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 一部例外を除き、ギガンテスの被害は社会インフラに集中していた。発生した被害の大きさに比べ、人的損害はかなり押さえられていたのだ。それは迅速な対応、そして住民の避難がうまく行っていることがその理由となっていた。
 だが一方で、社会インフラの被害は、ボディブローのように世界経済へ影響を与えていた。港湾施設の被害は、大量輸送手段の停滞を招き寄せることになる。食料や原材料の輸送が滞れば、各国経済に大きなダメージが与えられるのである。

 その損害を最小限に抑えるため、国連では、定期、不定期に評価を含めた対策会議が開催されていた。今回のポートランドでの殲滅戦についても、当然のように評価が行われた。そこで報告された被害状況に、各国代表は重い沈黙を強いられることとなった。ギガンテス迎撃のためには仕方の無いことだが、被害を受けた港は5ヶ月ほど使用不能になっていたのだ。それだけ、多くの施設が破壊されてしまった。被害が周辺にまで及んだため、それだけ復旧に時間がかかることになってしまった。

 だがギガンテスの襲撃が続く以上、この程度の損害は想定の範囲でもあった。人的被害を抑えることが第一とされたため、施設の守りに対する優先順位が下がっていたのだ。ただ被害の小ささは、襲撃地点が基地から近かったという幸運も理由になっていた。
 従って、評価の場では、今後の迎撃体制整備が活発に議論された。襲撃箇所が、今回のように1箇所であれば、被害を最小限に抑える目途は付いていた。だが同時に2箇所となると、戦力配置の問題が生じる可能性があった。そして3箇所以上となれば、過去にあった「悲劇」が再現されることとなってしまう。今後大きな悲劇が発生したら、経済以外の問題も発生することになる。ギガンテスによる被害は、それだけ人の心を蝕んでいたのだ。

 危機対処能力を上げるためには、現有基地の機能強化、及び戦力配置拠点の拡充が課題となってくる。その課題に対して意見を求められたサンディエゴ基地司令、トーリ・フレデリクソンは、まず置かれた厳しい状況を説明することになった。
 百を超える代表の前で、トーリは大声を張り上げるでなく、淡々と現状の問題点を指摘した。

「運用を考えた場合、サンディエゴ基地強化は難しいかと思われます。
 その理由として、十分な能力を持ったパイロットの不足という問題が挙げられるでしょう。
 育成が困難なこと、そして有効な資質を持った者の不足がその背景にあります。
 西海岸のアテナ不在でのギガンテス殲滅は、現時点で困難であるとしか言いようがありません」

 深くしわを刻んだ顔は、齢以上に疲れを感じさせるものとなっていた。淡々と語る口調もまた、年齢を感じさせる物になっていた。基地強化の困難さを口にしたトーリは、別の問題として所在地の課題を説明した。

「サンディエゴとカサブランカの地理的近さも問題となります。
 両基地からもっとも遠い香港あたりになると、飛行時間だけでも10時間が必要となります。
 ギガンテス発見から上陸まで7ないし10時間ですから、すでに対処時間がマイナスとなっています」

 トーリの意見は、拠点拡充の根拠となるものだった。そして過去発生した「悲劇」と言われる大規模被害の理由を説明していた。
 その説明を受け取った事務総長グエン・ホーは、鋭い目つきでトーリを見て、腹案を示すようにと指示を出した。それを受けて、トーリは戦力の配置を口にした。

「時間的問題を解消するためには、戦力の配置箇所を見直す他はありません。
 しかし、サンディエゴ、カサブランカ両基地の移転は現実的ではないでしょう。
 そうなると、新たな迎撃基地の設置と言う案が浮上しますが、先に申し上げた問題が立ち塞がってきます。
 絶対的な戦力不足の状況を改善しない限り、新たな基地設置に大きな意味をもたせることはできません」

 新たな基地を作ろうが、ギガンテスを撃退できるパイロットが居ないと言うのである。それは、ギガンテス対策の常識として、広く世界で共有されている事実となっていた。
 ただこの事実に穴があることも、皆の認識していることだった。だがそれを口に出すこと、活用を提案するにはいくつかの段階を踏まなければならなかった。そしてそのための段階は、未だ全く進んでいなかったのだ。

 従って、トーリの意見は、これまで常識とされてきたことを追認することを目的としていた。そしてこれからの意見は、現在の動きを改めて説明する物となっていた。

「時間的問題を解決するためには、迎撃拠点を分散配置する必要があります。
 しかしながら、迎撃を遂行できるパイロットの確保にめどが立っていない。
 その対策として、新たに設置される基地の機能を限定するという方法があります。
 当面分散配置された基地には、時間稼ぎを主たる役目とするというものです。
 そうすることで、本体の到着までの被害を最小限に抑えることが出来るでしょう。
 将来単独迎撃が可能となった時点で、両基地と対等な扱いにすればいいのです」
「殲滅でなければ、戦いようもあると言う事か?」

 そう言って確認したグエンに、「然り」とトーリは肯定した。

「作戦目的をギガンテス進攻の遅延に絞れば、パイロットの基準を下げることが出来ます。
 幸いなことに、ヘラクレスの増産は順調に進んでいます。
 基地設置場所の問題さえなければ、比較的短期間に体制構築が可能となるでしょう」

 そしてその動きは、すでに非公式の世界では現実の物となっていた。それを公式の場に引きずり出すのが、今のトーリに求められたものだった。
 そこで小さく咳払いをしたトーリは、議場の巨大スクリーンに世界地図を投影させた。

「アイスランド、イラク、インド、中国、日本、そしてアメリカ東海岸。
 そこに遅延作戦実行に必要な戦力を配備します。
 そうすることで、ほとんどの地域を4時間でカバーすることが出来ます」
「オットー、君の意見はどうだ?」

 この確認もまた、儀礼的なものに違いなかった。グエンの呼びかけに、がっしりとした体躯の頭の禿げた男が立ち上がった。刑事コジャクを演じた往年の俳優に似た男は、カサブランカ基地司令をしているオットー・モルダウだった。

 立ち上がったオットーは、まず最初にトーリの意見を肯定した。そして肯定した上で、考えられる懸念材料を指摘した。それが、最大の課題へ言及する次の段階となっていた。

「極めて有効な対策だと理解しています。
 ただ、一つ懸念があるとすれば日本に基地を作ることでしょうか?
 対象Iの扱いが難しくなってくると思われます」
「対象Iについては、経過が良好と報告があるが?」

 グエンの確認に、オットーは小さく頷き同意を示した。

「対象K、対象Aと同様良好だという報告を受けています。
 記憶操作の影響は現時点では全く出ていないと言うのが医療部からの報告です。
 ただ対象Iについては、二人に比べて更に踏み込んだ操作を行っています。
 綻びを出さないことを考えた場合、ギガンテスに係わらせない方が良いかと思います」
「それは、人道的な見地からかね?」
「破滅の引き金は、すでに無くなっているというのが調査結果です」

 オットーの言葉には、否定も肯定も含まれていなかった。その答えの嫌らしさに閉口したグエンは、小さく鼻を鳴らしてトーリの方策を採用することを宣言した。その決定も、単に現状を追認したものに過ぎない。各国の突き上げを躱すためには、もはや一刻の猶予もなくなっていたのだ。ただその中に一つだけ意味があるとすれば、対象Iに対する決定が含まれることだろう。

「では、推薦のあった地への前線基地設置を議題とすることにしよう。
 対象Iについては、経過観察の後方針決定を行うこととする」

 為された決定は、最善ではなく妥協の産物だと言えたのかも知れない。だが世界がギガンテスの脅威に晒されている以上、少しでも有効と思われる対策を取る必要に迫られていたのだ。



 午前中の訓練が終わり、この日の午後はオフに充てられていた。部屋に戻ってパイロットスーツを脱いだアスカは、ゆったりとしたベージュの部屋着に着替えていた。スウェットに似た上下に身を包んだアスカは、手元の端末を眺めながら、午後の過ごし方を考えていた。
 デートどころか、一緒に遊び歩く相手にもアスカは不自由していた。それもあって、自分で考えない限り、オフは寝て過ごすことになりかねなかった。そう言う意味では、常々相方にからかわれるのも無理のない話となっていた。

 そんな切実な理由で、午後の過ごし方を考えていたら、まるでアスカが戻るのを見計らったようにクラリッサが顔を出した。こちらはぴっちりと白衣を着込み、まるで実験中の科学者と言った出で立ちだった。

「ニュースよニュース。
 噂のあった前線基地、国連で正式に設置が承認されたわ」
「ようやく?」

 前線基地構築の話を聞かされ、アスカはようやくかと対策の遅さを思った。これまで何度もパイロットとして出撃し、「悲劇」こそ回避したが、被害の拡大を目の当たりにしてきたのだ。その最大の原因が、地理的なところにあるのだから、打てる手はさっさと打っておくべきだと思っていたのだ。
 少しでもその被害が押さえられるのなら、決定に反対する理由など存在しなかった。そして新たな前線基地を作るにあたり、内在する問題も十分に承知していたのだ。

 その動きの遅さを指摘したアスカは、相方のルームメイト、クラリッサに設置場所を聞くことにした。今後の迎撃で、前線基地の場所は大きく作戦に関わってくることだった。

「それでクラリッサ、どこに設置されるのか聞かされているの?」
「えーっと、カサブランカからずっと北に行ったアイスランドとぉ、
 ここから東に行ったフロリダ半島の何処かとぉ、
 アラビア半島の付け根あたりのイラクと、インド洋をカバーするインドと、
 黄海あたりをカバーする中国と、人口密集地の日本らしいわね」

 指折り数えて候補地を上げたクラリッサに、「ちょっと」とそこに含まれる問題点をアスカは指摘した。

「日本なんかに作って良いの?
 あそこって、TICの中心になった場所でしょ?
 しかも関係したパイロットが残っているって聞いているわよ?」
「う〜ん、そのあたりは教えて貰ってないわぁ。
 大丈夫って見通しが付いたから、作ろうって事になったんじゃないの?
 まあ、今更役に立つのかも分からないけどねぇ」

 世界を等しく襲った大災害から、まだ3年も経っていないのだ。のほほんと答えを返すルームメイトに、アスカはそれで良いのかと聞き返したい誘惑に駆られてしまった。だがそれを質したところで、まともな答えが返ってこないのは分かっていた。お陰で微妙な表情を浮かべることになったのだが、しっかりとルームメイトはその表情を誤解してくれた。

「やっぱり、そのパイロットのことが気になるの?」
「そりゃあ、気になるっちゃぁ気になるわよ。
 本人の意志に関わりなく、あれだけの大災害を引き起こしたんでしょ?
 全世界に影響が出たってのが、どう考えても想像が付かないのよ。
 それに男なのか女なのか、年齢だって分かっていないんだもの。
 ヘラクレス乗りとしては、気にしない方がおかしいんじゃないの?」

 当たり前の反応をしたつもりだったが、相方にとってその反応は予定していないもののようだった。あからさまにがっかりした顔をしてくれた。

「なぁ〜んだ、色っぽい話じゃないんだ……」

 だからと言って、色っぽい話を期待するのはどうかと思う。あからさまにがっかりしたルームメイトに、アスカは発想自体おかしいと文句を言った。

「相手の素性が全く分からないのに、どうして色っぽい話に持って行けるの?
 あんたのその発想自体、あたしにはとうてい理解できないわよ!」
「素性が分からないからこそ、夢って物があって良いはずなのよ。
 そこまで秘密にされるパイロット、きっと素敵な人に違いないもの。
 そんな人との素敵な恋を夢見ないなんて、アスカって何処かおかしいと思うわよ」

 大げさにまくし立てるルームメイトに、アスカは思いっきり冷めた視線を向けた。どこをどう好意的に受け取っても、クラリッサの考えは常識から逸脱していた。

「クラリッサ、あんたの考えの方が絶対におかしいわよ。
 それにあんただって、科学者の端くれなんでしょう?
 どうして、そんな妄想バリバリのことが考えられるのよ!」

 そうやって常識を求めたアスカに、その考え自体間違っているとクラリッサは言い返した。

「あら、科学者こそ夢を持たないといけないのよ。
 冷静に現実を見つめる視点は必要だけど、新しい発想には必ず夢が必要なのよ。
 だから私は、科学者としても正しい行動をとっているのよ!」
「あたしは、あんたが冷静な視点ってやつを披露しているのを見たことがないんだけど?」

 疑問のこもった眼差しを向けたアスカに、ルームメイトはお腹を抱えてころころと笑ってみせた。

「きっと、そんなところを見たら私と一緒に居られなくなるわよ?
 ねえアスカ、それって嫌でしょう?
 私だって、アスカに嫌いなところを見せたくないもの」
「別に、好き好んであんたと居るわけじゃないんだけど……」

 はあっとため息ひとつ、アスカは話題を変えることにした。自称「優秀」な科学者であるルームメイトは、アスカから見たら謎だらけの存在だったのだ。上司に言われて同室にいる以上、組織がその必要性を認めていると考える事が出来る。
 冷静に分析するなら、自分という存在は世界にとって貴重なものとなっているのだ。その自分と同室させるのだから、その存在が何らかの意味を持っていてもおかしくなかった。

 だがこうして話をしていると、その重要な役割というのがどうしても見えてくれないのだ。脈絡のない突飛な話を聞かされると、本当に優秀なのかも疑わしく思えてしまう。それでも意味があるとすれば、気分転換になってくれることだろうか。

「まあ、鬱屈とした気持ちにならないだけ感謝するけどね」
「西海岸のアテナ様だから、メンタルケアも重要な役割なのよ!」
「その馬鹿っぽい……いや、馬鹿そのものの二つ名はやめてくれない?」

 心底嫌そうな顔をしたアスカに、ルームメイトは先程以上に笑い転げてくれた。よほどアスカの表情がツボにはまったのか、その状態からなかなか復帰してくれなかった。

「……そこまで笑うことかしら?」
「いやぁ、砂漠のアポロンとどっちがマシかと思ったのよ。
 でもさぁ、どっちも相当だってことに気がついたのよね」

 そう言って笑い転げるルームメイトに、アスカはそれ以上文句をいうのをやめることにした。そしてそのかわり、少しでもマシな気分になるため外出することにした。少ししかマシではないのは、緊急対応のためお供をぞろぞろ引き連れて歩く必要があるからに他ならなかった。
 立ち上がってクローゼットに向かうアスカに、クラリッサは「お出かけ?」と聞いてきた。

「あんたの相手をしているよりはマシだと思ったからよ」
「暑いから日焼けに気をつけてね。
 いい加減肌に気を使わないと、後悔することになるからね。
 若いように見えて、もうアスカも若くないんだからね」

