機動兵器のある風景
Scene -49
人体からのトロルスの影響を排除することを、アースガルズでは“除染”と呼んでいた。だが除染の技術は、未だアースガルズでも確立された物とはなっていなかった。そのあたり、過去機動兵器が汚染されたときには、“処理”が続けられたのが大きな理由となっていた。そして“処理”をしなければいけないほど、寄生型トロルスの扱いは厄介だったのである。
その意味で、今回の事件は寄生型トロルス対策に、新しいページを記すことにもなっていた。汚染されたのが筆頭と言うのは、その意味の前ではおまけに等しい物だった。
そしてもう一人の対象者について、除染が完了したとの知らせがアヤセに入った。とる物もとりあえずエリア0に向かったアヤセに、迎えに出たオズマと言う研究員は準備なら整っていると説明した。
「すでに、除染槽からは前日に運び出しています。
今は、最後のチェックを行っているところです」
「それで、除染の結果はどうでしたか?」
説明を聞くアヤセにしてみれば、失敗というのは初めからあり得ない答えだった。それでも確認したのは、一種の儀式に近いところがあった。
そして結果を尋ねたアヤセに対し、オズマは「成功です」と力強く答えた。
「特に、シンジ様の場合はトロルスの細胞が早い段階で死滅しています。
このあたりは、接触時間の短さが関係していると思われます。
もしも次に同じことが有れば、1週間程度で除染は完了するでしょう」
成果という意味で、オズマは次を引き合いに出した。だがアヤセにしてれば、二度と同じことは起きて欲しくないのが正直な気持ちだった。だから少し冷たい視線をオズマに向け、「はしゃぐのは良くありませんよ」と注意をした。
「大切なラウンズを、いつもいつも危険に晒して良いわけがありません。
それで、シエル様はいつ頃除染が完了するのですか?」
「確認を含めて、あと1週間というところでしょうか。
その間に碇様の経過を観察し、除染確認に反映したいと思っております」
これで、ようやくラウンズが元通りに復帰することになる。トロルスの襲撃まで時間があっても、安心という意味では非常に大きな意味を持っていた。そしてアヤセにしてみれば、ようやく配下の統制がとれることになる。ある程度フェリスを手なずけることには成功したが、統制という意味ではさすがに無理があったのだ。
「それで、シンジ様にはいつ逢わせていただけますか?」
「もう少し、そうですね、30分ほどお待ちいただけますでしょうか?
麻酔の効果が切れるのが、ちょうどその頃になるかと思います」
「問題は、今だと目が覚めていないと言う事ですか?」
他に問題があるのなら我慢するが、寝ていることが理由なら我慢しないと言うのである。優しく言われているのだが、オズマは言葉の底に潜む高圧的な物を感じ取っていた。
「10分で準備をさせます。
それでよろしいでしょうか?」
それにびびって、オズマは少し焦り気味に時間の短縮を持ち出した。
「あら、急かせるつもりはありませんでしたよ。
でも、お気持ちは有り難くいただくことにしますわ」
ほほほと笑ったアヤセは、次にどこに行けばいいのかと尋ねた。その答えに対して、逆に「ご指定の場所はありますか?」とオズマは聞き返した。
「それは、都合の良い場所で良いと言う意味と受け取って良いのですね?」
「除染も完了しておりますので、連れて帰っていただいて結構です。
従って、アヤセ様のご指定の場所に準備致します」
それを聞いたアヤセは、すぐさまラピスラズリを呼び出した。これからのことを含め、どこに運ぶのが一番良いのかを確認する必要があったのだ。こういう時に、気配りという名の点数稼ぎをしておく必要がある。
「ラピス、フェリスは今どうしています?」
「チフユさんとトレーニングをしていますね。
まあフェリスでしたら、すぐに切り上げて馳せ参じると思いますよ」
二人きりというのも魅力的だが、後々のことを考えると、フェリス達にごまをすっておいた方が好ましい。だからアヤセは、下にある自分の屋敷に運ぶことにした。
「でしたら、地上にある私の屋敷に運んでいただけますか?
