますよ」
「だからと言って、先ほどのは作戦とも言えないものだ。
 言わせてもらうのなら、君たちが残ればまだ日本には希望が残ることになる!
 そして今の君達では、僅かな時間でも持ちこたえることは不可能だ」

 絶対に許可できないと言い切った後藤に、シンジは「現実を見ましょう」と言い返した。

「ここでの議論自体、状況を悪化させるだけのものだと僕は思っています。
 後藤さんが今求められているのは、大勢の人を見殺しにするのかしないのかを決めることです。
 確かに作戦の成功は、奇跡といわれるほどの確率しか無いのは認めます。
 でも、いくつか僕から意見を言わせてもらいます。
 先ほど僕が言った方法は、基本的にシミュレーションをベースに立案したものです。
 もちろん、シミュレーションと実戦に差があることぐらいは承知しています。
 その差を埋めるために、残された時間で訓練をしようと思っているんです。
 そしてその差さえ明確になれば、戦いながらでも作戦を修正することができます。
 シミュレーションの成績自体、両基地と並ぶものだったんでしょう?」

 シンジの言う「現実を見る」と言うのは、悲しくなるほど真実を突いていた。もしもシンジ達を出撃させることになるのなら、今しているのは意味が無いどころではなく、有害でしか無い議論だったのだ。そしてシンジの言うとおり、自分に求められているのは、「日本をどうするのか」と言う重い決断だった。そしてここで見捨てる決断をした時点で、シンジの言うとおりやり直しの機会は永久に巡ってこないだろう。
 そしてシンジの推測通り、シミュレーション結果は両基地を凌ぐものだった。現実とシミュレーションのギャップが埋められれば、賭けるだけの価値のある賭になってくれるだろう。シンジが名前を出した女子高生二人にしても、ギガンテス迎撃の主力になりうる力を示していたのだ。

 だが高い適性があるからと言って、いきなり実戦に対応出来ると言うのは別物だった。最初は一人でとシンジが主張したのは、現場の対処としては適切なことだろう。ただ時間を稼ぐといった本人が、全く実戦経験を持っていないことへの答えにはなっていなかった。

「彼女達が使えるようになるまで、君が一人で支えるのか。
 その賭が成立すると、本気で考えているのか?」
「本気じゃなければ、こんな所に来たりしませんよ。
 さあ、これで僕は提示できるものは全て提示しました。
 後藤さんにもっと良いプランが有るのなら、大人しくそれに従いますよ」

 どうしますかと言うシンジに、後藤はすぐに答えを返せなかった。だが答えに迷った時点で、答え自体は決まっていたと言っていいのかもしれない。対象Iと恐れられ、病的にまで記憶を封印した少年が、ありのままの姿で解決策を提示してくれた。指摘されたとおり、賭がうまくいくことだけが、日本が、しいては世界が救われる唯一の方法だった。
 それを認めた後藤は、溜めていた息を小さく吐き出した。そして静かに、「教えてくれ」とシンジに問いかけた。

「なんです、改まって?」

 少し身構えたシンジに、後藤は「どうして落ち着いていられる?」と聞いてきた。ただの高校生が、日本の滅亡に立ち会おうとしているのだ。そして絶望的に勝ち目のない戦いに出るとまで言っている。興奮してとか、何かに取り憑かれたと言うのならまだ分かるが、極めて冷静に事実を積み上げてくれたのだ。

「今の君は、何十万という人々の命を背負おうとしている。
 しかも、生き残ることの方が難しい作戦に出ようとしている。
 普通ならば、怖気づくか、さもなければひどく興奮しているはずだ。
 だがどう見ても、普段と変わらぬ冷静さを保っている。
 どうして、そんなに落ち着いていられるんだ?」

 その質問に、「ああ」とシンジは納得したように声を漏らした。この状況を考えれば、後藤が疑問に思うのも当たり前だと思ったのだ。

「どうしてって、そうなっちゃうから仕方が無いじゃないですか。
 頭に血が上りそうになると、どう言う訳か急に冷静になっちゃうんです。
 お陰で、女の子とつきあえないんですよ?
 恋愛って、絶対に冷静になっては駄目だと思うんですよ。
 ここのところ色々とあったから、何かおかしいなぁと思うようになったんです」

 シンジの言う事が正しければ、「対象I」に埋め込まれたいくつかのセーフティーが、逆に不信を抱かせることになったのである。念には念を入れた弊害が、ここに出てきたと言うことだった。だがそのおかげで、一縷の望みが出たことも確かだった。
 求める答えをもらった以上、もはや一刻の猶予もならないのは間違いなかった。

「分かった、すぐに必要な手続きを行うことにする。
 幸いヘラクレスは、輸送準備が行われているところだ。
 搭乗試験は、すぐにでも行うことが出来る状態だ。
 碇シンジ君、君達に日本を託させてもらう!」

 「勇気に感謝する」と礼を言った後藤は、振り返って部下達に大きな声で号令を飛ばした。

「これより、日本は独自にギガンテス殲滅作戦を実行する!
 高畠、杣木、両名は直ちにヘラクレスの搭乗訓練の準備に取り掛かれ!
 それから、鏑木総理にホットラインを開け!」
「高畠、杣木はヘラクレスの準備を行います!」
「特務一佐、鏑木総理がお出になりました!」

 「ごくろう」と言って受話器をとった後藤は、鏑木に対して「ギガンテス殲滅作戦を実行します!」と報告した。そして、勝算はあるのかと言う鏑木に、これ以外に勝算はあり得ないと後藤は即答した。

「今は一刻を争いますので、詳しい報告は後ほど行います!」
「うむ、後藤特務一佐、直ちに出撃し、ギガンテスを殲滅し給え!」
「はい、直ちに出撃し、ギガンテスを殲滅します!」

 そう答えた後藤は、受話器を部下に渡してシンジと向かい合った。すべてを決断し、最高責任者の承認を貰ったのだ。もはや細かなことにこだわるつもりは無かった。

「碇シンジくんに依頼する。
 ヘラクレスに乗って、ギガンテスを殲滅してくれ!」

 「頼む」そう言って、後藤はシンジに向かって腰を90度に折って頭を下げた。

「はい、絶対に日本を守って見せますよ」

 緊張の欠片も見せず、シンジは守ると約束をしてみせた。そんなシンジに、「ところで」と言って、後藤は声を潜めた。

「あの二人への説明は、誰がするんだ?」

 ここに来るまで、色々と揉めたことは後藤の耳にも届いていた。そこで初めて、シンジは困ったような表情を浮かべた。

「あー、まー、僕がしないといけないんでしょうね。
 その代わり、必要な手続はお願いしますよ」
「それぐらいなら、我々の職分だ」

 お互いの合意が出来た以上、後は時間の勝負となる。もはや、これ以上の時間ロスは許されないだろう。だからシンジは、マドカ達と話をするため、走って司令室を出て行った。



 3箇所同時侵攻、そしていずれも重要拠点だったことで、世界の崩壊は決定的なものになっていた。問題となるのは、日本の被害がどの程度で抑えられるかと言う事だった。すでに犠牲なしで、この危機を乗り切ることは不可能だと考えられていたのだ。
 そして日本の被害状況次第で、世界は回復不能な打撃を受けることになる。これまではゆっくりと進行していた世界の破局が、結果次第で雪崩のように進むことになる。

 絶望的な状況に置かれていただけに、各国の関心はすべて日本に注がれていた。それは、各国政府だけではなく、本当にすべての人々が日本の戦いを見守っていたのだ。そこには、やがて訪れる世界の破滅の始まりを、自分の目で見届けようと言う気持ちがあったのだろう。
 その状況で、日本はギガンテスが高知に上陸する30分前に作戦を示した。その意外な作戦は、世界を大いに驚かせたのである。

 日本が示した作戦は、僅か3機で6体のギガンテスに立ち向かうと言うものだった。しかもその内の2機は、港から2キロメートルほど離れた場所に配置されていた。つまり、6体のギガンテスに、1機で立ち向かおうと言うのだ。
 本来、6体のギガンテスは、サンディエゴとカサブランカ基地の総力で当たる相手だった。その脅威に対して、日本が選択した戦力はあまりにも少なすぎた。だからこそ、事情を知る者達は、日本が最後の決断を行ったと考えた。

「日本は、対象Iを投入したのか?
 だが記憶を取り戻した対象Iは、FICのリスクを持っているんだぞ」

 国連事務総長、グエン・ホーは日本が奥の手を使ってきたのだと確信した。この状況において、現状を変えるためには対象Iの投入以外に考えられないのだ。だが対象Iの投入は、危機の範囲を世界全体に広げることになる。一歩間違えば、世界は他の理由で滅亡することになるのだろう。
 だからと言って、グエンも日本の決断を否定することはできなかった。死者70万以上と予測された犠牲者は、一か八かの賭を正当化するものだ。そして新たな悲劇の発生は、世界の破滅に繋がるものなのだ。そこに国連が横槍を入れれば、犠牲者を出した責任のすべてを被ることになる。

 だが続いて上がった報告に、グエンは自分の耳を疑うことになった。ただ一人立ち向かうパイロットの能力が、期待されたものより遙かに低かったのだ。

「馬鹿な、記憶を取り戻していない対象Iに、いったい何ができるというのだ」
「しかも、同調率は対象A、対象Kより低いという報告があります」
「日本の奴らは気が狂っているのか!」

 そう吐き捨てたグエンは、日本国首相にホットラインを開けと命令した。記憶を取り戻した対象Iは脅威だが、希望を託す唯一の手段だと考えていた。世界にとっての脅威に違いないが、だからと言って無駄遣いしていいものではない。明らかな準備不足での投入は、世界的損失としか言えないのだ。
 だが日本国首相、鏑木トモノリは、グエンからのホットラインに出なかった。秘書官いわく、国の一大事にそれどころではないと断られたと言うのだ。グエンが東の空に向かって呪詛の言葉を吐いた時、日本での戦いは20分後に迫っていた。

 日本の作戦がサンディエゴに届いたのは、出撃まであと30分と言うところだった。すでにヘラクレスに搭乗したアスカの元へ、司令所に現れたクラリッサから情報が届けられた。

「ついに、日本が腹を決めたということ?」
「そのあたりは微妙。
 データを見る限り、本当に例のパイロットかどうか分からないもの。
 ただ前線に送り出された3人は、いずれもここに送られてきたパイロットよりも能力が高いわ……
 ってちょっと、なに、これ、正気の沙汰とは思えないわ!」

 いきなり叫び声をあげたクラリッサに、何事かとアスカは聞き返した。そんなアスカに、見たほうが早いと現地の映像が転送されてきた。そしてその映像に、クラリッサが叫んだ理由をアスカも理解した。

「確かに、正気の沙汰とは思えないわね。
 このパイロット、一人で6体のギガンテスを相手にするつもりなの?」

 そんな真似は、自分でも絶対にできないと思っていた。それを、自分よりの能力に劣るパイロットが敢行しようと言うのだ。クラリッサが、相手の正気を疑うのも無理も無かった。だがその無謀な作戦が、一体どういう結末を迎えることになるのか。自分の出撃が近いというのに、アスカの関心は日本に向けられてしまった。



 そしてアスカと同じ感想を、遠く離れたカサブランカでカヲルも抱いていた。だがクレイジーと叫ぶ同僚たちに対して、必ずしもそうではないだろうとカヲルは答えた。

「2機を後ろに下げた理由は図りかねるけどね。
 だが1機だからと言って、必ずしもカミカゼと言うわけではないと思うよ。
 そしてカミカゼをさせるためなら、わざわざ出撃させることはなかっただろうね。
 1機ならば、連携を気にしなくても済む分、自由に動き回ることができる。
 時間を稼ぐという意味なら、むしろ正面から当たるより有効かもしれない」
「ギガンテスが、ヘラクレスに反応するから?」

 活動中のヘラクレスに、ギガンテスが引きつけられるという性質を持つのは分かっていた。その理由として考えられるのは、彼らがヘラクレスを敵として認識し、排除しようと言う仮説である。その行動原理を考えた時、うまく立ち回ればギガンテスを足止めすることができる。カヲルの推測は、まさにその性質を前提にしていた。
 ライラの言葉を肯定し、カヲルは唯一取りうる作戦だろうと答えた。それを考えただけ、評価できると日本を褒めたのである。

「時間稼ぎをするための唯一の手段っていうのは分かるけど……
 でも、10時間以上も稼ぐことができるかしら?
 6体のギガンテス相手に逃げ続けるのなんて、普通に考えたら1時間も無理よ」
「だから、残りの2機が後ろに控えているのかしら?
 最初のやつがもたなくなったところで、時間稼ぎの役割を交代する。
 それを何度も繰り返すことで、私達の到着を待つんじゃないかしら」

 マリアーナの意見に、なるほどと残りの3人は感心した。交代で時間稼ぎをすることで、1機あたりの負担を軽くし、結果的に援軍の到着まで持ちこたえる。可能性としてはかなり低いが、何もしないよりは遙かにマシな選択に思えた。

「もしもそうなら、なかなか考えた作戦だといえるね。
 ただその時の問題は、出撃したパイロットが、そこまでの能力を持っているのかということだね。
 送られてきたデータを見る限り、僕達とあまり変わらない数値が示されているよ。
 と言う事でエリック、君なら一人で1時間逃げまわることができるかな?」
「逃げるだけなら……なんとかかな?
 ただ6体相手となると、逃げ続けられる自信はないな。
 その上内陸部への侵攻を食い止めつつとなると、ハッキリ言って俺ではお手上げだ。
 そう言うカヲルこそできるのか?」

 エリックに話を振り返されたカヲルは、「無理だね」と肩をすくめてみせた。つまり彼らの評価では、この作戦は失敗に終わるしかないと言うのだ。彼らに次ぐ適性のパイロットと言うのは、ようやく出てきてくれたと言うものだった。それをこんな所で使い潰すことに、いっそう暗澹たる気持ちに囚われることになったのである。

「どうやら、最初の30分は観戦する権利を貰えそうだね」

 壁にかかった時計に目をやり、カヲルはまだ自分たちに時間が残されていることに感謝した。最初の5分も見れば、日本のとった作戦の成否が分かる。そして土壇場で投入された、未知のパイロットの能力も知れるということだ。



 少しでも訓練の時間を取るため、高知までの輸送は高速キャリアが使用された。その時の問題は、時間が短縮される一方で、上空で切り離されるという輸送方法上の特性だった。それをぶっつけ本番で使用したのだから、幾つかの小さなビル程度の犠牲で済んだのは幸運なのだろう。裏を返せば、それだけパイロットに能力があったということにもなる。

 シンジを包むコックピットは、シミュレーターより少し機械が多く配置されていた。そしてその中に、臙脂色をしたジャージ姿の高校生が座っているのである。いささかと言う以上に、不似合いという感想は否めないだろう。
 格好については、出撃前に一悶着あったのだが、「ジャージが制服」と言うマドカの言葉に押し切られたものだった。これじゃなければ駄目だと駄々をこねられれば、それを受け入れるしか方法がなかったのだ。

 高知港に着いたシンジは、決戦の地を、港から少し入ったコンテナヤードに定めた。市街地から遠く、足場がしっかりしていて広いというのがポイントである。コックピットの中央に置かれたシートに腰を下ろし、まっすぐギガンテスの上陸予想地点を見据えた。

「増援が届くのは2時間後……か」

 ここまでの観測で、上陸するギガンテスのタイプは判明している。前後に寸詰まりのワニと言えばいいのか、さもなければ甲羅のない亀か、短くて太い4本の足に太い胴と短い尻尾、そしてまるで冗談としか言いようのない、筒のような頭をした不思議な形態をしていた。
 だが見た目の不思議さと言うか、おかしさとは裏腹に、上陸してくるギガンテスの破壊力は強大だった。もともと丈夫な図体と言うのもあるが、円筒型の顔から撃たれる加速粒子砲が強力無比だったのだ。そして接近した時には、素早い動きの猛獣に変化してくれる。これまでの戦いでは、多くのヘラクレスがその鋭い牙で食いちぎられていたのだ。6体掛かりで飛びかかられたなら、シンジの乗ったヘラクレスなどあっという間に食いつくされてしまうだろう。

「絶対に囲まれないように……6体全部の動きに気を配らなくちゃいけない」

 それに失敗した時、その時自分は死ぬことになるのだろう。恐怖とは違う、不確かな感覚がシンジを包んでいた。だが自分の失敗が、後ろで控えている二人の死に結びつく。それを考えると、シンジの中に後悔が沸き上がってきた。

 後ろを振り向けば、およそ2キロメートル先にマドカとナルの乗った機体が待機していた。二人は今、一体どんな思いで戦いを前にしているのだろうか。それを確かめたくなって、シンジは二人への通信を開いた。

「遠野先輩、鳴沢先輩、聞こえますか?」
「聞こえてるよ、碇君」
「こちらも、ちゃんと聞こえているわ」

 二人の声を聞くと、なぜかほっとするものを感じてしまう。一人でやると言っては見たが、やはり心細さを抑えることはできなかった。こうして一人ではないと分かるだけで、肩の荷が少し軽く感じるようだった。
 すでに、迷っていられるときは終わっていた。今は、ギガンテス撃破に全力を尽くす時だった。シンジは、今まで何度も繰り返した注意を、最後の確認とばかりに二人に行った。何度も何度も繰り返すことで、絶対にダメだと忘れないようにさせなければならなかった。

「打ち合わせ通り、最初は僕が支えます。
 うまくギガンテスを引き離したところで、二人に合図をします。
 そこで二人がかりで、ターゲットのギガンテスを仕留めてください。
 いいですか、僕がいいと言うまで手を出さないでくださいね」
「わかってる、ここはすべて碇くんに任せるわ!」
「マドカちゃん、そこは身も心もでしょう?」
「そ、そういう事をみんなの聞いている前で言わないでよ!」

 何かとても不穏なことを言われた気もするが、緊張で口も聞けないよりは遙かにマシな状態に違いない。戻ってから色々と怖い気もするが……特にレイが怖いのだが……全ては戻ってからと気持ちを切り替えることにした。ただ、生きて帰れるのなら、任されても良いかなという気持ちもしていた。

「使えるのは、防御シールド2枚に、効果の分からない槍か……」

 シミュレーションでは威力を発揮したシールドだが、実戦で使うには色々と制約があると説明を受けていた。そして武器として渡された槍は、その効果自体分かっていなかった。

「正面で受けたら、1発でも危ないかもしれない……か。
 うまく逸らしても、3回程度が限界って……ないよりはマシなレベルだな」

 それでも、両腕に装備された展開型のシールドは、ギガンテスの攻撃に対する唯一の防御手段となる。加速粒子砲への対処としては、これがなければ避けるしかないのだ。その難易度を考えれば、シールドがあるだけマシだった。
 事前の作戦分析では、ヘラクレスの速度を利用し、6体のギガンテスを撹乱することが作戦の要となっていた。そのためには、大きな盾を持てないという事情もあったのだ。

「冷静に……か」

 ここまでの経緯を考えると、自分の記憶と性格が操作されているのは間違い無いだろう。一定以上の情熱を抱くことができず、女性に対しても一線を越えようとすると急に冷めてしまう。それを考えると、かなり酷いことをされているとしか思えなかった。だがそうしなければいけないほど、記憶操作される前の自分は危険だったのだろう。

