機動兵器のある風景
Scene -30







「頭使えっつうの、こら!」

 聞こえているかどうか分からないと言うきらいはあるが、サークラは理解の悪い生徒に文句を言った。シンジの進歩がめざましいと言うことで、ならばとレグルスの特訓を買って出た結果がこれである。ちなみにサークラに怒鳴られたレグルスは、上半身を穴に突っ込む形で愛機プラズマが逆立ちをしていた。

「いいかい、いくら機体を早く動かしても、空間に作ったトラップの方がもっと早く動けるんだよ。
 闇雲に突っ込むんじゃなくて、罠を察知するように感覚を大きく広げることが重要なんだ。
 それが出来れば、ボクの張った罠にも掛かることなくなるはずなんだよ」

 文句を言いながら「お〜い」と呼びかけても、いっこうに反応が返ってこなかった。これはだめだと諦めたサークラは、最後のとどめが良くなかったかと反省した。プラズマを突っ込んだ穴に、小さな爆弾……と言っても実体弾ではないのだが……を入れて、レグルスが落ちるのと同時に破裂させたのだ。しかも穴の上からも、丁寧に10発ほどお見舞いしてしまった。そのおかげとでも言うのか、どうやら完璧に失神してくれたらしい。

「本当に、君はボクと相性が悪いねぇ」

 全くと鼻から荒く息を吐き出したサークラは、逆さになったプラズマに近づいた。そして「生きてるかい?」と声を掛けてから、地面から生えた両足に手を掛けた。そしてそのまま上に引き抜こうとしたのだが、パワー不足のせいが全く動いてくれなかった。裏を返せば、それだけ深く埋まってくれたことになる。

「勢い付けて突っ込みすぎだよ、まったく……」

 予定以上にめり込んだプラズマに、サークラは丁寧に持ち上げることを放棄した。その代わりプラズマの背中側に回って、両足を肩に掛けて背負うような体勢をとった。この方が、力が入るだろうと考えたのである。
 そしてそこからそのまま前に歩き、引きずるようにしてプラズマを穴から引きずり出しことに成功した。そこまでしてもなんの反応もないところを見ると、本人はまだ気絶したままなのだろう。

「早さだけに拘るから、その分罠に填ったときの痛手が大きくなるんだよ。
 もう少しレグルスは、慎重さを身につける必要があるねぇ。
 いつもいつも、相手が自分の思惑通りに動くと思っちゃいけないんだよ。
 それはあっちの方も同じだからねぇ。
 独りよがりは、結局見透かされちゃうんだよ。
 君はテクニックが有ると思っているようだけど、それにしても独りよがりなんだよ。
 力強いだけじゃ、すぐに刺激になれてしまうんだからね」
「やっぱり、テクニックは未熟なのかしら?」

 サークラの呟きを聞きつけたアルテーミスは、その真意を確認するように聞いてきた。どうやら、アルテーミスにも心当たりがあるようだった。ただそこだけに反応しますかと、サークラは苦笑を浮かべてしまった。

「戦闘スタイルと一緒というか、全部自分の思惑通りに行くって勘違いしているんだよ。
 だから、思惑から外れるとパニックになってしまうんだ。
 あとは、大きさとか固さとか持続力とか言った、肉体的なところしか考えていないところかな。
 アルテーミス様も、そろそろ不満を感じているんじゃありませんか?」
「わ、私は、レグルスに不満はありませんわ」

 慌てて言いつくろったアルテーミスに、それなら構わないとサークラは笑った。

「でも、心当たりぐらいはあるんでしょう。
 やっぱりボクは、リシャオの方が良いですね。
 一度シンジも試してみたいんだけど、なかなか忙しそうだからなぁ」
「ドーレドーレ様は、癖になりそうって言っていましたわよ」
「マニゴルド兄も、割と直球勝負の人だからねぇ」

 だからシンジが良かったのか、よく似た二人だとレグルスとマニゴルドを思い出したサークラは、いかんいかんと小さく頭を振った。今は個人的なことより、ラウンズとしての強化の方が重要な局面だった。

「もうちょっとレグルスを鍛えたいんだけど、そろそろ戦闘態勢に入らないといけなかったね。
 ところでアルテーミス様、今回のフォーメーションってあれでいいのかなぁ」
「ハイドラ様が指揮をされることに、疑問がありますか?」
「アルテーミス様、わざと答えを外しているでしょう」

