Mr. Incredible −01  10万人を超える観客は、見る限り圧倒的に男性の比率が高いようだ。その大勢の見守るホールの中央には、浮島のようなステージが用意されていた。その半径10mほどのステージにいるのは、きらびやかなステージ衣装に身を包んだ一人の少女だけだった。長い黒髪をなびかせ、そして思いっきり隠すところの少ない衣装を着た彼女が飛び跳ねるたびに、詰めかけたファンたちは「リンラちゃん〜っ!」と野太い声で声援を上げた。ステージ狭しと走り回っているのは、リンラ・ランカ。もうすぐ18の誕生日を迎える、ズミクロン星系で活躍するトップアイドルの一人だった。  大勢の観客を前に歌い踊るリンラだが、実際に彼女がそこに居るわけではない。更に正確に言うのなら、彼女のコンサートは同時に10箇所で開催されていた。そして彼女の存在自身をもう少し正確に説明するとすれば、彼女は複数の会場に同時に存在し、しかし現実に彼女が居るのはコンサート会場から遠く離れたスタジオである。彼女の存在は、確率場拡張技術によって多会場に展開され、複数箇所に同時に存在する事になっていたのだ。ホログラム技術による仮想現実ではない、息遣いさえ感じられるリアルがファンたちに提供されていたのである。だからこそ、観客達は歌い踊るリンラに熱狂したのである。  ズミクロン星系のある銀河は、棒渦巻き銀河と、連邦の中ではごくありふれた構造をしていた。そのありふれた銀河が有名だったのは、超銀河連邦へ最後に盟したことが理由になっていた。そのため数字による識別子は、10,000番と言うとても切りの良い数字が割り振られていた。そしてディアズミレ銀河と呼ばれる銀河の特徴は、それ以外に無いと言うのが実態だった。その意味で、順番以外もありふれた存在だといえるだろう。  そんなありふれた銀河に有るズミクロン星系だが、ある特徴を持つことで有名になっていた。その特徴と言うのが、有人惑星がほぼ同じ大きさを持つ連星となっていたことである。  赤道半径で3,801kmの大きさを持つのが、第3−aのズミクロンと言う惑星である。地表のおよそ72%を海が覆い、そこに約30億の人々が暮らしていた。  そしてもう一つ、第3−bのエルマーと言う惑星が有る。こちらは地表のおよそ68%を海が覆い、同様に約30億の人々が暮らしていた。両惑星の距離はおよそ60万キロ、仮想中心点を中心に20日の周期で回転していた。  この二つの惑星、双子星と呼ばれる惑星が特異なのは、ただ有人の連星と言うだけではない。仮想中心点を中心に公転をしているのだが、さらにその回転面が主星であるズミクロンの公転周期と同じ周期で回転していたのだ。その為双子星の回転面は常に主星ズミクロンへと向いていた。  ただ宇宙で最も近い有人惑星同士なのだが、歴史的に両惑星の仲はあまり宜しいとはいえなかった。超銀河連邦に加わった後も、およそ100年周期で「兄弟喧嘩」と呼ばれる星間戦争を行っていたのである。そして先の兄弟喧嘩から、およそ100年が過ぎようとしている今、再び兄弟喧嘩が始まろうとする雰囲気に満ちていた。火薬庫と言うには規模は小さいが、花火程度の爆発の有る星系と言う事になっていた。  およそ2時間のステージは、2度めのアンコールの曲を歌い終わった所で終幕を迎えた。熱狂したファン達は、未だ興奮覚めやらずに大きな歓声を上げている。ただ彼らを収容したホールは、すでに白い光が満たされ退場口への誘導が始まっていた。その事情は、同時に開催された10箇所の会場の何処も同じだった。人を一箇所に集めるコンサートと言うのは、システムとしてはとても原始的なものだろう。だがその原始的なやり方が、もっとも観客を熱狂させるやり方となっていた。  確率場拡張技術が解除されると、目の前には無味乾燥のスタジオの景色が広がってくれる。体全体から湯気を立ち上らせたリンラは、膝に両手を当て浅く早い呼吸を繰り返した。毎度のことなのだが、2時間にも及ぶワンマンステージは、体力を極限まで削ってくれたのだ。長い時間もそうだが、360度どこから見られている緊張は更に非労に輪をかけてくれた。  そんなリンラの様子に、スタッフたちは手慣れた手際で椅子を用意すると、彼女に酸素マスクを手渡した。それを口元に当てることで、精神の鎮静作用も持つガスが、少しだけ濃度を増した酸素とともにマスクから供給される。  それを大きく3度吸い込んだリンラは、マスクをスタッフに手渡し代わりに少し黄色がかった飲み物を受け取った。少し多めの糖分と、各種ビタミンが調合された特性のスタミナドリンクである。声を出して受けた喉のダメージも、調合された薬剤が癒やしてくれる優れものである。  それを一口啜った所で、リンラは近づいてきた女性に声を掛けた。年の頃なら、20代なかばと言うところだろうか。茶色の髪をショートにした、活発そうに見える女性である。見た目については、取り立てて良いわけではないが、かと言って崩れているわけでもない、なかなか微妙な線を保っていた。 「ミズキさん、どうでした?」  リンラの問いかけに、ミズキと呼ばれた女性は親指を立ててウインクをした。突き出した右手の勢いは、彼女の興奮を物語っているようだ。 「もうバッチリね、観客の熱狂指数は過去最高に並んでいるわ。お陰で、グッズも飛ぶように売れているわよ。そう言うあなたも、今日は手応えを感じていたんじゃないの?」  逆に問い返されたリンラは、大きく頷き返していた。 「そうですね、今日はちょっと普段とは違ったかなって」  にっこり笑ったリンラに、ミズキはニヤつきながら口元に手を当てた。 「あらら、何か良い事でもあったのかしら?」  「例えば」と言って、ミズキは一人の男性の名を持ち出した。 「ナギサ君と進展が有ったとか?」  自分の担当するアイドルに、男性関係を持ち出すのはいかがなものか。少しだけ口元を引きつらせたリンラは、アイドルとしての建前を持ち出した。 「アイドルは、恋愛禁止って言っていませんでしたっけ? そうじゃなくても、マネージャーが男性の名前を出すのは感心しませんよ。ファンの夢を守ってこそ、アイドルとしてやっていけるんですからね」  間違いなく、リンラの口にしたのは正論だろう。だがミズキは、「何を今更」と言い返した。 「相手は、エルマー7家の一つイチモンジ家の次期当主様でしょ? そう言ったシンデレラストーリーは、アイドルにこそ相応しいのよ。そもそも、私生活では一緒に居ることが多いんじゃなかったの?」  そう言いながら、ミズキは小さな箱のようなものをリンラへと向けてボタンを押した。その途端、胸元の大きく開いた、そして大きく広がった短いスカートのステージ衣装は、粒子となって姿を消した。そのお陰で、リンラは申し訳程度体を隠す下着姿になっていた。その場に残っているのが、女性スタッフだけだからできる格好でもある。 「学校が同じだからですよ。後は、ナギサ様がうちの怠け者と仲がいいだけです」 「怠け者って……ノブハル君のこと?」  該当者を思い出したミズキに、「そのノブハル」とリンラは答えた。 「なにしろアイドルやってる私より、学校の出席日数が少ないんですからね。怠け者って言ってもいいと思いますよ」  その決めつけに、ミズキはう〜んと考えた。 「前に会った時の印象じゃ、怠け者に見えなかったんだけど……人は見かけによらないってことかしら?」  拘ることじゃないと頭を切り替え、ミズキは2箇所を指差した。一つは出口で、もう一つはシャワールームである。すぐに帰るのか、それともシャワーを浴びて帰るのか。それを確認したと言うことである。  その問いに少し考えてから、リンラは出口を指差した。 「何が良い?」 「ざっくりとしたトレーナーに、ハーフのパンツかな?」  その答えに頷き、ミズキは小さな箱を口元に近づけ情報を入力した。そして箱をリンラに向けて、黄色いボタンを押してくれた。その途端、光の粒が彼女を覆い、クリーム色のざっくりとしたトレーナーと、緑のチェック柄をしたハーフパンツを形成した。 「じゃあ、お姫様を送っていきますか」  リンラを立ち上がらせて、ミズキはぐるりと彼女の衣装をチェックした。通常失敗はありえないのだが、念には念を入れたと言うことである。そして一通り確認が終わった所で、行きましょうかとミズキは声を掛けた。ここから先は、アイドルであるリンラ・ランカではなく、民間人であるリン・アオヤマの時間になるのだ。。  シェアライド・ビークルに乗り込んだところで、ミズキは備え付けの冷蔵庫からジュースを取り出した。トップアイドルを送迎する車なのだから、契約としてはほぼ最上級のものが選ばれている。その為車内設備が整っている一方で、見た目で目立たないことも重視されていた。アイドル活動中ならいざしらず、一般人に戻った以上目立つのはご法度と言うことである。 「明日は、学校だったったわね」  スケジュールを確認したミズキは、少し先のスケジュールに懐かしい行事があるのに気がついた。 「あなたのところでも、プロム・パーティーをやっているのね。でも、あなたはまだだったと思うけど?」 「あ、ああ、確か10日後だったかな」  気のなさそうに答えたリンに、ミズキはズバリと核心をついてきた。本人が年次的に非該当なら、該当者と一緒に参加するのだと。 「それで、誰と行くの? やっぱり、ナギサ君?」  その意味で、ナギサ・イチモンジの名前が上がるのは妥当なところだろう。ただミズキが思ったほど、リンの食いつきはよろしく無かった。 「やっぱりって話になるのかなぁ。私としては、ボランティア精神を発揮する必要があるかと思ってるんだけど」  夜の街を眺めながら、リンはポツリと呟いた。 「でも、やっぱ順当な線か」 「あなたが気にしているのは、ノブハル君のことと考えればいいのかしら?」  少し意外と口にしたミズキに、「よく分からないから」とリンは答えた。 「私はまだ1年あるけど、兄さんにとって記念すべきプロムなのよ。それなのに、一緒に行ってくれる相手もいない体たらくだもの。同じ家で兄妹として暮らしてきた責任って感じかな?」 「妹をパートナーにするのって、それはそれで惨めな気もするけど?」  ミズキが苦笑を浮かべたのは、似たような事例を見たことがあるからだ。確かに形を整えられるのだが、周りからは可哀想な子を見る目を向けられていたのを思い出したのだ。それならば、よほど参加しないほうがマシに思えたぐらいだった。 「やっぱそうなのよねぇ。だから、順当な線って話になるんだけど。ただ、よりどりみどりってのが気に入らないだけよ」  何を言っているのか考えたミズキは、相手の顔を思い出してなるほどと大きく頷いた。 「イチモンジ家の次期当主で、しかもイケメンだもんね。そりゃあ、女の子が放っておかないわ」  そう答えながら、「でもさ」とミズキは素朴な疑問を口にした。 「ナギサ君って、もう18でしょう。イチモンジ家の事情を考えたら、婚約者ぐらいいてもおかしくないと思うんだけど?」  競争相手としてなら、許嫁の方が強敵だろう。噂が聞こえてきていなことも有り、下世話な興味からミズキは事情を尋ねた。 「私だって、世間の噂以上のことは知らないわよ」  ただリンの答えは、今まで以上にそっけないものだった。 「ちっ、リンちゃんだったら知ってるかと思ったのに」  悔しそうにしたミズキに、「残念でした」とリンは窓の外を眺めながら答えたのだった。  深夜の道を走った車は、一軒の比較的大きな家の前で停車した。道路に面した場所には、鉄格子風の柵で囲まれた花壇のあしらわれたガーデンが広がり、その奥に平屋建ての母屋が建っていた。その家こそが、リンの実家であるアオヤマ家の本宅だった。周辺と比べてそこそこ大きいのは、彼女の父親の立場が理由なのだろう。  ゆっくりと車が門の前に移動したところで、リンは自分でドアを開けて歩道へと降りていった。 「今のところ次の予定は1週間後だから、思う存分学校を楽しみなさいね」  車の中から身を乗り出したミズキは、少し口元を歪めてリンをからかった。それに反応したら負けだと、リンは何も言わずに自分で門を開けて中へと入っていった。その姿を見送ったミズキは、「まだ青いわね」と自分へ隠し事をしたリンのことを笑った。 「しちゃったことはバレバレなのにねぇ。まあ、一応気をつけているようだからいいけど」  小さく息を吐き出したミズキは、「いいけど」とつぶやいてから車のシートに身を預けた。流石に100万人動員をしたコンサートは、準備段階からかなりのハードワークだったのだ。普通なら大成功を祝して本人を交えて打ち上げをするところだが、未成年相手と言うことでリンを誘うのを我慢したという経緯がある。その彼女を無事送り届けたのだから、後は大人の時間となってくれるのだ。リンとは違って1週間のオフはないが、それでも明日は休暇を勝ち取っていたのだ。 「さて、今からなら十分に間に合うわね」  最後に無事打ち上げを終えてこそ大成功なのだと、ミズキは車に次の目的地を指定したのだった。  玄関の前に着いたところで、リンは立ち止まって一つ大きく深呼吸をした。コンサートは大成功だったが、その分準備を含めて大忙しの時間を過ごしていたのだ。前々夜から泊まり込んでいたことも有り、家に帰るのは3日ぶりになっていた。充実はしていたが、疲労具合も今までにないほど酷かったと言うところがある。  玄関前で呼吸を整えたリンは、何事もなかったかのように玄関のドアを開けた。そして小走りに近づいてきた母親に、「ただいま」と声をかけた。  それを「お帰り」と笑顔で迎えた母親のフミカは、豊かな胸にリンを抱きとめた。 「お風呂にする、それともノブハル?」  母親の言葉に、「あー」とリンは玄関の天井を見上げた。 「なんで、お兄ちゃん?」 「ちょっとした冗談、会話のキャッチボールと言うやつよ。ご飯もあるけど、先にお風呂にする?」  ふふと笑った母親に、リンは「お風呂!」と即答した。 「さすがに、今日は汗になったから」 「それでもシャワーを浴びないで帰ってくるのって、リンちゃんはお家大好きっ子なのね」  はいはいと言って中に入っていった母親を見送ったリンは、首を巡らせ「迎えは無しか」と少しだけ視線をきつくした。 「忙しい父様は仕方がないとして、暇なお兄ちゃんは可愛い妹を出迎えてもくれないのね」  絶対に制裁が必要だと、リンは愛読書「拷問一覧」の中身を思い浮かべた。 「部屋の中を、きれいに片付けるのが一番効果があるかしら?」  そのときには、要不要にかかわらずすべてはダストボックス行きになる。青くなった兄を思い浮かべ、リンは少し機嫌を直して浴室へと向かったのである。もっともリンには、要不要の区別がつかないものばかりだったのだが。  家に帰ってきてから3時間後、リンは足音を忍ばせ奥の部屋へと向かっていた。すでに時計は、深夜の1時を過ぎている。十分遅い時間なのだが、家の中で足音を忍ばせるほどではないのも確かだった。それに両親の部屋は反対側なので、「お邪魔」になる恐れもないはずだ。  そして一番奥のドアにたどり着いたところで、リンはノックもしないでいきなりドアを開いた。相手が寝ていないことは分かっているので、遠慮をする必要が無いことは分かっていた。足音を忍ばせたのは、ドッキリを仕掛けたつもりだったのだ。  だが心構えなしにドアを開くのは、少しばかり無謀だったようだ。部屋の住民からの文句ではなく、とたんに襲ってきた悪臭にリンはそれを思い知らされた。しかもただ単に臭いだけでなく、目からは刺激で涙まで流れ出してきた。あまりにも酷い悪臭に、リンは目眩を起こして扉の所にもたれかかったぐらいだ。 「なんだ、帰ってきたのか?」  そっけなく答えたのは、その部屋の主である兄のノブハルである。ボサボサの髪と長く伸びた無精髭が特徴の兄は、ばりばりとフケの浮いた頭を掻いてくれた。その時リンは、何か白いものが舞い落ちていくのを目撃した。それを綺麗に無視をして、悪臭被害者として当然の苦情を口にした。 「何だじゃないでしょう。家の中を、テヨギ公園の公衆トイレにしてどうするの!」  テヨギ公園と言うのは、不衛生で有名な場所である。多くの浮浪者がたむろしているため、公園と言いながら子供が寄り付かない場所になっていた。したがって清掃も行き届かず、トイレは人外魔境になっているとまで言われているぐらいだ。しかも兄の見た目は、その住民にそっくりと言うおまけ付きだった。 「そこまで酷くはないと思うが……すぐに消臭をするか」  臭い部屋だから、臭くなくするのに普通なら文句などあるはずがない。だが過去に、悪臭ごと着ている服を「消された」経験があるリンにしてみれば、兄の言葉は危険極まりないものになっていた。  だがリンが待っての言葉を発する前に、兄のノブハルは「ファーブリズ起動」と禁断の命令をつぶやいてくれた。間に合わなかったと臍を噛み、リンはとっさに内股になって胸と股間を手で抑えた。だが彼女が恐れた事態は、いつまで経っても襲いかかってこなかった。着ているものが無事だっただけでなく、悪臭が消え、どこからか花の匂いまで漂ってきた。 「大丈夫だ。ファーブリズのバージョンアップも終わってる」  特に感情も無く語る兄に、リンは部屋の中を見渡しながら、「大したものね」と劇的な変化を指摘した。 「バージョンアップって、花の香……これってバラかな。そこまで対応をしたんだ」  もう一度大したものだと感心する妹に、ノブハルは「市販の芳香剤だ」と花の香の正体を告げた。 「その方が、コストパフォーマンスがいいんだ」  そっけなく答えたノブハルは、「これか」と言って小さなアンプルを取り出した。 「そうそう、それが欲しかったの」  嬉しそうに受け取ったリンは、端っこの椅子に座ろうとしたところで突然動きを止めた。そして鼻を近づけ匂いを嗅ぎ、手で2、3度表面を叩いて誇りを弾き飛ばした。そこまでして椅子に座り、貰ったアンプルを飲みほした。これで拡張した胃袋と、過剰摂取したカロリーへの対策は万全である。そして特製の薬を飲む理由となった母親に、聞こえないように文句を言った。 「深夜なのに、お母さんご飯を作りすぎ」 「だったら、適当な所で残せばいいだろう」  ぶっきらぼうに答えた兄に、「そう言う訳にはいかないの」とリンはすかさず言い返した。 「量が多いのは、私がお腹を空かせていると心配してくれたからよ。だから下手に残したりすると、どこか悪いんじゃないかって大騒ぎをしてくれるじゃない。ただ単に多すぎるって言っても、食が細くなった原因があるはずだと言って聞かないんだから。それぐらいのことは、お兄ちゃんも経験していると思ったんだけど?」  母親の脅威は、兄妹等しく味わっているはずだ。それを指摘した妹に、「だから」と言ってアンプルのセットを引き出しから取り出した。その手の用意は万端だったと言うことだ。 「それで、睡眠補助の方はいいのか?」  時計を見れば、すでに深夜1時半になろうとしていた。明日は学校に行くことを考えれば、このままでは睡眠不足になるのは目に見えていた。  それに頷いたリンは、「4時間分」と効果を指定した。 「3時間で、十分だと思うんだが?」  そう言いながら、ノブハルは4時間分の睡眠補助薬を用意した。 「まだ、すぐには寝られないからよ。ところでお兄ちゃんは、明日はどうするの?」 「明日か……」  うんと考えた兄に、「いかがなものか」とリンは苦言を呈した。 「アイドルをしている私より、出席日数が少ないってどうよ?」 「学校からは、別に来なくてもいいと言われているんだが……それに、明日は講義をする予定もないしな」  だから課題なのだと、ノブハルはもう一度ううむと考えた。 「普通に考えれば、わざわざ学校にまで行く理由はないのだが……」  そこで顔を見られたリンは、諦めたように小さくため息を吐いた。 「学生なら、学校に行くのに理由を求めちゃ駄目でしょう。それから、たまには体を動かした方がいいんじゃないの? それに、お兄ちゃんの学生生活もあと1ヶ月も無いんでしょう? いい加減、プロムの相手探しに顔を出してもいいと思うんだけど」  妹の言葉に、「一ついいか」とノブハルは問いを発した。 「プロムがどうかしたのか? そもそも、プロムとはなんだ??」  本気で分かっていない顔をした兄に、リンは今までで一番のため息を吐いた。 「卒業を前に、記念のダンスパーティーが開かれるの。男女ペアでの参加が求められるから、毎年3年は必死に相手を探して参加しているのよ。それがプロム。分かった、お兄ちゃん?」  当然お前も参加するのだろうと決めつけられ、ノブハルは驚いたように目を見張った。 「それが、俺に何か関係するのか?」 「お兄ちゃんも、1ヶ月もしないでで卒業するからよ」  妹の答えには、どうやらノブハルの心に響かなかったようだ。ただ「だったら関係ない」と言う答えの理由は想像がつかなかった。 「そりゃあ、一緒に行ってくれる相手がいないのは知っているわよ。そしてこのままだと、お兄ちゃんが一生童貞で終わることも分かっているわよ。でもね、お兄ちゃんが社会不適格者になっていくのを見るのは忍びないのよ。せめて、ハイの学生らしいことを一つでもしてみない? ガールフレンドを作れば、違った世界が見えるかもしれないわよ。お兄ちゃんの世界って、すごく狭くて偏ってるから心配になるのよ。もっと視野を広げたら、今やってるお遊びだって新しい発見があるかもしれないわ」  例えばと、リンは知人の助言に従った指摘をした。 「連邦のインヒューマンデバイスが、どうして女性形態を取っているのか、とか」 「確かに興味深い指摘だが……それとプロムのどこに関係があるんだ?」  早速食いついてきた兄に、やはり悪友だとリンはナギサのことを評価した。先日初体験をした時、「心配なんだよ」と言われたことを思い出したのだ。その時には、兄の反論を予想した答えも貰っていた。 「でも、文献以外で女性に関する知識はまったくないよね? それじゃあ、関係があるのかないのか、それを判断することもできないと思うよ」  それにと、リンは更なる追い打ちをかけた。 「いろんな知識を求める探求者として、いちばん身近な異性のことを知らなくてもいいのかな? 昔から、男女の関係は様々な事件を起こし、歴史を作ってきたでしょう? かのIotUだって、沢山の奥さんを持っていたって有名じゃない。女の子のことを知らないなんて、むしろ不勉強になるんじゃないのかな?」 「確かに、俺は女性のことは何一つとして知らないな」  ううむと唸った兄に、作戦は成功したのだとリンはほくそ笑んだ。 「女の子って、とってもいい香りがして柔らかくて温かいのよ。エッチをしたら、ナギサだって世界が変わったって言うぐらいだもの。だからお兄ちゃんも、女の子のことを知る第一歩として、プロムに誰かを誘ってみるべきよ」 「ナギサがそんなことを言っていたのか」  ナギサの言葉がダメ押しになるのは、これまでの付き合いから分かっていたことだった。考え込んだ兄に、リンは最後のだめを押した。 「だから、明日は学校に行って誰かを誘ってみるべきなのよ。それでもだめだったら、私がパートナーになってあげるから。と言うか、誰も見つけられなかったら罰として私がパートナーになるわ!」 「プロムの参加は強制なのか?」  なぜそう言うことになる。兄の抗議を、リンは涼しい顔をして受け流した。 「この話、お母さんにも教えておくからね。私からは逃げられても、お母さんからは逃げられないから」  覚悟をしなさいと、リンは人差し指で兄の心臓のあたりを狙い「バン」と可愛く銃を撃つ真似をした。 「母さんだけは勘弁して欲しいんだが……」  本気で困った顔をした兄に、「絶対に駄目」とリンは嬉しそうにとどめを刺したのだった。  そして翌朝、兄の悪あがきを阻止することを口実に、リンは朝早くからノブハルの部屋を襲撃することにした。ただ時計を見たら、まだ朝の5時前と言う、朝駆けをするにしても早すぎる時間である。 「さすがのお兄ちゃんも寝ているはず……よね?」  起こしに行くのなら、自分は制服に着替えていなければおかしいはずだ。だが兄の部屋を襲撃する時、リンはお気に入りのピンク色をしたパジャマを着ていた。どうやら、起こしに行くと言うのは建前のようだ。  そして起こしに来たくせに、物音を立てないように兄の部屋のドアを開いた。数時間前に消臭したおかげで、テヨギ公園トイレを思わせる異臭は感じられなかった。しめしめと足音を忍ばせたリンだったが、「朝か?」と言う兄の言葉に肩を落とした。 「なんで、もう起きているのよ」 「正確に言うのなら、まだ起きていたと言うところだな。実は、これから1時間と30分ほど仮眠を取ろうと思っていた。だが朝と言うのなら、仮眠は諦めて起きることにするのだが……」  そう答えたノブハルは、「朝なのか?」と妹に確認した。 「二度寝……じゃないか、もう少し寝るぐらいの時間はあるわよ」 「だったら、仮眠をとることにするのだが……」  そこで言葉をと切らせた兄に、「何?」とリンは可愛らしく首を傾げてみせた。 「一緒に寝たいのか?」 「ばっ、な、なんで私がっ!」  図星を突かれ、リンは顔を真っ赤にして狼狽えた。 「いや、何年お前の兄をしていると思っているんだ? しばらく家を開けた後は、お前は必ず俺のベッドに忍び込んできているじゃないか」 「そんなことも、あったかな?」  しらを切るようにあさっての方向を見た妹に、「構わんぞ」とノブハルはそっけなく答えた。 「たった二人の兄妹だからな。くっついて寝ること自体、さほどおかしなことじゃないだろう」 「ベッド、臭くないよね?」  母親を信用するのなら、洗濯は完璧に行われていると思いたかった。ただ数時間前のことが有るので、疑心暗鬼と言う所があったのだ。 「母さんが、お前が部屋に戻ってからシーツを替えに来た」 「母さんもお見通しってことか……」  自分がブラコンと言うのは、どうやら家族の共通認識になっているようだ。なんだかなぁと思いながら、リンはごく自然にノブハルのベッドに潜り込んだ。そしてノブハルの背中に抱きつき、顔をくっつけてごろごろと猫のように喉を鳴らした。 「お兄ちゃんだぁっ」 「何を今更……」  少しだけ呆れながら、ノブハルはお腹あたりに回された妹の手に自分の手を重ねた。 「俺は、これからもずっとお前のお兄ちゃんだよ」  だから心配するな。そう囁いてから、ノブハルは仮眠のため目を閉じたのだった。  そうやって兄妹が微笑ましいスキンシップを始めて1時間と30分後、そろそろいいかしらと母親のフミカがノブハルの部屋に踏み込んできた。このあたり、可愛い娘の行動は全てお見通しと言うことである。 「ほんと、ブラコンなんだから……これじゃ、ナギサ君が苦労するわね」  小さくため息を一つ吐いてから、フミカは二人から布団を剥ぎ取ることにした。気持ちよさそうにしているのを起こすのは可哀想なのだが、学生には学生としての本分を果たす必要がある。普段は理屈っぽいノブハルも、こうして寝ているのを見ると可愛い子供でしか無い。 「お・き・ろ・っ!」  布団に両手を掛け、一呼吸をおいてから力任せに剥ぎ取った。 「ほっ、ちゃんとパジャマは着ていたか」  安堵の息を漏らしてから、先ほどとは比べ物にならないほどの声で「起きろっ!」と二人の耳元で叫んだ。流石にそこまでされれば、どんな寝坊でも目が覚めてくれるだろう。ただ慌てて兄を突き飛ばしたリンに比べて、突き飛ばされたノブハルは落ち着いたものだった。 「ああ、母さんか」 「ち、違うんだからっ!」  それに引き換え、妹のリンは見つけられたことに慌てていた。そんな娘にため息を一つ吐いて、「何を今更」と言い残してフミカは部屋を出ていった。 「確かに、なにを今更なんだが……そろそろ、部屋に戻って着替えをしてこい」  あっさりと言ってのけたノブハルは、ベッドから抜け出すとパジャマの上着を脱いだ。日頃妹には「怠け者」と言われている割に、背中には無駄な脂肪は無く、綺麗に鍛えられた筋肉が浮き上がっていた。 「ば、ばか、デリカシーがないっ!」 「人に抱きついて寝ていたやつに言われたくはないセリフだな」  妹の抗議に取り合わず、ノブハルはクローゼットからよれた制服のワイシャツを取り出した。そしてそれを素肌の上に直接着てから、パジャマのズボンを引き下ろした。 「だから、女の子の前で平気で裸になるなっ!」 「だったら、さっさと着替えに出て行くんだな」  やはり文句に取り合うこと無く、ノブハルはクローゼットから黒のズボンを引っ張り出した。色々と世話を焼いてくれる母親なのだが、どう言う訳か取り出されたワイシャツとズボンはしわくちゃになっていた。 「ねえ、私の着替えを見たい?」  文句を言いながら、結局リンは部屋を出ていこうとはしなかった。そしてある意味爆弾発言、そしてノブハルからすれば、なにを今更の問いかけをしてきた。 「お前のおむつを替えたことのある俺が、今更お前の着替えを見ることに何か意味があるのか?」 「あのさぁ、もう少し照れとかあってもいいと思わない。これでも一応女の子だし、ズイコー星系のトップアイドルなんだよ」  あまりにも女の子に見られてないことに呆れた妹に、「その前に妹だ」とノブハルは言い返した。 「家族相手に恥ずかしがって……」  そこまで言いかけて、「まあ良いか」とノブハルはそれ以上何も言わなかった。そして言い返す代わりに、クローゼットからくたびれたゴムを取り出し、長く伸びた髪を無造作に後ろで縛った。 「髪、切らないの? あと、その無精髭」 「じゃまになったら切るだろうな。そして、今の所じゃまになっていない」  その程度だと言い残し、ノブハルはさっさと部屋を出ていった。 「いやさぁ、確かに私は妹だよ。なにか、もっと思う所があってもいいと思うんだけどなぁ」  パジャマの上から両手で胸を持ち上げ、リンは身を捩ってみせた。もっとも見せる相手は、とっくの昔の部屋から出ていっている。いくら文句を言っても、取り合ってくれなければ意味のないものになる。さっさといなくなった兄にため息を一つ吐いてから、リンは兄の部屋を出ていった。このまま放置すると、大好きなお兄ちゃんが自分をおいてハイ(スクール)に行くことが分かっていたのだ。大慌てで用意をしないと、本当において行かれてしまうのだ。  技術の進歩は、人に効率と非効率を押し付けてくる。そして学校と言うのは、全てにおいて非効率側にたった運営がなされていた。今日日シェアライドを利用すれば、家からハイまで時間と手間を掛けずに移動することができるようになっている。だが学生の通学にはシェアライドは許可されず、地区ごとのスクールバスが運行されていた。そのスクールバスに乗るためには、バスの停留所まで歩いて行く必要があった。  そしてスクールバスは、いちいち学校を巡回してはくれなかった。共通のバス降車場で学生たちは降ろされ、そこから先は自分の足で歩くことが求められたのである。バスへの乗車時間は5分ほどだが、前後の時間を合わせれれば、通学時間は30分ほどと長くなる。そして今時と言いたくなる、制服での通学を学生達に強いていた。そのためノブハルは、よれたワイシャツと黒のズボン姿をしていた。一方トップアイドルのリンは、丸い襟をした白のブラウスに赤の紐でできたタイに、紺のジャンパースカートと言う出で立ちをしていた。 「あれっ、今日はお前の講義があったか?」  そして降車場でバスを降りたところで、共通の悪友……リンにとってはセフレと恋人の中間にいるナギサ・イチモンジが声をかけてきた。エルマー7家の一つ、イチモンジ家の跡取り息子であるナギサは、灰色がかった黒髪と、赤みがかった瞳をした、誰もが認める好男子である。そのお陰で、女子学生からだけでなく、広く女性から人気を集めていた。同じ制服を着ているはずなのに、ノブハルとは別の学校に見えたから不思議だ。 「妹に、学校に行くべきだと脅されただけだ」  ぶっきらぼうに答えるノブハルに、ああとナギサは大きく頷いた。 「大方、プロムの相手を探せと脅されたのだろうね。リンと行きたい僕としては、君が誰かを口説き落とすことには賛成だよ」  ナギサの言葉に、リンは少しだけ顔を赤くしたりしていた。 「ナギサまでそんなことを言うのか……」  無精髭の目立つ口元を押さえたノブハルは、何を考えたのか二人をおいて前を歩く3人連れに近づいていった。そして一体何をと驚くナギサとリンを尻目に、「ちょっといいか?」と真ん中の女性の肩を叩いた。 「いやいやノブハル、さすがにそれはないと思うんだが……」  行動自体はとても論理的なことは確かだろう。これと言った当てがないのだから、目についた女性に声をかけるのは不思議な事ではない。ただ二人からすれば、もう少し相手を選べと言いたかった。 「はい、なんでしょうか?」  そう言って振り返ったのは、リンもよく知る、そしてあまり付き合いたいと思えない相手だった。このあたりには珍しい長い金色の髪と、とても綺麗な青い瞳をした少女は、ナギサ同様とても有名な存在だった。もちろん美人という意味でも、他を引き離した存在でもある。  ちなみに彼女が有名なのは、何もその美貌が理由と言う訳ではない。彼女が惑星ズイコーからの留学生で、父親が上院議員をしているからである。有り体に言うなら、エルマー住民にとって敵の親玉の娘である。そのため隣りにいる二人も、友人ではなく護衛として付いて来ていた。そして当たり前のように、学校の中で浮いていた。 「突然で悪いが、俺に女を教えてくれ」  ただでさえ面倒な相手なのに、しかも口に出した言葉は最低のものだった。すかさず駆け寄ってきたリンは、「非常識すぎる」と大好きなお兄ちゃんの暴挙を非難した。  そして意外に動じていない少女の側でも、二人の護衛が彼女を守るように立ちふさがってくれた。激しい怒りからなのか、満点の殺気をノブハルに向けていた。 「失礼なことを言ってすみません。兄には、きつく言い聞かせますから」  ごめんなさいとリンが何度も頭を下げたことで、護衛二人の放つ殺気は安全なレベルまで落ちてきていた。これで二人を引き離せば、何事もなかったとは言えなくても、この場は無事治めることができるはずだ。相手の警戒が薄れたことに安堵したリンだったが、非常識なのは兄だけでないのが誤算だった。 「よろしければ、教えていただきたいことがあるのですが?」  少し顔が赤らんでいるのは、失礼なことを言われた怒りからだと思いたい。そんなリンの期待は、次の彼女の言葉で見事に打ち砕かれた。 「なぜ、私に声を掛けてくださったのでしょうか?」  「失礼な」とか「身分を弁えてますか?」とかならいいのに、なぜか自分に声を掛けた理由を聞いてきたのだ。聞かれた以上答えないのは失礼に当たるのだが、兄が常識的な答えを口にできるはずがない。せっかく場が収まったのに、これで振り出しに戻ることになるとリンは頭を抱えた。 「理由か。確かに、説明が必要だろう」  そう答えたノブハルは、自分を守るように立つ妹を見た。 「今やっている研究のためには、女性を知る必要があると妹にこんこんと説教されたのだ。確かに一理あると、俺もその説教に納得した。それが、この俺が女性に声を掛ける動機となった」  そこまではいい。確かに、女の子を知るべきだと自分は兄に説教をしたのだ。ただ、その方法が世間標準で非常識だっただけのことだ。もちろん、それだけでも十分に問題だとリンは思っていたのだが。それに動機にしても、バカ正直に話すものではないはずだ。 「そのために学校に来ることにしたのが、友人にも同じことを言われてしまった。だから、早速行動に移すことにした。これといった候補がいない以上、時間を置くことに意味がないのは自明の理だからな。以上が状況の説明になるのだが、お前を選んだ理由に移っていいか?」  その少女を守る二人は、唖然と言うのが一番適切な顔をしていた。言うに事欠いて、何をふざけたことを言ってくれるのか。想像以上の非常識さに、あっけにとられたと言うのが実態だった。 「遺伝子の相性分析をした結果、お前と俺の相性が良いことが分かった。そして保有細菌の拒絶反応に関しても、特にお互いで問題がないと言う結果も出ている。処女だからと言うのが理由ではないのだろうが、性病的なものもないのも有力な理由だ。加えて言うのなら、これと言った感染症も見つかっていない。そして処女と言うのも、大きな理由になっているな。説明は以上だ」  特に感情……恥ずかしいと言うところも見せず、ノブハルは淡々と理由を説明した。その非常識すぎる理由に、リンはもう一度頭を抱えた。  ただ少女の護衛の二人にしてみれば、頭を抱えている暇はない。そのうち長い黒髪をした、控えめに言ってもグラマラスな少女は、ノブハルに向かって「なぜ」を問いかけた。 「それだけの理由で、お前はエリーゼ様に声を掛けたと言うのか? しかも女を教えろなどと破廉恥な……」  顔が真っ赤になっているのは、明らかに怒りからなのだろう。そしてリンにしてみれば、彼女が怒るのは当たり前の反応だと思っていた。 「俺の事情を鑑みた場合、必要十分な理由だと思うのだが?」  ちなみにと、ノブハルは髪の長い少女の感情を逆なでする説明を追加した。 「あんたの場合、生活の乱れが理由なのかホルモンバランスが良くない。それに加えて、幾つかの感染症があるのも問題だ。自然治癒できる範囲だが、今すぐと言うには不適格だ。そこらじゅうに有る生傷が、感染症の原因だろう。遺伝子的相性は、良くもなく悪くもなくと言うところだな。まあ第二候補にしても良いかもしれないぐらいだな」  そしてと、ノブハルはもう一人の黒髪の少女を見た。肩口まで黒い髪を伸ばした少女は、もう一人に比べて清楚な印象を持っていた。 「彼女の場合、処女ではないと言うのがだめな理由だ。それ以外は、まあ特に特徴はないな」 「失礼なっ! セツナは処女……」  ノブハルに食って掛かった髪の長い少女は、まさかと相方の方へと振り返った。 「じゃないの?」  だがセツナと呼ばれた相方からは、否定も肯定も返ってこなかった。つまり、非処女であるのを肯定したことになる。 「私のセツナが……男なんかに汚されて」  ううっと口元を押さえて崩れ落ちたところを見ると、彼女にとって大きな問題なのだろう。 「べ、別に、汚されたとは思ってないんですけど……」  そしてセツナと呼ばれた少女は、顔を赤くして明後日の方を向いてくれた。どうやら、ノブハルの指摘は正解だったようだ。 「一応理由は説明したのだが?」  これでいいかと言う問に、エリーゼは小さく頷いた。 「はい、確かに理由を承りました。とても、説得力のあるものだと感心させていただきました」  エリーゼの答えに、リンは自分の常識を疑った。そして助けを求めるためナギサを見たのだが、彼にとっても常識外のことのようだった。それは二人の護衛の少女も同じで、信じられないと言う顔でエリーゼのことを見ていた。  もちろん理由に説得力があったとしても、エリーゼが受け入れるかどうかは全く別物である。そして常識的に考えれば、彼女が受け入れる理由はどこにも存在していなかった。だから護衛の二人を含め、その場に居る全員はエリーゼが断るものだと思っていた。 「お申し入れについて、ありがたく承諾させいただきます。ただ、二つほど条件をつけさせていただくことをお許し下さい」  本当にそれで良いのか。その場にいたノブハル以外の全員は、今度はエリーゼの常識を疑った。ただ常識を疑われたエリーゼは、そんなことに関係なく条件を話しだした。 「まず時期についてですが、今すぐと言うのは心の準備が出来ておりません。そうですね、プロムの後とさせていただこうかと思います。そしてもう一つ、世間で言われる恋人としてお付き合いをしていただこうと思います。ただ最初の時期についてですが、お互いの気持が盛り上がれば短縮するのも吝かではありません」  おそらく、その場にいたノブハルを除く全員は、エリーゼの言葉をすぐには理解することができなかっただろう。断るのが当たり前、怒り出して罵っても不思議ではないと思っていたのだ。だがエリーゼの答えは、ノブハルの申し入れを受け入れると言うものである。しかも、ただするだけではなく、恋人として付き合えと言う、とても条件とは思えないものまでつけてくれたのだ。ナギサを含めて全員があっけにとられるのも、事情を考えれば不思議なことではないはずだ。 「なかなか、難しい条件だな」  そしてノブハルの答えもまた、彼らの常識を超えていた。相手を考えれば、付き合ってくれと言うのは喜ぶべきことなのだ。しかも自分から肉体関係を迫ったのだから、恋人として付き合うというのは難しい条件ではない。それどころか、二つ返事で受けれてもおかしくはないはずの条件だった。 「だが、こちらが要求を出した以上、そちらが要求を出すのは当然だろう。手っ取り早くと考えたのだが、どうやらそれは間違いだったようだ。ただ、言っていることは理解できるな。ならば、そちらの要求を飲むことにしよう」 「では、双方合意が取れたということですね」  ぱっと顔を輝かせたエリーゼは、制服のスカートの端を摘んでノブハルにお辞儀をした。 「エリーゼ・クライストスと申します。不束者ですが、これからよろしくお願いいたします」 「エリーゼ・クライストスか。俺は、ノブハル・アオヤマだ」  頭を下げることもなく、そして握手を求めることもしなかった。ただ名乗られたから、お返しに自分も名乗ったと言うのがノブハルの態度だった。これから恋人として付き合うのに、それで良いのかと問いただしたくなる態度でもある。そして一番の問題は、自己紹介を受けるまで、ノブハルが相手の名前も知らないことだった。 