機動兵器のある風景
Scene -21
切れかけた筋肉を修復するための入院で、シンジは治療に並行して二つのことを行っていた。その一つが、当たり前であるが、リハビリ……に似た行為である。とりあえず寝たきりにならなかったのを幸いに、使えない両腕以外の筋肉を鍛えたのである。ただやり過ぎると、痛み止めが切れたときに地獄を味わうことになるため、電子妖精ラピスラズリの忠告を聞きながらリハビリを行った。
そしてもう一つが、過去のデータを参照することだった。過去の祭りでの戦い、そしてトロルスとの戦いを見ることで、自分の中のイメージを固めようとしたのだ。そこで過去のラウンズが用いた戦い方や特殊能力、それを身につけようと考えたのだった。
「しかし、トロルスの進攻は恐ろしいね……」
シンジがアースガルズに来て2年、そしてブレイブスになってから1年が経つが、その間一度もシンジはトロルスとの戦いに出ていなかった。最初の1年は、シンジ自身何も覚えていないという事情があったし、ブレイブスになってからもレベル不足で出撃していなかった。そのときの映像自体は見ているが、規模としては小規模なものと言われていたのだ。だがラピスラズリに見せられた中には、遙かに大規模な戦いが数多くあった。
「記録に残っている最大規模の進攻は、今からおよそ200年前にありました。
推定数2万のトロルスが、津波のように押し寄せてきたと記録されています。
そのトロルスを、12人のラウンズを先頭に、500のブレイブスで迎え撃ちました。
およそ1ヶ月続いた戦いでトロルスを退けたのですが、ラウンズ5人が戦死し、
ブレイブスの5割が失われることになりました。
その後体制立て直しのため、緊急避難として退役したラウンズ、ブレイブスも招集されています。
そして今から80年ほど前には、1万5千の進攻もありました。
そのときにも、かなりの損害が発生しています。
それに比べれば、前回の進攻は僅か2千ですから、言ってはいけませんが“楽”なものでした」
「それでも、ブレイブスには亡くなられた方がいるんだよね?」
「そうですね、全部で10名程度命を落としています」
淡々と説明するラピスラズリに、次の予測が出来ているのかとシンジは尋ねた。ラウンズとして最大の義務は、トロルスを撃退することなのである。それがいつというのは、最大の関心事となっていた。そのシンジの質問に対して、「データの変更がない」ことをラピスラズリは伝えた。
「今日を基準にした場合、40日±5日後に進攻が行われると予想されています。
サウスポールの裂け目を中心とした地域で、およそ3千程度のトロルスが実体化すると予想されています」
「今回テラは、進攻を免れそうかい?」
「現在保有している観測データではそうですね。
もっとも、100を下回る小規模進攻については予想できません」
そのあたりは、アースガルズ側の観測体制および精度の問題があったのである。精度に関して言えば、彼らにとって100以下は問題とならない規模でしかなったのだ。従って、小規模の変動は誤差として切り捨てられていた。それは、そうでもしないと常に警報状態になるという事情があったのだ。そして観測体制にしても、ようやくテラに観測機器を設置したところだった。本格的なデータ取りは、まだまだこれからというのが実情だった。
ラピスラズリの報告に対して、シンジは100以下の進攻を問題だと考えた。当たり前のことなのだが、テラではアースガルズのような迎撃態勢は整っていない。ラウンズどころか、レベル6すら誕生していないのが彼らの実力なのだ。しかも支援兵器にしても、明らかに力不足でしかなかった。その状況では、数十と言っても十分な驚異になることは間違いない。そしてその状況は、ラピスラズリも認識していたことだった。
「シンジ様が考えられたとおり、今のテラでは僅かな数でも驚異になることでしょう。
従って、テラへの支援については、ドーレドーレ様も検討に入られています。
シンジ様が出されていたテラへの渡航許可も、支援の一環として許可される見込みです」
「そのときに、フェリスを連れて行こうと思っているんだけど?
