機動兵器のある風景
Scene -33







 シンジの特区セルン訪問は、一応の成功を見たと言って差し支えないだろう。アースガルズ側の成果を省いても、トップレベルの認定レベルアップの目処が付いたし、その他のパイロット達にしても、レベル4に手の届くところまで進歩してくれた。その直接的な効果に加え、育成方法が確認できたという効果もあった。
 そして技術面に関しても、光槍ブリューナクの技術的正当性が確認され、携帯型ハドロン砲の技術課題についても、マシロの助言により解決の目途が付くことになった。機動兵器の調整法に関しての指導も行われたため、僅か一週間という期間を考えれば、十分以上の成果に違いなかった。

 その事実自体は、特区セルンのトップも認めたことだった。ただそれで満足かというのは、全く別の話になっていた。

「十分に面目は保てました……と言うところですか」

 そう言って報告書を差し出したヤコブセンに対し、ライツィンガーは不機嫌そうに鼻息を吐きだした。

「それだけでは済まないことぐらい承知しているだろう?」
「そのあたり、さすがはラウンズというところでしょうか?
 未熟に見えても、危機回避能力には長けているようですな。
 さもなければ、類い希な幸運の持ち主といった方がよろしいでしょうか?
 特に何をしたと言うことは無いのに、いくつかのトラップを突破されています。
 セシリア・ブリジッドの検診結果も、極めて良好という報告が為されました。
 まあ、親密さは増したようですから、間接的には目的を達成したと考えて良いのでしょう」

 やられましたと、ヤコブセンは全く悪びれた様子を見せなかった。それを不機嫌そうに睨め付けたライツィンガーは、効果の分析を要求した。特にホームに招いたことで、どれだけ日本との差を縮めたのかが関心事となっていた。

「一番の成果は、セシリアがカヲル・ナギサを抜いたことでしょうか。
 パイロット全体のかさ上げと言う事も、日本との差を縮めたことになります。
 パイロット達への指導という面では、セシリアが離脱とならないのは幸いでしたな。
 まあ一人首にしたのですが、影響が無くなったのも成果でしょう」
「一人首……ああ、シモツキか」

 ライツィンガーへの報告は、解雇を言い渡してからになっていた。そのことへの譴責をするつもりはなかったが、一つだけ気になっていたことがあった。

「サードが、接触していると聞いたが?」
「本人が帰国する前に、保護家庭に対して連絡が入ったようです。
 ただ、その後本人がサードに連絡した形跡はないようですな。
 もちろん、継続してサードの情報収集は行っています」

 ヤコブセンの報告は、気にする必要は無いというものだった。それを理解したライツィンガーは、すぐにチフユに対する興味を失った。基礎能力の高さは惜しかったが、結局セルンでは結果を出せないパイロットだったのだ。

「出立前のパーティーはどうなっている?」
「先方の希望を入れて、関係者のみのものとしました。
 移動に時間が掛からないと言う事で、終了次第帰国すると言う事です」
「それで、こちらからの連絡手段に関しては進展があったのか?」

 今の状態は、連絡は相手の気まぐれに頼ることになる。そこを改善したいというのは、セルンだけの事情ではなかった。だがライツィンガーの質問に、ヤコブセンの答えは「芳しくない」と言うものだった。

「シンジ・イカリには希望として伝えてあります。
 必要性の認識はできたようですが、ラウンズの権限外だと言われています。
 一応円卓会議には諮問すると言う回答は貰っていますが……
 いったい、何時になったらホットラインの開設がなるかは不明です」
「それまでは、我々はアースガルズの気まぐれに振り回されると言う事か」

 ますます不機嫌さを増したライツィンガーは、下がって良いとヤコブセンに退出を命じた。必要な報告は受け取ったし、面倒な客もすでに帰っている。ならばここからは、自分も休息しようと考えたのだ。何しろ、この一週間というもの、様々なところでアースガルズに振り回され続けたのだ。