「ではノブハル様、今日はランチをご一緒願えますか?」 「それは、必要なことなのか?」  首を傾げたノブハルに、エリーゼは微笑みながら「はい」と答えた。 「世間で恋人と言うものは、片時も離れたくないと思うものです。ただ学び舎においては、行動の制限を我慢する必要がございます。ですから、制限の緩和されるランチの時間に語らいたいと思っております」 「なるほど、恋人になると言うのは面倒なものなのだな。うむ、新しい知識を得た気分だ」  照れたと言うより、新しい知識を得られたことを喜んでいるようにしか見えなかった。人として間違っているだろうと、その場にいたエリーゼを除く全員が思ったのも不思議ではない。ただエリーゼは、「お役に立てて光栄です」とこちらも世間常識からずれた答えを口にした。 「ただ、ランチタイムは体育館で汗を流すつもりで居る」 「でしたら、ランチを取るのはその後と言うことにいたしましょう。その代わり、私も体育館に参ります」  行動だけを見れば、確かに恋人同士のものに違いない。ただ約束を交わす二人の言葉は、どこか事務連絡を思わせるものだった。何かではなく、絶対に間違っていると言うのが、二人に対するリン達の思いだった。  ただリンを含めた全員に共有された思いも、肝心の二人には一ミリたりとも共有されていなかった。「後ほど」と去っていくエリーゼにしても、「待っているからな」と答えるノブハルからも、恋人同士の甘い雰囲気は感じられなかった。ただ淡々と要求された行事をこなす、周りからはそうとしか見えなかった。  周りから好奇の目を向けられたエリーゼ達3人は、それを気にすること無く自分達の教室へと入った。中を見れば、1クラス30人で構成されたクラスのうち、すでに半分ぐらい登校しているようだ。登校義務が比較的ゆるいことを考えると、なかなかの出席率と言うことも出来た。  ただそれまで賑やかだったクラスの中が、3人が入ったところで急に静かになった。そして会話をやめた生徒達は、異質なものを見る目でエリーゼ達3人を見た。編入して1年が過ぎようとしているが、この状態は未だに変わることはなかった。  やはり自分達は異分子なのだ。ずっと続くクラスメイト達の反応に、護衛の一人トウカ・クレメンタインは唇を噛んだ。安全な場所をとズイコーから逃れたのに、エルマーもエリーゼにとって安住の地とはなってくれなかった。 「私が、厄介者なのは確かですから」  小さな声で、「気にしないでください」とエリーゼはトウカに囁いた。 「サン・イーストは、私と言う爆弾を抱えてしまったのです」 「それは、お嬢様の責任ではありません」  トウカに代わって、セツナがエリーゼをかばう言葉を口にした。ただセツナの言葉は、エリーゼが爆弾であるのを認めていたのだ。 「クラスの皆さんは、そんな事情を知っているとは思えませんけどね。ただ、厄介者と言うのだけはご存知なのでしょう。扱いに困るから、居ないものとして忘れようとしている。おそらく、そんなところではないでしょうか?」 「やはり、ズイコーに戻った方が宜しいのでは?」  そうすれば、少なくとも居心地の悪い思いをしなくも済む。トウカの言葉に、エリーゼは小さく首を横に振った。 「漠然としていた危険が、現実のものとなったから留学したのですよ。このまま戻れば、考えたくないような目に遭うと思います。何しろ私は、「いらない子」ですからね」 「おっ!」  大きな声を上げかけたトウカは、すぐに「失礼しました」と声を潜めた。 「エリーゼ様、ご自身のことをいらない子と言うのは感心いたしません」 「そ、そうです。私は、エリーゼ様をお慕いしているんですよ!」  セツナとトウカの言葉に、「ありがとう」とエリーゼは小さく微笑んだ。その笑みに当てられた二人は、顔を反らしながら「宜しかったのですか?」と登校時の出来事を蒸し返した。 「あのような胡散臭い男を相手にして」 「それに、とても失礼なことを言っていました!」  失礼を強調したセツナに、「失礼?」とエリーゼは首を傾げた。 「もしかして、あなたが非処女だと指摘したことですか? 確かに女性に対して、わざわざ指摘するようなことではありませんね」  真面目に答えたエリーゼは、「失礼かもしれませんね」と小さく呟いた。 「え、ええっと、確かにそれも失礼には違いありませんが」  反対側にいるトウカの目が怖くて、セツナの言葉も尻すぼみになってしまった。そんなセツナに笑みを返し、「初めてです」とエリーゼは打ち明けた。 「これまで、男の方に言い寄られたことはありませんでした。それにノブハル様は、とても綺麗な目をされていましたよ。多少常識がおかしいところはありますが、とても誠実な方だと私は感じました」 「あれが、多少……でしょうか?」  間に立った妹の反応を見ても、十分に異常だと思っているのが分かったのだ。それを「多少」と言うエリーゼの感覚に、似た者同士かと考えてからトウカは首を振って否定した。 「私には、思いっきり変に思えました」 「私も、トウカさんの意見に賛成です」  二人に変と決めつけられたエリーゼは、少し残念そうに俯いた。そして指先で仮想端末を操作し、ノブハルの公開情報を引き出した。 「ジュニアの時に、すでに情報分析と微細構造論で博士号を取られるぐらいですからね。確かに、凡人には伺い知れないところがあるのかもしれません。今現在で、博士号を8つも持っているんですから、やはり常人とは違うところがあるのでしょうね」 「8つも、博士号を持っている!?」  目をぱちぱちを瞬かせたトウカに、「8つですね」とエリーゼは繰り返した。 「スポーツの方でも、繰り返し運動に対する筋肉制御の論文で博士号を取られていますね」 「……確かに」  エリーゼに示された画面を見た二人は、信じられないと言う顔をした。そこには博士号授与式の映像があったのだが、映っていたのは間違いなく今朝の変人だったのだ。  二人が信じられなものを見た時、教室の中が少しだけざわめいた。ただ自分達には関係ないと、3人は顔を寄せ合って小声で話を続けようとした。だが教室の中をざわめかせた張本人が、小声で話をする3人の所に割り込んできた。 「それ、情報が古いわよ。今は、11個にまで増えているから。兄さんは、博士号マニアなのよ」 「あなたは……」  まさか声を掛けられるとは思わず、エリーゼははっきりと驚いた顔をした。ただそれも僅かなことで、「リン・アオヤマさんでしたね」と言って立ち上がって頭を下げた。 「ですが、博士号は趣味でとれるほど簡単なものではないと思いますよ」 「私達みたいな凡人ならそうでしょうね」  自分を凡人と言ったリンに、エリーゼはもう一度驚いた顔をした。 「ズミクロン星系のトップアイドルが、凡人……でしょうか?」  その答えにリンは、驚きから少しだけ目を見開いた。まさか、自分のことを知っているとは考えていなかったのだ。ただ意外な指摘に驚いたのは、エリーゼの護衛の二人の方だった。 「この人が、トップアイドル……なんですか?」  まさかと言う顔をしたトウカに、「そうね」とリンは口元を歪めた。 「トップアイドルかどうかは分からないけど、リンラ・ランカって言えば分かってもらえるかな?」 「リンラ・ランカって……」  まさかと大きく目を見開いた二人は、慌てて自分の鞄を弄った。 「すみません、ここにサインをお願いします!」  そして二人揃って、授業で使うノートを取り出してサインをねだった。 「あー、学校ではしないことにしているんだけど……まあ、兄さんが迷惑をかけたみたいだから」  まあ良いかと、リンはノートを取り上げ手元のペンでサインを書き込んだ。 「悪いけど、名前を教えてくれる?」  自分のサインを書いたところで、リンはトウカとセツナの顔を見た。 「は、はい、トウカ・クレメンタインです」 「せ、セツナ・トコヨギです」  自分の前で緊張する二人に、リンは小さく吹き出した。そして二人の名前を、それぞれのノートに書き込んだ。「もう、このノートは使えない」と揃って言う二人に、大げさねと笑ってみせた。 「で、でも、100万人コンサートが開けるのって……片手で足りるぐらいですよ」 「ず、ズイコーのお友達にも、リンラさんのファンが大勢いるんです!」  目をキラキラさせたところは、本当に普通の女の子と変わるところがない。本当に護衛なのかと、リンが疑問を感じたほどだった。そしてリンが疑問を感じている前で、二人は「凄いなぁ」と本当に喜んでくれていたのだ。  自分にファンが大勢いるのは知っていたが、ここまで感激されると嬉しくなってしまう。少し気持ちが大きくなったリンは、「だったら」と二人を喜ばせる提案をした。 「放課後、うちに遊びに来る?」 「えっ、良いんですかっ!」  顔を見合わせて喜ぶ二人に、「本当に宜しいのですか?」とエリーゼが心配そうに尋ねてきた。 「だって、あなたはお兄さんの彼女になるのでしょう? だったら、うちに来ても不思議じゃないと思うけど? ただ、お兄さんの部屋に入る時は少しだけ覚悟がいるから」  深夜の経験を思い出したリンなのだが、エリーゼがそんな事情を知るはずもない。そして事情を知らないから、登校時のやり取りのことをエリーゼは思い浮かべた。 「でしたら、覚悟が出来ていないのでお部屋にはいけませんね」  エリーゼの答えに、「んっ」とリンは少し首をひねった。 「あ、ああ、そっちのことね」  確かにそうだと頷いたリンは、笑いながら「別の覚悟よ」と言った。 「時々だけど、兄さんの部屋はテヨギ公園のトイレ並みに臭くなるのよ。昨晩消臭したから、今はまともになっているんだけどね。ただ少し目を離すとどうなっているか分からないから、覚悟が必要って話したのよ」 「テヨギ公園のトイレ……ですか?」  知っていますかと、エリーゼはトウカとセツナの顔を見た。もちろん二人が、そんな場所を知っているはずがない。「寡聞にして」と答えるのも、違う惑星から来たことを考えれば不思議ではない。 「ええっと、その通りの意味で受け取らないで欲しいな。それって、もの凄く臭いことのたとえだからね」 「その方面で、覚悟が必要と言うことですね。貴重な助言をありがとうございます」  礼儀正しく頭を下げたエリーゼに、「どうしてこんなに上品なのだろう」とリンは呆れていた。そして、「だから常識が違うのだ」と今朝の態度に納得もしていた。 「まあ、多少と言うのは語弊があるけど、変なところもあるけど基本優しい人だから。絶対に無理強いはしないし、大抵のお願いは聞いてくれるわよ。見たところワケアリみたいだけど、だったら早いうちに相談した方がいいわ。これは、長年兄妹として付き合ってきた妹としての忠告よ」 「それは、お兄様が面倒に巻き込まれないように……と言うことですね。確かに、おっしゃる通りかと思います」  自分を恋人にするのは、面倒を背負い込むことになるのは分かっていた。だからリンの忠告も、兄を守るためのものだとエリーゼは理解していた。そして二人の護衛も、エリーゼと同じことを考えていた。 「ええっと、それって思いっきり勘違いだから」  エリーゼの顔を見て笑ったリンは、「あなたのため」と勘違いを訂正した。 「あれで、結構度胸もあるし、いろいろな方面にも顔が効くのよ。しかも親友が、エルマー7家の一つ、イチモンジ家の跡取り息子なんだからね。もしもワケアリだったら、結構使い勝手が良いと思うよ?」 「お兄様が巻き込まれることになってもいいと?」  意外な答えに、エリーゼは驚きから目をぱちぱちと瞬かせた。そしてその事情は、護衛の二人も変わることはなかった。 「兄さんなら、きっと自分から巻き込まれていくわよ。まあ、相談しなくても今頃はおおよその事情ぐらい把握していると思うけどね。こと情報については、ズミクロン星系内なら兄さんは最強よ」  ノブハルの常識がおかしいと決めつけていた護衛の二人は、なるほど兄妹なのだとリンの評価を新たにしていた。ブラコンと言うのは今更として、リンの常識も十分におかしいというのが分かったのである。 「まあ、言うことは言ったから、私は教室に帰るから。あと、そうやって3人で壁を作らないようにしなさい。そんなことをしていると、いつまで経っても教室内で珍獣扱いされるわよ」  じゃあねと言い残し、リンは足早に教室を出ていこうとした。だが引き戸を開けかけたところで、思い出したように振り返った。 「今日から、あなた達3人は私のお友達だからね。困ったこと、相談したいことがあったら遠慮なんていらないから。もちろん、クラス内で解決するなって意味じゃないからねっ!」  それを全員に聞こえるように言うのは、間違いなくエリーゼのためなのだろう。少しキツめの見た目とは違い、とても優しいのだとエリーゼはリンのことを見直していた。 「そうですね。今日遊びに伺った際に、色々とお話を聞いていただきたいと思います」  ありがとうございますと、エリーゼは立ち上がって頭を下げた。 「それって、堅苦しすぎっ!」  そう言い残し、リンはさっさとエリーゼの教室を後にした。教室内がざわめいたのは、間違いなく彼女の言葉が理由なのだろう。  そしてリンの言葉は、早速エリーゼのクラスで効果を発揮してくれた。「あの」と話したこともない女子生徒に声を掛けられたのが、その第一歩となるものだった。  一方ノブハルの方は、教室に入る前に問題を解決する必要があった。何しろ教室には、彼の席が用意されていなかったのだ。そしてそれはいじめではなく、入学以来生徒側に座ったことがないと言う実績が理由になっていたのである。 「まさか、ノブハルがこちら側に座るとは思っていなかったよ」  感慨深げに、親友であるナギサはノブハルの椅子を運んできた。そして唯一あったスペース、入口側の一番後ろをノブハルの席にした。 「ああ、俺もまさかこちら側に座ることになるとは思わなかった」  自分で運んできた机をその前に置き、ノブハルは興味深げに教室の中を見渡した。 「普段と違う景色も悪くはないな」 「まあ、教師の反応が見ものではあるけどね」  そう言って笑ったナギサは、「良かったのかい?」と分かりにくい問いかけをした。 「お前が気にしているのは、彼女の素性か?」  正しく疑問の中身を把握したノブハルは、「何か問題でも?」と逆に聞き返した。 「ノブハルが、事実を正しく把握しているのなら問題ないね」  ナギサの答えに頷いたノブハルは、彼の知る「事実」を羅列することにした。 「エリーゼ・クライストス。共通歴7月7日生まれの17歳。身長は166cm、体重は……なんだ?」  ナギサに肩を叩かれたノブハルは、どうかしたのかと彼の顔を見た。 「その方面の事実は、興味はあるがここで口にすべきことじゃないと思うんだ。乙女の秘密でもあるし、軽々しく他人に聞かせることじゃない。実態がどうかは、二人きりの時にノブハルの目で確認すればいいだけのことだ。僕が気にしているのは、政治的な面のことだよ」 「なるほど、実データーを語るにも気を使う必要があると言うことか」  大きく頷いたノブハルは、ナギサの言う政治的な方面の「事実」を説明することにした。 「ハンスバッハ・クライストスの次女で、彼女の他に兄妹は3人いる。ハンスバッハは、ズイコーの上院議員を勤めていて、穏健派と言う評判が広がっている。その為、タカ派の議員からは目の敵にされていると言う情報が出回っている。ズイコー内では、一部でエルマーとの開戦論が高まっているが、ハンスバッハは開戦論に反対をしているグループの重鎮と言う立場にある。そして今のところ、開戦理由がないと言うことで否定派が多数を占めている。その一方で、ハンスバッハ及び彼の家族は、タカ派から狙われていると言うのが実態だ。そしてここ3年の間で、10回ほど襲撃がなされている。それに加えて、計画段階で阻止されたものも20件ほどある。エリーゼがサン・イースト(ここ)への留学を決めたのは、彼女の姉ベルグレッタの襲撃計画が阻止されたのがきっかけとなっている。娘の安全を確保するためというのが、まことしやかに囁かれている留学の理由だ」  「本当の理由は」とナギサは合いの手を入れた。「まことしやかに」と言うキーワードに反応したのだ。 「穏健派と言われるハンスバッハだが、考え方は言うほど穏健派ではない。開戦否定派の重鎮ではあるが、むしろ裏では開戦派を煽っている。表立って開戦を口にしないのは、これまで培ってきた立場が理由になっている。開戦論に反対しているのは、概ね政治的立場だけが理由になっている。だからハンスバッハにとって、開戦派を支持するには相応の口実が必要となる。そのために一番いいのは、彼の家族がエルマーの人間に殺されることだ。だから成功しないテロが行われ、それを口実に次女を「安全な」エルマーのサン・イーストに留学させた。ここで彼女が殺されれば、ハンスバッハはエルマー側の不作為、もしくは不手際を責めることができる。開戦を肯定する口実を得ることができると言うわけだ。そして次女のエリーゼは、彼には「いらない」娘でもある。前妻の不貞を騒ぐ訳にもいかないので、外向きは愛娘として扱っているだけだ」  「それで」とナギサは相槌を打った。 「ただ、あまりあからさまでは逆にハンスバッハは立場を悪くする。だから、密着警備のため同い年の二人を派遣している。そしてサン・イースト警備隊……つまり、お前のところと連携するため、20人ほど要員を派遣した。ズイコーでの暗殺未遂も、要員派遣の口実として利用された」  そしてと、ノブハルは要員についての情報を説明した。 「派遣された要員は、実のところさほど能力的には高くない。それが、トウカと言うガードの生傷が絶えない理由になっている。加えて言うのなら、派遣された要員の中にハンスバッハの指示を受けている者が居る。連絡ログを確認した結果、副隊長のビナス・ロクジョーが指示を受けていた。その男が護衛の一人、セツナ・トコヨギの交際相手だ」 「まったくノブハルの情報力には恐れ入るよ。どうして、僕ですら知らない情報がすらすらと出てくるんだ? たぶん、イチモンジの当主も知らないことが多いと思うよ」  大げさにため息を吐いたナギサは、「それで」とノブハルの考えを質すことにした。 「そこまで調べたんだ。それでも、彼女と付き合うつもりか?」 「何か、問題があるのか?」  疑問に疑問で返されたことより、まるで何問題がないように言うノブハルの考え方が信じられなかった。 「君自身の安全、家族の安全を考えたら、今からでも考え直した方が良いと思うだけどね」 「一ミリも考えていないことを口にして、何か意味があるのか?」  言い返されたナギサは、もう一度深すぎるため息を吐いた。 「一ミリもは流石に言いすぎだと思うよ。これでもリンちゃんは大切だし、それ以上に君のことは大切なんだ。だから、君達に危険な目に遭ってほしくないと思っているよ」 「その気持を否定するつもりはないが……」  少し言葉を考えて、ノブハルは客観的事実を付け加えた。 「彼女が殺されれば、間違いなく100年ぶりの戦争が起こることになる。その場合、最初に狙われるのはサン・イーストと言うことになる。何しろ、穏健派重鎮の愛娘が命を落とした地だからな。奴らとしては、攻撃する口実が立ちやすい。そしてここが狙われたら、俺の家族は非常に危険な状態に置かれる。リンはトップアイドルだし、親父はイチモンジ家の信が厚い上級官僚だ。報復措置として狙われる理由としては、十分すぎるものを持っている。それぐらいの分析は、お前のところでもしているはずだ」  まっすぐに目を見られ、ナギサは諦めたように息を吐いた。 「ああ、だから保険を掛けようと思ったんだが」 「超銀河連邦に断られたのは知っている。あそこは、惑星ゼス事変以来、地域紛争への介入に慎重になっているからな。そしてズミクロン星系の戦争は、100年に1度の恒例行事のようなものになっている。そのままでも拡大することがないと、好きにさせると言う方針なのだろう」  それからと、ノブハルはもう一つの動きについても口にした。 「トリプルA相談所に、キャプテン・カイトの派遣を断られたのも知っている。ジェイド星系にあるトリプルA相談所が、他銀河の紛争に口を出す理由がない。それが、断り文の内容だったはずだ。だからお前たちが掛けようとした保険は、契約にまで至っていない。その意味で、俺が彼女に関わるのは好都合だと考えているはずだ」 「僕は、そこまで悪人ではないと思っているんだけどね」  まいったなと頭を掻いたナギサに、どこがだとノブハルは冷酷な現実を突きつけた。 「エルマー7家の次期当主が、お人好しであって良いはずがない。想定外の事が起きた時、どう利用するかを考えるのが次期当主の習性のはずだ」 「僕は、君とは親友のつもりなんだけどね。損得の関わらない友人と言うのは、7家の一つに居るからこそ何よりも貴重に思えるんだよ。そのあたりは、信用してもらいたいんだけどね」  ナギサの弁明に、「詭弁だな」とノブハルは切って捨てた。 「すでに友人としての価値付けをした時点で、損得勘定に組み込まれているだろう」 「やれやれ、君とは普通の友人関係も結べないんだね」  諦めたようにため息を吐いたナギサは、「分かったよ」とノブハルの言葉を認めた。 「確かに、君のことを切り札として期待しているよ。だけど、それは双方にとって利益が合致していると思うんだけどね?」  違うのかと言う問いかけに、ノブハルはしっかりと頷いた。 「俺は、エリーゼに女を教えてもらう。そしてお前は、ズイコーとの戦争を避けることができる。確かに、双方の利益は一致しているな」  比較の次元が違いすぎるというのは、客観的に見れば間違っていないはずだ。ただ二人にとって、世間的な評価は気にならないようだ。そのあたり、ナギサがノブハルを理解しているからと言う事もできる。  そしてそれ以上にあるのが、ノブハルに対する信頼だった。それにしても、ただの学生、しかも18の子供に期待するには、いくらなんでも要求水準が高すぎるだろう。万策尽きたと言う事情があったにしても、他の手を模索するのがまっとうな考えのはずだった。  長々と話をしていれば、教師が教室に来ていても不思議ではないだろう。実際に教師は、すでに教壇に立ち授業を始めていた。ただ普通の教師が、この二人に指導などできるはずがない。それどころか、ノブハルの姿を見て、教師は何度も日付と時間割を確認したぐらいだ。たまに学校に顔をだすことはあっても、ノブハルは教員側に居る人間だったのだ。  そして長い昼休み、ノブハルは公約通り体育館にやってきていた。2時間の休み時間を利用して、各種スポーツサークルは練習時間に当てている。その一つであるローキューサークルに、ノブハルは顔を出していた。  ノブハルにとって、ローキューサークルは自分の論理を検証する場の一つとなっていた。運動系の博士号、「繰り返し運動に対する筋肉制御」はローキューを通じて検証を行ったものだった。そして今は、別の理論の検証も行っていた。  試合形式で行われた練習で、ノブハルはパサーと3ポイントシューターの役割を持っていた。3ポイントシュートについては、すでに実証した理論から成功率は9割を超えるという驚異的な数値を叩き出している。外した1割にしたところで、3ポイントシュートのエリアからはるか遠くから放たれたのが理由になっていたのだ。通常の3ポイントシュートレンジからなら、失敗は初期にしかないと言うのが実態だった。  そしてこの練習で、ノブハルはパサーに専念していた。ただそれだけだとパスコースが消されるため、たまに3ポイントを打ってガードを一人ひきつけていた。 「私は、ローキューと言うものがよく分からないのですが」  約束通りコートサイドから観戦しているエリーゼは、「凄いのですか?」と二人の護衛に質問をした。初心者には、目まぐるしく動くスポーツを理解するのは難しかった。 「客観的に見て……」  セツナは、「自分が」とトウカを見てから「凄すぎます」と最大限の賛辞を口にした。 「頭の中に、味方の動きと敵の動きが完全にできあがっているとしか思えません。パスを出す直前どころか、初めから味方の位置を確認していないんです。そのくせパスは、早くて正確だし……子供の中に、一人だけプロが混じっているようなものです」 「そうですか。ノブハル様は凄いのですね?」  エリーゼが嬉しそうにしたところで、どう言う訳かノブハルのパスが失敗した。 「まあ、こう言う事があっても不思議はないと思いますよ」  どこまで言っても、人と言うのはデーター通りに動くことはできない。仲間を見ていない以上、この手の失敗があって当然だとセツナは口にした。 「でも、ちょっと様子がおかしくない?」  ほらとトウカが示した先では、ノブハルが失敗した仲間の所に駆け寄っていた。強い口調で何かを言っているのを見ると、失敗したのを責めているようにも見えた。 「何か、印象が悪いんですけど」  視線を厳しくしたセツナに、「でも」とトウカは周りの動きを持ち出した。 「簡易医療キットが出てきたわよ。もしかして、怪我の心配をしたんじゃないの?」  ほらと示した先で、ノブハルが失敗した仲間を背負っていた。どうやら失敗を叱責したのではなく、故障を心配した言うのが正しい判断のようだ。 「想定した動きができなかったから、故障を見つけた……と言うことですか?」  そんなことができるのかと驚くセツナに、「見たまんま」とトウカは答えた。 「だとしたら、凄すぎるんですけど」 「まあ、私達の常識から外れているのは間違いなさそうね」  「と言うことです」とトウカはエリーゼの顔を見た。 「どうやら、トウカさんの説明通りのようですね」  そこでほっと息を吐き出したエリーゼに、「どうかしたのですか?」とセツナは理由を尋ねた。 「いえ、本当に私などで良いのか疑問を感じてしまっただけです」  超絶的に文武両道なところを見せられれば、疑問を感じるのも不思議ではないだろう。天才的頭脳を持つノブハルと、厄介しか運んでこない自分という存在。それを考えれば、エリーゼが不安に思うのも無理も無いことなのだ。  不安を感じたエリーゼだったが、次の瞬間「きゃっ」と言う可愛い悲鳴を上げる事になった。うつむいたために顕になった首筋に、なにか冷たいものが押し当てられたのだ。 「悲劇のヒロインごっこだったら他でやってくれない?」  そう言って3人の間に割り込んできたリンは、「あなた達の分」と言って缶のオレンジジュースを二人に手渡した。そしてあっけにとられている3人を尻目に、兄に向かって「お〜い」と手を振った。 「せっかく見に来たんだったら、ちゃんといるのをアピールしないと。まあ、兄さんだったら気づいていると思うけどね」  そう言って笑ってから、リンはもう一度「お〜い」と声を上げた。さすがにそこまでされれば、応えないわけにはいかないのだろう。仲間に声を掛けてから、ノブハルはコートサイドにやってきた。 「何か、用があるのか?」 「可愛い妹が来たのよ。用がなくても、声を掛けても良いでしょう?」  すかさず言い返した妹に、「ふむ」とノブハルは少しだけ考えた。 「合理性のかけらもない主張なのだが。確かに、お前に合理性を求めるのは無謀だったな」  妹の言葉を認めたノブハルは、「それで?」とその先を促した。 「俺に声を掛けて、それからどうしようと言うのだ?」  用がないなから戻ると口にした兄に、リンはエリーゼの顔を見た。 「いつまでも、彼女を待たせちゃだめだと思うのよ。女の子を理解するのって、そう言うところから始めないとだめよ」  偉そうに指摘され、ノブハルはエリーゼを見て「そうなのか?」と尋ねた。 「その、ローキューでしたか。見ているのも楽しいと思えました」 「なるほど、妹の言うとおりということか」  じっとエリーゼの顔を見たノブハルは、「待っていろ」と言い残しコートの方へと歩いていった。ただそのまま練習に戻らず、仲間に手を振って更衣室の方へと走っていった。 「あの、どうして急に?」  自分は、見ているのも楽しいと答えていたのだ。それなのに、ノブハルは急に練習を打ち切ってくれた。 「兄さんが、あなたの嘘……に気づいたからかな。まあ、少しだけ勘違いしていると思うけどね」  更衣室の方を見たリンは、「悲劇ごっこはやめようね」と言ってランチボックスをエリーゼに手渡した。 「これは、兄さんの分よ。次からは、あなたが用意してあげてね。母さんには、作らなくていいって言っておくから」 「私が、作るのですか?」  驚いた顔をしたエリーゼに、「女の子でしょう?」とリンは言い返した。 「そう言うのを嫌いな人が居るのも知っているし、そう言う思想を持っているのなら無理強いはしないけどね。兄さんを喜ばせようと思ったら、それぐらいのことをしても良いんじゃないの? 兄さんもそうだけど、あなたも人を好きになったことがないでしょ?」  違うのと覗き込まれ、エリーゼは視線に耐えられずに顔をそらしてしまった。 「やはり、分かってしまいますか?」 「だって、兄さんへの答えが非常識だったから」  それだけと笑ったリンは、もう一度更衣室の方を見た。まだ兄は、着替えの真っ最中なのだろう。もしかして、気を使ってシャワーを浴びている可能性もある。 「じゃあ、私は帰るから。兄さんのこと、よろしくね」  そう言い残すと、リンはエリーゼが止める間もなくその場を去っていった。結局嵐のようにやってきて、色々とお節介を焼いていなくなってくれた。 「ブラコンで過保護な妹……ですか?」  はあっと息を吐いたセツナに、トウカは少し口元を歪めて頷いた。 「ちゃんと、女性とお付き合いができるか心配でたまらないって感じね」  そう言って顔を見合わせて肩をすくめた二人に、「同じようなものです」とエリーゼは自嘲した。 「リンさんに気を使ってもらった途端に、クラスで話ができるようになりました。壁を作っていたのは、私達と言うことです」 「確かに、それは否定できませんが……でも」  そう言ってエリーゼの顔を見たセツナは、続く言葉を口にしなかった。何を言っても言い訳に過ぎず、自分達の問題から目をそらしただけと言うのに気がついたのだ。 「ねえ、セツナさん?」  黙ってしまったセツナに、エリーゼは真剣な顔で問いかけた。 「恋をするのは、素敵なことだと思いますか?」 「なぜ、私には聞いてくださらないのですか?」  すかさず苦情を言ったトウカに、「理由が必要ですか?」とエリーゼは笑った。 「いえ、身につまされるので結構です」 「そう言うことなので、セツナさん教えて下さいますか?」 「素敵か……でしょうか」  本当にそうなのか。セツナは答えを口にする前に、真剣に考えた。自分はどうしてあの人に抱かれたのか、その理由にまで遡ってエリーゼへの答えを考えたのである。 「私にはまだ良く分かりませんが、目の前の世界が変わったのだけは確かだと思います。色々なものが、愛おしくなったのを感じました」 「それは、素敵な答えですね」  ふっと微笑んだエリーゼは、リンのように更衣室へと視線を向けた。ドアを開いてノブハルが出てきたのは、ちょうどその時のことだった。 「私も、恋を知りたいと思うようになりました」  それが、ノブハル相手のことなのか。エリーゼには、まだそのことは分からなかった。  ノブハルとリンの父親であるシュンスケ・アオヤマは、キナイ行政区の高級官僚と言う立場を持っていた。所属省庁は財務なのだが、どう言う訳か首席補佐官の仕事までさせられていた。ちなみに「主席」と言うのは、キナイ行政区を司るイチモンジ家当主ハラミチ・イチモンジである。「金勘定で忙しい」と固辞したシュンスケを、ハラミチが主席命令で黙らせた結果でも有る。 「俺は、年度末で忙しいと言っておいたはずだが」  そして今日も、本業ではない用事でシュンスケはハラミチに呼び出されてた。だからと言う訳ではないが、いつもに増して表情は無愛想なものになっていた。  一方モミアゲから顎までぐるりと繋がった、リンカニックと言う髭を蓄えたハラミチは、両肘をデスクに突いて口元で両手を合わせていた。表情を隠すための赤いレンズの入った丸メガネを光らせ、「主席命令は絶対だ」と嘯いてくれた。 「それで、お偉い主席様がただの役人になんの用だ?」  少しも尊敬の見えない態度に、ハラミチは「首にしてやろうか」と言い返した。 「おう、それこそ俺の望む所だ。さあ、首にしろ、今すぐ首にしろっ!」  ハラミチの言葉を利用したシュンスケは、望むところだと首を迫った。 「つまり、お前の承諾を得られたと考えて良いのだな?」  確認したハラミチに、「言った通りだ」とシュンスケは言い返した。そしてその言葉を確認し、ハラミチは一通の封筒を彼に投げよこした。 「なんだ、これは?」  今時珍しい封筒を、シュンスケはマジマジと見てしまった。 「見たとおりの辞令だが?」  何がおかしいと聞き返したハラミチに、「首にするんだろう」とシュンスケは言い返した。 「それなのに、なぜ辞令と言う話になる」 「それは、その中身を読めば分かることだ」  相変わらず口元を隠したままのハラミチに、「読めば良いんだな」とシュンスケは時代遅れの封筒を開いた。そしてすぐに、どう言うことだと「辞令」の書かれた紙をデスクに叩きつけた。 「希望通り、財務の任を解いてやっただけだ。これでお前は、首席補佐官専任と言うことになる」 「俺は、首席補佐官を首にしろと言ったんだがな」  おかしいだろうとの抗議に、「聞いてないな」とハラミチはすっとぼけた。 「俺が聞いたのは、首にしろと言う主張だけだ。だから俺は、俺にとって一番いい選択をしただけだ」  そう嘯いたハラミチは、「見てみろ」と言って今度はデーターをシュンスケに投げた。 「俺の話は終わっていないんだがな……おいおい、これで何件目だ」  渡されたデーターの中身に、途端にシュンスケの表情は険しくなった。そこには、エリーゼを狙ったテロ阻止の報告が記されていた。 「クライストスは、一体何を考えているんだ?」 「今更、何をと問うのか?」  ふんと鼻息を一つ吐いて、ハラミチは少し下がった丸メガネを人差し指で押し上げた。 「やつは、自分の娘を人身御供にするつもりなのか?」 「自分の娘だとは思っていないと言うことだ。エリーゼ・クライストスが留学して以来、奴の周りで暗殺事件は起きていない」  あからさますぎると笑ったハラミチは、「迷惑だな」と吐き捨てた。それに小さく頷いたハラミチは、とても過激なことを口にした。 「一戦交えたいと言うのなら、付き合ってやっても良いのだがな。だが、これではやり方があまりにも姑息すぎる。だから徹底的にコケにしてやろうと思ったのだが……」 「お前なら、それぐらい難しくはないだろう?」  人でなしと言われることを、平気でやってのけるのがハラミチと言う男だった。それを知っているだけに、口ごもるハラミチと言うのはシュンスケには意外だった。 「いささか、まずいことになろうとしているのだ。クライストスの奴、娘を殺すのにどうやら殺し屋を雇うようだ。いや、正確に言うのならアルカロイドを雇おうとしている」 「あの、テロリストどもを、か……」  流石にまずいと、シュンスケは口元を押さえた。ズイコーの特殊部隊は怖くないが、流石にプロの暗殺集団となると勝手が違ってくる。しかも相手は、名前は有名でも誰も実態を知らないと言ういわくつきの相手だった。しかも暗殺の成功率が100%に限りなく近いと言う、厄介極まりない相手でもある。  超銀河連邦には、連邦を跨いだ犯罪のために、IGPOと言う組織が有る。そしてアルカロイドは、IGPOの銀河間指名手配リストに堂々と載っている組織だった。それでも逮捕実績がない所が、アルカロイドの実力を示していた。 「お前は、どこまで掴んでいるんだ?」 「さほど多くはないと言う所だ。契約交渉が終わっていないのは把握しているが、邪魔をしようにも詳しい動きが見えてこない」  厄介だと吐き出すハラミチに、「連邦軍は?」とシュンスケは対抗組織の名を持ち出した。 「連邦軍は、ズミクロンの内紛には不干渉を決めている。そして奴らは全体を見て、個人の悲劇にまでは関わってこない。もちろん、俺が同じ立場なら同じ選択をするだろう。そしてアルカロイドを、IGPOは持て余している」 「トリプルAには、確か断られたのだったな」  民間軍事組織として、トリプルA相談所は最強との評判が立っていた。リゲル帝国とパガニアの戦士をスタッフに抱えるだけでなく、銀河最強の戦士であるキャプテン・カイトまで所属していたのだ。それだけで、一星系と戦争ができると言われるぐらいだ。しかもレムニア帝国とも繋がりがあるのだから、たかが一企業とは侮れない相手だったのだ。 「ああ、トリプルAの安全保障に関する守備範囲は惑星ジェイドだけだと断られた。もう一度交渉してみるが、果たして間に合うかどうかと言う所だ」 「可哀想な少女を救いたい。トリプルAなら、立派な口実になるんじゃないのか?」  パガニアに狙われた少女の命を助けたことも、トリプルA相談所を有名にしていたのだ。それを考えれば、親に命を狙われる少女と言うのも、彼らにとって保護すべき相手に違いない。それが星間戦争の引き金なら、介入する口実も立つことだろう。 「ああ、だからその線でもう一度押してみるつもりだ。ただ、今からだと間に合うかどうか微妙なところでもある」  敵への備えとして、明らかに後手を踏んでしまったのだ。挽回策はあっても、時間的に間に合うか微妙な所になっていた。 「それで、俺に何をしろと言いたいのだ? 言っておくが、俺はどこまで行っても文官だぞ」  出来ることにも限りがある。シュンスケの主張に、ハラミチは小さく頷いた。 「それぐらいのことは分かっている。お前に頼みたいのは、トリプルAとの直接交渉だ」 「交渉は、お前がやるんじゃないのか?」  驚いた顔をしたシュンスケに、「無理を言うな」とハラミチは言い返した。 「俺が、そうそう簡単にここを離れられるとでも思っているのか? それに俺の動きがバレたら、奴らは計画を前倒しする可能性がある」 「つまり、俺の動きも秘密にしないといけないと言うことか」  言われるまでもなく、お互い手の内を隠す必要があったのだ。それを考えれば、自分が財務から引き抜かれた理由にも納得がいく。完全に畑違いのシュンスケなら、目くらましにちょうど良いはずだった。 「だったら、すぐにでも出発すべきと言うことか」  事情に納得がいけば、行動を起こさないわけにはいかなくなる。同い年の娘を持つ父親として、平気で自分の娘を殺す父親を許す訳にはいかなかった。たとえそれが、血を分けた娘でないと分かっていてもだ。 「すでに、今夜出発するフライトの確保は済んでいる。何もなければ、4日後にジェイドのアズマノミヤに着くはずだ」 「4日後か、今更だが……長いな」  敵の動きに対して、今更ながら後手を踏んだのを思い知らされたのだ。だが文句を言っても、今更どうにもなることではない。分かったと答えたシュンスケは、出発のために家に一度帰ることにした。フライトの時間が決まっている以上、慌てることに意味はなかったのだ。  そのまま退庁したシュンスケは、出発準備のためまっすぐ家に帰った。出発の準備も重要だが、自分が留守の間のことをノブハルに頼んでおこうとも思っていた。  玄関で妻フミカの迎えを受けたシュンスケは、普段になく家が賑やかなのに気がついた。そして玄関を見て、女子学生の履く革靴が並んでいるのに気がついた。 「リンの友達が来ているのか?」  珍しいなと笑ったシュンスケに、「それが」とフミカが嬉しそうに事情を説明した。 「ノブハルが、ガールフレンドを連れてきたのよ。私、もう、ホッとしたと言えば良いのか。あの子も大人になったんだなぁって嬉しくて」 「ノブハルに、ガールフレンド!?」  今更何が起きても驚かないつもりで居たシュンスケだったが、流石にこればかりは驚かない訳にはいかなかった。女性関係どころか、人間関係の苦手な息子に、ガールフレンドが出来たというのだ。それこそ、赤飯を炊いて祝ってもおかしくない快挙だった。 「それで、相手はどんなお嬢さんだ?」 「それがね、金色の髪をしたとってもきれいなお嬢さんよ。確か、ズイコーからの留学生だったかしら」  ズイコーからの留学生に、金色の髪をした少女。そのキーワードに合致するのは、サン・イーストに一人しか存在しない。「何?」とシュンスケが緊張するのも無理のないことだった。 「エリーゼ・クライストスが来ているのか?」 「そうそう、エリーゼさんと言ったわね。でも、よくご存知でしたね」  何も事情を知らなければ、エリーゼと言うのは金色の髪をした上品な少女でしか無い。妻のフミカは何も知らないのだから、危機感がないのも不思議な事ではなかった。  流石に問題だとは思ったが、ここで騒ぐことに意味はない。すぐに気を落ち着けたシュンスケは、「役所では有名だ」と誤魔化すことにした。 「何しろ、ズイコーからの留学生だからな」 「そう言えば、留学生の情報は役所に上げられましたね」  小さく頷いたフミカは、「出張ですか?」と夫に尋ねた。普段から早く帰ってくる夫なのだが、今日はそれにしても早すぎたのだ。 「ああ、ちょっと10日ほど家を空けることになった」 「随分と長いのですね。でしたら、準備が必要ですね」  大変だと小さくつぶやきながら、フミカはパタパタと足音を立てて家の奥へと消えていった。家の中の騒がしさを考えると、問題の少女は居間に通されているのだろう。  挨拶でもしていこうかと考えたシュンスケだったが、すぐにその考えを放棄した。息子への頼み事も、メッセージを残せば問題がないはずだ。楽しい時間を過ごしているのなら、邪魔をすることもないと思ったのだ。