あとは、ギムレーも持って行きたいし、マシロも連れて行った方が良いと思うんだ」
模擬戦を行うにしても、実力者を連れて行かないと効果のほどが疑わしくなる。そして機動兵器自体も、技術者を連れて行った方が強化に役立つことだろう。
その考えに基づくシンジの意見を、「適切な対応」とラピスラズリも認めた。そして認めた上で、大きな問題があると付け加えた。
「大きな問題?」
「シンジ様は、一つ大きなことを見落としていると言うことです。
フェリスやマシロを連れて行くとなると、間違いなくエステル様が自分もと駄々をこねるでしょう」
「確かに、あり得ると言うより、間違いなく駄々をこねるだろうね……
でもなぁ、エステル様……と言うより、ヴァルキュリアを連れて行く理由がないからなぁ」
その立場上、ヴァルキュリアはアースガルズを出ることは制限されていた。つい先日も、エステルの申し出をドーレドーレが却下したほどなのだ。テラへの支援は認められても、ヴァルキュリアの訪問は支援とは直接関わってこない。それもあって、エステルのテラ訪問が認められるとは思えなかった。
「そうですね、たかが支援でエステル様が渡航される許可が出るはずがありません。
この先を考えても、許可が出ない方がテラにとっても幸せなことに違い有りません」
「確かに、僕たちがテラに出撃するという意味になるからね……」
トロルスとの戦いでは、ラウンズに随伴する形でヴァルキュリア達も出撃する。その目的は、後方から直接指揮を執ることとなっている。現場ではラウンズがトップに立ち、それを後ろからヴァルキュリアが支えるという形をとるのである。その意味でも、双方に深い信頼関係が結ばれている必要があったのだ。
エステルが行かない方が良いというラピスラズリの意見を、テラが戦場になるという意味でシンジはとらえていた。だが彼の電子妖精は、どうも現ヴァルキュリアに対する敬意が薄いようだった。従って、「テラが戦場になる」と口にしたシンジに対して、「違いますよ!」と少し強い口調で否定した。
「これがヴェルデ様だったら、私も許可が出ない方が良いなどと言いません。
エステル様を表に出すことは、アースガルズやテラにとって不幸なことに違い有りませんから!」
「ラピス、さすがにそれは言いすぎだと思うんだけどな……
いくらエステル様でも、それぐらいの自覚は持っていると思うんだけど……」
「シンジ様は、まだエステル様を理解されていないのですね?
本来だったら、3日前に退院できたんですよ。
それをエステル様は、ヴェルデ様と一緒になってあんなはしたない真似を……」
「ラピス、どうかしたのかい?」
口ごもる電子妖精というのも不思議な存在だが、それを気にする代わりに、シンジは口ごもった理由をラピスラズリに問いかけた。
「いえ、ヴェルデ様なら多少マシかと思ったのですが……
いえ、多少ではなく、かなりマシなのは間違いないと思うんですけど……
しかし比較がエステル様だと、誰を持ってきてもマシなことには違い有りませんから……」
「ラピス、主のことをそこまで言ってはいけないよ。
多少心当たりはあるけど、さすがにエステル様もTPOを弁えていると思うから……」
大丈夫と言いかけたところで、シンジは本当に大丈夫なのかと不安になってしまった。それぐらい、彼の主は想像の斜め上を行っていると言うことだ。そしてそのたびに、シンジは痛い目に遭ってきたのである。
「ほら、シンジ様だって自信を持てないじゃありませんか。
本人も産むつもりがあるようですから、さっさと妊娠引退をさせてしまいましょうよ」
「と言っても、レピス様はまだ10歳だろう?」
「大丈夫です、クロノスからアヤセ様を呼び戻せば済むことです!」
アースガルズは、ヘルの浸食から逃れるため、いくつかの人工惑星すなわちコロニーを軌道上に建造した。そして人口のほとんどを、そのコロニーに移住させたのである。アースガルズ自体100億の人口を抱えているが、その99%が人工惑星に移住していたのだった。
そしてヴァルキュリア候補や本人にもしものことがあった場合に備え、予備の人材がコロニーで暮らしていた。アヤセというのは、エステルの予備となるべく育てられた女性だった。現在太陽とのラグランジュポイントL1にある、サイド1と言うコロニーと呼ばれる居住区画で教育を受けていた。
「他のヴァルキュリア達も、きっと賛成してくれるはずです!」
「さすがに、それは電子妖精の立場では言いすぎだと思うよ。
ラピス、カヴァリエーレは、主に対して忠誠を尽くしているんだ。
笑い話で済む内に、エステル様の悪口はやめてくれないかな?