 17になっていない少女を捕まえて、「若くない」は間違いなく言い過ぎに違いない。だが今更言い返す気力も失い、アスカは黙ってチェックのワンピースに着替えたのだった。



 前線基地設置の知らせを、砂漠のアポロンこと渚カヲルは訓練前に受け取った。ぱらぱらと集まってきた仲間に向かって、カヲルは前線基地設置の話を告げた。

「ようやく、設置にゴーが掛かったよ。
 これで、迎撃準備にも余裕が出来ることになるね」

 テーブル付きの椅子に背筋を伸ばして座り、カヲルは集まりつつある仲間達へ視線を向けた。全員がベージュ色をしたアウターを着ているのは、これからヘラクレスへの搭乗訓練が控えているからだった。
 迎撃基地の設置を歓迎したカヲルは、通達書に書かれた地名に目を止めた。地理的には、設置自体は当たり前と言えるのだが、別の問題がそこだけにあるのをカヲル達は承知していた。

「しかし、日本にも作るのだね」
「単純に地理的要素とばかりは言えない面が透けている……と言う事か?」

 カヲルの言葉に、反対側に座った少年が口を挟んできた。短めに切りそろえた黒髪が特徴の、すこし偉そうな態度とがっしりとした体躯の少年は、エリック・ゴンザレスと言うカヲルと並ぶカサブランカ基地の“ベテラン”パイロットだった。
 カヲルの示した懸念は、広くパイロットの間でも共有されていたことだった。日本という場所の特殊性は、それほど有名なことだったのだ。そしてエリックの言葉を、別の女性パイロットが肯定した。

「賭をしたくなる状況だと言うのも理解できるわよ。
 このままギガンテスの襲撃を受け続けたら、世界のロジスティクスは壊滅するもの」

 長い金髪を掻き上げながら、ライラ・オネアミスは決定に理解を示した。そしてその青い瞳を、隣に座った女性に向けた。その視線を受けて、亜麻色の髪をした女性、マリアーナ・ロドリゲスも同調する言葉を口にした。ちなみに、この4人こそが、カサブランカカルテットと言われる、主力となる4人だった。

「もっと早く、前線基地の展開を考えるべきだったのよ。
 そうすれば、もう少し離脱するパイロットを減らすことも出来たのよ。
 あと、私たちだけじゃカバーする範囲が広すぎるわ!」

 亜麻色の髪を揺らして力説するマリアーナに、カヲルは小さく頷いて同意を示した。その思慮深い褐色の瞳は、これまでいくつもの悲劇を看取ってきていた。

「確かに、今の迎撃態勢はぎりぎりだね。
 それは、西海岸のアテナの所でも同じなのだろう」
「ポートランドでは、2機甚大な被害を受けたと言う事だったな」
「8機出撃して2機が大破だったわね」
「ヘラクレスが壊れるだけならまだ良いんだけどね……」

 ふっとため息を吐いたマリアーナは、基地が抱えている深刻な問題を口にした。

「あっちも、人の遣り繰りがかなり厳しいんじゃないのかな?
 これで今年に入って、都合10人を超えているんだよね」
「まあ、うちも似たような状況だけどね……
 復帰の見込み、立っているんだっけ?」

 マリアーナの言葉を引き取り、ライラは自分達の問題を口にした。その疑問に対して、エリックは苦笑と共に首を横に振った。

「と言う訳で、パイロットの育成は継続中だよ。
 だから範囲を広げるのは良いのだけど、それだけ人材が集まるのかという問題もある。
 ハードルを下げることは、人集めには有効なのだろうが……
 時間稼ぎとは言え、それだけパイロットを危険に晒すことになるんだよ。
 それを考えると、肯定ばかりはしていられないんだけどね……」
「でもカヲル、民間人のことを考えると仕方が無いんじゃないの?
 いくら避難が間に合っても、間接的な被害は拡大しているんだから」
「そうそう、食糧供給に問題が出ているからな」

 マリアーナとエリック、二人に畳みかけられたカヲルは、ふっとため息を吐き肩をすくめた。

「それでも、気分が乗らないことはあるんだよ」
「そーゆーときは、マディソン相手にハッスルしてきたら?」

 ライラから向けられた程度の低いからかいの言葉に、カヲルははっきりとため息を返した。

「どうしてハッスルをする相手がマディソンなんだい?
 それにライラ、君は僕に何を求めているのかな?」
「カヲルに求めていること?」

 少し目を瞬かせてから、ライラは「特に」と口元を歪めた。

「でも、常識的なことを言うのなら、良好なメンタルコントロールね。
 カサブランカ基地の大黒柱なんだから、カヲルの好不調が私たちの命に関わってくるのよ。
 敢えて贅沢を言わせて貰うのなら、私たちのメンタルケアもお願いしたいわね。
 なぁんか息が詰まってくるから、適度な娯楽って言うのが必要だと思うのよ」
「期待されていることの中身は肯定できるね。
 ただ教えて貰いたいのは、なぜ僕にメンタルケアを求めるのかな?
 僕の理解が間違っていなければ、僕達はパイロットという立場で対等なはずだと思うよ?」

 敢えて正論を返したカヲルに、他の3人は小さく肩をすくめて見せた。

「カヲル、真面目な話、お互いの立場を正確に理解した方が良いわよ。
 あなたは、世界でただ二人、単独でギガンテスを殲滅する能力を持ったパイロットなの。
 チームで何とかという私たちとは、根本的に立場が違っているのよ。
 対等で有ろうという気持ちは有り難いけど、現状認識は正しくして欲しいの」

 その言葉に反論しようとしたカヲルを、ちょっと待てとばかりにライラは手で制した。

「カヲルがそう言うのを嫌いなのは分かっているし、今のカヲルを私たちは好きよ。
 だからもっと偉ぶれとか、リーダーとして行動しろとかは、作戦行動中以外は求めないわ。
 その意味では、カヲルはちゃんとリーダーの努めを果たしていると思うしね」
「俺たちが生き残っているのが、その証拠と言えば証拠だな」
「そうね、作戦に関してカヲルはうまくやっているわよ!」

 3人からの評価は、カヲルを高く評価する物だった。おだてられている気もするが、悪い気がしないのも確かだった。

「僕への評価は、感謝して受け取らせて貰うよ。
 ただ話を戻らせて貰うと、君たちのメンタルケアは僕の役割ではないと思うのだけど。
 言わせて貰うのなら、僕もメンタルケアを受けるべき対象なんだよ」

 話を元に引き戻したカヲルに、3人はもう一度小さく肩をすくめて見せた。そして3人を代表して、エリックがカヲルの認識を訂正することになった。

「こう言った馬鹿話もメンタルケアの一つだと思い知ることだ。
 そして馬鹿話の一番のネタが、砂漠のアポロン様の女性関係なんだよ。
 引く手あまただって基地内じゃ評判だぞ」

 それでとカヲルの女性関係を追求したエリックに、女性二人も身を乗り出した。エースの下半身問題というのは、やはり興味が尽きないのだ。
 そんな3人の態度に苦笑を浮かべ、カヲルはさっぱりだと両手を広げて見せた。

「僕の立場が、そう言ったことを難しくしているんだよ。
 真っ最中に緊急呼び出しがかかりでもしたら、どんな事故が起きることになるやら。
 せいぜい楽しくお茶を飲む程度が限界なんだよ。
 それにしたところで、医者と患者じゃ楽しむことも出来ないね」
「医者と患者?」

 なに? と首を傾げた3人に、カヲルは最初に名前の出たマディソン・ブリッジを上げた。

「どう言う目的かまでは分からないけど、僕は細心の注意の元、管理を受けていると言う事だよ。
 マディソンはうまくやっているつもりだろうけど、そのあたりがあからさまなんだよ。
 まあ彼女にしても、何人かいる観察者の一人でしかないのだろうけどね」
「お、俺たちは違うぞっ!」

 何人かいると言うところに反応したエリックに、分かっているとカヲルは笑みを浮かべた。

「君たちのことを言っている訳じゃ無いよ。
 それに僕達は、自分の身は自分で守る義務があるからね。
 その懸念となる事があれば、上申することは権利とも言えるんだよ。
 そのことまで、僕は否定するつもりはないんだよ。
 それに、立場上僕も君たちのことを観察しているんだからね」

 そのあたりはお互い様ということになる。雰囲気を和らげるように笑ったカヲルは、だからこそ深刻なのだと自分から話を引き戻した。

「僕ももうすぐ18になるからね。
 素敵な彼女を作りたいと考えるのも不思議なことではないだろう?
 それが出来ないと言うのは、なかなかストレスの溜まることなんだよ」
「でも、西海岸のアテナも似たような事情なんでしょう?」
「彼女は彼女、僕は僕なんだけどね……
 たぶん彼女の方が、条件が厳しくなるのだろうねぇ」

 同情的な態度を示したカヲルに、3人は「同じだろう」と突っ込みを返した。世界で二人の大黒柱は、厳しく時間を管理されていたのだ。

「そのあたりは否定しないけどね。
 とにかく、前線基地が出来るのであれば、それが落ち着くまで忙しいのは変わらないだろうね。
 独立基地の位置づけにならない限り、かなりの部分僕達が関わる事になりそうだよ」
「うまく回ってくれることを願うわね」

 真剣なマリアーナの言葉に、カヲルも「全くだ」と頷いたのだった。



 パイロット達の立場なら、新しい前線基地が出来るのは歓迎できることだった。前線基地が出来れば、間違いなく自分達の負担が軽くなるからである。そして負担が軽くなれば、その分生き延びる可能性が高くなってくれるのだ。
 そして前線基地を作る方にしても、被害低減という切実な問題を解決することが出来る。いくら機動性を上げたとしても、世界全域を2箇所の基地でカバーするには限界があったのだ。そして迎撃が少しでも遅れれば、それだけギガンテスに陸地内部までの進攻を許すことになり、被害が拡大することになる。従って、国連の決定は各国で歓迎されることになったのである。ただの前線基地でも、効果は十分に望めたのだ。

 そしてその事情は、日本も変わることはなかった。人口が密集しているため、僅かな迎撃の遅れが甚大な被害を引き起こすことになるし、そうでなくとも施設被害は他に比べて大きくなっていたのだ。そして日本には、他国と違った事情も存在していた。

「それで、S市郊外に前線基地を作ることはクリアになったと考えて良いのだな?」

 国連の決定を受けて行われた閣議で、内閣総理大臣鏑木トモノリは関係閣僚に首尾を問うた。日本人男性の標準から見ても小柄な鏑木だが、眼光の鋭さが小さな体躯を大きく見せていた。齢60を超える、日本の政治を見守ってきた重鎮の一人でもあった。
 前線基地設置は、周到な根回しの結果国連承認を得るところまでこぎ着けた。特に日本には特殊事情があったため、各国の抵抗はかなり厳しかったのだ。
 だが、ここまで来れば、後は国内問題となる。こちらもまた、周到な下準備が行われていた。

 鏑木の問いかけに、自分がと四角い顔をした男が手を挙げた。その男こそ、前線基地に責任を持つ、防衛大臣榛名ユキタカである。

「郊外に開発を進めている工業団地ですが、いつでも転用が可能となっています。
 すでに必要なインフラは整備は完了していますので、3ヶ月もあれば稼働が可能でしょう。
 ヘラクレスの整備施設についても、暫定施設であれば同時期に稼働可能です」

 簡単な榛名の報告の後、次にと環境大臣赤城ミチコが手を挙げた。ポスターでは、柔和な笑みを見せる赤城だが、会議の場では地の意地の悪さが顔に出ていた。

「環境アセスメントも完了していますので、手続き上の問題はありません。
 環境保護団体対策については、各NPOに根回しを済ませてあります。
 ただ、それでも管理しきれない団体は残っていますが……」
「主要な野党への根回しも終わっています。
 国土保全の意味で、臨時国会の承認作業もすぐに行われるでしょう」

 赤城の言葉に被るように、骸骨のような男が発言した。その男こそ、鏑木を補佐する官房長官白石ヒロシである。白石の言葉に、鏑木はしっかりと頷いた。そして榛名に、重要事項の進捗を確認した。

「入れ物が順調なのは分かった。
 だが運用の方はどうなっている?
 特に重要な、パイロットの選出はどうなんだ?」
「運用の方ですが……」

 榛名は手元の資料に目を落とし、その中から答えとなる事項を拾い上げた。

「すでに、基地運営に必要な人員のピックアップは終わっています。
 国会承認を得られればすぐに、異動の発令が行われます。
 また外部協力についても、主だったところのネゴは完了しています。
 マスコミにも、歓迎ムードを盛り上げるよう整合は取れています」

 そこで小さく咳払いをして、榛名は最重要課題の報告を続けた。

「パイロットについては、少年隊から10名程度候補が選抜出来ています。
 こちらについては、サンディエゴに送り込んで育成を行う計画となっています」
「それで、対象Iの扱いはどうするつもりだ?」
「そのあたりは、慎重な対応が必要かと。
 我が国の切り札であるのは間違いないので、今後取込の方向を検討することになります」
「具体的には?」

 うんと頷いた鏑木に、榛名は不明だと恐縮した。

「策はあるらしいのですが……」
「それは、君が管理すべきことでは無いのかな?」

 じろりと目を向いた鏑木に、榛名はハンカチで汗を拭きながら「流動的なのだ」と言い訳をした。

「非常に微妙な問題のため、慎重にも慎重に事を運んでいると報告を受けています。
 そのため、本人に直接コンタクトはしない方向としか……
 なにやら、周囲の人間関係を利用して巻き込むらしいのですが……」
「方法として、確かに本人に直接コンタクトするのはまずかろう。
 だがそんなにうまく周囲の人間関係を利用できるのか?」

 対象Iへの処置を考えると、疑問を感じさせるようなコンタクトをするわけにはいかない。将来のオプションとしてなら、処置の解除もその一つとなってくるだろう。だが国連を含め、そこまでの覚悟は出来ていないのが実情だった。

「受けている報告では、早い時期に決断が下されて良かったとのことです。
 なにやら、現在所属している部活を利用するらしいのですが……
 残念ながら、それ以上の詳細は報告されておりません。
 ただ、対象Iに施された処置に影響を与えないことだけは確認しております」
「当然だっ!
 今、弱みを見せるわけにはいかないからな」

 フンと鼻息を荒くした鏑木は、「良かろう」と低い声で答えた。

「では本日の閣議はこれで終了することにします。
 基地設置についての議事は、記録から削除されます」

 官房長官の言葉で、その日の閣議は終了することとなった。そしてこの閣議決定をもって、対ギガンテス前線基地設置が推進されることとなったのである。



 「さて」、そう小さく呟いてから、特務一佐後藤タカシは、無精髭の伸びたあごをさすった。そして集まった部下達に向かって、作戦の開始を告げたのである。

「すでに承知のことと思うが、無事閣議決定が行われた。
 我々は、3ヶ月と言う短い時間で前線基地を立ち上げる事になる。
 まあ、インフラの方は施設庁の九鬼が張り切っているので大丈夫だろう。
 と言うことで、我々はソフトウエアの整備に重点を置くことになるな」

 そこまで話したところで、後藤は隣に座る女性へと視線を向けた。むさっくるしいと言うか、無精というか、身だしなみを全く気にしていない後藤とは対照的に、その女性は化粧を含めて一分の隙も見あたらない出で立ちをしていた。ただおかっぱの髪型は、なるほど自衛官だと思わせる物だった。
 そして後藤から話を受け取った女性、神前アリスは、立ち上がって全員を見渡した。