 苦笑を浮かべたサークラは、ドーレドーレ側の体制を問題とした。今回の体制変更は、名目上サークラとシンジが入れ替わっただけだった。だがアーロンとシンハが引退したことで、ドーレドーレ側の経験が不足することになったのだ。

「これまでは、ボクがシエルの補佐に付いていたじゃないか。
 でも今回は、ボクまでカノン姉の方に来ちゃったでしょう。
 そうなると、シエルの方は低位か経験不足のラウンズばっかりになっちゃうんだよ。
 シンジをボクの代わりにするつもりだろうけど、本当に大丈夫かなぁと思っちゃうんだ。
 確かに、一番大技を使えるのはシンジなんだけどね」
「それだけ、シエル様を信頼されているのではありませんか?
 あとは、今度もトロルスの発生数が少ないという見込みがあるのも理由だと思いますよ」
「でもさぁ、シエル姉の負担が重すぎるように思うんだよ」

 実際シエル・シエルのグループには、第6位のシルファを筆頭に、若いラウンズばかりが集まっていた。そのうち二人は、ラウンズに任命されたばかりだし、さらにはシンジのように初陣のラウンズもいるぐらいだ。その初陣のシンジが補佐になるのだから、運用がうまく行くとはとても思えなかったのだ。
 そうなると、すべての負担がシエルに掛かることになる。大丈夫かなぁと言うのが、サークラの正直な気持ちだった。もう一人ぐらい、経験豊富なラウンズを加えるべきだと考えたのである。

「その為に、シエル様がシンジを指導するのではありませんか?
 そのおかげで、レグルスを圧倒したときより更に強くなってしまいましたが……」
「そうだね、マニゴルド兄もカノン姉も、勝てないかもと言っていたよ。
 でもさ、トロルスとの戦いはまた別だと思うんだよ。
 めったやたら数が多いから、一人の力じゃどうにもならないんだよね」
「それぐらいのことは、ドーレドーレ様も分かっていると思いますよ。
 シンジ……シンジ様といった方が良いのかしら、シンジ様に足りないのは経験だけですから。
 ただ勉強熱心なようですから、必要なことは学ばれていると思いますよ。
 だから大丈夫だと、ドーレドーレ様はお考えなのではありませんか?」
「でも、シエルとの関係は進展しないんだよねぇ」

 ふっとため息を吐いたサークラに、「そうでしょうか?」とアルテーミスは疑問を呈した。

「私の目には、シエル様はその気になっているように見えますよ。
 どちらかと言えば、シンジ様が遠慮されているのではないでしょうか?」
「シエル姉も、余計なことを言わなければ良かったのに……
 まっ、所詮人ごとだからどうでも良いか。
 それにシエル姉には、適当な餌も見つかったみたいだし」

 ちなみに「餌」と言うのは、フェリス・フェリのことを言っていた。訓練の中で剣さえ持てば、真っ向からシエルと渡り合えると証明してくれたのだ。これでシエルの欲求不満のはけ口は、フェリスに向くことが確定したことになる。それが分かったことで、ドーレドーレの配下一同胸をなで下ろしたと噂されていた。

「エルメス、アレクサンドライトに言って、レグルスを起こしてもらえないかな?
 そろそろ反省会をしないと、可愛いリシャオが心配するからね」

 トロルスとの戦いは、およそ20日後と言われていた。それまでの間に、カノンと話して攻撃の方法を考えなければいけなかった。それを考えると、いつまでもレグルスの特訓をしているわけにはいかなかったのだ。配下の統制まで考えると、意外に時間がないとサークラは考えたのだった。
 だからさっさと話をしなければいけない、それを考えたサークラは、強制的に目を覚まさせるよう、アレクサンドライトに依頼したのだった。



 出国するにあたり、個人的に持ち出せる現金はかなり厳しく制限されていた。それもあってチフユは貰ったお金は、必要な分を除きすぐに銀行に預けることにした。そしてセシリアの忠告に従い、可能な限り安い航空券を購入した。普段とは違う行動、特に高い航空券を買おう物なら、すぐに特区に目を付けられることになってしまうと言われたのだ。
 それを主張したセシリアに、そこまでするのかとシンジは不思議がった。だが、この件については、セシリアは自分の特区を信用していなかった。だから、用心には用心に越したことはないと強く主張したのである。

