機動兵器のある風景
Scene -52







 シエル・シエルの退院で、ようやく先の戦いが終結したことになるのだろう。それがドーレドーレを代表とする、円卓会議構成員に共通した思いだった。ただシエルの現役復帰に対しては、全員が非常に難しいという思いを感じていた。むしろ彼女たちに共通した考えは、シエルが引退を決意するという物だった。それはシエルを救うために無理をしたシンジですら、避け得ない事態だと理解していたことだった。

「シエル様が退院するというのに、浮かない顔をしていますね」

 ギムレー2号機の慣らしをかねて、シンジはチフユの相手をしていた。それが終わったところで、動きに切れがないとチフユが指摘したのである。浮かない顔と言うのは、珍しくはっきり分かるシンジの変化だった。

「良かったと、思っているんだけどね」

 否定ではないシンジの言葉に、「行きたかったんですか?」と敢えてチフユは外した答えを口にした。シンジのところには、ドーレドーレからしばらく遠慮して欲しいとの依頼が入っていたのは知っている。レベル7に上がったおかげで、チフユの所にも情報が下りてくるようになっていたのだ。
 そんなチフユに対して、シンジは「分からない」と解釈の難しい答えを返してきた。

「分からないですか?」
「僕自身、どうしたらいいのか分からないんだよ。
 元の通りというのは、相手のことを考えない勝手な言いぐさにしか思えないんだ。
 だからと言って、このまま引退をさせて良いのかという気持ちもある。
 でも、気持ちの問題は本人以外どうしようもないし……」

 どうして良いのか分からないと繰り返したシンジに、「難しいですね」とチフユはその考えに同意した。そして同意した上で、「気を遣いすぎるのは良くない」とアドバイスをした。

「最後に決めるのはシエル様なのは間違いないと思います。
 だからと言って遠慮して何も言わないのは、褒められたことではないと思いますよ。
 碇様が一番どうしたいのかを、伝えてあげることも大切ではないのでしょうか?」
「僕が一番したいことか……」

 ふっと考えたシンジに、「それがシエル様の価値になる」とチフユは付け足した。

「私もそうでしたけど、他人から価値を示して貰うのは大きいと思います。
 シンジ様に価値を示していただかなければ、本当に何処かで娼婦をしていたかも知れません。
 心が折れかけた時には、本当に何かに縋りたい気持ちになるんです」
「だけど、僕にそんな価値が示せるんだろうか」

 シエルと戦っていた時には、全てが無我夢中の状態だった。だが時間と共に冷静になると、途端に周りが見えてしまうのだ。そしてシエルの性格を考えた時、どのような選択をするのかも想像が付いてしまう。そんな相手に、いったい自分が何を示すことができるのか。さすがにそれが、全く浮かんできてくれなかったのだ。

「だから、碇様が一番したいことだと言ったんです。
 碇様の性格だと難しいかも知れませんが、好きなことを言っていいと思いますよ。
 そしてその方が、逆に同じ目線に立つと言う事になると思いますから」
「チフユさんの言う通り、もの凄く難しいと思っているよ……
 ただ、何をしたらいいのかの指針にはなった気がするよ」

 ありがとうと答えたシンジに、「どういたしまして」とチフユは笑った。そして小さな声で、「こちらも必死ですから」と付け加えた。

「必死って……実力の方は、順調に伸びていると思っているけど?
 これならば、もうすぐレベル8認定できると思っているけど……」
「ええっと、その方面ではなくてですね」

 否定はしてみたが、だからと言って正直に答えにくい話でもあった。まさかシンジに向かって、「自分が埋没しかけている」とは言いにくいのである。ただ現実として、シンジにはクレオと言う新しい餌が与えられてしまった。その餌のおかげで、自分へのシンジの関心が薄くなった気がしてならないのだ。だから埋没しないためにも、色々と役に立っておく必要がある。これもその一つだと、チフユは考えていたのだった。