詳しい場所については、ユーピテルに指定しておきます」
「畏まりました、では今から7分後に指定の場所へ送り届けます」
一刻でも早くとオズマは答えたのだが、敢えてアヤセは時間を延ばすことにした。そのあたりは、微妙な女心が関係していたのだ。
「20分後にしていただけますか?」
「20分後で、よろしいのですね?」
ゆっくりと確認したオズマに、「準備が必要ですから」とアヤセは答えた。そしてラピスラズリに対して、「すぐにフェリスに伝えるように」と命じた。
「それでは、私は受入準備に戻ることに致します」
「では、確実に19分後に送り届けます」
頭を下げたオズマを残し、アヤセはエリア0から屋敷へと跳躍した。これからの19分、シャワーは無理でも着替えぐらいは済ませておく必要があったのだ。
「ところで、シンジの部屋は綺麗にしてあるのですよね?」
「昨日、掃除の者を入れています!」
ばっちりですと答えるラピスラズリに、良くできましたとお褒めの言葉をアヤセは掛けたのだった。
アヤセからの連絡を受けたとき、フェリスはトレーニングセンターのエリアSで、チフユと仲良くチャンバラをしているところだった。本来カヴァリエーレ代行なのだから、配下のブレイブス達の指導に当たらなければならない。だが苦手と言うこともあってチフユの指導にかこつけ、チャンバラを続けていたのだ。そのおかげとでも言うのか、チフユの実力が向上したのと、更にフェリスが強くなったという効能があった。
「それは本当かっ!!」
チャンバラをしていたら、緊急連絡ですとラピスラズリが割り込んできた。そこで知らされたのが、間もなくシンジが帰ってくるという情報である。シンジに対する思いを考えれば、フェリスが叫んだのも当然のことだった。
「それで、シンジ様はいつ帰ってくるのだ?
20分後だとっ!!」
ラピスラズリから知らされた時刻は、フェリスにとって衝撃と言って良いものだった。何が一番の衝撃かというと、たかが20分では身を清めることが出来ないことだった。今のままでは、汗臭いままシンジの前に出なくてはいけなくなる。
「すまないチフユ、すぐに屋敷に戻ることにするぞ。
シンジ様が、間もなく屋敷に戻られるそうだ!」
「シンジ様がですか!」
この所ろくなことがなかったチフユにとって、シンジの帰還は最大のニュースと言って良いだろう。持っていた刀を鞘に収め、「行きましょう」とフェリスに近寄った。ここから屋敷までは、組紐を使わなければ1時間以上掛かってしまう。フェリスもそれを理解しているから、チフユ共々移動するようラピスラズリに命じたのである。その時点で、二人に残された時間は19分を切っていた。
僅か19分で何が出来るかというと、ほとんど何も出来ないというのが正直なところだろう。それでもトレーニングウエアではだめだと、二人は慌てて制服に着替えた。可愛らしい格好は、汗臭さがすべてを台無しにしてしまう。ならば多少汗が匂ってもおかしくない、制服で誤魔化すことを考えたのだ。もちろん制汗剤を使って、汗の臭いを誤魔化すのも忘れていなかった。
結果的に二人の努力は、10秒差で報われることとなった。アヤセから指定された時刻の10秒前にシンジの部屋に滑り込んだ二人は、「早かったですね」と言うアヤセに迎えられることになった。
「あと5秒後に、シンジ様が運ばれてきますよ。
先に行っておきますが、目を覚まされるまでには10分ほど時間が掛かりますからね」
さあと言ったところで、ぎしっとベッドが軋む音がした。組紐を使った空間移動で、シンジが運ばれてきた合図だった。ベッドに目を向けると、貫頭着を着た、記憶にあるより肌の色が白くなったシンジがそこに眠っていた。その寝顔を穴が空くほど見つめてから、フェリスはアヤセに恐る恐る結果を尋ねてきた。