 チフユ自身、贅沢するつもりは毛頭無かった。だからセシリアに言われなくても、一番安い切符を買うつもりでいた。ただセシリアが強く勧めたことには、何かあったのだなと特区との関係を想像した。

「それで、帰ってきたのは良いのだが……」

 ジュネーブを出発し、ローマで最初の乗り継ぎをし、次の乗り継ぎはカイロになった。さらにマレーシアで乗り継ぎをして、ようやく第二東京市へとたどり着いた。そしてそこからの道のりは、長距離バスと在来線を乗り継いだ。その結果、ジュネーブから50時間を掛けて、故郷へとたどり着いたのである。目の前に広がる日本海を見たとき、「おーい」と叫びたくなったのは別の話だった。
 故郷に帰り着いたのは良いのだが、何しろ一言も帰ると連絡を入れていなかった。まだ日が高いから、弟は小学校に行っているだろうし、誰も帰るとは思っていないだろう。

「おばさん、家にいるのかな……」

 帰るのに50時間も使ったせいで、時間の猶予はあまりなくなっていた。この3日の内に弟の気持ちを聞いて、残りの日々をどうするか考えなくてはいけない。あまり考えなくても良いのは有り難いが、時間がなさ過ぎるというのも正直なところだった。もう少し贅沢をして、直行便を選べば良かったと後悔したぐらいだ。

 ゆっくりと駅からまっすぐに伸びた道を山側に歩いて行った。途中小さな商店街があったのだが、運が良いのか知っている顔とは会わなかった。多少人通りが多いのは、何かの催しがあるのだろうか。
 そしてそのまままっすぐ住宅地に入ったチフユは、目指す叔母の家へとたどり着いた。そしていよいよチャイムを押そうとしたところで、後ろから「チーちゃんじゃない」と懐かしい声を掛けられた。

「お、お前はカナメか」
「そうよチーちゃん、とても久しぶりだねぇ。
 ところで、どうしてこんな所に居るの?」

 チフユを呼び止めたのは、幼なじみの篠原カナメという少女だった。高校の制服に身を包んだカナメは、驚いた顔をしてチフユのことを見た。

「うむ、いろいろな事があったので、ひとまずワカバの顔を見に帰ってきたんだ」
「そっか、じゃあ、邪魔しちゃいけないね。
 ところでチーちゃん、こっちにはいつまでいるの?」
「今のところ、来週の月曜には出発する予定だ」

 指を折って予定を考えたチフユに、良かったとカナメはにっこり笑った。

「じゃあ、土日と一緒に遊べるね。
 良かったら、ヨーロッパのお土産話を教えてよ!」
「あ、ああ、それぐらいは構わないが……」

 カナメの勢いに押されたチフユは、そのまま土日の約束をしてしまった。土曜の待ち合わせ時間まで決めたカナメは、そのまま「じゃあ」と手を振ってスキップして帰って行った。

「カナメの奴、変わらないというか……しかし、髪を茶色にするのがはやっているのか?」

 中学の頃は、カナメは黒い髪を両側で三つ編みにしていた。それが会ってみたら、すっかり茶髪の女性に変わっていた。頭のてっぺんが黒いのは気になったが、ずいぶん変わったものだと感心してしまったのだ。ただ似合っているかというと、いささか微妙というのがチフユの感想だった。

「私が茶髪にしたら、驚かれるだろうか……」

 背中ぐらいまで伸びた黒髪を、チフユは手にとってみた。そしてシンジの顔を思い浮かべながら、茶髪にした自分を思い浮かべてみた。だがそこで現実に気づいたチフユは、どうしてそうなると自分自身に突っ込みの言葉を入れた。

「いったい何を考えているんだ。
 私は、機動兵器に乗るためアースガルズに行くんだぞ」

 そんな色っぽい関係ではないはずだ。チフユは自分に対して、勘違いするなと言い聞かせたのだ。言い聞かせながら、チフユは最初にあったシンジのことを思い出した。あのときは、抱かれるつもりでアパートに連れて帰り、人生初めてのキスをした。そこから先は思い出したくないが、破裂するのではと思うほど心臓がどきどきしたのは覚えていた。