「堅城一尉と桜庭二尉には、直ちに候補者10名とともにサンディエゴに飛んで貰います。
 そこで先乗りしている桂木三佐、深山二佐と合流し、
 パイロットの育成と運営ノウハウの入手を行ってください。
 高畠一尉と杣木二尉は、ヘラクレス配備の手配に取りかかってください」
「まあ、かねてからの段取り通りと言う事だ」

 ぴんと張った神前の声に対し、どうしても後藤の言葉は何処か緩んでいるように聞こえてしまう。だが神前は、割り込まれたことを気にせず、「時間が勝負です!」と短く告げた。

「前線基地設置が認められた以上、ギガンテス襲撃に間に合わなければ責任を問われます。
 余計な雑音を減らすためにも、一秒でも早い任務遂行を期待します!」

 以上と言う神前の言葉に、集まった者たちは素早く立ち上がった。それを見る限り、緩んでいるのは後藤だけのようだった。そして全員は、後藤の2倍ほどの速度で敬礼し、一斉に会議室を出て行った。

「しかし、これは監察官殿の仕事ではないと思うんだけどねぇ」

 全員が退出したところで、後藤は少し不満げに神前に苦情を言った。確かに監察官という立場は、実務運営の監査が主であって、指示を出す役目ではないはずである。
 だが後藤の苦情は、今更のことのようだった。ショートに切りそろえた黒髪を揺らして振り返った神前は、「何を今更」と言う蔑んだ視線を向けてきた。

「だったら、視線で話を振らないで貰いたいものね」
「まあ、それが当然だと思われているところもあるからなぁ。
 誰も不思議に思っていないようだし……」

 それは単なる話のきっかけでしかなかったのだろう。まあ良いと引き下がった後藤は、マル秘と大きく赤で書かれた書類を神前に差し出した。

「あら、紙なの?
 セキュリティ意識が薄いわね」
「協力者が機械音痴でね」

 そう嘯いた後藤は、「対象Iだ」と話を切り出した。それを聞いた神前は、今まで以上に厳しい視線を後藤に向けた。

「記憶操作は解除しない前提だったわね」
「今のところ、そこまで冒険するほど追い込まれていないという判断なのだろうな。
 だから精神状態に気を遣いつつ、現状で活用するという方針が示されている」

 小さく頷いた神前は、そこに含まれている意図を口にした。

「それでも、高い適性が期待される……と言うところね」
「AとKを見る限り、かなり高い可能性があると言う見立てだ。
 そして記憶操作の確実性は、AとKで確認されている。
 ヘラクレス搭乗は、記憶操作に対して悪影響を与えないと言う事らしい……」
「んっ?」

 そこで反応した神前に、後藤は少し言い訳がましく言葉を続けた。

「いや、なに、本当に影響ないのかなと思っただけなんだが」
「あれだけ綿密に観察されているのに、見落としがあるのではないかと言うの?
 日常生活を含めてチェックが入っているのよ。
 当然搭乗中の振る舞い、言動もチェックされているわ。
 それを考えると、観察者の目をかいくぐるのは不可能だと思うわよ」
「まあ、AとKはそうなのだろうが……」

 そのあたりの不安は、かなり曖昧な感覚が理由となっているのだろう。普段とは違った意味で曖昧な言葉に、神前は「怖いの?」とその意味を推測した。

「怖いというのは……確かにその気持ちを否定できないんだがな。
 それにしても、TICの供物という意味とは違うんだ……
 なんかそうだな、もっと感覚的な、もっと大きな問題を含んでいるような。
 ただそれを説明するための明確なビジョン、それがないんだ」
「驚いたわ、あなたがそんなに怖がりだったなんて。
 ただ厄介なのは、あなたの勘って結構当たるのよね」

 ふっとため息を吐いた神前は、二人に突きつけられた現実、すなわち命令を持ち出した。

「可能な限り、対象Iを不自然に見えない方法で取り込むのが私たちの使命よ。
 それがうまく行けば、日本はアテナやアポロンに頼らなくてもギガンテスを迎撃できる。
 それが、あらゆる圧力団体からの抗議に悲鳴を上げた政府の方針でしょう?」
「まあ、ギガンテスの被害がバカにならないからな……
 圧力団体の皆さんは、正当な要求をしていると思っているだろう」
「それを否定することは、世界中の誰もできないと思うわよ。
 誘導されているところはあるけど、世論の方向も明確な対策を打ち出せですからね。
 だから今回の決定は、広く支持を集めることでしょうね」

 少し口元を歪めた神前を真似たように、後藤も口元をにやけさせた。

「重要な情報が隠されたままでか……」
「TIC自体の発生理由を考えると、再発の可能性は限りなくゼロに近いと言う分析があるからでしょう?
 しかもTICからは、何事もなかったと言うのには語弊はあっても、ちゃんと復帰しているでしょう」
「まあ、本人もどうしてTICが起きたのかは理解していないようだからな。
 別に居た首謀者は、全て世界から消滅しているのも確認されている……」
「対象Rの管理さえ間違えなければ、可能性はゼロだと考えられているわね」

 これまで散々繰り返されたことを再度確認した結果に、後藤はぼさぼさの髪をバリバリと掻いた。

「まあ、ここで俺たちが何を言っても上の方針は覆らないだろう。
 アメリカに送り込む奴らでは、時間稼ぎが出来るかどうかも疑わしいからな」
「ランク落ち……しか軍関係には残っていないか……」
「と言うことで、一石二鳥か三鳥を狙っているのだが」

 少し遠い目をした後藤に、神前は少し口元を歪めて「今更罪悪感?」と揶揄した。

「いたいけな少年少女を巻き込むのが怖くなった?」
「俺に限って……と否定したいところだが。
 実際神前の言う通り、いささか罪悪感などと言う珍しい物を感じている。
 いや、なに、裏表のないとっても良い子なんだよなぁ〜」
「顔も可愛いし?」
「素直な性格が顔に出ているよ。
 それを利用しようとしてる自分が、どうにも汚れて見えてしまってな」

 自嘲した後藤に、神前は冷たく「で?」と考えを質した。

「今更、情に絆されたなんて言わないわよね?」
「それこそ今更なんだよなぁ……
 ここで善人ぶっても、何も問題が解決しないのも事実だからな」
「それが分かっているのなら、さっさと行動することね」

 そう言ってお尻を叩いた神前に、分かっているさと後藤は別の紙を差し出した。

「あら、マスコミ用?」
「人材募集を広く行うことをリークという形で広める。
 正式に育成するパイロットの、あくまで予備役という形を取ることにするんだ」
「対象は高校生以上。
 学校は退学しなくても済む……か。
 でもさぁ、ヘラクレスのパイロットをアルバイトにして良いの?」
「だから、予備役という名目があるんだよ。
 こうやってリーク記事を流して、世間の反応を確認する。
 そして性格がまっすぐで、困った人を捨てておけない女子高生を騙すんだよ」

 少し嫌そうに、そしてそれ以上に楽しそうに口にした後藤に、神前は一番大切なことを確認した。性格がまっすぐで義侠心に溢れる女子高生を騙すのは理解したが、それが対象I確保にどう繋がって来るのか。その繋がりを説明して貰っていないのだ。

「それで、どうやって対象Iを引き込むの?」
「そのあたりは、『将を射んとせばまず馬を射よ』と言う諺に従うんだよ」
「つまり、その健気な女子高生が『馬』ってことなのね」

 「そう言うこと」そう言って後藤は、会議室の固い椅子から立ち上がった。そしてコートハンガーに掛けられた、趣味の良いとはとても思えないジャケットに手を掛けた。

「そのためには、良好な人間関係って奴を構築しておく必要がある。
 その点で、その女子高生が一般家庭でなかったのは幸いだったな」
「堅気じゃないって?」
「いや、家が客商売をしているんだよ。
 ちょっとしゃれた言い方をするなら、カフェって所かな?
 良い娘だから、ちゃんと家業の手伝いもしているんだよ。
 ちなみに、すでにマスターとは飲み友達の関係を構築済みだ」

 とても自衛隊員とは思えないジャケットを見て、神前は「似合っていない」と素直な感想を口にした。

「それは価値観の相違という奴だな。
 ま、こちらの方がコアだと言うのは理解しているが……
 これも、キャラクターづくりの一つだと思ってくれ」

 じゃあと手を振って出て行こうとした後藤は、何かを思い出したように扉の前で立ち止まった。

「ちなみにこの仕掛けだが、監察官殿にも出番は用意してあるんだな」
「あなたのことだから、きっとろくでもないことでしょうね」
「なぁに、監察官殿には普段通り振る舞って貰うんだよ」

 そう言い残して、後藤は振り返りもせずに出て行った。その素早さは、まるで神前の追求から逃れようと言う様子に見えた。

「本当に、ろくでもないことをさせようとしているわね」

 見た目以上に食えない男、それがこれまで付き合ってきた後藤への評価だった。



***



 地域一番の有名校とは言え、シンジの通うS高に芸能関係者が入学してくるのは極めて稀なことだった。偏差値の高さは乗り越えられても、出席日数に厳しいのが致命的なのだ。アイドル家業を続けていては、どう考えても出席日数が足りなくなってしまう。
 だがこの年に限って、なぜか売れっ子アイドルと、元アイドルが入学してきた。“元”が付く方に関しては、学業を理由に引退したのだから、異例というのは可哀相なのかも知れない。そう言う意味で、異例と言うのは売れっ子アイドルの方だろう。学校との間で、何らかの密約があった。売れっ子の入学に関しては、そんな話がまことしやかに囁かれたぐらいである。

 いずれにしても、目立つ二人が入学したのだから、学校全体がざわつくのも仕方の無いことだった。そしてシンジの居る2年も、当然その例外ではあり得なかった。そしてシンジに限って言えば、本人に責任の無い……とばかりは言い切ればないが、おそらく責任の無いと思われる理由で級友の男女に詰め寄られていた。特に女子からは、連日入部相談を受けていたのである。
 そしてこの日も、別のクラスの女子生徒に捕まっていた。

「ねえ碇君、今からでもボランティア部に入部できるかしら?」

 それまで誰にも見向きをされなかった“ボランティア部”が、突然人気クラブに格上げされたのだ。マドカ達の地道な努力のお陰……と言うことは全く無く、全ては今年の新入部員が理由となっていた。

 今をときめく売れっ子アイドル様〜薄桜隊の一人花澤キラ〜は、あろうことかテレビのインタビューで「ボランティア活動をします!」と宣言してくれたのである。しかも自身の出演する番組で、ボランティア部入部を宣言してくれた。それに合わせて、部活の先輩との対談まで放送されたのだ。そうなれば、当然ファンの女の子達が黙っているわけがない。
 最初のインタビューでは、「ボランティア部なんてあったっけ」と誰もがシンジにとって可哀相なことを考えていた。だが「ヒ・ダ・マ・リ」の放送で、それがジャージ部であることが判明したのである。そのお陰で、テレビにも出た“部長代行”のシンジの元に入部希望が殺到したと言うことだ。

 そしてこの日も、同じ理由でシンジは入部の問い合わせを受けたのである。シンジにしてみれば、耳にたこができるほど聞かされた言葉でもあった。
 それを朝から晩まで続けられたシンジは、あまり大きな声で宣伝してはいけない答を彼女たちに返すことにした。ちなみに頭の中では、「こう言う時だけは正式名称で呼んでくれるのだな」と言う不満が渦巻いていたりしたのは内緒だ。ちなみに呼び方の違いで、質問者の意図を知ることも出来た。

「入部は歓迎するけど、花澤君はユーレー部員だよ。
 何しろ、入部初日のオリエンテーションにも顔を出さなかったからね。
 と言うか、今まで一度しか会ったことがないんだよ」
「でも、テレビじゃ違うことを言っていなかった?」

 その素直な反応に、シンジは思わず苦笑を浮かべた。こうして純粋なファンは、テレビに騙され続けるのだなと。その犠牲者の数の多さは、テレビは健在だと思わせるものだった。
 テレビでの発言との矛盾を突かれ、シンジはまず最初に言い訳をすることにした。

「あれはね……」

 苦笑を浮かべたシンジは、じつはと更に内緒の話を持ち出した。ちなみに内緒とは言ったが、同じ相談をしてきた女子全員に話をしていることでもあった。

「マネージャーさんから、居ることにしてくれと頼まれているんだ。
 これも、イメージ戦略の一つらしいんだけどね。
 そのお陰で、こんなことをしてたっけと言いたくなる活動方針を説明したよ。
 まあ、既成概念に囚われないボランティア活動ってのは……当たらずとも遠からずだけどね」

 それでと、シンジは質問してきた女生徒に入部の可否を聞き返した。長い茶髪をお下げにした、そこそこ可愛い女の子なのである。入部してくれれば、彼女の居ないシンジとしては万々歳でもあった。

「それで、入部の方はどうするのかな?
 最初に言ったけど、入部自体は歓迎するよ」
「う〜ん、幽霊部員じゃ、入部しても意味が無いわね……」

 予想通りの答えに、シンジはもう一つ用意してあった説明をすることにした。このあたりは、話が違うと言う抗議を避けるための予防策だった。

「ちなみに、マネージャーさんからはたまにボランティア部を利用すると言われているよ。
 週刊誌とかテレビ番組で、花澤君がボランティア活動している絵が欲しいらしいんだ。
 近々、第一回目の“ボランティア”活動が行われる予定になっているよ。
 当然そこには、花澤君も顔を出すからね。
 と言う事で、名前だけ部員も受け入れることにしているんだよ」
「それって、幽霊部員も歓迎するってこと?」
「有り体に言えばそう言う事だね」

 そこで見えないように微苦笑したのは、自分が学校の片棒を担ぐことへの自嘲が含まれていた。ボランティア活動に大勢の生徒が関わっていることがマスコミに載れば、それだけ学校の宣伝になると校長から言われていたのだ。そのための飴として、ボランティア部への部費増額が示されていた。
 幽霊部員と言う誘いに、その女子生徒は迷うことなく飛びついてきた。余計な義務を負わず、しかもテレビにでる機会まで貰える。それを考えれば、登録しない理由はどこにも無かったのだ。

「じゃあ、名前だけ登録させて貰おうかしら?」
「じゃあ、Webでメルアドを登録してくれるかな?
 大きな行事がある時には、メルマガで連絡を入れるからね」
「ボランティア部のアドレスって……」
「それだったら、学校のHPにリンクがあるから。
 一応活動予定らしき物もあるけど、あれはあまりあてにしない方が良いよ」

 それを部長代行が口にするのもどうかと思うが、受け取った方もそのことに関して関心は薄いようだった。ありがとうと嬉しそうにお礼を言って、軽やかな足取りで帰っていった。
 それを張り付いたような笑みで見送った時、背中の方から「碇」と少しきつめの声が聞こえてきた。その声に反応したのか、シンジの浮かべた笑みが普通のものに切り替わった。

