機動兵器のある風景
Scene -25







 アースガルズからの連絡に、特区第三新東京市に派遣されたメンバーは直ちに特区セルンに呼び戻された。相手を考えると待たせるわけにはいかないし、与えられた時間を考えれば、僅かな時間も無駄にするわけにはいかないと考えられたのだ。
 そして愛機ウンディーネに先行してセルンに戻ったセシリアは、帰還早々代表であるライツィンガーから呼び出され、そこで特命としてラウンズの世話係を任命されることになった。

「その、非常に有り難い命令だと思いますが、本当によろしいのでしょうか?」

 日本だったら自由で居られたが、地元に帰ると様々なしがらみがついて回ってくる。色々な雑音があることは、セシリア自身自覚していることだった。だからこっそり個人的にと考えていたのだが、まさか正式な仕事として認められるとは考えていなかった。
 そんなセシリアに、ライツィンガーは「必要な措置だ」と言ってのけた。

「我々内部の問題より、アースガルズを優先したに過ぎない。
 何が理由で機嫌を損ねかねないことを考えれば、慎重になってもおかしくはないのだ。
 それほどまでに、アースガルズからの来訪は大きな意味を持ってくるのだよ」

 にこりとも笑みを浮かべないライツィンガーは、セシリアにとっては苦手な相手だった。そしてライツィンガーは、17の少女に対して、非常に微妙な命令を発してくれた。

「君には、四六時中シンジ碇と同行することを命ずる。
 そのために必要な措置は、君の判断で行ってくれて構わない」
「四六時中……でしょうか……」

 その命令を発した意味を考えると、喜んでばかりはいられないとセシリアは思っていた。四六時中一緒に居ろと言うのは、性交渉を含めて接待を行えと言っているのだ。それが命令となる事は、さすがに異常だと思えてしまう。いくら命令の方向が個人的願望と一致したとしても、基地指令として未成年者に下して良い命令ではないのだ。
 「四六時中?」と復唱したセシリアに、ライツィンガーは「四六時中だ」と繰り返した。

「今更その程度のことが問題になる関係では無いと承知している。
 煩く言ってくる奴が居たら、代表命令だと答えておけば問題なかろう」
「命令は承知しましたわ」

 ここで拒否することは、お互いにとって利益とならないのは明白だった。だから疑問は感じても、セシリアはその命令を受け入れることにした。
 感情のこもらない声で「よろしい」と口にしたライツィンガーは、デスクの引き出しから分厚い封筒を取り出した。それを「当座の資金だ」と言ってセシリアに手渡した。通常なら、経費処理用のカードが渡されるところである。わざわざ現金で用意されたところが、出所の胡散臭さを証明していた。

「経理処置の済んだ資金だ。
 領収書他、一切の処置は必要ない。
 これをどう使おうと勝手だし、余ったからと言って返却の必要もない。
 もしも足りないようなことがあれば、ヤコブセンに言えば追加を用意させる」
「普通、こんなに使い切れないと思いますわ」

 中身を確認すると、ぎっしりと高額なユーロ紙幣が詰まっていた。それはセシリアの常識から言っても多額で、一週間の遊興費だと考えると、どう頑張っても使い切れるものではなかった。
 それでも突き返すと、新たな問題となるのは目に見えていた。だから使い切れないとは言ったが、その札束をセシリアは受け取った。

「私の用はこれだけだ。
 セシリア・ブリジッド、後はパイロットとして必要な責務を果たしたまえ」
「はい、セシリア・ブリジッド、特区第三新東京市での任務より帰任します!」

 ライツィンガーに敬礼をしたセシリアは、「失礼しました」と言って代表室を退出した。それを無表情に見送ったライツィンガーに、「よろしいのですか?」とヤコブセンが耳打ちをした。

「世界的に見ても、レベル5を超えるパイロットは4名しか居ません。
 そのうち1名、しかも我々にとっての虎の子を、しばらく離脱させるのですか?」
「接触の機会が限られることを考えれば、必要な措置と言う事だ。
 それに、すぐに離脱するわけではないだろう。
 たとえそう言う事になったとしても、使徒迎撃に影響は出ないと分析されている」
「とは言え、支援が来るまで持ちこたえる必要がありますが……」