「キス、したのだよな……」

 そっと口元に指をあて、チフユはそのときのことを思い出し顔を赤くしていた。よくよく思い出してみると、小学校、中学校と全く男気のない生活を送っていた。それはセルンでも同じで、毎日訓練に明け暮れていたのだ。その自分が、まさか会ったばかりの男と口づけをするとは思ってみなかった。キスをするのだから、シンジの顔はアップで覚えている。それがよみがえったチフユは、爆発しそうな心臓を押さえたのだった。

 人の玄関前で、チャイムも押さずに身もだえている。端から見れば、さも奇妙な光景に違いない。そしてそんなことをすれば、思いも掛けない事態が起きるのが約束という物だ。ただ平和な田舎町だから、せいぜい「チフユさん?」と家人が帰ってくる程度のことなのだが。
 へっと振り返ったチフユに、「やっぱりチフユさんね」と声を掛けた主、すなわちチフユの叔母に当たる女性は喜んだ。

「大人っぽくなったから、すっかり見違えてしまったわ。
 さあさあ、そんなところにいないで上がってちょうだい。
 1時間もしたら、ワカバ君も帰ってくるわよ」
「え、は、はい……」

 さあさあと追い立てられるように、チフユは叔母の家の敷居をまたいだ。そこでスーツケースを中に入れようとしたのだが、「置いておきなさい」と叔母に言われてしまった。

「すぐにぞうきんを持ってくるから、綺麗に拭いてからにしましょうね。
 あと、二階に部屋が余っているから、後で運んであげるわよ。
 長旅で大変だったでしょう、お風呂なら湧いているから先に入ったら?」
「い、いえ、その、お風呂はもっと後でも……」

 遠慮したチフユに、「子供は遠慮しないの!」とチフユの叔母、イチカは注意した。

「髪とかべたついているから、お風呂に入っていないんでしょう。
 だったら、ワカバ君の為にもさっさと綺麗にしていらっしゃい!」
「でしたら、お言葉に甘えて……」

 そのままお風呂に行こうとしたチフユだったが、すぐに着替えがないことに気がついた。間接的に汗臭いと言われたのだから、お風呂に入った後も同じ格好というわけにはいかないだろう。

「その、着替えはスーツケースの中に入っているのですが」
「だったら、すぐにぞうきんを持ってくるわね」

 ちょっと待っててと、叔母のイチカはスリッパの音を立てて家の中に消えていった。相変わらず元気な人だと感心したチフユだったが、そこで初めて叔母が驚いていないことに気がついた。連絡もなくいきなり帰ってきたのだから、普通はもっと驚くはずだ。
 どうしてだろうと考えていたら、ぞうきんを取りに帰った割には長い時間を掛け、イチカがぱたぱたとスリッパの音を立てて戻ってきた。玄関の上がり框から立ち上がったチフユは、叔母の手にあった物に目を丸くすることになった。

「あっ、これ? お風呂上がりに着て貰おうと思ったのよ。
 私のお古で悪いけど、浴衣だから多少派手でも構わないわよね?」
「あ、ありがとう……」

 予想外のことばかりされるため、チフユは疑問をはらすことは出来なかった。そしてイチカにせかされるまま、玄関脇のお風呂にはいったのだった。

 それから30分ほど掛けてお風呂に入ったチフユは、朝顔の柄の付いた浴衣に身を包んだ。ただこのときの問題は、過去浴衣を着た記憶がなかったことだった。どうしたらいいのか悪戦苦闘したチフユは、結局叔母の手助けを求めたのである。

「こうしてみると、姉さんに似てきたわね」
「母に……ですか? あまり記憶がないのだけど」
「そりゃあワカバ君が生まれてすぐだから、あなたはまだ小さかったからね。
 それにコウイチ兄さんも後妻さんを貰ったから、写真を残してはおけなかったんでしょうね。
 はい、綺麗に出来ましたっ!」