「アヤセ様、シンジ様はもう大丈夫なのか!?」
「大丈夫と保証が出たから、連れてこられたのですよ。
トロルスの影響は、もうどこにも残っていませんよ」
当たり前のことを、当たり前にアヤセは説明した。冷静に考えれば、大丈夫だから連れて帰ってきたと普通は気づくはずなのだ。だが冷静ではないフェリスには、シンジが帰ってきたことがすべてだった。
今にも飛びかかりそうなフェリスに待ったを掛けたアヤセは、そこで「くん」と鼻を鳴らした。そして漂う匂いに、ラピスラズリに命じて自分用の消臭剤を持ってこさせた。焦っていたせいか、二人とも汗と芳香剤が絶妙に異臭となっていた。
「無理に、汗の臭いは隠さない方が良いですよ。
シンジ様なら、トレーニングを続けていたことを褒めてくださいますからね」
そう言ってアヤセは、二人に消臭剤をたっぷりと振りかけた。これできつかった香水の匂いも、かなり緩和されることになった。
それからアヤセは二人の周りをぐるりと回り、おかしな所がないかをチェックした。
「急いでいた割には、ちゃんとしていますね。
それからフェリス、お帰りなさいはあなたが言ってあげてくださいね」
「アヤセ様は、それで良いのか?」
ヴァルキュリアとラウンズの関係を考えれば、その役目はアヤセが負うべきものだった。少なくとも、エステルは今までそうしてきていた。だからフェリスは目を丸くして驚いた。
だがアヤセは、事情が違うとフェリスにその権利を与えたのである。その事情というのは、まだシンジはアヤセのことを知らないと言うことだった。
「シンジ様は、まだ私のことをご存じではありませんからね。
私が長々と説明するのを、さすがに待っては居られないでしょう?
私の説明は、フェリスが落ち着いてから行うことにします」
「落ち着いてからとは……私は取り乱したりはしないぞ!」
失礼なと憤慨したフェリスに、それでも構わないとアヤセは笑った。
「それでしたら、私はすぐにシンジ様に事情を説明できますからね」
時計を確認すると、医師から言われた時間まで5分を切っていた。誤差は2分程度あるとのことなので、いつ目を覚ましてもおかしくない時刻になっていた。その証拠とでも言えばいいのか、死んだように眠っていたシンジの体が動き始めていた。
「フェリス、そろそろあなたの出番よ」
「う、うむ、お帰りなさいを言えばいいのだな」
かなり緊張して、フェリスはシンジの顔を覗き込んだ。それだけを見れば、かなり滑稽な光景に違いない。だがそれを見守る二人も、同じように緊張した顔をしていた。
そしてそれから経過すること3分、「あうっ」と言う小さな呟きに遅れ、今まで閉じられていたシンジの瞳が開かれた。そこで「お帰りなさい」を言うのがフェリスの役目のはずなのだが、シンジが目を開いたとたん何も言わずに抱きついていた。
「僕は……生かしてもらえたんだね」
それがフェリスだと分かったシンジは、重い右手を持ち上げゆっくりと頭を撫でた。「生かしてもらえた」と言うのは、最後の記憶が残っていたからだろう。逆に言えば、その時から記憶がぷっつりと途絶えていたのだ。トロルスの浸食を受けた時点で、シンジは自分も処分されることを覚悟していた。
「シエル様も、もうすぐ退院することが出来ますよ」
そのとき掛けられた声に、シンジはそこにいるのがフェリスだけでないのに気がついた。だが聞き覚えのないその声に、「あなたは……」とその相手に名前を尋ねようとした。だがすぐに電子妖精から教えられ、「そう言うことですか」と小さく呟いた。
「シンジ様お帰りなさい。
私はアヤセ、エステルに代わって、ヴァルキュリアを努めることになりました」