そうじゃないと、僕は君の初期化申請を出さないといけなくなる。
ヴァルキュリアの進退は、ヴァルキュリア自身が決めることだからね」
初期化というのは、本当に綺麗さっぱりデータを消去してしまうことを指していた。それを行うと、電子妖精ラピスラズリはどこにも存在しなくなってしまう。よほどのことがない限り行われないことだが、ヴァルキュリアとラウンズにはその権限が与えられていたのだ。
シンジが初期化を持ち出したため、ラピスラズリもそれ以上エステルの悪口を言うことをやめた。それでも最後に一つだけと、「後悔しても知りませんよ」と言う捨て台詞を残してくれた。なぜか最近よく聞く台詞に、シンジは引きつったような笑みを浮かべたのだ。
「後悔か……でもねラピス、カヴァリエーレが主を首にしたら体制が崩壊してしまうよ。
その行動に問題があるのなら、それを注意して直していくのが僕の役目にもなっているんだ。
もちろん、僕がエステル様に注意されることもあるんだけどね。
ヴァルキュリアとカヴァリエーレは、お互い補い合っていくものなんだよ」
「まあ、シンジ様はシエル様に並ぶくらいまじめな人ですから……
まあ、バランスと言う意味では取れているんでしょうね」
ラピスラズリとしては、分からないように皮肉を交えたつもりだった。陰口で「石頭」と言われるシエルと並べるのだから、事情を知る者にすれば褒めているように受け取れない褒め言葉だったのだ。当然シンジも、シエルが陰で言われていることぐらい知っていた。だからラピスの言葉を否定する代わりに、もう少し当たり障りのない、害のない言葉を選んで否定した。
「僕は、何の実績もないラウンズだからね。
だからまじめなことぐらいしか取り柄がないんだよ。
ふざけていられるほど、実力も伴っていないんだ」
同じじゃないという意味での言葉なのだが、ラピスラズリはシンジの言葉を別の意味で受け取っていた。本人は気付いていないようだが、この言い方にしてもシエルとそっくりだったのだ。ちなみにシエルの場合は、「ラウンズ筆頭としての責任がある」と言うのが口癖だった。
だからラピスラズリは、意外と二人の相性が良いのかも知れないと思ったりした。時折ニンフに主の相談を受けるのを考えると、お相手としては似合っているのかも知れないと。
(とは言え、次の進攻を防いでからのことになるわね)
次の進攻こそ、シンジのデビュー戦となるのだ。そこで新任ラウンズとして、どれだけの力を示すことができるのか。祭りとは別の意味で、シンジの地位を確立する場となるのは間違いない。シンジ大好きの電子妖精として、そのためには万全のサポートを行う必要があった。
だからラピスラズリは、まだまだひよっこと笑うシンジに、トレーニングの継続を提案したのだった。
自分の電子妖精に資質を疑われたエステルは、その頃ドーレドーレの元を訪れていた。すでにいくつかの宿題を貰っていることもあり、その提出にあわせて、シンジの回復具合を伝えるのを目的としていた。
真新しいピチピチのジーンズに、上には少しゆったりとした半袖のTシャツを着てエステルは現れた。後ろで縛った髪とあわせて、それだけを取ってみれば、とても活動的で、若々しさを表したものに違いなかった。少し大きめに開いた胸元からは、最近また豊かになったバストも覗いている。彼女の立場を忘れれば、年相応の格好には違いないのだろう。