 おしまいと背中を叩いたイチカは、いらっしゃいと手招きをしてチフユを台所に連れて行った。食卓テーブルを見ると、水ようかんと麦茶が置かれていた。

「晩ご飯は、そうめんと天ぷらでも良かったかしら?
 揚げ物が良かったら、冷凍だけどメンチカツもあるわよ」
「い、いえ、それで結構です……」

 未だに主導権を取り戻せないチフユだったが、意を決してイチカに向かって「叔母さん」と呼びかけた。そんなチフユに、イチカは流しに向かったまま「話したくないことは話さなくても良いのよ」と返した。それでチフユは、叔母が驚いていない理由を確信した。

「私が帰ってくることを知っていたのですね」
「一昨日、特区の人が訪ねてきたのよ。
 もしも良ければ、電話をして欲しいと名刺を置いて行かれたわ」
「そう、ですか……」

 考えてみれば、日本側の特区が動くのはあり得る話だった。いくら首になったとは言え、レベル認定では3に達したパイロットなのだ。それをそのまま放置するのは、特区の役割から行けばあり得ない話だった。

「何があったのかは知らないけど、これからどうするつもり?
 もしもチフユさんさえ良ければだけど、うちの子になってくれないかしら?」
「ワカバだけでもご迷惑を掛けているのに……」

 遠慮したチフユに、何を今更とイチカは笑った。

「子供が心配するようなことじゃないわよ。
 それに、あなたたちは死んだ姉さんの忘れ形見だからね。
 頼りない大黒柱で悪いけど、節約すればあなたぐらい高校に通わせることが出来るわよ。
 ワカバ君の為にも、普通の生活を送ることを考えなさい」

 シンジに示された以外に、弟と一緒に暮らす道が示されたのだ。叔母の言葉に、チフユの心は大きく揺れることになった。確かに叔母が言う通り、普通の生活に対して憧れがあった。ここに残れば、戦いとは関係のない生活を送ることができるのかもしれない。
 シンジとセシリアからお金は貰っていたが、それを返せばアースガルズの話もご破算になる。月曜に連絡が入ったとき、それを伝えれば良いのだとチフユは考えた。

「私のことをワカバは?」
「休暇で帰ってくるとしか教えてないわ。
 ずいぶんと喜んでいたから、きっといつもより早く帰ってくるわね」
「そう、ですか……」

 弟が事情を知らないことに、チフユの気持ちは激しく揺れた。このまま叔母の養女となったとき、弟は自分が逃げたことを知ることになるだろう。パイロットになると伝えたときの顔を思い出すと、負け犬になることを認めるのは死にたくなるほど悲しかった。
 それに気づいたイチカは、優しい声で「どうするの」と聞き直した。

「チフユさん、特区に戻ってやり直したい?
 ワカバ君の為にも、地球を救うパイロットになりたいと思ってる?」
「叔母さんのご厚意は、とても嬉しくて……本当にありがたいと思っています。
 でも、このままだと私、ずっと負けたまま一生を過ごしてしまいそうなんです。
 私は、いつまでもワカバに憧れてもらえる姉で居たいんです!」

 思いの丈を吐きだしたチフユに、良かったとイチカは微笑んだ。

「特区の人に話を聞いたとき、心が折れているんじゃないかと心配したのよ。
 でも、帰ってきたあなたを見たら、心が折れた様子は見られなかったわ。
 そして今、あなたはワカバ君の憧れで居続けたいと言ってくれたわ。
 さすがはアキラ姉さんの娘よね」

 それでと、イチカはもう一度チフユにどうするのかを聞いた。憧れで居続けるためには、特区でパイロットに戻る必要がある。そのための道が用意されていることもあり、そうするのかとイチカは尋ねたのだった。

「それなんですが、弟と一緒に私の面倒を見てくれるという人が居るんです。
 ワカバと話をして、私と一緒に来るのかどうかを決めようかと思ったんですけど」
「綺麗になったと思っていたら、やっぱり好きな人が出来ていたのね!
 ワカバ君も一緒にだなんて、結構できた人と巡り会えたのね。
 少し早い気もするけど、悪い選択じゃないと思うわ。
 ただお嫁さんじゃぁ、逆にワカバ君ががっかりするんじゃないかしら?
 大好きなお姉さんが、他の男の人にとられちゃうんだから」

 困ったわねとあごに人差し指を当てた叔母に、「結婚じゃありません!」とチフユは大声を出した。

「じゃあ、お妾さん?
 チフユさんは綺麗だから、そう言う人が居てもおかしくないと思うけど……
 それって、思いっきりプライドを捨ててない?」
「そ、それも、大きな勘違いです!!」