アヤセの自己紹介の間にも、ラピスラズリは眠っている間の経緯をシンジに伝え続けた。それで事情を理解したシンジは、フェリスを胸に抱いたまま体を起こし「アヤセ様」と新しい主の顔を見た。エステルと同じように黒い髪を長く伸ばした美少女がそこにいた。だがアヤセから受ける印象は、少しきつめなものだった。
「詳しい事情は、すでにラピスから教えられていますね?」
色々と思うところがあるのだが、アヤセはそのすべてを今は我慢することにしていた。そしてある意味事務的に、シンジに対して指示を出した。
「フェリスが落ち着いたところで、着替えて私の所に顔を出してください。
これからのことを、そこで色々とお話をしたいと思います。
それから、あまり急がなくても大丈夫ですよ」
アヤセが視線を落とした先には、しっかりとシンジに抱きつくフェリスの姿があった。それを見る限り、「急がなくて良い」と言うのは適切な指示に違いない。隣で目頭を押さえているチフユも居るのだから、落ち着くのはかなり時間が掛かることだろう。
「では、フェリスを落ち着かせてから、アヤセ様のお部屋に伺います」
シンジが小さく会釈するのを確認したアヤセは、「お待ちしています」とシンジに背を向けた。そして一度も振り返ることなく、シンジの部屋を出て行った。
それを見送ったシンジは、しっかりと抱きついているフェリスの頭を撫でた。抱きつく力の強さは、それだけフェリスの思いの強さに繋がっている。それだけ心配させたのだと、小さく震えるフェリスの体を抱きしめた。こうして自分を思ってくれる人がいることに、シンジは感動に似た気持ちを抱いていた。
「チフユさんにも、迷惑を掛けたようだね」
「い、いえ、迷惑だなんて、そんなことはありません」
シンジに声を掛けられ、チフユは背筋を伸ばして迷惑を否定した。ただ心の中では、「心配」と言ってくれればうなずけたのにと思っていたりした。
「そう言えば、レベル7に到達したんだって?
レベル4から1ヶ月半で到達するなんて、やっぱりチフユさんは才能があったんだね」
「僅か6ヶ月でレベル10を超えた碇様に言われたくない台詞です。
私は、ここまで到達するのに2年近く時間を使っているんですよ」
「それでも、よく頑張ったね」
初めから褒めてくれれば、素直に頷くことが出来たのに。そんな文句を頭の中で考えながらも、チフユは反射的に「はい」と嬉しそうな顔で返事をしていた。
「それでチフユさん、みんなはどうしている?」
「皆さん元気です……って、どうしてフェリス様に聞かないんですか?
「だってフェリスは……」
シンジの視線を追ってみたら、いつの間にかフェリスがしっかりと寝息を立てていた。そこまで甘えるかと呆れながら、チフユは小さくため息を返した。自分に対しては姉のように振る舞うくせに、シンジの前ではまるで子供になっていた。
「シンジ様が居なくなられてから、統制が完全に失われています。
メイハ様が引退されたのも理由の一つですが、やはり心のより所を失ったのが大きかったと思います。
フェリス様では、皆を支えることは出来ませんでしたから」
「メイハが引退?」
「碇様の子を身籠もられましたよ。
それを理由にして、逃げたとも噂されていましたけどね。
それからもう一つ、マシロさんも去ってしまいました。
マシロさんも、碇様の子供を身籠もられたそうです」
もうすぐ二児のパパですねとからかうチフユに、「良かった」とシンジは微笑んだ。
「良かった……ですか?」
「父親が、反逆の罪で処刑されていたら子供が可哀相だろう。
だからこうして戻ってこられて、良かったと思ったんだよ」
フェリスを起こさないように慎重に体をずらして、シンジはベッドから抜け出すことに成功した。少し予定とは違うが、一応フェリスを落ちつかせることが出来たのだ。ならば主の命令に従い、着替えて挨拶に行く必要があった。
「フェリスはこのまま寝かせておくけど、チフユさんはどうする?