そして彼の信じる息子なら、事情のすべてを知っているはずだと考えたのである。  リンが気を使ってランチボックスをおいていったのだが、4人のランチは食堂へと場所を変えることになった。それは食事の環境改善を考えたわけでなく、エリーゼ達3人がランチボックスを用意していなかったからである。生粋のお嬢様であるエリーゼは当然として、護衛の二人も家事のスキルを持ち合わせていなかった。  ただ食堂のランチセットを注文したのは、トウカとセツナの二人だけだった。別にエリーゼがランチを抜いた訳でなく、「食べるか?」とノブハルが自分のランチを分け与えたのがその理由である。前夜リンが口にしたとおり、母親のフミカは運動後の男子ですら持て余す量を持たせていたのだ。 「とても、美味しいと思います。それにライスボール、ですか? 合理的な食べ物だと思います」  一つのランチボックスを、男女仲良く分け合っている。その光景だけを見れば、恋人同士と言ってもおかしくはないのだろう。ただ男性側がランチボックスを用意したことは、「世間常識」から少し外れていた。 「食べやすさと言う意味なら、確かにそうなのだろう。ただ摂取カロリーを考えた場合、ライスボールは過剰摂取の誘因となる問題が有る。確かにスポーツの後は、適度なカロリー等の補給が必要となるが。それを考えても、これは過剰といえるだろう」  「お前達も食べるか」とランチボックスを差し出され、トウカとセツナは慌てて断った。自分達がお裾分けを貰ったら、恋人同士のランチからピクニックに様変わりをしてしまうのだ。  少し残念そうに差し出したランチボックスを引いたノブハルは、「だから助かった」とエリーゼの顔を見た。 「残すわけにはいかないし、捨てると言うのは言語道断の行為だろう。だから今までは、無理やり胃袋に詰め込んでいたのだ。そして過剰摂取したカロリーへの対策として、特性の薬剤を摂取していた。どうやら今日は、薬剤を飲まずに済ませそうだ」 「お役に立てた、と言うことですね」  そこは嬉しそうにするところなのか。疑問を感じた護衛の二人だったが、余計なツッコミで二人の時間を邪魔する訳にはいかない。それもあって、黙々と自分のランチセット……大盛りのフライ定食を口に運んだ。肉体労働の護衛なのだから、エリーゼとは必要カロリーのレベルが違っていた。  もっとも、いくら気を使っても二人の間に共通する話題はない。そしてノブハルもそうだが、エリーゼも会話が弾むタイプではなかったのだ。そんな二人が一緒に居て、楽しい会話が成り立つはずがなかった。結局二人のランチは、大量のランチボックスの中身を黙々と口に運ぶだけのものになってしまった。  それでもノブハルにとって、エリーゼとのランチは二つの意味で有意義だと感じていた。そのうちの一つは、膨大な量を一人で消費しなくてもすんだと言うことである。そしてもう一つが、「妹とは違うのだな」と言う観察結果を得たことだった。当たり前だが、二人の性格は違いすぎていたのだ。  そしてその日の放課後、リンの招待に応じる形で3人はアオヤマ家を訪問していた。アイドルからのご招待に緊張する護衛の二人と、なにも考えていない(ように見える)エリーゼは、ノブハルやリンと一緒にスクールバスで移動した。そこで想定と違ったのは、一行にナギサが加わったことだった。一応リンの立場に気を使ったのか、「親友だからね」とノブハルとの関係を理由にした。  話したくてたまらないリンと世渡り上手のナギサがいれば、場の雰囲気はランチタイムとは違ったものになる。普段以上にテンションが高いリンは、自爆を含めた暴露話で場を盛り上げてくれた。 「1番、リン・アオヤマ。スィート・ベリーを歌いますっ!」  そしてそのテンションそのまま立ち上がったリンは、リンラ・ランカ持ち歌を歌いだした。もちろん本人なのだから、ステージそのままの歌唱力だった。しかもノブハル特製の衣装チェンジシステムまで使い、気分は完全にワンマンショーだった。  しかもナギサまで悪ノリをして、照明を落としてリンにスポットライトを当てたのだ。もうこうなると、暴走したリンを止めるものは居ない。目で促されたトウカとセツナは、邪魔になりそうなものを部屋の隅に片付けた。 「まだまだぁ、ラプソディ・イン・ピンクぅっ!」  いぇいと、声を上げながらリンは両手を頭の上で叩いた。もちろん、ナギサ達が大人しく見ているのが許されるはずがない。「ノリが悪いっ!」と叫んで手拍子を求めたのである。そしてノブハル特製の衣装チェンジャーを駆使し、歌いながら早着替えを繰り返していった。 「3日目のアバンチュール! ナギサっ、あなたも歌いなさい!」  数少ないデュエット曲を選び、リンはナギサにも歌うよう要求した。少し顔を引きつらせたナギサだったが、リンの剣幕に負けて隣で踊りながら歌い始めた。嫌がった割には、思いっきり様になった歌と踊りだった。 「ダンス・ダンス・ダンス行きまぁす。みんな、ちゃんと踊ってねっ!」  前奏を利用して、リンはトウカとセツナを立ち上がらせた。そして3人並んで、簡単なダンスを始めてくれた。もちろんトウカ達二人がうまく踊れるはずがないので、レッスンをするように踊り方を声に出した。しかも二人を気に入ったのか、普段の振り付けにない踊りまで始めてくれた。 「君達は、場所を変えた方が良い。大丈夫、あの二人に退屈はさせないよ」  嬉しそうに手を叩いていたエリーゼと、普段通りの……いつもよりは優しい顔をしたノブハルに近づき、ナギサは「部屋に行った方が良い」とアドバイスをした。 「別に、してこいと言っているわけじゃないからね。クライストスさんは、ちゃんとノブハルと話すべきだと思っているんだよ」 「私のことをご存知……と言うことですね」  笑顔を消したエリーゼに向かって、ナギサは爽やかな笑みを浮かべて頷いた。 「ノブハルほどじゃないけど、まあそれなりにと言うところだね」 「ノブハル様ほどではない、と?」  少し驚いたエリーゼに、「さあさあ」とナギサはエリーゼを急き立てた。 「僕は、これからハーレムを堪能するつもりなんだよ」 「妹を泣かせたら、明日のお日様を拝めなくなるのを忘れるな」  ニコリともせず拳をナギサの胸に当てたノブハルは、「行こうか」とエリーゼに声を掛けた。真剣な表情で頷いたエリーゼは、楽しく踊るトウカ達二人を見てから立ち上がった。  ちょっと大きめの一軒家でも、居間からノブハルの部屋まで距離があるわけもない。ちょっとだけ廊下を歩く時には、居間の盛り上がりが耳に届いていた。ただその喧騒も、ノブハルの部屋に入るまでのことだった。ドアを締めた途端訪れた静寂に、エリーゼは驚きから目を見張ったほどだ。  アクティブサイレンサーなど、今どき珍しくない装置に違いない。ただノブハルの部屋に付けられていたのは、もっとスマートで効果の高いものだった。 「居間の音が聞こえたほうが良いか?」  首を巡らせたエリーゼに気づき、ノブハルはサイレンサーの効果を少しだけ弱めた。お陰で、居間の騒ぎがはるか遠くから聞こえてきた。  これで準備が整ったと、ノブハルはエリーゼをいつもはリンが使っている椅子に座らせた。そして自分は、エリーゼから少し離れた、いつもの椅子に腰を下ろした。恋人同士のように、ベッドにくっついて座ると言う考えは無かったようだ。 「悪いのだが、俺はこう言うときなにを話せば良いのか分からない」  自分の部屋に招いた以上、話を切り出すのはノブハルの責任に違いない。ただ知識を尊ぶノブハルも、こう言うときなにをすべきかの知識を持っていなかった。 「それは、私も同じだと思っています」  二人きりなったからか、それとも事前に言われたことが気になっていたのか。エリーゼの表情は堅いままだった。顔はうつむき加減で、両手は制服のスカートの上でぎゅっと握られていた。 「下心の有る男の場合、押し倒して性交渉をするものだと書いてある本があったな。男の部屋で、二人きりになるのは性交渉に合意した証拠だと書いてあるものもあった」  ノブハルの言葉に、エリーゼは体を固くし握った拳にさらに力が込められたように見えた。 「しかしそれは、お互いの気持が高まったと言う意味ではないのだろう。少なくともお前……うむ、この呼び方には問題が有るか」  そこで少し考えたノブハルは、エリーゼの顔を見て「エリーゼと呼び捨てにするのが正しいのか?」と尋ねた。 「それとも、お前に合わせてエリーゼ様と言うのがいいか?」 「呼び捨てにしていただければ結構です」  蚊の泣くような小さな声で答えるエリーゼに、なるほどとノブハルは小さく頷いた。 「分析した限り、エリーゼは性的興奮状態にはない。極度の緊張はしているが、感情的には恐怖と言うのが一番ふさわしいのだろう。そしてその恐怖は、性と言う未知の体験への恐怖や、俺と言う存在に対する恐怖ではないようだ。いや、それは少し正確ではないか。俺に対する恐怖は有るのだろうが、それは俺がなにを言うのか恐れていると言うもののようだ。そしてその理由は、エリーゼ自身の事情にあると言うことか」 「そこまで分かってしまうものなんですか」  相変わらず小さな声で答えるエリーゼに、「誰にでもできる分析だ」とノブハルは感情のこもらない声で答えた。 「リンさんは、ノブハル様はおおよその事情を理解されていると仰りました」 「おおよその事情か。確かに、エリーゼの事情はかなり理解しているつもりだが。それを話す前に言っておきたいのだが、俺が呼び捨てにする以上エリーゼも俺を呼び捨てにしろ。それが、恋人になると言うものではないのか?」  違うのかと問われ、エリーゼは小さく頷いた。 「ならば、俺の知っていることを教えよう。エリーゼ・クライストス。共通歴7月7日生まれ、父親はズイコー上院議員のハンスバッハ・クライストスだ。ハンスバッハと前妻のエーデルワイスとの間に生まれた次女で、兄妹は姉を含めて3人いる。身長は166cm、体重は……なんだ? 俺のことは呼び捨てにしろと言ったはずだ」  データを口にしようとしたところで、「ノブハル様」と言う大きな声で遮られてしまったのだ。ただノブハルは、説明を遮られたことでなく、呼び捨てにされなかったことを問題とした。 「すみません、体重やスリーサイズは乙女の秘密にしてください」  恥ずかしそうにするエリーゼに、ノブハルは不思議そうな顔をした。 「ナギサは、二人きりの時に話せと言ったのだが……なるほど、まだ親密度が足りていないと言うことか」  難しいことだとのつぶやきに、「そう言う訳では」とエリーゼは答えた。 「親密になったとしても、そう言った数値を口に出しては言わないものです」 「そこまで気を使う数値にも思えないのだが。まあ、身体的データーは別にいいだろう。ならばナギサとも共有した話なのだが」  そう言いながら、ノブハルは手元で何かを操作する真似をした。 「父親のハンスバッハは、穏健派の上院議員として知られている。そして次の総統候補のひとりとしても知られている。ただし次の総統選挙は2年後のため、現在各候補が足場固めをしている所だ。従ってハンスバッハも、他を引き離す得点を欲していると言うのが実態だろう。それとは別に、エルマーとズイコーは、およそ100年毎に小競り合いが起きている。前回の小競り合いから99年経過したことを考えれば、そろそろ小競り合いが起きる可能性がある。そして律儀にも、100年をめどに小競り合いを起こそうとしている奴らも居る。穏健派と言うこともあり、ハンスバッハは「そろそろ悪しき慣習から脱却すべき」と主張し、国内の主戦派の動きを牽制している。その為、過去何度も暗殺未遂事件が起き、首謀者が逮捕されても居る。そしてお前は、安全のために治安のしっかりしているキナイ地区に留学することになった。ここまでは、間違っていないか?」  公開情報を整理すれば、ノブハルの説明に辿り着くことは出来る。ただ自分に声を掛けてからの時間を考えたら、ここまでたどり着いたことに驚くべきなのだろう。ただ裏の事情を知るエリーゼにしてみれば、ノブハルの口にした事実はさほど重要なことではなかった。  だから答えも、「そうですね」と言うあっさりとしたものになっていた。ただノブハルの話は、これだけでは終わらなかった。 「話を続ける前に尋ねておくが、親子関係の疑義を持ち出すのはエチケット違反になるのか?」 「それが私に関することで、お話に必要なのであれば差し支えはありません」  そうかと頷いたノブハルは、ハンスバッハの夫婦関係を持ち出した。 「ハンスバッハと妻のエーデルワイスの間に、1男2女が生まれている。それだけを見ると、夫婦関係は良好だったように見えるだろう。だが実態は、穏健派の顔とは裏腹に、ハンスバッハは日常的にDVを働いていた。調べた範囲では、幼い頃から嗜虐的な性向があったようだ。そしてハンスバッハは、妻エーデルワイスに対して実家の名前と資産以外に価値を認めていなかった。だからエーデルワイスの実家が没落した時点で、妻の存在は無用のものとなっていた。だが離婚をするには、実家の没落が理由ではイメージが悪すぎる。だからハンスバッハは、外に女を作り、帰ってきてはDVをエスカレートさせた。貞淑な妻だったエーデルワイスだが、推測する限り魔が差すと言われる状態になったのだろう。一度だけだが、彼女を診察した医師と関係を持ってしまった。それが、およそ18年前のことだ。ナガト・アインツベル、それがその医師の名前だ。ただナガトは、直後に交通事故で他界している」  淡々と自分の持つ情報を語るノブハルからは、何の感情も感じられなかった。そしてエリーゼも、口を挟むこともなく、ただノブハルの言葉を聞いていた。 「その後エーデルワイスは、一人の女の子を産んだ。それが、ハンスバッハにとって次女となるエリーゼと言うことになる。俺の言う親子関係の疑義は、そのことを指している。そしてハンスバッハだが」  ノブハルは、エリーゼの言葉を待たずに話を続けた。 「穏健派の総統候補として、徐々にだが支持率を落としてきている。総統への野心を持つハンスバッハは、このままだとジリ貧であることを悟り、起死回生の策を考えなければならなかった。やらせの襲撃では、もはや有権者を騙せ無いと考えるようになったのだ。だから有権者の同情を引き、そして指導者としての力強さを見せる方法を考えることになった。そのためには、「愛娘の死」と、それを乗り越え犯罪者に正当な罰を与える姿を見せることにした。その仕掛けを発動させるため、エリーゼはサン・イーストに留学させられた。ここで死ぬ、特に辱められ惨たらしく殺されれば、ハンスバッハは世間の同情を引くことが出来るし、エルマーとの戦争を起こす口実を得ることになる。ハンスバッハにとって、「不貞の娘」が最後に親孝行をすることになると言う訳だ」  聞かされた本人にしてみれば、本来それは驚愕の事実になるもののはずだった。だがエリーゼは、ノブハルに教えられたことに驚くことはなかった。その代わり、ノブハルに対して「なぜ」を突きつけた。 「それをご存知で、どうしてノブハル様は私を恋人として扱うのですか?」  自分といれば、間違いなく身の危険を感じることになるはずだ。場合によっては、自分を殺した犯人に仕立て上げられる可能性もあったのだ。戦争の引き金を引くには、犯人はサン・イーストの住人であるのが好ましいはずなのだ。  そしてもう一つ決定的なのは、ノブハルがイチモンジ家次期当主であるナギサの親友と言うことだった。これで自分が死んだ時、イチモンジ家は関与を否定しにくくなる。それだけで、戦争を吹っかける条件をみたすことになる。 「ノブハルと呼び捨てにしろと言ったはずだ。それはさておき、疑問の意味が分からないのだが? 俺は、エリーゼに女を教えて欲しいと頼んだ身だ。そしてその条件として、恋人になることを求められた。俺の理解はどこか間違っているのか?」 「間違っては居ません。ですが、ノブハル様は私の事情を知ってしまいました。でしたら、私といればノブハル様だけでなく、リンさんやご家族も危険に晒されることになるのをご存知のはずです」 「それは、エリーゼを殺そうとする奴らに利用されるから、と言いたいのだな」  そのものズバリを口にしてから、ノブハルは「なんだ」と小さく息を吐いた。 「そんなことを気にしていたのか?」 「そんなことではありません。私のために、関係のない方々を巻き込みたいとは思っていません!」  大声を出したエリーゼに、「関係なら有るはずだ」とノブハルは言い返した。 「俺は、エリーゼの恋人になると約束したはずだ。ならば、無関係とは言えないだろう。これは、お互いが合意したことのはずだ」  今日起きた事実を口にしたノブハルに、「ですが」とエリーゼは言い返そうとした。だがそれ以上口にしなかったのは、口では勝てないことに気づいたからだ。そうなると今のエリーゼには、ノブハル達を巻き込まない方法は一つしか思い浮かばなかった。 「ノブハル様に、女を教えるのが約束でしたね」  思い詰めた表情で立ち上がったエリーゼは、ジャンパースカートのファスナーを引き下ろした。そしてゆっくりと肩の部分をずらしたところで、支えを失ったスカートはふわりと床に落ちた。まっすぐにノブハルを見たエリーゼは、少し震える手で首のリボンを解き、ボタンを一つずつ外していった。ボタンが外れて開いた胸元から、品の良い下着が顔を覗かせた。 「ここで私を抱いていただけば、今日交わした約束は完遂されることになります。私は恋を知り、ノブハル様は女を知ることが出来ます」  だからと言って、エリーゼはブラウスからゆっくりと腕を引き抜いた。だがエリーゼが下着を外そうと腕を後ろに回したところで、「なぜだ?」とノブハルは問いかけた。 「ノブハル様の未来を閉ざす訳にはいかないからです」  そう答え、エリーゼは胸を隠す下着を外した。小ぶりな胸が、ノブハルの目の前に晒された。そして最後の一枚に手を掛けたところで、ノブハルはもう一度「なぜだ」と声を掛けた。 「今朝から変わったのは、俺がエリーゼの事情を知ったことだけだ。いや、違うな。俺が、お前の事情を知っていることを教えたことだけだ。それなのに、なぜプロムの後と言う約束を前倒しをする? お互いの気持が高まったらと言う条件もあったが、お前の心は冷えたままだし、俺は気持ちの高ぶりを感じていない」  話が違っていると指摘したノブハルに、「それだけではありません」とエリーゼは言い返した。 「私が、あなたのことを知ったと言うのもあります。才能に溢れたノブハル様は、ズイコー星系の未来に欠くことのできないお方だと知ったのです」  そう答えたエリーゼは、最後の一枚も脱ぎ去った。そして何も隠すこと無く、己の裸体をノブハルに晒した。羞恥からか、白く透き通った肌は赤くなり。まだ成長途中の乳房には、寒さからではない鳥肌が立っていた。少し下半身が太いところはあるが、十分に魅力的な裸体がさらけ出されたのである。 「私には、女の全てを教えることは出来ません。それは、人それぞれ違っているものだからです。だから私は、私の知る女をノブハル様に教えて差し上げます」  ゆっくりと近づいたエリーゼは、ノブハルの右手を自分の乳房へと押し当てた。経験のない感覚に、エリーゼの口から「あっ」と小さな声が漏れた。 「なるほど、この感情は初めて経験するものだな」  そう答え、ノブハルは乳房に当てられた右手に力を込めた。ノブハルの手の中で、エリーゼの乳房は形を変えていた。 「んっ、初めてですので、優しくしてください」  何かに耐えるように、エリーゼは体を震わせ頭をノブハルの胸に預けた。だがノブハルは、それ以上の行為に及ぼうとはしなかった。 「この不快さは、間違いなく初めての経験だ。そしてなぜ不快に感じるのか、俺はその理由を分析した」  両手でエリーゼを突き放したノブハルは、ぱちんと右手の指を鳴らした。その途端、裸だったはずのエリーゼは、いつの間にかハイの制服姿に変わっていた。脱ぎ捨てた制服がそのままなのを見ると、新しく用意されたものなのだろう。 「お前の抱える問題は、今朝から何一つ変わったわけではない。それなのに、お前は急に「俺のため」と言って身を引くことを持ち出した。明らかに論理的でない行動なのだが、それこそが俺の知らない感情が理由なのだろう。確かに、それがお前の考える「女」と言うものには違いない」  そこまで口にしてから、「ああ」と言ってノブハルは頭をバリバリと掻いた。ただ昨夜とは違い、頭からフケが落ちたりはしなかった。 「確かに、俺は新しい知見を得たことになるのだろう。だがそれだけでは、この不快さを説明することが出来ないのだ。女を知ることを考えていたのに、俺は自分自身を知らないことに気づいてしまった。そしてこの不快さは、間違いなくお前が原因になっている。だから俺は、その原因を理解しなければならない」  ノブハルがそう口にした時、後ろから違う声が聞こえてきた。 「ノブハル、それは「気に入らない」と言う簡単な感情だよ。君は、彼女の父親、ハンスバッハのすることが気に入らないんだ。そして同時に、彼女がその運命を受けれいていることも気に入らないんだよ。我慢ならないと言い換えても良いのだろうね。ああ、彼女が自己犠牲の精神に酔っているのも気に入らないのだろうね」  突然割り込んできたナギサは、ノブハルの理解できない感情を説明した。 「気に入らない……そうか、今の感情は気に入らないと言うことだったのか」  大きく頷いたナギサは、「だったらどうする?」と問いかけた。 「ノブハルは、気に入らないことをそのままにしておくのかな?」 「いや、間違いなく是正が必要だ。ナギサ、お前に何かプランは有るのか?」  親友からの問に、「今更説明が必要かい?」と逆にナギサは問いかけた。 「ハンスバッハの邪魔をしろと言うことか」  そこまで口にして、珍しくノブハルは目を閉じた。 「幾つか、必要な要素が欠けているな。今のままでは、成功率は40%を切っている。ハンスバッハがアルカロイドと手を結んだら、成功率は10%を切ることになる。力が、絶対的な力が不足しているんだ」 「親父さんは、それを超銀河連邦軍に求めようとしたよ」  小さく頷いたノブハルは、希望を否定する言葉を口にした。 「それは、断られたはずだろう。超銀河連邦軍は、人一人の不幸を慮ってはくれない。IGPOには、アルカロイドを捕まえる力はない。そしてトリプルA相談所には、ジェイド外に業務を広げる理由はないと」  力が足りないと繰り返したノブハルは、「お前の所は?」とナギサを見た。だがナギサが答える前に、「アルカロイドは無理か」と答えを先回りした。 「だったら俺が、アルカロイドを止める方法を考える」 「ノブハルにも、難しいと思うんだけどね。まあ、止めても無駄だと言うことは分かっているよ。リンは僕が面倒を見るから、ノブハルは思うとおりにすればいいよ」  なぜかアルカロイド、すなわち悪名高い暗殺集団を撃退すると言う話に、「やめてください」とエリーゼは大声を上げた。 「どうして、私のために危ないことをするのですかっ!」 「これは、君のためじゃないんだよ。ノブハルが、自分の気持ちのためにすることなんだ」  すかさず言い返したナギサに、「それも違う」とノブハルは答えた。 「俺と、俺の恋人のためにすることだ」  はっきりと言い切ったノブハルに、ナギサは肩を竦めてみせた。 「することは同じだからね。だったら、理由はノブハルが決めればいい」  「それから」と、ナギサはエリーゼの顔を見た。 「イチモンジ家の者から言わせてもらうと、これは君だけの問題じゃないんだよ。君が死ぬのは勝手だが、それが理由で戦争が起きるのは迷惑なんだ。付き合いきれないと言うのが、正直な気持ちだね。だから忠告をしておくが、勝手なことをすることはイチモンジが許さない。まあ、そう言うことだと思ってくれないか」  その程度だと言い切ったナギサは、「やってしまえばよかったのに」と過激な言葉を吐いた。 「ノブハル、たった一度だけで女が理解できると思うなよ。長い付き合いだし、お互いの初めてを交換した俺だが、リンを理解できているとは思えないんだぞ。した前と後で、明らかにリンも変化しているんだよ」 「つまり、継続的な関係が必要と言う助言なのだな。なるほど、女と言うのは……違うな、人間と言うのは奥深いものだ」  ふんと鼻息を一つ吐いたノブハルは、「お前もそうだ」とナギサを指差した。 「なぜ、図ったようなタイミングで干渉できたのだ? ここの音は、一切外には漏れていないはずだ」  それを考えれば、ナギサがこのタイミングで干渉できるはずがなかったのだ。それなのに、現実は絶妙なタイミングで話に割り込んできていた。 「ノブハルと違って、僕は勘も大切だと思っているんだよ。データー、分析、そして勘。エリーゼ・クライストスがノブハルのことを知れば、行動の幾つかは予想することが出来るんだ。そして行動を絞り込んでしまえば、そこからは自分の勘を頼ることになる。加えて言うのなら、ノブハルの部屋はリンに頼めば簡単に開いてくれるんだ」 「私は、覗きは悪趣味だって反対したんだけどね」  そう言うことと言って、普段着に着替えたリンが後ろから現れた。もちろんエリーゼの護衛二人、トウカとセツナも気まずそうな顔をして立っていた。  集まった者たちに、「ちょうどいい」とノブハルは呟いた。そして一度指を鳴らしてから、「入ってこい」と命じた。 「することが決まった以上、お前達に説明する必要が生じた。だからひとまずそこに座れ」 「そこって、ベッドのことですかって!」  確か覗いていた時には、部屋の中にソファーは無かったはずだ。それなのに、いつの間にか部屋の中にソファーが鎮座してくれている。そして気のせいでなければ、あったはずのベッドが見当たらなくなっていた。  どうしてと驚いたのは、スイコーから来た3人で、リンとナギサは少しも驚いていなかった。 「それから、これを落としたままにしてはいけないだろう」  床から下着を拾い上げたノブハルは、そのままエリーゼに手渡した。もちろん受け取ったエリーゼは、これ以上無いほど顔を赤くしていた。 「兄さん、制服はまだしも、使用済みの下着は他の人の目に晒さない方がいいわよ」 「なるほど、次からは気をつけよう」  そう答えたノブハルは、手元の引き出しから小さな紙袋を取り出した。もちろん、その紙袋は可愛さとは無縁のところにある、味も素っ気もない無地のものだった。 「だったら、これを使うといい」 「なんで、いつもみたいに作らないの?」  ベッドをソファーに作り変えたことを考えれば、紙袋の一枚ぐらい簡単に思えるのだ。 「作るより、引き出しから出した方が早いからだ」  それだけのことだと、ノブハルは本当に大したことがないように答えた。そしてなぜかセツナの顔を見たノブハルは、「恋人にも伝えておけ」と命令した。 「お前も知っていると思うが、エリーゼを殺そうとしているのはハンスバッハ、つまりエリーゼの父親だ。だから完璧な警備体制と言うのは、ハンスバッハにとって都合が良くない。それが20名ほど送り込まれた、身辺警備隊の人選理由だ。トウカ・クレメンタインの生傷が耐えないのは、派遣された者たちの能力の低さが理由になっている。それでもナギサの所の支援で、今の所暗殺者を撃退できている。それに業を煮やしたハンスバッハは、暗殺集団であるアルカロイドを雇うことにした。その場合、お前達を含め送り込まれた者達は皆殺しの目に遭うだろう。加えて言うのなら、アルカロイドはナギサの所には手を出さない。そうすることで、エルマー側の陰謀論が成り立つからな」 「アルカロイドってっ!」  その名前を知っているのか、トウカは大きな声を上げて立ち上がった。 「謎に包まれた暗殺集団じゃないっ!」 「ああ、請け負った暗殺成功率は100%に限りなく近いと言われているな」  至極あっさりと、ノブハルはその事実を認めた。 「ただ調べてみると、意外に仕事をより好みしている。そして断られたとされる事例を調べると、一つの興味深い事実が浮かび上がってくる。つまり奴らは、身の程を知っているということだ。だが裏を返せば、奴らが請け負った以上、暗殺は確実に遂行されると言う意味になる。エリーゼの惨殺、そして送り込まれた身辺警備隊を皆殺しするのは、難しくないと判断されたことになるからな。そして……悪い知らせを今確認した。ハンスバッハは、裏口座を通してアルカロイドへの支払いを完了させた。この数日で、奴らがお前達を殺しにくることになるだろう。アルカロイドは、この仕事の難易度を評価し、彼らの評判を傷つけないことを確認したことになる」  契約が完了したと言う知らせに、トウカは力なくソファーにへたり込んだ。ただセツナは、鋭い視線をノブハルへと向けてきた。 「なぜ、私の恋人に伝えておけと言う話になるのです」 「簡単なことだ。お前の恋人、ビナス・ロクジョーも、自分が切り捨てられたことを知る権利があるからだ。アルカロイドとの契約が結ばれた以上、もはや保険に意味がなくなるからな」  つまり、セツナの恋人ビナスは獅子身中の虫と指摘していたのだ。トウカは、まさかと驚きの視線をセツナに向けた。 「あなたは、ロクジョー副隊長が裏切り者だと言っているのですね」  睨みつけるような視線をしたセツナに、「それは解釈の問題だ」とノブハルは言い切った。 「派遣した者の意図を考えれば、彼は任務に忠実と言うことになる。そして、本気でエリーゼを守ろうとしている者にしてみれば、裏切り者と言うことになるのだろう。従って、言った通り解釈の問題と言うことになる」  派遣した者、そして本気で任務を遂行しようとしている者。その立場によって、受け取り方が変わるというのだ。言っていることに間違いはないが、それはセツナの感情を逆なでするものだった。 「ロクジョー副隊長は、本気でエリーゼ様を守ろうとしています。ズイコーに居る頃から、ずっとエリーゼ様をお守りしてきたのですよ。私は、あなたの言葉より、ロクジョー副隊長を信用します」  絶対に違うと大声を出したセツナに、「なるほど」とノブハルは大きく頷いた。 「これもまた、女と言うことか。確かに、俺の知らないことが世の中には満ち溢れているのだな」  うんうんと頷いたノブハルは、セツナに向けて一つの問いかけをした。 「お前は、女としてビナス・ロクジョーを愛しているな?」 「それを否定するつもりはありません。信頼し、愛しています!」  売り言葉に買い言葉、セツナはムキになってノブハルに言い返した。 「ビナス・ロクジョーが同じ気持ちだった場合、そして彼が故郷に残した家族を大切に思っていたとしたらどうなる? お前の存在、そして家族の存在はビナス・ロクジョーに対する人質になるのではないか?」  愛して大切に思っているからこそ、それが付け込まれることになると言うのだ。 「お前や家族を人質に取られたら、ビナス・ロクジョーはどうすればいい? 最悪でも、お前を救おうと考えるのではないのか?」 「ロクジョー副隊長は、名誉を重んじていますっ! そんな、お嬢様を売り渡すような真似はしません。絶対にしないんですっ!」  大声を上げて詰め寄ったセツナに、「それでは誰も守れない」とノブハルは言い返した。 「経歴を調べてみたが、ビナス・ロクジョーはさほど大きな実績を持っていない。とてもではないが、アルカロイドの襲撃を凌げるだけの技量はないだろう。そう評価したから、アルカロイドは依頼を受けたとも言える。ビナス・ロクジョーが名誉を重んじ、アルカロイドと戦った場合。もっとも、知らないうちに殺されている可能性もあるのだが。その場合、ビナス・ロクジョーは犬死することになる。結局エリーゼもお前も守ることは出来ないだろう。まあ、故郷に残した家族が殺されることはないのだろうがな。それにしたところで、余計な詮索をされないためでしか無い」  トウカがアルカロイドの名に示した反応を見れば、彼女達の力で守りきれないのを理解しているはずだ。だから「誰も守れない」と言う指摘に対して、セツナは反論することができなかった。日頃技量を磨いていても、あくまで狭い世界の中でのことだった。超銀河連邦を股にかける暗殺団に対して、通用するような実力は持っていなかった。  黙ってしまったセツナを見たナギサは、「ノブハルはどうするんだい?」と問いかけた。 「ノブハルが、何の勝算もない真似をするとは思えないんだがね?」 「勝算が低くても、男には戦わなければならない時があるんじゃないのか?」  言い返されたナギサは、「人の受け売りは良くないよ」と指摘した。 「それに、そう言った無駄に熱いのはノブハルには似合っていない」 「そうか、こう言った時に相応しいセリフを検索してみたのだが」  うむと唸ったノブハルに、「あのぉ」とトウカが恐る恐る割り込んできた。 「とても切実な問題を話しているはずなんですけど?」  それなのに、どうして二人で掛け合いのオフザケをしてくれるのか。彼女が当事者だと考えれば、苦情を言うのは正当な権利に違いない。 「俺にだって、考えをまとめる時間は必要なのだ。その意味で、今の会話は場繋ぎのようなものだ」  ノブハルの答えに、「非常識な」とトウカはこめかみを押さえた。それを無視したノブハルは、「分析をしてみた」と話しだした。 「ハンスバッハの依頼内容は分からないが、宣戦布告する口実となる事件を考えてみた。そして過去遂行されたアルカロイドの暗殺方法と合わせ、奴らが採用する作戦を想定してみた」  いいかと、ノブハルはエリーゼの顔を見てから全員を見た。 「彼らが満たすべき条件は2つある。エリーゼが惨たらしく殺され、そしてその犯人がサン・イーストの住人であることだ。ズイコー民衆の怒りを誘うために、エリーゼは強姦された上で殺されることになるだろう。そして犯人は、証拠隠滅のためズイコーから送られた護衛部隊に殺されることになる。加えて言うなら、護衛部隊とサン・イースト守備隊の間で戦闘が行われるのが好ましい。そこで送り込まれた護衛部隊は、全てサン・イースト守備隊に殺される。正確に言うなら、戦闘が始まった後にアルカロイドが彼らを殺すのだろう。ここまですれば、ズイコーは宣戦布告をする口実を得ることになる。そしてハンスバッハは、娘の無念を理由に先頭に立って宣戦布告することができる」  自分の殺され方を説明されるのは、か弱い女性でなくとも精神的に辛いものだった。それでもエリーゼは、顔色を真っ青にしながらノブハルの説明を聞いた。 「この推測が成立した場合、奴らがどこで犯人を調達するかと言うのが次の課題となる。普段の生活では、お前達二人が密着に近い警備をしているはずだ。だとしたら、一般生徒を利用するのは難しいだろう。そして通学の時には、そこに護衛部隊も加わることになる。ビナス・ロクジョーが誠実な男と言うのなら、奴らに協力することはないのだろう。ならば、エリーゼの行動を観察した奴らは、誰を犯人に仕立て上げるのが都合が良いと考えるだろうか?」  そう言って全員を見たノブハルに、「ノブハルだね」とナギサは指摘した。 「ノブハルだったら、彼女と二人きりになっても不自然ではないし、誰も疑問に思わないだろう。何しろ二人が交際を始めたのは、すでに学校内に広がっているからね。そしてもう一つ、ノブハルの家庭環境も利用価値がある。何しろ父親は、サン・イーストの高級官僚だ。護衛部隊がノブハルを殺せば、うちの奴らも報復せざるを得なくなる」 「質問が簡単すぎたな」  少しだけ口元を歪めたノブハルは、「明後日」と具体的な日にちを挙げた。 「すでに、アルカロイドはサン・イーストに入っているはずだ。そして今日、俺達の行動を観察していると推測できる。次に彼らがするのは、付き合い始めた俺とエリーゼが、どのような行動を取るのかの観察だ。それを1日行ったところで、作戦を遂行するだろう。だから俺とエリーゼは、明後日学校に出ずにデートに出かけることにする。奴らに襲撃する場所を用意することと、学校を戦場にしないための措置だと思ってくれ」 「それは、いくらなんでも危険すぎますっ。むしろ、どこか安全な場所に隠れた方がっ」  正面から挑むには、相手が悪すぎたのだ。それぐらいなら、身を隠した方がよほど安全だと言うのである。だが身を隠せと言うトウカに、「それではダメだ」とノブハルは答えた。 「俺は身を隠せても、エリーゼは身を隠すことは出来ない。それをすると、今度は誘拐と騒ぎ立ててくれるだろう。加えて言うのなら、見つからないように身を隠すと言うのは、すでに手遅れになっている。まだ捕捉できていないが、すでにお前達は監視されているだろう。そしてエリーゼを守るためには、俺達は何も知らないことにしておく必要がある。さもないと、奴らは違う方法を選択することになる。そうなったら、逆に対処が難しくなてしまう」 「あなたも、狙われることになるのよっ!」  いくら天才でも、相手は歴史を重ねてきた暗殺集団なのだ。そして殺し合いと言う相手の土俵で戦えば、経験のない天才では対処することは出来るはずがない。 「それが、一番エリーゼを守りきる可能性の高い方法だ」 「それで、成功確率は上がったのかな?」  すかさず問いかけてきたナギサに、「1%ほど」とノブハルは答えた。 「つまり、誤差程度しか変わらないというのだね」  口元を歪めたナギサに、「それは違う」とノブハルは言い返した。 「5%が6%になるのは、誤差とは呼ばないのだがな。ただ現実的に有意差がないと言うのは、積極的ではないが認めてやる」  「そして」とノブハルは別の理由も口にした。 「俺の女を、他の奴に汚させて堪るかと言うのも理由だな」 「だからノブハル、参考にした先が君のキャラクターに合っていないんだよ」  ため息を吐いたナギサに、「そうか」とノブハルは眉をへの字にした。 「一度固まったキャラクターを変えるのは難しいのだな」 「ねぇ、あなた達真剣にやってる?」  どうしても悪ふざけが目についてしまう。護衛としてトウカが文句を言うのも、彼女の権利に違いない。 「俺は、自分の命がかかっているのだぞ?」  だから真剣だと言われれば、流石に否定は難しくなる。「そりゃあそうだけど」とトウカが言葉を濁すのも仕方がないことだった。 「それで、私達は何をすればいいのでしょうか?」  想定される相手の作戦が示され、配役が一応示されたのだ。ならば自分たちの役割を確かめるのは、別に不思議な事ではない。  だがセツナの問いに、「特に何も」とノブハルは返した。 「俺達は、何も知らないことにしておく必要がある。初めに、そう説明したはずだが?」 「つまり、私達は普段通りにしている必要があるのですね」  その確認に、ノブハルはうんと頷いた。 「お宅の隊長、副隊長が何かを掴んでいなければだ。余計な動きをされることが、一番成功率を下げることだと理解しろ。お前達の力では、アルカロイドを排除できない。余計なことをされると、逆に相手の作戦が読めなくなる。「よかれと思って」と言うのは、典型的に足を引っ張る奴の思考だと思え」 「私達は、得た情報を報告する義務があります」  護衛隊として送り込まれてきた勤めを口にしたセツナに、ノブハルは「ならば」と問い返した。 「その義務とやらは、エリーゼの安全よりも優先されることか?」 「あなたの言うとおりにしていれば、お嬢様を守れると言う保証はありません!」  杓子定規に言い返したセツナに、「なるほど」とノブハルは納得したような顔をした。 「無能な奴ほど、現実を直視できないと言うことか。自分達が守りきれないと言うことを忘れ、それよりマシな提案を頭から否定してくれる」  そう言い放ったノブハルは、更に突き放すようなことを口にした。 「エルマーにとって、一番都合のいい方法を教えてやろうか?」 「あなたに従えといいたいのですか!」  挑戦的に睨み返してきたセツナに、「簡単なことだ」とノブハルは無表情に答えた。 「お前達が、今すぐズイコーに戻ることだ。そうすれば、お前達が死んでもエルマーのせいに出来ない。あくまで、ズイコーの国内問題に落ち着くことになる。見捨てたと言う批判には、自分の国民も守れないのかと言い返すだけで済むからな」  難しい問題を持ち込んだのは、間違いなくエリーゼ達だったのだ。それを指摘されれば、セツナが反論できなくなるのは当たり前のことだった。今までの議論は、エリーゼがエルマーに居ることを前提としていた。だがその前提自体が、誤りだとノブハルは指摘したのである。 「それでは、お嬢様の命がっ!」  黙ったセツナの代わりに、トウカが無茶だと言い返した。 「あなたは、お嬢様を守ると言ったのではありませんか?」 「ああ、だがお前達護衛部隊は協力を拒んでいる。だとしたら、もはや俺が手を出すことではないだろう。覚悟も無く知恵も使えない奴が味方だと、勝てる戦いも勝てなくなる。勝算の薄い戦いなら、なおさら勝てなくなるだろう。人の足を引っ張っておきながら、建前と言い訳しか言わない奴がアルカロイドよりも厄介なのだ」  それをノブハルは、セツナの顔を見ながら言い切った。 「話すことはそれだけなのだが、それでこの事を隊長や副隊長に話すのか? もしも話すのだったら、俺はこのことから手を引くことにする。ただでさえ勝ち目がないのに、その僅かな可能性まで味方に潰されるのだからな。俺が手を引く、必要十分な理由になるだろう。それでセツナ・トコヨギ。お前は、今の話を報告するのか?」 「私は、仲間を裏切ることは出来ません……」  表情が苦しそうなのは、彼女としてもギリギリの決断なのだろう。それを無表情で受け止めたノブハルは、ナギサに向かって「強制送還」を持ち出した。 「ズイコーの領事館があったはずだな。エリーゼの身柄を領事館に預け、強制送還の手続きを始めてくれ」 「ノブハルは、それでいいのかい? 