神山を朝の8時にでる特急に私は乗っています。この特急の目指す先は、愛知県の名古屋市です。来年の受験のため、私は予備校の夏期講習に通うことにしました。家の問題でほぼ1年を無駄にしたこともあり、予備校に通って追い込みをかけないと、来年の試験も危うかったのです。それを考えれば、浮かれていてはいけないはずなのですが。  それでも心が浮き立ってしまうのは、名古屋に行けば折木さんに逢えるからです。一方的に私が依存をして、そしてさよならも言わずに姿を消してしまいました。本当なら、折木さんに合わせる顔などないはずなのですが。それでも、どうしても折木さんに逢いたいと言う気持ちを抑えることができませんでした。ですから、入須さんに頼み込んで、折木さんに迎えに来てもらうことにしたんです。それがどれだけ迷惑なことかは自覚していますが、それでも逢いたい、声を聞きたい、顔を見たいと言う気持ちを抑えることができませんでした。  そのため入須の小父様にはご迷惑をかけることになりました。それでも疑問なのは、本当に入須さんの部屋に間借りをして良いのかと言うことです。私としてはとても心強いのですが、ご迷惑になるのではと言う気持ちも持っています。  ただ、入須の小父様の気持ちも理解できます。恋人ができたようだが、教えてもくれない。そう嘆かれてしまうと、なにかお手伝いしないとと言う気持ちもしてしまうのです。だから「さりげなく」聞き出して、小父様に教えてあげれば良いのかなと考えています。できればどんな人なのかも知りたいのですが、欲をかくとろくなことにならないは世の常です。だから当たり障りのない事実を、さりげなく……私にとって、このさりげなくと言うのはとても難しいことですが……聞き出してみようと思っています。やはり私も、入須さんの恋人は気になりますから。  窓の外を見ると、濃い緑の景色から灰色の景色へと変わってきました。あと30分も経てば、この特急は名古屋駅に到着します。その時私は、どんな顔をして折木さんに逢えば良いのでしょう。  手鏡をバッグから取り出したのは、自分がどんな顔をしているのか確かめるためです。鏡に写った顔は、本当に見慣れたいつもの顔です。ただ、毎朝鏡で見る顔に比べ、今は少しだけ嬉しそうに見えます。いえ違いますね、とてもうれしそうに見えます。後少し、ほんとうに後少しで折木にさんに逢うことができます。その時私は、自然な笑顔を浮かべることができるでしょうか。  自然な笑顔で、折木さんに私の気持ちを伝えます。頼りになる折木さんですから、お付き合いされている方が居ても不思議ではありません。ですが私も、気持ちを伝えなければ先に進むことはできません。待っていた、付き合ってくれ……などと言う夢を見る時間は過ぎているのです。たとえどんな現実が待ち構えていたとしても、私は乗り越えていかないといけないと思っているのですから。 「折木さん、いえ奉太郎さん。私はあなたのことを大好きです。愛しています」  折木さんとの将来があれば、いったいどれだけ素敵なことでしょう。そのためにも、私は一歩を踏み出さないといけないのです。  名古屋駅まで、残りは10分を切りました。後少しで折木さんに逢うことができます。  格好をつけて文月と言ってみても、今どき書道の上達を願うはずもない。そして稲穂が膨らむと言っても、故郷の神山にいる頃ならいざしらず、大都会に来てしまえばそんなものを見ることもなくなっている。  むしろ大学生となった俺にしてみれば、長い夏休みへの突入の意味の方が大きいと言う事ができるだろう。そして文月の文に肖ることもなく、家には帰る予定がないとメールで連絡を送っていた。  いや、まて、メールと言う以上、これは文に当たると考える事もできる。ならば俺は、7月を迎えた大学生として正しく文を使って連絡を行ったことになるのだろう。  ちなみに俺がなぜ、こんなつまらない言葉遊びに興じているのかと言うと、置かれた環境と言うやつが原因の一つであるのは間違いないだろう。省エネをモットーとするこの俺折木奉太郎が、驚くべきことに彼女と第二ラウンドまで済ませたのち、俗に言う賢者モードに突入したからである。  ちなみに大都会、大学のある名古屋市は夏の猛暑で有名な地域でもある。今どきコンクリートジャングルと言う言い方はどうかと思うが、山と田畑に囲まれた神山市と比べれば、多少の緑は誤差の範囲としか言いようがない。未だ梅雨の真っ盛りではあるが、夜の寝苦しさは神山とは比べるのが申し訳なくなるほど厳しいものになっていたのだ。  しかしその寝苦しい夜も、文明の利器を使えば事情は変わってくる。昔の映画に出てくるような貧乏学生ならいざしらず、今日日の学生の住まいにはしっかりと冷房が完備されている。ただ激しい運動をすれば、嫌でも汗を掻くことになる。だからと言うのは短絡的なのかもしれないが、隣で寝ている女の谷間には汗の粒が浮かび上がっていた。未だ息が落ち着かないところを見ると、2ラウンドまで突入した奉仕は無駄ではなかったと言うことだろう。俺にしては頑張ったとも言えるのだが、正直なところ結構ハマってもいたのだ。 「ホータロー……」  彼女を知っている者なら、本当に本人かどうか疑うのは間違いないだろう。普段の冷厳な雰囲気を感じさせない、媚と甘えの混じった声で俺の名を呼んできた。  これもいつもの事後のやり取り、この後軽い言葉のキャッチボールが行われ、その後くっついたまま眠ると言うのがいつものことになっていた。  ただこの日が少し違っていたのは、同じように甘えた口調で「面倒な話があるの」と続けてきたことだろう。 「面倒な、話なのか?」  天井を見上げていた俺は、少し体をずらして彼女へと向き合った。ちなみに天井を見上げても、数えるべきシミは見当たらなかった。  冷厳さは失われていても、彼女の美しさは少しも変わっていない。むしろきつさが薄れている分、可愛らしさが加わった……と言うのは、俺の贔屓目なのだろうか。  俺の疑問のこもった言葉に対して、彼女は小さく頷いた。 「そう、結構面倒な話になっているのよ。実は今日、お父様から連絡があったの」 「親父さんが、名古屋に来る……と言う話か?」  そのあたり、俺のことが知られているかどうかで面倒さは変わってくる。彼女の立場を考えれば、付き合っている男がそこいらの馬の骨であって良いわけがなかったのだ。  だが俺の指摘に小さく首を振って、思いも寄らない事を口にしてくれた。そう俺にとって、忘れることのできない、過去の棘が彼女の口から飛び出し俺の胸に突き刺さったのだ。 「千反田さんが、予備校の夏期講習で名古屋に来るのよ」  その名前は、俺の胸に小さいが、無視のできない痛みを覚えさせてくれた。ただ問題は、千反田が名古屋に来ることではない。何しろ夏期講習の行われる予備校は、名古屋駅近くに位置している。だとしたら、普通はその近くに宿を確保することを考えるだろう。ならば、よほどのことがない限り顔を合わせるようなことはないはずなのだ。  つまり、千反田が名古屋に来てからのことが問題になると言うことだ。 「確か、千反田とは家ぐるみの付き合いがある……と言うことだったな」  昔聞いた話を思い出してみれば、そこから導き出される答えはひとつに絞られてくる。 「ここに、転がり込んでくる……と言うことか」  なるほど、それは面倒なことに違いない。確かに面倒だと頷いたところで、「さすが……と言うより分かりやすかったわね」と彼女は少し口元を歪めた。 「ちなみに、うちの両親はあなたのことを知らないわよ。多分だけど、男ができたことぐらいは薄々感づいているとは思うけど」 「別に、普通なら報告が必要なこととは思えないが……ちなみに、うちの親もあなたのことを知らないぞ」  まあ男子学生だったら、彼女のことを嬉々として報告すると言うのはどこか違っているだろう。そのあたりは、女子学生でも変わらないと思うのだが……彼女の家を考えれば、そうとも言ってはいられないのかもしれない。 「それが面倒なことになっていると言う話に繋がるのか」  たしかに面倒なことになったと、俺は少しだけ考えてしまった。何しろ俺が確保した安アパートとに比べ、ここの環境は格段に恵まれていたのだ。そこそこ高級な賃貸マンションは伊達ではなく、生活と言う意味では狭い1Kとは一線を画している。それに加えて朝食付きの生活を考えると、それを取り上げられるのはいささかと言うには憚られるほど面倒なことに違いない。 「ええ、面倒ね」  そこで彼女は、その面倒事を指を折って口にしてくれた。 「第一に、徹底的に掃除をしなくちゃいけないことよ。あなたはここに半ば住み着いているでしょ。その痕跡を一つ残らず消す必要があるわね」 「いっそのことバラす……と言うのは、たしかに面倒なことになるな。しかし、掃除か……」  胸の痛みこそ感じはしたが、今更千反田とどうこうと言うことはない。だが俺ではなく彼女の実家のことを考えれば、ここでバレれば面倒なことになるのは間違いないだろう。 「それで、千反田はどこで寝るんだ? 寝具とかが必要だろう?」  半ば住み着いていると言われている俺だが、そのためにベッドとか用意しているわけではない。そうなると、この家にあるのはセミダブルサイズのベッド一つと言うことになる。 「それは、布団で寝てもらうことになるわね。流石に、この夏のためだけにベッドを用意できないわ……部屋はあるけど」  その説明はとても納得のいくものだった。そのあたり市一番の総合病院のお嬢様と言えば良いのだろう。一人住まいのくせに、3LDKの豪華マンション住まいをしてくれていたのだ。しかも一部屋一部屋が広いのだから、どれだけ贅沢なのだと言いたくなってしまう。  ちなみにこの豪華なマンションは、彼女が言うには「税金対策」なのだそうだ。その辺の感覚も、一庶民とは大きく違っていると言うことだ。 「つまり、布団を用意する必要があると言うことか。マットレスと考えたら、すのこタイプのベッドでも良いんじゃないのか?」  折りたたみが可能なタイプなら、使わない時には隅に立てかけておくことができる。そのつもりで提案をしたら、「作ってくれるの?」と彼女には似合わないシナを作ってくれた。 「そう言う媚びた態度は残念ながら似合っていないな。まあ、少しぐらいはぐっと来るものはあったのだが」  うむと考えたのは、自分の言葉の意味ではない。すのこタイプのベッドを用意する手間を考えたのである。そしてもう一つ、普段の千反田の生活だった。 「確か千反田の部屋にはベッドはなかったな……」  何気なく口にした言葉に、なぜか彼女が食いついてきた。それにしても、さほど深刻な影響を与えたものではないようだ。 「あなたがどうしてそれを知っているのかは気になるけど、だとしたらお布団の方が良さそうね。確か、近くにニトリが有ったわね」  どうしてそこで直接買いに行くと言う発想になるのか。しなくてはいけないことなら手短にをモットーとする俺としては、ぜひとも通販を勧めたいところだ。 「凝る必要もないのなら、通販で構わないはずだ」 「それもそうなんだけど。ほら、彼と一緒に家具売り場にいくのって素敵じゃない?」  その言葉に、俺はこの人に敵わないことを思い知らされた気がした。どうしてこうもうまく、俺の心を弄んでくれるのか。省エネをモットーとする俺なのに、家具売り場ぐらい一緒に行ってもいい気分になっていたのだ。  そこで一つ咳払いをしてから、俺は「それはそれ」と話を戻すことにした。 「繰り返すが、あなたが使うものではないのだろう。だとしたら、適当なもの……適切なものを手配すれば良いんじゃないのか。幸い夏だから、掛け布団も簡単で済む」 「そうなると、いつ届けてもらえるかがポイントになるわね」  ベッドサイドからスマートフォンを取り出して、早速ニトリの通販サイトをチェックを始めた。そしてチェックを始めてすぐに、「駄目ね」と小さく吐き出してくれた。 「納期は4から7日になっているわ」  それだと危ないと言うことは、千反田の来名は意外に早いことになる。 「ちなみに、千反田はいつ名古屋に出てくるんだ?」 「1週間後の今日と聞いているわ」  つまり、俺はニトリまで行って布団を抱えてくることが決定したことになる。はぁっと一つ息を吐いてから、俺はこの場における最良の逃げを打つことにした。つまり、これから第3ラウンドを始めると言うことだ。千反田が来れば会いにくくなることを考えれば、できることは今のうちにやっておいたほうが良いのである。  ちなみに同じことを考えたのか、彼女、すなわち入須冬美も積極的に唇を重ねてきた。  それからの5日間は、アルバイトにもいかずに証拠隠滅に励むことになった。懸案の寝具は、レンタカーを借りて近くにニトリに乗り込み調達を済ませた。ついでに小さなチェストも買ったのだが、当たり前のように組み立ては俺の方に回ってきた。  そして掃除よりも先に、すべてのクローゼットの中身を確認した。千反田の性格を考えれば、無遠慮に他人のクローゼットを漁るとは考えられない。だがその油断が、取り返しのつかないことになる可能性を秘めている。現に寝室としている部屋以外のクローゼットから、俺のパンツと避妊具一式が出てきたのだ。  そして食器棚から俺の食器を抜き出し、ペアのカップには同じ型のカップを追加すると言う変化球を投じた。バスルームからは男物のシャンプーとボディーソープを、洗面所からは俺の歯ブラシを救出した。嗅覚が異常に発達した千反田対策として、すべてのタオルは柔軟剤をたっぷり使って洗濯をし直した。  持ち物の点から俺の痕跡をこの家から抹消したあとは、徹底して隅から隅まで掃除機を掛けた。そして掃除機を掛けたあとは、ウエットワイパーで拭き直しまでしたのである。もちろん、ベランダにおかしなものが残っていないのも確認済みである。 「さて、これで俺の痕跡は消えたわけだが」  そこまでたどり着くのに、3日と言う時間を使っていた。ただ入れ物の掃除は終わったが、これで終わりと言うわけではなかった。 「これから次の段階になるのだが」 「まだすることが有ったかしら?」  まるで引っ越ししたての様相を見せる部屋を見た冬美は、理解できないのか小首を傾げてくれた。 「ああ、その前にコーヒーでも淹れてくれないか?」 「コーヒーはいつもあなたが淹れてくれて……」  そこまで口にして、ああと大きく冬美は頷いた。カウンターの上に置かれた高級コーヒーメーカは、俺の趣味が入った俺専用品となっていたのだ。 「使えない道具があるのはまずいと言うことね」 「俺が持っていっても良いんだが。流石に荷物が多くなってきた。それに、あなたもコーヒーは飲むのだろう」  冬美は、コーヒーメーカーは使えないがコーヒー自体は好んで飲んでいた。 「そうね。以前は飲まなかったのだけど、あなたの影響を受けたと言うところかしら」  そんな可愛らしい玉なのかとふと疑問に感じたのだが、可愛いのかもとすぐに考え直した。何しろ寝室には、数こそ控えめだが可愛らしいぬいぐるみがいくつか置かれていた。  そして可愛いのだなと考え直したところで、むらっとくるものを感じてしまった。ただここで事に及んでは、3日間の努力が水泡に帰してしまう。ぐっと我慢をして、ぐるりとキッチン周りを見渡した。 「バルミューダのトースターぐらいなら、使い方に困ることはないか」 「さすがにね、水を入れるだけだから」  そう口にしてから、少し不満げに彼女は唇を尖らせた。 「朝食を誰が用意しているのか忘れてない? それから、夕食も」  意外と言うと叱られるかもしれないが、彼女の料理の腕はなかなかのものだった。それを思い出せば、高級な調理器具が揃っていても不思議に思われることはないだろう。 「ちなみに、千反田はそのことを知っているのか?」  その問いに腕を組んで考えてから、「多分知らない」とあっさりと答えてくれた。 「でも料理上手な男がいると考えるのより、私が料理する方が自然な考えだと思わない?」 「調理器具に俺の趣味が入っていないから大丈夫だと思うが……」  ただ彼女の説の方が、説得力があるのは確かだろう。だとしたら、残すは高級コーヒーメーカーの使い方と言うことになる。そうなると、さほど急がなくても良いことになる。 「あまり汚さなければいいか」  そして、大掃除に掛かる時間もすでに分かっている。だとしたら、ここは欲望の赴くままにするのが二十歳前の男としては正しい姿になるのだろう。 「千反田がいる間、どうするのかを考えないといけないな」  両手のひらを股に挟んで座る彼女の横に腰を下ろし、肩を少し強引に俺の方へと抱き寄せた。 「また、掃除をするの? それから消臭剤?」  特に抵抗することもなく抱き寄せられた彼女は、少しだけ口元を歪めてそう言った。 「嫌と、言うことか?」  やんわりと断られたと感じた俺に、彼女はいたずらっぽく口元を今までより大きく歪めた。 「ううん、その程度の手間で済むんだと言うことよ。でも、確かにあの子が来ている間をどうするのかが問題ね」  俺の腕の中でぐるりと回り、両手を首に回してきた。 「いっそのこと、全部バラしてしまいたいぐらい」 「後が面倒だと言わなかったか?」  俺の言葉に「面倒ね」とすかさず答えがあった。 「だけど、それ以上に我慢できる自信がないのよ。そっちの方が問題として大きいわ」  そう言って唇を重ねてくる彼女の瞳は、明らかに熱を帯びていた。  腐れ縁とも言える伊原摩耶花から謝られたのは、10年を超える付き合いの中で初めてのことかもしれない。  俺はその日も、いつものように部室で文庫本を読んで時間を潰していた。今回のお供は、100円で買ってきた文庫本である。中身は、忠臣蔵とは名ばかりの金計算ばかりしていた侍の話である。違った視点を期待して買ったのは良いが、はっきり言って退屈極まりないものでしかなかった。  それでも投資をした以上、そして他にすることがない以上、無駄にするのは俺の主義に反している。それに千反田が来るまでの暇つぶしだと考えれば、熱中できない方が都合が良いとも言えたのだ。そして浮かれた気分になれない分だけ、今の気持ちには見合っているのかもしれない。  秋の日はつるべ落としと言うが、山間部にある神山市では、その傾向は更に強くなってくる。晩秋にもなると、午後4時を過ぎれば夕焼けが空を包み、絵に書いたようにカラスが西の空を飛んでいくのを見ることができた。部活の盛んな神山高校でも、ほとんどの部活が店じまいを始める時間でも有る。そしてその時間が、俺と千反田の逢瀬の時間となっていた。  だがその日に限って、待っても千反田は現れなかった。そしてその代わりに現れたのが伊原と言うことである。部室に入ってきた伊原は、すべてを理解しているかのような顔で、「悪いわね」と耳を疑う言葉を口にしてくれた。 「ちーちゃんだけど、待ってても来ないから」  最初に考えたのは、なにか急用ができたのかと言うことだった。ただその考えは、口に出るより前に俺の中で否定された。たとえ急用ができたとしても、別のクラスに居る摩耶花に伝言を頼むはずがないのだ。そして多少のことで、千反田が俺に会いに来ないはずがなかった。  つまり、急用ではない理由で千反田は来ないと言うことになる。 「そうか」  その時俺の口をついて出たのは、至極あっさりとした言葉だった。そこには、どこか安堵の気持ちも混ざっていたかもしれない。ただその言葉を聞きつけた伊原は、「悪いと思ってるのよ」と、しなくても良い言い訳を始めてくれた。 「あんたに責任がないのは分かってるのよ。でも、今のままだとちーちゃんはだめになってしまう。それぐらいのことはあんたにも分かっていると思うけど、今回ばかりはあんたではどうにもできないと思ったのよ。私も、ふくちゃんも」  福部里志の名前が出たことで、俺は伊原が現れた理由に得心がいった。その時の俺の心にあったのは、会えない寂しさではなく間違いなく解放されたと言う安堵の気持ちだろう。今更指摘されるまでもなく、俺達の関係が問題だらけなのは分かっていたのだ。そして俺が動くことで、千反田の心にとどめを刺すことも分かっていた。もがいても抜け出せない、底なし沼に嵌っている気持ちになっていたのだ。 「ああ、俺にはどうにもできない……のだろうな」  だからの答えに、伊原は小さく頷いた。 「別に、あんたとちーちゃんのことを反対しているわけじゃないのよ。ちーちゃんはあんたのことを信頼していたし、その気持が恋に変わってもおかしくないと思っていたから。むしろ、そうなるのが自然って考えていたこともあったわ。でも、今の二人は違うと思う。だから、ごめんっ」  そう言って伊原は、勢いよく頭を下げた。お下げにしていた髪が跳ねるぐらいの勢いでである。本気で謝っているのは分かるが、そこまでされると逆に気まずさを感じてしまう。 「別に、謝られるようなことじゃない。それに、俺自信おかしな関係になっていると思っていたからな。ただ、どうしようもなかったと言うのが正直なところだった。まあ、あいつ一人ぐらい背負う覚悟はしていたのだが。そうか、千反田は来ないか」  多分、二度と千反田はここには来ないだろう。そんな確信めいた予感が俺の中には生まれていた。 「たぶん、そう言うことになると思う。その方がちーちゃん、ううん、あんたのためと言う気がするわ」 「引導を渡しに来るのは里志だと思っていたのだがな」  それをなんの因果か伊原が言いに来たのだ。ただ普段なら剣山のようにある棘だらけの態度が、今日に限っては水まんじゅうのように丸くなっていた。 「悪いな、気を使わせて」  この問題は、俺と千反田の問題だと思っていたところがある。誰の助けも得られないと思っていただけに、里志と伊原が助けに入るとは思ってもいなかった。特に伊原が、千反田に辛い現実を突きつけるとは思ってもいなかったのだ。  俺の謝罪に、伊原は小さく首を振った。 「別に、あんたのためじゃないわよ。ただ、結果的にそうなったと言うだけのことよ。ふくちゃんとは違って、私はちーちゃんのためを思っただけよ」  俺から顔を背けたのは、照れ隠しの部分も有ったのかもしれない。なるほど里志は、こういった多面性を持つ伊原に惚れていたのか。不覚にも、伊原のことを可愛いと感じてしまったのである。 「それでも、俺はお前達に感謝しているんだ。千反田のことは、俺には受け止めてやる以上のことはできなかったからな」  千反田の心が打ちのめされたときに、そばに居たのがたまたま俺だったと言うことだ。ただそれを偶然で片付けるのは、流石に里志達も許してくれないだろう。