僕はこれからシャワーを浴びて、アヤセ様の所に伺うのだけど」
自分に背を向けて、シンジはクローゼットで着替えを物色していた。そんなシンジに、チフユは遠慮がちに「エステル様のことは」と声を掛けた。それはシンジに対して、主が代わることに割り切れるのかと聞いているようでもあった。
「アヤセ様は、何も悪くないよ。
そしてエステル様も、何も悪いことはしていない。
すべては我が儘から、決まりを破った僕が悪いんだよ」
「ですが、あのままでは誰も救うことは出来ませんでした。
碇様のおかげで、11人のヴァルキュリアと、600人のブレイブスが救われたんです。
それなのに、エステル様が責任を取らなくてはいけなかったのでしょうか?」
納得がいかないと吐きだしたチフユに、自分も答えは持っていないとシンジは答えた。
「あそこで無理をしたことに、勝算があった訳じゃないんだ。
だから、シエルを助けようとしたのは僕の自己満足……違うな、罪悪感から逃げただけなんだよ。
昔友人を見捨てた罪悪感から逃げたかっただけなんだ」
「そのお話は、アスカさんから伺いました」
だが聞かされていても、チフユは良いとも悪いとも言うことは出来なかった。それは14の子供がするには、あまりにも重い決断だと分かっていたのだ。そして今度のことでも、見捨てられないという気持ちも理解できた。それを考えると、誰も悪くなかったのだと言うことになる。ただ巡り合わせ、それが悪かったのだと思えてしまった。
「それで、チフユさんはどうする?」
「フェリス様が目を覚ますまで、こちらでお待ちしています。
目が覚めたとき碇様が居ないと、きっとパニックを起こすと思いますから」
シャワーを浴びようと立ち上がったら、背中にチフユの視線を感じてしまった。それで振り返ったら、じっと自分を見ているチフユと目が合ってしまった。
「じゃあ、フェリスのことはチフユさんに任せるよ……どうかしたのかい?」
「い、いえ、その、やっぱり厚かましいのかなと……」
少し顔を赤くして視線を逸らしたチフユに、「構わないよ」とシンジは声を掛けた。
「心配しなくても、チフユさんは僕のものだからね。
そのうち、借金の形に弟のワカバ君の身柄も貰い受けるからね」
いいよと手を広げられ、チフユはゆっくりとシンジに抱きついた。
「その前に、体で返すのはだめでしょうか?」
「残念ながら、男のラウンズの方が価値が高いんだよ。
だからチフユさんは、更に僕への借金がかさむことになるね」
残念でしたとシンジはチフユのおでこにキスをしてから、「これはサービス」と少しおどけて見せた。
「ここから先の話は、チフユさんがレベル10を超えてからにしようか。
そうしないと、フェリスが依怙贔屓だと怒るかも知れないからね」
「でしたら、絶対に半年以内に超えて見せます!
その為にも、碇様のご指導をお願いいたします!!」
「あまり我慢したくないから、3ヶ月以内にしてくれないかな?
これでも、結構お預けを食っているんだよ」
初めてあった日や、バンチェッタの日とか、シンジが手を出そうとしたときには、決まってチフユは前後不覚になっていた。それをあげつらったシンジに、チフユの顔は熟れたように真っ赤になっていた。
「え、ええと、次の機会にはそのようなことがないよう努力いたします」
「じゃあ、早くレベル10を超えてね。
レベル7からなら、頑張れば1ヶ月で超えることが出来るからね」
「1ヶ月はさすがに無理があるかと思いますが……」
僅か6ヶ月でレベル10を超えるのが異常なのだ。そのシンジと同じにして欲しくないと、チフユは強く主張したかった。だがシンジにしてみれば、自分と言う実績が存在しているのだ。ここまで力を溜めてきたのだから、それをはき出せばあっという間にレベルが上がると考えていた。
「1ヶ月かどうかは分からないけど、きっと自分が思うより早くレベルを上げることが出来るよ。
ワカバ君を迎えに行くときには、テラから二人目のレベル10オーバーになっているだろうね」
「そうなれるように、努力いたします!!」
一度は負け犬になった自分が、パイロットとして最高の位置にたどり着いて弟を迎えに行く。それは夢にさえ見たことのない、憧れの世界だったのだ。それを持ちだしたシンジに、チフユは力強く努力をすることを伝えた。今まで、特にシンジが復帰する前は、頑張ってはいたが、レベル10は遙か先にあると思っていた。だがシンジに励まされるだけで、手の届くところにあるように思えるから不思議だった。
頑張りますと宣言したチフユに頷いたシンジは、そこで次のテラ行きを持ち出した。遠征から2ヶ月、指導から3ヶ月が経過しているのだから、次の指導を計画しなければならない。その指導の時、シンジはチフユを同行させることを考えていたのだ。
「近いうちにテラに行くことになると思うけど、そのときにはチフユさんにも一緒に行って貰うからね。
結構大きく扱われるから、故郷に凱旋することになるんじゃないのかな?