 テラからの帰還は、フェリスにとってお預けが解けるという重要な意味を持っていた。自覚が進んだとか、レベルが上がったというのは、重要な要素ではあるが、フェリスにとっての本命ではなかった。そしてフェリスの成長を喜んだシンジも、その裏にある期待を十分に理解していた。

「もう一仕事済ませたところで、一日休暇を頂きたいのですが?」

 テラから戻ったその足で、シンジはエステルのところに報告に来た。そこで必要な、1日の休暇取得を上申することにした。

「別に休暇を認めるのは構いませんが、テラ行きは休暇のようなものではありませんでしたか?」
「あれは、一応公務の扱いだと思っています。
 それから、今度の休暇は僕のためではありませんので」
「フェリス、ですか?」
「誠実に対処しないと、命が危なくなりますので……」

 帰って来るまでとお預けをしていたのだから、フェリスの期待は最高潮に高まっているはずだ。それを反故にしたら、本当に命に関わることになりかねない。何しろ生身の条件だと、シンジではフェリスに敵うはずがなかったのだ。
 フェリスのことは仕方が無いと諦められても、エステルには別の不満が溜まっているようだった。小さくため息を吐いたエステルは、他の呼び出しにも言及したのだ。

「ドーレドーレ様からも、すぐに報告に来るようにとの命令が来ているんですよ。
 まったく、誰のカヴァリエーレだと思っているんでしょうね?」

 ぷんぷんと頬を膨らませたエステルに、可愛いなぁとシンジは顔をにやけさせた。色々とあったテラ行きだったが、今はここが自分の家だと思えるようになったのだ。そこで待っているのがエステルというのも、シンジにとって、帰ってくる理由となっていたのだ。

「しかも、ヴェルデまで息抜きに来いと言っているんですよ。
 シンジにとって、ここにいるのが一番の息抜きのはずなのにね!」
「ヴェルデ様……ですか?」

 色々とどたばたしたお陰で、しばらく顔を出していないのも確かだった。それを考えると、挨拶に行くのも必要なことに違いない。頭の中でスケジュールを考えたシンジに、「忙しそうね」とエステルが皮肉をぶつけてきた。

「10日もしたら、戦闘態勢に入るのを忘れないようにね。
 だからシエル様も……」
「どうかしましたか?」
「やっちゃうのは、トロルスとの戦いが終わってからの方が良いのかなと。
 早いか遅いかの違いだけなら、さっさとしてしまえばいいのにね。
 ほんと、10代みたいな拘りは早く捨てればいいのに」

 ああそっちの方かと、エステルの飛躍した考えをシンジは理解した。ただエステル的な「やっちゃう」は、まだ先延ばしをした方が良いとシンジは考えていた。ドーレドーレからの呼び出しには、便宜を図って貰うためにも応える必要はあるだろう。だがそれ以外については、全部次の戦いが終わってからにしたかった。

「シエル様のところには、打合せがあるので顔を出すことにします。
 ただ、今はフェリスの強化を優先したいと思います。
 一日も早くレベル10認定を行って、戦いまでに完熟させる必要があると思っています」
「そのことですが、私の権限でレベル10認定を行いましたよ。
 一足飛びの制限解除も考えたのですが、そちらについてはシンジの意見を聞きたいと思いましたから」
「エステル様が?」

 驚いた顔をしたシンジに、「テラでのことは伝わっていますよ」とエステルは笑った。

「メイハに言わせると、ラウンズでもフェリスに勝てる人は少ないんじゃないかって。
 僅か数日で、もの凄い進歩をしたと驚いていましたよ」
「できれば、そのことはフェリスの耳に入らないようにしてくださいね。
 せっかくまだまだだと脅しを掛けているんですから、それを無にしないようにお願いします」
「そんなことをしなくても、シンジさえ気をつければやる気は無くならないと思いますよ」