俺があいつの気持ちを理解しようとして、そしてそばにいると言う選択を行った結果なのだ。ただ予想以上に、千反田の心が脆くなっていたのが計算違いだっただけのことだった。  下手な慰め、そう、義務ではなく自分の意志で家を継げばいい。そんな慰めの言葉を、俺は口にすることはできなかった。お前が商品価値のある作物を考え、俺が経営面で手助けをする。いっとき本気で考え、そして大学の選択の理由にもなった考えでもある。ただそれを口にしたところで、意味がないことに気がついてしまったのだ。  家を継ぐと言うレール、重荷、足かせは、千反田にとってレゾン・デートルになっていたものだ。千反田えると言う女性の人格を形作る、背骨のようなものなのかもしれない。そして背骨を失った千反田は、自分の形を保つことができずに、俺に寄りかかって居たのである。  喪失の痛手などと言う生易しいものではなく、これまでの自分の存在そのものを否定された気持ちになったのだろう。そんな千反田に、とってつけたような、そして陳腐な新しい目標を語ることにどれだけ意味があるのだろう。そんなものは、傷が癒えて自分で考えることができるようになって初めて受け入れる事のできるものでしかない。さもないと、更に傷口を抉ることになりかねなかったのだ。 「受け止めるだけって、それができたのもあんた以外に居なかったと思うわ。ただ、あんたには辛い役目を負わせたと思ってる。折木、実はあんたちーちゃんのことが好きだったんでしょう?」  その指摘は今更のことであり、そして初めてなされるものだった。そして自分の気持を顧みれば、絶対に否定のできないものである。生き雛のときからくすぶっていた気持ち、そうでなければ経済学部を目指そうなどと考えなかったはずだ。 「ああ、今更のことなんだが、俺はあいつのことが好きだったのだろうな」  だが現実は、思いが叶ったなどと言う幸せなものではなかった。なぜ俺が千反田に惹かれたのか、その理由を理解した途端に失ってしまったのだ。手に入ったときには、千反田は全く違う女性に変質していた。  俺の気持ちを聞いた伊原は、「やっぱり」と小さく、そして寂しく笑った。 「せっかく思いがかなったのにね。結局あんたはちーちゃんとしてないんでしょ?」 「ああ、キス止まり……よりは際どいことをしたかもしれんが。最後までは進めなかったな」  そこで手のひらを見た俺に、伊原はため息を一つ吐いてから「男って」と口元を歪めた。 「と言うより、あんたって優しすぎると言うのか、繊細すぎると言うのか、さもなければ厄介事を背負いすぎると言うのか。でも、しなかったのは正解だと思う。しちゃってたら、きっと手遅れになっていたから」 「千反田には随分とせがまれたのだがな、だが伊原、お前の言うとおりだな」  その時のことを思い出すと、苦笑いしか浮かんでこない。すべてを受け止めるつもりで居た俺なのだが、病的に迫ってくる千反田に怖気づいてしまっていたのだ。 「やせ我慢をしたの?」 「いや、正直その時の千反田が怖かった」  俺の答えに、伊原はほっと息を吐き出した。 「ちーちゃんは、なんとしてもあんたを繋ぎ止めたかったわけだ」 「印が欲しかった……んじゃないのか?」  伊原の言葉も、俺の言葉も根の部分では同じものでしかない。結局不安定な心は、俺という藁にすがることで持ち超えたていたに過ぎない。それでも不安を抑えきれず、安心できる何かを必要としたのだろう。  それでも一つだけ確かなことがあるとすれば、俺たち4人の古典部は終わってしまったと言うことだ。そしてその日以降、俺は千反田の顔を見ることはなかった。伊原から教えてもらった情報では、離れたところにある別の高校に編入したと言うことだった。  名古屋駅までのお迎えは、なぜか俺がすることになった。事情は冬美に教えてもらったのだが、千反田の家からそうするよう依頼があったとのことだ。なぜ冬美にそんなお願いがいったのかは、神山高校から名古屋大学に入学した者が少ないと言うのが事情らしい。入学時に行われた同窓会的なもので、話の一つぐらいしただろうと言う心もとない理由からである。従って、そのお願いにしても「できることならば」と言う程度のものでしかなかった。  それを「なんとか連絡をつけてみる」と難しい顔で受け取り、今日に至ったと言うことになる。一応後からの説明では、冬美が同窓会幹事に連絡先を聞いたことにしたそうだ。隣で寝ていた俺に声を掛けただけと知ったら、千反田の父親はどう思ったことだろう。  ちなみに俺は、高校の頃には携帯電話を持っていなかった。そのため千反田も、俺の連絡先は知らないはずだった。一応里志達には知らせてあるのだが、どうやら里志や摩耶花には連絡が行っていないようだ。  神山を午前8時出発の特急に乗れば、名古屋駅には10時半過ぎに到着することになる。茶のハーフパンツにボーダーのTシャツ、それにサンダルと言うのは、夏の暑さに合わせたものである。これに麦わら帽子を合わせて野に出れば、立派なカントリーボーイに見えたかもしれない。これみよがしに赤のロゴが入った黒のボディバッグをつけた姿は、かつて本山原人と言われた名大生そのものなのだろう。  乗る予定の号車情報は貰っているので、俺は入場券を買ってホームで待つことにした。改札を出たところで待ち合わせするのは、俺や千反田には難易度が高すぎるように思えたのだ。入場券を買うとき、その思いは確信と言って良いものになっていた。  そしてホームで待つこと5分、目の前に灰色かかったベージュの車体に、オレンジのラインが入った列車が力強く滑りこできた。少し焦げたような匂いがするのは、ディーゼル機関車の特徴なのだろうか。電気軌道車からは感じられない力強さは、ディーゼルならではなのだろう。  大きなキャリーバッグを抱えたおばちゃんの団体が居た反対ホームの賑わいとは対照的に、終着の上りホームは静かなものだった。そのあたり、週末の上りと言うのも理由なのかもしれない。観光ではなく、単身赴任でもしているのかと言う男の姿が目立っていたのだ。  それだけ人気が少なければ、いや、多少の人混みぐらいでこの俺が千反田を見逃すはずがない。そしてそのとおり、すぐに千反田を見つけることができた。その時の千反田は、夏の高原で見るのがふさわしいような白いツバの大きな帽子を被っていた。そして大きなスーツケースを引きずるように特急から降りてきた。いかにもと言うのはおかしいのかもしれないが、腰のあたりをベルトで絞った白い木綿のワンピースに麦わら帽子……ちなみに後から聞いたら、パナマ帽だと教えられたのだが……姿である。特に痩せた様子もなく、少し日に焼けたかなと言うのが第一印象だった。  列車から降りた千反田は、人を探すように首を動かした。そしてすぐに手を上げた俺を見つけ、一度頭を下げてから近づいてきた。そのあたりの礼儀正しさは、さすがは千反田と思わせるものだった。 「折木さん、お久しぶりです。今日は、迎えに来てくださってありがとうございます」  先程より大きく頭を下げた千反田は、かなり他人行儀に俺にお礼を言ってくれた。おかげで、胸元から胸の谷間を鑑賞させて貰うことになった。 「本当に折木さんが、迎えに来てくれたのですね」 「入須先輩からは、千反田家から頼まれたと聞いたのだが?」  その結果がこれなのだから、驚かれるような話でもないはずだ。それでも千反田は、特徴的な大きな目を更に大きく見開いて俺の顔を見てくれた。ただ以前に比べると、俺との距離は離れているようだ。お陰で、普通の知人の挨拶のレベルに二人の距離は収まっていた。 「でしたら、入須先輩に感謝しないといけませんね。同じ大学と言っても、連絡を取るのは大変だと思いますから」 「ちなみに、経済学部と医学部は、駅にして5つぐらい離れているぞ」  その答えは予想外だったのだろう、「そうなんですか」と千反田は靴一足分ぐらい俺に近づいてきた。 「だったら、かなり無理を言ったことになるのですね」 「電話一本で連絡はつくからな。その意味で言えば、距離はさほど問題ではなくなる」  そこまで話をしたのだが、いつまでもホームで話をしているものではない。この先の予定はわからないが、入場券には時間の期限が設定されている。 「とりあえず、入須先輩のマンションまで連れていけば良いのか?」  名古屋と言う土地に土地勘がなければ、八勝館のマンションと言っても意味がわからないだろう。鶴舞線や名城線の駅に近く、近くには大型スーパーもある好立地のマンションである。ちなみに八勝館と言うのは、地元では有名な料亭だったらしい。入須冬美の住んでいるマンションは、その土地の一部に建てられていた。最寄り駅は八事なのだが、名古屋からだとどの地下鉄路線を使っても一度は乗り換えをする必要があった。  とりあえず千反田からスーツケースを取り上げ、俺たち二人は在来線の改札を出た。すぐ近くの大型デパートの開店直後のせいなのか、大勢の人の波が入り口方面へと流れていた。田舎の神山市では、年始の参拝の時ぐらいしかお目にかかれない光景である。  その人並みに紛れないよう、俺は空いている手で千反田の手を掴んだ。その途端千反田が緊張したのを感じ、俺は「悪い」と謝ってその手を離した。ただ離しはしたが、今度は千反田の方から俺の手を捕まえてきた。 「すみません。少し驚いてしまって……でも、こうしないとはぐれてしまいそうですね」  少し頬に朱が指した様子は、以前の千反田を思い出させるものだった。ただ今は、あの時のように切羽詰まった空気は感じられない。癪にさわることだが、離れたことが良かったと言うのだろう。 「話をするにしても、とりあえず落ち着いてからだな」 「そう、ですね……本当は予備校を見ておきたかったのですけど」  名古屋と言う土地に不慣れなのだから、予備校を確認しておくのも必要なことだろう。特に名古屋駅にいるのだから、千反田が通う予備校は目と鼻の先のはずだった。ただ地下鉄の東山線の改札まで来てしまった以上、JRの反対側まで回るのはあまり嬉しくない。特に軽いとは言えないスーツケースを抱えている今は。 「予備校の方は、荷物をおいて着替えてからでも良いだろう」  その方が身軽だし、他にも色々と見て回ることができる。そのつもりで話した俺に、千反田は遠慮がちに「お願いしたいことがあります」と言ってきた。 「無理でなければ、案内していただけないでしょうか。できれば、名古屋大学のキャンパスも見ておきたいと思います」  ある程度の覚悟はできていたので、この程度のことなら想定の範囲でしかなかった。幸いなことに、冬美のマンションの近くには、時間をつぶす場所がいくつもある。モーニングの終わった時間なら、コメダも空いているだろう。そして念の為を思って、アルバイトもシフトを外していた。 「ああ、近くのコメダで待っているさ。そろそろ昼だから、落ち合ったところで何かを食べに行くか」  俺の提案が予想外だったのか、さもなければ期待以上のものだったのだろう。千反田がぱっと表情を明るくした。 「その、ご迷惑でなければ」  それから恥ずかしげに俯くところは、俺の知っている千反田が戻ってきているようにみえた。ただそれが錯覚なのは、僅かに浮かんだ表情から理解することができた。ほんの僅か浮かんだ媚びににた表情が、あの頃の千反田を思い出させてくれたのだ。そもそも俺を迎えに指名した時点で、何らかの意図があるのは分かりきったことだった。 「別に、特に迷惑と言うことはないな。古典部の仲間が出てきたんだ、別に不思議なことじゃないだろう」  できるだけそっけなく聞こえるように言ったのだが、あまり意味のあることではなかったようだ。よくよく思い出してみれば、古典部時代の俺はぶっきらぼうでそっけない喋り方をしていた。  それ以上こだわると、かえって藪を突くことになりかねない。一駅で乗り換えと言うのも、話題を広げなくて済む分には役に立ったのだろう。伏見で降りた俺は、こっちだと千反田を鶴舞線へと案内した。ここからは少し時間があるのだが、話の流れが断ち切られたのでそれを利用すれば良いと考えていた。  ただ千反田の方は、そうは考えていなかったようだ。降りる駅を確認してから、以前の距離で俺を見上げてきた。その近すぎる距離は、空いている時間帯では周りからは異質に見えただろう。いや、異質と言うのはごまかしでしかない。恋人同士の距離と言うのが、この際一番しっくりと来る表現になる。 「折木さんに迎えに来ていただいて良かったと思っています。私一人だったら、きっと迷子になっていたと思います」 「明日からだが、大丈夫なのか?」  ちょっとした俺の親切に、「明日はお休みです」と言う答えがあった。 「夏期講習自体が始まるのは、実は来週の月曜からなんです。お父様に無理を言って、1週間早く名古屋に来てしまいました。受験に成功したら過ごすことになる街を、一日でも早く見ておきたかったんです。あの、これっておかしな考え方ですか?」  少しだけ不安そうな顔をした千反田に、俺は少し顔を背けて「いや」と答えた。もっと近くで見たことのある顔なのだが、今の俺には近すぎる距離だった。 「俺も名古屋に出てきて感じたことだが、都会と田舎はやっぱり違うと言うことだ。お前が都会に憧れるのもおかしなことじゃないと思うぞ」  最初の2年は教養課程と言うこともあり、周りには経済学部以外の奴も多く居た。勝手に絡んでくる奴やらもいるので、結構話をしたことのある奴らが男女とも多くなっていた。そいつらの話をまとめると、やはり都会は良いと言うものだった。偉大な田舎と言われる名古屋なのだが、俺たち田舎者からすれば大都会に違いなかったのだ。 「そうですね、憧れがないと言うと嘘になりますね。ただ、早く都会に出たいと言う気持ちだけが理由じゃないんですよ」  そう口にしたときの千反田に、ああまただと、危険が近づいているのを俺は理解した。あのときでも見たことのない、女の顔を千反田がしたのだ。 「まあ、人には色々と理由はあるのだろうな」  だから余計に踏み込まず、俺は視線を動かしドアの上へと向けた。次がいりなかと表示されているので、まもなく降車地となる八事に到着する。 「八勝館なら、次のいりなかで降りても歩ける距離だ。まあ八事だったら目の前だから、わざわざいりなかで降りる必要はないのだがな」  いりなかから歩くと言う選択肢は、実際には存在しない。ただ話を逸らすのに、利用しただけのことだ。それでも土地勘のない千反田に、位置関係を教える意味ぐらいは持っていた。 「神山と違って、駅の間が近いんですねっ!」  驚きですと笑った千反田は、もうすぐですねとドアの表示を見た。確かに表示には、目的地の八事が表示されていた。 「私は、ここから通うことになるのですね」  嬉しそうな表情は、都会に出てきた女性そのものだった。終着点は北陣出と言った千反田も、世の女性の理から外れていないのだろう。 「名古屋駅に行くには、少しだけ不便といえば不便なのだがな。短期のことなら、ウィークリーマンションを借りた方がよほど便利だと思うぞ」 「確かに、通学と言う意味なら仰る通りだと思います」  別の意味ならどうなのだ。ただそれを聞くには、俺に残された時間は短かった。電車がすぐに減速し、八事に着くと言うアナウンスが流れてきたのである。 「ホームを降りたら右側に向かってくれ。そこに改札までのエレベータがある」  重たいスーツケースを抱えあげ、俺は千反田に遅れてホームに降りた。そしてこっちだと指差し、ゴロゴロとスーツケースを転がした。 「しかし、重いのだな。よく名古屋まで一人で運べたものだ」  持ち上げようとすると、本当にずっしりと重みを感じてしまう。約1ヶ月の生活を考えれば、それなりの荷物が必要というのは理解できる。それは理解しているが、それにしても重すぎだろうと言いたかった。 「その、参考書とかを詰め込んだのもあるのですが……お父様が、お世話になるのだからお礼が必要だと」 「参考書か。確かに、本とかは重たいな」  確かに、千反田は名古屋まで遊びに出てきたわけではない。来年の受験に向けて、勉強をしに出てきていたのだ。それを考えれば、参考書を持ってくる事自体は不思議なことではない。そして本の重さは、俺自身経験したことでもある。  なるほどと納得しながら、俺はゴロゴロとスーツケースを転がした。バリアフリーの行き届いた構内のお陰で、さほど苦労はなかったと言えるだろう。最後はエレベータで地上に出れば、名古屋市交通局の責任は完遂される。あとは、道路局がどれだけ人に優しいのかだけになる。  そこで問題があるとすれば、地上に出るエレベータの位置だった。一番近い出口は、冬美のマンションから目と鼻の先に位置していた。ただそこには階段しかないので、こんな重いスーツケースを抱えて上がれるものではない。そうなると、道の反対側、しかも結構離れた位置のエレベータを使う必要があった。 「あそこに見えるマンションが、入須先輩の住んでいるところだ。鍵は預かってきたが、部屋番号は聞いているな?」 「はい、一応連絡を頂いています」  ちなみに、俺のキーケースには同じ鍵が収まっていたりする。 「でも、本当に交通の便が良いところなのですね。駅の出口から、こんなに近くにあるなんて」  千反田の言葉に、俺が都会に毒されていたのに気付かされた。遠いと感じた冬美のマンションも、千反田の常識では目と鼻の先でしかなかったのだ。確かに自転車で高校まで通っていた道のりを考えたら、この程度の距離など問題になることはないのだろう。 「実際には、あそこにもう一つの出口があるんだ。ただ階段しかないから、こうして遠い出口を選んでいる。これから通うときは、もっと近い出入り口を使うことになる」  それからと、俺は左手にそびえる巨大な建物を指差した。 「あれが最寄りのスーパーだ。大抵の日常品ならあそこで揃うぞ」 「神山と違って、上に高くなっているんですね。やはり、土地が高いのが理由なのでしょうか? それに、駐車場も立体になっているのですか」  ほうっと息を吐いたのは、文化の違いを感じたからなのだろう。確かに田舎から出てくれば、何もかも新鮮に映るのは仕方がないことだ。物珍しそうにキョロキョロするのも、事情を考えれば不思議なことではない。  ただそのあたりは、事情を知っているからに他ならない。そして千反田の事情を知らないものからすれば、その行動は紛れもないお上りさんのものだった。女子高生らしき奴らが笑っているように見えるのは、俺の被害妄想ではないはずだ。  途中信号を渡れば、5分ほどでマンションに到着することができる。そのエントランス、つまりセキュリティの掛かった部分の前で、俺はスーツケースを千反田に引き渡した。 「お前は、確か記憶力が良かったな?」 「特筆すべき記憶力かは自信がありませんが。大抵のことなら、覚えることができると思います」  それがと答えた千反田に、俺は自分の携帯電話の番号を教えた。今の千反田に、待ち合わせ場所を教えることに意味はない。特に出てくるまでに掛かる時間が分からない以上、俺が迎えに来る方が確実だったのだ。電話番号を教えることに不安はあったが、里志達に教えてある以上、千反田だけを仲間外れにするわけにはいかないだろう。 「でしたら、私の番号も……」  慌ててポーチを探った千反田に、「必要ない」と俺は制止した。 「お前から掛けてくれれば、俺も番号を知ることができるからな」 「そう言うものなのですか?」  そこで不思議そうな顔をされたのだが、逆に俺の方が不思議に感じてしまった。それが分かったのか、千反田は「買って貰ったばかりなんです」と事情を口にした。 「ですから、最初に電話をする相手が折木さんなんです」 「入須先輩とは?」  確か連絡をとっているはずだ。そのつもりの質問に、「家の電話です」と千反田はあっけらかんと答えた。 「これからは必要だろうと、お父様が買ってくださいました」  なるほどなと納得した俺は、「待っているからな」と話を打ち切ることにした。何しろこのマンションには、半ば住み着いていると言われるほど通っていたのだ。そうなると、誰かに顔を見られている可能性は高くなる。そこで挨拶でもされようものなら、大掃除をした意味がなくなってしまう。  じゃあなと手を振った俺は、近くのスーパーのところにあるコメダに向かうことにした。まだ昼食前だから混んでいないだろうとの見込みからである。コーヒーの味は口に合わないが、長居をするには都合が良い場所だったのだ。  千反田から連絡があったのは、それから40分後のことだった。ちょうど昼食時間になり、入店待ちの客が増えてきた時のことだった。いくら長居ができるコメダでも、待っている客の視線を気にしなくてはいけない頃合いになっていた。  そこでコーヒー代を払って外に出ると、気温は更に上がっていた。梅雨明けはまだのくせに、ぎらつく太陽は容赦なく俺を焦がしてくれた。せっかく体を冷やしたのだが、摂取した水分が汗としてどっと吹き出してくれた。  電話を受けてから5分、俺がマンションの入り口についたときには、すでに千反田はエントランスに出ていた。ただその時の格好は、少しだけ俺に現実逃避をさせるものだった。 「暑そうだったので、涼しい格好にしたのですが。その、似合っていませんか?」  恥ずかしそうに、そして短いスカートを下に引っ張るのは、演技か素なのか俺には理解できなかった。それでも言えるのは、反則だろうと言いたくなるスカートの短さだ。かがんだぐらいで下着は見えないが、俺の知っている千反田が選ぶとは思えない短さだったのである。そして上には、白の半袖のブラウスがコーディネートされていた。 「いや、似合っているとは思うのだが。ちょっとお前のイメージとは違っていただけだ」 「おかしくはないんですね」  ほっと息を吐き出した千反田に、行こうかと俺は切り出した。格好を褒めるのも、おかしな空気を作ることになりかねない。先程と同じことなのだが、マンションの入口に長居はしたくなかったのだ。 「どうする。最初に予備校の位置を確認するか?」 「そうですね。でしたら、名古屋駅のところでお昼をご馳走します」  行きましょうと、千反田は俺の左腕を抱えてきた。しっとりした肌の感触と、柔らかな胸の感触が俺の左腕に伝わってきた。 「なんのまねだ? 暑いぞ」 「だめ、なんですか?」  一体どこの誰が、千反田にこんな媚びた真似を教えたのか。そいつを恨めしく思ったのだが、天に唾する事になるとそれ以上のことは思いとどまった。思い出してみれば、放課後の部室の千反田はこんな視線を向けるようになっていたのだ。  