「前の僕に戻れば、この程度の敵なら倒すことができる……と期待されているんだろうな」

 それでも記憶を戻そうとしないのは、襲撃してくるギガンテス以上の脅威になると考えられていることになる。いったい自分は何なのだろう、客観的に見て、周りにいる高校生と何も変わらないと思っていた。そもそも、普通の人間に何が出来るというのだろうか。

 自分のことを考えていたせいで、ギガンテスの襲撃時間まであと僅かとなっていた。すでに夜も10時を過ぎたため、あたりは淡い月明かりで照らされていた。その中、ギガンテスを追いかけてきた6機のヘリコプターが、海上を照らしながら近づいてくるのがハッキリ見えるようになっていた。後少し、そう考えたシンジの意表を突くように、一条の光が夜の闇を切り裂いた。その力強い光は、夜の高知港を昼のように照らしだし、シンジの乗るヘラクレスを包み込んだ。

「碇君、大丈夫!
 今、助けに行くから!」

 予想もしていなかったギガンテスからの先制攻撃に、マドカはシンジの禁を破って動こうとした。だがマドカが動くのよりもわずかに早く、「動くな」と言う鋭い声が通信機から聞こえてきた。

「なんとか、シールドを使って防御しました。
 ただ、今ので2枚とも使ってしまいましたから、次は防げませんけどね」
「そんなので大丈夫なの?
 私と、役目を交代したほうがいいんじゃないの?」

 マドカの申し出に、まだ作戦を変えるほどではないとシンジは答えた。そして少しぎこちない動きで槍を取り上げ、遠くライトに照らされた一体のギガンテスに向けて投擲した。この距離で視認できるということは、このギガンテスが先制攻撃を仕掛けてきたのだろう。
 シンジの投げた槍は、音速をはるかに超える速度でギガンテスまで到達した。だが命中させるためには、少しだけ距離が遠すぎたようだ。ギガンテスの体をかすめ、夜の海へと消えていった。やり返すという意味はあったが、効果のほどは疑わしい攻撃となってしまった。

「これで、武器も防御もなくなったか」

 武器については、元々あてにしていなかった。ふっと口元を歪めたシンジは、全神経を近づいてくるギガンテスへと集中した。遠距離からの攻撃は、目に見えた時点で避ける事ができなくなる。ならば攻撃を直前に感じ取り、適切に回避を行う必要があった。

「冷静に、周りの空気を感じ取って……」

 近づいてくるギガンテスに集中したのだが、幸運なことに後続の攻撃は行われなかった。そのかわり、岸へ接近してくる速度が上昇した。

「海の上を浮いてくるなんて、絶対に非常識だな」

 これから行われるのは、6対1の逆鬼ごっこか、はたまた一人を狙ったバトルロワイヤルとなるのか。周りの地形、そして微妙に速度差のあるギガンテスの動き、そして後ろに控えている先輩二人の位置を、シンジは頭の中に投影した。

「二人の同調率は、他の基地の主力パイロットと同等に達している。
 だから、襲撃してくるギガンテスを倒し切ることは可能なはずだ。
 だったら、倒すことができる状況に持っていけばいい……」

 軽く両足を広げ、少しつま先立ちになるように腰をかがめる。少し前傾姿勢になったのは、どんな動きにも対応するためのものだった。本当は利き足とは反対の大きく左足を前に出すのだが、動きの自由度を上げるために小さめにすることにした。そのあたりは、助っ人に行ったレスリング部で教えられたことだった。

「来るっ!」

 ほんの僅かな動きの変化に、シンジはすぐさま反応した。接近してくるギガンテスの内、1体のギガンテスが速度を上げて襲いかかってきたのだ。だが、全神経を集中していたお陰で、シンジは意表を突かれることはなかった。
 大きく口を開いて飛びかかってくる敵を間際でかわし、すれ違いざまに前足を掴んでそのまま後ろに投げ飛ばした。投げ飛ばされた敵は、裏返った姿で倉庫に突っ込んでいった。
 それが戦いの合図になったのだろうか、残りの5体が殺到するように襲いかかってきた。その光景は、哀れな子鹿を襲う猛獣のようでもあった。

 だが襲われる方も、ただ無為にそこに居たわけではない。大きく開いた口に並ぶぎざぎざの歯を見ながら、右手で顎を突き上げるようにして1体のギガンテスの下に潜り込んだ。そして突っ込んでくる勢いを利用して、最初と同じ倉庫へと投げ捨てた。こちらは柔道部で遊ばれた、肩車という技の変形だった。
 獲物を見失ったギガンテス4体は、そのままの勢いで地上へと降り立った。そして飛んでいる時とは比べ物にならない遅さで、シンジの乗るヘラクレスの方へと振り返ろうとした。だがようやく振り返った時に、そこにヘラクレスの姿はなかった。

「これで1体っ!」

 投げ飛ばしてすぐ勢いをつけ、シンジはヘラクレスの筋力を生かして飛び上がった。そしてのっそりと振り返ってくるギガンテスのうち1体に狙いをすまし、その頭を上からおもいっきり踏みつぶした。これでは倒せないことは分かっているが、回復するまで行動不能にするのは可能なはずだった。
 そしてそれまでの時間が、シンジが狙っていたものだった。踏み越えるようにしてギガンテスの後ろをとったシンジは、短くて太い尻尾を捕まえ、待機しているマドカ達の方へとその1体を放り投げた。

「先輩、お待たせしましたっ!」

 襲撃したギガンテスの攻撃手段、大きな口と加速粒子砲は潰してある。このあたりは、シミュレーションで試した攻略方法だった。そしてこれまでの分析を信じるなら、待機していた二人ならば殲滅できるはずだった。簡単には死なない頑丈な体は厄介だが、間違えさえしなければ反撃を受けることもないはずだ。

「残りは5体……」

 二人に処理を任せたところで、シンジは残りの5体に集中することにした。二人の処理が終わるまで、残りの5体を足止めする必要があったのだ。いくら攻撃手段を潰しても、実際に殲滅するまでかなりの時間が必要となる。その間に襲われたら、最初のアドバンテージもふいになってしまう。
 そのためには、残りの5体から離れてはいけない。シンジが離れた途端、ギガンテスの興味がマドカ達に向かう恐れがあったのだ。だからシンジは、敢えて危険な接近戦へと挑んでいったのだった。



 見知らぬパイロット達のとった作戦は、完全に予想から外れたものだった。そのせいで、出撃時間が間近に迫ったのに、カヲルたちはその戦いに見入ってしまったほどだ。そして1体目のギガンテスが倒されたところで、エリックは両手を上に挙げ「アンビリバボー」と大声で叫んだ。

「なんで、あんな無茶苦茶な作戦が成立するんだ?
 どうして後ろの二人は、あんなぎりぎりまで耐えられるんだ?」
「なんでと言われても、僕も同じ疑問を感じているのだがね。
 それ以上に、どうしてあの程度の同調率でこんな真似ができるのかが分からないよ。
 まるで、ギガンテスがどう動くのか分かっているような動きじゃないか」
「東洋の神秘ってやつ?」

 おおよそ「東洋の神秘」などという言葉がでるのは、相手を茶化している時なのだろう。だがそれを口にしたライラは、本気で言っているようにしか見えなかった。それだけ今の状況が、彼女たちの経験上説明のつかないものだったのだ。

「だけど、こんな戦い方がいつまでも続けられるのかしら?」
「確かに、前衛への負荷が高すぎるな。
 敵の分断、個別撃破は戦い方の基本に違いない。
 だが、このままうまくいくとは考えられないな」
「確かに、非常に興味深い戦いであるのは間違いないのだが……」

 時計を見たカヲルは、観戦の時間が終わったことを全員に告げた。目の前の脅威が去っていない以上、今はその排除に全力を向けるべきなのである。他所のことは、それが終わってから考えればいいことだった。

「僕達は、僕達の戦いを終わらせることを考えよう。
 そこまで彼らが持ちこたえていれば、また違った道も生まれてくるだろうね」

 最初の1体は撃退できたが、あくまで運が良かっただけだと考えていたのだ。だが幸運は何時までも続かない。カヲルの言葉は、綻びが近いことを予見した物だった。



 一方アスカ達は、日本の戦いをキャリア上で見ていた。そして前衛に立ったパイロットの戦い方に、アスカは凄いと純粋に感心していた。移動中ということもあり、戦いを分析しているだけの余裕があったのだ。

「動き自体、ひとつひとつは大したことはないわね。
 あれぐらいなら、うちでも何人か同じぐらいの動きは出来るんだけど……
 でも、現実にはこんな真似ができるパイロットは居ない。
 集中力に差があるとは思えないから、他に理由を求めるしか無いか」

 ふむと考え込んだアスカは、しばらくして通信機に向かって「どう見る、クラリッサ?」と声をかけた。

「パイロットの示すデータとして、特別なところは見当たらないわね。
 同調率が上がっているという事実は見当たらない。
 データ的には、アスカよりも10%ぐらい低いところにいるわね。
 うちの主力より、そうね、7〜8%高いぐらいかしら?
 目立ったところといえば、そうね心理グラフがとても落ち着いているわね。
 とても、初陣でたくさんのギガンテスに囲まれたパイロットの示すものじゃないわ。
 砂漠のアポロンでも、これだけ落ち着いてはいないわね」
「何よ、この程度の数は脅威と感じていないってこと?
 さもなければ、そのパイロットが戦い慣れているとでも言うの?」

 日本に、ヘラクレスへの搭乗経験のあるパイロットは居ない。ましてや戦闘経験のあるパイロットは、TICの原因となったパイロットしか居ないはずだ。このパイロットが、問題となっていたパイロットなら、戦い慣れているという事実への理由となるだろう。だが示されたデータは、それを否定する平凡なものでしかなかったのだ。

「そんなことを言われてもわからないわよ。
 もしもこの戦いで生き残ってくれたら、その時はしっかり調べさせてもらいたいわね」
「私も、ぜひ意見交換をさせてもらいたいわ。
 と言うか、こんなぶっ飛んだ作戦を成立させたパイロットの顔を拝んでみたいわよ!」

 レベルの低いパイロットにより、かつて無い高レベルの戦いが繰り広げられようとしている。その謎を解明することが、これから先の戦いに役立つことは疑いようもなかったのだ。ただ続いたアスカの言葉は、それが絶望的であることを示していた。

「でも、新しい引き出しがない限り、その機会は永遠に訪れないわね。
 残念だけど……」

 すでに限界だと言う分析は、カヲルの行ったものと同じだったのだ。



 テレビがさんざん騒ぎ立ててくれたお陰で、シャームナガルの悲劇は国民に広まっていた。そして高知港で始まった戦いは、その悲劇に繋がるものであると誰もが知っていた。わずか3機しか戦力を投入できない今、その悲劇は避け得ないものと誰もが感じていたのだ。

 もうすぐ戦闘が始まろうという時、碇家の居間ではレイとアイリが並んでテレビの前に座っていた。その時の格好がパジャマ姿というのは、時間からしても不思議なことではないのだろう。

「あ、あれに、碇くんが乗っているの?
 後ろにいるのが、本当に遠野先輩と鳴沢先輩なの?」
「はい、アサミちゃんが白状しましたから!」

 不安げな眼差しをテレビに向けるアイリに、レイはとても力強く同意した。シンジから帰れなくなったと連絡を受けた後、不審に感じたレイが、電話でアサミを問いただしたのである。初めは白を切っていたアサミだったが、手を変え品を変えたレイの脅迫に屈服し、事の次第を白状したのだった。

「でも、絶対に先輩ってめぐり合わせが悪いですよね。
 せっかく強い意志を持って泊まりに来たのに、肝心の兄さんが帰ってこないんですから」
「か、肝心のって……、べ、別に、そういうつもりで遊びに来たんじゃないわよ」

 よほど痛いところを突かれたのか、アイリはレイから視線を外してあさっての方向を見ていた。可愛いピンクの格好をした理由からもまるわかりなのだが、どうして二人に何も進展がないのか。「女に飢えている」はずの兄が、どうして手を出さないのか不思議でならなかった。
 だが個人的事情は重要ではないと、アイリはテレビに映された戦いを問題とした。

「そ、そんなことより、碇君は大丈夫なの?
 テレビじゃ、さんざんパイロットは犬死するって言っているわよ」
「テレビはテレビです。
 そもそもテレビって、いつも不安を煽ることしか言っていないじゃないですか。
 私たちは、見たものをそのまま信用すればいいんですよ。
 これはライブ映像ですから、編集のしようもありませんからね」

 ここで心配すべきは、シンジ達の無事のはずだった。だが肝心の妹は、なぜかマスメディアの問題を語り始めていた。どこかおかしくないか、アイリとしてはそのあたりを強く主張したかった。だがレイの考えは、少し違う方へと向かっていた。

「状況に流されやすい兄ですから……だから、今晩は逃げられない状況を作ろうと思ったのに……
 ええっと、先輩と兄のことはこの際置いておきますが、できないことはちゃんと分かっている兄なんです。
 その兄がああして先輩たちまで巻き込んだということは、それなりの考えがあってのことだと思います」
「でも、今まで一度もヘラクレスに乗ったことはないんでしょう?
 最近の漫画でも、非現実的すぎるって言われるシチュエーションなのよ」

 多少の考えがあるぐらいで、素人が命がけの戦いに出ていけるはずがない。しかも掛かっているのは、自分だけではなく大勢の人達の命、その中には学校の先輩の命もかかっているのだ。無理やり乗せられたと考えるほうが、よほど納得できる理由だった。

「でもアサミちゃんは、兄が自分で言い出したと言っていました。
 その前に色々とあったみたいですけど、いろいろ考えて、兄が最善だと提案したと聞いています」
「でも、どうしてヘラクレスに乗ることが最善の方法だったのかしら?
 碇君って、今まで一度も乗ったことがないはずなのに……」
「そのあたりは、私にもわかりません!
 でも兄が大丈夫だって言ったのなら、ほんとうに大丈夫だと思いますよ」

 どうしてそこまで信用することができるのか。それもまたアイリには謎となっていた。昨日まで普通の高校生が、大勢の人の命を守るためにいきなり戦いに出る。アニメや映画で使い古されたシチュエーションなのだが、残念ながらこの戦いは、筋書きのない現実の戦いなのだ。
 だがレイの顔を見る限り、強がりを言っているようには見えなかった。本気で兄の無事を信じているのだ。それが兄妹だといえばそれまでなのだが、アイリにはとても理解できない世界だったのだ。

「それよりも先輩、アサミちゃんが落ちかかっている方が重大な問題ですよ。
 アサミちゃんは友達ですけど、兄の相手は先輩の方がいいと思っているんですからね」

 だからこうして色々と手引きをしている。どう考えても、目の前の戦いに比べて優先度が低い話に違いなかった。だが目の前の後輩は、それこそが一番大事なことだと信じて疑わない目をしてくれていた。そんなレイに、自分だけは現実を見失わないようにしようとアイリは心の中で決意していた。ただそこで見つめる現実が神頼みというのは、どう考えたらいいのだろうか。
 どの神様にお願いするのが一番確かなのか。それを真剣に考えるアイリもまた、レイと同様、心配から来るパニックで、自分を見失っていたのだった。



 最初の接触で、ギガンテス1体を倒せたのは、間違いなく予想以上の戦果だった。幸先が良いと考えたシンジだったが、戦いはそんなに甘い物ではなかった。残りの5体と向かい合ったところで、結局何も出来なくなってしまったのだ。
 ただ、苦戦することは初めから分かっていたことだった。ギガンテスと戦った経験もないのだから、むしろ1体を倒しただけで奇跡と言ってよかったのだ。その上、戦い方に制限が付く以上、苦戦で済んでいるだけマシという物だ。

 戦い方の制限のうち、最大の物はギガンテスから離れてはいけないと言う物だった。その第一の理由は、離れた途端に加速粒子砲の的になる可能性があるということだ。最初の防御で頼みのシールドを失った以上、これ以上敵の加速粒子砲を防ぐ手立てがなかったのだ。だから敵に加速粒子砲を撃たせないよう、常に接近して戦う必要があった。
 そしてもう一つ離れられない理由は、後ろで待機してる二人に負担をかけないというものである。シンジが離れることで、ギガンテスの目がマドカ達に向かう可能性があったのだ。そうなると、最初に立てた作戦も崩れてしまう。そのためには、相対的な距離をマドカ達よりも近くして、ギガンテスの目を引きつけておく必要があった。

 そしてもう一つの制約は、ギガンテスに加速粒子砲を打たせないと言う物である。強力無比の飛び道具を使われると、戦い自体が別な物に変質してしまう。自分が無事でも、マドカ達が餌食になる可能性もあったのだ。

 その2つの制約は、著しくシンジの戦い方を制限することになった。距離が取れないため、シンジはギガンテスと間近で向かい合うことになる。まるで犬が飛びかかってくるよう、5体のギガンテスが間断なく飛びかかってくるのだ。そのため体勢を立て直す余裕もなく、初めのように死角を突くこともできなくなってしまった。そうなると、戦いはギガンテスのペースで進んでしまうことになる。

「最初ので、警戒してくれたか……」

 その中で唯一救われたのが、敵が警戒している様な動きをしていることだろう。間断なく飛びかかっては来るが、まだ逃げるという意味では何とか出来るレベルだったのだ。もしも一気に殺到されていたら、どう考えても捌ききることは不可能だった。

「ちょっとやそっと時間を稼いでも、なんの意味も持たないか……
 いや、一人でも大勢の人が避難できるのは確かだけど」

 その成果は、けして自分の目指したものではない。そこまで他人のことを考えられるほど、自己犠牲の精神に溢れているわけではないと思っていた。むしろ、ヒーローと勘違いしたと言われる方が正しかったのだ。可愛い後輩にいいところを見せる。その助平心を、シンジは否定することはできなかった。
 だがもはや引くこともできなくなった今、ここに至った動機を考えても仕方はない。今重要なことは、いかにしてこの窮地を脱するかということだった。

 だが一言に窮地を脱すると言っても、制約条件は未だ健在だった。相変わらず敵の攻撃方法に注意を払わなければいけないし、望まない形で敵が分散するのも防がなければならなかった。
 そしてもうひとつ重要なのは、なにか手を打つにしても急がなければいけないことだった。このままの状態を続ければ、さほど遅くない時間で限界を迎えてしまいそうなのだ。ギガンテスを躱しながらも、次第に疲労が蓄積してくるのをシンジは感じていた。

 シンジがギリギリと言うのは、待機しているマドカ達にも明らかだった。自分で乗ってみて分かったのだが、シミュレーションとは違って体力の消耗が激しいのだ。それを考えると、あんな大立ち回りがいつまでも続けられるはずがないと思っていた。その上精神的にも、シンジは一杯一杯なのが分かるのだ。

「マドカちゃん、あれじゃ碇君がもたないよ」

 自分に置き換えてみても、すぐに限界に到達してしまうだろう。それがわかるから、ナルは「助けに行こう」とマドカに進言した。だがそれを受け取ったマドカは、絶対にダメだとナルを引き止めた。