 ライツィンガーの言う分析は、当然ヤコブセンも承知していることだった。現状彼らの持つ戦力では、たとえ少数であっても、使徒相手に持ちこたえることはできないし、それを前提にアースガルズから支援が行われると分析していた。

「しかし、我々の管理責任が問われそうですな」
「自由恋愛の結果に、口を挟む真似はしないと言っておけばいい」

 その程度で済む話ではないのだが、建前を押し通すことは必要なことに違いない。しかも建前の裏にあるものは、各国で必要性を認められるものである。それが分かっているから、ヤコブセンも通り一遍の意見しかすることはできなかった。今のセシリアは、パイロットとしての価値より、アースガルズとの関係の方が重く見られていた。たとえ離脱することになっても、より関係強化となればそれでよいと考えられたのだ。



 代表室を辞したセシリアは、帰国に伴うメディカルチェックを受けていた。EU圏外からの帰任と言う事もあり、血液検査を含め入念な検査が行われた。それ自体規定の内であり、責任を考えれば不思議なことではないと思っていた。

「ラウラ先生、特に問題はありませんよね?」

 パイロットとして、日常的にメディカルチェックは受けていた。それもあって、担当医のラウラ・ハルトマンとは顔なじみだった。体調の良さもあり、セシリアは気軽に声を掛けた。
 金色と黒がまだらになった短髪に、小さな眼鏡と言うのがラウラのトレードマークになっていた。齢は30越えというのが定説となっていたが、誰も怖くて本当の年齢を聞いたことがなかった。

「そうね、性病の感染もないようだし、妊娠の兆候も出ていないわね」

 電子カルテに目を走らせたラウラは、小さな眼鏡を指で押あげ、事務的にセシリアに結果を告げた。ただ最初に告げられた結果は、セシリアに取ってとても不満の残るものだった。

「先生、まず最初にそれを言うのですか?」
「女として、非常に重要な事に違いないでしょう。
 それともセシリアは、妊娠や性病は気にならないとでも言うのかしら?」
「それは、確かに性病を貰うのは困りますけど……
 ヴァルキュリアの相手をなさる方ですから、その方面の心配は要らないのかと」

 そんな物を持っていたら、きっと全力で治療をしてくれることだろう。それを主張したセシリアに、ラウラはにこりともしないで、「妊娠は良いのか?」と聞き返してきた。

「あなたの話を聞いていると、妊娠は困ったことには入っていないように聞こえるのだけど?」
「そのあたりは、お互い気をつけていましたから。
 それに愛する殿方の子供を授かるのなら、困ると言うことは無いと思いますわ」
「なるほど、それは確かに一理あるわね……
 妊娠することは特に問題は無いと考えている(ただし相手はシンジ碇に限る)と」

 そう声を出しながら電子カルテに打ち込まれれば、さすがにそれは無いでしょうと抗議したくなる。中身自体は否定するつもりはないが、さすがに配慮があって然るべきだと言いたかった。

「さすがに、特定の殿方の名前を括弧書きするのは問題があると思いますわ」
「そう、私はありのままの事実を記載しただけよ?」

 そこで名前を削除せず、「相手に関して本人も肯定」と書くのはどう言うことだろうか。しかも変更を確定してくれたから、今から消しても履歴が残ってしまうのだ。

「ラウラ先生……」
「ああ、それから言っておくけど、検査の結果は正常その物よ。
 粘膜接触による感染もないみたいだから、特に問題は無いと思うわよ」
「そう言うところに拘りますか……」

 はあっとため息を吐いたセシリアに、初めてラウラは感情を顔に表した。
 口元を押さえて笑ったラウラは、「面白いからよ」と問題のある発言をしてくれた。

「相手があなたらしいと言うのか、あなたらしくないというのか。
 自分が一番のあなたにしては、よく独占できない相手と関係したものね。
 そもそも、どうして急にする気になったのかしら?」
「今でも、自分が一番というのは変わっていませんわ。
 それに、競争相手もこちらの世界の方ではありませんから」
「あなたのご両親が聞いたら、きっと卒倒なさることでしょうね」