確かに天に唾する行為だと思い直した俺は、この場において角の立たない、そしてとても説得力のある理由を告げることにした。ようは、「暑すぎる」のだ。 「駄目とまでは言わないが、流石に暑すぎる」  それから天を仰げば、理由としては満点となる。そして俺の腕を抱えた千反田も、「暑いですね」と同じように天を仰いだ。 「こんなところも違うのですね。それに、緑があっても少しも涼しく感じません」  ポーチからハンカチを取り出した千反田は、首筋に滲んだ汗を拭った。 「仰る通り、このままでは二人して茹だってしまいますね。夏期講習が始まる前に、夏バテをしてしまっては元も子もありません」  それでも少し名残惜しそうに、千反田は抱えていた腕を離してくれた。それまで重なっていた場所には、二人分の汗が滲んでいた。 「とりあえず、名古屋駅に戻るぞ。その方が、ランチに適当な店がたくさんあるからな」 「でしたら、ご馳走させていただけませんか? 父からも、お世話になるのだからお礼は忘れるなと言われているんです」  そう言って軽くポーチを叩いてくれたのだが、なぜかそれが気に入らなかった。 「いや、浪人生に集るのは流石に人として駄目だろう。それからお前は、古典部の仲間だからな。こう言うときは、割り勘にするのが道理と言うものだ」 「お礼ですから、無理強いをする性格のものではないのですが。父も、折木さんによろしく伝えてくれと言っていたんですよ」 「お前の親父さんが?」  流石に不穏な響きだったのだが、地下鉄の乗り場までさほど時間がかかるわけがない。名古屋に戻るのなら、少なくとも千反田はきっぷを買わなければならなかった。片道270円と言うのは、安いと言えば良いのか高いと言えば良いのか。延べ20日少し通うのだと、交通費で1万円を超えることになる。 「ところで、学生定期とかは買えるのか?」 「予備校生を学生と言って良いのか……そのあたり、夏期講習の説明会で説明があると思います」  1ヶ月定期を手に入れるだけで、交通費がいきなり半額になってくれる。バイト代にすると、5時間強の節約と言うことになる。社会人でないことだけは確かなのだから、学生定期が使えても良さそうなものだ。 「定期と言えば、折木さんはどうされているのですか?」 「俺か?」  軽く答えては見たが、ここから先は慎重に答える必要がある。俺と冬美の関係に結びつかないように、そして千反田に押しかけられないようにだ。 「俺は、大学まで自転車で通っているからな。電動ママチャリ最強を実感している」 「名古屋も、意外に坂がありますからね」  分かりますと頷いた千反田は、八事から名古屋駅は無理そうだと呟いた。 「まあ、お前にロードバイクで疾走する姿は想像ができないからな。それから話は変わるが、入須先輩の通う医学部はここからすぐだ」 「つるまい……ですか?」  ここの地名のややこしさは、地下鉄の路線名は「つるまい」なのだが、そとにある公園は「つるま」だと言うことだ。ただ「つるまいこうえん」でも通用するので、さほど気にする必要はないだろう。  それから行きと同じように伏見で乗り換え、そこから一駅で名古屋駅についた。そして地下を通って新幹線の反対側のモール、「エスカ」へとたどり着いた。 「どうする? 先に昼食にするか?」  そこで時間を確認すると、12時を30分ほど過ぎていた。昼食には丁度いい時間なのだが、その分各店舗には順番待ちの客が並んでいた。 「今日は、予備校を見るだけですから先に見ておくことにします。その方が、ゆっくりとお昼をいただけると思いますので」 「それで、なにか食べたいものはあるのか?」  それによって、行く店が変わってくるのも確かだ。ただ俺の質問は、少し千反田には難易度が高かったようだ。少し困った顔をしてから、「思い当たるものがありません」と言ってくれた。 「その、家でもあまり外食をしたことがないんです。だから、こう言ったときに何を食べたら良いのかよくわからないと言うのか。ただそれだと折木さんが困ると思いますので、ここで一つ提案ですが名古屋めしと言うのはどうでしょう」 「名古屋めし、か」  予備校の方に歩きながら、俺は有無と考えた。 「それで、K塾、それともT進?」 「あっ、K塾の方です」  だったらこちらかと、地下街を北方向へと歩いた。それから地上に出ると、K塾の建物は目と鼻の先になる。 「大きな建物なのですね」 「まあ、このあたりじゃ最大勢力だからな」  全国的に言ってもトップクラスだと考えれば、この規模の建物も不思議じゃないのだろう。予備校にお世話にならなかった俺ですら、その名前は知っていたのだ。  受付が空いているからと、千反田はすたすたと中へと入っていった。予備校に縁のない俺も、その後に少し遅れてついていった。当たり前だが、外で待つのは暑すぎたのだ。  どうやら千反田は、来週からの夏期講習のことを確認しているらしい。そこで何かの紙を出したところを見ると、事前配布の書類があったようだ。 「定期券の申請書か?」 「いえ、単なる調査票です。通学定期は、こちらに住所がないと買えないようです」  なるほどそう言う仕組みになっていたのか。安アパートから大学まで自転車の俺には、無関係の世界がそこにあった。ちなみに住民票を動かしていないので、俺はまだ神山市の住人と言うことになる。  なるほどと感心しながら見ている前で、千反田は受付の女性となにかを話していた。相手の表情を見る限り、単なる事務的なものなのだろう。すぐに小さく頭を下げて、千反田は俺の方へと振り返った。 「どうも、おまたせしてすみませんでした」 「いや、涼ませてもらったらから構わんぞ」  さすがは入り口と言えば良いのか、普通の部屋より冷気が強くなっていた。この冷たさが、体に心地よかったりする。  ただ用が終われば、いつまでも長居をするものではない。壁にかけられた時計を見れば、時間は1時になろうとしている。お昼を食べるには、丁度いい頃合いと言うことになる。 「ところで、名古屋めしが良かったのだな。この暑さだ、流石に味噌煮込みうどんと言うわけにはいかないだろう。同じ理由で、台湾ラーメンも駄目だな。なんだ、千反田?」  なぜか不思議そうに首を傾げたのが目に入り、俺はリストアップを止めて理由を聞いた。 「いえ、なぜ台湾ラーメンが名古屋めしなのでしょうか。少し気になっただけで」  そこで迫ってこなかったのは、謎と言うにはこだわるほどの事がないからだろう。それを聞いて、ああと俺は小さく頷いた。 「ちなみに、カップ麺も出ているのだがな。辛さが抑えられたのは、台湾ラーメンアメリカンと言う」 「ますます意味が分からなくなってしまいました」  戯画的表現をするのなら、千反田の頭の上にははてなマークが出ているところだろ。それがおかしくて、俺は小さく吹き出してしまった。 「なに、アメリカンコーヒーと同じ理由だ」 「ですがアメリカンコーヒーは、豆のローストを浅くしたもののハズです。辛さを抑えたのが、アメリカンと言うのはなにか納得がいかなくて……」  ううむと唸った千反田は、やはりおかしいですとネーミングに文句をつけてくれた。 「まあ、アメリカンのネーミングは別として、今池にある台湾料理店が考えたラーメンに、台湾ラーメンと名付けたのが始まりだ。今では、結構全国で食べることができるぞ。そしてこれはマメなのだが、本場台湾では日式ラーメンと言うらしい」 「天津甘栗……のようなものと思えば良いのですか」  どうやら納得してくれたようだが、逆に俺に疑問が浮かんでしまった。天津甘栗は天津発祥じゃないのか? 「そう言えば、天津飯と言うのも日本でできた料理のようですね」  ちょっと待て。だとしたら、俺は今まで何をありがたがっていたのだ。いや、別に天津甘栗や天津飯をありがたがっていたわけじゃないのだが、なにか今日から見方が変わった気がするぞ。 「高級なところだと、うなぎのひつまぶしだな。それからあんかけスパに、スガキヤのラーメンぐらいか。名古屋めしと言うわけじゃないが、コンパルのエビカツサンドってのもある」 「あんかけスパって……スパゲティに餡をかけるのですか? こしあんなのでしょうか、つぶあんなのでしょうか、それとも白あんなのでしょうか。気になると言えば気になるのですが……」  ううむと唸った千反田に、「それは違う」と俺は突っ込みを入れた。ちなみにあんこは使わないが、生クリームとかを使う有名なお店は大学の近くに存在する。その店に行くのは登山と言われるのだが、俺は危うく遭難をしかけた覚えがある。 「天津飯の上にかけるのを餡と言うだろう。とろみのついた辛味のあるソースを掛けて食べるスパゲティがあんかけスパのことだ」  俺の説明に、千反田は小さく頷いた。 「なるほど、そちらの餡なのですね。なにか、安心することができました。流石にスパゲティにあんこは合わないと思います」  理解してくれてありがとう。ただ理解をしてもらっても、これからどこに行くのかの課題は解決されていない。さてどうしたものかと悩んだ俺に、千反田はとても無難な提案をしてくれた。 「その、サンドイッチが食べたくなりました。よろしければ、コンパル、ですか。そこにしませんか?」 「そこなら、ちょうど帰り道になるな」  良しと答え、俺は千反田を先導するように歩いていこうとした。だが千反田は、またもや俺の腕に自分の腕を絡めてくれた。 「その、ここでしたら冷房も入っていますから」  最初に使った暑すぎると言う口実は、あっさりと封じられてしまった。そうなると、駄目と否定しなかったつけがここで生きてくる。 「まあ、仕方がないか」 「折木さんなら、きっとそう言ってくださると思っていました」  つまり俺は、流されやすいと思われているのか。流石にそれはと言い返したかったのだが、それを言うのも野暮なことに違いなかった。  無難な昼食を終えた後は、東山線に乗って本山へと向かった。ちなみに俺の借りた安アパートは、本山から徒歩5分のところにあったりする。駅周辺は綺麗な本山なのだが、一歩中に入ればまだまだ古い建物がたくさん残って居た。特に平和公園、つまり墓地公園側に行けば、俺の知らない昭和を感じさせる町並みが残っていたのだ。  もちろん、この暑い日に坂道を登っていきたくなどない。従って、本山から名城線に乗り換え名古屋大学前まで向かうことにした。ちなみに地下鉄で1駅、動いたと思ったらすぐに到着すると言う短さである。  エレベータで地上に出れば、名古屋大学で一番開けた場所となる。広い道の両側には公園のような空間が広がり、西には図書館、東には講堂がそびえ立っていた。その光景を見た千反田は、ほうっと小さく息を吐いた。 「立派、なんですね?」 「去年は、来なかったのか? いや、いい」  俺としたことが、うかつなことを口にしてしまった。俺より成績が優秀だった千反田が、普通に受ければ受験を失敗するはずがないのだ。つまり、まともに受験すらできなかった事情と言うのが、そこにはあったはずなのだ。  思わず口ごもった俺に、「別に構いません」と千反田は口元を少し引きつらせた。 「ご存知かと思いますが、それどころではなかったと言うことです。ですから、去年は近くの女子大しか受けていないんです。それにしたところで、練習程度の意味しかありませんでした」 「そうか、悪かったな」  思わず口をついて出た言葉に、「折木さんに責任はありません」と千反田は寂しそうに言った。 「千反田が、折木さんにご迷惑をおかけしたと言うのが現実です。しかも、謝罪もお礼もなく、いきなり姿を消して……大変失礼なことをしたと思っているんです。私も、父も」  ごめんなさいと頭を下げられると、どうしても居心地の悪い思いをする。確かに俺は、迷惑をかけられたのだろう。好きだった女を好きにできると言うのが、あんなに苦しいことだとは思っても見なかったぐらいだ。ただそのことにしても、もう1年以上も前のことでしかない。 「いや、お前はそれだけ苦しんだんだ。だったら、俺に謝ることはないんだ。それに、お前の事情も理解できるからな」  こっちだと指を指して、俺は農学部のある方へと千反田を連れて行った。「暑い」と言う言葉が有効だったのか、大学構内で千反田は腕を組んでこなかった。 「まあ、夏休みだから建物自体は閉まっているがな。空いているのは、この時期図書館ぐらいだ。多分、農場の方に行けば誰かがいるとは思うが……流石に、ここからだと車がないと少し辛い場所だ」  千反田が来るからと、簡単に農学部のことは調べてある。東郷フィールドと言うらしいのだが、ここから15kmほど東に農場があるらしい。東名高速の三好インターチェンジのすぐ近く、地下鉄でも一応行ける場所ではある。 「農場ですから、そうなるのでしょうね。それは、また別の機会を考えることにします」  そこで大きく息を吸った千反田は、ありがとうございますと俺に頭を下げた。 「今日は、色々と折木さんにお世話になりました。いきなり不躾なお願いをしたのに、こんなに親切にしてくださいました。本当に折木さんには感謝をしているんです」 「そこまで畏まって礼を言われるほどのことじゃないんだがな」  誤魔化すように人差し指で、自分の頬をぽりっと掻いた。そんな俺に、「お願いついでと言ってはなんですが」と千反田は切り出してきた。 「後少しだけ、どこかでお話をできませんか?」 「それぐらいは構わないが……」  そこで時計を見たら、まだ3時前だった。なるほど暑いはずだと納得した俺は、「八事に行くか」と提案をした。 「話をしたいのか?」  俺の問いに、千反田はきゅっと唇を噛んでから答えた。 「そうですね、少しお話ができたらと」  そんな真剣な表情をされたら、それに応えないわけにはいかないだろう。だとしたら、他の客の目が気にならない場所がいい。少し分不相応だが、駅近くのホテルにラウンジがあったはずだ。 「じゃあ、地下鉄で八事だな」 「ここからだと、どうやって行くんですか?」  ああ、千反田は名古屋の地下鉄路線を理解していなかったな。確か一度説明した気もするが、無駄な労力を割く必要もないだろう。 「ここまで来た地下鉄に乗って、2駅目が八事だ」 「だとしたら、ぐるっと回ったことになるわけですね」  小さく頷いた千反田は、行きましょうと地下鉄の駅へと歩き出した。どうやら、あいつにとってこれからする話は一番のイベントのようだ。それならそれで、どんな話をしてくれるのかも想像がついてくる。ただ案内役を仰せつかった以上、必要な手続きは終わらせておく必要がある。これから名古屋まで通うことを考えたら、本来は学生定期なのだが、それが買えないのならICカードぐらい入手しておいたほうが都合がいい。  きっぷを買おうとする千反田を、ちょっと待てと俺は呼び止めた。 「どうかしましたか? 地下鉄に乗るのですよね?」  不思議そうな顔をした千反田に、俺は持っていたICカードを見せた。普段自転車を使っているので使用機会は少ないが、アルバイトに行く時にお世話になっているカードである。 「これを使うと、いちいちきっぷを買わなくてもすむ」 「ひょっとすると、西瓜と言うものですか?」  なんだ、その夏の定番の果物のような言い方は。Suicaのアクセントは、後ろではなく前についているのだ。 「いやいや、SuicaはJR東のICカードだ。ここだとToicaかmanakaになる。地下鉄で買えるのは、manakaの方だ。まあ、チャージをしておけば全国で使えるのだがな」 「全国と言われましても……神山では使えませんが」  ああ、確かに神山では使えなかったよ。ただ、ここで揚げ足を取ることに意味があると言うのか。 「名古屋では使えるんだ。これを買っておけば、いちいちきっぷを買わなくてもすむ」  スマホを持っていれば、モバイルSuicaにしてチャージと言う手もあるのだが。クレジットカードがないと使えない手でもある。ちなみに入須冬美は、家族カードだがゴールドを持っていた。 「確かに、毎日きっぷを買うのは手間ですね」  分かりましたと頷き、千反田は人のいる改札へと向かおうとした。俺は、もう一度ちょっと待てと引き止めた。 「そこの券売機で買うことができる。安全性を考えたら、記名式にしておいた方がいいな」 「記名式のmanakaを買えばいいのですね」  分かりましたともう一度頷き、千反田は券売機に向かい合った。ただ向かい合ったはいいのだが、一向にその先に進もうとはしなかった。 「分かった。俺が悪かった」  田舎から出てきて、いきなり券売機を使いこなせと言うのは難しい相談に違いない。それにこんなことを覚えても、ほとんど役に立たない知識でもある。何しろ学生定期を買う時には、証明書を持って有人の窓口に並ばなければいけないのだ。 「助かりました。ですが、少し悔しい気持ちがします」 「こんなものは、どうでも良い知識だからな」  使えなかったことを悔しがったかと思ったら、どうやら千反田が悔しがったポイントは違うようだ。 「いえ、折木さんが私の誕生日を覚えていなかったことです。性別を押す時に迷ったのは、折木さんが男性だからと考えれば理解はできるのですが」  ああそっちかと、千反田の腹立ちの理由を理解することができた。ただ言わせてもらえば、千反田の誕生日を祝った覚えはないし、教えてもらった覚えもなかったのだ。  ただ言い返すと面倒なことになるので、「そうだったな」とだけ返すことにした。そして千反田も、誕生日のことにはあまりこだわっては来なかった。  ふたりともカードで地下鉄に乗り、二駅先の八事へとたどり着いた。目的のホテルは地下で繋がっているので、ここでは暑い思いをしなくてもすんだ。そのまま階段でロビーに上り、ラウンジの入口で「隅っこの席」を指定して中へと入った。開放感バッチリのラウンジだが、運良く利用客の姿はまばらになっていた。外からは目隠しされているので、誰かに見られる心配もしなくていいようだ。  そこで俺はアイスコーヒーを、そし千反田はアイスのアールグレーを注文した。真剣な話をするのに、途中で腰を折られる訳にはいかない。俺たちは、黙って注文したものが届くのを待った。ただロビーの方を見ていた俺とは違い、千反田の視線はまっすぐ俺に向けられていた。お陰で、居心地の悪いことこの上なかった。  そして待つこと5分で、待望の飲み物が届いてくれた。ガムシロップやミルクを入れず、俺はいきなり半分ほど啜って息をついた。  一方の千反田はと言えば、レモンのスライスを浮かべて少しだけ口をつけていた。そして小さく息を吐いてから俺の名を呼んだ。大きな声ではないが、しっかりとした声色が響いてきた。 「まず、折木さんにはお礼とお詫びをしないといけないと思います。今日は、無理を言ってお付き合いしていただきました。まず、そのことにお礼を言わせていただきたいと思います」  ありがとうございますと、千反田らしく礼儀正しく頭を下げた。 「それから高校の時には、折木さんには本当にお世話になったと思っています。折木さんが居なければ、私はどうなっていたことか。全く想像が付きません。こればかりは、いくら感謝しても足りないと思います」  ありがとうございますと、千反田はもう一度頭を下げた。 「それだけお世話になっておいて、何も言わずに姿を消してしまいました。きっと折木さんは、裏切られたと感じられたかと思います」  ごめんなさいと謝った千反田に、「いや」と俺は小声で否定をした。他人の目がないのは好都合だが、逆にラウンジは静かすぎたのだ。大きな声を出そうものなら、ホテルのロビー中に響き渡ってしまいそうだった。 「正直言うと、伊原から話を聞いた時にはほっとしたのを感じた。お前が、外のことを見ることができるようになった。その時は、そう思ったんだ」  そこで言葉を切って、俺は一度千反田の顔を見た。真剣な表情は、少しも揺らいでいないように思えた。 「だが、それもまた勘違いなのだろうな。あの時のお前は、自分を見失って俺にすがっていた。だから俺に何をされても、違うか、俺が求めることで安堵していたはずだ。だが伊原達にそれを指摘され、自分のしていたことを自覚させられてしまった。お前のことだ、自覚をしてしまった以上、俺に迷惑をかけることができなくなったんだろう。ただ、その引き受け手が居なくて、一人で苦しむことになった」  色々と考えてみれば、自覚をしたからと言って問題が好転するとは限らない。むしろ、今まで以上に自分を追い詰めることにもなりかねなかったのだ。 「さすがは、折木さんですね」  俺の言葉を認め、千反田は少しだけ俯いた。 「そのせいで、私は学校に行くことができなくなりました。そしてそれを見かねたお父様に、転校を勧められました。環境を変えることで、私の気持ちを変えようと考えられたのだと思います。人間関係が問題だと、お父様は受け止められたのだと思います。そしてお父様に逆らうことのできない……違いますね、反論する気力もない私は転校を受け入れ、少し離れた女子校に入学しました。その辺り、入須さんのお父様にお世話になったと言うことです」  その辺りの事情は、俺も知らされていないことだった。ただ、千反田が狂うと言うと言い過ぎかもしれないが、変調をきたした理由を考えれば想像がつくことでもある。 「千反田、お前は好きなことをしろ、自由に生きていいと言われたのだったな。お前の親父さんがそう告げた理由の一部は、俺にもあったと言うことか?」  これはかなり飛躍した仮説なのだが、これも話の流れと俺は千反田にぶつけた。そしてそれが正解だったのは、千反田の表情が物語っていた。  大きく目を見開いた千反田は、すぐに小さく頷いた。 「さすがは折木さん、ですね。お父様の目には、私が恋をしているように見えたそうです。ただ家のことを考えれば、私の恋は実ることはないものに思えたのでしょう。それほど、千反田の家を継ぐと言う義務は重しだと思われていたのです。なんの魅力もなく、古い田舎の因習に囚われた家です。そんな家の娘が、幸せな恋を実らせるとは考えられない。悲しいですけど、お父様がそう考えても仕方がないと思います」 「今更だが、その相手は俺と言うことか?」  俺の問に、千反田は小さく頷いた。 「生き雛の時に、お父様は折木さんのことを知られたそうです。それからの私を見ていて、折木さんが私が恋をした相手と思ったそうです。確かにそう思えるほど、私は折木さんのことを家で話していました」  それがどんな話なのか。俺は敢えて聞かないことにした。千反田の中で美化された俺の評価を聞くことは、この場においては拷問に等しいものだったのだ。 「私が落ち着いた……違いますね、正気を取り戻したのは昨年の12月のことです。