それに対してドーレドーレは、腰のあたりを絞った生成りのワンピースを着ていた。手入れされた長い銀色の髪は、ストレートロングにされていた。年相応というのか、とても落ち着いた雰囲気を漂わせたものだった。そしてドーレドーレの隣には、彼女を補佐する形でシエル・シエルが立っていた。こちらは、オレンジっぽく見える髪をポニーに纏め、ベージュ系のパンツルックに纏めていた。
「それでエステル、今日はどのような用向きですか?」
自らお茶とお菓子を用意したドーレドーレは、最初にお茶を勧めてからエステルに用向きを訪ねた。ここのところ叱る理由もなかったため、とても落ち着いた気持ちでエステルを迎えていたのである。
「はい、ドーレドーレ様から頂いた宿題の答えを持ってきました」
「意外に早くできたのですね?」
少し驚いた顔をしたドーレドーレに、「考える時間は沢山ありました」とエステルは返した。
「それでも、満足していただける答えかどうかの自信はありません」
普段にはないまじめな顔をしたエステルは、まず最初にテラへの支援策を持ち出した。
「ドーレドーレ様が干渉を決断した経緯を考えれば、テラが滅びるのを見過ごすわけにはまいりません。
従って、彼らが独り立ちできるように助力する必要があるのは共通の認識かと思います。
そしてその話が私に降りてきたのは、カヴァリエーレにシンジが居るのが理由であるのも理解しています」
「それは、とても正しい認識ですね。
それでエステルは、どのような支援策を考えたのですか?」
はいと頷いたエステルは、近々予定されていたシンジのテラ訪問を持ち出した。
「シンジが、特区セルンに行くことの承認は頂いていたかと思います。
その行事自体はそのまま行うべきと考えますが、もう少しそこに意味を持たせたいと考えます。
シンジを補佐する形で、フェリス・フェリの同行させ、
そして技術者としてマシロ・フーカを同行させたいと考えております」
「フェリスは分かりますが、マシロを同行させる目的は何ですか?」
レグルス・ナイトの実績もあることから、ブレイブスのテラ訪問自体はさほどハードルは高くなかった。人選自体に疑問と言うより不安はあったが、フェリスがいよいよナンバー2となることを考えれば、反対する理由もない人選だった。
ただ同行者に、技術者が含まれるとなると話が変わってくる。与える情報に制限を掛けていることもあり、ブレイブスに比べればずっと技術者の動向はハードルが高かったのだ。
「現時点で、テラの体制があまりにもお粗末というのが理由です。
今のままでは、僅か数体のトロルスにも対処できないのは間違いありません。
従って、彼らの強化を第一の目的と考えました」
「確かに、今のままではテラは持ちこたえることはできそうにありませんね」
そのあたりの分析……と言うほど難しい話ではないが、考え方についてはアースガルズで共通したものだった。そしてアースガルズ自体を守るために、テラの独り立ちが必要という考えも共有されていた。その考えに立てば、エステルの主張は正しいと言う事になる。
「現在両特区を合わせて、機動兵器の保有数は47となっています。
そして100名強のブレイブスを抱えています。
そのうちレベル6が1名、レベル5が3名、そしてレベル4が1名です。
技術供与したグングニールも、ようやく試作段階になったところです。
彼らにはかつてトロルスを倒した実績があるかもしれませんが、それも今回は役に立たないでしょう。
数体のトロルスが紛れ込むだけで、テラは甚大な被害を被ることになります。