 セシリアと話をしながら、観察記録としてラウラはその振る舞いを記入していった。

「お話しするようなことではないと思っていますわ」
「でも、間違いなく情報は掴んでらっしゃるわよ。
 人の口に戸は立てられないものなのよ。
 それに、できちゃったら話さないわけにはいかないでしょう?」

 つまりセシリアがラウンズと関係したと言う事は、特区の中に広がっているという事になる。日本であからさまだったことを考えれば、それがこちらに伝わったとしても不思議ではないのだろう。裏を返せば、それほどまでにアースガルズが謎に包まれているという意味でもあったのだ。

「まあ、相手がラウンズと言っても、中身はこちらから行った青年なのよね。
 日本人と言うことを忘れれば、さほど抵抗は無いと言った方が良いのかしら?」
「日本人というのは、忘れなくてはいけないことなのでしょうか?」

 差別的な話は、もはや過去の話だと思っていたところがある。それを敢えて持ち出したラウラに、いかがなものかとセシリアは疑問を呈した。
 そんなセシリアに、「根が深いのよ」とラウラは問題を肯定した。

「シンジ碇に対しては、絶対にそんな面を見せないでしょうけど。
 新世界が現れたことで、私たちの中での駆け引きが激しくなったと言えるわね」
「その駆け引きのコマに、私はなってしまったのですね?」

 特区代表の態度を見れば、それぐらいのことは理解することができた。渡された多額の現金にしても、世話をする以上の意味も含まれているのは間違いない。ただそれならそれで、逆に安すぎだとセシリアは文句を言いたかった。

「まあ、あまり気にしないことね。
 人間関係が大きな意味を持っている以上、余計な手出しをするわけにも行かないから」
「あまり安心できるお話しではなさそうですわね」

 少し唇を尖らせたセシリアに、「分かるのはこの程度」とラウラは苦笑を浮かべた。

「たかが医者に、あまり情報は降りてこないのよ」
「そのあたりは、私には分かりませんわ」
「まあ、パイロットもそんなものよね」

 少し投げやりな答えを返しながら、ラウラは電子カルテにビタミン剤の名前を打ち込んだ。

「お肌が荒れないように、BC系のビタミン剤を出しておくわ」
「確かに、ここのところハードスケジュールですわね」

 これでお終いというラウラに、セシリアは「ありがとう」と言って席を立った。そしてそのまま立ち去ろうとしたセシリアを、「ちょっと」と言ってラウラが呼び止めた。

「まだ何かございますの?」
「たぶん、要らないんだろうとは思うんだけどねぇ。
 男性用の精力剤が必要だったら、遠慮しないで相談してね。
 普段なら高くて手が出せないような奴でも融通してあげるから」
「間違いなく、大きなお世話に類することだと思いますわ」

 さすがに異常だし、淑女としてそれを用意するのはどうかと思えるのだ。だからセシリアは、ラウラの好意(?)に対して、丁重にお断りの言葉を捧げたのだった。



 アースガルズから提供された訓練プログラムは、セシリアを経由して特区セルンにも展開されていた。ただ日本ではそれなりに効果を発揮したプログラムも、セルンでの効果は今ひとつというのが現実だった。その理由として考えられたのは、セルンには直接指導を受けた者がいないと言うことだった。感覚的なことが多いため、マニュアルだけでは分かりにくいとされたのである。その意味でも、指導を受けたセシリアの早い帰還が期待されることになった。
 色々と言われたメディカルを通過したセシリアは、その足でパイロット達の溜まり場になっているカフェへと顔を出した。すでに夕刻となっていたため、全員がそこに溜まっていると推測したのだ。