 実のところ、お金で体を売ろうとしたことがある。だから叔母の言うことも、大きく外れているとは言えない。特にプライドを持ち出されるのは、未だに結構辛いところがある。

「まだ、詳しいことを言うわけにはいかないんですけど。
 実は、その人が月曜に迎えに来ることになっているんです。
 遠いところに行くから、ワカバを連れて行って良いのかを迷っていて……
 でも、一度行くと帰ってこられるかどうかも分からないし……」
「チフユさんっ!!」
「は、はいっ!!」

 なぜか驚いた顔をした叔母に迫られたチフユは、背筋を伸ばして向き合った。

「早まった真似をしないでね。
 生きていれば、何度でもやり直しの機会はあるんだからね」
「どうして、私が死ぬって話になるんですか。
 しかもワカバを道連れにするだなんて、絶対にそんな真似はしません!!」
「なぁんだ、違うのかぁ……」

 ほっとしたような、残念なような、複雑な表情を浮かべた叔母を、チフユは少しだけ睨み付けた。どうもからかって喜んでいるように見えたのだ。

「事情があって、まだ行き先を説明できないだけです。
 その人には、ワカバを連れてきて欲しいと言われたのですが、
 私一人だけなら、養育費を送ってくれると言われました」
「そこまでしてくれるのに、結婚はしてくれないのぉ?」

 肝心な部分を隠して話をすると、どうも話はおかしな方にねじ曲がってしまう。だからと言って、アースガルズに行くと言うことを説明は出来なかった。もしもそのことが叔母の口から誰かに伝わったら、きっと色々な問題が起きることになるだろう。特区に関わらなくても、町を挙げての歓迎と言うことになるかも知れない。
 それはぞっとしないと考えたチフユは、月曜なら話せると解決を先延ばしにすることにした。それでも悩んだのは、弟にどう説明するのかと言うことだった。アースガルズの話を出したら、きっと嬉しくなってそこら中で吹聴してくれることだろう。

 これまで散々世話になったのだから、義理を欠くことをして言い訳がない。話をするために帰っては来たが、話すこと自身が難しいのをチフユは思い知ったのだった。



 弟に、しかも小学校5年生に気を遣わせるのはどう言うことか。自分を見て喜ぶワカバに、チフユは演技を感じさせられてしまった。そして同時に、自分が弟のことを心配するのと同様に、弟にも心配されていたのだと気付かされた。
 だが難しい話は後と、チフユは弟との再会を喜ぶことにした。

「それで姉ちゃん、いつまでこっちにいられるの?」
「それだがな、月曜には出発する予定で居る」
「じゃあ、土曜日曜と一緒に居られるんだね!」

 良かったと喜ぶワカバに、「それが」とチフユは申し訳なさそうに謝った。

「帰ってきたところで、カナメに捕まってしまったのだ。
 そしてなし崩しに、土日の約束をさせられてしまった」
「カナメさんって……ああ、コウキの姉ちゃんか。
 だったら、ボク達が一緒に居ても良いんじゃないのかなぁ!」
「ボク達という以上、コウキちゃんも一緒と言う事か?」

 そこから考えると、弟には仲の良い女友達が居ると言うことになる。アースガルズに連れて行くと言うことは、その友達から引き離すことになってしまう。それを考えると、やはり置いていくべきかとチフユは考えた。

「ところで、コウキちゃんはお前のガールフレンドなのか?」
「姉ちゃん、小学校5年生に向かって何を言っているんだよ。
 コウキは、俺の剣道のライバルだよ。
 ここのところ、勝ったり負けたりを繰り返しているんだ」
「ガールフレンドと言うことは無いのか?」

 そこに拘った姉に向かって、「自分のことを棚に上げるな!」とワカバは言い返した。

「そこまでコウキのことをガールフレンドと言いたいんだったら、姉ちゃんはボーイフレンドが居るのかよ!」「わ、私は、こっちにいるときは全くもてなかったからな。
 それに、セルンにいたときはずっと訓練漬けになっていた」