そこでようやく、お父様とゆっくりお話をすることができました。私が何をしたかったのか、そしてこれからどうしていきたいのか。千反田えると言う女性は、家を継いでこの町で生きていくことを考えていたこと。それを苦痛に感じたことはなく、むしろ誇りに感じていたこと。そう言ったことをお話させていただきました。そのお話の中には、折木さんのことも入っていた……違いますね、私がどれだけ折木さんを頼りにしていたか、離れてみて気づかされた思いもお話しています。そしてその上で、お父様は好きにしていいともう一度仰ってくださいました。家を継ぐのであれば、全力で地ならしをしてくださる、そう約束もしてくださいました」  そこで顔を上げた千反田は、まっすぐと俺の瞳を見つめてきた。顔の大きさの割に大きな瞳が、きらきらと輝きながら俺の瞳を正面から捉えてくれたのである。正直言って、俺はこの瞳で見られるのが苦手だった。そして今でも苦手なのだと、今思い知らされてしまった。 「それで、家を継ぐ事になったのだな。確かお前は、商品価値のある作物を作ることを考えるとか言っていたな」  俺の指摘に、千反田はもう一度頷いた。 「覚えていてくださったのですね、それも驚きです」  そう答えた千反田は、だからですと窓の外を見た。 「一年遅れですけれど、名古屋大学の農学部を目指すことにしたんです」 「長い人生だと考えれば、1年程度は大したことじゃないな」  世の中には、多くの浪人生が存在している。そして俺の周りの学生にも、結構浪人して入ってきた奴が居たのだ。ちなみに冬美も、一浪して名古屋大学の医学部に入っている。 「そうですね。これから40年、50年先のことを考えれば、1年と言うのは大きな意味を持っていないのでしょう。それでも、一つだけ大きな問題があるんです」  そこで千反田は、まっすぐに俺を見て「折木さん」と呼びかけてきた。その表情に、俺はやばいことになっているのを知らされてしまった。 「私と折木さんの縁が切れてしまった……繋がっていたとしても、とても細くて切れそうなものになってしまったのだと思っています。そんな今だから、正直に私の気持ちを打ち明けます。折木さん、私はあなたのことを一生を伴にすると言う意味で愛しています。もちろん、それが私の独りよがりな思いと言うのは理解しています。あれから2年の時間が過ぎているのに、折木さんにその気持を押し付けるのが迷惑なことだと言うのも理解しています。ただ折木さんには、私の気持ちを知って貰いたかった。これもまた、私の自己満足に付き合わせたことになってしまいますね。それでも、どうしても、知っておいて貰いたかったんです」  そこまで言い切った千反田は、「答えを求めてはいません」と先手を打ってくれた。そして「スッキリしました」と意外な言葉を口にしてくれた。 「この思いを伝えることで、私はようやく前に進むことができます。勝手なことを言っていますが、折木さんがどなたかとお付き合いされているかどうかは、どうでもいいことだと思っていたんです」 「本当に勝手なやつだな」  まったくと、俺は頭をクシャッと掻いた。 「それで、案内に俺を指名したと言うことか。それはいいが、どうして入須先輩のところに転がり込むことにした? 今日移動してみて分かったと思うが、あそこから通うのは結構不便なはずだ」 「おそらくですけど、私のお父様は一人住まいをさせることが心配だったのだと思います。そして入須さんのお父様は、入須さんのことを観察して欲しい……私には難しい話だと思いますが、その意味があったのだと思います。誰かと付き合っているはずだが、それをさり気なく聞き出して欲しいと言伝てされました。仲の良かった私なら、入須さんも色々と話してくれるだろうと」  これで色々と裏が取れたことになる。なるほどねと納得した俺は、正直な、そして客観的な感想と言う奴を言うことにした。 「親ばかと言うかなんと言うのか。そう言ったことは、まず娘と話をするべきじゃないのか?」 「入須さんも跡取り娘ですからね。交友関係が気になって仕方がないのだと思います。ただ、総合病院の跡取り娘ですから、お付き合いする相手には困らないと思いますけど」  農家とは違うと、それを暗に匂わせた千反田だったが、俺はそのことに触れないことにした。その代わり、千反田の話を蒸し返すことにした。 「話を戻すが、伊原にも指摘されたんだが、俺はお前のことが好きだった。もともと経済学部を目指したのも、お前が諦めた経営的戦略眼って奴を修めようと言うのがきっかけだ。今更もしもの話をしても意味はないのだが、あのままの関係が続いていたら、そのことをお前に教えていたのだろうな」  本当にもしもがあるのなら、そうなるのが俺の望みのはずだった。千反田が農学部、そして俺が経済学部に合格した時、鼻の頭を掻きながら「実は」と話していただろう。だが現実って奴は、残酷にも願いを叶える前にぶち壊しにしてくれた。 「そう、だったんですか」  そこで俯いた千反田は、「なぜだったのでしょうね」と分かりにくい問いを発した。ただそれでも、俺には千反田が言いたいことが分かる気がした。 「誰もが善意で行動したとしても、それが必ずしもいい結果とならないと言うことだ。めぐり合わせが悪かった。そしてほんの少しだけ、全員の配慮が足りなかった。良かれと思ったことが、独りよがりの思いでしかなかったのだろうな」 「きっとそうなのでしょうけど、そうだとしたら寂しすぎると思います」  悲しいですと、今まで聞いた中で一番悲しそうな声で千反田は言った。 「今からでも、やり直すことはできるのでしょうか?」  その問いに、俺はゆっくりと首を振り、そして間違いようのない答えを示した。 「将来の話は分からない。だが今は、俺にも付き合っている女がいる」 「だとしたら、やっぱり悲しいです」  それからの千反田は、俯いたまま顔を上げてくれなかった。飲みかけのアールグレイの氷はすっかり溶け、紙のコースターはコップに付いた露でぐしょ濡れになっていた。大きなしずくが、まるで涙のようにグラスを伝って落ちていった。  その後支払いを済ませた俺は、俯いたままの千反田を冬美のマンションまで送った。その間、俺達の間に会話はなかった。  それからの1週間、千反田から俺に連絡が来ることはなかった。ただ表向きは元気そうに見えるのは、冬美からの連絡で知ることができた。教えてくれと頼んだ訳ではないのだが、なぜか律儀に様子を教えてくれたのだ。ちなみに千反田が来てから、冬美と二人きりで合う時間が取れなくなっていた。  そのあたり千反田に気を使ったと言う訳ではなく、俺のアルバイトが主な理由である。今回の件で、シフトをかなりぶっちぎっていたのだ。そのため、昼前から夜まで、連日シフトを入れたのだ。そこそこ忙しかったこともあり、余計なことを悩まずに済んだのは都合が良かったのかもしれない。  そして千反田の夏期講習が始まったところで、アルバイトを休めと言う命令が飛んできた。明日俺の安アパートに行くから、冷房を入れて首を洗って待っていろと言うのである。昼間の時間は千反田が拘束されているので、それを利用しようと言うのだろう。  勝手なとは思いはしたが、それ以上にあったのが安堵と言うのはどういうことだろう。溜まっていないのにと独り言を言いながら、俺は明日のシフトを外すことにした。  そして朝起きた俺は、鍋で大量のお湯を沸かして朝食の準備に取り掛かった。こんな暑い朝は、まともなものが喉を通るとは思えない。そしてこういった時は、冷たいそうめんに限ると言うものだ。少しお高い出来合いの汁に刻んだ大葉とすりごまを入れ、おろしショウガと隠し味の七味を入れれば受け入れの準備は出来上がる。そしてちょっと高いそうめんをお湯に入れ、60秒待って大量の水で冷やす。最後に氷水で締めれば、特性そうめんの出来上がりである。最後に氷で締めたお陰で、冷たく腰のあるそうめんが喉を通り抜けていった。 「うん、なかなか」  そう思って食べながらも、みょうがも刻むべきだったかと反省をしていた。その辺りは次の宿題だと考えて、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出してコップに注いだ。冷たいそうめんは喉越しがいいのだが、野菜不足になるのが欠点の一つだった。一日分の野菜が取れると言うジュースをコップ一杯のめば、朝食も終わりである。油っ気を使っていないので、洗い物も簡単に済むと言う俺好みのメニューでもあった。  そして朝食が終われば、冬美を迎える準備である。真新しい部屋のエアコンの設定を低めにし、部屋の掃除に取り掛かった。そして優先順位から行けば、埃っぽくなったベッドの掃除なのは間違いない。掃除道具にもこだわった俺は、英国製の充電式のクリーナーを買っていた。このミニモーターヘッドを使うと、怖いほどベッドのホコリが取れると言う逸品である。ちなみに、透明なカップには、得も言われぬ物体が堆積することになった。  ベッドの掃除が終われば、次は俺自身の身支度と言うことになる。とりあえず歯を磨いて顔を洗わないと、人前に出るには流石に問題があったのだ。そこでの問題は、俺が冬美の行動力を読み違えたことだろう。ベッド掃除が終わって鼻をベッドに近づけたところで、玄関のチャイムがうるさく自己主張を初めたのである。 「それにしても、早すぎるな。ひょっとして、新聞の勧誘か?」  このアパートに入居したときも、新聞屋が手土産を持って現れてくれた。そこで結構しつこく粘られたのだが、ネットで見るからと追い返したと言う過去がある。それからの時間を考えれば、再チャレンジしてくる可能性もあったのだ。  用心のためのぞき窓から見たら、そこにいたのは新聞屋ではなく冬美だった。少し苛立っているように見えるのは、きっと外が暑いからだと思うことにした。  少し慌てて扉を開いた俺に、浴びせられたのは「出るのが遅い」と言う文句だった。もしもトイレ、しかも大きい方に入っていたら、いったいなにを言われたことだろう。とりあえずエアコンを掛けておいてよかった。情けない話なのだが、それが正直な感想だった。 「そちらが早すぎるだけだ」  とりあえず言い返してから、玄関には鍵とチェーンを掛けた。準備ができていようがいまいが、来てしまった以上はそれを前提にするしかない。とりあえずお茶でも出してと思ったら、いきなり冬美に口づけをされた。しかも初めから舌を絡める濃厚な口づけに、溜まっているのだなと俺は考えた。  何度も息継ぎをした口づけが終わったところで、「口がカツオ臭い」と言われてしまった。 「これから歯を磨くところだったんだ」  ぶすっとした俺に、冬美はもう一度口づけをしてきた。口がカツオ臭いと言うのは、言ってみたかっただけのようだ。  そのまま口づけを続け、俺達は倒れ込むようにベッドに横になった。お互いが理解していたのは、これ以上我慢ができないと言う思いだった。ただいただけなかったのは、冬美の声が異様に大きかったことだ。何度か口をふさいだのだが、それでも隣には丸聞こえだっただろう。隣の女子学生が、夏休みで実家に帰っていて欲しいと願ったぐらいだ。  いくら溜まっていても、そしていくら若くても、自ずと限界と言うものはある。もともと限界値の高くない俺だが、それでも冬美の方が先に限界が訪れてくれたようだ。だらしなく体を弛緩させ、右手を口元に当てて大きく息をしてくれた。 「今日は、今まで一番凄かったわ」  その論評は、男としては誇るところなのだろうか。ただ俺にしてみれば、冬美がそれだけ欲求不満を溜めていたのが理由だと言いたくなる。  ただせっかく男心をくすぐってくれたのだ、「そうか」と答えて俺は、冬美の隣に寝転がった。ちなみに冬美のベッドはセミダブルなのだが、狭いアパートのお陰で俺のベッドはシングルである。お陰で、くっつかないと並んで寝ることもできなかった。エアコンのひんやりとした風と火照った冬美の体。今はまだ、暑さが勝っている状態だった。 「千反田さんは、相当無理をしているようね」  なぜこの余韻の中で他の女の名前を出す。お陰で俺の目元には、少しシワが寄ってしまった。そんな俺に気づかないのか、「あの子とはね」と冬美は話を続けた。 「家族ぐるみの付き合いと言うのは知っているわよね。だから、あの子は小さな頃から知っているのよ。今以上に目の大きな子でね、本当にお人形さんみたいで可愛かったわ。だから私は、あの子をいつも構っていたのよ」 「俺への文句か?」  俺の言葉に、冬美は小さく首を振った。 「別に、そんなつもりはないわ。ただそうだったと言うだけのことよ」  そう答えた冬美は、「だから」と話を続けた。 「しっかりとしているよう見えて、結構危なっかしいところもあったわね。それに、結構頑固なところもあったりしたのよ。でも、そんなところも含めて、あの子のことが可愛くて仕方がなかったわ。そんなあの子が、今は本当に落ち込んでいるの。どうしてそんな事になったのかは、一応話を聞いて知ってはいるつもりよ」 「やはり、俺を責めているように聞こえるのだが?」  ぶすっとして答えた俺に、「違うわよ」と冬美は繰り返した。 「高校の時だけど、あなたのことを話すあの子の態度に、あなたをとても深く信頼しているのがしっかり出ていた。それが恋に変わるのも、時間の問題だと思っていたのよ。ただ、めぐり合わせが悪かったと言えばいいのか、あの子は心を病んでしまったわ。それでもね、あなたに対する恋心は揺らいでいなかったのよ」  やはり俺のことを責めているように聞こえるのだが、それを指摘しても否定されるのが分かっていた。だから俺は、切り口を変えて冬美に聞いた。 「それが分かっていてどうして俺と関係したんだ。押し倒したのは俺だが、誘ったのはあなたの方だ」 「それが分かっていたから、と言うのが答えになるわね」  その答えを聞いた時、俺は冬美の顔を見てはいけないと思った。 「あの子が恋い焦がれたものを、あの子を大好きな私が奪い取るのよ。初めて抱かれた時には、背徳感で背中がゾクゾクとしたわ。そしてあの子が落ち込んでいるのを見た今は、もっとゾクゾクと来ているのよ」  酷い女でしょと言われても、どう答えていいのか俺には分からなかった。それでも分かったことは、女と言うのは俺の理解できない生き物と言うことだろう。 「でも、一つだけ言い訳をさせて貰えるかしら。あなたとの関係を始めたのは、あの子のことだけが理由と言う訳じゃないのよ。あの子から聞かされたあなた、そして少しだけ重なったあなたとの関係、そう言った小さな積み重ねからあなたのことを意識するようになったのよ。それでも、家具屋で会わなければこんな関係にはならなかったのは確かね」  だとしたら、あそこで家具を見に行ったのは大きなターニングポイントと言うことになるのか。縁は異なもの味なものと言われるが、まさにそのとおりと言えばいいのか。  うむと納得していたら、「教えて」と冬美は少し甘えた声を出してきた。 「あなたの方こそ、どうして私だったの?」 「どうしてか……」  改めて言われると、どうしてと言うのはとても難しい問いかけになる。それでも思いつくまま、つらつらと口に出してみた。 「あなたが美人だから……と言うのは理由の一つだろうな。体の方は、うん、寝てみて分かったことだから理由にはならないな」  そこでもう少し考えて、俺は身も蓋もない答えを口にした。 「あの時俺のことをこき使ってくれただろう。だとしたら、少しぐらい見返りを求めてもいいかと思ったのは確かだ。それにあのときのあなたは、間違いなく俺のことを誘っていた。だから遠慮なく押し倒させてもらったと言うのが始まりになるな。もともと俺は、あなたのことが苦手だったのだからな」  その答えがお気に召さなかったのか、俺は脇腹に鋭い痛みを覚えた。とっさに体が反応してしまったお陰で、俺はベッドから転がり落ちてしまった。椅子の角で背中を打ったので、結構痛かったりした。  そんな俺に、「酷いんじゃないの?」と冬美は文句を言った。俺に苦痛で涙まで流させたことは、綺麗サッパリ見ていないことにしてくれたようだ。 「だからと言って、流石にこれはないと思うのだがな。打ち所が悪ければ、背中の骨が折れていたぞ」  まったくと息を吐いてから、俺はもう一度狭いベッドに寝転がった。流石にもう一度抓るのはまずいと考えてくれたのか、今度は俺の上にのしかかってきてくれた。 「そんなに痛いの?」  心配そうに顔を覗き込んでこられ、少しくすぐったいような気持ちを感じてしまった。 「いや、だいぶ収まってはきた。ただ、涙が出るぐらい痛かったのは確かだな」  目元の涙を拭った俺に、「ごめん」と謝って冬美は舌で俺の目元を舐めた。淫靡にも見える赤い舌に、俺の中にムラっとくるものがあった。そしてそれは、現象としてしっかりと表に現れていた。 「少し気の利いたことを言うのなら、意外にしっくりときたのが理由だろうな。大物家具を3点、小物まで含めて7点組み立てさせられたのだが、意外に苦にならなかったのだ。多分だが、あなたがうまくサポートしてくれたからだろう。ダンボールゴミの始末とか、散らばったクズの掃除とか、阿吽の呼吸で分担できていたからな。だから思いの外気持ちよかったし、終わった時には達成感を感じることができた。それに、あのときのあなたはとても可愛かったと思うぞ」  その感想は、ご機嫌取りをするためのものではない。最初はいやいや手伝わされたのだが、組み立てているうちに面白くなったのも事実だった。そして考えてみると、俺が組み立てている間、冬美は色々とサポートをしてくれていた。  そして自信作のソファーに座っていたら、とても刺激的な格好で俺の隣りに座ってくれたのだ。下着が見えそうな短いスカートは、普段のイメージからは大きくかけ離れたものだった。 「そうね。あの時は、私も楽しかったわね。あなたが頼もしいと思えたし、一緒に働いていて楽しいと思えたのよ。それ以上にあったのは、あなたと一緒にいるのが自然に思えたと言うことよ。だから肩を抱かれた時、自然に身を任せることができたのよ」  今もそうと言って、冬美は唇を重ねてきた。くちゅくちゅと淫靡な音を立てた口づけは、物語のように離れた時に糸を引いてくれた。 「ねえ、もっとする? 今度は、つけなくてもいいから」  その方が感じられるからと。一も二もなく、俺はその誘いに乗ることにした。  昼過ぎまで裸でグダグダとした俺達は、近くでランチを取ってから別れた。冬美が言うには、初日の今日は早く帰ってくるらしいのだ。色々と話を聞いてあげるためには、早く帰っておく必要があるらしい。千反田の目を盗むことを、どこか楽しんでいるように見える。  そこで少し意外だったのは、冬美が駅の方へ歩き出したことだ。来る時がタクシーだったことを考えれば、暑さが増した今ならなおさらだと思ったのだ。 「帰りは、タクシーを使わないのか?」  俺の質問に、冬美は少しだけ口元を歪めた。 「本当なら使いたいところだけど、色々と事情と言うものがあるのよ。少し汗を掻いて、あなたの匂いを消しておこうと思ったの」  どうしてと一瞬考えたのだが、すぐに千反田の鼻が効くことを思い出した。だとしたら、多少汗を掻く程度で誤魔化すことができるのか。俺は少しばかり不安を感じてしまった。 「だったら、焼肉屋にでも行った方がよかったか」  そうすれば、全ては焼肉の匂いになってくれる。今更手遅れだが、それも手だと考えたのだ。  そんなことを口にした俺に、「それはやりすぎ」と冬美は言った。そんな真似をしたら、髪に匂いがついてしまうと言うのだ。同じシャワーを浴びるにしても、手間がずっと掛かることになるらしい。 「とにかく、あの子よりも早く帰っておく必要があるわけよ。それに、相手があなたかどうかと言うより、私が誰かと付き合っているかが知りたいみたいよ」  その話なら、別れ間際に教えられた気がした。 「確か、そんな事を言っていたな。あなたのお父さんに探ってくれと頼まれたとか言っていたな」  俺の答えに、冬美は小さくため息を吐いた。 「どうして、直接娘に聞かないのかしら。まあ、聞かれてもあなたの名前は出さないけど」 「だからじゃないのか?」  女同士、そして仲が良かった同士なら、踏み込んだ話になるはずだ。きっと冬美の父親は、そんな期待を抱いたのだろう。 「たぶんそうね。また、連絡するから。できたらバイトのシフトは、夕方から夜にしてくれるかしら」 「忙しい時間帯だから、おそらく感謝されるのだろうな」  人手不足を嘆く店長の顔を思い出した俺は、多分大丈夫だろうと安請け合いをした。とにかく千反田が帰るまでの1ヶ月だと思えば、非日常もけして悪いことではない。その時の問題は、明るい間をどうやって過ごすかと言うことだ。冬美が来る日は悩まなくてすむのだが、それ以外の日は暑さをやり過ごす方法を考えなくてはいけない。お金をかけずに時間を潰すには、図書館あたりが適当なのだろう。いくら新型のエアコンでも、電気代は気をつけておく必要があった。  冬美と別れてしまうと、それからの時間が暇になってしまう。かと言って、これから図書館に涼みに行くのもどこか違う気がするし、今からシフトを入れるのも面倒としか言いようがない。 「とりあえず、帰ってから考えるか」  その結果が、部屋に帰ると言うものである。まだ部屋も冷えているはずなので、苦痛に感じることはないと言うのも理由になる。ただ急いで帰ると、それだけ汗を掻くことになるので、本山の駅からゆっくりと歩くことにした。そして歩くこと10分で愛しの我が家、安アパートへとたどり着いた。これで安心と思ったのも束の間、そこで俺は小さな絶望と言う奴を味わうことになった。うむ、居ないでほしいと願った隣人と顔を合わせてしまったのだ。俺に向けられた軽蔑にも似た眼差しは、間違いなくあの声を聴いていたのだろう。 「こんな事は言いたくないけど」  それでも言って置かなければ気がすまないのだろう。その気持は、俺にもよく理解ができる。ただ彼女の口から出たのは、俺の予想とは少し違うものだった。それでも息が荒い気がするのは、それだけ憤懣やるかたないからだろう。 「男の人だから、AVを見るなとは言いません。だけど、朝っぱらから大音量で見ないでください。はっきり言って、セクハラですっ!」 「あぁー、それはすまんこってす」  あれがAVではなく、本物だと教えたらどんな顔をするのだろうか。ちょっと興味は湧いたが、敢えて面倒を起こす必要はない。どちらに取られても俺に害はないが、冬美まで巻き込む必要はないだろう。