 気を遣うというか、ご機嫌を取るというか。エステルの言う配慮は、主にそちらの方を言っていた。あまりにも心当たりのある言葉に、シンジは苦笑と共に疑問を口にした。

「どうして、僕だったんでしょうね?」
「さあ、でも、シンジだけがまともに向き合ってくれたからじゃないのですか?」

 それだけだと、理由としては弱いとしか思えなかった。だがそれ以外の理由は、いくら考えても思いつかない。考えるだけ無駄かと諦めたシンジは、仕事を先に済ませることにした。

「では、これから着替えをしてから霜月チフユ姉弟を迎えに行ってきます」
「シンジの見立てが正しいことを期待していますよ」

 行ってらっしゃいと手を振ったところで、忘れていたとエステルはシンジを呼び止めた。

「これもお約束ですから、一応シンジに注意をしておきますね。
 くれぐれも、ほどほどにしておくように」

 何をと言うのは、今更確認することではないのだろう。確かにお約束だと認めたシンジは、微妙に使い方が間違っていることに、さすがはエステルだと考えていた。

「迎えに行って帰ってくるだけですから、ほどほどと言うこともないと思いますよ。
 ラピス、貰った住所の特定は出来ているかい?」
「直接、家に乗り込みますか!」

 なぜか黒ずくめの服を着て現れたラピスラズリは、黒いサングラスをポケットから取り出した。どうやら、テラに行っている間に集めた、間違った知識をひけらかしているようだった。

「いや、近くに商店……ええっと、一般向け小売りをしている施設があるはずだ。
 そこの前に連れて行ってくれれば、あとは霜月さんを呼び出すよ」
「直接乗り込んだ方が早くありません?」

 サングラスをはめたと思ったら、次にポケットから銀色に光る銃を取り出した。やはりテラで、間違った知識を仕入れたようだ。

「こういうことは、出来るだけ穏便に済ませた方が良いんだよ。
 勘と言ってはなんだけど、来るのは霜月さん……チフユさんだけになりそうだからね」
「直接乗り込めば、まとめてかっさらってくることが出来るのに……」
「いったい、なんに影響を受けたんだか……」

 気を取り直したシンジは、直ちにラピスラズリに移動を命じた。時間を考えたとき、遅くなると不確定要素が増えると考えたのだ。夕食などに招かれよう物なら、間違いなく話はおかしな方向に向いてしまうだろう。

「ではエステル様、行って参ります」
「早く帰ってきてね」

 もう一度エステルが手を振ったところで、シンジの姿はラピスラズリによってテラへと飛ばされていった。



 月曜になるとは言われていたが、それが何時のことかは知らされていなかった。相手が相手だけに、すっぽかされる可能性はないと思いたい。それでもお昼を過ぎても連絡がなければ、さすがに不安になってしまうと言う物だった。そんなチフユの不安は、一緒にいる叔母に見抜かれてしまった。

「連絡、来ないわね」

 お見送りのために仕事を休んだ東雲イチカは、「遅いわね」と掛け時計を見た。すでに時刻は午後3時を回り、これからどこかに行くには少し遅い時間になっていた。

「これからだと、近くの町ぐらいまでしか行けないわよ」
「そのあたりの心配はいらないと思うが……」

 移動方法を考えると、時間というのは大きな要素でないのは分かっていた。それが分かっていても、迎えが遅いというのは不安を増す理由になっていた。それに相手の正体を告げるのは、問題が大きすぎるのでしないことにしていた。

「でも、本当に一人で行くことにしたの?」
「ワカバのことでご迷惑を掛けるのは分かっていますが……
 私自身、自信を付けてからワカバを迎えに来たいと思っているんです」
「別に、迷惑だなんて考えていないけどね……」

 ふっとため息を吐いたイチカは、チフユの顔を見て「遺伝かしら?」と小さく呟いた。

「なにがですか?」
「あなたの頑固……と言うか、意地っ張りの所よ。
 本当にアキラ姉さんそっくりなのよね」

 もう一度イチカがため息を吐いたところで、二人の間に置かれた電話が軽やかな電子音を奏でだした。一瞬顔を見合わせた二人だったが、私がと家主のイチカが電話を取った。

「はい、東雲でございます。
 はい、チフユですか、失礼ですがどちら様でしょうか?」

 そこで受話器を手で押さえ、イチカは「碇さんって知ってる?」とチフユに聞いた。

「は、はい、私を迎えに来てくれる人です」

 少し落ち着きを無くしたチフユに、どういう関係なのかとイチカは想像した。電話の声を聞く限り、相手もかなり若そうに思えるのだ。結婚は無いと言われていたが、恋人なのかと考えた。
 イチカから電話を受け取ったチフユは、少し緊張気味に「チフユです」と答えた。