 果たしてセシリアが推測したとおり、トレーニングを終えたパイロット達が、三々五々カフェで夕食をとっていた。そのうちの一人がセシリアを見つけ、「帰ってきたぁ!」と大きな声を上げた。

「お帰りセシリア、こっちまで評判が伝わってきたわよ!」
「ただいまフランソアさん、ところでどのような評判が伝わっていますの?」

 食事途中で駆け寄ってきたフランソア・デュポンに、セルンまで伝わる評判の中身を尋ねた。代表やメディカルで色々と言われたため、多少セシリアも神経質になっていた。そして危惧した通り、返ってきたのはあまり嬉しくない決めつけだった。

「う〜ん、日本だと、セシリアはエロイって評判なんだよね?」
「どうして、そのように歪んで伝わりますの!?」

 心外だと嘆くセシリアに、フランソアは口元を押さえて「冗談よ」と小さく笑った。

「でも、女の戦いに勝ったって聞いたよ」
「女の戦いって言われましても、ほとんど不戦勝だと思いますわ。
 ですけど、こちらにもそんな話が伝わっていますのね」

 はあっとため息を吐いたセシリアに、仕方がないよとフランソアは笑った。

「相手が相手だから、どうしても話題になっちゃうのよ。
 それで、ラウンズ二人と3Pをしてみてどうだった?」
「ですから、どうしてそのように歪んで話が伝わるのでしょう」
「でもさぁ、会ったその日に純潔を捧げたのは確かなんでしょう?」

 フランソアに遅れて寄ってきた中の一人、ブレンダはいきなり核心を突いてきた。そして集まった少女達は、声を揃えて「エロイなぁ!」と声を掛けてきた。

「なんかぁ、お尻のあたりの充実感が変わっていない?」
「っていうかぁ、心なしかふっくらとしてきていない?」
「ええぇっ、セシリア避妊に失敗しちゃったのぉ!?」

 なぜそんな話が中心になるのか。はぁっともう一度ため息を吐いたセシリアは、「話題が違うと思いますわ」と現状に文句を言った。

「世界でたった4人しかいないオーバーレベル5になったのですよ。
 パイロットとしては、そちらが重要だとは思いませんの?」
「え〜っ、そんなの明日訓練で話せば済むことでしょう?」
「セシリアの話を聞いて、何人もの男子が滂沱の涙を流したのよ」
「でもさぁ、どう考えても競争相手が悪いわよね。
 テラだったっけ、私たちの世界からただ一人神の世界に招かれた戦士なんだもんね!」

 いくら方向を変えようとしても、集まった少女達の興味はセシリアとラウンズの関係に集中していた。わいわいきゃあきゃあと騒ぐ少女達に、こんなだったかしらとセシリアはホームの雰囲気を考えた。そして特区第三新東京市の統制が優れているのを、今更ながらに思い知らされたのである。
 まったくとため息を吐いたセシリアは、浮かれている場合ではないと注意をしようとした。だがその声が発せられる直前、がたんと大きな音を立てて一人の女性が立ち上がった。長い黒髪をした日本人に見えるその女性は、食事の終わったトレーを持って騒ぎを無視するように出て行った。そのおかげで、騒いでいた少女達も思わず黙ってしまった。

「チフユさん、どうかしましたの?」

 特に仲が良いと言うことはなかったが、それでも普通に話をしていたはずだ。それなのに、今日に限っては視線さえ向けてこなかった。それを気にしたセシリアに、「そっとしておいた方が良いよ」とソフィーが小声で忠告した。

「チフユね、今度の選抜から漏れたんだよ。
 ここのところ伸び悩んでいたのもあるけど……日本人だからってのも有ったみたいで」
「驚きましたわ、まだそんな差別が残っていますの?
 それに今度お見えになるラウンズは、その日本出身のお方なんですのよ」