ですからブレイブスの強化に並行して、武装の強化も必要だと考えました」
「だからマシロなのですか?」
「彼女には経験が乏しいことは理解しています。
その分柔軟な考え方をしているので、きっと役に立ってくれると考えています」
まじめな顔をして答えるエステルに、ドーレドーレは満足げに頷き返した。ここまでの答えとして、エステルは満点の答えを返していると採点していたのだ。その分、らしくないと不安を感じてたりしていたのだが。
「今回行うテラへの支援、そして渡航者はそれで全てですか?」
「数を多くすればよいと言うものではありませんので、3名で十分だと思っています」
エステルの答えに、ドーレドーレはほっとしたようなため息を吐いた。そしてその隣では、シエル・シエルも安堵の吐息を漏らしていた。それを見とがめたエステルは、「一応自覚はあります」と唇をとがらせ文句を言った。
「そりゃあ、付いていきたい気は満々ですよ。
でも、そんなことを言ったら、また全員から反対されるじゃないですか。
それに私が付いていくと、シンジも羽を伸ばせないでしょうし……」
「羽を伸ばすという意味では、二人を連れて行かない方が良いのでしょうね……
ただ、あなたが行くと、きっとテラで大騒ぎが起きるでしょうね。
先に断っておきますが、あなたが悪いと言っているわけではありませんよ。
ヴァルキュリアが公式訪問をする、その意味で騒ぎが起きるという意味ですからね」
拗ねられると困る……と言うほどではないが、変に誤解を与えるのも良くないとドーレドーレは言葉を付け足した。
事実過去に行われたテラへの干渉で、ヴァルキュリアが姿を見せたことは一度もなかったのだ。武力制圧にこそ同行したが、テラへの通告は賢人会議の指名を受けた行政官が行っていた。賢人会議の議員、そしてヴァルキュリア、アースガルズの要人はテラの関係者と会っていなかったのだ。
「それぐらいは、私だって分かってます、ぷんぷん。
ですがドーレドーレ様、いつかは私もテラに行ってみたいと思っているんですよ」
「きっと、近い将来その機会が訪れるでしょう。
どうも彼らは、放置されることになれていないようですからね。
降伏したのだから、アースガルズが統治するのが当たり前と見ているところがありますね。
介入したのだから、介入後のことにも責任を持てと考えているのでしょう。
まあ、理屈だけを考えれば間違ってはいないのでしょうが……」
苦笑を浮かべたドーレドーレに、自分もそう思うとエステルは頷いた。そんなエステルに、作戦を考えておきなさいとドーレドーレは命令をした。
「今回の訪問とは別に、直接支援を行う可能性もあります。
こちらが優先されるのは当然ですが、場合によってはあなたたちにテラに行って貰うことになります」
「ですが、私のところにはレベル7以上はシンジを含めて21名しか居ません。
その中で、トロルス迎撃の経験があるのは14名しか居ません。
しかも肝心要のシンジは、前回出撃していませんでした。
私たちだけというのは、さすがに荷が重いと追いますけど」
さすがのエステルも、自分の手勢だけでは不足だと考えていた。そして第一に理由としてあげたのは、ブレイブス、特にシンジの経験不足というものだった。
だがエステルの反論に対して、「経験に不足はありません」と逆に言い返した。
「エステル、シンジはテラにいるときからトロルスと戦っていたのですよ。
戦う方法が違うのは分かっていますが、気分的には今度の方が楽なのではありませんか?