「はい、私一人でお世話になることにしました。
 詳しい事情は、後から説明することでよろしいでしょうか?」

 だが電話相手に話すチフユに、イチカは色っぽい話ではないのだと失望した。いくら奥手のチフユでも、好きな相手にこんな話し方はしないだろう。そうなると、ますます二人の関係が分からなくなる。

「これから、迎えに来てくださるのですか。
 はい、そこからなら車で5分程度の距離になります。
 準備なら、はい、午前中からできていました。
 は、はい、玄関に出てお待ちしています」

 それではと言って電話を切ったチフユに、「どういう関係?」とすかさずイチカは聞いてきた。だがその質問には答えず、チフユは小さなボストンバッグを持って「一緒に来てもらえますか」とイチカに頼んだ。

「叔母さんには、ワカバに渡してもらいたい物があるんです」
「別に良いけど、ついて行かなくちゃいけないことなの?」

 電話で5分の距離と言っていたのだから、あまり細かな話をしている暇はない。かと言って、一刻を争うほど急ぐ必要もないはずだ。とりあえずチフユを追い越したイチカは、サンダルを履いて玄関前にでた。そこで、見知らぬ男性が玄関前に立っているのに気がついた。

「すみません、どちら様でしょうか?」
「電話をした、碇と言います」

 小さく会釈をした男性を見たイチカは、再びどんな関係かと疑問を持った。年齢的には、姪のチフユと同じくらいだろう。少し落ち着きすぎている気はするが、見た目という意味では間違いなく好男子なのだ。なぜこの好男子が、ワカバまで面倒を見てくれることになるのか。高校生ぐらいだと考えると、余計に二人の関係が分からなくなってしまったのだ。
 そしてもう一つの疑問が、やけに早かったと言うことだ。電話があってから急いで出たので、まだ3分も経っていなかった。

「チフユの叔母の、東雲イチカと申します」

 そう言ってイチカが頭を下げたところで、遅れてチフユが玄関から出てきた。
 「お待たせしました」と頭を下げたチフユに、「今来たところだよ」とシンジは笑った。そしてシンジは、チフユの後ろを見る仕草をした。

「お、弟は小学校に行っています」
「お別れをしなくて良かったのかな?」
「朝、弟が学校に行く前に済ませてあります」

 「そう」と答えたシンジに、イチカは「冷たいお茶でもいかがですか?」と誘いの言葉を掛けた。関係を詮索するには、玄関と言うのは不適当なのだ。家に上げてしまえば、色々と聞き出すことも出来るだろう。
 だがイチカの誘いを、シンジではなくチフユが断った。「急いでいますので」と言う、本当かどうか分からない理由を口にしたのだ。

「でも、これからだとどうせ隣町ぐらいまでしか行けないわよ。
 それだったら、1時間ぐらい遅らせても問題はないと思うし、
 そうすれば、ワカバ君も学校から帰ってくるんじゃないかしら?」
「僕は、構わないんですけどね。
 でもチフユさん、君は僕をワカバ君に会わせたくないんだろう?」

 シンジの言葉に、どういうこととイチカは姪御の顔を見た。連れて行かないことを決めたのだから、顔を合わすことに問題があるとは思えない。それでも隠すことに、いったいどんな意味があるのだろう。だがシンジの言った通り、チフユはその言葉を肯定した。

「はい、仰有るとおりです。
 碇さんに会えば、間違いなくワカバは一緒に行くと言うでしょう。
 だから会わせたくないと言うのもありますし、あとは私にも意地があります。
 弟のおまけではなく、私自身が命をかけて勝負してみたいんです。
 それに弟には、中学に上がるときに迎えに来ると言ってあります」
「1年半で結果を出すと言いたいんだね」