 振り返った先には、少し厳しい顔をしたクラス委員の相方が立っていた。長い黒髪を、いくつか纏めて更にもう一度纏めたという複雑な髪型をした、美人という意味ではなかなかの少女がそこに居た。ちなみに、その髪型は、「結構面倒」と言うのが本人の申告だった。

「ああ、瀬名さん待たせてごめんね」
「これぐらいは別に構わないけど、でもいいの?」
「良いのって言われてもね……」

 何のことを言われているのか分かるだけに、シンジは思わず苦笑を返していた。

「幽霊部員のことを気にしても仕方が無いと思うんだ。
 たまに河川敷の清掃みたいな難易度の低い奴をやるから、
 それぐらいなら彼女たちでも大丈夫だと思うからね。
 それに、あんまりハードな奴だと花澤君じゃ無理だろう?」

 真面目に心配する瀬名アイリに、シンジはありがとうと笑顔で答えた。そんなシンジから顔を背けたアイリは、「だったらいい」とクラス委員の仕事に取りかかることにした。誰の計らいか知らないが、今年のクラス委員もアイリとシンジの二人が指名されていた。まあ、押しつけやすい相手に厄介事を押しつけたと言うのが正しい解釈だろう。
 少し遅れてアイリの前に座ったシンジは、山となった書類に手を置いた。

「しかし、前から思っているんだけど、はっきり言って雑用係だよね、これ」
「ジャージ部にはお似合いじゃないの?
 違うか、総務部にお似合いの仕事だったわね」

 真面目な顔をして言うアイリに、「どっちでも同じだろう」とシンジは苦笑を返した。ちなみに「総務部」と言うのは、ジャージ部と並ぶボランティア部の別称だったりした。

「だから先輩二人も、“積極的”にクラス委員をしているそうだよ。
 まあ、あの二人は頼まれたら断れない性格をしているからね」
「そのあたりは、碇君も似たような物じゃないの?
 でも碇君良かったわね、毎日女の子が押し寄せてくれて」

 はっきりと分かる皮肉に、シンジは少し顔を引きつらせて「レイ?」とネタの出元を指摘した。

「妹に、何か吹き込まれたのかな?」
「彼女が出来ないとか贅沢なことをぼやいていると聞かされたわね」
「レイの奴、瀬名さんに何を吹き込んでいるんだ……」

 いったいどう言う意図で、天敵にそんなことを教えるのか。帰ったら説教しようとシンジは妹の顔を思い出していた。
 そんなシンジに、色々と教えてくれるとアイリは言った。その時のアイリが苦笑を浮かべていたのは、よほど面白いことを聞かされたのかも知れない。

「例えば、碇君の部屋にあるグラビア雑誌の種類とかもね」

 そう言って蔑んだ眼差しを向けられると、レイの教えたグラビア雑誌の種類も分かろうという物だ。しかも、小声で「不潔」と言われれば、シンジの予想は外れていないだろう。

「レイのやつ、そうやって兄貴の評判を落として何がしたいんだろう」
「有ることを否定しないのね」

 寂しい子を見る目をしたアイリに、「柄澤の」と共通のクラスメイトの名前を挙げた。

「うちに遊びに来ては、後で返してくれよと置いていくんだよ。
 預かり物だから捨てられないし、学校に持ってくるわけにもいかないし……
 ヒデミちゃんの手前、家においておけないらしくてね。
 だから、僕の部屋に避難させているようなんだ……僕にも妹がいるんだけどなぁ」
「でも、碇君も見ているんでしょう?」

 アイリの目は、人のせいにするなと言っている様だった。だがシンジにしてみれば、それこそ濡れ衣だと言いたいことだった。

「持ってくる度に、こんな凄いのが手に入ったと見せつけられているよ。
 部屋に置いておくと邪魔だから、使ってない部屋のクローゼットに置いてあるんだけど。
 何の嫌がらせか、気がつくと机の上にタイトルが見えるように置いてあるよ。
 しかも、一番際どいのを選んでおいてくれているよ。
 最近の流行は、堀北さんの写真集かな?」

 ほうっとため息を吐いたシンジは、「帰ろうか」とアイリに声を掛けた。話をしながらも手を止めなかったお陰で、今日の仕事は無事完了していた。所詮書類が山積みと言っても、クラス委員がやることは大した物ではなかった。
 帰ろうというシンジの言葉に、アイリも「そうね」と答えた。そして深い意味も無く、窓の外の赤く染まった空へと視線を向けた。

 少し鋭さのあるアイリの顔なのだが、夕焼けの赤が憂いと言うエッセンスをそこに加えていた。その絶妙なバランスに、シンジは一枚の絵を見ている気持ちにさせられた。そのせいとでも言えばいいのか、シンジには珍しく女子生徒の顔を見つめるという真似をしてしまった。そのあたりは、苦手意識が逆方向に働いたのかも知れない。

 だがそんな映画のような時間は、ほんの僅かしか与えられなかった。まあアイリにしても、ただ外の様子を見ただけだったのだ。そんなアイリからすれば、まさかシンジに見つめられているとは夢にも思わなかっただろう。そのお陰で、とても冷静では居られない精神状態となったのだが、なぜか口を突いて出たのはとても冷たい言葉だった。

「私の顔に何か付いてる?」

 少し不機嫌さを滲ませた言葉に、シンジは現実の世界へと引き戻された。そしてすぐに、アイリを見つめていたという事実に気づき、こちらも少し冷静さを失うという状況に追い込まれた。ただそこから先の反応については、性格の違いが出たのかも知れない。

「ああ、綺麗だなって思ったんだよ」

 その言葉に嘘はなかったが、この場で言うのはかなり問題の大きな言葉に違いなかった。そのあたりに気付かないのが、シンジが冷静さを少し失っていた証拠だった。
 そして配慮に欠けた、否、覚悟無しで発せられた言葉は、当然のように受け取る相手に効果的な打撃を与えた。明らかに動揺を表に出し、アイリは素直でない言葉で応じた。

「ど、どうせ、夕焼けがって言うんでしょう!」

 予想外の言葉に、更にアイリの頭に血が上っていた。そしてそれに反比例するように、シンジは冷静さを取り戻していた。お陰で自分の言葉の意味に気付いたのだが、それも後の祭りという物だった。吐き出した言葉を、今更飲み込むことは物理的に不可能だった。
 とっさに答えを考えたのだが、どう答えても問題となることに行き着いてしまった。だからシンジは、仕方が無いと諦め、そして出来るだけ意識していない態度を装って「瀬名さんのことだよ」と答えた。そしてこれ以上引っ張らないように、鞄を持って立ち上がった。言い方は悪いが、言い逃げを決め込むつもりだった。

「僕は帰るけど、瀬名さんは?」
「わ、私も帰るわよっ!」

 アイリの動揺度合いは、立ち上がった拍子に椅子を倒したことから図り知ることが出来るだろう。その後の手際の悪さも、普段の姿からは想像できないものだった。それでも何とか追いかけてきたアイリに、比較的素っ気なく「鍵を返してくる」とシンジは告げた。

「そ、そうね、私は部室に顔を出してくるから」

 シンジの言葉に、多少上っていた血は降りてきたようだ。それでも十分に普通じゃないように、シンジには見えていた。ただその理由については、「怒らせたな」と言う、正解からは180度ずれた物だった。

「じゃあさようなら」
「そ、そうね、さよなら」

 そこで振り返っていれば、きっと何かが変わっていたのかも知れない。ただ「彼女が欲しい」と妹に言うくせに、立てまくったフラグを回収しないのは鈍感さのなせる技なのだろうか。そしてその最大の被害者は、今後ろで赤い顔をしてシンジの後ろ姿を見つめている少女に違いなかった。もしも立てられたフラグが目に見えたなら、アイリの姿はハリネズミに見えたことだろう。



 ジャージ姿で湿布を貼る兄に、レイは心からのため息を、いささかわざとらしく吐いて見せた。ずっと兄妹をしているお陰で、兄の性格など知り尽くしている。傷つくことを恐れるあまり、鈍感さに磨きを掛けた兄は、人の目を気にするくせにその意味を理解しようとしていない。その最大の被害者が身近に居ることもあり、そろそろ妹として解決を図らなくてはと考えていたのだ。

「兄さん、とっても充実しているようね」

 皮肉をたっぷり込めた言葉も、普段と変わらぬ言い方……もともと普段から抑揚に欠けていた……ため、皮肉自体はあまり伝わっていないようだった。それでも何とか聞こえたのか、嵌めていたヘッドホンを外して「なに?」と視線を向けてきた。ちなみに彼女の兄は、湿布を貼りながら、楽譜を眺めるという器用な真似をしていた。

「充実した高校生活を送っているわね……と言ったの」
「充実ね……仕方ないだろう。
 部の方針で、頼まれたことは可能な限り応えることになっているんだから」
「それで、サッカー部と弦楽部?」

 筋肉痛はサッカー部の助っ人に行ったのが理由だし、読んでいる楽譜は、弦楽部の定期演奏会のヘルプだというのは分かっていた。そして他の部を含め、準部員として重宝がられているのも知っていた。きっとヘッドホンでは、楽譜の確認をしていたのだろう。

「サッカー部は、試合前の紅白戦要員だね。
 久しぶりだからちょっと不安だったけど、まあ何とか出来たみたいだよ。
 それから弦楽部だけど、チェロを出来る人がいなくてね……」

 ふ〜んと曖昧な相づちを打ったレイは、「充実しているわね」と皮肉を繰り返した。

「それだけ充実しているから、女の子の相手をする気も起きないんでしょうね」
「そんなことはないよ!
 でも、できない物は仕方が無いだろう。
 告白しようにも、なんか壁を作られているし……誰も告白してくれないし……」

 最後の方で声が小さくなったのは、さすがに情けないと感じたのだろう。少しいじけて見えるのは、そんなことを言わせるなと言う文句からだろうか。
 だが言わせた方にしてみれば、呆れるしかない物言いだった。兄の非常識な答えに呆れたレイは、本当に深すぎるため息を返したのである。特に身近に居る被害者のことを考えると、今の言われ様は可哀相としか言いようが無かった。もっとも被害者が一方的に被害者かと言うと、そこにも問題があるのを彼女は知っていた。

 そんな妹の態度を誤解したシンジは、取り繕うように今日の夕食のことを持ち出した。

「そ、そう言えば、レイは調理部に入って良かったんじゃないのかな?
 今日のビーフシチュー、今までになくおいしかったよ」
「あれ、ほとんど私が作ってないんだけど……」

 きっと作った本人が聞いたら、狂喜乱舞する……と言うより、顔を真っ赤にして沈没してくれるだろう。レイは、いかにも気が乗らないというポーズをしていた先輩を思い出した。ちなみにこの先輩は、教えて欲しいとお願いをしたら、他の部員を放置してつきっきりになってくれた。そして指導だけのはずが、最後は一人でシチューを仕上げてくれたほどだ。当然他の部員達は、彼女の行動を生暖かく見守ったのである。

「あれっ、違うの?」
「瀬名先輩に指導をお願いしたのよ。
 そしたら、嬉しそうに作ってくれたわ」

 ポーズの裏にある真実を口にしたのは、多少なりとも援護射撃をしようと考えたからに他ならない。綺麗だし面倒見も良いし、しっかりしているし、朴念仁というか、色々問題の多い兄にはもったいないと思っているぐらいだ。人望にしても、間違いなく兄よりあると思っていた。後は、素直にさえなれれば、きっとうまく行くのにと人ごとながら考えていた。

「そうか、2年で部長になるぐらいだから、やっぱり料理が好きなんだね」

 やっぱりそう理解するか。予想通りの反応に、レイは作戦を考える事にした。そのあたり、兄の将来を不安に感じたというのが一番の理由だった。しかもジャージ部が、騒動の中心になろうとしているのだ。その騒動に巻き込まれれば、ますます兄が縁遠くなると恐れたのである。
 ちなみに今年のジャージ部には、花澤キラだけでなく、もう一人の元アイドル、堀北アサミも入部していた。しかも堀北アサミは、花澤と違って幽霊部員ではなかったのだ。クラスで隣に座るアサミと良く話をするのだが、その中にはいささか兄には可哀相なことも含まれていた。「虫除け」と言う立場は、本命とはほど遠いところにあるものだった。



 授業のコマ数が足りないと言うことで、シンジの通っている高校では土曜も登校日となっていた。その代償とも言うのか、休みの日を数えると、普通の高校よりかなり多くなっていた。しかも土曜日は午前中のみの授業となっているため、有意義な放課後が過ごせるという特典(?)となっていたのである。

 その土曜の朝、少し早めに学校に着いたシンジは朝一で部室に向かうことにした。前日持ち帰った部の備品、サッカー用の膝当てを返しておくためである。何故ボランティア部にそんな物があるのか疑問なのだが、各種運動部で必要となる道具が揃っていたりしたのだ。
 誰か来ているのかと職員室で確認したら、2本とも鍵が残っていた。そのうちの一本を借りたシンジは、その足でジャージ部の部室へと向かった。

「最近サボっていたのかなぁ、まだ筋肉痛がとれないや」

 部室の前にたどり着いたところで、シンジはボランティア部らしからぬことを呟いた。サッカー部のヘルプをした時の名残が、ほのかに太ももに残っていた。
 それを「やだな」と呟き、シンジは持ってきた鍵で部室の扉を開いた。そして中を確認しないで、そのまま部室へと入っていった。そのお陰というのか、シンジにしては珍しい失態、ラッキースケベの事象に遭遇することになった。何かというと、着替えをしている女子生徒と遭遇することになったのである。

 シンジの記憶が確かなら……と言うほど知らない相手ではないのだが、上着を脱いで目を丸くしているのは、新入部員の堀北アサミだった。視線の先で、アサミは上半身は高価そうなブラ一つ、下は制服のスカートだけと言う姿をしていた。制服を脱いだばかりなのか、肩口までの黒髪は、少しだけ乱れていた。
 極めつけのラッキースケベ、ある意味、お宝中のお宝にシンジは遭遇したことになる。勝手に出来た蔵書の写真集でも、下着姿は一枚もなかったはずだ。しかも体温まで伝わってきそうな近い距離というのは、本来なら正気を失ってもおかしくない状況だった。もっとも、ここでトチ狂わないのがシンジのシンジたる所以だった。

 一方被害者はと言うと、普通なら悲鳴の一つもあるところだろう。ただこちらも普通とはほど遠いところにいて、すぐに冷静さを取り戻してくれた。そのあたり、さすがは元芸能人と言う所だろうか。素早く上着で胸元を隠したアサミは、まだ事情を理解できていないシンジに向かって、「後ろを向いてください」と冷静な声で命令した。普段よりトーンが下がっているのは、それだけ怒りがこみ上げていると考える事が出来た。
 その答えで金縛りを解かれたシンジは、言われた通りに回れ右をし、そのまま入ってきたドアから出ようとした。だがそんなシンジを、「逃がしませんよ」とアサミは呼び止めた。