 シンジの時と同様に、シエルもドーレドーレの屋敷へ運び込まれていた。そこでベッドにシエルを寝かせたドーレドーレは、ただ一人静かに彼女の目覚めを待つことにした。

「花瓶に花を入れて持ってきた方が良かったかしら?」

 色気とは無縁と言う事もあり、シエルの部屋は質素そのものだった。シエルを寝かせたベッドにしても、病院のベッドと大差がなかったのだ。
 そして部屋を見渡してみても、花とか絵とか華やかに部屋を飾るようなものは見つからなかった。そこにあったのは、剣とか武具という、ある意味ラウンズのトップには相応しいのだろうが、女性としてはやはり物足りないとドーレドーレは思ってしまった。

 そして部屋に飾り気がないというのは、シエルのすべてが戦いに向けられていたという意味でもある。だからこそラウンズ筆頭を守ってこられたのだが、その結末がこれだと思うと、どうしようもない寂しさを感じてしまったのだ。

「シエル、私は引退することを決めました。
 あなたが目を覚ました時、いったいどんな決断をするのでしょうね」

 トロルスに犯された時から、シエルの記憶は繋がっていないはずだ。目覚めたからと言って、すぐに事情を理解できるとも思えなかった。そして身の振り方を考えるのは、全ての事情を理解してからのことになるのだろう。だから引退を決めたドーレドーレも、しばらくはシエルのことを待つことにした。ドーレドーレは、シエルが身の振り方を決めてから、引退を打ち明けようと考えたのだ。シエルの判断を縛ら無いようにと言う、ドーレドーレの配慮となっていた。

 しばらく静かに見守ていたら、シエルが小さく身じろぎを始めた。医師の言う睡眠薬の効果が切れた合図に、そろそろ目を覚ますのかとドーレドーレは深呼吸をして気を落ち着けた。たとえこの先どうなろうと、やはりシエルが無事返ってきたのは嬉しいと思っていた。

 そうしてドーレドーレが気を落ち着けていた時、今まで閉じられていたシエルの目がぱっちりと開かれた。ただ開かれはしたが、すぐに動き出す気配は見られなかった。ただ目だけは、あたりを探るようにきょろきょろと動いていた。
 そして目が開かれてから5分経過した時、シエルは初めて「ここは」と小さく呟いた。誰に向けた問いかけなのかは分からないが、その答えをドーレドーレは引き受けた。

「ここは、私の屋敷にあるあなたの部屋ですよ」
「私の部屋ですか……確か、私はトロルスの侵食を受けたと思ったのですが。
 あれは、私が見た夢の出来事なのでしょうか?」

 声から相手を知ったシエルは、夢を居ていたのかと呟いた。トロルスに侵食を受けた以上、生きてここにいるはずがないのである。だからこそ“夢”を持ち出したのだが、それをドーレドーレは静かに否定した。精神的なことを考えれば、夢でごまかすのも一つの手には違いないのだろう。だがあまりにも大きな出来事となった今、すぐにばれてしまう嘘でもあったのだ。

「いえ、残念ながら夢などではありません。
 あなたはトロルスの侵食を受けたのは間違い有りませんよ」
「では、何故私が生きているのでしょうか?
 トロルスに侵食された場合、被害拡大を防ぐために処理されるのが規定だったはずです」

 冷静に見えるのは、まだ事情を掴めていないせいなのだろうか。淡々と語るシエルに、「何も覚えていないのですか」とドーレドーレは尋ねた。トロルスに侵食を受けた記憶があるのだから、どこまで記憶が繋がっているのかを確認したのである。そんなドーレドーレの疑問に、シエルの答えはとても曖昧なものとなっていた。

「どこまでが本当のことか記憶が定かでないのです。
 シグナムに寄生したトロルスは、ニンフの声で私に色々と語りかけてきました。
 そこから先が特に曖昧なのですが、私はブリュンヒルデとジークリンデを攻撃してしまいました。
 そして出てきたカノン達も、我が愛剣で切り捨てたという記憶があります。
 ただ、なぜそのようなことをしたのか覚えていません。
 ただ、それがとても必要なことだという記憶があっただけなんです」