確か君は、彼女の置かれた境遇に対して不快さを感じていたんじゃないのかな?」  投げ出すのかとの問いかけに、「それ以上に不快なことがあったからだ」とノブハルはセツナを見た。 「いっその事、この聞き分けの悪い女を始末してやろうかと思ったぐらいだ」 「別に、それでも構わないと思うんだけどね。エリーゼ・クライストスに比べれば、そうしても問題は笑いたくなるほど起きないんだよ。始末をするのなら、あとのことは任せてくれてもいい。ついでに、副隊長のビナス・ロクジョーも始末すればいいだろう」  更に過激なことを口にしたナギサに、「それもいいが」とノブハルはエリーゼを見た。 「余計な借りをお前に作りたくない。だから、俺が手を引くのが一番いいだろう。ただ強制送還が間に合わなかった時、ズイコーと戦争になるのは覚悟をしておけ」 「その時は、ハンスバッハ周辺を徹底的に叩いてやるよ」  了解と笑ったナギサは、「今日はどうする?」とこれからのことを尋ねた。 「もう俺達には関係が無いんだ。だったら、大人しく帰ってもらうのが当たり前だろう」 「そうか、愚かな彼女はノブハルを怒らせたと言うことだね。これまで付き合ってきて、君が怒るのを初めて見たよ。まあ、話を聞いていて、よくノブハルが我慢したと感心をしていたんだけどね」  賢明な判断だ。ナギサがそう答えた時、「ノブハル・アオヤマ!」とトウカが大声を上げた。 「あなたは、エリーゼ様を恋人にすると言ったはずです。それなのに、エリーゼ様を見捨てると言うのですか!」  目に涙が浮かんでいるのは、黙って運命を受け止めようとしたエリーゼへの同情だろうか。 「仲間への報告は、私が絶対にさせません。だからお願いします。エリーゼ様を助けてください!」  お願いしますと頭を下げたトウカに、「無理だよ」とノブハルは無表情に言い返した。 「お前がいくら止めても、彼女はビナス・ロクジョーには教えるだろう。その時点で、俺が気づいていることがアルカロイドに知れることになる。お前はエリーゼの安全を第一に考えているが、この女も同じだと思わないことだ。ビナス・ロクジョーを守るためなら、エリーゼの命ぐらい簡単に差し出すだろう」 「なるほど、ノブハルは女の情念を理解したと言うことか」  ナギサの言葉に、「一つ賢くなった」とノブハルは言い返した。そして感情のこもらない目で、黙っているエリーゼの顔を見た。 「もう、ここにいる理由はないはずだ。短い付き合いだったが、この家から帰ってくれ」 「そうですね、これ以上アオヤマ様にご迷惑をおかけする訳には参りませんね」  椅子から立ち上がったエリーゼは、「失礼しました」とノブハルに頭を下げた。 「では、お暇することにいたしましょう」  無表情にエリーゼの言葉を受け止めたセツナとは対象的に、トウカの顔は怒りから紅潮していた。だがエリーゼの命令である以上、それに従わない訳にはいかなかった。 「ノブハル・アオヤマっ。エリーゼ様にもしものことがあれば、私はあなたを絶対に許さない」  憎しみの篭った眼差しを向けられたノブハルは、「恨む相手が違う」と言い返した。 「俺は差し迫った危機を教え、その対処策も提示したはずだ。そのためには情報の管理が決め手になるのに、それを理解しなかったのはお前達の方だ。ならば俺は、自分の身を守るために手を引く以外に出来ることはない。明日から一切の関わりを絶てば、アルカロイドは別の軽薄な男を利用するだろう。俺は、いつも通りここで研究に勤しむだけのことだ」  たったそれだけ。激発したトウカに比べ、ノブハルからは感情の揺らぎは感じられなかった。 「リン、3人を玄関まで送ってやれ」 「そうね、ちょっと私もがっかりしたかな」  ついてきなさい。3人に向けるリンの言葉も、とても冷たいものに変わっていた。  リンが3人を連れ出したところで、ノブハルは苛ついたように頭を掻いた。それを面白いものを見る目で見たナギサは、「予定通りなんだろう?」と指摘した。 「それなのに、どうしてそこまで苛ついているんだい?」 「確かに予定通りなのだが。どうしてあそこまで頭が悪くなれるんだ? ああいう愚かな奴を見ると、ひどく苛つくことが分かってしまったんだ」 「推測だけどね、君はセツナ・トコヨギに苛ついている訳じゃないんだよ。まだ、君はその感情を理解できるところまで自分のことが分かっていないんだ」  静かに語りかけられ、ノブハルはナギサの指摘に驚いたような顔をした。 「俺が、自分で理解していない感情がある……と言いたいのか?」  そう問いかけてから、ノブハルは小さくため息を返した。 「まったく、この一日で俺はいくつの発見をしたんだ」 「ノブハルは、特に男女関係には疎かったからね。普通の人がしてきた経験を、これまで全くしてきていなかったんだよ。いいかいノブハル、君が抱いている感情は特に珍しいものじゃないんだ。ただ、これまで感じる機会がなかっただけのことなんだよ」  そう言われて、ノブハルは椅子に座り直して背もたれにもたれかかった。 「それで、世間ではこの感情をなんて名前をつけているんだ?」  教えてくれと頼まれたナギサは、「簡単じゃないよ」と口元を歪めた。 「単なる怒り、そして彼女に突きつけられた不条理に対する義憤。所有物を取り上げられたことに対する怒りに、いくら説明しても理解しようとしない相手に対する怒り。「怒り」と言う言葉一つとっても、君の感じているものは複雑なんだ。そして更に複雑なのは、君のエリーゼ・クライストスに対する感情だよ。観察した範囲で言うなら、君は恋もしていないし、彼女に対する愛も感じていない。だからと言って、全くの無関心と言う訳でもないんだよ。その中途半端で、これからどこに向かっていくのか分からない感情、それを今の君は心の中で抱いている。ただ言えるのは、今の感情は恋や愛に育っていく可能性の有るものと言うことだよ」 「なるほど、今の俺には理解できない感情に違いないな」  ふっと息を吐き出したノブハルは、「手筈は?」とナギサに尋ねた。 「エリーゼ・クライストスを保護する手筈は整っている。彼女達が領事館に見捨てられた時、うちの奴らが保護に掛かることになっている」  ナギサの言葉を聞く限り、決裂するのも予定通りと言うことになる。 「この決裂は、不確定要素を排除するためと考えれば良いのかな?」  その言葉に頷いたノブハルは、「まだまだ不安定だ」と答えた。 「だが、状況がかなりクリアになったのは間違いない。後は、俺がハイに顔を出せばいいだろう」 「そして僕は、君が振られたと言う噂を流せば良い訳だ。これで君は、エリーゼ・クライストスを襲う理由ができたことになる」  犯人として必要な動機が用意されれば、それを利用したくなるのもおかしなことではない。実態がどうかではなく、周りの受け止め方が口実として必要とされたのだ。 「それから、言われた通り公安にもこの情報は流しておいたよ」  そちらも手はず通り。ナギサはニヤリと笑ってみせたのだった。  ノブハルの家を出たところで、トウカはいきなりセツナの頬を張り飛ばした。帰りがけにノブハルに食って掛かりはしたが、決裂の原因を作ったのは仲間のはずのセツナと言う事は分かっていたのだ。もともと頑固なところのあるセツナなのだが、今日のはあまりにも聞き分けがなさすぎたのだ。 「あなたは、取り返しの付かないことをしたのに気づいているの!」  相手の実力を考えれば、自分たちが足掻いてもエリーゼを守りきれないのは分かっていたのだ。そしてノブハルの情報力や分析は、自分たちなど及びもつかないのも思い知らされたばかりだ。それを考えれば、ノブハルの指示に従うのは、間違った判断ではないはずだった。 「だったら、トウカさんは隊長達を見殺しにするんですか? 何も知らないまま、戦争の片棒を担いで、汚名を背負ったまま殺されろと言うんですかっ!」  自分は絶対に受け入れられない。これまで生死をともにした仲間を、見殺しにする訳にはいかないのだと。 「ロクジョー副隊長が好きだからと言う理由じゃありません。エルマーに来たメンバーは、これまで一緒にお嬢様を守ってきた仲間なんですっ!」 「お嬢様を守りきれれば、私達の名誉だけは守れるわ。でもあなたは、名誉を守る方法まで否定してしまったのよ。私だって、仲間を見捨てたいなんて思ってないわよ。違うわね、私だって何も知らずに死にたいなんて思ってない。でも、私たちにできることは、本当に残ってないのよ……」  ムキになってトウカが言い返した時、「私は」とエリーゼが静かに口を開いた。 「エルマーに来てはいけなかったのです。ノブハル様が仰った通り、ズイコーにいれば良かったのです。そうすれば、少なくともエルマーの方々に迷惑をおかけすることはなかったはずです」 「失礼ながら、過去を消すことはできません」  毅然として言い返したセツナに、「それぐらいは分かっています」とエリーゼは答えた。 「ですから、過去の間違いを正せばいいのです。今日は間に合いませんが、明日にでもエルマーに戻ることに致します」  それができれば言うことはないのだが、トウカには可能だとは思えなかった。ハンスバッハの権力を考えれば、領事館に手が回されていても不思議ではないのだ。 「それが可能ならば、確かに一番良い方法だとは認めますが……」  そしてその認識は、トウカとセツナの間でも共有されていた。エリーゼを守っている間にしても、領事館はあまり協力的ではなかったのだ。とてもではないが、セーフティゾーンになってくれるとは思えなかった。  それでもギリギリまで努力を続ける必要はある。その努力の一つは、エリーゼの帰国と言うのは間違いないだろう。 「では、ガンドルフ隊長に相談することにしましょう。情報の出処は秘して、アルカロイドが関与することだけをお伝えすればいいかと」  何も話さない訳にはいかないが、だからと言って民間人を危険にさらして良いわけではない。それを考えれば、情報源を秘すと言うのはギリギリの線に違いない。それを持ち出したセツナに、「それぐらいしかないか」とトウカも認めたのだった。  護衛隊のアジトに到着した3人は、緊張に顔をひきつらせたロクジョーの出迎えを受けた。そしてそのまま、3人は奥の会議室へと連れ込まれた。そこに待っていたのは、警戒に出ている以外の護衛隊のメンバー全員である。その中央では、護衛隊隊長のクゼ・ガンドルフが腕組みをして座っていた。 「協力関係にあるサン・イースト公安から看過し得ない情報がもたらされました」  エリーゼの顔を見たガンドルフは、そういきなり切り出した。 「サン・イーストに、アルカロイドが侵入していると言うものです。政治情勢を鑑みた場合、ターゲットはお嬢様だろうと言うのが彼らの見解です」 「キナイの公安からですか。それで、アルカロイドは捕捉できているのでしょうか?」  予想外だったことも有り、トウカははっきりと驚いた顔をした。それはセツナも同じで、信じられないと言う顔でエリーゼを見たのである。 「潜伏先は捜査中と言うことです。ただこれまでのアルカロイドの実績を考えると、簡単に尻尾を出すとは考えらないでしょう。たとえ捕捉できたとしても、奴らが仕事を終えた後になる可能性が高いのです」  だからだと、ガンドルフはエリーゼに「帰国を手配したのですが」と顔を顰めながら対策を口にした。 「領事館が、動かなかったと言うことですか?」  その通りと、ガンドルフは頷いた。 「まだ学業の区切りがついていないはずだと却下されました。アルカロイドの情報も、本国からはなんの指示も降りてきていないと門前払いです。それどころか、任務のサボタージュを責められたぐらいです。お嬢様に対しても、学業のサボタージュは認められないと言う通告が出ております」 「お父様は、なんとしてもエルマーで私を殺したいと言うことですね」  親子関係のことは、すでにノブハルに教えられていた。それでも17年間、自分はハンスバッハの子供として育ってきたのだ。優しくされた記憶はないが、それでもエリーゼはハンスバッハを父親だと思いたかった。  だがその父親が、確実に自分を殺そうとしているのだ。一時帰国も認めないと言うのは、すでに秒読みに入ったと言う意味でもある。 「あなた達で、アルカロイドを止めることはできますか?」  覚悟を決めたエリーゼは、静かな口調でガンドルフに問うた。 「我々は、最後まで全力を尽くす所存です!」  ガンドルフの答えに、集まったメンバー全員が「全力を尽くします」と声を合わせた。ただガンドルフの口からは、「できる」と言う言葉は発せられなかった。  全員の決意に、エリーゼは「ありがとうございます」と笑みを与えた。 「では、私から皆さんに通告いたします。現時点をもって、私を警備する任を解きます」 「お嬢様は、この上我々に卑怯者の汚名を与えようというのですか?」  ガンドルフの答えには、明らかに怒りが込められていた。そしてエリーゼの命令と同時に、メンバーたちの顔色が変わったのも確かだった。 「結果が変わらないのなら、犠牲者は少ない方が良いかと思います。努力を無駄だと言うつもりはありませんが、現実を見るのも必要なことだと思っています」  そうすれば、犠牲は自分ひとりで収まることになる。エリーゼの判断は、その意味では間違ってはいないのだろう。ただそれを彼らが受け入れるのかどうかは、全く別の問題だった。 「残念ながら、我々を任命したのはハンスバッハ様です。ですからお嬢様には、罷免権はございません」  ただしと、ガンドルフは副隊長のロクジョーとセツナの顔を見た。 「任に適さない隊員を罷免する裁量は私に与えられております。ですから、ビナス・ロクジョー副隊長と、セツナ・トコヨギの2名を護衛の任務から解くことに致します」  思いがけない指示に、セツナとロクジョーは腰を浮かせた。 「なぜ、私達の任が解かれないといけないのです!」 「そうです。これまで私達は、お嬢様をお守りしてきました!」  絶対に認められない。大声で叫んだ二人に、ガンドルフは厳しい視線を向けた。 「俺に、言いたくもない理由を言わせるつもりか? 不名誉を口にさせようと言うのか?」  疑問に対して、ガンドルフはさらなる疑問で答えた。それだけで意味が通じたのか、ロクジョーは顔を赤くして黙り込んだ。ただセツナは、それでもガンドルフに言い返した。 「私達は、忠実に任務を遂行してきました。誰にも恥じることはないと思っています!」 「これは決定事項だ。ちなみに、お前たちが帰国することには邪魔は入っておらん。明日の朝のフライトが確保できている」  これ以上命令への抗弁は許さない。ガンドルフは厳しい態度で、二人に臨んだ。 「トウカ・クレメンタイン。明日からは、お前が一人で学校内でお嬢様をお守りしろ。できるな?」  ノブハルとのやり取りで、ロクジョーが外される理由は理解することができた。そしてロクジョーだけを外した場合、セツナが今まで通りでいられないのも理解できていた。だからトウカは、「もちろんです」とガンドルフに答えた。 「うん、よい答えだ。ビナス・ロクジョー、セツナ・トコヨギ。お前たち二人の護衛任務を、たった今解いた。身分証を返上し、すぐにこの場から立ち去ることを命ずる」  ガンドルフの命令と同時に、別の隊員が二人の所に近づいてきた。一瞬顔を歪めたロクジョーだったが、おとなしく身分証を手渡した。  そしてセツナには、トウカが向かい合うことになった。 「どうして、信じてもらえないんです」  目を真っ赤にしたセツナに、トウカはシクリと胸が痛むのを感じていた。ただそれを表情に出さず、黙って右手を差し出した。 「トウカさんも、私を信じてくれないんですね」  恨み言を口にしたセツナは、ポケットから身分証を取り出した。ただ普通に渡すのではなく、トウカの胸にめがけて投げつけた。 「気が済んだのなら、さっさと出ていきなさい!」  必要以上に冷たい声で通告したトウカを睨みつけたのだが、すぐにセツナは彼女から背を向けた。そしてそのまま、ロクジョーと並んで会議室を出ていった。一緒に出ていった隊員は、一人を残して二人が出ていったのを見届け会議室に戻ってきた。 「さて、俺たちはできるだけのことをすることになる」  急に表情を柔らかくしたガンドルフは、「すまなかった」とトウカに謝った。ただトウカは、その謝罪には何も答えなかった。 「そんなことより、私達がこれから何をすべきか。その指示をいただきたいと思います」  はっきりと言い返されたガンドルフは、思わず苦笑を浮かべてしまった。 「実のところ、やることはあまり大差はない。今まで通り、お嬢様に害をなす者を排除するだけだ。ただ敵の姿が見えてきたのだから、今まで以上に集中することになる。違いと言っても、その程度でしかないのだよ」 「さらなる、敵の情報を受け取ることはできないのでしょうか?」  一瞬ノブハルのことを思い出したトウカだったが、すぐにその考えを自分の中で打ち消した。ノブハルとは決裂し、すでに関係がなくなっていたのだ。今更頼ると言うのは、あまりにも虫のいい考えに違いない。 「キナイの公安も苦労しているようだ。だから俺達は、俺達にできることをする以外はない。基本に忠実に護衛をするのが、結果的にお嬢様を守ることにつながってくるはずだ」  「付け焼き刃は役に立たんぞ」と、別の隊員から声がかけられた。メンバーの中では、一番年齢の高い「親父さん」と慕われる隊員である。 「確かに、付け焼き刃は役に立ちませんね」  小さく息を吐いたトウカは、「お嬢様」とエリーゼの顔を見た。 「明日からは、トイレにも私が付き添わせていただきます。安全が確認できるまでは、我慢をお願いすることにもあります」 「行き過ぎと言っても、許して貰えそうにはありませんね。行きたくなったら、早めに申告することに致します」  分かりましたと、今まで以上の密着警備をエリーゼは受け入れたのだった。  敵の目の前に餌を差し出した以上、餌に食いついてきた時の対策を取る必要がある。過去の事件を調べた範囲で言うのなら、アルカロイド自身の戦闘力は脅威となるほどのものではない。もちろんそれは、十分な戦力があればと言う前提が有る。今のズミクロン星系では、彼らが跳梁跋扈することを防ぐだけの戦力はない。  だが真の意味で彼らを脅威たらしめているのは、彼らが身の程を知った用心深い組織と言うことだった。そのため過去何度も行われてきたIGPOの捜査の網にかかること無く、未だに組織の全貌が明らかになっていないのである。そして身の程を知っているがために、金を積まれてもリスクの高い仕事を請け負わないと言うことだ。そのため彼らの仕事は、一つの失敗もなく遂行されてきた。  そんなアルカロイドが仕事を受けたと言う事は、エリーゼの守りに対する評価を終えたと言うことである。そしてリスクもなく、エリーゼの抹殺が可能だと判断したということだ。 「確かに、過去の事例からしてキナイの公安では対処できないな。護衛部隊じゃ、手も足も出ないだろう。問題は、奴らがそれでも油断しないことか」  失敗するはずがないと思えば、そこに油断が生じ、隙きも生まれるはずだった。だが過去の仕事を見る限り、どんな仕事でも計画通り慎重に遂行されていた。 「油断を誘えないとすると、奥の手はとことん隠す必要があるな。後は、奴らが予想もしない大胆な手をとることも求められるのか」  そこで空中で指を動かしたノブハルは、幾つかのプロトタイプを手元に出現させた。そしてその効能を確認しては、駄目だと首を振って分解した。 「もう一度、敵の戦法を検証する必要がある……」  目を閉じたノブハルは、データーベースをものすごい勢いで検索をした。そして推測した要件、すなわちエルマーとズイコーの戦争の引き金となるのに必要な憎悪を煽るためには、何が必要なのか。それをもう一度洗い直すことにした。 「エリーゼが殺されるのは間違いないだろう。彼女が生き残って、エルマーの誰かが殺されたとしても、犯人として彼女を逮捕すれば戦争にまでは至らない。イチモンジ家に戦争をする気がない以上、ナギサでも殺されでもしない限り、報復行動には出ないだろう。それにハラミチ・イチモンジがそんな真っ当な考えをしているはずがない。傲岸不遜を絵に書いたような男を動かすためには、もっと大きな悲劇が必要だろう」  それをなすには、もっと大掛かりな殺戮が必要となる。アルカロイドにその能力は有るが、流石に犯人をでっち上げるのが難しくなる。エリーゼを殺すことに比べ、難易度が格段に高くなるのだ。 「やはり、難易度の低いエリーゼ殺害を狙ってくるか。そうなると、エリーゼを殺す役目を誰にさせるのかだが。奴らが、俺以外の候補を探すことになるのか」  他の学生、もしくは全く関係のない者を狙われたら、それこそ手のだしようがなくなってくれる。ノブハルの最も恐れるリスクは、自分が無関係の所に置かれることだった。 「そのためには餌を撒くのだが、慎重な奴らが餌に食いついてくれるかが問題だな。罠の匂いを感じ取られたら、間違いなく俺を避けてくるだろう」  そう考えたところで、「違うか」とノブハルは首を振った。 「奴らにしてみれば、たかがハイの学生など脅威たり得ないだろう。ただ単に、俺が自分のことを過大評価しているだけか……だが、それならそれで襲撃の方法も予想がついてくれる。ただ予想は着くが、対処ができるかは別問題ということか」  小さく呟いたノブハルは、再び指を動かし目の前に物質の構成式を表示した。 「暗示物質を使い、俺にエリーゼを襲わせる。未遂でも既遂でも、その事実が作れれば奴らの目的は達成できる。目撃者がいなければ、誰がエリーゼを殺しても俺を犯人にしたてあげるのは簡単だからな」  もう一度考えてから、ノブハルは別の化学式を映し出した。 「暗示物質だけなら、対処のしようもあるのだが。だが、奴らがどの物質を使ってくるのか分からないな。それに、一度は暗示にかかっておく必要もある。中和剤は、土壇場で使用することになるのだが……」  汎用の中和剤が存在しない以上、複数種類の中和剤の用意が必要となる。その時の問題は、適合しない中和剤による副作用である。折角暗示物質を中和しても、副作用で朦朧となっては元も子もない。 「ナギサの奴なら、こう言ったときに勘を働かせるのだろうが」  ふんと鼻息を一つ吐き出したノブハルは、インジェクターの設計を始めた。勘が働かないのなら、確率的に一番可能性が高い方法を取ればいい。そのための仕組みを、今から組み込んでおく必要があったのだ。  ただ暗示に対抗できても、それだけでは不足すぎるのも分かっていた。自分とエリーゼの二人が揃ってしまえば、奴らは生殺与奪の権利を得たことになる。その状態からの逆転策がなければ、暗示を解くことに意味があるとは思えない。 「直接の戦闘は……素人がプロに勝つのは不可能だろう。だとしたら、戦闘をしないで奴らを撃退する方法だが……吹き飛ばしてやるか」  逃げようのない攻撃を考えたノブハルは、自分達の周り一帯を吹き飛ばすことを考えた。そうすれば、相手の虚をつくことが出来るし、いくらプロでも回避することは出来ないはずだ。ただ自分達の身をどうやって守ればいいのか、巻き添えになったら敵をおびき寄せた意味がなくなってくれる。 「相転移空間を作れればいいのだが。流石に技術は開示されていないか。だとしたら、小規模の電磁領域を作るのが精一杯か」  それでどこまで爆発の威力を防ぐことが出来るのか。計算はできるが、使用環境によってパラメーター差異が大きすぎた。圧縮効果が働く空間で爆発が起きた場合、跡形もなく自分達が吹き飛ばされる可能性さえあったのだ。 「これでは、あまりにもイチかバチかが多すぎる。だとしたら、確率を上げるためにどうしたら良い……」  ここでの検討が、自分の命に関わってくるのだ。それを考えたら、どこまで検討しても過ぎるということはないはずだ。自分の知恵で足りないのなら、情報の海から必要な情報を取り出してやればいい。未だアクセスしたことのない領域へと、ノブハルは挑んだのだった。  モンベルト復興事業は、わずか2ヤーと言う短期間で大きな進展を見せていた。開始6ヶ月の時点で、住民のすべてが清浄な開放された閉鎖空間への移住が終わっていたのだ。そしてその3ヶ月後には、モンベルト固有種の遺伝子採集と個体保護も形となっていた。すべてが順調に推移したおかげで、復興事業自体にトラスティが管理する必要もなくなっていた。  その為モンベルト復興の主体は、レムニア帝国、パガニア王国、エスデニア共同チームの担当になっていた。ただ事業主としてトリプルA相談所が居るため、統括責任者としてバルバロスが張り切っていた。そしてナイトを夢見たアンリハスルも、趣味の航海を我慢してモンベルトに駐在していた。過去に例のない大規模事業は、順調だからこそ担当者たちの士気を盛り上げていたのだ。  すべてが順調に見えるモンベルトなのだが、個人レベルでは必ずしもそうではなかった。そして問題を抱える最右翼に居るのは、間違いなくライスフィール王妃だろう。何しろ国王を押し付けた相手が、神出鬼没で一処にとどまってくれなかったのだ。 「誰か、我が夫を見かけませんでしたか?」  トリスタニアの王宮の中を、ライスフィールはトラスティを探して歩き回っていた。久しぶりに顔を出したくせに、妻を可愛がりもせず何処かに消えてしまったのだ。国王としての自覚がなさすぎる。過去の経緯を棚に上げ、ライスフィールは目を吊り上げて王宮内を探し回ったのである。  そしていい加減足が棒になったところで、ライスフィールはガッズに出くわした。訓練後なのか、ガッズは汗を拭きながら宮廷の中を歩いていた。 「ガッズ、あの人を見かけませんでしたか?」 「国王陛下でしょうか?」  ライスフィールが「あの人」と言う対象は、トラスティ以外存在しない。ただあいにく、ガッズはトラスティが来ていることを知らなかった。 「お見えになっていたとは存じませんでした」 「では、見かけましたら首根っこを捕まえて……いえ、引き止めておいてください」  足は棒になっていても、トラスティを探さない訳にはいかない。「申し付けましたよ」と言い残し、ライスフィールは王宮内の探索を再開した。  その後姿をため息とともに見送った時、ガッズは「忙しそうだね」と声を掛けられた。 「こちらにおいででしたか」  今のモンベルトでは、ライスフィールよりトラスティの方が立場が上である。臣下として礼を尽くすため、ガッズは石の床に跪こうとした。 「いや、立ったまま聞いてくれればいい」  そうガッズに声を掛けたトラスティは、「国王命令を発する」と真面目な顔をした。 「直ちにモンベルトを出て、兄さんと合流してくれ。とりあえずの合流場所は、惑星シルバニアにあるIGPO本部だ。そこまの移動は、ラピスラズリに指示を出してある」 「シルバニア帝国に行けと……お恐れながら、理由を伺っても宜しいでしょうか?」  いきなりの命令。しかも、モンベルトを離れろというのだ。理由ぐらいはとガッズが考えるのも、モンベルト国民だと考えれば不思議なことではない。 「それは、今の時点では教えられない。詳しいことは、シルバニアで兄さんに聞いてくれ。一応教えておくと、ちょっと暴れて貰おうと思っているんだ。だから、強化魔法を使える術者も同行させてくれないか」 「誰と戦うかは、教えてくださらないと言うことですか」  それでも、国王からの勅命なのである。断ると言うのは、モンベルトの常識ではありえないことだった。 「ありがたく拝命させていただきます」 「だったら、布告を出すように指示をして行くよ」  そう言うことだと言って立ち去ろうとしたのを、「しばしお待ちを」とガッズは引き止めた。 「ライスフィール様がお探しでした」 「今回は、ライスフィールに用はないからね。僕も、すぐに出発しようと思っているんだ」  だから逢わないと言うトラスティに、「いかがなものか」と臣下としての進言をした。 「国民達も、第二子の誕生を期待しております。国王としての義務をお果たし願えればと」  言い方を変え、そして義務と言う理由をつけて「ライスフィールを可愛がっていけ」とガッズは主張した。直前の目が血走った表情を思い出せば、そう考えるのも無理のないことだった。 「それは、本当に次の機会だね。今は忙しいから、1日を無駄にする訳にはいかないんだよ。何しろ僕は今すぐここを出て、別の銀河にいかなくちゃいけないんだ。アリッサやロレンシアも動かしているから、君もすぐにシルバニアに行ってくれないと困るんだよ」  そう言うことと言い残し、トラスティの姿はガッズの前から消失した。おそらくカムイの力を借りて、確率場を利用した移動をしたのだろう。 「時間の無駄ですか」  これはこれはと、ガッズは口元を引きつらせた。言うにことかいて、モンベルトの象徴に子供を作ることを、「時間の無駄」と言ってくれたのだ。モンベルトの国民であるガッズにしてみれば、腸が煮えくり返る思いを感じるはずのことだった。  ただ腹を立てながら、なぜライスフィールではだめなのかが理解できた気もした。 「王が見ているのは、モンベルトだけではない。広く宇宙を俯瞰されておられる」  そんな相手に、自国のことだけを主張すれば、疎まれるのは分かりきったことだった。疎まれるが言い過ぎなら、優先順位が下げられると言うところだろう。国民である自分たちならいざしらず、妻の理解がないのは最悪と言うのは分かるのだ。  そのあたりが、アリッサと彼らの女王との違いになる。ビジネスを通して、アリッサは広く銀河を見ていたのだ。その行動力は、時にトラスティを振り回すこともあるぐらいだ。それに引き換え彼らの王女は、トラスティを引き止めることしか考えていない。旅行随筆家の肩書を用いて宇宙を飛び回っていたことを考えれば、どちらの女性を大切にするのかは分かりきったことだった。 「王妃としての限界……ではないのだろうなぁ」  むしろ、人としての限界がそこにあるのだとガッズは理解した。  対策を考えていたら、結局一睡もすることができなかった。さすがに睡眠補助薬ではカバーしきれず、顔にははっきりと疲労の色が現れていた。 「お兄ちゃんって……」  悪戯な笑みを浮かべたリンは、「そんなにショックだった」と聞いてきた。そして少し胸を張って、ノブハルの前を歩いた。少し偉そうに見えるのは、間違いなく勘違いではない。 「まあ、お兄ちゃんにできた初めての彼女だもんね。あっと言う間に振られてショックなのは分かるかな」  そのあたりの事情ぐらい、リンも当事者だから知っていたことだった。それを承知で、あえて事実を捻じ曲げ兄をからかった。 「俺は、そんな顔をしているのか?」 「うんうん、普段とは違って酷い顔をしているよ」  そう言って笑ったリンは、振り返って「予定通り?」と兄に尋ねた。 「ああ、だからお前は噂を広めてくれればいい。そのあたり、ナギサの奴も手伝ってくれるだろう。俺が恨んでいると広めてくれ」 「お兄ちゃんには似合わないんだけどねぇ」  少し真面目な顔をして、「大丈夫なの?」とリンは尋ねた。 「まだまだ、不足しているとしか言いようがないな。現時点で、直接的行動に対して対処の目処がたっていない」 「トウカとセツナって子なら、多少マシなんじゃないの?」  何しろ護衛として、いつも密着して守っているのだ。大した実力がなくても、それでも兄よりはマシに思えたのだ。何しろ兄は素人で、相手は戦闘のプロなのだ。 「ちなみに、セツナの方は罷免された。そしてビナス・ロクジョーとともに、早朝の便でエルマーを出ている。おそらく、護衛隊隊長ガンドルフのお節介だろう」 「恋人同士の二人を生き残らせるためってこと?」  自分の推測に頷く兄に、「気持ちは分かるけど」とリンはため息を吐いた。 「更に戦力をダウンさせてどうするんだろう?」 「ダウンしても、誤差程度でしかないのだがな」  更に容赦のないことを言う兄に、リンは思わず苦笑を返した。 「それで、今日はどうするの?」 「基本的には、対策の検討に当てる。後は、俺が恨んでいると言うのを裏付ける行動だな。そのあたりは、ナギサの奴が協力してくれるだろう」 「本当に、お兄ちゃんらしくないことをするのね。ひょっとして、エリーゼを好きになった、とか?」  「そのあたりはどう」と、リンは口元をニヤつかせて顔を覗き込んできた。そんな妹に、ノブハルは「一ついいか?」と質問をした。 「その好きと言うのは、お前がナギサに向ける感情だと考えればいいのか?」 「そうやって正面から聞かれると悩むわね……」  う〜むと考えたリンは、「好きなのかなぁ」ともう一度悩んだ。それを見たノブハルは、「悪かった」と言って質問を変えた。 「ナギサが、お前に向ける感情だと思えばいいのか? もしもそうなら、違うと否定できるのだが?」 「お兄ちゃんに聞いた私がバカだったわ。おかしな藪をつついちゃった」  そう言って口をへの字にしたリンは、家の近くのバス停を指差した。 「お兄ちゃんが2日連続で学校に行くのなんて……もしかして、エレメントから初めて?」 「ジュニアの時にあった気がするが……確か、お前が足を怪我したときだ」 「何か、特別な理由がなければ学校に行かない訳だ……」  昨日は自分がけしかけたし、今日はアルカロイド対策のために登校するのだ。どう考えても、一般的な学生のすることではない。もっとも学校の方も、兄を一般的な学生として扱っていないと言う事情があった。 「お兄ちゃんのことは信用してるけど……でも、やっぱりやめた方がいいんじゃないの? 女の子だったら、その、私が教えてあげるから」  そうすれば、大好きな兄が危険な真似をしなくてもすむ。リンにしてみれば、本気でやめた方がと忠告をした。そこに下心がないかと言うと、なかなか難しい問題でもある。 「それは、二つの理由で断らせて貰う。まず1番目は、俺はナギサに恨まれたくない。そして2番目は、この不快な感情を解決できないことだ」 「別に、私でも駄目ってことじゃないのね?」  それが肝心と、リンは少しつり上がった大きな目で兄の顔を見た。 「昨日のことで、女と言うのは単純な存在ではないのが分かった。だとしたら、そのサンプルとして妹があってもおかしくないだろう」  その答えに、リンはがっくりと肩を落とした。 「いやさぁ、まあお兄ちゃんらしいとは思うよ。でもさぁ、もっと、その、女心をくすぐってくれてもいいと思うんだけど?」  そこのところはどうよと、リンは呆れたような顔をした。 「追加の質問だが、女心をくすぐるのはどうすればいいのだ? くすぐるというのは、物理的な事を言っているのか?」 「それぐらいのことは、検索しなさい!」  やっていられない。リンが大きなため息を吐いたところで、黄色に塗られたスクールバスが停留所の広場に入ってきた。  いつものように学校から離れたところでスクールバスを降ろされた二人は、少し歩いた所でいつもの相手から声を掛けられた。 「なんだなんだ、今日は雨でも降るんじゃないのか?」  大声を出して近づいてきたナギサは、手で影を作るようにして空を見上げた。ちなみに空を見ても、雲はどこにも見当たらなかった。そしてそのかわり、青空に溶けるように巨大なズイコーが浮かんでいた。 「普通の雨は降らないが、血の雨なら降るんじゃないのか」  不機嫌そうに言い返したノブハルに、「そうだったね」とナギサは態とらしく大声を上げた。 「そうか、君はエリーゼ・クライストスにこっぴどく振られたばかりだったね。だけどノブハル、だからと言って逆恨みは駄目だと思うんだ。もともと君は、女の子と付き合うには不適格なんだよ。そんな君なんだからね、振ってはくれたけど相手にしてくれただけ感謝しないといけないと思うんだ」 「どうして、俺が感謝をしなくちゃいけないんだっ!」  大声を出したノブハルは、慌ててあたりを見渡した。そして自分をバカにしたナギサの胸ぐらをつかんだ。 「お前は、あの女の味方をするのか!」 「僕は、いつだってノブハルの味方だと思っているんだけどね。ただね、ノブハルはもっと他人のことを知らないといけないと思っているんだ。言い換えれば、社会性の勉強かな」  そんなものだと、ナギサは掴まれた腕を振り払った。 「ノブハルをからかったのは、深刻な話にしたくないからだよ。君の親友として、そしてイチモンジ家次期当主として、僕も彼女には腹を立てているんだよ。ただ、卒業してしまえば二度と関わり合うことのない相手だと思って我慢しているんだ。つまらない相手に拘ると、自分もつまらない存在になるからね」  冷静になろうと、ナギサはノブハルの顔を見て言った。 「俺は、いつだって冷静だっ!」 「駄目だね、僕達は長い付き合いなんだよ。それぐらい、今日の君は普段とは違っているんだ」  ぽんとノブハルの胸を叩いたナギサは、「放っておこうよ」と笑った。 「いつも通り、君は研究と講義をしていればいいんだ。そうしていれば、気分の悪いこともそのうちに忘れられる」 「俺の記憶力がいいのを忘れてないか」  ますます不機嫌さを増したノブハルに、「それでも忘れるんだよ」とナギサは言い返した。 「覚えておいても、本当に何もいいことはないんだ。君まで、あんな女と同じところに落ちる必要はないんだ。それでも我慢がならないのなら、僕がイチモンジの力を使って彼女を抹殺してあげよう」  それで我慢しろと言い返されたノブハルは、「俺がやる」とナギサを睨みつけた。 「人任せにしたら、この胸糞の悪さがいつまでも続いてしまうんだ」 「自分で手を下したら、別の胸糞の悪さが君を襲うんだよ。だから、汚れ仕事は僕に任せておくのがいいんだ。リンちゃんの為にも、君を犯罪者にする訳にはいかないんだよ。ノブハルは、リンちゃんの未来も踏みにじるつもりなのかな?」  妹のことを持ち出されたノブハルは、悔しそうにナギサを睨みつけた。だがナギサの顔に浮かんだ笑みを見て、悔しそうに視線をそらした。 「ノブハル、君は自分の大切な人たちのことを忘れちゃいけないんだよ」 「それでも我慢出来ない時は、どうすればいいんだっ!」  そう吐き捨てたノブハルに、「リンちゃんの顔を思い出すんだよ」と言ってナギサはリンの肩に手を当てた。家族愛にあふれるノブハルには、一番効果的な攻撃でもある。 「あの女は、リンのこともバカにしたんだぞっ!」 「まあ、芸能人をやってたら、色んな所で酷いことを言われるからねぇ。いちいち気にしてたら、多分負けだと思うわよ。少なくとも、私はそう思っているしぃ」  ねっと妹に顔を見られ、ノブハルは「ちっ」と舌打ちをした。そしてイラつきを隠せずに、ボサボサの頭をくしゃっと掻いた。 「我慢すればいいんだな……」 「爆発しそうな時は、先に言ってくれるかな。その時は、僕が始末をしてあげるよ」  爽やかな朝の日差しの下、3人はとても剣呑な話をしながら歩いていた。他にも大勢学生がいるのだから、彼らが何を憤っているのか筒抜けになっていた。だからノブハルが酷く振られたと言う話は、瞬く間に学校内に広がっていったのである。そしてその話には、ノブハルが恨んでいると言うおまけまで一緒についていた。  少し時間をずらして登校したのは、ノブハル達と顔を合わせないためだった。一応その目論見は成功し、スクールバスの降車場からの道で顔を合わせなくても済んでいた。ただ居合わせた学生達は、護衛が1人減ったことにすぐに気づいた。これまでの1年近く、2人の護衛は片時もエリーゼのところを離れていない。それを知っているだけに、何かが起きたのだと2人を見かけた者は感じていた。  セツナが脱落したことで、トウカに掛かる負担は想像以上に増えていた。今までセツナに任せていたことは、全て自分でしなくてはいけなくなってしまったのだ。その上補完し合うこともできなくなったので、一瞬たりとも気を抜くことができなくなってしまった。それこそトイレですら、ドアを開いて外の気配を探らなければならなかった。それに比べてお風呂は、一緒に入れば済むだけにまだ楽だった。 「多少は気を抜いても良いのではありませんか?」  酷い緊張と疲れが見えるだけに、エリーゼはトウカのことを心配した。だがトウカにしてみれば、気を抜くことなど以ての外だったのだ。少なくとも、明日いっぱいまでは耐えてみせると考えていた。そのあたりの目安は、ノブハルの言葉を信用したからに他ならない。不思議なことに、最初の印象の割にトウカはノブハルのことを嫌っていなかった。それどころか、どこか頼もしいとさえ感じていたぐらいだ。 「あの男の分析は、非常に納得させられます。エルマー側も、お嬢様謀殺への備えを始めるでしょう。だとすれば、勝負は早い方がズイコーにとって有利となります。  だから長期間続くことはないはずだ。トウカの言葉に、それでもとエリーゼは言い返した。 「結果が変わらないのであれば、無駄な努力になるのではありませんか?」 「私達は、結果を変えるために努力をしているのですっ!」  強い口調で言い返されたエリーゼは、すぐに「ごめんなさい」と謝った。口にして気づいたのだが、自分はとても酷いことを言ってしまったのだ。  もっとも、強いことを言ったトウカにしても、本当の犠牲者がエリーゼと言うことは理解していた。そしてノブハルの分析でも、誰も彼女を守りきれないと教えられていたのだ。隊長のガンドルフも、「全力を尽くす」としか答えられないのが現実だ。 「いえ、お嬢様が一番つらいお立場なのは確かです」  すみませんと謝ったトウカは、「それにしても」とあたりを見渡した。 「昨日に比べ、学生達の視線が多くなっています。しかも、どう見ても友好的とは思えません」 「ノブハル様のことが関係するのでしょうか?」  昨日までとの変化は、ノブハルとの関係以外にはないはずだ。