それにメイハもサポートするのですから、数十程度のトロルスに後れを取ることはないでしょう。
そしてもう一つ、これは祭りのやり直しの中でも議論されたことですが、
復帰後のシンジの教育にシエルを遣わすことになりました。
40日後の戦いの時にも、シンジにはシエルの下について貰うことにします。
そうすれば、シンジもより実力を身に付けることが出来るでしょう」
「立場上、おかしなことはないと思いますが……」
少し口ごもりながらシエルを見たエステルは、至る所で繰り返された話を持ち出した。
「でもシエルさん、シンジはまだあなたに勝っていないんですよ?」
「申し訳ないがエステル様、私にはあなたが何を言っているのか理解できないのですが?」
シンジの力や経験が足りていないから、自分が教育することになったと伝えられたはずだ。それなのに、なぜ「自分が負けていない」ことが問題となるのだろう。もしもシンジの方が強ければ、自分が教育する必要がないはずなのだ。
首を傾げたシエルに対して、「反対はしませんけど」とエステルは質問から外れた答えを返した。
「と言うか、私も不自然だと思っていましたから。
そりゃあシエルさんも女ですから、夢を見るのはおかしいと言いませんけど……
でも、そう言う事って10代で卒業するものだと私は思いますよ」
「繰り返すが、私はシンジの教育を行うだけだぞ」
そこまで言われれば、エステルが何を言っているのか理解することはできた。だが言っていることは理解できても、なぜそれを持ち出したのかは理解することはできなかった。それ以上にあったのは、大きなお世話という思いだった。だからヴァルキュリアを相手に、シエルの言葉はぞんざいな物になってしまった。
だがシエルの抗議も、全くエステルには届いていないようだった。さもなければ、今更議論の余地は無いと考えたのだろうか。ドーレドーレの顔を見たエステルは、退院したら行かせますと伝えた。
「その時には、私も付いてきますから……ご一緒にいかがですか?」
「私としては、最初ぐらいは一対一が良いと思っていますよ。
ですから、エステルには遠慮をして貰いたいと思っているのですが……
それに同時に複数人を相手にすると、シンジに間違った認識を与えてしまう可能性があります。
ヴァルキュリアとラウンズの交わりは、とても神聖なことであると教えないといけないのですよ。
あなたにとっても、シンジとすることは遊びではないのでしょう?」
「そりゃあもう、他の男とギシアンするなんて考えられませんから!
でもぉ、ドーレドーレ様が乱れる姿を見てみたい気もしますし……
きっと、普段からは想像できない姿をさらしてくれると思いますから」
そこで眼をきらきらと輝かせないで貰いたい。せっかくまともになったと安堵したのに、ここに来ていつものエステルに戻ってしまったのだ。何でという強い思いに、ドーレドーレはついため息を吐いてしまった。
とは言え、ここでエステルに押し切られては筆頭の立場が泣いてしまう。何とか気を取り直し、もう一つの宿題のことへと話題を向けた。
「ところで、もう一つの宿題はどうなっています?」
「そうですよね、ギシアンは私たちには普通のことでしたね。
それでもう一つの宿題ですが、いくつか課題を纏めてみました」
このあたりの切り替えの早さは、エステルの美徳と言って良いものだろう。さもなければ、何も考えないで発言している証拠なのだろうか。それを追求する代わりに利用したドーレドーレに、エステルは得意げに「対策を行いました」と報告した。
「レグルス様との戦いで浮き彫りになった課題は、シンジの鍛錬不足というものです。
それについては、復帰後にフェリスと集中的にトレーニングすることを考えていました。
ですがシエルさんに鍛えてもらえるのなら、その心配もいらないと思います。
そしてもう一つの課題は、シンジが示した可能性をどう生かすのかと言うことです。
こちらについては、マシロに対策を命じてあります」
「それで、対策の方は具体的目星は付いたのですか?」
「はい、モーショントレースと思考コントロールの関係を見直すことで対処可能と考えています。
要は、過剰なフィードバックが問題なのですから、それを押さえることが出来れば良いんです。
感覚との整合が必要ですから、復帰してから実験を行うことになりますね」
「そうですか、目処が付いたのですか……」
少しほっとしたドーレドーレに、「そうなんです」とエステルは身を乗り出した。
「もうマシロが責任を感じてしまって、おろおろめそめそして大変だったんですよ。
シンジが大けがをしたのは、すべて自分のせいだって落ち込んでしまって……
シンジが復帰したら、真っ先にマシロを慰めてあげないといけませんね。
あの子も、恋に生きるってユニバシオーネを飛び出すぐらいシンジのことが好きなんですから」
「つまり、マシロが汚名返上とばかりに頑張ったと言うことですね?」
一つのことを説明するのに、どうして回りくどい言い方をするのだろうか。はあっと呆れたドーレドーレは、つい何もない天井を見上げてしまった。そして見つけた小さな染みに、エステルの話は染み以上に意味のないものだと思ってしまった。
だが染みを見ていても、何かが解決するわけではない。すぐに気を取り直したドーレドーレは、少し勢いを付けて顔をエステルに向けた。その反動で、何本かの銀色の髪が顔に掛かった。それを指でもとの位置に戻し、「研究テーマにします」とエステルに指示を出した。
「シンジについては、他にも調べたいことがあります。
シエルを派遣するのは、その調査の目的もあるのですよ」
「シンジについて調べたいこと……ですか?」
はてと首を傾げたエステルに、「あなたのカヴァリエーレよ」とドーレドーレは呆れた。だがエステルにしてみれば、そんなことを言われても分からないものは分からないのだ。
「そうは言いますが、いきなりそんなことを言われてもぴんと来ません!」
「でしたら分かりやすく言いますが、どうしてシンジはシエルの技を使えるのですか?