 その事実が本当かどうかは説明せず、ドーレドーレは話の先を促した。

「その先は……何故かシンジと戦ったという記憶があります。
 とても強くなったシンジとの戦いに、私は熱狂していました。
 だからこそ、私は夢と現実の区別が付かなくなってしまいました」
「シンジ様との戦いで、熱狂していたのですか?」
「はい、間違いなく私は熱狂していたと思います。
 たぶん、私の持てる全てを出して戦いたいという思いがあったのだと思います」

 淡々と語ったシエルは、もう一度ドーレドーレに自分が生きている理由を尋ねた。トロルスに侵食を受けた機動兵器への対処は、今更変更される様なものではなかったのだ。特に自分のようなラウンズが侵食されたとなると、システムの壊滅的打撃に繋がってくるのだ。もしも支援艦2隻を落としたのが現実なら、ドーレドーレが目の前に居るはずもなかったのである。

「トロルスに侵食されたあなたを、シンジ様が救ってくれたんですよ。
 最後はあなたの動きを止め、フェリスがギムレー共々シグナムを破壊してくれました。
 そこであなたたちを回収して、“除染”と言う処理が試されました。
 除染については、テラで実績があると言うことで採用された技術です。
 そして除染がうまく行ったので、あなたがこうして目を覚ますことになりました」
「シンジが……ですか?
 ですがシンジは、テラにいたはずだと思いますが。
 手順が正しければ、組紐による移動もロックされていたはずです。
 それにエステル様も、アースガルズへの移動を許すとは思えません。
 テラにいたシンジが、私のところに来られるはずはないと思うのですが?」

 寄生型トロルスへの対処は、ヴァルキュリアもブレイブスも同じ教育を受けていた。その教育に従えば、エステルは第一にシンジの保護を考えなければいけなかった。それを考えれば、テラにいたシンジが戻ってこられるはずがないのだ。自分達の常識に合わない事実に、シンジが自分を助けたというドーレドーレの言葉を、シエルは信じることが出来なかった。
 シエルの言葉に、ドーレドーレはそうですねと相づちを打った。そして相づちを打ちながら、「私たちの常識ではそうなりますね」と付け加えた。

「シンジが、止めるエステルを押し切ったと聞いています。
 シンジにはシンジの事情もあったと言う話ですけど、詳しいことは聞かされていません。
 ただそのお陰で、私たちは全滅の危機を免れることになりました。
 そして、寄生型トロルスへの対処も新しい方法が見つかりました」
「やはり、私はシンジと戦ったのですか……」
「ええ、これまでの常識を越えた、とても凄まじい戦いでしたね」

 凄かったですよと言うドーレドーレに、「そうですか」とシエルは小さく呟いた。だがそれ以上の言葉は、いくら待ってもシエルの口から発せられなかった。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは、ドーレドーレの方だった。シンジとの戦いには触れず、シエルを救った除染処理のことへ話を向けたのだ。

「あなたが復帰したことで、除染技術が確立したことになります。
 これで、寄生型トロルスへの対策に、ブレイブスを救うという選択肢が加わりました。
 それは簡単な事ではないのでしょうが、新しい道が開けたと思いますよ」

 だがドーレドーレの言葉に、シエルは何も答えを返さなかった。何かを考えるように、ずっと沈黙を続けていた。そんなシエルの様子に、焦ってはいけないとドーレドーレは考えた。色々なことを受け入れるには、まだ時間が必要に違いない。だからドーレドーレは、シエルを一人にすることにした。一人になって色々と考えることで、頭の中を整理させようと考えたのだ。そして多くのことが起きたのは、ドーレドーレも例外ではなかったのだ。