「碇君がいいと言うまで、私たちはここから動いちゃいけないのよ!」
「でも、あれじゃすぐに限界が来るわ!」
「それでも、私たちは動いちゃいけないの!」

 最初のギガンテスを倒してみて、マドカもシミュレーションと現実の違いを痛感していた。シミュレーションでは簡単にできたことが、実際にヘラクレスに乗ってみたら、なかなかうまくいってくれないのだ。それはギガンテスが強いということと合わせて、思ったほどヘラクレスがうまく動いてくれないという理由があった。
 だからマドカは、初めの時ほど蛮勇ではなくなっていた。そのあたり、シンジに対して、どれだけ自分が無茶なことを言ったのかを理解したからでもある。だからと言って、マドカが臆病風に吹かれたわけではない。惚れたからと言う事情は多少あるのかもしれないが……シンジの指示に絶対従うのだと覚悟を決めていたのだ。だから指示がない限り、何があっても絶対動かないと繰り返した。
 そんな決意を示されれば、ナルも大人しく従うしかなかった。それでも、いざというときには飛び出す覚悟だけは出来ていた。今戦っている後輩は、マドカ一人だけの物ではないと思っていたのだ。



 日本の保有する正規のパイロットたちは、すでに戦闘現場に到達していた。だが司令部は、彼らの投入を指示しなかった。その第一の理由は、投入のタイミングを掴めないこと。そしてもうひとつの理由は、今更入っていける戦いではなかったことだった。
 だが膠着した戦いの中、何か手を打たなければならないという気持ちは誰もが持っていた。

「正直、私達では足手まといになるのは確かです」

 10人のパイロットのリーダー格、衛宮シロウは自分たちの実力不足を認めた。そしてその上で、「それでも行く」と上司に進言した。

「明らかに、あのパイロットは限界が見えています。
 今の局面を打開しない限り、我々の負けは確定しています」
「だが君たちの実力では、戦況を変えることは不可能だ」

 現地で指揮官として付いて来た玖珂一尉は、部下達の熱意に待ったをかけた。このまま投入したとしても、戦況を変えるどころか足手まといにしかならない。それが見えているからこそ、意気込みだけで出撃させるわけにはいかなかった。
 だが玖珂一尉の意見に対して、「考えがあります」と衛宮は返した。

「最初のギガンテスを倒した時、上からの攻撃についていけないことが分かりました。
 だったら、我々が上から急襲をかければいいのです。
 3体、いえ1、2体動けなくすることで、彼ならば現状を打開できるのではないでしょうか?」

 衛宮の上申に、玖珂はどうしたものか一瞬考えた。確かに有効そうに聞こえる作戦なのだが、貴重なパイロットとヘラクレスを使い捨てにするという問題があった。だが結論が出ないため、本部に居る後藤に意見を求めることにした。

「いいのか、かなりの確率で死ぬことになるぞ」
「ここに戻ってくる時、すでに我々は死ぬ覚悟をしていました。
 ですが、その覚悟をしていても、時間稼ぎもままならないことが分かっていました」

 ですがと、衛宮は仲間を見るようにコックピットで顔を巡らせた。

「今なら、戦況を有利にするためにこの命を使えます。
 無駄死にでは無いのですから、何をためらう必要があるでしょうか。
 俺たちが、見事命と言う名の盾になって見せます」

 衛宮の言葉に答えるように、他のパイロットたちからも同意を示す言葉が返ってきた。眼下で行われている戦いは、すでに奇跡と言っていいものになっていた。そしてその戦いを奇跡のまま終わらせることが出来るのなら、自分の命を使う覚悟は出来上がっていたのだ。

「もはや、一刻の猶予も無いはずです!」

 早く決断をと衛宮が迫った時、本部の後藤から作戦に対する許可が降りた。その命令を受け、玖珂は5人に対して攻撃命令を発した。

「衛宮、間桐、遠坂、葛木、言峰、お前たちが第一陣として行け!」

 どうしてと言う疑問もあるが、玖珂はパイロットのうち5人の男子パイロットを選んだ。女子を守ったように見える決定なのだが、選ばれた男たちから不満の声は上がらなかった。それどころか、よくぞ選んでくれたと感謝の言葉が返ってきたぐらいだ。

「では、各自上空で待機!
 命令とともに降下開始すること!」
「命令とともに、降下を開始します!」

 全員の復唱を聞いた玖珂は、作戦を伝えるためシンジとの通信回線を開いた。



 いっぱいいっぱいの戦いで、通信に気を取られることは命取りになりかねない行為だった。それぐらいのことは、戦っているシンジが一番理解していることだった。だが伝えられた作戦に、シンジは一瞬ギガンテスへの集中を切らしてしまった。

「しまったっ!」

 その代償として、よけきれなかった攻撃がシンジの乗ったヘラクレスを襲った。鋭い牙こそなんとか躱したが、短い尻尾の攻撃を受けてしまったのだ。軽く触られただけに見える攻撃だったのだが、シンジの乗ったヘラクレスは大きく跳ね飛ばされてしまった。
 致命的な失敗になりかけたのだが、ここでも部活の助っ人活動が役に立ってくれた。なんとか空中でバランスを取り直し、ひねりを入れて地面への着地に成功した。空中での方向感覚と動きは、体操部で仕込まれたことだった。

「……損傷は軽微か」

 すぐさま機体の状況を確認し、シンジは追いすがる敵から身を躱した。そんなシンジに対して、「敵の動きを止める」と言う玖珂の言葉が聞こえてきた。

「君は、何をするというわけではない。
 ただこれから、我々が君への支援攻撃を行うことを知っていてくれればいい。
 これから5体のヘラクレスが、上からギガンテスへの攻撃を敢行する。
 君は、その攻撃でできた隙を突いてくれればいい」
「そんなっ!」

 すぐにシンジは、その攻撃の意味を理解した。攻撃を意味のあるものにするためには、ヘラクレスにパイロットが乗っている必要がある。だが威力を発揮させるためには、かなりの高度から落下する必要があった。そうなると、無事着地できるか疑わしくなるし、乗っているパイロットの命も危険となる。破損した機体では、ギガンテスから逃げる事も出来ないだろう。
 そしてもう一つの問題は、落ちていくる途中で狙い撃ちされることだった。まともに攻撃を食らえば、確実にパイロットは死ぬことになる。

 作戦に反発したシンジに、玖珂は全て承知のうえだと伝えた。そしてこの作戦は、パイロットから提案されたものだと伝えた。

「だから、君も彼らの覚悟を無駄にしないでほしい」

 何が起ころうと、パイロットのことを省みてくれるな。それこそが、パイロットたちの覚悟に応えることだと玖珂は言い切った。そして、これから起きることを利用して、自分が有利になるように持って行けと言うのだ。

「では、これから5分後に攻撃を敢行する。
 我々の攻撃が、意味のあるものとなることを期待する!」

 以上と言う玖珂の声と同時に、シンジの視界にカウントダウンする数字が入ってきた。これが0になった時、上空からの支援攻撃が行われるということだ。

 くそっ、くそっ、と、シンジは自分の不甲斐なさを激しくなじった。格好つけて出撃したのはいいが、結局助けを借りなければならなくなってしまったのだ。だがいくら自分をなじっても、現状を変える力はどこにもなかった。そしてただ逃げ続けているだけでは、本当の救援が来るまで持ちこたえられないのも分かっていたのだ。
 だがシンジが自分をなじるのも、あまり長くは続かなかった。いつもの通りと言えばいいのか、上っていた血がすっと引いていったのだ。

「感謝すべきことなのかなぁ……」

 そのお陰で、冷静に大局を見通すことができる。ギガンテスの攻撃を回避しながら、シンジはその動きの変化を注意深く観察した。敵の動きに変化が出た時こそ、逆襲するチャンスだったのだ。言われた通り、特攻してくるパイロットを気にしないことにした。

 状況に変化を与えるため、5機のヘラクレスをぶら下げた大型ヘリは、低空で戦闘区域に侵入してきた。まず第一段階で、ギガンテスの注意を逸らそうというのである。これがうまく行くだけで、シンジの負担が軽くなることが期待できた。
 ヘラクレスとの距離が重要なのだろうか、はたまた爆音を上げて近づいてくるヘリが理由なのか、1体のギガンテスが上体を持ち上げた。その口がちらちらと光っているのは、これから加速粒子砲の攻撃を行う予兆なのだろう。変化が出たと言う意味で、この作戦は成功したと言う事になる。

 ギガンテスの示した変化は、まさにシンジが待ち望んでいた物だった。シンジは、自分から注意の逸れたギガンテスに対して、低い体勢で飛び込み頭を蹴り上げた。その反動で、ギガンテスの体は大きく浮き上がり、狙いとは違う方向へと加速粒子砲が発射された。暗闇に明るく線を描いた攻撃は、何の損害ももたらさず、静かに夜の闇に消えていった。
 だがこの攻撃は、他のギガンテスの攻撃を呼び込むことになった。シンジが背中を向けた途端、残りの4体が牙を剥いて飛びかかってきたのだ。しかしこの攻撃は、逆にシンジの予想していた物だった。ギガンテスを蹴り上げた勢いそのままで後ろに回り込み、飛びかかってくる4体への盾とした。

「これで、1体っ!」

 4体中3体は、盾としたギガンテスに食いついてくれた。そして1体は、狙いがはずれて空振りしてくれた。その空振りしたギガンテスに、シンジは攻撃を集中したのだ。もっとも、今の状況がいつまでも続かないのは分かっていた。だから深追いせず、殲滅はマドカ達に任せることにした。
 空振りしたギガンテスを追ったシンジは、地面に着地した瞬間上から襲いかかった。渾身の力で裏返しに持ち上げ、マドカ達の方へと放り投げたのである。これで殲滅できれば、残りは4体と言う事になる。

「攻撃をいったん中止してください!」

 状況が変わった以上、決死の特攻は不要となる。有利に転じた状況を変えないため、シンジは攻撃の中止を依頼した。シンジの依頼に対して、すぐさま「了解した」と言う答えが返ってきた。

 ギガンテス同士に、どこまで仲間意識があるのかは分かっていない。ただ一瞬交錯した攻撃は、更にシンジを有利にする方向へと働いてくれた。殲滅までには至っていないが、食いつかれたギガンテスが手足をもがれてのたうっていたのだ。いつ復帰してくるのか分からないが、当面3体だけ気にしていればいいことになってくれた。
 ただ気が抜ける状況かと言えば、相変わらずシンジが追い詰められていたことに変わりは無かった。食いつかれたら終わりという状況は、少しも変わっていなかったのだ。しかも仲間を傷つけたことなどどうでも良いように、ギガンテスはすぐさまシンジに向かって追いすがってきてくれた。2体こそ減ったが、1対3の戦いは、シンジが不利であることには変わらなかったのだ。

 1体目で経験したこともあり、2体目の処理は比較的素早く行うことが出来た。10分でギガンテスの息の根を止めた二人は、次の準備が出来たとシンジに連絡をした。

「碇君、こちらの始末は終わったわっ!
 動けなくなっている奴を始末するから、その場所から移動して!」

 棚からぼた餅で、1体のギガンテスが動けなくなっていた。それを殲滅するためには、シンジが少し場所を移動すればすむことになる。いつ復帰してくるのか分からない不安定さを解消するには、この機会を逃す手は無かったのだ。

「了解しました。
 これから戦闘場所を移動します。
 くれぐれも、急ぎすぎないようにお願いします」
「分かっているわ。
 慎重の上にも慎重に、そして攻撃する時は大胆にでしょう!」

 マドカの答えに、「それで良いです」とシンジは少し口元を緩めた。1年と少しの短い付き合いだが、こう言う時のマドカ達が頼りになるのは何度も経験したことだった。だからシンジは、マドカ達の能力をあてにして、残り3体のギガンテスの誘導に専念した。倒すことは出来なくても、3体ならば誘導することは難しくなかったのだ。



 高知の悲劇を連呼していたテレビ放送も、2体目のギガンテスが倒された時から論調に変化が生じた。そして3体目のギガンテスが倒された時、彼らは悲劇ではなく奇跡を持ち出すようになった。絶望的な状況を、希望へと塗り替えた「高知の奇跡」にである。事実戦いが始まって2時間以上過ぎたのだが、人的被害は全く発生していなかった。
 大量の犠牲者と、多大な損害が予想されいていた。そのため、それまでの放送は将来へ向けての課題、そして対処を失敗した政権への非難一色となっていた。だが「奇跡」が持ち出される頃から、全ての放送は名も知らぬ3人のパイロットへの応援一色に変化した。ここで「頑張れ」と応援したところで、それがパイロットの後押しになるわけではないだろう。それでもアナウンサー達は、声を枯らして3人のパイロット達を応援し続けたのだ。

 テレビの論調が変化したことは、避難民達にも好影響を与えた。2時間以上足止めに成功した事実は、彼らの心に余裕を与えてくれたのだ。しかも出来て時間稼ぎと言われていたのが、3体のギガンテス撃退に成功してくれた。相変わらず避難は続いているが、その避難に秩序が取り戻されたのだ。
 そして車で、飛行機で、列車で、船で逃げていく人々は、テレビに、ラジオに向かって、それがなければ高知の空に向かって、戦い続けているパイロットに声援を送り続けた。

 そしてその状況は、テレビを見守り続けていた碇家も同じだった。テレビの前に陣取ったレイとアイリは、時には手を握りしめ、時には感激から抱き合い、映し出された映像に一喜一憂していた。すでにテレビの前に陣取ってから3時間が経過しようとしているのだが、一時も目を離すことも出来ず、トイレに立ち上がることも出来なかった。もっとも、トイレと言うことすら忘れて画面に見入っていたのだが。

「も、もう、大丈夫よね」

 敵の残りが3体となったところで、アイリはレイにそう問いかけた。当事者でもないレイに聞いたところで意味も無いはずなのだが、それまでの不安が大きすぎたために、聞きたいという衝動を抑えることが出来なかった。
 そんなアイリに、「大丈夫に決まっています!」とレイは大きな声で答えた。

「ジャージ部は、頼まれたことはちゃんとやり遂げるんです。
 遠野先輩も、鳴沢先輩も、そうやってジャージ部の伝統を作ってきました。
 だからジャージ部は、学校の中で頼りにされているんです!」
「そ、そようね、大丈夫よね、ジャージ部なんだから」

 学校内のことが、人類を襲った脅威に通用するというのは、いくら何でも理論が飛躍しすぎているのだろう。だがそれを口にした二人は、大丈夫だと信じて疑わなかった。と言うか、信じていたかった。



 3対3の状況になったところで、シンジの中に少しだけ迷いが生じていた。これで対等だと思うほどうぬぼれてはいないが、他のやり方があるのではないかと考え始めたのだ。
 例えば待機しているパイロット全員を投入することで、3対2の状況を作り出せないか。そうすれば、マドカ達で2対1の状況を作ることが出来、個別にギガンテスを撃破することが出来るだろう。それが出来れば、次は3対1の状況を作ることが出来る。うまく分担出来れば、ギガンテス撃退を加速することが出来るのだ。そのためには、残りのパイロット全員で1体のギガンテスを足止めして貰えば良い。

 だが残りの戦力投入に関して、シンジには本当に良いのかと言う迷いが残っていた。彼らの使命感を、今更疑うつもりはない。彼ら全員を犠牲にすることも、良心の呵責こそ感じるかも知れないが、必要なことだと受け入れる覚悟は出来ていた。ただ固まっている3体を、うまく引き離せるのかという方が問題だったのだ。連携の取れていない戦力を加えることで、逆に自分達が混乱してしまう可能性がある。そのリスクを考えると、冒険することへの躊躇いが生じてしまったのだ。

「あの二人を連れてくるべきだったかな……」

 そうすれば、こと連携に関しては問題が解消する。今になって生まれた可能性なのだが、それを考慮しなかった自分が甘かったと思い知らされた。少なくとも、キョウカならば他のパイロットより期待ができたのだ。

 シンジの感じている後悔は、遠く離れた作戦本部に居る後藤も抱いていた。関係者だからと本部への入場を許可したのだが、二人のポテンシャルを考えたら、居させる場所を失敗したと感じていたのだ。
 そしてもう一つの失敗は、予備機体を含めて全ての機体が出払ってしまったことだった。これから高速機で行けば、高知まで1時間と掛からない。今後の戦いを考えても、移動させるというのは悪い方策ではないのだ。
 だが二人を急行させたところで、乗せる機体がなければ何の意味も持ってくれないのだ。そして更に問題となるのは、この二人には搭乗訓練を行っていないことだった。

 そしてアサミとキョウカの二人も、自分が居る場所に強い疑問を感じていた。戦いの初めから加わるのは無理だとしても、今ならば役に立てると感じていたのだ。だが遠く離れたS市に居ては、戦いに加わることは出来ない相談だった。

「俺があそこにいれば、絶対に碇先輩の役に立ったのにっ」

 悔しそうに吐き出したキョウカに、珍しくアサミも「同感です」と答えた。能力的に不足しているのは分かっていても、見ているだけというのが耐えられなくなっていた。あの3人と一緒に居たい、その思いがどうしようもなく高まっていたのだ。



 3体目のギガンテスを倒してから、何の変化もないまま1時間が経過しようとしていた。結局新戦力の投入を決断できないまま、ずるずると時間だけが過ぎてしまったのである。戦闘開始から3時間半を超えたことを考えると、何らかの打開策が必要なのは明らかだった。

 それは上空で待機している側も同じことだった。膠着した状況を目の当たりにした玖珂は、もう一度だけ賭けに打って出ることにした。変えられた状況がこちらのコントロールにある限り、状況を有利に導けると考えたのだ。

 だが今度の接近は、その進入方向を間違えたと言えるだろう。ヘラクレスを吊したヘリは、先ほど成功したのと同じように低空から接近してきた。今度もまたギガンテスが反応したのだが、その反応は前回とは全く違っていたのだ。前のように起き上がることなく、シンジに向かったまま口にちらちらと光が瞬き始めたのだ。
 これではシンジも、隙を突いて飛びかかることは出来なかった。むしろギガンテスの行う攻撃の射線上から逃げなければならないぐらいだ。しかも今回は、3体とも口の中に光を帯びていた。

 ギガンテスの口から強烈な光が放たれた瞬間、光の射線上からシンジは飛び退いた。防御スクリーンが無い今、どんな形でも敵の攻撃に当たるわけには行かなかったのだ。そしてシンジをかすめた光は、接近してくるヘリコプターを蒸発させた。もしも振り返ることが出来たら、ばらばらと落ちてくるヘリの残骸が見えたことだろう。これで、上空からの支援が期待できなくなったことになる。

「これで、打つ手が殆どなくなったのか……」

 敵の前に立つと、加速粒子砲の攻撃を受けてしまう。だからシンジは、ひたすらギガンテスの背後に回りこむ動きを続けた。こうやって後ろをとっている限り、敵の殆どの攻撃を封じることができた。だが出来るのは、そこまでだった。

「だけど、このままじゃ手詰まりだ……」

 ふと時計を見ると、時間は午前2時になろうとしていた。すでに戦いが始まってから、4時間が経過していた。

「救援は、あと12時間は期待できないのか……
 やっぱり、僕達が仕留める以外の道はないんだな」

 離れたところで待機している二人ならいざしらず、シンジが撤退すると言う道はあり得なかった。シンジが逃げようと振り向いた途端、後ろからギガンテスが食いついてくれるだろう。

「本当の僕なら……」

 ふと漏れ出た言葉は、これ以上は無理だというシンジの弱気を表した物だった。

 後藤にも恐れられた本当の自分、それならばこんなものはピンチとも思わなかったのだろうか。限界が訪れたという自覚に、シンジは本当の自分のことを想像した。ギガンテスの脅威があるにも関わらず、誰も本当の自分を引き出そうとはしなかった。それから考えられるのは、本当の自分はそれほどだいそれたことをしたと言うことだ。そして今、その力の片鱗でもあれば、この苦しい状況を脱せられるのにと。