カノンのフォトン・トーピドやアーロンのミラージュも使っていましたね。
ブレイブスになって僅か1年のシンジが、どうしてそんな真似が出来るのでしょう?」
「確かに、そう言われてみれば不思議ですね……
3ヶ月前には、そんな技は一つも使えませんでしたね」
ふんふんと頷いたエステルに、それだけではないとドーレドーレは続けた。
「そもそも祭りをやり直すきっかけになったことも有りますね。
あのときのシンジは、フォトン・トーピドもファントムも使っていませんでしたよ。
それなのに、54連勝中のシエルと引き分けてくれました。
あのときシエルは、殴り合いに持ち込んだのに、シンジを倒すことが出来なかったのですよ」
「その前の戦いでは、カノンさんに殴り倒されて負けましたね……」
「マニゴルドやサークラとの戦いでも、殴り倒されて負けていますね。
ねえエステル、それはとても不自然なことだとは思いませんか?」
「そう言われましても……シンジは生身だと、そこいらのブレイブスにも負けますし……」
不自然と言われても、殴り合いで負ける方が自然だとエステルは思っていたのだ。だからドーレドーレの言う不自然という意味が理解できなかった。そんなエステルに、問題なのはシンジの負け方ではないとドーレドーレは言い方を変えた。
「でもドーレドーレ様は、殴り倒されて負けたことを不自然だって……」
「私の問題としたのは、カノンやサークラの勝ち方ですよ。
アーロンやフランもそうですが、普段彼女たちがしている戦い方で勝ったわけではないと言うことです。
そしてレグルスを除く全員が、勝ちはしてもやりにくかったと言っています。
それからこれはエステルへの質問ですが、前の祭りと比べてシンジの格闘技能は向上しましたか?」
「多少マシになった……とメイハからは聞いていますが?」
それがなにか? と首を傾げたエステルに、ドーレドーレは小さなため息を吐いた。そして説明を続ける前に、ニンフに飲み物のお代わりを持ってくるようにと命じた。
「エステルはお茶で良いですか?」
「ええ、出来たらお菓子も付けていただけると……
「クリームたっぷりのケーキが良いんでしたっけ?」
「ええ、大きめのイチゴをのせてくださると嬉しいです!」
はっきりと好みを口にしたエステルに、そうですかとドーレドーレは小さく答えた。そしてニンフへの追加の命令として、屋敷にあるお菓子を適当に見繕ってくると言う物を付け加えた。
「お茶とお菓子が届くまで、少し話をわき道に逸らしましょう。
そうですね、レピスは元気にしていますか?」
「元気かと言われれば……いつも通り元気いっぱいというのが答えになりますね。
ただ、シンジが入院しているせいで、その元気も2割減という感じかと。
そう言えば、プレアデスさんが最近大人っぽくなったと評判ですね」
自分の後継者レピスの話題を持ち出されたエステルは、お返しとばかりにドーレドーレの後継者プレアデスの話題を持ち出した。白い肌に銀色の髪をしたドーレドーレと対照的に、プレアデスは褐色の肌に黒い髪をした少女だった。見た目については、これから磨かれるだろうと噂されていた。
大人っぽくなったというエステルに、少し違うのだとドーレドーレは吐きだした。
「違うのですか?」
きょとんとした目をしたエステルに、ドーレドーレは「ええ」と言って小さく頷いた。
「精神的重圧……と言うのが一番ぴったりと来る表現でしょうね。
私の引退時期が近づいたことで、プレアデスもいよいよ重圧を感じ始めたと言うことです。
落ち着いたように見えるのは、それが理由になっているのでしょうね」
「今のままですと、ドーレドーレ様の後を継いで筆頭に立たれることになりますからね。
末席の私と違って、そりゃもう、ずんずんと重圧が掛かるのも仕方がないと思います」
自分でも辛いと答えたエステルに、「筆頭はハイドラに譲る」とドーレドーレは答えた。
「と言っても、ハイドラも私の一つ年下ですからね。
あくまで、暫定的な処置になるものと思っています」
「だとしたら、その次の筆頭はプレアデスさんですよね?