「ちゃんと事情を説明して貰いますからね」
「あ、ああっ、そうだね……僕も説明したいと思っていた所なんだ」

 失敗したとシンジが焦っていると、背中の方からチャックを上げる音が聞こえてきた。そしてそれから少し遅れて、「もう良いですよ」と言う少し冷たい声が聞こえてきた。

「碇先輩は、こんなことをしない人だと思っていました。
 先輩、何か申し開きをすることはありますか?」

 相当怒っているのだろう。普段は愛らしさの目立つ顔つきが、今はとても鋭い物になっていた。そのせいもあり、今のアサミは年相応に見えない美しさがあった。さすがは元トップアイドル、こんな状況でなければシンジも見とれていたかも知れなかった。
 もっとも、シンジの方も開き直りが完了していた。いたずら好きな妹のお陰で、今更下着姿ぐらいでうろたえることは無かったのである。そして、自分自身何一つとして疚しいところはないと思っていた。

「申し開きかぁ……
 僕から言わせれば、不幸な事故でしかないんだけど」
「人の裸を覗いておいて、不幸な事故で済ませるつもりですか?」

 さらに声が低くなったところを見ると、シンジの言い分はかなり神経を逆撫でしたのだろう。睨んでいた目元も、ますますつり上がってきた様に見えた。だが、「覗く」と言うのは、シンジにしてみれば間違い無く言いがかりだった。

「僕だって、健全な高校2年の男だからね。
 女の子の裸に興味はあるし、綺麗な子の裸を見たいと言う欲求はあるよ。
 でも同時に、ちゃんと道徳心も持っているつもりだよ。
 だから普段鍵の開いている部室に入る時は、ちゃんとノックしてから入っているんだ。
 今日は鍵が掛かっていたから、誰も居ないと思ってそのまま入って来たんだよ。
 それに覗くんだったら、普通はばれないようにすると思うよ」
「鍵が掛かっていた?」

 更に目を細くしたアサミは、あり得ないとシンジの言葉を否定した。

「私は、鍵なんか掛けていませんよ」
「僕も嘘なんか吐いていない。
 職員室に鍵が2本有ったのを確認して部室に来ているんだ。
 昨日施錠して帰ったのも僕なんだからね。
 だから鍵が持ち出されていなければ、部室には誰も居ないはずなんだ」
「でも、部室は空いていました!」
「僕は、鍵を開けてここに入ったんだよ」

 自分の持ってきた鍵を示したシンジは、食って掛かってきそうな勢いのアサミを手で制した。

「堀北さんの下着姿を見たことは素直に謝るよ。
 でも、これが不幸な事故だったことは理解して欲しいんだ」
「あくまで“事故”と言い張るんですか!」

 軽蔑した眼差しのアサミに、シンジははっきり「その通り」と肯定した。

「正副の鍵が職員室にある以上、部室は誰も使っていないことになる。
 だから僕は、誰も居ないはずの部室に普段通り入って来たんだ。
 そこに堀北さんが居たのは、はっきり言って想定外なんだよ」
「そんなはずはありません。
 私は、鍵が開いていたから部室に入れたんです!
 私がここに居ることが、その証拠になるはずです!」
「つまり、堀北さんは自分で鍵を開けた訳じゃ無いんだ……」

 ほうっとため息を吐き出したシンジは、「恐ろしいタイミングだ」と小さな声で呟いた。静かな部室なのだから、当然その声はアサミの耳にも届いていた。

「何が、“恐ろしいタイミング”なんですか?
 私が着替えをしているところに、“見計らったように”先輩が入ってくる事ですか?」
「いやっ、堀北さんが、偶然部室に入ったことだよ。
 堀北さん、7時45分から50分の間に部室に入ったでしょう?」
「ええ、そうですけど、それが何か?」

 かなりピンポイントの指摘に、少し反発するようにアサミは言い返した。

「その時間帯だとね、このあたりの部室は開いていることがあるんだよ。
 用務の先生が、マスターキーを使って各教室の見回りをしていくんだ。
 だからその時間に部室を使う時は、開いていても注意が必要なんだよ。
 この部室、鍵無しでは中からでも鍵の開閉ができないようになっているからね。
 だから堀北さんが鍵を掛けていないというのも当たり前なんだよ。
 ふだん使う鍵は、正副とも両方職員室に有ったんだからね。
 気をつけないと、教室に閉じ込められてしまうんだ。
 3階にあるから、窓から外に出るわけにも行かないんだよ。
 だから、間違って閉じ込められた時用に、内線電話がそこにあるんだけど……」
「私が、ちょうどそのタイミングで入ってきたと言いたいんですね……」
「事実を突き合わせるとそう言う事になるね」

 シンジの答えを聞いたアサミは、少し脱力しながら「はあっと」ため息を吐いた。それまで彼女を包んでいた“怒り”も、ため息に吹き飛ばされていた。

「どうして、そんな冷静に答えられるんですか?
 レイちゃんは、先輩は女に飢えているって言っているのに……
 私の下着姿を見ても動揺していないようだし、襲っても来ないし……
 もしかして、実は先輩って男にしか興味がないとか言いませんよね?」
「なんで、男に興味を持たなくちゃいけないんだよ……」

 謂われのない決めつけというか、とんでもないことを言われて、シンジは少し過剰に反応していた。だがアサミにして見れば、自分に関心を示さないことを許せないようだった。

「だって先輩、私の下着姿、ほとんど見ていなかったでしょう?
 見られるのも癪ですけど、見ようともされないのはもっと癪に障るんですよ!」
「碇君、アサミちゃんの勇気を無にしちゃいけないと思うよ!」

 ここが部室である以上、マドカ達が来るのは不思議なことではなかった。ただシンジとしては、もう少しだけ遅く来て貰いたいところだった。これで先輩二人に、有るはずの無かった弱みを作られてしまう。しかも、話が一段とややこしくなるから厄介だった。
 ため息混じりに振り返った先には、いつも通りのジャージ姿をした、マドカとナルの二人が立っていた。

「そうね碇君、せっかくアサミちゃんが体を張って誘惑したんでしょう?
 だったら、期待通り狼になってあげなくちゃねっ!」
「なにが”ねっ”ですか……」

 ふっとため息をついたところで、もう一人の新入部員が参戦してきた。日本人のくせに髪を金色に染め、有るはずのタイも無く、スカート丈を地面に擦りそうなほど長くした女子生徒だった。風紀委員や教師から、目を付けられて然るべき格好をしていた。ただセットになる顔の化粧は、入部翌日からしなくなっていた。

「えらそーなことを言ってたけど、やっぱり先輩もケダモノじゃないか!」

 ちなみにこの女子生徒、見た目はヤンキーなのだが、実家は日本でも有数の資産家ということだった。入部するとき、お嬢様を期待したシンジがいきなり見た目を注意したという実績がある。ちなみに名前は、篠山キョウカと言う。ちなみにいくつか違反している校則に関しては、家の威光で学校を黙らせていた。
 ケダモノという決めつけに、シンジはためらわず反撃に移った。

「篠山、お前眼科に行ったほうがいいんじゃないのか?
 これをどう見たら……いや待て、眼科じゃなくて脳神経外科かな。
 1足す1が幾つになるのか分かるか?」
「1足す1が幾つかになるかだって?
 1と1の条件を言ってくれないと、答えが1なのか2なのか3なのかわからないだろう!」

 自信満々に、そして設問に対して文句を言うキョウカに、シンジはこれでもかと言うほどのため息を浴びせた。そしてシンジにしては珍しく、思いっきりかわいそうな子を見る目でキョウカのことを見た。

「篠山……よくうちの入試を通ったなぁ」
「うちの親父と校長は知り合いだからな!」
「無試験ってやつか……」
「失礼な!
 答案に名前ぐらいは書いたぞ!」

 自慢げに胸……ちなみに、発育だけはジャージ部の中で一番いい……を反らしたキョウカに、シンジは「もういい」と追求を諦めることにした。新入部員として受け入れてから、まともに会話が成り立った試しがなかったのだ。もう少し正確に言うなら、会話自体は成り立っているのだろう。ただ意味として通じるかは全く別物だったのだ。

「そもそも先輩は、部室に何をしにきたのですか?」

 変人揃いのジャージ部の中で、アサミは数少ないまともな方に違いない。話を思いっきり元に引き戻して来たのは、今のカオス状態に耐えられなかったからだろう。さもなければ、唯一の男性の関心が逸れたことが気に入らなかったのか。

「昨日使ったレガースを戻しに来たんだよ。
 しばらくサッカー部に顔を出さないから、ここにおいておこうと思ったんだ」
「あれっ明日の試合には出ないの?」

 素っ頓狂な声を出したマドカに、シンジはせめてもの抵抗と冷たい視線を向けた。

「正式な部員がいるのに、どうしてボランティア部が試合に出るんですか?」
「いやぁ、碇くんが居たほうがサッカー部が強いって聞いたんだけどなぁ」

 あっけらかんと頭を掻いたマドカに、シンジは抵抗を諦めることにした。そして唯一まともそうなアサミに向かって、「まだ手遅れじゃない」と諭すようにいった。

「僕としては、別な部を探すことを勧めるよ」

 真剣なシンジの忠告に、さしものアサミも苦笑を返すしかなかった。何しろ入部以来、シンジの言うことに心当たりが多すぎたのである。だがそんな会話に、キョウカがおもいっきり変化球を投げ込んできた。

「あれぇ、先輩って、もしかして俺狙い?」
「だから篠山、どうしてそういう事になるんだ?」

 こちら側の後輩と話すと、違った意味で頭が痛くなってくる。ちなみに本気で落としたのなら、左うちわの生活が待っている。そのあたり、日本有数の資産家令嬢、しかも一人娘というのは伊達ではない。

「だって、アサミを追い出したら、俺と二人きりになるじゃないか!
 それって、俺を狙っているってことだろう?
 やっぱ先輩も男ってことか、俺の体が目当てなんだな」

 やだなぁと爽やかに笑うキョウカに、それだけは絶対にないとシンジはすぐさま否定した。ちなみに、本人申告通り、体“だけ”ならキョウカはアサミを超えていた。

「僕は、まともな堀北さんが道を踏み誤らないようにと考えただけだよ。
 別に篠山がどうなったって、というかお前の場合、今更手遅れだろう?」
「いやぁ、ほめられると照れるなあ」

 本気で照れた様子を見せるキョウカに、シンジは「徒労」と言う言葉の意味をこれ以上なく理解した。いわゆる「逆玉」の、しかもとびっきりのが目の前にあるのだが、全く食指が動いてくれないのだ。もちろん、この後輩を正しい道に導こうなどという正義感も全く芽生えていなかった。

 しかも余計なアクシデントのお陰で、時間ばかりが無駄に過ぎてしまった。時計を見ると、そろそろもう一人のクラス委員が角を生やし始めそうな時間になっていた。

「僕は目的を達したからいいけど、みんなは部室に何をしにきたんですか?」
「部室に来るのに、理由が必要だっけ?」

 あっけらかんと答えるマドカに、そう来るかとシンジは苦笑を返した。確かにマドカの言うとおり、今までも意味もなく先輩二人は部室に居ることが多かった。そしてその行動が、新年度になったからといって変わるはずもなかった。
 ただ、意味もなくというのは、この場合多少正確さを欠いたのかもしれない。やることがないときには部室に来て、助っ人の依頼が来るのを待っていたのだ。まあ、“助っ人”と言う考え方は、どう見ても“ボランティア部”とはかけ離れているのだが。

「つまり、暇だったということですね?」
「有り体に言えば、そういう事ね。
 で、キョウカちゃんは?」
「俺は、部活に励めと親に頼まれたからな」

 少なくとも、心がけだけは一番まともなのかもしれない。そこでえっへんと胸を張ったキョウカは、何かを思い出したようにシンジに聞いてきた。

「そう言えば先輩、先輩はうちの親と顔見知りなのか?」
「また、脈絡のない話を……」

 話が落ち着かないのは、頭の回転が早いからではないだろう。間違いなく、思いついたことを何も考えずに話しているからだ。そもそも一般庶民が、国内有数の資産家とお知り合いと言うはずがない。もしもそんな偶然があるのなら、キョウカのことも前から知っていなければおかしいはずだ。
 そしてそんな偶然に縁のないシンジは、キョウカの疑問に対して否定の答えを返した。

「篠山のご両親とは会ったこともないよ」
「じゃあ、なんで先輩を家に連れてきたらどうかなんて言うんだ?」

 真剣に「おかしいなぁ」と首をかしげるキョウカに、自分のことがどう伝わっているのか聞くことにした。それ次第で、この疑問への答えになる可能性がある。

「お前、僕のことを家でなんて言っているんだ?」
「性格と成績がいいのを鼻にかけて、俺に小言を言ううるさい先輩がいるって」

 少しはオブラートに包んで物を言え。そう言いたいのを我慢して、シンジはまず最初に言葉の中に含まれていた間違いを訂正することにした。

「僕が、いつそんなことを鼻にかけた?」
「だって先輩、いつも俺のことを頭の弱いかわいそうな子扱いするじゃないか!」

 「かわいそうな子扱い」と口にしたキョウカに、その場に居た全員が自覚はあるのだなと感心した。

「それから、性格がいい人間はそれを鼻にかけたりはしないだろう?」
「そう言われればそうだな。
 多少成績と見た目がいいのを鼻にかけて、俺に色々と小言を言う先輩……だったかな?」

 そこで少し考えて、「まあそんな所だ」とキョウカは大きな声で笑った。つまり笑ってごまかした。
 そのキョウカの話を聞いたシンジ以外の3人は、キョウカの親の魂胆が見えた気がした。キョウカの両親は、娘の先行きを非常に心配しているに違いない。そして娘の将来を考えた時、有望そうな男は早めに唾を付けておこうと考えたのだろう。校長と知り合いということは、当然生徒の情報も聞いているはずなのだ。

 もっとも、シンジの方には目の前の逆玉に引っかかる気はさらさら無かった。当然面倒を背負い込む考えなど持っていなかった。

「それで、僕を連れてこいと言われてなんと答えているんだ?」
「俺にも、相手を選ぶ権利があると言ってやった!」

 つまり、連れていく意味を理解しているということになる。そして理解した上で、シンジのことを否定したということだ。キョウカの偉そうな態度が少し癪に障りはしたが、面倒を抱え込むより遙かにマシだと考えなおした。

「お互いの意見が一致してよかったな。
 僕も、足を踏み入れる先は慎重に選びたいと思っているよ」
「おおっ、珍しく先輩と意見が一致したな。
 ひょっとして、俺達って結構相性が良いんじゃないのか!」

 うんうんと頷いたキョウカに、それだけは絶対にないとシンジはすぐさま否定した。そして更に時間が経過していることに気づき、部室を出ることにした。これぐらいなら、まだ天敵に生えた角の長さは許容範囲のはずだった。