「シエル、私はこれからヴァルキュリアとしての仕事に戻ることにします。
 あなたにはニンフの使用権限を与えますから、知りたいことがあればニンフに聞いてください。
 それから私に用があるときは、遠慮無く声を掛けてくれて良いのですよ。
 すぐにとは言えませんけど、出来るだけ早く顔を出すようにします」

 ドーレドーレの言葉に、シエルから返ってきたのは「ありがとうございます」と言う感謝の言葉だった。だがそれ以上の言葉は、結局シエルから発せられることはなかった。しばらくその場で待ったドーレドーレだったが、さすがに諦めてシエルの部屋を出ることにした。

「それでは、ゆっくりと体を休めてください」

 考え込んでいたのか、結局シエルは何も答えることをしなかった。そしてドーレドーレも、それ以上声を掛けずにシエルの部屋を出て行ったのだった。



 それからドーレドーレは、執務中もニンフを通してシエルの様子に注意を払い続けた。そんなドーレドーレに対して、ニンフは「変化はありません」と答え続けた。

「最初に皆様の様子を尋ねられたのですが、
 その後は何度もトロルスに汚染されてからの記録を見直されています。
 ただ、見せて欲しいと仰有るだけで、それ以外に何も口にされていません」
「それは、シンジ様との戦いを確認していると言うことですか?」

 もしもそうであれば、戦士としてのシエルが残っているという意味になる。だがそれを期待したドーレドーレに、ニンフの答えは芳しいものではなかった。

「特にどこと言うことはなく、ディータ様に攻撃したところから繰り返されています。
 何度も何度も、もう20回はご覧になっています」
「シエルは、何を考えているのでしょうね?」

 それをニンフに尋ねたところで、まともな答えを期待できるはずがなかった。それでも疑問を口にしたドーレドーレに、「残念ながら」と言う予定していた答えがニンフから返された。

「ただ、食事は取られているので心配はいらないと思われますが……」
「だと良いのですが……」

 不安はあっても、ドーレドーレに出来るのは待つことしかなかった。今の状態でシエルの所に行ったとしても、何か答えが返ってくるとは思えなかったのだ。

 そしてシエルが目を覚ましてから5日後、ドーレドーレはシエルから「会いたい」と言う連絡を受け取った。待ち望んだ変化に、ドーレドーレはとる物もとりあえず駆けつけることにした。だが扉を開いたところで、ドーレドーレは深い失望を感じてしまった。

「ドーレドーレ様、お待ちしていました」

 ドーレドーレを迎えたのは、初めて見るたシエルの穏やかな顔だった。そして格好もまた、女性らしいストライプの入ったピンクのワンピース姿だった。
 ようこそをドーレドーレを迎えたシエルは、部屋の真ん中にあった椅子へと案内をした。そして冷蔵庫から冷たい飲み物を用意し、ドーレドーレの前に置いた。こういった一つ一つの行いも、今までのシエルには無かった行動だった。

「それでシエル、私にどういう話があるのですか?」
「はい、私の身の振り方についてご相談したいと思いました」
「相談、なのですか?」

 顔を見れば、すでに結論が出ているようにしか見えなかった。それに驚いたドーレドーレに、シエルははにかんだような笑みを返した。

「私としては答えは出ています。
 ただ、あなたのカヴァリエーレである以上、身勝手は許されないと思っています」
「だから、相談と言うことなのですね?」

 分かりましたと頷いたドーレドーレは、それでとシエルに先を促した。

「とても勝手な言い分だとは思っていますが、引退しようと考えています」
「あなたは、まだ24でしたね」

 引退するには早いという意味で、ドーレドーレはシエルの年齢を持ち出した。その指摘に頷いたシエルは、だから勝手な言い分なのだと繰り返したのだった。

「本来ならば、カヴァリエーレとしてドーレドーレ様配下を導く義務があると思っています。
 ですが、どう自分を奮い立たせようとしても、戦士としての気力が湧いてくれないのです。
 トロルスに犯されてからの戦いも見てみましたが、それでも気力が湧いてくれないのです。
 そのような状態では、もはやカヴァリエーレとしての責務を果たすことが出来るとは思えません」
「だから、引退を決意したと言うことですね?」
「そうですね、もはや私は目標ではなくなったと思いますから」