 ふっと笑みを漏らしたシンジは、イチカに向かって「すみません」と頭を下げた。

「せっかくのお誘いですが、ここで失礼させていただきます。
 チフユさんは、責任を持って預からせて貰います」
「チフユさんがそう決めたのなら……
 その、碇さん、一つお伺いをして良いですか?」
「叔母さん、そのことなんだけど。
 叔母さんにも手紙を書いたから、それで我慢をしてくれないか」

 質問にも答えさせないチフユに、イチカは少し腹を立てていた。一緒にいる相手を見る限り、そんな気むずかしいところはなさそうに見えるのだ。チフユさえ反対しなければ、お茶を口実に家に上げることも出来ただろう。そのことごとくを邪魔した姪御に、どういうことだとイチカは気色ばんだ。
 そこまでする必要はないと思ったが、チフユの気持ちも理解することは出来た。だからシンジは、険悪になりかけた二人の間に入り、もう一度「すみません」とイチカに頭を下げた。

「いま、ここで説明しないのが一番良いとチフユさんは考えたのだと思います。
 それに急がないと、ワカバ君と鉢合わせになってしまいますからね。
 僕たちは、ここでお別れをさせて貰います」
「我が儘を言ってすみません。
 詳しいことは、すべて手紙に書いたつもりです。
 それから一つだけお願いですが、手紙の中身を口外しないようにしてください」

 二人揃って頭を下げられれば、さすがに矛先を収めざるを得ない。「分かったわよ」とため息を吐いたイチカは、早く行くようにチフユを急かした。

「説明もしてくれないんだから、さっさと行ってしまいなさい!」
「では、お言葉に甘えさせて貰います」

 さあとチフユを促したシンジは、通りを車道の方へ歩き出した。少しも近づこうとしない二人に、本当にどんな関係なのかとイチカは悩んだ。しかも口で説明すればいいのに、こんな手紙だけを残していくのだ。よほど口で話した方が早いのにと視線を二人に戻したイチカは、なぜかその姿を見失ってしまった。目を離したと言っても、ほんの少し手紙を見ただけなのだ。それなのに、歩いているはずの所に二人の姿は見あたらなかった。

「そ、そんなに、速く歩いていたかしら?」

 だからと言って、通りまで走って確認するわけにも行かない。おかしいなあと首を傾げながら、イチカは家の中に戻ることにした。家に戻れば、手紙を見ることが出来る。少なくとも、事情ぐらいは書いてあるだろうと考えたのだ。



 イチカの前から消えたのは、当然組紐による転送を行ったからである。イチカが見送っているため、シンジはラピスラズリに転送の条件を付けたのだ。その条件が、見えなくなるか、消えるところを見せないという物だった。そう言う意味で、イチカが手紙に視線を落としたのが転送の条件になったのである。
 二人が転送された先は、アースガルズにあるエステルの屋敷だった。なぜそこにと言うのは、シンジが住んでいるからと言うのが理由になっていた。身柄を預かるという意味で、同じフロアの一部屋をチフユにあてがうことにしたのである。

 木で作られた床は、オイルを塗ったようにつややかな光を放っていた。そして両側に広がる壁は、花柄の壁紙で飾られていた。所々にある窓からは、明るい外の光が差し込んでくる。その光景を最初に見たチフユは、まるでどこかのお屋敷だなと考えた。
 その廊下をゆっくりと歩いたシンジは、一つの扉の前に立ち止まった。ただ扉とは言ったが、ドアノブもなければ手を掛けるような物も見あたらない。ただ一枚の木の板が、扉のように壁に存在していただけだった。

「ここがチフユさんがこれから暮らす場所だよ。
 言葉や習慣の問題があるから、可能な限り僕の近くに置くことにした。
 従って、僕の部屋はあっちの扉の向こう側あることになる」