 それとなくラウラには聞かされていたが、こうして現実を突きつけられるとは思わなかった。嫌な気分になったセシリアに対して、ソフィーは「だから余計に」と小声で話した。

「それもあって、外されることはないとチフユも思っていたみたいね」
「だから、余計に機嫌が悪くなったというわけですの……」

 ふうっとため息を吐いたセシリアは、病んでいるのはこちらも同じかと暗い気持ちになった。ただどちらの病が重いかと言えば、間違いなくセルンの方が重いと思ってしまった。少なくとも、日本ではトップスリーの抱えた問題は解決されたように見えていたのだ。しかも個人と組織では、より組織の方が問題として大きいに違いないと考えた。

「非常時に、私たちは同じ人間同士でいがみ合っている余裕はないと思いますのに……」
「同じだから、余計にうまく行かないのじゃないかしら?
 たぶん、大きな違いより、小さな違いの方が目に付きやすいのよ」

 訳知り顔で話すソフィーに、確かにそうなのかもとセシリアは考えた。そしてその上で何ができるのかを考えたのだが、ほとんど何もできないことだけ理解することができた。そのせいで、余計なストレスが溜めこむことになってしまった。こんなことなら、帰ってくるのではなかった。日本の居心地が良くなっただけに、故郷の悪いところが余計に見えてしまったのだ。



 「結構やんちゃなんですね」、それがラピスラズリから貰った有りがたい評価だった。その評価に対して、シンジは否定はしないと口元を歪めて見せた。ちなみにラピスラズリと会話をするとき、シンジは携帯電話を耳に当てることにしていた。そうしないと、危ない人に見えるという忠告に従った為である。
 ラピスラズリの忠告を受けたとき、シンジはジュネーブの中央駅に一人立っていた。それこそ「やんちゃ」と言われた理由となる、シンジの単独行動だった。特区セルンに顔を出す前日、再び「お忍び」でセルンのあるジュネーブにやってきたのである。

「どういうところか、自分の目で見てみたかったと言うところがあるんだよ。
 あとは、フェリスのご機嫌を損ねないよう、お菓子のおいしいお店を探しておこうかなとね」
「そんなものは、セシリアさんに尋ねればすむことでしょう?」
「他の女性に聞いたと言ったら、きっと盛大に臍を曲げてくれると思うよ」
「だから、観光ガイド片手にお店探しですか……」

 はあっと小さくため息を吐いたラピスラズリは、軍資金は大丈夫かとシンジに聞いた。アースガルズとしては、テラに金融資産を持っていない。従って、テラでの遊興に提供できるお金は一銭もなかったのだ。
 だがお金を心配するラピスラズリに、「持ってて安心」と笑いながらシンジは一枚のカードを取り出した。前回の特区第三新東京市を訪れた際、正当な権利だと冬月に言われた受け取った父親の遺産だった。

「未払いだった給料も含まれているから、それなりの金額が入っているって話なんだ」
「でしたら、心配ないと思いますが……」
「そうだろう!」

 鼻歌が出そうな機嫌のシンジは、駅に設置されたキャッシュディスペンサーの順番を待っていた。観光地の駅と言うこともあり、結構長い行列が出来ていたりした。

「しかし、日本人ってどこででも見かけるんだなぁ。
 っていうか、制服を着ているってことは学校の旅行なんだろうか?」

 並んでいる人たちを見ると、本当に各国から来ているのだなと感心してしまう。しかもどんな偶然なのか、後ろで待っている女性は、どう見ても日本人に見えたのだ。その証拠と言うわけではないが、その女性は黒のセーラー服を着ていた。

「しかし、結構大人っぽい顔をしているから……本当に学生なのかな?」

 もしかしてコスプレ? などと考えていたら、シンジの順番がやってきた。ここでまとめてお金をおろせば、今日一日目一杯羽を伸ばすことが出来る。何をしようかと考えながらカードを機械に差し込んだシンジだったが、そこで第一の壁にぶつかってしまった。アルファベット自体は見たことがあっても、何が書いてあるのかさっぱり分からなかったのだ。

「ラピス、操作方法はわかるかい?」
「少し時間をいただければ出来ないことはありませんけど……
 行列の長さを考えると、きっとかなりの迷惑なるのかと思われます」
「つまり、すぐにはお金をおろせないってことか……」