 それが誰にとってのことを言っているのか、シエルは口にしなかったのだが、ドーレドーレには理解できた気がしていた。だからこそ、引退するというシエルを止めることが出来なくなっていた。

「シエル、引退を考え直すつもりはありませんか?」
「ドーレドーレ様の許可がなければ、引退できなことは承知しています。
 ですが、私から引退を撤回するつもりはありません」

 撤回しないというシエルの口調は、とても柔らかなものだった。その受け答えもまた、決意を覆すことの難しさをドーレドーレに示していた。芯となるものが消えてしまった、ドーレドーレにはそう感じられたのだ。

「引退の意志が固いのは分かりました。
 ただ、あなたの後を誰に継いで貰うのかが難しいですね。
 順番から行けばディータなのですが、実力的にどうしても見劣りがしてしまいます」
「ウーノが資格を得るまでの繋ぎと考えればよろしいのではないでしょうか?
 ウーノならば、立派にカヴァリエーレを努めることが出来ると思います」

 ドーレドーレ配下で、次のエースと言われるのがウーノだった。それをとってみれば、確かにシエルの言う通り、少しだけ時間を繋げば問題はないのだろう。筆頭の座をハイドラに譲ることを考えれば、多少の戦力低下も問題になることはないはずだった。そこには、自分もまた同じことを感じているという事情が大きかった。

「本来なら、24で引退することは認められないでしょう。
 ですが、この私もあなたを引き留める言葉を持っていないのが現実です。
 それどころか、私も引退することを考えているぐらいです」
「そのことについては、申し訳ないと思っています」

 立ち上がって頭を下げたところは、今までのシエルの行動そのものだった。それを許したドーレドーレは、「それで?」と引退の方法を尋ねることにした。

「私は、マニゴルド様に種をいただこうと思っています。
 シエルは、誰の種を貰うことにするのですか?」

 そのあたりは、女性ラウンズの常識となった引退理由でもある。引責と言う事ではないのだから、引退理由もありふれた物の方が良いとドーレドーレは考えたのである。
 だがシエルから返ってきたのは、相手を決められないという予想外の答えだった。

「そもそも、私がそのような真っ当な引退方法をとって良いのかに疑問があります。
 役目から逃げ出すのに、勇者の子種を貰うことへの抵抗もあります」
「自分を負かした相手に抱かれると言っていたのですから、おかしなことはないと思いますよ?
 それに、あなたは5年もの間、筆頭として重責を果たしてくれたと思います。
 ですから、逃げ出したなどと考える必要はないと思いますよ。
 意中の相手に子種を貰うのは、あなたに許された正当な権利なのですよ」
「ですが、シンジに受け入れて貰えるでしょうか?」

 それが不安だというシエルに、確かめてみればいいとドーレドーレはアドバイスをした。

「自分を負かしたのだから、ちゃんと責任をとれでも良いですね」
「さすがに、それを主張するのはどうかと思いますが……」

 少し顔を赤らめたシエルに、冗談だとドーレドーレは笑った。そして真面目な顔をして、普通にお願いすればいいのだと口にした。

「まず正面から相手の顔を見て、自分の気持ちを伝えることが重要だと思いますよ」
「では、シンジに都合を聞くところから始めてみます」

 顔を赤らめたままのシエルに、そうですねとドーレドーレは微笑を返したのだった。



 シエル・シエルの引退は、すぐに円卓会議のメンバーに広がった。初めから難しいと思っていたのが、その通り難しかったという結論なのである。引退を惜しむ気持ちはあっても、仕方がないという思いが皆の胸にあったのである。
 同時にドーレドーレの引退も伝えられたことは、トロルスとの戦いが非情な物であるのを再確認させたのだった。僅か3千が襲来した結果が、ヴァルキュリアとラウンズトップの引退を導き、一人のヴァルキュリアが引責交代をすることになったのだ。襲来規模に比べて、引き起こされた損失の大きさは釣り合いがとれない物だった。