うむ冬美には、名誉を守ったことに感謝をして貰いたいところだ。  ちなみに俺に文句を言った隣人は、漆山りおんと言う名前をしていた。同じ大学の文学部に居て、長野の田舎出身らしい。何故俺がそんなことを知っているのかと言うと、俺のバイト仲間がたまたま彼女の先輩だったのだ。ついでに教えて貰った情報には、彼女は着痩せするタイプと言うものもある。 「彼女、はっきり言って地味だけど、脱がしたらかなり凄いから。それに顔も、結構可愛いのよ。はっきり言ってお買い得品だからね」  そんな情報を、隣に住む男に教えることには疑問がわく。それでも、「地味」と言う評価は強く同意できる。前髪が長くて目元が隠れているのもそうだが、いつもうつむき加減で姿勢が悪いのも、地味さに輪をかけていたのだ。しかも夏の日差しを受けている割に、顔色もあまり良くないように見える。まあ地味さに関しては、俺も人のことを言える立場にはないのだろうが。  全く心のこもらない謝罪にも関わらず、漆山りおんはあっさりとそれを受け入れてくれた。そして気をつけてくださいねと言い残して、俺に背を向けて歩き出そうとした。そこでふらついて壁に手をついたのは、暑さのせいか、さもなければ体調が悪いせいのだろう。  相手が隣人、しかも女性だと考えれば、見ないふりをするのは人として問題がある気がした。それでも厄介事を避けて生きているつもりの俺は、声をかけるだけ、しかもアリバイ的に済ませるつもりで居た。つまり、「大丈夫ですか」と気遣いの言葉をかけたのである。 「え、ええ、ちょっと目眩がしただけです」  そう言って壁から手を離したのはいいが、すぐに体ごと壁にぶつかっていってくれた。どうやらちょっとと言うのは、かなり控えめな表現のようだ。ただ問題は、どうして俺の前でと言うことにある。なにしろこれを見捨てて部屋に戻りでもしたら、流石に寝覚めが悪くなってくれる。そして助けたら助けたで、面倒を背負い込む可能性が大だ。お陰で俺は、しなくても良い葛藤をすることになってしまった。  そして短い葛藤の末、隣人関係を大切にすることにした。だだせっかく親切心を出した俺に、空気の抜けたような声で「やめてください」と言う文句が浴びせられた。どうやら、後ろから支えたことがご不満のようだ。 「あなたに触られたら妊娠してしまいます」  俺は歩く性器ではないし、触っただけで女性を妊娠させる超能力はない。もしもそんな能力があったら、今頃一児のパパになっているはずだ。いや、高校時代を考えたらもっと増えているかもしれない。  ただ文句は言ったが、俺を払いのける気力は残っていないようだ。それどころか、俺にもたれかかってきたぐらいだ。どうやら、本格的に具合が悪いらしい。だとしたら、こんな暑い日は外に出ないで家で涼んでいるべきなのである。 「医者にでも行くつもりだったのか?」  それならば、無理をして出かける理由にも納得がいく。だが漆山の答えは、「涼しいところに行こうと思って」と言う、ある意味納得の行く、そして別の疑問を抱かせるものである。無理して出かけるぐらいなら、エアコンを掛けて引きこもればいいはずなのだ。 「とりあえず、このクソ暑い中出かけるのは無謀だ。部屋に戻って、おとなしく涼んでいろ」  体を支えて部屋の前に戻ったのだが、漆山は蚊の鳴くような声で「エアコンは壊れてる」と言った。 「管理会社にその事は言ったのか?」 「言ったけど、修理の予定が立っていないって」  その答えを聴いて、俺は天を仰ぐことになった。このまま見捨てると言う答えを選ばない限り、漆山りおんを俺の部屋に連れ込むことになる。 「どうしてこうなるのだ」  そして見捨てると言うのは、ここまで来たら流石に後味が悪すぎる。仕方がないと諦めた俺は、後ろから支えるのではなく、腰を抱くように彼女を支えた。そこで抵抗がなかったのは、その体力も残っていないと言うことだあろう。そして彼女の部屋の隣、すなわち俺の部屋まで引きずった。 「まだ、冷気は残っていたな」  とりあえずベッドに寝かせ、俺はエアコンのスイッチを入れた。そして設定温度をリモコンで2度ほど下た。水分を取らせたほうがいいのだが、さてさてどうやって飲ませたらいいのか。予め断っておくが、物語のように口移しなどするつもりは毛頭ない。 「確か、冷蔵庫に経口補水液があったな」  これがポカリでないのは、全て冬美が理由になっている。ポカリで良いだろうと言った俺に、「糖分過多」と別の銘柄を押し付けてれたのだ。ただ飲み慣れてくると、確かにポカリは甘すぎるように思えるようになった。なるほど味覚と言うのは、訓練されていくものだと感心したのを覚えている。  エアコンの冷気が正しく役目を果たしたお陰で、彼女、漆山りおんは静かに寝息を立て始めた。この蒸し暑い名古屋の夜に、エアコンなしで寝ろと言うのは酷なことに違いない。それを考えたら、具合の悪さには寝不足も理由になっているのかもしれない。その寝不足の朝に悩ましい声を、しかも大音量で聞かされたなら、不機嫌になるのも仕方がないことだ。つまり、この女は冬美の犠牲者と言うわけだ。だとしたら、その彼氏が救済するのは半ば義務とも言えただろう。 「確かに、可愛い方なのだろうな」  女性の寝顔を見るのは失礼なのかもしれないが、容態観察も必要なことである。手を当てるために前髪を持ち上げたところ、バイト仲間の評価が正しいことを知ることができた。顔の造形は、どこか千反田に似て整っているようだ。  彼女が可愛らしいかどうかとは別に、体温的には特に問題はないのは確認できた。呼吸も落ち着いているようだから、しばらく寝かせておけば体調も戻ることだろう。そうなると残る問題は、彼女が寝ている間俺がどうするのかと言うことだった。 「よし、居ないものと思うことにする」  静かに寝ていてくれるのだから、居ないものと思えば気にはならない。ならば当初の予定通り、これからどうするのかをゆっくりと考えることにしよう。比較的短時間で結論を出した俺は、冷蔵庫から作りおきのアイスコーヒーのボトルを取り出した。アイスコーヒー用の豆ではなく、モカとブラジルのブレンドを、ジャーマンローストにした俺用の豆である。適度な苦味と酸味が、苦いだけの喫茶店のアイスコーヒーとの違いだった。  俺の狭い部屋には、シングルサイズのベッドと幅が広くて奥行きの短い机が置かれている。そしてそれなりの蔵書を誇る本棚と言う具合である。そして椅子には、座り心地を考えてゲーミングチェアを選んでいた。このゲーミングチェアは、リクライニングをさせれば寝ることもできるすぐれものである。  本棚から古本屋で買ってきた未読の本を選び、俺はゲーミングチェアに体を預けた。冷たく冷えたアイスコーヒーと面白そうな本の組み合わせは、俺にとって至福の時間を約束するものになっていた。ちなみに今日のお題は、バブル時代に入行した銀行員の物語である。やたら敵を作りまくる主人公のスタイルに、これで良いのかと言いたくなる物語だった。 「い、いや、あくまで物語だから……」  そう思って読めば、それなりに面白いのは理解できる。ただ、こんな展開をどこかで読んだ気がするのだが、それがなにか思い出せなかった。最後に主人公が勝利するのは、勧善懲悪物を思い起こさせるものだった。 「なるほど、時代劇的と言うのか。だが、この主人公も結構あくどい真似をしている気がするが」  主人公に肩入れすれば気にならないが、フラットな目で見ると法律違反を結構やっている。それをそう言うものだと思えば良いのだが、さすがにご都合主義すぎないかと感じてしまった。まあ、面白いという意味では面白いので良いのだが。  最後の大どんでん返しで、最終的に主人公が勝利することになる。上役、しかも結構上の方に謝罪させたところなど、芝居がかっていると言っていいだろう。それでもぐいぐいと引き込んでくるのは、それだけ作者の力量が高いと言うことだろう。  ほっと息を吐いて外を見たら、すでにかなり日が西に傾いていた。出だしこそ違っていたが、午後はなにもない、穏やかな時間を過ごすことができた。しかも今日はシフトを入れていないので、このまま明日まで怠惰な時間を過ごすことができるはずだ。怠惰な時間、なんと素敵な響きだろう。怠惰な時間、何度でも繰り返して口にしたいぐらいだ。  そこでぐっと拳を握ったら、居ないと思っていた厄介事が自己主張を始めた。むにゃむにゃと口にされた寝言は、どうやら「凍える」と言っているようだ。 「そう言えば、温度を下げたままだったか」  すぐにリモコンとを使って、設定温度を2度ほど上げた。そして冷えていることを自覚した自分のために、暑いコーヒーを淹れることにした。時間的には、夕食にはまだ早かった。  フィルターをドリッパーにセットし、念の為に2杯分の豆をその中に入れた。少しおまけをしたのは、俺が濃い目を好きだからに他ならない。そして電気ケトルでお湯が湧いたところで、ゆっくりと沸騰した湯を回し入れた。ちなみにこのケトルは、コーヒー専用に購入した少しお高いやつである。注ぎ口が細くなっているので、まんべんなくお湯を注ぐのに好適と言うのが選択理由である。  ちゃんと蒸らしを入れてから、同じようにお湯を回し入れていく。それに合わせて、ドリッパーの下に置かれたビーカーに、琥珀色の液体が姿を表した。少し値の張ったブルマンブレンドは、部屋の中に馥郁たる香りを充満させてくれた。うむ、今日もなかなか具合が良さそうだ。  コーヒーの香りが気付けになったのか、漆山リオンががばりと起き上がった。ただ事情が掴めないのか、体を起こしたところでキョロキョロと首を動かした。そこで「ここは」とつぶやくのは、ある意味お約束どおりと言うことだろう。 「お前の隣の部屋だ」  まだコーヒーの抽出中のため、俺は首だけを漆山に向けた。そして彼女が何かを言う前に、「とりあえず」とベッド脇においた経口補水液を指差した。 「冷えてもないし、うまくもなんともないものだ。とりあえずそれを飲んでおけ」  まだ事情が掴めていないのか、漆山はおとなしく俺に従った。 「これって、結構高い経口補水液ですよね」 「ああ、糖分が少ないので水分と塩分補給に良いと押し付けられた」  だから飲めと少し強めに言ったら、おとなしく漆山はペットボトルに口をつけた。まずいと文句をつけられるかと思ったら、意外な勢いでペットボトル1本分を飲み干してくれた。体が求めているものは美味しいと言う話しは、どうやら真実を突いているようだ。  それを見た俺は、抽出の終わったコーヒーをカップに入れた。ちなみにこのカップは、冬美のために用意したものである。まあたかが食器、洗えば同じだから構わないだろう。ちなみに冬美は、一度もこのカップを使う機会がなかった。 「まだ飲めるのなら、夜明けのコーヒーでも飲むか?」 「夜明けのコーヒーですか……それってっ!」  いきなり叫んだ漆山は、慌てて自分のしている格好を確認した。ちなみに服を緩めるとか、下着にするなどと言う冒険は犯していない。外で会った時の格好を漆山はしていた。 「悪い。単なる冗談だ。夜が明けるには、まだ13時間ほど待つ必要があるな」  ほっとしたと言うのか、少し顔を赤らめて漆山は俺の顔を見た。 「つまり、午後5時半と言うのが現在時刻になる。お前は、だいたい3時間半ほど寝ていたことになるな」 「そんなに……」  絶句した漆山は、「ごめんなさい」と俺に向かって勢いよく頭を下げた。 「普通そこは、ありがとうございますじゃないのか?」  確かに罵倒はされたが、それが正当なものであるのは認めている。うむ、俺だって寝不足の時に、悩ましい声など聞かされたくはないのだ。しかも部屋の中が蒸し暑いともなれば、余計に苛立ってしまうのも当然のことでしかない。 「い、いえ、その、そうですね、ありがとうございます」  そこで頭を下げられると、彼女の巨乳具合がはっきりと理解できる。なるほどあの女、稲野美土里の言うことは正しかった。ただ惜しむらくは、さほど腰がくびれていないことだろう。まあ、グラドルのような女は早々転がっていない。スタイルだけで言えば、冬美の方が確実に上になるのか。 「別に、そこまで感謝されることじゃないがな。それからだが、エアコンが直るまで稲野先輩のところに転がり込んだ方が良いんじゃないのか?。さもなければ、里帰りをした方が無難だぞ」  たまたま俺が居たから事なきを得ただけで、そうでなければ救急車沙汰になっていたはずだ。それを考えれば、俺の助言は正当なものに違いない。 「里帰りは……その、冷風扇でも買ってくればと思っています」  ああと納得仕掛けたところで、すぐにそれが意味のないことだと思い出した。気化熱を利用するから、吹き出す風は多少冷たくはなってくれるのだろう。その時の問題は、蒸発した水が部屋の中に充満することである。1、2度気温を下げる代償が、更に湿度を上げることでは割が合わない。工場で使っているようなスポットクーラーを借りた方がマシなぐらいだ。あれならば、排気を外に逃がすことができる。 「やめておけ、あれを使うと更にひどいことになるからな」 「そう、なんですか」  萎れた漆山は、小声で「困ったな」と一人呟いていた。ほんとうは耳を塞いでいたいのだが、この距離でそれをするのは流石にわざとらしすぎる。  仕方がないと、俺はこのアパートの管理責任者に連絡を入れることにした。 「こちらは○○アパートの折木と言います。部屋のエアコンが壊れてしまったので、なんとかして欲しいんですが?」  すでに似たようなことは、漆山が管理会社に連絡をしている。だとしたら、この依頼に対する答えは分かりきったものだった。 「なるほど、電気屋のスケジュールが立っていないと。確かに、今年は早々に猛暑ですからね」  そこで一息置いてから、「このアパートの契約条件ですが」と切り出した。 「付帯設備に、確かエアコンが記載されていましたね。その付帯設備が故障で人の住める状態にないのですから、代替手段を提供してほしいのですが。その我慢しろと言うのは、気象庁に言ってくれますか? 確かテレビでは、さんざんエアコンをつけろと言っていますよね? エアコンの修理、交換、代用品の手配、もしくは短期で利用できる別の部屋とかを提供してください」  当然その要求に対する答えも想像することができる。そこまでの契約になっていないと言うのが、予想された言い分である。 「嫌ですね。ネットとかで騒ぎませんよ。そんなことをしても、双方メリットがないと思いませんか? ちなみに、このアパートの205号室が空いているのは知っているんですよ。エアコンの修理が終わるまで、その部屋を貸してくれれば丸く収まるとは思いませんか? 当然電気代は支払いますよ、ただし、短期のことですから中部電力との調整はお願いします。こちらも、基本料金の二重払は嫌ですからね。これからこちらに来る? なるほど、でしたら202号室の漆山のところにお願いします。はい、15分ほどでこちらにいらっしゃるのですね。お待ちしています」  とりあえず、これで管理会社、すなわち不動産屋を動かすことは成功した。後は、あちらが代替手段を考えてくれるだろう。敢えてネットを持ち出したのは、こちらには色々と騒ぐ方法があることを匂わせるためである。実際この手のことなら、騒ぎを起こす方法はいくらでも存在している。そのためには、こちらも証拠を残すことを心がけなくてはいけない。それに、管理会社の話には裏があるのは分かっていた。  本当に15分後に現れた不動産屋とは、予想通り少しばかりすったもんだすることになった。ただ最終的にはあちらが折れ、エアコンを付け替えると言うことで決着がついた。ただ付け替えまで1週間掛かるので、その間はビジホにでも退避することを依頼してきた。これもまた、予想通りと言えば良いのだろう。窓を開けただけの部屋で、1時間ほど時間を掛けた甲斐があったことになる。あぶられた屋根からの熱気と外から入ってくる熱風は、エアコンなしで我慢することを主張するには無理があったのだ。  そこまですれば、俺の役目……なんか、初めっからなかった気がするのだが、役目も一応終わりだろう。漆山がなにか言っていた気がしたが、これ以上関わるのはごめんとしか言いようがない。時間を見たら、すでに夜も8時になっている。なるほど腹の虫が騒ぎ出すはずだ。  漆山の部屋を出た俺は、そのまま部屋に戻らず外に食べに行くことにした。帰って火を使うのは、流石に億劫に感じたのである。広小路通りに行けば、確か今流行の町中華が有ったはずだ。  その後平和な夜を迎えた俺は、翌日に備えて早く寝ることにした。今日一日がハードだったこともあるが、またぞろ冬美が襲来してきそうな気がしたのだ。  そして翌朝、コンビニおにぎりを食べ終わったところで玄関のチャイムが鳴った。一応用心してのぞき窓で見たのだが、やはりと言うのか冬美の顔がそこにはあった。 「どんだけ、がっついているんだ?」  少し怖いものを感じながら、俺は慌てて鍵を開けた。昨日同様の文句を覚悟していたのだが、意外にも「悪いわね」と言う謝罪の言葉を投げかけられてしまった。 「私が謝ることが不思議かしら?」  少し目を細めた冬美に、俺はすかさず「昨日は罵倒された」と言い返した。 「あ、あれは、少し苛立っていたのよ。それに暑かったし」  だからと言って入ってきた冬美は、それが当然のように唇を重ねてきた。ただ昨日とは違い、そのままベッドへと言うことにはならなかった。 「ちょっとね、避難してきたと思ってくれればいいわ」 「避難……千反田からか? だがあいつは、この時間は予備校だろう」  今は家に居ないのだから、避難する必要もない気がする。ただ俺の言葉が気に入らなかったのか、冬美は目を細めて俺を睨んでくれた。 「空気を変えたいって意味なんだけど、理解してくれないのかしら? あの子との共同生活が、こんなにストレスフルだなんて思わなかったわよ」  その言葉に、「あー」と俺は天井を見上げた。どういう訳か、言っていることが理解できてしまったのだ。確かに真面目一筋の千反田相手だと、息苦しく感じるのも無理もないのだ。 「その点だと、空気のようなあなたって最高だと思うわ」 「存在感がないと言う意味か?」  まあ、その方が俺にとって面倒がないのも確かだ。ただ、これだけご奉仕しているのに、存在感がないと言うのは酷い言われようだ。 「一緒に居て苦にならないと言うところはあるわね。でも、居ないととたんに息苦しくなるのよ。必要だって認めているのだから、褒めていると思ってほしいのだけど?」 「そう言うことにしておくか」  今度は俺からキスをしたら、冬美はおとなしく、そして頬を少し染めて受け入れた。少しムラっと来たのだが、まだ隣には漆山がいるはずだ。爆音でのAVは控えると約束した以上、今は我慢をしておくところだろう。 「コーヒーぐらいしかないが構わないか?」 「そうね、熱も引いたから香りの高いのをお願い」  そこで可愛らしく手を合わせてくれるな。似合っていないと言ってやりたいところだが、これで意外に似合っているからたちが悪い。  まあ待ってろと言ってから、俺はミニキッチンでコーヒーの準備に取り掛かった。と言っても、電気ポットにミネラルウォーターを入れ、スイッチを押せばお湯の準備は出来上がる。後はドリッパーに粉を入れれば、セッティングも終わりだ。ブルマンブレンドも残り少なくなったので、そろそろ次を探す必要がありそうだ。  ゆっくりと蒸らして香りを引き立てれば、後は一気に抽出作業に入る。ライトローストなので色は薄いが、その分豆の香りが引き立つ逸品である。それを洗っておいたカップに入れ、お盆に乗せてベッドサイドへと持っていった。目を閉じて匂いを嗅いでいるのは、鼻でも味わっているのだと解釈することにした。 「とってもいい香りね。これって、どこの豆?」 「松坂屋で買ってきたブルマンのブレンドだ。比較的ライトにローストしてある」  俺の説明を聞いた冬美は、「後から買いに行くわよ」と俺に命令してくれた。 「その代わり、美味しいランチをおごるから」 「まいどまいどおごって貰うと、なにか紐にでもなった気がするぞ」  そこまで言って、まあ待てと冬美を押し留めた。 「大したごちそうはできないが、たまには俺にも奢らせろ。一応俺は彼氏のはずだからな」 「あなたに、そんなことを言われるとは思っても見なかったわ。でも」  と少し潤んだ瞳で、冬美は俺を見た。 「なにか、嬉しいものね」  照れ隠しなのか、俯いてコーヒーをずずっと飲んだ。そこで何かに気づいたのか、「あらっ」とベッドの上からなにか黒くて細長い糸のようなものをつまみ上げた。 「髪の毛なんだけど、私のじゃないようね?」  こんなに長くないからと。「正直に白状しなさい」と笑いながら言ってくれたが、その方がずっとおっかなかった。少しビビった俺は、「他愛のないことだが」と言い訳から始めた。 「端的に言うと、隣人が俺の前でぶっ倒れてくれた。だからやむなくその女性をを保護しただけのことだ。ちなみに事情を言うと、その隣人の部屋のエアコンが故障していて、管理会社からは修理の予定が立たないと言われていたらしい。熱帯夜で寝不足のところに、昨日の猛暑に襲われ、しかも朝は隣の部屋から悩ましい声が大音量で聞こえてきた。お陰で俺は、顔を合わせたところで「朝っぱらから大音量でAVを見るな」と文句を言われたんだ」  俺の言い訳にも似た説明に、「あなたってAVを見るの?」と冬美は驚いた顔をした。だがすぐに、なぜか納得したように頷いてくれた。何を納得したのかは知らないが、間違いなくそれは冤罪と言うものだ。 「だから童貞のくせに、あんなに色々としてくれたのね」 「見たことはないとは言わないが、それは濡れ衣と言うやつだ。ちなみに昨日のAVの正体は、あなたの喘ぎ声なのだからな」  そう指摘されるのは、流石に恥ずかしいことに違いない。「だって」と顔を赤くし、「気持ちよかったんだから」と俺を喜ばせる言葉を口にしてくれた。こうやって俺を喜ばせるのは、意図しているかどうかに関わらず、なかなか怖いと思えてしまう。  しかも俺の顔を見て、「困った」などと言ってくれる。 「だって、我慢できなくなってきたのよ。どうして、こんなにあなたが好きになったんだろう」  赤い顔をしてそっぽを向く所など、年上とは思えない可愛さとしか言いようがない。その様子に打たれた俺に、逃げ道など残されているはずがない。「やらなくても良いことはやらない。やらなければならないことは手短に。そしてやりたいことは徹底的に」と、俺には新しいモットーが加わっていたのだ。  