次は第三新東京市になるから、チフユさんの故郷にも寄ることが出来るよ」
「そのときには、碇様にもご一緒願えるのでしょうか?」
自分を掠っていったのだから、その責任を取って欲しい。その意味で同行を口にしたチフユに、まるで何考えていないようにシンジは同行を承諾した。
「イチカさんに、ちゃんとご挨拶をしていないからね。
前回会わせてもらえなかったから、今度はワカバ君にも会わせてもらえるかな?」
「ワカバの奴に、色々と自慢をしてやりたいと思います!」
前回帰ったときにも、ずいぶんと色々と言われた記憶がある。だからこそ、姉は頑張ったのだと弟に見せつけてやりたかった。そしてそれだけの成果は、今まさに出ようとしていたのだ。ここまで来れば、もう負け犬ではないと思っていた。
チフユをフェリスに任せ、シンジは新しい主の部屋へと歩いて行った。そこで驚かされたのは、アヤセが部屋の前で出迎えてくれたことだった。電子妖精のお陰で、ずっと待っていると言うことは無いのだろう。それでも主自ら部屋の前で出迎えるというのは、さすがにシンジも驚かされてしまった。
そしてもう一つ驚かされたのは、自分を見たときのアヤセの表情だった。自分の部屋ではきつめに感じた表情も、今はすっかり角がとれ、とても愛らしい笑みを浮かべていたのだ。その可愛らしさは、さすがはヴァルキュリアと見惚れるほどのものだった。ただ着ているのがセーラー服に似ているため、どこかの女子高生にも見えてしまった。だから余計に、シンジのツボを突いたのかも知れない。
「なにも、部屋の前でお待ちいただかなくても……」
「いえ、待ち遠しくて居ても立ってもいられませんでしたから。
だからこうして、部屋の前でお待ちさせていただきました」
満面の笑みを浮かべたアヤセは、こちらにと自ら扉を開けてシンジを招き入れた。
アヤセの部屋は、館の主のために用意されたものだった。もともとエステルが使っていたのだが、1ヶ月以上と言う時間のせいで、エステルの使っていた名残はどこにも無くなっていた。それでも反射的に部屋の中を見渡したシンジに、「何も残っていませんよ」と言ってアヤセは腕を絡めてきた。
「いえ、そう言うわけではなくて、部屋を見れば主の人柄が分かりますので……」
「二人きりの時は、アヤセと呼び捨てにしてください。
そうしていただく方が、私は嬉しいですからね」
「呼び捨てに、でしょうか?」
確認するシンジに、「はい」とアヤセははっきりと答えた。そしてすぐに、恥じらうように視線を逸らし、「少し舞い上がっています」と白状した。そして腕を絡めたまま、シンジを二人掛けのソファーに座らせた。
「ずっと、こうするのが夢でしたから」
「そう、なんですか?」
ヴァルキュリアかどうか関係なく、綺麗な女性にそこまでいわれるのは気分の良いものだった。だがそれでも引っかかるのが、どうしてそこまで思われるのかと言う事だった。その疑問が解けない限り、演技ではないかと疑う自分がいてしまうのだ。
だからシンジの答えは、アヤセの期待とは遠く離れた物となってしまった。だがその程度のことは分かっていると、アヤセは気にするそぶりを見せなかった。
「予備役のヴァルキュリアは、上の世界で集まって教育を受けているんです。
でも、予備役が日の目を見ることなんて、本当に滅多にないんですよ。
だから私たちの間では、予備役解除のことがいつも話題になっているんです。
誰が良いとかどうとか、みんなが好き勝って言って喜んでいるんです。
だからシンジ様を初め、レグルス様とかマニゴルド様のことは全員が良く知っているんですよ。
私の場合、シンジ様が確定しているので、みんなから羨ましがられていたんです。
だから、24になるのが待ち遠しくて仕方が無かったんですよ」
「すみません、そのあたりの感覚が理解できないんです」