 そして騒動の一端を担ったシンジは、新しい主であるアヤセに呼び出されていた。この二人もまた、戦いの影響を受けていた口だった。双方わだかまりがないはずなのに、未だ関係が結ばれていなかったのだ。
 シンジを呼び出したアヤセは、向かいのソファーに座らせドーレドーレから伝言を預かっていると伝えた。

「それで、ドーレドーレ様はなんと?」
「シエル様を受け入れてあげて欲しいとのことですよ」

 それは、引退に際して子種を与えるという意味を指していた。それをわざわざシンジに伝えたと言うことは、まだシエルに引っかかりがあると言う意味でもあった。そしてシンジの迷いが、ドーレドーレに伝わった結果でもあった。

「男性ラウンズに選択権がありますから、お断りをしても責められることはありませんよ。
 ただその場合は、マニゴルド様かレグルス様が相手になるのでしょうね」

 シンジの顔を見れば、まだ迷いがあるのを見て取ることが出来た。それもあって、アヤセは逃げ道を塞ぐことを言ったのである。

「シンジ様には、シエル様に対する責任があると思いますよ。
 そしてシンジ様には、シエル様を自分の物にする権利があると思います」
「私の物にする権利ですか……」

 そう言われても、受け入れて良いのかシンジにはまだ踏ん切りがついていなかった。それもあって、ニンフからの連絡にも回答を保留していたと言う事情がある。だからこそ、ドーレドーレからメッセージが届いたのだろう。動き出した時は、シンジに立ち止まることを許さないかのようだった。

「たとえヴァルキュリアでも、強制できることではないと思っています。
 それでも、シンジ様にはけじめを付けていただきたいと思っています」
「けじめでしょうか……」

 はいと頷いたアヤセは、けじめですと繰り返した。

「エステルの命令に背いてまでシエル様を助けたのですよ。
 でしたら、最後まで責任を持つのもシンジ様の役目だと思います。
 きっとエステルも、シンジ様に対して期待をしているのではありませんか?」
「エステル様が……」
「うじうじしているのは、格好良くありませんからね。
 シンジ様が、格好良く「ラウンズのトップに立つ!」と宣言されるのを期待していると思いますよ。
 シエル様を抱くと言うことは、それを認めることになると思いますよ」
「ですが、そうなるとアヤセ様がヴァルキュリアの筆頭になることになりますよ?」

 いいんですかと聞かれたアヤセは、「その時はその時です!」といささか無責任に言い放った。

「もっとも、経験も実績もないヴァルキュリアを筆頭にする度胸があればですけどね。
 それにこう言ってはなんですけど、私はエステルより劣っていましたからね」

 だから自分はバックアップに回ることになった。そう主張したアヤセに、思わずシンジは口元を歪めてしまった。これまで短い時間付き合ってきた感想では、アヤセの方が真面目に仕事をこなしているように見えたのだ。そして能力的に言っても、エステルに劣っているようには見えなかった。
 だがアヤセは、事実は事実だと自分の能力を評価した。

「もしも私がヴァルキュリアでしたら、シンジ様を配下に加えていなかったでしょうね。
 そして真面目に仕事をしていたでしょうけど、弱小であることに変わりはなかったでしょう。
 誰もシンジ様を引き取らなかったというのが、私たちの常識でもあったのですよ。
 その常識を打ち破ることが出来たのは、間違いなくエステルの資質だと思いますよ。
 そしてシンジ様を配下にしていなければ、今頃システムは壊滅していましたね。
 それも含めて、エステルの功績だと私は思っていますよ。
 彼女は、この時代に求められてヴァルキュリアになったのだと思っています」
「ですが、エステル様は私のせいでヴァルキュリアの座から追われました」
「それがシンジ様の後悔であり、私たちの間にあるわだかまりだと理解しています。
 エステルを忘れさせて見せますと大口を叩きましたが、一番拘っているのは私なのかも知れませんね」