「多分そうでしょう」と言うエリーゼに、確かにとトウカは頷いた。 「実のところ、ノブハル・アオヤマは人気があったと言うことでしょう」  そのノブハルをさらったことが、周りから友好的でない視線が向けられる理由なのだろう。そう受け取った二人は、少し身構えながら自分のクラスに向かったのである。  そして自分のクラスに入ったところで、トウカは昨日との違いを思い知らされた。昨日はリンが帰った後、クラスメートとも話をするようになったのだ。それなのに、「おはようございます」と挨拶をして教室に入っても、誰からも朝の挨拶が返ってこなかった。 「何か、おかしいですね?」 「このクラスに関して言うのなら、昨日から何も事情は変わっていませんよね」  ノブハルのことは、すでにクラスの誰もが知っていることだったのだ。そしてその上で、ようやく話ができるようになったと言う事情がある。それを考えれば、急に無視をされるとは考えにくかった。 「考えても分からないのであれば、事情を探ってまいりましょう」  クラスの中であれば、エリーゼから離れても大丈夫のはずだ。そう割り切り、トウカは昨日声を掛けてきた少女、ミルモ・ミルメークに声を掛けようとした。だがトウカが近づこうとしただけで、ミルモは逃げるように自分の席から離れていった。  そしてその事情は、他の学生たちも同様だった。結局トウカは、誰からも事情を聞けずにエリーゼのところへ戻った。 「私達が、何かしたのでしょうか?」 「おそらく、何か誤解があるとしか思えないのですが……」  ふたりとも、誤解受けるような真似などした覚えがない。だからいくら首を傾げても、その理由など思いつくはずがない。しかも事情を聞こうにも、誰も彼女達に近寄っては来てくれなかった。そしてトウカが近づこうとすると、まるで逃げるようにその場から居なくなってくれた。結局ランチタイムまで、その繰り返しとなってしまった。  解けない疑問に頭を悩ませながら、二人はランチタイムを迎えることになった。ランチボックスを持ってきていない二人は、いつも通りに食堂に行くことにした。 「本来なら、毒殺に気を使わなくてはいけないのですが」  そこでトウカが苦笑をしたのは、自分たちに家事スキルがないのが理由なのだろうか。本来安全を期すのであれば、備蓄食料を使って食事を賄う必要があったのだ。  ただその問題は、備蓄食料だからと言って、必ずしも安全が確保できると言う保証がないことだった。相手の実力を考えれば、備蓄中の食料が入れ替えられたり、毒を入れられていても不思議ではなかった。 「毒殺と言う、効果の薄い方法は取らない……と信じることにいたしましょう」  食堂での毒殺は難易度が低く、足もつきにくいと言うのは確かだろう。ただズイコーでの暗殺未遂事件のせいで、犯人をズイコーから送り込まれた者になすりつけることも可能なのだ。確実にエルマーへ責任をなすりつけるためには、犯人をエルマーで用意した方がいい。そして難易度にしても、さほど毒殺と変わることはないのが現実だった。  安心には程遠くても、二人は無理やり食堂に行くことにした。だが彼女たちが席を立つ直前に、教室がざわめいたと思ったら、とても有名な少女が教室に入ってきた。そして全員が驚く中、リンは友好的とはとても思えない表情で、「これ」と言ってメモの書かれた紙をエリーゼに手渡した。 「私としては、あなたに関わってほしくはないのよ。でも、兄さんにどうしてもと頼まれたら、断る訳にはいかないの」  それだけ言うと、「渡したからね」と言い残してリンは教室を出ていった。あっという間、そして問答無用の出来事なのだが、不思議と腹は立たなかった。 「まず、中を見ないといけませんね」  相手がノブハルだと考えると、紙のメッセージと言うのは理解し難いところがあった。ただリンが持ってきた以上、差出人を疑う理由も存在しない。これはノブハルからのメッセージだと信じ、エリーゼは4つ折にされたメッセージを開いた。今更言うのもなんだが、メッセージは飾りっ気も何もない、少し黄ばんだ紙に書かれていた。 「私一人で、地下の化学準備室に来い……ですか」  これをと渡されたメッセージは、お世辞にもきれいとは言えない字で書かれていた。それを読んだトウカは、何か仕掛けがないか明かりに透かしてみた。 「他に、メッセージが書かれていること無いようです。表面にも、別の薬品が付いていませんでした」  一通り調べてから、トウカはメッセージをエリーゼに返した。そして「どうされます?」と彼女の行動を尋ねた。相手の信用はできるが、別の意味でリスクの高い行動だったのだ。 「明日が疑わしいとは言われていますが、だからと言って今日は大丈夫とは言えません。お嬢様とあの男が二人きりになるのは、襲ってくれと言うようなものだと思います」 「ですが、それぐらいのことはノブハル様もご存知だと思います。それでも私に来いと仰る以上、連絡が必要なことが生じたと考えられませんか?」  ノブハルのことを信用するエリーゼは、「だから大丈夫」とトウカの顔を見た。 「もしも情報であれば、私が一緒にいても問題はないはずです。わざわざ一人でと指定する所に、何か別の意味があるとしか思えません」 「では、あなたは行かない方が良いというのですか?」  顔を見て確認してきたエリーゼに、トウカははっきりと頷いた。 「昨日、二度と関わらないと言われました。それを考えれば、この呼び出しを受ける理由はないはずです」 「あなたの言う、通りなのでしょう……」  そこで俯いたエリーゼは、「それでも」と顔を上げてトウカを見た。 「私は、ノブハル様にお逢いしたいと思います」  はっきりと自分の意思を告げたエリーゼに、トウカは小さなため息を返した。 「お嬢様が、そこまで仰るのであれば止めません」  そこで少し表情を和らげたトウカは、とても鋭い指摘を投げかけた。 「お嬢様、あなたはノブハル・アオヤマに恋をされましたね」 「私が、でしょうか!」  初めは驚いた顔をしたエリーゼだったが、すぐに顔を伏せて「そうかもしれません」と小さな声で答えた。 「ただ、セツナさんが教えてくれたのは違っています。あの方のことを考えると、胸がざわざわとするのです」 「ざわざさ、でしょうか」  よくわからない感覚だと、トウカは少し呆れたように息を吐いた。ただ呼び出しを受けた以上、そしてそれに応えるのなら、あまり時間を使っている訳にはいかない。まあいいかと、エリーゼを送っていくことにした。 「では、途中までお送りいたします。一人で来いとは書いてありますが、途中まで送っては駄目と書かれていませんからね」  屁理屈を付けたトウカは、行きましょうかとエリーゼを促した。教室内の注目を集めているのは分かっているが、結局誰も何も話しかけてこなかった。  そして教室を出た二人は、廊下でも無遠慮な視線を向けられることになった。それだけアオヤマ兄妹が有名と言う意味であり、そして自分が異端と言うことでも有る。それを気にしても仕方がないと、ひそひそ話の聞こえる中エリーゼは階段の方へと向かった。  地下の化学準備室に向かう途中、「一つ分かったことがあります」とトウカが口を開いた。 「理由は分かりませんが、お嬢様がノブハル・アオヤマを酷く振ったことになっているようです。リン・アオヤマの態度が冷たかったのも、それが理由と言うことになります。ナギサ・イチモンジは、お嬢様に報復するとまで口にしたらしいですね」  陰で言われていることを整理したことで、トウカはほとんど正解へとたどり着いていた。 「だとすると、ますます襲われる可能性が高くなったかと思われます」  そう口にしてから、「ひょっとして」とトウカは疑問を口にした。 「どうしても助からないのなら、ノブハル・アオヤマの手に掛かりたい。と言うことですか?」 「さすがに、そこまで言うつもりはありませんが……それでは、随分私はイタイ女になりませんか?」  エリーゼの苦情に、「違うのですか!」とトウカは態とらしく驚いた。それを酷いと膨れたエリーゼは、「ありがとう」とトウカに礼を言った。 「あなたに守ってもらえて、私は幸せだったと思います」 「まだまだ、お守りするつもりで居るのですけど。感謝の言葉は、素直に受け取らせていただきます」  頭を下げたトウカは、前を見て表情を引き締めた。そこには、目指す化学準備室の扉があった。 「私がお供できるのは、ここまでと言うことです。ここで待っていますので、もしもの時は大声を上げてください」 「そうですね。ただ、覗かないでくださいね」  前の日は、全員に覗かれていたのだ。それを持ち出したエリーゼに、「して貰えばよかったのに」とトウカは笑った。 「そうすれば、とても参考になったかと思います」  それではと、トウカは頭を下げて後ろに下がった。化学準備室の扉からはあまり離れておらず、誰かが来ないかを見張るにも都合のいい場所だった。 「そうですね、あまりお待たせをしてはいけませんね」  微笑みを返しながら、エリーゼは入り口のボタンを押して準備室のドアを開いた。そして一度中を確認してから、その中へと入っていった。 「さて、私は不審者が近寄らないか警戒することにしますか」  ここに近づいて以来、他に人の気配を感じていない。ただ相手の実力を考えれば、油断をしても良いことはない。なんとか気配を察知してみせると、トウカは全神経を集中した。何か物音はしないか、空気の震えはないか、何か臭っては来ないか、誰かが近づいてこないかか。本当に集中して、辺りの気配を探ったのである。  化学準備室には、附室が付いているのを知っていた。外からは、一度附室に入ってからしか準備室に入れない。何も物音が聞こえてこないところを見ると、エリーゼは準備室へと入ったのだろう。そこでノブハルと、彼女は一体何を話すことになるのだろうか。 「お嬢様から、告白するのも良いかもしれませんね」  その時あの男が、一体どんな顔をするのだろう。あたりに気を配りながらも、トウカは少し楽しい気持ちになっていた。それが理由なのかは分からないが、すぐ後ろに黒い人影が現れたのにトウカは気づかなかった。完全に気配を消した黒い影は、そのままトウカに近づき後ろから口を押さえた。そしてトウカが抵抗する間もなく、首に鋭い針を突き刺した。  おそらく即効性の毒なのだろう。振り払おうと上げられたトウカの手が、すぐに力なく垂れ下がった。そのまま人形のように力の抜けたトウカを、黒い人影は音も立てずに引きずっていった。それは悲鳴を上げる間もない、あっという間の出来事だった。  リンにメッセージを託したノブハルは、一度ナギサに目で合図をしてから立ち上がった。そこで周りの視線を集めたのは、一応予定通りと言うことになる。お膳立ては全て済ませたのだから、後は相手の出方を待つだけとなった。  途中まででもナギサを連れて行かなかったのは、彼を巻き込むリスクを恐れたからだ。その為ノブハルは、ただ一人学生達の注目を集めて化学準備室へと向かうことになった。彼が化学準備室をその場所として選んだのは、普段は他の学生たちの近寄る場所でないこと、細工をするのに都合がいいと言うのが理由である。地下にあること、そして爆発物を扱うことから、気密性が保たれ頑丈にできているのも都合が良かった。  少し足早なのは、気が急いたと言うより、周りに対するポーズが大きかった。だから足早に歩きながらも、周りへの警戒は怠っていなかった。ただトウカと違うのは、ノブハルが科学的アプローチを取ったことだ。赤外線を使うとばれるので、サブミリ波を使ったレーダーで全天球方の監視を行っていた。これによって、自分の周り5m圏に入る全ての生物を検出することが出来るはずだった。 「階段までくれば、周りに人が居なくなるな」  そのレーダーに誰もかからなければ、周りに人が居ないことになる。本当にそうかと疑問は感じたが、レガシーなテクノロジーを信用することにした。  そしてそのまま階段を降りたノブハルは、地下にある科学準備室へと到着した。赤外線でセンシングした範囲で、直近で誰かが近づいた形跡はない。妹を使いに出した時間を考えれば、エリーゼ達が来るまでまだ時間はあるだろう。 「後は、中で待ち伏せをされていないか……か」  波長を変えて見てみても、誰かがスイッチに触った形跡は見つからなかった。そして振動センサーでも、中で動くものが有るのを検出できていない。振動センサーの感度を上げてみたが、それでも何も検出できなかった。 「これで待ち伏せをされたら、殺される前にどうやったか教えてほしいものだ」  ここまで自分の持っている技術が否定されれば、その理由に興味をもつのも仕方がないことだ。そんな意味のないことを考えながら、ノブハルは化学準備室に通じる附室のドアを開いた。シュッと空気の音がしてから、一瞬遅れて附室の中を照明が照らし出した。少し雑然としているが、そこに人の気配は感じられなかった。 「誰も、居ないようだな」  小さく呟いてから、ノブハルは附室に入り廊下につながるドアを締めた。そして同じように準備室の気配を探ってから、手元のスイッチで準備室のドアを開けた。附室に比べて広い準備室には、隠れる場所がいたるところにできていた。だからノブハルは、準備室に入る前に幾つかのアクティブセンサーを準備室の中に投げ入れた。だが投げ入れたセンサーは、中に人がいると言う情報を上げこなかった。 「まだ、居ないと言うことだな」  仕掛けてくるのか、さもなければ観察しているのか。どちらだろうと考えながら、ノブハルは準備室へと入りドアを締めた。薬品を扱うため、準備室の中はずっと強制換気が動いている。そのためのダクトはあるのだが、ファンが回っているため人が通れる隙間はない。そして地下にあるため、外から入る窓も作られていなかった。入り口にしても、たった今入ってきたドア以外の入り口は無い。鍵はかけられていないが、ある意味密室が作られたことになる。 「では、エリーゼを待つことにするか」  ふふと口元を歪め、椅子を引き寄せようとノブハルは少しだけ前かがみになった。黒い人影が現れたのは、まさにノブハルが椅子に手を掛けたときのことだった。そしてノブハルの手が椅子に触れたのと同時に、黒い人影はノブハルの首筋に針を突き刺した。一瞬だけ痙攣したノブハルだったが、すぐに痙攣は収まり前を向いたまま椅子に向かって崩れ落ちた。  ノブハルの首に針を指した黒い影は、両腕を脇に入れてノブハルを引き起こした。その体を遠くにいってしまった椅子まで引きずり、持ち上げるようにして椅子に座らせた。そしてだらしなく椅子に身を預けたノブハルの耳元に口を近づけ、早口で何かを繰り返し囁きかけた。 「犯せ」「殺せ」  その言葉がノブハルの口から漏れ出たところで、黒い影は離れていった。そして現れたのと同じ唐突さで、出口のない化学準備室から姿を消失させた。力なく椅子に座ったノブハルの口から、「犯せ」「殺せ」と言うつぶやきが繰り返されていた。  附室に入ったエリーゼは、化学準備室のドアを開く前に大きく深呼吸をした。ノブハルから重要なことを教えられるのか、敵に操られたノブハルに襲われることになるのか。これから何が起きるのかは分からないが、自分にとって意味のあることになってくれるはずだ。叶うならば、もっと楽しいことであって欲しい。ありえない望みを抱きながら、エリーゼは準備室に入るためドアのスイッチを押した。「シュッ」と言う空気の漏れる音がして、目の前のドアは滑らかに開いてくれた。中に明かりがついているのを見ると、すでにノブハルが待っているのだろう。 「ノブハル様?」  準備室に入ったエリーゼは、ノブハルに声を掛けてから振り返って入ってきた扉を締めた。その途端後ろから肩を捕まれ、「きゃ」っと可愛らしい悲鳴を上げた。 「ノブハル様……でしたか。驚かせないでください」  そう答えて振り返ったエリーゼだったが、すぐにノブハルの様子がおかしいのに気がついた。普段は無表情なノブハルなのだが、なぜかギラついた目をしていたのだ。  一体何がと考えたところで、エリーゼはそのまま壁に押し付けられた。そこでエリーゼは、「殺せ」「犯せ」とノブハルがつぶやいているのに気がついた。 「ノブハル様は、操られてしまったのですね……」  やはりトウカが警告したとおりだった。せっせと種を蒔いたせいで、アルカロイドが計画の実行を早めてしまったのだ。罠を張ったつもりなのに、罠を物ともしない相手はその罠を利用してくれたのだ。  敵に操られたノブハルは、エリーゼを壁に押し付けると両手をブラウスの胸元に当てた。そして少しも躊躇うことなく、力いっぱい両側に引っ張った。ブラウスを止めていたボタンがちぎれ飛び、小さめの胸を隠すおしゃれな下着が目の前に晒された。  このまま自分は犯され、そして殺されることになる。自分の運命を悟ったエリーゼは、ノブハルに抵抗しようとはしなかった。そして抵抗の代わりに、右手でそっとノブハルの頬に触れた。「良いのですよ」と言う許しを口にして、すべてを受け入れるように青い瞳を閉じた。  だが下着を引きちぎろうとノブハルが手を伸ばしたところで、そこから何も起きなかった。何が起きたのかと目を開いたエリーゼの前で、ノブハルが苦しそうに顔を歪めていた。 「ノブハル、様?」  敵に操られているのなら、こんな所で止まるはずがなかったのだ。敵の支配を抜け出そうとしているのか、そう考えたエリーゼは「ノブハル様!」と大きな声でノブハルの名を呼んだ。 「俺は……呼び捨てにしろと言ったはずだ……」  苦しそうに吐き出したノブハルは、鼓動を落ち着けるように何度も大きく息をした。 「中和剤が、中途半端にしか役に立っていない。俺に掛けられた暗示を、消しきれていないんだ」  表情は苦しそうになったが、ノブハルの瞳には理性の色が戻っていた。よろめきながら振り返ったノブハルは、エリーゼを守るように両手を広げた。そんなノブハルの動きに合わせるように、誰も居ないはずの化学準備室の中に一つの影が現れた。 「トウカさんっ!」  外の廊下で待っているはずのトウカが、人を小馬鹿にしたような目をして立っていた。 「せっかく人気のない場所にお嬢様を連れ出したのに、どうして欲望に従って犯さないのです? お嬢様も、心の中では犯されたいと思っていたのですよ」 「お前も……操られたか……」  ここで現れたのが敵ならば、部屋の中を吹き飛ばすと言う奥の手が使えたのだ。だが相手がトウカでは、その奥の手も使えない。 「あなたが何を言っているのか分かりませんが。お嬢様に恥をかかせないでください。あなただって、女を知りたいと言っていたじゃありませんか」  そう言ってノブハルを嘲笑したトウカは、「それとも」とエリーゼの胸元を見た。 「お嬢様の貧弱な体では、その気になれませんか? でしたら、私もご一緒して良いのですよ」  ふふと笑ったトウカは、来ていたジャンパースカートを脱ぎ捨てた。そしてゆっくりと、見せつけるようにブラウスのボタンを外していった。  エリーゼのことを「貧弱な体」と言うだけのことはあり、トウカの方が胸も大きく、腰もきゅっとしまっていた。恥じらう姿も見せず、トウカは最後の一枚も脱ぎ捨てた。そして生まれたままの姿を晒しながら、ゆっくりとノブハルに近づいていった。 「私たちに、恥をかかせないでください」  息の掛かるところまで近づいたトウカは、ノブハルの右手を取って自分の胸に誘った。 「お嬢様も、ノブハル様をその気にさせないと」  ノブハルの後ろに隠れたエリーゼに手を伸ばし、トウカが彼女の下着を剥ぎ取った。 「ノブハル様、お嬢様も興奮なされていますよ。さあ、遠慮は体に毒です。思う存分、私達の体を貪ってくださいな」  そう言って、トウカは自分から唇を重ねていった。まだ暗示が解けきっていないノブハルは、抵抗もできずにトウカの唇を受け入れた。何度も息継ぎをしながら、そして舌を絡めながらトウカはノブハルの唇を貪り続けた。そして己の興奮を示すように、下半身をノブハルにこすりつけてきた。トウカの胸に当てられたノブハルの手は、誘われるまま豊かな胸を揉みしだいていた。 「ほら、お嬢様も遠慮なさらずに。そうでないと、私達だけが楽しんでしまいますよ」  エリーゼの胸元に手を伸ばし、トウカは彼女の胸を揉みしだいた。少しエリーゼの息が上がってきたのは、異常な状況の中でも興奮を感じ始めていたのだろう。 「ほら、もう我慢はいらなんです」  そう言いながら、トウカはノブハルのズボンに手をかけた。彼の男がいきり立っているのは、ズボンの上からでもはっきりと分かっていたのだ。  「さあ」と言いながらトウカがズボンのボタンに手を伸ばした時、ノブハルの左手が彼女の首筋に当てられた。「チッ」と言う空気の音に遅れて、トウカの体が痙攣し、ノブハルの胸にもたれかかってきた。  それを確認してから、ノブハルは左手に持ったインジェクターを自分の首に当てた。「チッ」と言う小さな音がしてから、ノブハルは後ろにいるエリーゼの方へともたれかかった。それと同時に、支えを失ったトウカが床へと崩れ落ちた。 「彼女のお陰で、使われた暗示薬が特定できた……」  一度大きく息をしたノブハルは、屈み込んで喘いでいるトウカを支えようとした。 「意識ははっきりしてきたか?」 「私は、何を……」  首を振ったところで、トウカは自分が裸なのに気がついた。 「な、なんで、私が裸なんですかっ!」  ノブハルを突き飛ばしたトウカは、見られないようにとしゃがみこんで胸を隠した。「Incredible!」と知らない声が聞こえてきたのは、ちょうどそのタイミングのことだった。 「まさにIncredibleですな。よもや、私達の作戦に修正が必要になるとは思ってもいませんでした」  なにもない所に現れたのは、全身黒尽くめの小柄な者だった。声を聴く限り男に思えるのだが、それが本当なのかどうかはノブハルにも分からなかった。 「お前が、アルカロイドと言うことか」  よろめきながら体勢を立て直したノブハルに、「無理はよくありませんね」と黒尽くめの相手は親切そうに声を掛けてきた。 「中和剤の過剰投与に、誤投与をしたのですよ。こう言う時は、ぐっすり眠って薬が抜けるのを待つものです。ですから私は、親切にもこれからあなたを覚めない眠りに誘って差し上げます」 「よもや、簡単に行くとは思っていないだろうな」  頭はくらくらするし、足元もおぼつかなくなっていた。それでも闘志だけは、ノブハルの中で業火のように燃え盛っていた。 「あなたが二人相手に盛らなかったので、計画に割り当てた時間自体は十分に残っているんです。これから計画の修正を行っても、全体計画に遅れは生じませんよ。実力の違いは、すでに教えて差し上げたはずです」  ふむと考えた黒尽くめの人物は、良いことを思いついたと「ぽん」と手を叩いた。 「あなたが持ってきた火薬を利用しましょうか。そうですね、思い通りにならない彼女に業を煮やし、道連れで自殺と言うのが良いでしょう。そのためには、お二人にも裸になって貰わないと」  黒尽くめの人物がそう言ったとこで、ノブハルは相手の姿を見失った。移動したのだと気がついたのは、乱暴に突き飛ばされたと気づいてからだった。  そしてノブハルを突き飛ばした黒尽くめの人物は、エリーゼの下着を剥ぎ取り裸にした。 「なるほど、彼女の言ったことは正しかったようですね。しっかり女として盛っているじゃありませんか。遠慮しないでやってあげれば、お互い死ぬ前にいい思いができたのに。勿体なかったですね」  その言葉と同時に姿を消した黒尽くめの人物は、倒れたノブハルの首根っこを捕まえて引き起こした。抵抗しようにも、まだノブハルの体は自由が効かなかった。 「男を脱がす趣味はありませんが。彼女たちには期待できないでしょう」  楽しそうに言いながら、黒尽くめの人物はノブハルを脱がしていった。そしてズボンを引き下ろしたところで、「なぁんだ」と楽しそうにノブハルの状態を口にした。 「あなたも、男だったと言うことですね」 「お前が、薬を盛ったのだろう」  言い返してきたノブハルに、「いやいや」と相手は首を振った。 「いい加減、現実を認めましょう。あなたは、女の体に興味があった。そして二人に対して、性的興味を覚えたと言うことです」  そこまで言って、「ああ」と納得したような声を上げた。 「暗示を解くモチベーションですが、なるほど、彼女のことが好きになっていたのですね。いやいや、これは貴重なデーターが取れました」  感謝しますと笑った相手は、ノブハルのズボンのポケットから攻撃用の火薬を取り出した。 「これもまた、なかなか大したものですね。これを爆発させ、自分たちは防爆バリアで身を守るのですか。確かに、部屋の中で爆発をされたら、私でも逃げ切れませんね。あなたの発想には、本当に何度も驚かされました。いやいや、あなたはIncredibleの申し子、Mr. Incredibleですね」  「ただ」そう言って笑った黒尽くめの人物は、自分のポケットから別の爆弾を取り出した。 「防爆バリアも、この規模の爆発では役に立ちませんね」  そう告げた黒尽くめの人物は、時間を確認して「そろそろいいか」と言った。 「多少予定が繰り上がっていますが、今からならさほど計画にズレは生じないでしょう。ああ、今からでもなさるというのなら、多少の猶予は差し上げますよ。あなた達も、死ぬ前にいい思いをしたいのでしょう?」 「あいにく、これでも羞恥心はあるからな。お前たちにとって、二人の体に俺の精液が残っていた方が都合がいいのだろう」  苦しそうに吐き出された答えに、黒尽くめの人物は嬉しそうに手を叩いた。 「いやいや、本当にあなたはIncredibleだ。あなた達の体は、間違いなく司法解剖されますからね。仰るとおり、エリーゼ・クライストスが犯されていた方が都合が良かったのですよ」  いやいや残念と、少しも残念そうに見えない口調で笑った黒尽くめの人物は、ゆっくり歩いて実験テーブルの上に爆薬をおいていった。 「この建物は持ちますが、あなた達はミンチ……とまではいかなくても、目も当てられない姿になることでしょう」  「では、ごきげんよう」その言葉と同時に、黒尽くめの人物の姿が化学準備室の中から消失した。それからほんの僅かな、おそらく1秒も無かっただろう、化学準備室の中で校舎を揺るがす爆発が起きた。それは、いくら天才ノブハルでも、対処のしようがない短い時間の出来事だった。  その頃エリーゼの父、ハンスバッハ・クライストスは珍しい、そして彼にとって重要な客をオフィスに迎えていた。「トラスティ・ヒカリ」と言えば、今や超銀河連邦の中では知らない者はいないと言われるビッグネームなのである。その来訪を聞きつけたハンスバッハが、是非にと会談を要求し、それが認められたのが先程のことだったのだ。 「トラスティ様にお出でいただき、感謝の言葉もありません」  少し緊張したハンスバッハは、腰を45度折り曲げたお辞儀をした。「そこまで必要ありませんよ」と笑い、トラスティは「こちらこそ」と右手をハンスバッハに差し出した。 「クライストス氏は、強く平和を望まれていると私の耳に届くぐらい有名です。ズミクロン星系が平和を保たれているのは、私個人にとってもとてもありがたいことなんです」 「個人的に都合が良いと言うのは?」  差し出された手を握ったハンスバッハは、「忘れていた」とトラスティをソファーへと案内した。そしてワゴンを引き寄せ、「飲まれますか?」と酒のボトルをトラスティに見せた。 「まだ、明るいですからね。それに、あまりアルコールは摂取しないことにしています」 「お嫌いと言う訳ではないのですね」  それを確認したハンスバッハに、「むしろ好物だ」とトラスティは笑った。 「ただ、酩酊するまで飲ませようとする者が多くて困っているんです。そして酩酊した後目を覚ますと、決まって知らない女性が隣に寝ている。旅の初めに何度も痛い目に遭ったので、それからは警戒するようにしているんです」 「ですが、そのお陰でやんごとなきお方たちと繋がりができたのではありませんか?」  いやはや羨ましいと、ハンスバッハは本気で羨ましがった。 「物事、過ぎると良いことばかりではありませんよ」 「確かに、そうそうたる顔ぶれと伺っております」  そう言って笑い、ハンスバッハはワゴンから冷えたミネラルウォーターを取り出した。 「酔い潰すのは、今夜のディナーと言うことにいたしましょう。ちなみに娘のベルグレッタは、少し赤みがかってはいますが、金髪碧眼をしております」 「最近は、そのことに拘らないようにはしているのですが……」  苦笑をしたトラスティは、渡されたミネラルウォーターを口に含んだ。 「ところで、個人的興味と伺いましたが?」  最初の話に引き戻したハンスバッハに、「ああ」とトラスティは頷いた。 「実は、個人的にIotUの足跡を追っているんです。ただ、なかなかこれと言った発見がなくて困っていると言うのが現実です」 「さすがに、1千年……1千ヤー前の人物ですからね。足跡一つとっても、見つけるのは容易くはないでしょう。その理由で、ズミクロン星系を訪問されたのですか?」  こちらの意図を探るようなハンスバッハに、トラスティは笑いながら「ご迷惑でしたか?」と尋ね返した。 「いえいえ、ご高名なトラスティ様の来訪ですから、迷惑などとは思っていませんよ。ただ双子星と言う以外に、ズミクロン星系は珍しいところの無い場所です。ですから、どうしてと思ってしまったと言うことです」 「確かに、ズミクロン星系だけを取ってみれば、恒星のタイプも珍しくはありませんね」  そう言って笑ったトラスティは、「ただ」と自分が現れた理由を口にした。 「最後に超銀河連邦へ加盟したと言う特異性があります。後は、有人の双子星が珍しいと言うのも有ります。空に双子の片割れが大きく見える景色と言うのを、一度自分の目で見たかったのだとご理解ください」 「私どもには、珍しくもなんともない景色なのですが……」  うんと唸ったハンスバッハは、「確かに」とトラスティの言葉を認めた。 「大きな衛星を持つ惑星は珍しくありませんが、2つの有人の惑星が連星となっているのは珍しいのは確かですな。ただ生まれたときから有る景色のため、住民たちは珍しいと思うことはないでしょう」 「動機と言っても、その程度と言うことです。なかなか手掛かりが見つからないので、最後に超銀河連邦に加わったことを理由にしただけです」  「ただ」と言って、トラスティはもう一度ミネラルウォーターを口に含んだ。 「超銀河連邦への加入銀河が、なぜか1万で止まっています。もしかしたら、ディアミズレ銀河に何か特別なところがないかと考えたんですよ」 「特別な所……でしょうか。なかなか難しいことを仰られる」  少しの苦笑を浮かべたハンスバッハに、「そうですね」とトラスティは相槌を打った。 「だから、少し気分を変えるのを目的としました。その程度の気楽な気持ちで、ズミクロン星系にやってきたと言うことです。その意味で、空に浮かぶ巨大なエルマーを見られたのは良かったと思いますよ。後はエルマーに行って、空に浮かぶズイコーを見てみようと思っています」 「大きさから行くと、赤道半径はズイコーの方が1km程大きくなっています。もっとも赤道半径で3800km程ありますから、1kmの差が分かることはないでしょう。むしろ大陸の形ぐらいが、目で分かる違いと言っていいかと思います」 「だからこそ、双子星と言われる訳ですか」  楽しみだとトラスティが呟いたところで、二人のいる部屋のドアがノックされた。そして「失礼します」とハンスバッハの秘書が入ってきた。  少し固い表情で入ってきた秘書は、ハンスバッハに近づくと何かを耳打ちした。その時トラスティは、ハンスバッハの口元が少し動いたのに気がついた。 「引き続き、情報の収集に努めよ」  ハンスバッハの指示を受け、秘書の男は頭を下げて応接となった部屋を出ていった。 「何か、まずいことでもありましたか?」  秘書の慌てた様子に、トラスティは「帰りましょうか?」と声を掛けた。何か問題が起きたのなら、部外者は遠慮をするのが礼儀なのである。 「い、いえ、問題はここで起きた訳ではないのですが。サン・イーストの娘が留学している学校で、爆発事故が有ったらしいのです。なので、今は娘の無事を確認している所です」 「お嬢さんの留学先ですか。それは、さぞかし心配されているのでしょうね」  やはり帰った方がと言うトラスティに、「いえいえ」とハンスバッハは首を振った。 「私が焦っても、何も事態は解決いたしません。今は、貴重なお話を伺うことを優先したいと思っております」 「そうやって構えられると、とてもやりにくいと言うのをご存知ですか」  嫌だなと苦笑をしたトラスティは、「良い星ですね」とズイコーを褒めた。 「どこか、アスに似た空気を持っています。その意味で、ジェイドにも似ているのですがね。1万の銀河のどこにでも、アスに似た星が有るのも不思議ですね」  そう口にしたトラスティは、例えばと言ってエスデニアを上げた。 「超銀河連邦の中核国家であるエスデニアも、とてもアスに似ていますよ。そして下層社会……今は言い方を変えているそうですが、そちらの星もアスに似ています。そしてエスデニアからの移住者で作られたパガニアも、とてもアスに似ていますね。ようやく復興の途についたモンベルトにしても、とてもアスに似ていたと言われています」 「そう言われると、確かに不思議には違いないでしょう」  うんうんとハンスバッハが頷いた時、もう一度先程の秘書がノックをして入ってきた。先程より慌てているように見えるのは、必ずしもトラスティの気のせいではないだろう。  そして秘書が何やら耳打ちをしたところで、明らかにハンスバッハの表情が険しくなった。ただトラスティから見て、どこか違和感を覚える表情でも有った。 「エリーゼの消息が分からないのか!」  押さえた声で口にしても、他に誰も居ないのだからトラスティの耳に届いてしまう。エリーゼがハンスバッハの次女だと気づいたトラスティは、「お嬢さんがどうかなされたのですか?」と尋ねた。 「お嬢様が、男子生徒に呼び出され地下の化学準備室に行かれたそうです。そして爆発は、その科学準備室で起きたと言う情報が伝わってきました」  口元を押さえたハンスバッハに代わり、情報を伝えに来た秘書が事情を口にした。 「お嬢さんは、なぜそんな場所に行ったのでしょうね?」  男子生徒に呼び出されて行くには、地下の化学準備室と言うのは常識から外れている。だがその疑問を口にしたところで、「失礼しました」とトラスティは謝った。 「今は、お嬢さんの無事が第一ですね」 「仰る通りかと。ただサン・イーストの治安部隊が現場を閉鎖しております。お嬢様の護衛を派遣しているのですが、現場に近寄れないのが現実です」  秘書が大きく頷いた時、「キナイの奴らは」とハンスバッハは苛ついたように吐き出した。キナイと言うのは、エルマーにある7行政区の一つで、エルマー7家の一つイチモンジ家が治める地の名前である。 「落ち着くのが難しいのは承知していますが」  申し訳無さそうな顔をしたトラスティは、「それでも落ち着いた方が」とワゴンからミネラルウォーターを取り出しハンスバッハに渡した。  それを荒々しく受け取ったハンスバッハは、乱暴に封を切り勢い良く半分ほど飲み干した。そしてそこで一度動きを止めたかと思ったら、ボトルを置いて大きく息を吐き出した。 「スヴェイン、エリーゼは爆発の起きた地下室に行ったのだな?」 「キナイの財務官僚、シュンスケ・アオヤマの息子に呼び出されたと言うことです」  重要な情報の追加に、ハンスバッハはぎりっと奥歯を鳴らした。 「シュトーレンハイムと連絡をつけろ。ハンスバッハ・クライストスは、エルマーへの宣戦布告を支持するとな」 「お嬢さんの仇討ち、ですか?」  確かめてきたトラスティに、「悪いのか」とハンスバッハは噛み付いた。 「双子だから、仲がいいと言うのは幻想だ。だが人としての理性が、争いを押さえてきただけのことだ。だがその理性が裏切られた以上、相応の報いを与えることのどこが悪い。ここで弱気の対応をすれば、エルマーの奴らが付け上がることになる」 「そう言った考え方があるのは理解しますけどね」  小さく息を吐き出したトラスティは、「失礼します」と言って立ち上がった。 「これ以上ここに居ると、お邪魔になるでしょう。予め申し上げておきますが、私はこれから起きる戦争に対して、どちらも支持をいたしません」 「エルマー側に非があってもかっ!」  怒りに満ちた目を向けてきたハンスバッハに、「それでもですよ」とトラスティは静かに返した。 「誰が犯人かも分からないうちから勝手に犯人を決めつけ、待ち構えていたように宣戦布告をする。そんなあなた達と、価値観を共有できるとは思えませんからね。やるべきことは、犯人の逮捕と正当な裁判を行うことです。その手間を省き、まるで何かを隠すような行動を私は支持することはできませんよ」  もう一度「失礼」と言って、トラスティは応接になった部屋を出て行こうとした。だが出口の扉に手を掛けたところで、「それから」と振り返ってハンスバッハの顔を見た。 「犯人を捕まえることであれば、協力を惜しむつもりはありませんけどね」  そこまで口にして、今度は振り返ること無くトラスティはハンスバッハのオフィスを出ていった。それを見送ったところで、ハンスバッハは「監視しろ」と秘書のスヴェインに命じた。 「宜しいのでしょうか?」  相手が連邦の中でビッグネームだと考えると、迂闊な真似は自分の首を絞めることになる。それを気にしたスベインに、「安全確保のためだ」とハンスバッハは嫌らしく口元を歪めた。 「何しろ、これから星間戦争が起きるのだからな。他星系の要人に対する、身辺警護は我々の義務のはずだ」  理屈として、ハンスバッハの言っていることに間違いはないのだろう。これから星が戦場になることを考えれば、身辺警備も付けずに歩き回るのは自殺行為に違いない。  「承知しました」と答えたスヴェインは、手配のために応接となった部屋を出ていった。 「くっ、ここまで飼ってきた甲斐があったと言うことか。けして高い出費ではなかったな」  口元で手を擦ったハンスバッハは、いやらしい笑みを口元に浮かべた。ここまでの事件は、全てシナリオ通りに動いている。これからの振る舞い方についても、シナリオを変える必要はなかったのだ。  ハンスバッハの事務所から外の通りに出た所で、「なるほどね」とトラスティは口元を歪めた。目立たないようにはしているが、少し離れた建物の陰から自分を見ている視線に気づいたのだ。そしてそれとは別のところからも、自分を監視する視線が向けられていた。 「戦争が起きるのだから、保護と言う名目がたつと言うことだな」  これもまた予想通りと、トラスティは気づかないふりをして通りを少し歩いた。そして無人のコミューターを捕まえ、確保したホテルへと向かうことにした。ホテルの予約にはアリッサが絡んでいるので、確保されたのは地域で一番の豪華ホテルである。一人で泊まるのに、3つもベッドルームがあってどうすると言いたくなる部屋だ。しかもリビングになっている部屋には、大きなジャグジーまで備えられていた。 「僕が居合わせたのは偶然として、さすがは食えないタヌキだな。知らなければ、本気で娘を大切にしているように見えたよ」  そんなことは無いのは知っているが、かと言ってこの星の事情に関わるつもりも無い。戦争をしたいのなら、勝手にしてくれればいいと言うのがトラスティの立場だった。  そこでコミューターの鏡を見て、トラスティは付いてくる車がいるのを確認した。どうやらハンスバッハが手配した人員は、自分がホテルに入るのを確認するつもりのようだ。 「人のことを舐めているよな、あれは」  こんな原始的な尾行で、自分を監視できると本気で思っているのだろうか。よほどこのまま戻って、高慢ちきな鼻をつまんで来てやろうかと思ったぐらいだ。ただそれでは予定が狂うと、トラスティは行動を自重することにした。 「さて、この星系から何が出てくるのだろう」  幾つか銀河を回ってみたが、結局目新しい情報は得られていなかった。それを考えれば、ここでも無駄足を踏む可能性は高いのだろう。がっかりして帰ることに比べれば、戦争でもしてくれた方が面白いのかもしれない。そんな不謹慎なことを考えながら、トラスティは窓の外流れていく景色を見ていたのだった。  エリーゼを呼びに行った後のリンは、ナギサに向けて不機嫌さを隠さなかった。結局兄からは、起死回生の策があるとは聞かされていない。その状況で時計を早回しするのは、殺してくれと言っているようなものだったのだ。そしてそんな真似をした理由を考えると、ますます気分が悪くなってしまうのだ。 「兄さんに、余計なことを言わなきゃ良かった」  忌々しげに吐き出したのは、コンサートが終わった夜のことを思い出したからだろう。あそこでプロムを持ち出さず、女の子を知ることを持ち出さなければ、兄はこんな目に遭っていなかったはずだ。それを考えると、どうしても苛立ってしまう。 「別に、リンは間違ったことを言ったとは思わないんだけどね。このままだと、ノブハルの将来が不安と言うのは、僕とも共有した思いだからね」  そう言ってサンドイッチに手を伸ばしたナギサは、化学準備室のある校舎の方へと顔を向けた。 「まあ、リンも落ち着くべきだね。ノブハルは、何の勝算もなく無謀な真似をする程青くない」 「落ち着いてなんかいられるはずがないでしょう! 兄さんにもしものことがあったら、私はどうしたら良いのよ」  母親が持たせたお弁当にも手を付けず、リンは不安に揺れる眼差しを校舎の方へと向けた。 