 だから居ないと答えた姉に、ワカバははっきりと分かるため息を吐いて見せた。

「コウキが言うには、結構人気があったらしいんだよ。
 でも、男なんてって態度を取るから……」

 はあっともう一度ため息を吐いたワカバは、特区のことを持ち出した。

「パイロットしてたって、恋人の一人ぐらい作れるだろう?
 有名な渚カヲルさんも、パイロットの恋人が居るって週刊誌に書かれているんだよ。
 特に男女関係を制限しないって、週刊誌のコメントにも載ってるって話だし」
「そ、それは、日本の事情を言っているだけだ。
 スイスでは、それは厳格に管理されていたんだぞ」

 セシリアに言わせれば、「大嘘」とすぐさま指摘されるだろう。規律の面では、セルンの方が緩いというのがセシリアの分析だった。とは言えそれを押し通せば、少なくとも弟を納得させられるはずだとチフユは考えた。
 ただチフユの考え以上に、弟の方が上手だったようだ。

「姉ちゃん、それに逃げ込んでいない?
 俺を理由に、姉ちゃんが幸せを諦めて欲しくないんだぜ!」
「ずいぶんと大人じみたことを言ってくれるんだな」

 驚くと同時に、生意気なとチフユは弟を睨み付けた。だがその視線を受け流し、ワカバはチフユの弱点を突いてきた。

「でもなぁ、姉ちゃんはおしゃれはからきし駄目だし。
 料理も全くできないだろう?
 それどころか、整理整頓もできてないじゃないか。
 それを考えると、相手はよほどできた人じゃないと駄目ってことか。
 いっそのこと、お嫁さんを貰った方が良いんじゃないのかな」
「お前は、姉に向かってずいぶんなことを言ってくれるのだな」
「その浴衣にしたって、叔母さんに着せて貰ったんだろう?
 それに料理ができないのは、酷い目にあって懲りているからね」
「あ、あれは、たまたまだ……」

 昔のことを持ち出されると、さすがにチフユも旗色が悪くなる。困ったなぁと悩んでいたら、叔母のイチカが助け船らしきものを出してくれた。

「大丈夫よ、ワカバ君のお母さんも、高校ぐらいまではさっぱりだったんだから。
 でもね、女なんて男次第でどうにでも変わるものなのよ。
 チフユさんも、いい人を見つけたらきっと変わると思うわよ」
「そのいい人が見つかるのかって話なんだけどね……」

 ふっと息を吐き出したワカバは、「分かったよ」と年に似合わぬ妥協を示した。

「姉ちゃんには、まだその方面の期待ができないことだけは分かったよ」
「だったらワカバ、お前が私の面倒を見てくれるのか?」
「俺がぁ〜 俺にだって、自分の人生があるんだけどなぁ。
 行き遅れの姉の面倒を見て暮らすのなんて、はっきり言って負け組だろう?」

 ずばずばと言い切る弟に、チフユははっきりとこめかみを引きつらせた。姉としては、ここは可愛く「お姉ちゃんの面倒は俺が見る!」と言って欲しいところだった。それを言うに事欠いて、「負け組」は無いだろうと言いたかった。
 だがそれを考えるのは、かなりのブラコンに違いない。自分は正常だと浮かんだ考えを否定したチフユは、「将来の夢」をワカバに聞くことにした。もともと自覚をしていたが、異性関係の話は辛すぎた。

「お前は、大きくなったら何になるつもりだ?」
「俺っ!? 俺は、機動兵器のパイロットになるんだ。
 凄いパイロットになって、姉ちゃんや叔母さんを守ってあげるんだぜ!」

 ようやく子供らしい話をしてくれたことに安堵したチフユは、それは楽しみだと弟に答えた。

「それで、誰か憧れる人は居るのか?」
「俺の憧れは、碇シンジさんだっ!」
「渚カヲルさんとかじゃなくて、碇さんなのか?」

 いきなり出た名前に少し動揺したチフユに、「当たり前だろう?」とワカバは言い返した。

「だって、レベルがぜんぜん違うじゃないか。
 時々ニュースにでるんだけど、碇さんってもの凄い人だって話だろう。
 セルンでの訓練では、神様みたいな機動兵器の使い方を見せてくれたって話なんだ。
 スロービデオでも、まともな映像にならないぐらい凄かったんだぜ。
 同じ日本人に、あんなに凄い人がいるのが信じられないんだ」