 どうしようかと機械の前で悩んでいたら、ブースの窓を誰かが叩いた。何事かと振り返ってみると、後ろの女性が不機嫌そうな目をしてシンジを見ていた。

「あまり時間を掛けるなってことか……それでラピス、もう一度列に並べば大丈夫かな?」
「機械の構造、そしてコマンドの収集は終わりました。
 マニュアル検索を行いますので、さほどお待たせすることはないと思います」

 もう一度列に並べばいいのかと、シンジは諦めてブースを出ることにした。そして10人ほどの列に、再び並ぶことにした。そしてすぐに、不条理に腹を立てることになった。

「なんだ、自分だって時間を掛けているじゃないか」

 自分をせかした女子学生も、機械操作で何か迷っているように見えたのだ。自分を棚に上げるかとシンジが苦笑したところで、結局その女子学生も、お金をおろさないでブースから出てきた。

「あなたも、操作方法が分からなかったのですか?」

 せかされたこともあり、皮肉半分でシンジはその女性に声を掛けた。敢えて日本語を使ったのは、相手が日本人かを確かめる意味もあった。
 シンジに声を掛けられた女性は、目を見開いて驚いた顔をした。だがその表情は一瞬で消え、すぐに申し訳なさそうに頭を下げてきた。そのとき覗いた胸元に、少しどきりとしたシンジだった。

「すまない、ちょっと苛ついていたので……
 そ、それから言っておくが、別に操作方法が分からなかったわけではないぞ。
 そう言うお前こそ、こんなものの操作方法が分からないのか?」

 事情は分からないが、少しその女性の頬は赤くなっていた。

「実は、今までこんなカードを使ったことがなかったんだよ。
 ただお金をおろさないと何も出来ないから、こうして再チャレンジをしようと思ったんだ」
「そうか、それはすまないことをした……」

 そう言ってその女性は、失礼したと断ってシンジに背を向けた。それを「ちょっと」と呼び止めたシンジは、「教えてくれないかな?」と結構大胆なお願いをした。

「あ、ああ、急いでなければだし、もちろんお礼はするよ」
「わざわざスイスまで来てナンパのつもりか?」

 少し警戒するそぶりをしたのだが、すぐにまあいいかと肩から力を抜いた。

「高く付いても知らないぞ」
「たぶん、多少のことならびくともしないぐらい入っていると思うよ。
 僕はシンジって言うんだ、君は?」

 シンジとしては、別にナンパをするつもりはなかった。だが相手がそのつもりで承諾してくれたなら、それはそれで好都合だと考えた。少しきつめの顔をしているが、こうしてみると結構美人だというのが分かったのだ。スタイルの方は、お辞儀をされたときに一部確認が出来ていた。

「私か、私は霜月チフユだ」
「チフユさんで良いかな?」
「ま、まあ、それで構わないが……私はシンジと呼べばいいのか?」

 少し言いにくそうなのは、きっと慣れていないのだろうとシンジは想像した。それで良いよと承諾したシンジは、次にチフユのしている格好を話題にした。

「ところで、それって日本の学校の制服だろう?
 チフユさんは、修学旅行か何かでこちらに来ているの?」
「こ、これは……その、内緒だ!」

 はっきりと分かるほどチフユの顔が赤くなっていた。その様子を見たシンジは、どんな事情だ?と隠されなければいけない理由を考えた。だが考えつくのは、あまりろくなものではなかった。
 ちなみに、チフユとしては別にコスプレなどしているつもりはなかった。ただセーラー服を着た理由も、他に着る物がなかったという情けない理由だった。従って、内緒にするのに十分な理由があったわけになる。

「もしかして、コスプレ?」
「お前は、私に喧嘩を売っているのか!
 これでも、私はまだ17の立派な高校生だ……った」
「だった……?」

 不思議な言い回しだと思いはしたが、それ以上はだめだとシンジは思いとどまった。ここでご機嫌を損ねたら、せっかくのナンパが無駄になってしまうだろう。

「そっか奇遇だね、僕も17歳なんだよ」
「そうか、結構大人っぽく見えたのだがな?」
「大人っぽいという意味なら、チフユさんも大人っぽく見えたよ。
 だからコスプレだなんて失礼なことを言ってしまったんだ」

 話していたおかげか、一度目よりも待ち時間が短く感じられた。ブースが空いたところで、「お邪魔?」と小声でラピスラズリが割り込んできた。

「操作方法が分かったのですが、必要なさそうですね?」
「それでも、一応教えておいてくれるかな?」
「それは構いませんが……最初に言ったことと違っていませんか?