たかだか1年の猶予では、やっぱり重圧を感じると思いますよ」
可哀相だと答えたエステルに、「決まった話ではありませんよ」とドーレドーレは応じた。
「私の後継者だからと言って、自動的に筆頭になるわけではありませんよ。
ラウンズの序列、そして配下のブレイブスの陣容による総合的な判断が行われるのです」
「でしたら、やっぱりプレアデスさんが筆頭になるんじゃありませんか?
シエルさんの地位は揺るがないと思いますし、ブレイブスの陣容もトップクラスじゃないですか」
ドーレドーレの示した基準に従えば、シエルが居る限りプレアデスが筆頭になるのが必然なのだ。エステルにしてはとても常識的な答えに、ドーレドーレは少し口元を歪め「そうでしょうか?」と含みを持たせた答えを返した。
「そうでしょうかと言われても……カノンさんではシエルさんに敵いませんし。
サークラさんもレグルスさんも、まだまだシエルさんの敵ではないと思いますよ」
「それ以外に、候補は居ないのですか?」
「マニゴルドさんも駄目だと思いますし……シルファさん、フランフランさんもちょっと……
代替わりをしたところは、まだまだ実力不足だと思いますし……
そう考えると、やっぱりプレアデスさんが筆頭になるんじゃありませんか?
……なんで私を指さすのですか?」
目の前では、ドーレドーレが口元をにやけさせて自分を指さしているのだ。目を丸くして驚いたエステルに、不思議なことではないとドーレドーレは応じた。
「ラウンズの実力に関しては、今回の余興で十分に示せたでしょう?
ブレイブスの指導に関しても、きちんと運営が回っていると聞いていますよ。
後はシンジがシエルに勝って、あなたが覚悟を決めればそれで終わりでしょう?」
「……本気ですか?
シンジはまだしも、私なんかを筆頭にして良いと思っているんですか!」
「それは、ヴァルキュリアとして力説して欲しいことではありませんね」
自分では駄目と力説するエステルに、自覚はあるのだなとドーレドーレも感心した。もっとも、だからと言って候補から外すと言う事はあり得ないし、それをやっていたら全員が筆頭の立場から逃げ出してしまうだろう。それもあって、「必ずしも本人の意志通りには行きませんよ」と言う脅しを掛けたのだ。
「シエルのためにも、条件が整うことを私は期待しているわ」
「そう言う乙女チックなことは、10代で卒業して欲しいって言いましたよね?」
なぜいきなり自分の顔を見るのだ。しかも二人とも、いかにも面倒そうな視線を向けてくれるのだ。なぜそんな目で見られなければいけないのか、そして自分が何か迷惑を掛けているのか。シエルとしては心当たりのない、しかもことあるごとに言われる話に、どうしようもない腹立ちを感じてしまったのだった。
続く