 そう言ってシンジが指さした先、かなり離れたところにもう一つ扉のような物があった。

「入り口がずいぶんと離れていますが、間には何があるのですか?」
「何もないというか、これで一応隣同士なんだ。
 正確に言うと、このフロアは全部僕のために用意された物なんだよ。
 そのうちの一つを使って貰うことにしたんだ」
「そう、ですか……」

 異国も異国、アースガルズという全く知らない世界に来たのだ。それを考えると、シンジは必要な配慮をしたことになるのだろう。1フロア全て使用する待遇を考えながら、チフユは少し曖昧な相づちを打った。

「扉の開け方を教えるけど、まずそこの部分、少し色の違うところがあるだろう?
 右でも左でも良いから、そこに一度手を当ててくれないかな?」
「手を、当てればいいのですか?」

 言われたとおりに右手を当てたのだが、目の前にはなんの変化も現れてくれなかった。だからそのまま手を当て続けたチフユに、もう良いよとシンジは軽く肩を叩いた。

「次に命令の登録を行うよ。
 日本語で構わないから、「開け」と命令してくれるかな?」
「「開け」で、良いのですか?」

 チフユが開けと言ったとたん、目の前の扉が左にスライドして部屋への入り口が示された。こちら側にも窓があるのか、中は明るい太陽の光に満ちていた。

「じゃあ入ってから、次は「閉じろ」と命令して貰おうか」
「「閉じろ」で、良いのですね」

 一度やってみれば、次の結果は想像できていた。そしてチフユが考えたとおり、目の前で扉がスライドをして閉じてくれた。そこで感じたのは、いちいち言葉に出すのは面倒だなと言うことだった。

「部屋の中には、集中制御のスイッチがあるからそれでもドアの開け閉めは出来るよ。
 それから音声命令は、呟く程度で十分だからね。
 扉を手で触れるのが、音声命令のスイッチになっているんだよ。
 もちろん、チフユさん以外の声ではスイッチが入らないようになっているからね」
「つまり、それが鍵のような物と言うことですか」

 使い方としては、別に難しい物ではない。それもあって、特に戸惑うような所はどこにもなかった。小さく頷いたチフユに、そう言う事とシンジは説明を続ける事にした。

「さて部屋なんだけど、申し訳ないけどほとんど何も揃っていないんだ。
 とりあえずベッドとかはあるけど、それ以外に欲しい物があったら言ってくれないかな?
 あとは、ユーピテルの端末があるんだけど、その使い方を覚えて欲しいんだ。
 それが使えるようになれば、生活に不自由をすることはなくなると思うよ。
 物の手配のかなりは、その端末から行うことができるんだ。
 それでトイレは、そこのドアを開いたところにある。
 使い方は、まあほとんど違いはないからね。
 記号を見れば、意味はだいたい理解できると思うよ。
 あと、お風呂はその隣のドアを開いたところにある。
 慣れるまでは、そこを使うのが無難だと思う……
 一応お湯とかの温度は、自動的に調整されているから。
 石鹸関係は、エステル様に貰ってきたから必要な分は揃っていると思う……たぶん」
「たぶん、なのですか?」

 不確かな言葉に反応したチフユに、「たぶんなんだ」とシンジは苦笑混じりに繰り返した。

「女性が、どういうのを使うのか僕には分からないからね。
 だから明日は、僕の補佐を一人世話役に付けることにするよ。
 そこで色々と教えて貰えば、もう少し物を揃えることが出来ると思うよ」

 いいかなと聞かれたチフユは、少し硬い表情で小さく頷いた。それを確認したシンジは、チフユに対して身だしなみを整えるように命令した。

「じゃあ、ここからはラウンズとその配下の関係になる。
 チフユさん、一度シャワーで汗を流してから、用意してある制服に着替えるように。
 準備が出来たら、エステル様に挨拶をすることになる。
 その後、僕の補佐をするメイハ・シーシーとフェリス・フェリに紹介する」
「はい、霜月チフユ、これから身だしなみを整えます」