そのモットーに従い、俺は屈んで冬美に口づけをした。何度も何度も濃厚な口づけをし、それが終わったところで冬美ははあっと息を吐いた。 「声、抑える自身がないんだけど?」 「あれだけ恩を売っておいたんだ。多分だが、文句を言われることはないと思うぞ」  だから遠慮なくと、俺は冬美のスカートの中に手を入れた。口では後ろ向きのことを言っていても、俺を迎える準備はしっかりできているようだ。  そのままゆっくりと、狭いベッドに冬美を押し倒したのである。  小さな頃から、ずっと男の子……男性は苦手でした。もともと地味で目立たない私でしたが、それでも目をつける男の子は居たのです。だから小さな頃には、さんざんいじめを受けた記憶があります。そして小学校も高学年になると、体の特徴、胸が大きいことをからかわれました。私の姿勢が猫背気味なのは、できるだけ胸を目立たないようにしたいと言う子供心からだったのです。  そして中学に進学すると、今度は男子からいやらしい目で見られるようになりました。はっきりと文句を言えない私に付け込むように、何度も胸を触られた……揉まれたことがあります。しかも味方になってくれるはずの女子からは、「媚びてる」と悪口を言われてしまいました。  だから高校は、中学の同級生が居ないところに進学しました。ただ公立の進学校だったので、男女共学だったのが失敗でした。そこでも頭の悪い男子から、さんざん性的な嫌がらせを受けました。地味で暗くて目立たない私なのだから、放っておいてくれればといつも思っていたんです。  そんな私に仲良くしてくれたのは、2年上の稲野先輩でした。すごくカラッとした性格をしていて、「そのうち強みになるから」と胸のことも言ってくれたんです。ただ2年上ともなると、すぐにお別れの時が来てしまいます。卒業式で泣きまくった私に、「名古屋大学で待っているから」と稲山先輩は言ってくれました。その時から、私の目標は名古屋大学になったんです。ただ農学部がと言うより、理系の苦手な私ですから、文系の文学部を選ぶことにしました。私の性格で、教職が務まるとは思えなかったのが教育学部を選ばなかった理由です。  ただ失敗は、稲野先輩と同じアパートを借りられなかったことです。だから仕方がなく、近くにあるアパートを選んだのですが、それもまた失敗だったと思っていました。何しろ隣の男性が、どう見ても怖そうに思えたからです。  その人は、私よりずっと背が高くて、目つきが少し悪くて、とても無愛想で。どう考えても、私の理想からは離れた人でした。ただ稲野先輩に言わせると、「可愛いところがあるわよ」らしいのです。とてもではありませんが、私には「可愛い」とはとても思えません。  ちなみに稲野先輩がその男性を知っているのは、アルバイト先が同じだからです。休みが不定期と言うのは、責任感が欠けているのが理由でしょうか。ただアルバイト中は、真面目にやっていると言うのが先輩からの情報です。  そんな情報を私に教えて、先輩はどうしろと言うのでしょうか。好きか嫌いかと言う段階以前に、私はその男性が苦手としか言いようがないのです。だからできるだけ関わらないように暮らしていたのですが、昨日の朝大音量でAVを流してくれたのです。お陰で、「苦手」から「嫌い」に分類される相手になりました。中学、高校時代を思い出したこともあり、できるだけ顔を合わせたくないと思ったぐらいです。  それがあろうことか、大変な迷惑をかけることになってしまいました。つっけんどんな態度と言うより、明らかに警戒して無愛想な私を、その人は紳士的に介抱してくださいました。涼しい部屋でベッドに寝かされ、起きた時には経口補水液と美味しいコーヒーまで出してくださったのです。  しかも私ではどうにもならなかった壊れたエアコンで、管理会社と交渉までしてくださいました。人は見かけによらないと言うのは、こう言うことかと教えられた気持ちになりました。ちなみにその人、折木さんは私をまったくいやらしい目で見ませんでした。それで更に見直したのですが、その一方で悔しいと言う気持ちにもなりました。AVを見るぐらいスケベなのに、どうして私の体に興味を示さないのでしょう。昨日の夜なら、私をそのまま犯すこともできたはずなのに。  そんなことを考えていたら、また夜が寝られなくなりました。相変わらず暑いのも理由ですが、折木さんのことが頭に浮かんだことの方が理由としては大きいでしょう。暑さは氷嚢と扇風機でやり過ごせましたが、折木さんの顔は、目を閉じても浮かんできてしまうのです。 「そう言えば、今日はお礼を言っておかないと……」  あの後家に電話をして、少しだけ里帰りをすることにしました。このままこの部屋で過ごすと、暑さとそれ以外の理由で寝不足がひどくなりそうな気がしたからです。エアコンの付替前に帰ってくるので、僅か5日程度の里帰りになるのですが。あれだけお世話になったのに、何も言わずに消えるのは恩知らずの所業だと考えたのも理由です。  寝不足のママ出発の準備をした私は、挨拶をしようと折木さんの部屋の前に立ちました。そこでノックをしようとしたのですが、中からまたAVの音が聞こえてきました。それを聴いた時、私は少しだけ悲しい気持ちになりました。現実の女のより、AVの女性の方が魅力的なのでしょうか。ただそれを考えた時、それも当然かと自分の姿を思い出しました。何しろ私は、姿勢が悪くて、地味な女の子です。大きな胸にしたところで、姿勢が悪ければ不格好な腫れ物でしかありません。  ノックを仕掛けた手をとめ、私はドアに向かって頭を下げました。そして小さな荷物を持って、本山駅に向かうことにしました。自分の悪いところ、魅力的でないところが分かったのなら、少しでも魅力的になる努力をすれば良いのだから。  とりあえず、背中を丸めるのをやめることから始めることにしました。胸を張って歩くなんて、一体いつ以来のことでしょう。ただ下着のサイズが合っていないのか、胸が潰されるような苦しさを感じてしまいました。  今日はシフトを入れていたので、夜にはファストフード……と言うより、チェーンのコーヒーショプのカウンターに立っていた。コーヒーショップで働くというのは、俺にとってはある意味天職に近いのかもしれない。ただ残念なことに、その店で出すコーヒーは、俺の趣味からは外れていた。俺の好みからは、シアトル系の苦いだけのコーヒーは外れていたのである。  俺がアルバイトを続けているのは、生活が苦しいからと言うことではない。潤沢とは言えない仕送りでも、普通に生活をするだけならやっていけないこともなかったのだ。もともと浪費をする癖もない俺なので、少し我慢さえすればアルバイトの必要はなかった。  ただ俺にとって譲ることのできない嗜好、美味しいコーヒーを飲むためには、アルバイトで原資を稼ぐ必要があったのだ。加えて言うのなら、夏の電気代も理由になるだろう。もっとも両方を足しても、さほどすごい金額になるわけではない。だからアルバイトをしたお陰で、懐が暖かったりするのも確かだ。  10時までの営業なので、上がりはそれから30分ほど遅くなる。夜の繁華街に近いこともあり、閉店間際まで客の入りが絶えないと言う繁盛店である。お陰で、俺のようなアルバイトが他にも4人ほど働いていた。3ヶ月も顔を合わせていれば、俺でもそれなりに親しく話すようになっていた。 「ねえ折木君、一緒に帰ろうよ」  着替えを終えて帰ろうとした俺に、稲野美土里が声をかけてきた。俺の隣人である漆山りおんの先輩と言うのが、この稲野美土里の正体である。そして千反田が志望する、名古屋大学農学部3年と言うのも、彼女の肩書の一つになっていた。 「別に構いませんけど」  きっぷが良いと言うのが、稲野美土里の最大の特徴だろう。背はそこそこ高いのだが、出るところの出ていない、そして引っ込むところが引っ込んでいない、全体的にたくましい体つきをしていた。だから「野良作業で鍛えたのですか」とからかったのだが、口より先に手が出るタイプらしく、いきなり人の頭を殴ってくれた。あまり女性を感じさせないタイプと言うのも、彼女の特徴といえば特徴なのだろう。  俺の答えに、先輩はよしよしとうなずいた。そして俺の左腕を抱え、胸を押し付けると言う暴挙を働いてくれたのである。ただ悲しいことに、あるべきものが貧しければ、男にとってなんの感動もない行為にしかなってくれないのだ。 「いや、折木君は落ち着いているね。やはり、こう言うことに慣れているのかな?」  にぱっと笑って顔を覗き込んできたのは、明らかに俺をからかって楽しんでいるのだろう。だから俺は、チクリと……ぶすりと嫌味を投げ返した。 「いえ、少しも感動がないと言うのか。俺は、筋肉を触って喜ぶ趣味はありませんから」  そこまで言ってから体を離したのは、理不尽な暴力から逃れるためである。そして予想したとおり、ぶんと音を立てて先輩の拳が俺の頭をかすめていった。 「そりゃあ、君の彼女のように可愛げはないと思っているよ。それに、君の彼女は結構グラマーそうだしね」 「俺の彼女?」  そこで本気を装い首を大きくかしげて見せた。そんな俺を見て、先輩は「ネタは上がっているんだよ」と笑ってみせた。 「先週、色気のまったくないところでデートをしていただろう。ただあれは、あまり感心しない行為だと私は思うよ。折木君、君は農学部の男どもに喧嘩を売ったんだ。文系のやつはチャラいと、私の周りからは文句が上がっていたな」 「先週……ですか」  これで先輩が、冬美のことを言っていないのは理解できた。色気のまったくない場所で、農学部の男子学生に喧嘩を売る。そうなると、候補地は農学部前と言うことになる。つまり先輩の言う俺の彼女は、千反田と言うことになる。 「あれは、浪人生に頼まれただけのことです。ちなみに彼女は、名古屋大学の農学部を志望していますよ。ぜひとも、その怨嗟の声を上げていた男たちに教えてあげてください。間違いなく、来年入学してくると思いますから」 「浪人生と言うのは、彼女を否定する理由にはならないと思うのだけどね」  俺の顔を見てため息を吐いたのは、外したと言う思いからだろう。意外なことだが、冬美の存在は知られていない。一緒に出歩くことが少ないのと、行き先が高級な場所が多いのが理由なのだろう。 「ところで、話が変わって君の隣人、漆山りおん嬢のことなのだがね」  そこで彼女の口の端がつり上がったのは、面白いネタをを掴んだと考えたからなのだろう。ただ漆山りおんネタで、俺が困ったことになるとは思えない。 「わりと真剣に、りおんに相談されたのだよ。聞くところによると、折木君は朝っぱらから大音量でAVを見る趣味があるそうじゃないか?」  そのことを、わざと周りに聞こえるように言わないで欲しい。通り過ぎていく人の視線が突き刺さって痛い気がする。 「たまたまですよ。ところで、それがどうかしましたか?」  一応相手は年上だから、言葉遣いも丁寧になっている。一度、逆に嫌味だと文句も言われたのだが。 「いや、りおんが悩んでいてね。AVの女優に勝つにはどうしたら良いのかって。とりあえず、姿勢を良くするところから始めたそうなのだが……傑作なのは、お陰で胸が圧迫されて苦しくなったそうだよ。いやいや、なかなか巨乳に育ってくれたようだね」  笑い話のように話をしてくれるが、その中にはとても不穏なものが含まれている。どうして隣人が、俺の趣味……ではないのだが、AV女優に勝つと言う話が出てくるのか。多少は親切にしたが、せいぜいその程度の筈だ。 「不思議そうな顔をしているね。これまでのりおんにとって、男性と言うのは恐怖の存在だったのだよ。まあ、小さな頃からいじめられてきたと言うのが大きな理由なのだろうね。そして中高と、ずいぶんと性的な目で見られたそうだよ。恐怖を嫌悪を言い換えても間違いではないのだろう」 「それで?」  言いたいことは、すでに理解はしている。それでも先を促したのは、俺の勘違いを期待してのことである。だが俺の願いも虚しく、稲野先輩はあっさりととどめを刺してくれた。 「折木君が想像した通りのことだよ。りおんが、初めて異性としての男性を意識した。その相手が君だったと言うことだ。何しろ君は、紳士的に彼女を介抱したばかりでなく、抱えていた問題も解決してくれたんだ。しかもりおんが言うには、少しも性的な目を向けられなかったそうじゃないか。それもあって、AVに劣っていると落ち込んでいるのだけどね」  愉快じゃないかと、稲野先輩は大きな声で笑った。夜の夜中だと考えれば、間違いなく迷惑な行為には違いない。 「どうだろう折木君、テレビの向こうにいる女性ではなく、リアルの巨乳に手を出すのは。あれでりおんは、見た目もなかなかいけているのだよ」 「随分と、後輩思いなんですね」  むすっとした俺に、「可愛い後輩だからね」と稲山先輩は言い放った。 「いい加減、いい目を見させてあげてもいいと思うんだよ。何しろ小さな頃から、彼女は幸せとは言い難かったんだ」 「だとしたら、ぜひとも俺以外の相手……先輩の知り合いとかを紹介してあげてください」  間に合っていますと答えた俺に、「やっぱりあの子?」と稲山先輩は聞いてきた。 「少なくとも、漆山さんよりは彼女の方に好意を持っていますよ」 「だとしたら、どうして手を出してあげないんだい?」  すかさず聞いてきた稲山先輩に、「そこまでだ」と俺は右掌を見せた。 「そうやって、人の人間関係に土足で踏み込むのは感心しないんだが」  少しムスッとした顔を作った俺に、「踏み込みすぎたか」と稲山先輩は舌を出した。 「そんな風に反応を探られるのも気持ちのいいものじゃないな」 「なるほど、君の言葉遣いを聞けば、気分を害したのも理解できる……と言いたいところなのだが。少しわざとらしさを感じるね」  その言葉に、食えない相手だと稲山先輩のことを評価した。ただ、それでもポーズと言うのは、貫いてこそ意味がある。 「これでも、結構気分を害していますよ。稲山先輩と、同じシフトにしたくないぐらいには」  軽い脅しなのだが、意外にも「それは困る」と稲山先輩が反応した。 「俺は、困りませんよ」 「それでは、私の娯楽がなくなってしまうのだよ。娯楽と言うのが問題なら、目の保養と言えば良いのかな。これで、結構君のことを気に入っているのだよ。よほど私が手を出したいくらいにはね」  人をからかっているのは、なんとなく雰囲気で感じることができた。もともと、俺を見ることが目の保養になるはずがない。それぐらいの自覚は、中高……違うな、小中高と過ごしてきて持っている。 「おっぱいが筋肉でできている人は守備範囲外だ。加えて言うと、無駄に脂肪がついているのも避けたいと思っている」  それは、結構本気の気持ちでもある。惚気ではないが、冬美のスタイルはかなり理想に近いところがあったのだ。その意味で言えば、千反田のスタイルも十分にストライクゾーンにあった。 「かなり失礼なことを言ってくれるね。しかも、ついでのようにりおんも否定してくれる。胸は……流石に言い返せないが、あちらの具合は良いと思っているのだけどね」 「残念ながら一点豪華主義じゃないんで」  だから特定の部分だけ主張しても意味はない。それにそろそろ本山に着くので、このバカ話も店じまいする必要がある。 「どうだい、これから私の部屋に来ると言うのは。一点豪華主義じゃないのをぜひとも証明させて欲しいのだがね。AVで抜くのより、よほどリアルが良いと思うよ」 「これから帰って、読書をしてから寝る予定だ。あいにく、ベッドの上でレスリングをする趣味はないんで」  ドアが開いたのを契機に、じゃあと俺は稲山先輩に向かってをあげた。最寄り駅は同じなのだが、利用している出口は正反対のところにあったのだ。 「どうして、私を誘惑してくれないのかねぇ。誘ってくれれば、喜んで部屋についていくのに」 「その目的だったら、浪人生を誘います。俺は、人間関係を複雑にする趣味はないんで」  だからバイバイと、俺は稲山先輩に向かってもう一度手を振った。流石に脈なしと理解したのか、稲山先輩はそれ以上絡んでこなかった。そんな俺に向かって、先輩は大きな声でとんでもないことを口走ってくれた。 「りおんは、今朝実家に帰ったよ。だから、気兼ねなく爆音でAVを楽しんでくれたまえ!」  周りの視線が痛くて仕方がない。その時の俺は、先輩に対して本気で殺意を覚えたぐらいだ。 「そうですね、先輩には決定的にかけているものを楽しませて貰いますよ」  せめてもの反撃なのだが、むしろ自分へのダメージの方が大きい気がする。知らない女性の冷たい視線を受けて、俺は早足で階段へと向かったのだった。  高校のときからずっと思っていたことがあります。それはどう言うことかと、折木さんは大した人だと言うことです。摩耶花さん達は笑いながら否定するのかもしれませんが、私はずっと折木さんの凄いところを見てきました。おじさんのことから始まった部活のお付き合いの中で、その思いは確かなものとなりました。そして入須さんに伺った話では、一部、しかも錚々たる人達の間で、折木さんの評価は高かったりするそうです。  たぶん摩耶花さんや福部さんは……福部さんの場合は少し違う気もしますが、中学の時の事件や近すぎたことが評価の低い理由なのでしょう。それに見た目だって、可愛いとは流石に言えませんが、格好いいぐらいは言ってもバチが当たらないと思います。そして背だって、同年代の中では高い方に入ると思います。スポーツマンと言うイメージは綺麗サッパリないのですが、かと言ってぶよぶよとした体にも見えません。  なにをぐだぐだ説明しているのかと言うと、それはその、折木さんがもてても不思議はないと言うことを言いたかっただけです。特に人間関係がリセットされた大学ならば、お付き合いをする人ができても不思議ではないと思っていました。むしろ、私が好きになった人が、誰にも好きになって貰えないのは寂しいと言うより、自分の趣味が変と言われた気がしてしまうのです。  ただ頭の中でそう思っていたのと、実際に付き合っている人がいると言われるのは全く別でした。大学に入って付き合い出した人が、生涯の伴侶となる可能性は低いのでしょう。それぐらいのことは分かっていても、その時は自分の思いは叶うことがないのだと思ってしまったのです。そんな極端なことを考えたと言うことは、それだけ私が舞い上がっていたと言うことになります。  あの後入須さんのマンションに戻って一人でいる時に泣いてしまったのですけど、気持ちが落ち着いたところで自分が随分と先走っていたことに気づきました。誰も彼も、私のような気持ちでいると言うのは考えすぎに違いないのです。むしろ、折木さんの良さを分かってくれる女性が居たことに、同志を得た気持ちにもなったぐらいです。いえ、正直に打ち明けますが、これは半分負け惜しみになります。  それはそれとして、私はもう一度スタートラインに立つ必要があるのです。その手始めは、ちゃんと大学に入って自分の足で立つことでしょう。そのためには、予備校の夏期講習を疎かにする訳にはいきません。入須さんも経験されたそうですけど、夏を制するものは受験を制するのです。短い期間かもしれませんが、有意義に時間を使って遅れた分を取り戻さないといけないのです。  そんな真面目なことを考えている私ですが、1つ……違いますね、2つほど気になることがあります。その最初のものは、そうです、折木さんが付き合いされていると言う女性のことです。折木さんの魅力に気づいて、しかも折木さんがお付き合いしていることを認めたような人です。どれだけ素敵な人なのでしょうか。私の人生設計に立ちふさがる壁となる人なのですから、気にならないと言うのは絶対にありえないことです。ただこれだけは、離れたところに居て、しかも会う機会もない私には知りようのないことでもあります。  それでも言えるのは、素敵……見た目のことではなく、人として素敵な人であって欲しいなと言うことです。その人が素敵な人だと、私にとって壁は高くなってくれるのでしょう。その意味で言えば、素敵じゃない方が私にとって利益になるのですが、それでもなにか嫌と言う気持ちになってしまうのです。その辺りの葛藤は、複雑な乙女心と言うところでしょうか。  そしてもう一つが、入須さんがお付き合いされている方のことです。共同生活をしていて分かったのですが、入須さんは高校の時からはっきりと変わっています。もともと素敵な、そして憧れる人と言うのは変わっていないのですが、これは失礼な言い方になるのかもしれませんが、当たりが柔らかくなって女性らしさ……とても漠然とした印象には違いないのですが、女性らしさが強調されたような気がするのです。だからますます、素敵だなと憧れてしまうのですが……  普通に大学に通って勉強するだけで、こんな変化が出るとは思えません。だとしたら、なにか変わるきっかけが有ったと言うことです。それを男の人とのお付き合いに求めるのは、ごく自然な観察だと思います。だから入須さんがお付き合いされている方がどんな方なのか、ものすごく気になってくるのです。小父様からお願いされからではなく、私自身の興味、憧れが理由になっているのです。  ただ共同生活をしていて、入須さんからお付き合いされている方の話が出たことがありません。たぶんですけど、私の口から小父様に伝わることを警戒されているのでしょう。入須さんがそう考えるのも、仕方がないのは確かだと思います。  ですから、私が観察した範囲からプロファイリングしたいと思います。こう言ったこと折木さんが得意なのですが、間違いなく手伝ってくれないと思います。  そう考えたところで、これは口実になるのかなと考えた私は悪い子なのかもしれません。今度お休みの日にもでも、適当な口実を作ってお誘いしなければと心のなかにメモをしました。  話をもとに戻すと、私が観察した入須さんの変化です。女性的な当たりの柔らかさを感じるようになったと言うのは、先程も口にしたとおりです。体型的にも、少し丸みを帯びたのかなと。胸も、以前よりは大きくなった気がします。そして決定的なことですけど、私が夏期講習に出るようになってから、ご機嫌が良くなった気がすると言うことです。それ以前は、少し苛ついた空気を感じることも有ったのですが、今はすっかりそんな様子がなくなったのです。だとしたら、入須さんはその方と、かなり深いおつきあい……つまり、肉体関係を結ばれているのではないでしょうか。  そしてそう推測した別の理由は、マンションの掃除をした時に見つけたものです。お風呂や洗面所を掃除したら、短い、そして太めの髪の毛を排水口に見つけたのです。