 ふっと口元を緩めたアヤセは、内緒の話だと少し声を潜めた。

「まだ内々の話ですけど、けじめのために祭を開けないかとハイドラ様に聞かれています。
 今回の出来事もそうですけど、前回からラウンズが3名も引退していますからね。
 ドーレドーレ様も引退されると言うことなので、けじめが必要だと言うことですよ。
 何とかして、ヴァルキュリア筆頭を逃げたいというお気持ちがあるんでしょうけどね」
「ますます、アヤセ様は大丈夫なのですか?」
「それは、シンジ様が筆頭になるという意味と受け取って良いのですね?」

 シンジの質問は、アヤセに対して筆頭に立つ覚悟があるのかと言う物である。それを聞いたと言うことは、自分も筆頭に立つという意思表示と言うことになる。それを確認したアヤセに、シンジは負けるつもりで戦っていないと答えた。だから場合によっては、全勝することもあり得ると言うのだ。

「それに、シエル様と決着を付けることが出来ませんでした。
 だったら、シエル様以外に負けるわけにはいかないと思っています。
 少なくとも、シエル様がした54連勝以上を目指そうと思っています」

 シンジの言葉に、アヤセは小さくため息をついた。そして「まだまだ小さいですね」とシンジの決意にけちを付けた。

「そこは、二度と誰にも負けないと言う所ではありませんか?
 おそらく引退まで20年以上あると思いますけど、無敗で引退すると私に約束してください」
「さすがに、そこまで約束するのは……」

 この1、2年ならいざ知らず、引退までと言われるとさすがにどうなっているのか想像がつかない。だから負けてもらえないかと交渉したのだが、なぜか「エステルに言いつけますよ」と言い返されてしまった。

「なぜ、そこでエステル様が出てくるのですか?」
「シンジ様が、今でも一番大好きな相手だからですよ。
 ヴァルキュリアの権限で、予備役とは連絡することが出来るんです。
 だからエステルに、シンジ様が情けないことを言っていると告げ口も出来るんです!」

 どうですと少し控えめな胸を張ったアヤセに、シンジは「参りました」と降参の意を示した。そして頭を掻きながら、立ち上がってアヤセに近づいた。

「エステル様に告げ口されないよう、口封じをさせていただきます」

 そう耳元で囁かれ、アヤセの顔は一瞬にして紅潮した。心拍呼吸とも上がっているところを見ると、再びプチパニックを起こしたようだ。これで口づけされたら、初日に失神した二の舞になってしまうだろう。と言うか、すでにアヤセは何も考えられなくなっていたのだが、そのあたりはシンジも心得た物だった。そのあたりは、似たようなことをフェリスで経験しているというのも大きかった。

「今日は逃がしませんからね」

 そう耳元で告げたシンジは、頭から湯気を出しているアヤセを抱き上げたのだった。ヴァルキュリアにとっての記念すべきことが、書斎のソファーであってはいけないのだと。あわわと完全に舞い上がったアヤセを、シンジは寝室へと運んでいったのだった。



 行ってらっしゃいとアヤセに手を振られ、私服のシンジは約束の待ち合わせ場所へと向かった。本来ラウンズ同士の話し合いなのだから、制服こそ相応しい格好なのだろう。だがシエルに対して中央の紫禁城と言うホテルを指定したこともあり、周りから浮かないように私服を着ることにしたのである。

 どこかオリエンタルな香りのするロビーに、時間通りにシエルは現れた。している格好は初めて見るようなフェミニンな格好なのだが、時間に正確なところはシエルらしさの残った所だった。
 ロビーのソファにシンジを見つけたシエルは、少し小走りで近づいてきた。そして立ち上がったシンジに向かって、両手を前に揃え腰を45度折ったお辞儀をした。