「そう言う生活環境、教育を受けてきたと言う事ですよ。
だからテラからいらしたシンジ様には、特に理解できないことなんでしょうね」
そう言って嬉しそうにすり寄られると、さすがにそれ以上質問を続ける事も出来なくなってしまった。さすがはヴァルキュリアと言えばいいのか、アヤセもエステルと違ったタイプの美少女だったのだ。エステルのことがなければ、シンジももう少し気楽に接することも出来たのだろう。
ただシンジ自身、今度のことでアヤセに一分の非もないことは分かっていた。むしろ突然責任を押しつけられたのだから、被害者と言っていいのかも知れなかった。そしてそうした責任のほとんどは、自分自身にあることは承知していた。だから今まではエステルに向けていた尊敬と愛情を、これからはアヤセに向けなければいけないのは頭では理解できていたのだ。
もっともそこに感情が付いてくるかというのは、理解するのとは全く別のロジックが必要だった。そしてアヤセも、シンジがすぐに切り換えられないのは十分に理解していたのである。だからシンジに甘えながら、「これからのことですけど」と組織の運営を口にしたのである。拒絶さえされなければ、今は一方的でも構わないと思っていたのだ。
「今までと、何も変えられないというのが正直なところですね。
ただメイハが引退したので、その穴埋めが必要になってしまいました。
それをフェリスに期待したのですけど、私の不徳の致すところでうまく行っていないんです」
「フェリスは……全体への細かな気配りには向いていませんね。
ただ、アヤセ様の仰有る通り、誰か代行を立てる必要がありますね。
それなら、レベル8のパンドラが適任だと思います」
気配りというキーワードからパンドラを思い浮かべたシンジに、アヤセはすぐに「承認します」と認めてくれた。あまりにもあっさりと認めてくれたので、それで良いのかとシンジが慌てたほどだった。
「いえ、そんなに簡単に承認して良いんですか?」
「シンジ様が、一番部下のことをご存じだと思っていますからね。
パンドラさんには、フェリスの補佐について貰いましょう。
彼女に、フェリスの気がつかないところをサポートして貰います。
たぶん組織の問題は、これで解決しそうですね。
何しろ一番の問題が、シンジ様の復帰で解決しましたからね。
私のことは、時間を掛けるほかには方法が無いと思いますから」
自分のことを持ち出したアヤセに、「仕方が無いことです」とシンジは答えた。それは、シンジ自身も同じことを思っていたからに他ならない。
「そうですね、私も仕方が無いことだと思っていますよ。
それに、何事もなかったかのように組織が運営されるのも問題だと思っていますから。
それだけ人間関係を大切にしていると考えたら、悪いことばかりではないと思いますよ」
「アヤセ様の仰有る通りだと思います」
人間関係の濃さへの思いは、シンジにも共感できるところだった。代わりが来たら前の人が忘れ去られるのでは、あまりにも寂しすぎるのだ。
「でもですね、私は全身全霊の愛で、エステルのことを過去の女性に変えて見せますよ!」
「全身全霊の愛で……ですか?」
言葉で言うのは優しいが、なかなか怖いなとシンジは思ってしまった。だが花が咲いたような笑顔で、「はい」と答えられると悪くないと思えるから不思議だ。
「ところで、私の機体はどうなりましたか?」
「当然、準備を進めていますよ。
ただマシロさんが逃げてしまったので、その分遅れていますけどね。
それでも新しい機体は、来週にでも準備できると聞いていますよ」
「マシロは、戻ってきてくれないのですか?」
聞いては見たが、難しいだろうとシンジも考えた。アヤセにしてみれば、仕える価値が無いと言われたのに等しいのだ。いくらシンジが復帰したからと言って、のこのこと顔を出せたものではないだろう。