 シンジの心の弱みは、ヘラクレスの動きという形で現れてきた。数的には初めよりは楽になったにも関わらず、むしろ戦いでは追い詰められ始めたのだ。回避する動きも、目に見えて悪くなっていた。

「マドカちゃん、碇君はもう限界よ。
 私達が出て行かないと、手遅れになるわよ!」

 自分たちとは違い、シンジは休むまもなく4時間以上戦い続けていた。それを考えれば、よくここまで頑張ったと言えるだろう。ナルが限界が来たと考えるのも、冷静に見れば不思議なことではなかった。
 だがシンジに限界が来たというナルの言葉を、マドカは「違う」と認めなかった。

「碇君の限界はこんなものじゃない!
 ただ、いつもの弱気が顔を出しているだけよ」
「でも、この場面じゃしかたがないと私は思うわよ。
 それに、弱気で片付けるのはさすがに可哀想じゃない?
 むしろ、ここまでよく頑張ったと思うわ」

 弱気というマドカの言葉を肯定したナルは、状況から考えればしかたがないことだとシンジをかばった。たった一人で6体の敵と向かい合い、4時間以上もの死闘を繰り広げてきたのだ。その中で何とか3体の敵を減らしたが、その消耗は想像に絶するはずだ。しかも支援の失敗も合わせれば、心が折れてもしかたがないと思えてしまう。
 だが「仕方がない」と言うナルの言葉を、マドカはもう一度否定した。

「私たちの碇君は、こんなものじゃないわ。
 それは、今まで一緒に居たナルちゃんも知っているでしょう。
 弱気の虫が顔を出したんだったら、その弱気の虫を追い払ってあげればいいのよ」
「でも、どうやって?
 迂闊に動くなって言われているのよ?」
「動けないんだったら、応援してあげればいいでしょう?
 じゃなきゃ、叱ってあげればいいんだから。
 最近叱ってないから忘れちゃった?」

 ジャージ部に引っ張りこんだ時には、シンジは今ほどなんでもできる生徒ではなかった。むしろ世間並に到達していない、凡庸といって良い生徒だったのだ。そんなシンジを叱咤してこき使ったから、今の碇シンジが出来上がったのだ。初めの頃はかなり無理も言ったし、理不尽な不満をぶつけていたものだ。

「そうね、入学した頃の碇くんって、今と違って可愛かったけど……
 その分、とっても頼りなかったわね?」

 その時のシンジを思い出したのか、ナルは小さく吹き出していた。思い出されるのは、眉毛をハの字にして「勘弁して下さい」と謝るシンジの姿だった。

「じゃあ、叱ってあげますか?」
「そのかわり、頑張ったらご褒美を上げないといけないわよ」
「それは、アサミちゃんに任せましょう!」

 よしと顔を見合わせた二人は、シンジに向かって声をあわせて、「サボるな!」と大きな声で怒鳴った。

「自分に甘えるのは、まだ余裕のある証拠よ」
「この程度で音を上げたら、帰ったらお仕置きをしてあげるわ!」
「このシスコン男、そんなことじゃ、レイちゃんに愛想つかされるわよ!」
「サボるなっ、自分で限界を決めるなぁ!
 頑張れ碇シンジ、君はこの程度でだめになる男の子じゃないでしょう!」
「そうよ、もっと頑張りなさい!
 ちゃんと頑張ったら、アサミちゃんにキスさせてあげるから」

 そこで自分の名前を出さないあたり、自分を守ろうとしたのか、はたまた餌には不足していると考えたのか。何れにしても、マドカとナルの二人は、大きな声でシンジに声援を送り続けた。
 大声をあげなくても、二人の声は当然シンジに届いていた。そして声援なのか叱咤なのか、何れにしても他の人にも聞かれていたのだ。それを考えると、勘弁して欲しいとシンジが考えても仕方ないだろう。

「……酷いな、僕はいつからシスコンになったんだよ。
 しかも堀北さんにキスって、先輩たちが許しても意味が無いだろう」

 久しぶりに聞いた二人の声援に、シンジは「相変わらず酷い」と口元を緩めた。だが、お陰で少し元気が出た気がした。

「だけど、二人のお陰で、僕はここまで来ることができたんだ……」

 高校に入ったときは、シンジは自分の事を好きではなかった。間違いなく、その時の自分は陰気な顔をしていただろう。だから同じクラスのアイリにも、全く相手にされていなかった。
 だがジャージ部に入ってしばらくして、なぜかアイリとぶつかるようになった。そしてクラスの中にも、友達と言える人が増えてきた。最初はいやいや受け入れてくれた他の部活からも、正式に部員にならないかと声をかけられるようにもなっていた。

「そうか、全部あの二人に目をつけられてからか……」

 それを考えると、二人にはいくら感謝しても足りないだろう。その二人が、まだ自分はできるのだと信じて応援してくれるのだ。だったらその期待に応えてこそ、二人への恩返しになる。

 飛びかかってきたギガンテスを紙一重でかわし、シンジは少しだけ敵から距離をとった。距離が空いたのを好機と見たのか、振り向いた敵の口に、ちろちろと白い光が漏れ始めた。避けることしかできない敵の加速粒子砲なのだが、落ち着いてみれば隙だらけなのが分かってしまった。

「当たりさえしなければ、怖くもなんともない攻撃だな。
 それに、こんな前フリが長いと避けるのも難しくない」

 しかも加速粒子砲を打つときには、敵の動きが止まってくれるのだ。攻撃による被害を忘れれば、むしろ間近にいれば相手にしやすい攻撃だった。
 今まで敵が加速粒子砲を打つ時は、当たらないようにと横に避けようとしていた。だが少し元気の出たシンジは、まっすぐ加速粒子砲を打とうとするギガンテス達に向かっていった。案の定、攻撃することに「夢中」の敵は、接近するシンジに飛びかかろうとはしなかった。

 シンジが間合いに入るのと、敵の攻撃は殆ど同時だった。3体のギガンテスの口が光ったのと同時に、シンジは飛び込み前転をするように上に飛び上がった。そして3体並んだうちの真ん中の敵に上から跳びかかり、両手を首にかけて背中を折るような形で前にぐるりと転がった。
 ゴキっと言う音が耳に聞こえてきたが、シンジは動きを止めることはなかった。敵を抱えたままもう一度前転すると、その勢いを利用してギガンテスを二人の方へと放り投げた。その素早い動きに敵が振り返った時には、すでにシンジはその場所から移動していた。

 これで、ギガンテスとの1対2の戦いとなる。さすがに圧倒することはできないが、間違えさえしなければ負けることもない状況へと持ち込むことができた。分断した1体を二人が倒せば、この戦いも終わりが見えてくる。
 そして引き離した1体の処理にあたった二人から、待望の知らせがシンジへと届けられた。シンジが与えたダメージが大きかったのか、さほど時間をかけずに殲滅に成功したのである。

「碇君、こっちのやつは仕留めたわ!」
「了解しました。
 でしたら、慌てずにこちらに来てください」

 二人に指示を出したシンジは、敵の加速粒子砲がその方向に向かないようギガンテスを牽制した。相変わらず隙も何も関係なく飛びかかってくるのだが、2体に減ったお陰で避けるのも難しくなくなっていた。そして二人が十分に近づいたところで、シンジは敵を分断する行動に出た。これまでは逃げていた敵の攻撃に対して、右側から攻撃してきた敵を正面から受け止めたのだ。
 大きく開いた口を両手で受け止めたとき、ギガンテスの勢いで少し後ろに両足が滑った。だがすぐに力で押し返し、もう1体から引き離した。そしてシンジが敵の1体を受け止めたのと同時に、マドカとナルの二人が背中を合わせるようにもう1体のギガンテスと向かい合った。

「よくも、私たちの弟をいじめてくれたわね」
「泣いて謝ったって、許してあげないから」

 ふふふと不敵な笑みを浮かべ、掛かってこいとばかりギガンテスを手招きした。
 一方シンジは、3対2の状況にならないよう、捕まえたギガンテスを引き離すように投げ捨てた。二人が1体を始末するまで引き離しておけば、あとは3対1で始末を付ければいいだけだ。1対1ならば、抑えこむのもさほど難しくなかった。

 手招きされたことに腹を立てたのか、二人に対したギガンテスは、不埒な人間に罰を与えるべく飛びかかってきた。大きく開いた口に並ぶ鋭い牙は、過去多くのヘラクレスを破壊した武器である。ギガンテスに比べれば脆弱なヘラクレスは、その牙にかかれば腕ぐらい簡単に食いちぎられてしまう。
 だが2対1の戦いで、その攻撃は二人の罠にハマるようなものだった。ギガンテスの攻撃に対して、二人はピッタリと息を合わせて、二人がかりでその口を捕まえ勢いを止めた。

「ギガンテスの開きでもしましょうか」
「ちょっと気持ち悪いかも!」

 ナルの答えが合図になり、二人は渾身の力でお互い反対方向へとその口を引っ張った。「開き」と言う通り、捕まえたギガンテスを口から引き裂いてやろうというのである。そして二人がかりと言うのは圧倒的で、いとも簡単にギガンテスの体を引き裂いた。5体目ともなれば、倒し方もずいぶん手慣れたものになっていた。

「碇君、こっちは仕留めたわよ!」
「じゃあ、こちらのも任せていいですか?
 さすがに、かなり疲れましたから……」
「結構非弱ね、私たちは元気いっぱいなのに」

 5時間近く一人で支えたのだから、それをひ弱というのはいかにも可哀想な言い方だろう。もちろん、ひ弱と言われた方も、それが本心の言葉ではないのは分かっていた。

「二人と違って、規則正しい生活を送っているんですよ。
 だから、いつもならとっくに眠っている時間なんです。
 それに僕は頭脳労働系で、肉体労働には向いていないんですよ」
「それじゃあ、まるで私達が肉体労働系のように聞こえるわね?」

 「後からいじめてあげる」と口元を歪めたマドカに、それは勘弁とシンジは謝った。どういじめられるのかは分からないが、どうせろくでもないことなのは分かっていたのだ。

「とりあえず、最後の一匹もコロコロしちゃいましょう!
 ナルちゃん!」
「オッケー、マドカっ!」

 シンジと正面から睨み合ったギガンテスに対して、マドカとナルはヘラクレスを疾走させ襲いかかった。それを察知したギガンテスなのだが、1対3ではどこを攻撃していいのかわからないのだろう。少しだけ首を振ったところで、マドカに首根っこを押さえつけられた。そして飛び上がったナルは、上からおもいっきりギガンテスの胴体を踏み抜いた。その勢いは凄まじく、踏み抜いた足はギガンテスの体を通り越し、コンクリートの地面を陥没させた。そして首根っこを押さえたマドカは、ナルが踏み抜くのに合わせてギガンテスの首をへし折った。その容赦のない攻撃は、シンジですらギガンテスに同情するものだった。
 そして味方すら恐れさせた二人は、これで勝利とヘラクレスでハイタッチをしていた。分断作業はシンジがしたが、結局二人がすべてのギガンテスを倒したのである。他の基地と比べるまでもなく、見事としか言いようのない戦果だった。

「やりましたね!
 でも、二人に喧嘩を売ってはいけないと骨身にしみましたよ」
「私達に喧嘩を売るのは、10年早いってところね!」

 エヘンと胸を張りながら、マドカとナルはシンジのところに戻ってこようとした。絶望で日本中を染め上げたギガンテスの侵攻は、3人の活躍で高知港の中だけで食い止められたのである。ギガンテスの放つ加速粒子砲のせいで、味方のヘリが落とされ、周辺地域にも若干の被害が出てはいた。一部の地域で火災が起きているようだが、想定した被害から比べれば天と地ほどの差と言えただろう。少なくとも、民間人の死傷者は一人も出なかったのだ。出来過ぎというのは、まさにこのことを言っているのだろう。
 だが完全勝利と浮かれるのは、やはり気が早かったようだ。最後に仕留めたはずのギガンテスの口から、ちろちろと白い光が漏れ始めていたのだ。シンジの方を見ていた二人は、全くその変化に気づいていなかった。

 危ないと声をかけたところで、とっさに避けることはできないだろう。そして反射的に動き出したシンジは、ギガンテスの口が光ったのと同時に二人を突き飛ばし、両手を前に突き出した。シールドがなければ受け止められない加速粒子砲の光を、両手を犠牲にして受け止めようというのである。ギガンテスの口から発せられた白い光は、シンジの乗ったヘラクレスを包み込んだ。

 突き飛ばされた時には、何が起きたのか理解できなかった。ただ分かったのは、自分たちのいたところが光り輝いていることだった。それがギガンテスの攻撃だと二人が理解するのに、一体どれだけの時間がかかったことだろう。それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。

「ナルちゃん、碇くんをお願い!」
「任せてマドカっ!」

 すぐに自分を取り戻し、マドカは攻撃を続けるギガンテスを仕留めに走り、そしてナルは温存していたシールドを両手に展開し、シンジの乗ったヘラクレスの前に割り込んだ。

「こんのぉ、くたばり損ないめぇっ!」

 マドカが飛び上がって襲いかかろうとした時、ギガンテスの口から発せられていた光が消えた。そして今度こそ、最後のギガンテスは動きを止めたのだ。最後の攻撃は、死に際の悪あがきだったのかもしれない。

「ナルちゃん、碇くんは大丈夫っ!?」
「分かんない!
 呼びかけても答えてくれないの!」

 ギガンテスの攻撃を受けたため、機体の両腕のほとんどが蒸発していた。そして胴体の一部も、黒く煤けていた。それはギガンテスの攻撃の凄まじさを示すものだったが、一方で過去の事例に比べて被害は小さかったとも言える。うまくシンジが防御したのか、はたまた死に際のため攻撃の威力が落ちていたせいなのか。何れにしても、恐れていたよりも被害は軽かったといえるだろう。

「碇君、碇君、返事をしてっ!」
「こら碇シンジ、マドカちゃんを未亡人にしてどうする!」
「ちょっとナルちゃん、みんなが聞いているところで何を言っているのよ!
 ええっと、とにかく碇君、返事をしなさい!」

 二人の必死の呼びかけは、見かねた後藤からの連絡が入るまで続けられた。パイロットの状態は常にモニターされているのだから、司令本部からシンジの生死を確認することができるのだ。だから後藤は、「失神しているだけ」と二人を安心させたのだ。

「マスコミが押しかける前に、急いで3機を回収してくれ」

 そうしないと、後々厄介なことになってくる。安堵するまもなく、戦後処理を後藤は指示したのだった。



 高知からS市への移送は、生き残っていた大型ヘリが使用された。後始末のためヘラクレス3機をその場に残し、入れ換える形でシンジ達の機体がくくりつけられたのである。ただシンジの意識が戻らないため、残る3機のパイロットが、シンジの機体をヘリにぶら下げた。

 その移動中、プライベートな話がしたいと、マドカ達は専用通信路を獲得していた。誰も聞いていないという話を信用した二人は、「疲れた」と少し大きな声で話し始めた。

「お腹空いたよね?」
「ナルちゃんに言われて、急にお腹の虫が鳴き出したわ」

 それまでは、必死だったため空腹も忘れていた。ようやく二人きりの……空間が出来たことで、マドカも緊張が解けたようだ。お腹を押さえて、「死にそう〜」と情けない声を返した。

「お腹は空いたし、体中べたべただからシャワーを浴びたいしぃ」
「私は、温泉でのんびりの方が良いなぁ。
 ねえマドカ、私達ってご褒美をおねだりしてもいい立場よね?」
「そりゃあ、それぐらいのことを言っても罰は当たらないと思うわよ」

 彼女たちのしたことを考えると、罰どころか多少のことではおつりが来るほどだろう。民間協力と考えれば、必要な報償が出されて然るべきだった。
 ただ今回の問題は、マドカ達の正体が伏せられていたことだった。マスコミ発表では、自衛隊内で訓練中の新人パイロットとされていたのである。今回の件でも、任務行動の一環であり、名前等は公表しないと通達が回されていた。そのあたり、マドカ達の希望に沿った対応でもあったのだ。その分、報酬という話が出しにくくなっていた。

「ねぇ、バイト代出るのかな?」
「夜間で拘束時間12時間だから……
 3人で、4、5万は貰えるんじゃないの?」

 このあたりが、まっとうな高校生感覚なのだろう。3人のしでかしたことを考えれば、桁が一つ二つ違っていてもおかしくないはずだった。だが二人は、シンジの分を含めたバイト代で行ける、近場の安い温泉宿をいくつか思い出していた。

「だったら、それを使って温泉に行こうか?
 来週の日曜日、活動予定は入れてなかったよね?」
「花澤君の清掃活動は再来週だったわね……
 だったら、戻ってからキョウカちゃんに相談してみようか」

 篠山家の力を利用すれば、近隣の温泉宿なら無理矢理部屋を取ることも出来るだろう。うまく行けば、値段以上のサービスを期待できるかも知れない。

「ところでマドカちゃん、部屋は一部屋で良いんだよね?」
「えっどうしてそう言うことを聞くの?
 二部屋とったらお金が高くなるじゃない。
 碇君だったら、寝る時に布団巻きにして部屋の隅に転がしておけば良いんでしょう?」

 考えるまでもなく、シンジにとって迷惑この上ないことだろう。生殺しと言えば、これ以上無い生殺しに違いない。ただ二人は、そんなことは些細なことだと拘っていないようだった。芋虫にされたシンジを心の隅に転がし、二人は段取りを進めることにした。

「じゃあ、それも戻ったらキョウカちゃんに相談しましょう」
「そうしましょう!」

 話がまとまったところで、ナルは少し真面目な顔をして、これからどうしようと口にした。

「これからって?」

 なにと首を傾げたマドカに、「今乗っている物」とナルは簡潔に答えた。それだけで意味が通じたのか、「どうしようね」とマドカも返してきた。

「よほど理由がない限り、これっきりって訳にはいかないでしょう?
 それに碇君って、何か訳ありのように見えるし……」
「訳ありかぁ……でも、碇君自身分かっていないようだったわね」

 う〜んと腕組みをし、もう一度「どうしようか」とマドカは呟いた。

「結局タカさんって、私の事を騙していたんだよねぇ。
 碇君が目当てだったんだけど、おおっぴらに出来ないから私を利用した」
「碇君が、ジャージ部の部員だから?」

 うんと頷いたマドカは、「それが気に入らない」とマドカは頬をふくらませた。

「そのせいで、大切な部員を危険な目に遭わせることになったでしょう。
 お陰で大勢の人を助けられたけど、だからと言って許して良い事じゃない」
「でも、これからもギガンテスが襲ってくるんでしょう?
 また同じことがあったら、碇君を頼るしか無くなるんじゃないの?」

 本来日本に置かれた前線基地は、サンディエゴやカサブランカからの到着するまでの遅延作戦が目的の物だった。だが今回の迎撃成功は、基地の位置づけを違う物へと変えようとしていた。まだ国連での評価は行われていないが、迎撃基地として格上げされるのは間違いないだろう。出撃した3人は、世界的に見て秀逸な戦果をあげたのである。
 そう言った意味で、二人は3箇所同時侵攻のような特殊事情を考えていたのだが、世界は更にその先に進もうとしていたのである。その意味でも、二人がどうしようかと考えるのは、ある意味正しい問題意識だった。