 直立したチフユは、セルンの習慣で敬礼をしようとした。だがそれを、そこまで必要ないとシンジは押しとどめた。

「せいぜい、気を付けをする程度で良いよ。
 制服はサイズを変えて何着か置いてあるから、体に合うのを来てくれないかな?
 クローゼットは、お風呂を出た隣の扉の向こうにある。
 慣れないだろうから、あまり急がなくて良いからね。
 準備が出来たら、僕の部屋の扉をノックしてくれないかな?」
「ノックすればよろしいんですね」

 小さく頷いたチフユに、じゃあと言ってシンジは部屋を出ることにした。これからチフユがお風呂に入るのだから、いつまでも部屋にいるのは問題が大きいのだ。ただ何かをしたように見えないのに開いた扉に、チフユは鍵はどうなっているのだと考えてしまった。もしかしたら、シンジは自由にこの部屋に出入りできるのではないか。そう考えると、少しだけ心臓の鼓動が早くなってしまった。

「た、たとえそうだとしても、な、なんの問題もないはずだ……
 す、少なくとも、私は一切困ることはない……むしろ望むところだ」

 そこまで口にして、何を言っているのだと自分に呆れ、チフユは最初の難関、お風呂に入ることから挑戦を始めたのだった。

 チフユが格闘しているだろう頃、シンジはまっすぐ自分の部屋へと戻っていた。そしてチフユの格好に合わせるため、自分もシャワーを浴びることにした。

「一緒に浴びた方が早かったんじゃありません?
 そうすれば、彼女もシャワーの使い方に悩まなくてすみましたよ」

 早速からかいの言葉をぶつけてきたラピスラズリに、どんな性格付けなのだとシンジは呆れた。

「そんなことをしたら、エステル様の所に当分顔を出せなくなるよ。
 それからラピス、僕は彼女を愛人にするために連れてきたんじゃないんだよ。
 それよりも、メイハとフェリスには連絡をしてくれたかな?」
「食事の前に、紹介すると言うことでしたよね」
「間違いなく、あの二人には世話になることになるからね。
 どこか、適当な店を予約してくれないかな?」
「エステル様は、お食事会を開く気満々ですよ」

 予約はいらないのではと言うラピスラズリに、どうした物かとシンジは少し考えた。少しでも早くアースガルズになれるには、積極的に外に連れ出すべきなのだ。この屋敷だけで完結してしまうと、外の空気に触れることも難しくなってしまうだろう。

「一日ぐらい、エステル様の我が儘を聞いてもよろしいのでは?
 明日メイハ様に面倒を見て貰うのですから、そのときに連れ回して貰えば良いのではありませんか?」
「メイハだったら、常識的だから任せても大丈夫か……
 そう言えば、明日の予定だけどフェリスは何か言ってきたかい?」

 誰にとっての念願か分からないか、明日は念願のご褒美をあげる日に設定していた。そのことについて、何かリクエストのような物がないのかを聞いたのである。
 だがラピスラズリは、「これと言って何も」と言う答えを返してきた。

「つまり、僕に考えろと言うことかな?」
「やはり、フェリス様も恋する乙女ですからね。
 こういう時は、大好きな人にリードして貰いたいと思っているんじゃありませんか?」
「つまり、これからデートプランを立案して、必要な予約を入れる必要があると言うことか」

 難題だと腕を組んだシンジは、フェリスが登録したデータを参考にしようとした。そのまま利用するのは芸がないが、嗜好ぐらいは分かるのかと考えたのだ。だがラピスラズリから返ってきた答えは、あまり芳しいものではなかった。

「検索をした結果、最近雑誌で特集された物だと言うのが分かりました。
 その特集が、彼との雰囲気満点の大人のデートという物です。
 その字面だけから、フェリス様はピックアップされたのではないでしょうか?」
「その特集には、デートコースは書いてあったかい?」