 一番問題になりそうもないセシリアを否定したくせに、こうして見ず知らずの女性と仲良くなっている。そこに大きな矛盾があると、ラピスラズリは指摘したのである。

「成り行き上仕方がないだろう?」

 小声で答えたところで、「早く来い」とチフユにせかされてしまった。

「いやあ、狭いブースに女の子と入るのはさすがに照れくさくて……」
「な、何を言っている!」

 シンジのとっさの言い訳に、チフユは思わず顔が赤くなってしまった。確かに指摘されてみれば、狭いブースに二人で入ることになる。だがそれ以上チフユが抗議する前に、シンジはCD機のブースに入り、入り口をぴったりと閉じてくれた。

「それで、どうやれば良いんだい?」
「そ、それは、まず、カードをそのスロットに入れてだ……
 次に、そのLanguageのキーを押せばいい。
 そこで日本語を選べば、後は指示通りにやれば良いだけだ」
「ああっ、そうすれば良かったのか……」

 ラピスラズリが教えてくれたのは、英語モードのまま操作する方法だった。日本語の方が分かりやすいと、シンジはチフユに感謝したのだ。

「これで残高照会をして、あとは生体認証をして下ろせば良いんだね?」
「そうだ、だから普通なら操作方法が分からないというのはあり得ないんだ……」

 シンジに言われたせいで、チフユは体が密着することを意識してしまっていた。どうしてこんなことになったと戸惑いながら、心臓だけは早鐘を打つように高鳴っていた。

「そう言えば?」
「な、なんだっ!」

 緊張のあまり、シンジの問いかけにチフユは過剰に反応してしまった。それに少し驚きながら、シンジは最初に解決すべき問題をチフユに聞いた。

「いや、どれぐらい下ろせば良いのかなって。
 チフユさん、さっき高く付くって言っていただろう?」
「そ、そう言うことか……
 れ、レストランなら、せいぜい100ユーロもあればおつりが来るぞ」
「それって、結構高級な方?」
「が、学生には少し背伸びをしたぐらいだ……」

 なるほどと納得したシンジは、1万ユーロを下ろすことにした。このあたりは、完璧に金銭感覚の欠如がものを言っていた。学生が背伸びというキーワードに、ラーメン屋よりは少し高い程度だと思ってしまったのだ。だったらとびっきり高級なところに行くのに、それぐらいは必要と勘違いしてしまったのだ。
 そしてもう一つの理由は、表示された口座残高があった。ゲンドウの遺産やパイロット時代の給料、その額はかなりの高額になっていた。従って、1万ユーロを下ろしても、口座残高に響かなかったのだ。

「お、お前、いったいいくら下ろしたんだ!」

 ただそれは、あくまでシンジにとっての事情でしかなかった。お互い17の子供だと思っていたチフユは、CD機からはき出された札束に思わず驚いてしまった。

「1万だけど?
 高く付くって言われたから、だったらもう少し高く付くことをしてみようかなと思ったんだけど?
 何かおかしかったかな?」

 ポケットに札束を突っ込んだシンジは、用が済んだとばかりにブースの扉を開いた。それに遅れたチフユは、非常識だとシンジを非難した。

「おかしいも何も、お前には常識というものがないのか?
 今1ユーロが、日本円でいくらか知らないとでも言うつもりか!」
「いやっ、正直なところ知らないんだけど……
 10万円ぐらいの感覚で下ろしたんだけど……
 違っていたのかな?」
「ああ、一桁違っているさ。
 10万ではなく、100万円を下ろしたと思ってくれ。
 しかし、いったいどういう金銭感覚をしているのだ?」
「どうって言われてもなぁ……」