「じゃあ、クラス委員の仕事があるから先に出ますよ。
 遠野先輩、施錠をお願いします」
「そうね、私たちはもう少しここにいるわ」

 その時先輩二人の口元が歪んだのが気になったが、どうせ考えても無駄と深く追求しないことにした。ただ予想外だったのは、アサミも一緒に行くと付いてきたことだった。

「碇君、アサミちゃんをちゃんと送り届けなさいよ。
 くれぐれも、うちの大事な箱入り娘が狼の毒牙にかからないようにしてね!」
「はいはい、承りましたよ」

 少し投げやりに答えたシンジは、アサミに向かって「行こうか」と声をかけた。この1年間で、からかわれた時にまともに反応してはいけないと学習したのである。

 少し小走りに追いかけてきたアサミからは、すでに鋭さは消え失せていた。そして鋭さに代わり、愛らしい笑みを浮かべてシンジの横に並んでくれた。こうなると、美人と言うより可愛いといった方が正しかった。

「別に、無理して一緒に来なくても良かったんじゃないか?」
「いえ、この方が碇先輩を利用できますから」
「利用ねぇ……」

 物騒な言われように顔をしかめたシンジに、アサミは嬉しそうに「利用です」と繰り返した。

「先輩と一緒にいると、うるさい男の子が寄ってこないんですよ。
 いろんな面倒から逃げられるから、結構ありがたかったりするんです」
「つまり、虫よけに利用されているってことか……
 でも、僕程度で堀北さんの虫よけになるのかなぁ?」

 彼女いない歴イコール年齢と言うシンジにしてみれば、元トップアイドルの虫よけには力不足すぎると考えていた。当然「用心棒」とか「ボディーガード」とかにもなれるとは思っていなかったし、なるつもりも毛頭なかった。結局帰り道のボディーガードも、一週間も経たずに問題は解消されたのだ。
 だが自分を否定するシンジに対して、アサミは「十分以上です」と積極的な肯定をした。

「ジャージ部の碇シンジは、3年生にも一目置かれている存在だって聞いていますよ」
「便利に使われている記憶はあるけど、一目置かれているということは無いと思うんだけど……」
「でも、実際に虫よけには役立っていますよ。
 お陰で、誰と付き合っているのかとか、好きな人は居るのかって聞かれませんからね」

 つまりシンジは、元トップアイドルのお相手として全校生徒に認識されているということになる。その事実がない、正確に言うのなら恩恵を受けていないことに、とりあえずアサミに対して文句をいうことにした。

「お陰で、ますますガールフレンドができなくなるじゃないか」
「さっき私の下着姿を見たことでチャラにしてください。
 それとも、先輩に着替えを覗かれたって騒ぎましょうか?」
「それって、たんなる痴話げんかにしかとられないよ」

 期待とは違う反応に、アサミはつまらないと唇を尖らせた。

「言ってることは間違っていませんけど、もう少しノリの良さがあっても良いと思いませんか。
 篠山さん相手だとノリが良いのに、どうして私相手だと醒めているんですか。
 やっぱり、先輩って篠山さんとの相性が良いとか……逆玉、狙ってます?」
「それだけは、綺麗さっぱり無いって否定できるよ!
 誓っても良いが、篠山相手に疚しい気持ちなど1mgも抱いたことはない!」
「そこまで否定するのもどうかと思いますけどね……」

 呆れたとばかりにため息を吐いたアサミは、「いかがな物か」とシンジの態度を問題とした。

「先輩、篠山さんにももう少し気を遣ってあげた方が良いですよ。
 彼女、あれで結構先輩に言われた事を気にしていますからね。
 今日の話でも、結構傷ついていると思いますよ」
「そ、そうなのかなぁ……」

 気にしていなかったこともあり、結構アサミの指摘はショックだったりした。異性として好き嫌いという問題と、相手を傷つけるというのは全く別だった。

「彼女、あれで結構素直な性格をしているんですよ。
 たまに、褒めてあげたりしたら、先輩好みに変わっていくんじゃありませんか?
 先輩、篠山さんに深窓の令嬢を期待していたんでしょう?」
「ま、まあ、期待していなかったと言えば嘘になるかな?」

 そこまで見透かされていたのかと思うと、少し怖いとシンジは感じていた。だがそんなことにはお構いなく、アサミは楽しそうに話を続けた。そんなアサミの態度は、周りを誤解させるのには十分な物だった。

「髪のこととか服装のこととか、さりげなく誘導してあげると良いと思いますよ」
「そんなことをしたら、何か深みにはまってしまいそうで怖いんだけど?」

 今日の話を聞いていても、篠山キョウカの両親が何か企んでいるのは間違いないのだ。逆玉は言い過ぎだとしても、厄介なお願い事をされる可能性は十分にあった。

「篠山さんのご両親が、手ぐすねを引いて待っているでしょうね。
 良かったですね、願ってもない逆玉に乗れますよ!」
「だから、1mgもそんな気持ちを持ったことはないんだって!」

 そのあたりの誤解は解消しておく必要がある。切実なものを感じたシンジだったが、残念ながら彼に与えられた時間はあまりなかった。どれだけ校内が広くても、歩いていればいつかは目的地へと到着するのだ。下着姿を見られたことのお返しをしたアサミは、言い返そうとしたシンジの先手を取って「ありがとうございます」とお礼を言った。

「続きは、放課後の部活でですね」
「平和な部活であることを願うよ」

 それがどれだけ贅沢な願いなのか、「ジャージ部」に籍を置いているくせに、まだまだ自覚の足りない碇シンジ16歳だった。



 シンジの自宅は、S高から歩いて20分ほどの住宅地に位置していた。大通りから奥に入っているため、窓を開けてもほとんど車の騒音は聞こえてこない。道路が南側についているため、日当たりの良さも十分良く、近隣の申し合わせによって、生垣も低く作られていた。ただ、それでは無用心だと、アルミの格子でできた塀も生垣の中にあった。物件としては、かなり上質だと言って良いだろう。
 少し広めの庭には、一面に芝生が植えられていた。綺麗に刈り揃えられているのは、手入れをするシンジが几帳面なのだろうか。花壇に花が植えられているのも、兄妹どちらの趣味かはよく分からなかった。

 その庭の奥に、鉄筋2階建てのおしゃれな建物が建っていた。どこかの展示場のような作りの、広いバルコニーを持った建物は、兄妹二人には広すぎる家だった。6LDKと言う大きさは、両親が2世帯住宅を考えたのだと、シンジは誰かに教えてもらった記憶がある。それを考えると、記憶に残っていない両親は、そこそこ裕福だったのだろう。
 それだけ広いのだから、来客への備えは万全と言いたいところだった。だがいくら備えがあるからと言って、想定外の来客への対処には困ってしまうものだ。特に色々と作戦を練っていたのだから、押しかけてきた「ジャージ部」の面々はレイにとって計算外でしかなかったのだ。
 賑やかなキッチンから背を向け、レイはソファに座ったまま呆然としていた。目の前のテーブルに有るのは、口実用に用意したエプロン。ただその口実は、すでに有名無実のものとなっていた。だからレイは、呆然としたまま今の理不尽さを嘆いていた。

「……どうしてこうなるの?」

 当初の計画は、親切な料理部部長を家に連れ込むことだった。その為の口実が、「兄がカレー好きだから教えて欲しい」と言うものである。それに加え、家で作ったほうが、理解がより進むという口実を作ったのである。それこそが、レイの立てた「部長と兄をくっつけよう作戦第一弾」だったのだ。
 どんな奥手と朴念仁だって、双方が好意を抱いているのは事実なのだ。ならばうまく背中を押してやれば、水が上から下に落ちるように、必然的にくっつくだろうと考えた。「家で」と頼んだ時、料理部部長はしっかり渋ってくれたのだが、それがポーズであるのは部員全員にとって共通認識でもあったのだ。

 ある意味料理部部員まで巻き込んだ作戦だったのだが、意外なところで破綻を迎えてしまった。どう言う訳か、兄がジャージ部一同を引き連れて帰ってきたのだ。
 しかも、押しかけてきたジャージ部女性陣の持っていたものがまた問題だった。何しろ彼女たちもまた、「カレー」の材料を買い込んできてくれたのだ。その後色々と紆余曲折があり、最終的に料理部部長の指導のもと、大カレー大会が始まってしまった。

「なんで……」

 混沌を具現化したキッチンに目をやり、レイはため息とともにつぶやいた。その時のレイの格好は、部長を引き立てるため学校指定の臙脂のジャージにしていた。だが闖入者のお陰で、そちらの方に馴染んだ格好となってしまった。色々と立てた計画は、こうして見事に瓦解してくれたのである。これでは、二人きりの状況を作って、雰囲気を作るところの話ではなくなってしまった。
 レイが作戦の失敗を嘆いた時、混沌のキッチンから一人女子高生が抜け出てきた。この中では珍しく制服を着た少女は、胸に臙脂のタイを結んでいた。そして呆然とするレイに対して謝った。

「ごめんねレイちゃん、私も知らなかったのよ」

 レイに謝ったのは、クラスで隣に座っている堀北アサミだった。レイにとって、兄という共通の話題があるため、一番話をする友人でもあった。レイに謝ったアサミは、「内緒にされていた」と今日の顛末を口にした。

「午後部室に顔を出したら、もう話が決まっていたのよ。
 先輩は抵抗したみたいだけど、あの二人に先輩が敵うはずがなかったのよね。
 まさか、先輩たちが私の知らないところで話を進めていたとは思わなかったわ」
「アサミちゃんが悪いわけじゃない……と思う」

 こんな事で、アサミが嘘を言っても仕方ないのは分かっている。そうなると、今日の出来事は偶然なのだろう。さもなければ、ジャージ部部長遠野マドカに特殊な嗅覚があるのだろうか。
 もう一度ごめんと謝って、アサミはレイの隣に腰を下ろした。そしてキッチンの方へ振り返り、唯一知らない顔を話題にした。ただ知らないといっても、直接顔を合わせたことがないだけで、話だけは何度もレイから聞かされていた相手である。

「それで、あの人が噂の料理部部長さん?」
「そして兄のクラスメートにして、クラス委員の相方でもあるわ」
「ふ〜ん、けっこう綺麗な人なのね」

 てきぱきと指示を出す姿は、さすがは料理部部長というところだろう。とても様になっているし、結構綺麗だとアサミも認めていた。制服にエプロンというのは、男子高生にポイントが高いのも良く分かっていた。それでも、自分の敵ではないと心の中で思っていたのだが。

「兄には、出来過ぎた人だと思っているのだけど……」
「男女関係に関しては、奥手過ぎてうまくいっていないか」

 なるほどと納得したアサミは、生温い手だとレイの作戦を分析した。奥手と鈍感を鉢合わせにしても、結局何の進展もなく終わってしまうのが関の山なのだ。ただ自分にはその方が都合がいいので、助言はやめておくことにした。

「とりあえず、家にあげたことで一歩前進したんじゃないの?
 一度来たということで、次からこの家に上がりやすくなるでしょう?」
「そう、考えるしか無いのね……」

 ほうっとため息を吐き出したレイは、壁にかかった時計へと目をやった。飲み物のお使いに出した兄も、そろそろ帰ってくる頃だろう。それを見たアサミは、「過保護だ」とレイのことをからかった。

「見ていてくれる人に気づくことや、自分の思いを伝えることは、全部その人の持っている縁だと思うわよ。
 だからうまくいく人は、周りが何もしなくてもうまくいくし、
 うまくいかない人は、周りがいくら手を貸してもうまくいかないものなのよ。
 かえって邪魔をされたほうがうまくいくこともあるものなのよ」

 ねっとアサミがウインクをした時、リビングの扉を開けてシンジが入ってきた。それを見たアサミは、レイが動くのよりも早く「ご苦労様です!」と言ってさらさらの黒髪を揺らしてシンジの元へ駆け寄った。その時レイは、普段見たこともない笑みをアサミの顔に見ることになった。とても嬉しそうで、そして少し媚びたところの有る笑みは、少なくともクラスの男子に見せたことの無い物だった。その笑みを見せられると、もう一つの噂に信ぴょう性が出てしまう。

「今、冷たい飲み物を持ってきますからね。
 先輩は、そこでカレーが出来るのを待っていてくださいね!」

 自分の手からペットボトルの入った袋を取り上げ、アサミは軽やかに戦場へと戻っていった。それを可愛いなと見送ったところで、シンジは妹の視線に気がついた。どこか不機嫌そうに見えるのだが、シンジには全く心当たりが無かった。

「レイ、どうかしたの?」
「別に、お兄ちゃんの好みはアサミちゃんみたいな子かなと思っただけよ」

 話が飛びすぎているのだが、最近その手の飛躍にも慣れっこになっていた。だから妹の言葉に、「そうだね」とシンジはとりあえずの肯定を口にして反対側に腰を下ろした。

「ああ、普通に可愛い子だと思うよ。
 それに、彼女は常識に欠けるボランティア部女性の中では珍しい常識人だからね」
「それだけ?」

 肯定ではあったが、それはレイの期待したものとはかなり違っていた。もうちょっと反応があるかと期待したのだが、兄からはマドカ達に対するのと変わらぬ反応しか返って来なかった。元アイドル相手にデレられるのも嫌だが、気にもしていないと言うのも更に心配だった。
 だが兄を追求をする時間は、レイには与えられなかった。当たり前だが、すぐにアサミが戻ってきたのだ。

「オレンジジュースで良かったですか?」
「ありがとう、のどが渇いているから丁度良かったよ。
 ところで堀北さん、君は料理には加わらないの?」

 シンジの正面では、キッチンのカウンター越しに忙しく動きまわるアイリ達の姿が見えた。レイは除くとしても、アサミは参加するものだと思っていたのだ。
 だがシンジの疑問に、「今日の主役は篠山さん」とアサミは返した。

「篠山さんの汚名返上のために、先輩たちが計画したみたいですよ。
 だから邪魔をしないように、私は手を出さないことにしたんです」
「確かに、多少は見る目が変わった気もしないではないかな……」

 意外と言っては可哀想なのかもしれないが、結構キョウカの包丁さばきは様になっているように見えたのだ。少なくとも先輩達二人よりは、ずっと手際がいいように見えた。
 だがそれ以上に目についたのは、てきぱきと指示を出すアイリの姿だった。だから妹に、普段のアイリの様子を聞いた。

「瀬名さんって、部活でもあんな調子なのかな?」
「人数が多いから、もっと大きな声を出しているわね。
 でも、だいたい、普段からあんな調子……」
「クラス委員をしている時よりも、ずっと生き生きしているね」

 ふっとシンジが口元を歪めた時、「先輩!」とアサミが割り込んできた。測ったように割り込んできた友人に、レイは少し警戒レベルを上昇させた。

「お代わりを持ってきましょうか?」
「それぐらいだったら自分で……」

 いつまでも後輩を使い立てする訳にはいかない。自分で取りに行こうとしたシンジだったが、アサミは「ダメですよ」と言ってシンジからコップを取り上げた。

「出来上がるまで、先輩はキッチンに入っちゃダメなんです!」
「これだけ丸見えなのに、それを言うの?」

 キッチンとリビングの間は、カウンターで仕切られていた。そのおかげで、キッチンの中はかなりリビングから覗くことができた。それを考えたら、隠すことにあまり意味が無いように思えたのだ。
 だがシンジの主張に、「それでもです」とアサミは答えになっていない主張をした。