「私は、せめて高校ぐらい今のままで居たいな」
「私もっ!
 将来は避けられないのかも知れないけど、あと少しだけ高校生で居たいな」

 毎日が楽しく、そしてとても居心地の良い世界。それが二人にとっての、高校生活であり、クラブ活動だった。二人きりのクラブ活動だったのが、次の年には弟ができ、そしてその次の年には妹ができてくれた。だから取り巻く事情は理解できても、それを続けたいと願ったのだ。それさえ叶えられれば、ヘラクレスに乗ることも拒まないと考えていた。



 基地に到着してすぐ、シンジは損傷したヘラクレスから引きずり出され、市内の病院へと搬送された。生命の心配はないが、それでも様々な処置が必要とされていたのだ。本来基地内で処理すべきことなのだが、その面での整備もまだ終わっていなかった。
 ちなみにシンジが運び込まれたのは、市内にある個人経営の病院だった。すぐに想像が付くことなのだが、当たり前のように篠山家の息が掛かった病院である。回収の手続から長距離の輸送、さらに基地から病院までの秘密裏の輸送で、病院に担ぎ込まれたのは朝の7時過ぎとなっていた。

 基地に着いてから、マドカとナルの二人は寝る間も惜しんでシンジの移送に付き添った。大丈夫とは言われたが、この目で見て確認するまで寝ることもできないと思っていたのだ。
 だが病院に着いたところで、二人は思いがけない、そして数少ない苦手な相手の顔を見ることになった。受入の医師に混じるというか、まるで統率するように、一人の女子高生が仁王立ちしていたのである。

「げっ、鷹栖フユミ……」
「なんで、あんたがこんなところにいるのよ!」

 周りを威圧していた女子高生、鷹栖フユミは、何でという二人に向かって小さくため息を返した。それを見る限り、あまりご機嫌は麗しくないようだった。

「それは、私の言いたい所なんだけど……」

 まあ良いと、フユミは二人についてこいと手招きをした。緊急の患者は、すでにストレッチャーで処置室に運ばれている。それが終わるまでは、素人が関わり合うことは出来なかったのだ。だから適切な場所で、患者が戻るのを待つ必要があった。

 日曜の早朝ともなれば、病院を歩いている人はほとんど居ない。その静かな病院を、白いワンピースを着たフユミの後を、臙脂色のジャージを着たマドカとナルがついて歩いた。それだけを見ると、早朝トレーニングで誰かが倒れたのかと勘違いする光景でもあった。
 二人の前を歩くフユミは、少し硬質な声で自分がいる理由の説明を始めた。

「私の事情から言えば、篠山家御当主から招集が掛かったというのが理由よ。
 篠山家の将来に関わる重要人物が運び込まれるから、絶対に粗相がないようにしろと言う命令だったわ。
 たぶん碇君のことだろうと思ったから、私も立ち会うことにしたんだけど……
 なによ、ゴミ拾いをしていて車にでも跳ねられたの?」

 運び込まれた時間と格好、そして公式の「ボランティア部」と言う要素を重ね合わせると、フユミの指摘はまんざらおかしなことではなかった。そして事情を伏せなければいけない事情があるため、マドカ達も本当のことを言うわけにはいかなかった。

「え、まあ、ちょっとしくじったのよね」

 だから、そう答えてごまかすのも当然の対応だった。ただその答えに対する反応は、かなり二人の想像とは違った物だった。「迷惑ね」と冷たく言われると思っていたら、なぜかフユミがお腹を抱えて笑い出してくれたのだ。何故笑われるのかより、女帝とも陰口を叩かれるフユミが、そんな姿を見せることがとても意外だった。

「鷹栖さん?」
「ごめんなさい、別にあなたたちのことを笑った訳じゃ無いのよ。
 でも正確に言えば、あなたたちにも関わる事なのよね。
 しかしジャージ部って、こんなことにまで首を突っ込むの?」

 いかにも呆れましたという顔をしたフユミは、それ以上二人の答えに拘らなかった。そして「ここよ」と、二人をとても立派な扉の前に連れてきた。どれぐらい立派かというと、まるでホテルのようと言えば想像がつくことだろう。そして特別さを示すように、そのフロアにはその病室以外何も無かったのだ。

「ここは、篠山家専用フロアよ。
 通常篠山家に関係のない人は、立ち入ることすら出来ない場所なのよ」
「へぇ、この病院にそんな場所があったのぉ」

 中に入ったところで、もの凄く立派だと二人は周りを見回した。シャンデリアこそ無いが、一流ホテルのスイートだと言われても信用してしまいそうな作りだった。しかも奥のテーブルを見れば、女子高生二人が朝食を取っていた。そののどかな風景も、病院ではなくホテルそのものだった。

「フユミ姉様、使いだてをして悪かったな」

 朝食を中断し、おそらく今病院にいる中で一番立場の強いキョウカがマドカ達の所に歩いてきた。そんなキョウカに、「本家の跡取りを使いだてできないわよ」とフユミは答えた。学校のような公共の場ならいざ知らず、今は篠山家のテリトリーに居る。この場において、本家の威光は絶対のものとなっていた。
 少し皮肉のこもったフユミの言葉なのだが、あいにくキョウカはそんなことを気に掛ける少女ではなかった。身内のことをすぐに忘れ、大切な先輩二人に「朝食を食べよう」と誘いの声を掛けた。

「聞いたところによると、ばたばたしていて何も食べていないのだろう?
 なにか希望があれば、すぐに何でも用意させるぞ!」
「ええっと、確かに死にそうなほどお腹が空いているんだけど……」

 キョウカが篠山家の跡取り娘というのは分かっていても、普段は部活の後輩でしかなかった。だがその後輩が、二人にとっての天敵から下に置かない扱いを受けている。そのギャップに戸惑ったマドカ達だったが、その事情もキョウカにはどうでも良いことだった。

「今、レイさんに迎えを出しているからな。
 もうすぐ、瀬名先輩と二人で駆けつけてくるだろう」
「瀬名先輩って、アイリちゃんのこと?」

 アイリまで巻き込まれたことを不思議に思ったのだが、碇レイが兄のために色々と動いているのを二人は思い出した。そして思い出したのと同時に、巡り合わせが悪いとアイリに同情した。今回はジャージ部のせいではないと言え、いざという時邪魔ばかりしていたのだ。
 だがそんなことも、キョウカには関係のないことのようだった。少し興奮気味に、マドカ達に向かって極秘事項を口走ってくれた。

「しかし碇先輩も凄かったが、遠野先輩と鳴沢先輩も凄かったな。
 作戦司令部全体が、もの凄く盛り上がっていたんだぞ!
 まるで、サッカーのスタジアムのようだったな」
「キョウカちゃん、その話はちょっと……」

 秘密を守るためには、知っている人間を極力減らす必要がある。どこまでフユミが聞かされているのか分からない以上、関係者だからと言って余計な情報を与えるべきではなかった。
 だがそのあたりのことも、キョウカに期待するのは間違いという物だった。「どうしてだ?」と真顔で聞き返されて、二人はシンジの気持ちを少し理解したのだった。そして何も考えていないキョウカの代わりに、フユミが二人に助け船を出した。

「本家から、厳重な箝口令が出ているわよ。
 迂闊に破りでもしたら、この病院でもあっという間につぶされるわね。
 だから、あなたたちも安心して良いのよ」

 ふっとフユミが口元を歪めたところで、部屋に備え付けられていた電話が鳴り始めた。「ちょっと」と言って電話をとったフユミは、とても硬質な声で電話に答えていた。

「そう、二人が病院に到着したのね。
 失礼の無いよう、ここまで案内してくれるかしら?」

 普段でも冷たい声だと思っていたのだが、病院関係者への声は、それとは比べものにならない冷たさを持っていた。高圧的というのか、逆らうことを許さない厳しい響きがそこにあった。さすがは学校でも「女帝」として君臨するだけのことはあると見直した。

 レイとアイリが案内されてきたのは、電話が切れてから5分後のことだった。「失礼の無いように」という命令に従った看護婦は、腫れ物を扱うように二人を特別室へと案内してきた。しかもそこで迎えてくれたのが、女帝こと鷹栖フユミである。家を出る時には張り切っていたレイなのだが、その勢いなどとうの昔に吹き飛んでいた。

「それで、兄は大丈夫なんですか?」

 それでも家族の一大事だと、奥のテーブルに案内されたところで、レイは一番の心配事を切り出した。

「私が聞かされているのは、脱水症状とヘラクレスからのフィードバックと言う事なんだけど?」

 検査してみないと分からないと言われているので、唯一の病院関係者へとマドカは視線を向けた。だが答えを求められても、ここにいる限り情報について他の女子高生達と変わるところはなかった。

「無茶を言わないで欲しいわね。
 ここにいる限り、私の得られる情報はあなたたちと変わりはないのよ」
「でも、情報を得ることは出来ますよね?」

 それまで黙っていたアサミだったが、フユミに向かって「出来ますよね?」と口を挟んできた。その決めつけに文句を言いかけたフユミだったが、キョウカを含め全員から期待の眼差しを向けられ、諦めたように小さくため息を吐いて立ち上がった。

「検査中だから、あまり期待しないで欲しい物ね」

 彼女を知っている者ならば驚くような言い訳をして、フユミは備え付けの電話機を手に取った。そして一番情報の分かりそうな相手に電話を掛けた。

「ええ、フユミです。
 キョウカさんから、碇君の容態を教えろと言われました。
 親族もお見えになっているので、説明しても大丈夫だと思います……ええ」

 そこでキョウカの名を出したのは、一族として一番効果的な方法を採ったと言うことだろう。もちろん本人は、そんな事情など分かるはずがない。口には出さないが、なんでと盛大に首を傾げていた。

「はい、今のところ特に所見は無いのですね?
 はい、脱水症状と膀胱炎を起こしかけているから、しばらく点滴をすると……はい。
 そろそろ、こちらに運ばれるんですね?」

 もう一度はいと答え、フユミは受話器を下ろした。今のやりとりだけでおおよそのことは分かるはずなのだが、全員が詳しい説明を聞こうとフユミの方へと身を乗り出していた。

「特に問題が無いようだから、少し落ち着いて貰えるかしら?」

 そう言って自分の席に戻ったフユミは、すっかり冷めてしまった紅茶を一口啜った。

「外科的には、どこにも問題は見つかっていないと言う事です。
 ただ、軽い脱水症状を起こしているのと、同じく軽い膀胱炎を起こしているらしいわ。
 脱水症状は分かるけど……あれだけ長時間なんだから、そっちの配慮はなかったの?」

 フユミの疑問は、同じ境遇にあったマドカとナルへと向けられた。一瞬なんのことか分からないという顔をした二人だったが、すぐに顔を見合わせ「ああ」と頭を掻いた。

「2回は大丈夫って言う紙おむつをしていったわよ。
 普通は、ちゃんと処理できるようになっているらしいんだけど……
 やっぱ、ジャージ部の制服ってジャージでしょう?」
「やっぱり、男の子にはおむつは辛いかなぁ〜」
「たぶん、そんな余裕もなかったんじゃありませんか?」

 ナルとアサミの分析は、おそらくどちらも正解だったのだろう。ずっと緊張を強いられていたこともあり、体を弛緩させている余裕もなかったはずだ。そしてズボンを穿いたままするのは、抵抗があってもおかしくなかった。

「栄養と水分補給と抗生物質の入った点滴をするみたいね。
 1本終わって目が覚めたら、帰っても良いらしいわね。
 あと、しばらくしたらここに運ばれてくるわよ」
「兄は、大丈夫なんですねっ!」

 ほっと胸をなで下ろすレイに、「分かる範囲で」とフユミは釘を刺した。ヘラクレス搭乗による影響など、一般の病院にはデータなど有るはずがないのだ。

「この二人がけろりとしているから、たぶん大丈夫だと思うわよ」
「でも、遠野先輩達と違って、兄の神経は繊細ですから」
「それ、ひ弱って言い換えてくれない?
 じゃないと、私たちの神経が針金で出来ているように聞こえるから」

 すかさず抗議してきたマドカに、レイは「違うんですか?」と聞きたい衝動を感じていた。だがここで事を荒立てても何も良いことは無いと、突っ込みを入れたい欲求を抑え込んだ。そのかわり、マドカの言葉を認めるように「ひ弱ですね」と言い換えた。

 ジャージ部部員と収容された病院のご令嬢、そして患者の妹と言ったメンバーの中、アイリはとても居づらい思いをしていた。特にフユミから向けられた視線には、「どうしてあなたがここにいるの?」と責められているような気がしていたのだ。だから大丈夫と分かったところで、「私はこれで」とアイリは立ち上がった。

「えっ、先輩帰っちゃうんですか?」

 一番最初に反応したのは、アイリを連れてきたレイだった。周りに居るのは関係者なのだが、部活が違うこともあり心細さを感じていたのだ。そして何も考えていないマドカとナル、そしてキョウカの3人は、一緒に居ようとアイリを誘った。

「でも……」

 そこでフユミを横目で見たのは、「どうして居るの?」と言うプレッシャーを受けているからだろうか。普段クラス委員会で顔を合わせているのだが、あまり得意な相手ではなかったのだ。

「私としては、無理に引き留めるつもりも、帰れと言うつもりもないわ」

 アイリの視線を感じたこともあり、仕方が無いとフユミが口を挟んできた。このままでは、自分が悪者にされてしまう気がしていた。

「でも、しばらく碇君は目を覚まさないと思うわよ。
 だから家で済ますことは済ませて、午後に顔を出しても大丈夫でしょうね。
 それから遠野さんと鳴沢さん、あなたたちだって疲れているんでしょう?
 付き添い用のベッドがあるから、そこであなたたちも休んでいたら?」
「そう言えば、俺たちも徹夜したんだったなぁ!」

 なあとキョウカに声を掛けられたアサミは、「そうですね」とあくびをする真似をした。

「碇先輩が大丈夫だと分かったら、少し気が抜けてしまいました。
 私も、一度家に帰って休んでこようかなと思います。
 それに遠野先輩、鳴沢先輩、一度家に帰っておうちの方に顔をお見せした方がよくありませんか?」

 無断ではないにしろ、娘がいきなり外泊すると言ってきたのだ。どんなに理解のある親でも、そうそう簡単に受け入れられる話ではないだろう。しかも物騒なことになっていたと知らされたら、とてもではないが平常心を保てるとは思えなかった。そういう意味では、二人とも家にはすぐにでも連絡すべきだったのだ。

「そう言えば、うちに連絡してなかったわ……」
「うちも、帰れなくなったとしか連絡を入れてないわ」

 身を焦がすような親の心配に対して、娘達の反応はこの程度なのである。それを考えると、可哀相と同情したくもなる。それもあって、一番常識的なアサミは、「とりあえず電話を入れたら」と助言した。

「家の方が心配されていますよ」
「そうね、電話ぐらい入れた方が良いか……」

 慌てて荷物を漁りだした二人を見て、フユミは深すぎるため息を吐いてしまった。だがすぐにアサミの視線に気付き、取り繕うように「なに?」と冷たく聞こえる声で聞いた。

「いえ、鷹栖先輩も常識的な人だったのだなと感心しただけです。
 ボランティア部に居ると、時々常識的というのを忘れてしまいそうになりますから」
「碇君は常識的だと思ったのだけど?」

 自分だけが常識的だと言う様に聞こえ、フユミは興味から質問してしまった。

「そうですね、昨日までは碇先輩は誰よりも常識的な人でしたよ」

 つまり、碇シンジも常識を踏み外してしまったというのだ。ただその方向性は、マドカ達とはかなり違っていた。ただ一介の高校生が、訓練も受けずに地球規模の危機に立ち向かい、なおかつその危機を無事回避してくれたのだ。それを成し遂げたと言うことで、常識の範疇を超えたというのも、納得できる説明だった。

「だったら、元トップアイドル様のお相手には相応しいんじゃないの?」
「でも、このことは公開されませんからね。
 それに、公開されたら逆に私程度じゃ不相応になってしまいますよ」

 その時アサミが思い描いていたのは、キョウカとアイリの二人の顔だった。そして自分と同じ「不相応」の組に、アイリの名前を加えたのである。

「あなたとしたら、公開されない方が良いのかしら?」
「そうですね、結構今のぬるま湯な感じを気に入っているんですよ。
 だから、このままの関係を続けられた方が良いと思っています」

 いずれにしても、自分と釣り合うことはないとアサミは答えたのである。それを理解したフユミは、それ以上二人の関係に拘らないようにした。都合が良いことに、マドカ達の電話も終わってくれたようだ。

「どうだった?」
「かんかんだったわ。
 とりあえず、そろそろ帰るとだけ伝えたわよ」
「そっちは?」
「うちも同じ。
 体は本当に大丈夫なのかってうるさいから、電話を切ってやったわ」

 それではあまりにも親が可哀相だ。そう思いはしたが、所詮よその家のことだとフユミは割り切った。
 これでジャージ部のうち、キョウカを残して全員が帰ることになった。アイリも帰ると言っているのだから、ここに残るのはレイとキョウカと言う事になる。さすがに患者の妹に対して、帰ったほうがいいとは言えなかった。

「隣の部屋にベッドがあるから、二人ともそこで休んでいたら?
 碇君が目を覚ましたら、すぐに起こしてあげるわよ」
「悪いな、フユミ姉」
「宜しくお願いします」

 レイはしっかりと頭を下げたのだが、キョウカの方はそんな気配りは無いようだった。すぐにフユミのことを忘れ、「こっちだ」とレイを連れて行った。

「多少、見た目に気を配るようになったみたいだけど……」

 ふっとため息を吐いたフユミは、扉の向こうに消えたキョウカに対して愚痴を漏らした。中学時代に比べて、遙かにましになったのは間違い無いだろう。見た目だけなら、学校の中でも上から数えた方が早いぐらいになっていた。だが周りにいる女性たちと比べて、明らかに女性的魅力に劣っているとしか言いようが無い。「異性を意識させないさっぱりとした性格」と言うのは、友だち以上の関係にはなれないものだ。

 篠山家当主が入れ込んでいると聞かされた時には、何をトチ狂ったのかと思っていた。クラス委員の集まりで会ったこともあり、フユミもシンジのことを知っていたのだ。見た目がそれなりに良く、まじめで頭も良く、各クラブの助っ人に行くくらい顔も広く……何よりジャージ部でやっていけるだけの適応力がある。

「冷静に考えてみると、結構スペックが高いのね?」

 それなのに、どうして印象に残っていないのか。シンジのスペックの高さを確認したフユミは、その謎に興味を持った。だが1年前に記憶を遡ろうとしたところで、看護婦たちが移動ベッドでシンジを連れてきた。ベッド脇には、栄養補給用の点滴パックがぶら下げられていた。