いえ、別に、探偵みたいな真似をしようと思ったわけではないのですよ。お世話になっているのだから、掃除ぐらいはしなければと思っただけです。そのあたりは、けして嘘など言っていません。  言い訳はここまでにして、お相手の方はこのマンションでシャワーを浴びていると言うことになります。女性の家でシャワーを浴びる。その意味ぐらいは、おぼこいと言われた私にも理解はできます。私のせいで、この家で情事……で良いのでしょうか、それができなくなって入須さんは少し苛ついていたのだと思います。ですが夏期講習が始まれば、私の相手をしなくても済むことになります。ただこの家でことにおよぶと、色々と痕跡を残すことになるでしょう。嗅覚に敏感な私……どうして入須さんがそれを知っているのか不思議ですが、小さな頃から可愛がっていただいたことを考えれば、取り立てて不思議と言うのもおかしいのでしょうね。  だから受験生のいる家で情事を重ねるのは遠慮されたと考えるのが自然です。つまり、入須さんは外で、おそらくお付き合いされている方のところで、その、ええっと、されていると言うことになります。 「だめですね、想像すると顔が熱くなってきます」  ぱたぱたと顔を扇いだのは、気温の高さを理由にすることにしましょう。やはり、まだしたことのない私には、その想像は刺激が強すぎると思います。それでも入須さんが、男の方に抱かれている……それを想像すると、頭に血が上ってくるのを抑えることはできません。 「私だって……」  そう、高校2年の時には、私も女になる機会はあったのです。折木さんと何度もキスをして、胸だって、直接触ってもらいました。それどころか、大切な部分も指で可愛がって貰ったこともあります。頭の中が真っ白になる経験も、そのときにしているのです。ただ折木さんは、最後まではしてくれませんでした。多少は冷静になった今なら、折木さんの気持ちも理解できると思います。摩耶花さんにも言われたのですけど、折木さんは苦しんでいたのです。高校2年の男子が、おかしくなった女の子の一生を背負う。それを強いることが、どれだけ異常なことかぐらいは私にも理解できます。ただあの時は、とてもではありませんが、冷静になることはできませんでした。折木さんが苦しんでいると言う摩耶花さんの言葉に、私のことを嫌いなのだと思ってしまったのです。家を継がなくても良いと言われた時と同じぐらい、いえ、その時の私にはそれ以上の意味があったのです。だから私は、折木さんと顔を合わせることができなくなりました。  いえ、長々と自分語りをしてしまいましたが、今気になるのは入須さんがお付き合いされている方のことです。少し落ち着くために、コーヒーを飲むことにしましょう。  ブルマンブレンドの豆を機械にセットして、水受けには冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぎ込む。スイッチを入れると、豆のグラインドから始まり、しばらくするとポコポコと音を立てて抽出が始まります。挽きたての豆の香りが部屋の中に漂い、それだけで幸せな気持ちになってくれます。  もともとコーヒーは苦くて飲まなかった私でしたが、折木さんの影響なのでしょう、今はコーヒーを飲むようになりました。そして飲みなれるようになると、細かな違いが分かるようになります。違いが分かる女とは言いませんが、さすがは入須さん、とてもいい豆を使われていると思います。少しライトに煎られた豆を多めに使い、香りと味がうまく両立してくれるのです。ぜひともどこで売っているのかを教えて貰わなくてはと思っています。  いえ、コーヒー豆の仕入先はどうでもいいのですけど、一つ気になることを思い出しました。今香りの高いコーヒーを入れてくれるコーヒーメーカーなのですが、かなりの高級品と言うことです。入須さんのことを考えれば、別に不思議に思うことではないのかもしれません。それでも抱いた違和感は、高校の時にはコーヒーを飲んでいなかったことを思い出したことです。その入須さんが、かなり趣味的なコーヒーメーカーを買われたこと。そして私の前でコーヒーを淹れる時に、慣れていない感じがしたことです。  自分で使ってみて分かったのですが、このコーヒーメーカは使い勝手としてはかなり良い機械だと言うことです。だとしたら、これまで入須さんは、このコーヒーメーカーを自分では使っていなかったのではないでしょうか。そうなると、このコーヒーメーカーは、お付き合いされている方の趣味と言うことになるのです。 「だとしたら、その男の人は凄い人なのですね」  あの入須さんを、自分の色に染めてしまっているのです。高校の時の入須先輩は、周りに対して親切に、そして間違いようのない一線を引いていました。そんな入須先輩を自分の色に染めてしまうほどの影響力を持っている。それが男女の機微と言うものなのでしょうか。 「だとしたら、どうして小父様に教えていないのでしょう」  そんな凄い人なら、付き合っていることを隠す必要はないと思います。いえ、積極的に教える必要もないと思いますし、私だって話すとは思えません。それでもお父様は、私が折木さんのことを信頼している、大好きだと気が付かれました。つまり何が言いたいのかと言うと、何らかの態度に出るはずだ、そして普段の言動に変化が出るはずだと言いたいのです。  それをわざわざ隠すと言うことは、お付き合いしている男性に問題があると言うことでしょうか。ただ入須さんが騙されていると言う可能性は極めて低いのでしょう。だとしたら、次に考えられるのは相手の方がどの分野におられるのかと言うことです。医者の娘、特に開業されている方は、伴侶に同じ医者が求められると聞いたことがあります。それを考えると、入須さんがお付き合いされている方は、医学に関係のない方と言う仮説が成立するのかと思います。だから家の方に、どんな人と付き合っているのか、それを頑なに隠されているのではないでしょうか。  もしもそうだとしたら、入須さんは大きな勘違いをされていることになります。小父様に教えていただいた、つまり私の口から伝えて欲しいと意味なのでしょうか、お付き合いされる、将来的に結婚を考える相手は、別に医者でなくても良いと仰っていたのです。お話を伺ったところによると、入須さんが医学部に入学されたので、その辺りを拘る必要が薄くなったらしいのです。「医者の方が好ましいが、必須条件ではなくなった」そうなのです。むしろ、人生を共にしていける相手を探して欲しいと言うのが、小父様のお言葉でした。  今までの話を整理すると、整理するほど仮説が立ったわけではないのですが、入須さんがお付き合いされている方は、かなりコーヒーに凝っているのは確かでしょう。コーヒーメーカーが凝っているのもそうですが、こんな美味しい豆のことを知っているのです。間違いなく、コーヒーを愛してらっしゃる方だと思います。 「そう言えば、折木さんもコーヒーには一家言ありましたね」  折木さんに相談事が有った時、とてもシックな喫茶店に行ったことを思い出しました。その時の私は、ウィンナーココアを頂いたのですが、折木さんはコーヒーを飲まれていかと思います。いえ、今は仮説を整理している時でしたね。折木さんとの思い出を語るときでないのは確かです。  そしてもう一つの仮説は、お付き合いされている方が医学関係ではないと言うことです。もしも同年代の方であれば、理系……つまり、工学や理学部関係、そして文系なら……こちらもたくさんありますね。おそらく、そう言った方がお相手なのでしょう。ちなみに折木さんは、名古屋大学の経済学部に入学されました。摩耶花さんは、「神山高校の七不思議」と言っていました。奇跡なら分かる……いえ、これは折木さんに失礼な言い方ですね。だとしても、今まであった七不思議の何を押しのけたのかが気になります。  ええっと、また話が折木さんのことに逸れてしまいました。他に気がついたことを考えてみることにしましょう。  気がついたことではありませんが、入須さんはとても素敵な家具を使われています。気になったので教えていただいたのですが、北欧家具と言うそうです。私達の住んでいる神山市は、家具作りでも有名な市です。ただ伝統的と言えば良いのか、女の子の一人住まいには重厚すぎる気がします。ずっと需要が減り続けているそうですが、その辺りにも理由があるのでしょう。  いえ、神山市の家具製造業の現状と言うのはどうでもいい……と言うのは言いすぎなのでしょう。ですが、今は私の観察を整理するときなのです。  その素敵な北欧風なのですが、自分で組み立てるスタイルをとっているそうです。それを気にした私に、入須さんは、「組立サービスもあるわよ」と教えて下さいました。だとしたら、入須さんもそのサービスを使われたのでしょう。だとしたらいただけないのは、少し仕上げに雑なところがあることです。プロが組み立てるのなら、もう少し細やかな気配りが有ってもいいと考えるのはおかしなことでしょうか。  そこで一つの仮説を立てるとすると、入須さんが組立サービスを使わなかったのではと言うことです。そしてそれは、もう一つの仮説と関係してくるものです。それは、相手の方といつ知り合ったのかと言うことです。医学部の方なら、いくらでも知り合う機会はあるのでしょう。ですがそれ以外の方ともなると、キャンパスが別れているので、知り合う機会は極端に少なくなると思うのです。2つの仮説が結びつくのは、相手の方がこの家具を組立てたのではと言うことです。だとしたら、入須さんはこのマンションに引っ越してきてすぐ、その方と付き合われることになったことになります。出会いの機会が少ないこと、入須さんがナンパ男に惑わされる可能性が低いことを考えれば、一つの仮説として成り立つことが考えられます。  そこまで自分で仮説を立てると、浮かび上がってくる可能性があります。それは、お相手の方が神山高出身者と言うことです。同じ高校出身者であれば、話しやすいのは間違いありません。しかも故郷を離れた今は、安心するものを感じることができるでしょう。そこから付き合いが始まってと考えると、出会いの問題、そして家具の組み立ての問題も辻褄が合うのです。少し気が早い気もしますが、以上の考察から考えられる結論は、お相手は神山高出身の先輩と言うことです。なぜ先輩かと言うと、頼るべき相手として考えられるのが先輩だからと言うことです。右も左も分からない新入生同士では、自分のことで手一杯になってしまうと言うのが理由です。 「神山高校で名古屋に来ている人は……」  そう考えると、結構候補者がいることに気が付きます。ただ誰がどの大学かまでは分かっていないので、これ以上の考察は難しくなります。そして私自身、神山高校出身を名乗れない立場になってしまいました。だから、情報を集めることもできなくなってしまったのです。 「やはり、一度折木さんに意見を伺ってみないと」  そうすることで、自分の欲求を満たすこともできます。もちろん、折木さんが会ってくださるのかと言う問題は残っているのですが。  ふうっと息を吐いてから、私は残っていたコーヒーを飲み干しました。後は素敵なカップ、これとコーヒーメーカーを洗っておけば後始末は終わりです。入須さんは外出されているので、今日の夕食は私が作ることにしましょう。近くに大きなスーパーがあるので、お買い物に困らないのはありがたかったです。ただ、野菜の鮮度とかは、私の家の方が……農家なのだから、鮮度が良いのは当たり前なのでしょうね。  そう言えば、入須さんが料理をするのは驚きでした。すみません、とても失礼なことを言っていますね、私は。その言い訳をすると、高校の頃は料理をしているのを見た記憶がなかったのです。そんな入須さんが、とても手際よく料理を作るようになっていました。それはやはり、好きな人に手料理をごちそうするためでしょうか。入須さんには言っていないのですが、ちょっと味が濃い目で、量も女性二人分としては多くなっています。その辺りは、目分量で作る時に、これまでの経験が影響しているのでしょう。 「さて、市場調査を兼ねてスーパーに行ってきましょう」  市場価値のある作物を作るためには、実際にどう言ったものが売れているのかを知る必要があります。狭い調査範囲と言うのは分かっていますが、それでも現場での傾向を見るのは大切なことだと思います。 「今日は、鶏肉の塩麹漬けにお野菜の炊いたのにしましょう」  後は、ご飯を……スーツケースが重いと思ったら、中には実家が入れてくれたお米が入っていました。そのお米を美味しく頂いてもらうために、最新式の炊飯器をセットしましょう。お米を丁寧に洗って適度に給水させれば、美味しいご飯が炊きあがってくれるのです。 「でも、やっぱり折木さんに食べてもらいたいな……」  今はまだ、その時でないのは分かっています。もう少し、後少し、そしてもっと私には努力が必要なのですから。  翌日俺は、いつもどおり夜のシフトを入れていた。そしていつもどおりシフトを終わらせると、やはりと言うのか稲野美土里がくっついてきた。あれだけ文句を言っておいたのに、当たり前のように懲りた様子は見当たらなかった。 「今日は、静かなんですね」  地下鉄の駅に歩いていく間、打って変わって今日の稲野先輩は無口だった。その分静かで良いのだが、黙っているのなら追いかけてくる必要も無いように思えてしまう。だから俺は、言わずもがなの問いを発したと言うことだ。 「なに、充足感を得る方法はお喋りをすることじゃないんだよ。むしろ、こうやって静かに並んで歩いている方が上なのかもしれないな」 「よほど、からかいネタを考えていると言われる方がしっくりときますよ」  軽く釘を差した俺は、農学部に席を置く稲野先輩に質問をすることにした。なに、東郷フィールドなる施設が、見学に行って面白いかどうかを聞いてみようと思ったのだ。 「ところで、東郷フィールドって言う施設が有ったはずだ。あそこは、ふらっと見学に行っても楽しめる場所なのか?」 「東郷フィールドね。なるほど、例の彼女の関係かな?」  そこで少し口元を歪めた先輩は、「単なる農場だよ」と説明してくれた。 「大学の農場なのだから、もちろん各種研究を行っているよ。それに加えて、地域貢献と言うのもやっているね。講演会とか、ふれあい農場とかもやっているよ。ただ、この季節は開店休業状態ではないのかな。何しろ、学生たちが夏休みで居なくなっているからねぇ。見て面白いかと言われれば、人によるとしか答えようがない。それでも言えるのは、君には退屈な場所と言うことだ」 「先輩には?」  人による以上、農学部にいる先輩に尋ねるのは間違っていないだろう。ただ得られた答えは、毒にもならない、箸にも棒にもかからない情報だった。 「私かい? そうさな、君とのデートには絶対使わないと思うよ。農業に興味を持っている人なら良いが、一般人には間違いなく退屈な場所だからね。何しろ今は、芋掘りもできないんだ」 「品種改良とかは?」  千反田の言っていたことを思い出した俺に、「まともには公開していないよ」と笑った。 「何しろ品種改良と言うのは、秘密の塊になるのだからね。とは言え、公的な研究機関なのは間違いない。差し障りのない範囲と言うより、持ち出されない限りかなり自由に見ることはできるのだろうね。もちろん、どうやって作ったかは教えて貰えないけどね。コンセプトぐらいは聞けるかもしれない……まあ、夏休みだから人がいるのかと言うのは疑問なのだけどね」  そう答えた稲野先輩は、鼻の下に右手の人差指の甲を当てた。 「どうだろう、ピクニックのつもりで見に行くと言うのは」 「一緒に行くと言っているように聞こえるのだが?」  目を細めて睨んだ俺に、「なにか都合が悪いのかな?」と稲野先輩は口元を歪めた。 「農学部生が一緒の方が、何かと便利じゃないのかな。私だったら、フィールドを案内することも可能なのだがね」  魅力的だろうと笑う稲野先輩に、俺はわざとらしくため息を吐いてみせた。 「少しも魅力的には聞こえないな。まあ、あいつには外からで十分だろう」 「ちなみに、近くにラブホテルはないからね。そう言ったものを求めるのなら、車でもう少し郊外に出る必要があるんだ」  まるで利用したことがあるかのような顔をした稲野先輩を、俺は軽く鼻で笑ってみせた。変に言い返すより、こう言った態度の方が効果的だと想像したからである。そして俺の想像通り、稲野先輩は見事にいじけてくれた。 「そりゃあ、私はそう言った施設を利用したことも、そう言ったシチュエーションになったこともないのは認めるよ。だから人助けだと思って、君の部屋に連れ込んでくれないかな?」  どうだろうと、俺に向かって無い胸を持ち上げてくれた。 「先輩は、漆山を応援しているんじゃないのか?」  そのつもりで、色々とけしかけられたのを覚えている。だが俺の指摘に、「それはそれ」と意味深な視線を向けてくれた。 「可愛い後輩の想い人を寝取ると言うのは、ゾクゾクとくる快感を覚えるものだよ」 「一人で悶えていることをお勧めする。くれぐれも、俺を巻き込まないように」  人差し指で敬礼をして、俺はさっさと反対側の出口へと早足で歩いた。そうすれば、稲野先輩が追いかけてこないのは分かっていたのだ。どこまで本気か分からないが、無駄なことをしないだけの分別は持っているようだったのだ。  そのまま早足で部屋に戻った俺は、隣人が留守なのを再度確認した。稲野先輩の言う通り、隣人は里帰りをしているようだ。その証拠に、まだ11時前なのに部屋の明かりが消えていた。 「これで、エアコンの工事までは気兼ねしなくても済むわけだ」  またぞろ、明日の朝には冬美が押しかけてくるはずだ。口をふさがなくても済むことに、俺は少しばかりの安堵を感じていたのである。 「と言う話を置いておいて、千反田に連絡をしてやるか」  男女と言う関係から離れれば、あいつは数少ない古典部の仲間なのだ。途中で転校したのだが、それでも4人で頑張ってきた、そしていろいろな事件を乗り越えたことには違いない。 「時間的に問題がなければ、電話をしてくれ……と」  ショートメールを入れておけば、あいつのことならすぐに気づくだろう。そう思って送信ボタンを押した2分後、いきなり俺の携帯が自己主張を始めてくれた。発信元の表示を見るまでもなく、相手は千反田である。  すぐに着信ボタンを押した俺は、「悪いな」と一言添えてから連絡を入れた理由を説明した。 「土日に時間が取れるようだったら、東郷フィールドに連れて行ってやろうと思ったんだ。ああ、土曜は駄目だが、日曜なら夏期講習は休みなのだな。だったら、日曜日にしておくか。予め断っておくが、外から見る程度だからな。あまり期待をしないで居てくれ」  電話を少し離し気味にしたのは、聞こえてくる千反田の声が大きかったからだ。別に秘密にしているつもりはないが、冬美には丸聞こえに違いない。事前には話をしてあるので、明日虐められることはないと思うのだが。 「ああ、外から行って眺めてくる程度だな。どんな場所にあるのかぐらいは知っておいた方が良い程度のことだ。合格しても居ないのに気が早い? 合格する励みになれば良いんじゃないのか。ああ、日曜の10時に八事駅に来てくれ。ああ、入須先輩のマンションに近い側だ。無茶を言うな。俺が先輩のことを苦手にしているのを知らない訳じゃないだろう?」  高校の頃なら、俺の言葉に一つも嘘はない。ただ「そうだったんですか?」と言われると脱力してしまうのも確かだ。 「そうだったと覚えておいてくれればいい程度の話だ。お前のことで電話がかかってきた時には、軽く身構えたぐらいなのだからな。また踊らされるのかと思ったんだ」  その程度だと、俺はさっさと電話を切った。意外なことに、千反田も話を引き延ばそうとはしなかった。 「お隣さんは不在か……」  だったら多少うるさくしても問題が出るとは思えない。壁際においてある掃除機を持ってきて、床の掃除をすることにした。ベッドの方は、明日起きてからで良いだろう。  折木さんから誘ってもらえるなんて。それを考えると、どうしても顔がにやけてきてしまいます。しかもそれを見られてしまったので、「嬉しそうだな」と入須さんにからかわれてしまいました。ただ自覚はあるので、言い返すことはできません。それに嬉しそうではなく、本当に嬉しかったのですから。 「確か彼には、ガールフレンドがいると聞かされたのだが。日曜日に、他の女性をデートに誘っても良いのだろうか?」  その疑問を聞いて、私の中に少しだけブレーキが掛かりました。折木さんから、確かにそんなことを聞いていたのです。その彼女さんがエア……で良いのでしたっけ。エアでなければ、重大な裏切り、二股に思われることでしょう。その確認を忘れたと言うことは、それだけ私が舞い上がっていたと言うことになります。 「仰るとおりですね。だとしたら、もう一度折木さんに確認した方が良いのでしょうか?」  ちゃんと懸念を伝えて、そして迷惑になりそうなら辞退をする。それが人として正しいことに違いはありません。  ただ私の思いに対して、「からかっただけよ」と入須さんは笑いました。 「彼のことだから、大丈夫だから誘ったと考えられる。彼の声を聞きたいからと言うのなら止めないが、確認が目的なら電話は必要ないな」 「声を聞きたいと言う気持ちはありますが……」  たぶん私の顔は、しっかり真っ赤になっていたのでしょう。何しろ入須さんと話をしていて、顔が熱くなっているのを感じていたのですから。  そんな私を入須さんは抱きしめてくださいました。 「本当にお前は可愛いのだな。食べてしまいたいぐらいだ。こんなお前に思われているのだ。彼は幸せなのだろう」 「ですが、折木さんにはお付き合いされている方がいらっしゃいます」  だから私の思いも、一方通行のものでしか無い。大きな胸に抱きしめられているせいで、入須さんに届いているのかは少し疑問があります。 「だが、それを確認した訳ではないのだろう?」 「それはそうですけど……ですが、私に嘘をつかなくてはいけない理由はないはずです」  それだけは、本当にそう思っているんです。 「私は、彼のことを知っているとは言い難いからな。たぶん、お前の言うとおりなのだろうな」  そう言ってから、入須さんは私の体を離しました。少し苦しかったのですけど、離れてしまうとなにかぬくもりがなくなってしまった気がしました。でも、贅沢は言っていられません。入須さんのぬくもりは、お付き合いをされている方のものですから。 