「とにかく、先輩は出来上がるまでそこで座って待っててください!
 できれば、あまり作っているところを見ないでくださいね」
「わかったよ。
 今度は、麦茶にしてくれるかな?」
「麦茶ですね!」

 分かりましたと明るく答え、アサミは冷蔵庫を開け麦茶のボトルを取り出した。そして別のコップを食器棚から出して、麦茶をそこに注いだ。一方シンジの使ったコップにオレンジジュースを入れ、「はい」と言って後ろからアイリに差し出した。

「大きな声を出して喉が渇きませんか?」
「あ、ありがとう。
 そうね、少しのどが渇いたかしら?」

 本当は別の理由のほうが大きいのだが、それを口にする訳にもいかなかった。それに喉が渇いたのは確かだから、アイリはありがたく差し出されらコップを受け取った。それを飲み干すタイミングを待って、アサミはアイリの耳元で「間接キスですね」とアイリは囁いた。

「そのコップ、たった今まで碇先輩が使っていたものなんですよ」
「あ、ばっ、貴方ねぇっ!」

 とたんにうろたえたアイリだったが、その事実を知っているのはアサミ一人だった。しかも悪戯をした犯人は、うろたえるアイリを置いてさっさとシンジの方へと戻っていってしまった。一人取り残されたアイリは、他の3人から不思議なものを見る目で見られることとなった。

「はい、先輩」
「ああ、堀北さんありがとう」

 シンジの前にコップを置き、アサミはレイの隣にチョコンと座り直した。その時になって、シンジはようやく二人の前にコップがないのに気がついた。

「二人共、飲み物はいいのかな?」
「私たちは、料理の準備ができてからだと思っています。
 それに、買い物に行っていませんから喉も乾いていませんからね」

 レイの答えを横取りする形で、アサミは少し可愛らしくシンジの質問に答えた。あっと口を開いたレイだったが、結局何も言えずにそのまま引き下がった。それをいいことに、シンジとの会話をアサミは独占した。
 シンジが麦茶を飲むのを見ていたアサミは、「ところで」と言って今日の集まりに話を向けた。

「先輩たち、本当に泊まっていくつもりなんですか?」
「荷物を見ると、どうやら本気らしいね……」

 待ち合わせ場所に現れた3人は、大きなボストンバッグを抱えていた。そしてそれが何か聞いたシンジに、マドカは笑いながら「お泊りセット」と答えたのである。曰く、今後の活動方針の相談と、近いうちに実施する計画の合宿の予行演習をシンジの家で行おうというのだ。さすがにそれはないだろうと抗議したシンジに、マドカは「部長命令」を持ちだし黙らせたのだった。

「それを認める先輩も先輩だと思いますよ……
 先輩、遠野先輩と鳴沢先輩に男だと思われていないんじゃありませんか?」
「おもちゃだと思われているんだろうね。
 まあ、僕もあの二人のことを女だと思っていないけど」
「でも、遠野先輩たち、男子に人気があるんですよ」

 そのポジションは、憧れのお姉さまというところだろうか。確かに、“見た目”だけを持ち出せば、二人はそれなりの美少女に違いなかったのだ。その事実だけなら、シンジも否定するつもりはなかった。しかも活発で人付き合いも良いとなれば、人気が出るのも当然なのだろう。
 もっともシンジにしてみれば、二人は外見以外は“男”と言うところに落ち着いていた。

「きっと、みんなは見た目に騙されているんだよ。
 あの二人、男……と言うより、親父って言ったほうがいいかな?
 さっぱりとしているところは魅力といえば魅力なんだろうけど……
 面倒をかけられる身からすれば、勘弁して欲しいというところだね」

 ふっと笑ったシンジは、「考えなおすなら今のうち」とアサミに言った。そのこと自体、今朝の繰り返しになっていた。

「篠山さんは、もう手遅れ……と言うか、類は友を呼ぶ状態だからね。
 でも堀北さんは、まだ染まっていないから手遅れじゃないと思うよ」
「でも、先輩はボランティア部を辞めないんですよね?」
「変なしがらみをたくさん作っちゃったからねぇ」

 そのしがらみとは、ジャージ部の活動として応援に行った各部との関係だった。今更なかったことにしたなら、いくつかの部で悲鳴が上がることだろう。そしてシンジ自身、今の状況に居心地の良さを感じていたのだ。そのあたり、女の子と一緒にいるということを考えなくてもいいというところにあった。

「それに、気楽でいいってところもあるからね」
「そんな所に安住しているから、彼女ができないんですよ」

 直球ど真ん中、痛いところをぐさりと突いたアサミに、シンジはおもいっきり引きつった笑みを返した。そしてアサミの隣では、妹のレイがうんうんと深く頷いていた。その気もないのに高い壁をおいておくから、周りがおじけづいてしまっているのだ。
 そんな二人の反応に文句を言おうとしたところで、キッチンから「完成!」と言うアイリの声が聞こえてきた。時計を見ると、時間は午後6時。夕食には少しだけ早い時間だった。4人が拍手しているところを見ると、それなりの力作ということだろう。もっとも、彼女たちが作ったのは“カレー”なのだが。

「さぁて碇君、ご飯にする、お風呂にする、それとも私?」

 エプロン姿で出てきたマドカは、口元をにやけさせながらからかうような言葉を吐いてきた。だがこの手のことに慣れっことなったシンジは、さらりと「時間が早いですね」と受け流した。だが追いかける方も慣れたもので、「そうね」と頷いて、「私は、もっと遅くなってからね」と返してきた。

「カレーだったら、少し置いても大丈夫だろう。
 だったら、みんなこっちに来て休憩しませんか?」

 マドカの言葉も想定のうち。特に反応をしないで、シンジはキッチンに残っていた3人に声をかけた。当然残りの3人は、二人のやり取りが聞こえていた。

「なるほど、碇先輩はこうやって鍛えられたのか。
 しかし遠野先輩、こういう日に抜け駆けは良くないと思うぞ。
 夜は長いし、明日は休みときているんだ。
 だから先輩には、私達相手に……」
「篠山っ!」

 良家のお嬢様が口にしていい言葉ではないと、シンジはとっさに大きな声を出した。猥談をするにはまだ明るいし、キョウカの顔を見ているととても冗談に聞こえなかったのだ。深い意味を考えていないのかもしれないが、本気で言っている恐れもあったのだ。

「なんだ先輩。
 昔から「上げ膳据え膳は男の恥」と言うだろう」
「それを言うなら「据膳食わぬは男の恥」でしょ」

 キョウカの言葉を正したのは、キッチンから出てきたアイリだった。はあっと小さく息をつき、アイリはエプロンを外した。これを見る限り、キッチンに居た4人の中で、常識人はアイリだけのようだった。エプロンをたたんだアイリは、電源の入っていないテレビの方に一度視線を向けた。

「碇君、テレビをつけていいかしら?
 この時間帯は、NHKのニュースを見るようにしているのよ」
「ああ、構わないよ」

 立ち上がったシンジは、テレビの横にリモコンを取りに行った。そしてリモコンでテレビを付け、アイリのリクエスト通りNHKにチャンネルを変えた。

「へぇ〜、アイリちゃんって真面目なのね」
「と言うか、新聞をとっていませんから、ニュースぐらい見ないと世間に取り残されているようで……」
「自慢じゃないが、俺は新聞もニュースも見ないぞ!」
「篠山、たしかにそれは自慢できることじゃないな」
「なになに、へぇ〜日本にヘラクレスの基地ができるのね」

 すでにニュースの途中だったが、入れられたテロップのお陰でその中身を知ることができた。「国連決定!」「S市郊外に基地設置」と言う大きな文字が踊っていた。そのS市と言う部分にシンジが気がついた。

「日本どころか、この近くじゃないか」
「でも、そんな基地を作る場所があったかしら?」
「あの、たぶん西の郷の造成地じゃないかしら?」

 アイリの言葉に、全員の視線がキョウカへと向けられた。何しろキョウカの実家、篠山家の所有地は、市の半分を超えていると噂されれいたのだ。そしてアイリが口にした場所は、篠山家の所有地となっていた。
 だがその答えを期待するのは、さすがにキョウカには可哀想だった。なぜ自分が見られているのか理解できていない様子で、「照れるなぁ」とおもいっきりずれた反応をした。

「いや篠山、お前に答えを求めた僕達が悪かった」
「なぁんだ、先輩たちは聞きたいことがあったのか!」

 くしゃくしゃの金色をした髪を手で掻いたキョウカは、「何を聞きたいのか」と胸を張った。だがその答えは、いささか遅きに失していた。

「キョウカちゃん、もう場所は分かったからいいわ」

 ナルの言葉に、アサミは小さく頷いた。そしてテレビから得た情報から、ひとつの推測を口にした。

「工業団地の造成って……表向きの理由だったんですね」
「そうみたいね。
 じゃないと、こんなに早く基地を開設できないものね」

 アサミの推測を肯定したマドカは、「お客さんが増えるかな」と口にした。

「そうですね、基地で働く人とか、見学に来る人とかが増えそうですね」

 シンジがマドカの期待を肯定した時、やだなとアサミがつぶやいた。

「カメラを持ったオタクも増えますよ。
 あの人達って、かなり傍若無人だからトラブルも増えそうですね」

 ミリタリーオタクとアイドルオタクは、正確に言えば重なることはないだろう。だがアサミにしてみれば、その両者を区別しなくてはいけない理由がなかった。アイドルオタクの追っかけに悩まされた経験を持つアサミにしてみれば、カメラを構えてうろつくオタクは忌避すべき相手だった。
 そしてどう言う風の吹き回しか、キョウカもアサミの言葉を肯定した。

「確かに、問題が起きそうだな。
 うちの父様も、善し悪しだとか言っていた気がしたぞ」
「ちなみに聞くが、良い方は何なのかな?」

 キョウカの言葉に興味を覚えたシンジは、その中身を問いただすことにした。だがそれがいかに無謀で意味のないことかは、すぐに理解させられることになった。

「先輩、俺に聞いて分かると思っているのか?」

 キョウカの答えは、間違いなく正論に違いなかった。だが正論だからと言って、本人が口にして良いのかは全く別である。

「確かに、篠山に聞くのは間違っていたな」
「だろう、先輩も学習していないな!」

 そこで偉そうにされると、なぜかとても腹が立ってしまう。だがここでムキになると、先輩二人の餌食になってしまうのは間違いない。ちょうど画面が切り替わったのを良いことに、シンジは話を逸らす作戦に出た。

「パイロット候補が公開されるんだね」

 ちなみにニュースの画面では、サンディエゴに派遣されるパイロット候補10名が映っていた。構成は男女5人ずつと同数で、いずれも防衛大学附属高校に通う生徒だと紹介されていた。

「私たちと、同年代の人がパイロットになるのね……」

 少し眉を顰めたアイリに、アサミが世界的にそうだと答えた。

「サンディエゴとカサブランカもそうだと言う話ですよ。
 カヲル様は、遠野先輩達と同い年らしいです」
「あれっ、アサミちゃんは詳しいんだね。
 しかもカヲル様って、ひょっとしてファン?」

 その質問自体、極めて普通の質問に違いなかった。ただ少し気になったのは、マドカがシンジの顔を見ながら質問したことだった。更に気になったのは、アサミもシンジの顔を見ながら答えたことだった。

「やっぱり、カヲル様って素敵だと思いますよ。
 ただエースパイロットですから、高嶺の花過ぎるんですけどね」
「元トップアイドルでも高嶺の花かぁ〜
 じゃあ、私たちじゃ雲の上の存在ってことね」

 自分の顔を見ているのは、比較対象として考えているのだろうか。さもなければ、アサミの興味がカヲルにあることを当てこすっているのか。いずれにしてもろくなことではないと、シンジは無視を決め込むことにした。こう言う時に反応すると、燃料を注ぐことになるのは疑いようもなかったのだ。
 だが、せっかく捕まえたおもちゃを、早々簡単に解放してくれるはずが無かったのである。無反応を装うシンジを余所に、マドカはレイを協力者に引きずり込むことにした。

「ねえレイちゃん、アスカさんの写真集とか無いの?」

 マドカの言葉に、シンジは余計なことを言わないようにと視線で妹を牽制した。だがその視線を綺麗さっぱり無視し、「2冊ほど」と火に油を注いでくれた。

「やっぱり、先輩も男なんですね」
「そうか、先輩はああ言ったタイプが好みなのか!」

 アサミからは冷たい視線を向けられ、そしてキョウカは真剣に頷いていた。そして反対側を向くと、アイリが同情の眼差しを向けてくれていた。

「碇君、この状況で逃げられると思っているのかしら?」

 口元を歪めたナルに、「そうですね」とシンジはため息を返した。

「一応断っておきますが、うちにあるのは全部柄澤が置いていったのですからね」
「おかげで、本棚が一杯……」

 そこで頷いたのは、一応兄を庇う意図があったのだろう。ただその行為にしても、結局火に油を注ぐだけだったのだが。良いことを聞いたと喜んだマドカは、「パジャマパーティーのつまみ」だと言い切った。

「と言う事で、アサミちゃんも泊まっていったら?」
「家主に断りもなく、いったい何を言っているんですか!
 それに、話が全く繋がっていませんよ」

 そう否定はしてみたが、一応シンジも健全な男子高校生である。元が付くとは言え、トップアイドルに興味ぐらいは持っていた。アサミが着たら、妹のパジャマも新鮮に見えるに違いなかった。

「私たちが泊まるんだから、同じ部員のアサミちゃんが駄目ってことはないでしょう?」

 そう言って「正論」らしき物でシンジを黙らせたマドカは、それでとアサミに答えを迫った。だがどさくさを利用しようとしたマドカに、準備が悪すぎるとアサミは文句を言った。

「そう言う話だったら、最初から私も巻き込んでください。
 碇先輩の家に来ることだって、いきなりだから説明にずいぶん時間が掛かったんですよ。
 これで泊まって行くだなんて言ったら、明日から外に出して貰えなくなります!」
「まあ、それが普通の家の反応なのよね……」

 そこでナルに見られたキョウカは、「うちは理解があるからな」と偉そうに答えた。

「碇先輩の家にお泊まりすると言ったら、快く許可をくれたぞ。
 しかもよその家にお邪魔するのだからと、手土産まで持たせてくれたんだ」
「冷蔵庫で冷えている奴?」

 集合場所に現れたキョウカは、ボストンバッグとは別に荷物を持っていた。その中身が、今冷蔵庫のかなりの部分を専有していた。有名なパティスリーのロゴが入ったそれは、S市から遠く離れた第二東京市の行列必須の有名店だった。
 マドカの言葉に頷いたキョウカは、ちゃんと言うようにと言われたことを口にした。

「結構入手困難な奴を取り寄せたらしいぞ。
 父様からは、そのあたりを強調するようにと言われている」
「この前雑誌で行列必須だって書いてあったわね」
「あそこって、私たちの間でも手に入りにくいって有名でしたよ。
 一度食べたいって我が儘を言ったら、アシの人が前の晩から並んでくれました」
「キョウカちゃんのご両親、ずいぶんと力が入っているのね。
 碇君、ちゃんとお礼をしなくちゃいけないわよ」
「だとしたら、部長に代表して貰いますよ。
 今日の集まりは、もともと部長が無理矢理企画したことですからね」