 そもそもユーロがいくらなのか全く知らなかったのだ。それは十分に責められることなのだろうが、だからと言ってシンジも100万円も下ろすつもりはなかった。そしてその金額を教えられれば、チフユに金銭感覚がおかしいと言われるのも理解できた。

「使って良いと言われた口座だから、そのうちのごく一部だから良いと思ったんだよ。
 まさか、そんなに入っているとは思わなかったんだ」
「お前は、どこかの財閥の御曹司なのか?」
「まさか、そんな立派なものに見えるかい?」

 財閥の御曹司が立派かどうかは分からないし、それがどんなタイプなのかもシンジは知らなかった。だから「見える?」と言う問いかけになるのだが、あまり意味のある問いかけにはならなかった。聞かれた方にしても、具体的なイメージはごく限られた知人でしかなかったのだ。

「世間ずれしたところは、そう言った世界の人間にも見えるのだが……」
「世間ずれって……面と向かってそう言ってくれるかなぁ。
 これから観光名所を回って、甘いものでも食べて帰ろうかと思ってる小市民だよ」
「小市民が、その程度の目的のために1万ユーロを下ろすことはない!!
 そもそもガイドもなく、ましてや下準備もなくこんな所を一人でうろつくことはないだろう」
「でもさ、ガイドならほら、一人見つけたじゃないか。
 しかも、とびっきり美人のガイドを見つけただろう?」
「そう言うおおらかなところが、普通とはかけ離れていると言っているのだ!」

 何か力んでいても、すべて空振りをしてしまう気がしてならない。徒労という言葉を強く感じたチフユは、それ以上相手の素性に拘ることをやめる事にした。いくら拘ったところで、自分の将来に関わってくるとは思えないし、お金があるのなら、それはそれで好都合と考えたのだ。

「観光をして、おいしいものが食べられればいいのか?」
「そうだね、特に甘いもののおいしいお店を紹介してくれると嬉しいな」
「男のくせに、甘いものが好きなのか?」
「男の癖にってのはやめて欲しいな。
 そう言うことなら、チフユさんも女のくせに言葉遣いがぞんざいだよ」
「わ、私は……いつもこういうしゃべり方だったから、その」

 知り合ったばかりの相手に、言葉遣いがぞんざいだと言われるのはさすがに恥ずかしいことだった。しかも相手が好みのタイプだったりすると、その恥ずかしさは更に倍加されてしまう。何とか言葉遣いを直して、印象を変えようとしたチフユだったが、はっきり言ってすでに手遅れとなっていた。

「別に、今更言葉遣いを直さなくても良いよ。
 それで、手伝ってくれたお礼だけど、夕食でもご馳走すればいいのかな?
 連れ回すのも迷惑だろうけど、だからと言って現金を渡すのも失礼か……」

 ううむと考えたシンジに、「最後まで責任をとれ!」とチフユは言い返した。

「お、お前は、私をナンパしたのだろう。
 だったら、最後まで責任を、そのとってだな……」

 最後までと言うチフユの言葉に、シンジは内心幸運を喜んでいた。多少きついところはあるが、見た目は十分美人だし、スタイルも結構いけているように見えるのだ。しかも相手がその気になっているのだから、何も遠慮する必要はないと思っていた。

「でもですよシンジ様、この人全く発情していませんよ」

 しめしめと喜んでいたら、いきなりラピスラズリから囁かれてしまった。その一言で冷静さを取り戻したシンジは、責任をとれと言うチフユの様子を観察し直すことにした。

「じゃあ、とりあえず観光ガイドを頼めるかな?」
「ジュネーブは初めてなのだな?
 だったら、定番のレマン湖から始めることにするか」

 こっちだと先を歩き出したチフユに、どこかおかしいとシンジも気づいたのだった。







続く

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