 「だから碇さん」と繰り返す弟に、「テレビで放送したのか」とチフユは聞き返した。特区の訓練状況ともなると、厳重に管理されなければいけないものとなる。それがテレビ公開されたことに、チフユは素直に驚かされた。
 だがワカバにしてみれば、何を今更というところだった。アースガルズ一行が来る前から、散々テレビで持ち出された話題だったのだ。そして訓練開始と共に、詳細な映像情報が公開された。それを見せつけられると、憧れる相手は碇シンジ以外にあり得なかったのだ。

「今の世界は、情報公開が進んでいるんだよ。
 だから訓練の様子も、ちゃんとテレビで放送されているんだ。
 アースガルズの女パイロットと並んでいるところなんて、もの凄く格好良いんだぜ。
 だから、学校でもみんな碇さんに憧れているんだ。
 あのコウキだって、碇さん素敵って舞い上がっているんだぜ」

 その女パイロット、すなわちフェリスとは正面から向かい合ったことがある。その時の印象は、鋭すぎる刃というものだった。その刃を御することができるのだから、確かに「格好良い」のには違いないだろう。それもあって、「確かに格好良いな」とチフユは正直な感想を口にした。

「そうだろう!
 だから俺は、碇さんを目標にしたんだ!」
「だけどワカバ、碇さんはアースガルズにいるのだぞ。
 こちらにいては、追いかけるのも難しいんじゃないのかな?」
「そうなんだよなぁ、教えて貰うにしても機会がないんだろうし。
 ずば抜けているから、碇さんに教えて貰いたいんだけど……
 どうして、アースガルズと俺たちの世界は、自由に行き来できないんだろう。
 あれぐらいの人なら、きっと姉ちゃんだって惚れると思うんだ」

 その碇シンジとキスをして、正体無く失神してしまったのが目の前に居る姉なのである。絶対に口にできないことなのだが、ワカバの言葉に「弟なのだな」と感心してしまった。だからと言って、月曜に碇シンジが来ること、そして自分をアースガルズに連れて行くことを今話すわけにはいかない。しかも碇シンジは、弟と一緒にと言ってくれている。それも含めて、今話すわけにはいかないだろうとチフユは考えた。
 だからチフユは、「あれぐらいの人」と言う弟の言葉に反応することにした。

「なあワカバ、お前はこの私のことをどう考えているのだ。
 あれぐらいの人ならとは、ずいぶんと失礼な言い方ではないのか?」
「そうは言うけど、姉ちゃんってずいぶんと奥手だろう?
 ヨーロッパでも彼氏を作れなかったんだから、やっぱりあれぐらいの人じゃないと無理だと思うんだ」

 事実をありのままにつなぎ合わせて分析をすれば、ワカバの言う事は何一つとして間違っていないのだろう。と言うか、会ったその日に部屋にまで連れ込んだのだから、きっと相性的にも良いのに違いない。お金を理由にはしたが、この人なら良いと思ったのも事実だったのだ。いくらやけになっていたからと言っても、そう考えること自体チフユにとって奇跡的なことに違いなかったのだ。

「ま、まあ、私のことは置いておくとして。
 ワカバ、もしも碇さんに指導して貰えるとしたら、お前はアースガルズに行くつもりがあるのか?
 アースガルズに行ってしまうと、コウキちゃんとも離ればなれになってしまうんだぞ」
「有りもしないことで、何をマジになっているんだよ。
 俺がアースガルズに行く事なんて、まかり間違ってもあり得ないだろう。
 テレビでも言っていたけど、将来こっちのパイロットが訓練を受けるかも知れないらしいんだ。
 行くとしたら、そう言う人達がアースガルズに行くことになるんだよ」
「だ、だから、もしもと聞いているんだ」

 こうやって正論を返されると、どちらが年上なのか分かった物ではない。それでも気持ちだけは聞いておこうと、チフユは「もしも」の話を繰り返した。

「あり得ないことをマジに答えても仕方が無いんだけどなぁ。
 でも、行けるんだったら行ってみたいと普通は考えるよ」
「普通はと言うところを見ると、お前は違うのか?」
「俺は、姉ちゃんと違って結構普通だと思っているんだけど?」

 だから行ってみたいと、軽くワカバは答えたのだった。







続く

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