 一応筋を持ち出したシンジだったが、駄目だろうとは最初から諦めていた。そして予想通りの答えが、マドカから返ってきた。

「私たちじゃ、キョウカちゃんのご両親は喜ばないと思うわよ」
「そんなことはないと思うぞ。
 次のお泊まり会は、うちで開いたらどうかと言っていたぐらいだからな」
「篠山家本家の邸宅かぁ……確かに興味深いわね」
「ご馳走を用意すると言っていたなっ!」

 思いがけない否定の言葉なのだが、居合わせた全員が言葉通りに受け取らなかった。それどころか、キョウカの両親が色々と考えているのだなと感心していた。一人だけ招待したら警戒されるからと、周りと一緒に連れ込もうと考えたに違いない。そしてそれだけ切実なのだと、感心する以上に同情していた。今日の集まりを考えると、罠として方向性自体は間違っていないと思えるのだ。
 そしてキョウカの両親の企みに気づきながら、マドカは面白そうだとその企みに乗ることにした。

「じゃあ、少し気が早いけど次はキョウカちゃんの家でお泊まり会をします!
 アサミちゃんも、ちゃんとご両親の許可を取っておいてね」
「まあ、篠山家へのご招待でしたら、反対されないと思いますけど……」

 相手が有名な資産家なのだから、信用という意味なら問題があるとは思えない。それを考えると、いくら厳しい両親でも反対するとは思えなかった。ただアサミ自身は、その他大勢扱いされるのは気に入らなかった。

 一方シンジは、すでに居間を脱出していた。もっとも脱出先は、アイリが向かったキッチンである。ニュースをネタに馬鹿話をしているうちに、夕食にちょうどいい時間になっていたのだ。話に取り残されたこともあり、アイリは自分の仕事を終わらせようとしたのである。

「あら、居間に居なくていいの?」
「ああなったら、僕に発言権は無いからねぇ。
 まあ、あれで先輩たちも無茶しないから……」

 語尾が小さくなったのに気づいたアイリは、カレーをかき混ぜる手を止めた。そしてお皿を並べるシンジの方へと振り返った。

「いや、もしも悪乗りされたらどうしようかと思ったんだけど……」
「けど?」

 焦げ付かないように視線を鍋に戻したアイリに、「多分大丈夫」と言うシンジの小さな声が聞こえてきた。

「そう、ならいいけど……」

 それに答えたアイリの声も、シンジに負けないぐらい小さなものだった。



 食事前のバタバタに比べれば、7人でとる夕食は落ち着いたものになっていた。それはこの後控えているサバトの前の静けさだったのかもしれない。だがごちそうさまの後も、マドカ達ご一行が本棚探検に行ったぐらいで、意外なほど落ち着いた時間が展開された。そのおかげで、洗い物をアイリとアサミの二人で片付けることができた。

「さてデザートも食べ終わったことだし、碇くんにはお仕事を済ませてもらいましょう!」
「お仕事ですか?」

 篠山家ご両親渾身のおもたせを食べ終わったところで、マドカは貯めていたものを吐き出しに掛かった。そのためには、先に済ませておくことがあったのである。

「そう、済ませておくことよ。
 私達は泊まっていくからいいけど、アサミちゃんと瀬名さんは帰らなくちゃいけないでしょう?
 だとしたら、二人を安全に送り届けるのが碇君の仕事よ!」

 帰らなくてはいけない二人を残しておくと、思う存分楽しめないというのである。何を楽しむかを考えなければ、至極まっとうなマドカの主張だった。
 それにほっとしたシンジは、二人に向かって「どちらから送っていこうか?」と聞いた。時間を考えれば、送って行く事に異存はなかったのである。

 どちらからというシンジに、すかさずアサミが手をあげた。

「私の方がいいと思いますよ。
 遠いですから、大通りに出たところでタクシーを捕まえますので。
 だから、あまり時間がかからないと思いますから」

 そこまでという意味でアサミは答えたのだが、横からナルが混ぜ返した。

「タクシーで、碇くんと二人家まで乗り付けるの?」
「そんなことをされたら、逆に両親に叱られます。
 碇先輩には、タクシーを捕まえるまで一緒にいてくれれば結構です」
「タクシーだったら、家まで呼べばいいんじゃないの?」

 通りで捕まえるより、タクシー会社に電話をしたほうが早い。そのつもりで言ったシンジに、それはちょっととアサミが唇を尖らせた。

「泊まっていけないんですから、それぐらいしてくれてもいいと思いません?
 先輩と、二人で夜の街を歩いてみたいんです」
「まあ、僕でいいんだったら……」

 夜の街を歩くといっても、大通りまでは5分ほどの距離しか無い。しかもその間にあるのは、どこも変わらぬ一戸建ての住宅ばかりだった。
 だが後輩がそれでもいいというのなら、シンジに反対する理由はなかった。それに、アサミと二人というのは“素敵”なシチュエーションなのだ。

「じゃあ、瀬名さんが後でいいかな?」
「私、一人で帰れるけど?」

 少し頬のあたりが赤いのは、紅茶にたらされたブランデーの効果だろうか。そっけなくアイリは、送ってもらうことを否定した。だがこの場において、否定がどれだけの意味を持つと言うのか。すかさずマドカが、「それはダメ」と割って入ってきた。

「さっき、基地の話が出ていたでしょう?
 知らない人がたくさん入ってきているから、用心に越したことはないわよ。
 それに瀬名さん美人だから、おかしな人が目をつけないとも限らないでしょう?」

 ねっと話を振られたシンジは、「そうですね」と素直に同意した。
 そこまで言われて、アイリも断る訳にはいかない。「分かったわよ」とぶっきらぼうに、マドカの提案を受け入れた。

「じゃあ碇先輩、早速送って行ってくれますか?」

 そうだねと立ち上がったシンジは、出かける前にマドカ達に釘を差すことにした。どう考えても、何か良からぬことを企んでいるようにしか思えないのだ。

「言っておきますが、僕の部屋は立入禁止ですからね」
「大丈夫よ。
 碇君の居ない時に入っても意味が無いからね」

 居る時ならどういう意味があるのか。それを確認する前に、アサミに「先輩」と急かされてしまった。

「話は後にしてもらえますか?」
「あ、ああ、そうだね。
 じゃあ、堀北さんを送ってきますから……」
「適度に狼になってくるのよ〜」

 なんですか、それ。そう言いたくなる声を背に、シンジはアサミとともに居間を出ていった。背中のほうで「ヨシ」と言う声が聞こえた気がしたが、今はそれを気にしない事にした。

 碇家の玄関を出たところで、アサミはシンジの左腕を胸元に抱え込んだ。アサミの予想外の行動は、さすがのシンジも慌てさせた。気のせいではないやわらかな感触が、左腕からしっかり伝わってきていた。

「ほ、堀北さんっ!?」

 少し慌てたシンジに、「よかった」とアサミは喜んだ。

「よ、良かったって?」
「碇先輩が、私で慌ててくれたことです。
 だって、下着姿を見たくせに、少しも慌ててくれなかったじゃないですか。
 おかげで、結構傷ついたんですけど、知っています?」

 そこでぎゅっと力を入れるものだから、余計にアサミの胸の感触がハッキリとしてきた。だがそれに反比例するように、頭に登っていた血が降りてきた。

「そうかなぁ、多少は慌てていたと思うんだけど?」
「私のあられもない姿を見たんですよ。
 多少ぐらいじゃ私のプライドに関わるんです!」
「プライドに関わると言われてもね……」

 そんなことを今更言われてもどうしようもない。少し困ったシンジに、「だから良かったんです」と言ってアサミはシンジの腕を解放した。そして両手をシンジの首にかけ、いきなり頬にキスをしてきた。お陰でせっかく取り戻した冷静さも、また少しだけかき乱されてしまった。

「堀北さん!?」
「私、これでも先輩のことが好きなんですよ!」

 そう言ってシンジから離れ、アサミは通りの方へとかけ出した。そしてちょうど走ってきたタクシーを捕まえ、するりと開いたドアに滑り込んだ。結局呼び止めることも出来ず、シンジは取り残されることになった。

「全く……」

 キスをされた感触の残る頬を人差し指で掻き、シンジは遠ざかっていくタクシーのテールライトを見つめた。かき乱されたシンジの心も、すぐに元の通り平穏な物に戻っていた。

「可愛い子なんだけど……」

 なぜかシンジの口からは、否定的な響きを持った言葉が漏れ出ていた。

 堀北アサミと比べるまでもなく、瀬名アイリとの間にほとんど会話はなかった。交わされた会話と言えば、どちらに進むかだけという体たらくである。もともと会話の弾む関係では無かったのだが、そこに追い打ちを掛けたナルの言葉がいけなかった。おかげで、しっかりとアイリが意識をしてしまったのだ。

「碇君、良いって言うまで帰って来ちゃ駄目よ」

 それだけなら、余計なお節介と文句を言うことも出来ただろう。だが付け加えられた言葉に、シンジは反論の機会を失ってしまった。「これからお風呂に入る」と言われれば、少し居なくなれと言う無理難題にも説得力が補強されてしまうのだ。しかも何をしてこいと言う押しつけもないため、文句も言いにくい雰囲気になってしまった。
 シンジにしてみれば、帰るまで何処かで時間を潰せばいいと言う程度の命令だった。面倒なとは思ったが、お風呂上がりのハプニングを考えれば、よほど安全だと納得したのである。だがもう一人の当事者、アイリにしてみれば、そこまで引き留めていいよと言うお節介に聞こえていた。そのお陰で、歩いている間、どう引き留めるかが頭の中でぐるぐると回っていたのである。

 だが片道25分と言うのは、今のアイリには短すぎる猶予でしかなかった。危ない人どころか、ほとんど人と会うことなくアパートの前にたどり着いた時、アイリの中で考えはまとまっていなかった。

「瀬名さん、今日はありがとう。
 妹が、いろいろと迷惑を掛けているみたいだね」

 その言葉で現実に引き戻されたアイリは、慌てて「そんなことない」と否定した。

「碇さん、熱心に部活に参加してくれているわ。
 それに、私にも良く話しかけてくれるのよ」
「僕には、瀬名さんが妹のことを面倒見てくれているように見えるよ。
 この前だって、ビーフシチューを作ってくれたんだろう?」
「あっ、あれは、指導しただけで……」

 当事者以外、アイリの行動原理は見え見えだっただろう。だが普段のバイアスが掛かっているため、シンジにはその理由は届いていなかった。「自分はあまり好かれていない」「責任感が強く、とても面倒見が良い」と言うアイリに対する印象は、直接告げられない好意を気付かせることはなかった。真っ赤になった顔も、夜の暗闇でははっきりとしなかった。

「でも、本当においしかったよ。
 これからも妹のことをよろしくお願いするよ」
「そ、それは、部長としての当然の務めだから……だから」

 話をしているうちに覚悟が出来たのか、アイリはこれからのことを持ち出した。出来るだけさりげなく見えるように、そして普段と変わらないように気をつけて、上がっていかないかと誘うことにした。
 たださりげなさを装う本人の努力も、妙に熱を含んだ声の艶が否定していた。

「碇、その、良かったらだけど、上がってく?
 先輩達が良いって言うまで帰れないんでしょう?」

 ナル達の命令を持ち出したアイリに、「ああ」とシンジは照れたように頭を掻いた。聞こえるように言われたのだから、アイリがそれを知っているのは不思議ではなかった。だがまさかアイリから、部屋に誘われるとは思ってもいなかったのだ。本当に色々とある一日だと、朝のどたばたから思い返した。

 ちなみに、本人申告の通り、シンジは健全な男子高校生である。従って、健全なる不健康な妄想も女性に対して抱くこともある。夜遅く一人住まいの女性の部屋に招かれるというのは、妄想を逞しくするのに十分なシチュエーションだった。
 そして当然のように、アイリの誘いを受けたシンジの中には、部屋に上がってからの妄想ができあがっていた。このあたりは、友人の持ち込むビデオも参考になっていたりする。

 だが、「夜中に部屋に誘う=OK」の図式が頭の中にできあがったと同時に、何故か急速に妄想がしぼんでいった。
 客観的事実として、アイリは美少女に分類されている。スタイルにしても、一部確認した範囲で十分に良い方に入っている。色々と厳しいことも言われた記憶もあるが、それも過去のことだと理解していた。そして今では、クラスの女子では一番話をする相手にもなっていた。妄想を具現化する相手として、アイリなら申し分ないと分かっていたのだ。
 だがそれを考えれば考えるほど、妄想から発展した性欲が減退していくのだ。誘われた時には、部屋に上がってそのまま雰囲気を作ってなどと考えていたのだが、今はどう断るのが相手を傷つけないのか考える様になっていた。

「その、凄く魅力的なお誘いなんだけど……」

 ふっと溜めていた息を吐き出し、「やっぱり良くない」とシンジは答えた。

「一人住まいの女の子の部屋に、夜お邪魔するのは良くないと思うんだ。
 僕はまだしも、瀬名さんに迷惑が掛かることになると思う」
「私は……」

 拒絶ではなく、自分を思いやる断りの言葉に、アイリは少し冷静さを取り戻すことが出来た。言われてみれば、色々と近所の目を気にしなくてはいけないのだ。それに男を連れ込んだのがばれたら、一人住まいもやめさせられる可能性があった。シンジの言う“迷惑”は、確かに現実のものとしてアイリの前にあったのである。
 少し俯き気味だった顔を上げ、シンジはどうするのかとアイリは聞いた。ナルから連絡がない以上、何処かで時間を潰す必要があったのだ。

「そっか、でも碇はどうするの?」
「僕は、そうだな、何処かのコンビニで時間を潰すよ。
 幸い、少し遠回りをすればコンビニがあるからね」

 そう言って少し微笑み、シンジはありがとうとアイリに告げた。

「誘ってくれたのは凄く嬉しかったよ。
 また、うちに遊びに来てくれるかな?」
「今日のは、遊びに行ったつもりじゃなかったんだけど……」

 もともとは、レイから“料理指導”をお願いされたのがきっかけだったのだ。だが現実は、ジャージ部に料理指導をすることになってしまった。冷静に見れば、遊びに行ったというのは間違っていない。
 それを認めたアイリは、ふっと口元を緩めて肩から力を抜いた。

「次は、碇の部屋を探検させて貰うわ」
「危ない物は片付けておくから大丈夫だと思うけど……
 その時は、精一杯歓迎するよ」
「期待しているわ、じゃあね!」

 表情を明るくして、アイリはアパートの階段を軽やかに上っていった。それを見る限り、土壇場で断られたことを引きずっていないようだった。
 だがそれを見送ったシンジの方は、なぜか眉間にしわを寄せていた。

「何か、おかしい……」

 時々自分で自分が分からなくなる。それがどうしてなのか、シンジには皆目見当が付かなかったのだ。







続く

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