「ところで、どうして八事駅を待ち合わせ場所にしたのだ? 大した距離ではないのだから、ここまで迎えに来てもらえばいいだろう」 「それは私も提案したのですけど……その、折木さんに悪気はないのですよ、ええっと、入須さんのことが苦手だと仰ってました」  その言葉が意外だったのか、入須さんは少し目を見開いてから、自嘲気味に口元を歪められました。 「そうか、彼は私のことが苦手だったのか。まあ、以前憤慨された記憶はあるのだがな……なるほど、苦手にされていたか。お前の好きな相手に苦手にされているというのは、少し残念な気持ちがするな」  仕方のないことだと寂しそうにされてしまうと、なにかとても申し訳ない気がしてしまいます。そもそもの発端は、私が折木さんを巻き込んだことに有った訳です。だとしたら、その責任の一端は私にもあることになります。 「日曜日に会った時に、折木さんには誤解をしていますと伝えておきます。入須さんは、とても優しい人だと言うのを私は知っていますから」 「いや、無理に取り繕う必要はないと思うぞ。思い返してみれば、彼には私を嫌うだけの理由があるのだからな。それを苦手程度で許してくれているのだよ。それに、わざわざ自分の点数を下げるマネは感心しないな」  だから自分のことは良いと、入須さんは仰ってくれました。こんなに優しい人なのに、折木さんが誤解をしているのは寂しいことだと思います。不自然に取り繕うのはよくありませんが、誤解を解いておくのは必要なことだと思います。 「ところで、予備校の方は順調なのかな?」 「その辺りは、まだ実感がないと言うのか……ただ勉強をしていて、随分と無駄な時間を使ったとは思っています。私がしっかりしていれば、今頃は大学に入って農学を先行していたはずなのにと……」  学んだはずのことが、少しも知識として残っていなかったのです。それを自覚した時、私は愕然としてしまいました。進学に熱心とは言えない高校に転校したとは言え、それでも何も覚えてなさすぎと思いました。 「なに、お前が努力すれば大丈夫だと私は知っているよ。それにお前は、なんとしても合格しないといけない理由があるのだろう?」  正面から私を見る入須さんに向かって、ゆっくりと、そしてしっかりと私は頷いてみせました。そうです、私には合格しなくてはいけない理由があるのです。千反田の家を継ぐと言うこと以上に、折木さんに相応しい女性になるために。折木さんが経済学部を選んだ理由を教えて貰い、私の中でその思いは更に強くなりました。 「だったら、目標を目指して努力をすることだ。まあ私も、お前と同じで浪人を経験しているのだからな。それで今の大学に入ったのだから、少しは先輩らしいことを言ってもバチは当たらないだろう」 「入須さんは、どうして医学の道を選ばれたのですか?」 「どうして、か……」  私の問に、入須さんは少し口元を歪めました。 「家が病院経営をしていたから……と言うのが一番の理由だな。そう言った環境で育ったことで、医者を目指すのが当然と言う気持ちになっていた」 「私と同じ……と言うことですね」  入須さんは、「そうだな」と私の言葉を認めてくれました。 「育った環境が、将来の職業を決めることは珍しくない。特に、引き継ぐべき物があれば、それはなおさらのことだと思うぞ。親も、子供にそのことを期待するからな」 「ですが、私は……」  家のことを考えなくてもいいと、お父様に言われたことを思い出しました。それが間違いの始まりだと考えると、どうしても悲しくなってしまうのです。 「千反田の小父様の気持ちも理解できるよ。因習に囚われた古い町のリーダーと言うのは、何かと気苦労が多いからな。しかも周りは、年寄ばかりになっていく。そんな柵に、お前を押し込むことが本当に良いことなのかと考えてしまったのだろう。その頃のお前は、間違いなく彼に恋をしていたからな。それに気づいてしまうと、ますます娘に対して引け目を感じてしまうのだよ。お前の口から頼りになると人と教えられるたびに、任せてしまった方がお前にとって幸せなのだと考えたのではないのかな。ただ少しだけ、娘の性格を読み違えていたのが失敗だっただけだ。なにしろお前は、千反田の跡取りとなることに誇りを感じていた。献身と言うと語弊があるのかもしれないが、そう言った要素があるのは間違いないと思う。その拠り所を、父親が壊してしまったのだからな。よくここまで立ち直ってくれたと、何もできなかった私だが、嬉しいと思えているよ」  本当に嬉しそうな顔をした入須さんに、戻ってきてよかったと思うことができました。まだ折木さんとの将来は見えませんが、一歩一歩進んでいくしか無いのは分かっています。こうして私のことを応援してくれる人がいる。そう思うだけで、もっと頑張れそうな気がしてきました。  ありがとうございますと頭を下げてから、私は席を立ちました。時計を見れば、11時30分になっています。明日からのことを考えたら、そろそろ寝ておく必要があったのです。勉強に時間を使うのも大切ですが、体調を整えておくのもとても大切なことですから。  折木さんのお陰で、今日はよく眠れそうな気がしました。  そして翌朝、予定していたとおり冬美が俺の部屋に現れた。時間は朝の9時過ぎ、雨模様で爽やかとはとても言い難い、ジメジメとした空気がまとわりついて気持ちが悪かった。  ただそんな空気も、文明の利器の前では無力となる。一歩部屋に入れば、からりとした快適な空気が迎えてくれる。そして文句を言われないように、適温よりは少し低めに設定をしておいた。  部屋に入るなりいきなり、冬美は俺に唇を重ねてきた。少し情熱的なのは、彼女の気持ちが昂ぶっているからだろうか。理由は気になるが、それは一戦終えてからでも大丈夫なはずだ。すでに準備を終えた俺は、誘われるまま冬美をベッドに押し倒した。隣人が留守なのは分かっているので、今日は誰はばかることなく楽しむことができる。  それから貪るように2戦を終えたところで、俺はめでたく賢者タイムを迎えることとなった。狭いベッドでくっついて横になった俺に、「今日も凄かった」と喘ぎながら冬美は言った。 「なにか、あったの?」 「何かあったのは、そっちの方じゃないのか?」  すかさず言い返した俺に、「ちょっとね」と冬美ははにかんだような笑みを浮かべた。 「あなたと電話で話したでしょう? その後の千反田さんがとても可愛くて可愛くて……本気で押し倒しそうになったぐらいなのよ。そんな彼女が恋い焦がれるあなたに、私はこうして抱かれているのよ。あの子の前では、応援していると言っている口で、あなたのものを咥えたりもしている。人としての矛盾した気持ち、そしてあの子を裏切っていると言う後ろめたさ、それを思うと、体が熱くなって仕方がないのよ」 「随分と、おかしな趣味に目覚めたものだな」  千反田に対して罪悪感を覚えているのは、きっと嘘ではないのだろう。それでもこうして俺と体を重ねているのは、その罪悪感が刺激となっているのだろうか。確かに千反田が来てから、冬美の乱れ方は激しくなっている。乱れさせているのは俺のはずなのだが、それでも時々怖さを感じていたりした。そして怖さ以上に、充足感……違うな、征服感を覚えているのも確かだった。  冷徹で女帝と言われた彼女が、俺の前では雌の顔をして乱れている。美人でスタイルが良いと言う以上に、もともと持っていた彼女の評判が俺に満足感を与えてくれるのだ。その落差、ギャップを前にしたら、のめり込むなと言うのは無理な相談と言うものだ。 「それで、千反田さんはどう?」  俺の胸に顔をうずめながら、冬美は結構クリティカルな所を突いてきた。反応しては負けだと思ったのだが、それでも密着していると僅かな変化も誤魔化すことはできない。 「今、ドキッとした?」  顔を上げた冬美は、いたずらっぽく口元を歪めた。 「ああ、恋人と寝ているのに、他の女の話を持ち出されたからな」  とりあえず軽い反撃をしてから、「何を期待している?」と質問を投げ返した。 「未練などさっぱり無いとか、未練たらたらだとか、そんな答えをしたところでどんな意味があるのだ?」 「単なる興味……と言うところかしら」  なるほどと小さく頷いてから、俺は正直な気持ちを口にした。どうせ隠したところで、隠しきれないのは分かっていたのだ。 「ああ、千反田のことは今でも好きだぞ。あなたが居なければ、元の鞘……と言うのもおかしいかもしれないが、元の鞘に収まっていたかもしれないな」  そこで冬美にまわしていた腕に力を込めた。それに合わせて、「あっ」と小さな声が彼女の唇から漏れ出た。 「今は、間違いなくあなたが一番だ」 「今は? ずっとと言ってくれないの?」  冬美の甘えた声に、「嘘は嫌いだ」と俺は答えた。 「高2の時、俺にとって千反田が一番だったんだ。それが答えになると思うのだが?」  今の気持ちが一生続くなどと、一体誰が保証できるのだろう。本人達の思いもそうだが、取り巻く人達の思惑、そして家のこと。すべてを乗り越えてと考えるのはロマンチックなことには違いないが、それが簡単なこととはとても思えない。 「それに、あなたの方はどうなのだ? 今は俺が一番なのかもしれないが、それが一生続くと言うことができるのか? 特にあなたの場合、恋合病院の跡を取る必要があるはずだ。そのお相手として選ばれるのは、俺のような奴ではないだろう。親と言うものは口では物分りの良いことを言うかもしれないが、必ず立場と言うものが問題となるはずだ」  それが現実だと、俺は冬美の体を抱いたまま口にした。ただ口にしてみて、俺は自分の女運のことを思った。どうして俺の関わる女性と言うのは、こうも家の問題を抱えているのだろうかと。 「そうね、うちの親なら「お前が好きになるのが一番大切だ」なんて言ってくれるのでしょうね。でも、あなたの言う通りだと思うわ。男女が入れ替われば別だけど、私の配偶者は医者であることが期待……求められるのでしょうね」  俺の言葉を認めた冬美は、「でも」と頬を胸に擦りつけてきた。 「解決策が無いこともないのよ。色々と既成事実を作った上で、私の両親に援助を求めればいいのよ」 「援助だと?」  なんだと訝った俺に、「あなたがもう一度受験勉強をすればいいのよ」と言ってくれた。 「つまり、俺に医学部を再受験しろと?」  俺の答えに、冬美は小さく頷いた。 「さほど難しいことじゃないと思うわよ。もちろん、それなりの学校に行かないと、確かに立場は難しくなるけどね。でも私立の医学部なら、偏差値がさほど高くないところもあるから非現実的な方法ではないわ。ただし、入学金とか寄付金が高額になるのよ」  なるほど、だから「援助」と言う話になるのか。ただ俺としては、もう一度受験をするなど願い下げだと思っている。それに名古屋大学の経済学部に入るのですら「奇跡」と言われた俺に、今更理系の医学部が受かるとは思えない。 「受験をし直すなんて願い下げ……って考えたでしょう?」 「それを否定する言葉を持っていないな。文系に進んだ俺が、今更理系の医学部を受け直すなんて……考えるだけでぞっとする」  それはかなり切実、正直な気持ちとなっている。受かったから良かったものの、この時期E判定が連続したのは悪夢としか言いようがなかったのだ。その気持や苦労をもう一度繰り返す、しかも更に困難になると考えたら、とてもではないがチャレンジしたいとは思えない。しかもプレッシャーは、その時の比ではないぐらいかかってくる。  そんな俺に、冬美は「ちょっと残念」と耳たぶに歯を立てながら言った。 「でも、その気持も理解できるわ。一浪した私だからこそ、受験勉強の苦しさは理解できるのよ。とくに、周りからのプレッシャーの大きな受験はね」  そう言って俺から離れた冬美は、「難しいものね」と天井を見ながら言った。 「いっそのこと、デキ婚を狙う?」 「19と20のガキが結婚か? しかもデキ婚なんて、苦労しか見えない気がするのだがな」  いくらなんでも無理がすぎる。俺の答えに、「気が早すぎ」と冬美は笑った。 「せいぜい、あなたの就職が決まったぐらいのことよ。あなたがそれなりのところに就職すれば、無理やり押し通すことも可能だと思うのよ」 「今度は、就職のプレッシャーか……まだ、大学に入って半年も経っていないのだがな」  そう答えてから、俺はなにか言いたげな冬美を手で制した。 「そう言う意識の高いやつがいるのは俺も知っている。そしてあなたと続いていたら、必ず問題になることでもある。それなりか……俺にも一応メリットは有るのだが。ただ、一体「それなり」と言うのは具体的にはどんな職業なのだ?」  確かに、国立大学にはいったのだから、その先が求められるのは分かっていた。それは冬美だけでなく、高い学費と下宿代の面倒を見ている俺の親にも共通することだ。何も考えていません、卒業してブラブラしていると言うのは、許されることでないのは分かっていた。そこで姉の顔が浮かんだのは、別に意味などないはずだ。  ただ具体的と言うのは、流石に冬美にも難しかったようだ。「それなのよね」と上を向いたまま黙り込んでくれた。 「それでも、今の私はあなた以外の男は考えられないわ」  それだけは確かなことだと、冬美はぽつりとそう告げたのだった。  大学が休みに入ってから、俺は時々図書館へと通うようになった。ちなみに大学の図書館ではなく、千種区の公立図書館と言うやつである。なぜ手近な大学の図書館でないかと言うと、公立図書館の方がアルバイト先に少しだけ近いと言う、極めて合理的な理由からである。もともと冷房が目当てであり、蔵書はどうでもいいと言うのも理由の一つである。  図書館で何をするのかと言うと、当たり前だが大学の勉強である。もっとも大したことをするわけではなく、自習スペースに陣取って分厚いテキストをパラパラと眺めると言うのが日課のようになっていた。もっとも、この自習スペースと言うのは、結構倍率が高かったりする。当たり前のことだが、勉学に熱心な高校生たちが大勢居たのだ。女子高生比率が高いのは、近くに私立の女子校があるのが理由なのだろう。  その確保の難しい自習スペースの席を、俺はここのところ連続して確保できていたりした。こればかりは運としか言いようがないのだが、偶然のように一つだけ席が空いていたのだ。女子高生の隣と言うのは少しばかり気がひけるのだが、静かにしていれば関係ないと気にしないことにした。人畜無害、静かにしてさえいれば、空気になれる……冬美の言う空気とは違うと思いたいのだが……俺なのだ。  ちなみに文系、そして経済学だから、理系のような数学から解放されると言うのは甘い考えである。今日日でもなく、経済学と言うのは計算が必ずついて回ってくるのだ。特に統計とかになると、理解していないとやっていけない世界でもある。だから教養課程では、しっかりと数学、特に統計の講義があったりした。ただこの統計と言うやつは、分かるようになると結構面白いと言うのが感想だったりした。とは言え、なかなか先に進めない難解な学問と言うのも確かである。  統計学のテキストに没入していたら、どこからか「すみません」と可愛らしい声が聞こえてきた。俺には関係がないと、気にもとめないのはいつもの俺である。ただもう一度「すみません」と、先程よりはっきりと、そして近いところから聞こえてくれば、事情は変わってくる。一体何ごとと首を動かしたら、隣の女子学生と目が合うことになった。気のせいだろうか、その女子学生が少し引いている気がしていた。  どうやら俺は、不機嫌そうな顔をしていたようだ。これは言い訳になるのだが、別に不機嫌と言うことはない。ただ、真剣にテキストに目を通していた……まあ、俺の人相が少しだけ良くないのも理由だろう。  両手の人差し指を頬に当て、固まってしまった表情をほぐすことにした。その行為が功を奏したのか、引いていた女子高生が小さく吹き出してくれた。いや、なんだ、別に受けを狙ったわけではないのだが。  ちなみに、俺の隣に座っていたのは、ちょっと見かけないほど可愛らしい……綺麗と言った方が良いのだろうか。少し茶色がかったストレートヘアーの、目鼻立ちのはっきりした少女だった。うむ、これは間違いなく眼福に類することだろう。 「俺に、なにか用か?」  すみませんと声をかけられた以上、何か用があると考えるのが道理である。その当たり前のことを口にした俺に、「消しゴムを持っていませんか?」とその美少女は聞いてきた。 「すみません、持ってきたつもりなのにペンケースに入っていなかったんです」 「消しゴム……か」  あったかなと、俺は持ってきたデイリーバッグを漁った。そしてそこの方にあったペンケースの中に、ちびた消しゴムがあるのを発見した。 「こんなのでも良ければ……」  緊急時なら仕方がないが、普通ならば人に差し出すのは失礼になるレベルの消しゴムだった。それなのに、その美少女は礼儀正しく「ありがとうございます」と俺に頭を下げた。その時覗いた制服の胸元に、ちょっとだけ俺の鼓動が早くなった気がした。いや、鼓動が早くなったのは助平心が理由ではない。それだけ俺が、女性に対してシャイと言うことなのだ。  ちびた消しゴム一つで感じられる幸せとしては、破格なものに違いない。ちょっと……かなり気持ちの方は浮かれてくれたのだが、現実と言うのは結構残酷なものに違いなかった。いや、大したことはないのだが、シフトの時間が近づいていたのだ。  仕方がないと荷物をまとめて立ち上がった俺に、その美少女は「消しゴムっ」と少し慌ててくれた。どうやら借りた以上返さなければいけないと言う、躾のできた美少女のようだ。 「わざわざ返してもらうほどのものじゃない」  だから良いと答え、俺はそのまま自習スペースを後にした。少しと言うか、かなり後ろ髪を引かれはしたが、欲を掻かないのが幸せを維持するための秘訣と言うのを俺は理解していたのだ。  この程度の出会いで喜ぶのは、それだけ小市民と言うことなのだろう。おかげで稲野先輩からは、「機嫌がいいね」とからかわれたぐらいだ。まあ機嫌がいいと言うのは間違いではないので、俺は普段どおりのぶっきらぼうさで「勘違いです」とだけ答えておいた。ここで余計なツッコミをされると、せっかくの気分に水が刺されてしまうのだ。  いつものとおりにカウンターに入り、いつもどおりに注文の品を作っていく。よほどのことがない限りレジは回ってこないので、ひたすらシアトル系のコーヒーを作り続けると言うのがバイトの中身である。コーヒーを作ること自体問題はないのだが、いただけない事があるとすれば、ほとんどがバリエーションコーヒーと言うことだろうか。ラテやカプチーノならまだ許せるのだが、フラペチーノともなると、コーヒーを作っている気がしなくなるのだ。  だがこの暑い季節ともなると、注文の多くはフラペチーノになる。しかもいちごやマンゴーともなると、もはやコーヒーでもない。その一方で、単価が高いと言うのも事実である。おかしなこだわりさえ捨てれば、営業的に美味しいメニューと言うのも確かだった。もっとも俺にしてみれば、客単価がアルバイトに及ぼす影響は全くないのだが。  夜も10時が近くなると、流石に客の数もまばらになる。まだまだ外はにぎやかなのだが、そのほとんどが酔客と言うのが実態となっている。本来10時になってから行う片付けなのだが、フライングで始めるのは日常となっていた。  食器類はサイクルで洗浄しているので良いが、マシンの清浄が結構面倒だったりする。そしてその洗浄が俺の仕事だったりするわけだ。業務用のエスプレッソマシンは、高温の水蒸気とか扱いには結構注意が必要だったりする。 「今日もお客さんが多かったんだけど……」  そう言いながら、稲野先輩たち女性陣は分別ゴミの片づけに入っていた。ただ客がまだ残っているので、店内3箇所ある分別ゴミのうち、1箇所は最後まで残しておく必要があった。 「ところで折木君、気づいてる?」  カウンターに入ってきた稲野先輩は、少し声を潜めて客席の方を指差した。 「何が?」  そう答えた俺に、「柱の陰」と稲野先輩はもう一度指差した。 「お客さんが残っているのがどうかしたのか? 参考書を広げているのなど、別に珍しくない……こともないか」  これが夜の繁華街にある店でなければ、そしてもう少し早い時間なら、俺の答えで間違いはないのだろう。だが店の外に一歩踏み出すだけで、けばけばしいネオンサインが自己主張を強くし、歩いている輩は千鳥足……や危なそうなのがたむろっているのがこの街だ。女子高生が参考書を広げて遅くまでいるのは、流石に場にそぐわない光景には違いない。 「そう、他のお店だったら珍しくないと思うよ。ただ、この場所はいささか教育上良くないと思うのよ。しかもよ、とびっきりの美少女ともなると問題は大きくなると思うのよ」  女性が口にするから問題になりにくいが、男の俺が口にした途端、各方面から攻撃の矢が飛んでくることだろう。最近の言い方では、「炎上」なのだろうか。それほど問題のある言い方を、稲野先輩はしてくれた。 「そうかも知れないが、お客さんのプライバシーに関わる必要はないと思うのだが? 予備校帰りとかだと、夜が遅くなるのも珍しくないだろう」  これが神山のような田舎なら、補導員に捕まる恐れもあっただろう。だが大都会名古屋ともなれば、この時間帯でも女子高生の姿を見るのは珍しくない。 「そりゃあ、私達の住んでいた田舎とは違うのは分かっているわよ。でもさぁ、お姉さんとしては心配になっちゃうのよね。もしかして、誰かと待ち合わせでもしているのかしら?」 「この時間に、しかも高校の制服を着てか?」  流石に無いと答えた俺に、「だよねぇ」と稲野先輩は微苦笑を浮かべた。 「ただ、理系の私でも物語が浮かんでくるような美少女なのよね」 「物語ではなく妄想じゃないのか?」  そこで時計を見れば、夜の10時を回ろうとしていた。これで誰気兼ねなく、店じまいを始めることができる。ガスを止めて高圧水蒸気を逃してやれば、エスプレッソマシーンの後片付けはほとんど終りとなる。あとは、下に落ちたコーヒーかすとかを掃除してやれば今日のアルバイトも終わりである。  俺ともう一人の男、加藤が片付けをしている横で、女性陣は残りのゴミ出しを始めていた。そして稲野先輩は、最後の客、すなわち柱の向こうに座っていた女子高生に閉店を告げに行った。女子高生が店を出れば、床のモップがけとテーブルふきに取り掛かることができる。 折木奉太郎 千反田える 入須冬美 伊原摩耶花 福部里志 稲野美土里:漆山りおんの同じ高校の2年先輩。農学部に在学 漆山りおん:隣人。文学部に在籍。