「敵ぐらいなら、僕が打ってあげるけどね」 「そんなもの、打たなくちゃいけない事になったら困るのよ!」  ますます苛つくリンに、ナギサはもう一度「落ち着こう」と声を掛けようとした。だがナギサが口を開いたのと同時に、二人の足元が揺れ地響きが聞こえてきた。そしてそれに少し遅れて、ナギサの目の前に連絡員の顔がポップアップしてきた。 「化学準備室で爆発が起きた可能性がある。現場付近は、天井が崩れて立ち入れない状況になっていると言うことだね」  それを受け取ったナギサは、「近づけるか?」と状況を再確認した。 「天井が崩落する可能性があると言うのか? アンドロイドを突入させられないのか?」  人が駄目ならアンドロイドでもと考えたナギサだったが、「難しい」と言う答えに落胆した。 「とにかく、最善を尽くしてくれ……リン、どこに行くんだっ?」  お弁当をおいたまま立ち上がったリンは、そのまま化学準備室のある校舎に向かおうとしていた。たった今受け取った情報が確かなら、すぐにでも逃げなくてはいけない状況になっているはずだ。慌てて連絡を保留したナギサは、待つんだと駆け寄りリンの腕を掴んだ。 「行かせてよ。お兄ちゃんにもしものことがあったらどうするのよ!」 「現場は崩落の危険性が有るんだ。そんな所にリンが行っても、出来ることは何もないんだ」  だから落ち着けと宥めようとしたナギサに、「できるかっ!」とリンは大声を上げた。 「大事なお兄ちゃんに何かあったらどうするのよっ!」 「気持ちは分かるけど、リンに出来ることは何もないんだ」  無理やり掴んだ腕を引っ張ったナギサは、リンをその胸に抱きとめた。 「とにかく落ち着くんだ。今は、情報を集めることの方が大切なんだよ」 「ナギサ、あんた……」  「邪魔をするな」と怒ろうと思ったリンだったが、ナギサの変化に少し目を見張った。 「震えてるの」 「僕だって、平気ってことはないんだよ」  声が震えているのは、恐怖か憤怒からなのか。普段にないナギサの様子に、今度はリンがナギサのお腹あたりに両腕を回した。 「やっぱり、行けるところまでは行きたい……」  くぐもった声を上げたリンに、彼女を抱きしめたナギサも小さく頷いた。 「良いかい、絶対に無理はだめだからね」  耳元でリンに言い聞かせたナギサは、こっちだと言ってリンの手を引き校舎の方へと戻っていった。手順に従って逃げ出してきた学生たちの流れが、まるで濁流のように二人の行く手を遮っていたのだった。  避難する学生たちをかき分けた二人は、階段を降り地下の化学準備室へと向かった。ただ出遅れた関係で、二人は学校関係者に止められた。 「ここから先は、立入禁止になっている」  事情を考えれば、立入禁止にするのは不思議な事ではない。何しろ爆発原因が分からないのだから、これで爆発が終わったとは誰も断言することができないのだ。しかも場所が化学準備室と言うこともあり、漏れ出した薬品もまた警戒が必要だったのだ。  だがナギサは、いざとなれば無理を通せる権限を持っていた。そしてこれは、無理を通すべき事態だと考えていた。 「イチモンジ家次期当主としての権限を発動する」  規制をしていた学校関係者に向かって、ナギサはほぼ最上位となる命令を発動した。その命令の前に、なにか言いたげだった学校関係者も口をつぐんだ。 「中の状況は?」 「現在確認中です。爆発の規模から考えると、中の薬品庫は破壊されていると考えるべきでしょう。従って、漏れ出た薬品による有毒ガスの発生に対する備えが必要です」  場所を考えれば、十分に考えられる事態である。それに頷いたナギサは、他にはと追加情報を求めた。 「化学準備室へのアクセス記録は、2度開かれたところで途絶えています。途絶えた理由は、この爆発が原因と考えられます。そして2度とも、入室であって退室ではありません」 「つまり、中には最低でも2人入っていたと言うことか」  エリーゼをノブハルが呼び出したことを考えれば、入った人数の勘定はおかしなところはない。ただそうなると、なぜ爆発をしたのかと言うことだ。事前に仕掛けをしたとしても、入室記録ぐらい残っていてもおかしくないはずだ。 「それで、準備室の外には?」 「誰かが居た形跡はありますが、確認は取れていません」  エリーゼが一人で来るとは考えられないのだから、もう一人護衛がついてきていてもおかしくはない。だがその消息も知れないとなると、可能性としては二つ考えられる。 「一緒に中に入ったか、外にいるところを始末されたと言うところか」  呼び出しの文言が一人でとされていたのだから、護衛が一緒に入ったとは考えにくい。だとしたら、外で警戒しているところを襲われた可能性が高い。なかなか魅力的な護衛を思い出し、ナギサは「可哀想に」と心の中で言葉にしていた。 「それで、中に入れそうか?」 「ガスへの対策ができていません。そして強制換気装置は、この爆発で作動しなくなっています。それにいくら薄めたとは言え、有毒ガスを放出するわけにはいきません」  当たり前過ぎる答えに、ナギサは特に文句を言わなかった。そしてそのかわり、リンに待っているようにと命じた。 「イチモンジ家次期当主の権限に従って命ずる。セグメンタタを転送せよ!」  ナギサがセグメンタタの転送を命じたのと同時に、その体の周りを白い光が包み込んだ。だが何かが現出することは無く、白い光は薄れ、ただ淡い光だけがそこに残された。 「ガスセンサーを貸せ。それから、空気遮断の措置を行え。後は、続報が有るまでこの場で待機を命じる」  そう言い残して現場に向かおうとしたナギサに、「私も」と追い詰められた表情でリンが迫った。それを普段とは違った厳しい表情で受け止めたナギサは、「絶対にダメだ」とリンの同行を許さなかった。 「セグメンタタは、イチモンジ家にだけ使用が許されたプロテクトシステムだ。何の備えもないまま、お前を危険な場所に連れて行くわけにはいかない」  普段とは違って厳しく言い切ったナギサに、リンは次の言葉を口にはできなかった。それを承諾と受取ナギサは踵を返して化学準備室へと向かった。それを見た学校スタッフは、命令通り空気の遮断措置を取った。漏れ出した有毒ガスへの対処は、絶対に疎かにはできないものだった。  権限を発動させたナギサは、ゆっくりと足元と天井を確認しながら現場へと向かった。いくらプロテクトシステムがあっても、不用意に危険に近づくものではない。そしてプロテクトシステムにしても、万能とは程遠いものと言う事情があった。 「ガス濃度の上昇は認められない。附室の密閉が確保されているのが理由と考えられる」  状況を口にしながら歩いたナギサは、化学準備室へ通じる附室の前で立ち止まった。ここから先は、何が起きるのか分からない危険な場所である。用心に用心を重ねて対処しなければいけない場所となっていた。 「これから、附室のドアを開ける」  そう言葉を発してから、ナギサは一度つばを飲み込んだ。度胸があるつもりでは居たが、こんな命に直結した場面は初めてのことだった。 「ドアを開ける」  そう口にしてから、ナギサは附室に通じるドアのスイッチを押した。準備室の爆発にも関わらず、ドアの機能は生きていたようだ。ボタンを押したのと同じに、「シュッ」と言う音を立てて附室に通じるドアが開いた。 「附室の中は、特に荒れた様子は見られない。ガス濃度だが……酷いな」  チェックをするまでもなく、警報機がうるさく騒ぎ立ててくれるのだ。扉を隔てているにも関わらず、漏れ出してきた有毒ガスが附室にまで広がっていた。 「確認しただけで、青酸ガスを含めて10種類以上の有毒ガスが存在している。附室の濃度だけでも、長時間いれば危険な状態となる」  比較的狭い附室なのだから、ぐるりと首を巡らせばほとんどすべてを確認することが出来る。その場で二度ほど首を巡らせたナギサは、附室に異常がないことを確認した。 「これから、化学準備室へ通じるドアを開く」  ここからが本番だと、ナギサはぎゅっと奥歯を噛み締めてから入り口のスイッチへと手を伸ばした。だがこちらは、スイッチを押したにも関わらず、何の反応も返ってこなかった。 「爆発が原因で、ドアの開閉機構が壊れたと思われる。これより、実力でドアを破壊し中へと入る」  そう言って手を振ったところで、ナギサの右手に尖った棒のようなものが現れた。バールのようなものと言うのが、一番適当なたとえなのだろうか。その手触りを確認したところで、ナギサは先端をドアと壁の隙間にねじ込んだ。  もっとも、ガス漏れを防ぐためにがっしりと、そして気密性が保たれたドアである。簡単に開いては、その役目を放棄することになるだろう。そのせいで、かなり力を入れてもドアはびくともしなかった。 「可動機構が焼き付いているのか、簡単には動きそうもない。これより、再度チャレンジをしてみる」  てこの原理を応用するため、ナギサはあたりを見回して適当な支点を探すことにした。そして支点になりそうな金属塊を拾い上げ、ドアとバールのようなものの間に挟んだ。そしてしっかりと力が掛かるのを確認して、体重を預けるようにしてドアをこじ開けようとした。  それでも丈夫なドアは、ナギサの力へと対抗した。だが顔を真赤にしたナギサの前に、ついに固着していた部分が壊れ、軋みながら少しだけ横にスライドした。 「ガス濃度の上昇を確認。1分致死量をオーバーしている。中に居たら、中毒で死亡している可能性が高い」  それでも、中を確認する必要がある。バールのようなものを捨てたナギサは、両手を開いたドアに開け、そして片足を壁に掛けて力を込めた。先ほどとは違い、歪んだドアは金属の摩擦音を立てながら開いていった。 「内部は……ぐちゃぐちゃだな。ドアの損傷、壁の損傷から爆発規模はかなり大きかったと推測される」  状況を口にしたナギサは、足元を確かめるように一歩準備室の中へと足を踏み入れた。そしてすぐに、壁にもたれかかって倒れている3人に気がついた。「なぜ裸」と言う疑問は有ったが、爆発があったくせに体に損傷は認められなかった。 「ノブハル達3人を確認した。室内の損傷規模を考えると、驚くほど体に傷がついていない。ただ、どう言う訳か3人……室内に入っていないはずのトウカ・クレメンタインも中に居た。追加の情報だが、どう言う訳か3人共着衣が失われている。有毒ガス被爆、もしくは吸引による、炎症は外部からは観察できない」  近づいて3人を確認したナギサは、3人が特に怪我をしていないことに気がついた。 「接近して観察をしてみたが、3人からは爆発による損傷が認められない。ただ、胸の動きから呼吸は停止しているようだ。ここではこれ以上判断できないため、これから3人を空気膜の外に連れ出す。それから、このことは公安にも教えるな。機密レベル1の扱いを行い、至急医務室へ3人を搬送しろ」  以上だと命令をしてから、ナギサはノブハルを引き起こして肩を貸す形にした。死んでいるのか、はたまた気絶をしているのか、ノブハルからは何の反応も返ってこなかった。  そしてそのままノブハルを空気膜の外に連れ出し、次はエリーゼを抱っこする形で抱え上げた。お陰で小さめの胸や生えそろっていない金色の恥毛も見えたのだが、お子様で無いナギサは特に気にすることはなかった。  エリーゼを運び終わったところで、次はトウカの番となる。エリーゼは気にならなかったナギサだったが、口に出さずに「なかなか」とトウカを品定めしていた。口に出さなかったのは、理性を発揮したのではなく、ただ記録に残さないようにと考えただけのことだった。そしてトウカではなくエリーゼを選んだノブハルに、こっちの方がいいのにと心の中で呆れていた。後腐れの無い相手としてなら、自分ならトウカを選ぶだろうと思ったのだ。  トウカを運び終わったナギサは、化学準備室に戻って中を確認した。襲撃者が残っていたら、間違いなく危険な行為なのだろう。だが爆発の規模、そして発生した有毒ガスを考えれば、3人が生存しているはずのない状況だったのだ。そして自分に仕掛ける不利益を考えれば、襲撃者は撤退したと考えるのが自然だった。  そのまま2周ほど化学準備室の中を回ったナギサは、それ以上見るべきものがないと判断した。爆発の規模や爆弾の種類といった情報は、サン・イーストの公安に任せればことは足りてくれる。だとしたら、自分は医務室に運ばれたノブハルの所に駆けつけるべきなのだ。 「3人は、すでに医務室へと運んであります。現時点で、心肺とも活動を停止しています」  その報告に「ご苦労」と答え、ナギサは情報の管理を確認した。襲撃した相手の黒幕は分かっているのだから、ここから先は情報……つまり、丁々発止のやり取りが重要となる。3人が収容されたことは、もっとあとになって明かすべき事実だったのだ。 「それで、蘇生の確率は?」 「心肺停止してからの時間が不明です。ただ外見上、有毒ガスの影響が見つけられませんでした。そこから推測されるのは、有毒ガス発生前に心肺停止状態になっていたものと思われます」  なるほどと、その事情を考えながら、「しばらくは立入禁止だ」と現場の維持を指示した。ここから先、相手が何をしてくるのかは想像することが出来る。ただノブハル達の安全を考えたら、収容した事実は隠しておいたほうが良い。 「後は、親父さんがどう動くかだが……あの人のことだ、抜かりが有るはずがないか」  跡を継いでいない子供なのだから、ここから先のことを心配する必要はない。そんな無駄なことをするぐらいなら、可愛い恋人のご機嫌をとった方が遥かにマシなことだった。大切な兄が大変なことになったのだから、普段以上に心が脆くなっているのも予想がつく。ならばその弱みに付け込むのも、関係を確かなものにするためには必要なことだった。 「洗浄実施後、セグメンタタ解除」  ナギサの命令と同時に、小さな空気の渦が彼を包み込んだ。そしてその空気の流れが止まったところで、彼を包んでいた淡い光もどこかに消えていった。 「後は、アルカロイドへの用心なのだが……どうして、ノブハル達は爆発に巻き込まれていないんだ?」  倒れていた場所を考えれば、爆風に飛ばされバラバラにはなっていないまでも、骨の1本や2本折れていてもおかしくない。化学準備室の壁同様、煤けているのが当たり前のはずだった。それなのに、3人はまるで眠っただけのように傷一つついていなかった。考えられる可能性は、相手がドジを踏んだことだろうか。だが部屋の中を見る限り、無事で居る方が不思議な状態だった。  そうなると、別の誰かが助けてくれた可能性も生まれてくる。ただそれにしては、あまりにも中途半端すぎると言いたかった。ただアルカロイドが関わった状況で、助けに入れる実力を持ったものはズミクロン星系には居ない。トリプルA相談所が動いていない以上、第三者の介入は考えにくいことだった。 「エリーゼ・クライストスが息を吹き返せば僕達の勝ち……なんだが」  少しめまいを感じたのは、濃度が低いとは言え有毒ガスのせいなのだろう。いかんと頭を一度振ってから、ナギサは安全な場所へ移動することとした。ここから先の現場検証は、公安に任せておけばいい。そしてズイコーへの対策は、父親が頭を悩ませればいいことだったのだ。  だからナギサは、親友が運び込まれた医務室へ急ぐことにした。3人が無事かどうかにかかわらず、エリーゼ・クライストスが襲われたと言う事実は残ることになる。それを考えれば、エリーゼの価値はすでに利用されたことになるはずだ。 「親父のことだ、ハンスバッハだけは仕留めてくれるだろう」  イチモンジ家当主ハラミチは、何故かノブハルを常日頃気にしていたのだ。だとしたら、今回も適当な報復をしてくれるに違いない。その確信があるから、ナギサは後を任せることにしたのである。  ナギサが医務室に着いた時には、まさにノブハル達3人が搬出されようと言うところだった。まだ彼ら3人を隠すべきと考えたナギサに、校医が口にしたのは意外な相手からの命令だった。 「ハラミチ様から、至急ロカ病院に移送せよとのご命令を受けました」 「親父さんから?」  医務室で出来ることが少ないことを考えれば、設備の整った病院に移送するのはおかしなことではない。ただハラミチは、ここで起きたことを知らないはずなのだ。いくらなんでも、指示が出るのが早すぎた。  だが今優先すべきは、親友たち3人の安全である。「僕も行く」と言ってナギサは搬送されていくノブハルに付き添った。当たり前だが、妹のリンも目立たないように同行することになっていた。そのあたりの手配は、全て抜かりがないと言うことだ。  そのまま10分ほど掛けて、3人はハラミチ指定の「ロカ病院」へと運ばれた。最寄りの病院よりは遠く、しかも規模的にもサン・イーストの中では中規模の病院である。そして技術的にも、最先端と言う噂を聞いたことはない。むしろ政治的に不始末を犯した者を、匿うためにあるとまで言われている病院だった。 「しかし、微妙な病院を選んでくれる」  そしてロカ病院の最大の特徴は、搬入するのに目立たないと言うことだ。3人を隠すことに異論は無いが、ハラミチの意図が透けて見えそうで嫌な気分になってしまうのだ。  ストレッチャーで運び込まれていく3人に付き添う形で、ナギサとリンは小走りに処置室へと急いだ。ただ不思議だったのは、3人が同じ処置室に運び込まれたことだ。外科的処置を行うのなら、3人は別々の処置室に運ばれる必要があるはずだ。 「ねえ、お兄ちゃんは?」  目にいっぱい涙をためたリンに、ナギサは胸がきゅんと苦しくなるのを感じていた。こんな時に不謹慎なとは思いもしたが、正直な気持ちのどこが悪いと内心開き直ることにした。ただ、抱きしめてキスをするのは自重することにした。 「現場の状況からすれば、体がぐちゃぐちゃになっている所なんだが……僕には、傷一つ見つけられなかったよ。それはノブハル以外の二人も同じだった。そして不思議なことに、即死レベルの致死性ガスが充満した部屋に居たのに、体の表面に壊死したような痕跡もなかった。残念ながら、僕には目の前で起きたことへの説明がつかないんだ」  ごめんと謝るナギサに、リンは少しだけ表情をきつくした。 「言ってることが、良く分からないんだけど」  目の周りを真っ赤にしたリンは、分かるように説明しろと文句を言った。 「僕にも、分からないと言ったんだよ。普通に考えれば、あの爆発で3人がきれいな体でいられる理由がない。あのガスの中で、3人の体に変化が出ない理由がない。何か、僕の常識を超えたことが起きているとしか思えないんだよ」  明らかに困惑したナギサに、リンもつられた様に困惑を表に出した。常に冷静沈着で、兄とは違った意味で賢いナギサが、明らかに戸惑いを見せていたのだ。これまでの付き合いで、リンはこんなナギサの顔を見たことはなかった。 「それで、お兄ちゃんを襲った奴は?」 「状況からして、間違いなくアルカロイドの一味なんだろう。ただ、学校内の監視システムにその姿を捉えていないんだ。だから足取りどころか、何の証拠も見つかっていない……」  そう口にしたところで、「まずいな」とナギサは口元を押さえて呟いた。 「慎重な相手だとしたら、どこかで結果を見守っていてもおかしくない。もしも自分の考えた結果と違っていたら、結果の修正に入る可能性もある……か?」  その場合、もう一度3人を仕留めに来ることも考えられる。自分が存在を隠したのは、逆に相手に都合がいいことにならないか。もう一度「まずいか」と呟いたナギサは、イチモンジ家としての命令を発しようとした。  だがその命令を発する前に、3人が運び込まれた処置室の立入禁止ランプが消えた。 「ねぇ、入っていいの?」 「立入禁止が解除されたのだから……」  思わず顔を見合わせた二人は、慌てて立ち上がると処置室のドアへと殺到した。だが二人が手を伸ばすのよりも早く、やけに若い医者が姿を表した。マスクをしているので顔までは分からないが、金色の髪を肩口まで伸ばした、青みがかった灰色の瞳をした女性である。全員の顔を知っているとは言わないが、ナギサにはロカ病院のスタッフとは思えなかった。  その女性は、ナギサ達の顔を見ると小さくひとつだけ会釈をした。そして少し高めの声で、「処置は終わりました」と告げた。 「検死……ではなく、処置が終わったのですね」  慎重に確認したナギサに、「蘇生措置ですよ」とその女医は答えた。 「ただ、措置の効果が出るまで、24時間ほど時間がかかります。あと二人の女性はいいのですが、男性の方は別の問題も有るようですね。ただそちらは、私の専門ではありませんので別の医師に確認してください」 「助かった……と考えていいのですね」  それが一番重要だと、ナギサとリンは顔を揃えて女医に迫った。 「蘇生措置が終わったと言いました」  そう言うことですと、女医はマスクを取ってから微笑んでみせた。その笑みが綺麗なのと、予想以上に若いことに二人は驚いた。  だが告げることは告げたと、女医はそれ以上その場に留まることはなかった。「ごきげんよう」と一言残し、病院の奥へと消えていったのである。  それを呆然と見送った二人は、すぐに大切なことを思い出して処置室へと入っていった。そしてそこで、ナギサは父親と出くわすことになった。 「なんで、親父が?」  驚く息子に、「必要だからだ」とハラミチは聞き間違いのない答えを口にした。そして病院のスタッフに、「後は任せる」と言い残して処置室から出ていった。「必要」とは言ったが、結局その理由に対する説明は一言もなかった。  それでも、処置室には事情を聞く相手が残っていた。 「ドクターっ」  そうナギサが呼びかけた所で、「後ほど」と声を掛けられた医師は説明を後回しにした。 「これから、3人を隔離病室に移します。説明は、それが終わるまで待ってください」 「蘇生したのを、隠すと言うことですか」  その処置に、意味がないなどとは言うつもりはない。自分で口にしたとおり、エリーゼ・クライストスが生きていれば、エルマーにとっては強力な武器となる。エルマー7家の中でも、一筋縄ではいかないと言われる父親なのだ。間違いなく、効果的な使い方を考えていることだろう。  だからナギサ達二人は、黙って運び出されるノブハル達について移動した。  隔離病棟に移動してしばらくして、ノブハルとリンの母親フミカが顔色を悪くして現れた。普段外で見かける時には、大学生でも通りそうな恰好をしている女性が、今日に限っては飾りっ気もなく、普通のおばさんの恰好で現れてくれた。それだけ彼女にとっても、一大事だったと言うことだ。 「ねえ、ノブハルはっ!」  リンの姿を見つけ、フミカは力いっぱい走ってきた。ただ慣れないことをしたせいで、リンの目の前で盛大に転んでくれた。前のめりでヘッドスライディングの形になったのは、不幸中の幸いと言うところだろうか。 「ううっ、おっぱいが凄く痛い……」  あれだけ大きくて、それを床にぶつければ、痛いのも仕方がないだろう。そんなことを考えながら、とても貴重な人材だとナギサはフミカのことを見ていた。本当なら非常にシリアスで、悲壮感すら漂うはずの状況なのだ。それを本人は全く意図せず、緩んだ空気に置き換えてくれたのである。  その印象は、リンも共有したものなのだろう。「お母さんって」と呆れながらうつ伏せになった母親に手を貸して起き上がらせた。 「リンちゃん、おっぱいが痛くて仕方がないの」  シクシクと両手で顔を覆った母親に、「お兄ちゃんのことはいいの?」とここに来た理由を思い出させた。 「そ、そうよ、ノブハルは大丈夫なのっ!」  涙目になっているのは、息子の急を聞いたからではないだろう。それでも重要な用事を思い出したと、フミカは娘に迫ったのである。 「これから、説明を受ける所なんだけど……若くて綺麗な先生は、蘇生措置が終わったって教えてくれたわ。だから生きているとは思うんだけど……痛い、痛いって」  生きていると言った途端、リンは母親から力いっぱい抱きしめられた。理由は聞かなくても分かるし、その気持もまた理解することは出来る。だからと言って、自分の娘を絞め殺してほしくない。 「いや、さすがに、それって苦しいからっ」  やめてと叫んだところで、ようやくナギサが助けに入った。どうやら感涙モノの親子のやり取りを、興味深く見守っていたと言うところだろう。 「おばさん、リンを絞め殺すつもりですか?」 「失礼ね、娘をぎゅっと抱きしめるのは母親の特権のはずです」  だからと力を込めたフミカに、「その権利の一部は貰いましたよ」とナギサは危ないことを言ってくれた。 「それに、先生が話をしたいみたいですよ」  ほらと示された先で、主治医のストランジが困った顔をしてこちらを見ていた。それを見たところで、ようやくフミカは娘を解放した。 「母さんに絞め殺されるかと思った……」 「まあ、愛情の重さと思って我慢することだね」  そう嘯いたナギサは、「ドクター」とストランジに声を掛けた。それを受けたストランジは、病室脇の面談室を指差して先に入っていった。 「結論から言えば」  神妙な顔をして座った3人を見て、ストランジはそう切り出した。 「3人共、命に別状はありません」 「あの状況で、ですか?」  もちろんナギサとして、ノブハルが無事だったことに文句をいうつもりはない。たた現場の惨状を見ているだけに、ストランジの言葉が信じられなかっただけだ。 「あの状況と言われても、私は患者しか見ていません。ただ3人のうち、男性1人が追加の処置が必要です。検査した範囲で、アンチ向精神薬が多種大量に検出されました。血液の外部浄化を行うのと同時に、中和機能を持つ薬剤の投与が必要となります。女性の二人は、今の所これと言った所見はありません。24時間程経てば、目を覚ますと言うことです」  事前に聞かされた話では、ノブハルは暗示薬に対抗する薬を用意していたのだ。多種大量に残っていたと言うことは、なかなか正解にたどり着けなかったと言う意味だろう。その意味で、ノブハルに追加の処置が必要と言うのは理解できることだった。それでもナギサは、ストランジの説明に引っかかりを感じていた。 「目を覚ますと言うこと? 先生の所見ではないのですか?」 「そう言えば、若くて綺麗な先生が蘇生措置と言っていました。その人と何か関係するんですか!」  ナギサとリンに詰め寄られたストランジは、ため息を一つ吐いてから「その女医です」と答えた。 「最初に運び込まれた3人に処置をしたのが、その女医なのです。ただ私には、彼女が何をしたのか全く分かりませんでした。何か棒のようなものを取り出し、命令のようなものを口にしながら3人の上で振っていました。一応説明された範囲では、時間の遅延措置を解除したと言うことなのですが……」 「僕達は、蘇生と聞かされたのだが? それに、時間の遅延措置……その手の技術は、ズミクロン星系には入ってきていないはずだが?」  技術として存在し、アスの神殿で使用されているのも知っていた。そして逆の効果、時間の加速技術がモンベルトで使用されたのも有名だった。だが超銀河連邦では、重要な管理技術として使用に制限が掛けられた技術でも有る。当然ながら、技術の管理も厳しく、使用するにはエスデニアのような主要星系に協力を仰いだ上、嫌になるほどの大量の手続きが必要なはずだった。 「私は、遅延措置の解除との説明を受けています。それ以上のことは、本人に聞いてくださいとしか言いようがありません」 「だったら本人に聞くことにするのだが、彼女はここのドクターなのかい?」  そんなマネが出来る医者いると言うのは、流石にナギサも聞いていなかったのだ。だから同僚だろうストランジに聞いたのだが、逆にストランジに驚いた顔をされてしまった。 「イチモンジ家御当主が連れてこられたのですが?」 「親父の奴、一体何を企んでいるんだ?」  そんな都合よく、時間操作の技術者が確保されるとは思えない。そしてそれ以上にあり得ないのは、時間操作技術の使用許可だった。 「それより、説明を続けて宜しいですか?」  少し憤ったナギサに、ストランジは申し訳なさそうに尋ねてきた。 「あ、ああ、済まない。それで、説明は?」  謝ったナギサに、「説明の前に」とストランジは根本的な疑問を口にした。 「3人を保護した時の状況を教えていただけませんか? それを伺えば、幾つかの疑問に対する有力な情報を提供できるかと」 「確かに、現場の状況を説明した方がいいのだろう」  小さく頷いたナギサは、「ジャビス」と言って情報管理システムを呼び出した。 「まず、3人が倒れていた化学準備室の状況だ。僕が踏み込んだ時、内部は有毒ガスが充満していた」  それがこれと示されたストランジは、「嘘でしょう」とそのデーターを否定した。 「こんな環境に、何の備えもなく居たらほぼ即死ですよ」 「だったら、僕が信じられなかった気持ちを理解してもらえるかな?」  そう切り替えされると、そうだとしか答えようがない。確かにと頷いたストランジに、「次に」と言って室内の状況をナギサは示した。 「内部で爆発が起きたのが、有毒ガス発生の理由だろう。そしてその爆発だが……口で言うより、画像で見たほうが分かりやすいだろう」  そう言って示された画像を、ストランジ達3人は食い入るように見つめた。 「この規模の爆発だと、手足が吹き飛んでいても不思議ではありませんね。むしろ、吹き飛んでいない方がおかしいでしょう。まともな形で死体が残っている可能性が低いレベルの爆発ですね」  そこでううむと唸ったのは、つい先程処置をした3人の状態だったのだ。確認した範囲でやけど一つなく、打撲傷も見つからなかったのだ。手足が吹き飛ぶどころか、ただ単に寝ているように見えたぐらいだ。 「お兄ちゃんが、何かしたのかな?」 「勝てないと割り切り、死なない方向で対処したと言うのはあり得るのだが……だけど、時間操作技術をノブハルが持っているのか? それに、時間操作だけじゃあの爆発から逃れられないぞ」  分からんと頭を抱えたナギサに、「バリアーは?」と兄が口にした技術をリンは持ち出した。 「そんなものを張らしてもらえるのかが疑問だ。僕が現場に入った時、3人共何も身に着けていなかった。敵に脱がされたのだとしたら、そんな見落としをしていくとは思えないんだよ。ただ、それぐらいしか理由に説明がつかないのは理解しているつもりだ」  状況の説明が、とても難しいことだけは分かってしまった。顔を突き合わせて難しい顔をした4人の中で、ストレンジは「状況を整理しましょう」と口を開いた。 「有毒ガスと爆発ですが、現場を考えれば爆発が先に起こったと考えていいでしょう。そして爆発が理由で、準備室にあった薬品が混じり合い、各種有毒ガスを作り出した。化学準備室と言う場所を考えれば、ありえない話ではないと思います」  そこで一度言葉を切ったストランジは、「次に」と不可解な状況へと踏み込んだ。 「最初の爆発に対して、説明不能の現象が起きたと言うことになります。見せていただいた爆発規模を考えると、ズミクロン星系で使用されているバリアー……軍用も含めて、保護機能では完全には防ぎきれないでしょう。ですが、3人からは外傷に類するものは見つからなかった」 「ズミクロン星系以外の技術が使われたと?」  自分の説明に反応したナギサに、「状況の説明です」とストランジは答えた。 「次に、爆発により高濃度の有毒ガスが発生しています。呼吸器に影響が出ない程度であれば、呼吸停止で理由を説明することができます。ですが、露出した皮膚に何も影響が出ていません。見せていただいたデーターを信じるなら、肌に火傷の痕ができてもおかしくありません。紫斑すら浮かんでいないことを考えると、何らかの保護が行われたと考えることが出来るでしょう」 「だが僕が入った時に、そんな保護のようなものは検知されなかった。彼らの周りには、高濃度の有毒ガスが検出されていた」  状況との齟齬を口にしたナギサに、「もう一つの可能性として」とストランジは時間停止を持ち出した。 「正確には、時間の遅延でしょうか? 接する空間も含めて、時間を大幅に遅延させたとしたらどうでしょう。拡散によって人体を犯す有毒ガスが、時間の遅延によって到達していないとしたら?」  その説明に、なるほどとナギサは頷いた。 「それなら、3人は有毒ガスに接していないことになるな。そしてドクターが処置するためには、時間の遅延させられた空間を元に戻す必要がある。つまり、処置をした女性は時間遅延に関わっている可能性が有ると言うことになるね。そうか、僕は遅延させられた空間ごと3人を運んだのか」  それに全く気付かなかったのは、よほどその空間が薄かったと言うことになる。そうなると、ますます高度な技術が使われたことになるのだ。とてもではないが、エルマー単独で対応できる話ではないだろう。 「なるほど、ドクターの整理で問題が明確になった気がするよ」 「謎は、一つも解けていませんがね」  そう言って口元を歪めたストランジは、「以上です」と説明を終わらせた。 「男性以外は、目を覚まされたら検査後退院が可能です。ただ男性は、使用された薬剤が薬剤ですから、ちょっと時間がかかりますね。まあ、10日程度と思っていただけば結構です」  死さえ覚悟したことを考えれば、10日と言うのは感謝こそすれ文句をいうことではないのだろう。一つの問題を除けば、十分に早い時間とも言うことができた。 「さて、そうなると兄弟喧嘩をどうするかか」  もともと兄弟喧嘩が、どちらかの勝利で終わった記録は残っていない。そのあたり、双方の実力が接近しているのが大きな理由となっていた。そして別の理由として、双方そこまでするつもりがないと言うこともある。ようは100年に一度行われる、双方にたまった不安へのガス抜きの意味合いが大きかった。  その意味で、兄弟喧嘩を始める理由は多岐に渡っていた。ただ今回の理由は、いさささか深刻で、規模拡大を招きかねないものでもあったのだ。ただ先手を打たれると言う心配は、こと兄弟喧嘩に限ってはありえないことである。ズイコーは先手を打とうとしているのだろうが、エルマーもまた受けて立つ準備は整っていたのだ。  そしてナギサが予想した通り、彼の義父であるハラミチは7家会議を招集していた。VR空間に集まった7家を代表するものたちは、丸テーブルの決められた位置に着席した。 「緊急招集の理由は、エリーゼ・クライストスへの襲撃が実行されたと言うことか?」  その場で最初に発言したのは、主席であるバンガロール・バカルディだった。立憲君主制を敷くエルマーの、持ち回りで君主として統治を行っていた。 「ったく、戦争がしたいのなら、そんな姑息な真似をしなくても受けてやるのに」  なあと大声で嘆くバンガロールに、出席者たちからは苦笑が漏れ出ていた。  他の者と同じように苦笑を浮かべたハラミチは、「いかにも」とバンガロールの指摘を認めた。 「ただ、ノブハル・アオヤマを巻き込んでくれた。戦争をするのは良いが、その報いはしっかりと受けさせるつもりだ」 「お前の息子を巻き込んだのか?」  驚いた声を上げたのは、7家の一つフーチンリン家の当主アルド・フーチンリンだった。齢60を超えた、7家の中では長老格に当たる男である。  「息子」と言うアルドの言葉に、「いやいや」とハラミチは首を振った。 「ノブハルは、妹のユイリの息子ですよ」 「だが、父親は秘密にされておるのだろう?」  そして秘密にするだけの理由があったはずだ。アルドは、それを近親相姦に求めたのである。 「いやいや、疑われる理由は承知していますよ。ただ、本当に私の息子ではないのですけどね。とは言え、今は亡き妹の忘れ形見なのは間違いありません。相応の報いを受けさせる理由として、十分なものだと思っていますよ」 「それで、どうやってハンスバッハを追い詰めるのだ?」  その質問をしたのは、エルマー7家の一つタクシン家の筆頭、チチャイ・タクシンである。ハラミチと同年代の、とても鋭い眼差しを持った男だった。 「とりあえず、奴の娘……と言って良いのか。エリーゼの身柄は無事確保しました。それを効果的に使うことで、とどめを刺そうかと思っています」  エリーゼの身柄確保の知らせに、場に小さなざわめきが起きた。ここに居る全員は、襲撃者の正体を知っていたのだ。そしてその襲撃者に対して、エルマーの実力では防ぎきれないことも分かっていた。 「確か、連邦軍やIGPOからは断られたと聞いているが?」  そこで疑問を呈したのは、7家の一つアスナベ家の筆頭ガミン・アスナベである。黒い肌が特徴の、7家の中では好戦的と言われる男だった。 「もしかして、トリプルAの協力を受けたのか? 確か、トラスティ・ヒカリがズイコーに来ているという情報がある」  これならばとトリプルAの名を出したのは、同じく7家の一つランバート家の当主、ジョルジュ・ランバートである。政治的なことより、山で木を切っているのが似合う体格をしていた。 「だが、お前の腹心を送り出したばかりだろう?」  それを考えると、交渉がまとまったとは思えない。7家の一つであるカカ家の当主、ジルベルト・カカは疑問を呈した。 「現在私が把握しているのは、ただ3人が助かったと言う事実だけですよ。そのうちノブハル・アオヤマは、アンチ向精神薬の副作用が強く残っているということです。どうやら、当てずっぽうにアンチ向精神薬を自分に投与したようですね」 「それが、暗殺者への対応だとしたら」  うんと唸ったアルドに、「無茶をしましたね」とハラミチは答えた。 「それでも結果だけを見れば、3人は助かっています。何が理由かは、これから調べる必要があるのでしょうが、とりあえず安心材料の一つであるのは間違いないでしょう」 「だが、娘が無事と分かれば、再度襲われる可能性があるのではないか?」  ハンスバッハにしてみれば、せっかく作った口実がふいにされることになる。過去最長でも1年しか兄弟喧嘩が続かないことを考えると、拙速な開戦支持への転向は己の評価を下げかねない。生き残った娘に下手なことを口走られたら、逆にとどめを刺されることになってしまうだろう。チチャイの指摘は、十分に考えられる事態だなのである。 「その対策は、こちらで病院に保護したことを発表すればいいでしょう。そうすれば、迂闊に手出しができなくなる」 「それに合わせて、アルカロイドへの金の動きを暴露すれば良いということか」  ふんと鼻息を一つ吐いたガミンは、「だから民主主義は」とズイコーの政治体制を笑った。 「昔の、衆愚政治をやっていたころより悪くなっているだろう。中途半端な選挙制度のせいで、大衆迎合から下手なドラマへと主軸が移っている。権力など、適当な奴に押し付けるのが一番なのにな」  ジョルジュに顔を見られたバンガロールは、意味の分からない笑みを浮かべてみせた。 「それは、十分な権限を移譲してから言って貰いたいものだ」  そこでにやりと口元を歪め、「報道発表だな」とバンガロールはハラミチの顔を見た。 「サン・イーストで学生に向けたテロが発生した。狙われたのは、ズイコーでもテロリストに狙われたエリーゼ・クライストスだと。ズイコーのテロリストの関与が疑われ、現在捜査中だと速報を打ってやろう」 「クライストスの家族が狙われたのは有名ですからな。あり得ることだとの印象を与えてやれば、それだけで十分でしょう」  そこから先は、双方の非難合戦へと発展することになる。100年毎に繰り返されたことだと思えば、今更特別な感情も沸きようがない物だった。 「ではイチモンジ君、今更だと思うがエリーゼ・クライストスの安全には十分気をつけてくれたまえ」 「とりあえず、打てるだけの手は打ってありますよ。アルカロイドには不足かもしれませんが、身柄がこちらにある以上有利なのは間違いありませんからね」  ふふと笑ったハラミチに、出席者たちはそれで良いのだと頷いた。  7家会議で決まれば、報道発表がなされるのに時間はかからない。ホログラム会議から抜けたところで、ハラミチは次なる手を打つことにした。受けて立つと言った以上、兄弟喧嘩は優勢のうちに終わらせる必要がある。そのための準備はしてあるが、仕上げを忘れては画竜点睛を欠くと言うものだ。 「さて、ターゲットは奴の居るクレイトンビルだな」  兄弟喧嘩では、地上にまで被害が及ぶのはまれなことだった。そのあたりは、戦いの本気度がものを言っていることになる。お互い泥沼の戦いになるのを、避けようとする本能が働いていたのだ。その意味で、クレイトンビルへの直接攻撃は、戦いの泥沼化を招きかねないものだろう。  その対策として、ハラミチはIGPOへの情報リークも考えていた。IGPOにとって、アルカロイドは不倶戴天の敵となっている。そのアルカロイドに仕事を回した証拠を提示すれば、彼らとしても動かない訳にはいかなかったのだ。 「主席の報道発表に続いて、エリーゼ・クライストスの生存を発表する。そしてそれに合わせて、金の流れを発表してやれば奴は終わりだ」  民主主義の場合、政治家の家系は代わりの効くものでしか無い。その点だけは、自分達より安定性があると、ハラミチはズイコーにおける民主主義を評価していた。そして双方における共通問題として、時に権力志向の強すぎる鬼子を生み出すことがあると思っていた。100年ごとの兄弟喧嘩は、その鬼子を排除する意味も持っていたのだ。 「そのためにも、慎重にことを進めないとな」  トレードマークとなった赤いメガネを外すと、そこからは意外に優しい瞳が現れてくれた。赤いメガネも、リンカニックと言われる髭も、全ては強面の印象を作るための飾りでしか無かった。 「ノブハル、やはりお前は運命の渦に巻き込まれていくのか」  妹がいなくなる前に遺した言葉を、ハラミチは今も鮮明に覚えていた。 