「今日は、私のために時間をいただきありがとうございます」

 すでに引退が認められていることもあり、シエルの立場は単なるブレイブスとなっていた。その結果、立場という意味ではシンジの方が遙かに上になっていた。そしてカヴァリエーレを引退したため、電子妖精の貸与も停止されていた。それもあって、いつもは五月蠅いニンフの攻撃も今日はなかった。
 今日のシエルは、オレンジに見える髪をストレートの髪型にまとめていた。そして淡い緑色をした、パンツルックと言う出で立ちだった。

「とりあえず、場所を変えることにしましょうか」

 一方のシンジは、上下をベージュ系のジャケットでまとめていた。そのあたりは、ホテルの中で浮かないという配慮からの物だった。もっとも時の人と言うこともあり、周りからはしっかりと注目を集めていたのである。当然シンジも、周りから向けられる視線に気がついていた。
 シエルの背中に手を当てたシンジは、あらかじめ確保しておいた部屋に行くことにした。電子妖精を使えば簡単なのだが、一般人を前に目立つ真似はやめようと通常の手段を用いることにした。

 クラッシックなエレベータを出ると、少し薄暗い通路が広がっていた。そしてそのまま少し歩くと、一人の女性がドアの前で立っていた。その女性はシンジの顔を認めると、ご主人様と頭を下げて扉を開いた。そして更に奥の扉を開いた女性は、「お飲み物を用意します」と一緒に部屋に入ってきた。
 その女性を気にすることなく、シンジはシエルを備え付けのソファーに座らせた。少し低めのソファーなのだが、パンツスタイルなら気にすることはないと思ったのだ。

「それで、お話というのはなんでしょうか?」

 部屋付きのメイドが出て行くのを見計らい、シンジは呼び出された用件を尋ねた。そのシンジの言葉に立ち上がったシエルは、シンジに向かって90度腰を折って頭を下げた。

「シンジ様に、助けていただいたことを感謝いたします。
 そして多大なるご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします」
「全部、僕の勝手でやったことです。
 シエル様……さんに迷惑を掛けられたなどと思っていませんよ。
 だから頭を上げて、もう一度座ってくれませんか?」

 それでもシエルは頭を上げようとはしなかった。それに落胆したシンジは、少し強い口調で「シエル」と呼びかけた。

「シエルにはシエルの、そして僕には僕の思いがあります。
 それを理解して話が出来ないのなら、このまま僕は帰ることにしますよ」
「申し訳ありません!」

 ようやく顔を上げたシエルだったが、そこにはシンジの知るかつての面影は残っていなかった。それを見て、改めて自分はここでも大切な物を失ったのだとシンジは知らされた。シンジの憧れた、颯爽としたシエルはどこにも居なくなっていたのだ。それを思い知らされたシンジは、自分の思いを告げることを諦めたのだった。

「それで、お話というのはなんですか?」
「勝手な言い分で申し訳ありませんが、シンジ様の子種をいただきたいのです」

 特に驚くこともない、初めから予定していたお願いのはずだった。だが改めて今のシエルに言われたことは、シンジの感じた喪失感を強くした。だがシンジは、そんな思いをおくびにも出さず、「分かりました」とシエルに答えた。

「それで、体の方は準備できていますか?」
「はい、受胎期間だと告知を受けています」

 少し頬を染めたシエルに、「これは誰なのだろう」とシンジは覚めた物を感じていた。だがそれも務めと心の中で区切りを付け、シンジはシエルの隣に移動した。

「その、初めてなので優しくしてください」

 今更のシエルの言葉に、シンジは怒りではなく泣きたい気持ちになっていた。ほんの2ヶ月前までは、シエルの初めての男になるのは勲章とも言える物のはずだった。それが目的とばかりは言えないが、シンジは目の前の高い壁を越えようと努力を続けていたはずだった。
 だが現実は、シンジが手に入れた物は名誉ではなくどうしようもない喪失感だった。どうしてこんなことになってしまったのか、シンジは心の中で涙を流しながらシエルを抱いたのだった。







続く

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