「どれぐらい時間がかかりそう?」

 運んできた看護婦は、フユミに問いかけられて背筋を伸ばした。

「お昼ぐらいには終わると思います……」
「そう……」

 部屋にかけられた時計を見れば、もうすぐ8時になろうとしていた。点滴の量を見ると、4時間程度と考えればいいのだろう。

「終わりそうになったらコールするわ」
「後は、お任せしてもよろしいのですか?」

 院長の娘が直々に付き添いするのである。篠山家本家専用病室を使うこともあり、一体何者なのだと看護婦たちは疑問に思った。

「どうせ、見ているぐらいしかすることはないのでしょう?
 それぐらいなら、私でも問題はないはずよ」

 その言葉の意味を翻訳するなら、ここはいいからさっさと戻れというところか。それを理解した看護婦たちは、「お任せします」と頭を下げて帰っていった。

「何十万人もの人命を救ったヒーローね……」

 マドカ達に寝ていないのだろうと言ったのだが、フユミ自身決着がつくまでテレビで戦いを見守っていた口だった。そこからベッドに入ったのだが、興奮してなかなか寝付くことができなかった。そしてようやく眠くなったところで、篠山家本家から連絡が入ったのだ。
 その戦いで一番活躍したパイロットが、学校の後輩で篠山家にとっての重要人物というのは驚きでしかない。ゆっくりとベッドを押しながら、フユミは寝ているシンジの顔をのぞき込んだ。

「あの二人が、構いたくなる気も分かる気がするわね」

 寝ているところを見ると、たしかに可愛い顔をしていたのだ。だからフユミは、ベッドを押すのをやめて間近でシンジの顔をじっと見た。そこで、誰に対してなのか分からないいたずら心を起こした。

「少しぐらいならいいかしら?」

 そう言い訳をしたフユミは、そっと寝ているシンジと唇を重ねた。フユミにとってファーストキスなのだが、感じたのは唇に触れたカサカサとした感触だけだった。そしてそれ以上の感情が沸くはずもなく、この程度かと興味を失ってフユミはシンジから離れた。そして再び、ゆっくりとシンジのベッドを押し始めた。しばらくは目が覚めないだろうし、見舞いに来る人も居ないだろう。読みかけの文庫本でも読んで、ゆっくり時間でも潰すことにでもしようと考えた。



 シンジが目を覚ましたのは、病室に運び込まれて3時間後のことだった。慣れぬベッドの感触に目を覚ましたシンジは、伸びをしようとして左手に付けられたチューブに気がついた。

「目が覚めた?」

 聞き覚えの無い、とても硬質で冷たい声に、一体誰だろうとシンジは声の主の方へ振り返った。そしてそこに、会ったことこそあるが、ここにいそうもない相手の顔を見つけ、なんだろうと首を傾げた。

「ええっと、鷹栖先輩ですよね?」
「そうだけど、なにか?」

 ゾクリとくるような冷たい声に、シンジは小さく身震いした。

「どうして、鷹栖先輩がここにいるんですか?」

 シンジの質問に、「ああ」と納得し、フユミは持っていた文庫本を閉じて立ち上がった。

「貴方の目がさめるのを待っていた……と言うのでは、説明としては不親切ね」

 テーブルの上のリモコンを取り上げ、備え付けの液晶テレビの電源を入れた。シンジの見覚えがある男性の横の小画面では、ヘラクレスとギガンテスの戦いが映されていた。ちなみに見覚えがある男性は、記者会見でつるし上げを受ける後藤特務一佐だった。

「この戦いの後、貴方がうちの病院に運び込まれてきたのよ。
 なぜうちの病院かというのは、まだ基地の施設が整っていないというのが理由の一つ。
 そしてもう一つが、うちが篠山家の関係者だからというものね。
 私がここにいるのは、みんな疲れているので休んでいるから。
 貴方が目を覚ましたら、連絡してあげる事になっているわ」
「僕は、どうなったんです?
 先輩たちは無事だったんですか?」

 記憶に残っているのは、目の前を覆い尽くす白い光だったのだ。そこから意識が途絶えているのだから、どうなったと疑問を感じるのも無理は無いだろう。

「遠野さんたちはピンピンしているわ。
 貴方は、あのあとすぐに基地まで運ばれて、ここで治療を受けたの。
 と言っても、軽い脱水症状と、おしっこの我慢しすぎで膀胱炎を起こしかけていただけね。
 ところで、おしっこがしたくなったら遠慮無く言ってね。
 ちゃんとここに尿瓶があるから処理してあげるわよ」

 ふっと口元を歪めたフユミに、シンジは再び身を震わせた。看護婦相手でも恥ずかしいのに、学校の先輩相手では恥ずかしくて死にそうになる。「おしっこに行きたくなくてよかった」真剣に安堵したぐらいだった。
 もっとも、フユミはシンジをからかって楽しんでいるだけだった。動けない怪我をしたわけではないのだから、トイレに行きたくなったら点滴を引きずっていけば良いだけのことなのだ。

「妹さんが隣で寝ているから起こしてくるわね。
 それから、キョウカさんも一緒にいるから呼んでくるわ」
「篠山が?」

 どうしてと言う反応をしたシンジに、「ここは篠山の関係者だ」とフユミは繰り返した。

「篠山の本家が、貴方のことをどう思っているのかぐらいは感づいているでしょう?」
「それで、篠山だけがここに残ったということですか……」

 はあっとため息をついたシンジに、「同情するわ」と関係者と思えないことをフユミは口にした。

「同情してくれるんですか?」
「あんな派手なことをしたから、余計に目をつけられることになったわよ」

 「そうですか」と落ち込んだシンジに対して、フユミはふっと口元を緩めた。委員会で会う時より、ずっと身近に感じられたのだ。その他大勢でしかなかった生徒から、特定の名前を持った生徒としてフユミの記憶に刻まれた。

「せいぜいあがいて見ることね。
 いざとなったら、篠山は手段を選ばないわよ」
「そうやって、純真な男子高校生を脅かさないでください」

 ますます落ち込むシンジを見て、フユミはとても楽しい気分になることができた。眠いところを叩き起こされたことも、これでチャラに出来ると思えたほどだった。マドカ達が構う気持ちも、なるほどと理解することが出来た。

「じゃあ、呼んでくるから待っててね」

 そう言ってフユミが出ていった扉を見て、シンジはそっと自分の唇に手を当てた。おぼろげな意識の中、誰かに触れられた感触があったのだ。

「誰かにキスされた気がしたんだけど、やっぱり夢だったんだな」

 キャラクターから言って、キョウカが寝ている自分にキスするはずがない。レイもありえないことを考えると、やはり夢だったのだろうと。だが唇に手を当てたところで、シンジはとても重大な事実に気がついた。

「あれっ、手の感触がないぞ!」

 おかしいと色々と触ってみたのだが、両手とも何かに触れている感触が伝わって来なかった。ちゃんと指も動くのだが、抓ってみても痛みも感じないのだ。例えてみれば、正座をしすぎてしびれた足のようだった。

「これ、治るのかな……」

 すぐにでも医者に相談しなければ。体に現れた変調に、シンジは真剣に悩んだのだった。



 マドカ達が駆けつけた時、シンジの姿は豪華な病室にはなかった。もぬけの殻となった病室に、ただ一人フユミだけが椅子に座って文庫本を広げていたのである。

「あれっ、碇君は?」

 薄いブルーの私服に着替えてきたマドカは、少し息を切らしながらシンジの居場所を聞いた。そんなマドカに、フユミはゆっくりと文庫本を閉じて立ち上がった。

「目が覚めたから、脳神経外科で検査中よ。
 なにか両手の感覚がないらしいわね」
「感覚がないって……」

 大丈夫かと焦るマドカ達に、フユミは「たぶん大丈夫でしょう」とあっさり答えた。

「本人が言うには、足がしびれた時に似ているらしいわよ。
 CTを使って何も出てこなければ、そのうち感覚も戻ってくるでしょうね。
 あら、色男が帰ってきたわね」

 フユミの言葉に振り返ると、点滴を引っ張りながら歩くシンジの姿を見ることが出来た。足取りがしっかりしているところを見ると、確かに心配の必要は無いのだろう。レイとキョウカが両側を固めているのだが、その付き添いの必要もないように思えるぐらいだった。

「碇君、もう寝て無くて大丈夫なの?」

 部長と言う事もあり、マドカが一同を代表した。

「11時近くまで寝ていましたから、結構頭はすっきりしていますよ。
 そう説明したら、点滴が終わったら帰って良いと言われました。
 終わるまでには、1時間ぐらい掛かるそうですけどね」
「両手の感覚がないって聞いたけど?」

 みんなの視線が手に集まっているのに気づき、「ああ」と点滴をしていない右手でシンジは頭を掻いた。

「調べた結果、どこにもおかしなところは無いそうです。
 気を失う前に強い刺激を受けたから、しびれたような状態になったんじゃないかって。
 しばらく様子を見て、治らないようなら他の手を考えると言われました」
「そう、感覚がないんだ……
 どう、触っているのは分かる?」

 シンジに近づいて、マドカは右手の手首を握った。そして自分の近くに持ってきて、手のひらを指でなぞってみた。

「手首を含めて、全く感覚がありませんね……」

 そのあたりは、医者にも確認されたことだった。だから再度確認されたとしても、今更落ち込むことではなかったのである。

「そうか、じゃあもっと強い刺激だとどうなのかな?
 ねえアイリちゃん、ちょっとこっちに来てくれるかな?」
「私が、ですか?」

 呼ばれてびっくりしたアイリは、何だろうとマドカに言われた場所に立った。ちょうどシンジの手が届く、それぐらいの距離感を保っていた。

「いや、ちょっと実験に付き合って貰おうかなって」

 そう言ったマドカは、シンジの右手を引っ張り、手のひらをアイリの胸に押し当てた。結構強く押し当てたこともあり、大きめの胸が「ムニュ」っと言う擬音が相応しい形で変形した。

「な、何をするんですかっ!」

 両手で胸を隠し、アイリは後ろに飛び下がった。とっさに平手打ちが出なかったのは、不幸中の幸いだったかも知れない。
 だがアイリの抗議を無視して、マドカは「どうだった?」とシンジに感想を求めた。

「どうして、感覚の無い時にそう言うことをしますか?」
「いやぁ、男として喜ぶべき状況を作ったんだけど、それでも駄目なのかなぁとね。
 うん、碇君の顔を見れば、感触がなかったのはよく分かるわね」

 心底情けなさそうな、そして残念そうな顔をしたシンジに、確かに感触がないのだなとマドカは納得した。だが後ろから誰かに胸を鷲掴みにされ、悲鳴とともにしゃがみこんだ。

「な、なんばしょっと!」

 どうしてそこで博多弁? そんな疑問を全員に抱かせたマドカは、不埒な真似をしたナルを睨みつけた。

「いやぁ、アイリちゃんはガードが硬そうだからね。
 マドカのほうが、ちゃんと碇くんも感じられたんじゃないのかなぁと」

 余韻を味わうように両手をにぎにぎしながら、「ねっ」とシンジに同意を求めた。もっとも、「ねっ」と言われても、シンジとしては答えようがなかったのだが。

「そうやって、二人がかりでからかわないで欲しいんですけどね」

 はあっとため息を吐いたシンジは、後ろでおとなしくしているアサミを呼んだ。戦いが無事に終わったのなら、確認しておくことがあったのだ。

「なんですか、先輩」
「高知市に居るおじいさんとおばあさんは無事だったのかなと思ったんだよ」

 それまで忘れている方もどうだと思うが、マドカとナルは、ああと手を打った。じっとしているはずだったシンジを動かしたのは、高知にいると言うアサミの祖父と祖母だったのだ。そういう意味では、最大の功労者はアサミだったのかもしれない。
 だがおじいさん、おばあさんと言われたアサミは、きょとんとした目でシンジを見た。何のことを言っているのかわからない。アサミはそんな顔をしていた。

「ほら、おばあさんが足を悪くしているといっただろう?」
「私のおばあさんが……ですか?」

 少し考えたアサミは、しばらくして「そうでした」と大きな声を出した。

「あれっ、嘘だったんです……テヘペロ」

 その嘘のために命がけの戦いに駆り出されたと考えると、いくら可愛くてもテヘペロでごまかされるものではないだろう。さすがに切れると周りが固唾を飲んで見守る中、シンジはほっと溜めていた息を吐き出した。

「そうか、足の悪いおばあさんはいなかったんだ。
 良かった、堀北さんの家族は全員無事だったんだね……
 で、済むと思っているのかっ……むぐっ」

 騙されたことより、被害を受けた人がいないことを喜ぶ。いい話になりかけたところで、それをシンジは見事にぶち壊した。前ふりを考えると、なかなか役者だと言うところなのだが、役者という意味ではアサミのほうが一枚も二枚も上手だった。シンジの左手が不自由だったというのもあるのだが、怒ろうとしたシンジの頭に手をかけて、かなり強引にくちづけをしてきたのだ。
 舌までは入らなかったが、結構濃厚に唇を重ねてくれた。そのおかげで、シンジの怒りもどこかに吹き飛んでしまった。さすがは元トップアイドル、インパクトの大きさは一般人の比ではなかった。

「ええっと、お父さん、お母さんと、それから映画でしたのと……
 それからドラマでしたのを除けば私のファーストキスなんですよ。
 大切なものをあげたということで、ここは水に流してください」

 随分と除外項目の多いファーストキスなのだが、それでも初なシンジには十分すぎた。珍しくうろたえたシンジに対して、アサミはポケットからリップを取り出して、少しカサついた唇に塗った。

「先輩、唇がカサついていますよ。
 そんな唇じゃ、女の子は喜びませんからね」
「え、ええっと……」

 まだ復帰できないのは、キスされたシンジだけではなかった。周りを取り囲んだ女性陣も、あっけにとられていたのだ。その反応がおかしくて、アサミは次なる犠牲者としてアイリを選択した。シンジに塗った後のリップを、呆然としているアイリの唇にも塗ったのである。

「はい、これで一応間接キスですね」
「なっ、なっ、なっ……」

 思いがけない攻撃に、アイリは顔を真赤にして「な」の字を繰り返した。

「あれ、リップじゃ不満でした?
 じゃあ、もっと密度の高いやつで許してください」

 だったらと、アサミは今度はアイリに口付けをした。美少女同士のくちづけは、そこに美しい景色を創りだすはずのものだったのだが、さすがにアイリが耐え切れず、躓いたように後ろに倒れてしまった。

「瀬名さん、大丈夫?」

 何とか自由になる右手で抱きとめたのだが、それがアイリにとどめを刺したようだ。「う〜ん」と言う冗談のような声を出して、シンジの腕の中で失神してしまった。

「碇君、どさくさに紛れて胸を触っているわね」
「重さは感じるんですけど、相変わらず何を触っているのかわからないんです……
 それから堀北、体を張ってまで僕達をからかわなくてもいいっ!」

 右手をにぎにぎとしているのは、感覚がない以上、無意識の行動なのだろう。

「そんなことより、向こうで座りませんか?
 せっかくですから、豪勢なランチを頂きましょうよ」

 見事な攻撃で全てを有耶無耶にしたアサミは、追い打ちとばかりにランチの提案をした。ただ提案自体は、時間を見れば妥当なものでもあっった。

「あのなっ……」

 はあっともう一度ため息を吐き、シンジはアイリの耳元で名前を呼んだ。支えるぐらいはできるが、運ぶのはどう考えても無理だったのだ。しかも他の女性陣は、手伝いもしないで奥のテーブルへと行ってしまった。

「ええっと碇君?」
「二人揃って、堀北さんにからかわれたんだよ……ただね」

 そこでシンジは、アイリの耳元で小さな声で何かを告げた。その言葉に、アイリは目を見開いて驚いた後、シンジにだけ分かるように小さく頷いた。

「点滴だけじゃお腹が膨れないから、豪勢なランチを御馳走になろうか?」
「そ、そうよね……」

 ぱっとシンジから離れたアイリは、少しぎこちなくみんなの待っている方へと歩き出した。

「一人で大丈夫……よね」
「さすがにね」

 体に対する所見は一切なかったのだから、今更心配も意味が無いように思えた。だからアイリもそれ以上拘らず、綺麗なテーブルの方へと向かったのである。

 そしてその頃、フユミとアサミの二人は、「豪勢」なランチの注文をしていた。なぜこの組み合わせになったのかは、非常に疑問が残るところである。

「あなた、顔に似合わずイタズラ好きなのね。
 あのキス、一体どこまで本気だったのかしら?」
「ドラマじゃないんですから、嫌いな相手とキスなんかしませんよ。
 でも、イタズラ好きだなんて鷹栖先輩に言われたくありませんね。
 でも寝ている先輩にキスをしても、あまり意味があるとは思えませんけどね」
「あ、あなたっ」

 明らかに動揺を示したフユミに、アサミは口元を歪めてニッと笑った。その表情に、カマをかけられたのだとフユミは理解した。

「……本当に、たいした人ね」
「碇先輩に、鷹栖先輩の残り香があったんです。
 だから、ちょっとカマをかけちゃいました」

 ふふふと微笑んだアサミに、フユミは「得体のしれない恐ろしい子」と言う印象を強くした。さすがは芸能界で、10年以上トップを張ってきただけのことはあると。

「ちょっとばたばたしちゃいましたけど、みんなで祝勝会をしましょうよ。
 碇先輩をめぐる7人の女性……ちょっとドラマっぽくありませんか?」
「私も、そこに含まれるの?」
「興味ぐらいあるんですよね?」

 やっぱり怖い。用心しなければいけない相手として、フユミは堀北アサミのことを認識したのだった。



***



 4体のギガンテスを倒すのに、予定外の4時間という時間がかかってしまった。その上、サポート要員にまで出さなくてもいい被害を出してしまった。そのあたり、早く倒さなければと言う焦りが影響していたのは疑いようもない。それを反省しつつ、アスカは終わったわけではないと気を引き締めた。
 ここで時間を使った以上、短縮を考えなければ高知での被害は拡大することになる。その思いの元、アスカはすぐに次の戦いの準備に移ることにした。

「サンディエゴ、至急機体の回収と出撃の準備をお願いします」

 基地単独での作戦は難しいが、自分たちが出撃することによって被害を多少なりとも抑えることができる。そのためには、少しでも早く日本に移動する必要があると考えていた。予備機体を使用すれば、出撃までの時間短縮が可能なはずだった。
 だが出撃すると申告したアスカに対して、基地から返ってきたのは「出撃理由の消滅」だった。予想外の回答に、アスカはすぐにはその意味を理解することは出来なかった。だが返ってきた答えは、更に予想を大きく超えたものだった。

「1時間前に、日本での作戦行動は完了している……ですって!」

 基地からの情報なのだから、嘘や冗談であるはずがない。ただそうなると、日本は何かウルトラCを用意したと言う事だ。開戦前の状況では、さほど時間がかからないところで破綻するのが目に見えていた。
 自分たちの常識に当てはめれば、日本単独での迎撃はできない相談だったのだ。そして自分たち以外に迎撃ができる、それこそ超兵器が開発されたという情報も持っていなかった。
 基地からの答えに絶句したアスカは、理由を考えても無駄だろうと諦めることにした。

「了解しました。
 これから撤収し帰投します」

 戻りながらでも、データを確認すればいい。その後クラリッサから詳細なデータと助言を貰えば、何が起きたのか分析もできるだろう。出撃の必要がないのなら、じっくりと分析する時間もできるはずだ。
 続いての出撃こそ無くなったが、いつまでもここにとどまる必要もない。色々と疑問を感じながら、アスカは全員に撤収を命じたのだった。



 信じられないという感情は、カサブランカでも同じ事情だった。サンディエゴより30分早く作戦を終えたカヲル達は、日本への出撃のため後始末を確認せずに基地に取って返していた。そしてその場で、日本がいち早く作戦を終えたと知らされたのである。当たり前だが、その知らせに全員が自分の耳を疑ったのだ。