「この子は、宇宙に出ていきますよ」  この混乱を生き延びた時こそ、まさにその時なのだろう。その時活躍するのは、果たしてディアミズレ銀河の中のことなのか。妹の言う宇宙の広がりが、まだハラミチには理解できていなかったのだ。  24時間と言う予告通り、エリーゼとトウカの二人は同時にぱちりと目を開いた。それ自体とても不思議な事だが、理解するのは絶対に無理だと主治医であるストランジは諦めていた。あの後色々と調査をしようとしたのだが、3人を処置した女医の姿がどこにも見つからなかったのだ。  その意味で、二人が目を覚ましたのはありがたいことだった。少なくとも、助かったときの状況を聞くことができると考えたのである。 「ここは?」  と言うエリーゼに、ストランジは「サン・イーストにあるロカ病院だ」と手短に答えた。 「君たちは、学校の化学準備室からここに運び込まれたんだよ」 「化学準備室……から、ですか」  まだ意識がはっきりとしていないのか、エリーゼの言葉に感情は込められていなかった。「そうですか」と天井を見たのは、現状を理解できていない証拠でもある。  そしてその事情は、隣のベッドに並べられたトウカも同じだった。ただ彼女の方は、護衛として神経を研ぎすませてきた経験を持っていた。初めはぼんやりとしていたのは同じだが、すぐに急速に意識を覚醒させたのである。 「私達は、助かったのですかっ!」  大声を出して起き上がったトウカは、隣で寝ているエリーゼに安堵の息を漏らした。 「で、では、ノブハル・アオヤマはどうしたのです!」  あの状況で、自分達二人には為す術がなくなっていたのだ。そうなると、ノブハルが何かをしたとしか思えない。  大声を出したトウカに、「落ち着き給え」とストランジは態度を窘めた。 「ここが、病院と言うのを忘れないように。それから君たちに、彼が無事だったことを伝えておこう。ただアンチ向精神薬の副作用が抜けていないので、まだ目を覚ましていないだけだ」 「彼が、無事だったと言うのですね」  大きく安堵の息を漏らしたトウカは、もう一つ気になっていた外の様子を尋ねた。 「ズイコーとエルマーの関係はどうなっていますか?」  自分達が襲われた以上、単なるにらみ合いで済むとは思えない。そしてストランジも、トウカの懸念を肯定した。 「ズイコーから宣戦布告がなされたよ。ただ、今は接続空域で双方が睨み合っている状態だ。一色触発の事態には代わりはないが、緊急事態と言うほどではない」 「私のことが、利用されたのですね」  ズイコーでは、非戦派が優位となっていたのだ。このタイミングで状況に変化が出た以上、自分が無関係とは思えなかった。  そしてストランジは、エリーゼの推測を肯定した。 「ああ、ノブハル・アオヤマが君に振られた腹いせで、君たちを殺したことになっているよ。ただ、カウンターでエルマーからはズイコーのタカ派による暗殺だと宣伝している。何しろ君は、ズイコーに居るときから命を狙われていたんだ。それを持ち出せば、こちらの主張にも真実味が加わることになる」 「だから、にらみ合いになっていると言うことですか」  じっと天井を見上げたエリーゼは、ストランジの顔を見ずに言葉を続けた。 「私に、できることがあるのでしょうか?」  まだ衝突が始まっていないのなら、自分の無事が鍵となるはずだ。そのつもりで尋ねたエリーゼに、「私は関与してない」とストランジはそっけなく返した。 「そして私が言えるのは、君たち二人はすぐにでも精密検査を受けるべきと言うことだ。精密検査で問題が出なければ、明日にでも退院することができるだろう。その後の身の振り方については、私が預かり知る話でないだろう。ちなみに君たちが助かったことは、まだ表沙汰にされていない」  「なぜ」と問いかけようとしたエリーゼだったが、その問いに意味が無いことにすぐに気づいた。ストランジから、身の振り方についても説明がなかったのだ。自分の扱いなどと言う政治的なことに、一介の医師が関わるはずがなかったのだ。 「気持ちが悪い、どこか痛いと言うことはないかね?」 「私は、これと言っておかしな場所は無いと思います。ただ、まだ頭がぼっとしている気がしています」  エリーゼの言葉に頷いたストランジは、「君は」とトウカに答えを求めた。 「何か、肘とか首筋に何かをぶつけたような痛みが残っていますが……それに加えて、少しだけ意識がはっきりとしないところが残っています」 「君の場合、薬が使われた形跡がある。意識の方は、おそらくそれが理由だろう。詳しくは、精密検査で調べることになる」  こうして話を聞いている限り、二人に特に問題があるようには思われない。これなら精密検査を受けさせても大丈夫と、ストランジは「歩いて」検査場に行くよう二人に指示をした。 「せいぜい2分程度の距離だ。歩くと言っても、大したことはないだろう」  少し言い訳めいていたのは、二人が殺されかけたことへの配慮なのだろうか。ただ二人にとって、その言い訳はあまり意味がなかったようだ。ゆっくりとシーツを剥がした二人は、慎重にベッドから起き上がった。 「生きているのですね」  こうして自分の足で立つことで、生を実感することができる。トウカの顔を見たところで、ようやくエリーゼの顔にも笑みが戻ってきた。 「ええ、少し体がなまった気がしますが」  訓練をサボったと言っても、わずか一日のことにしか過ぎない。それを持って「体がなまる」と言うのはありえないことだろう。ただ関節が固まったのか、首を動かすたびにいたるところから「ゴキ」と骨が鳴る音が聞こえてきた。 「じゃあ、そのアンドロイドに付いて行ってくれればいい。精密検査自体は、2時間ほどで終わるだろう。その結果が出た所で、もう一度二人に体のことを説明する」  以上とストランジは、問診用の画面を潰した。政治的なことに関わるつもりがない以上、此処から先はイチモンジ家に任せるべきなのだ。だからストランジは、ハラミチとナギサの二人に、エリーゼ達が目を覚ましたというメッセージを送ったのだった。  2時間にも及ぶ検査を乗り越えた二人は、ナギサとリンの出迎えを受けることになった。自分達の意味を考えれば、ナギサが現れるところまでは予想の範囲である。ただ分からないのは、リンが同行したことと、ナギサの頬が赤く腫れていることだった。 「ナギサ様、左の頬はどうなされたのですか?」  色男の頬が赤く腫れているのは、どうしても目についてしまう。それを気にしたエリーゼに、「エリーゼ・クライストス」とナギサは厳しい調子で声を掛けた。 「化学準備室で、何が起きたのかを説明しろ」  説明して欲しいではなく、説明しろと言う命令なのである。トウカは少し反発を覚えたが、逆にエリーゼは当然のことだと思っていた。「病室でお話します」と言うのは、検査で疲れたことを考えれば不思議なことではない。  それに頷いたナギサは、黙ってエリーゼ達の病室へと入っていった。そして病室に入ったところで、リンが二人にブランケットを手渡した。 「ナギサが、男だと言うのを忘れないように」  ぶっきらぼうに言われたが、前日のような棘は感じられなかった。そしてリンに指摘されて気づいたのだが、病院の検査着はあまりにも無防備過ぎたのだ。特に上など下着をつけていないので、横に回ればエリーゼなどは先っぽまで全部見えてしまうほどだった。  慌てて体を隠した二人に、ナギサは少し恨めしそうな視線をリンに向けた。それを睨み返して跳ね除けたリンは、持っていた袋をエリーゼに渡した。 「お腹が空いているだろうから、甘いものを買ってきたわ。明日には退院できそうって話だから、大した量は無いけどね」 「お気遣いいただいてありがとうございます」  注意をして頭を下げたので、エリーゼの胸元はしっかりと守られていた。 「別に良いわよ。あなた達が大変な目に遭ったのは確かだから」  そっけなく言い返したのだが、ナギサはリンの頬が少し赤くなっていたのに気がついた。おそらく照れているのだろうが、それを指摘すれば自分がどんな目に遭うのか恐ろしい。だから余計なことを言わず、「ヒアリングをする」と二人に声を掛けた。 「君たち二人が、ノブハルの伝言にしたがって化学準備室に向かったのは分かっている。そこから何が起きたのか、覚えている限りのことを教えてくれないか?」  それが重要だと言うのは、エリーゼにもよく理解ができた。固い表情で頷いたエリーゼは、トウカの顔を見てから「何事もなく、化学準備室の前まではたどり着きました」と説明を始めた。 「そこで私は、トウカさんと離れて準備室の前にある附室へと入りました。ただ附室でも何かあったわけではなく、すぐに準備室のドアを開けて中に入りました。そして準備室のドアを閉めたところで、後ろからノブハル様に肩を叩かれました。その時のノブハル様の目が血走っていたので、何者かに操られているのだと理解したのです。そしてノブハル様は、私を壁に押し付け着ていたブラウスの前を乱暴に開きました」  襲われたことを話しているはずなのに、なぜかエリーゼの顔には恐怖の色は浮かんでいなかった。それどころか、少し顔を赤らめているようにも見えた。 「そこで抵抗しても、意味が無いことはわかっていました。ですから目を閉じ、されるがままになろうと思っていたんです。ですがノブハル様は、それ以上何もされませんでした。おかしい止を開いたら、目の前でノブハル様が苦しんでおられました。「暗示が残っている」とノブハル様は仰りました」  保険が一応役に立ったのだと、ナギサとリンはその時の状況を理解した。 「そしてノブハル様が苦しんでいる時、なぜかトウカさんが準備室の中に現れました。ドアが開いていないのは、すぐ近くに居たので分かっています」  なるほどと二人が頷いたのに合わせて、「次は私が」とトウカが口を開いた。 「エリーゼ様を化学準備室に送り込んだ私は、そのまま部屋の外で警戒にあたっていました。神経を集中し、接近する者が居ないかを警戒していたんです。ですが相手の技量は、私など及びもつかないものでした。何者かに口を押さえられたと思ったら、次に気がついた時には裸でノブハル・アオヤマに抱きついていました」 「私では魅力に欠けるからと、トウカさんを利用したのだと思います。私達の中に、ノブハル様の体液が残っていれば、暴行したことの動かぬ証拠になりますからね。司法解剖されれば、その事実が明るみに出ることになります。だから操られたトウカさんが、私の代わりにノブハル様を誘惑しました。かなりいかがわしい真似、その、濃厚な口づけまでしたのですが……その」  顔を赤くしたエリーゼは、「そこまででした」と大きな声を上げた。 「ノブハル様が、中和剤をトウカさんに注射しました。そのお陰で、トウカさんが意識を取り戻したんです。気がついたらと言うのは、その時のことを言っているのだと思います」  そこでトウカの顔を見てから、「敵がそこで現れました」とエリーゼは告げた。 「全身黒尽くめの、小柄な相手です。声や話し方は、男性のように思えました。なにかイン……と繰り返していたのですが、はっきりとは聞き取れませんでした。そしてその敵は、私達が性交していた方が都合が良かったと言いました。そして今からでもどうだと笑い、私達を裸にしたんです。そこで色々と私達をバカにしたのですが、結局ノブハル様は何もしませんでした。それを見た敵は、ノブハル様が用意した爆弾に加え、自分の持ってきた爆弾を部屋に残して何処かに消えて行きました。すみません、そこから先は何も覚えていないんです。次に気がついたのは、2時間ほど前、この病院のベッドの上のことでした」 「ほとんど情報が無いのだが……敵は、何らかの空間移動技術を持っていると言うことか」  それであれば、神出鬼没なことに説明が付くし、地下の化学準備室に出入りできたことへも説明がつく。いくら接近に警戒していても、空間を超えてこられたら対処のしようがないのも同様だった。 「結局、証拠は証言だけと言うことになるな。政治的には使えるが、犯人を捕まえるのには役に立たないか」  予想していたこととは言え、はっきりと見せつけられるのは気分が悪いものだ。不快さを隠さないナギサは、「これからのことだ」と二人の顔を見た。 「君たちが助かったことは、今のところ公になっていない。ズイコー同様、エルマーでも戦意が高まっているんだ。だから適当なガス抜きをしないと、予測不能の動きが起きかねないのが理由だ。ただ兄弟喧嘩を終わらせるのに、君が無事と言うのは利用させてもらう。そしてその時は、ハンスバッハ・クライストスの息の根を止めるつもりだ。それが政治的なのか、はたまた物理的なことになるのか。今のところ、どうなるかは決められていない」 「あの人を殺す、のですか?」  いくら自分を殺そうとしたとしても、ここまで17年間育ててくれた親なのだ。その意識が、「殺す」と言う言葉への恐れにもつながっていた。 「それは、状況次第だ。間違いないのは、ハンスバッハの政治的な死だろう。アルカロイドとの繋がりも暴露されるから、上院議員としてはやっていけないはずだ」  そしてと、ナギサは二人の顔を見た。 「二人には、時が来るまでここに居てもらうことになる。いささか窮屈だろうが、ノブハルと同じ場所にいると思って諦めてくれ」 「それで、ノブハル様は?」  ノブハルの名を出せば、エリーゼが食いついてくるのは予想の範囲だった。だからナギサは、「聞いての通りだ」と答えた。 「暗示薬の中和剤の過剰投与、そしてタイプの違う中和剤の誤投与と言った無理が祟ったようだ。命は助かるそうだが、まだ目が覚めていないんだよ。脳に作用する薬ばかりだから、慎重に中和剤を選択して投与を進めている。作業としては、あと2、3日と言うところらしいね。それが終わったら、後はノブハルが目を覚ますのを待つだけになる」 「まだ、安心できないと言うことですね」  顔を曇らせたエリーゼに、ナギサはそっけなく「そう言うことだ」と返した。 「君たちに話すこと、聞くことはもう無い。そして君たちは、許可が出るまでここの隔離エリアを出ることはできない。もちろん、外部との連絡は許可できない。窮屈なのは分かるが、ノブハルのためと思って我慢してくれ」  ノブハルのためと言うセリフの効果を理解したナギサは、それをエリーゼの顔を見ながら用いた。 「私達の仲間は無事ですかっ!」  おとなしくエリーゼは引き下がったが、トウカの立場ではそうも言っていられなかった。帰ろうとするナギサを引き止め、護衛部隊の安否を問うたのである。 「少なくとも、キナイの公安とは衝突していないよ。隊長のガンドルフ氏だったかな? 彼からは、どうなっているとの問い合わせが来ているようだよ。それを考えれば、まだ無事と言っていいと思うよ」  それだけと言い残し、ナギサはさっさと病室を出ていった。それを見送ったリンは、エリーゼではなくトウカに近づいた。 「トウカさん、あなたには忠告しておくことがあるの」 「私に、でしょうか?」  改めて忠告されるようなことがあったのか。首を傾げたトウカに、リンは予想外のことを口にした。 「ナギサには気をつけなさい。一応釘は刺しておいたけど、あなたに目をつけたみたいなの。甘い言葉に騙されたら、泣くのはあなただからね」 「え、ええっと、気をつけます」  なんのことを言っているのか理解し、トウカは顔を赤くして何度も頷いた。ただ心のなかでは、どうせ許すならノブハルが良いと思っていたりした。もちろんそんなことを、兄ラブのリンに言えるはずがない。 「私は大丈夫なのですね?」  そのあたり自覚がないのか、のほほんとエリーゼが聞いてきた。 「裸になって、トウカさんと較べてみたら?」  それで、非情な現実を理解できるはずだ。エリーゼを突き放したリンは、「帰るから」と言って病室を出ていった。 「裸になるって、そう言うことですか」  そこでトウカの胸元を見たエリーゼは、深すぎるため息を吐いてしまった。アルカロイドに襲われたときも、ノブハルが自分よりトウカに興味を持っているように思えてしまったのだ。確かに言われてみれば、比較にならないほどの戦力差がそこにはあったのだ。 「え、ええっと、遺伝子の相性はエリーゼ様の方が良いと言うお話でした」  初めて会った時のことを持ち出したトウカに、「それだけなんですね」とエリーゼは更に落ち込んでみせた。操られていたのは知っているが、面と向かって「貧弱な体」と言われたのを思い出したのだ。確かに胸は小さいし、ウエストだってトウカの様にはしまっていない。そのくせ下半身が太いことを、エリーゼも自覚していたのである。ナギサに気に入られたいとは思っていないが、相手にされないのも悲しくなってしまう。  こんなものが有るからいけないのだと、エリーゼは腹立ちまぎれにトウカの胸を掴んだ。だが自分とは違う大きな物体に、エリーゼは更に落ち込んだのである。  ズイコーのホテルに陣取ったトラスティは、テレビで流れる「戦争」こと兄弟喧嘩を興味深く観察した。そこで行われる戦闘自体は、かなり自動化された兵器が活用されていた。使用されるのは主にドロイドとドローンで、有人の兵器は数えるほどしか使われていなかったのだ。  その為戦闘自体が激しくても、人的損害はなく物的損害ばかりが積み上がっていった。その積み上げられた被害を、双方のテレビが詳細に伝えてくれるのだ。どちらがより相手の兵器を破壊したのか、まるでスポーツのようにその数を競い合っていた。 「なるほど、兄さんが手を出す必要がないと言った訳だ」  スポーツが戦争の代用品になっているのは、比較的どこの世界でも見かけることのできる光景だった。だがズミクロン星系の場合、戦争はスポーツに代替されなかったらしい。その代わり、戦争そのものが限りなくスポーツに近づいている。テレビ中継される光景に、これもありかとトラスティは考えていた。 「ここに10剣聖を投入したら、あっと言う間に勝負がつくな」  激しい戦いには違いないが、戦いのレベルが高いかと言えば必ずしもそうではない。10剣聖の破壊力を知るトラスティにしてみれば、戦っているのはおもちゃのような武器ばかりだったのだ。 「確かに、兄弟喧嘩なんだろうな、これ」  そう言いながら、目の前の戦闘にトラスティは違和感も覚えていた。 「なんで、この程度のことで非戦派と好戦派に別れるんだ? しかも自分の娘を殺して、戦意を高揚させるって……」  目の前の光景だけを見ると、そこまですることの様に思えないのだ。だが現実は、上院議員が自分の娘を殺そうとしていた。 「アルテッツァ、ズミクロン星系の兄弟喧嘩の記録を出してくれ」  そこでトラスティは、超銀河連邦最大のデーターベースを頼ることにした。システム名アルテッツァは、シルバニア帝国第六代皇帝の人格を移植した生体コンピューターである。超銀河連邦設立より2000年前に稼動を始めたため、蓄積された知識は並ぶものがないと言われたほどだ。  もっとも謎に包まれたレムニア帝国と言う存在もある。寿命が1000年を超える長命種にとって、3000年と言うのは比較的短い時間だった。そこに蓄積された知識もまた、膨大なものを誇っていた。  トラスティに呼び出されて現れたのは、生体コンピューターアルテッツァの作る仮想人格だった。嘘か真か知らないが、仮想空間でIotUと性行為を行ったと言われていた。とても3千歳を超えるとは思えない、黒髪をお姫様カットにした可愛らしい少女だった。 「私は、百科事典ではないのですけど」  そう文句を言いながら、アルテッツァはトラスティにズミクロン星系における兄弟喧嘩の歴史を放り投げた。そのあたりの扱いが雑なのは、ザリアと違って怖くないと言うのが理由になっていた。 「同じくれるのなら、もう少し丁寧にして欲しいな」  文句を言いながらデーターを俯瞰したトラスティは、兄弟喧嘩のあり方が変わってきたのに気がついた。超銀河連邦に加わった頃は、自動化されていない戦いのため、大勢の死者が出ていたのだ。そしてここ数百年の間では、戦いが自動化されたため大した犠牲者は出ていない。そしてその犠牲者自身、戦いごとに減っているのが実態だった。その事実だけを見れば、「スポーツに似ている」とトラスティが感じるのも不思議ではない。 「だが、毎回の戦いで必ず誰かが失脚しているな。しかも、失脚しているのはズイコー側ばかりだ」  一体それに、どんな意味があるのだろうか。戦い自体は、いつも勝敗は付かずに終わっていたのだ。だとしたら、誰かが責任を取ると言う話にはならないはずだ。 「アルテッツァ、そのあたりの情報はあるか?」 「ええっと、失脚した政治家と兄弟喧嘩の関係ですよね?」  予想していない質問に、アルテッツァは少しだけ検索と分析に時間を掛けた。 「分析してみましたが、特別な理由は見当たりませんでしたね。兄弟喧嘩が、ただ権力争いに利用されたのではありませんか?」 「可能性としては考えられるんだが……だとしたら、今度の兄弟喧嘩で誰が失脚するんだ?」  そう口にしたトラスティは、「そう言うことか」と理由に納得ができた気がした。 「民衆に溜まった不満を解消するだけじゃないんだな」  戦争と言う名目の、安全装置が「兄弟喧嘩」と呼ばれる争いなのだ。そこで治世に危険とされた政治家が、狙われて排除されていったのである。そしてこの兄弟喧嘩では、ハンスバッハ・クライストスが排除される対象となるのだろう。 「何か、利用された気がするな」  色眼鏡を掛けた男を思い出し、トラスティは少しだけ目元を引きつらせた。どう言う訳か、その男に対して苦手意識を持ってしまったのだ。ただその理由だけは、いくら考えても思いつかなかった。  まあいいかと、余計なことを忘れることにしたトラスティは、「アリッサは?」と最愛の妻の状況を確認した。 「5日後には、エルマーに到着されるかと。サン・イースト入りは……観光をされてからと言うことなので、8日後となりますね」 「まあ、危ないことはないのだろうね」  今回の移動では、特に護衛を連れてきていないはずだ。それを考えると、必ずしも安全とばかりは言えないはずだった。  だがアリッサの安全に不安を感じたトラスティに、「大丈夫でしょう」とアルテッツァは気楽に保証してくれた。 「すぐに、ロレンシア様、ライスフィール様と合流されるようです。護衛の方も、クリスブラッド様、エーデルシア様が付いてお出でです」  集まった陣容を聞かされ、それなら大丈夫とトラスティは安堵した。クリスブラッドやエーデルシアを越えようとしたら、それこそヘルクレズやガッズを連れてくる必要があった。少なくとも、この程度の戦争しかできないズミクロン星系を怖がる必要はなさそうだった。 「それでアルテッツァ、IotUはこのズミクロン星系を訪れているんだね?」 「記録として残っているのは、加盟式典前に2度ほど、そして加盟式典後に3度ほど訪れられています。ただ式典後の2度については、訪問の理由が記録されておりません。しかも、ディアミズレ銀河が加盟後10ヤーも経過してからのことです」  IotUの行動については、不思議なことにほとんど記録が残っていなかった。ザリアが協力的になってくれたおかげで、ようやくアルテッツァが使えるようになり、分析が進んだと言う事情があるぐらいだ。 「推測ぐらいはできるかな?」 「宇宙の非常識の行動を推測しろと?」  すかさず言い返したアルテッツァは、「物を知りませんね」とトラスティのことをバカにしてくれた。 「あのお方がなされることは、未だ分析のできていないことの方が多いのですよ。しかも超常現象を起こしながら、やっていることは浮気なんです。真面目に記録するのが馬鹿らしくなると思いませんか?」 「つまり、ズイコー星系にも浮気をしに来たと言いたいのかな?」  それはとの問いに、アルテッツァは考えるような間を開けた。そしてしばらくしてから、違いますねと否定の言葉を口にした。 「ユサリア様も、この星系に愛人が居たとは仰ってはおられませんでした。それを考えると、浮気以外の目的が有ったと考えるのが自然でしょう」 「でも、その理由は分からないと言うことだね」  それもまた、IotUの謎に迫る一歩となるのだろう。考えすぎかもしれないが、まだやることが有るのだとトラスティは考えた。  ノブハルが目を覚ましたのは、病院に担ぎ込まれて10日目のことだった。ひどい頭痛を感じて目を開いたら、そこにあったのは見知らぬ天井だった。 「知らない天井だ……と言うボケはいいが、おそらく病院に運ばれたと言うことか。俺は、どうして助かったんだ?」  為す術もなく、暗殺者に蹂躙されたのは覚えている。そして用意したのとは比べ物にならない爆弾をばらまかれ、まさに爆発しようとしたところまで覚えていたのだ。だがそれからのことが、綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていた。 「しかし、割れるように頭が痛いな。これは、タイプの有っていない中和剤の副作用か?」  それともと考えたノブハルは、「あの野郎」と黒尽くめの暗殺者のことを思い出した。 「遊び半分で、俺に中和剤を投与していったな」  そう考えれば、この酷い痛みにも理由が説明できる。勘弁してくれと嘆いたノブハルは、なんとか動く首を巡らせ病室の中を観察した。 「状況報告!」  そしてパーソナルアシスタントを呼び出そうとしたのだが、残念ながらノブハルの命令は届いていないようだった。 「つまりここは、世間から隔離するのを目的とした場所か。しかし、外はどうなっているんだ?」  そこで目を手元に移すと、何本かのチューブが取り付けられているのが目に入った。なるほど病院なのだと納得したノブハルは、起き上がってつながれたチューブを自分で外した。針が抜ける時に少し血が滲んだが、死にかけたことを思えば大したことはないと忘れることにした。  そして最後に胸に貼られた電極を外したところで、盛大に警報音が鳴り響いてくれた。どうやら患者に異変が起きたら、すぐに知らせる仕組みになっていたようだ。 「これで、誰かが現れてくれるだろう」  ベッドから起き上がったノブハルは、ドアの方を見て誰かが来るのを待つことにした。そして警報が上がってから5分経過して、一人の男が病室に現れた。年の頃なら、30代なかばぐらいと言うところか。鋭さを感じさせる目をした男だった。 「警報がなったのに、随分と遅いお出ましだな」  一刻を争う事態だったら、間違いなく手遅れになっていたはずだ。それをあげつらったノブハルに、男は黙って病室の壁を指差した。指差した先には、監視カメラのレンズが顔を覗かせていた。 「なるほど、中の様子が分かれば慌てる必要が無いと言うことか。それで、あんたは誰なんだ?」  いかにも無礼な物言いなのだが、現れた医者、ストランジは気にした素振りを見せなかった。 「ロカ病院の医師、ストランジだ。イチモンジ家御当主の命令で、私が君たちの担当をしている」 「俺達ということは、エリーゼやトウカもいると言うことか?」  ノブハルの問いに、「ああ」とストランジは頷いた。 「彼女達は、9日前に目を覚ましている。特に体に異常はないが、世間に対する隔離措置としてここに軟禁されていたのだが……今は、7家会議にゲストとして呼ばれているところだ」 「7家会議に?」  なぜと首を傾げたノブハルだったが、分からないことはいくら考えても分かるはずがない。それに気づき、すぐに考えることを放棄した。 「ちなみに、あれから何日経ったのだ?」  ノブハルの問いに、ストランジは両手で10の数字を作った。 「君が運び込まれてから、ちょうど今日が10日目だ。そして兄弟喧嘩が始まって、7日目と言うことになる。今日にでも停戦と言うのが、テレビで伝えられている情報だ」 「そうか、やはり兄弟喧嘩は起きてしまったか。ところで無駄を承知で尋ねるのだが、俺はどうして助かったのだ? 爆発が起きた場所を考えると、爆風やその後の有毒ガスが、確実に俺のとどめを刺してくれたと思うのだが?」  ノブハルの問いに、ストランジは落胆を覚えていた。彼が目を覚ませば、この訳の分からない現象の説明がつくと期待していたのだ。だがノブハルは目を覚ましたが、謎は謎として残ってしまった。 「何故と言うのは分かっていない。実のところ、君が目を覚ませば解明できるのかと期待をしていたんだ。だが君は、自分がどうやって助かったのかを知らないようだ」 「ああ、無理を言ってくれるな。俺が用意した保険は、全部役立たずになったのだからな」  なるほどとノブハルの言葉に、ストランジは頷いた。少なくとも、彼らが自力で助かったのではないことが分かったのだ。 「やはり、何者かの介入があったと言うことか」 「そうとしか思えないのは確かだが……だが、アルカロイド相手に誰が介入できるのだ?」  それだけの実力を持つ組織は、かなり限られてくるのが分かっている。そしてどの組織にしても、自分を助ける理由など無い。懸念された兄弟喧嘩にしても、今回も大したことなく終わろうとしていたのだ。戦争と言う大層な言われ方をしたが、リアルで行われるゲームと大差がないと言うのが現実だ。むしろ、ゲームに熱中して生じる被害の方が大きいぐらいだろう。応援が加熱しすぎて、少なくない犠牲者がでたと言うのが過去の経緯である。 「俺達が助かっても、別に困らないと言うことか」 「ああ、兄弟喧嘩は始まってしまったからね。だから、やりたくて仕方がなかった奴らには、もはや君たちの安否などどうでもいいことだろう」  ストランジの説明に、そうだろうなとノブハルは心の中で納得していた。 「そうなると、俺たちが無事で不利益を被るのは誰かと言う話になるな……」  うむと唸ったノブハルに、「そんなものは知らん」とストランジは言い切った。 「それは、知っている奴に聞いてくれ。連絡をしたから、そろそろ駆けつけてくることだろう」 「それは、ナギサの事を言っているのか」  それぐらいしか、駆けつけてくる相手に心当たりがなかったのだ。 「君の妹さんは駆けつけてこないのか?」  少し驚いた顔をしたストランジに、「仕事だろうな」とノブハルは答えた。 「コンサート後の休みも終わったはずだ。まあ、大物がないから前ほどは忙しくないと思うが。だが、予定からすれば今日は仕事のはずだ」 「そうか、彼女は来ないのか」  明らかに落胆されれば、相手が何を期待しているのか理解することができる。なるほどねと納得したノブハルは、「サインが欲しいのか?」とストランジに聞いた。 「サインだけじゃない、握手とかハグもしてみたい」  ハグだけで収まるならとも考えたが、安請け合いをすれば叱られるのも分かっていた。だから「ハグはだめだな」と冷たく突き放した。 「握手ぐらいなら、営業の延長だろう」 「時間制限が無いのなら、営業よりはずっとマシと言うことか」  そこで嬉しそうにされると、本当に大丈夫かと思えてしまう。目の前の男と比べると、妹の年齢は半分程度のはずなのだ。  ただ実害がない限り、個人の趣味には関わらない方が良いだろう。ナギサが現れたのも、話を打ち切るにはちょうどいいきっかけだった。ただ、「寝坊だな」と言われるのは違うだろうと言いたかった。 「ドクター、席を外して貰えるか?」  場所を変えることに意味を見いだせず、ノブハルはストランジの顔を見た。 「ああ、特に所見は無いようだね。2、3日したら退院できるだろう。それから、後からベッドを入れ替えさせておこう」  そう言い残すと、ストランジはさっさと病室を出ていった。席を外せとリクエストをしたのだから、病室を出ていくことに問題はない。ただノブハルには、言い残していった言葉が引っかかった。 「シーツなら分かるが、なぜベッドの入れ替えが必要なんだ?」  10日も寝ていたことを考えれば、シーツを替えるのはおかしなことではない。それどころか、当然とも言えるだろう。だがベッドまでとなると、途端に理由がわからなくなる。その意味でノブハルの疑問は当然なのだが、ナギサからしてみれば「聞く相手が違う」と言うところだ。 「それを、僕に聞いてどうするんだい?」  その意味で、ナギサの答えはまっとうなものだろう。確かにそうだと認めたノブハルは、「状況は?」と自分の疑問を解消しようとした。 「その前に、何が起きたのかを教えて貰いたいのだけどね」 「何が起きたと言われてもだな……化学準備室でエリーゼを待とうとした時、いきなり後ろから襲われて暗示薬を投与された。「犯せ」「殺せ」の暗示を受けたことは覚えているな。保険で掛けておいたインジェクターが役に立ったが、薬剤の特定が完璧にはできなかった。その為暗示は完全には解けていない状況に置かれていた。そこでどう言う訳かトウカ・クレメンタインが現れたのだが、どうやら彼女も暗示をかけられていたようだ。裸になって誘惑され、キスまでされたのだが……お陰で、唾液から使用された暗示薬の組成を理解することができた。そこで中和剤を投与して暗示から逃れたのだが、今度は保険が足を引っ張ってくれた。適合しない中和剤のせいで、意識レベルが低下してしまった。まあ、それがなくてもアルカロイドの奴には手も足も出なかったのは確かだ。黒尽くめの服を着た奴は、散々俺たちを甚振ってから、中に爆弾を残してその場から消えてくれた。そして俺は、爆発の前に意識を失い、つい先程目が覚めたと言うことだ」  その説明に、ナギサはなるほどと頷いた。 「一応、彼女たちの説明と矛盾はないようだ。そうなると、どうしてノブハル達が助かったのかが分からないね。アルカロイドが君たちを見逃すとは思えない以上、第三者の関与が疑われる。だがそんな都合の良い第三者が存在するのだろうか?」 「結局、お前にも分からないと言うことか」  落胆からため息を吐いたノブハルに、「同じ気持ちだ」とナギサも言い返した。 「ちなみに、今現在双方で停戦合意の詰めを行っている。そこにエリーゼ・クライストスを同席させることで、ハンスバッハを失脚させると言うのが7家会議での結論になっている。君が巻き込まれた以上、誰かの首が必要なんだよ。アルカロイドと言う非合法組織に金が流れた証拠があるから、ズイコー側も反対しないと言うのが、7家会議の見通しだ。そして自分の支持集めのために、娘を暗殺者集団に狙わせたことで、ハンスバッハは社会的に抹殺されることになる。ほぼ世襲状態だったクライストス家は没落し、別の家系が後釜に座ることになる。したがって、エリーゼ・クライストスは、ズイコーでは一般市民と言うことになるな。各種特権がなくなるので、新学期になったところで留学解除になるだろう」 「そうか、彼女はズイコーに帰るのか。まあ、エルマーにいてもろくなことはないだろう」  あっさりとしたノブハルに、「それで良いのかい?」とナギサは尋ね返した。 「命がけで守ろうとしたのだろう? だったら、そのまま帰して良かったのかい?」  色々とあるのだろうと追求されたノブハルは、「別に」とそっけなく言い返した。 「あれは、俺の自己満足の……違うな、俺の心にあったもやもやを解消するためにやったことだ。彼女を守ったのは、ただ利害が一致しただけのことだ。それに、プロムも終わってしまったのだろう。だったらリンに責められることもないはずだ」 「そのプロムなんだけどね」  少し口元を歪めたナギサは、「延期になったよ」とあっさりと言ってのけた。 「兄弟喧嘩が始まってしまったからね。1週間ほど、スケジュールが先送りにされたんだ。そしてリスケの結果、プロムは来週の今日行われることになった。したがって、君は相手を探さなければ僕から恨まれることになる」  兄弟喧嘩と言う大きなイベントのせいで、プロムが先送りにされたのは理解することができた。ただもう一つの、自分が恨まれることになるのがノブハルには理解できなかった。 「どうして、俺がお前に恨まれなくちゃいけないんだ?」 「相手を探さないと、リンが君のパートナーになると言う話じゃなかったかな? 僕が君を恨むのには、十分な理由だと思うのだがね」  確かに、そんなことがあったな。10日ほど前のことを思い出し、なるほどとノブハルは頷いた。 「だったら、もう一度エリーゼ・クライストスを誘えば良いのか。ズイコーに戻るのを、新学期直前にして貰えばいい」 「現状でできる選択は、おそらくそれぐらいだろうね」  それで良いんだと笑ったナギサは、ジャビスからの連絡に目を留めた。 「速報だけど、ズイコーとの停戦協定がまとまったそうだ。ハンスバッハについては、計画殺人未遂で上院議員資格を取り上げられることになるだろう。すぐに訴追が行われると言うのが、手打ちの条件だ」  そこまで説明したところで、「おやおや」とナギサは口元を歪めた。 「エリーゼ・クライストスへの処遇も決まったようだ。ハンスバッハから親権が取り上げられ、国家に預けられることになったようだよ。犯罪被害者として大学卒業までの奨学金が支給されるそうだ。そして当面の保護措置として、こちらの学年が終了後ズイコーに帰国することになっているね」 「極めて、妥当な措置だと思うが?」  どうして含みを持ったように言われなくてはいけないのか。ノブハルは、無表情の顔にほんの僅かな困惑を表した。 「いや、誰かに配慮したような日程だなと思ったんだよ。これで君は、彼女をプロムに誘うことができる」 「プロムが、卒業前に行われる行事と考えれば不思議ではないだろう」  そう答えたノブハルは、「そんなことより」と疑問の解消を優先することにした。 「そんなことなのかな。まあ君に、男女関係の機微を期待する方が間違っているのは知っているけどね」  それでと言うナギサに、「俺が助かった理由」とノブハルは口にした。 「正確に言うなら、なぜ俺が五体満足でここに収容されたのだ?」 「それは、僕が教えて欲しいぐらいだよ」  そう答えたナギサは、自分がノブハルを収容したときのことを説明した。 「僕が化学準備室に突入した時、約10種類の有毒ガスが即死レベルの濃度で充満していたよ。その中に、君たち3人が「裸」で転がっていたんだ。見る限り、有毒ガスによる皮膚への障害も起きていなかったね。そこから僕が、君たち3人を運び出し、学校の医務室に収容したんだよ。そして親父さんの指示で、3人をロカ病院に移送した」 「爆発による怪我も、有毒ガスも吸い込んでいなかったと言うことか!」  ありえないだろうと言うつぶやきを聞き、ナギサも同感だと頷いた。 「だから僕としては、ノブハルに謎解きをして貰いたいんだよ」  そしてナギサは、彼の知る不可解な状況を説明した。 「君たちを発見したときの状況は話したとおりだ。追加の情報だが、ドクターから聞いた話だと、君たちは時間遅延によって守られていたらしい。そしてこの病院には在籍しない、とても若い女医がそれを解除してくれたそうだ。ドクターの説明では、何か棒のようなものを振り回し、コマンドを口にしていたと言うことだ」  ナギサの説明に、「いやいや待て」とノブハルは手で制止した。 「時間遅延技術は、厳重に管理された技術のはずだ。それに、棒を振り回してコマンドを実行って……装置自体は、そんなに小さなものじゃないぞ。それに解除は良い、だがどうやって化学準備室で時間遅延措置を行えるんだ? アルカロイドの奴に襲われた時には、時間の遅延など行われていなかったぞ。いくらなんでも、有りえんだろう!」  技術を知っているからこそ、ナギサの説明には納得がいかなかった。その意味で、ありえないとノブハルが言うのもナギサにも理解できた。 「だけど、それぐらいしか君たちが無事だった理由を説明できないんだよ」 「だが、極小範囲で遅延措置を行っても、爆風の影響は排除できないぞ。確かに有毒ガスが浸透してくるのは防ぐことが可能だが……」  別の疑問が湧いたと、ノブハルはナギサの顔を見た。 「最初に言ったはずだよ。僕は、君に謎解きをして貰うつもりなんだよ」  つまり、細かなことを聞かれても分からないと言うのである。ただ頼られても、ノブハルにもできないことは沢山存在した。 「お前の親父さんが、誰かを動かしたと考える方が納得がいくんだが?」  お手上げだと答えるノブハルに、そうなのかとナギサは落胆したのだった。  そして二人が落胆をした少し後、イチモンジ家当主ハラミチは、側近であるシュンスケ・アオヤマ、すなわちノブハル、リンの父親に詰め寄られていた。ハラミチに詰め寄るノブハルの顔を見る限り、怒り心頭に発しているのは間違いないだろう。 「なぜ、分かっていて俺に無駄足を踏ませたんだ!」  どんと机を叩いたお陰で、ハラミチのデスクに置かれたカップが飛び跳ねた。そして入っていた茶色の飲み物が、少しだけソーサーにこぼれ落ちた。 「トリプルAと話がついていたのなら、俺がジェイドまで行く必要はなかったはずだ!」  もう一度机を叩いたせいで、カップからは先程よりも沢山飲み物がこぼれてくれた。 「その理由が、今更必要なのか?」  ふんと鼻息を一つ吐いたハラミチは、迎えたゲストの方へと視線を向けた。そこには、思わず見とれてしまうような美女を連れた、少し悪人顔をした男が立っていた。 「いや、説明を求めたものじゃない。俺は、お前に腹いせしているだけだ!」  もう一度机を叩いたシュンスケだったが、ハラミチがカップを持ち上げたため中身は無事だった。そして腹心の抗議を涼しい顔で受け止め、「必要な措置だった」と嘯いたのである。 「ああ、だからこうやって鬱憤を晴らしているだろう。俺への嫌がらせだったら、とっくの昔にお前を絞め殺しているぞ」 「まったく、支配者に対して尊敬の念が無い奴だ」  困ったものだと吐き出したハラミチは、「聞いてのとおりです」と客の二人を見た。 