「やはり、私の前には顔を出しにくいのだと思いますよ。
それにお子さんがお腹の中にいるので、あまり無理も出来ないでしょうしね。
ただシンジ様が復帰するのだからと、代わりの人を推薦してくれましたよ。
ただ推薦してくれたのは良いのですけど、ちょっと変わった人を推薦してくれましたね」
「変わってる?」
そう言われても、具体的にどうと想像することは出来ない。だからオウム返しをしたシンジに、「変わっていますね」とアヤセは繰り返した。
「今時視力矯正をしていないから、時代遅れの眼鏡をしていますし。
女性のくせに、あまり身だしなみにも気を遣っていませんからね。
お風呂だって、放っておくと1週間ぐらい入らないって聞いていますよ。
ヴァルキュリアの常識から離れても、十分変わっていると思いますよ。
そう言う意味では、助手の女の子の方が普通に見えますね。
「確かに、変わっているみたいですね。
でも、マシロが推薦してくれたのなら技術は確かなんでしょう。
となると、最低4日は専用機体が無いと言うことですか。
仕方が無いですから、練習機で体を慣らすことにします。
あとは、フェリスや霜月さんに手伝って貰って、肉体の鍛錬をしようと思います」
カヴァリエーレの努めとして、日々の鍛錬は欠かすことは出来ない。特にブランクが長かったため、なまった体を早急に鍛え直す必要があったのだ。トロルス対策と祭りの矛盾を考えたシンジだったが、シエルの問題で考えの足りないところを思い知らされたのだ。二度と同じ思いをしないためにも、肉体の鍛錬は焦眉の急となっていた。
「確かに、カヴァリエーレとして日々の鍛錬は必要だと思います。
ですが、今日一日ぐらいは体を休めてください。
気が急くかも知れませんが、これはヴァルキュリアからの命令です。
もしも暇をもてあますようなら、挨拶回りに行ってくるのも良いと思いますよ。
特にヴェルデ様は、シンジのことでかなり落ち込んでいましたからね」
ただしと、アヤセはシンジの腕を抱えたまま人差し指を立てた。
「今日はお泊まりすることは許可しませんからね。
必ず、挨拶だけで帰ってくるようにしてください。
フェリス達と、シンジ様の復帰祝いをしますからね!」
「でしたら、今日は皆の所に顔を出してきます。
体を動かすのは控えますが、留守をしていた分を取り返す必要がありますので」
「さすがはブレイブスの頂点に立つラウンズですね」
分かりましたと、アヤセはシンジの腕を解放してソファーから立ち上がった。だが今度は、シンジがアヤセの腕を捕まえ、自分の方へと引き寄せた。
予想していなかったシンジの行動に、アヤセはあっさりとシンジの胸に抱かれることになった。嬉しい事は嬉しいのだが、突然の出来事にアヤセの頭は軽いパニックになっていた。もう少し時間が掛かると思っていたことが、逢った初日に実現してしまったのだ。
「し、シンジ様!?」
少し声が裏返っているのは、それだけ驚いている証拠なのだろう。慌てているのは、それだけ経験がないと言う意味を現している。初めて男性に抱き寄せられたのだから、それも無理のないことだった。
そしてシンジは、そんなアヤセに向かって「無理をしないでください」と耳元で囁いた。
「べ、別に、無理をしているようなことはありません……」
「大丈夫です、僕はアヤセ様のすべてを肯定します。
どんな我が儘でも受け止めて見せます。
だから、もっと素直に感情を表しても良いんですよ」
「べ、別に、隠してなんか居ませんからっ」
言い訳がましくアヤセは言い返したのだが、シンジはその通りには受け取らなかった。そして言葉の代わりに、口づけを交わすことで自分の気持ちを伝えた。
「……そんなことをされたら、私……はぅっ」
感極まってしまったのか、アヤセはシンジの腕の中で卒倒してしまったのだった。
続く