「おいカヲル、俺達は何か悪い冗談を言われているのか?」
「ごめんエリック、僕自身この状況を受け入れられていないんだよ」
「私も同感、どう考えてもありえない出来事よ」

 被害が抑えられたのだから、本来喜ぶべきことに違いなかった。だが彼らの持つ常識が、素直にその事実を認めることを許さなかったのだ。パイロットたち4人は、狐につままれたような顔でお互いを見た。
 だが提示された作戦状況は、更に彼らの疑問を深めてくれた。

「多少の撹乱には使用されたけど、結局戦力の追加は行われなかったのね……」

 本来自分たちの戦いをレビューすべきところなのだが、興味はどうしても日本の戦いへ向いてしまう。戦闘ログを眺めながら、マリアーナは信じられないと亜麻色の髪を掻き上げた。そしてその感想は、エリックも同じだった。

「フロントを務めたパイロット、5時間も一人で支え続けたということか……
 はっきり言って、バケモノだな」
「でも、同調率自体はカヲルの方が上回っている。
 つまり、これぐらいのことはカヲルだったらできるってことよね」

 どう? とライラに話を振られ、カヲルは「やめてほしい」と全員に懇願した。なぜか、次からはよろしくと言われた気がしたのだ。

「やれと言われてもやれる自信は全くないよ。
 いざその場になってみないとわからないというか……
 それ以前に、こういった戦い方をしなくてもいいように準備をしていると思っているんだけどね」
「そこで疑問があるのは、出撃したパイロットは勝算があったのかということね。
 日本の事情としては、勝算がなくても出撃をさせなくちゃいけない事情はある。
 でも、パイロットがどうかとなると話は別でしょう?
 しかも、あんな予想もつかない作戦をとってくれた……」
「それは、確かに興味深い疑問に違いないね。
 まあ、待っていれば情報として展開されるとは思うけど……」

 どのような作戦を行い、どこに問題があったのか、そして何が勝利の決め手となったのか。過去行われたギガンテス迎撃は、すべて詳細な分析とともに記録されていた。
 その慣行を考慮すれば、日本での戦いについても、詳細な報告書が上がってくるだろう。通常は行われていないのだが、その中にはパイロットの証言も含まれているに違いない。

 それまでおとなしく待っていればいいのだが、考えれば考えるほどすぐにでも理由が知りなくなってしまう。「正直な気持ち」と前置きをして、「すぐにでも日本に行きたくなった」カヲルは白状した。

「ぜひともこの3人に会いたくてしかたがないんだよ。
 なぜこんな作戦をとったのか、どうしてあそこまで冷静に遂行できたのか。
 どんなパイロットが、こんなまねをすることができたのか。
 ぜひとも日本に行って、確かめて、そして彼らを祝福したいと思うんだよ」
「まあ、カヲルがそう考える気持ちも理解できるな。
 俺だって、ぜひともこんなぶっ飛んだ真似をするパイロットの顔を見てみたい。
 そしてこんな作戦を立てた日本の奴らの話を聞いてみたいと思っているよ」
「でも、ヘラクレスに乗るんだから、私達と同年代よね?」
「同年代だったら、どうするの?」

 マリアーナの疑問に、当然とライラはモラルに厳しい答えを返した。

「お近づきにメイクラブしたいなぁって」
「相手が、男とは限らないわよ?」
「別に、問題があるとは思わないけど?」

 それが何かと言い返され、マリアーナはずずっとライラから距離をとった。そんなマリアーナに、心配いらないとライラは笑った。

「大丈夫よ、マリアーナとそんなことをしたいと思っていないから」
「安心すべきところなんだろうけど、なにか釈然としないわね……」

 微妙な空気が流れたところで、カヲルは戦い後の反省会を終了することにした。時計を見るまでもなく、体を休める時間になったのである。日本の詳細な情報は、明日になれば届いているだろう。

「日本に行かなくてすんだことを感謝して、今日は休むことにしようか」
「ああ、気が抜けたら眠くなってきたな……」

 はあっと欠伸をしたエリックは、「お先に」と立ち上がって部屋を出ていった。そしてライラから少し離れて、マリアーナも追いかけるように部屋を出ていった。

「例のパイロットかどうか、それが一番の問題なんだけどね」

 結局、その部分が曖昧なままとなってしまっている。カヲルにとって、それが一番の気がかりだったのだ。



 怒涛の24時間と言うのが、後藤にとっての今日だった。なんとか対象Iを基地に連れ込んだと思ったら、世界3箇所同時のギガンテス侵攻に見舞われた。それを奇跡的に切り抜けたと思ったら、マスコミからの厳しい追及が待っていたのだ。迎撃に出たパイロットの素性を明かさなかったことで、まるで罪を犯したかのような追求を受けてしまった。
 しかも上の上の方からも、マスコミ対応に対して厳しいお叱りが飛んできた。だったらお前たちがやれと、声を大にして言いたいところだった。もっとも、言い返したところで何も変わらないと言うのが現実だった。

 ずぼらなようでも、その中に鋭さをかいま見させるのが後藤という男だった。だが今の後藤から感じられるのは、極度の疲労というやつである。前日から寝ていないというのは、自衛官には当てはまらない理由だろう。
 仮設の執務室に戻ってきた後藤は、いささかだらしなく肘掛け椅子に身を投げ出した。当然両足は、前の机の上に放り投げられていた。普段とは別な方向に、だらしなさを増していたのだ。

「随分と、追求が激しかったようね?」

 帰ってくるのを待ち構えていたのか、隣の部屋から神前が顔を出した。手にコーヒーを持っているのを見ると、労う気持ちがあるようだ。こちらの方は、一晩徹夜したとは思えないパリっとした出で立ちだった。
 ダウンしている後藤に近づいた神前は、蹴飛ばされない位置にコーヒーをコトリと音を立てておいた。

「まだ寝れないんでしょう?
 だから、思い切り濃いのを持ってきてあげたわよ」
「悪いな」

 起き上がって姿勢を正し、後藤は神前の持ってきたコーヒーを感謝とともに口をつけた。「思い切り濃い」との言葉通り、強烈な苦味が口の中に広がってくれた。そのおかげか、少しだけ頭がはっきりした気がした。

「ようやく、報告書の作成に移れる。
 ただ問題は、正直に報告書を書いたとして、信用してもらえるのかということだな」

 一度もヘラクレスに搭乗した経験の無い高校生3人が、サンディエゴ、カサブランカ両基地総出であたらなければならないギガンテス相手に勝利を収めたのだ。そのうち一人が対象Iだとしても、結局記憶の復元は行っていない状態で出撃させた。それを考えれば、正直に書いてたとしても、とても信用しては貰えない代物なのだ。自分だって、当事者でなければ信用出来ない戦いだったのだ。
 信用して貰えないという後藤の言葉は、神前も認めざるをえない物だった。今回の戦いにおける死者が、ヘリの乗員数名だけと言うのは今でも信じられなかったのだ。その数名は不幸としか言いようがないのだが、何十万人もの死者が回避されたことには間違いない。朝の号外では、「高知の奇跡」の巨大文字が踊っていたぐらいだ。

「いっそのこと、これはフィクションですとでもつけて送ってあげたら?」
「そんなことをしたら、国際問題になって俺の首が飛ぶ」
「でも、3時間しか訓練していないパイロットが出した成果で通用すると思う?
 しかも、対象Iにしたところで、記憶操作しすぎて大した同調率が出てなかったんでしょう?」

 つまり、どんな報告書を書いたところで、誰にも信用されるはずがないと言うのだ。さすがにそれは言いすぎなのかもしれないが、分析を含め面倒な事になるのは間違い無いだろう。そしてこの先のことを考えると、更に面倒な事になるのは後藤にも見えていた。

「国連は、間違いなくパイロットのヒアリングをさせろと言ってくるだろうな。
 果たして、あの3人がそんな面倒なことに応えてくれるだろうか」
「お願いはできても、民間人に強制はできないわね。
 しかも相手が未成年となると、お願いし倒すしか方法がなさそうね」
「それも、俺の仕事として降ってくるんだよ……」

 はあっと深すぎるため息を吐いた後藤は、「贅沢を言っているのは分かっている」と先手を打って続けた。

「あの3人がいなければ、高知で起きたのは奇跡ではなく悲劇のはずだった。
 シャームナガルどころではない死者が出て、四国と言う地域が壊滅していた。
 恐らく瀬戸内海を渡られ、更に被害は拡大していただろう。
 うちの保有する10人のパイロット全員が戦死し、今の内閣も倒れていた。
 その上日本円が急落して、国内だけじゃなく世界経済にも大打撃を与えていた。
 それがたった10人の、軍人だけの犠牲者だけで収まったんだ。
 感謝こそすれ、文句をいうようなことでは絶対に無いだろうな」
「あの3人に対してはそうでしょうね」

 ふっと口元を歪めた神前は、「羨ましい」と解釈の難しい感想を口にした。

「羨ましい……か?」
「ええ、多分今頃は今日と言う日を楽しんでいるんじゃないの?
 もしかしたら、ニュースでも見て盛り上がっているかもしれないわね」

 ああと頷いた後藤は、手元にある報告書に目を落とした。重要人物なのだから、完璧な護衛が行われていた。

「全員無事自宅に帰っているな。
 対象Iは、自宅に同級生の女子を招待しているらしい」
「同級生ってことは、あの子のことか……」

 直接の面識はないが、データを通して何度も会っていた。お陰で、神前は何度も顔を合わせたような気がしていた。青春の甘酸っぱい思い出作りには、格好の相手に違いないだろう。

「どうやら、対象R一押しの相手らしいな。
 鈍感で奥手な“兄”のため、色々と世話を焼いているようだ」

 ふっと口元を歪めた後藤は、忙しそうに端末を操作した。戦闘データの提出は、戦闘終了後24時間以内と言うのが国連で規定されていた。どんなペナルティがあるのか分からない以上、真面目に提出するしかなかったのである。

「戦闘データは、しっかり取られているから問題ないのだがな。
 事前の訓練データにしても、シミュレーションを含めてしっかりと残されている。
 まあ事実を事実として記述するだけだから、速報自体は難しくないのだがな」
「どれどれ?」

 その報告書を覗きこんだ神前は、「なるほど」と後藤の言っていることを理解した。

「簡潔そのものでいいわね。
 でも、プライベートコールまで提出していいのかしら?」
「どんな会話がなされ、どんな結果が導き出されたのかと言うのは重要だからな」
「ものすごい屁理屈だけど……あらっ?」

 テキスト化された会話の中に、神前は面白いものを見つけた。それは、バイト代のことを話すマドカ達の会話だった。その中に有る要求が、とても微笑ましかったのだ。

「随分と、控えめな要求ね」
「確かに……しかし、適当な規定がないのも確かなんだよなぁ」

 世界中のどこを探しても、パイロットのアルバイト代規定などあるはずがない。傭兵ならば事前契約なのだが、3人に関してはその契約すらなかったのである。

「とは言え、お礼は必要じゃないの?」
「それは認めるが、一体いくら出したらいいものか……」

 規定がない以上、それを考えるのは後藤の仕事ということになる。プライベートな会話で出ている深夜のアルバイト代と言うのも、ひとつの案には違いないだろう。もっとも、決戦兵器で出撃するのが、コンビニの深夜バイトと同じでいいのか甚だ疑問だった。それは、本人たちの気持ちではなく、出す側としてのプライドに関わることだったのだ。

「さすがに、あの評価をコンビニのバイトと同じではだめだろう」
「自衛隊としての、プライドに関わってくるわね。
 パイロット候補たちに、お前たちの価値はコンビニのバイト以下だとは言えないわよねぇ……確かに」

 金額の多寡が仕事の持つ重要さを決めるわけではないが、さすがにコンビニのバイト以下はありえないだろう。その支払が将来にも関わってくるとなると、慎重に考える必要があった。速報版を書き上げたところで、後藤は報酬金額に頭を悩ますことになったのである。



 先に帰っているという妹の配慮のお陰で、シンジはアイリと二人で晩ご飯の買い出しにきていた。アイリにして見れば、三度目の正直と言うところだろうか。ただ意外だったのは、3回目はシンジから誘われたことだった。
 後ろからカートを押しながらついてくるシンジに、アイリは食材を入れるたびに大丈夫かと聞いてきた。

「それで、体は本当に大丈夫なの?」
「相変わらず、両手の感触が戻っていないんだけどね。
 まあ、それを除けばおかしな所は無いと思うんだけど……」

 右手をニギニギとしてみても、動いてはいるが握った感触は伝わってこない。視覚情報でしか、自分の手の状態が確認できなかった。

「でも、ジャージ部って落ち着きの無い部ね」
「何を今更……と言いたいところだけど。
 1年が入ってから、前よりも酷くなった気がするよ。
 なんで、いきなり温泉に行こうって話になるのかなぁ〜」

 その翌週が、芸プロ協力の清掃大会なのである。それを考えると、たまには暇な休みをよこせと言いたくもなる。だがシンジの発言権が極めて弱いため、4対1の多数決で押し切られてしまった。

「でも、堀北さんも一緒だから良かったんじゃないの?
 温泉だから、きっと彼女のあられもない姿を見られるわよ」
「瀬名さん、生殺しって言葉を知っているよね?
 あっ、ごめん、しいたけ嫌いなんだ」
「あっ、そう、じゃあ違うメニューにするわね。
 ピーマンは大丈夫だったっけ?」

 かごに入れたしいたけを棚に戻し、アイリは頭の中でメニューを組み替えた。これでピーマンがダメと言われたら、ハンバーグにしようかと考えた。

「特に好きってことはないけど、普通に食べているよ」
「じゃあ、ピーマンの肉詰め揚げを作るわね。
 あと、唐揚げは歯ごたえのある方がいいかしら?」
「どっちも大丈夫だから、そのあたりはお任せするよ。
 でも、さすがは料理部部長だね。
 すらすらと料理が頭に浮かんでくるんだ」

 凄いねと褒められたアイリは、トーゼンと少し偉そうにした。

「まっ、一人暮らしをしていると死活問題にもなるから。
 外食ばかりすると、すぐにお金がなくなっちゃうのよ……
 そう言えば、今朝のあれ、お金を貰わなくて本当にいいの?」
「まあ、一応ボランティア部だからね……
 困っている人がいるから助けた。
 そう言うのって、お金をもらってやることじゃないだろう?
 それに、お金をもらったりすると、あとから面倒な事にもなりかねないからね」

 バイト代と言っていたマドカとナルを、シンジは「うちはボランティア部です」と窘めたのだ。だから温泉も、伝手を使って格安の宿を探すことになってしまった。

「でも、お金を貰わなくてもあまり変わらないんじゃないの?」
「まあ、その時はその時なんだけどねぇ〜
 あっ、お金は僕が払うから」

 アイリが言うとおり、金銭の授受に関わらず、今後ギガンテスが侵攻してきた時には、頼られることになるのは間違いない。だがそれを心配していても始まらないと、あまり気にしない事にしていた。

「たくさん買ったけど、瀬名さんも帰りに持っていく?」
「そうしてもらうと助かるけど……いいの? 結構たくさん払わせたけど」
「瀬名さんのお陰で、おいしいものが食べられるからね。
 妹のやつは、成功と失敗が安定しないんだ。
 で、だいたい失敗した奴が僕のところに回ってくるんだよ」

 ふっと口元を歪めたシンジに、ああとアイリは頷いた。シンジの言葉に、思い当たるところが多かったのだ。

「レイちゃんって、かなり大雑把な性格をしているのね。
 だから部活でも、生焼けとか焼き過ぎとか大量に生産してくれるわ」
「生焼けなら、焼き直せばそれで済むんだけどね……」

 よっと、レジ袋をシンジは持ち上げた。たくさん買ったとアイリが言うとおり、大きめのレジ袋2つがいっぱいになっていた。

「あっ、私も持つから……」
「大丈夫だよ。
 おかしいのは感覚だけだからね」
「本当にいいの?」

 いつもより積極的なシンジに、こういうのもいいなとアイリは内心喜んでいた。邪魔なジャージ部がいないおかげで、ごく自然にシンジとの距離が近づいた気がしたのだ。これでシンジが制服でなければ、もっと良かったのにと考えていた。

 ちなみに、ジャージ部活動のお陰で、シンジは結構な有名人だったりする。そして休日の午後ともなれば、知った顔が出歩いていても不思議ではなかった。しかも某ファンクラブからは、要注意人物に指定されていた。そのシンジが妹以外の女子と二人、レジ袋を下げて歩いていれば、目撃されるのも当然の成り行きだろう。しかもアイリの表情を見れば、偶然居合わせただけとは誰も思わないだろう。
 もっとも、目撃者数は多かったが、誰もシンジ達に声をかけてこなかった。二人を知っている者からすれば、何を今更と言う思いがそこにはあったのだろう。クラス委員のこともあり、二人が一緒にいるのはとても自然に見えていたのだ。そして自然という意味では、シンジしか知らない生徒にも事情は同じだった。とても自然というのは、アイリを知らなくても感じられるものだった。

 そのおかげで二人だけの時間を過ごすことができたのだが、当然シンジは周りの事情に気がついていた。そのあたり自分の欠点だと思っているのだが、冷静に周りが見えすぎてしまうのだ。お陰で今朝の戦いでは、命拾いしたとも言えるのだろう。
 アイリとそう見られること自体、困ったことではないと思っていた。好意という意味なら、十分以上アイリに対して感じていたのである。そして、それ以上の下心も持っていたのだ。

 そこでシンジが行動に移したのは、少し気が大きくなっていたからに違いない。空いている手を伸ばして、アイリの手のひらを握ったのである。

「い、碇君……どうしたの?」

 いきなり手を握られたアイリは、喉から心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。だがシンジの顔を見ようと横を向いたら、悲しそうな顔をそこに見つけてしまった。

「手に感触がないのを忘れていた……
 せっかく勇気を出したのに、手を握っている感覚が全くないんだ」
「慣れないことをしようとしたから、バチが当たったんじゃないの?
 それで、どこまで感覚がないんだっけ?」

 意味が無いのならと手を離したシンジに、アイリは少し覗きこむようにして聞いてきた。少し目が泳いでいたのだが、あいにく前を向いていたためシンジは気づいていなかった。

「手首よりも、少し上ぐらいだけど……瀬名さん!?」

 二の腕あたりは、しっかり感覚が残っている。それを確認したアイリは、勇気を出してシンジの腕を胸元に抱え込んだ。同じ事をアサミにもされたのだが、相手がアイリとなると色々とリセットされる。予想外の行動に、さすがにシンジの頭にも血が上ってくれた。

「こ、こうすれば分かるかなって……」

 する方にしても、かなり恥ずかしいと感じているのは確かだった。少しシンジから顔をそむけてくれたのだが、首筋まで赤いのがはっきりと分かった。
 もっとも、こういう場面で冷静になってしまうのが今のシンジだった。そして今回もまた、上った血があっという間に引いてくれたのである。なんでかなぁと嘆きながら、もう慣れたと開き直ることにした。それにこのおかげで、ギガンテスとの戦いでは生き残ることができたのだ。それを考えれば、必ずしも悪いことばかりではない。

「できれば、もう少し強くしてくれるかな?」

 開き直りが出来れば、また違った対応をすることが出来る。せっかくアイリが勇気を振り絞ってくれたのなら、それに応えるのも男だと思っていた。それに冷静になったとしても、腕に感じる柔らかさは堪能することができる。むしろ、しっかり味わうことが出来るだけ良かったのかもしれない。