「ええ、とても仲が宜しいのはよく分かりました」  そう答えたのは、思わず見とれてしまうような美しい女性の方だった。 「アリッサ・クリューグ・トランブルと申します。アオヤマ様には、ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」  とても綺麗な女性に頭を下げられれば、いつまでも怒ってはいられない。それどころか、別の意味で顔を赤くして「こちらこそ」とシュンスケは頭を下げ返した。 「常々、トリプルAは業務拡大を考えておりました。しかもトリプルAには、連邦の中でも特殊な技能が備わっていますからね。それをどう活用しようかと考えていたのです。ちょうどその時、イチモンジ様からこちらの事情を伺いました。もっともズミクロン星系だけの話であれば、私共が乗り出す理由に欠けていたのは確かです。個別の事情に踏み込みすぎると、なにしろ手間ばかりがかかって仕方がありませんからね。とてもではありませんが、掛かる手間に対して収益が見合うものではありません。今回の事件にしても、アルカロイドの関与がなければ私共が手を出すことはなかったでしょう。IGPOに恩を売ることが、手を出す口実となったのは確かです」  相手が経済活動をしている企業だと考えれば、アリッサの説明はとても説得力のあるものだった。一人の少女の悲劇にしたところで、連邦に属する星系が10億あることを考えれば、取り立てて珍しいことではないはずだ。勝手に憤ったところで、相手には相手の事情があったのだ。 「夫がディアミズレ銀河に興味を……違いますね、ズミクロン星系に興味を持っていなければ、おそらく支援はしていなかったでしょう。ただそれだけではトリプルAとして動く理由にはなりませんので、もう一つの理由アルカロイドの関与を利用させていただいたと言うことです」 「ご主人の興味が理由なのだと?」  驚くシュンスケに、「ええ」とアリッサは蕩けるような笑みを浮かべた。 「夫は、IotUの足跡を追いかけております。ですから連邦加入後、なぜIotUがこの星系に足を運んだのか、その理由に興味を持ったんです。ただそれだけなら、夫の趣味で終わっていたのでしょうね。もっとも夫の場合、たとえ趣味でもエスデニアやパガニアなどを動かすことができるんです。それをされると私が困るので、トリプルAとして引き受けた次第です。そしてトリプルAとして引き受けた以上、ちゃんと収益を考える必要がありました。ですから、アルカロイドに手を焼いていたIGPOに話を持ちかけたと言うことです。もちろん、IGPOは二つ返事で私達の提案に乗ってきましたよ。もっとも、一部の方は今頃後悔なさっていると思いますけど」  そう言って笑われても、シュンスケに事情が理解できるはずがない。「はあ、そうですか」とただアリッサに見とれているだけだった。 「ええ、アルカロイドは潰しきれていませんが、IGPO内の協力者をあぶり出すのには成功しましたからね。ですからIGPOの中は、今は上を下への大騒ぎになっていますね。ちなみにアルカロイドの拠点は、お兄様……キャプテン・カイトと言った方が通りが良いですね。キャプテン・カイトにつぶしていただきました。そしてこちらの案件は、できるだけ内密にと言うことでしたので、ロレンシアさんとライスフィールさんに手伝ってもらいました。後は、制圧用にクリスブラッドさん、エーデルシアさんにも手伝っていただきました」  その説明になるほどと頷いたシュンスケだったが、すぐに重要なことを思い出した。 「確かロレンシア様というのは、パガニアの王女だったかと。そしてライスフィール様と言うのは、モンベルトの王妃だったかと」  手伝いに使うには、二人はあまりにもビッグネーム過ぎたのだ。 「ええ、ロレンシアさん達に任せれば、アルカロイドなど小物でしかありません。こちらを襲った5名は、すでに私共で身柄を押さえてあります。ライスフィールさんには、あなたのご子息達を守っていただきました。これは可能な限り、私達の関与を表に出さないための措置とお考えください。そのお陰で、夫は面白い発見があったと言っていますけどね」 「面白い発見とは、IotUに関わることでしょうか?」  トラスティの興味を教えているのだから、シュンスケの疑問は不思議なものではない。 「夫が言うには、ご子息はとても興味深い才能をお持ちだそうですよ。ですから、一度ご挨拶に伺いたいと申しております」 「息子は、まだ目が覚めていないと言う話ですが……」  少し困惑したシュンスケに、「伺っています」とアリッサは微笑んだ。その笑みに当てられて顔を赤くしたシュンスケに、「アフターケア」をアリッサは持ち出した。 「私共の実力であれば、本来ご子息を危険な目に合わせずにもすみました。ただ未遂と既遂の間では、罪状に海と山ほどの隔たりが有ります。またアルカロイドの手がかりを得るためにも、彼らには障害がないものと思わせておく必要があったのです。ですからご子息の容態に対して、少しばかりお手伝いをしようかと思っています。あとは、そうですね、多少のお節介も焼こうかなと」  ふふふと意味ありげに微笑まれたシュンスケは、手に負えない相手だと言うのを今更ながらに思い知らされた。明らかにエルマーの技術水準を超えているのだから、自分がしゃしゃり出る必要はないと理解したのだ。 「お節介の中身が気になりますが、息子のことはお任せすることに致します」 「大丈夫です。悪いようには致しませんから」  柔らかく微笑んだアリッサは、ご協力に感謝しますとハラミチの方を見た。 「ですので、今回の請求は大幅にディスカウントさせていただきます」 「支払いの方は、ダラでさせて貰う」  普段以上に声が平坦なのは、おそらく緊張をしているのだろう。この男でも緊張するのかと、シュンスケは少し新鮮な気持ちになっていた。相手がビッグネームと言うのも大きいのだろうが、やはりアリッサの美貌かとその理由を推測した。  ノブハルの病室には、なぜかリンまで押しかけていた。「仕事は良いのか」と質した兄に、「家族が大切」とリンは言い切った。 「引退しても良いのよと脅したら、ミズキさんが二つ返事で許してくれたわよ」 「お前の事務所が被る経済的損失を考えれば、許可せざるを得ないだろうな」  ズミクロン星系を代表するトップアイドルだと考えれば、事務所の被る恩恵は計り知れない。しかも意識不明だった家族が目を覚ましたと言う事情では、我儘と切って捨てるわけにもいかなかった。恐らく「引退」を脅しに使わなくても、「快く」事務所は送り出してくれたことだろう。もちろんリンの知らないところで、猛烈に損得勘定はなされるのだが。 「それでお兄ちゃん、具合はどうなの?」  自分のことは良いと心配してくれる妹に、まだまだだと首を振ってからノブハルは顔を顰めた。 「まだ、頭痛が抜けていない」 「むちゃしすぎた罰としか言い様がないんだけど……」  はあっと息を吐きだしてから、リンはいきなり兄に抱きついた。 「ばか、すごく心配したんだからね」  胸元に顔を押し当て、「お兄ちゃん」と涙ぐまれれば、ノブハルでも申し訳ない気持ちになる。そして同時に、どうしようもない愛おしさを妹に感じてしまうのだ。「これが家族愛か」と新しい発見をした気持ちになっていた。 「悪かった、二度とあんな真似をしないと約束する」  言い方がぶっきらぼうなのは、ノブハルの個性と言うところだろう。それでも妹の頭を撫でるぐらいのことはやっていた。  そんな状態をしばらく続けたリンは、満足したのか兄から離れた。ただ泣いたせいなのか、鼻の頭や目が赤くなっていた。 「ところでお兄ちゃん、どうしてベッドがダブルになってるの?」  ようやく落ち着いたリンは、病室にしては豪華なベッドに気がついた。普通病室というのは、リクライニングの制御できる、シングルベッドと相場が決まっていたのだ。そしてエリーゼ達2人も、運び込まれた時には普通のベッドに寝かされていた。 「それは、俺も疑問なのだが……」  結局、誰もノブハルに理由を教えてくれなかったのだ。だから「分からん」と答えるのも、至極当たり前のことだった。 「まあいいか、私が潜り込む余裕もできたし」 「いやいや、さすがにここは病院だぞ」  それはないとすかさず言い返され、リンは少し唇を尖らせた。病室の入り口がノックされたのは、ちょうどその時のことだった。 「誰か、お見舞いに来たのかしら?」 「ここは、隔離病棟なのだがね」  だから、通常なら見舞いはありえないことになる。 「だったら、エリーゼさん達かな?」  同じ病棟に隔離されているのだから、戻ってきたら顔を出してもおかしくはない。きっとそうだとドアを開けに言ったリンは、知らない相手にカチリと固まってしまった。 「あの、ここは関係者以外は立入禁止なんですけど」  男性1人に女性3人のグループなのだが、どう記憶を探ってみても相手に心当たりなど無かった。それを警戒したリンに、ただ1人の男性は「許可は受けていますよ」と優しく答えた。 「ノブハル・アオヤマ君のお見舞いに来ました。一応シュンスケ・アオヤマ氏にもこのことは伝えてあります。後は、ちょっとお節介を焼きにと言うところですね」  訳の分からない理由に、「はあ」とリンは警戒を緩めなかった。ただ自分だけでどうにかなるはずもないので、「どうぞ」と4人を中に招き入れた。そこでようやく気がついたのだが、4人のうち1人に見覚えがあったことだ。 「あなたは、あの時の女医さん!」 「ええ、10日振りですね」  そう言って微笑まれ、ようやくリンは警戒を解くことができた。そして兄に向かって、「御見舞のお客様」と声を掛けた。 「わざわざありがとうございます……と普通なら答えるところなのだが」  目元を険しくしたノブハルは、「何者だ?」と先頭の男に問うた。ナギサともども緊張しているのは、ただならぬ出来事だと感じているからに他ならない。  そんな警戒を気にもせず、「自己紹介が必要だね」と男、トラスティは笑った。 「ハラミチ・イチモンジ氏の依頼を受けて、アルカロイド対策のために来たトリプルAの関係者だ……と言うのは不親切なのだろうね」  そう言って笑ったトラスティは、「トラスティ・ヒカリだ」と仮の名前を名乗った。 「そして彼女が、トリプルAの代表をしている妻のアリッサだ」 「アリッサ・クリューグ・トランブルです」  一歩前に出たアリッサは、微笑みながら頭を下げた。その優雅さと美しさに、リンとナギサは心を奪われていた。そして朴念仁と言われるノブハルも、アリッサに目を釘付けにされていた。 「そして彼女が……妻なんだろうね、モンベルト王妃のライスフィールだよ。彼女には、君たちを保護して貰ったんだ」 「トラスティ国王の妻、ライスフィールです」  国王の言葉を訂正したライスフィールは、アリッサに負けじと優雅に頭を下げた。 「そして彼女が、パガニア王女のロレンシアだ」 「間もなく、トラスティ様と婚姻の儀を行うロレンシアです」  ロレンシアもまた、自分の立場を強調して頭を下げた。 「ええっと、全員有名人ばかりってこと?」  綺麗な人たちと驚いていたリンだったが、そんな生易しい相手ではないと知らされたのだ。特にアリッサやロレンシアとは、女として比べられたくないと思っていた。 「それで、そんな人がどうして兄さんの御見舞に?」  どう考えても、兄と有名人の間に繋がりが見つからないのだ。頭を完全に飽和させたリンに、「アフターケア」とトラスティは笑った。 「ノブハル君だったね。具合の方はどうなのかな?」 「遭った目を考えると、信じられないほど悪いところはない。ただ、まだまだ頭痛が取れてくれない」  その答えに頷いたトラスティは、「ライスフィール」と回復系の魔法使いを呼んだ。 「彼の面倒を見てやってくれないか?」 「そうですね。癒やしと回復促進を行いましょう」  そう答えたライスフィールは、持っていた荷物から小さな杖を取り出した。そして簡単な呪文を唱えて、ノブハルに向けた杖を振った。 「これが、癒やしの魔法です。次が、もうちょっと大掛かりな回復促進の魔法です」  杖を向けたまま、ライスフィールは先程と比べてずっと長い呪文を唱えた。そして最後にノブハルの名を呼んで、光の塊をノブハルの体めがけて投げかけた。 「どうです。まだ頭痛がしますか?」  そこで微笑まれ、ノブハルは照れから顔をそらした。 「い、いや、頭がスッキリとした気がする」  それは良かったと微笑むライスフィールに、「少しいいですか」とナギサが割り込んできた。 「もしかして、あなた達がノブハル達を守ってくれたのですか?」 「ええ、そうですけど?」  それまで悩んでいたのが何だったのかと言いたくなるほど、ライスフィールはあっさりと認めてくれた。 「どうやってと言うのは教えてくれますか?」  それが肝心と、ナギサは真剣な顔でライスフィールを見た。 「モンベルトには、魔法と言う技術が伝わっています。敵に襲われたあなた達に、まず強化の魔法を掛けました。これで、大抵の物理的攻撃への対抗力ができます。そしてガスに対しては、眠りの魔法を掛けました。これを掛けると、何をやっても最低一週間は目が覚めないと言う魔法です。この魔法には、外部からの干渉を遅くする効果があります。ですから、有毒ガスがあなた達に届かなかったと言うことです。ただ解除しても目がさめるのに1日ほど時間がかかります」 「魔法、ですか……」  そうつぶやいて、ナギサは助けを求めるようにノブハルの顔を見た。ただ助けを求められたノブハルにしても、全てが自分の知らない知識だった。 「俺に聞くな。俺だって、初めて聞く話だ」  ぶすっとしているようで、なぜかノブハルの顔が赤くなっていた。そのあたり、その場に居る3人の女性が強力だったと言うことだ。 「そしてアルカロイドだが、彼女とその配下が全員拘束した。5人ほどだったかな、それがエルマーに進入した全てだよ。尋問も済ませてあるから、その情報で組織を叩き潰そうと思っている」 「よく、口を割ったものだ」  とても用心深いと言うのが、アルカロイドと言う組織の特徴だった。それを考えれば、捕まったからと言って尋問に応えるとは思えない。そんな組織の者が口を割り、あまつさえ重要な情報を提供したと言うのだ。とてもではないが、簡単には信じられなかった。  だからこそのノブハルの言葉なのだが、「奥の手はたくさんあるんだよ」とトラスティは笑った。 「これで、君たちの疑問には答えたことになるのかな」 「話せば話すほど疑問が増えていく気がしてならないのだが……」  それでも、自分達が助かった理由だけは理解することができた。 「あなた達が、俺達の命の恩人と言うのは理解できた。何もお返しができないが、感謝だけはさせてもらう」  立ち上がって頭を下げたノブハルに、「受け取ったよ」とトラスティは笑った。 「助けるのが遅いと文句を言われるかと思ったよ」 「証拠固めのため、手を出すのをギリギリまで遅らせた。俺は、そう受け取っているのだが?」  違うのかとの問いに、「その通り」とトラスティは頷いた。 「なるほど、僕が見込んだ通りの人だね。だから君には、僕からお誘いの言葉を残しておこう。もしもその気になったらだが、トリプルAは君を歓迎するよ。君がこの星を離れるのが嫌と言うのなら、ここに支社を作ってもいいと思っている」 「俺の、ためにか?」  驚いたノブハルに、「君のためだ」とトラスティは繰り返した。 「ただ、ここで返事を迫ろうとは思っていないよ。その気になったら、僕かアリッサに連絡をしてくれればいい。その時の話し合いで、迎えを寄越すか、支部を作りに来ればいいだけだ。ただ僕は、君のためにもここを離れたほうが良いと思っている。宇宙には、まだまだ君の知らないことが沢山眠っているんだ」  そう言って笑ったトラスティは、「じっくりと考えてみればいい」とそれ以上答えを迫らなかった。 「そろそろ僕達は帰るけど、何を持ってきて良いのかわからなかったから、病室に飾る花を持ってきたよ。ロレンシア」  夫から名を呼ばれたロレンシアは、後ろにおいてあった花束を取り出した。そこにはバラに似た、赤い花が沢山束ねられていた。 「見たことのない花だな。特徴だけは、バラに似ているようだが?」  疑問を口にしたノブハルだったが、すぐに言うべき言葉が違うことに気がついた。 「いやいや、ここはお見舞いに感謝するところだな。綺麗な花をいただいたことに感謝する」  ロレンシアから花束を受け取る時、はっきりとノブハルは彼女を意識していた。これまでの人生で、これほどの美女を見たことがなかったのだ。ロレンシアやアリッサと比べたら、エリーゼどころかリンも子供でしか無かったのだ。  そしてその感想は、一緒に居たナギサも同じなのだろう。はっきりと顔を赤くし、ナギサもロレンシアのことを見ていた。それに気のせいなのか、心なしか鼻息も荒くなっているようだった。 「じゃあ、帰らせて貰うよ。ところで、君たち二人には別の話があるのだけどね」 「私たちにですか!」  驚いたリンに、「君たち」とトラスティは繰り返した。 「で、でしたら、お見送りがてらに……」  なぜか鼓動が激しくなったリンは、こちらにと言ってトラスティ達を連れ出した。そして二人と言われた以上、ナギサもついていかない訳にはいかない。「ちょっと出てくる」と言い残し、トラスティ達を追いかけていった。 「宇宙に出てこい……か」  もらった花を眺めながら、トラスティに言われたことを思い出していた。 「確かに、俺の知らないことが沢山あるようだ」  目の前で見せて貰った「魔法」にしても、その存在を初めて知ったのだ。じっくり観察をしたのに、原理は全く理解できなかった。 「宇宙か……」  なぜか鼓動が激しくなったのだが、自分が興奮しているのだと考えることにした。それぐらいトラスティは、魅力的な提案をしてくれたのだと。  なぜか収まらない興奮に包まれながら、ノブハルはナギサたちが戻ってくるのを待っていた。だが「ちょっと」の言葉に反して、出ていった二人は戻ってこなかった。 「まずいな、ドキドキするのが収まらないぞ」  どうしてここまで興奮するのだと思って居た所に、誰かがノックする音が聞こえてきた。ようやく戻ってきたかとドアを開けに行ったら、そこにいたのはエリーゼとトウカの二人だった。ヒアリングから戻ってきたのか、ふたりとも学校の制服姿だった。それを見たノブハルは、「どうして鼓動が激しくなる」と解けない疑問を感じていた。 「お体の具合はいかがでしょうか?」  心配そうに見られたノブハルは、「完調だ」と言い切った。 「ただ、ちょっと俺は興奮しているらしい。胸がドキドキするのが止まらないのだ。恐らくだが、トリプルAの人たちに聞かされた話がいけないのだろう」 「トリプルAの方たちに、ですか?」  驚いた顔をしたエリーゼに、「トリプルAだ」とノブハルは繰り返した。 「俺に、トリプルAに参加しないかと誘ってくれた。だからだろう、先程から興奮が収まらないのだ」 「ノブハル様が、トリプルAに勧誘されたのですかっ!」  おめでとうございますと、エリーゼはノブハルに近づきその手を取った。なぜかノブハルは、心臓が大きくはねた気がしていた。 「あ、ああ、とても光栄な事だと思っている」  手を掴まれたまま、ノブハルは顔を赤くしてエリーゼから視線をそらした。そんなノブハルに、エリーゼは自分がしていることに気がついた。 「わ、私としたら、はしたないことを」  慌てて手を離したエリーゼに、横で見ていたトウカは「いい傾向だ」とほくそ笑んでいた。なんのかんの言って、二人がお互いを意識し合うようになっていたのだ。 「それで、お前たちはズイコーに戻るのか?」 「ええ、新年度から復学するようにとの指示が出されました。もう危険がないのだから、一度戻ってくるべきというのが指示の理由です」  それが本意でないのは、エリーゼの表情を見ていれば分かることだった。それを「そうか」と受け取ったノブハルは、もう一人の当事者、トウカに向かって「お前は?」と問いかけた。 「わ、私も任務が終了するのです。ですから、ズイコーに戻るのが当然でしょう!」  なぜか赤くなりながら、そして急に激しくなった動機を押さえながら、トウカは顔をそらしながら答えた。 「そうか、それが当たり前のことなのだな。だがとても不思議な気持ちだ。お前たちと話をしていると、更に胸のドキドキが激しくなってきた」 「お恥ずかしいことですが、私も胸のドキドキが止まりません」  恥ずかしそうにエリーゼが俯いたところで、「実は私も」とトウカが答えた。  それを「そうか」と受け取ったノブハルは、「約束だったな」と二人に声を掛けた。 「プロムは終わっていないが、お互いの気持は盛り上がっているはずだ」  それが何を意味しているのか、エリーゼはそれを理解し「はい」と言って俯いた。顔が真っ赤になっているのは、これからのことを期待したからだろう。 「こんな気持ちになったのは初めてだ」  そう言って立ち上がったノブハルは、なぜかトウカを抱きしめ唇を重ねたのだった。  その翌日、ハラミチに頼み込んだナギサは、ホテルにトラスティを訪ねていた。一番の目的は、彼の事情を探ることである。そしてもう一つは、苦情らしきものを言うためだった。 「酷い目に遭ったと言ったら、恐らく罰が当たるのでしょうね」  開口一番苦情を口にしたナギサに、「罰が当たるね」とトラスティは言い返した。 「それでも、僕達まで巻き添えにするなと言ってもいいはずです」 「君は、彼女に不満があるのかな?」  文句を受け取らず、トラスティは痛いところを突いてきた。 「いえ、本当なら感謝しないといけないのは分かっていますが……なかなか二度目をさせて貰えませんでしたからね」  そう答えたナギサは、「いやいや」と首を振った。 「どうして、あんな真似をしたんです。間違いなく、全員に媚薬を嗅がせましたよね。発生元は、あの花ですか?」 「ああ、パガニアで栽培されている、媚薬を大量に含んだ花だよ。実を言うと、あの後僕の方も大変だったんだ。何しろアリッサとライスフィールには、全く耐性が無いんだ。しかもロレンシアまで、張り合ってくれるものだからねぇ」  からっけつと笑ったトラスティは、「燃えたのだろう?」とナギサをからかった。 「そのことについてはノーコメントです」  少し憮然としたナギサは、「それよりも」と親友の問題を持ち出した。 「ノブハルの奴、よりにもよって護衛の方から手を出してくれたんです」 「護衛の方って……黒髪でとてもグラマラスな方かな?」  直接の面識がないので、トラスティはデーターを思い出していた。 「ええ、その黒髪の方です。聞いた話では、ちょっとした修羅場になっていたようですが」  はあっと息を吐き出したナギサは、「何がしたかったんです」と理由を問いただした。 「何が、か。まあ、彼に重しをつけようと思ったんだよ。彼は、もう少し自分を大切にすべきと思っているんだ。だから、彼女たちに重しになって貰おうかと思ったんだ」 「自分と同じ苦労を味合わせよう、の間違いでは?」  ナギサの指摘に、「なかなか鋭いね」とトラスティは笑った。 「その気持が無かったと言えば嘘になるかな。ただ本当の目的は、彼の首に縄をつけることだよ。何の勝算もなく、今回のような賭けをしちゃいけないんだ。彼には経験を積んで貰いたいけど、死なれても困るからね」 「あなたは、ノブハルに何をさせようと言うのです」  確かにトリプルAに勧誘はしたが、トラスティの話を聞く限りそれだけとは思えないのだ。それを問い正したナギサに、そのうち分かるとトラスティは答えをはぐらかせた。 「それで、修羅場はどう落ち着いたのかな?」 「媚薬の力が勝ったと言うことですよ。彼女たちは、争うことより可愛がって貰うことを選びました。これで、ノブハルもめでたく女性と言うものを知ったことになります。まあ、入り口の入り口だと思いますが」  そこで吹き出したところを見ると、どうやらナギサも笑いをこらえていたようだ。親友を襲った喜劇が、どうやらツボにはまったのだろう。 「普通の人は、そこまで入っていかないものだよ。その意味で、彼は中まで入りこんだことになる。そして一度入ってしまうと、更に奥があるのを知ることになるんだよ」 「経験者は語ると言うことですか」  なるほど、自分では分からないはずだと、ナギサは目の前の男を見た。少なくとも、昨日会った3人の女性は、彼の知る女性とは比べ物にならない。ズミクロン星系のアイドルと言われる恋人でも、正面からの勝負は厳しいと思えてしまうのだ。その3人を相手にできるのだから、間違いなくこの男も特別と言って良いのだろう。  だとしたら、この男に見込まれた親友もまた特別な存在になるのだろうか。そう考えた時、昨日の出来事は小さなことだと理解することができた。自分の親友もそうなのだが、少女二人もまだまだ未熟すぎたのだ。 「ノブハルが、誘いに応じると思いますか?」 「別に、僕はどちらでも困らないと思っているよ。ただ彼は、望むと望まざるとに関わらず、普通では居られなくなると思っている」  「僕は」とトラスティは窓に近寄り、外の景色へと視線を向けた。 「ディアミズレ銀河に、IotUが何かを遺した、もしくは何かを見つけたのだと思っているんだ。だから新しく仲間を増やすのをやめ、ディアミズレ銀河が連邦最後の加盟銀河となった。そして僕は、その何かを探そうと思っているんだよ」 「IotUの何か……ですか。ですが、今更それを探すことに意味があるのですか?」  1千年前に生きた人の足跡を探すのは、知的興味以上の意味を持つとは思えない。そしてそれは、トラスティも感じていることだった。 「半分自己満足と言うところかな。そして半分は、超銀河連邦と呼ばれる銀河の成立に関わることだと思っている。ただ後者については、なんの確証もないことなんだけどね。そして謎に迫ったからと言って、何かが得られると言う保証もないんだ」  だから自己満足なのだと、トラスティは繰り返した。 「ですが、とても面白そうですね」  理解を示したナギサに、トラスティは苦笑を返した。 「面白いだけで終わらないから厄介なんだけどね。もしも君も関わりたいのなら、歓迎してあげるよ」  仲間に加わるかと言う誘いに、「残念ながら」とナギサは答えた。 「そっちは、ノブハルに任せますよ。僕は、イチモンジ家次期当主としてあいつを支えることにします」 「だったら、君も仲間なんだよ」  そう答えたトラスティは、右手をナギサに向けて差し出した。 「これからちょくちょく顔をだすつもりだから、協力が必要なら声を掛けてくれればいい」 「ものすごくありがたい話ですね。では、遠慮なく利用させて貰います」  差し出された右手を、ナギサはガッチリと握りしめた。そしてそのまま、トラスティに耳元に唇を寄せた。 「どうすれば、複数の女性とうまく付き合えるのか。その辺りの秘密を是非とも」 「若い君が羨ましがるのは理解できるけどね。ただ、現実はそんなに良いものじゃないんだよ。まあ、君の親友を見れば、言いたいことが理解できると思うよ」  手を離したトラスティは、「楽しむと良い」とナギサに告げた。 「きっと、彼らは君を大いに楽しませてくれるよ」 「とりあえず、それで我慢することにしますか」  にやりと口元を歪め、「楽しみだ」とナギサは嘯いたのだった。  スッキリとした目覚めを迎えたはずのノブハルだが、すぐににっちもさっちもいかない状況に居心地を悪くしていた。何がと言うと、自分の両側に何か温かいものがあるのに気づいたからである。そして右を見て黒い瞳に迎えられ、左を見て青い瞳に迎えられたところで、ノブハルは盛大に背中に汗を掻くことになった。ぼんやりとだが、寝る前のことを思い出したと言うのもその理由である。 「その、今更どうかと思いますが……もう少し、優しくしていただければと思います」  左側から聞こえてきた言葉に首をすくめたら、今度は右側から「正直な気持ちを受け取りました」という声が聞こえてきた。 「エリーゼより、私の方が魅力的だったと受け取れば良いんですよね?」  手を出したのがトウカからと考えれば、その指摘は間違っては居ないのだろう。ただこの場でそれを口にするのは、間違いなく命知らずと言うことになる。何しろ逃げ出そうにも、自分の分身がしっかりと握られていたのだ。ちょっと力を込められただけで、自分は男を捨てることになるだろう。 「女は、胸だけではないと思います。と言いますか、胸しか取り柄がないのも問題だと思いますけど」  しかも左側のエリーゼからは、トウカを挑発する言葉が聞こえてきたのだ。再び高まる緊張に、ノブハルは生きた心地がしなかったのだ。しかも目が覚めた途端、昨日と同じ衝動が体の中から湧き上がってきたのだ。その上隣の二人もまた、興奮からか息遣いが激しくなっていた。  絶対におかしな状況なのだが、脱出する術は今のノブハルには無い。それどころか、人質になった分身に力がこもり始めていた。昨日あれだけ頑張ったのに、まだまだ元気が余っているようだ。 「ところでエリーゼ」 「何でしょう、トウカ」  お互い呼び捨てになっているのは、関係が変わったことが理由なのだろう。ノブハルを挟んで睨み合った二人は、声を合わせて「勝負ですね」と口にした。 「ノブハル様もその気のようですから、どちらがいいのかを決めてもらいましょう」 「後で吠え面を書かないようにしてくださいね」  お互いを挑発しあった二人は、競い合うようにしてノブハルの分身を手で弄んだ。そしてどこで覚えたのかと聞きたいのだが、耳や胸に舌まで這わせてくれた。  もともと興奮している所に、二人がかりで攻められたのだ。今のノブハルに、抗う術が有るだろうか。それでも冷静な部分が残っていたノブハルは、絶対に間違えてはいけないと頭のなかで唱えていた。昨日はトウカから手を出したのだから、今日はエリーゼを優先しなくてはいけないのだと。そうすることでバランスを取れば、自分に対する風当たりも弱くなってくれるはずだ。  だから間違えては駄目だ、間違えては駄目だと唱えたノブハルは、なぜかトウカに覆い被さっていった。どうやら本能は、とても正直だったようだ。 「お兄ちゃんってさぁ」  それが、兄を見舞いに来た妹、リンの第一声だった。二の句が出てこないのは、それだけ呆れていると言うことになる。 「そりゃあ、二人共可愛らしいとは思いますけど。でも、二人同時だなんて」  ねえと夫の顔を見たフミカは、育て方を間違えたと嘆いてみせた。 「いくらなんでも、コレはやりすぎだ」  お節介を焼くとは言われたが、流石にこの事態は想定していなかった。自分の息子がまともなら、病院のベッドで少女二人を相手にするはずがないのだ。それどころか、どこだろうとこんな真似をするはずがないと思っていた。だからシュンスケは、「あの野郎」とトラスティの顔を思い出していた。 「だけど、どうする?」  声が外に漏れているから、中で何をしているのか手に取るように分かってしまう。どうやら大好きなお兄ちゃんは、賢者から鬼畜へとクラスチェンジをしてくれたようだ。 「流石に、真っ最中の所に訪ねていけないだろう」 「ですけど、病院でと言うのは問題ですよ……親としては、止めるべきだと思うんだけど……」  とは言え、この状態で入っていける程フミカも神経は図太くない。だから「困りましたね」と夫の顔を見たのだが、頼られたシュンスケにしたところで手に余ることだった。 「しばらくしたら終わるだろうから、時間を見計らって出直してくるのが無難だろう」 「ですよね、でもノブハルも大人になったんですね。あの子のことだから、一生童貞で終わるのかと心配していたんですよ」  いつかのリンと同じことを口走ったフミカに対して、シュンスケとリンは揃って頷いた。しかも、とても力強く。どうやら家族にとって、ノブハルの女性関係と言うのは心配の種だったようだ。 「それはいいんですけど。二人のことをどうします? 確か、このままだと1ヶ月もしないでズイコーに帰ることになるんですよね?」  ズイコー側の決定を持ち出したフミカに、シュンスケは困ったように眉を顰めた。 「正確に言うのなら、トウカ・クレメンタインは任務完了による帰国となる。だから、今の仕事をやめればここに残ることが出来るな。そのときの問題は、生活の基盤と保護者をどうするかだ。そしてエリーゼ・クライストスだが、彼女一人だけなら家で引き取ることも可能だ。手続きのためズイコーに戻る必要はあるが、引き取ること自体はさほど難しくない。だが、二人となると口実が……」  二人纏めてと考えたシュンスケは、「流石に難しい」と零した。 「できないことはないが、世間体の問題も有るな」  う〜んとシュンスケが悩んだところで、「その問題ですが」と後ろから声がかかった。誰かと思って振り返ったら、イチモンジ家次期当主のナギサが立っていた。 「幾つか問題を解決しようと思って来たんですが……また始めてしまったんですか」  はあっと息を吐き出したナギサは、「強力すぎ」とここに居ない相手を非難した。 「実は、昨日いただいたお見舞いの花が原因なんです。リンも見たと思うけど、赤いバラに似た花があっただろう? あれはパガニア特産の花で、強力な催淫作用があるらしいんだ。ノブハルの様子を見ると、少し強力過ぎだったようですね」  もう一度ため息を吐いたナギサに、「昨日のって」とリンが声を掛けた。 「それが原因だった訳?」  少し視線が厳しいのは、その後のことを思い出したのだろう。リンから目をそらしたナギサは、内情を全員にばらした。 「その場に居た全員、ただしトラスティ氏とロレンシアさんには効かなかったようだけどね。それ以外は、全員等しく被害を受けたと言うことだよ」  やれやれと頭を掻いたナギサは、「回収が必要です」とシュンスケの顔を見た。 「このままだと、同じことの繰り返しになると言う訳か」  今までの息子を考えれば、花の威力は強力無比としか言いようがない。絶対に放置できないと考えたシュンスケだったが、妻のフミカは違った考えを持っていたようだ。 「でしたら、私がこっそりと回収してきましょうか? どうせ今は、それどころじゃないと思いますから」  うふふと遠くを見るような目をしたのは、これからのことを考えたのだろうか。そんな母親の様子に気づき、「必要ないでしょ」とリンは冷たく言った。 「でもリンちゃん、きっと気分が変わると思うのよ」 「子供の前で、そう言う生々しい話をしないの!」  リンがきつく言い返した時、「お困りですか?」と諸悪の根源の声が聞こえてきた。全員が一斉に睨みつけた先には、アリッサとライスフィールを連れたトラスティが立っていた。 「ああ、しっかりと困っていますよ」  全員を代表したナギサの答えに、「お盛んだねぇ」とトラスティは呆れたようにノブハルの病室を見た。 「誰のせい、なんでしょうね」  リンと揃って睨みつけられ、トラスティは気まずそうにそっぽを向いた。 「一応責任らしきものは感じているんだけどね。まさか、あそこまでとは思っていなかったんだ」  だからと、トラスティはもう一人の女性の名を呼んだ。 「ロレンシア、回収は終わったかな?」 「はい、この通り」  その声と同時に現れたロレンシアは、ケースに入った赤い花を全員に見せた。 「こうしてみると、とても綺麗なんだけど……」  それが、あんな効果を発揮するとは。ため息を吐いたリンだったが、やはり母親は普通ではなかった。 「やっぱり、一本貰って行っていいかしら。寝室に飾っておこうかなって。ほら、とっても綺麗でしょう」  娘の冷たい視線に、慌ててフミカは言い訳をした。そんなやり取りを無視し、「これで落ち着くでしょう」と病室を見ながらトラスティは笑った。 「ええ、きっとそうなんだろうと思いますけど……」  トラスティを相手にしていると、疲れるのはどうしてだろう。少し脱力したナギサは、「逃げ道を用意しました」とシュンスケに向かって言った。 「二人には、奨学金と寮を用意しました。とりあえずエリーゼ・クライストスにはズイコー政府から保証金が出ます。そしてトウカ・クレメンタインにはこれまでの給与が支払われます。ですから、多少の贅沢は許されるでしょう。ハンスバッハの件が落ち着けば、生前分与の形でハンスバッハの資産も使えるようになります。と言う落とし所は用意しましたが、後は本人の希望次第と言うところですね」 「うちに、お部屋を用意しなくてもいいのかしら? おうちが賑やかになっていいと思うんだけど」 「それって、絶対おかしいから……」  母親のボケに反応したリンに、ナギサは少しだけ口元を歪めた。 「いずれにしても、本人たちに希望を聞いてからだと思うよ」 「まあ、そうなんだろうけど……」  そこで「ちっ」と舌打ちが聞こえたのは、けしてナギサの空耳ではないだろう。そしてそれこそが、ナギサの狙いでも有ったのだ。 「とりあえず、出直すことにしようか」  まだ終わりそうもない気配に、シュンスケは場所を変えることを提案した。そこでトラスティ達が居なくなったことに気がついた。 「ひょっとして、証拠隠滅のためだけに来た?」  リンの指摘に、「多分ね」とナギサも同意したのだった。  「くたばれプロム」とか「プロムを破壊する会」とか物騒な話はあったが、プロム・パーティーは卒業に華を添える行事には違いない。そこには卒業生が、お互いのパートナーを連れ着飾って参加するのだ。反対活動が活発なのは、寂しい思いをする者が沢山いる証拠でもある。  そして今年のプロム・パーティーの主役は、なんと言ってもイチモンジ家次期当主であるナギサだろう。美形と評判の彼が、誰を連れて現れるかと言うことが一番の興味の対象となっていた。普段の交友関係を考えれば、相手はリン・アオヤマ以外にありえないのだが、エルマーを代表する名家と考えれば、土壇場で大逆転があってもおかしくない。自分が誘われることを諦めている女性たちは、ナギサが誰を連れて現れるかを興味津々に待ったのである。  そんな中、会場となったパーティーホールの前に、一台の高級車が横付けされた。普段の通学では禁止されているが、プロムだけは場の雰囲気を盛り上げるため、スクールバス以外の交通機関も認められていた。  いよいよかと衆目監視の中、車のドアが開きナギサが現れた。今日のナギサは、黒のタキシードで固めていた。パートナーを連れている女性からも、その美しさにため息が出るほど様になっていた。そして車から降りたナギサが、いよいよパートナーをお披露目してくれる。僅かな緊張感の中、ナギサの手を取って現れたのは、ある意味期待はずれの相手だった。もちろん知名度では、今のところナギサを上回っている相手ではある。つまり、白とピンクのグラデーションのついたドレスを着たリンが現れたのだ。  相手という意味では期待はずれだが、リンの美しさに注目していた者たちは大いに盛り上がった。  普通なら、今年のトピックはこれで終わりと言うことになるはずだ。だが続いて現れた大型車に、「誰?」と会場に入りかけた者たちは立ち止まった。そして中から現れた男性に、全員がもう一度「誰?」と首を傾げたのだ。車から現れたのは、少し疲れた顔こそしているが、ナギサに勝るとも劣らない見た目をした青年だった。  「一体誰だ?」との視線を受けた男は、一人の女性の手を取った。そこで初めて、見ていた者たちは知らない顔の男が誰かと言うことを理解した。現れたのがエリーゼ・クライストスなら、エスコートしているのはノブハル・アオヤマでなければおかしかったのだ。ハイで学ぶ同級生たちは、兄弟喧嘩のきっかけとなった事件を知らされていたのだ。  そこでエリーゼが嬉しそうにするのは、場所を考えればおかしくはない。ノブハルの腕に自分の腕を絡めるのも、パーティーだと思えば不思議なことではないはずだ。赤とグリーンを基調としたドレスは、金色の髪に映えてなかなか似合っていた。  ただ不思議なのは、パートナーを連れているノブハルが、更に車の中に手を伸ばしたことだった。「一体何?」と全員が首を傾げたところで、黒い髪をした女性が手を取られて中から現れた。長い黒髪を結い上げた女性は、どう比べてもエリーゼよりスタイルが良かった。しかもそのスタイルを強調するかのように、濃紺のタイトなドレスを身にまとっていた。そして嬉しそうな顔をして、エリーゼの反対側に回って自分の腕をノブハルに絡めた。その時胸を押し付けるようにしたのは、間違いなく誰かと張り合っているのだろう。 「いやはや、ノブハルも大変だねぇ」  くっくと口元を押さえて笑ったナギサは、張り合う少女たちを見てもう一度口元を抑えて笑った。病院を出て以来、3人に肉体関係がないのは承知している。それでもノブハルが疲れているのは、二人からの強いプレッシャーのせいだろう。何しろエリーゼとトウカの二人は、ノブハルの家に日参していたのだ。 「トラスティさん、だったよね。仕返しに刺し殺してやりたくなったわ」  リンが刺々しいのは、大好きなお兄ちゃんとの時間を取られたからに他ならない。二人のお陰で、家に帰っても兄のベッドに潜り込むことができなくなってしまったのだ。図々しくも家に乗り込んできて、夜遅くまで帰らないし、朝は早朝から押しかけてくれる。ただ、のんきな母の、「うちに住んだら?」と言うお誘いだけは未然に食い止めていた。 「これで、ノブハルも女性の怖さを知ったと思うよ」 「ナギサは、私のことを怖いと思っているんだぁ」  そこで睨まれたナギサは、「怖いよ」とリンの顔を見ていった。 「ただノブハルの怖いとは違っているけどね。僕は、君にのめり込んでしまうのが怖いんだ」  「魅力的過ぎる」との臭いセリフに、リンは冷たい視線を返したのだった。 続く