 あるのなら参考にしようと考えたのだが、やめておいた方が良いとラピスラズリに忠告されてしまった。

「ああ見えて、フェリス様はお子様ですからね。
 背伸びをするのは、夕食からベッドイン程度にしておいた方が良いでしょう。
 その前は、遊園地に行って甘いものを食べさせてあげた方が良いのではありませんか?
 シンジ様が、「初めてだから教えて欲しい」とでも言ってあげればすべては丸く収まります。
 それはもう喜んで、遊園地を案内してくれることでしょうね」
「だとしたら、ホテルはどこにするのが良いのかな?
 落差が大きい方が、より効果的なんだろう?」

 シンジの疑問に、ラピスラズリはすぐにホテルの予約状況を確認した。何しろ前日と言う事もあり、めぼしいところは予約で埋まっている可能性が高い。権限でそれを解約するのは、間違いなくやり過ぎと言う事になるだろう。

「そうですね、凄く高いところなら空いていました。
 部屋食をしても良いぐらいの部屋ですから、レストランの予約は不要になりますね。
 ああ、ただ部屋に持ってきて貰う手配だけは必要ですが……で、どうします?」
「凄く高いところって……もしかしてエリゼ?」
「そのエリゼの、最上階にあるニルヴァーナです」
「ああ、あそこね……」

 いかにも気が進まない顔をしたシンジに、でしたらとラピスラズリは違う案を持ち出した。

「フェリス様が参考にした雑誌の傾向から行くと、他の方法がありました。
 すこし小じゃれたレストランで食事をした後、この部屋にお招きをすると言う物ですが?
 さもなければ、食事後フェリス様をご自身のお部屋に送って、そのまま朝までという方法もあります。
 その場合の小道具として、シンジ様の歯ブラシを置いてくると言うのがありますね?」
「それってなにかい、これからもちょくちょく通ってお泊まりするって意思表示をしろと言うことかな?」
「フェリス様だったら、悶え狂って喜ぶのではないでしょうか?」

 悶え狂うフェリスというのに想像が付かないが、最後の案は却下することにした。方法としては悪くないのだが、フェリスの部屋に行くのならば、フェリス自身が招待してくれる必要がある。明日の状況を考えると、せいぜいこの部屋へ招待するのがせいぜいだろう。

「フェリスの部屋については、次の課題と言う事にするよ。
 明日はこの部屋に招待するから、レストランを探してくれないかな?
 基準は……そうだな、デザートのおいしいところがフェリス向きかな。
 それから、遊園地というプランを採用することにしよう。
 女の子と遊園地というのは、確かに初めての経験だからね」
「畏まりました。
 待ち合わせ方法を含め、フェリス様の電子妖精に伝えておきます」

 これで一つ重要な事は終わった。そう考えたところで、ラピスラズリから「準備ができたようですよ」とお知らせが入った。時間を確認すると、シンジが部屋を出てから40分ほど経過していた。微妙に早いのは、きっと慌てて準備をしたからに違いない。それでも40分掛かったのは、きっと色々と手こずったからなのだろう。

「それで、ちゃんと準備はできているのかな?」
「そのあたりは、とても微妙というのが一番かと。
 シンジ様が一緒に入ってあげなかったから、色々と分からなかったんじゃありませんか?
 石鹸関係でも、かなり苦労されていたみたいですからね。
 なんとか髪を乾かすことには成功したみたいですが、お風呂前よりぼさぼさになっていますよ。
 それに制服も、着方を間違っていますからね」

 それを聞く限り、微妙というのはかなり優しい表現なのだろう。かなりのやり直しを考えたシンジは、少し遅れることをエステルへの伝言に入れることにした。

「少しって、2時間ですか、それとも3時間?」

 うふっと言う反応をしたラピスラズリに、せいぜい10分とシンジは言い返した。

「シンジ様の理性って、そんなに強固な物でしたっけ?」
「小難しい数学の方程式でも考える事にするよ」
「でしたら、とびっきり難しいのをお教えしましょうか?」
「楽しそうだね?」

 シンジの皮肉に、ラピスラズリは思いっきり「楽しいです」と言い返してきた。部屋のドアが叩かれたのは、丁度その時のことだった。







続く

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