「こ、こう?」
「うん、その方が瀬名さんを感じられるんだ」

 柔らかいなぁと感動しながら、妹の待つ家への道を二人で歩いて行った。当然シンジの頭の中では、今晩送って帰るまでの行動が計画されていた。冷静になったからこそ、妄想は現実的な方向へと向かっていった。



 翌日の学校は、当たり前のように「高知の奇跡」の話題で一色になっていた。同じ市内に建設中の基地から13機のヘラクレスが出撃し、6体のギガンテス撃滅に成功したのだ。しかもサンディエゴ、カサブランカの助けも受けなかったとなれば、「日本凄い!」で盛り上がっても不思議はない。したがって月曜朝の挨拶は、「昨日の見た?」が定番になっていた。
 そしてその事情は、シンジのクラスも例外ではなかった。シンジが教室に入った時、いたるところで高知の戦いが話題になっていたのだ。そして漏れ聞こえる話を総合すると、クラスメイトの関心の方向は迎撃に成功した3人のパイロットの正体だった。

 そしてシンジが来たのを見つけて、悪友の柄澤が近づいてきた。クラスの中で散々意見交換したので、新しい意見をシンジに求めたのである。

「なあ碇、お前は一体誰だと思う?」
「柄澤、質問をするときは前振りから始めてくれないか?」

 文句を言ったシンジに対して、柄澤は「察しが悪い」と逆に文句を言ってきた。シンジの言う前振りなど、昨日からテレビで散々やってくれただろうと言うのだ。

「いまや日本中の話題は、名前の明かされていない3人のパイロットに独占されているんだぞ。
 お前もS市に住む高校生なら、話題に乗り遅れるほうがおかしいとは思わないのか?」

 非常識さをなじる級友に、「飽きた」とシンジは冷たく言い返した。

「昨日から、同じ話題が何回繰り返されたと思っているんだ?
 テレビなんか、どこをつけてもパイロットのことばかりだろう?
 さすがに一日繰り返されれば、いい加減飽きてもおかしくないだろう?」
「ほうほう、瀬名と腕を組んで歩いていたくせに、テレビを見る余裕はあったんだな?」

 やはり見られていたかと感心したシンジだったが、その割に追求がぬるいなと不思議に思った。ボランティア部に堀北アサミが入部した時など、「裏切り者」と迫ってくれた相手なのだ。それを考えれば、もっと糾弾の言葉が飛んでくると思っていた。

「なんだ、見てたんなら声をかけてくれればいいのに」
「俺は見てないよ。
 堀北アサミファンクラブのツイッターに書き込まれていたんだよ。
 碇シンジが、同じクラスの瀬名アイリと腕を組んで歩いていたとな。
 その後、お前に対する祝福と歓迎のリツィートが溢れたんだぞ」
「祝福って……それに歓迎されることなのか?」

 そんなことになっているとはつゆ知らず、妹と3人のんびりとした時間を過ごしていた。ただ知っていたからと言って、何かをするつもりもなかったのだが。
 祝福と歓迎に疑問を呈したシンジに対して、柄澤は認識の甘さを指摘してくれた。

「お前とアサミちゃんができているって噂されていたんだぞ。
 アサミちゃんが否定しないから、随分悔しい思いをした奴がいたんだ。
 だがお前が瀬名とできているんだったら、アサミちゃんはフリーという事になる。
 だから、このニュースはみんなに歓迎されたんだよ」
「あ〜、そういう事か……」

 そう言えば、以前アサミにそんなことを言われたのを思い出した。それに付き合う義理はシンジにはないのだが、悪いことをしたかなと僅かな罪悪感を抱いた。

「それで、お前は誰がパイロットだと思う?」
「誰って言われても、僕達が分かるとでも思っているのか?
 自衛隊に、知り合いなんていないぞ」
「分かった、確かに俺の聞き方が悪かったな。
 日本自衛隊が隠していたエースパイロットは、一体どんなやつだと思う?」

 それならば、確かに話についていくことが出来る。ただ、それにしたところで、意見を言うことに意味があるとは思えなかった。

「どんな奴って言われても……」

 う〜んと考えたシンジは、「防大付属高校の生徒」と言う、面白みも何も無い答えを返した。

「碇、もう少し頭を働かせたらどうだ?
 あそこから選抜されたのが、アメリカに送られて訓練を受けているんだぞ。
 その訓練データも公開されているから、違うってことぐらいみんな分かっているんだ。
 だからマスコミも躍起になって、パイロット探しをしているんじゃないか」
「そうか、テレビを消している間にそんなことになっていたんだ」

 感情のコントロールは、こういう時にも都合がいい。シンジは全く動揺した素振りも見せず、本当に他人ごとのように級友の話に相槌を打った。

「それで、テレビでは何か言っていたか?」
「何人か候補が上がっているんだが、どれも決め手に欠けるらしいんだな」
「どうして?」

 何事もないように話をしてくれるのだから、その候補の中に自分たちの名前は出ていないのだろう。だとしたら、決め手も何もないはずだった。だが級友がそう考える理由をシンジは聞いてみたかった。

「一番大きな問題は、時間が不足しすぎているということだな。
 アテナやアポロンでも難しい役目が出来るパイロットなんて、一体いつの間に養成されていたんだ?
 もしもそんなパイロットがいたんなら、もっと前から日本に基地が作られていたはずだ。
 だが日本の基地は、他と横並びで作られ、他と同様にパイロットは訓練を受けることになった。
 ヘラクレスが先日運ばれてきたことを考えても、日本にパイロットが居たとは考えにくいんだ。
 何しろ機体がなければ、シミュレーションしか訓練方法がないんだからな」
「なんだ、訓練ができるんじゃないか」

 訓練方法があるというシンジのツッコミに、柄澤は深すぎるため息を吐き、物を知らない子に哀れみの眼差しを向けてくれた。

「あのな、昔のアニメじゃあるまいし、シミュレーショなんかが役に立つと思うか?
 あれだけの時間緊張を持続し、そして冷静にギガンテスと戦い続けたんだぞ。
 シミュレーションだけのベビーフェイスがそんなことを出きるはずがないだろう!」
「でも、ヘラクレスは日本の基地にもあったんだろう?」

 それで訓練すればいいと言うシンジに、柄澤はもう一度深すぎるため息を吐いた。

「そんな付け焼刃で倒せるぐらいだったら、アテナもアポロンも苦労していないぞ。
 あんな見事なことができるのは、よほど経験を積んだパイロットだけだと分析されているんだ。
 だから、時間的問題でどの候補も除外されることになるんだ」

 シンジの悪友は、マドカ達を諌めるときに使った理由を並べ上げてくれた。それを考える限り、シンジの主張は何一つ間違っていないことになる。そのおかげで、シンジは自分の常識を確認することができた。

「つまり、パイロットの捜索は迷宮入りってこと?」
「いや、今マスコミが追いかけているのは、当日昼頃基地に入っていった高校生5人らしい。
 ただそれにしても、ギガンテス襲撃が分かる前だから、単なる偶然と言われているんだがな」
「うん、間違いなく偶然だね。
 それ、ボランティア部だからね」
「そうか……へっ?」

 目を丸くして呆けた柄澤に、シンジは「ボランティア部」と繰り返した。

「ボランティア部って、ジャージ部のことか?」
「正式名称はボランティア部なんだけどね。
 遠野先輩の知り合いから、見学コースのモニタになってほしいと頼まれたんだ。
 だから、整備中の基地内をグルっと回って帰ってきたんだよ。
 アンケートで、ヘラクレスの色が地味だと書いてきたんだけど?」

 おかしいよねと笑うシンジに、柄澤はしっかり脱力していた。

「なんで誘ってくれなかったというのは置いておくが……
 これで、改めて謎の5人組の線も否定されたいうことだな」
「まあね、女性陣全員がヘラクレスを見てビビっていたよ。
 堀北さんなんか、怖いって僕の腕を抱えていたぐらいだからな……ってなんだよ」

 急に怖い顔をされ、シンジは思わず少し後ずさっていた。

「碇、お前はもっと誠実なやつだと思っていたんだがな。
 瀬名と付き合っているのに、どうしてアサミちゃんにまで手を出すんだ?」

 どちらが積極的にちょっかいをかけているかと言えば、間違いなくアサミの方だろう。ただそれを正直に言ってもことを荒立ているだけと、シンジは少し胸を張って「頼りになる先輩だからな」と言い返した。

「同じクラブに居る先輩として、それだけ頼られているんだよ」
「かぁあっ、俺もジャージ部に入るんだった!」

 悔しがる柄澤に、シンジはジャージ部への入部を勧めることにした。

「うちは、年中部員を募集しているんだがなぁ〜
 問い合わせはたくさんあるけど、幽霊部員以外増えないんだよ。
 ちなみに、再来週の日曜は、河原でゴミ拾いするから参加するかい?
 もっとも堀北さんは、花澤君が来るから絶対に参加しないけどね」
「なんで、花澤の引き立て役にならないといけないんだよ」

 却下と即答した柄澤に、「だよね」とシンジは理解を示した。

「ゴミ拾いをとやかく言うつもりはないけど、すごく効率が悪いんだよなぁ。
 たくさん拾ったように見せるため、事前にスタッフがゴミを集めてくれるんだけどね」
「あんなものは、だいたいそんな所だろう……って、話がおもいっきりずれたな」

 「ワリイ」と柄澤が頭を掻いた時、アイリが友達と話をしながら教室に入ってきた。普段より時間が遅いのは、部室に顔を出してきたのかもしれない。
 そしてシンジの顔を見つけたアイリは、嬉しそうな顔をして「おはよう」と声をかけてきた。このあたりは、先週とは全く異なる反応だった。そんなアイリを見れば、付き合っているというのも本当だと分かってしまう。

「邪魔すると悪いから、この話は後でな」
「後でと言われても、僕には情報がないんだけどね」

 じゃあと手を振ったところで、シンジの斜め前の席にアイリが座った。

「おはよう瀬名さん、今日は少し遅かった?」
「うん、ちょっと部室に寄っていたんだけど……」
「なに?」

 口ごもったアイリに、シンジはその理由を聞いた。

「碇と付き合うことにしたのかって、みんなに追求されたわ」
「それで?」
「碇さんが肯定してくれたから……
 碇って、随分ともてていたのね?」

 少し口元を歪めたアイリに、やめてとシンジは懇願した。

「そう言われても、まったく実感が無いんだよ」
「まあ、ジャージ部の女性陣が控えていたから……」
「なに?」

 再び口ごもったアイリに、シンジはもう一度その理由を聞いた。だが顔を少し赤くしただけで、アイリはその理由を答えなかった。

「それより碇は、ジャージ部に顔を出したの?」
「出したけど、今日は誰も顔を出さなかったね。
 さすがに昨日の今日で、疲れたんじゃないのかな?」
「日曜の朝は、みんな徹夜したみたいね……」

 その当事者が目の前に居るのだが、絶対に口にしてはいけないことをアイリも理解していた。そしてそれを口にする時が、自分の恋が終わる時だと思っていた。

「それで、手の方は大丈夫なの?」
「多少良くなったかなぁってところかな?」

 にぎにぎと右手を握ったシンジは、「やっぱり多少」と繰り返し、左手の人差し指に貼った絆創膏を見せた。

「怪我したの?」
「ううん、やけどの方。
 気がついたら、ガスコンロの焼けたゴトクを触っていたんだ。
 やけど自体はほんのちょっとなんだけど、さすがに怖いと思ったよ」
「き、気をつけてね……」

 何の代償か分かっているだけに、アイリもそれぐらいしか言うことができなかった。ちょうど教師が入ってきたこともあり、その言葉も小さく聞こえてくるだけだった。



 その放課後、部室に入ったシンジは、いきなりアサミの文句に迎えられた。ある程度は予想していたことだが、アイリと腕を組んで歩いていたのを問題としてくれたのだ。臙脂色のジャージに着替えたアサミは、シンジの顔を見つけた途端、頬をふくらませて詰め寄ってくれた。

「別に、付き合うなって言っているんじゃありませんよ。
 ただ、出来れば事前に相談して欲しかっただけです。
 いきなり「碇先輩とはなんでもないんだよね!」なんて嬉しそうに聞かれて答えに困ったんですよ!」
「あー、まー、確かに堀北さんのことを忘れていたのは悪かったよ」
「そうですよ。
 私とキスした同じ日に、瀬名先輩に手を出すなんて信じられません!
 私のことは、遊びだったんですねっ!」

 ぷんぷんと膨れたアサミに、シンジは「ごめん」と謝った。ただ、遊び以前に、真剣に付き合ったこともなかったはずだ。

「それに手を出したと言われても……
 腕を組んだのは確かだけど、後はうちで食事をして家の下まで送って帰っただけだからなぁ。
 した事って言ってもその程度だし、堀北さんの考えるようなことはしていないんだけど?」
「私が考えるようなことって……なんですか?」
「少なくとも、キスぐらいは考えていたんだろう?
 残念ながら、純情な僕たちは腕を組むぐらいがせいぜいだったんだよ」

 少しあてこすられたアサミは、シンジに向かって可愛く拗ねてみせた。

「芸能界にいましたから、どうせ私はすれていますよ」
「ファーストキスを奪われたんだから、それぐらい言ってもいいだろう?」
「それって、男の人が言うことですか?」
「じゃあ、彼女のファーストキスを奪われたって言い換えようか?」
「基本的に、女の子同士はノーカンです!」

 何がきっかけかわからないが、アサミの機嫌も随分と良くなってきたようだ。それにほっとした時、部室に次の嵐が到来してくれた。

「あれっ、部室なんかに顔を出していていいの?」

 マドカとナルは、シンジの顔を見て大げさに驚いてくれた。きっと、彼女ができたから部活どころではないと言いたいのだろう。
 ちなみにこの二人は、部室に来る前からジャージ姿になっていた。

「すごく、回りくどい言い方をしてくれますね」
「でも、私達の耳に届くぐらいは話題になっていたのよ。
 まあ、今日に限って言えば、「高知の奇跡」が圧倒的だったけどね。
 もしかして碇君、今なら目立たないって考えたんじゃないの?」

 どうだと聞かれたシンジは、口元を歪めて「全く」と言い返した。

「そんな打算で動いていませんよ。
 昨日はただ、夕食の買い物を一緒にして、夜は送って帰っただけです」
「夕食と一緒に彼女を頂いたってことね!」

 きゃあとわざとらしく騒ぐ二人に、「どこのオヤジですか」とシンジは言い返した。

「堀北さんにも言いましたけど、僕たちは品行方正なカップル……なんです」
「どうしてそこで詰まったの?
 やっぱり、疚しいことをしていたんじゃないの?」

 ほれと追求されたシンジは、「カップルなのかなぁ」と小さくつぶやいた。

「したことって言えば、手をつないだことと腕を組んだことぐらいなんですよね。
 腕を組んだのにしても、手をつないでも感触がなくて分からなかったからだし……」
「アイリ〜好きだァ〜僕と付き合ってくれ!」
「私も大好きよ! 抱いてっ!」

 マドカとナルは、シンジとアイリを演じるように、大声を出してはっしと抱き合ってくれた。しかもシンジ役のマドカの手が、アイリ役のナルのお尻あたりで怪しくうごめいていた。

「そんな恥ずかしいことをするわけがないでしょう。
 それに、手に感触がないんだから、そんなことをしても意味が無いんです」
「手に感触があったらしていた、つまりはそう言いたいのね?」

 揚げ足をしっかりとったマドカに、「さあ」とシンジはしらを切った。そして話を、思いっきり別の方向へと放り投げた。

「そんなことより、昨晩後藤さんは先輩のお店に来たんですか?」
「さすがに、昨日は来られないんじゃないの?
 それから言っておくけど、今日は定休日だからね。
 ところで碇君、左手が何を触っているのか分かってる?」
「何をって言われても、感覚がないって言っているでしょう……
 堀北さん、どうして僕の手で遊ぶんだ?」
「いやぁ、いきなり浮気は良くないと思うんだぞ!」

 言われて左手を見てみたら、なぜかキョウカの胸を触っていた。アサミが手首を抑えているのを見ると、主犯はアサミに違いなかった。ただ問題は、胸を触られてもキョウカが全く騒がないことだった。

「こう言っちゃなんだが、篠山も少しは騒げよ」
「なぁに、俺は理解のある女だからな。
 堀北の悪戯だということは分かっているし、先輩が気づいていないのも分かっていたからな。
 だったら、可愛子ぶって騒ぐのもおかしいだろう?」
「そりゃ、まあ、そうなんだろうな……」

 言っていることは正論には違いなかった。だがキョウカに正論を言われると、どこか違うだろうと言いたくなる自分に気がついてしまった。せっかくシンジの理想とする清楚さに“見た目だけは”近づいてきたのだから、そこは控えめに恥ずかしがって欲しいところだった。

「そんな話はとりあえず横に避けて、今週末の温泉旅行に話をするわよ。
 それでキョウカちゃん、首尾の方はどうだった?」
「うちの別荘で良ければ、自由に使ってくれということだ。
 一番近いところで、ここから車で1時間ほどのところにあるぞ」
「普通の週末だから、それぐらいが適当かしらね」

 どうと話を振られ、「そうですね」とシンジは答えた。鷹栖フユミに脅されてはいるが、だからと言って、無理に篠山家を避けてもろくなことはない。特に部員全員の行動なのだから、篠山だけを意識しても仕方がないことだった。
 シンジの同意で温泉旅行がまとまりかけたところで、「相談がある」とキョウカが珍しく真面目な顔をして入ってきた。

「どうした、改まって?」
「なに、うちの親に部活を掛け持ちしたらと勧められたんだ。
 ボランティア部も悪くないが、もう少し女性的な事を身に付けろと言われたんだ」
「キョウカちゃん、女性的なことって?」

 興味を持って質問したマドカに、キョウカは魂胆の分り易すぎる答えを返した。

「父様が言うことには、料理を覚えろと言う事だ。
 幸い碇先輩の彼女が部長をしているから、今から入っても大丈夫だろう。
 それに、料理部には先輩の妹さんもいるしな」

 回りくどいなと全員が感心したところで、「そうだ」と何か気づいたようにキョウカは手を叩いた。

「温泉旅行に、碇先輩の彼女と妹さんを招待したらどうだろう。
 そこらの旅館よりずっと広いからな、一人や二人増えたところで何も問題はないぞ。
 温泉だって、すごぉ〜く広いのが一つあるんだ」
「キョウカちゃん、それって混浴?」
「家族風呂に、混浴も何もないと思うんだが?」

 キョウカの答えに、マドカとナルは良しと拳を握りしめた。これで、シンジをからかう方法に選択肢が一つ増えることになる。

「できれば、水着と言った配慮が欲しいんですけど……」

 駄目だろうなと諦めはあったが、一応主張しておく必要はあるのだろう。だがこの主張は、藪を突いてしまったようだ。キョウカを含む全員から、「スケベ」と言う有り難い非難をいただいてしまった。

「時間を分けて、別々に入るのに決まっているでしょう?
 それとも碇君は、私達と一緒に入りたいのかなぁ?」
「先輩達の常識を疑っただけですよ」

 だったら混浴を確認し、あまつさえそれを喜ぶな。そう強く主張したい、碇シンジ17の初夏だった。







続く

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